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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十七話 予期せぬ天候

 ――ゴォォォォ……。


 どこか遠くで、低く唸るような音がしていた。


 それは風の音だった。


 けれど、深い眠りの中にいた二人は、まだその異変に気づいていなかった。


「……ん……」


 和真がゆっくりと目を覚ました。


 最初に感じたのは、腕の中にある柔らかな温もりだった。


 胸元に顔を埋めるようにして眠っているフェンリス。


 銀色の髪が枕に広がり、その毛先の淡いピンク色が、薄暗い部屋の中でもかすかに見えている。


 昨夜、二人はようやく互いの想いを確かめ合った。


 長い間、すれ違っていた気持ち。


 言葉にできなかった想い。


 そして、ようやく伝えられた本当の気持ち。


 そのすべてを受け止め合い、二人は初めて結ばれた。


 あれから、フェンリスは何度も和真に抱きつき、なかなか離れようとしなかった。


 結局、眠りにつくまでずっと抱き合っていたのだ。


「……和真……」


 寝言なのか、小さな声が聞こえた。


 和真が髪を優しく撫でると、フェンリスの狼耳がぴくりと動いた。


「……んぅ……」


 ゆっくりと目が開く。


「……おはよう、フェンリス」


「……ん……おはよ……」


 まだ眠たそうな声。


 フェンリスは和真を見上げると、ふにゃりと幸せそうに微笑んだ。


「……えへへ……和真だ……」


「そりゃ、俺だからな」


「……うん……」


 フェンリスは嬉しそうに笑い、もう一度胸元に顔を埋めた。


「……もう少し……こうしてたい……」


「いいけど……まだ夜なのかな?」


「……ん……?」


 二人は何気なく部屋を見回した。


 障子の向こうは暗い。


 普段なら朝日が差し込んでいるはずの窓も、ほとんど光が感じられなかった。


「……まだ夜みたいだね……」


「そうだな。もう一眠りするか?」


「……うんっ……!」


 嬉しそうに返事をしたフェンリスが、和真の身体に腕を回す。


 しかし――。


「あ……悪い、フェンリス。先にトイレ行ってくる」


「……えぇ……」


「すぐ戻るから」


「……絶対?」


「ああ、絶対」


「……じゃあ……待ってる……」


 名残惜しそうに腕を緩めるフェンリス。


 和真はその額に軽く口づけを落とした。


「行ってくる」


「……えへへ……いってらっしゃい……」


 布団から抜け出した、その瞬間だった。


「……寒っ!」


 思わず声が漏れた。


 昨夜まで暖かかった部屋の空気が、妙に冷たく感じられる。


「……なんだ?」


 和真は肩をさすった。


 暖房は動いている。


 それなのに、足元から冷気が這い上がってくるような寒さがあった。


「……和真?」


「ああ、なんでもない。ちょっと寒いだけだよ」


「……布団、あったかいよ……?」


 フェンリスが布団を持ち上げ、小さく手招きする。


「戻ったら入るよ」


「……約束ね……」


「ああ」


 和真は浴衣を羽織り、帯を締めた。


 そして、静かに部屋を出た。


 ――ガラリ。


「……うわっ」


 廊下へ出た途端、思わず身を縮めた。


 寒い。


 明らかに、昨夜とは違う。


 廊下にも暖房は入っているはずなのに、どこからともなく冷たい空気が流れ込んできていた。


 そして――。


 ゴォォォォォッ!!


「……風?」


 建物の外から、凄まじい音が響いた。


 続いて、ガタガタと窓が揺れる。


「……なんだよ、これ……」


 和真は首を傾げながら、廊下を歩き始めた。


 トイレは受付の近くにある。


 そこへ向かう途中、いつもとは違う旅館の様子が目に入った。


 何人かの従業員が慌ただしく廊下を行き来している。


 大きなタオルを抱えた人。


 電話で何かを確認している人。


 窓の外を心配そうに見つめる人。


 その誰もが、どこか落ち着かない様子だった。


「……何かあったのか?」


 和真は不思議に思いながら、受付近くのトイレへ向かった。


 そして、用を済ませて出てきたときだった。


「あの、お客様!」


「はい?」


 受付にいた女性従業員が、和真に声をかけてきた。


「おはようございます。今朝は大変お寒いですね」


「ああ、おはようございます。そうですね……廊下もかなり冷えてますけど、何かあったんですか?」


 女性は少し困ったような表情を浮かべた。


「実は……昨夜遅くから、急激に天候が悪化いたしまして……」


「天候?」


「はい。現在、外はかなり激しい吹雪になっているんです」


「……吹雪?」


「ええ。こちらも、ここまで酷くなるとは予想しておりませんでした」


 和真は受付の奥にある大きな時計へ目を向けた。


 そして――。


「……え?」


 目を疑った。


 時計の針が示していたのは――。


 午前八時二十分。


「……八時!?」


 思わず声が大きくなる。


「はい。もう朝でございますが……」


「いや、だって……外、真っ暗じゃ……」


 女性は静かに頷いた。


「雪雲が非常に厚く、吹きつける雪で視界もほとんどありません。朝になっても、外が暗く見えてしまうんです」


「……そんなに……?」


「よろしければ、こちらをご覧ください」


 女性が受付横の大きな窓を示した。


 和真は窓へ近づき――。


「…………は?」


 言葉を失った。


 そこに広がっていたのは、昨日まで見ていた函館の景色ではなかった。


 白。


 ただ、ひたすらに白い。


 凄まじい勢いで雪が横殴りに吹きつけ、建物の外にある木々すらほとんど見えない。


 積もった雪が風で巻き上がり、窓の向こうを真っ白に覆い尽くしていた。


 ゴォォォォォォッ!!


 建物全体が唸るような風の音。


「……冗談だろ……」


 和真は呆然と呟いた。


 昨日までは、あんなに綺麗な雪景色だったのに。


 クリスマスの函館を歩き、フェンリスと笑い合った。


 そして昨夜、二人は忘れられない時間を過ごした。


 なのに、一夜明けたら――。


「……これじゃ、外に出られないじゃないか……」


「はい。現在は安全のため、お客様には外出をお控えいただくようお願いしております」


 女性が申し訳なさそうに頭を下げる。


 和真はもう一度、窓の向こうを見つめた。


 今日は十二月二十六日。


 本来なら、フェンリスと一緒に帰宅する日だった。


 しかし――。


「……飛行機……大丈夫なのか……?」


 和真の呟きは、窓を叩く激しい風の音にかき消された。


 和真は受付の女性に向き直った。


「あの、今日の飛行機について、何か情報は入っていますか?」


「現在、函館空港では天候による運航への影響が出ているようです。ただ、すべての便の状況をこちらでは把握できておりませんので、ご利用の航空会社に確認していただくのが確実かと……」


「……そうですよね」


「それと、空港までの道路にも影響が出ております。今のところ、旅館からの送迎も見合わせている状況です」


「……なるほど」


 和真は困ったように頭を掻いた。


 飛行機が飛んだとしても、空港まで行けなければ意味がない。


「分かりました。ありがとうございます。とりあえず、部屋に戻って確認してみます」


「はい。何かございましたら、いつでもお申しつけください」


 和真は軽く頭を下げ、受付を後にした。


 廊下を歩きながら、もう一度窓の外へ目を向ける。


 相変わらず視界は真っ白だった。


「……参ったなぁ……」


 思わずため息が漏れる。


 もともと、今日は朝食を済ませてから荷物をまとめ、空港へ向かう予定だった。


 それが、どうやら簡単には帰れそうにない。


 予約していた飛行機はどうなるのか。


 そして、帰れなくなった場合、宿泊先はどうするのか。


 考えなければならないことが、一気に増えてしまった。


「……まずはフェンリスに話さないとな」


 和真は少し足を速めた。


 やがて自分たちの部屋に到着する。


 ――ガラリ。


「……ただいま」


「あっ! 和真っ!」


 布団の中から、ぱっと明るい声が聞こえた。


 フェンリスは和真の姿を見つけると、嬉しそうに笑った。


「おかえりっ! 遅かったね!」


「ああ、ちょっとな……」


「ねぇねぇ! 早くこっちおいでよ!」


 フェンリスが布団を大きく持ち上げた。


 その拍子に、柔らかな白い肩と胸元の肌がちらりと覗く。


「……フェンリス」


「ん?」


「そんなに布団を開けたら寒いだろ」


「だって、和真が入れないじゃん!」


 あまりにも当然のように言われ、和真は思わず苦笑した。


「はいはい」


 すると、待っていましたとばかりにフェンリスが抱きついてくる。


「えへへっ! おかえりっ!」


「ああ、ただいま」


「……ねぇ、和真?」


「ん?」


 フェンリスは少し頬を染めながら、和真の胸元を指先でつついた。


「……服、脱いで?」


「……え?」


「だって……昨日みたいに、ぴったりくっついていたいんだもん……」


 甘えるような声。


 フェンリスはもじもじしながら、さらに身体を寄せてくる。


「……だめ?」


 そんな顔で見つめられては、和真も弱い。


 けれど、今はそれどころではなかった。


「……フェンリス。その前に、ちょっと話があるんだ」


「……お話?」


「ああ。実は、外が大変なことになっててな」


「……え?」


 和真は先ほど受付で聞いた話を説明した。


 昨夜から天候が急激に悪化したこと。


 今は激しい吹雪になっていること。


 そして、今日帰れるかどうかも分からないこと。


 話を聞いていたフェンリスの表情が、少しずつ変わっていく。


「……ふぶき?」


「ああ」


「……そんなにすごいの?」


「すごいなんてもんじゃないぞ。外が真っ白なんだ」


「……えっ!?」


 フェンリスは勢いよく起き上がった。


 そして――。


「ちょっと見てくるっ!」


「あっ、おい!」


 布団から飛び出し、そのまま窓へ向かおうとする。


「フェンリス! 待てって!」


「えっ?」


「その格好!」


「……あっ」


 フェンリスは自分の身体を見下ろした。


 昨夜のまま、何も身につけていなかった。


 和真は慌てて毛布を掴むと、フェンリスの肩から包み込むように掛けた。


「風邪ひくだろ!」


「……えへへ。ありがとっ」


「まったく……」


 フェンリスは毛布を身体に巻きつけたまま、窓へ向かった。


 和真が障子を開ける。


 そして――。


「…………え?」


 フェンリスの動きが止まった。


 窓の向こうに広がっていたのは、真っ白な世界だった。


 ゴォォォォォォッ!!


「……な、なに……これ……」


 猛烈な勢いで雪が舞っている。


 昨日まで見えていた景色は、完全に姿を消していた。


 さらに、二人が何度も一緒に入った客室露天風呂。


 その周囲にも大量の雪が積もり、湯船へ向かう通路は埋もれてしまっていた。


 湯面からは白い湯気が立ち上っているものの、周囲の雪は深く、とてもそのまま入れる状況ではない。


「……お風呂まで……」


「ああ。すごいだろ?」


「……すごいっていうか……」


 フェンリスは唖然としたまま、しばらく窓の外を見つめていた。


 そして、ゆっくり和真を振り返る。


「……和真……どうしよう……?」


「……俺も、それを考えてる」


「……帰れないの?」


「まだ分からない。でも、今日帰るのは難しいかもしれないな」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは小さく呟いた。


 和真はその肩を優しく抱き寄せる。


「とりあえず、服を着ようか。窓際は寒いだろ」


「……うんっ」


 二人は布団のそばへ戻り、浴衣を着直した。


 さらに、部屋の衣装棚に用意されていた厚手の綿入れ半纏を取り出す。


 いわゆる、どてらである。


「おっ、これ暖かそうだな」


「わぁっ! ふかふか!」


 和真は紺色。


 フェンリスはワインレッドに近い赤色。


 二人で袖を通してみると、思っていた以上に暖かかった。


「……あったかぁい……!」


「これなら少しは寒さもマシだな」


「うんっ!」


 フェンリスは嬉しそうに袖を抱きしめた。


 その様子を見て和真は微笑んだが、すぐに携帯電話を取り出す。


「さて……まずは航空会社に連絡してみるか」


「……うん」


 和真は予約情報を確認し、問い合わせ先へ電話をかけた。


 しかし、なかなか繋がらない。


 同じように問い合わせている人が多いのだろう。


 フェンリスは和真の隣へ座り、心配そうにその様子を見守っていた。


 しばらくして、ようやく担当者に繋がった。


「もしもし。本日、函館発の便を予約している四ノ宮と申しますが……」


 和真は予約番号を伝え、現在の運航状況を確認した。


 そして――。


「……えっ……そうですか……」


 電話の向こうから告げられたのは、予想していた以上に厳しい状況だった。


 本日搭乗予定だった便は、すでに欠航が決まっていた。


 さらに、翌日以降も吹雪の影響が続く可能性があり、運航再開の見通しが立っていないという。


「……なるほど。じゃあ、いつ飛べるかは……」


 和真はしばらく説明を聞いた。


 今回の欠航については、手数料なしでキャンセルするか、別の便への振り替えが可能とのことだった。


 ただし、振り替え先の便がいつ運航できるかは分からない。


「……そうですか。できれば、飛べるようになったらすぐ帰りたいんですが……」


 担当者は、運航再開後に優先的な振り替え案内を受けられるよう、希望を登録できると説明した。


 実際の搭乗は空席状況次第になるが、運航の見通しが立った段階で案内を受けられるという。


「分かりました。では、その形でお願いします。運航の見通しが立ったら、連絡をいただけると助かります」


 必要な確認を済ませ、和真は電話を切った。


「……ふぅ……」


「……和真?」


 隣で待っていたフェンリスが、不安そうに顔を覗き込んだ。


「……どうだった?」


「……今日の飛行機、欠航だってさ」


「……えっ!?」


「それだけじゃなくて、明日以降もどうなるか分からないらしい」


「……そんなぁ……」


「とりあえず、飛べるようになったら連絡をもらえるようにしておいたよ」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは小さく頷いた。


 そして、しばらく何かを考えるように首を傾げる。


「…………あっ!」


「ん?」


「和真っ!」


「どうした?」


「僕たち……今日までしか、お部屋予約してないよ!?」


「…………あ」


 和真もようやく気づいた。


 そうだった。


 もともとは三泊四日の旅行。


 今日の朝食を終えたら、荷物をまとめてチェックアウトする予定だったのだ。


「……まずいな」


「……どうしよう……」


「……とりあえず、受付に相談してみよう」


「……うんっ!」


 二人は身支度を整え、受付へ向かうことにした。


 フェンリスは人間の姿に変わり、和真と手を繋いで廊下を歩く。


 その表情は、少し不安そうだった。


「……大丈夫かなぁ……」


「空いてる部屋があれば、なんとかなると思うんだけどな」


「……でも、いっぱいだったら?」


「そのときは、旅館の人と相談して別の方法を考えよう」


「……うん……」


 フェンリスは和真の手をぎゅっと握った。


 和真も優しく握り返す。


 やがて、受付に到着した。


「あっ、四ノ宮様。何かございましたか?」


 先ほどの女性従業員が二人に気づき、声をかけてきた。


「すみません。少し相談したいことがありまして……」


 和真は事情を説明した。


 今日の飛行機が欠航になったこと。


 帰れる日が分からなくなってしまったこと。


 そして、宿泊予約が今日までしかないこと。


 すると、女性は少し安心させるように微笑んだ。


「そういうことでしたら、少々お待ちください。女将をお呼びいたします」


 ほどなくして、奥から上品な着物姿の女性が現れた。


「お待たせいたしました。女将でございます。このたびは大変なことになってしまいましたね」


「あ、いえ……こちらこそ、急な相談ですみません」


「とんでもございません。お帰りになれない状況ですもの。お困りになるのは当然です」


 女将は穏やかに微笑んだ。


「お二人のお部屋についてですが……そのままお使いいただいて構いませんよ」


「……え?」


 和真は思わず聞き返した。


「でも、次の予約が……」


「それがですね。実は、次にご利用予定だったお客様から、少し前にキャンセルのご連絡をいただいていたんです」


「……そうなんですか?」


「はい。今回の天候を心配されて、早めに旅行を取りやめられたそうでして」


 女将は続けた。


「キャンセルの時点では通常の規定が適用され、すでに宿泊料金の全額を頂戴しております。そのため、お二人には追加の宿泊料金をいただかずに、今のお部屋をお使いいただこうと思っております」


「……えっ!?」


 今度はフェンリスが驚いた。


「……む、無料!?」


「はい。何よりも、お客様の安全が第一ですから」


「いや、でも……」


 和真は困惑した。


 次の予約客からキャンセル料を受け取っているとはいえ、自分たちまで無料で泊まらせてもらうのは、さすがに申し訳ない。


「……本当にいいんですか?」


「ええ。どうぞお気になさらないでください」


「……でも……」


 和真はフェンリスと顔を見合わせた。


 フェンリスも、少し申し訳なさそうに首を傾げる。


「……和真。ご飯代くらいは払おうよ……」


「ああ。そうだな」


 和真は女将へ向き直った。


「では、お言葉に甘えさせていただくとしても……せめて食事代だけは払わせてください」


「……お食事代、ですか?」


「はい。三食お願いすることになると思いますし、さすがに全部お任せするわけには……」


 女将は少し考えたあと、にっこりと微笑んだ。


「そういうことでしたら……一つ、ご提案がございます」


「提案ですか?」


「はい。今回、延泊されるお客様には、基本のお食事を無料でご用意する予定なのですが……」


 女将は二人を見つめた。


「せっかくですので、お二人には三食とも、当館でご用意できる一番上のお献立をお召し上がりいただくというのはいかがでしょう?」


「……一番上?」


「はい。その分のお食事代だけ頂戴する形です」


 和真は思わず笑った。


「なるほど……それなら、ぜひお願いします」


「僕もっ! 美味しいご飯、大好き!」


 フェンリスが嬉しそうに手を上げる。


 女将もつられて笑顔になった。


「ふふっ。かしこまりました。それでは、料理長にも伝えておきますね」


「ありがとうございます」


「ありがとうございますっ!」


「いえいえ。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 二人は女将に深く頭を下げ、受付を後にした。


 廊下を歩きながら、フェンリスが和真の顔を見上げる。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……なんとかなったねっ!」


「ああ。本当に助かったよ」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、和真の腕にぎゅっと抱きつく。


「……じゃあ……」


「ん?」


「……まだ、和真と一緒にいられるんだね……」


 その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。


 和真は少し笑った。


「……そういうことになるな」


「……えへへっ……」


 フェンリスは幸せそうに頬を寄せる。


 帰宅の予定はすっかり狂ってしまった。


 けれど、フェンリスにとっては、思いがけず大好きな人との時間が増えたことにもなる。


 二人は手を繋ぎ直し、部屋へ戻っていった。


 ――ガラリ。


「……ただいまぁっ!」


 フェンリスは部屋へ入ると、人間の姿からいつもの狼耳と尻尾のある姿へ戻った。


 そして、さっそくこたつへ向かう。


「……和真っ! こっちこっち!」


「はいはい」


 和真も隣に腰を下ろす。


 フェンリスはすぐに身体を寄せ、和真の腕を抱きしめた。


「……でもさ、和真」


「ん?」


「……これって、もう一泊できるってことだよね?」


「一泊で済むかどうかも分からないけどな」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは少し考えた。


 それから、にっこりと微笑む。


「……じゃあ……いっぱい甘えられるねっ!」


「……そこなのか?」


「……うんっ!」


 迷いのない返事だった。


 和真は思わず笑ってしまう。


「……まったく、フェンリスは……」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに和真へ抱きついた。


 窓の外では、相変わらず吹雪が荒れ狂っている。


 いつ帰れるのか、まだ分からない。


 それでも、まずは宿泊先を確保できた。


 和真はようやく肩の力を抜いた。


「……とりあえず、お茶でも飲むか」


「……うんっ!」


 二人は温かいお茶を淹れ、こたつに足を入れた。


 湯飲みから立ち上る湯気を眺めながら、ようやく一息つく。


 そのときだった。


 ――プルルルルッ!


「……ん?」


 和真の携帯電話が鳴った。


 画面には――。


『みゆ』


「……みゆからだ」


「……みゆ?」


「ああ。ちょっと出るな」


 和真は携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。


「もしもし?」


『和真っ! 大丈夫!?』


 電話に出た途端、みゆの慌てた声が飛び込んできた。


「うわっ! どうしたんだ、そんなに慌てて」


『どうしたじゃないよぉ! 和真、ニュース見た!?』


「ニュース?」


『函館だよ! ものすごい吹雪になってるって! 空港も大変なことになってるみたいだし、今日帰ってくる予定だったでしょ!?』


「ああ……そのことか」


『そのことか、じゃないよ! もうっ! 心配したんだからね!』


 電話の向こうから、みゆが頬を膨らませている姿が目に浮かぶ。


「ごめんごめん。ちょうど連絡しようと思ってたところなんだ」


『……じゃあ、やっぱり帰れないの?』


「ああ。実はな……」


 和真は朝からの出来事を順番に説明した。


 起きたら外が真っ暗だったこと。


 廊下へ出ると異様に寒く、受付で初めて吹雪になっていると知ったこと。


 飛行機が欠航になり、翌日以降の運航も分からないこと。


 そして、旅館側の厚意で、帰れるまで同じ部屋に泊まれることになったこと。


『……そっかぁ……』


 すべて聞き終えたみゆは、大きく息を吐いた。


『じゃあ、しばらく帰れないかもしれないんだね』


「そういうことになるな。飛行機がいつ動くかも分からないし、空港までの道路も通れるか分からないからさ」


『……でも、旅館にいられるなら安心だね』


「ああ。本当に助かったよ」


『ご飯は? ちゃんと食べられるの?』


「それも大丈夫。三食用意してくれることになったよ」


『よかったぁ……』


 みゆの声から、ようやく緊張が抜けた。


『じゃあ、無理して帰ってこようとしちゃだめだからね?』


「分かってるよ」


『和真、そういうとき無茶しそうなんだもん』


「いやいや、さすがにこの吹雪じゃ何もできないって」


『……それならいいけど』


 電話の向こうで、みゆが小さく笑った。


『……それで、フェンリスは?』


「ああ、隣にいるよ」


『元気?』


「ものすごく元気だぞ」


「……ちょっとぉ! 和真っ!」


 隣からフェンリスの抗議の声が上がった。


『あははっ! 本当だ! 元気そう!』


「だろ?」


「……もうっ! 僕だって心配してたんだからね!」


 フェンリスが頬を膨らませる。


 和真は笑いながら、その頭を撫でた。


『ふふっ。じゃあ、フェンリスにも無理しないように伝えてね』


「ああ」


『こっちのみんなにも、僕から事情を話しておくよ』


「助かる。ありがとうな、みゆ」


『うんっ!』


 少しだけ間が空いた。


 そして、みゆが少し声を落とす。


『……ねぇ、和真』


「ん?」


『……フェンリスのこと、よろしくね』


 その言葉には、いつもの冗談めいた響きがなかった。


 和真は隣へ目を向ける。


 フェンリスは不思議そうに首を傾げながら、こちらを見つめていた。


「ああ。任せてくれ」


『……うんっ!』


 みゆの声が、再び明るくなる。


『じゃあ、何かあったらすぐ連絡してね!』


「ああ。また連絡するよ」


『気をつけてね!』


「ありがとう」


 通話が切れた。


「……みゆ、なんて?」


「すごく心配してたよ。あと、みんなにも伝えてくれるってさ」


「……そっかぁ……」


 フェンリスはほっとしたように微笑んだ。


「……帰ったら、みゆにもありがとうって言わなきゃね」


「ああ、そうだな」


 そのときだった。


 ――ピコンッ。


 ――ピコンッ。


 ――ピコンピコンッ!


「……ん?」


 今度は二人の携帯電話が立て続けに鳴り始めた。


「……なんだ?」


「……わっ! 僕のも!」


 二人が画面を開くと、住人たちから次々とメッセージが届いていた。


 リディアからは、天候が回復するまで絶対に無理な移動をしないようにという注意。


 ナディアからは、寒さで身体を冷やさないようにという忠告。


 酒菜からは、ちゃんと食事を取れているかという確認。


 ピピからは、たくさんの驚いた顔文字と一緒に、二人を心配する言葉が送られてきていた。


 ほかの住人たちからも、次々と連絡が入ってくる。


「……ははっ。すごいな、これ」


「……えへへっ! みんな早いね!」


「みゆが伝えてくれたんだろうな」


 二人は並んで座り、それぞれ返事を打ち始めた。


『二人とも無事です。旅館で過ごしているので安心してください。帰れるようになったら連絡します』


『僕も元気だよっ! 心配してくれてありがとう!』


 返信している最中にも、新しいメッセージが届く。


「……あっ、また来た」


「僕のほうもっ!」


「……忙しいなぁ」


「……あははっ!」


 しばらく二人で携帯電話とにらめっこしていたが、ふと顔を上げた瞬間、目が合った。


「…………」


「…………」


 そして――。


「……ぷっ!」


「……あはははっ!」


 二人は同時に笑い出してしまった。


「なんか、すごいことになっちゃったな」


「うんっ! でも、みんな優しいね!」


「ああ。本当にありがたいよ」


 フェンリスは嬉しそうに携帯電話を見つめた。


 そんなとき――。


 ――ピコンッ。


 新しいメッセージが届いた。


 送信者は、みゆだった。


『ねぇねぇ、フェンリス!』


『ところで、和真とうまくいった?』


「…………っ!?」


 フェンリスの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「……み、みゆぅ……!」


「ん? どうした?」


「な、なんでもないっ!」


 慌てて携帯電話を胸元へ引き寄せる。


 和真は不思議そうに首を傾げた。


「……変なメッセージでも来たのか?」


「ち、違うよっ!」


「……そっか」


 和真が自分の携帯へ視線を戻したのを確認してから、フェンリスはもう一度画面を見る。


 少し迷ったあと、指先で文字を打った。


『……うんっ』


 送信。


 たったそれだけなのに、心臓がどきどきしてしまう。


 すぐに既読がついた。


『そっか!』


『よかったね、フェンリス!』


 その返事を見た瞬間、フェンリスの胸がじんわりと温かくなった。


「……みゆ……」


 小さく呟く。


 そして、もう一件。


『それにしても、ラッキーだね!』


『もう少し和真を独り占めできるじゃん!』


「……えへへ……」


 フェンリスは思わず笑顔になった。


 確かに、そうなのだ。


 本当なら、今日はもう帰る予定だった。


 それが吹雪のせいで、まだ和真と二人きりでいられる。


 大変な状況ではあるけれど、正直に言えば少し嬉しかった。


 そんなことを考えていると――。


『でもね!』


『帰ってきたら、今度は僕がしばらく和真を独り占めするからね!』


「……むぅぅ……!」


 フェンリスの頬が膨らんだ。


 すぐに返事を打つ。


『だーめっ!』


 送信。


 数秒後。


『ええええ!?』


『なんでぇ!?』


『僕だって和真にいっぱい甘えたいのにぃ!』


 フェンリスは楽しそうに笑いながら、さらに返信する。


『僕もまだまだ甘えたいもん!』


『ずるいよぉ!』


『えへへっ!』


 そんなやり取りをしているうちに、フェンリスはすっかりご機嫌になっていた。


 携帯電話を置くと、和真の腕にぎゅっと抱きつく。


「……和真っ!」


「ん?」


「……えへへっ!」


「……なんだよ。ずいぶん嬉しそうだな」


「……うんっ!」


「みゆと何か話してたのか?」


「……内緒っ!」


「……そっか」


 和真は苦笑した。


 フェンリスはさらに身体を寄せ、幸せそうに微笑む。


「……和真っ!」


「ん?」


「……もうちょっとだけ、僕が独り占めするねっ!」


「……え?」


「……えへへっ!」


 何のことか分からない和真をよそに、フェンリスは満足そうに尻尾を揺らしていた。


     ◇ ◇ ◇


 それからしばらくして――。


 ――コンコン。


「失礼いたします。ご朝食をお持ちいたしました」


「あっ、はい!」


 和真が返事をすると、仲居が朝食を運んできた。


 温かなご飯。


 脂の乗った焼き魚。


 出汁の香りが広がる味噌汁。


 北海道の食材を使った小鉢に、ふっくらと焼き上げられた卵焼き。


 さらに、小さな海鮮丼まで用意されていた。


「……わぁぁぁっ!」


 フェンリスの目が輝く。


「すっごく美味しそうっ!」


「ふふっ。ありがとうございます」


 仲居は嬉しそうに微笑んだ。


「本日は天候の影響でご朝食が遅くなってしまい、申し訳ございません」


「いえいえ、とんでもないです。こんな状況なのに、ありがとうございます」


「……ありがとうっ!」


 フェンリスも嬉しそうに頭を下げた。


 すると、仲居がもう一つ籠を取り出した。


「それから、こちらもどうぞ」


「……ん?」


 籠の中には、ペットボトルのお茶やジュース、そして個包装されたお菓子が何種類も入っていた。


「……えっ? これもですか?」


「はい。外へ出ることも難しい状況ですので、お部屋で少しでも快適にお過ごしいただければと思いまして」


「……こんなにいただいていいんですか?」


「もちろんでございます。どうぞご自由にお召し上がりください」


「……ありがとうございます!」


「ありがとうっ!」


 仲居は二人に微笑み、一礼した。


「それでは、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」


 扉が閉まる。


 フェンリスは早速、目の前に並べられた朝食へ視線を戻した。


「……和真っ!」


「ん?」


「……食べていい!?」


「ははっ。もちろん」


「いただきまーすっ!」


「いただきます」


 フェンリスはまず焼き魚を一口。


「……んんんっ!」


 途端に、その表情が幸せそうに緩んだ。


「……おいひぃ……!」


「ははっ。飲み込んでから喋ろうな」


「……んっ!」


 ごくんと飲み込む。


「美味しいっ! すっごく美味しいよ、和真!」


「ああ。本当だな」


 和真も焼き魚を一口食べた。


 ほどよく脂が乗っていて、身は柔らかい。


 温かいご飯との相性も抜群だった。


「……これ、いいなぁ」


「……ねっ!」


 続いて、フェンリスは小さな海鮮丼へ手を伸ばした。


「……わぁ……!」


 キラキラした目で器を覗き込む。


「……和真っ! 見て見て! イクラっ!」


「ああ、いっぱい乗ってるな」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに一口頬張った。


「……ん~っ!」


 今にも尻尾を振り回しそうなほど嬉しそうだった。


「……美味しいっ!」


「よかったな」


「……和真も食べてみて!」


「俺のにもあるって」


「……あっ、そっか!」


 自分の器と和真の器を見比べ、フェンリスが照れくさそうに笑う。


「……えへへっ!」


 そんな何気ないやり取りをしながら、二人はゆっくりと朝食を楽しんだ。


 窓の外では、相変わらず吹雪が荒れ狂っている。


 時折、窓がガタガタと音を立てた。


 けれど、温かな部屋の中で食べる朝食は、いつも以上に美味しく感じられた。


「……ごちそうさまでしたぁっ!」


「ごちそうさまでした」


 食事を終える頃には、二人ともすっかり満腹になっていた。


 仲居が食器を下げに来たあと、和真はこたつへ移動する。


「さて……今日はどうするかな」


「……んー……」


 フェンリスも隣に座った。


「……お外、行けないもんね……」


「ああ。さすがにこの天気じゃな」


 和真は窓の外を見る。


 雪は一向に弱まる気配がなかった。


 それどころか、時折さらに強い風が吹きつけている。


「……とりあえず、今日は大人しくしてるしかないな」


「……じゃあ……」


 フェンリスはにっこり笑った。


「……和真と、ずっとくっついてる!」


「……それ、昨日もやってなかったか?」


「昨日だけじゃ足りないもん!」


「……ははっ。そっか」


 和真はテレビをつけた。


 ちょうど朝のニュース番組が流れていた。


 画面には、雪に覆われた函館の街並みが映し出されている。


「……うわぁ……」


「……こりゃ、しばらく動けそうにないな……」


 ニュースでは、交通機関への影響が次々と伝えられていた。


 函館空港の欠航。


 道路の通行止め。


 公共交通機関の運休。


 各地で除雪作業も難航しているらしい。


「……すごいね……」


「ああ。昨日までは普通に観光できたのにな」


「……うん……」


 フェンリスは少しだけ真剣な表情で画面を見つめた。


 そして、和真の腕に抱きつく。


「……でも、僕たちが無事でよかったね」


「……そうだな」


 和真はフェンリスの頭を撫でた。


「無理して移動するより、ここで待ってるほうがずっと安全だよ」


「……うんっ!」


 しばらくニュースを見ていた二人だったが、やがてバラエティ番組へ切り替えた。


 温かなこたつ。


 柔らかい座布団。


 そして、先ほど仲居からもらったお菓子と飲み物。


 フェンリスはクッキーの袋を開け、一枚取り出した。


「……和真っ!」


「ん?」


「……あーん!」


「……ん?」


「あーんっ!」


 フェンリスが嬉しそうにクッキーを差し出してくる。


 和真は苦笑しながら口を開けた。


「……あーん」


 ぱくっ。


「……美味しい?」


「ああ、美味しいよ」


「……えへへっ!」


 今度は和真が一枚取り出した。


「ほら、フェンリスも」


「……あーんっ!」


 ぱくっ。


「……ん~っ! 美味しいっ!」


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


「……和真に食べさせてもらうと、もっと美味しい気がする!」


「気のせいじゃないか?」


「……気のせいじゃないもん!」


「ははっ。そうかそうか」


「……もうっ!」


 フェンリスは頬を膨らませたが、すぐに笑顔へ戻った。


 そして、和真の肩にこてんと頭を預ける。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……なんか、こういうのもいいね」


「こういうの?」


「……うんっ!」


 フェンリスはこたつの中で足を伸ばした。


「……何も予定がなくて……どこにも行かなくて……ただ、ずーっと一緒にいるの」


 和真は少しだけ考えた。


 確かに、旅行に来てからは観光や買い物で忙しく過ごしていた。


 それも楽しかったが、こうして何もせずに過ごす時間も悪くない。


「……そうだな。たまには、こういうのもいいかもな」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、もう一度テレビへ視線を戻した。


 番組では、芸人たちが何やら面白いことをしている。


 フェンリスは時々声を上げて笑い、そのたびに尻尾をぱたぱたと揺らしていた。


 そんな姿を見ているうちに、和真はふと思いついた。


 こたつの中で、そっと足を伸ばす。


 そして――。


 つんっ。


「……ん?」


 フェンリスが首を傾げた。


 足先に、何かが触れたのだ。


 ちらりと和真を見る。


 和真は何食わぬ顔でテレビを見ている。


「…………」


 もう一度。


 つんっ。


「……和真?」


「んー?」


「……今、何かした?」


「……何も?」


「……ふぅん……」


 フェンリスはにこにこと微笑んだ。


 そして――。


 つんっ。


「……おっ?」


 今度は和真の足に、フェンリスの足が触れた。


「……仕返しっ!」


「……おいおい」


「……えへへっ!」


 つんっ。


 つんつんっ。


 和真が足を動かせば、フェンリスも負けじと動かす。


「……こらこら」


「和真が先にやったんだもん!」


「それはそうだけどさ」


「……えいっ!」


「うわっ!」


 和真が足を引っ込めると、フェンリスが追いかける。


 今度は和真が反撃。


 こたつの中で、小さないたずら合戦が始まった。


「……あははっ! 和真っ! くすぐったいってばぁ!」


「そっちだってやり返してくるだろ!」


「だってぇ!」


 フェンリスは笑いながら身をよじる。


 最初は足先だけだった。


 けれど、次第にいたずらはエスカレートしていく。


「……えいっ!」


「うわっ、ちょっ!」


 フェンリスが手を伸ばし、和真の脇腹をくすぐった。


「こらっ! それは反則だろ!」


「……あはははっ!」


 フェンリスは楽しそうに笑っている。


 和真も負けじと手を伸ばした。


「……それなら、こっちも!」


「……きゃははっ! ちょっ、和真ぁっ!」


 フェンリスは笑いながら逃げようとする。


 しかし、こたつに入ったままなので、うまく逃げられない。


「……あははっ! だめっ! くすぐったいってばぁ!」


「先にやったのはフェンリスだろ!」


「……ご、ごめんってばぁ!」


 笑いすぎて涙目になったフェンリスが、和真の腕を掴む。


 その拍子に身体が傾いた。


「……わっ!?」


「……おっと!」


 和真は咄嗟に、フェンリスを支えようとした。


 しかし――。


「……ひゃんっ!?」


「…………っ!?」


 伸ばした手が、思わぬ場所に触れてしまった。


 フェンリスの胸だった。


 しかも、支えようとした拍子に、一瞬だけ柔らかく握ってしまう。


「…………」


「…………」


 二人の動きが、ぴたりと止まった。


 和真は慌てて手を離した。


「……わ、悪いっ!」


「…………っ」


 フェンリスの顔が、みるみる赤くなっていく。


「……か、和真……」


「い、今のは、わざとじゃなくて……!」


「……う、うん……分かってる……」


 フェンリスは胸元を押さえながら、もじもじと俯いた。


「……でも……びっくりしたぁ……」


「……ごめん」


「……ううん……」


 少しだけ沈黙。


 テレビからは、芸人たちの明るい笑い声が響いている。


 しかし、二人は画面を見ていなかった。


 フェンリスはちらりと和真を見る。


 和真も、同じタイミングでフェンリスを見た。


「…………」


「…………」


 目が合う。


 そして、二人とも慌てて視線を逸らした。


 昨夜、ようやく結ばれた二人。


 あれほど近くで触れ合ったはずなのに、こういう何気ない瞬間には、まだどうしようもなく照れてしまう。


 フェンリスはそっと和真の袖を掴んだ。


「……ねぇ、和真……」


「……ん?」


「……あのね……」


 フェンリスは少しだけ迷ったあと、小さく微笑んだ。


「……怒ってないよ……?」


「……え?」


「……だから……そんなに謝らなくても大丈夫……」


 和真はフェンリスを見つめた。


 頬を赤らめながらも、彼女は優しく笑っていた。


「……そっか。ありがとう」


「……えへへっ……」


 その笑顔を見ていると、和真はどうしようもなく愛おしくなった。


 和真はそっとフェンリスの手を握った。


「……フェンリス」


「……ん?」


「……その……」


 少しだけ言葉に迷う。


 それでも、今度は自分の気持ちを隠さずに伝えたかった。


「……布団、行かないか?」


「…………っ」


 フェンリスの耳がぴくりと立った。


 頬がさらに赤くなる。


「……う、うん……」


 小さく頷いた。


 和真が立ち上がると、フェンリスも後を追うように立ち上がった。


 二人は手を繋ぎ、まだ敷かれたままの布団へ向かう。


 布団に入ると、和真はフェンリスを後ろからそっと抱きしめた。


「……和真……」


「……ん?」


「……えへへ……」


 フェンリスは、自分のお腹の前で重なった和真の腕を抱きしめた。


 そして、その手を両手で包み込む。


「……もっと……ぎゅってして……?」


「ああ」


 和真は優しく腕に力を込めた。


 フェンリスは幸せそうに目を閉じる。


「……あったかい……」


「そうだな」


「……和真の手……好き……」


「……手?」


「……うん……」


 フェンリスは和真の手を頬に寄せた。


「……大きくて……あったかくて……優しいから……」


 そして、少しだけ照れたように振り返る。


「……もっと……くっついてもいい……?」


「もちろん」


 フェンリスは嬉しそうに笑うと、身体の向きを変え、和真の胸にそっと抱きついた。


「……和真……」


「……フェンリス……」


 自然と顔が近づく。


 和真がそっと額に口づけると、フェンリスは目を閉じた。


 続いて、唇が重なる。


 一度。


 そして、もう一度。


 今度はフェンリスのほうから、和真へ口づけた。


「……えへへ……」


「……どうした?」


「……僕からも、したかったんだもん……」


「……そっか」


 和真は優しく微笑んだ。


 フェンリスはその笑顔を見つめ、もう一度抱きつく。


「……大好き……」


「……俺もだよ」


 その言葉を聞くたびに、フェンリスは幸せそうに笑った。


 昨日まで、こんなふうに互いの想いを伝え合える日が来るとは思っていなかった。


 ずっと好きだった。


 ずっと傍にいたかった。


 けれど、嫌われるのが怖くて、気持ちを伝えられずにいた。


 今は違う。


 こうして抱きしめてもらえる。


 好きだと言ってもらえる。


 そして、自分から好きだと伝えられる。


 フェンリスは和真の胸に頬を寄せた。


「……和真……」


「ん?」


「……僕、今……すっごく幸せ……」


 和真はその髪を優しく撫でた。


「……俺もだよ、フェンリス」


「……えへへ……」


 二人はもう一度、ゆっくりと唇を重ねた。


 窓の外では、相変わらず吹雪が荒れ狂っている。


 けれど、布団の中には、二人の温もりがあった。


 互いの手を握り、名前を呼び合い、何度も抱きしめ合う。


 そして、互いの気持ちを確かめながら、二人だけの親密な時間を過ごした。


 どれくらい時間が経っただろう。


 部屋の中は、いつの間にか静けさを取り戻していた。


 窓の外から聞こえてくるのは、相変わらず激しい風の音。


 けれど、二人が身を寄せ合っている布団の中は、穏やかな温もりに満ちていた。


「……えへへ……」


 フェンリスが小さく笑った。


 何も身につけないまま、和真の胸に頬を寄せている。


 銀色の髪は少し乱れ、頬にはまだ淡い赤みが残っていた。


「……どうした?」


「……んーん……」


「なんだよ、気になるな」


「……えへへっ。なんでもないよ……」


 そう言いながらも、フェンリスは嬉しそうに和真へ抱きついた。


 ふわふわの尻尾が布団の中でゆっくりと揺れている。


 和真はその髪を優しく撫でた。


「……幸せそうだな」


「……うんっ!」


 フェンリスは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。


「……だって、幸せだもん!」


「……そっか」


「……和真は?」


「ん?」


「……和真も……幸せ?」


 少しだけ不安そうな問いかけ。


 和真は微笑むと、フェンリスの額にそっと口づけた。


「ああ。すごく幸せだよ」


「…………っ!」


 フェンリスの頬が、ぱっと赤くなった。


「……えへへへ……」


「……なんだよ、その笑い方」


「……だってぇ……」


 フェンリスは照れくさそうに胸元へ顔を埋めた。


「……嬉しいんだもん……」


 和真はその背中を優しく抱きしめた。


 しばらくすると、フェンリスは身体を少し離し、自分のお腹にそっと手を添えた。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……赤ちゃん……できたらいいなぁ……」


 ぽつりと呟いた。


 その声は、とても穏やかだった。


 和真はフェンリスの手元へ目を向けた。


「……赤ちゃんか」


「……うん……」


 フェンリスは自分の下腹部を優しく撫でながら、幸せそうに微笑んだ。


「……僕ね……いつか、和真の赤ちゃんを産みたいなって……」


 少し恥ずかしそうに、和真を見上げる。


「……ずっと、思ってたんだ……」


 和真はその手に、自分の手を重ねた。


「……うん。俺も、いつかそうなれたら嬉しいよ」


「…………っ!」


 フェンリスの瞳が大きく開いた。


「……ほ、本当……?」


「ああ」


「……えへへっ……!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……じゃあさ……和真に似た子かなぁ……それとも、僕に似るかなぁ……?」


「……どうだろうな」


「……もしね、狼耳と尻尾があったら……すっごく可愛いと思わない?」


「ははっ。そうだな」


「……きっと、ふわふわなんだろうなぁ……」


 フェンリスは楽しそうに想像を膨らませていた。


「……でも、和真に似てるのもいいなぁ……」


「俺に?」


「……うんっ!」


 フェンリスはにっこり笑った。


「……優しくて、かっこよくて……」


「……おいおい」


「……僕の大好きな和真にそっくりだったら……きっと毎日ぎゅーってしちゃう!」


 和真は思わず笑った。


「それじゃ、甘やかしすぎじゃないか?」


「……えへへっ! そうかなぁ?」


「絶対そうだと思うぞ」


「……じゃあ、和真がちゃんと叱ってね!」


「……俺が?」


「……うんっ!」


 フェンリスは何の迷いもなく頷いた。


「……僕はいっぱい甘やかすから!」


「……ははっ。役割分担が決まってるんだな」


「……えへへっ!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 まだ何も決まっていない、遠い未来の話。


 それでも、こうして二人で想像するだけで、胸が温かくなった。


「……和真……」


「ん?」


「……大好きっ!」


 フェンリスは和真の首へ腕を回し、ぎゅっと抱きついた。


「俺もだよ、フェンリス」


 和真も優しく抱きしめ返す。


 フェンリスは嬉しそうに目を閉じた。


 そして、もう一度唇を重ねようとした――。


 そのときだった。


 ――コンコン。


「…………っ!?」


 二人の身体が、同時に跳ねた。


『四ノ宮様。失礼いたします。女将でございます』


「……えっ!?」


「……わわわっ!?」


 フェンリスは慌てて和真の顔を見た。


「……ど、どうしようっ!?」


「と、とりあえず服!」


「……う、うんっ!」


 二人は大慌てで布団から飛び出した。


 和真は脱いでいた浴衣を掴み、急いで袖を通す。


 フェンリスも浴衣を探し始めた。


「……あれっ!? あれぇ!?」


「どうした!?」


「……僕の浴衣、どこぉ!?」


「そこ! 布団の横!」


「……あっ!」


 フェンリスは慌てて浴衣を拾い上げた。


 しかし、焦っているせいか、なかなか上手く着られない。


「……あわわっ!」


「落ち着けって!」


「……だ、だってぇ!」


 和真は自分の帯を締め終えると、フェンリスの着付けを手伝った。


 ようやく浴衣を整えたところで、フェンリスが何かに気づく。


「……あっ!」


「今度はなんだ!?」


「……耳っ!」


「……あっ!」


 フェンリスは慌てて人間の姿へ変わった。


 銀色の髪から狼耳が消え、ふわふわの尻尾も姿を隠す。


「……よしっ!」


「……だ、大丈夫かな!?」


「大丈夫……だと思う!」


 二人は顔を見合わせた。


 どちらも頬が赤い。


「……和真っ! 髪!」


「……え?」


「……ちょっと跳ねてる!」


「うわっ、本当だ!」


 和真が慌てて髪を整える。


 フェンリスも自分の髪を手櫛で直した。


 そして、ようやく準備が整った。


「……よし」


 和真は一度深呼吸する。


「お待たせしました!」


 扉を開けると、そこには穏やかな笑顔を浮かべた女将が立っていた。


「突然失礼いたしました。お休みのところでしたでしょうか?」


「い、いえ! 大丈夫です!」


 和真の声が、少しだけ裏返った。


 女将は特に気にした様子もなく、丁寧に頭を下げる。


「先ほどお話ししておりました、今後のご宿泊についてですが、正式に方針が決まりましたので、ご説明に参りました」


「あっ、ありがとうございます」


 和真はほっと胸を撫で下ろした。


 その横から、フェンリスもそっと顔を出す。


「……こ、こんにちは……」


「ふふっ。こんにちは」


 女将は優しく微笑んだ。


「まず、ご宿泊についてですが……吹雪が収まり、お帰りいただける状況になるまで、引き続きこちらのお部屋をお使いくださいませ」


「……本当にいいんですか?」


「はい。追加の宿泊料金も頂戴いたしません」


「……ありがとうございます」


「それから、お食事についてでございます」


 女将は続けた。


「今回、足止めになってしまったお客様には、基本のお食事を無料でご提供することにいたしました」


「……えっ!? 食事もですか?」


「はい。ですが、四ノ宮様には先ほど、ぜひお食事代をお支払いしたいとお申し出いただきましたので……」


 女将はにっこりと微笑んだ。


「ご希望どおり、三食とも当館でご用意できる最上級のお献立に変更させていただきます」


「……あっ、なるほど」


「もちろん、そちらについては追加のお食事代を頂戴いたしますが、料理長にも腕を振るってもらう予定でございます」


「……わぁぁっ!」


 フェンリスの目が輝いた。


「……楽しみっ!」


 女将はその様子を見て、嬉しそうに微笑む。


「ふふっ。お口に合えば幸いでございます」


「ありがとうございます。楽しみにしています」


「……ありがとうっ!」


 続いて、女将は少し表情を改めた。


「それから、売店の商品についてもご案内がございます」


「……売店?」


「はい。現在、交通機関が止まっている関係で、新しいお客様がいつお越しになれるか分からない状況でございます」


 女将は申し訳なさそうに微笑んだ。


「そこで、賞味期限の近いお菓子や食品につきましては、現在ご宿泊いただいている皆様へ無料でお配りすることにいたしました」


「……えっ? 無料で?」


「はい。このままでは廃棄することになってしまいますので、皆様にお召し上がりいただければ、こちらとしても大変ありがたいのです」


 和真は少し驚きながら頷いた。


「……なるほど」


「後ほど、仲居がお部屋までお持ちいたしますね」


「ありがとうございます」


 そして、女将は最後の説明に入った。


「それから、お帰りの際の交通手段についてでございます」


 和真は思わず背筋を伸ばした。


「……交通手段?」


「はい。現在、バス会社と連絡を取りまして、吹雪が収まり、道路の安全が確認できましたら、空港までお送りできるよう手配を進めております」


「……本当ですか!?」


「はい。運行可能となり次第、こちらからご案内できる予定でございます」


 和真は思わず深く頭を下げた。


「……それは本当に助かります!」


「いえいえ。皆様に安全にお帰りいただくことが何より大切ですので」


 女将は穏やかに微笑んだ。


「もちろん、天候によっては数日かかる可能性もございます。その間はどうぞ、こちらでゆっくりお過ごしくださいませ」


「……ありがとうございます」


「……ありがとうっ!」


 二人は揃って頭を下げた。


 女将も丁寧に一礼する。


「それでは、失礼いたします。何かお困りのことがございましたら、遠慮なくお申しつけください」


 そう言って、女将は次の部屋へ向かっていった。


 和真は扉を閉めると、大きく息を吐いた。


「……ふぅぅ……」


「……和真ぁ……」


 フェンリスも同じように息を吐いた。


「……びっくりしたぁ……」


「……俺もだよ」


 二人は顔を見合わせる。


 そして――。


「……ぷっ」


「……あはははっ!」


 思わず笑い出してしまった。


「……さっき、すっごく慌てちゃったね!」


「そりゃ、あのタイミングでノックされたらな!」


「……えへへっ!」


 フェンリスは頬を赤らめながら笑った。


「……でも、間に合ってよかったね……」


「ああ。本当にな」


 和真は苦笑しながら、フェンリスの頭を撫でた。


「……それにしても、旅館の人たちには感謝しないとな」


「……うんっ!」


 フェンリスは嬉しそうに頷く。


「すっごく優しい人たちだね!」


「ああ。帰るときには、ちゃんとお礼しよう」


「……うん!」


 それからしばらくして――。


 ――コンコン。


「失礼いたします。売店の商品をお持ちいたしました」


「あっ、はい!」


 和真が扉を開ける。


 そこには、大きな籠を抱えた仲居が立っていた。


「お待たせいたしました。こちらが、お配りしている商品でございます」


 仲居が籠を差し出す。


 その中には、北海道のお菓子がぎっしりと詰め込まれていた。


「……わぁぁぁっ!?」


 フェンリスが思わず声を上げる。


「……すっごい量!」


「ふふっ。お好きなものをお選びくださいませ」


 和真とフェンリスは、籠の中を覗き込んだ。


 チョコレート菓子。


 ミルクを使った焼き菓子。


 クッキー。


 小さなケーキ。


 北海道限定と書かれたお菓子まである。


「……和真っ! これ美味しそう!」


「ああ、いいな」


「……あっ! こっちも!」


「おっ、それも美味そうだな」


 フェンリスは楽しそうに商品を眺めていた。


 和真もいくつか選ぶ。


「じゃあ、これと……これをお願いします」


「……僕はこれっ!」


 二人は合わせて数種類のお菓子を手に取った。


「ありがとうございます。では、こちらをお返ししますね」


 和真が残りの籠を差し出す。


 すると、仲居は少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「あの……もしよろしければ、残りもすべてお持ちいただけませんか?」


「……えっ?」


「……全部!?」


 二人は驚いて顔を見合わせた。


「実は、どれも賞味期限があと数日しかございませんで……」


「……なるほど」


「このままですと、廃棄することになってしまいますので……」


 仲居は小さく頭を下げた。


「お召し上がりいただけると、大変ありがたいのですが……」


 和真はもう一度、籠の中を覗いた。


 確かに、どの商品も賞味期限が近い。


 しかし、まだ十分に食べられるものばかりだった。


「……そういうことでしたら、ありがたくいただきます」


「……えっ!? いいの、和真!?」


「ああ。せっかくだしな」


 和真は笑った。


「二人で食べきれなかったら、帰ってからみんなに分ければいいだろ?」


「……あっ!」


 フェンリスの顔がぱっと明るくなった。


「……そっかぁ!」


 そして、嬉しそうに笑う。


「……じゃあ、みんなにもお土産が増えるねっ!」


「ああ」


 仲居は安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。それでは、こちらに置かせていただきますね」


 大きな籠が部屋へ運び込まれた。


「……すみません。こんなにいただいてしまって」


「いえいえ。こちらこそ、助かります」


 仲居は丁寧に頭を下げる。


「それでは、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」


「ありがとうございます」


「……ありがとうっ!」


 扉が閉まった。


 二人は改めて、大量のお菓子を見つめる。


「…………」


「…………」


 しばらく沈黙。


 そして――。


「……すごい量だな」


「……すごいね……」


 フェンリスは籠の中をじっと見つめていた。


 やがて、和真を見上げる。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……これ……お菓子パーティーできるね!」


「……ははっ! 確かにな!」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、和真の腕に抱きつく。


「……でもさ、和真」


「ん?」


「……なんか、すごいね」


「何が?」


「……だって、吹雪で帰れなくなっちゃったのに……」


 フェンリスはお菓子の籠へ視線を向けた。


「……お部屋はそのまま使えて、ご飯も豪華になって……お菓子までいっぱいもらっちゃって……」


「……そうだな」


「……なんだか、得しちゃってるみたい……」


 和真は少し笑った。


「でも、旅館の人たちも大変なんだぞ。そこは忘れないようにな」


「……うんっ!」


 フェンリスは素直に頷いた。


「……だから、帰るときにいっぱいお礼しようね!」


「ああ。そうだな」


 フェンリスは満足そうに微笑んだ。


 そして――。


「……でもね……」


「ん?」


 和真の腕に、ぎゅっとしがみつく。


「……僕が一番嬉しいのは、お菓子でもご飯でもないんだよ?」


「……そうなのか?」


「……うんっ!」


 フェンリスは和真を見上げた。


「……和真と、もう少し一緒にいられることっ!」


 満面の笑みだった。


 和真はその笑顔を見つめ、思わず頬を緩める。


「……そっか」


「……えへへっ!」


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


「……だからね、帰れるまでは、いっぱい甘えるからねっ!」


「……もう十分甘えてないか?」


「……まだまだ足りないもん!」


「……ははっ。分かったよ」


「……やったぁっ!」


 フェンリスは嬉しそうに抱きついた。


 そのまま二人は、お菓子をいくつか選んでこたつへ向かった。


 テレビをつけ、温かいお茶を淹れる。


 フェンリスは和真の隣にぴったりと座り、肩に頭を預けた。


「……和真っ!」


「ん?」


「……これ、食べてみて!」


 フェンリスが小さなチョコレート菓子を差し出す。


「おっ、ありがとな」


「……えへへっ!」


 和真が食べると、フェンリスは嬉しそうに尋ねた。


「……美味しい?」


「ああ。結構好きな味だな」


「……じゃあ、僕も!」


 フェンリスも一つ口へ運んだ。


「……ん~っ! おいしいっ!」


「ははっ。よかったな」


 テレビでは、昼のバラエティ番組が流れていた。


 二人は時折笑いながら、お菓子をつまんだ。


 昼食には、料理長が用意した温かな蟹料理や鍋が運ばれてきた。


 朝食が遅かったこともあり、二人は少しずつゆっくりと味わった。


 フェンリスは蟹の身を口に運ぶたびに、嬉しそうに目を細めていた。


「……和真っ! これ、すっごく美味しいっ!」


「本当だな。出汁もいい味してる」


「……えへへっ!」


 食事を終えると、再びこたつへ。


 窓の外では、相変わらず吹雪が続いている。


 けれど、暖かな部屋で寄り添う二人には、どこかゆったりとした時間が流れていた。


 フェンリスは和真の腕に抱きついたまま、テレビを眺めている。


 ときどきお菓子を食べ、ジュースを飲み、面白い場面では声を上げて笑った。


「……あははっ! 和真っ! 今の見た!?」


「ああ、見た見た」


「……あはははっ!」


 その笑い声につられて、和真も笑ってしまう。


 しばらくすると、フェンリスは和真の肩に頭を預けた。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……なんか、こういう時間もいいね」


「こういう時間?」


「……うんっ」


 フェンリスは少しだけ身体を寄せた。


「……どこにも行かなくて……何も予定がなくて……」


 そして、にっこり微笑む。


「……ただ、和真と一緒にいるだけ……」


 和真はその頭を優しく撫でた。


「……そうだな」


「……えへへっ」


「旅行に来てから、ずっと歩き回ってたしな。たまには、こういう日もいいかもしれないな」


「……うんっ!」


 フェンリスは幸せそうに目を閉じた。


 しばらく、何も言わずに寄り添う。


 テレビの音。


 時計の針が進む音。


 そして、窓の外から聞こえてくる風の音。


 いつの間にか、午後の時間がゆっくりと過ぎていた。


 ふと、和真が窓の外へ目を向ける。


「……まだ降ってるなぁ……」


 フェンリスも顔を上げた。


「……ん?」


 そして、同じように窓を見る。


 外は朝と変わらず、白く霞んでいた。


「……すごいね……」


「ああ。明日も帰れないかもしれないな」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは少し考えるように呟いた。


 けれど、その尻尾はゆっくりと左右に揺れている。


 和真はそれに気づき、苦笑した。


「……フェンリス」


「ん?」


「……ひょっとして、ちょっと嬉しい?」


「…………っ!」


 フェンリスの耳が、ぴんっと立った。


「……え、えへへ……」


「……やっぱり」


「……だってぇ……」


 フェンリスは和真に抱きついた。


「……もっと一緒にいたいんだもん……」


 和真はその背中を優しく抱きしめ返した。


「……そうだな。俺も、こうして二人で過ごせるのは嬉しいよ」


「……えへへっ!」


「でも、みんなも心配してるだろうし、帰れるようになったらちゃんと帰ろうな」


「……うんっ!」


 フェンリスは素直に頷いた。


 そして、少しだけ悪戯っぽく笑う。


「……じゃあ、それまでは……」


「ん?」


「……和真は、僕のものっ!」


「……ははっ。はいはい」


「……はいは一回っ!」


「はい」


「……えへへっ!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そして、再びテレビへ視線を戻す。


 窓の外では、白い雪が絶え間なく舞い続けていた。


 やがて、部屋の時計が夕方を告げる。


 しかし、吹雪が収まる気配は、まだどこにもなかった。


 ――ゴォォォォォッ!!


「……うわぁ……」


 フェンリスが窓の外を見つめながら、小さく声を漏らした。


 先ほどよりも、さらに風が強くなったように感じられる。


 外はすっかり暗くなり、窓に吹きつける雪が絶え間なく舞い続けていた。


「……すごいなぁ」


 和真も隣に立ち、窓の外を眺める。


 朝からずっと降り続いている雪。


 今では庭の植木も半分以上埋もれ、昨日まで綺麗に整えられていた景色は、まるで別世界のようになっていた。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……明日もこんな感じなのかなぁ?」


「どうだろうな。天気予報じゃ、まだしばらく荒れるみたいだけど」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは少しだけ首を傾げた。


 そして、ふと露天風呂へ視線を向ける。


「……あっ」


「どうした?」


「……お風呂……」


「ああ……」


 和真も同じ方向を見る。


 部屋に備えつけられた露天風呂。


 昨日までは、綺麗な雪景色を眺めながら楽しむことができた。


 しかし今は、湯船までの通路に大量の雪が積もっている。


 湯船そのものからは白い湯気が立ち上っているものの、周囲はすっかり雪に覆われていた。


「……あれじゃ、入れないな」


「……うん……」


 フェンリスは少し残念そうに呟いた。


 和真は部屋の案内を手に取る。


「えーっと……」


 幸い、この客室には露天風呂とは別に、小さな檜風呂も用意されていた。


 そちらは屋内にあるため、吹雪の影響を受けることはない。


 さらに、旅館の大浴場も利用できる。


「まあ、檜風呂もあるし、大浴場に行ってもいいな」


「……んー……」


 フェンリスは考え込んだ。


「……大浴場だと、和真と一緒に入れないよね?」


「そうだな」


「……じゃあ、やだっ!」


「……即答かよ」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……だって、和真と一緒がいいんだもん!」


「……そっか」


 和真は苦笑しながら頭を撫でる。


「じゃあ、檜風呂にするか?」


「……うーん……」


 フェンリスはもう一度、窓の外へ目を向けた。


 そして――。


「……和真っ!」


「ん?」


「……露天風呂、入ろっ!」


「…………え?」


 和真は思わず聞き返した。


「……今、なんて?」


「……露天風呂っ!」


「いやいやいや! 外、見えてるよな!?」


「……うんっ!」


「ものすごい吹雪だぞ!?」


「……うんっ!」


「……分かってて言ってるのか?」


「……えへへっ!」


 フェンリスは満面の笑みだった。


「……だってさ、あんなに雪が降ってる中でお風呂に入ったら、すっごく気持ちよさそうじゃない?」


「……まあ、気持ちは分かるけど……」


「……ねっ? ねっ?」


 フェンリスは和真の腕を抱きしめた。


「……雪かきすれば、入れるんじゃないかな?」


「……雪かき?」


「……うんっ! 二人で!」


 和真は思わず窓の外へ目を向けた。


 確かに、客室から露天風呂までの距離はそれほど長くない。


 しかし、雪が積もっているうえに風も強い。


「……さすがに勝手にやるわけにはいかないな」


「……そっかぁ……」


「まずは旅館の人に相談してみよう。危ないって言われたら諦めるんだぞ?」


「……うんっ!」


 フェンリスは元気よく返事をした。


 和真は受付へ電話をかけ、露天風呂の利用について確認した。


 現在は強風のため、露天風呂の利用を勧めていないという。


 ただ、客室専用の小さな露天風呂であるため、風が弱まった際に安全を確認し、短時間だけ利用することは可能とのことだった。


 雪かきについても、旅館側で足元を確認してくれるという。


「……分かりました。ありがとうございます」


 電話を切る。


「……どうだった!?」


 フェンリスが期待に満ちた目で見上げてきた。


「風が弱まって、安全を確認できたら少しだけ入ってもいいってさ」


「……やったぁっ!」


「ただし、危なそうだったらすぐやめるからな」


「……うんっ!」


「それと、雪かきも無理しないこと」


「……はーいっ!」


 フェンリスは嬉しそうに尻尾を振った。


 和真はその様子を見て、思わず笑ってしまう。


「……そんなに入りたいのか?」


「……うんっ!」


「昨日も入っただろ?」


「……でも、今日の雪は特別だもん!」


 フェンリスは窓の外を指さした。


「……こんなにいっぱい雪が降ってるんだよ? 絶対忘れられない思い出になるよ!」


「……それは確かにそうだな」


「……でしょっ!」


 和真は苦笑しながら頷いた。


 思い返せば、今回の旅行そのものが、すでに忘れられない思い出になっていた。


 そして今度は、予想もしなかった吹雪。


 何が起こるか分からないものだ。


 そんなことを考えていると――。


 ――コンコン。


「失礼いたします。ご夕食の準備に参りました」


「あっ、はい!」


 和真は扉へ向かった。


 フェンリスも人間の姿に変わり、嬉しそうに後を追う。


 仲居が運んできたのは、料理長が腕を振るった特別な夕食だった。


 新鮮な海の幸を使った刺身の盛り合わせ。


 ふっくらと焼き上げられた魚料理。


 蟹の身がたっぷり入った茶碗蒸し。


 北海道産の牛肉を使った料理。


 さらに、温かな鍋物まで並んでいる。


「……わぁぁぁぁっ!!」


 フェンリスの目が輝いた。


「……すっごーいっ!!」


「これは豪華だなぁ……」


 和真も思わず感嘆の声を漏らした。


 仲居は嬉しそうに微笑む。


「本日は特別なお献立をご用意いたしました。どうぞごゆっくりお召し上がりくださいませ」


「ありがとうございます」


「……ありがとうっ!」


 仲居が退出すると、フェンリスは早速席へ座った。


「……和真っ! 早く早くっ!」


「はいはい」


 二人は手を合わせる。


「いただきます」


「いただきまーすっ!」


 フェンリスはまず、刺身を一切れ口へ運んだ。


「……んんんっ!」


 途端に頬が緩む。


「……おいひぃ……!」


「ははっ。飲み込んでから喋ろうな」


「……んっ!」


 ごくんと飲み込む。


「……すっごく美味しいっ!」


「ああ。本当だな」


 和真も料理を口へ運ぶ。


 どれも丁寧に調理されていて、食材の味がしっかりと感じられた。


「……和真っ!」


「ん?」


「……これも食べてみて!」


 フェンリスが牛肉料理を指さした。


「おっ、いいな」


「……すっごく柔らかいんだよ!」


「どれどれ……」


 和真も一口。


「……おおっ。本当だ」


「……でしょっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 それからも二人は料理を分け合いながら、ゆっくりと夕食を楽しんだ。


 窓の外では相変わらず吹雪が続いている。


 しかし、暖かな部屋で美味しい食事を楽しんでいると、不思議と外の寒さを忘れてしまいそうだった。


 最後の料理まで綺麗に食べ終えると、フェンリスは幸せそうにお腹をさすった。


「……はぁぁ……お腹いっぱい……」


「俺もだよ」


「……美味しかったぁ……」


「ああ。料理長にもお礼を言わないとな」


「……うんっ!」


 食器が下げられたあと、二人はしばらくこたつで休憩した。


 それから、外の風が少し弱まった頃。


 旅館の従業員が、露天風呂へ続く通路の様子を確認しに来てくれた。


 雪はかなり積もっていたものの、足元の状態を確認しながら短い通路を確保できるとのことだった。


 和真も防寒着を着込み、雪かきを手伝うことにした。


「……よし。じゃあ行くか」


「……おーっ!」


 フェンリスも張り切って返事をした。


 厚手の上着。


 手袋。


 冬用の靴。


 耳や首元もしっかり覆い、二人は準備を整える。


「……和真っ!」


「ん?」


「……僕、準備できたよっ!」


「よし。じゃあ、無理しない程度にな」


「……うんっ!」


 扉を開けた瞬間――。


 ヒュオォォォォッ!!


「……ひゃあああっ!!」


 フェンリスが思わず声を上げた。


「……さっむぅぅぅっ!!」


「……だから言っただろ!」


「……お、思ってたより寒いぃっ!」


 和真も思わず肩をすくめる。


 冷たい空気が顔に当たり、思わず目を細めた。


 客室から露天風呂までは、ほんの数歩の距離。


 それでも、通路には足首を超えるほど雪が積もっていた。


 旅館の従業員に教わりながら、二人はスコップで雪を端へ寄せていく。


「……えいっ! えいっ!」


「おっ、フェンリス、上手いじゃないか」


「……えへへっ! 僕、頑張るっ!」


「でも、無理するなよ」


「……うんっ!」


 フェンリスは楽しそうに雪をかいていた。


 ときどき風で雪が舞い上がるたびに、和真の背中へ隠れる。


「……ひゃっ!」


「……大丈夫か?」


「……う、うんっ!」


 そう答えながら、再びスコップを動かす。


 しばらくすると、露天風呂までの短い通路が姿を現した。


「……やったぁっ!」


 フェンリスが嬉しそうに両手を上げる。


「……できたねっ!」


「ああ。なんとかなったな」


 従業員が足元を確認してくれたあと、二人はすぐに暖かな室内へ戻った。


「……はぁぁぁっ!」


 フェンリスは大きく息を吐く。


「……寒かったぁ……!」


「本当にな」


「……でも、楽しかったっ!」


「……ははっ。そっか」


 和真は笑いながら、フェンリスの頭を撫でた。


 防寒着を脱ぎ、少し休憩して身体を温める。


 そして、風が再び弱まったのを確認してから、二人は入浴の準備を始めた。


「……和真っ!」


「ん?」


「……準備できたよっ!」


 フェンリスはタオルを身体に巻き、嬉しそうに立っていた。


 和真も腰にタオルを巻く。


「よし。じゃあ、行くか」


「……うんっ!」


 まず二人は暖かな浴室へ入り、露天風呂へ続く扉の前に立った。


 扉の向こうでは、温泉の湯気が白く立ち上っている。


「……フェンリス」


「……ん?」


「……覚悟はいいか?」


「……うんっ!」


 二人は顔を見合わせた。


「……せーのっ!」


 ――ガラッ!


 ヒュオォォォォッ!!


「……ひゃああああっ!!」


「……さっむぅぅぅっ!!」


 想像以上の寒さだった。


「……和真っ! 早くっ! 早くぅっ!」


「分かってるって!」


 二人は足元を確認しながら、雪かきした短い通路を慎重に進んだ。


 ほんの数歩。


 それなのに、やけに長く感じられる。


「……あとちょっとっ!」


「……う、うんっ!」


 ようやく湯船の縁にたどり着く。


 和真はお湯の温度を確かめた。


「……よし、大丈夫そうだ!」


「……早く入ろっ!」


 二人はタオルを外し、湯船へ身体を沈めた。


 ――ちゃぷんっ!


「……はぁぁぁぁぁっ!!」


「……あったかぁぁぁぁいっ!!」


 温かいお湯が、冷えた身体を包み込む。


 フェンリスは和真にぴったりとくっつき、肩まで深く浸かった。


「……和真ぁ……」


「……ん?」


「……あったかいねぇ……」


「ああ……最高だな……」


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


 湯船の周囲では、雪が絶え間なく舞っている。


 お湯から立ち上る白い湯気が、冷たい風に流されていく。


 和真はふと、隣のフェンリスを見た。


 すると、彼女も同じタイミングで和真を見上げる。


「…………」


「…………」


 そして――。


「……ぷっ!」


「……あはははっ!」


 二人は同時に笑い出してしまった。


「……あははっ! 和真っ!」


「……なんだよ!」


「……僕たち、何やってるんだろうねっ!」


「はははっ! 俺が聞きたいよ!」


「……あはははっ!」


 フェンリスは笑いながら和真に抱きついた。


「……こんな吹雪の中で露天風呂に入る馬鹿、僕たちくらいしかいないよねっ!」


「……本当にな!」


「……えへへっ!」


 フェンリスはさらに身体を寄せる。


 和真もその肩を抱いた。


「……でも、和真」


「ん?」


「……すっごく楽しいっ!」


 その笑顔は、心の底から楽しそうだった。


 和真も自然と笑顔になる。


「ああ。俺もだよ」


「……えへへっ!」


 二人は肩を寄せ合い、顎が湯に触れるほど深く身体を沈めていた。


 ふわふわの狼耳には、時折小さな雪が舞い落ちる。


 フェンリスは耳をぴくりと動かし、くすぐったそうに笑った。


「……ひゃっ!」


「……どうした?」


「……耳に雪、乗ったぁ……」


「ははっ。ほら、取ってやるよ」


 和真がそっと雪を払う。


「……えへへっ。ありがとっ!」


 フェンリスは嬉しそうに頬を寄せた。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……こんなにいっぱい雪が降ってるのに……お湯の中はあったかいんだね」


「ああ。源泉掛け流しだから、ずっと温かいお湯が入ってくるんだろうな」


「……すごいねぇ……」


 フェンリスは湯面を眺めた。


 そこへ、ふわりと雪が落ちる。


 雪はお湯に触れた途端、あっという間に消えていった。


「……あっ!」


「ん?」


「……雪、消えちゃった」


「……そりゃ、溶けるからな」


「……えへへっ!」


 フェンリスは楽しそうに笑う。


 そして、和真の胸へ頬を寄せた。


「……和真も、あったかい……」


「……そっか」


「……うんっ!」


 和真はその頭を優しく撫でた。


 二人はしばらく雪の中の温泉を楽しんだ。


 けれど、やがて和真が口を開いた。


「……そろそろ上がろうか」


「……えぇぇ……」


「いや、長く入ってると身体に負担がかかるしな」


「……もうちょっと……」


「風もまた強くなりそうだし、今のうちに戻ろう」


「……むぅ……」


 フェンリスは名残惜しそうに和真へ抱きついた。


「……じゃあ……最後にぎゅーっ!」


「……はいはい」


 二人はしっかりと抱きしめ合った。


 しかし――。


「……さて……」


 和真は露天風呂の出口へ目を向けた。


 温かな湯船。


 その先にあるのは、極寒の空気。


「…………」


「…………」


 二人は顔を見合わせた。


「……和真……」


「……ん?」


「……出たくない……」


「……俺もだよ……」


 思わず苦笑する。


 しかし、このままではいつまで経っても戻れない。


「……よし。せーので出るぞ」


「……う、うん……!」


 二人は覚悟を決めた。


「……せーのっ!」


 ――ざばぁっ!


「……ひゃああああっ!!」


「……さっむぅぅぅっ!!」


 先ほどよりも、さらに寒く感じられた。


 濡れた身体に冷たい空気が触れる。


 二人は急いでタオルを手に取り、身体を包んだ。


「……和真ぁぁっ!!」


「……あと少しだって!」


「……さ、寒いぃぃっ!」


 雪かきした短い通路を慎重に戻り、どうにか浴室へたどり着く。


 ――ガラッ!


「……はぁぁぁっ!」


 和真が扉を閉める。


 ようやく風が遮られた。


 しかし、二人の身体はすっかり冷えていた。


「……寒かったぁ……!」


「……まったくだよ……」


 そのとき――。


「……あっ!」


 フェンリスが浴室の奥を指さした。


「……檜風呂!」


「ああ、そうだった!」


 浴室の入口側には、小さな檜風呂がある。


 そこにも温かな湯が張られていた。


「……入ろっ!」


「……そうだな!」


 二人は軽く身体を流してから、檜風呂へ入った。


 ――ちゃぷんっ!


「……はぁぁぁぁっ!!」


「……生き返るぅ……!」


 温かいお湯に包まれ、二人は同時に大きく息を吐いた。


 しかし――。


「……せ、狭いっ!」


「……ははっ! 二人で入るには小さいな!」


 もともと一人で入るには十分な大きさだったが、二人で入るには少し窮屈だった。


 フェンリスは和真の膝の間に身体を収め、背中を預けるように座った。


「……えへへっ!」


「……なんだ?」


「……ぴったりだねっ!」


「……狭いだけだろ」


「……えへへっ! でも、僕は好きっ!」


 和真は思わず笑った。


 フェンリスは後ろから回された和真の腕を抱きしめる。


「……あったかぁい……」


「ああ……」


「……和真も……」


「ん?」


「……いっぱい、あったかい……」


 和真はその頭に頬を寄せた。


「……そっか」


「……うんっ!」


 二人はしばらく、狭い檜風呂の中でぎゅうぎゅうになりながら身体を温めた。


 外からは、相変わらず風の音が聞こえてくる。


 けれど、今はその音さえ、どこか遠く感じられた。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……今日のお風呂、すっごく楽しかったね」


「……ああ。忘れられない思い出になったよ」


「……えへへっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、明日も入ろうねっ!」


「…………え?」


 和真は思わず聞き返した。


「……また、あれをやるのか!?」


「……うんっ!」


「……いやいや、勘弁してくれよ!」


「……えぇぇっ! なんでぇ!?」


「寒すぎるって!」


「……でも、楽しかったじゃん!」


「それはそうだけどさ……」


「……じゃあ、決まりっ!」


「……いや、まだ何も決まってないぞ?」


「……えへへっ!」


 フェンリスは楽しそうに笑いながら、和真の腕をさらに抱きしめた。


     ◇ ◇ ◇


 風呂から上がった二人は、用意されていた新しい浴衣へ着替えた。


 和真は紺色のどてらを羽織り、フェンリスにもワインレッドのどてらを着せてやる。


「……はい、これでよし」


「……えへへっ! ありがとっ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、そのまま和真の腕に抱きつく。


「……和真っ!」


「ん?」


「……こたつ入ろっ!」


「ああ。そうだな」


 二人はこたつへ向かった。


 温かなこたつに足を入れると、フェンリスは大きく息を吐いた。


「……はぁぁぁ……」


「……どうした?」


「……しあわせぇ……」


 和真は思わず笑った。


「……風呂でも同じこと言ってなかったか?」


「……だって、幸せなんだもん!」


「……そっか」


「……うんっ!」


 フェンリスは和真の肩に頭を預けた。


 テレビをつけると、ちょうどバラエティ番組が流れていた。


 二人は温かいお茶を飲みながら、何となく画面を眺める。


 ときどき笑い、ときどきくだらない話をする。


「……ねぇ、和真」


「ん?」


「……明日も帰れなかったら、何しようか?」


「……そうだなぁ……」


 和真は少し考えた。


「……またテレビ見て、ご飯食べて、風呂入って……」


「……それ、今日と同じじゃん!」


「……じゃあ、何がいいんだよ」


「……んー……」


 フェンリスは考える。


 そして、にっこり笑った。


「……和真に甘える!」


「……それも今日と同じだろ!」


「……あはははっ!」


 二人は声を上げて笑った。


 フェンリスは笑いながら、和真の腕にしがみつく。


「……じゃあ、明日も、その次の日も、ずーっと甘える!」


「……どれだけ甘えるつもりなんだよ」


「……いっぱいっ!」


「……ははっ。そっか」


 和真はフェンリスの頭を撫でた。


 彼女の尻尾が、嬉しそうに左右へ揺れる。


「……でもさ、フェンリス」


「ん?」


「……本当に元気になったな」


「……えっ?」


 和真は穏やかに微笑んだ。


「……少し前まで、病院で寝てたんだぞ?」


「……あ……」


 フェンリスは少しだけ目を伏せた。


 けれど、すぐに和真を見上げる。


「……うん……」


「……あのときは、本当に心配したよ」


「……ごめんね……」


「もう謝らなくていいって」


 和真は優しく頭を撫でる。


「……今、こうして元気でいてくれるだけで十分だよ」


「…………」


 フェンリスはしばらく和真を見つめていた。


 そして、そっと身体を寄せる。


「……和真……」


「ん?」


「……僕ね……」


 何かを言いかけて、少しだけ迷う。


 しかし、やがてふわりと微笑んだ。


「……和真と一緒にいられて、本当によかった……」


 和真はその言葉を受け止めるように、優しく抱きしめた。


「……俺もだよ」


「……えへへ……」


 フェンリスは幸せそうに目を閉じた。


 しばらくして、二人は再び他愛のない会話を始めた。


 旅行中に食べた料理の話。


 観光先で見つけた変わったお土産の話。


 フェンリスが初めて雪を見たときの話。


 そして――。


「……そういえばさ、フェンリス」


「……ん?」


「……フェンリスって、昔はどんな子だったんだ?」


「……昔?」


「ああ。まだ俺と出会う前のこととか」


 フェンリスは少し驚いたように瞬きをした。


「……僕の昔の話……?」


「うん。考えてみたら、まだ知らないことも多いなって思ってさ」


「……そっかぁ……」


 フェンリスは少し考えるように視線を落とした。


 それから、和真を見上げる。


「……じゃあさ、和真の昔の話も聞かせて?」


「俺の?」


「……うんっ!」


 フェンリスはにっこり笑った。


「……僕ばっかりじゃずるいもん!」


「……ははっ。確かにな」


「……でしょ?」


 和真は湯飲みを置いた。


「じゃあ、お互いの昔話でもするか」


「……うんっ!」


 フェンリスは嬉しそうに頷く。


 そして、和真にぴったりと寄り添った。


 窓の外では、相変わらず吹雪が続いている。


 明日になっても、帰れるかどうか分からない。


 予定外の延泊。


 思いがけず増えた、二人きりの時間。


 その静かな夜。


 温かなこたつの中で、二人はこれまで知らなかった互いの過去について、少しずつ語り合おうとしていた。

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