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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十八話 それぞれの過去

 窓の外では、相変わらず吹雪が荒れ狂っていた。


 時折、強い風が窓ガラスを揺らし、低い唸り声のような音を響かせている。


 けれど、暖房の効いた客室は暖かく、こたつに入った二人には、その音さえ遠い出来事のように感じられた。


「ねえ、和真」


「ん?」


「昔の話、僕から聞いてもいい?」


「いいけど……フェンリスの話は?」


「僕のは、ちょっと重い話になると思うから……先に和真の話が聞きたいなって」


 フェンリスはそう言って、少し照れくさそうに笑った。


 和真は湯呑みを置き、少し考える。


「俺の昔か……」


「うん! 和真が小さい頃、どんな子だったのか知りたい!」


「そうだなあ……今とは結構違うかもしれないぞ」


「えっ、そうなの?」


「かなりヤンチャだったからな」


「和真が!?」


 フェンリスが驚いたように耳を立てた。


 その反応がおかしくて、和真は思わず笑ってしまう。


「そんなに意外か?」


「だって、和真っていつも落ち着いてるし、優しいじゃないか。悪戯とかするイメージが全然ないよ」


「いや、昔は本当にひどかったぞ。毎日のように母さんに怒られてた」


「ええっ! 何したの!?」


 目を輝かせて身を乗り出すフェンリス。


 和真は懐かしそうに目を細めた。


「そうだな……小さい頃は、とにかく外で遊ぶのが好きだったんだ。近くの森を駆け回ったり、木に登ったり、川で魚を捕まえたり」


「へえ! 楽しそう!」


「楽しかったよ。朝から出かけて、夕方まで帰らないこともあったな」


「僕も小さい頃は外で遊ぶのが好きだったよ!」


「そうなのか?」


「うん! 母さんと一緒に走ったり、格闘の練習をしたり!」


 嬉しそうに話しかけたフェンリスだったが、母親という言葉を口にした瞬間、ほんの少しだけ表情が変わった。


 けれど、すぐに笑顔へ戻る。


「それで? ほかには?」


「虫を捕まえるのも好きだったな。カブトムシとかクワガタとか。あと、トカゲや蛇なんかも捕まえてた」


「蛇!?」


「うん」


「和真、蛇も平気なの!?」


「今でも別に苦手じゃないよ」


「すごいね! 僕も魔物なら平気だけど、小さい蛇ってちょっと苦手かも」


「そうか? よく見ると可愛いぞ」


「ええ……?」


 フェンリスは何とも言えない顔をした。


 和真は笑いながら続ける。


「でも、母さんは蛇が大嫌いでさ。一度、捕まえた蛇を虫かごに入れて家に持って帰ったことがあるんだ」


「……うん」


「母さんに見せたら、ものすごい悲鳴を上げられた」


「あはははっ!」


 フェンリスが声を上げて笑った。


「それで!? どうなったの!?」


「めちゃくちゃ怒られたよ。すぐに元いた場所へ返してきなさいって」


「そりゃ怒るよ!」


「俺としては、珍しい蛇を捕まえたから見せたかっただけなんだけどな」


「ふふっ、和真って本当にヤンチャだったんだね!」


「それだけじゃないぞ。雨の日に泥だらけになって帰ったり、木から落ちて服を破いたり……」


「怪我はしなかったの?」


「擦り傷くらいはしょっちゅうだったな」


「もう! 危ないじゃないか!」


「母さんにも同じことを言われたよ」


 和真が笑うと、フェンリスもつられて笑った。


 その笑顔を見ながら、和真は遠い昔を思い出す。


 泥だらけの靴。


 虫かごを握りしめて走った道。


 夕暮れの森。


 そして、玄関先で腰に手を当てて待っていた母親。


 怒られると分かっていても、また次の日には森へ遊びに行っていた。


 そんな日々が、ずっと続くものだと思っていた。


「……でもさ」


 和真の声が、少しだけ静かになった。


「そんな生活が変わったのが、八歳のときだった」


「……え?」


 フェンリスが首を傾げる。


 和真は窓の外へ目を向けた。


 白い雪が、風に吹かれて舞い上がっている。


「八歳のとき、両親が交通事故で亡くなったんだ」


「…………」


 フェンリスの笑顔が消えた。


「……お父さんと、お母さん……二人とも?」


「うん。二人とも」


「……そっか」


 フェンリスはそれ以上、すぐには言葉を続けられなかった。


 和真は湯呑みを手に取る。


 温かいお茶を一口飲んでから、ゆっくりと話し始めた。


「突然だったから、最初は何が起きたのか分からなかったんだ。大人たちは色々説明してくれたけど、当時の俺には難しくてさ」


「……うん」


「もう父さんにも母さんにも会えないって、言われても信じられなかった」


 和真は苦笑する。


「葬式の日も、ずっと待ってたんだ。もしかしたら帰ってくるんじゃないかって」


「…………」


「でも、帰ってこなかった」


 フェンリスの耳がゆっくりと伏せられた。


 和真はそれに気づいたが、何も言わずに話を続ける。


「葬式が終わってから、しばらく伯父さんの家に預けられたんだ」


「伯父さん?」


「うん。親戚だよ。悪い人じゃなかったし、色々気を遣ってくれたんだけど……」


 和真は少し言葉を探した。


「当時の俺は、あんまり喋らなくなっててさ」


「……どうして?」


「自分でもよく分からなかった。ただ、何をしても楽しくなかったんだ」


 あれほど好きだった森にも行かなくなった。


 虫かごも、部屋の隅に置いたまま。


 好きだった食べ物を出されても、ほとんど口にしない。


 話しかけられても頷くか、首を横に振るだけ。


「伯父さんも困ってたと思う。何を話しても反応しないし、夜になると泣いてばかりだったから」


「……和真」


「その頃は、誰かと仲良くしようとか、そんなことも考えられなかったんだ」


 和真は自分の手を見つめた。


「もう誰とも話したくないって、思ってたのかもしれない」


 しばらく沈黙が落ちた。


 フェンリスは何か言おうとして、けれど言葉が見つからず、黙って和真を見つめていた。


「そんなある日、祖父が迎えに来てくれたんだ」


「……おじいさん?」


「父さんの父親。俺にとっては父方の祖父だな」


「その人が、和真を引き取ってくれたの?」


「うん」


 和真は小さく頷いた。


「伯父さんの家に来て、俺を引き取りたいって話をしてくれたらしいんだ」


「らしい?」


「俺は詳しい話を聞いてないんだ。気がついたら、祖父の家で暮らすことになってた」


 その日のことを、和真は今でも覚えている。


 大きな手に引かれて歩いた道。


 見慣れない家。


 知らない匂い。


 玄関で迎えてくれた祖母。


 けれど、当時の和真は、二人に挨拶すらできなかった。


「祖父はさ、あんまり喋らない人だったんだ」


「怖い人だったの?」


「いや、全然。むしろすごく優しかったよ」


「そうなんだ」


「ただ、無理に何か聞いてくることがなかったんだ」


 初めて祖父の家で過ごした夜。


 食卓には温かいご飯が並んでいた。


 けれど、和真は箸を持とうとしなかった。


 祖父は何も言わなかった。


 食べなさいと叱ることも、どうして食べないのかと尋ねることもなく、ただ隣に座っていた。


 しばらくして和真が少しだけ箸を動かすと、祖父は静かに味噌汁の器を近くへ寄せてくれた。


「俺が食べなければ、食べるまで待ってくれた。風呂に入りたくないって言えば、しばらく一緒にいてくれたし」


「……うん」


「夜、眠れなくなっても、怒らなかった」


 和真は懐かしむように笑った。


「泣いてたら、ただ抱き寄せて頭を撫でてくれるんだ」


「…………」


「何も言わずに、ずっと」


 フェンリスは膝の上で手を握った。


 和真は静かに続ける。


「祖母も優しかったな。いつもお菓子を用意してくれてた」


「お菓子?」


「うん。煎餅とか饅頭とか。俺が部屋に閉じこもってても、そっと持ってきてくれたんだ」


「……優しいおばあさんだったんだね」


「そうだな」


 和真の口元が、自然と緩んだ。


「祖母は、よく俺を抱きしめてくれたよ」


 縁側に座っていると、祖母が隣へやってくる。


 何を話すわけでもなく、そっと肩を抱いてくれる。


 ときには膝に頭を乗せ、髪を撫でてもらった。


 祖父も祖母も、両親のことを無理に忘れさせようとはしなかった。


 泣きたいときは泣かせてくれた。


 何も話したくないときは、黙って隣にいてくれた。


「最初は二人とも、あんまり好きじゃなかったんだ」


「えっ……?」


「嫌いだったわけじゃないよ。ただ、父さんと母さんじゃないから」


「……そっか」


「でも、毎日一緒にいるうちに、少しずつ話せるようになってさ」


 ある日、祖母が出してくれた饅頭を食べて、思わず「おいしい」と呟いた。


 すると祖母は、驚いたように目を丸くしてから、本当に嬉しそうに笑った。


 その顔を見たとき、和真は久しぶりに自分も笑った。


「そこから少しずつかな。また外で遊ぶようになって、祖父と散歩したり、祖母と買い物に行ったりするようになったんだ」


「……よかった」


 フェンリスが小さく呟いた。


「うん?」


「和真が、また笑えるようになって……よかった」


 その声は少し震えていた。


 和真が顔を向けると、フェンリスは慌てて笑顔を作る。


「続けて。僕、ちゃんと聞いてるから」


「……うん」


 和真は優しく笑って、話を続けた。


「それからは、結構楽しかったよ。祖父には色んなことを教えてもらったし、祖母には随分甘やかしてもらった」


「ふふっ、和真も甘えん坊だったんだね」


「子供だったからな」


「今は?」


「今?」


「今も甘えたりする?」


 フェンリスが少しだけ悪戯っぽく笑う。


 和真は困ったように頬を掻いた。


「どうだろうな。あんまり意識したことないけど」


「じゃあ、僕に甘えてもいいよ?」


「フェンリスに?」


「うん! 和真が僕を甘やかしてくれるみたいに、僕も和真を甘やかしたい!」


「それは嬉しいな」


「えへへ……」


 フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らした。


 和真はその様子を見て微笑む。


 けれど、その笑みは次第に静かなものへ変わっていった。


「……でも、その生活もずっとは続かなかったんだ」


「……え?」


「十二歳のとき、祖母が亡くなった」


「…………!」


 フェンリスの尻尾が止まった。


「……おばあさんも?」


「うん」


 和真は小さく頷く。


「俺にとっては、二度目の大きな別れだった」


 十二歳。


 両親を亡くしてから四年。


 ようやく毎日を笑って過ごせるようになり、祖父母との暮らしが当たり前になっていた頃だった。


「祖母が亡くなったとき、また全部なくなっちゃうような気がしたんだ」


「…………」


「祖父もいつかいなくなるんじゃないかって、急に怖くなってさ」


 和真は湯呑みを見つめた。


「あの頃は、本当に怖かった」


 祖母の葬儀が終わった夜。


 和真はずっと泣いていた。


 祖父はそんな和真を抱き寄せ、何も言わずに頭を撫でてくれた。


 和真が泣き疲れて眠るまで、ずっとそばにいてくれた。


「その夜、俺は祖父に抱きしめられたまま寝ちゃったんだ」


「……うん」


「でも、夜中に目が覚めたら、祖父がいなくてさ」


 静まり返った家。


 暗い廊下。


 祖父の姿が見えないことが、たまらなく怖かった。


 まさか祖父までいなくなってしまったのではないか。


 そんな考えが頭をよぎり、和真は慌てて布団から飛び出した。


「家の中を探し回ったんだ。祖父までいなくなったと思って」


「……見つかったの?」


「うん」


 和真は少しだけ目を伏せた。


「仏間にいたよ」


 薄暗い部屋。


 小さな明かり。


 祖母の遺影の前に座る祖父。


 その背中を見つけて、和真は安心しかけた。


 けれど、すぐに足を止めた。


「……祖父が、泣いてたんだ」


「…………」


「声も出さずに、ずっと」


 和真の声が静かになる。


「あの人が泣いてるところなんて、それまで一度も見たことなかった」


 大きな背中。


 いつも温かかった手。


 どんなに自分が泣いても、静かに受け止めてくれた祖父。


 そんな祖父が、祖母の写真を見つめながら肩を震わせていた。


 祖父の手には、祖母がいつも使っていた湯呑みが握られていた。


「……俺、何も言えなかった」


 和真は、遠くを見るような目をした。


「祖父も悲しかったんだって、そのとき初めて気づいたんだ」


 自分を抱きしめてくれた祖父。


 自分が泣き止むまで、そばにいてくれた祖父。


 けれど、祖父自身も大切な人を失っていた。


 自分の前では涙を見せず、一人になってから泣いていた。


「……それでさ」


 和真は小さく笑った。


「俺、決めたんだ」


「……何を?」


「もう祖父の前では、泣かないようにしようって」


「…………え?」


「悲しい顔も、辛い顔もしない。祖父にこれ以上、心配をかけたくなかったから」


 フェンリスは目を見開いた。


「それからは、とにかく強くなろうって思ったんだ。祖父に守ってもらうだけじゃなくて、今度は俺が祖父を守れるようになりたいって」


「……和真」


「まあ、十二歳の子供が考えたことだから、できることなんて少なかったけどな」


 和真は苦笑した。


「家の手伝いを増やしたり、勉強を頑張ったり。身体も鍛え始めたよ。祖父に心配かけないように、なるべく笑って過ごすようにもした」


 何でもないように話す和真。


 けれど、フェンリスは笑えなかった。


 十二歳。


 まだ、たった十二歳だったのだ。


 大好きな両親を失い、ようやく新しい家族との暮らしに慣れたと思ったら、今度は祖母まで失った。


 本当なら、もっと泣きたかったはずだ。


 誰かに抱きしめてもらいたかったはずだ。


 それなのに、残された祖父を悲しませないため、自分の涙を隠すことを選んだ。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「それって……辛くなかったの?」


「……辛かったよ」


 和真はあっさりと答えた。


「でも、祖父には随分助けてもらったからな。少しでも恩返しがしたかったんだ」


「……でも」


 フェンリスは唇を結んだ。


「和真だって、まだ子供だったんだよ?」


「そうだな」


「泣いたって、よかったじゃないか……」


 その声が、かすかに震える。


 和真はフェンリスを見つめた。


「……フェンリス?」


「だって……」


 フェンリスは視線を落とした。


「大好きな人がいなくなったら、悲しいに決まってるよ……」


 銀色の耳が、しゅんと伏せられる。


「我慢しなくたって、よかったのに……」


 和真は何も言わなかった。


 しばらくして、フェンリスの頭へそっと手を伸ばす。


 柔らかな銀髪を優しく撫でた。


「……ありがとう」


「…………」


「今なら、俺もそう思うよ」


 和真は穏やかに笑った。


「あの頃は、祖父を安心させることばかり考えてたんだ」


「……うん」


「でも、祖父はきっと、俺が泣いても困らなかったと思う」


「……どうして?」


「だって、今までずっとそうしてくれてたから」


 フェンリスがゆっくりと顔を上げる。


「俺が泣けば、何も言わずに抱きしめてくれる。悲しいときは、そばにいてくれる。祖父はそういう人だったんだ」


「…………」


「だから、あのときも素直に泣いてよかったんだと思う」


 和真は少し寂しそうに笑った。


「……まあ、今さらだけどな」


 フェンリスは、その笑顔をじっと見つめていた。


 そして、ゆっくりとこたつから身体を出す。


「フェンリス?」


 和真が不思議そうに見ていると、フェンリスは隣へ移動してきた。


 そのまま、和真の腕にぎゅっと抱きつく。


「……どうした?」


「……別に」


「別にって……」


「今は僕がいるから」


「……え?」


 フェンリスは和真の腕に頬を寄せた。


「和真が悲しいときは、僕に言ってほしい」


「…………」


「辛いときも、無理して笑わなくていいよ」


 その声は、とても優しかった。


「僕、和真のこと大好きだから……和真が悲しいときは、一緒に悲しみたい」


 和真の胸が、じんわりと温かくなる。


 フェンリスは顔を上げた。


「だから、僕の前では我慢しないでね?」


「……うん」


 和真はゆっくりと頷いた。


「ありがとう、フェンリス」


「えへへ……」


 フェンリスが嬉しそうに笑う。


 和真はその小さな身体を抱き寄せた。


 フェンリスも嬉しそうに腕を回し、胸元へ顔を埋める。


 しばらく、二人はそのまま抱き合っていた。


 外では、相変わらず吹雪が続いている。


 けれど、二人の間に流れる空気は、どこまでも穏やかだった。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「そのあと、おじいさんとはどうなったの?」


「ああ。祖父とは、それからもずっと一緒に暮らしてたよ」


「そっか……」


「色んなことを教えてもらったな。料理も少し教わったし、家の手入れなんかも手伝ってた」


「へえ! 和真が色んなことできるのって、おじいさんのおかげでもあるんだね!」


「そうだな。祖父から教わったことは多いよ」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「僕、そのおじいさんに会ってみたかったな」


 何気なく口にした言葉。


 和真は少しだけ目を細めた。


「……そうだな」


「きっと、すごく優しい人だったんだろうね」


「うん」


 和真はフェンリスの頭を撫でる。


「きっとフェンリスのことも、可愛がってくれたと思うよ」


「……本当?」


「うん。祖父は動物も好きだったから、フェンリスの耳や尻尾を見たら驚いただろうけど」


「もう! 僕は動物じゃないよ!」


「ははっ、ごめん」


 フェンリスが頬を膨らませる。


 けれど、すぐに笑顔へ戻った。


「でも……会ってみたかったな」


「……うん」


 和真は静かに頷いた。


 そして、フェンリスを抱きしめたまま、遠い記憶へと思いを馳せる。


 祖父と過ごした日々。


 温かな家。


 大切な家族。


 その頃の和真は、まだ知らなかった。


 自分が十五歳になったとき、想像もしなかった出来事に巻き込まれることを。


 そして、その出来事が、自分の人生を大きく変えてしまうことを。


「……それで、十五歳のときなんだけど」


「うん?」


「俺、異世界に飛ばされたんだ」


 フェンリスの耳が、ぴんと立った。


「……勇者になったとき?」


「そう」


 和真は小さく息を吐いた。


「正確には、勇者にされた、かな」


「……された?」


「うん。俺が望んだわけじゃなかったんだ」


 和真の表情が、少しだけ変わった。


 先ほどまでの懐かしそうな笑みが消え、どこか遠いものを見るような目になる。


「……あのときは、本当に大変だったよ」


 フェンリスは和真の腕を抱いたまま、静かに続きを待った。


 吹雪の音だけが、二人のいる部屋に響いていた。


 しばらくして、フェンリスがそっと顔を上げた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「無理やり勇者にされたって……どういうこと?」


「ああ……」


 和真は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。


「十五歳のとき、突然知らない場所に飛ばされたんだ。本当に何の前触れもなくてさ」


「突然?」


「うん。気がついたら、見たこともない建物の中にいたんだ。周りには知らない人たちが大勢いて、俺のことを勇者様って呼んでた」


「……それって、召喚魔法?」


「そうみたい。後から説明されたよ」


 フェンリスは眉をひそめた。


「本人の許可もなく召喚したの?」


「うん」


「ひどいじゃないか!」


 フェンリスの尻尾が不満そうに揺れた。


「そうだな。俺も最初は怒ったよ。勝手に連れてこられたんだから、当然だよね」


「それで? 元の世界に帰してもらえなかったの?」


「帰してほしいとは言ったよ。でも、簡単には帰れないって言われたんだ」


「……そんな」


「しかも、魔王を倒してほしいって頼まれてさ」


 和真は苦笑した。


「十五歳の子供に、いきなり世界を救ってくれって言うんだから、無茶な話だよな」


「……和真、怖くなかったの?」


「怖かったよ。知らない世界だし、魔物なんて見たこともなかったから」


「…………」


「それに、祖父を一人残してきちゃったからな」


 和真の表情が少し曇る。


「連絡もできないし、帰る方法も分からない。祖父がどれだけ心配してるかと思うと、落ち着かなかったよ」


「……そっか」


「だから、早く帰りたかったんだ」


 フェンリスは和真の腕を抱く力を少し強めた。


「……でも、和真は勇者になったんだよね?」


「うん。結局、戦うしかなかったんだ」


「一人で?」


「いや、俺のほかにも三人いたよ」


「三人?」


「うん。男が一人と、女の子が二人。俺を入れて四人だった」


「へえ……」


 フェンリスは少し驚いたように目を丸くした。


「みんな勇者だったの?」


「そう。四人とも召喚された勇者だったんだ」


「すごいね! 勇者が四人も!」


「でも、最初は全員素人だったよ」


「え?」


「剣の握り方も知らないし、魔法も使ったことがない。そんな四人が集まっただけだったんだ」


 和真は当時を思い出して笑った。


「今考えると、よくあれで生き残れたと思う」


「……そんなに大変だったの?」


「かなりね」


 和真は湯呑みを置いた。


「最初は毎日訓練だったんだ。剣の振り方から、魔力の扱い方、魔物との戦い方まで、とにかく覚えることが多くてさ」


「ふふっ、和真は剣を使ってたんだね」


「うん。最初は木剣だったけど」


「得意だった?」


「いや、全然」


「ええっ!?」


 フェンリスが驚きの声を上げる。


「だって、和真ってすごく強いじゃないか!」


「最初から強かったわけじゃないよ。訓練中は何度も転んだし、教えてくれた人にもよく叱られた」


「そうなの?」


「うん。魔力の扱いだって下手だったから、最初は簡単な魔法も失敗してたよ」


「和真が……?」


「そんなに驚かなくても」


「だって、今の和真からは想像できないんだもん!」


 フェンリスが笑う。


 和真もつられて笑った。


「まあ、今なら大抵のことはできるけど、当時は本当に苦労したんだ」


「ふふっ、ちょっと見てみたかったな。訓練で転んでる和真」


「見られたら恥ずかしいな」


「僕が教えてあげたのに!」


「フェンリスに?」


「うん! 母さんから教わった格闘技術なら、僕も自信あるよ!」


「そうだな。フェンリスは格闘が得意だもんな」


「えへへ!」


 褒められたフェンリスは、嬉しそうに尻尾を揺らした。


 和真はそんな彼女の頭を撫でてから、話を続けた。


「でも、訓練だけならまだよかったんだ」


「……え?」


「本当に大変だったのは、実際に魔物と戦うようになってからだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、フェンリスの表情が少し引き締まった。


 元冒険者である彼女には、その意味がよく分かる。


「……最初の戦いは?」


「散々だったよ」


 和真は苦笑した。


「訓練ではそれなりに動けるようになってたんだけど、実際に魔物を目の前にすると身体が動かなくなってさ」


「……うん」


「目の前にいる魔物が、本気で俺たちを殺そうとしてるんだって気づいた途端、怖くなったんだ」


 剣を握る手が震えた。


 足がすくんだ。


 訓練で何度も繰り返した動きが、頭から消えてしまった。


 魔物の咆哮が響くたび、心臓が激しく跳ねた。


「訓練で教わったことなんて、ほとんどできなかったよ。剣を振るだけで精一杯だった」


「……それで、どうしたの?」


「みんなで必死に戦った。誰かが転んだら別の誰かが助けて、危なくなったら後ろに下がって……」


 和真は小さく息を吐いた。


「格好いい戦い方なんて、全然できなかったな」


 フェンリスは黙って聞いていた。


「最初の頃は、戦いが終わるたびにみんな座り込んでたよ。疲れて動けないし、怖くて手も震えてるし」


「……分かるよ」


 フェンリスが小さく呟いた。


「僕も、冒険者になったばかりの頃はそうだったから」


「そうなのか?」


「うん。母さんから戦い方は教わってたけど、本物の魔物を相手にするのは全然違ったよ」


 フェンリスは少しだけ懐かしそうに笑った。


「初めて魔物を倒したときなんて、しばらく動けなかったもん」


「そっか」


「だから……和真の気持ち、少し分かるよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「ありがとう」


「……うん」


 フェンリスは和真の腕に頬を寄せた。


「でも、和真は頑張ったんだね」


「俺だけじゃないよ。ほかの三人も必死だったから」


「その三人って、どんな人たちだったの?」


「そうだな……」


 和真は少し考えた。


「みんな、いい仲間だったよ」


「仲良かった?」


「うん。最初から何でもうまくいったわけじゃないけど、だんだん仲良くなったかな」


「喧嘩もした?」


「したよ。何度も」


「えっ、和真も!?」


「そりゃするよ。意見が合わないことだってあるし、疲れてると余計なことを言っちゃうこともあったから」


 和真は少し笑った。


「でも、喧嘩したままじゃ一緒に戦えないから、最後はちゃんと話し合ってたよ」


「ふふっ、なんだか楽しそう」


「楽しいこともあったよ」


 和真は頷いた。


「一緒にご飯を食べたり、くだらない話で笑ったり。魔物との戦いがない日は、みんなで街を歩いたこともあったな」


「へえ! いいなあ!」


「そういう時間があったから、頑張れたんだと思う」


 和真は窓の外へ目を向けた。


 吹雪はまだ収まる気配がない。


「ただ……楽しいことばかりじゃなかったけど」


 その声が少し低くなった。


 フェンリスは和真を見上げる。


「……何かあったの?」


「うん」


 和真はしばらく黙った後、静かに口を開いた。


「何度も死にかけたんだ」


「…………」


「俺だけじゃなくて、みんな」


 フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「……そんなに?」


「うん。最初の頃は特にね」


 和真は自分の右手を見つめた。


 その手は今、フェンリスの身体を優しく抱き寄せている。


 けれど、かつては何度も剣を握り、命を懸けて戦ってきた手だった。


「一度、仲間の一人が魔物に襲われて、もう少しで死ぬところだったんだ」


「……!」


「俺が助けに入ったんだけど、今度は俺がやられそうになってさ」


「和真が……?」


「うん。ほかの仲間が助けてくれなかったら、あそこで終わってたと思う」


 和真は淡々と話した。


 けれど、フェンリスにはその光景が容易に想像できた。


 魔物の鋭い爪。


 振り下ろされる武器。


 一瞬の判断ミスが命取りになる戦場。


 冒険者だったフェンリス自身、何度も経験してきたことだった。


「……怪我もしたの?」


「したよ。骨を折ったこともあるし、ひどい傷を負ったこともあった」


「…………」


「回復魔法があったから助かったけど、魔力が足りなくなったときは本当に大変だったな」


 フェンリスは、和真の身体へ視線を落とした。


 今は何事もなかったように笑っている。


 けれど、その身体がどれほどの戦いを経験してきたのか、彼女には想像もつかなかった。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「怖くなって、逃げたいって思ったことはなかったの?」


「何度もあったよ」


 和真は迷わず答えた。


「戦うのが嫌になったこともあるし、もう全部投げ出して帰りたいって思ったこともあった」


「……そっか」


「でも、帰る方法も分からなかったし、ほかの三人を置いて一人で逃げるわけにもいかなかったから」


 和真は少し笑った。


「結局、目の前のことを一つずつ何とかするしかなかったんだ」


 フェンリスは何も言わず、和真の腕を抱きしめ直した。


 しばらくの間、二人の間に静かな時間が流れる。


 やがて、和真が口を開いた。


「それで、あるとき思ったんだ」


「……何を?」


「俺がもっと強くなれば、みんなを守れるんじゃないかって」


 フェンリスが顔を上げる。


「俺が誰よりも強くなれば、仲間が危なくなっても助けられる。敵がどれだけ強くても、俺が倒せばいい」


「…………」


「そうすれば、もう誰も傷つかなくて済むんじゃないかって」


 フェンリスは、その言葉を聞いて胸が苦しくなった。


 誰かを守りたい。


 その気持ちは、よく分かる。


 けれど、和真の言葉には、自分自身のことが含まれていなかった。


「……それで、無理をしたの?」


「……うん」


 和真は少し気まずそうに笑った。


「みんなが休んでる間も訓練してたよ。剣を振ったり、魔力の制御を練習したり」


「休まなかったの?」


「一応、休んではいたよ。でも、今思えば足りてなかったな」


「……和真」


「何度も怒られたよ。そんなに無理したら身体を壊すって」


「当たり前じゃないか!」


 フェンリスが思わず声を上げた。


 和真は少し驚いて彼女を見る。


「フェンリス?」


「だって! 和真が倒れちゃったら、元も子もないだろ!」


「うん。そうだね」


「もう……!」


 フェンリスは眉を寄せた。


「和真って、昔からそうだったんだね」


「そうって?」


「自分のことを後回しにして、ほかの人のことばっかり考えるところ!」


 和真は目を瞬かせた。


「……そんなにかな」


「そんなにだよ!」


 フェンリスは頬を膨らませた。


「僕が倒れたときだって、和真はすごく心配してくれたじゃないか!」


「そりゃ心配するよ。フェンリスが倒れたんだから」


「だったら、和真も自分のことを大切にしてよ!」


「……うん」


「僕だって、和真が無理したら心配するんだからね!」


 真剣な表情で訴えるフェンリス。


 和真はその顔を見つめてから、小さく笑った。


「分かった。気をつけるよ」


「本当?」


「うん。本当」


「……約束だよ?」


「約束する」


 フェンリスはようやく安心したように息を吐いた。


 そして、再び和真の胸元へ頬を寄せる。


「……もう」


 小さな呟き。


「和真は優しすぎるんだよ……」


 和真は何も言わず、フェンリスの頭を優しく撫でた。


 しばらくして、フェンリスが顔を上げる。


「……それで、強くなれたの?」


「うん。少しずつだけど」


「どんなことしたの?」


「まずは基礎からやり直したよ。剣の扱い方も、魔力の使い方も。それまでよりずっと細かく練習するようになったんだ」


「へえ……」


「苦手だったことも、できるようになるまで何度も繰り返した。魔物と戦った後も、自分の動きを振り返って、何が悪かったのか考えたりね」


「真面目だったんだね!」


「必死だっただけだよ」


 和真は笑った。


「でも、訓練した分だけ少しずつできることが増えていったんだ」


 最初は持ち上げるだけで精一杯だった剣。


 思うように扱えなかった魔力。


 敵の動きについていけず、ただ必死に逃げ回っていた戦闘。


 それらが少しずつ変わっていった。


 魔物の動きを見極められるようになり、仲間を助ける余裕も生まれた。


 剣と魔法を組み合わせ、以前なら逃げるしかなかった相手にも立ち向かえるようになった。


「でも、一人で強くなれたわけじゃないよ」


「……え?」


「仲間たちも一緒に頑張ってたからね」


 和真は懐かしそうに笑う。


「俺が苦手なことを誰かが教えてくれたり、逆に俺が得意なことを教えたり。そうやって四人で少しずつ強くなっていったんだ」


「……いい仲間だったんだね」


「うん。本当に」


 その返事には、迷いがなかった。


「何度も助けてもらったよ。俺一人だったら、きっと途中で諦めてたと思う」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


「和真にも、そんな仲間がいたんだね」


「そうだな」


「……今は、どうしてるの?」


 その問いに、和真の手が一瞬止まった。


「……今?」


「うん。その三人」


 和真は少しだけ視線を落とす。


「……どうしてるんだろうな」


「……え?」


「もう、ずっと会ってないから」


 フェンリスは首を傾げた。


「連絡とかは?」


「できないんだ。今は別の世界にいるからね」


「……あ」


 フェンリスは小さく声を漏らした。


 自分も別の世界からやってきた身だ。


 世界が違えば、簡単には会えない。


 そのことを誰よりも理解していた。


「……ごめん」


「何で謝るんだ?」


「だって……」


「大丈夫だよ。気にしないで」


 和真は優しく笑った。


 けれど、その笑顔は先ほどまでとは少し違っていた。


 フェンリスは、それに気づいた。


「……会いたい?」


「……そうだな」


 和真は少し考えた。


「みんなが元気にしてるなら、それでいいかな」


「…………」


「もちろん、会えるなら会いたいよ。色々話したいこともあるし」


 和真は懐かしそうに微笑む。


「でも……」


 そこで言葉が途切れた。


「……和真?」


「ああ、ごめん。何でもないよ」


 和真は軽く首を振った。


 けれど、フェンリスには分かった。


 今の和真は、何かを思い出している。


 それも、あまり楽しい思い出ではなさそうだった。


 フェンリスは少し迷ってから、和真の手を握った。


「……ねえ」


「ん?」


「その三人とは、ずっと仲良しだったの?」


 和真はフェンリスを見る。


「……どうして?」


「だって……」


 フェンリスは少しだけ言いにくそうに視線を落とした。


「和真、さっきからちょっと寂しそうな顔してるから」


「……そう?」


「うん」


 フェンリスは頷いた。


「楽しい思い出もたくさんあったんだろうけど……何か、悲しいこともあったのかなって」


 和真はしばらく黙っていた。


 それから、困ったように笑う。


「……フェンリスには敵わないな」


「え?」


「よく見てるね、俺のこと」


「……だって」


 フェンリスは頬を赤くした。


「好きな人のことだもん……気になるよ」


 その言葉に、和真の表情が柔らかくなる。


「……ありがとう」


「……うん」


 フェンリスは少し照れながら、和真の手を握り直した。


 和真はその手を優しく握り返す。


「……そうだな。楽しいこともあったし、辛いこともあったよ」


 少しの沈黙。


「仲間として一緒に戦ってたけど、それだけじゃなかったから」


「……それだけじゃない?」


「うん」


 和真は遠い記憶を辿るように、目を細めた。


「色々あったんだ。あの三人とは」


 フェンリスは黙って続きを待った。


 和真の声は穏やかだった。


 けれど、その表情には、懐かしさと寂しさが入り交じっていた。


 窓の外では、吹雪が途切れることなく降り続いている。


 暖かな部屋の中で、フェンリスは和真の手を離さず、静かに耳を傾けていた。


 和真は少し懐かしそうに笑った。


 けれど、その笑顔には、どこか寂しさが混じっていた。


 フェンリスはそんな彼の横顔を見つめてから、そっと口を開いた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「そういえば、その三人の名前って、まだ聞いてなかったよね?」


「ああ、そうだったね」


「教えてほしいな。和真と一緒に冒険してた人たちのこと」


 フェンリスは興味津々といった様子で身を乗り出した。


 和真は少し考えてから、ゆっくりと話し始める。


「まず一人目は、シャリア・リーリント。回復魔法が得意な女の子だったんだ」


「シャリア・リーリント……」


 フェンリスは確かめるように名前を繰り返した。


「回復魔法が得意だったんだね!」


「うん。俺たちは何度もシャリアに助けられたよ。怪我をしたときなんか、真っ先に治してくれたから」


「優しい人だったんだね」


「優しかったよ。ただ、かなり自由奔放な性格だったな」


「自由奔放?」


「自分の気持ちに正直で、思ったことは遠慮なく言うんだ。俺が無茶をすると、よく怒られたよ」


「あははっ! それは仕方ないよ!」


「まあ、そうだね」


 和真は苦笑した。


「俺が夜遅くまで訓練してると、無理やり連れ戻されることもあったな」


「ふふっ、いい人じゃないか!」


「そうだね。随分心配をかけたと思う」


 和真は懐かしそうに微笑んだ。


「二人目はジェーン・ドゥ。短剣を使った戦い方が得意で、身のこなしがすごく軽かったんだ」


「ジェーン・ドゥ……」


 フェンリスの耳がぴくりと動く。


「短剣使いなんだ!」


「うん。相手の隙を見つけるのが上手くてね。気づいたときには背後に回り込んでるような子だったよ」


「へえ! 僕も戦ってみたいな!」


「フェンリスなら、いい勝負になるかもしれないね」


「えへへ! それで、どんな性格だったの?」


「そうだな……いつも余裕があって、人をからかうのが好きだったかな」


「和真もからかわれた?」


「しょっちゅうだよ」


「ふふっ、なんだかみゆみたい!」


「少し似てるかもしれないね。でも、ジェーンの方が何を考えてるのか分からないことが多かったな」


 和真は小さく笑った。


「俺が隠し事をしてても、すぐに気づくんだ」


「……和真、何か隠してたの?」


「怪我とか、疲れてることとかね」


「……もう!」


 フェンリスは呆れたように頬を膨らませた。


「和真って、昔からそうなんだね!」


「……そうだな」


「少しは自分のことも大切にしてよ!」


「うん。気をつけるよ」


「……本当かなあ」


 フェンリスは疑わしそうに見上げたが、やがて小さく笑った。


「……それで、最後の一人は?」


「ああ。李 昊然(リー・ハオラン)っていう、中国出身の男性だよ」


「リー・ハオラン……」


「うん。俺たちが召喚されたとき、ハオランは二十二歳だったんだ」


「えっ! じゃあ、和真より七つも年上だったんだね!」


「そう。一番年上だったよ」


「どんな人だったの?」


「落ち着いていて、周りをよく見てくれる人だったな。俺たちが言い争いを始めると、間に入ってくれたりね」


「へえ……頼りになるお兄さんだったんだ!」


「うん。俺も随分助けてもらったよ」


 和真は少し笑った。


「ただ、ハオランも大変だったと思う。俺たち三人の面倒を見ながら、一緒に戦わなきゃいけなかったから」


「ふふっ、苦労してそうだね」


「実際、よくため息をついてたよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「……ねえ、その人たちは今、どうしてるの?」


 フェンリスが尋ねる。


 和真は少しだけ視線を落とした。


「……分からないんだ」


「……え?」


「向こうの世界を離れてから、誰とも連絡が取れてないからね」


「……そっか」


「みんな、元気にしてくれてるといいんだけど」


 和真は寂しそうに微笑んだ。


 フェンリスは、そっと彼の手を握る。


「……きっと元気だよ」


「……そうだといいな」


 和真はその手を優しく握り返した。


 少しの間、二人の間に静かな時間が流れる。


 やがて、フェンリスが口を開いた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「さっき、その三人とは色々あったって言ってたよね?」


「ああ……」


 和真の表情がほんの少し変わった。


「……うん。色々あったよ」


「……聞いてもいい?」


「もちろん」


 和真は小さく頷いた。


「実はね……シャリアとジェーンは、俺が昔付き合ってた相手なんだ」


「…………え?」


 フェンリスの動きが止まった。


 数秒の沈黙。


「……ええええっ!?」


 突然の大声に、和真が思わず肩を跳ねさせる。


「ふ、二人とも!?」


「う、うん」


「和真、二人も恋人がいたの!?」


「同時に付き合ってたわけじゃないよ!」


「あっ……そ、そうだよね」


 フェンリスはほっと胸を撫で下ろした。


 けれど、すぐに頬を膨らませる。


「……でも、二人もいたんだ」


「……うん」


「むう……」


 和真は困ったように笑った。


「……怒ってる?」


「怒ってないよ!」


「そっか」


「……ちょっとだけ、羨ましいだけ」


「羨ましい?」


「だって……僕より先に和真と出会って、恋人になれたんでしょ?」


 フェンリスは小さく視線を落とした。


「……僕も、もっと早く和真に会いたかったな」


 和真は少し驚いた後、優しく微笑んだ。


「……でも、今はこうして一緒にいられるよ」


「……うん」


「俺は、フェンリスに会えてよかったと思ってる」


 フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「……本当?」


「うん」


 和真は彼女の頬にそっと触れた。


「今、フェンリスとこうになれて嬉しいよ」


「…………っ!」


 フェンリスの顔が真っ赤になった。


「も、もう……!」


 慌てて和真の胸元へ顔を埋める。


「……そんなこと言われたら、何も言えなくなっちゃうじゃないか……」


 和真は小さく笑い、彼女の頭を撫でた。


     ◇


「……それで、最初に付き合ったのは?」


 少し落ち着いたフェンリスが尋ねた。


「シャリアだよ」


「……そうなんだ」


「何年も一緒に冒険してるうちに、好きになったんだ」


 和真は当時のことを思い返す。


 怪我をすれば、真っ先に回復魔法をかけてくれた。


 無理をすれば怒られた。


 落ち込んでいれば、隣に座って話を聞いてくれた。


 最初はただの仲間だった。


 けれど、一緒に過ごす時間が増えるにつれて、少しずつ特別な存在になっていった。


「最初に気持ちを伝えたときは、すごく緊張したよ」


「和真から告白したの?」


「うん」


「へえ……!」


 フェンリスは興味深そうに目を輝かせた。


「どんなふうに?」


「いや、それは……」


「教えてよ!」


「……普通に、好きだって伝えただけだよ」


「ふふっ、和真らしいね!」


 フェンリスが嬉しそうに笑う。


 和真も少し照れくさそうに笑った。


「シャリアも俺のことを好きだって言ってくれてさ。すごく嬉しかったよ」


「……そっか」


 その笑顔を見ながら、フェンリスは静かに頷いた。


「……幸せだった?」


「うん。幸せだったよ」


 和真は迷わず答えた。


「二人で街を歩いたり、休みの日に出かけたり。普通の恋人みたいなこともしてたんだ」


「……いいなあ」


 フェンリスが小さく呟いた。


「ん?」


「……僕も、もっと和真と色んなところに行きたいなって」


「これから行こうよ」


「……うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 けれど、和真の表情が少し曇ったことに気づく。


「……何かあったの?」


「……うん」


 和真は小さく息を吐いた。


「シャリアとは、恋愛に対する考え方が違ったんだ」


「……考え方?」


「うん」


 和真は少し言葉を選んだ。


「シャリアは、自分の気持ちにも欲求にも正直な子だったんだ」


「……うん」


「俺のことは好きだって言ってくれてた。でも……俺一人だけじゃ満足できないって、相談されたことがあってさ」


 フェンリスが首を傾げる。


「……どういうこと?」


「……その、恋人としての関係のことだよ」


 和真の頬が少し赤くなる。


 フェンリスも意味を理解したらしく、耳の先まで赤くなった。


「……あっ」


「シャリアは、そういう欲求がかなり強かったんだ。俺もできるだけ応えようとしたんだけど……」


 和真は苦笑した。


「ほかの男性とも関係を持ちたいって言われたんだ」


「…………え?」


 フェンリスが目を丸くした。


「……和真が恋人なのに?」


「うん」


「……そ、それって……」


「シャリアは、俺を嫌いになったわけじゃなかったんだ」


 和真は静かに続ける。


「むしろ、好きだからこそ隠さず相談してくれたんだと思う」


「…………」


「でも、俺は受け入れられなかった」


 和真は視線を落とした。


「あの頃は好きな人がほかの男性と親密になるのを、平気で見ていられなかったんだ」


 フェンリスは、その言葉を黙って聞いていた。


 胸の奥が少し苦しくなる。


 自分だって、和真とみゆやナディアのことで、何度も苦しい思いをしてきた。


 好きな人を独り占めしたいという気持ち。


 その気持ちを抱えることが、どれほど辛いのか。


 彼女にはよく分かっていた。


「……和真」


「ん?」


「……辛かったね」


 小さな声だった。


 和真は少し驚いたようにフェンリスを見る。


「好きな人がほかの誰かを求めてるって……僕も、胸が苦しくなる気持ちは分かるよ」


「……フェンリス」


「それに……和真が全部我慢する必要なんて、ないじゃないか」


 フェンリスは真っ直ぐに言った。


「シャリアって人にも考えがあったんだろうけど、和真の気持ちだって大切なんだから」


 和真はしばらく彼女を見つめていた。


 そして、優しく微笑んだ。


「……ありがとう」


「……うん」


 フェンリスは少し照れくさそうに頷いた。


「……それで、どうなったの?」


「何度も話し合ったよ。でも、どうしてもお互いに譲れないところがあってさ」


 和真は小さく息を吐いた。


「最後は、シャリアから別れようって言われたんだ」


「…………」


「好きな気持ちは変わらない。でも、このままじゃ二人とも苦しくなるからって」


 和真は寂しそうに笑った。


「……初めて本気で好きになった人だったから、辛かったよ」


「……うん」


「しばらくは、どうしたらよかったんだろうって考えてた」


 和真は少し苦笑した。


「俺がもっと理解してあげられたら、違ったのかなって」


「……でも、それは和真だけが悪いわけじゃないよ」


「……そうだね」


 和真はゆっくり頷いた。


「今なら、そう思えるよ」


 フェンリスは小さく微笑んだ。


「……別れた後も、一緒に冒険してたの?」


「うん。仲間だったからね」


「……気まずくなかった?」


「かなりね」


 和真は苦笑した。


「でも、戦いのときはお互いに命を預ける仲間だったから。そこはちゃんと分けて考えるようにしてたよ」


「……そっか」


「ただ、俺の方がなかなか気持ちを整理できなくてさ」


 和真は少しだけ目を伏せた。


「そんなとき、ジェーンが話を聞いてくれたんだ」


     ◇


「……ジェーンって人が?」


「うん」


 和真は懐かしそうに微笑んだ。


「シャリアと別れた後、俺はしばらく訓練ばかりしてたんだ」


「……また?」


「……うん」


 フェンリスが呆れたようにため息をつく。


「もう! 和真って本当に……」


「ははっ……」


「それで?」


「ある夜、一人で剣を振ってたら、ジェーンがやってきたんだ」


 和真は当時のことを思い出す。


 静かな訓練場。


 月明かりの下で、何度も剣を振っていた。


 身体を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。


 疲れて眠ってしまえば、寂しさも忘れられる。


 そんなことを考えていた。


『……和真』


 背後から、柔らかな声がした。


 振り返ると、ジェーンが立っていた。


『こんな時間まで訓練? 熱心ね』


『……うん。もう少しだけ』


『ふうん……』


 ジェーンはゆっくりと近づいてくる。


『でも、和真』


『……何?』


『そんなに頑張って、何から逃げようとしてるのかな?』


 和真の手が止まった。


『……逃げてなんかないよ』


『あら、そう?』


 ジェーンは小さく笑った。


『私には、何かを忘れようとしてるように見えるけど?』


『…………』


『……ねえ、和真』


 その声が、少しだけ優しくなる。


『今くらい、誰かに甘えてもいいんじゃない?』


 和真は何も答えられなかった。


「……そんなふうに言われてさ」


 和真は小さく笑った。


「気づいたら、シャリアのことを全部話してたんだ」


「……うん」


「ジェーンは途中で口を挟まずに、最後まで聞いてくれたよ」


「……優しい人だったんだね」


「うん」


 和真は頷いた。


「それから、ジェーンと二人で過ごす時間が増えたんだ」


 最初は、落ち込んでいる和真を気遣ってくれていただけだった。


 けれど、少しずつ普通の話もするようになった。


 冒険の思い出。


 故郷の話。


 好きな食べ物。


 他愛もない冗談。


 そんな時間が増えるにつれて、和真は少しずつ笑顔を取り戻していった。


「ジェーンといると、不思議と気持ちが楽になったんだ」


「……そっか」


「気づいたら、また笑えるようになってたよ」


 和真は少し懐かしそうに目を細めた。


「それで、いつの間にか好きになってた」


「……告白したのは?」


「ジェーンの方からだったよ」


「……そうなんだ」


 フェンリスは静かに頷いた。


「ある日、二人で話してたら突然言われたんだ」


 和真は、その日のことを思い返す。


『……ねえ、和真』


『何?』


『そろそろ、私のことも見てくれないかな?』


『……え?』


 和真が戸惑うと、ジェーンは少しだけ笑った。


『私、結構長いこと待ってたんだけど』


『……何を?』


『和真が、私のことを好きになってくれるのを』


 その言葉に、和真は何も言えなくなった。


『……私ね、ずっと和真のことが気になってたんだよ?』


『……そうだったの?』


『ふふっ。全然気づいてなかったんだ』


 ジェーンは少しだけ困ったように笑った。


 いつもの余裕のある表情。


 けれど、その瞳は真剣だった。


『……私じゃ、駄目かな?』


 和真は首を横に振った。


 そのとき、ようやく自分の気持ちに気づいたのだ。


 いつの間にか、ジェーンと過ごす時間を楽しみにしていたこと。


 彼女の笑顔を見ると安心すること。


 そして、彼女がそばにいないと寂しく感じるようになっていたこと。


『……駄目じゃないよ』


 和真はゆっくりと答えた。


『俺も、ジェーンのことが好きだよ』


 ジェーンは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


『……ふふっ。やっと言ってくれた』


 その頬は、少し赤くなっていた。


「……そんな感じだったかな」


 和真が話し終えると、フェンリスは黙っていた。


「……フェンリス?」


「…………」


「どうした?」


「……ずるい」


「……え?」


「そのジェーンって人、ずるいよ……」


 フェンリスは頬を膨らませていた。


「和真が落ち込んでるときに、そんなふうに優しくされたら……好きになっちゃうじゃないか」


「……そうだね」


「もう……」


 フェンリスは和真の胸元へ顔を埋めた。


「……僕も、もっと早く和真に会いたかったな」


 和真はそっと彼女の頭を撫でた。


「……でも、今はフェンリスがそばにいてくれるよ」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


 そして、少しだけ顔を上げる。


「……ジェーンって人とは、幸せだった?」


「うん」


 和真は穏やかに微笑んだ。


「色んな思い出があるよ。ジェーンにも、本当に助けられたんだ」


「……そっか」


 フェンリスは静かに頷く。


「……でも、その人とも別れちゃったんだよね?」


「……うん」


 和真の表情が少し曇った。


「最後は、俺が一方的に別れを告げることになっちゃったんだ」


「……え?」


 フェンリスが顔を上げた。


「……どうして?」


 和真はしばらく黙っていた。


 そして、静かに口を開く。


「……ナディアのところへ、一人で行ったときの話になる」


     ◇


「ナディアとは、何度も戦ったんだ」


「……四人で?」


「うん。俺たち四人と、魔王だったナディアでね」


 和真は当時の光景を思い返した。


 魔王城。


 魔族の軍勢。


 戦場を覆う濃密な魔力。


 そして、その中心に立つ魔王ナディア。


 勇者として召喚された四人は、何度も彼女と剣を交えた。


「……ナディア、強かったでしょ?」


「ものすごく強かったよ」


 和真は苦笑した。


「今でも相当な力を持ってるけど、あの頃は本当に手強かったな」


「ふふっ、想像できるよ」


「何度も戦ったけど、簡単には決着がつかなかったんだ」


 和真は少し懐かしそうに目を細める。


「シャリアの回復魔法にも助けられたし、ジェーンやハオランとも協力して戦ったよ」


「……でも、和真が一番強かったんだよね?」


「うん。途中からは、ほかの三人よりもかなり強くなってたと思う」


「へえ……!」


 フェンリスが目を輝かせた。


「どれくらい強かったの?」


「そうだな……三人も十分強かったけど、俺は一人でもナディアと渡り合えるくらいにはなってたよ」


「……すごい!」


「でも、あいつも簡単に負けるような相手じゃなかったからね」


 和真は小さく笑った。


「何度戦っても、気を抜けなかったよ」


「……今もそんなに強いの?」


「今は勇者としての力を封じてるから、当時とは違うけどね」


「……えっ、封印してるの!?」


「うん。普段の生活で、あそこまでの力は必要ないから」


 和真は何でもないことのように答えた。


 フェンリスは目を丸くする。


「……じゃあ、僕が知ってる和真って……」


「本気で戦ってた頃とは違うかな」


「…………」


 フェンリスはしばらく和真を見つめていた。


 それから、嬉しそうに笑う。


「……なんだか、ますます和真と戦ってみたくなっちゃった!」


「ははっ、フェンリスらしいね」


「だって、強い人と戦うのって楽しいじゃないか!」


「そうだな。でも、怪我をしない程度にしようね」


「うん!」


 フェンリスは元気よく頷いた。


 和真はそんな彼女の頭を撫でてから、再び話を続ける。


「……でもね、ナディアと何度も戦ってるうちに、少しずつ気づいたことがあったんだ」


「……何に?」


「ナディアは、ただ人間を憎んで戦ってるわけじゃないんじゃないかって」


 フェンリスの耳がぴくりと動いた。


「……どういうこと?」


「最初は、魔王だから倒さなきゃいけないって思ってたんだ」


 和真は静かに続けた。


「召喚されたときも、魔王を倒せば平和になるって説明されてたからね」


「……うん」


「でも、ナディアと戦ってると、少しずつ違うんじゃないかって思うようになった」


 何度も剣を交える中で、和真は彼女の言葉や行動を見てきた。


 魔族の兵士たちを守ろうとする姿。


 仲間が傷つけば、自ら前に出て戦う姿。


 そして、戦いの最中に見せる、怒りや悲しみ。


 そのどれもが、ただ人間を滅ぼそうとする残酷な魔王の姿とは違っていた。


「ナディアにも、守りたいものがあるんだって気づいたんだ」


「……魔族の人たち?」


「うん。それに、自分の国や、大切な仲間たちもね」


 和真は小さく頷いた。


「俺たちが人間を守ろうとしてたのと同じように、ナディアも魔族を守ろうとしてたんだ」


「……そっか」


「だから、考えるようになったんだ」


「……何を?」


「本当にナディアを倒さなきゃいけないのかって」


 和真は静かに続ける。


「どちらにも大切なものがあるなら、話し合って争いを終わらせる方法はないのかなって」


 フェンリスは、じっと和真の顔を見つめていた。


「……それで、ナディアと話そうと思ったんだね?」


「うん」


 和真は頷いた。


「でも、仲間たちに相談したら、きっと止められると思ったんだ」


「……そりゃそうだよ!」


 フェンリスが思わず声を上げた。


「だって、何度も戦った魔王のところに一人で行くんでしょ!? 危ないじゃないか!」


「うん。そうだね」


「……それでも行ったの?」


「……行ったよ」


 和真は小さく息を吐いた。


「どうしても、ナディアと話がしたかったんだ」


「…………」


「何度も戦って、少しずつあいつのことが分かってきたから。きっと、話を聞いてくれるんじゃないかって思ったんだ」


 フェンリスは和真を見つめた。


 何度も戦った相手。


 命を懸けて剣を交えた相手。


 それでも、その人柄を知ろうとし、理解しようとした。


 そして、誰にも相談せず、一人で会いに行くことを決めた。


「……和真らしいね」


 フェンリスが小さく呟いた。


「……そうかな?」


「うん」


 フェンリスは頷いた。


「だって、和真って相手が誰でも、ちゃんと話を聞こうとするじゃないか」


「……うん」


「僕のときだってそうだったよ」


 和真はフェンリスを見る。


「初めて会ったとき、僕は和真のことをすごく警戒してたのに……」


 フェンリスは少し照れくさそうに笑った。


「和真は、僕を怖がらなかったでしょ?」


「……うん」


「だから……ナディアとも話し合えたんだと思う」


 和真は少し驚いた後、優しく微笑んだ。


「……ありがとう」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「……でも」


「ん?」


「ジェーンって人には、ちゃんと話さなかったの?」


 和真の表情が曇った。


「……うん」


「……どうして?」


「……心配をかけたくなかったんだ」


 和真は静かに続けた。


「話し合いに行くつもりだったけど、絶対に無事で帰れるとは限らなかったから」


「…………」


「もし戻れなかったら、ジェーンには自分の人生を生きてほしかったんだ」


 和真は少しだけ目を伏せた。


「だから、手紙を残したんだ」


「……手紙?」


「うん。別れを告げる手紙をね」


 フェンリスは目を見開いた。


「……え?」


「一緒にいてくれてありがとうって。幸せだったって……でも、もう俺のことは待たなくていいって」


「…………」


「俺が戻らなくても、ジェーンには幸せになってほしかったんだ」


 和真は苦笑した。


「……勝手な話だよね」


 フェンリスは何も言わなかった。


「本人の気持ちも聞かずに、一方的に別れを告げてさ」


「……和真」


「今でも、あれはよくなかったと思ってるよ」


 和真は静かに続ける。


「でも、あのときはそれしか考えられなかったんだ」


 フェンリスは、和真の手をそっと握った。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「僕だったら……絶対に嫌だよ」


「……うん」


「和真が僕を守るために、何も言わずに一人で危ないところに行っちゃったら……」


 フェンリスの声が震えた。


「僕、すごく悲しい」


「…………」


「一緒に戦いたいよ。和真がどれだけ強くたって……僕だって、和真を守りたいんだから」


 和真はフェンリスを見つめた。


「……フェンリス」


「僕は、和真に守ってもらうだけじゃ嫌だよ」


 フェンリスは真っ直ぐに言った。


「大好きな人が危ないところへ行くなら、一緒に行きたい。辛いときも、怖いときも……一緒にいたいよ」


 和真はしばらく何も言えなかった。


 やがて、ゆっくりとフェンリスを抱き寄せる。


「……そうだね」


「……うん」


「一人で抱え込まずに、ちゃんと相談するべきだったと思う」


 和真はフェンリスの頭を優しく撫でた。


「ジェーンにも、ほかの二人にも」


「……うん」


「……ごめんね。心配させるような話をして」


「……いいよ」


 フェンリスは和真の胸元へ顔を寄せた。


「でも、もう一人で行っちゃ駄目だからね」


「……分かった」


「約束だよ?」


「うん。約束するよ」


 フェンリスはようやく少し笑った。


     ◇


「……それで、ナディアとはどうなったの?」


「ああ……」


 和真は少し懐かしそうに微笑んだ。


「最初はかなり警戒されたよ」


「……だろうね」


「何度も戦ってた相手が、一人で話をしに来たんだからね」


 和真は苦笑する。


「でも、ちゃんと話を聞いてくれたんだ」


「……ナディアが?」


「うん」


 和真は頷いた。


「人間側の事情も、魔族側の事情も、お互いに話したよ」


「……うん」


「それで、どうすれば争いを終わらせられるのか、一緒に考えたんだ」


 フェンリスは静かに聞いていた。


「結局、人間の領域と魔族の領域の間に、結界を張ることにしたんだ」


「……ナディアと二人で?」


「うん。俺一人じゃできなかったよ。ナディアが協力してくれたから、あの結界を作れたんだ」


 和真は少し笑った。


「まあ、あいつも簡単には納得してくれなかったけどね」


「ふふっ、想像できるよ!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「でも、最後はちゃんと協力してくれたんだ」


「……そっか」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


「ナディアって、やっぱり優しいところがあるんだね」


「うん。口は悪いけど、面倒見はいいからな」


「あははっ! それ、本人に言ったら怒られるよ!」


「だろうね」


 和真も笑った。


 けれど、しばらくすると、その笑顔に少しだけ寂しさが混じった。


「……それで、俺は元の世界に帰ってきたんだ」


「……ナディアが帰してくれたんだよね?」


「うん」


 和真は頷いた。


「向こうの世界でやるべきことも終わったし、やっと帰れることになったんだ」


「……仲間のところには?」


 和真は静かに首を横に振った。


「戻らなかったよ」


「…………」


「シャリアにも、ジェーンにも、ハオランにも……ちゃんと顔を合わせないままだった」


 フェンリスの耳がゆっくりと伏せられた。


「……そっか」


「うん」


 和真は自分の手を見つめた。


「それから、みんながどうなったのかも分からないんだ」


「……会いたい?」


「……そうだな」


 和真は少し考えた。


「会えるなら、会いたいよ」


「…………」


「無事だったって伝えたいし、謝りたいこともあるから」


 和真は寂しそうに笑った。


「特にジェーンには……本当に悪いことをしたと思ってる」


 フェンリスは、その横顔をじっと見つめていた。


「……後悔してる?」


「……してるよ」


 和真は迷わず答えた。


「もっとちゃんと話しておけばよかったって、今でも思う」


 フェンリスは和真の手をぎゅっと握った。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「僕、ジェーンって人の気持ち……少し分かる気がする」


「……そうなの?」


「うん」


 フェンリスは真剣な顔で頷いた。


「だって……大好きな人が、何も言わずにいなくなっちゃったら……僕、絶対に嫌だもん」


「…………」


「きっと、すごく心配するし……悲しいし……怒ると思う」


 フェンリスは俯いた。


「……でも、それ以上に」


 小さな声。


「無事でいてほしいって思うよ」


 和真は何も言わなかった。


「和真が生きてるなら、それだけでも嬉しいって……僕だったら、そう思う」


 和真はそっとフェンリスの手を握り返した。


「……ありがとう」


「……うん」


 フェンリスは小さく微笑んだ。


 そして、少しだけ身体を寄せる。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「今は……幸せ?」


 突然の問い。


 和真は少し驚いたように彼女を見た。


「今?」


「うん」


 フェンリスは真っ直ぐに和真を見つめた。


「色んなことがあったけど……今、幸せ?」


 和真はしばらく黙っていた。


 両親を失った幼少期。


 祖父母と過ごした日々。


 突然飛ばされた異世界。


 命懸けの戦い。


 仲間との出会い。


 恋愛と別れ。


 そして、日本へ帰ってきてからの生活。


 色んな出来事が、頭の中を駆け巡る。


 やがて、和真は穏やかに笑った。


「……幸せだよ」


「……本当?」


「うん」


 和真はフェンリスの頬にそっと触れた。


「今は、フェンリスがいてくれるからね」


「…………!」


 フェンリスの顔が真っ赤になった。


「……か、和真……」


「みんなと一緒に暮らせてるし、毎日賑やかで楽しいよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「それに……フェンリスとこうして一緒にいられるのが、すごく嬉しい」


 フェンリスの瞳が潤んだ。


「……もう」


 小さく呟いて、和真の胸に顔を埋める。


「……そんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうじゃないか……」


 和真は笑いながら、彼女を抱きしめた。


「本当のことだから」


「……うん」


 フェンリスも、ぎゅっと抱きしめ返す。


 しばらく二人は、何も言わずに寄り添っていた。


 窓の外では、相変わらず吹雪が続いている。


 けれど、二人を包む空気は暖かかった。


 やがて、フェンリスがゆっくりと顔を上げた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「今度は……僕の話、聞いてくれる?」


 和真は少し驚いた後、優しく頷いた。


「もちろん」


「……うん」


 フェンリスは小さく息を吸った。


 そして、少しだけ寂しそうに微笑む。


「……和真も、たくさん辛い思いをしてきたんだね」


 和真は何も言わず、彼女を見つめた。


「僕もね……今まで、色んなことがあったんだ」


 銀色の耳がゆっくりと伏せられる。


「和真に会う前は……本当に色んなことが……」


 その声が、少しだけ震えた。


 和真はそっとフェンリスの手を握った。


「……大丈夫。ちゃんと聞くよ」


「……ありがとう」


 フェンリスはゆっくりと頷いた。


 そして、遠い故郷の記憶を辿るように、静かに口を開いた。


「……僕のお父さんね、実は王様だったんだ」


「……王様?」


 和真が目を丸くした。


 フェンリスは少し照れくさそうに笑う。


「うん。正確には、僕が生まれた頃はまだ王子様だったんだけどね」


「そうだったのか……」


「えへへ。驚いた?」


「うん。フェンリスが王族だったなんて、初めて聞いたから」


「だよね。僕も、今の自分が王族だなんて全然思ってないもん」


 フェンリスは小さく笑った。


 けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。


「僕が生まれた国は、シルトクレーテっていうんだ」


「シルトクレーテ……」


「うん。人間も獣人も住んでる国でね。僕はその国の牙狼族として生まれたんだよ」


「そっか」


「それでね、僕のお母さんは冒険者だったんだ」


「冒険者?」


「うん! それも、すっごく強い格闘家!」


 母親の話になった途端、フェンリスの耳がぴんと立った。


「剣も槍も使わずに、素手で戦うんだよ! 魔力で身体を強化して、どんな相手にも正面から向かっていくの!」


「へえ……すごい人だったんだね」


「うん! 僕の憧れだったんだ!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「実はね、お父さんとお母さんが出会ったのも、格闘大会だったんだよ」


「格闘大会?」


「そう!」


 フェンリスは楽しそうに話し始めた。


「お父さんは王子様だったんだけど、身分を隠して大会に参加してたんだって」


「王子様が?」


「うん! お父さんも戦うのが好きだったみたいでね。お母さんの試合を見て、一目惚れしちゃったんだって!」


「へえ……」


 和真が微笑む。


「それで、どうなったの?」


「お父さん、お母さんと戦ってみたくなって、何度も手合わせをお願いしたらしいんだ」


「何度も?」


「うん! 最初はお母さんも相手にしてなかったんだけど、あんまりしつこいから、とうとう引き受けたんだって!」


「ははっ、随分熱心だったんだな」


「でしょ!」


 フェンリスは楽しそうに笑った。


「それから何度も一緒に訓練するようになって、少しずつ仲良くなって……気づいたら恋人同士になってたんだって!」


「素敵な話だね」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らした。


「お母さん、本当にお父さんのことが好きだったんだと思う」


「……うん」


「でもね……」


 そこで、フェンリスの笑顔が少し曇った。


「お母さんは、お父さんが王子様だって知らなかったんだ」


「……え?」


「身分を隠してたからね。普通の冒険者だと思ってたみたい」


 フェンリスは膝の上で指を組んだ。


「それで……僕がお腹にいるって分かってから、初めて本当の身分を知ったんだって」


「……そうだったのか」


「うん。お母さん、すごく驚いたらしいよ」


 フェンリスは少し寂しそうに笑った。


「お父さんには、もう政治のために結婚することが決まってた相手がいたんだ」


「……それが?」


「うん。後に正妃になった人」


 和真は黙って続きを待った。


「お母さんはね、お父さんの身分を知ったとき、別れようとしたんだって」


「……どうして?」


「自分がそばにいたら、お父さんに迷惑をかけちゃうと思ったんだって。それに、王族の結婚って色んな事情があるでしょ?」


「……そうだね」


「でも、お父さんは絶対に別れたくないって言ったんだ」


 フェンリスの口元が少し緩む。


「結婚してほしいって、何度もお願いしたらしいよ。絶対に苦労はさせないからって」


「……そっか」


「結局、お母さんも折れちゃったんだって」


 フェンリスは小さく笑った。


「それで、お母さんは第二夫人になったんだ」


「……正妃ではなく?」


「うん。身分のこともあったし、先に決まってた結婚をなくすわけにもいかなかったからね」


 和真は静かに頷いた。


「でもね、僕が小さい頃は、すごく幸せだったんだよ」


 フェンリスの表情が明るくなる。


「お父さんは、お母さんのことが大好きだったし、僕のこともすっごく可愛がってくれたんだ!」


「……そうなんだ」


「うん! 仕事が終わると僕のところに来てくれて、よく抱っこしてくれたよ」


 フェンリスは懐かしそうに目を細めた。


「お母さんと一緒にいるときなんて、いつも笑ってたんだ」


 和真はそんな彼女を見つめていた。


 普段の明るいフェンリス。


 嬉しいことがあると尻尾を振り、甘えたいときには遠慮なく抱きついてくる。


 その姿は、きっと幼い頃から変わらなかったのだろう。


「……いい家族だったんだね」


「うん!」


 フェンリスは力強く頷いた。


 けれど、すぐに視線を落とした。


「……でも、それは長く続かなかったんだ」


     ◇


「……僕が六歳くらいのときだったかな」


 フェンリスは、ぽつりと呟いた。


「お母さんが死んじゃったんだ」


「…………」


 和真の表情が変わった。


「……六歳で?」


「うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「ある日、突然具合が悪くなってね。お医者さんが何人も来たんだけど……助からなかった」


「……そっか」


「僕、何が起きたのか分からなかったよ」


 フェンリスは膝の上に視線を落とす。


「昨日まで元気だったんだもん。いつもみたいに笑って、僕の頭を撫でてくれて……」


 その声が少し震えた。


「それなのに、急に動かなくなっちゃったんだ」


 和真は何も言わず、フェンリスの手を握った。


「……お父さんも、すごく悲しんでたよ」


「……うん」


「お母さんが亡くなってから、しばらく元気がなくてね。僕を抱きしめて、一緒に泣いたこともあったんだ」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「僕も、お父さんも……お母さんが大好きだったから」


「……そうだね」


 和真はそっと彼女の頭を撫でた。


「辛かったね」


「……うん」


 フェンリスは少しだけ和真に寄りかかった。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……でもね」


「ん?」


「お母さんは、病気で死んだんじゃなかったんだ」


「……え?」


 和真の手が止まった。


 フェンリスは俯いたまま続ける。


「……毒を盛られたんだよ」


「…………!」


 和真の表情が険しくなる。


「……誰に?」


 フェンリスは唇を噛んだ。


「……正妃に」


「…………」


「お父さんの、もう一人の奥さんだった人」


 和真は言葉を失った。


 フェンリスは静かに続ける。


「お母さんが生きてた頃から、正妃はずっと嫉妬してたんだと思う」


「……嫉妬?」


「うん。お父さんが、お母さんのことばかり見てたから」


 フェンリスは小さく息を吐いた。


「僕のことも、きっと気に入らなかったんだろうね」


「……そんな理由で?」


「……うん」


 和真は何も言えなかった。


 幼い子供から母親を奪う。


 しかも、嫉妬という身勝手な理由で。


 胸の奥に、静かな怒りが湧いてくる。


「……でも、どうして毒だって分かったの?」


 和真が尋ねると、フェンリスはゆっくりと顔を上げた。


「……正妃が、自分で教えてくれたんだ」


「……え?」


「僕が九歳になった頃だったかな」


 フェンリスの耳が伏せられる。


「ある日、正妃に呼び出されてね。二人きりになったときに、突然言われたんだ」


 フェンリスは一度言葉を止めた。


 そして、かすかに震える声で続ける。


「……お前の母親を殺したのは私だって」


「…………!」


 和真は思わずフェンリスを見つめた。


「……本人が、そう言ったの?」


「うん」


「……九歳のフェンリスに?」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「僕がどんな顔をするのか、見たかったんだと思う」


 そのときの光景は、今でも忘れられない。


 豪華な部屋。


 柔らかな絨毯。


 美しい装飾品。


 そして、椅子に腰かけていた正妃。


 正妃は、幼いフェンリスを見下ろしながら微笑んでいた。


『……あなたの母親、随分と苦しんでいたそうね』


 最初は何を言われているのか分からなかった。


『あの女がいなくなって、ようやく邪魔者が消えたと思ったのに……』


 正妃はゆっくりと身を乗り出した。


『まだ、あなたが残っていたわね』


 フェンリスは身体を強張らせた。


『……え?』


『あなたの母親に毒を盛ったのは、私よ』


 その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 母親。


 毒。


 殺した。


 意味を理解した瞬間、視界が滲んだ。


『……うそ……』


『嘘だと思うなら、そう思っていればいいわ』


 正妃は楽しそうに笑った。


『でも、証拠なんてないもの。あなたが誰に話したところで、信じてもらえるかしら?』


 フェンリスは何も言えなかった。


 ただ、涙だけが溢れてきた。


「……僕ね」


 フェンリスが小さく呟いた。


「そのとき、すごく怖かったんだ」


「……うん」


「お母さんを殺した人が、目の前で笑ってるんだよ……?」


 和真は静かに頷いた。


「……怖かったね」


「……うん」


 フェンリスの目に涙が浮かんだ。


「でも、僕、お父さんに話したんだ」


「……お父さんに?」


「うん。正妃が、お母さんを殺したって」


 フェンリスはぎゅっと手を握った。


「絶対に信じてくれると思ってた」


「…………」


「だって、お父さんもお母さんが大好きだったから……」


 その声が、少しずつ震え始める。


「……でもね」


 フェンリスは俯いた。


「信じてもらえなかったんだ」


 和真の眉が寄る。


「……何て言われたの?」


「……お母さんを失って辛いのは分かるけど、そんなことを言っちゃいけないって」


「…………」


「正妃はそんなことをする人じゃないって……」


 フェンリスの瞳から、一粒の涙が落ちた。


「……僕、嘘なんてついてないのに」


 和真はそっとフェンリスを抱き寄せた。


「……うん」


「本当に聞いたんだよ……?」


「うん。信じるよ」


「…………っ」


 フェンリスの身体が震えた。


「……和真」


「フェンリスは、嘘をついてないんだろ?」


「……うん」


「だったら、俺は信じるよ」


 その言葉を聞いた瞬間、フェンリスの目から新しい涙が溢れた。


「……ありがとう……」


 和真は何も言わず、彼女の背中を優しく撫で続けた。


     ◇


 しばらくして、フェンリスは小さく息を整えた。


「……ごめんね。泣いちゃって」


「謝らなくていいよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「辛かったんだから、泣いていいんだよ」


「……うん」


 フェンリスは袖で目元を拭った。


「……それでね、お母さんがいなくなってから、お父さんも少しずつ変わっていったんだ」


「……変わった?」


「うん」


 フェンリスは静かに頷いた。


「最初はずっと悲しんでたんだけど、正妃がそばにいて慰めてたんだ」


「……うん」


「それで、少しずつ正妃のことも大切にするようになって……」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「やがて、弟と妹が生まれたんだ」


「……弟と妹?」


「うん。お父さんと正妃の子供だよ」


 和真は黙って聞いていた。


「二人が生まれてから、お父さんはそっちにいる時間が増えていったんだ」


「……そっか」


「僕のことも、嫌いになったわけじゃなかったと思う」


 フェンリスは小さく息を吐いた。


「会えば優しくしてくれたし、誕生日には贈り物もくれたから」


「……うん」


「でも、前みたいに一緒にいてくれることは少なくなったんだ」


 仕事が忙しい。


 今日は予定がある。


 弟や妹のところへ行かなければならない。


 そんな言葉を聞くことが増えていった。


「……僕も、分かってたんだよ」


「……何を?」


「お父さんが王様になって、忙しくなったことも。弟や妹がまだ小さいから、そばにいてあげなきゃいけないことも」


 フェンリスは俯いた。


「でも……寂しかったな」


 その声は、とても小さかった。


「……そっか」


「うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「正妃も、弟や妹が生まれてから、僕にもっと冷たくなったんだ」


「…………」


「僕が王位を継ぐ可能性も、まだ残ってたからね」


「……それで、邪魔だったのか」


「……たぶん」


 フェンリスは少し寂しそうに笑った。


「僕は王様になりたいなんて、一度も思ったことなかったのに」


 和真はそっと彼女の手を握り直した。


「……それから、どうなったの?」


「……結婚させられそうになったんだ」


「……え?」


 和真が目を丸くした。


「結婚?」


「うん。外国の偉い貴族と」


「……待って。九歳の頃の話だよね?」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「その頃には、もう結婚式の日取りまで決まってたんだ」


「……そんな」


 和真の表情が険しくなる。


「九歳の子供なのに?」


「……向こうの世界じゃ、貴族同士の政略結婚は珍しくなかったから」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「僕の場合、王族の血を引いてるから、相手にとっては都合がよかったんだと思う」


「……お父さんは?」


「……結婚を認めてたよ」


「…………」


「国のためになる縁談だと思ってたみたい」


 フェンリスは膝の上で指を握った。


「でも、僕は嫌だった」


「……うん」


「その人には何度か会ったんだけど……」


 フェンリスの表情が強張った。


「……怖かったんだ」


 相手の貴族は、いつも高価な服を着ていた。


 立派な屋敷を持ち、多くの使用人を従えていた。


 けれど、フェンリスには少しも立派な人には見えなかった。


 彼は獣人を見下していた。


 フェンリスを一人の人間としてではなく、手に入れる予定の所有物のように扱った。


 顔を合わせるたびに値踏みするような視線を向け、本人の気持ちなど一度も尋ねなかった。


「……僕を見る目がね、すごく嫌だったんだ」


「…………」


「何だか、物みたいに扱われてる気がして……」


 フェンリスは身体を小さく縮めた。


「僕が何を言っても、ちゃんと聞いてくれなかった」


「……うん」


「それに、獣人のことを見下してたんだ」


 和真の眉が寄る。


「……そんな相手と結婚させようとしたのか」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「正妃は、僕を遠くへ追い出したかったんだと思う」


「……フェンリス」


「結婚したら、もうお父さんにも会えなくなるし、あのお城にも戻れなくなるから」


 フェンリスは少しだけ唇を噛んだ。


「……それでね」


 和真を見上げる。


「僕、逃げたんだ」


     ◇


「……逃げた?」


「うん!」


 フェンリスは少しだけ元気を取り戻したように頷いた。


「結婚式の前に、お城から逃げ出したんだ!」


「……九歳で?」


「そう!」


 和真は驚いたように目を丸くする。


「よく逃げられたね」


「えへへ。実はね、特別な靴を持ってたんだ」


「……靴?」


「うん。『天馬の靴』っていう魔道具!」


 フェンリスの耳が少し立った。


「お父さんが、僕が小さい頃にくれた贈り物だったんだ」


「……どんな靴なの?」


「空中を蹴って、ジャンプできるんだよ!」


「……空中を?」


「うん! 足元に何もなくても、空気を踏むみたいに跳べるんだ!」


 フェンリスは少し得意そうに笑った。


「だから、あの靴を使ってお城の外へ逃げたんだよ!」


「……すごい魔道具だね」


「でしょ!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「お父さんがくれた物の中でも、一番大切にしてたんだ」


「……そっか」


 和真は微笑んだ。


 けれど、フェンリスの表情は少しずつ曇っていった。


「……その靴も、今はもうないんだけどね」


「……え?」


「……後で話すよ」


 フェンリスは小さく笑った。


「それでね、逃げた先に、僕のお母さんが持ってた家があったんだ」


「……家?」


「うん。王都からずっと離れた、小さな町の近くにね」


 フェンリスの表情が、少しだけ柔らかくなる。


「お母さんは、誰にも教えてない家を持ってたんだ」


「……誰にも?」


「うん。お父さんにも内緒だったんだよ」


 和真は少し驚いたように目を丸くした。


「……どうして?」


「お母さん、たまには王族とか身分とか、そういうのを全部忘れて暮らしたかったんだって」


 フェンリスは懐かしそうに笑った。


「だから、僕が小さい頃、時々そこへ連れていってくれたんだ」


 王都から遠く離れた、小さな集落。


 畑が広がり、森に囲まれた静かな場所。


 その外れに、母親が持っていた小さな家があった。


「そこではね、僕とお母さんの二人だけだったんだ」


「……二人だけ?」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「お母さんが料理してくれて、一緒にご飯を食べて、同じ布団で寝るの!」


 その声には、幼い頃の喜びが滲んでいた。


「朝になると、一緒に森へ行ってね。格闘の練習をしたり、魔力の使い方を教えてもらったり!」


「……そっか」


「すっごく楽しかったんだよ!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


「お母さん、戦うときはすごく厳しかったけど、終わるといっぱい褒めてくれたんだ!」


 和真は微笑んだ。


「いい思い出だね」


「うん!」


 けれど、すぐにフェンリスは寂しそうに目を伏せた。


「……だから、逃げる場所はそこしかないと思ったんだ」


 九歳の少女。


 頼れる母親は、もういない。


 父親は話を信じてくれず、結婚も認めてしまった。


 王宮には、自分を守ってくれる人がいない。


 そんな中で、唯一思い浮かんだのが、母親との思い出が詰まった家だった。


「……お父さんは、探さなかったの?」


 和真が尋ねる。


「……探してたみたい」


「……そうなの?」


「うん。僕がいなくなったって知って、すごく心配してたらしいよ」


 フェンリスは小さく息を吐いた。


「でも、あの家の場所はお父さんも知らなかったから」


「……見つからなかったんだ」


「うん」


 和真は少し考えてから尋ねた。


「……帰ろうとは思わなかった?」


 フェンリスはしばらく黙っていた。


「……思ったことはあるよ」


 小さな声だった。


「やっぱり、お父さんに会いたくなることもあったし……」


「……うん」


「でも、帰ったらまた正妃がいるんだ」


 フェンリスの耳が伏せられた。


「結婚だって、取り消されたか分からなかったから」


「……そっか」


「……怖かったんだよ」


 和真はそっとフェンリスの頭を撫でた。


「……うん」


「だから……帰れなかった」


 フェンリスは小さく頷いた。


     ◇


「……それからは、一人で暮らしてたんだ」


「……九歳から?」


「うん」


 和真は驚いたようにフェンリスを見つめた。


「……大変だっただろ?」


「すっごく大変だったよ!」


 フェンリスは苦笑した。


「だって、僕、お金のことなんて全然知らなかったもん!」


「……ああ、そっか」


「お城にいた頃は、自分で買い物したこともほとんどなかったからね」


 フェンリスは少し恥ずかしそうに笑った。


「最初なんて、何を買うのにいくら必要なのかも分からなくてさ」


「……それは大変だね」


「うん。何度も困っちゃったよ」


 それまで当たり前のように用意されていた食事。


 清潔な服。


 暖かい寝床。


 それらをすべて、自分で何とかしなければならなくなった。


「でも、お母さんが色んなことを教えてくれてたからね」


「……格闘とか?」


「うん! それに、身体強化の魔法も!」


 フェンリスは少し得意そうに笑った。


「だから、森で食べ物を探したり、簡単な仕事を手伝ったりして暮らしてたんだ」


「……そうだったのか」


「大変だったけど、少しずつ慣れていったよ」


 和真は静かに彼女を見つめた。


 九歳。


 自分が九歳だった頃は、祖父母に守られながら暮らしていた。


 まだまだ子供で、誰かの助けが必要だった。


 けれど、フェンリスはその年齢で、たった一人で生きようとしていたのだ。


「……フェンリス」


「ん?」


「よく頑張ったね」


「…………」


 フェンリスの目が丸くなった。


「……え?」


「九歳から一人で暮らすなんて、簡単なことじゃないよ」


 和真は優しく微笑んだ。


「本当に頑張ったと思う」


「…………」


 フェンリスはしばらく和真を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと俯く。


「……えへへ」


 小さな笑い声。


「……そんなふうに言ってもらったの、初めてかも」


 和真は何も言わず、彼女の頭を優しく撫でた。


「……それでね」


 フェンリスは少しだけ顔を上げた。


「十二歳になったとき、冒険者になったんだ!」


「……十二歳で?」


「うん!」


 フェンリスの耳が元気よく立つ。


「お母さんみたいな格闘家になりたかったんだ!」


 その声には、少しだけ誇らしさがあった。


「最初は簡単な依頼ばっかりだったけどね」


「……そうだね。危険な依頼も多いだろうし」


「うん。でも、僕にはお母さんが教えてくれた格闘技術があったから!」


 フェンリスは少し笑った。


「それに、身体強化も得意だったんだ」


「そっか」


「だから、少しずつ強くなっていったよ!」


 母親から教わった拳。


 何度も繰り返した訓練。


 一人で生きるために磨いてきた技術。


 それらが、冒険者としてのフェンリスを支えてくれた。


「……十三歳のときだったかな」


 フェンリスが呟く。


「ある冒険者パーティーに誘われたんだ」


「……パーティー?」


「うん。そこで、リドルに出会ったんだよ」


 その名前を口にした瞬間。


 フェンリスの表情が変わった。


 先ほどまでの懐かしそうな笑みが消え、銀色の耳がゆっくりと伏せられる。


 和真はその変化に気づいた。


「……リドル?」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「……僕の、昔の恋人だった人」


     ◇


「……恋人?」


 和真は少し驚いたように目を丸くした。


「うん」


 フェンリスは静かに頷いた。


「最初はね、パーティーのリーダーだったんだ」


「……そうだったのか」


「うん。人間の男の人で、僕より少し年上だったよ」


 フェンリスは遠い記憶を辿るように目を細めた。


「冒険者になったばかりの僕に、色んなことを教えてくれたんだ」


「……うん」


「依頼の受け方とか、魔物との戦い方とか、街での情報の集め方とか……」


 フェンリスは少し寂しそうに笑った。


「僕、そういうの全然知らなかったからね」


 十三歳のフェンリス。


 戦う力はあっても、世間知らずだった少女。


 そんな彼女にとって、冒険者として先を歩くリドルは、頼もしい存在に見えた。


「……最初は、すごく格好よく見えたんだ」


「……そっか」


「うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「僕が失敗したとき、助けてくれることもあったし……」


 けれど、そこで言葉が止まった。


「……フェンリス?」


「……あの頃はね」


 フェンリスは少しだけ目を伏せた。


「リドルが優しい人だって、思ってたんだ」


 和真は何も言わずに続きを待った。


「……十五歳のとき、僕から好きだって伝えたんだ」


「……フェンリスから?」


「うん」


 フェンリスは恥ずかしそうに笑った。


「すっごく緊張したよ。断られたらどうしようって、何日も悩んだんだ」


「……そっか」


「でも、リドルはいいよって言ってくれたんだ」


 そのときは、本当に嬉しかった。


 初めて好きになった人。


 初めて恋人になれた相手。


 これからも一緒に冒険して、いつかは二人で幸せに暮らせる。


 そんな未来を、フェンリスは疑いもせずに思い描いていた。


「……幸せだったんだね」


 和真が静かに言った。


 フェンリスは少しだけ笑った。


「……うん。あの頃の僕は、幸せだと思ってた」


 その言い方に、和真の胸がざわついた。


「……でもね」


 フェンリスは膝の上で手を握った。


「今思えば……おかしなこと、いっぱいあったんだ」


「……おかしなこと?」


「うん」


 フェンリスは静かに頷いた。


「リドルってね、普段はあんまり優しくなかったんだ」


「…………」


「僕が話しかけても、面倒くさそうにすることが多かったし……」


 フェンリスは小さく息を吐いた。


「一緒にいるときも、僕の話なんてあんまり聞いてくれなかった」


「……それでも、好きだったの?」


「……うん」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「たまにね、優しくしてくれることがあったんだ」


 疲れているときに飲み物を渡してくれた。


 怪我をすれば、気遣う言葉をかけてくれた。


 仕事がうまくいった日には、珍しく褒めてくれた。


「……それが、すごく嬉しかったんだよ」


「…………」


「普段は冷たいのに、たまに優しくしてくれるから……僕のことを好きでいてくれるんだって思ってた」


 和真は黙っていた。


「だから、もっと頑張ろうって思ったんだ」


「……頑張る?」


「うん。もっと強くなれば、もっと役に立てば……リドルも喜んでくれると思って」


 フェンリスの声が少しずつ小さくなる。


「……でも、違ったんだ」


 和真は彼女の手を握り直した。


「……何があったの?」


 フェンリスは、少しだけ目を伏せた。


「……僕が強くなるほど、リドルは冷たくなっていったんだ」


     ◇


 冒険者として経験を積むにつれ、フェンリスの名前は少しずつ知られるようになっていった。


 魔物を素手で打ち倒す牙狼族の少女。


 小柄な身体からは想像できないほどの力を持ち、危険な依頼も次々とこなしていく。


 依頼を達成するたびに、街の人々から感謝された。


 ほかの冒険者から声をかけられることも増えた。


「……僕ね、褒めてもらえるのが嬉しかったんだ」


 フェンリスは小さく笑った。


「お母さんが教えてくれたことが、ちゃんと役に立ってるんだって思えたから」


「……うん」


「それに、僕の力で誰かを助けられるのが嬉しかったんだよ」


 和真は優しく頷いた。


「フェンリスらしいね」


「……えへへ」


 フェンリスは少し照れたように笑った。


「でも……リドルは違ったんだ」


「……どういうこと?」


「僕が褒められると、機嫌が悪くなるようになったんだ」


 フェンリスは視線を落とす。


「最初は理由が分からなかったよ」


 依頼が成功しても、リドルは喜ばない。


 フェンリスが活躍すれば、険しい顔をする。


 周囲の冒険者が彼女を褒めれば、その場から立ち去ってしまうこともあった。


「……僕が何か悪いことをしたのかなって思ってた」


「……フェンリス」


「だから、もっと頑張ろうって思ったんだ」


 フェンリスは小さく笑った。


「リドルが喜んでくれるように、もっと強くなろうって」


 和真の胸が苦しくなる。


 彼女はただ、好きな人に褒めてもらいたかっただけなのだ。


 認めてもらいたかった。


 愛してほしかった。


 そのために、必死で努力していた。


「……でも」


 フェンリスの声が震えた。


「……どれだけ頑張っても、駄目だったんだ」


 和真は何も言わず、彼女を抱き寄せた。


「……うん」


「僕が強くなるほど、リドルは僕のことを嫌そうに見るようになって……」


 フェンリスは俯いた。


「……それでも、僕は好きだったんだよ」


 声が少し掠れる。


「……本当に、大好きだったんだ」


 和真はそっと彼女の背中を撫でた。


「……そっか」


 フェンリスは小さく頷いた。


「……それでね」


 しばらくして、彼女は続きを話し始めた。


「ある日、リドルが久しぶりに二人で冒険しようって言ってくれたんだ」


「……二人で?」


「うん」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「古代遺跡の探索に行こうって」


 その言葉を聞いたとき、フェンリスは飛び上がるほど嬉しかった。


 最近は二人きりで過ごす時間も減っていた。


 話しかけても、冷たくされることが多かった。


 そんなリドルが、自分から誘ってくれたのだ。


「……僕、すっごく嬉しかったんだ」


 フェンリスは小さく呟いた。


「久しぶりに二人きりになれるって……また昔みたいに仲良くできるって思って……」


 和真は静かに続きを待った。


「……でも、それが間違いだったんだ」


     ◇


「……古代遺跡には、転移魔法陣があったんだ」


 フェンリスは膝の上で手を握った。


「リドルは、珍しい遺跡だから一緒に調べようって言ってた」


「……うん」


「僕は何も疑わなかったんだ」


 暗い遺跡。


 冷たい石の壁。


 苔むした床。


 そこに刻まれた、古い魔法陣。


 フェンリスは興味深そうに周囲を見渡していた。


 久しぶりの二人きりの冒険。


 隣には、大好きな恋人がいる。


 それだけで嬉しかった。


「……それでね」


 フェンリスの声が震えた。


「リドルが、魔法陣を近くで見てみろって言ったんだ」


「……うん」


「僕、言われたとおりに近づいたんだよ」


 そのときだった。


 背後から、強い力で押された。


「……え?」


 突然の衝撃。


 足がもつれ、身体が前へ倒れる。


 フェンリスは魔法陣の上に転がった。


「……リドル?」


 驚いて振り返る。


 けれど、リドルは助け起こそうとしなかった。


 ただ、冷たい目でフェンリスを見下ろしていた。


『……これで、ようやく邪魔者が消える』


「……え?」


 意味が分からなかった。


『……リドル? 何言ってるの?』


 フェンリスは慌てて起き上がろうとした。


 けれど、その瞬間。


 足元の魔法陣が光り始めた。


「……えっ!?」


 古代の転移魔法陣は、踏み込んだ者を感知して自動的に起動していた。


 淡い光が床を走り、フェンリスの周囲を囲んでいく。


『リドル!? これ、何!?』


 フェンリスは必死に声を上げた。


 けれど、リドルは動かなかった。


『……お前には、もううんざりなんだよ』


 その言葉に、フェンリスの身体が凍りついた。


『……え?』


『どいつもこいつも、お前ばっかり褒めやがって……』


 リドルは吐き捨てるように言った。


『パーティーのリーダーは俺だぞ。なのに、誰も俺を見やしない』


 フェンリスは目を見開いた。


『……リドル……?』


『お前さえいなくなれば、全部元どおりになる』


 その声には、今まで聞いたことのない憎しみが込められていた。


「……僕ね」


 フェンリスが小さく呟く。


「……何が起きてるのか、分からなかったんだ」


 和真は黙って聞いていた。


「だって……ついさっきまで、一緒に冒険してたんだよ……?」


 フェンリスの瞳が潤み始める。


「僕、嬉しかったんだ。リドルが誘ってくれたことが……」


 和真はそっと彼女の肩を抱いた。


「……うん」


「……でも」


 フェンリスの声が震えた。


「……全部、嘘だったんだ」


     ◇


『……リドル、お願い! 助けて!』


 フェンリスは必死に手を伸ばした。


 魔法陣の光が強くなっていく。


 転移が完了するまで、もう時間がない。


 けれど、リドルは冷たい笑みを浮かべただけだった。


『助けるわけないだろ』


『……え?』


『お前を消すために、わざわざここまで連れてきたんだからな』


 フェンリスの心臓が大きく跳ねた。


『……どういう、こと……?』


『この魔法陣の先は、相当危険な場所らしい。戻ってこられる奴なんていないそうだ』


 リドルは笑った。


『お前も、そこで死ねばいい』


『…………!』


 フェンリスは息を呑んだ。


 逃げようとしても、魔法陣の光が身体を包み始めている。


 必死に足を動かしても、もう間に合わない。


『……やだ……』


 涙が溢れた。


『……リドル……お願い……』


 フェンリスは震える手を伸ばした。


『……僕、何か悪いことした……?』


 リドルは何も答えなかった。


『……僕、もっと頑張るから……』


 声が震える。


『もっと強くなるし、もっと役に立つから……』


 フェンリスは必死だった。


 まだ信じたかった。


 きっと何かの間違いなのだと。


 リドルが本気で自分を殺そうとしているなんて、信じたくなかった。


『……だから……お願い……』


 涙で視界が滲む。


『……僕を、置いていかないで……』


 けれど、リドルの表情は変わらなかった。


『……本当に馬鹿な奴だな』


 その言葉に、フェンリスは顔を上げた。


『俺がお前のことを好きだったとでも思ってたのか?』


『…………え?』


 リドルは冷たく笑った。


『獣人のお前を、本気で愛するわけがないだろ』


 フェンリスの世界が、音を失った。


「…………」


 和真の腕の中で、フェンリスの身体が小さく震える。


「……フェンリス」


「……僕ね」


 フェンリスは俯いたまま続けた。


「……その言葉が、一番辛かったんだ」


 ぽたり、と涙が落ちる。


「……強くなったのが嫌だったとか、邪魔だったとか……」


 声が震えた。


「……そんなことより……」


 フェンリスは両手で顔を覆った。


「……僕のこと、好きじゃなかったって……」


 和真は強く唇を結んだ。


 フェンリスは、震える声で続ける。


「……だから、聞いたんだ」


 古代遺跡。


 光に包まれた魔法陣。


 冷たい目で見下ろす恋人。


 フェンリスは涙を流しながら、最後の望みを込めて尋ねた。


『……僕のこと、一度も好きじゃなかったの?』


 リドルは鼻で笑った。


『獣人のお前を本気で愛するわけがない』


 その瞬間。


 フェンリスの中で、何かが壊れた。


「…………っ」


 和真はフェンリスを抱きしめた。


「……もういいよ」


「……え?」


「辛かったら、無理して話さなくてもいい」


 フェンリスは首を横に振った。


「……ううん」


 涙を拭いながら、和真を見上げる。


「……最後まで、聞いてほしい」


「…………」


「和真には……全部、知ってほしいんだ」


 その真剣な瞳を見て、和真はゆっくりと頷いた。


「……分かった」


 フェンリスは小さく息を吸った。


「……ありがとう」


     ◇


「……そういえば」


 フェンリスは涙を拭いながら、ぽつりと呟いた。


「……靴のことも、言われたんだ」


「……靴?」


「……天馬の靴」


 和真は先ほどの話を思い出した。


 父親から贈られた、大切な魔道具。


 空中を蹴って跳ぶことのできる、特別な靴。


「……お父さんがくれた靴だよね」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「僕ね、リドルに預けてたんだ」


「……預けてた?」


「うん。大切な物だから、俺が保管しておくって言われて……」


 フェンリスは寂しそうに笑った。


「……信じちゃったんだ」


 大好きな恋人。


 何度も一緒に冒険した仲間。


 その相手が、自分の大切な物を守ってくれると言ってくれた。


 だから、何の疑いもなく預けた。


「……でもね」


 フェンリスの声が震えた。


「……売られちゃってたんだ」


「…………!」


 和真の表情が険しくなる。


「……勝手に?」


「……うん」


 フェンリスは頷いた。


「魔法陣の中で、リドルに言われたんだ」


 あの日。


 転移魔法陣の光に包まれながら、フェンリスは必死にリドルへ手を伸ばしていた。


 そんな彼女に、リドルは嘲るように言った。


『そういえば、あの靴もいい値段で売れたぞ』


『……え?』


『お前が大事そうにしてた、あの魔道具だよ』


 フェンリスは目を見開いた。


『……天馬の靴……?』


『ああ。随分と高く売れた』


『……うそ……』


 リドルは冷たく笑った。


『あんな靴、金になる以外の価値なんかないだろ』


 その言葉を聞いた瞬間、フェンリスの目から新しい涙が溢れた。


『……返して……』


『……あ?』


『……お願い……あれは……』


 フェンリスは震える声で訴えた。


『……お父さんが、くれた物なの……』


 リドルは何も答えなかった。


『……大切な……大切な物なの……』


 けれど、彼は最後まで助けようとはしなかった。


「……僕にとってはね」


 フェンリスは小さく呟いた。


「……すごく大切な靴だったんだ」


「……うん」


「お父さんのこと、嫌いになりそうなときもあったけど……」


 フェンリスは涙を拭った。


「……あの靴だけは、ずっと大切にしてたんだよ」


 父親が笑いながら渡してくれた贈り物。


 幼い頃、一緒に過ごした幸せな記憶。


 そして、王宮から逃げ出したとき、自分を助けてくれた靴。


「……それまで、取られちゃったんだ」


 和真は何も言えなかった。


 好きだった人。


 大切な思い出。


 父親からもらった宝物。


 フェンリスは、信じていた相手にそのすべてを踏みにじられていた。


「……フェンリス」


 和真は静かに彼女を抱きしめた。


「……辛かったね」


「…………っ」


「本当に、辛かったね」


 その言葉を聞いた瞬間、フェンリスは声を上げて泣き始めた。


「……うっ……うぅ……」


 和真の服を、ぎゅっと握る。


「……僕……僕ね……」


「……うん」


「……本当に、好きだったんだよ……」


 和真は黙って頷いた。


「……リドルのこと……本当に……」


 涙が止まらない。


「……なのに……」


 フェンリスは顔を埋めた。


「……どうして……あんなこと……」


 和真は何も言わなかった。


 ただ、彼女の身体をしっかりと抱きしめた。


 今は、どんな言葉をかけても足りない気がした。


 だから、せめて一人にはしたくなかった。


     ◇


 どれくらい時間が経っただろう。


 フェンリスの泣き声が、少しずつ落ち着いてきた。


「……ごめんね」


 掠れた声。


「……和真の服、濡らしちゃった」


「気にしなくていいよ」


 和真は優しく答えた。


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


 和真が差し出したティッシュで目元を拭う。


「……それでね」


 フェンリスはゆっくりと話を続けた。


「……転移魔法が発動したんだ」


「……うん」


「リドルの顔が見えなくなって、周りが全部光に包まれて……」


 次の瞬間。


 身体が強く引っ張られるような感覚がした。


 上下も左右も分からない。


 どこへ向かっているのかも分からない。


 ただ、身体のあちこちが痛かった。


「……気がついたら、知らない場所にいたんだ」


「……日本に?」


「……うん」


 フェンリスは頷いた。


「でも、そのときは日本なんて知らなかったから」


 見たことのない建物。


 聞いたことのない音。


 知らない匂い。


 それまで暮らしていた世界とは、何もかもが違っていた。


「……転移したときに、怪我もしちゃってね」


「……そうだったね」


 和真は静かに頷いた。


「足が痛くて、うまく歩けなかったんだ」


 フェンリスは視線を落とす。


「……でも、怖かったから」


「……うん」


「リドルが追いかけてくるかもしれないって……」


 知らない世界。


 見知らぬ人々。


 どこに魔物がいるのかも分からない。


 それでも、見つかったら殺されるかもしれない。


 そんな恐怖だけが、頭の中に残っていた。


「……だから、隠れたんだ」


 フェンリスは小さく呟いた。


「……誰にも見つからないように」


 身体は痛かった。


 お腹も空いていた。


 魔力もほとんど残っていなかった。


 それでも、誰かに助けを求めることはできなかった。


「……僕、もう誰も信じられなかったんだよ」


 その声が震えた。


「……信じた人に、殺されそうになったから」


 和真は何も言わず、フェンリスを抱き寄せた。


「……うん」


「……だからね」


 フェンリスは少しだけ顔を上げる。


「……和真に初めて会ったときも、すっごく怖かったんだ」


「……そっか」


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「知らない男の人が近づいてきて……」


 その瞬間、リドルの顔が頭をよぎった。


 また騙されるかもしれない。


 また傷つけられるかもしれない。


 そんな恐怖で、身体が震えていた。


「……でも」


 フェンリスは少しだけ微笑んだ。


「和真は、僕を怖がらなかったんだよね」


「……うん」


「僕、獣人なのに」


「……それは関係ないよ」


 和真は静かに答えた。


「困ってる子がいたから、助けたかったんだ」


 フェンリスの目が潤んだ。


「……そう言ってくれたんだよね」


「……うん」


 あの日。


 八月九日の夜。


 見知らぬ世界で、傷つき、怯えていたフェンリス。


 そんな彼女を見つけた和真は、決して無理に近づこうとはしなかった。


 怖がらせないように声をかけ、危害を加えるつもりがないことを伝えてくれた。


 そして、立つことさえ辛かったフェンリスを、背負って連れ帰ってくれた。


「……僕ね」


 フェンリスは小さく笑った。


「最初は、和真のことも信じられなかったんだ」


「……うん」


「……また騙されるかもしれないって思ってた」


 和真は静かに頷いた。


「でも、和真は違ったんだ」


 フェンリスは彼の顔を見つめた。


「僕が何かできるから助けたんじゃなくて……」


 涙が一粒、頬を伝った。


「……ただ、困ってたから助けてくれたんだよね」


「……うん」


「……嬉しかったんだ」


 フェンリスは和真の胸に顔を埋めた。


「……本当に、嬉しかった……」


     ◇


 和真はフェンリスを抱きしめたまま、静かに話を聞いていた。


 最初に出会った日のことを思い出す。


 小さな児童公園。


 茂みの中に隠れていた、銀色の髪の少女。


 傷つき、怯えながらも、必死に身を守ろうとしていた姿。


 あのときは、どうしてそこまで人を警戒しているのか分からなかった。


 けれど、今なら分かる。


 彼女は、信じていた人に裏切られていたのだ。


 それも、命を奪われそうになるほどの裏切りを。


「……フェンリス」


 和真はそっと声をかけた。


「……ん?」


「話してくれて、ありがとう」


 フェンリスは顔を上げた。


「……え?」


「辛いことばかりだったと思う。それでも、俺に話してくれて嬉しいよ」


「…………」


「今まで、色んなことを一人で抱えてきたんだね」


 その言葉に、フェンリスの目から新しい涙が溢れた。


「……和真……」


 和真は彼女の頬にそっと触れた。


「……もう、無理に一人で抱えなくていいよ」


「…………っ」


「辛いときは、俺に話してほしい」


 和真は優しく微笑んだ。


「フェンリスが悲しいときは、そばにいるから」


 その瞬間。


 フェンリスは勢いよく和真へ抱きついた。


「……和真ぁ……っ!」


 小さな身体が震える。


 和真は驚きながらも、しっかりと抱きしめ返した。


「……うん」


「……僕……僕ね……」


 フェンリスの声が震えた。


「……ずっと、怖かったんだよ……」


「……うん」


「……また、嫌われるんじゃないかって……」


 和真は何も言わず、彼女の背中を撫でた。


「……和真にも……いつか……」


 フェンリスは涙を流しながら続ける。


「……僕なんていらないって、言われるんじゃないかって……」


 和真の胸が締めつけられる。


 フェンリスは顔を上げた。


「……でも……」


 涙に濡れた瞳。


「……和真は、違うよね……?」


 和真は真っ直ぐに彼女を見つめた。


「……うん」


 そして、そっと頬を撫でる。


「俺は、フェンリスのことが好きだよ」


「…………っ」


「誰かと比べてるわけじゃないし、何かができるから好きになったわけでもない」


 和真は優しく微笑んだ。


「フェンリスだから、好きなんだ」


 その言葉に、フェンリスの瞳が大きく揺れた。


「……和真……」


「これからも、ちゃんと気持ちを伝えるよ」


 和真はそっと彼女を抱き寄せた。


「だから、心配なことがあったら話してほしい」


「…………」


「俺も、ちゃんと聞くから」


 フェンリスは唇を震わせた。


 そして、何度も頷いた。


「……うん……っ」


 涙が止まらなかった。


 けれど、今流れている涙は、先ほどまでとは少し違っていた。


「……ありがとう……」


 フェンリスは和真の胸に顔を埋めた。


「……僕、和真に会えて……本当によかった……」


 和真は優しく微笑んだ。


「俺もだよ」


「……うん……」


 二人はそのまま、しばらく抱き合っていた。


     ◇


 窓の外では、相変わらず雪が降り続いていた。


 吹雪はまだ収まる気配がない。


 けれど、フェンリスは不思議と怖くなかった。


 すぐ隣に、和真がいる。


 その腕が、自分を抱きしめてくれている。


 それだけで、胸の奥が温かかった。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「……一つ、お願いしてもいい?」


「もちろん」


 フェンリスは少し照れくさそうに顔を上げた。


「……もう少し、このままでいたいな」


 和真は優しく笑った。


「いいよ」


「……本当?」


「うん。今日は急いで出かける予定もないしね」


「……えへへ」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、和真の胸元へ顔を埋める。


「……和真、あったかいね」


「フェンリスもあったかいよ」


「……うん」


 大きな尻尾が、ゆっくりと揺れた。


 しばらくして、フェンリスが小さく呟く。


「……僕ね」


「ん?」


「……今、すっごく幸せだよ」


 和真は彼女を見下ろした。


「……そっか」


「うん」


 フェンリスは微笑んだ。


「お母さんがいなくなって、お父さんとも離れて……リドルにも裏切られて……」


 少しだけ、声が震える。


「……もう、誰かを好きになるのなんて嫌だって思ったこともあったんだ」


「……うん」


「でも……和真に会えて、よかった」


 フェンリスは顔を上げた。


「和真を好きになれて、よかった」


 和真は優しく微笑んだ。


「……ありがとう」


「……えへへ」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、少しだけ身体を伸ばす。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「……キスしてもいい?」


 和真は少し驚いた後、柔らかく笑った。


「うん」


 フェンリスは頬を赤くしながら、そっと顔を近づける。


 二人の唇が、静かに重なった。


 長くはない、優しい口づけ。


 唇が離れると、フェンリスは少し照れくさそうに笑った。


「……えへへ」


 和真も微笑んだ。


「……どうした?」


「……嬉しいんだ」


「……そっか」


「うん!」


 フェンリスは、もう一度和真へ抱きついた。


「……大好きだよ、和真」


「俺も大好きだよ、フェンリス」


 その言葉を聞いて、フェンリスの尻尾が大きく揺れた。


 窓の外では、まだ吹雪が続いている。


 白い雪が、二人を外の世界から隔てていた。


 けれど、この部屋の中には、確かな温もりがあった。


 それぞれに悲しい過去を抱え、何度も大切なものを失ってきた二人。


 そんな二人が、遠く離れた世界を越えて出会った。


 そして今、互いの過去を知り、想いを確かめ合っている。


 フェンリスは和真の胸に頬を寄せ、そっと目を閉じた。


 聞こえてくる、穏やかな鼓動。


 自分を包んでくれる、温かな腕。


 そのすべてが、愛おしかった。


「……和真」


「ん?」


「……これからも、ずっと一緒にいたいな」


 和真は彼女の銀色の髪を優しく撫でた。


「……うん」


 そして、静かに微笑む。


「これからも、一緒にいよう」


「……うん!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


 その笑顔は、どこまでも幸せそうだった。


 外では、まだ雪が降り続いている。


 けれど、二人の心を隔てていた過去の痛みは、少しずつ溶け始めていた。


 互いの温もりを確かめるように、二人はもう一度、強く抱きしめ合った。

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