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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十六話 雪の星と、二人だけの聖夜

函館旅行・二日目


 十二月二十四日。


 函館で迎える、二日目の朝。


 窓の外には、昨夜から降り積もった雪が白く輝いていた。


 遠くに見える海は冬らしい深い青色で、朝日を受けた水面がきらきらと光っている。


 そんな静かな朝。


「……んぅ……」


 和真は、胸元から聞こえた小さな声で目を覚ました。


 視線を下ろすと、銀色の髪が広がっている。


 毛先に淡い桃色を宿した髪。


 頭の上では狼の耳が時折ぴくりと動き、大きな尻尾が布団の端からはみ出していた。


 フェンリスだった。


 昨夜、一緒に温泉に入り、たくさん話をして、抱き合ったまま眠った。


 今も彼女は和真の胸に頬を寄せ、幸せそうな顔で寝息を立てている。


「……おはよう、フェンリス」


「……ん……かずま……」


 寝ぼけた声が返ってきた。


 だが、目は開かない。


 代わりに和真の背中へ回された腕に、きゅっと力がこもった。


「……まだ……」


「まだ眠い?」


「……ううん……もうちょっと……こうしてたい……」


 和真は小さく笑った。


「分かったよ。朝ご飯までは時間もあるしな」


「……えへへ……」


 嬉しそうな声。


 それから数分。


 今度はフェンリスの耳がぴんと立った。


「……あれ?」


「おはよう」


「……和真?」


「うん」


 ようやく目を開けたフェンリスは、自分がどんな格好で眠っていたのか気づいたらしい。


 和真の胸元を見つめ、それから顔を上げる。


「……ずっと?」


「ん?」


「僕、ずっとこうしてた?」


「そうだな。途中で何回か動いてたけど、だいたいこんな感じだったよ」


「……そっか」


 フェンリスは頬を染めた。


 けれど、離れようとはしない。


 むしろ、もう一度ぎゅっと抱きついた。


「……じゃあ、あと五分!」


「ははっ。さっきから五分が増えてないか?」


「いいの! 旅行なんだから!」


「はいはい」


「……それとね」


「何?」


「おはよう、和真!」


 今度は、いつもの明るい笑顔。


 その顔を見て、和真も自然と笑っていた。


「おはよう、フェンリス」


 窓の向こうでは、今日も雪が静かに降っていた。


     ◇


「わぁ……!」


 朝食会場に入った瞬間、フェンリスの目が輝いた。


 テーブルには北海道らしい料理が並んでいる。


 焼き魚に、温かな味噌汁。


 色鮮やかな刺し身に、ふっくら炊かれた白米。


 そして、小鉢にはイクラが盛られていた。


「和真! 見て見て! 朝からすごいよ!」


「本当だな。昨日の夕飯も豪華だったけど、朝もすごいな」


「僕、こんなの毎日食べたら太っちゃうかも!」


「フェンリスはもう少し食べてもいいくらいだよ」


「……そう?」


「ああ。いっぱい食べて、体力つけないとな」


 その言葉に、フェンリスは一瞬だけ表情を緩めた。


 倒れてしまった日のこと。


 病院で目を覚ました時のこと。


 和真が涙を流しながら自分の手を握っていたこと。


 今でも思い出す。


 けれど、今は違う。


 和真が隣にいて、自分のために時間を使ってくれている。


 そして、こんなにも楽しい旅行が待っていた。


「……うん! いっぱい食べる!」


 フェンリスは元気よく箸を取った。


「いただきます!」


「いただきます」


 最初に焼き魚をひと口。


「んんっ! おいしい!」


 次にイクラをご飯に乗せる。


「わぁ……ぷちぷちする!」


「そんなに嬉しそうに食べられると、料理した人も喜ぶだろうな」


「だって本当においしいんだもん!」


 そう言って、フェンリスは夢中で朝食を楽しんだ。


 和真もその様子を眺めながら、自分の食事を進めていく。


 しばらくすると、フェンリスがふと箸を止めた。


「ねえ、和真」


「どうした?」


「今日って、クリスマスイブだよね」


「そうだな」


「僕、クリスマスってまだそんなに詳しくないけど……好きかも」


「どうして?」


「だって、町がきらきらしてて、おいしいものがいっぱいあって……」


 フェンリスは少しだけ声を落とす。


「……好きな人と一緒にいられる日なんでしょ?」


 和真の箸が止まった。


「……まあ、そういう過ごし方をする人も多いな」


「じゃあ、僕にぴったりだね!」


 にっこり笑うフェンリス。


 和真は少し照れくさそうに笑い返した。


「……そうだな」


     ◇


 朝食を終えた二人は、部屋へ戻って出かける準備を始めた。


 フェンリスは外出用に人間の姿へ変わり、昨日とは違う冬服に着替える。


 白いニットに、淡い桃色のコート。


 首元にはふわふわしたマフラーを巻き、足元は雪道でも歩きやすいブーツ。


 鏡の前でくるりと回る。


「どう?」


「似合ってるよ。暖かそうだな」


「えへへ! みゆとナディアが選んでくれたんだ!」


「そうだったのか」


「うん! リディアも色々教えてくれたし、みんなでいっぱい悩んだんだよ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 旅行前。


 自分のために集まってくれた三人。


 みゆもナディアも、和真への気持ちは同じだった。


 それでも一緒に服を選んでくれた。


 旅行を楽しんできてほしいと、笑って送り出してくれた。


 だからこそ、たくさんの思い出を作りたかった。


「さて、今日は五稜郭からだったな」


「うん! 星の形のお城みたいなところ!」


「正確には城じゃなくて、星形の城郭だな。上から見ると形がよく分かるらしい」


「楽しみ!」


 フェンリスは和真の前に立つと、右手を差し出した。


「じゃあ、行こっ!」


「ああ」


 和真がその手を握る。


 するとフェンリスは、嬉しそうに指を絡めてきた。


「今日はずっと手をつないでてね!」


「転ばないようにな」


「それだけじゃないもん!」


「ははっ、分かってるよ」


 二人は笑いながら、雪の函館へ歩き出した。


     ◇


 市電に揺られ、五稜郭方面へ。


 窓の外には雪化粧をした町並みが流れていく。


 フェンリスは窓に顔を近づけ、興味津々で景色を眺めていた。


「和真、見て! あのお店、雪だるまがいる!」


「本当だ。結構大きいな」


「あっ! あっちにはトナカイ!」


「クリスマスだからな」


「すごいね! 町中がお祭りみたい!」


 そんな会話をしながら到着した五稜郭。


 目の前にそびえる五稜郭タワーを見上げ、フェンリスは口を開けた。


「……高い!」


「上まで行くぞ」


「うん!」


 展望台へ上がるエレベーター。


 フェンリスは和真の腕を握り、上昇していく景色に目を輝かせた。


 そして、展望台に到着した瞬間。


「……わぁぁぁっ!」


 思わず大きな声が出た。


 眼下には、雪に覆われた五稜郭。


 五つの角を持つ星形の輪郭が、白い町の中に浮かび上がっていた。


 周囲には函館の町並みが広がり、遠くには海と山が見える。


「和真! 星! 本当に星だよ!」


「すごいな。こんなにはっきり見えるんだな」


「うわぁ……!」


 フェンリスはガラスに近づき、夢中で景色を見渡した。


「ねえ、あれって全部昔の人が作ったの?」


「ああ。昔の人が防御のことを考えて、あんな形に造ったんだ」


「へえ……すごいね……」


 しばらく眺めた後、フェンリスが振り返った。


「和真! 写真撮ろう!」


「もちろん」


 和真は端末を取り出す。


 まずはフェンリス一人。


 星形の五稜郭を背景に、両手を広げて満面の笑顔。


 次は二人で。


「もっと近く!」


「これくらい?」


「もっと!」


「おっと……」


 フェンリスが和真の腕にぎゅっと抱きつく。


「これでいい!」


「はいはい」


 撮影された写真には、少し照れた和真と、とびきり幸せそうなフェンリスが写っていた。


「見せて!」


「ほら」


「……えへへ」


 フェンリスは写真を何度も見返した。


「ねえ、和真」


「ん?」


「これ、すごく好き」


「景色が綺麗だもんな」


「うん。それもあるけど……」


 フェンリスは和真を見上げる。


「僕たち、すごく楽しそうだから」


 和真は画面を見た。


 確かに、二人とも笑っていた。


 自然で、飾り気のない笑顔だった。


「……そうだな」


「あとで送ってね!」


「ああ、全部送るよ」


「約束!」


 フェンリスは小指を差し出した。


 和真も笑いながら小指を絡めた。


     ◇


 タワーを楽しんだ後は、雪の積もる五稜郭公園を散策した。


 吐く息は白い。


 木々の枝には雪が残り、足元にはいくつもの足跡が続いていた。


「ふふっ!」


 フェンリスは雪を踏む感触が楽しいらしく、何度も足元を見ていた。


「和真、雪って踏むと音がするんだね!」


「新雪だと特にな」


「きゅっ、きゅって!」


 少し歩いては振り返る。


 そしてまた歩く。


「フェンリス、あんまり走ると滑るぞ」


「大丈夫だよ!」


 そう言った直後。


「わっ!」


「おっと!」


 足を滑らせたフェンリスを、和真が腕で支えた。


「ほら、言っただろ」


「……えへへ」


「まったく……」


 和真が苦笑すると、フェンリスはその腕に抱きついた。


「でも、和真が助けてくれた!」


「そういう問題じゃないって」


「じゃあ、転ばないようにもっとくっつく!」


 そのまま和真の腕にしがみつき、嬉しそうに歩き始める。


「……それならいいか」


「やった!」


 雪の中を歩きながら、二人は何枚も写真を撮った。


 和真がフェンリスを撮り、フェンリスが和真を撮る。


 時には二人で並び、時には通りがかった観光客に頼んで撮ってもらった。


 写真を撮り終えた時、フェンリスが和真のコートについた雪を払った。


「はい、取れた!」


「ありがとう」


「……ねえ」


「何?」


「今日も、すっごく楽しいね!」


「ああ。俺も楽しいよ」


 その返事を聞くと、フェンリスはもう一度笑った。


     ◇


 昼食は、函館のご当地ハンバーガー店。


 店内に入ると、フェンリスはすぐにメニューへ目を奪われた。


「和真! すごい! ハンバーガーがいっぱい!」


「函館に来たら食べてみたかったんだよな」


「これ! 僕、これがいい!」


 フェンリスが指差したのは、チャイニーズチキンバーガー。


 甘辛い味付けのチキンが挟まれた、ボリュームのある一品だった。


「じゃあ、俺もそれにしようかな」


「同じの?」


「ああ」


「えへへ! おそろい!」


 注文を済ませ、席に着く。


 しばらくして運ばれてきたハンバーガーを前に、フェンリスの目が輝いた。


「いただきまーす!」


 大きく口を開けて、がぶり。


「んんんっ!」


 幸せそうな声が漏れる。


「おいしい?」


「んっ! すっごくおいしい!」


 口元についたソースを拭きながら、フェンリスは夢中で食べ進めた。


 和真もひと口。


「……うまいな、これ」


「でしょ!」


「味付けがいいな。チキンも柔らかいし」


「うんうん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 それから、和真の顔をじっと見つめる。


「……何?」


「んーん!」


 にこにこ。


「……なんだよ」


「和真がおいしそうに食べてると、僕も嬉しい!」


「それはこっちの台詞だよ」


「えへへ!」


 食事を終えた後も、二人はしばらく店内で話をしていた。


 昨日撮った写真。


 今日の五稜郭。


 明日は何を食べようか。


 まだ見ていない場所はどこだろうか。


 話題は尽きなかった。


     ◇


 午後は、湯の川温泉の近くにある函館市熱帯植物園へ。


 冬になると、温泉に入るニホンザルが見られる場所だった。


「お猿さんが温泉に入るの?」


「ああ。冬の名物らしいぞ」


「人間みたい!」


「ははっ、確かにな」


 園内に入ると、温泉から白い湯気が立ち上っていた。


 その中には、気持ちよさそうに湯に浸かる猿たちの姿。


「わぁぁ! 本当に入ってる!」


 フェンリスは柵の前まで歩き、目を輝かせた。


「見て! あの子、すごく気持ちよさそう!」


「いい顔してるな」


「こっちの子は寝ちゃいそう!」


 湯に浸かりながら目を細める猿。


 隣同士でくっついている猿。


 中には湯の中で場所を取り合っている猿もいた。


「あははっ! 和真、見て! あの二匹、押し合ってる!」


「本当だ。仲がいいのか悪いのか分からないな」


「きっと仲良しだよ!」


 フェンリスはしばらく笑っていた。


 やがて、二匹の猿が寄り添って温泉に浸かる姿を見つける。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「僕たちも昨日、あんな感じだったかな?」


「……温泉で?」


「うん!」


 和真は猿たちを見た。


 ぴったり寄り添い、のんびりと湯に浸かっている。


「……まあ、似てるかもしれないな」


「えへへ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日も一緒に入ろうね!」


「ああ。せっかく部屋に露天風呂があるんだしな」


「やった!」


 その返事に、フェンリスの胸が小さく跳ねた。


 今日の夜。


 実は、もう一つお願いしたいことがあった。


 昨日は恥ずかしくて言えなかったこと。


 今日なら、言えるだろうか。


 そんなことを考えていると、和真が声をかけた。


「温室の方も見てみる?」


「うん! 行こう!」


 フェンリスは再び和真の手を握り、元気よく歩き始めた。


 温室の中には、外の寒さが嘘のような暖かい空気が広がっていた。


「わぁ……暖かい!」


「すごいな。外とは別世界だ」


 大きな葉を広げる南国の植物。


 見慣れない形の木。


 鮮やかな花。


 フェンリスは一つ一つ立ち止まり、説明を読んでは和真に話しかけた。


「これ、僕のいた世界にも似たのがあったよ!」


「そうなのか?」


「うん! でも、もっと大きかった!」


「へえ……見てみたいな」


「いつか見せてあげたいなぁ」


 何気なく口にした言葉。


 けれど、フェンリスはすぐに和真を見つめた。


 自分が元いた世界の話。


 あの世界には、つらい思い出もたくさんある。


 それでも。


 和真と一緒なら。


 今までとは違う景色が見られるのかもしれない。


「……いつか、ね!」


「ああ。楽しみにしてるよ」


 和真は優しく笑った。


     ◇


 植物園を出る頃には、冬の太陽が少しずつ傾き始めていた。


 二人は近くを散歩し、途中で温かな飲み物を買ってひと休みした。


「……ふぅ」


 フェンリスが両手でカップを包む。


「暖かいねぇ」


「寒くない?」


「大丈夫! でも……」


「でも?」


 フェンリスは和真の隣へ寄った。


「こっちの方が暖かい!」


「ははっ、またそれか」


「だって本当だもん!」


 和真も笑いながら肩を寄せる。


 しばらく、二人は冬の町並みを眺めた。


 クリスマスイブ。


 町には家族連れや恋人たちが行き交っている。


 手をつなぐ人。


 楽しそうに笑い合う人。


 大きな袋を持って歩く人。


 フェンリスはその光景を眺めながら、和真の手を握り直した。


「……僕たちも、あんなふうに見えるのかな?」


「ん?」


「ほら、あの人たちみたいに」


 フェンリスが指差した先には、腕を組んで歩く男女がいた。


 和真は少し考えた。


「……どうだろうな」


「……そっか」


 フェンリスは小さく笑った。


 ほんの少しだけ残念そうな顔。


 それに気づいた和真が、つないだ手を握り直す。


「でも、楽しそうには見えてると思うよ」


「……!」


「少なくとも、俺はすごく楽しいから」


 フェンリスは目を丸くした。


 そして。


「……僕も!」


 嬉しそうに笑った。


「僕も、すっごく楽しい!」


     ◇


 旅館へ戻った頃には、外がすっかり暗くなり始めていた。


 玄関を入ると、クリスマスらしい飾りつけが出迎えてくれる。


 ロビーには小さなツリー。


 暖かな照明。


 窓の向こうには雪。


「……綺麗だね」


「ああ」


 フェンリスはツリーの前で立ち止まった。


「和真、ここでも写真撮りたい!」


「いいよ」


 旅館のスタッフにお願いして、二人で並ぶ。


 フェンリスは和真の腕にしっかり抱きつき、満面の笑みを浮かべた。


 撮影を終えた写真を見て、和真が笑う。


「今日だけでも、かなり撮ったな」


「まだまだ撮るよ!」


「明日もあるからな」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


「明日も、明後日も!」


 その声は、心から弾んでいた。


     ◇


 夕食は、旅館で用意された北海道の食材を使った料理。


 新鮮な魚介。


 温かな鍋。


 香ばしく焼き上げられた肉料理。


 そして最後には、クリスマスイブに合わせた小さなデザートが運ばれてきた。


「わぁ! ケーキ!」


 フェンリスの目が輝く。


「嬉しいね!」


「そうだな」


「和真、メリークリスマス!」


「メリークリスマス、フェンリス」


 二人は笑顔で言い合った。


 フェンリスは小さなケーキをひと口食べる。


「んんっ! おいしい!」


 それから、和真の皿をちらりと見た。


「……和真」


「ん?」


「僕の、ひと口あげる!」


「自分で食べていいよ」


「いいの! ほら、あーん!」


 差し出されたフォーク。


 和真は少し戸惑ったが、素直に口を開けた。


「……うん、おいしい」


「でしょ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑う。


「じゃあ、次は和真の番!」


「え?」


「僕にも!」


「……分かったよ」


 和真がケーキをひと口すくい、差し出す。


「あーん」


「あーん!」


 ぱくり。


「……えへへ」


「同じ味だろ?」


「違うよ!」


「違う?」


「和真に食べさせてもらった方が、おいしい!」


 和真は思わず笑った。


「そんなことあるか?」


「あるの!」


 フェンリスは胸を張って言い切った。


     ◇


 夕食後。


 部屋へ戻った二人は、しばらく窓辺で雪景色を眺めていた。


 夜の函館。


 街灯に照らされた雪が、静かに降り続いている。


「……綺麗だね」


「ああ」


 フェンリスは和真の肩に頭を預けた。


「ねえ、和真」


「ん?」


「今日はありがとう」


「どうした、急に」


「だって……すごく楽しかったから」


「俺も楽しかったよ」


「五稜郭も、お猿さんも、ご飯も……全部!」


 フェンリスは笑った。


「でもね」


「うん?」


「一番嬉しかったのは、和真がずっと一緒にいてくれたこと」


 和真はフェンリスを見た。


 彼女は少し照れくさそうに笑っている。


「……当たり前だろ。二人で旅行に来てるんだから」


「うん……そうだね」


 フェンリスは和真の腕を抱きしめた。


「……えへへ」


 しばらくそのまま過ごした後。


 フェンリスが、ちらりと客室露天風呂の方を見た。


「……ねえ、和真」


「何?」


「そろそろ、お風呂入らない?」


「そうだな。今日は結構歩いたし」


「うん!」


 フェンリスは勢いよく立ち上がった。


 ところが。


 浴室へ向かおうとして、急に足を止める。


「……あのね」


「ん?」


 いつもより少し小さな声。


「……今日は、昨日と違うお願いがあるんだけど……」


「お願い?」


「うん……」


 フェンリスは両手を胸の前で組んだ。


 頬がほんのり赤い。


「……あとで、聞いてくれる?」


 和真は少し不思議そうにしながらも頷いた。


「もちろん」


「……えへへ。ありがと」


     ◇


 客室の露天風呂。


 湯気の向こうには、雪が舞っていた。


 冷たい夜気と、温かな湯。


 昨日も二人で入った場所。


 けれど、今日は少しだけ違っていた。


 フェンリスは洗い場に座り、和真を振り返った。


「……和真」


「ん?」


「……背中、洗ってほしいな」


「背中?」


「うん……いい?」


「もちろん」


 和真は柔らかなタオルを手に取り、泡を立てた。


「痛かったら言ってな」


「うん!」


 フェンリスは和真に背中を向ける。


 ほどなく、温かな泡とともに、優しい感触が伝わってきた。


「……ん……」


「くすぐったい?」


「……ちょっとだけ」


「力加減は大丈夫?」


「うん……気持ちいい……」


 フェンリスは目を細めた。


 自分で身体を洗うのとは全然違う。


 背中を流れる温かな湯。


 丁寧に動く和真の手。


 何より、こんな近くで自分を大切にしてくれることが嬉しかった。


「……和真って、優しいね」


「普通に洗ってるだけだよ」


「それでも、優しいよ」


 フェンリスは小さく笑った。


 背中を洗い終えると、和真が声をかける。


「はい、終わったよ」


「……ありがと」


「どういたしまして」


 そこでフェンリスは、すぐには立ち上がらなかった。


 膝の上で、きゅっと両手を握る。


「……あ、あのさ」


「うん?」


 少しだけ振り返る。


 赤い瞳が、和真を見上げた。


「……前も、お願いしていい?」


「……え?」


 和真の動きが止まった。


「前って……」


「……うん」


 フェンリスの頬が、みるみる赤くなる。


「……身体の前も……和真に洗ってほしい……」


 和真は一瞬、言葉を失った。


「……フェンリス」


「……だめ?」


「いや、だめってわけじゃ……」


 フェンリスは恥ずかしそうに視線を落とした。


「……僕だって、恥ずかしいよ」


「……うん」


「でも……」


 フェンリスは小さく息を吸った。


「……和真に、お願いしたいんだ」


 和真は彼女を見つめた。


 いつもは明るく、遠慮なく甘えてくるフェンリス。


 そんな彼女が、今は勇気を振り絞るようにこちらを見ている。


 そのお願いを、軽く扱いたくはなかった。


「……分かった」


「……本当?」


「ああ。でも、恥ずかしくなったらすぐ言ってな」


「……うん!」


 フェンリスは小さく頷いた。


 それから、ゆっくりと和真の方へ身体を向ける。


 和真も頬を赤くしながら、改めてタオルに泡をつけた。


「……じゃあ、洗うよ」


「……うん」


 首元から肩へ。


 腕へ。


 そして、胸元からお腹へと、和真はできるだけ優しくタオルを動かしていく。


 フェンリスは最初、緊張したように身体をこわばらせていた。


 だが、和真の丁寧な手つきに、少しずつ肩の力が抜けていく。


「……和真」


「ん?」


「……ありがと」


「まだ途中だよ」


「……うん。でも、言いたかったから」


 和真は小さく笑った。


「そっか」


 やがて洗い終えると、和真は温かな湯で泡を流した。


「……はい。終わり」


「……うん」


 フェンリスは顔を上げた。


 頬はまだ赤い。


 けれど、その表情は嬉しそうだった。


「……どうだった?」


「どうって?」


「……僕のお願い、困らなかった?」


 和真は少し考えてから答えた。


「びっくりはしたよ」


「……うん」


「でも、フェンリスが頼んでくれたことは嬉しかった」


「……!」


「それだけ俺を信頼してくれてるってことだろ?」


 フェンリスは目を丸くした。


 そして、ゆっくりと笑顔になる。


「……うん!」


 小さく頷き、和真へ抱きついた。


「……僕、和真のこと大好き!」


「おっと……!」


 和真は慌てて彼女を支えた。


「洗い場は滑るから、気をつけてな」


「……えへへ、ごめん!」


 けれど、フェンリスはしばらく離れなかった。


     ◇


 身体を洗い終えた二人は、露天風呂に浸かった。


「はぁぁ……」


 フェンリスが幸せそうに息を吐く。


「やっぱり温泉って最高だねぇ……」


「そうだな」


「ずっと入ってたい!」


「のぼせるぞ」


「じゃあ、ほどほどにする!」


 フェンリスは笑いながら和真の隣へ移動した。


 肩が触れる。


 腕が触れる。


 そして、自然と和真の胸元へ身体を預けた。


「……和真」


「ん?」


「……今日も、くっついてていい?」


「ああ」


「……えへへ」


 和真の腕が、そっとフェンリスの肩へ回る。


 フェンリスは安心したように目を閉じた。


 しばらく、二人は言葉を交わさなかった。


 雪が静かに落ちてくる。


 温泉の湯気が夜空へ溶けていく。


「……ねえ、和真」


「うん?」


「……僕、最近思うんだ」


「何を?」


「……こうしてるとね、すごく安心するの」


 フェンリスは和真の手に自分の手を重ねた。


「昔は……誰かにこんなふうに甘えるなんて、考えられなかった」


「……そっか」


「うん。強くなきゃって思ってたし、誰かに頼るのも、ちょっと怖かった」


 和真は黙って聞いていた。


「でも……和真と出会ってから、少しずつ変わったんだ」


 フェンリスは顔を上げる。


「甘えてもいいんだって、思えるようになった」


「……うん」


「僕、和真の前だと……すごく甘えん坊になっちゃう」


 照れくさそうな笑顔。


 和真は、その頭を優しく撫でた。


「いいんじゃないか?」


「……いいの?」


「ああ。俺も、フェンリスが元気に笑ってくれてると嬉しいし」


「……!」


「それに、甘えたい時は遠慮しなくていいよ」


 フェンリスの瞳が揺れた。


 それから、嬉しそうに笑う。


「……じゃあ、いっぱい甘えちゃうよ?」


「ははっ。もう十分甘えてるだろ?」


「まだまだだよ!」


 フェンリスは腕を回し、和真へぎゅっと抱きついた。


「……これからも、ずっと!」


 和真も、優しく抱き返した。


     ◇


 温泉を出て、二人は身体を拭き、部屋へ戻った。


 和真が寝間着に着替えようとした時だった。


「……和真」


「ん?」


 フェンリスが、そっと服の裾をつかんだ。


「……もう一つ、お願いしてもいい?」


「もちろん。何?」


「……あのね」


 フェンリスは俯いた。


 両手でタオルの端を握りしめている。


 耳があれば、きっとぴんと立っていただろう。


 尻尾も、落ち着かなく揺れていたかもしれない。


 和真は急かさずに待った。


「……昨日、一緒に寝たでしょ?」


「ああ」


「……すごく、嬉しかったんだ」


「うん」


「和真に抱きしめてもらって……すごく安心して……」


 フェンリスはゆっくり顔を上げた。


 頬は真っ赤だった。


「……だからね」


 少しだけ間を置く。


「……今日は……」


 小さく息を吸って。


「……何も着ないで、抱き合って寝たい……」


 和真は固まった。


「…………え?」


 フェンリスは恥ずかしそうに目を逸らした。


「……だ、だから……」


 もう一度、勇気を出す。


「……裸で、ぎゅってして寝たいの……」


「……フェンリス……」


「……変かな?」


「いや……変じゃないけど……」


 和真は困ったように頭をかいた。


 フェンリスは小さく俯く。


「……昨日ね、和真に抱きしめてもらって寝た時……もっと近くにいたいなって思ったんだ」


「……うん」


「……でも、昨日は言えなかった」


 フェンリスは和真を見つめる。


「……今日は、言ってみようって思ったの」


 その声は小さかった。


 けれど、真剣だった。


「……お願い、和真」


 和真はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「……分かったよ」


「……!」


「でも、本当に抱き合って寝るだけでいいんだよな?」


 フェンリスは大きく頷いた。


「うん! 今日はそれだけ!」


 少し照れたように笑う。


「……和真の温かさ、もっと感じていたいだけだから」


 和真は優しく微笑んだ。


「……そっか」


 そして、フェンリスの頭を撫でる。


「じゃあ、そうしようか」


「……本当!?」


「ああ」


「……やったぁ!」


 フェンリスは嬉しそうに和真へ抱きついた。


「ありがとう、和真!」


「おっと……!」


「えへへ!」


 和真は笑いながら彼女を抱き返した。


     ◇


 照明を落とした部屋。


 窓の外では、雪が静かに降っている。


 二人は寝間着を着ず、布団の中へ入った。


 フェンリスは少し緊張した様子で和真を見つめる。


「……和真」


「ん?」


「……ぎゅってして?」


「うん」


 和真が腕を広げる。


 フェンリスは、そっとその胸元へ身体を寄せた。


 温かな肌が触れ合う。


「……っ」


 思わず小さな声が漏れた。


「……大丈夫?」


「……うん」


 フェンリスは頬を赤くしたまま頷く。


「……思ってたより……恥ずかしいね」


「……そうだな」


 和真も、少し照れくさそうに笑った。


 けれど、フェンリスは離れなかった。


 自分から腕を回し、和真の背中へ手を添える。


「……でも、すごく嬉しい」


「……うん」


「……和真、温かいね」


「フェンリスもな」


「……えへへ」


 フェンリスは和真の胸に頬を寄せた。


 とくん、とくん。


 規則正しい心臓の音。


 その音を聞いていると、不思議なほど気持ちが落ち着いていく。


「……和真」


「何?」


「……もっと、ぎゅってして」


 和真は腕に少し力を込めた。


「……これくらい?」


「……うん」


 フェンリスも抱きしめ返す。


「……もうちょっとだけ」


「ははっ。甘えん坊だな」


「……今日は、いっぱい甘えるって決めてるもん」


 和真は優しく笑った。


「分かったよ」


 腕に力を込め、彼女をしっかりと抱き寄せた。


 フェンリスは満足そうに息を吐く。


「……ん……」


 そして、しばらく黙っていた。


 雪の降る音すら聞こえないほど、静かな夜。


 ただ、互いの温もりだけがそこにあった。


「……ねえ、和真」


「うん?」


「……今日、クリスマスイブだったね」


「そうだな」


「……すっごく幸せなクリスマスだった」


 和真はフェンリスの髪を撫でた。


「俺もだよ」


「……本当?」


「ああ。五稜郭も楽しかったし、ご飯もおいしかったしな」


「……うん」


「何より、フェンリスがずっと楽しそうだったから」


 フェンリスは顔を上げた。


「……僕が?」


「ああ」


 和真は優しく微笑んだ。


「フェンリスが笑ってると、俺も嬉しいんだ」


 その言葉に、フェンリスは目を丸くした。


 そして、ゆっくりと笑顔になる。


「……そっか」


 もう一度、和真の胸へ顔を埋めた。


「……じゃあ、これからもいっぱい笑うね」


「うん」


「……和真と一緒に」


 和真の腕が、優しく彼女を包み込んだ。


     ◇


 しばらくして。


 フェンリスの呼吸が少しずつ穏やかになってきた。


「……眠くなった?」


「……ん……ちょっと……」


「今日はいっぱい歩いたからな」


「……うん……」


 フェンリスは目を閉じた。


 けれど、すぐにまた開く。


「……和真」


「どうした?」


「……明日も、一緒に寝てくれる?」


「もちろん」


「……ほんと?」


「ああ。旅行中だしな」


「……えへへ」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、明日も楽しみ……」


 和真が頭を撫でる。


「おやすみ、フェンリス」


「……うん……」


 小さな声。


「……おやすみ、和真……」


 それから、少しだけ間を置いて。


「……大好きだよ……」


 囁くような声だった。


 和真は腕の中のフェンリスを見つめた。


 幸せそうに微笑みながら眠り始めた彼女。


 その頬にかかった髪を、そっと指先で払う。


「……おやすみ」


 和真は彼女を抱きしめ直した。


 離れないように。


 寒くないように。


 そして、安心して眠れるように。


 やがて、和真も静かに目を閉じた。


     ◇


 深夜。


 ふと目を覚ましたフェンリスは、自分がまだ和真の腕の中にいることに気づいた。


 温かい。


 とても、温かい。


 和真は静かに眠っていた。


 フェンリスはそっと顔を上げ、その寝顔を見つめる。


「……和真……」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


 今日、勇気を出してよかった。


 身体を洗ってもらったことも。


 何も着ないで抱き合って眠りたいとお願いしたことも。


 どちらも、言うまではとても恥ずかしかった。


 けれど、和真は優しく受け止めてくれた。


 自分の願いを、笑わずに聞いてくれた。


 それが、たまらなく嬉しかった。


「……えへへ……」


 フェンリスはもう一度、和真の胸に頬を寄せた。


 とくん、とくん。


 聞き慣れ始めた、和真の心臓の音。


 その音に耳を澄ませながら、そっと腕を回す。


「……明日も、いっぱい楽しもうね……」


 返事の代わりに、眠っている和真の腕がわずかに動いた。


 フェンリスを抱き寄せるように。


「……!」


 フェンリスは一瞬驚き、それから幸せそうに笑った。


「……大好き……」


 小さく呟き、目を閉じる。


 こうして、函館で迎えた二日目の夜は更けていった。


 窓の外では、白い雪が静かに舞い続けている。


 明日は、旅行三日目。


 二人だけの時間は、まだ続く。


 そしてフェンリスの胸には、今日よりもう少しだけ勇気を出したいという、小さな願いが芽生え始めていた。

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