第五十二話 もう我慢しないから
病室に差し込む午後の日差しが、白いシーツを柔らかく照らしていた。
「検査の結果も落ち着いていますし、今日の夕方には退院していただいて構いません」
「本当ですか!?」
担当医の言葉に、和真は思わず身を乗り出した。
「はい。ただし、完全に回復したわけではありません。過労に加えて栄養状態も悪くなっていましたから、しばらくは自宅で十分に静養してください」
「はい。ありがとうございます」
「特に食事と睡眠は大切です。お仕事も、当分の間はお休みするようにしてください」
医師がフェンリスへ視線を向ける。
「……はい。わかりました」
フェンリスは素直に頷いた。
現在の彼女は、病院にいるため人間の姿になっている。
銀色から淡い桃色へと変わる髪はそのままだが、普段の大きな狼耳と尻尾はない。
その姿でベッドに座り、隣にいる和真の手を握っていた。
「フェンリス」
「ん?」
「先生の話、ちゃんと聞いたな?」
「うん。しばらくお仕事はお休みして、ちゃんとご飯を食べて、いっぱい寝るんだよね?」
「ああ。絶対に無理しないでくれよ」
「もう、わかってるって!」
フェンリスは少し頬を膨らませた。
しかし、和真はいつになく真剣な表情だった。
「……本当に心配したんだからな」
「……和真?」
「みゆから倒れたって聞いたとき、何が起きたのかわからなかった。病院に着いても意識が戻ってなくて……」
和真は言葉を詰まらせた。
点滴につながれたまま、眠るように横たわっていたフェンリス。
何度呼びかけても返事がなかった。
握った手も、握り返してはくれなかった。
あのとき感じた恐怖が、まだ胸の奥に残っていた。
「……もう、あんな思いはしたくないんだ」
その言葉に、フェンリスは目を見開いた。
病室で目を覚ましたときの和真を思い出す。
涙を流しながら、自分の無事を喜んでくれた和真。
強く抱きしめてくれた腕。
あんなにも取り乱した和真を見るのは、初めてだった。
「……ごめんね、和真」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
和真は握っていた手に、そっと力を込めた。
「ただ、元気でいてほしいんだ」
「……うん」
「何かあったら、ちゃんと頼ってくれ。仕事のことでも、ほかのことでも」
「……うん!」
フェンリスは両手で和真の手を包み込んだ。
「もう大丈夫だよ。僕、ちゃんと頼ることにしたから!」
「そっか」
「それに……」
フェンリスは少しだけ頬を染めた。
「これからは、いっぱいわがままも言うつもりだし!」
「ははっ。それは楽しみだな」
和真が笑う。
そんな二人のやり取りを見ていたみゆも、ようやく安心したように息を吐いた。
「本当にそうしてよね。僕だって、すっごく心配したんだから」
「うん。みゆもありがとう」
「……もう、ほんとに心配かけすぎ」
そう言いながら、みゆはフェンリスの頭を撫でた。
その隣ではナディアが腕を組んでいる。
「まったくだ。せっかく俺様が背中を押してやったんだ。もう一人で抱え込むんじゃねぇぞ」
「えへへ。わかってるよ!」
「ふん。ならいい」
ナディアは満足そうに笑った。
リディアも退院後の注意事項を確認しながら口を開く。
「帰宅後は私も体調を確認します。少しでも具合が悪くなったら、我慢せずに教えてくださいね」
「うん! ありがとう、リディア!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
病室で交わした約束。
もう自分の気持ちを押し殺さないこと。
みゆにも、ナディアにも遠慮しないこと。
そして、和真のそばにいたいという気持ちから逃げないこと。
フェンリスは、その約束をしっかりと胸に刻んでいた。
◇
夕方。
退院の手続きを終えた一行は、車で帰路についた。
助手席にはフェンリス。
後部座席には、みゆ、ナディア、リディアが座っている。
「フェンリス、疲れたら寝てていいからな」
「うん。でも、今は眠くないよ」
「そうか?」
「だって、久しぶりに和真と一緒に帰れるんだもん」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
その言葉に、和真も微笑む。
「そうだな。こうして一緒に帰るのも久しぶりだな」
「……うん」
思い返せば、ここ最近はほとんど顔を合わせていなかった。
朝早くから仕事に出かけ、帰ってくるのは夜遅く。
食事の時間も合わず、顔を見ない日すらあった。
和真も、そんな日々にどこか物足りなさを感じていた。
「……帰ったら、また一緒にご飯食べような」
「うん!」
「酒菜も、フェンリスが食べられるものを作ってくれてるみたいだぞ」
「本当!?」
「ああ。帰ったらすぐ食べられるようにしてくれるって」
「やった!」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そんな二人を後部座席から見ていたみゆは、小さく微笑む。
「……やっぱり、フェンリスは笑ってる方がいいね」
「そうだな」
ナディアも頷いた。
リディアは静かに端末を閉じると、穏やかな表情を浮かべた。
「これからは、その笑顔を見られる時間も増えそうですね」
「……うん!」
フェンリスは力強く頷いた。
◇
車が敷地に到着した頃には、空が茜色に染まっていた。
母屋へ入ると、リディアがフェンリスの人間化を解除する。
銀色の髪の上に大きな狼耳が現れ、背後には銀色から桃色へと変わる巨大な尻尾がふわりと広がった。
「んーっ!」
フェンリスは気持ちよさそうに背伸びをした。
「やっぱりこっちの姿の方が落ち着くね!」
「まだ無理に身体を動かしてはいけませんよ」
「わかってるって!」
リディアに注意されながらも、フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らしていた。
そのときだった。
「フェンリスー!!」
「わわっ!?」
リビングから飛び出してきたピピが、勢いよく駆け寄ってきた。
「大丈夫!? もう元気!? どこも痛くない!?」
「ピピ! 大丈夫だよ!」
「本当!?」
「うん!」
ピピは翼を大きく広げながら、フェンリスの顔を覗き込んだ。
「よかったぁ……!」
今にも泣き出しそうな表情だった。
「僕、すっごく心配したんだから!」
「ごめんね、ピピ」
「もう倒れちゃだめだよ!」
「うん。約束する!」
続いて、ひかげがおずおずと近づいてきた。
「フェ、フェンリスさん……お帰りなさい……」
「ただいま、ひかげ!」
「ほんまに……よかったです……」
ひかげは目元を拭いながら、小さく微笑んだ。
「私……倒れたって聞いて……すごく怖くなって……」
「……心配かけちゃったね」
「い、いえ……! 帰ってきてくれたんですから……それだけで十分です……」
フェンリスが優しく笑うと、ひかげもようやく安心したように頬を緩めた。
「まったく……」
続いて、あおいが近づいてきた。
「そなたは、どれだけ皆を心配させれば気が済むのじゃ」
「うぅ……ごめんね、あおい」
「もう謝るでない。今は無事に帰ってきたことを喜ぶべきじゃろう」
あおいは小さく息を吐いた。
「ただし、しばらくは大人しくしておるのじゃぞ」
「うん!」
「……本当に、無事でよかったのじゃ」
最後の言葉は、少しだけ震えていた。
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
その後ろから、酒菜が姿を現す。
「おう。帰ってきたか」
「酒菜!」
「顔色は……まあ、昨日よりずっといいな」
酒菜はフェンリスの様子を確かめると、右手を腰に当てた。
「さて、フェンリス」
「……な、なに?」
「俺の作った飯、ずっと食ってなかったそうだな?」
「うっ……」
「それも朝も夜もいらねぇって、自分から言ってきたんだろ?」
「……うん」
「まったく。飯くらいちゃんと食え。俺はお前らに腹いっぱい食ってほしくて作ってるんだからな」
「……ごめん」
フェンリスがしょんぼりと耳を伏せる。
すると酒菜は、少しだけ声を柔らかくした。
「まあ、今は無理して食う必要はねぇよ。食えるようになったら、また好きなもんを作ってやる」
「……本当?」
「ああ。食べたいものがあったら言え」
「ありがとう、酒菜!」
「おう」
酒菜は満足そうに頷いた。
その様子を見ていたユエも、静かに口を開く。
「随分と心配させてくれたわね」
「ユエ……」
「今度は誰かに相談しなさい。あなたが倒れて喜ぶ人なんて、ここには一人もいないんだから」
「……うん」
「それに、和真がどんな顔をして病院へ向かったと思っているの?」
「……え?」
フェンリスは和真を見上げた。
ユエは静かに続ける。
「あなたのことが心配で、ほかのことなんて考えられない様子だったわ」
「……和真が……」
「ええ。だから、もう同じことを繰り返さないことね」
フェンリスは和真の顔をじっと見つめた。
「……和真」
「ん?」
「……心配してくれて、ありがとう」
和真は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。
「当たり前だろ。フェンリスは大切な家族なんだから」
「……うん!」
その言葉に、フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れた。
家族。
その言葉はとても温かかった。
けれど、今のフェンリスには、もう一つ欲しい言葉がある。
いつか、和真の口から聞いてみたい言葉。
それを思い浮かべるだけで、胸が少し高鳴った。
フェンリスは小さく微笑むと、和真の手をそっと握った。
「……ただいま、和真」
「ああ。おかえり、フェンリス」
◇
夕食は、酒菜が用意してくれた温かい雑炊だった。
柔らかく煮込まれた米に、鶏肉と野菜の旨味が染み込んでいる。
「……美味しい!」
一口食べたフェンリスは、嬉しそうに目を輝かせた。
「すっごく美味しいよ、酒菜!」
「そりゃよかった」
酒菜も満足そうに笑った。
フェンリスは和真の隣に座り、時折嬉しそうに彼の顔を見上げながら食事を進めていた。
ただ、まだ身体は完全に回復していない。
半分ほど食べたところで、手が止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「……もう、お腹いっぱいになっちゃった」
少し申し訳なさそうに呟く。
和真は優しく笑った。
「無理しなくていいよ」
「でも……」
「今は少しずつ食べられるようになればいいんだから」
「……うん」
フェンリスは素直に頷いた。
食事の後、みんながリビングでくつろぎ始める。
和真もソファへ腰を下ろした。
すると、すぐにフェンリスが隣へやってきた。
「和真!」
「ん?」
「隣、いい?」
「ああ」
「えへへ!」
フェンリスは嬉しそうに座ると、そのまま和真の腕に抱きついた。
「……フェンリス?」
「んー?」
「どうした?」
「……甘えてるの!」
「……そ、そうか」
あまりに堂々と言われ、和真は思わず笑ってしまった。
しかし、フェンリスは離れようとしない。
それどころか、さらに身体を寄せてくる。
「……和真」
「ん?」
「僕、お願いがあるんだけど……」
「何だ?」
フェンリスは一度深呼吸した。
病室で決めたこと。
もう遠慮しない。
今度こそ、自分の気持ちに素直になる。
「……わがまま、言ってもいい?」
「もちろん」
和真が頷く。
フェンリスは少し頬を赤くしながら続けた。
「……僕、しばらく和真の部屋で休みたい!」
「……俺の部屋?」
「うん!」
フェンリスは真剣な表情で頷いた。
「一人でいると寂しくなっちゃうし……それに、和真のそばにいると安心するんだ」
「……そうなのか」
「だから……身体が元気になるまで、和真の部屋で過ごしたいなって」
少しだけ不安そうに顔を覗き込む。
「……だめ?」
和真は一瞬驚いたものの、すぐに微笑んだ。
「いいよ」
「……本当!?」
「ああ。フェンリスが安心して休めるなら、俺は構わないよ」
「……やったぁ!!」
フェンリスは嬉しさのあまり、和真へ勢いよく抱きついた。
「ありがとう、和真!」
「お、おっと! こら、無理するなって!」
「えへへ!」
和真に抱きついたまま、フェンリスの尻尾が大きく揺れる。
その光景を見ていたみゆは――
「…………あっ」
何かに気づいたように固まった。
そして、両手で頭を抱える。
「……やられた……!」
隣ではナディアも、額に手を当てていた。
「……くそっ。そう来たか」
「ナディア……これ、ずるくない?」
「ずるくはねぇだろ。本人が言ったことだしな」
「それはそうだけど……!」
みゆは和真に抱きつくフェンリスを見る。
すると、フェンリスもこちらへ顔を向けた。
「……えへへ」
満面の笑顔だった。
「フェンリス……」
「ん?」
「……本当に遠慮しなくなったね」
みゆが苦笑する。
フェンリスは少しだけ頬を赤くした。
「だって……もう我慢しないって決めたから!」
「……そっか」
みゆは小さく笑った。
「それなら、僕だって遠慮しないからね?」
「うん!」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
ナディアも腕を組み直す。
「ふん。いい度胸じゃねぇか。俺様も負けるつもりはないからな」
「僕だって負けないよ!」
「ははっ。言うようになったじゃねぇか」
そんな三人のやり取りを聞いていた和真は、首を傾げた。
「……何の勝負だ?」
「「「和真は黙ってて!」」」
「……ええっ!?」
突然三人から言われ、和真は目を丸くした。
その様子に、リビングが笑い声に包まれた。
◇
その夜。
和真が寝る準備をしていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「和真! 入っていい?」
「ああ、いいよ」
扉を開けると、フェンリスが枕と毛布を抱えて立っていた。
「……えへへ。来ちゃった!」
「ははっ。いらっしゃい」
和真はベッドを整えながら言った。
「フェンリスはベッドを使ってくれ。俺は下に布団を敷くから」
「……え?」
フェンリスの耳がぴたりと止まった。
「……別々なの?」
「ん?」
「……一緒に寝ちゃ、だめ?」
和真が驚いて振り返る。
フェンリスは少しだけ頬を赤くした。
「その……和真に抱きしめてもらいながら寝たいなって……」
「……フェンリス」
「だって……」
フェンリスは枕をぎゅっと抱きしめた。
「病院で目を覚ましたとき、和真が抱きしめてくれたでしょ?」
「ああ……」
「あのとき、すっごく嬉しかったんだ」
フェンリスは顔を上げた。
「だから……もう一回、お願いしたいなって」
和真はしばらくフェンリスを見つめていた。
そして、優しく微笑んだ。
「……わかったよ」
「……本当!?」
「ああ。ただし、ちゃんと寝ること。身体を休めるためなんだからな」
「うんっ!」
フェンリスは嬉しそうにベッドへ潜り込んだ。
和真も隣へ横になる。
すると、フェンリスはすぐに身体を寄せてきた。
「……和真」
「ん?」
「……ぎゅってして?」
「……こうか?」
和真が優しく腕を回す。
フェンリスは幸せそうに目を細めた。
「……うん」
大きな尻尾が、毛布の外でゆっくりと揺れる。
「……あったかい」
「そうか?」
「うん……」
フェンリスは和真の胸元へ顔を寄せた。
しばらくして、小さな声で呟く。
「……僕ね」
「ん?」
「……和真が心配してくれたの、すっごく嬉しかった」
「……そっか」
「でも……」
フェンリスは少しだけ顔を上げた。
「もう、あんな顔させたくないなって思ったんだ」
和真は静かにフェンリスを見つめる。
「……だから、ちゃんと元気になるよ」
「……うん」
「それで……」
少しだけ頬を染める。
「これからは、もっともっと和真に甘えるからね?」
「ははっ。わかったよ」
「……本当に?」
「ああ」
「じゃあ……覚悟しててね?」
フェンリスはいたずらっぽく笑った。
「僕、もう遠慮しないから!」
和真も笑顔を返す。
「楽しみにしてるよ」
「……えへへ!」
フェンリスは再び和真の胸元へ顔を寄せた。
その夜。
久しぶりに感じる和真の温もりに包まれながら、フェンリスは穏やかな眠りについた。
◇
翌日の昼前。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「はーい!」
和真が玄関へ向かうと、そこには数人の男女が立っていた。
「こんにちは。突然すみません」
「あっ! フェンリスの職場の……!」
訪ねてきたのは、フェンリスがアルバイトをしている酒屋の店長夫妻と、数人の従業員たちだった。
「フェンリスが昨日退院したと聞きましてね。少しだけ顔を見られればと思いまして」
「わざわざありがとうございます。どうぞ、上がってください」
和真は一行を母屋へ案内した。
その途中。
一人の男性従業員が、和真の顔をじっと見つめていた。
「……ん?」
和真もその男性へ視線を向ける。
「……あれ?」
「……もしかして、和真か?」
「えっ?」
数秒の沈黙。
そして――
「……直人兄ちゃん!?」
「やっぱり和真か!!」
二人は同時に笑顔になった。
「うわっ! 久しぶり! 何年ぶりだよ!」
「お前、随分でかくなったなぁ!」
突然盛り上がり始めた二人を見て、店長夫妻も驚いた様子だった。
「おや、知り合いだったのかい?」
「はい! 昔、近所に住んでたお兄さんなんです!」
「へえ! そんな偶然があるんだねぇ!」
店長も嬉しそうに笑った。
すると、奥さんが和真に声をかける。
「和真さん、せっかくだから少しお話ししてきたら? フェンリスには私たちから話があるから」
「えっ、いいんですか?」
「ええ。久しぶりなんでしょう?」
「ありがとうございます」
和真と男性従業員は、懐かしい昔話をしながら少しだけ席を外した。
◇
リビングでは、フェンリスが店長夫妻を迎えていた。
「店長! 奥さん!」
「フェンリス!」
奥さんはすぐにフェンリスへ駆け寄り、その手を握った。
「本当によかった……! 心配したのよ!」
「……ごめんなさい」
「もう、謝らなくていいの。こうして元気な顔を見られたんだから」
奥さんは優しく微笑んだ。
従業員たちも口々に声をかける。
「本当にびっくりしたんだから!」
「倒れたって聞いたとき、どうなることかと思ったよ!」
「みんな……ありがとう」
フェンリスは嬉しそうに笑った。
そのとき、店長が一歩前へ出た。
「……フェンリス」
「はい?」
店長は真剣な表情で頭を下げた。
「本当にすまなかった」
「……えっ!?」
フェンリスは慌てて立ち上がろうとした。
「て、店長! 頭を上げてよ!」
「俺が事故で入院してから、君にはずっと負担をかけてしまった」
「……そんな……」
「俺が仕事をできなかった間、店を支えてくれたのは君たちだった。それなのに、戻ってからも君が無理をしていることに気づいてやれなかった」
店長は悔しそうに言葉を続けた。
「もっと早く休ませるべきだった。本当に申し訳ない」
「……店長」
フェンリスは小さく首を振った。
「違うよ。僕が勝手に頑張りすぎただけなんだ」
「それでもだ」
店長は顔を上げた。
「君は大事な従業員なんだ。身体を壊してまで働いてほしいわけじゃない」
「……うん」
「だから、しばらくは仕事を休んでくれ」
「……え?」
「元気になるまで、無理に戻ってこなくていい」
「で、でも! お店は!?」
「大丈夫。俺も少しずつ仕事に戻れているし、みんなで何とかするよ」
従業員たちも頷いた。
「そうそう! フェンリスはちゃんと休んで!」
「いつも頑張ってくれてたんだから、今度は俺たちに任せてよ!」
「……みんな」
フェンリスの瞳が潤む。
すると、店長がもう一つ話を切り出した。
「それと、休んでいる間の給料だけど……こちらで補償させてもらおうと思っているんだ」
「……えっ!?」
フェンリスの耳がぴんと立った。
「そ、そんなのだめだよ!」
「どうしてだい?」
「だって、僕、お仕事してないんだよ!? それなのにお給料なんてもらえないよ!」
慌てて首を振るフェンリス。
その様子に、店長は穏やかに笑った。
「フェンリス。君はね、もう十分すぎるほど頑張ってくれたんだよ」
「……え?」
「君が店に来てから、お客様が随分と増えたんだ」
店長は嬉しそうに続けた。
「最初は君の明るい接客が評判になってね。君に会いたいってお客様が増えたんだよ」
「……僕に?」
「ああ。それに、最近は配達先でも随分と評判がよくてね」
店長は笑った。
「いつも元気よく挨拶してくれる。重たい荷物も丁寧に運んでくれる。困っているときは手伝ってくれる。そんな話を何度も聞いたよ」
「…………」
「そのおかげで、新しい常連さんも随分と増えたんだ」
奥さんも微笑みながら頷いた。
「フェンリスが頑張ってくれたおかげで、最近はお店も随分と賑やかになったのよ」
「……そうだったんだ……」
フェンリスは驚いたように目を丸くした。
自分はただ、一生懸命働いていただけだった。
店長が事故に遭ってからは、少しでも役に立ちたかった。
そして最近は、和真やみゆのことを考えずに済むように、仕事へ打ち込んでいた。
そんな自分の頑張りが、誰かの役に立っていたなんて。
「それにね……」
奥さんは優しく続けた。
「フェンリスが倒れたって聞いて、昨日からたくさんのお客様がお店へ来てくださったの」
「……え?」
「フェンリスは大丈夫なのか、怪我はなかったのか、何か自分たちにできることはないかって」
「…………」
「みんな、あなたのことを心配していたのよ」
その言葉に、フェンリスは目を見開いた。
「……そんなに……?」
「ええ。中には、お見舞いに行きたいって言ってくださる方までいたの」
奥さんは優しく笑った。
「だからね。あなたはもう十分、お店のために頑張ってくれたの。今度は私たちに、少しお返しをさせてちょうだい」
「……っ」
フェンリスの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……僕……」
うまく言葉が出てこなかった。
ただ、嬉しかった。
自分が働いていた場所に、こんなにも温かい人たちがいたことが。
「……ありがとう……!」
フェンリスは涙を拭いながら笑った。
「僕……すっごく嬉しい……!」
店長夫妻も、従業員たちも嬉しそうに微笑んだ。
◇
「それとね、フェンリス」
少し落ち着いた頃、奥さんが鞄から一つの封筒を取り出した。
「実は、もう一つ渡したいものがあるの」
「……封筒?」
「ええ。開けてみて」
フェンリスは不思議そうに首を傾げながら、封筒を受け取った。
中には、数枚の書類と綺麗な写真付きの案内が入っていた。
「……?」
最初は何なのかわからなかった。
けれど、そこに書かれた文字を読んだ瞬間――
「……えっ!?」
フェンリスは目を丸くした。
「ほ、北海道!?」
「ふふっ。そうよ」
中に入っていたのは、二人分の往復航空券の案内と、旅館の宿泊券だった。
行き先は北海道、函館。
宿泊先は、湯の川温泉にある客室露天風呂付きの旅館。
そして日程は――
十二月二十三日から二十六日までの三泊四日。
クリスマスを挟んだ旅行だった。
「えっ!? えええっ!?」
フェンリスは慌てて顔を上げた。
「こ、これ! こんな高そうなもの、もらえないよ!!」
大慌てで封筒を差し出す。
しかし、奥さんは優しく首を横に振った。
「いいのよ。受け取ってちょうだい」
「で、でも!」
「実はね、これ……私たちだけで用意したものじゃないの」
「……え?」
奥さんは嬉しそうに微笑んだ。
「お店のお客様たちが、お金を出し合ってくださったのよ」
「……お客さんが?」
「ええ。フェンリスに元気になってほしいって。せっかくだから、どこかへ旅行でも行って、ゆっくり休んでほしいってね」
フェンリスは、手元の封筒を見つめた。
「……そんな……」
「航空券はお客様たちから。旅館は私たちも協力して手配したのよ」
店長が笑いながら続ける。
「実は俺たち、昔から北海道が好きでね。特に函館の湯の川温泉には何度も行っているんだ」
「そうなの?」
「ああ。今回の旅館も、俺たちのお気に入りなんだよ。料理も美味しいし、温泉も素晴らしい」
奥さんも頷いた。
「冬の函館はとっても綺麗なのよ。クリスマスの時期なら、街のイルミネーションも楽しめるわ」
「……クリスマス……」
フェンリスは書類の日付を見つめた。
十二月二十三日。
そして、十二月二十六日。
三泊四日。
それも、北海道。
「……僕、こんなの……」
再び涙が溢れそうになった。
すると、店長が優しく声をかける。
「遠慮しなくていいんだよ。みんな、君に喜んでもらいたくて用意したんだから」
「……っ」
「それに、今度は仕事のことなんて忘れて、思いきり楽しんできてほしいんだ」
フェンリスはしばらく封筒を見つめていた。
そして、両手で大切そうに抱きしめる。
「……ありがとう……!」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「僕……すっごく嬉しい……!」
店長夫妻も、従業員たちも嬉しそうに微笑んだ。
そんなフェンリスへ、奥さんがそっと近づいた。
「それとね……フェンリス」
「……うん?」
「ちょっと、耳を貸して?」
フェンリスが不思議そうに顔を寄せる。
すると奥さんは、彼女の耳元で小さく囁いた。
「……和真さんを、早くものにしちゃいなさい」
「…………っ!?」
ぼふんっ!!
フェンリスの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「な、ななななっ!?」
「あらあら、可愛い反応ね」
奥さんは楽しそうに笑った。
「せっかくのクリスマス旅行でしょう? それも三泊四日、二人きりなんだから」
「ふ、二人きり……!?」
「そうよ。頑張ってね?」
「~~~~っ!!」
フェンリスは真っ赤な顔を両手で覆った。
その様子を少し離れたところで見ていたみゆは、嫌な予感がした。
「……ねえ、ナディア」
「……何だ?」
「フェンリス、何を言われたんだろう?」
「さあな。だが、だいたい想像はつく」
「……僕も」
二人は顔を見合わせ、揃ってため息をついた。
◇
そのとき。
「いやー、懐かしかったなぁ!」
「本当だよ! まさかここで会うとは思わなかった!」
笑い声とともに、和真と男性従業員がリビングへ入ってきた。
その様子を見たフェンリスは、ようやく頬の熱を落ち着かせながら首を傾げた。
「……和真?」
「ん?」
「その人と……知り合いなの?」
「ああ。そういえば紹介してなかったな」
和真は嬉しそうに笑った。
「こっちは伊吹直人さん。俺が小さい頃、近所に住んでたお兄さんなんだ」
「へえっ!?」
「よく遊んでもらってたんだよ。公園でサッカーしたり、一緒に虫取りに行ったりさ」
直人も笑いながら頷いた。
「こいつ、昔は本当に元気でさ。俺の後ろをずっとついてきてたんだよ」
「ちょっ、直人兄ちゃん! それは昔の話だろ!」
「ははは! 懐かしいなぁ!」
フェンリスは目を丸くした。
「和真にも、そんな頃があったんだね!」
「そりゃあるだろ!」
「僕、もっと聞きたい!」
「おっ、いいねぇ。和真の昔話ならいくらでもあるぞ!」
「ちょっと待ってくれ!?」
慌てる和真をよそに、直人は楽しそうに話し始めた。
「こいつさ、昔、公園の木に登ったはいいけど、降りられなくなっちゃってさ」
「あっ! それは言わないでくれ!」
「ええっ!? 和真が!?」
フェンリスは思わず笑い出した。
「そのとき、俺が迎えに行ったんだけどさ。泣きそうな顔で『直人兄ちゃん、助けて!』って」
「やめろって!!」
「あはははっ!!」
フェンリスはお腹を抱えて笑った。
それを見た和真も、結局つられて笑ってしまう。
久しぶりに再会した昔馴染み。
そして、楽しそうに笑うフェンリス。
そんな二人を見て、直人は嬉しそうに目を細めた。
「……いい顔してるな、和真」
「ん?」
「いや、何でもない」
直人は小さく笑った。
すると、フェンリスが嬉しそうに口を開いた。
「あのね、直人さん!」
「ん?」
「僕、和真と北海道に行けることになったんだ!」
「おっ! よかったじゃん!」
「うん! すっごく楽しみ!」
その言葉に、和真が首を傾げる。
「……北海道?」
「あっ!」
フェンリスは慌てて封筒を持ち上げた。
「和真! これ見て!」
「ん?」
和真は差し出された書類を受け取った。
そして――
「……えっ!?」
目を丸くした。
「北海道旅行!? しかも三泊四日!?」
「うん!」
「ちょっと待って! これ、どうしたんだ!?」
和真の驚く様子に、店長夫妻は笑いながら事情を説明した。
お客様たちがお金を出し合ってくれたこと。
店長夫妻がおすすめの旅館を用意してくれたこと。
そして、フェンリスへの退院祝いであること。
全てを聞き終えた和真は、深々と頭を下げた。
「……本当にありがとうございます」
「いやいや。頭を上げてください」
店長が慌てて笑う。
「フェンリスには、こちらこそ随分と助けてもらいましたから」
「それに、私たちもフェンリスの笑顔が大好きなのよ」
奥さんも優しく微笑んだ。
「だから、和真さん。フェンリスをよろしくお願いしますね」
「……はい!」
和真はしっかりと頷いた。
「必ず、楽しい旅行にします」
その言葉に、フェンリスの胸がきゅっと高鳴った。
「……和真」
「ん?」
「……えへへ。楽しみだね!」
「ああ。北海道かぁ。俺も楽しみだよ」
「うんっ!!」
フェンリスの大きな尻尾が、勢いよく左右に揺れた。
◇
店長夫妻たちが帰ったあと。
リビングでは、早速北海道旅行の話題で盛り上がっていた。
「函館かぁ……いいところじゃないか!」
酒菜が感心したように言う。
「海鮮も美味いし、冬の景色も綺麗だろうな」
「えっ!? 美味しいものいっぱいあるの!?」
フェンリスの耳がぴんと立つ。
「あるぞ。まあ、体調が戻ってから思いきり食ってこい」
「うん!」
あおいも封筒に入っていた写真を覗き込んだ。
「ほう……雪景色の温泉とは、なかなか風情があるのう」
「温泉!?」
フェンリスが嬉しそうに顔を上げる。
「和真! 温泉もあるんだって!」
「旅館なんだからあるだろ」
「えへへ!」
すると、ピピが羨ましそうに声を上げた。
「いいなぁ! 僕も北海道行ってみたい!」
「ピピもいつか行けるといいね!」
「うん! 僕も雪で遊びたい!」
ひかげも写真を見ながら小さく微笑んでいた。
「す、素敵なところですね……。フェンリスさん、楽しみですね」
「うん! ひかげにもお土産買ってくるね!」
「えっ!? そ、そんな……ありがとうございます……!」
みんなが嬉しそうに話す中、みゆとナディアは少し離れたところで座っていた。
「……ねえ、ナディア」
「……何だ?」
「クリスマスに……三泊四日だって」
「……聞こえてる」
「しかも二人きり……」
「……ああ」
みゆは頭を抱えた。
「……僕たち、一泊二日だったのに……」
「言うな。俺様もそこは気づいてる」
二人は大きくため息をついた。
すると、フェンリスがこちらへ振り返る。
「みゆ! ナディア!」
「……ん?」
「僕、すっごく楽しみなんだ!」
満面の笑顔。
そのあまりにも嬉しそうな姿に、みゆは思わず苦笑した。
「……そっか」
そして、優しく微笑む。
「よかったね、フェンリス」
「うん!」
ナディアも肩をすくめた。
「ま、せっかくの旅行だ。楽しんでこいよ」
「ありがとう!」
そんな二人の反応に、フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らした。
以前なら、遠慮してしまっていたかもしれない。
けれど今は違う。
自分の気持ちを、少しずつでも素直に伝えていきたい。
和真のそばにいたい。
一緒に笑っていたい。
そして――
もっと、もっと甘えたい。
そんな思いを胸に、フェンリスは和真の隣へ座り直した。
「……和真」
「ん?」
「北海道……楽しみだね」
「ああ。でも、その前にちゃんと元気にならないとな」
「……うん!」
和真は封筒の中身を確認しながら続けた。
「日程は決まってるみたいだけど、どこを観光するかはまだ決めなくていいだろ」
「え?」
「まずはフェンリスの身体を治すのが先だよ。元気になったら、一緒に予定を考えよう」
「……うん」
「だから、今は何も心配しないでゆっくり休んでくれ」
フェンリスは少しだけ頬を赤くした。
そして、和真の腕にそっと抱きつく。
「……じゃあ」
「ん?」
「今日も、和真の部屋でいっぱい甘えていい?」
和真は小さく笑った。
「もちろん」
「……えへへ!」
フェンリスは幸せそうに目を細めた。
みゆとナディアは、そんな二人を見つめながら再び顔を見合わせる。
「……ナディア」
「……何だ?」
「フェンリス……すっごく積極的になったね」
「……ああ。こりゃ手強くなりそうだな」
そう言いながらも、二人の表情はどこか嬉しそうだった。
つい昨日まで、みんなが心配していたフェンリス。
その彼女が、今はこんなにも幸せそうに笑っている。
それだけで、十分だった。
少なくとも、今は。
フェンリスは和真の腕に頬を寄せながら、心の中でそっと呟いた。
(……クリスマスに、和真と二人きり……)
想像するだけで、胸が温かくなる。
(……えへへ。どうしよう……すっごく楽しみ……!)
大きな尻尾が、嬉しそうに揺れ続けていた。
こうして、フェンリスと和真の北海道旅行が決まった。
詳しい予定を考えるのは、フェンリスの体調が十分に回復してから。
それまでは、焦らず、ゆっくりと。
そしてフェンリスにとっては――
大好きな和真に、思いきり甘えられる特別な数日間が始まったのだった。




