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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第五十一話 離したくない手

 病院の駐車場に車が滑り込んだ。


 エンジンを止めると同時に、和真はシートベルトを外した。


「和真!」


 みゆの声が飛ぶ。


「分かってる。落ち着いて行くから」


 そう答えたものの、和真の足取りは明らかに速かった。


 自動ドアを抜け、受付へと向かう。


 頭の中にあるのは、たった一つ。


 フェンリスの顔だった。


「四ノ宮さん!」


 突然、廊下の向こうから声をかけられた。


 振り向くと、そこには見覚えのある男性と女性が立っていた。


 フェンリスが働いている酒屋の店長と、その奥さんだった。


「店長さん……!」


 和真が駆け寄ると、二人は深々と頭を下げた。


「本当に申し訳ありません!」


「フェンリスちゃんを、あんな状態になるまで働かせてしまって……本当に、ごめんなさい……」


 奥さんの目は真っ赤だった。


 店長もひどく憔悴している。


「頭を上げてください。それより、フェンリスは……!」


「命に関わる状態ではないと、ひとまず聞いています。ただ、まだ意識が戻っていなくて……」


「そう、ですか……」


 和真は胸を押さえた。


 少しだけ、呼吸が楽になる。


 しかし、安心できるほどではなかった。


「何があったんですか。どうして、フェンリスが倒れたんですか?」


 店長は唇を噛みしめた。


「配達の途中だったんです。突然ふらついて、そのまま……。近くにいた方が救急車を呼んでくださいました」


「そんな……」


「ここ最近、ずっと様子がおかしかったんです」


 奥さんが続けた。


「以前はね、フェンリスちゃん、いつも元気いっぱいだったんですよ。休憩中も楽しそうにお話ししてくれて……和真さんのことも、よく話してくれました」


「俺の……?」


「はい。和真さんが作ってくれたご飯のこととか、一緒に出かけたこととか……本当に嬉しそうに」


 その言葉に、和真の胸が小さく痛んだ。


「でも、最近は……全然笑わなくなってしまって」


 奥さんの声が震える。


「朝からずっと働いて、休憩もほとんど取らなくて。お昼ご飯も食べていない日が何度もあったんです」


「……え?」


「仕事を増やしてほしいって、何度もお願いされました。もっと働きたい、休みの日にも出勤できないかって……」


 店長が俯いた。


「週五日の勤務でも、朝早くから夜遅くまで働くようになっていました。こちらも何度か休ませようとしたんです。でも、本人が大丈夫だと……」


「……そんなに?」


「ええ。ここ最近は特にひどくて。顔色も悪く、何度もふらついていたんです」


 和真は言葉を失った。


 知らなかった。


 そんなに働いていたなんて。


 最近、フェンリスと顔を合わせる機会が減っていた。


 朝にはもう出かけていて、夜は自分の部屋に戻っている。


 食事もいらないと言われていた。


 仕事が忙しいのだろう。


 本人が頑張っているのだから、応援してやろう。


 そんなふうに考えていた。


 けれど。


 ――本当に、それだけだったのか?


「もっと早く、無理にでも休ませるべきでした……」


 店長が再び頭を下げる。


「申し訳ありません」


「……頭を上げてください」


 和真は静かに答えた。


「謝罪は受け取ります。でも、俺も……フェンリスのこと、全然分かっていなかったので」


 その隣で、みゆは俯いていた。


 驚いてはいなかった。


 フェンリスが無理をしていた理由。


 その一つを、みゆは知っていたからだ。


 それでも、ここまで追い詰められていたとは思っていなかった。


 唇を噛みしめ、握った拳を震わせる。


「とにかく、フェンリスに会わせてください」


 和真の言葉に、店長は頷いた。


「受付でお名前を伝えてください。私たちも、こちらで待っています」


「ありがとうございます」


 和真は頭を下げると、再び受付へ向かった。


 みゆ、ナディア、リディアもその後を追った。


     ◇


「本日、救急搬送されたフェンリスの身元保証人です。四ノ宮和真といいます」


 受付の職員は確認を取ると、病室まで案内してくれた。


 病室の前に立った瞬間、和真の足が止まった。


 扉の向こうに、フェンリスがいる。


 普段なら、名前を呼べばすぐに返事をしてくれる。


 笑いながら駆け寄ってくる。


 そんな彼女が、今は意識を失っている。


「……和真」


 みゆが小さく声をかけた。


「ああ……」


 和真は扉を開いた。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


 そして。


「……フェンリス」


 ベッドの上に、彼女はいた。


 仕事中に使用しているリディアの装置の効果で、人間の姿のままだった。


 いつもの狼耳も、大きな尻尾も見えない。


 銀色の髪が枕に広がり、その毛先に淡いピンク色が混じっている。


 目を閉じた顔は青白く、以前より頬が痩せて見えた。


 細い腕には点滴の管がつながっている。


「……フェンリス?」


 返事はない。


「おい……フェンリス」


 もう一度呼ぶ。


 それでも、彼女は目を開けなかった。


 和真はベッドの横に立ち、そっと手を伸ばした。


 フェンリスの手を握る。


 小さな手だった。


 何度も握ったことのある手。


 買い物に行ったとき。


 一緒に歩いたとき。


 自分の服の裾を掴んできたとき。


 いつも温かかった、その手。


「……冷たいな」


 思わず呟いた。


 実際には、冷え切っているわけではない。


 それでも、和真にはひどく冷たく感じられた。


「……馬鹿」


 声が震えた。


「こんなになるまで……何やってんだよ……」


 その瞬間。


 ぽたり。


 握った手の甲に、一粒の涙が落ちた。


「……あれ?」


 和真は自分の目元に触れた。


 涙が出ていた。


 拭っても、また溢れてくる。


「……なんだよ、これ」


 止まらない。


 フェンリスの顔を見るたび、胸が締めつけられる。


「……起きろよ」


 小さな声だった。


「フェンリス……」


 もう一粒。


 また一粒。


 涙が落ちた。


 反対側では、みゆもフェンリスの手を握っていた。


「フェンリス……ごめん……」


 みゆの頬にも涙が伝っている。


「お願い……起きてよぉ……」


 普段なら、二人の声を聞いて困ったように笑うはずだった。


 けれど、フェンリスは眠ったままだった。


 ナディアとリディアは、そんな二人を黙って見守っていた。


 やがて、扉が静かに開いた。


「失礼します」


 看護師が入ってくる。


「フェンリスさんのお見舞いの方ですね。ご家族の方でしょうか?」


 和真は涙を拭い、立ち上がった。


「家族ではありませんが、俺が身元保証人です。四ノ宮和真です」


「四ノ宮さんですね。担当の先生からお話がありますので、ご案内してもよろしいでしょうか?」


「……はい。お願いします」


 和真は名残惜しそうにフェンリスの手を離した。


「すぐ戻るからな」


 そう声をかけ、三人とともに病室を出た。


     ◇


 案内された部屋には、白衣を着た医師が待っていた。


「フェンリスさんの容体について、ご説明します」


「お願いします」


 和真は椅子に腰を下ろした。


 膝の上で、両手を固く握りしめる。


「まず、命に別条はありません。そこは安心してください」


「……っ!」


 和真の肩から、わずかに力が抜けた。


 隣のみゆも、胸を押さえる。


「よかった……」


「ただし、今回の状態は決して軽く考えてよいものではありません」


 医師の表情は真剣だった。


「主な原因は、過労と栄養失調です」


「……栄養失調?」


「はい。相当な期間、十分な食事と休息が取れていなかったようです。脱水も見られました」


 和真は目を見開いた。


「そんな……」


「体重も減少しているようですし、疲労の蓄積がかなり進んでいます。身体が限界を迎え、倒れてしまったのでしょう」


 医師は検査結果を確認しながら続けた。


「現在は点滴で水分などを補い、安静にしてもらっています。意識も、休息が進めば戻ると考えています」


「……いつ頃、目を覚ますんでしょうか」


「はっきりした時間は申し上げられません。ただ、現在の検査では重大な異常は認められていません。しばらく様子を見ましょう」


「……はい」


「数日間は入院していただきます。その間に食事と休息を取り、検査結果や体調に問題がなければ退院できます」


「分かりました」


「それから」


 医師は和真を真っ直ぐ見た。


「身体の疲労だけでなく、精神的な負担も大きかった可能性があります」


「……精神的な?」


「もちろん、こちらは今の段階では断定できません。ただ、過度なストレスによって食欲が落ちたり、睡眠が十分に取れなくなったりすることもあります」


 和真は黙って聞いていた。


「退院後も、すぐに以前と同じ生活に戻すのは避けてください。本人が大丈夫と言っても、周囲の方が休ませてあげることが大切です」


「……はい」


「焦らず、ゆっくり回復させてあげてください」


 和真は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。……本当に」


 その声は、少し震えていた。


     ◇


 診察室を出ると、廊下には店長と奥さんが待っていた。


 さらに、見覚えのない男女が数人。


 おそらくフェンリスの同僚だろう。


「四ノ宮さん!」


 店長が駆け寄ってくる。


「フェンリスちゃんは……!」


「大丈夫です。命に別条はないそうです」


「……ああっ!」


 奥さんが口元を押さえた。


「よかった……本当に、よかった……」


 店長も深く息を吐いた。


 同僚らしい女性は、その場で涙ぐんでいた。


「ただ、過労と栄養失調だそうです。数日間入院して、しっかり休ませる必要があると」


「……そうですか」


 店長は苦しそうに目を閉じた。


「やっぱり……」


 やがて、もう一度頭を下げる。


「本当に申し訳ありませんでした」


 奥さんも頭を下げた。


「私たちが、もっと気をつけていれば……」


「……店長さん」


 和真は静かに口を開いた。


「俺への謝罪は、もう十分です」


「……え?」


「その言葉は、フェンリスが目を覚ましたら、本人に伝えてあげてください」


 店長は驚いたように顔を上げた。


「俺は、フェンリスが皆さんにお世話になっていることを知っています」


 和真は続けた。


「仕事を始めた頃、あいつ、すごく嬉しそうだったんです。初めて給料をもらったときなんか、ずっと自慢してきて……」


 思い出す。


 嬉しそうに給料を見せてきたフェンリス。


 自分で働いて稼いだお金で、何を買おうかと目を輝かせていた。


「だから……また元気になったとき、あいつが笑って仕事の話をできる場所であってほしいんです」


「……四ノ宮さん」


 店長の目に涙が浮かんだ。


「もちろんです」


 力強く頷く。


「ただ、しばらくは仕事を休んでもらいます。妻とも相談して、年始明けまでは休養してもらうことにしました。その後も、十分に回復するまでは無理に復帰させるつもりはありません」


 奥さんも頷いた。


「お給料のことも心配しなくていいように、こちらで補償します。フェンリスちゃんには、安心して休んでほしいんです」


「……そこまでしていただいて、いいんですか?」


「ええ。私たちにとっても、大切な従業員ですから」


 店長は優しく笑った。


「また、あの子の元気な笑顔が見たいんです」


 和真は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その後、少しだけ今後のことを話した。


 フェンリスが目を覚ましたら、改めて店長たちへ連絡すること。


 仕事のことは気にせず、まずは身体を治してもらうこと。


 店長たちは、もう一度フェンリスの病室の方へ頭を下げてから帰っていった。


 和真はその背中を見送る。


 そして、病室へと戻った。


     ◇


「……フェンリス」


 ベッドの上の彼女は、まだ目を閉じていた。


 和真は椅子に腰を下ろす。


 そっと手を握る。


「……早く起きろよ」


 小さく呟いた。


 その横では、リディアがフェンリスの顔色や呼吸を確認していた。


 ナディアも反対側に立ち、フェンリスの様子を注意深く見ている。


「……どうだ?」


 和真が尋ねる。


「医師の説明と一致しています。呼吸も落ち着いていますし、現在は身体を休めることが最優先でしょう」


 リディアが答えた。


「自分の装置も正常に作動しています。人間の姿も維持できていますので、そちらは心配ありません」


「そうか……」


 ナディアは腕を組んだ。


「……身体はな」


「え?」


「いや、こいつの場合、それだけじゃねえだろうな」


 ナディアはフェンリスを見つめた。


「相当、心が疲れてやがる」


「……心が?」


「ああ。魔力の状態も妙に乱れてる。疲れだけじゃ説明がつかねえ部分もあるな」


 和真はフェンリスの顔に視線を戻した。


「……そんなに、つらかったのか」


 誰に尋ねるでもなく、呟いた。


「俺……何も気づかなかった」


 みゆが俯く。


 ナディアはそんなみゆを横目で見た。


 何かを言いかけて、やめる。


 和真はフェンリスの手を両手で包んだ。


 そして。


 その小さな手を、自分の額へと押し当てた。


「……頼む」


 震える声。


「目を覚ましてくれ……」


 額を手に押し当てたまま、目を閉じる。


「……お願いだから」


 その姿を、三人は黙って見つめていた。


 やがて。


「……少し、外に出るぞ」


 ナディアが小さく言った。


 リディアとみゆが顔を上げる。


「和真。俺様たち、ちょっと外の空気を吸ってくる」


「……ああ」


 和真は顔を上げなかった。


「フェンリスのこと、頼むな」


「……分かってる」


 三人は静かに病室を出た。


     ◇


 病院の外。


 夜の冷たい空気が、三人の頬を撫でた。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて。


「……みゆ」


 ナディアが口を開く。


「そろそろ、話してもらうぞ」


「……え?」


「フェンリスがああなった理由だ」


 みゆの肩がびくりと震えた。


 リディアが首を傾げる。


「どういうことですか?」


「みゆは、何か知ってるんだろ?」


 ナディアの問いに、みゆは黙り込んだ。


 逃げることはできなかった。


「……うん」


 小さく頷く。


「……僕、フェンリスに……話したんだ」


「何をですか?」


 リディアが尋ねた。


 みゆは唇を噛んだ。


「……和真と、私が……その……」


 目に涙が浮かぶ。


「……男女の仲になったこと」


「…………え?」


 リディアが固まった。


 数秒間、完全に動きが止まる。


「……ちょっと待ってください」


 ゆっくりと、みゆを見る。


「今、何と言いました?」


「……和真と、そういう関係になったって……」


「…………」


 リディアは目を見開いたまま黙り込んだ。


「……いつの間に?」


「……少し前」


「…………そうですか」


 普段は冷静なリディアが、珍しく額を押さえた。


 ナディアはため息をつく。


「ま、俺様は知ってたけどな」


「……本当ですか?」


「ああ」


 そして、当然のように続けた。


「ちなみに俺様も、和真とはそういう関係だ」


「…………はい?」


 リディアの顔が上がった。


「……ナディアまで?」


「おう」


「…………」


 リディアは二人を交互に見た。


 そして。


 じとり。


 二人を睨んだ。


「……自分が知らない間に、ずいぶん仲が進んでいるのですね」


「……ごめん、リディア」


 みゆが小さく謝る。


「別に、そういうことを自分に報告する義務はありません」


 リディアは静かに答えた。


「ですが……」


 少しだけ声が低くなる。


「その結果、誰かが傷ついていたのなら、話は別です」


「…………」


「和真は、このことを知っているのですか? フェンリスが苦しんでいた理由を」


 みゆは首を横に振った。


「……知らないと思う」


 リディアは深く息を吐いた。


「……そうですか」


 ナディアが腕を組む。


「ま、詳しい話はフェンリスが目を覚ましてからだな」


「……分かりました」


 リディアは病院の方を振り返った。


「自分は、ほかの皆さんに連絡してきます」


「頼んだ」


「容体について伝えておきます。皆さん、心配しているでしょうから」


 そう言うと、リディアは少し離れた場所へ歩いていった。


 残されたみゆは、俯いたままだった。


「……ナディア」


「あ?」


「……私、フェンリスを……」


 それ以上、言葉にならなかった。


 ナディアはしばらく黙っていた。


「……みゆ」


「……うん」


「お前、和真のこと好きなんだろ?」


「……うん」


「フェンリスのことも、大切なんだろ?」


「……うん……!」


 みゆの目から涙が溢れた。


「……どっちも、大切なんだよぉ……!」


 ナディアは小さく息を吐いた。


「……だったら、なおさらだ」


「……え?」


「このままじゃ、誰も笑えねえだろ」


 みゆは俯いた。


 ナディアは病院の方へ視線を向ける。


「……あいつが起きたら、ちゃんと話そうぜ」


 その声は、先ほどまでとは違い、静かだった。


     ◇


 その頃。


 病室では、和真がずっとフェンリスの手を握っていた。


「……なあ、フェンリス」


 返事はない。


 それでも、和真は話しかけた。


「覚えてるか? 俺たちが初めて会ったときのこと」


 小さく笑う。


「公園だったよな」


 目の前に、突然現れた少女。


 銀色の髪。


 大きな狼耳。


 ふわふわの尻尾。


 そして、警戒心いっぱいの瞳。


「最初は、本当に驚いたんだぞ。いきなり異世界から来た女の子が目の前にいるんだからな」


 フェンリスの髪を、そっと撫でる。


「それなのに……気づいたら、一緒に暮らしてた」


 思い出すたび、胸が温かくなる。


「日本のこと、何も知らなくてさ。言葉もまだ上手く話せなくて……」


 和真は小さく息を吐いた。


「でも、何にでも興味津々だったよな」


 買い物。


 料理。


 テレビ。


 初めて食べた甘いお菓子。


 どれも、フェンリスは目を輝かせていた。


「……あの頃、楽しかったな」


 その声が、少し震えた。


「いや……今だって、楽しいんだけどさ」


 和真は俯いた。


「……最近、全然会えてなかったな」


 朝起きても、フェンリスはいない。


 夕食の時間になっても、帰ってこない。


 以前なら、真っ先に食卓に座っていたのに。


 笑いながら、今日あったことを話してくれたのに。


「……お前がいないとさ」


 和真は一度、言葉を止めた。


 握った手に、少しだけ力を込める。


「……寂しいんだよ」


 ぽたり。


 涙が落ちた。


「なんか……変なんだ」


 小さく笑おうとした。


 けれど、上手く笑えなかった。


「みんながいて、毎日あんなに賑やかなのに……」


 フェンリスの手を見つめる。


「……お前がいないと、寂しいんだ」


 涙が止まらなかった。


「最近さ……お前の部屋の前を通るたび、声かけようかなって思ってたんだ」


 でも。


 疲れているだろう。


 眠っているかもしれない。


 邪魔をしたら悪い。


 そう考えて、結局そのまま通り過ぎていた。


「……馬鹿だよな、俺」


 和真は目を閉じた。


「仕事、そんなに無理してたなんて……全然知らなかった」


 頬を伝った涙が、握った手に落ちる。


「……もっと、話しかければよかった」


 声がかすれる。


「もっと……一緒にいればよかった」


 そして。


「……ごめんな」


 震える声で呟いた。


「一人で、無理させて……」


 しばらく、沈黙が続いた。


 和真はフェンリスの手を額に押し当てた。


「……なあ」


 小さく息を吸う。


「果物狩りの約束だって、まだあるだろ?」


 以前、フェンリスが自分のために考えてくれた旅行。


 好きな果物の時期が合わなくて、延期になった約束。


「……俺、楽しみにしてたんだぞ」


 和真は寂しそうに笑った。


「お前とだったら、きっと楽しいだろうなって……」


 もう一度、涙が落ちた。


「……だからさ」


 握った手を、額に強く押し当てる。


「……早く起きてくれ」


 声が震えた。


「俺、まだ……お前と話したいこと、いっぱいあるんだ」


 返事はない。


「また一緒に飯食べたいよ」


 返事はない。


「……休みの日には、どっか行こう」


 返事はない。


「……お前が好きなもの、いっぱい行ってやるからさ」


 和真は顔を伏せた。


「……お願いだから」


 声がかすれる。


「……目を覚ましてくれよ、フェンリス……」


     ◇


 病室の外。


 戻ってきた三人は、扉の前で足を止めていた。


 中から、和真の声が聞こえていたからだ。


 みゆは両手で口元を押さえていた。


 リディアも黙って俯いている。


 ナディアは腕を組み、目を閉じていた。


 誰も、扉を開けようとしなかった。


 和真の声が、あまりにも切実だったから。


「……和真……」


 みゆが小さく呟く。


 あんな声を、聞いたことがなかった。


 いつも優しくて。


 困っている誰かを放っておけなくて。


 自分のことより、みんなのことを考えてしまう。


 そんな和真が。


 今は、ただ一人の少女のために泣いていた。


 リディアが小さく息を吐いた。


「……和真は、ずっと辛かったのですね」


「……そうだな」


 ナディアが答える。


「本人も、今まで気づいてなかったんだろ」


 みゆは何も言えなかった。


 やがて、ナディアが扉に手をかける。


「……そろそろ戻るぞ」


 二人は静かに頷いた。


     ◇


「和真」


 病室に戻ったナディアが声をかけた。


「そろそろ代わるぞ。お前も休め」


「……いや」


 和真は首を横に振った。


「俺は、ここにいる」


「しかし、あなたもかなり疲れています」


 リディアが心配そうに言う。


「旅行から戻ったばかりですし、長時間運転もしています。少し休んだ方がいいです」


「……大丈夫」


 和真はフェンリスの手を握り直した。


「……もう少し、ここにいさせてくれ」


 三人は顔を見合わせた。


 やがて、みゆが小さく頷いた。


「……分かった」


 ナディアもため息をつく。


「ったく……頑固な奴だな」


 和真は何も答えなかった。


 ただ、フェンリスの額に浮かんだ汗に気づくと、用意されていたタオルで優しく拭った。


「……暑いか?」


 眠ったままの彼女に尋ねる。


「……もうちょっと、楽になるといいな」


 その姿に、リディアは小さく微笑んだ。


「……では、自分たちは車で少し休んできます」


「ああ……ありがとう」


「何かあったら、すぐに呼べよ」


 ナディアが言う。


「……分かった」


 みゆは最後にフェンリスの顔を見つめた。


「……フェンリス、またあとでね」


 三人は病室を出ていった。


 病院側の配慮で、今夜は和真一人だけ付き添いを許されていた。


 部屋には静けさが戻る。


 和真は椅子に深く腰を下ろした。


 そして。


 また、フェンリスの手を握った。


     ◇


 どのくらい経っただろう。


 和真には、ひどく長い時間に感じられた。


 壁の時計を見る。


 ……まだ、一時間も経っていない。


「……全然、時間進まないな」


 苦笑する。


 フェンリスの顔を見る。


 眠っている。


 額に少し汗が浮かんでいた。


 和真はタオルでそっと拭う。


「……大丈夫だからな」


 手を握り直す。


「……俺、ここにいるから」


 しばらくして、また時計を見た。


 針は、ほんの少ししか進んでいない。


「……はは」


 力なく笑った。


「……こんなに、時間って長かったっけ」


 また、フェンリスを見る。


 手を握る。


 祈る。


 目を閉じる。


 その繰り返しだった。


 夜が更けていく。


 病室の照明が落とされ、窓の外は暗くなった。


 和真は何度もフェンリスの名前を呼んだ。


 そのたびに、返事を待った。


 けれど。


 彼女は目を覚まさなかった。


「……フェンリス」


 和真の瞼が、少しずつ重くなる。


 疲労が、ゆっくりと身体を包んでいった。


「……早く……」


 フェンリスの手を握ったまま。


「……起きて……くれ……」


 その声は、やがて途切れた。


 ベッドの横で、和真は静かに眠りに落ちた。


 それでも。


 その手だけは、離さなかった。


     ◇


 翌朝。


 カーテンの隙間から、柔らかな日差しが差し込んでいた。


 白いベッドを照らす光。


 その中で。


「……ん……」


 小さな声が漏れた。


 フェンリスの瞼が、ゆっくりと動く。


「……う……」


 重たい瞼を開けた。


 見知らぬ天井。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


「……ここ……?」


 ぼんやりと周囲を見渡した。


 身体が重い。


 腕には、何かがつながっている。


「……点滴……?」


 少しずつ記憶が戻ってきた。


 配達。


 帰り道。


 急に視界が暗くなって。


 足に力が入らなくなって。


 そして――。


「……そっか」


 フェンリスは小さく呟いた。


「……僕、倒れちゃったんだ」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 迷惑をかけてしまった。


 店長にも。


 奥さんにも。


 一緒に働く人たちにも。


「……やっちゃったなぁ……」


 弱々しく笑おうとした、そのとき。


「……?」


 手に、何か温かい感触があった。


 誰かが、自分の手を握っている。


 フェンリスはゆっくり視線を動かした。


 そして。


「…………え?」


 目を見開いた。


 ベッドの横。


 椅子に座ったまま、眠っている青年。


 自分の手を両手で包み込むように握っている。


「……和真……?」


 信じられなかった。


 どうして、ここに。


 どうして、自分の手を握っているのか。


 フェンリスは、じっと和真を見つめた。


 疲れた顔。


 椅子に座ったまま眠っている、不自然な姿勢。


 そして。


「……あ……」


 フェンリスの目が揺れた。


 和真の頬に、涙の跡が残っていた。


「……泣いた……の?」


 自分のために?


 和真が?


「…………」


 胸が、温かくなった。


 嬉しかった。


 どうしようもなく、嬉しかった。


 和真が来てくれた。


 そばにいてくれた。


 手を握ってくれていた。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 でも。


 すぐに、別の感情が押し寄せてきた。


 ――みゆ。


 あの日。


 みゆから聞いた話。


 和真と、みゆが男女の仲になったこと。


 祝福しようとした。


 笑おうとした。


 でも、涙が止まらなかった。


 ずっと好きだった。


 ずっと一緒にいたかった。


 誰よりも近くにいたかった。


 なのに。


 自分だけ、取り残されたような気がした。


「……うぅ……」


 胸が苦しい。


 和真がそばにいてくれる。


 嬉しい。


 でも。


 和真には、みゆがいる。


 ほかのみんなだって、和真のことが好きだ。


 自分は。


 自分は、どうすればいいのだろう。


「……僕……」


 フェンリスの目に涙が浮かんだ。


 こんなに迷惑をかけたのに。


 和真は、こんなところまで来てくれた。


 きっと、心配させてしまった。


 仕事だって休むことになる。


 また、みんなに迷惑をかける。


 それなのに。


 それなのに。


「……嬉しいよぉ……」


 小さく呟いた。


 握られた手を見つめる。


「……和真……」


 胸の中が、ぐちゃぐちゃだった。


 嬉しい。


 苦しい。


 会いたかった。


 でも、会うのが怖かった。


 抱きしめてほしい。


 でも、自分がそんなことを望んでいいのか分からない。


「……どうしたら、いいの……」


 ぽろり。


 涙が頬を伝った。


 そのとき。


「……ん……」


 和真が小さく身じろぎした。


 フェンリスの肩が跳ねる。


「……あ……」


 和真がゆっくり顔を上げた。


 眠たそうに目をこする。


「……フェンリス……」


 寝ぼけた声。


 そして。


「…………?」


 和真の動きが止まった。


 フェンリスと、目が合った。


「…………」


「…………」


 数秒間、二人は見つめ合った。


 やがて。


「……フェンリス?」


「……和真……」


「……起きた……?」


 フェンリスが、小さく頷く。


「……うん……」


 次の瞬間。


「フェンリスッ!!」


「……わっ!?」


 和真が立ち上がった。


 点滴につながる腕に気をつけながら、フェンリスの身体を強く抱きしめる。


「……っ!」


 突然のことに、フェンリスは目を見開いた。


「……か、和真……?」


「……よかった……」


 震える声。


「……本当に……よかった……!」


 和真の肩が震えていた。


「……っ……」


 涙が、フェンリスの肩に落ちた。


「……よかった……!」


 もう一度。


「……目、覚ました……よかった……!」


 和真は泣いていた。


 子供のように。


 何度も、何度も。


 よかったと繰り返しながら。


「…………」


 フェンリスは動けなかった。


 どうしたらいいのか、分からなかった。


 嬉しい。


 でも、苦しい。


 でも。


 こんなふうに抱きしめられて。


 こんな声で泣かれたら。


「……っ……」


 我慢なんて。


 できるわけがなかった。


「……和真……!」


 フェンリスは、点滴のない方の腕を和真の背中に回した。


 ぎゅっと抱きしめ返す。


「……和真ぁ……!」


 涙が溢れた。


「……う……うあぁぁ……!」


 堰を切ったように泣き出した。


 ずっと我慢していたものが。


 ずっと押し殺していたものが。


 一気に溢れ出した。


「……和真ぁ……!」


「ああ……ここにいる……!」


「……うあぁぁぁぁ……!」


 フェンリスは、和真の胸に顔を埋めた。


 和真も、離そうとしなかった。


 二人はただ、抱きしめ合って泣いていた。


     ◇


「……今の声!」


 病室の外。


 戻ってきたみゆが足を止めた。


「フェンリス!?」


 慌てて扉を開ける。


 その瞬間。


「……っ!」


 ベッドの上で、和真に抱きしめられているフェンリスが見えた。


 泣いている。


 でも。


 目を開けている。


「……フェンリス……!」


 みゆの目から涙が溢れた。


「フェンリスぅぅっ!!」


 駆け寄る。


 そして、反対側から抱きついた。


「……み、みゆ……!?」


「よかったぁ……! ほんとに、よかったぁ……!」


 みゆは泣きながらフェンリスにしがみついた。


「もう……心配したんだからぁ……!」


「……みゆ……」


 フェンリスの涙が、さらに溢れた。


 和真。


 みゆ。


 二人に抱きしめられながら。


「……うぅ……!」


 フェンリスは何度も泣いた。


「……ごめん……ごめんねぇ……!」


「謝んなくていいよぉ……!」


 みゆが泣きながら答える。


「……ばかぁ……!」


 和真も涙を拭いながら、フェンリスの頭を撫でた。


「……本当に、心配したんだからな」


「……うん……」


 フェンリスは泣きながら頷いた。


 その様子を、少し離れた場所で見守る二人。


 ナディアは腕を組み、ふっと笑った。


「……ったく」


 リディアも小さく微笑む。


「……よかったです。本当に」


 二人はしばらく、泣きじゃくる三人を見守っていた。


     ◇


 それから、しばらくして。


 看護師がフェンリスの意識が戻ったことを確認し、簡単な診察が行われた。


 医師からも、回復は順調だと説明された。


 ただし、まだ無理は禁物。


 食事も、少しずつ身体を慣らしていく必要があるという。


 和真たちは、ようやく胸を撫で下ろした。


 病室に戻ると、フェンリスはベッドの上で上体を少し起こしていた。


「……本当に、ごめん」


 小さく謝る。


「……もう、謝らなくていいって」


 和真が苦笑する。


「……でも」


「でもじゃない。まずは、元気になることを考えろ」


「……うん」


 フェンリスは俯いた。


 みゆも、その隣で俯いていた。


 会話が続かない。


 和真はフェンリスを心配している。


 みゆは、フェンリスに何を言えばいいのか分からない。


 フェンリスも、二人とどう接すればいいのか分からなかった。


 そんな三人を見て。


「…………はぁ」


 ナディアが大きなため息をついた。


「……ったく、見てらんねえな」


「……ナディア?」


 和真が首を傾げる。


 ナディアはフェンリスとみゆを交互に見た。


 どちらも俯いたまま。


 互いを気にしているくせに、何も言おうとしない。


 ナディアは小さく息を吐いた。


「……おい、和真」


「なんだ?」


「悪いんだが、車から俺様の飲み物を取ってきてくれねえか?」


「飲み物?」


「ああ。喉が渇いた」


「……分かった。何があったっけ?」


「適当に冷たいものでいい」


「……了解」


 和真は立ち上がった。


 すると、リディアも手を挙げた。


「自分も、車に置いてきた荷物があります。和真と一緒に行きます」


「そうか。じゃあ行こう」


 二人は病室を出ていった。


 扉が閉まる。


 室内には、フェンリス、みゆ、ナディアの三人が残された。


 しばらくの沈黙。


 そして。


「……さて」


 ナディアがフェンリスの前に立った。


「フェンリス」


「……なに?」


「ちょっと、こっち向け」


「……?」


 フェンリスが顔を上げた。


 次の瞬間。


 ぱしんっ!


「……っ!?」


 乾いた音が病室に響いた。


 ナディアの平手が、フェンリスの頬を打った。


 身体を揺らすほどの力ではない。


 それでも、突然のことにフェンリスは目を見開いた。


「……な、ナディア!?」


 みゆが叫ぶ。


「何するの!? フェンリス、病人なんだよ!?」


「……分かってる」


 ナディアは短く答えた。


 その手を下ろすと、フェンリスを真っ直ぐ見つめた。


「……この、大馬鹿野郎が」


「…………」


「どれだけ心配したと思ってやがる」


 その声は、低かった。


「倒れたって聞いたとき、俺様だって……!」


 そこで、一度言葉が途切れた。


 ナディアは唇を噛み、深く息を吐いた。


「……二度と、こんな真似するんじゃねえぞ」


「……ナディア……」


 フェンリスは頬に手を当てたまま、呆然としていた。


 けれど、ナディアはそこで終わらなかった。


「お前、何考えてやがんだ?」


「……え?」


「こんなになるまで働いて、飯も食わず、寝る間も惜しんで……!」


 ナディアの声が荒くなる。


「何がしたかったんだよ!」


「……それは……」


「和真の顔を見るのがつらかったのか?」


「……っ!」


 フェンリスが息を呑む。


「みゆと顔を合わせるのが嫌だったのか?」


「…………」


「だから、仕事に逃げたのか?」


「……ちが……」


「違わねえだろ!」


 ナディアが言い切った。


「お前、和真のことが好きなんだろ?」


「……っ!」


「だったら、なんであいつをあんなに寂しがらせた!」


「…………え?」


 フェンリスが顔を上げる。


「……寂しがらせた……?」


「ああ!」


 ナディアは腕を組んだ。


「最近、あいつがどれだけお前のこと気にしてたと思ってんだ?」


「……和真が……?」


「そうだ。朝になればお前がもう出かけてるって気にして、夕飯になれば帰ってこねえかって心配して……」


 ナディアはフェンリスを真っ直ぐ見た。


「お前が無理してるんじゃねえかって、何度も気にしてやがったんだぞ!」


「…………」


 フェンリスの目が揺れた。


「……うそ……」


「嘘ついてどうすんだ!」


 ナディアはさらに続ける。


「昨日なんかな、俺様たちが聞いてるとも知らずに、お前がいなくて寂しいって泣いてやがったんだ!」


「…………え?」


 フェンリスの唇が震えた。


「……和真が……僕のこと……?」


「ああ。お前の手を握って、ずっと話しかけてた」


 ナディアは、少しだけ声を落とした。


「また一緒に飯を食いたいって。お前と出かけたいって。お前と話したいことが、まだいっぱいあるってな」


「…………っ!」


 フェンリスの目から涙が溢れた。


「……そんな……」


「お前だけじゃねえんだよ」


 ナディアが言った。


「和真だって、お前に会いたかったんだ」


「……っ……」


 フェンリスは俯いた。


 ぽたり。


 涙が落ちた。


「……僕……」


 唇を噛む。


「……そんなつもりじゃ……」


「だったら、どういうつもりだったんだ!」


「……っ!」


「和真に会いたくなかったのか?」


「……ちがう……」


「だったら、なんで会いに行かなかった!」


「……っ……!」


 フェンリスは両手を握りしめた。


「……僕だって……」


 小さな声。


「……僕だって、会いたかった……」


 涙が溢れた。


「……和真に……会いたかったんだよ……!」


 ナディアは黙って聞いていた。


「でも……つらかった……!」


 フェンリスは泣きながら続けた。


「みゆが……和真と……!」


 言葉が詰まる。


「……僕、ずっと……和真のこと……!」


 両手で顔を覆った。


「……どうしたらいいか、分かんなかったんだよぉ……!」


 その隣で、みゆも泣きそうな顔をしていた。


「……フェンリス……」


 ナディアは、そんな二人を見つめた。


 そして。


「……だったら、そう言えばよかったんだ」


「……っ……」


「寂しいなら寂しいって、会いたいなら会いたいってな」


 フェンリスが顔を上げる。


「……でも……」


「でも、じゃねえよ」


 ナディアは腕を組んだ。


「お前が何も言わずに離れていったら、和真には分かんねえだろ」


「…………」


「……ま、あいつも鈍感だけどな」


 少しだけ、口元を緩める。


 けれど。


 すぐに意地の悪い笑みを浮かべた。


「……それとも」


「……え?」


「もう和真のこと、いらねえのか?」


「…………え?」


「だったら、俺様がもらってやるよ」


 フェンリスの目が大きく開いた。


「……なっ!?」


「お前が諦めるってんなら、遠慮する必要もねえだろ?」


 ナディアはわざと肩をすくめた。


「俺様が和真を独り占めしてやる。毎日甘えて、抱きついて、誰にも触らせねえようにしてやるよ」


「……だ、だめっ!」


 フェンリスが声を上げた。


「……あ?」


「だめだよ!」


 泣いていた顔が、怒った顔に変わった。


「和真を勝手に独り占めしないで!」


「なんだ? お前、もう諦めたんじゃねえのか?」


「諦めてないよ!」


 フェンリスは思わず叫んだ。


「……僕は……!」


 その声を聞いて、ナディアの口元がわずかに緩んだ。


 だが、すぐに挑発的な笑みに戻す。


「じゃあ、みゆはどうだ?」


「……え?」


 突然話を振られ、みゆが目を瞬いた。


「お前も最近、和真と距離取ってやがるだろ?」


「……っ!」


 みゆの肩が跳ねた。


「和真が気にしてたぞ。最近みゆの様子がおかしいってな」


「……そんな……」


「何か怒らせたんじゃねえかって、あいつなりに悩んでたんだよ」


 みゆは俯いた。


 フェンリスが驚いたように顔を上げる。


「……みゆ、和真と……?」


「……うん」


 みゆは小さく頷いた。


「……ちょっと、距離を取ってた」


「……どうして?」


 フェンリスの問いに、みゆは言葉を詰まらせた。


「……だって……」


 涙が浮かぶ。


「フェンリスに話したあと……どうしたらいいか分かんなくなっちゃって……」


 みゆは両手を握った。


「和真と一緒にいると、フェンリスのことが気になって……」


「……みゆ……」


「でも……私、和真のこと好きだから……離れたくなくて……」


 みゆの声が震えた。


「……でも、フェンリスのことも大切だから……!」


 とうとう涙が溢れた。


「……どうしたらいいのか、分かんなかったんだよぉ……!」


 フェンリスは何も言えなかった。


 ナディアは大きく息を吐いた。


「……ったく」


 そして、二人を見た。


「お前ら、揃いも揃って何やってんだよ」


「…………」


「好きな奴に会いたいと思うのは、悪いことなのか?」


 二人が顔を上げる。


「一緒にいたいって思うのは、誰かに謝らなきゃいけねえことなのか?」


「……それは……」


「お互いを大切に思ってるくせに、勝手に遠慮して、勝手に離れて……」


 ナディアは声を強めた。


「その結果、二人とも苦しんで、和真まで寂しい思いしてんじゃねえか!」


 二人は何も言い返せなかった。


「……ナディアは……」


 みゆが小さく口を開いた。


「……ナディアは、いいよね」


「あ?」


「……私みたいに悩まずに、和真に好きって言えて……」


 ナディアは片眉を上げた。


「……ほう?」


「……私だって、和真が好きだよ!」


 みゆが顔を上げた。


「ずっと好きだった! 誰よりも好きだって思ってた!」


 涙が頬を伝う。


「やっと……やっと、和真ともっと一つになれたのに……!」


 みゆは胸を押さえた。


「……でも、フェンリスのこと考えたら……!」


「だったら、なんで遠慮した!」


 ナディアが即座に返した。


「……っ!」


「お前が和真を好きなのは知ってる! フェンリスが大切なのも知ってる!」


 ナディアは、みゆを真っ直ぐ見つめた。


「でもな、何も言わずに離れていったら、和真はどう思うんだよ!」


「…………」


「お前が何を考えてるか、和真に全部分かるとでも思ってんのか?」


「……それは……」


 みゆは言い返せなかった。


「……それにな」


 ナディアは腕を組み直した。


「俺様が何も悩んでねえとでも思ってんのか?」


「……え?」


 みゆが顔を上げた。


「俺様だって、不安ぐらいあるに決まってんだろ」


 ナディアは少しだけ目を細めた。


「和真が、いつか誰か一人を選ぶかもしれねえことぐらい分かってる」


「…………」


「俺様が選ばれないかもしれねえってこともな」


 フェンリスも、驚いたようにナディアを見た。


「……ナディア……」


「けどな」


 ナディアは堂々と胸を張った。


「だからって、好きな気持ちを諦める理由にはならねえんだよ!」


「……っ!」


「俺様は遠慮しねえ。好きなら好きって言うし、甘えたいときは甘える」


 そして、にやりと笑った。


「何せ、俺様は和真と身体の関係だってあるからな!」


「…………え?」


 フェンリスの動きが止まった。


「……ナディア……?」


「ああ?」


「……今、なんて……?」


「俺様も和真とはそういう仲だって言ったんだよ」


「…………」


 フェンリスは目を見開いた。


「……え……?」


 ナディアはさらに続けた。


「最近なんか、ほとんど毎晩一緒に過ごしてるぜ?」


「…………っ!」


 フェンリスが息を呑む。


 みゆも少し頬を赤くした。


「……ナディア、そこまで言わなくても……!」


「何だよ。本当のことだろ?」


 ナディアは平然と答える。


 そして、フェンリスを見る。


「どうした? そんな顔して」


「……ナディア……も……?」


「ああ」


「……和真と……?」


「そうだ」


「…………」


 フェンリスは言葉を失った。


 みゆだけだと思っていた。


 けれど。


 ナディアまで。


「……二人とも……」


 胸が痛んだ。


 目に涙が浮かぶ。


 ナディアは、その変化を見逃さなかった。


「……で?」


「……え?」


「だから何だ?」


「…………」


「俺様とみゆが和真とそういう仲なら、お前はもう和真を好きでいちゃいけねえのか?」


「……っ!」


 フェンリスが顔を上げた。


「……そんな……」


「誰がそんなこと決めた?」


「…………」


「俺様か? みゆか? それとも和真本人に言われたのか?」


「……ちがう……」


「だったら何だよ!」


 ナディアは一歩近づいた。


「俺様たちが先に進んだからって、お前の和真を好きな気持ちは消えちまうのか?」


「……っ!」


「そんな簡単な気持ちだったのか?」


「……違うっ!」


 フェンリスが叫んだ。


「違うよ!」


 涙が溢れる。


「……僕だって……!」


 両手を握りしめた。


「……僕だって、和真が好きだよ……!」


 ナディアは何も言わなかった。


 ただ、フェンリスを見つめている。


「……ずっと……ずっと好きだった!」


 フェンリスは泣きながら続けた。


「和真と一緒にいるのが大好きで……和真が笑ってくれるのが嬉しくて……!」


 胸を押さえる。


「……和真に頭を撫でてもらうのも、手を繋いでもらうのも……全部、嬉しくて……!」


 涙が止まらない。


「……僕、和真のこと……本当に大好きなんだよぉ……!」


 ナディアは、静かに頷いた。


「……ああ」


 そして、わざと意地悪そうに笑った。


「だったら、俺様が和真をもらっても文句ねえんだな?」


「……だめっ!」


 フェンリスが顔を上げた。


「絶対にだめ!」


「はっ! 何だよ、まだ文句あんのか?」


「あるよ!」


 フェンリスは涙を拭った。


「僕だって……和真の隣にいたい!」


 声が震える。


 けれど、今度は俯かなかった。


「みゆにも、ナディアにも……負けたくない!」


 そして。


「……もう、我慢しない!」


 ナディアの目が細められた。


「……ほう?」


「もう、逃げない!」


 フェンリスは真っ直ぐナディアを見た。


「……僕、和真のそばにいたい!」


 もう一度、涙を拭う。


「……二人に負けないくらい、和真のことが好きなんだから!」


 その瞬間。


「……はっ!」


 ナディアが笑った。


「ははっ! やっと言いやがったな!」


「……え?」


 フェンリスが目を瞬いた。


「ったく、世話の焼ける奴だぜ」


 ナディアは満足そうに笑っていた。


 その表情は、先ほどまでの厳しいものとはまるで違っていた。


「……ナディア……?」


「何だよ?」


「……怒って、ないの……?」


「怒ってるに決まってんだろ。こんなになるまで自分を追い込んだんだからな」


 ナディアは小さく息を吐いた。


「でもな……」


 フェンリスの頭に、そっと手を置く。


「……お前がまた笑えるようになったんなら、それでいい」


「…………」


 フェンリスの目が揺れた。


 ナディアは、先ほど叩いた頬に視線を落とした。


「……さっきは悪かったな。病み上がりのお前に手を上げたのは、やりすぎた」


「……ううん……」


 フェンリスは首を横に振った。


「……ナディア……」


 ナディアは照れくさそうに顔を背けた。


「……ま、勘違いすんなよ?」


「……え?」


「俺様が和真を譲る気は、これっぽっちもねえからな!」


 にやりと笑う。


「覚悟しとけよ、フェンリス!」


 フェンリスは少し驚いた顔をした。


 そして。


「……うん!」


 涙を拭い、笑った。


「……僕だって、負けないよ!」


「ははっ! いいじゃねえか!」


 ナディアは楽しそうに笑った。


 そして、みゆへ視線を向けた。


「……で、みゆ」


「……え?」


「お前はどうする?」


 みゆは俯いた。


「……私……」


 小さな声。


「……私だって、和真が好き……」


 ナディアは頷く。


「知ってる」


「……ずっと好きだったし……これからも好きでいたい……」


 みゆは顔を上げた。


「……でも、フェンリスのことも……」


 そのとき。


「……みゆ」


 フェンリスが声をかけた。


「……え?」


 みゆが顔を向ける。


 フェンリスは少しだけ迷ってから、口を開いた。


「……僕ね」


「……うん」


「……みゆが和真とそういう仲になったって聞いたとき……本当に、つらかったんだ」


 みゆの表情が曇った。


「……うん……」


「みゆのこと、祝福したかった」


 フェンリスの目に、再び涙が浮かぶ。


「……でも、できなかった……」


「……フェンリス……」


「……ごめんね」


 フェンリスは俯いた。


「……みゆの幸せを、素直に喜べなくて……」


 その言葉に。


「……違う!」


 みゆが声を上げた。


 フェンリスが驚いて顔を上げる。


「……違うよ、フェンリス!」


 みゆの目から涙が溢れた。


「……謝らないで……!」


 みゆはフェンリスの手を握った。


「私だって……フェンリスが和真のこと好きなの、知ってたのに……!」


 声が震える。


「……なのに……!」


 みゆは泣きながら続けた。


「……私だけ先に進んじゃって……!」


「……みゆ……」


「……ごめんね……!」


 とうとう涙が溢れた。


「……フェンリスのこと、傷つけたかったわけじゃないんだよぉ……!」


 フェンリスは黙っていた。


 みゆが泣きながら手を握りしめる。


「……フェンリスのこと、大切なんだよ……!」


 その言葉に。


 フェンリスの目からも、涙が溢れた。


「……僕だって……!」


 握られた手を、握り返す。


「……僕だって、みゆのこと大切だよ……!」


 二人は見つめ合った。


 涙で顔をくしゃくしゃにしながら。


「……でも……」


 フェンリスは、少しだけ笑った。


「……和真のことは、譲れない……」


「…………」


 みゆは目を見開いた。


 そして。


「……うん!」


 涙を拭い、笑った。


「……私だって、譲れないよ!」


「……うん!」


 フェンリスも笑った。


 その様子を、ナディアは黙って見ていた。


 やがて。


「……ったく」


 小さく笑う。


「最初から、そう言やよかったんだよ」


 二人が顔を上げる。


「誰かを好きになるのに、遠慮なんかいらねえ。相手を大切に思う気持ちまで、捨てる必要もねえ」


 ナディアは腕を組んだ。


「ま、最後に誰を選ぶかは、和真が決めることだけどな」


「……うん」


 みゆが頷いた。


 フェンリスも小さく頷く。


「……分かってる」


 ナディアはにやりと笑った。


「だったら、勝負だな!」


「……え?」


「俺様は負けねえぞ?」


 みゆが笑った。


「……私だって!」


 フェンリスも顔を上げた。


「……僕も!」


 ナディアは楽しそうに笑った。


「ははっ! いいじゃねえか!」


 そして。


「……ただな」


 腕を組み直す。


「お前ら、何で三人だけだと思ってんだ?」


「……え?」


 みゆが首を傾げる。


 フェンリスもきょとんとした。


「……どういうこと?」


 ナディアは大きなため息をついた。


「お前らなぁ……」


 額を押さえる。


「ほかにもいるだろうが! 可愛い奴らが!」


「…………」


「あのアパートに、和真を好きな奴が何人いると思ってやがる!」


 フェンリスとみゆは顔を見合わせた。


「……あ」


「……そっか」


「特に、あおいと酒菜は手強いぞ」


 ナディアが言った。


「二人とも、和真への想いは相当なもんだからな」


「……あおい……」


 みゆが呟いた。


 そして、突然顔を上げる。


「……いや!」


「あ?」


「一番危ないのはピピだよ!」


 みゆが真剣な顔で言った。


「……ピピ?」


 フェンリスが首を傾げる。


「そう! あの子、遠慮ってものが全然ないんだから!」


 みゆは拳を握った。


「甘えたいときは全力で甘えるし、抱きつくし、キスまでおねだりするし!」


 フェンリスの肩がぴくりと動いた。


 あの日。


 ピピの携帯に映っていた写真。


 和真が、ピピの頬にキスをしていた。


 その光景が脳裏によぎる。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど。


「……うん」


 フェンリスは小さく頷いた。


「……ピピは、確かに危ないかも……」


「だよね!?」


 みゆが勢いよく頷く。


 ナディアは面白そうに笑った。


「ま、あいつは遠慮を知らねえからな」


「……でも」


 フェンリスが小さく口を開いた。


「……僕、ひかげも強いと思う」


「……ひかげ?」


 みゆが首を傾げる。


「うん」


 フェンリスは少し考えてから続けた。


「和真って、ひかげみたいな子に弱いんだよ」


「……ああ」


 ナディアが納得したように頷く。


「守ってやりたくなるタイプか」


「そうそう」


 フェンリスも頷く。


「ひかげが困ってると、和真ってすぐ助けに行くでしょ?」


「……確かに!」


 みゆが目を見開いた。


「しかも、ひかげって最近ちょっと積極的になってるよね!」


「……うん」


 フェンリスは苦笑した。


「……ああいう子が頑張って甘えてきたら、和真、きっと断れないと思う」


「それは危ないな……!」


 ナディアが顎に手を当てた。


 三人は真剣な顔で頷き合った。


 そのとき。


「……聞き捨てなりませんね」


「「「……え?」」」


 病室の扉が開いた。


 そこには。


 リディアが立っていた。


「……リディア!?」


 みゆが驚く。


「和真は?」


「車に飲み物がなかったので、コンビニに買いに行きました。自分は先に戻ってきたのですが……」


 リディアは静かに眼鏡の位置を直した。


「ずいぶん楽しそうな話をしているようですね」


 ナディアはにやりと笑った。


「……お前も参戦する気か?」


「当然です」


 リディアは堂々と答えた。


「自分も、和真のことが好きですから」


「…………」


 三人が固まる。


 リディアはさらに続けた。


「そもそも、自分は和真の好みについて、かなり理解しているつもりです」


「……え?」


 みゆが首を傾げる。


「和真がどのような服装に反応するか。どんな仕草に弱いか。どのような状況で動揺するか」


 リディアは淡々と説明した。


「日々の観察結果から、ある程度の傾向は把握しています」


「……観察って……」


 フェンリスが苦笑した。


「さらに」


 リディアは胸を張った。


「自分は、和真を誘惑するための装置もいくつか開発しています」


「……はぁ!?」


 ナディアが目を見開いた。


「お前、そんなもん作ってんのか!?」


「はい」


 リディアは真顔で頷いた。


「衣装の調整、香りの演出、身体の魅力を引き立てる補助装置など、現在も研究を進めています」


「……えぇ……」


 みゆが頬を引きつらせる。


 フェンリスも呆然としていた。


 ナディアは数秒黙り込み。


 そして。


「……ぶはっ!」


 吹き出した。


「ははははっ! お前、やるじゃねえか!」


「当然です」


 リディアは平然と答えた。


「自分は、和真に振り向いてもらうためなら努力を惜しみません」


「……リディア、すごいね……」


 フェンリスが呟く。


「……というか」


 みゆが小さく手を挙げた。


「和真の好みって……何?」


 リディアは真剣な顔で考えた。


「……一つ、確実に言えることがあります」


「……なに!?」


 三人が身を乗り出す。


 リディアは静かに告げた。


「和真は、女性に頼られると非常に弱いです」


「…………」


 数秒の沈黙。


「……知ってる!」


 みゆが叫んだ。


「そんなの、みんな知ってるよ!」


「……そうですね」


 リディアは少し残念そうに頷いた。


 ナディアが腹を抱えて笑う。


「ははははっ! 何だそりゃ!」


「……ですが」


 リディアは眼鏡を直した。


「自分は、ほかにも有力な情報を持っています」


「……ほう?」


 ナディアが身を乗り出す。


「それは……」


 リディアが口を開いた。


 それからしばらく。


 四人は、和真の好みについて真剣に議論を始めた。


 誰が一番甘え上手なのか。


 誰が一番和真を照れさせられるのか。


 どんな服装が好みなのか。


 どんな仕草に弱いのか。


 いつの間にか、フェンリスも笑っていた。


 涙の跡はまだ残っている。


 頬も少し赤い。


 けれど。


「……それは違うよ!」


 フェンリスが笑いながら言った。


「和真って、そういうのより自然な笑顔の方が好きだと思う!」


「いやいや!」


 みゆが首を振る。


「絶対に、甘えられる方が弱いって!」


「俺様は堂々と誘惑するけどな!」


「自分は、科学的な方法で対抗します」


「……リディア、それはずるいよ!」


「研究の成果です」


「はははっ!」


 病室には、久しぶりに明るい笑い声が響いていた。


 ナディアは、その様子を見ながら小さく微笑んだ。


 ついさっきまで泣いていた二人。


 何を言えばいいのか分からず、俯いていた二人。


 その二人が、今は笑いながら和真の話をしている。


「……まったく」


 誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。


「……最初から、そうやって笑ってろよ」


 そして、いつもの意地悪そうな笑顔に戻った。


     ◇


「……ただいま」


 扉が開いた。


 和真が戻ってきた。


 手にはコンビニの袋を持っている。


「……あれ?」


 病室を見渡す。


 フェンリス。


 みゆ。


 ナディア。


 リディア。


 四人が、妙に楽しそうに笑っていた。


「……何か、あった?」


 四人が一斉に和真を見る。


「……いや?」


 ナディアがにやりと笑った。


「別に?」


「……そうか?」


 和真は首を傾げながら袋を持ち上げた。


「車に飲み物がなかったから、コンビニまで買いに行ってきた」


「……おう」


「ほら、ナディア」


 ペットボトルを差し出す。


「冷たいのでよかったんだろ?」


「……ああ。ありがとな」


 ナディアは受け取った。


 そのとき。


 四人の視線が、再び和真へ集まった。


「……?」


 和真が首を傾げる。


「……何?」


 フェンリスが小さく笑った。


 みゆも笑った。


 リディアは口元を緩めた。


 ナディアは肩を震わせている。


「……なんだよ、みんなして」


 和真が困惑する。


 すると。


「……ふふっ」


 みゆが笑った。


「……和真」


「ん?」


「……明日から、大変だね」


「…………は?」


 和真は目を瞬いた。


「……何が?」


「……なーいしょ!」


 みゆが笑う。


 ナディアは楽しそうに口元を歪めた。


「ま、覚悟しとけよ?」


「……何の覚悟!?」


「自分も、今後の計画を見直す必要がありますね」


 リディアが真剣に呟いた。


「……計画って何!?」


 和真はますます混乱した。


 そんな様子を見て。


「……ふふっ」


 フェンリスが笑った。


 久しぶりに。


 本当に、久しぶりに。


 自然な笑顔だった。


 和真はその顔を見て、思わず表情を和らげた。


「……フェンリス」


「……ん?」


「……笑ったな」


「……え?」


「……いや」


 和真は優しく微笑んだ。


「……よかった」


 その一言に。


 フェンリスの頬が、ほんのり赤くなった。


「…………」


 少しだけ、胸が温かくなる。


 そして。


「……和真」


「ん?」


 フェンリスは、そっと手を伸ばした。


 和真に向かって。


「……?」


 和真は首を傾げながら、その手を握った。


「どうした?」


 フェンリスは少し照れくさそうに笑った。


「……あのね」


「うん」


「……お腹、空いた」


「……え?」


 和真が目を瞬く。


 フェンリスは小さく笑った。


「……果物、食べたいな」


「……果物?」


「うん」


 少しだけ、甘えるような声。


「……甘いやつ」


 和真は一瞬、驚いた顔をした。


 そして。


「……そっか」


 嬉しそうに笑った。


「……お腹、空いたか」


「……うん」


「よし!」


 和真は立ち上がった。


「ちょっと待ってろ。コンビニで何か買ってくる!」


「……え?」


「りんごとか、みかんとか……何かあるだろ」


 和真は勢いよく扉へ向かう。


「……あ、でも、まだ食事制限があるかもしれないな。看護師さんにも聞いてから買ってくる!」


 そう言い残し、病室を出ていった。


 ぱたん。


 扉が閉まる。


「…………」


 四人は、しばらく扉を見つめていた。


 そして。


「……ぷっ」


 みゆが吹き出した。


「……あはははっ!」


 ナディアも笑い始める。


「はははっ! あいつ、さっきコンビニから戻ってきたばっかだろ!」


「……ふふっ」


 リディアも小さく笑った。


「和真らしいですね」


 フェンリスは、扉を見つめたまま微笑んだ。


「……うん」


 そして。


「……和真って、本当に優しいね」


 三人が、フェンリスを見る。


 彼女は少し照れくさそうに笑っていた。


「……僕、やっぱり……」


 胸に手を当てる。


「……和真のこと、大好きだ」


 その言葉に。


 みゆが笑った。


「……僕だって!」


 ナディアが腕を組む。


「俺様も負けねえぞ!」


 リディアは静かに頷いた。


「自分も同じです」


 フェンリスは三人を見渡した。


 そして。


「……うん!」


 満面の笑みを浮かべた。


「……僕、絶対に負けないからね!」


 三人も笑った。


 それは、少し前まで泣いていた少女とは思えないほど、明るい笑顔だった。


     ◇


 しばらくして。


「ただいまー」


 和真が再び戻ってきた。


 手には、いくつかの果物が入った袋。


「看護師さんに確認してきた。先生にも聞いてもらったんだけど、少しなら食べてもいいってさ」


「……ほんと!?」


 フェンリスの目が輝く。


「ああ。ただし、いきなりいっぱい食べるのは駄目だって」


「……うん!」


「ほら、りんご。食べやすいように切ってあるやつ」


 和真がカットフルーツの容器を取り出した。


「あと、みかんも買ってきた。こっちは後でな」


「……わぁ……!」


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……ありがとう、和真!」


「どういたしまして」


 和真は椅子に腰を下ろし、容器の蓋を開けた。


「自分で食べられるか?」


「……うん」


 フェンリスはフォークを受け取ろうとした。


 けれど。


 ふと、手を止めた。


 先ほどのナディアの言葉が、頭をよぎった。


 ――寂しいなら寂しいって、会いたいなら会いたいってな。


 ――俺様は遠慮しねえ。


 フェンリスは少しだけ頬を赤くした。


 そして。


「……和真」


「ん?」


「……食べさせて?」


「…………え?」


 和真が固まった。


 みゆが目を見開く。


 ナディアの口元がにやりと歪む。


 リディアが静かに姿勢を正した。


「……いや、自分で食べられるだろ?」


 和真が困ったように言う。


 フェンリスは小さく首を傾げた。


「……だめ?」


 少し潤んだ瞳。


 甘えるような声。


 そして、ほんの少しだけ恥ずかしそうな笑顔。


 和真は言葉を詰まらせた。


「……う……」


 数秒間の沈黙。


 そして。


「……今日だけだからな」


 和真はフォークにりんごを刺した。


「……ほら」


 フェンリスの口元へ差し出す。


 フェンリスは嬉しそうに笑った。


「……あーん」


 ぱくっ。


 ゆっくり噛む。


 そして。


「……おいしい!」


 満面の笑み。


 和真はほっとしたように笑った。


「……そっか。よかった」


 その様子を見ていた三人。


「…………」


 みゆが、ぽつりと呟いた。


「……ずるい」


 ナディアが笑う。


「ははっ! 早速始めやがったな!」


 リディアは静かに頷いた。


「……なるほど。非常に参考になります」


「……何の参考だよ!?」


 和真が叫ぶ。


 フェンリスは楽しそうに笑った。


「……ふふっ!」


 病室に、明るい笑い声が広がった。


 まだ、すべてが解決したわけではない。


 フェンリスの身体は、しばらく休ませなければならない。


 和真との関係も。


 みゆとの関係も。


 これから、ちゃんと向き合わなければならないことがたくさんある。


 それでも。


 フェンリスは、もう逃げたくなかった。


 和真の隣にいたい。


 もっと一緒に笑いたい。


 もっと話したい。


 そして、いつか。


 自分の気持ちを、ちゃんと伝えたい。


「……和真」


「ん?」


 フェンリスは、そっと和真の手を握った。


「……退院したらさ」


「うん」


「……また、一緒にご飯食べようね」


 和真は少し驚いた顔をした。


 そして。


 優しく微笑んだ。


「……当たり前だろ」


 その手を、握り返す。


「毎日、一緒に食べような」


「…………うん!」


 フェンリスは、嬉しそうに笑った。


 窓から差し込む朝日が、二人の手を照らしていた。


 今度は。


 寂しくなったら、寂しいと言おう。


 会いたくなったら、会いたいと言おう。


 そして。


 好きだという気持ちを、もう隠さない。


 フェンリスは、和真の手をぎゅっと握った。


 その温もりを、確かめるように。


 ――もう、離れたくない。


 そう、心の中で呟きながら。

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