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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十二話 もう我慢しないから

 病室に差し込む午後の日差しが、白いシーツを柔らかく照らしていた。


「検査の結果も落ち着いていますし、今日の夕方には退院していただいて構いません」


「本当ですか!?」


 担当医の言葉に、和真は思わず身を乗り出した。


「はい。ただし、完全に回復したわけではありません。過労に加えて栄養状態も悪くなっていましたから、しばらくは自宅で十分に静養してください」


「はい。ありがとうございます」


「特に食事と睡眠は大切です。お仕事も、当分の間はお休みするようにしてください」


 医師がフェンリスへ視線を向ける。


「……はい。わかりました」


 フェンリスは素直に頷いた。


 現在の彼女は、病院にいるため人間の姿になっている。


 銀色から淡い桃色へと変わる髪はそのままだが、普段の大きな狼耳と尻尾はない。


 その姿でベッドに座り、隣にいる和真の手を握っていた。


「フェンリス」


「ん?」


「先生の話、ちゃんと聞いたな?」


「うん。しばらくお仕事はお休みして、ちゃんとご飯を食べて、いっぱい寝るんだよね?」


「ああ。絶対に無理しないでくれよ」


「もう、わかってるって!」


 フェンリスは少し頬を膨らませた。


 しかし、和真はいつになく真剣な表情だった。


「……本当に心配したんだからな」


「……和真?」


「みゆから倒れたって聞いたとき、何が起きたのかわからなかった。病院に着いても意識が戻ってなくて……」


 和真は言葉を詰まらせた。


 点滴につながれたまま、眠るように横たわっていたフェンリス。


 何度呼びかけても返事がなかった。


 握った手も、握り返してはくれなかった。


 あのとき感じた恐怖が、まだ胸の奥に残っていた。


「……もう、あんな思いはしたくないんだ」


 その言葉に、フェンリスは目を見開いた。


 病室で目を覚ましたときの和真を思い出す。


 涙を流しながら、自分の無事を喜んでくれた和真。


 強く抱きしめてくれた腕。


 あんなにも取り乱した和真を見るのは、初めてだった。


「……ごめんね、和真」


「謝ってほしいわけじゃないよ」


 和真は握っていた手に、そっと力を込めた。


「ただ、元気でいてほしいんだ」


「……うん」


「何かあったら、ちゃんと頼ってくれ。仕事のことでも、ほかのことでも」


「……うん!」


 フェンリスは両手で和真の手を包み込んだ。


「もう大丈夫だよ。僕、ちゃんと頼ることにしたから!」


「そっか」


「それに……」


 フェンリスは少しだけ頬を染めた。


「これからは、いっぱいわがままも言うつもりだし!」


「ははっ。それは楽しみだな」


 和真が笑う。


 そんな二人のやり取りを見ていたみゆも、ようやく安心したように息を吐いた。


「本当にそうしてよね。僕だって、すっごく心配したんだから」


「うん。みゆもありがとう」


「……もう、ほんとに心配かけすぎ」


 そう言いながら、みゆはフェンリスの頭を撫でた。


 その隣ではナディアが腕を組んでいる。


「まったくだ。せっかく俺様が背中を押してやったんだ。もう一人で抱え込むんじゃねぇぞ」


「えへへ。わかってるよ!」


「ふん。ならいい」


 ナディアは満足そうに笑った。


 リディアも退院後の注意事項を確認しながら口を開く。


「帰宅後は私も体調を確認します。少しでも具合が悪くなったら、我慢せずに教えてくださいね」


「うん! ありがとう、リディア!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 病室で交わした約束。


 もう自分の気持ちを押し殺さないこと。


 みゆにも、ナディアにも遠慮しないこと。


 そして、和真のそばにいたいという気持ちから逃げないこと。


 フェンリスは、その約束をしっかりと胸に刻んでいた。


     ◇


 夕方。


 退院の手続きを終えた一行は、車で帰路についた。


 助手席にはフェンリス。


 後部座席には、みゆ、ナディア、リディアが座っている。


「フェンリス、疲れたら寝てていいからな」


「うん。でも、今は眠くないよ」


「そうか?」


「だって、久しぶりに和真と一緒に帰れるんだもん」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 その言葉に、和真も微笑む。


「そうだな。こうして一緒に帰るのも久しぶりだな」


「……うん」


 思い返せば、ここ最近はほとんど顔を合わせていなかった。


 朝早くから仕事に出かけ、帰ってくるのは夜遅く。


 食事の時間も合わず、顔を見ない日すらあった。


 和真も、そんな日々にどこか物足りなさを感じていた。


「……帰ったら、また一緒にご飯食べような」


「うん!」


「酒菜も、フェンリスが食べられるものを作ってくれてるみたいだぞ」


「本当!?」


「ああ。帰ったらすぐ食べられるようにしてくれるって」


「やった!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そんな二人を後部座席から見ていたみゆは、小さく微笑む。


「……やっぱり、フェンリスは笑ってる方がいいね」


「そうだな」


 ナディアも頷いた。


 リディアは静かに端末を閉じると、穏やかな表情を浮かべた。


「これからは、その笑顔を見られる時間も増えそうですね」


「……うん!」


 フェンリスは力強く頷いた。


     ◇


 車が敷地に到着した頃には、空が茜色に染まっていた。


 母屋へ入ると、リディアがフェンリスの人間化を解除する。


 銀色の髪の上に大きな狼耳が現れ、背後には銀色から桃色へと変わる巨大な尻尾がふわりと広がった。


「んーっ!」


 フェンリスは気持ちよさそうに背伸びをした。


「やっぱりこっちの姿の方が落ち着くね!」


「まだ無理に身体を動かしてはいけませんよ」


「わかってるって!」


 リディアに注意されながらも、フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らしていた。


 そのときだった。


「フェンリスー!!」


「わわっ!?」


 リビングから飛び出してきたピピが、勢いよく駆け寄ってきた。


「大丈夫!? もう元気!? どこも痛くない!?」


「ピピ! 大丈夫だよ!」


「本当!?」


「うん!」


 ピピは翼を大きく広げながら、フェンリスの顔を覗き込んだ。


「よかったぁ……!」


 今にも泣き出しそうな表情だった。


「僕、すっごく心配したんだから!」


「ごめんね、ピピ」


「もう倒れちゃだめだよ!」


「うん。約束する!」


 続いて、ひかげがおずおずと近づいてきた。


「フェ、フェンリスさん……お帰りなさい……」


「ただいま、ひかげ!」


「ほんまに……よかったです……」


 ひかげは目元を拭いながら、小さく微笑んだ。


「私……倒れたって聞いて……すごく怖くなって……」


「……心配かけちゃったね」


「い、いえ……! 帰ってきてくれたんですから……それだけで十分です……」


 フェンリスが優しく笑うと、ひかげもようやく安心したように頬を緩めた。


「まったく……」


 続いて、あおいが近づいてきた。


「そなたは、どれだけ皆を心配させれば気が済むのじゃ」


「うぅ……ごめんね、あおい」


「もう謝るでない。今は無事に帰ってきたことを喜ぶべきじゃろう」


 あおいは小さく息を吐いた。


「ただし、しばらくは大人しくしておるのじゃぞ」


「うん!」


「……本当に、無事でよかったのじゃ」


 最後の言葉は、少しだけ震えていた。


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 その後ろから、酒菜が姿を現す。


「おう。帰ってきたか」


「酒菜!」


「顔色は……まあ、昨日よりずっといいな」


 酒菜はフェンリスの様子を確かめると、右手を腰に当てた。


「さて、フェンリス」


「……な、なに?」


「俺の作った飯、ずっと食ってなかったそうだな?」


「うっ……」


「それも朝も夜もいらねぇって、自分から言ってきたんだろ?」


「……うん」


「まったく。飯くらいちゃんと食え。俺はお前らに腹いっぱい食ってほしくて作ってるんだからな」


「……ごめん」


 フェンリスがしょんぼりと耳を伏せる。


 すると酒菜は、少しだけ声を柔らかくした。


「まあ、今は無理して食う必要はねぇよ。食えるようになったら、また好きなもんを作ってやる」


「……本当?」


「ああ。食べたいものがあったら言え」


「ありがとう、酒菜!」


「おう」


 酒菜は満足そうに頷いた。


 その様子を見ていたユエも、静かに口を開く。


「随分と心配させてくれたわね」


「ユエ……」


「今度は誰かに相談しなさい。あなたが倒れて喜ぶ人なんて、ここには一人もいないんだから」


「……うん」


「それに、和真がどんな顔をして病院へ向かったと思っているの?」


「……え?」


 フェンリスは和真を見上げた。


 ユエは静かに続ける。


「あなたのことが心配で、ほかのことなんて考えられない様子だったわ」


「……和真が……」


「ええ。だから、もう同じことを繰り返さないことね」


 フェンリスは和真の顔をじっと見つめた。


「……和真」


「ん?」


「……心配してくれて、ありがとう」


 和真は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。


「当たり前だろ。フェンリスは大切な家族なんだから」


「……うん!」


 その言葉に、フェンリスの尻尾が嬉しそうに揺れた。


 家族。


 その言葉はとても温かかった。


 けれど、今のフェンリスには、もう一つ欲しい言葉がある。


 いつか、和真の口から聞いてみたい言葉。


 それを思い浮かべるだけで、胸が少し高鳴った。


 フェンリスは小さく微笑むと、和真の手をそっと握った。


「……ただいま、和真」


「ああ。おかえり、フェンリス」


     ◇


 夕食は、酒菜が用意してくれた温かい雑炊だった。


 柔らかく煮込まれた米に、鶏肉と野菜の旨味が染み込んでいる。


「……美味しい!」


 一口食べたフェンリスは、嬉しそうに目を輝かせた。


「すっごく美味しいよ、酒菜!」


「そりゃよかった」


 酒菜も満足そうに笑った。


 フェンリスは和真の隣に座り、時折嬉しそうに彼の顔を見上げながら食事を進めていた。


 ただ、まだ身体は完全に回復していない。


 半分ほど食べたところで、手が止まった。


「……あれ?」


「どうした?」


「……もう、お腹いっぱいになっちゃった」


 少し申し訳なさそうに呟く。


 和真は優しく笑った。


「無理しなくていいよ」


「でも……」


「今は少しずつ食べられるようになればいいんだから」


「……うん」


 フェンリスは素直に頷いた。


 食事の後、みんながリビングでくつろぎ始める。


 和真もソファへ腰を下ろした。


 すると、すぐにフェンリスが隣へやってきた。


「和真!」


「ん?」


「隣、いい?」


「ああ」


「えへへ!」


 フェンリスは嬉しそうに座ると、そのまま和真の腕に抱きついた。


「……フェンリス?」


「んー?」


「どうした?」


「……甘えてるの!」


「……そ、そうか」


 あまりに堂々と言われ、和真は思わず笑ってしまった。


 しかし、フェンリスは離れようとしない。


 それどころか、さらに身体を寄せてくる。


「……和真」


「ん?」


「僕、お願いがあるんだけど……」


「何だ?」


 フェンリスは一度深呼吸した。


 病室で決めたこと。


 もう遠慮しない。


 今度こそ、自分の気持ちに素直になる。


「……わがまま、言ってもいい?」


「もちろん」


 和真が頷く。


 フェンリスは少し頬を赤くしながら続けた。


「……僕、しばらく和真の部屋で休みたい!」


「……俺の部屋?」


「うん!」


 フェンリスは真剣な表情で頷いた。


「一人でいると寂しくなっちゃうし……それに、和真のそばにいると安心するんだ」


「……そうなのか」


「だから……身体が元気になるまで、和真の部屋で過ごしたいなって」


 少しだけ不安そうに顔を覗き込む。


「……だめ?」


 和真は一瞬驚いたものの、すぐに微笑んだ。


「いいよ」


「……本当!?」


「ああ。フェンリスが安心して休めるなら、俺は構わないよ」


「……やったぁ!!」


 フェンリスは嬉しさのあまり、和真へ勢いよく抱きついた。


「ありがとう、和真!」


「お、おっと! こら、無理するなって!」


「えへへ!」


 和真に抱きついたまま、フェンリスの尻尾が大きく揺れる。


 その光景を見ていたみゆは――


「…………あっ」


 何かに気づいたように固まった。


 そして、両手で頭を抱える。


「……やられた……!」


 隣ではナディアも、額に手を当てていた。


「……くそっ。そう来たか」


「ナディア……これ、ずるくない?」


「ずるくはねぇだろ。本人が言ったことだしな」


「それはそうだけど……!」


 みゆは和真に抱きつくフェンリスを見る。


 すると、フェンリスもこちらへ顔を向けた。


「……えへへ」


 満面の笑顔だった。


「フェンリス……」


「ん?」


「……本当に遠慮しなくなったね」


 みゆが苦笑する。


 フェンリスは少しだけ頬を赤くした。


「だって……もう我慢しないって決めたから!」


「……そっか」


 みゆは小さく笑った。


「それなら、僕だって遠慮しないからね?」


「うん!」


 二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。


 ナディアも腕を組み直す。


「ふん。いい度胸じゃねぇか。俺様も負けるつもりはないからな」


「僕だって負けないよ!」


「ははっ。言うようになったじゃねぇか」


 そんな三人のやり取りを聞いていた和真は、首を傾げた。


「……何の勝負だ?」


「「「和真は黙ってて!」」」


「……ええっ!?」


 突然三人から言われ、和真は目を丸くした。


 その様子に、リビングが笑い声に包まれた。


     ◇


 その夜。


 和真が寝る準備をしていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「和真! 入っていい?」


「ああ、いいよ」


 扉を開けると、フェンリスが枕と毛布を抱えて立っていた。


「……えへへ。来ちゃった!」


「ははっ。いらっしゃい」


 和真はベッドを整えながら言った。


「フェンリスはベッドを使ってくれ。俺は下に布団を敷くから」


「……え?」


 フェンリスの耳がぴたりと止まった。


「……別々なの?」


「ん?」


「……一緒に寝ちゃ、だめ?」


 和真が驚いて振り返る。


 フェンリスは少しだけ頬を赤くした。


「その……和真に抱きしめてもらいながら寝たいなって……」


「……フェンリス」


「だって……」


 フェンリスは枕をぎゅっと抱きしめた。


「病院で目を覚ましたとき、和真が抱きしめてくれたでしょ?」


「ああ……」


「あのとき、すっごく嬉しかったんだ」


 フェンリスは顔を上げた。


「だから……もう一回、お願いしたいなって」


 和真はしばらくフェンリスを見つめていた。


 そして、優しく微笑んだ。


「……わかったよ」


「……本当!?」


「ああ。ただし、ちゃんと寝ること。身体を休めるためなんだからな」


「うんっ!」


 フェンリスは嬉しそうにベッドへ潜り込んだ。


 和真も隣へ横になる。


 すると、フェンリスはすぐに身体を寄せてきた。


「……和真」


「ん?」


「……ぎゅってして?」


「……こうか?」


 和真が優しく腕を回す。


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


「……うん」


 大きな尻尾が、毛布の外でゆっくりと揺れる。


「……あったかい」


「そうか?」


「うん……」


 フェンリスは和真の胸元へ顔を寄せた。


 しばらくして、小さな声で呟く。


「……僕ね」


「ん?」


「……和真が心配してくれたの、すっごく嬉しかった」


「……そっか」


「でも……」


 フェンリスは少しだけ顔を上げた。


「もう、あんな顔させたくないなって思ったんだ」


 和真は静かにフェンリスを見つめる。


「……だから、ちゃんと元気になるよ」


「……うん」


「それで……」


 少しだけ頬を染める。


「これからは、もっともっと和真に甘えるからね?」


「ははっ。わかったよ」


「……本当に?」


「ああ」


「じゃあ……覚悟しててね?」


 フェンリスはいたずらっぽく笑った。


「僕、もう遠慮しないから!」


 和真も笑顔を返す。


「楽しみにしてるよ」


「……えへへ!」


 フェンリスは再び和真の胸元へ顔を寄せた。


 その夜。


 久しぶりに感じる和真の温もりに包まれながら、フェンリスは穏やかな眠りについた。


     ◇


 翌日の昼前。


 玄関の呼び鈴が鳴った。


「はーい!」


 和真が玄関へ向かうと、そこには数人の男女が立っていた。


「こんにちは。突然すみません」


「あっ! フェンリスの職場の……!」


 訪ねてきたのは、フェンリスがアルバイトをしている酒屋の店長夫妻と、数人の従業員たちだった。


「フェンリスが昨日退院したと聞きましてね。少しだけ顔を見られればと思いまして」


「わざわざありがとうございます。どうぞ、上がってください」


 和真は一行を母屋へ案内した。


 その途中。


 一人の男性従業員が、和真の顔をじっと見つめていた。


「……ん?」


 和真もその男性へ視線を向ける。


「……あれ?」


「……もしかして、和真か?」


「えっ?」


 数秒の沈黙。


 そして――


「……直人兄ちゃん!?」


「やっぱり和真か!!」


 二人は同時に笑顔になった。


「うわっ! 久しぶり! 何年ぶりだよ!」


「お前、随分でかくなったなぁ!」


 突然盛り上がり始めた二人を見て、店長夫妻も驚いた様子だった。


「おや、知り合いだったのかい?」


「はい! 昔、近所に住んでたお兄さんなんです!」


「へえ! そんな偶然があるんだねぇ!」


 店長も嬉しそうに笑った。


 すると、奥さんが和真に声をかける。


「和真さん、せっかくだから少しお話ししてきたら? フェンリスには私たちから話があるから」


「えっ、いいんですか?」


「ええ。久しぶりなんでしょう?」


「ありがとうございます」


 和真と男性従業員は、懐かしい昔話をしながら少しだけ席を外した。


     ◇


 リビングでは、フェンリスが店長夫妻を迎えていた。


「店長! 奥さん!」


「フェンリス!」


 奥さんはすぐにフェンリスへ駆け寄り、その手を握った。


「本当によかった……! 心配したのよ!」


「……ごめんなさい」


「もう、謝らなくていいの。こうして元気な顔を見られたんだから」


 奥さんは優しく微笑んだ。


 従業員たちも口々に声をかける。


「本当にびっくりしたんだから!」


「倒れたって聞いたとき、どうなることかと思ったよ!」


「みんな……ありがとう」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


 そのとき、店長が一歩前へ出た。


「……フェンリス」


「はい?」


 店長は真剣な表情で頭を下げた。


「本当にすまなかった」


「……えっ!?」


 フェンリスは慌てて立ち上がろうとした。


「て、店長! 頭を上げてよ!」


「俺が事故で入院してから、君にはずっと負担をかけてしまった」


「……そんな……」


「俺が仕事をできなかった間、店を支えてくれたのは君たちだった。それなのに、戻ってからも君が無理をしていることに気づいてやれなかった」


 店長は悔しそうに言葉を続けた。


「もっと早く休ませるべきだった。本当に申し訳ない」


「……店長」


 フェンリスは小さく首を振った。


「違うよ。僕が勝手に頑張りすぎただけなんだ」


「それでもだ」


 店長は顔を上げた。


「君は大事な従業員なんだ。身体を壊してまで働いてほしいわけじゃない」


「……うん」


「だから、しばらくは仕事を休んでくれ」


「……え?」


「元気になるまで、無理に戻ってこなくていい」


「で、でも! お店は!?」


「大丈夫。俺も少しずつ仕事に戻れているし、みんなで何とかするよ」


 従業員たちも頷いた。


「そうそう! フェンリスはちゃんと休んで!」


「いつも頑張ってくれてたんだから、今度は俺たちに任せてよ!」


「……みんな」


 フェンリスの瞳が潤む。


 すると、店長がもう一つ話を切り出した。


「それと、休んでいる間の給料だけど……こちらで補償させてもらおうと思っているんだ」


「……えっ!?」


 フェンリスの耳がぴんと立った。


「そ、そんなのだめだよ!」


「どうしてだい?」


「だって、僕、お仕事してないんだよ!? それなのにお給料なんてもらえないよ!」


 慌てて首を振るフェンリス。


 その様子に、店長は穏やかに笑った。


「フェンリス。君はね、もう十分すぎるほど頑張ってくれたんだよ」


「……え?」


「君が店に来てから、お客様が随分と増えたんだ」


 店長は嬉しそうに続けた。


「最初は君の明るい接客が評判になってね。君に会いたいってお客様が増えたんだよ」


「……僕に?」


「ああ。それに、最近は配達先でも随分と評判がよくてね」


 店長は笑った。


「いつも元気よく挨拶してくれる。重たい荷物も丁寧に運んでくれる。困っているときは手伝ってくれる。そんな話を何度も聞いたよ」


「…………」


「そのおかげで、新しい常連さんも随分と増えたんだ」


 奥さんも微笑みながら頷いた。


「フェンリスが頑張ってくれたおかげで、最近はお店も随分と賑やかになったのよ」


「……そうだったんだ……」


 フェンリスは驚いたように目を丸くした。


 自分はただ、一生懸命働いていただけだった。


 店長が事故に遭ってからは、少しでも役に立ちたかった。


 そして最近は、和真やみゆのことを考えずに済むように、仕事へ打ち込んでいた。


 そんな自分の頑張りが、誰かの役に立っていたなんて。


「それにね……」


 奥さんは優しく続けた。


「フェンリスが倒れたって聞いて、昨日からたくさんのお客様がお店へ来てくださったの」


「……え?」


「フェンリスは大丈夫なのか、怪我はなかったのか、何か自分たちにできることはないかって」


「…………」


「みんな、あなたのことを心配していたのよ」


 その言葉に、フェンリスは目を見開いた。


「……そんなに……?」


「ええ。中には、お見舞いに行きたいって言ってくださる方までいたの」


 奥さんは優しく笑った。


「だからね。あなたはもう十分、お店のために頑張ってくれたの。今度は私たちに、少しお返しをさせてちょうだい」


「……っ」


 フェンリスの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


「……僕……」


 うまく言葉が出てこなかった。


 ただ、嬉しかった。


 自分が働いていた場所に、こんなにも温かい人たちがいたことが。


「……ありがとう……!」


 フェンリスは涙を拭いながら笑った。


「僕……すっごく嬉しい……!」


 店長夫妻も、従業員たちも嬉しそうに微笑んだ。


     ◇


「それとね、フェンリス」


 少し落ち着いた頃、奥さんが鞄から一つの封筒を取り出した。


「実は、もう一つ渡したいものがあるの」


「……封筒?」


「ええ。開けてみて」


 フェンリスは不思議そうに首を傾げながら、封筒を受け取った。


 中には、数枚の書類と綺麗な写真付きの案内が入っていた。


「……?」


 最初は何なのかわからなかった。


 けれど、そこに書かれた文字を読んだ瞬間――


「……えっ!?」


 フェンリスは目を丸くした。


「ほ、北海道!?」


「ふふっ。そうよ」


 中に入っていたのは、二人分の往復航空券の案内と、旅館の宿泊券だった。


 行き先は北海道、函館。


 宿泊先は、湯の川温泉にある客室露天風呂付きの旅館。


 そして日程は――


 十二月二十三日から二十六日までの三泊四日。


 クリスマスを挟んだ旅行だった。


「えっ!? えええっ!?」


 フェンリスは慌てて顔を上げた。


「こ、これ! こんな高そうなもの、もらえないよ!!」


 大慌てで封筒を差し出す。


 しかし、奥さんは優しく首を横に振った。


「いいのよ。受け取ってちょうだい」


「で、でも!」


「実はね、これ……私たちだけで用意したものじゃないの」


「……え?」


 奥さんは嬉しそうに微笑んだ。


「お店のお客様たちが、お金を出し合ってくださったのよ」


「……お客さんが?」


「ええ。フェンリスに元気になってほしいって。せっかくだから、どこかへ旅行でも行って、ゆっくり休んでほしいってね」


 フェンリスは、手元の封筒を見つめた。


「……そんな……」


「航空券はお客様たちから。旅館は私たちも協力して手配したのよ」


 店長が笑いながら続ける。


「実は俺たち、昔から北海道が好きでね。特に函館の湯の川温泉には何度も行っているんだ」


「そうなの?」


「ああ。今回の旅館も、俺たちのお気に入りなんだよ。料理も美味しいし、温泉も素晴らしい」


 奥さんも頷いた。


「冬の函館はとっても綺麗なのよ。クリスマスの時期なら、街のイルミネーションも楽しめるわ」


「……クリスマス……」


 フェンリスは書類の日付を見つめた。


 十二月二十三日。


 そして、十二月二十六日。


 三泊四日。


 それも、北海道。


「……僕、こんなの……」


 再び涙が溢れそうになった。


 すると、店長が優しく声をかける。


「遠慮しなくていいんだよ。みんな、君に喜んでもらいたくて用意したんだから」


「……っ」


「それに、今度は仕事のことなんて忘れて、思いきり楽しんできてほしいんだ」


 フェンリスはしばらく封筒を見つめていた。


 そして、両手で大切そうに抱きしめる。


「……ありがとう……!」


 ぽろぽろと涙がこぼれた。


「僕……すっごく嬉しい……!」


 店長夫妻も、従業員たちも嬉しそうに微笑んだ。


 そんなフェンリスへ、奥さんがそっと近づいた。


「それとね……フェンリス」


「……うん?」


「ちょっと、耳を貸して?」


 フェンリスが不思議そうに顔を寄せる。


 すると奥さんは、彼女の耳元で小さく囁いた。


「……和真さんを、早くものにしちゃいなさい」


「…………っ!?」


 ぼふんっ!!


 フェンリスの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「な、ななななっ!?」


「あらあら、可愛い反応ね」


 奥さんは楽しそうに笑った。


「せっかくのクリスマス旅行でしょう? それも三泊四日、二人きりなんだから」


「ふ、二人きり……!?」


「そうよ。頑張ってね?」


「~~~~っ!!」


 フェンリスは真っ赤な顔を両手で覆った。


 その様子を少し離れたところで見ていたみゆは、嫌な予感がした。


「……ねえ、ナディア」


「……何だ?」


「フェンリス、何を言われたんだろう?」


「さあな。だが、だいたい想像はつく」


「……僕も」


 二人は顔を見合わせ、揃ってため息をついた。


     ◇


 そのとき。


「いやー、懐かしかったなぁ!」


「本当だよ! まさかここで会うとは思わなかった!」


 笑い声とともに、和真と男性従業員がリビングへ入ってきた。


 その様子を見たフェンリスは、ようやく頬の熱を落ち着かせながら首を傾げた。


「……和真?」


「ん?」


「その人と……知り合いなの?」


「ああ。そういえば紹介してなかったな」


 和真は嬉しそうに笑った。


「こっちは伊吹直人さん。俺が小さい頃、近所に住んでたお兄さんなんだ」


「へえっ!?」


「よく遊んでもらってたんだよ。公園でサッカーしたり、一緒に虫取りに行ったりさ」


 直人も笑いながら頷いた。


「こいつ、昔は本当に元気でさ。俺の後ろをずっとついてきてたんだよ」


「ちょっ、直人兄ちゃん! それは昔の話だろ!」


「ははは! 懐かしいなぁ!」


 フェンリスは目を丸くした。


「和真にも、そんな頃があったんだね!」


「そりゃあるだろ!」


「僕、もっと聞きたい!」


「おっ、いいねぇ。和真の昔話ならいくらでもあるぞ!」


「ちょっと待ってくれ!?」


 慌てる和真をよそに、直人は楽しそうに話し始めた。


「こいつさ、昔、公園の木に登ったはいいけど、降りられなくなっちゃってさ」


「あっ! それは言わないでくれ!」


「ええっ!? 和真が!?」


 フェンリスは思わず笑い出した。


「そのとき、俺が迎えに行ったんだけどさ。泣きそうな顔で『直人兄ちゃん、助けて!』って」


「やめろって!!」


「あはははっ!!」


 フェンリスはお腹を抱えて笑った。


 それを見た和真も、結局つられて笑ってしまう。


 久しぶりに再会した昔馴染み。


 そして、楽しそうに笑うフェンリス。


 そんな二人を見て、直人は嬉しそうに目を細めた。


「……いい顔してるな、和真」


「ん?」


「いや、何でもない」


 直人は小さく笑った。


 すると、フェンリスが嬉しそうに口を開いた。


「あのね、直人さん!」


「ん?」


「僕、和真と北海道に行けることになったんだ!」


「おっ! よかったじゃん!」


「うん! すっごく楽しみ!」


 その言葉に、和真が首を傾げる。


「……北海道?」


「あっ!」


 フェンリスは慌てて封筒を持ち上げた。


「和真! これ見て!」


「ん?」


 和真は差し出された書類を受け取った。


 そして――


「……えっ!?」


 目を丸くした。


「北海道旅行!? しかも三泊四日!?」


「うん!」


「ちょっと待って! これ、どうしたんだ!?」


 和真の驚く様子に、店長夫妻は笑いながら事情を説明した。


 お客様たちがお金を出し合ってくれたこと。


 店長夫妻がおすすめの旅館を用意してくれたこと。


 そして、フェンリスへの退院祝いであること。


 全てを聞き終えた和真は、深々と頭を下げた。


「……本当にありがとうございます」


「いやいや。頭を上げてください」


 店長が慌てて笑う。


「フェンリスには、こちらこそ随分と助けてもらいましたから」


「それに、私たちもフェンリスの笑顔が大好きなのよ」


 奥さんも優しく微笑んだ。


「だから、和真さん。フェンリスをよろしくお願いしますね」


「……はい!」


 和真はしっかりと頷いた。


「必ず、楽しい旅行にします」


 その言葉に、フェンリスの胸がきゅっと高鳴った。


「……和真」


「ん?」


「……えへへ。楽しみだね!」


「ああ。北海道かぁ。俺も楽しみだよ」


「うんっ!!」


 フェンリスの大きな尻尾が、勢いよく左右に揺れた。


     ◇


 店長夫妻たちが帰ったあと。


 リビングでは、早速北海道旅行の話題で盛り上がっていた。


「函館かぁ……いいところじゃないか!」


 酒菜が感心したように言う。


「海鮮も美味いし、冬の景色も綺麗だろうな」


「えっ!? 美味しいものいっぱいあるの!?」


 フェンリスの耳がぴんと立つ。


「あるぞ。まあ、体調が戻ってから思いきり食ってこい」


「うん!」


 あおいも封筒に入っていた写真を覗き込んだ。


「ほう……雪景色の温泉とは、なかなか風情があるのう」


「温泉!?」


 フェンリスが嬉しそうに顔を上げる。


「和真! 温泉もあるんだって!」


「旅館なんだからあるだろ」


「えへへ!」


 すると、ピピが羨ましそうに声を上げた。


「いいなぁ! 僕も北海道行ってみたい!」


「ピピもいつか行けるといいね!」


「うん! 僕も雪で遊びたい!」


 ひかげも写真を見ながら小さく微笑んでいた。


「す、素敵なところですね……。フェンリスさん、楽しみですね」


「うん! ひかげにもお土産買ってくるね!」


「えっ!? そ、そんな……ありがとうございます……!」


 みんなが嬉しそうに話す中、みゆとナディアは少し離れたところで座っていた。


「……ねえ、ナディア」


「……何だ?」


「クリスマスに……三泊四日だって」


「……聞こえてる」


「しかも二人きり……」


「……ああ」


 みゆは頭を抱えた。


「……僕たち、一泊二日だったのに……」


「言うな。俺様もそこは気づいてる」


 二人は大きくため息をついた。


 すると、フェンリスがこちらへ振り返る。


「みゆ! ナディア!」


「……ん?」


「僕、すっごく楽しみなんだ!」


 満面の笑顔。


 そのあまりにも嬉しそうな姿に、みゆは思わず苦笑した。


「……そっか」


 そして、優しく微笑む。


「よかったね、フェンリス」


「うん!」


 ナディアも肩をすくめた。


「ま、せっかくの旅行だ。楽しんでこいよ」


「ありがとう!」


 そんな二人の反応に、フェンリスは嬉しそうに尻尾を揺らした。


 以前なら、遠慮してしまっていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 自分の気持ちを、少しずつでも素直に伝えていきたい。


 和真のそばにいたい。


 一緒に笑っていたい。


 そして――


 もっと、もっと甘えたい。


 そんな思いを胸に、フェンリスは和真の隣へ座り直した。


「……和真」


「ん?」


「北海道……楽しみだね」


「ああ。でも、その前にちゃんと元気にならないとな」


「……うん!」


 和真は封筒の中身を確認しながら続けた。


「日程は決まってるみたいだけど、どこを観光するかはまだ決めなくていいだろ」


「え?」


「まずはフェンリスの身体を治すのが先だよ。元気になったら、一緒に予定を考えよう」


「……うん」


「だから、今は何も心配しないでゆっくり休んでくれ」


 フェンリスは少しだけ頬を赤くした。


 そして、和真の腕にそっと抱きつく。


「……じゃあ」


「ん?」


「今日も、和真の部屋でいっぱい甘えていい?」


 和真は小さく笑った。


「もちろん」


「……えへへ!」


 フェンリスは幸せそうに目を細めた。


 みゆとナディアは、そんな二人を見つめながら再び顔を見合わせる。


「……ナディア」


「……何だ?」


「フェンリス……すっごく積極的になったね」


「……ああ。こりゃ手強くなりそうだな」


 そう言いながらも、二人の表情はどこか嬉しそうだった。


 つい昨日まで、みんなが心配していたフェンリス。


 その彼女が、今はこんなにも幸せそうに笑っている。


 それだけで、十分だった。


 少なくとも、今は。


 フェンリスは和真の腕に頬を寄せながら、心の中でそっと呟いた。


(……クリスマスに、和真と二人きり……)


 想像するだけで、胸が温かくなる。


(……えへへ。どうしよう……すっごく楽しみ……!)


 大きな尻尾が、嬉しそうに揺れ続けていた。


 こうして、フェンリスと和真の北海道旅行が決まった。


 詳しい予定を考えるのは、フェンリスの体調が十分に回復してから。


 それまでは、焦らず、ゆっくりと。


 そしてフェンリスにとっては――


 大好きな和真に、思いきり甘えられる特別な数日間が始まったのだった。

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