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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十五話 白銀の街で、君と笑う

 十二月二十三日。


 まだ夜の名残が残る早朝。


 母屋の玄関で、和真は大きなキャリーケースを二つ並べていた。


「よし。忘れ物は……たぶんないな」


「和真!」


 振り返ると、そこには旅行の支度を終えたフェンリスが立っていた。


「どうかな? 変じゃない?」


 先日、みゆたちと買い物に出かけた際に選んだ、旅行一日目の服装。


 暖かなニットにスカート、冬用のコート。首元には柔らかなマフラーが巻かれている。


 いつもの動きやすさを重視した服装とは違い、女の子らしさを意識した組み合わせだった。


「おお、似合ってるな。すごく可愛いよ」


「ほ、本当?」


「ああ。北海道は寒いだろうけど、それなら大丈夫そうだな」


「えへへ……よかった!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 実は昨日の夜から、何度も鏡の前で服装を確認していた。


 どのマフラーがいいか。


 髪はどう整えようか。


 和真が見たら、どんな顔をするだろうか。


 考えるだけで眠れなくなるほど、今日を楽しみにしていたのだ。


「おーい! 二人とも!」


 そこへ、みゆが小走りでやってきた。


「もう出発するんだよね!」


「ああ。そろそろ行こうと思ってる」


「じゃあ、みんな呼んでくるね!」


 そう言って駆けていったみゆだったが、すぐに他の住人たちを連れて戻ってきた。


「フェンリス! 楽しんできてね!」


 真っ先に飛びついたのはピピだった。


「わっ! ピピ、危ないよ!」


「だって四日間もいないんでしょ? 寂しいもん!」


「僕も寂しいけど……お土産買ってくるからね!」


「やったー!」


 その隣では、ひかげが小さく手を振っている。


「フェンリス……楽しんできてね。写真も……見せてほしいな」


「うん! いっぱい撮ってくるよ!」


「あまり無理をするでないぞ。北海道の冬は厳しいと聞くからのう」


 あおいも心配そうに声をかけた。


「ありがとう、あおい!」


「それと和真」


「ん? どうした?」


「フェンリスをしっかり守ってやるのじゃぞ」


「ああ。任せてくれ」


 酒菜も笑いながら二人を見送る。


「向こうにはうまいもんが山ほどあるんだろ? 遠慮せず食ってこい!」


「もちろん! 酒菜にもお土産買ってくるね!」


「ははっ! 期待してるぜ!」


 リディアは和真に声をかけた。


「移動中の体調には気をつけてね。退院してから十分休めているけど、長時間の移動は疲れやすいから」


「わかった。休憩を取りながら観光するよ」


「それと、写真もたくさん撮ってきてね。フェンリスの嬉しそうな顔、私も見たいから」


「うん!」


 そしてナディアが、楽しそうな笑みを浮かべながら近づいた。


「ふふっ。フェンリス、昨日教えたこと、忘れてないでしょうね?」


「なっ……!」


 途端にフェンリスの顔が赤くなる。


「ナ、ナディア!」


「あら? 私は何も変なことは言っていないわよ?」


「もうっ!」


 そんな二人のやり取りを、みゆは笑いながら眺めていた。


 やがて、みゆがフェンリスの手を握る。


「フェンリス」


「ん?」


「本当に、楽しんできてね」


 その声は、先ほどまでとは少し違っていた。


「……うん」


「せっかくの和真との旅行なんだから。遠慮しないで、いっぱい甘えちゃいなよ」


「みゆ……」


 フェンリスは一瞬だけ目を伏せた。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「ありがとう。僕、すっごく楽しんでくる!」


「うん!」


 二人は笑い合った。


 最後にユエが腕を組んだまま口を開いた。


「和真。今回は余計なことを考えず、フェンリスとの時間を大切にしろよ」


「わかってるよ」


「本当にわかってるならいいけどな」


 ユエはそう言うと、フェンリスに視線を向けた。


「お前も遠慮するなよ。せっかくの旅行なんだから」


「うん!」


 和真がキャリーケースを持ち上げる。


「それじゃ、行ってくる!」


「行ってきます!」


 住人たちが、一斉に手を振った。


「いってらっしゃーい!」


 たくさんの笑顔に見送られ、二人は旅立った。


 フェンリスにとって、それは今までで一番幸せな旅の始まりだった。


     ◇ ◇ ◇


「わあああっ!」


 飛行機の窓に顔を近づけ、フェンリスが目を輝かせる。


「和真! 見て! 雲がすっごく近い!」


「ははっ。飛行機なんだから当然だろ」


「そうだけど! こんな景色、なかなか見られないよ!」


 窓の外には、一面の雲海が広がっていた。


 朝日を浴びた雲が、まるで白い大地のように輝いている。


「すごいなぁ……」


 フェンリスは夢中で景色を眺めていた。


 しばらくすると、ふと和真の方へ顔を向ける。


「ねえ、和真」


「ん?」


「手、繋いでもいい?」


「もちろん」


 差し出された手を、フェンリスは嬉しそうに握った。


「えへへ」


「そんなに嬉しい?」


「うん! だって、和真と二人きりの旅行だよ?」


 その言葉に、和真も自然と笑顔になる。


「そうだな。四日間、思いっきり楽しもう」


「うん!」


 再び窓の外へ目を向けたフェンリス。


 その横顔は、ずっと笑っていた。


     ◇ ◇ ◇


 午前十一時頃。


 飛行機は無事に函館空港へ到着した。


 空港の建物を出た瞬間。


「ひゃあっ!?」


 フェンリスが思わず肩をすくめた。


「さ、寒いっ!」


「うわ、本当に寒いな!」


 二人の口から白い息がこぼれる。


 足元には雪が積もり、建物の屋根も白く染まっていた。


「和真! 雪だよ! 雪!」


「ああ。北海道に来たって感じがするな」


「ねえ! ちょっと触ってもいい?」


「もちろん。でも手袋は外すなよ?」


「うん!」


 フェンリスはしゃがみ込み、雪を手ですくった。


「わあ……ふわふわだ!」


 白い雪を掌に乗せ、嬉しそうに眺める。


「僕のいた世界でも雪は降ったけど、こうして和真と一緒に見ると、なんだか違って見えるね」


「そうか?」


「うん!」


 フェンリスは立ち上がると、和真の腕に抱きついた。


「さあ、行こう!」


「おっ。ずいぶん張り切ってるな」


「当たり前でしょ! 今日はいっぱい遊ぶんだから!」


 和真は笑いながら、彼女と一緒に歩き始めた。


 この日のフェンリスは、何もかもが楽しくて仕方がない様子だった。


     ◇ ◇ ◇


 市内へ移動した二人は、まず函館の朝市周辺へ向かった。


 荷物を預け、昼食を食べることにしたのだ。


「和真……!」


「ん?」


「すっごくいい匂いがする……!」


 フェンリスの視線は、飲食店の看板に釘付けになっていた。


 そこには大きな海鮮丼の写真。


 色鮮やかなイクラに、甘エビ、ホタテ、カニ。


「お腹空いた?」


「うん!」


「じゃあ、海鮮丼でも食べようか」


「やった!」


 店に入って席に着くと、フェンリスはメニューを真剣に眺め始めた。


「うーん……これも美味しそうだし……こっちも……」


「そんなに悩む?」


「だって全部美味しそうなんだもん!」


「ははっ。ゆっくり選びな」


 結局、フェンリスはイクラやホタテ、カニなどが盛られた海鮮丼を注文した。


 運ばれてきた瞬間。


「わああっ!」


 目を輝かせる。


「すっごい! 見て、和真!」


「豪華だなぁ」


「食べていい!?」


「もちろん」


「いただきます!」


 一口食べたフェンリスの動きが止まった。


「…………!」


「どうした?」


「お、美味しい……!」


 両手で頬を押さえる。


「和真! これ、すっごく美味しいよ!」


「そんなに?」


「うん! ほら、食べてみて!」


 フェンリスは自分の丼からホタテを一つ取り、和真の方へ差し出した。


「ほら!」


「じゃあ、いただきます」


 和真が食べると、フェンリスは期待に満ちた表情で見つめてくる。


「どう!?」


「うん。甘くて美味しいな」


「でしょ!」


 自分が作ったわけでもないのに、なぜか誇らしげだった。


 和真も思わず笑ってしまう。


「本当に幸せそうに食べるな」


「だって幸せだもん!」


 その返事は、あまりにも素直だった。


 食事の途中、フェンリスがふと思い出したように口を開いた。


「そうだ。お店のみんなにも何か買って帰りたいな」


「バイト先の?」


「うん。店長さんも奥さんも、みんなすっごく心配してくれたし……」


 少しだけ表情が柔らかくなる。


「それに、飛行機のことも……」


 今回の旅行は、フェンリスの職場の人たちや常連客たちの厚意に支えられていた。


「帰ったら、ちゃんとお礼を言わないとな」


「うん! お土産を渡して、旅行の話もいっぱいする!」


「きっと喜んでくれるよ」


「えへへ。そうだといいな!」


     ◇ ◇ ◇


 昼食を終えた二人は、金森赤レンガ倉庫へ向かった。


 歴史を感じさせる赤レンガの建物。


 雪をかぶった屋根。


 港から吹いてくる冷たい風。


 そして、クリスマスの飾り付け。


「うわあ……!」


 フェンリスは立ち止まり、周囲を見渡した。


「すごいね、和真!」


「ああ。綺麗だな」


「見て! あっちにも飾りがある!」


 フェンリスは和真の手を引き、楽しそうに歩き始める。


 店に入れば可愛らしい雑貨に目を奪われ、次の店ではクリスマス用のお菓子を見つける。


「あっ! これ、みゆに似合いそう!」


「猫の飾りか」


「うん! こっちはピピっぽい!」


「それ、鳥じゃなくて天使じゃないか?」


「羽があるからいいんだよ!」


「ははっ。そういうものか」


 フェンリスは楽しそうに笑った。


 別の店では、小さな狼の置物を見つけた。


「あ……」


「どうした?」


「これ……」


 フェンリスが手に取ったのは、二匹の狼が寄り添っている小さな置物だった。


 一匹は銀色。


 もう一匹は茶色。


「可愛いね」


「そうだな」


「なんだか……僕たちみたい」


 小さく呟いたフェンリス。


 けれど和真には、はっきり聞こえていた。


「じゃあ、それも買おうか」


「えっ!?」


「部屋に飾ったら可愛いと思うよ」


「い、いいの?」


「ああ。旅行の記念にな」


 フェンリスは置物を見つめたあと、嬉しそうに微笑んだ。


「……うん!」


 大切そうに両手で包み込む。


「僕の部屋に飾るね!」


     ◇ ◇ ◇


「和真! 写真撮ろう!」


「いいよ。どこで撮る?」


「あそこ!」


 フェンリスが指差したのは、クリスマスの装飾が施された赤レンガ倉庫の前だった。


 和真がスマートフォンを取り出す。


「じゃあ、まずフェンリス一人で」


「うん!」


 フェンリスは建物の前に立った。


 最初は少し緊張した様子だったが、和真がカメラを向けると、にっこり笑う。


「撮るぞー」


「はーい!」


 カシャッ。


「もう一枚!」


「はいよ」


 カシャッ。


「今度はこっち向いて!」


「こう?」


「そうそう!」


 カシャッ。


 何枚か撮ったあと、フェンリスが駆け寄ってきた。


「見せて!」


「ほら」


「わあ! 綺麗に撮れてる!」


「モデルがいいからな」


「も、もう……!」


 照れながらも嬉しそうだった。


 そしてフェンリスは和真の腕を掴む。


「今度は二人で!」


「わかった。自撮りにするか?」


「ううん! ちゃんと全身で撮りたい!」


 近くにいた観光客に頼み、二人で写真を撮ってもらうことになった。


「それじゃ、もう少し寄ってくださいね」


 カメラを構えた女性に言われ、和真がフェンリスへ近づく。


 するとフェンリスは、自然な動きで和真の腕に抱きついた。


「おっ?」


「えへへ」


「ずいぶん積極的だな」


「だって二人の写真だもん!」


 女性が笑顔で声をかける。


「はい、撮りますよー!」


 カシャッ。


「もう一枚いきますね!」


 その瞬間、フェンリスは和真の肩にこてんと頭を預けた。


 カシャッ。


「はい! とっても素敵に撮れました!」


「ありがとうございます!」


 写真を確認したフェンリスは、しばらく画面を見つめていた。


「気に入った?」


「……うん!」


 満面の笑顔で答える。


「これ、僕の宝物にする!」


     ◇ ◇ ◇


 午後になると、二人は元町方面へ足を延ばした。


 坂道の向こうに海が見える街並み。


 雪化粧をした洋館。


 冬の函館ならではの景色が広がっていた。


「和真! あそこから海が見えるよ!」


「ああ。八幡坂っていう有名な場所だな」


「すっごく綺麗!」


 フェンリスは手すりの近くから、坂の向こうを眺める。


「なんだか絵みたい……」


 思わず漏れた呟きに、和真は頷いた。


「本当だな」


「ねえ、和真」


「ん?」


「僕、今すっごく楽しい!」


「見てればわかるよ」


「えへへ!」


 フェンリスは笑った。


 そして突然、足元に積もった雪を少しだけすくい上げる。


「和真!」


「ん?」


 ぽすっ。


「……冷たっ!」


 小さな雪玉が和真の肩に当たった。


「フェンリス!?」


「あはははっ!」


 フェンリスは声を上げて笑った。


「油断したね!」


「このっ!」


 和真も雪をすくい、小さな雪玉を作る。


「えっ! 待って!」


「さっきのお返し!」


「きゃっ!」


 ぽすっ。


 フェンリスのコートに雪が当たる。


「あははっ! 和真、下手っ!」


「なんだとー!」


 二人は人通りの少ない場所で、しばらく雪を投げ合った。


 もちろん、本気ではない。


 小さな雪玉を作って、軽く投げるだけ。


 けれどフェンリスは、それだけでも大喜びだった。


「あはははっ! 楽しい!」


「ははっ! 元気だなぁ!」


 やがて二人は笑いながら手を止めた。


「ふぅ……ちょっと遊びすぎたな」


「えへへ……!」


 和真はフェンリスの顔を覗き込んだ。


「疲れてないか?」


「うん! 大丈夫!」


「でも、そろそろ休憩しよう。温かいものでも飲もうか」


「やった! 甘いものも食べたい!」


「もちろん」


「じゃあ、ケーキ!」


「ははっ。決まりだな」


     ◇ ◇ ◇


 近くの喫茶店に入った二人。


 フェンリスの前には、温かいココアとケーキが並んでいた。


「いただきまーす!」


 一口食べた瞬間。


「んんっ!」


 フェンリスの表情がぱっと明るくなる。


「和真! これも美味しい!」


「今日は何を食べても幸せそうだな」


「だって美味しいんだもん!」


「そうだな」


 和真はコーヒーを飲みながら、窓の外へ視線を向けた。


 静かに降り始めた雪。


 窓の向こうを歩く人々。


 そして、目の前で幸せそうにケーキを食べるフェンリス。


 以前のように、また彼女が笑っている。


 それが、和真には何より嬉しかった。


「……フェンリス」


「ん?」


「本当に元気になってよかった」


 フェンリスはフォークを止めた。


「……和真」


「倒れたって聞いたときは、本当に心配したんだからな」


「……うん」


 少しだけ、フェンリスの視線が落ちる。


「ごめんね。いっぱい心配かけちゃって」


「もう謝らなくていいよ」


「でも……」


「こうして一緒に旅行に来られたんだから。それで十分だよ」


 和真が微笑む。


 フェンリスはしばらく彼を見つめたあと、ゆっくり頷いた。


「……うん!」


 そして、再びケーキを一口食べる。


「じゃあ、もっと楽しまないとね!」


「ああ!」


「明日も明後日も、その次の日も!」


「四日間あるからな」


「えへへ。四日間、ずっと和真と一緒!」


 その言葉に、和真は笑った。


「そうだな」


 するとフェンリスは、テーブルの下でそっと和真の手を握った。


「……和真」


「ん?」


「僕ね、今すっごく幸せだよ」


 照れくさそうに笑う。


「こんなに幸せでいいのかなって思うくらい」


「いいに決まってるだろ」


 和真は握られた手を優しく握り返した。


「フェンリスには、もっといっぱい楽しい思いをしてほしいよ」


「……うん!」


 その笑顔は、今日一番と言っていいほど輝いていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。


 二人は再びベイエリアへ戻ってきた。


 目的はもちろん、はこだてクリスマスファンタジー。


 海に浮かぶ巨大なクリスマスツリー。


 周囲を彩るイルミネーション。


 赤レンガ倉庫には、温かな明かりが灯り始めていた。


「わああ……!」


 フェンリスは息を呑んだ。


「綺麗……!」


「ああ。本当に綺麗だな」


 雪がちらちらと舞う中、色鮮やかな光が海面に揺れている。


 フェンリスは和真の腕に抱きつき、その景色を見つめた。


「和真……」


「ん?」


「こんな綺麗な場所、初めて見た……」


 和真は微笑みながら、フェンリスの肩を抱いた。


「来てよかったな」


「うん……!」


 しばらく二人は、光に包まれた港を眺めていた。


 途中、温かなスープを買って体を温めたり、屋台の前で写真を撮ったり。


 フェンリスはどこへ行っても楽しそうだった。


 そして、午後六時。


 いったん消えていた巨大ツリーの明かりが、再び灯される瞬間。


「五!」


「四!」


「三!」


 周囲からカウントダウンの声が上がる。


「二!」


「一!」


 次の瞬間。


 ぱあああっ!


 巨大なツリーが、鮮やかな光に包まれた。


 そして――。


 ドンッ!


 夜空に花火が打ち上がった。


「わああああっ!」


 フェンリスが歓声を上げる。


 冬の澄んだ空に広がる色鮮やかな花火。


 その光が雪を照らし、港を美しく染めていく。


「すごい! 和真、すごいよ!」


「ああ!」


「こんなの……こんなの初めて!」


 フェンリスは目を輝かせながら空を見上げた。


 そして、次の花火が打ち上がった瞬間。


 ぎゅっ。


 和真の腕に強く抱きついた。


「和真!」


「ん?」


「連れてきてくれて、ありがとう!」


 満面の笑顔だった。


「僕、今日のこと、一生忘れない!」


 和真はその笑顔に、しばらく見入ってしまった。


 ずっと会えなかった日々。


 病院で手を握りながら、目を覚ましてほしいと願った時間。


 あのときの不安が、今では遠い出来事のように感じられる。


「……俺もだよ」


「え?」


「フェンリスと一緒に、ここに来られてよかった」


 そう言って微笑む。


 フェンリスは少し驚いた顔をしたあと、嬉しそうに頬を赤らめた。


「……えへへ」


 再び花火が夜空を彩る。


 二人は肩を寄せ合いながら、最後までその景色を眺めていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜七時過ぎ。


 二人は湯の川温泉の旅館へ到着した。


「ここ……?」


 フェンリスは目を丸くする。


 落ち着いた雰囲気の立派な旅館。


 入口には温かな明かりが灯り、雪化粧をした庭園が広がっていた。


「すごい……!」


「店長さんたちが勧めてくれた旅館だよ」


「こんな素敵なところだったんだ……」


 フロントで受付を済ませ、案内された客室へ向かう。


 そして、部屋の扉が開いた瞬間。


「わああっ!」


 またしてもフェンリスの歓声が上がった。


 広々とした和室。


 大きな窓。


 雪景色を望める落ち着いた空間。


 そして何より――。


「和真! お風呂!」


「ああ。部屋に露天風呂がついてるんだ」


 窓の向こうには、二人で入っても十分な広さの露天風呂があった。


「すごい……!」


 フェンリスは窓に近づき、外を覗き込んだ。


「これ、僕たちだけで使えるの?」


「そうだよ。好きなときに入れるんだ」


「ええっ!?」


 振り返ったフェンリスの顔は、驚きと喜びでいっぱいだった。


「じゃあ、何回でも入れるの!?」


「ははっ。まあ、のぼせない程度にな」


「やった!」


 嬉しそうに笑うフェンリス。


 和真はそんな彼女を見ながら、店長夫妻への感謝を改めて感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食は、旅館自慢の会席料理だった。


 地元の食材を使った料理が、次々と運ばれてくる。


「わあ……!」


 フェンリスの目が輝いた。


 カニ料理に、焼き魚、茶碗蒸し。


 温かな鍋や、香ばしい肉料理。


「すごいね、和真!」


「ああ。どれも美味しそうだな」


「いただきます!」


 フェンリスは早速、料理に箸を伸ばした。


「んんっ! 美味しい!」


「ははっ。よかったな」


「和真も食べて!」


「食べてるよ」


「じゃあ、これ!」


「それはフェンリスの分だろ?」


「いいの! 美味しいから食べてほしいんだもん!」


 そう言って料理を分けてくれる。


 和真も笑いながら受け取った。


「ありがとう」


「えへへ!」


 食事の途中、フェンリスは窓の外へ目を向けた。


 静かに降る雪。


 庭園を照らす柔らかな明かり。


「……本当に、夢みたい」


「ん?」


「朝からずっと楽しくて……美味しいもの食べて、綺麗な景色見て……」


 フェンリスは和真に向き直る。


「それに、和真がずっと隣にいてくれる」


 嬉しそうに微笑んだ。


「僕、こんな旅行ができるなんて思ってなかった」


「まだ一日目だよ?」


「うん!」


 フェンリスは笑う。


「明日はもっと楽しくなるかな?」


「もちろん」


「じゃあ、明後日は?」


「もっと楽しくなるんじゃないか?」


「えへへ!」


 フェンリスは満面の笑みを浮かべた。


「楽しみだなぁ!」


     ◇ ◇ ◇


 夕食を終え、二人は部屋で一息ついていた。


 フェンリスは窓の外を眺めながら、何やら考え込んでいる。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「お風呂……入らない?」


「ああ。せっかくの温泉だしな」


「……うん」


 フェンリスは少しだけ頬を赤らめる。


 そして、意を決したように和真へ向き直った。


「あのね……」


「どうした?」


「……一緒に入りたい」


「えっ?」


 和真は思わず聞き返した。


「一緒に?」


「……うん」


 フェンリスは照れくさそうに笑う。


「前にも一緒に入ったこと、あるでしょ?」


「まあ……そうだけど」


「だから……今日も、いいかなって」


 和真は少し考えた。


 客室専用の露天風呂。


 周囲から見られる心配もない。


 それに、フェンリスがここまで勇気を出して頼んでくれたのだ。


「……わかった」


「ほ、本当!?」


「ああ。一緒に入ろうか」


 フェンリスの顔がぱっと明るくなる。


「やった!」


 しかし、その直後。


「……あ」


 何かを思い出したように、頬を赤く染めた。


「ど、どうしよう……」


「ん?」


「……なんでもない!」


 そう言って、フェンリスは慌てて着替えを取りに行った。


     ◇ ◇ ◇


 露天風呂には、温かな湯気が立ち上っていた。


 外は雪。


 吐く息は白く、夜空には雲の切れ間から星が覗いている。


 先に体を洗い、湯に浸かっていた和真は、庭の雪景色を眺めていた。


「気持ちいいなぁ……」


 すると。


「……和真」


 背後から、小さな声がした。


「ん?」


 振り返る。


 そこには、フェンリスが立っていた。


 人間の姿ではない。


 本来の、牙狼族としての姿。


 銀色の髪。


 毛先には淡い桃色。


 頭には狼の耳。


 そして、背後には一本の大きな尻尾。


 フェンリスは胸元を大きなバスタオルで隠しながら、恥ずかしそうに立っていた。


「……あのね」


「うん」


「今日は……ちゃんと見てほしいんだ」


「……え?」


 フェンリスは顔を赤らめたまま、ゆっくりと口を開く。


「僕の……本当の姿」


 耳がぴくりと動く。


「外では人間の姿でいるけど……和真の前では、こっちの僕でいたいから」


 その声は、少し震えていた。


「……変じゃないかな?」


 和真は静かに首を振った。


「変なわけないだろ」


 フェンリスは少しだけ目を見開く。


「……本当?」


「ああ」


 和真は微笑んだ。


「すごく綺麗だよ、フェンリス」


「…………!」


 フェンリスの顔が、一瞬で真っ赤になった。


 耳まで赤くなり、大きな尻尾が落ち着かない様子で揺れる。


「き、綺麗って……!」


「本当にそう思ってるよ」


「……もう」


 フェンリスは恥ずかしそうに俯いた。


「……和真のばか」


「ええっ?」


「そんなこと言われたら……嬉しくなっちゃうじゃないか……」


 最後の方は、ほとんど聞こえないほど小さな声だった。


 けれど。


 その口元には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。


「……隣、いい?」


「もちろん」


 フェンリスはタオルを置き、ゆっくりと湯船に入った。


「はぁぁ……」


 思わず声が漏れる。


「気持ちいい……!」


「だろ?」


「うん!」


 フェンリスは和真の隣へ移動すると、肩が触れるほど近くに座った。


「えへへ……」


「どうした?」


「和真と一緒のお風呂……嬉しい」


 そう言って、そっと和真の腕に自分の腕を絡めた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく二人は、夜空を眺めていた。


 湯船の周囲には雪が積もり、遠くから風の音が聞こえる。


「ねえ、和真」


「ん?」


「覚えてる?」


「何を?」


「僕たちが初めて会った日」


「ああ。もちろん」


 和真は笑った。


「あの公園だろ?」


「うん」


 フェンリスも小さく笑う。


「あのときの僕、ひどかったよね」


「そんなことないよ」


「ううん。すっごく警戒してたし……和真のことも全然信用してなかった」


「まあ、知らない世界に突然来たんだから、仕方ないだろ」


「……うん」


 フェンリスは少しだけ目を細めた。


「でもね」


「ん?」


「あのとき、和真が僕を助けてくれたでしょ?」


「ああ」


「僕、嬉しかったんだ」


 和真は黙って耳を傾ける。


「最初は怖かった。知らない場所で、知らない人ばっかりで……」


 フェンリスは和真の腕をぎゅっと抱きしめた。


「でも、和真はご飯をくれて、寝る場所を用意してくれて……」


「そんなの普通だよ」


「普通じゃないよ」


 フェンリスは首を横に振った。


「僕にとっては、すっごく大きなことだったんだ」


 和真は少し照れくさそうに笑った。


「……そっか」


「うん」


 フェンリスは夜空を見上げる。


「それから、いろんなことがあったよね」


「本当にいろいろあったな」


「ひかげが来て、みゆが来て、あおいが来て……」


「ああ」


「気がついたら、あんなに賑やかになってた」


「そうだな」


 二人は笑った。


「最初は、僕と和真だけだったのにね」


「ああ」


 フェンリスは嬉しそうに目を細めた。


「……懐かしいなぁ」


 少しだけ沈黙が流れる。


 けれど、気まずい沈黙ではなかった。


 ただ、二人で過ごしてきた時間を思い返す、穏やかな沈黙だった。


 やがて和真が口を開く。


「……フェンリス」


「ん?」


「俺も、嬉しかったよ」


「……え?」


「フェンリスが来てくれて」


 フェンリスが目を見開く。


「最初は本当に大変だったけどさ」


「えへへ……ごめんね」


「でも、フェンリスと出会ってから、毎日が賑やかになった」


 和真は静かに笑った。


「一緒にご飯食べたり、買い物に行ったり……今思えば、楽しかったな」


「……うん」


「だから、こうしてまた一緒に過ごせて嬉しいよ」


「…………」


 フェンリスは何も言わなかった。


 ただ、和真の腕を抱きしめる力が、少しだけ強くなった。


「……和真」


「ん?」


「僕も……」


 顔を上げる。


「僕も、和真と出会えて、本当によかった」


 その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 けれど、それは悲しい涙ではなかった。


「……ありがとう」


 和真は微笑んだ。


「こちらこそ」


 そして、そっとフェンリスの頭を撫でる。


 狼の耳がぴくりと動いた。


「……えへへ」


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらくして。


「……和真」


「ん?」


「もうちょっと、くっついてもいい?」


「いいよ」


 フェンリスはゆっくりと和真の方へ体を向けた。


 そして、そっと抱きつく。


「……ぎゅー」


「ははっ」


 和真も優しく抱きしめ返した。


「甘えん坊だな」


「……うん」


 フェンリスは素直に頷く。


「今日はいっぱい甘えたい」


「いいよ」


「明日も?」


「もちろん」


「明後日も?」


「ああ」


「……その次の日も?」


「ははっ。四日間ずっとか?」


「……だめ?」


 フェンリスが上目遣いで見つめてくる。


 和真は笑った。


「だめなわけないだろ」


「……えへへ!」


 フェンリスは嬉しそうに笑うと、もう一度ぎゅっと抱きついた。


 二人の間を、温かな湯気が包み込む。


 時折、雪が静かに舞い落ちる。


 フェンリスは和真の肩に顔を寄せ、幸せそうに目を閉じた。


「……大好きだよ、和真」


 小さな声。


 けれど、その言葉は和真の耳に届いていた。


 和真はそっと彼女の背中を撫でる。


「……ありがとう、フェンリス」


 今はまだ、その気持ちにどう答えるべきなのか、はっきりとはわからない。


 ただ。


 この温もりを、もう少し感じていたい。


 和真はそう思っていた。


「……そろそろ上がろうか。のぼせちゃうぞ」


「……もうちょっと」


「ははっ。本当に甘えん坊だな」


「だって……和真と一緒なんだもん」


 和真は笑いながら、もう少しだけ彼女を抱きしめていた。


     ◇ ◇ ◇


 風呂から上がった二人は、浴衣に着替えて部屋へ戻った。


 フェンリスは髪を乾かし終えると、大きな尻尾を揺らしながら和真の隣へ座る。


「ねえ、和真」


「ん?」


「今日撮った写真、見よう!」


「いいね」


 二人は並んで座り、スマートフォンを覗き込んだ。


 飛行機から撮った雲海。


 空港で初めて触れた雪。


 海鮮丼を前にしたフェンリスの笑顔。


 赤レンガ倉庫で撮った写真。


 雪景色の坂道。


 そして、クリスマスツリーと花火。


「わあ……いっぱい撮ったね!」


「ああ。本当にたくさんあるな」


「見て! この写真!」


 フェンリスが指差したのは、赤レンガ倉庫の前で二人一緒に撮った写真だった。


 和真の腕に抱きつき、幸せそうに笑っている自分。


「……これ、やっぱり好き」


「いい写真だよな」


「うん!」


 フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。


「みんなにも送ろうかな」


「喜ぶと思うよ」


「じゃあ、送る!」


 写真を何枚か選び、住人たちへ送信する。


 すると、すぐに返信が届いた。


『フェンリス可愛いー!』


 ピピからだった。


 続いてみゆ。


『すっごく楽しそう! よかったね!』


 さらにリディアからも。


『いい笑顔ですね。明日も楽しんできてください。』


「えへへ……!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そして、一枚の写真をじっと見つめる。


 和真と肩を寄せ合い、笑っている写真。


「……これ、待ち受けにしようかな」


「いいんじゃない?」


「うん!」


 フェンリスは早速、画面を設定した。


 完成した画面を見て、満足そうに頷く。


「よし!」


「そんなに気に入った?」


「うん!」


 和真の方を向く。


「いつでも見られるから!」


 その笑顔に、和真も思わず頬を緩めた。


     ◇ ◇ ◇


 夜も更けた頃。


 部屋には二組の布団が敷かれていた。


 和真が照明を少し落とす。


「さて、そろそろ寝ようか」


「……うん」


 フェンリスは自分の布団に入ろうとして、ふと立ち止まった。


「……和真」


「ん?」


「……お願いがあるんだけど」


「どうした?」


 フェンリスは少しだけもじもじしていた。


 大きな尻尾が、落ち着かない様子で揺れている。


「あのね……」


「うん」


「……一緒に寝てもいい?」


 和真は少し驚いた。


「一緒に?」


「……うん」


 フェンリスは恥ずかしそうに笑う。


「最近、和真の部屋で一緒に寝てたでしょ?」


「ああ」


「だから……旅行中も、一緒がいいなって」


 和真は優しく微笑んだ。


「いいよ」


「……本当!?」


「ああ。おいで」


「やった!」


 フェンリスは嬉しそうに和真の布団へ入ってきた。


 そして、当然のようにぎゅっと抱きつく。


「えへへ……!」


「ははっ。そんなに嬉しい?」


「うん!」


 和真はフェンリスの頭を優しく撫でた。


 すると、彼女の耳がぴくぴくと動く。


「……気持ちいい」


「そう?」


「うん……」


 フェンリスは和真の胸元に顔を寄せた。


 しばらくすると、小さな声で呟く。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「今日、すっごく楽しかった」


「ああ。俺も楽しかったよ」


「明日もいっぱい遊ぼうね」


「もちろん」


「美味しいものも食べて……」


「ああ」


「写真もいっぱい撮って……」


「うん」


「……それから」


 フェンリスは顔を上げた。


「また、一緒にお風呂入ろうね」


 和真は少し照れながら笑った。


「……ああ」


「えへへ……!」


 嬉しそうに微笑んだフェンリス。


 そして、再び和真の胸元へ顔を埋めた。


「……和真」


「ん?」


「……今日は、ありがとう」


「こちらこそ」


「……おやすみ」


「ああ。おやすみ、フェンリス」


 和真はそっと彼女を抱きしめた。


 フェンリスも、その腕の中で安心したように目を閉じる。


 外では、静かに雪が降り続いていた。


 けれど、布団の中はとても温かかった。


 大好きな人の腕の中。


 その温もりを感じながら、フェンリスは小さく微笑む。


(……幸せだなぁ)


 今日見た景色。


 食べた料理。


 二人で撮った写真。


 クリスマスの花火。


 露天風呂で交わした言葉。


 そのどれもが、かけがえのない宝物だった。


(明日は……もっと楽しい一日にしよう)


 そう思いながら、フェンリスはゆっくりと眠りについた。


 和真も彼女の寝息を聞きながら、静かに目を閉じる。


 まだ、お互いの気持ちをすべて言葉にできたわけではない。


 それでも。


 こうして同じ時間を過ごし、同じ景色を見て、一緒に笑えることが嬉しかった。


 北海道で過ごす、最初の夜。


 二人はただ、互いの温もりを感じながら眠った。


 その先に待つ特別な時間を、まだ知らないまま。


 ――旅行一日目、終わり。

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