第五十三話 甘えん坊たちの争奪戦
フェンリスが退院してから、数日が過ぎた。
倒れた原因となった過労と心身の疲労は、十分な睡眠と食事によって少しずつ改善していた。
退院したばかりの頃は、少し歩くだけでも疲れてしまい、食事の途中で眠そうにすることもあった。
だが、今では顔色も良くなり、食欲も戻ってきている。
もちろん、まだ無理は禁物だ。
店長夫妻からも年明けまではゆっくり休むように言われており、和真も仕事への復帰を急がせるつもりはなかった。
そして、そんなフェンリスには一つ、大きな変化があった。
それは――。
「……和真ぁ」
「ん……?」
「もうちょっと……」
以前にも増して、甘えん坊になったことだった。
◇
朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな日差しが、部屋を照らしていた。
和真が目を覚ますと、すぐ目の前に銀色の髪が広がっている。
毛先が淡いピンク色に染まった長い髪。
ぴくぴくと動く狼耳。
そして、腰に巻きついた大きな尻尾。
フェンリスは和真の胸元に顔を埋め、幸せそうに眠っていた。
「……そろそろ起きるか」
和真が身体を起こそうとすると――。
「……やだ」
小さな声が返ってきた。
「起きてたのか?」
「……今、起きた」
「そうか。じゃあ、朝飯を持ってこないとな」
「……あと五分」
「昨日も同じこと言ってたぞ?」
「今日はちゃんと五分だから」
そう言いながら、フェンリスは和真の服をぎゅっと握った。
さらに大きな尻尾が腰に巻きつく。
「……これじゃ起きられないんだけど」
「……えへへ」
「笑ってごまかすなって」
「だって……」
フェンリスが顔を上げる。
少し眠たげな瞳が、和真を見つめた。
「……和真と、もうちょっと一緒にいたいんだもん」
その言葉に、和真は思わず苦笑した。
「まったく……退院してから随分甘えるようになったな」
「……嫌?」
「嫌じゃないよ」
「本当?」
「ああ」
和真が答えると、フェンリスの表情がぱっと明るくなった。
「……えへへ」
そして、再び胸元に顔を埋める。
「……和真」
「今度は何だ?」
「頭、撫でて」
「はいはい」
和真が銀色の髪に手を伸ばす。
ゆっくりと撫でると、フェンリスは気持ちよさそうに目を細めた。
「……もっと」
「お前、本当に甘えん坊になったなぁ」
「……今まで我慢してた分だよ」
何気なく口にされた言葉。
和真の手が、ほんの一瞬止まった。
思い出すのは、あの病室だった。
意識の戻らないフェンリス。
病院から聞かされた、無理を重ねていた日々。
そして、気づいてやれなかった自分。
「……フェンリス」
「ん?」
「これからは、ちゃんと言ってくれよ」
「……何を?」
「寂しい時も、辛い時も。無理して笑わなくていいから」
フェンリスは和真をじっと見つめた。
そして、小さく頷く。
「……うん」
少しだけ間を置いて、彼女は微笑んだ。
「……じゃあ、今も寂しいから、もうちょっと一緒にいて」
「……それはさっき聞いたよ」
「えへへ!」
楽しそうな笑い声が響く。
和真もつられて笑った。
それからフェンリスは、もう一度和真の胸に頬を寄せた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……大好きだよ」
「……そっか」
和真は優しく微笑み、彼女の頭を撫でた。
フェンリスは少し頬を赤くしたが、以前のように慌てて離れようとはしなかった。
むしろ、もっと近づいてくる。
大きな尻尾が嬉しそうに揺れた。
結局、和真が布団から出られたのは、それから二十分ほど経ってからだった。
◇
そんな日々が続いていることを、面白くなさそうに見ている者たちがいた。
「……おいおい。ありゃ完全に独占してやがるな」
「本当だよ。最近、ずっと和真にくっついてるもん」
居間で話しているのは、ナディアとみゆだった。
フェンリスが元気になったことは、二人とも心から喜んでいる。
病院へ運ばれたと聞いた時は、二人とも本当に怖かった。
だからこそ、今のように笑っている姿を見ると安心する。
だが、それとこれとは別問題だった。
「朝も夜も一緒だし、昼間だって和真の隣から離れないんだよ?」
みゆが頬を膨らませる。
二本の尻尾が、不満そうに揺れていた。
「はっ。今まで散々遠慮してやったが、あいつも随分大胆になったじゃねえか」
ナディアが腕を組む。
「……僕だって、和真に甘えたいのに」
「だったら甘えりゃいいだろ?」
「え?」
ナディアがにやりと笑った。
「フェンリスが我慢するのをやめたんなら、俺様たちだって遠慮する必要はねえだろ?」
「……確かに!」
「もちろん、あいつの休養の邪魔をするつもりはねえけどな」
ナディアは口元を緩める。
「だが、和真まで独り占めさせてやる義理はねえ」
みゆの猫耳がぴんと立った。
「じゃあ、僕もいっぱい甘えちゃおうかな!」
「ははっ! 負けねえからな?」
「僕だって負けないよ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を見ていた酒菜が、呆れたようにため息をつく。
「……お前ら、あんまり和真を困らせるなよ?」
「分かってるって!」
「うん! 大丈夫だよ!」
妙に元気な返事だった。
酒菜は二人を交互に見た。
「……まったく信用できねえな」
◇
その日の昼。
フェンリスは昼食を終えると、少し眠そうに目をこすっていた。
「フェンリス、眠いのか?」
「……うん。ちょっとだけ」
「じゃあ、少し昼寝しようか」
「……和真も?」
「俺は洗濯物を取り込んでくるよ。終わったら戻るから」
「……そっか」
少し残念そうな声。
和真は苦笑しながら、フェンリスの頭を撫でた。
「ちゃんと戻ってくるから」
「……約束だよ?」
「ああ」
フェンリスは安心したように頷いた。
「……じゃあ、少し寝るね」
「おやすみ」
「……おやすみ、和真」
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
和真は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
「さて……洗濯物でも取り込むか」
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「おっ、和真。ちょうどいいところにいたな」
「ナディア?」
振り返ると、ナディアが腕を組んで立っていた。
どこか楽しそうな笑顔。
「今、暇か?」
「洗濯物を取り込もうと思ってたところだけど……どうした?」
「ちょっと俺様の部屋に来い」
「部屋?」
「ああ。お前に用がある」
「何かあったのか?」
「来りゃ分かるって!」
そう言って、ナディアは和真の腕を取った。
「お、おい! 何なんだよ!」
「へへっ。いいから来い!」
そのまま部屋まで連れていかれる。
中へ入ると、ナディアは扉を閉めた。
「それで、用って何だ?」
「ん?」
ナディアはにやりと笑う。
「お前、最近フェンリスに付きっきりだろ?」
「そりゃ、まだ病み上がりだからな」
「分かってるさ。俺様だって、あいつが元気になって嬉しいんだぜ?」
「だったら……」
「だがな」
ナディアが一歩近づく。
「俺様だって寂しいんだよ」
「……ナディア?」
「朝も夜もあいつと一緒じゃねえか。俺様のこと、忘れてねえだろうな?」
「忘れるわけないだろ」
「へへっ。ならいいけどよ」
ナディアは和真の胸に両手を添える。
「だったら、今日は俺様のことも甘やかせ」
「……お前まで」
「何だよ。不満か?」
「いや、そうじゃないけど……」
「なら決まりだ!」
ナディアは満足そうに笑うと、和真の首に腕を回した。
「ほら、抱きしめろよ」
「……はいはい」
和真が腰に腕を回す。
すると、ナディアは嬉しそうに身体を預けた。
「……へへっ」
「何だよ、急に笑って」
「別に。こうしてると落ち着くんだよ」
いつもの堂々とした態度とは違い、少しだけ甘えるような仕草。
和真は彼女の背中を優しく撫でた。
「……なあ、和真」
「ん?」
「俺様だって、お前に甘えたい時くらいあるんだぜ?」
「……そっか」
「そうだよ」
ナディアは胸元に顔を寄せたまま、小さく笑った。
それから少しして、顔を上げる。
「……キス、してくれよ」
「……昼間っからか?」
「昼間だと駄目なのかよ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だったらいいだろ?」
ナディアが悪戯っぽく笑う。
和真は小さく息を吐き、彼女の頬に手を添えた。
二人の唇が重なる。
ナディアは嬉しそうに目を閉じ、和真の背中に腕を回した。
やがて唇が離れる。
「……へへっ。やっぱりいいな」
「……まったく」
和真が照れたように視線を逸らす。
しかし、ナディアは離れようとしなかった。
「なあ、和真」
「……今度は何だ?」
「俺様が何でお前を部屋に連れてきたか、まだ分かんねえのか?」
そう言いながら、ナディアは和真の顔を覗き込んだ。
「……まさか」
「へへっ。やっと気づいたか?」
ナディアは少しだけ頬を赤くした。
「俺様、お前ともっと一緒にいたいんだよ」
「ナディア……」
「ただ抱きしめてもらうだけじゃ、今日は物足りねえ」
和真の胸元に頬を寄せる。
「……また、お前と愛し合いたい」
その言葉に、和真の心臓が大きく跳ねた。
以前、ユエに言われたことが頭をよぎる。
相手の気持ちに流されるだけではなく、自分の気持ちにも向き合うこと。
自分がどうしたいのか。
それを考えなければならない。
「……お前、最初からそのつもりだったのか?」
「当たり前だろ?」
ナディアは楽しそうに笑う。
「俺様がお前をただのおしゃべりのために連れ込むと思ったか?」
「……思ってたよ」
「ははっ! 相変わらず鈍い奴だな!」
ナディアが和真の頬に触れる。
「……なあ、和真。お前が嫌なら無理には誘わねえよ」
その言葉に、和真はナディアを見つめた。
少し考えた後、彼女を抱き寄せる。
「……嫌じゃないよ」
「……へへっ。そうか」
「ただ……俺はまだ、自分の気持ちを全部整理できてない」
「知ってるさ」
ナディアは、ためらうことなく答えた。
「前にも言っただろ? 今すぐ俺様だけを見ろなんて言わねえよ」
「……ああ」
「でも、俺様がお前を好きなのは変わらねえ。それも分かってるだろ?」
和真は頷いた。
「……分かってる」
「なら、それでいい」
ナディアは嬉しそうに笑った。
「今日は俺様をいっぱい甘やかしてくれよな」
和真は彼女を抱きしめ直し、もう一度口づけた。
今度はナディアからではなく、和真の方から。
ナディアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに目を閉じた。
そして二人は、手を取り合って寝室へ向かった。
◇
昼下がり。
静かな部屋で、二人は再び男女の仲になった。
それからしばらくして。
寝室には、穏やかな時間が流れていた。
ナディアは和真の腕に抱かれ、満足そうに笑っている。
「……へへっ。満足したぜ」
「それはよかったな……」
「何だよ、その言い方は」
「いや、お前が昼間から誘ってくるとは思わなくてさ」
「ははっ! 俺様が昼間は大人しくしてるとでも思ったか?」
「……思ってなかったけど」
「だろ?」
ナディアは笑いながら、和真の胸に頬を寄せた。
「……和真」
「ん?」
「俺様、お前のこと本当に好きなんだぜ?」
「……ああ」
「だから、たまにはこうして独り占めさせろよな」
和真は彼女の頭を優しく撫でた。
すると、ナディアは気持ちよさそうに目を細める。
「……へへっ」
そのまま少し黙っていたナディアだったが、やがて顔を上げた。
「……なあ、和真」
「何?」
「フェンリスのこと、ちゃんと大事にしてやれよ」
「……え?」
突然の言葉に、和真は目を丸くした。
「何だよ、その顔」
「いや……急にどうしたのかと思って」
「別に深い意味はねえよ」
ナディアは和真の胸に頬を寄せる。
「あいつ、ずっと一人で抱え込んでたからな。もうあんな思いはさせたくねえだろ?」
「……ああ」
「俺様も、あいつがまた倒れるところなんざ見たくねえしな」
和真は小さく頷いた。
「……俺もだよ」
「へへっ。ならいい」
ナディアは顔を上げると、いつもの大胆な笑顔に戻った。
「まっ、それと俺様がお前を好きなのは別の話だけどな!」
「……お前なぁ」
「ははっ!」
楽しそうな笑い声が寝室に響いた。
◇
和真が自分の部屋へ戻った頃には、フェンリスはすでに目を覚ましていた。
「あっ、和真!」
「起きてたのか」
「うん! お昼寝、気持ちよかったよ」
「そっか」
フェンリスは布団から起き上がる。
そして、和真の方へ両腕を伸ばした。
「……和真」
「ん?」
「ぎゅってして」
「……はいはい」
和真が近づくと、フェンリスは嬉しそうに抱きついた。
「……えへへ」
「どうした? 随分ご機嫌だな」
「だって……和真が戻ってきてくれたから」
「約束しただろ」
「……うん!」
フェンリスは満面の笑みを浮かべた。
和真はそんな彼女の頭を優しく撫でる。
だが、ふとナディアとのことが頭をよぎった。
以前なら、深く考えずに過ごしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
腕の中で甘えてくるフェンリスを見つめる。
あれほど寂しい思いをさせてしまった。
だからこそ、もう同じことは繰り返したくなかった。
和真はそっと彼女を抱きしめ直した。
「……和真?」
「ん?」
「……どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「……そっか」
フェンリスは嬉しそうに微笑み、もう一度胸元に頬を寄せた。
◇
そして翌日。
今度はみゆが動いた。
「和真!」
「ん?」
居間で帳簿を整理していた和真が顔を上げる。
すると、みゆがすぐ隣に座った。
「ねえねえ、和真」
「どうした?」
「ちょっとこっち向いて」
「何だ?」
言われるまま顔を向けた瞬間。
ちゅっ。
「……っ!?」
頬に柔らかな感触。
みゆが突然キスをしたのだ。
「えへへ。成功!」
「みゆ! 急に何するんだよ!」
「キスだけど?」
「それは分かってる!」
「じゃあ、何を聞いてるの?」
「そういうことじゃなくて!」
みゆは楽しそうに笑う。
二本の尻尾が、ゆらゆらと揺れていた。
「ねえ、和真」
「……今度は何だ?」
「僕の部屋、来ない?」
「……何で?」
「ちょっとお願いがあるんだ」
みゆが和真の手を握る。
「ね? 少しだけ!」
「……本当に少しだけだぞ」
「うん!」
満面の笑みを浮かべると、みゆは和真を自分の部屋へ連れていった。
◇
みゆの部屋に入る。
扉を閉めた途端、彼女はくるりと振り返った。
「和真!」
「ん?」
「ぎゅーってして!」
「……は?」
みゆが両腕を広げる。
「僕も甘えたいんだもん!」
「……お前までか」
「だって、最近フェンリスばっかりずるいよ!」
頬を膨らませながら、みゆが近づく。
「僕だって、和真にくっつきたいんだから!」
「……分かったよ」
和真が腕を広げる。
すると、みゆは嬉しそうに飛び込んできた。
「えへへ……!」
ぎゅっと抱きつく。
そして、胸元に頬をすり寄せた。
「……あったかい」
「そりゃ、生きてるからな」
「もう! そういうことじゃないって!」
みゆは笑いながら和真の胸を軽く叩いた。
それから顔を上げる。
「ねえ、和真」
「ん?」
「……キスもして?」
「……お前なぁ」
「駄目?」
猫耳を少し伏せ、上目遣いで見つめる。
その表情に、和真は思わず苦笑した。
「……今日は随分甘えるな」
「フェンリスだけじゃなくて、僕のことも見てほしいんだよ」
みゆの声が少しだけ真剣になる。
「僕だって……和真のこと、大好きなんだから」
「……みゆ」
和真は彼女の頬にそっと手を添えた。
そして、ゆっくりと顔を近づける。
唇が優しく重なった。
「……ん」
みゆは目を閉じる。
短い口づけが終わると、嬉しそうに微笑んだ。
「……えへへ」
「これで満足か?」
「うん!」
そう答えた直後。
「でも、もう一回してほしいな!」
「おい!」
「あははっ!」
みゆは楽しそうに笑いながら、和真に抱きついた。
だが、しばらくすると、その表情が少し変わった。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「実はね、今日はもう一つお願いがあるんだ」
「……まだあるのか?」
「うん」
みゆは和真の手を取り、ベッドの方へ視線を向けた。
そして、少し恥ずかしそうに笑う。
「……今日は、和真と愛し合いたいな」
「……っ!」
和真が目を丸くした。
「お、お前……昼間だぞ!?」
「知ってるよ?」
「いや、そうじゃなくて……」
「昼間だって、和真と一緒にいたい気持ちは変わらないもん」
みゆは和真の胸に頬を寄せる。
「……最近、ずっと我慢してたんだよ?」
「……みゆ」
「フェンリスが元気になってくれたのは嬉しいよ。でも……僕だって、和真に甘えたいんだ」
二本の尻尾が、ゆっくりと揺れる。
「……駄目?」
和真は返事に迷った。
昨日のナディアとのこと。
以前、ユエから言われた言葉。
そして、みゆとの関係。
自分の気持ちは、まだ整理しきれていない。
それでも、みゆが自分を想ってくれていることはよく分かっていた。
「……みゆ」
「うん?」
「本当に、俺でいいのか?」
みゆはきょとんとした。
そして、すぐに笑った。
「もう! 何言ってるの!」
和真の胸を軽く叩く。
「和真がいいから誘ってるんでしょ!」
「……そっか」
「そうだよ!」
みゆは和真を見つめる。
「……和真は?」
少しだけ不安そうな声。
「僕と一緒にいるの、嫌?」
和真は首を横に振った。
「嫌なわけないだろ」
「……えへへ」
みゆの顔が明るくなる。
和真は彼女の手を握り直した。
「ただ、俺はまだ、みゆが望んでる答えを出せていない」
「……うん」
「それでも、いいのか?」
みゆは少し考えた。
そして、優しく微笑む。
「……いいよ」
「みゆ……」
「だって、僕は和真が好きなんだもん」
そう言って、もう一度抱きついた。
「だから……今日は僕のこと、いっぱい甘やかして?」
和真は彼女を優しく抱きしめた。
「……分かったよ」
「……やった!」
みゆは嬉しそうに笑い、和真の首に腕を回した。
再び唇が重なる。
今度は、どちらもすぐには離れなかった。
そして二人は、手を繋いだままベッドへ向かった。
◇
しばらくして。
午後の柔らかな日差しが差し込む部屋で、みゆは和真の腕に抱かれていた。
二人は再び男女の仲になり、親密な時間を過ごしていた。
「……えへへ」
「……何だよ」
「幸せだなぁって」
みゆは嬉しそうに笑い、和真の胸に頬を寄せる。
「……和真」
「ん?」
「僕のことも、ちゃんと好きでいてね」
和真は一瞬、言葉に詰まった。
以前、みゆに伝えたことがある。
自分の気持ちは、まだちゃんと考えたいと。
その答えは、今も出ていない。
「……みゆ」
「分かってるよ」
みゆは優しく笑った。
「まだ、答えを急がせるつもりはないから」
そして、少しいたずらっぽい顔になる。
「でも、僕だって簡単には諦めないよ?」
「……そうか」
「うん!」
みゆはもう一度、和真へ抱きついた。
「だって、和真のこと大好きだもん!」
その笑顔に、和真も自然と微笑んだ。
けれど、胸の奥には少しだけ複雑な気持ちが残っていた。
ナディアも、みゆも、自分にまっすぐ好意を向けてくれている。
そんな二人に甘えているのは、自分の方なのかもしれない。
「……和真?」
「ん?」
「難しい顔してるよ?」
「……そうか?」
「うん」
みゆは和真の頬に触れた。
「……今は、あんまり難しく考えなくてもいいよ」
「みゆ……」
「でも、いつかはちゃんと考えてね」
その言葉に、和真は頷いた。
「……ああ」
「えへへ。約束だよ!」
みゆは嬉しそうに笑い、和真の頬に軽くキスをした。
◇
その夜。
和真が寝る準備をしていると、フェンリスが布団に座っていた。
「和真、今日はこっち向いて寝てね」
「分かった」
「あと、手も繋いでほしいな」
「はいはい」
「……それから」
「まだあるのか?」
「……寝る前に、頭も撫でて?」
和真は思わず笑った。
「本当に欲張りだな」
「……えへへ」
フェンリスは少し恥ずかしそうに笑う。
その時だった。
コンコン。
扉を叩く音。
「和真、入っていい?」
「みゆ?」
扉が開く。
そこには、枕を抱えたみゆが立っていた。
「……何で枕?」
「今日は僕もここで寝るから!」
「……え?」
和真とフェンリスの声が重なった。
みゆは当然のように部屋へ入ってくる。
「だって、僕も和真と一緒に寝たいんだもん!」
「いや、フェンリスがいるんだけど……」
「うん。知ってるよ?」
「……みゆ?」
フェンリスが困惑したように首を傾げる。
すると、みゆはにっこり笑った。
「三人で寝ればいいでしょ?」
「ええっ!?」
フェンリスの狼耳がぴんと立つ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 僕がいるんだよ!?」
「うん。だから三人なんじゃん!」
「そうじゃなくて!」
「フェンリスだけ和真と毎晩一緒なんて、ずるいよ!」
「そ、それは……!」
フェンリスが言葉に詰まる。
みゆは枕を抱えたまま、少しだけ表情を柔らかくした。
「……ねえ、フェンリス」
「……何?」
「僕も、和真に甘えたいんだ」
まっすぐな言葉。
フェンリスは黙ってみゆを見つめる。
以前なら、素直に頷けなかったかもしれない。
みゆが和真と特別な関係になったことを知った時、胸が張り裂けそうだった。
祝福したいのに涙が止まらず、どうしたらいいのか分からなくなった。
その気持ちが、完全に消えたわけではない。
けれど。
みゆが自分を心配してくれていたことも、病院で涙を流していたことも知っている。
ずっとそばにいてくれた、大切な友達でもある。
フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。
「……和真の隣、譲らないからね」
「えへへ。大丈夫!」
みゆは楽しそうに笑った。
「反対側に寝るから!」
「……え?」
フェンリスが目を丸くする。
和真は嫌な予感がした。
「……ちょっと待て。まさか」
「うん!」
みゆが元気よく頷く。
「和真を真ん中にして寝よう!」
「……やっぱりか!」
◇
結局。
三人で並んで寝ることになった。
右にはフェンリス。
左にはみゆ。
そして真ん中には、和真。
「……何でこうなるんだ」
和真が天井を見上げる。
フェンリスは腕にぎゅっと抱きつき、みゆも反対側から身体を寄せていた。
「……和真、あったかい」
「僕もそう思う!」
「お前ら、俺を湯たんぽか何かだと思ってないか?」
「違うよ!」
「そうそう。和真はもっといいものだよ!」
「……それ、褒めてるのか?」
二人が楽しそうに笑う。
和真もつられて笑ってしまった。
しばらくすると、フェンリスが小さく呟いた。
「……みゆ」
「ん?」
「……ありがとね」
みゆが顔を向ける。
「何が?」
「……色々」
フェンリスは和真の腕を抱いたまま、少しだけ目を伏せた。
「僕、ずっと一人で考えて……勝手に落ち込んで……」
「……うん」
「みゆにも、いっぱい心配かけちゃった」
みゆは黙って聞いていた。
「でも……もう、我慢するのはやめたから」
フェンリスが顔を上げる。
「僕も、ちゃんと自分の気持ちを大切にする」
みゆは少しだけ目を細めた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、僕も遠慮しないよ?」
「……分かってる」
フェンリスは小さく笑った。
「……負けないからね」
「僕だって!」
二人は顔を見合わせて笑う。
その真ん中で、和真だけが困ったように頬をかいた。
「……お前ら、何の勝負してるんだ?」
「内緒!」
「……教えないよ」
「……何だよ、それ」
和真は苦笑した。
だが、フェンリスは和真の腕を抱きしめたまま、少しだけみゆの方を見た。
「……ねえ、みゆ」
「ん?」
「……今度、ちゃんと二人でも話そうね」
みゆは少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、優しく微笑む。
「……うん。いいよ」
フェンリスも小さく笑った。
今はまだ、全部を割り切れるわけではない。
けれど、こうして一緒に笑うことはできる。
それだけでも、以前より少し前に進めた気がした。
やがて部屋の明かりが消える。
両側から伝わる温もり。
フェンリスは和真の手を握り、みゆは彼の肩に頬を寄せた。
「……おやすみ、和真」
「おやすみ!」
「ああ。おやすみ」
静かな夜。
しばらくすると、二人の寝息が聞こえ始めた。
和真はそっと目を閉じる。
少し窮屈だったが、不思議と落ち着いた。
何より、フェンリスがこうして笑ってくれる。
そのことが、心から嬉しかった。
◇
そんな賑やかな日々が続き、さらに数日が過ぎた。
フェンリスの体調は順調に回復していた。
食事も残さず食べられるようになり、以前のような明るい笑顔が戻ってきた。
無理のない範囲で庭を散歩したり、居間でみんなと話したりする時間も増えている。
そして何より、以前のように一人で抱え込むことが少なくなった。
「フェンリス、おかわりは?」
朝食の席で酒菜が尋ねる。
「うん! もう少し食べたい!」
「おう! 待ってろ!」
酒菜は嬉しそうに笑い、追加の料理を用意する。
「しっかり食って、ちゃんと元気になれよ!」
「ありがとう、酒菜!」
そんな二人のやり取りを、和真も笑顔で眺めていた。
以前は食事を抜くことも増え、顔を合わせる機会すら少なくなっていた。
それが今は、こうしてみんなと食卓を囲んでいる。
その当たり前の光景が、何より嬉しかった。
◇
ある日の朝。
和真はフェンリスと一緒に、庭をゆっくり歩いていた。
冬の冷たい空気が頬に触れる。
フェンリスは暖かい上着を羽織り、和真の腕にそっと手を添えていた。
「身体の調子はどうだ?」
「うん! もう随分元気になったよ!」
「そうか。でも、無理はするなよ?」
「分かってるって!」
フェンリスは嬉しそうに笑う。
大きな尻尾がふわふわと揺れた。
「……和真」
「ん?」
「……僕、そろそろ自分の部屋に戻ろうかな」
「そうか?」
「うん。いつまでも和真の部屋にいるわけにもいかないし……」
少し寂しそうに笑うフェンリス。
和真はその頭を軽く撫でた。
「いつでも遊びに来ればいいだろ」
「……いいの?」
「もちろん」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、たまには一緒に寝てもいい?」
「……たまにならな」
「やった!」
大きな尻尾が勢いよく揺れる。
「……あっ、でも」
「ん?」
「みゆも来るのかな……」
和真は思わず苦笑した。
「……どうだろうな」
「……うぅ」
フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。
だが、すぐに笑顔に戻る。
「……まあ、いいや!」
「いいのか?」
「うん!」
フェンリスは和真の腕に抱きついた。
「だって……これからは、僕もいっぱい甘えるって決めたから!」
「……そっか」
和真は嬉しそうに笑った。
そして、フェンリスの頭を優しく撫でる。
しばらく一緒に歩いた後、フェンリスは少しだけ勇気を出して尋ねた。
「……ねえ、和真」
「何?」
「……旅行のこと、覚えてる?」
和真の足が止まる。
フェンリスは少し不安そうに見上げた。
「……ずっと楽しみにしてたけど、倒れちゃったから……」
「……忘れるわけないだろ」
「……っ!」
和真は優しく微笑んだ。
「十二月二十三日から、函館だろ?」
「……うん!」
「三泊四日。二十六日に帰ってくる予定だ」
フェンリスの顔がぱっと明るくなった。
「……ちゃんと覚えててくれたんだね!」
「当たり前だろ」
和真は笑った。
「航空券のことも、宿のことも、お客さんや店長さんが準備してくれたんだからな」
「……うん」
フェンリスは小さく頷く。
そして、少しだけ目を潤ませた。
「……本当に、ありがたいね」
「ああ」
和真も頷く。
フェンリスの職場のお客さんたちが、退院祝いとして航空券の費用を援助してくれたこと。
店長夫妻が、以前泊まって良かったという湯の川温泉の旅館を紹介してくれたこと。
そして、みんながフェンリスの回復を喜び、旅行を楽しみにしてくれていること。
その一つ一つが、二人にとって大切なものだった。
「……僕、ちゃんとお礼を言いたいな」
「そうだな。旅行から帰ったら、写真も見せに行こうか」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そして、和真の手をぎゅっと握る。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「そろそろ、旅行の計画の続きを立てない?」
和真は微笑んだ。
「ああ。そうしよう」
◇
その日の午後。
和真の部屋には、旅行の資料が広げられていた。
テーブルの上には、航空券の予約内容と旅館の案内。
日程は十二月二十三日から二十六日。
三泊四日の北海道旅行。
目的地は函館。
宿泊先は、店長夫妻がすすめてくれた湯の川温泉の旅館だった。
「さて、どこを回ろうか」
「……うーん」
フェンリスは端末を覗き込む。
「僕、函館って行ったことないから、色々見てみたい!」
「そうだな。せっかく三泊するんだし、ゆっくり観光しよう」
「うん!」
まず二人が調べ始めたのは、函館の観光名所だった。
「……あっ!」
「どうした?」
「これ!」
フェンリスが画面を見せる。
そこに映っていたのは、夜の函館を見下ろす美しい景色だった。
「……すっごく綺麗!」
「函館山の夜景か」
「うん!」
フェンリスの瞳が輝く。
「僕、これ見たい!」
「いいな。函館といえば有名な夜景だし」
「……和真と一緒に見たいな」
フェンリスは少し頬を赤くしながら微笑んだ。
和真も頷く。
「じゃあ、行こうか。天気のいい日に見られるよう、日程には余裕を持たせておこう」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
◇
「それから、ここも行ってみたい!」
次にフェンリスが見つけたのは、赤レンガ倉庫が並ぶ港沿いの風景だった。
「金森赤レンガ倉庫か」
「うん! お店がいっぱいあるんだって!」
「お土産も探せそうだな」
「……あっ!」
「今度は何だ?」
「クリスマス!」
フェンリスが嬉しそうに声を上げた。
「僕たち、十二月二十三日から行くんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、クリスマスも函館で過ごすんだ!」
「そうなるな」
その言葉を聞いた途端、フェンリスの顔が真っ赤になった。
「……和真と、クリスマス……」
小さく呟く。
クリスマスイブも。
クリスマス当日も。
和真と二人きり。
それも、いつもとは違う場所で。
「……フェンリス?」
「……っ! な、何でもない!」
「急にどうした?」
「何でもないって!」
和真が不思議そうに首を傾げる。
フェンリスは慌てて画面へ目を戻した。
だが、大きな尻尾だけは正直だった。
嬉しそうに、何度も左右へ揺れている。
◇
「……そういえば、フェンリス」
「ん?」
「函館朝市も行ってみるか?」
「朝市?」
「ああ。海鮮丼とか、色々食べられるらしい」
和真が写真を見せる。
新鮮な魚介が盛られた丼。
焼き魚。
カニやイカ。
フェンリスの目が輝いた。
「……おいしそう!」
「だろ?」
「僕、これ食べたい!」
「じゃあ、朝市も予定に入れようか」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「でも、朝ご飯をいっぱい食べたら、お昼にお腹空かなくなっちゃうかな?」
「ははっ。そこは考えて食べような」
「……和真と半分こする!」
「それもいいな」
「えへへ!」
二人は楽しそうに笑った。
それから、五稜郭や元町の街並みも調べていく。
「……ここも綺麗」
フェンリスが指さしたのは、星形の城郭を上から眺めた写真だった。
「五稜郭だな」
「星みたいな形!」
「そうだな。上から見るとよく分かるな」
「ここも行きたい!」
「よし、候補に入れておこう」
和真は手帳に予定を書き込んだ。
ただし、無理に詰め込むつもりはない。
今回は何より、フェンリスがゆっくり楽しめることが大切だった。
◇
「……ねえ、和真」
「ん?」
「……旅館のことも、もう一回見たいな」
「いいよ」
和真は店長夫妻から紹介された旅館の案内を開いた。
湯の川温泉にある、落ち着いた雰囲気の旅館。
客室には露天風呂があり、ゆっくり温泉を楽しめる。
「……わぁ」
フェンリスが嬉しそうに声を上げた。
「やっぱり、すっごく綺麗だね」
「ああ。店長夫妻がおすすめするだけあるな」
「……うん」
フェンリスは部屋の写真をじっと見つめる。
暖かそうな和室。
窓の向こうに広がる冬の景色。
そして、客室露天風呂。
「……和真」
「ん?」
「……一緒に、温泉に入れるかな」
その言葉に、和真が顔を上げた。
「……え?」
フェンリスは自分の言葉の意味に気づき、慌てて手を振った。
「あっ! その! 別に変な意味じゃなくて!」
「……お、おう」
「せっかく部屋に温泉があるんだし! 一緒に景色を見たり、ゆっくりしたりできたらいいなって!」
必死に説明するフェンリス。
顔は真っ赤だった。
和真は思わず笑った。
「分かってるよ」
「……もう!」
フェンリスは頬を膨らませた。
けれど、少しして和真の肩にそっと寄りかかる。
「……でも、本当に楽しみ」
「ああ。俺もだよ」
フェンリスは嬉しそうに微笑んだ。
そして、もう一度旅館の写真へ目を向ける。
三泊四日。
和真と三回も同じ宿で夜を過ごす。
そう考えただけで、胸がどきどきした。
◇
その後、二人は大まかな予定を整理していった。
初日は飛行機で函館へ向かい、無理のない範囲で観光を楽しんでから旅館へ。
二日目は、街並みを眺めたり、港の周辺を散策したりする。
函館山の夜景も、天候が良ければ見に行きたい。
三日目は朝市や五稜郭など、まだ訪れていない場所を回る。
そして最終日は、余裕を持って空港へ向かい、帰宅する。
「……こんな感じかな」
和真が手帳を見せる。
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
「ただし、全部回ろうと無理する必要はないからな」
「分かってるよ」
「疲れたら途中で休む。体調が悪かったら予定を変える。それでいいな?」
「……うん」
フェンリスは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「……僕のせいで、色々気を遣わせちゃうね」
「何言ってるんだよ」
和真は笑った。
「旅行なんだから、ゆっくり楽しめばいいだろ?」
「……うん」
「それに、今回は四日間あるんだ。慌てる必要なんかないよ」
その言葉に、フェンリスは少し目を潤ませた。
「……ありがとう、和真」
「どういたしまして」
フェンリスは和真の腕にそっと抱きついた。
「……僕、絶対楽しい旅行にするからね」
「ああ。俺も楽しみにしてるよ」
「……えへへ」
幸せそうな笑顔。
和真も自然と笑みを浮かべた。
◇
その日の夕方。
居間では、みんながそれぞれの時間を過ごしていた。
そんな中、フェンリスは嬉しそうに和真の腕に抱きついている。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「クリスマス、楽しみだね!」
「ああ。函館で過ごすクリスマスか。いいな」
その言葉を聞いたみゆが、ぴくりと猫耳を動かした。
「……クリスマス?」
ナディアも顔を上げる。
「おい、そういやお前ら、二十三日からだったな」
「……うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
「三泊四日だもん!」
「いいなぁ……」
みゆが少し羨ましそうに呟く。
「僕の時は一泊二日だったのに……」
「……みゆ?」
「しかも、クリスマスを和真と二人きりなんて!」
みゆの尻尾が大きく揺れる。
ナディアも腕を組んで笑った。
「はっ! 三泊四日でクリスマスまで一緒とは、ずいぶん贅沢な旅行じゃねえか」
「……そ、それは……!」
フェンリスが慌てる。
しかし、ナディアはにやりと笑った。
「まっ、いいんじゃねえか?」
「……え?」
「お前、ずっと楽しみにしてたんだろ?」
フェンリスは少し驚いたようにナディアを見る。
「……うん」
「だったら、思いっきり楽しんでこいよ」
ナディアは笑った。
「ただし、体調にはちゃんと気をつけろよな!」
「……うん!」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
すると、みゆが和真の腕に抱きついた。
「ねえ、和真!」
「ん?」
「帰ってきたら、僕ともまた旅行に行こうね!」
「……みゆ!」
フェンリスが慌てる。
「今は僕の旅行の話なんだから!」
「分かってるよ!」
みゆは楽しそうに笑った。
「だから、帰ってきてからの話!」
「……もう!」
そんな二人を見て、ナディアも笑った。
「ははっ! だったら俺様もまた連れていってもらうかな!」
「ナディアまで!?」
「当然だろ? 俺様だってまた和真と旅行してえしな!」
和真は三人を見比べ、思わず頭を抱えた。
「……お前らなぁ」
「へへっ。人気者は大変だな、和真!」
「僕だって負けないよ!」
「……僕の旅行なのに!」
三人の賑やかな声が居間に響く。
その様子を見ていた酒菜が、楽しそうに笑った。
「ははっ! まったく、和真も大変だな!」
和真は苦笑する。
「……本当にな」
だが、その表情はどこか嬉しそうだった。
◇
夜。
和真の部屋では、フェンリスが旅行の資料を眺めていた。
函館山の夜景。
港の街並み。
五稜郭。
湯の川温泉の旅館。
どの写真を見ても、自然と笑顔になってしまう。
「……三泊四日かぁ」
嬉しそうに呟く。
「そんなに楽しみか?」
和真が尋ねると、フェンリスは勢いよく頷いた。
「うん!」
そして、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……だって、和真と四日間も一緒にいられるんだよ?」
「普段だって一緒にいるだろ?」
「……そうだけど」
フェンリスは少し頬を赤くした。
「……旅行だと、また違うもん」
「そうか?」
「……うん」
フェンリスは和真の隣に座る。
そして、そっと肩に寄りかかった。
「……僕ね」
「ん?」
「ずっと、この日を待ってたんだ」
和真は静かに耳を傾ける。
「みんなが旅行に行くたび、羨ましくて……」
「……うん」
「でも、和真にそんなこと言ったら困らせちゃうと思って……」
フェンリスは少しだけ目を伏せた。
「……だから、ずっと我慢してた」
和真は何も言わなかった。
ただ、彼女の手をそっと握る。
「……でも、もう我慢しないって決めたから」
フェンリスが顔を上げる。
真っ直ぐに和真を見つめた。
「……今回の旅行、いっぱい甘えるからね」
「ははっ。今でも十分甘えてるだろ」
「……もっと!」
「もっとか?」
「うん!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
「……和真が困っちゃうくらい!」
「それは勘弁してほしいなぁ」
「えへへ!」
楽しそうな笑い声。
和真もつられて笑った。
◇
やがて、夜も更けてきた。
和真が布団を整えていると、フェンリスがそっと近づいてきた。
「……和真」
「ん?」
「……今日も、一緒に寝ていい?」
「もちろん」
「……えへへ」
フェンリスは嬉しそうに布団へ入る。
和真が隣に横になると、すぐに身体を寄せてきた。
「……和真」
「今度は何だ?」
「……大好きだよ」
和真は少し驚いたように彼女を見た。
フェンリスは頬を赤くしながら、それでも目を逸らさなかった。
「……ずっと、大好きだった」
「……フェンリス」
和真は優しく微笑んだ。
「ありがとうな」
そして、彼女の頭をそっと撫でる。
フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。
「……もう」
「ん?」
「……何でもない!」
そう言いながらも、和真の胸元に顔を埋める。
今は、まだそれでいい。
でも。
旅行の時には、ちゃんと伝える。
ただの感謝でも、家族としての好きでもない。
一人の女の子として、和真のことが大好きなのだと。
そして、できることなら――。
和真にも、自分を同じように想ってほしい。
フェンリスは和真の服をぎゅっと握った。
「……和真」
「ん?」
「……旅行、絶対楽しいものにしようね」
「ああ。約束だ」
その言葉を聞いて、フェンリスは幸せそうに目を閉じた。
大きな尻尾が、布団の上をゆっくりと揺れる。
長い間待ち続けた、二人きりの旅行。
十二月二十三日。
北海道・函館。
クリスマスを一緒に過ごす、三泊四日の特別な旅。
その日が来ることを、フェンリスは心から楽しみにしていた。




