第五十話 帰る場所へ
朝。
障子の向こうから差し込む柔らかな光が、旅館の部屋をゆっくりと照らし始めていた。
「……ん」
和真は薄く目を開けた。
見慣れない天井。
畳の匂い。
そして、すぐ近くから聞こえる寝息。
「……そうか。旅行中だったな」
昨夜のことを思い出し、和真は小さく息を吐いた。
酒菜に勧められるまま地酒を飲み、普段なら口にしないような本音まで話してしまった。
フェンリスのこと。
みゆのこと。
ナディアとのこと。
そして、ユエに叱られたことまで。
思い返すだけで顔が熱くなる。
「……随分と喋っちまったな」
「……今さらだろ」
「うわっ!?」
突然返事が返ってきた。
隣を見ると、酒菜が薄く目を開けている。
和真のすぐそばで眠っていた彼女は、欠伸をしながら右腕を伸ばした。
「朝っぱらから何をぶつぶつ言ってんだよ」
「起きてたのか?」
「今起きたんだよ。てめぇがごそごそ動くからな」
「悪い」
「別に怒ってねぇよ」
酒菜はそう言って、もう一度目を閉じた。
しかし、すぐに片目を開ける。
「……頭は?」
「え?」
「二日酔いだよ。あんだけ飲んだんだからな」
「ああ……不思議なくらい何ともない」
「そりゃよかった」
酒菜は満足そうに笑った。
昨夜、酒菜がリディアから渡されていたアルコール分解飲料。
二人はそれを飲んでおり、今朝は酔いも残っていなかった。
それでも和真は、帰りの運転まで十分に時間を空けるつもりだった。
「ったく、リディアの奴は相変わらず妙なもん作りやがる」
「便利なのは確かだけどな」
「違いねぇ」
酒菜は身体を起こした。
少し乱れた髪を右手でかき上げ、肩を回す。
その横顔に残る左目の傷が、朝日に照らされていた。
「……昨日は悪かったな」
「何が?」
「無理やり飲ませたことだよ。思った以上に酔わせちまった」
「まあ、確かに飲みすぎたな」
「けどよ」
酒菜が、いたずらっぽく口元を緩める。
「てめぇの本音が聞けたのは、悪くなかったぜ?」
「……忘れてくれないか?」
「断る」
「即答かよ!」
「当たり前だろ。せっかく聞けたんだからな」
酒菜は喉を鳴らして笑った。
その笑顔を見て、和真もつられるように笑う。
昨夜、二人の間で交わされた言葉。
それは決して軽いものではなかった。
けれど、今朝の酒菜はいつもと変わらない。
少なくとも和真には、そう見えた。
「ほら、さっさと支度しろ。今日は朝市に行くんだろ?」
「ああ。そのあとが本番だな」
「おう!」
酒菜の表情が一気に明るくなる。
「地元の連中に料理を教わるんだ。楽しみで仕方ねぇぜ!」
「昨日からずっとそればっかりだな」
「当たり前だろうが。知らねぇ土地の料理を、実際に作ってる奴から教わるんだぞ? こんな機会、そうそうねぇからな!」
そう言って笑う酒菜は、まるで新しい玩具を与えられた子供のようだった。
和真はそんな彼女を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
今回の旅行先を飛騨高山に決めて、本当によかった。
そう思いながら、二人は朝の支度を始めた。
◇ ◇ ◇
旅館の朝食は、昨夜の豪華な会席料理とはまた違う魅力があった。
炊きたての白米。
香りのよい味噌汁。
焼き魚に、ふっくらとした卵焼き。
山菜の小鉢や赤かぶの漬物も添えられている。
「おお……いいじゃねぇか」
酒菜が嬉しそうに声を上げた。
「いただきます」
「いただきますっと」
二人は箸を取った。
酒菜が最初に口へ運んだのは、赤かぶの漬物だった。
「……へぇ」
「どうした?」
「こいつ、いい漬かり具合だな。酸味が強すぎねぇし、歯応えも残ってやがる」
続いて白米を口に運ぶ。
「うめぇ」
「酒菜、本当に漬物好きだよな」
「漬物だけじゃねぇよ。ちゃんと作ってる飯が好きなんだ」
酒菜は味噌汁を飲み、満足そうに息を吐いた。
「派手じゃなくたっていいんだよ。食った奴がほっとできりゃ、それだけで立派な料理だ」
「……なるほど」
「何だよ?」
「いや、酒菜の料理もそんな感じだなって」
「は?」
「毎日食べてると当たり前みたいになっちゃうけどさ。酒菜の料理って、食べると安心するんだよ」
酒菜の箸が止まった。
「……てめぇな」
「ん?」
「そういうこと、さらっと言うんじゃねぇよ」
「え?」
「何でもねぇ!」
酒菜は少し乱暴に白米を口へ運んだ。
和真は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、酒菜がぽつりと言った。
「……ありがとよ」
「え?」
「聞こえなかったんならいい」
「いや、聞こえたけど」
「だったら聞き返すんじゃねぇ!」
朝から賑やかな食事になった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた二人は、荷物をまとめて旅館を出た。
世話になった仲居に礼を言い、車に荷物を積み込む。
そこから向かったのは、宮川朝市だった。
朝の冷たい空気が頬を撫でる。
川沿いには小さな店がずらりと並び、地元の野菜や果物、漬物、味噌などが売られていた。
「おおっ!」
酒菜の目が輝いた。
「見ろよ和真! あっちにもこっちにも食材があるじゃねぇか!」
「そりゃ朝市だからな」
「馬鹿野郎、そういう意味じゃねぇ!」
酒菜はさっそく近くの野菜売り場へ向かった。
「すまねぇ、この赤いのは何だ?」
「赤かぶだよ。漬物にすると美味しいんだわ」
「へぇ! こいつがさっき食った漬物になるのか!」
「そうそう。飛騨じゃ昔からよく食べるんだよ」
店のおばあさんが笑いながら説明する。
酒菜は真剣な表情で頷いた。
「普通のかぶとは味が違うのか?」
「生でも違うけど、漬けるとまたいい味になるんだよ」
「なるほどな……」
酒菜は赤かぶを手に取り、重さや表面を確かめた。
「和真、これ買ってもいいか?」
「もちろん。せっかくだし、持って帰ろう」
「よし!」
嬉しそうに財布を取り出す酒菜。
しかし、目の前の野菜だけでは満足できなかったらしい。
次はきのこ。
その次は味噌。
さらに乾燥させた山菜や漬物まで。
「酒菜、ちょっと買いすぎじゃないか?」
「何言ってんだ。帰ったら皆に食わせるんだよ」
「それは嬉しいけど……」
「それによ、ここの味を覚えときてぇんだ。調味料も食材も、土地によって違うからな」
酒菜は真剣だった。
普段の食事を作るときとは、また違った顔。
目に入る食材の一つ一つを確かめ、店の人に作り方を尋ねている。
和真はそんな彼女の隣で買ったものを預かりながら、話を聞いていた。
「……そういや、酒菜」
「あ?」
「そうやって料理のこと聞いてるとき、すごく楽しそうだよな」
「そりゃ楽しいからな」
「そんなに?」
「おう。知らねぇ味ってのは、それだけで面白ぇんだよ」
酒菜は袋に入った赤かぶを持ち上げる。
「同じ野菜でも土地が違えば食い方が違う。火の通し方も、味の付け方もな」
「確かに」
「それに、俺が知らねぇだけで、うめぇ料理なんざ山ほどあるんだろうよ」
酒菜は少し遠くの山並みを見た。
「……せっかくこっちの世界に来たんだ」
小さな声だった。
「知らねぇもん、もっと見てみてぇじゃねぇか」
和真はその言葉に微笑んだ。
「ああ。まだまだいっぱいあるぞ」
「だろうな」
「帰ってからも、また食べに行こうよ」
酒菜が振り返る。
「……また?」
「うん。酒菜が気になる料理を見つけたら、また一緒に行こう」
酒菜は一瞬、何かを言いかけた。
けれど、すぐに口を閉じる。
「……へっ」
そして、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「言ったな? 後で面倒くせぇなんて言うんじゃねぇぞ?」
「言わないって」
「よし。約束だからな!」
二人は笑い合った。
それからも朝市を歩き、いくつかの店を覗いて回った。
途中、地元のおばあさんから漬物の作り方を教えてもらったり、和真が気になったりんごを買ったり。
酒菜はそのりんごまで真剣に吟味していた。
「こいつなら焼いてもうまそうだな」
「えっ、焼くの?」
「何だよ。果物を焼いちゃいけねぇのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「なら帰ったら作ってやるよ」
「本当か?」
「おう。楽しみにしとけ」
和真が嬉しそうに笑う。
そんな彼を見て、酒菜もどこか満足そうだった。
やがて時計を見ると、九時半を少し過ぎていた。
「酒菜、そろそろ行こうか」
「おう! いよいよ本番だな!」
「かなり張り切ってるな」
「当然だ!」
酒菜は右手でぐっと拳を握る。
「せっかく料理を教わるんだ。遠慮なんざしてられねぇからな!」
「教えてくれる人を困らせない程度にな?」
「誰が困らせるか!」
そう言いながらも、その足取りは軽い。
和真も笑いながら後を追った。
今回の旅行で、酒菜が何より楽しみにしていたもの。
飛騨の人々に教わる、郷土料理作り。
その時間が、いよいよ始まろうとしていた。
◇
古い町並みを抜け、二人は予約していた郷土料理体験の場所へ向かった。
案内されたのは、昔ながらの日本家屋だった。
木の温もりが感じられる室内には、広々とした台所と大きな調理台がある。
「いらっしゃい。よく来てくださいましたねぇ」
出迎えてくれたのは、六十代ほどの優しそうな女性だった。
「本日、料理を教えさせてもらう山本です。よろしくお願いしますね」
「四ノ宮和真です。よろしくお願いします」
「酒菜だ。今日は世話になるぜ!」
「あらあら、元気な方ねぇ」
山本は楽しそうに笑った。
「今日は飛騨の家庭料理をいくつか作りましょうね。難しいことはしませんから、気楽に楽しんでください」
「おう! よろしく頼む!」
「ふふっ。料理はお好きなの?」
「好きも何も、俺は料理人だからな!」
「あら、そうなの!?」
山本が目を丸くする。
「じゃあ、今日は教えることがあるかしら?」
「何言ってんだ。俺が知りてぇのは、この土地で暮らしてる奴らの味だ。料理人だって知らねぇもんは山ほどある。今日は色々教えてくれ!」
酒菜は真剣な顔で頭を下げた。
山本は驚いたように瞬きをしたあと、嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると、私も張り切っちゃうわね」
その言葉に、酒菜も満面の笑みを浮かべる。
一方、和真はというと。
「……俺、ちゃんとついていけるかな」
「何言ってんだ、和真。今日はてめぇも作るんだぞ?」
「分かってるよ」
「だったら安心しろ。俺がついてんだからな!」
「それ、安心していいのか?」
「どういう意味だ、てめぇ!」
山本の笑い声が台所に響いた。
◇ ◇ ◇
「さて、今日はこちらを作っていきましょう」
山本が並べたのは、飛騨の郷土料理に使う食材だった。
赤かぶの漬物。
小さなじゃがいも。
こも豆腐。
炊きたてのご飯。
そして、あぶらえと呼ばれるエゴマの実。
「今日は漬物ステーキ、ころいもの煮物、こも豆腐の煮物、それからあぶらえを使った五平餅を作りましょう」
「漬物の……ステーキ?」
和真が首を傾げる。
「おう、昨日も店で見かけたな」
酒菜が頷いた。
「漬物を焼くってのが面白ぇと思ってたんだ」
「そうなの。寒い時期に冷たい漬物を温めて食べたのが始まりとも言われているんですよ」
「へぇ……」
「焼くと酸味が少し和らいで、また違う美味しさになるんです」
その説明を聞き、酒菜は腕を組もうとして、いつものように右手を腰へ当てた。
「なるほどな。保存食をうまく食うための工夫か」
「そういうことですね」
「面白ぇ!」
酒菜が楽しそうに笑う。
「こういう話が聞きたかったんだよ!」
まず取りかかったのは、ころいもの煮物だった。
小さなじゃがいもを皮ごと使い、甘辛い味で煮含めていく。
「こんな小せぇ芋も使うのか」
「ええ。昔は食べ物を無駄にできなかったからね。小さなお芋も美味しく食べられるように工夫したんですよ」
「……いい考えだな」
酒菜が呟く。
「食えるもんを捨てるなんざ、もったいねぇからな」
彼女はじゃがいもを一つ手に取った。
「こういう料理は好きだぜ」
「酒菜らしいな」
「何だよ?」
「いつも余った食材も上手に使ってくれるからさ」
「当たり前だろ。食材を無駄にしねぇのも料理人の仕事だ」
酒菜は当然のように答えた。
その後、山本の指導を受けながら調理が始まった。
和真が小さなじゃがいもを洗い、酒菜が鍋に調味料を合わせる。
酒菜は右手だけで器用に道具を扱っていった。
調理台の滑り止めを使い、鍋や器を安定させる。
長年料理を続けてきた彼女にとって、片手で作業をすることは日常だった。
「和真、そこの醤油取ってくれ」
「はいよ」
「あと、その器を押さえとけ」
「こうか?」
「おう。それでいい」
二人の動きは自然だった。
普段から一緒に台所に立つ機会があるため、何を手伝えばいいのか和真にも分かる。
山本はそんな二人を見て、微笑んだ。
「息がぴったりねぇ」
「そうですか?」
「ええ。普段から一緒にお料理しているんでしょう?」
「まあ、俺が手伝ってるだけですけど」
「こいつはまだまだ修行中だけどな!」
「そこまで下手じゃないだろ?」
「包丁の扱いはもうちょい練習しろ!」
「はいはい……」
「返事は一回!」
山本が笑い出す。
「ふふっ。本当に仲がいいのね」
その言葉に、酒菜は少しだけ照れくさそうな顔をした。
「……まあ、悪くねぇ相棒だよ」
「相棒?」
「おう。俺にとっちゃ、こいつは大事な相棒だからな」
和真は驚いたように酒菜を見る。
「何だよ、その顔」
「いや……そう言ってもらえるとは思わなかったから」
「馬鹿野郎。てめぇ以外に誰がいんだよ」
酒菜はそう言って、再び鍋へ視線を戻した。
和真は少し嬉しくなりながら、隣に立っていた。
◇ ◇ ◇
次は漬物ステーキだった。
「まず、漬物を食べやすい大きさに切っていきます」
「俺がやる!」
酒菜が真っ先に名乗り出る。
「じゃあ、お願いしますね」
包丁を握ると、酒菜の雰囲気が少し変わった。
まな板の上の漬物を安定させ、右手だけで手際よく切り分けていく。
無駄のない動き。
均等な大きさに切られた漬物が、次々と並んでいった。
「あら、すごい!」
山本が感心した声を上げた。
「本当に料理人さんなのねぇ」
「へへっ。まあな!」
酒菜は得意げに笑う。
「和真、次はてめぇの番だ」
「え?」
「ほら、包丁持て」
「ちょっと待て、いきなりか!?」
「料理体験に来てんだろうが!」
仕方なく包丁を握る和真。
酒菜はその隣でじっと手元を見ていた。
「……おい」
「何?」
「力入りすぎだ。もっと肩の力抜け」
「こう?」
「そうだ。刃を無理やり押し込むな」
「難しいな……」
「慣れりゃできる」
厳しい口調ではあるものの、酒菜は丁寧に教えてくれた。
少し時間をかけながら、和真も漬物を切り終える。
「よし!」
「まあ、こんなもんか」
「もう少し褒めてくれてもよくないか?」
「調子に乗るだろ、てめぇ」
「ひどい!」
また笑い声が上がった。
切った漬物を熱した鉄鍋へ入れる。
じゅわっ、と心地よい音が響いた。
「おお……!」
和真が目を輝かせる。
そこへ溶き卵を流し込み、ふんわりと火を通していく。
仕上げに鰹節を散らすと、湯気とともに香ばしい匂いが立ち上った。
「うまそうだな……」
「だろ?」
酒菜も満足そうだ。
「漬物を焼いて卵でとじるとはな。考えた奴は大したもんだぜ」
「こういう料理は、昔からの暮らしの中で自然に生まれてきたんですよ」
山本の言葉に、酒菜はゆっくり頷いた。
「……そうか」
そして小さく笑う。
「やっぱり料理ってのは面白ぇな」
◇ ◇ ◇
こも豆腐の煮物を仕上げたあと、最後に取りかかったのは五平餅だった。
「こちらが、あぶらえです」
山本が小さな器を差し出す。
「エゴマの実なんですけど、飛騨では昔から料理によく使うんですよ」
「ほう……」
酒菜は興味深そうに覗き込んだ。
「少し味見してもいいか?」
「もちろん」
少量を口に運ぶ。
「……へぇ!」
「どう?」
「面白ぇ風味だな。噛むと香りが広がる」
「これをすりつぶして、五平餅のたれにするんです」
「なるほどな!」
酒菜は早速すり鉢を手に取った。
右手で擂り粉木を握り、丁寧にエゴマの実をすりつぶしていく。
ごり、ごり、と規則正しい音が響く。
「……酒菜、楽しそうだな」
「楽しいに決まってんだろ!」
彼女は振り返りもせずに答えた。
「こういう香りは初めてだ。どんな味になるか気になるじゃねぇか!」
和真も少し味見をさせてもらった。
「……あ、本当だ。香ばしいな」
「だろ? こいつに味噌や砂糖を合わせたら、いいたれになりそうだ」
「ふふっ。よく分かりますねぇ」
山本は感心しながら頷く。
酒菜は嬉しそうに笑った。
その間、和真は炊きたてのご飯をすりこぎで軽くつぶしていた。
「このくらいでいいですか?」
「そうそう。全部つぶさず、お米の粒を少し残してね」
「分かりました」
ほどよくつぶしたご飯を小判形に整え、串に付けていく。
和真が形を作り、酒菜が横から口を出す。
「おい、厚すぎるぞ」
「これくらい?」
「もうちょい薄くしろ」
「こう?」
「おう。……お、いいじゃねぇか」
「やっと褒めたな」
「うるせぇ!」
酒菜は笑いながら、出来上がった五平餅を眺めた。
「……何だかんだ、てめぇも上手くなってきたな」
「酒菜に教えてもらってるからな」
「……へっ。言うじゃねぇか」
彼女は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
やがて、五平餅を焼き始めた。
表面に軽く焼き色がついたところで、酒菜が作ったたれを塗る。
再び火にかけると、味噌とエゴマの香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
「うわ、いい匂い!」
和真が思わず声を上げる。
「だろ!」
酒菜も満面の笑みだ。
「こりゃ絶対うめぇぞ!」
そのとき、山本が楽しそうに言った。
「うちの孫もね、この匂いがすると台所まで飛んでくるんですよ」
「……孫?」
「ええ。小さい頃なんて、焼き上がるまで待てなくてねぇ。まだか、まだかって」
懐かしそうに微笑む山本。
酒菜の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
五平餅から立ち上る湯気。
甘く香ばしい匂い。
楽しそうに笑う山本の声。
その光景に、遠い昔の記憶が重なった。
料理ができるのを待ちきれず、台所を覗き込んでいた小さな顔。
自分の作った料理を頬張り、嬉しそうに笑ってくれた子供たち。
そして、その隣で穏やかに笑っていた夫。
『母ちゃん、まだー?』
『もうちょっと待ってな』
そんな声が、聞こえた気がした。
「……酒菜?」
和真に呼ばれ、酒菜は我に返る。
「……ん?」
「大丈夫か?」
「ああ。何でもねぇよ」
酒菜は小さく笑った。
そして、焼き上がった五平餅を見つめる。
「……うまそうだな」
その声は、少しだけ優しかった。
◇ ◇ ◇
昼前。
調理台には、二人が作った料理が並んでいた。
香ばしく焼き上げた五平餅。
卵でふんわりとじた漬物ステーキ。
甘辛く煮含めたころいも。
出汁をたっぷり吸ったこも豆腐。
山本が用意してくれた温かな汁物も添えられ、立派な昼食になっていた。
「おお……!」
和真は思わず感嘆の声を漏らす。
「すごいな。ちゃんとしたご馳走になった」
「当たり前だろ。俺がついてんだからな!」
「いや、酒菜だけで作ったわけじゃないだろ」
「分かってるよ!」
酒菜は笑いながら席についた。
山本も一緒に食卓を囲む。
「それじゃ、いただきましょうか」
「いただきます!」
「いただきますっと!」
和真が最初に手を伸ばしたのは、漬物ステーキだった。
卵と一緒に箸で取り、口へ運ぶ。
「……あっ」
「どうだ?」
「うまい!」
「だろ!」
「漬物なのに、全然違う料理になってる!」
焼いたことで酸味がやわらぎ、卵のまろやかさと絶妙に合っていた。
漬物特有の歯応えも残っている。
「これ、白米が欲しくなるな」
「だよな!」
酒菜は嬉しそうに笑い、自分も一口食べた。
「……うめぇ」
続いて、こも豆腐。
口に含むと、染み込んだ出汁がじんわりと広がった。
「へぇ……普通の豆腐と全然違うな」
「おう。こいつは面白ぇ」
酒菜は何度か噛みしめ、味を確かめていた。
「出汁がよく染みてやがる。家でも作ってみてぇな」
「皆、喜びそうだな」
「だろ?」
ころいもの煮物も好評だった。
小さなじゃがいもに甘辛い味がしっかり染み込んでいる。
皮ごと食べられるため、素朴ながら満足感があった。
「これ、酒菜が作る煮物にも似てるな」
「そうか?」
「うん。なんか落ち着く味がする」
「……そりゃ、家庭料理だからな」
酒菜は小さく笑った。
そして最後に、五平餅。
和真が一口かじる。
表面は香ばしく、中はもっちりとしていた。
そこへ甘辛いたれとエゴマの香りが広がる。
「……うっま!」
「おいおい、そんなにか?」
「酒菜も食べてみろって!」
「言われなくても食うよ」
酒菜も五平餅を口へ運んだ。
そして――。
「……ああ」
静かに目を細める。
「こりゃ、うめぇな」
いつものように大声ではしゃぐわけでもない。
ただ、じっくりと味わっていた。
「どうですか?」
山本が尋ねる。
「……最高だ」
酒菜は顔を上げた。
「料理の作り方だけじゃねぇ。どうしてこの料理が生まれたのか、どうやって食ってきたのかまで教えてもらえた」
そう言って、深く頭を下げる。
「ありがとよ。本当に勉強になったぜ」
山本は一瞬驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「こちらこそ。そんなに喜んでもらえて、よかったわ」
「俺、帰ったら絶対作るからな!」
「ぜひぜひ。ご家族やお友達にも食べさせてあげてください」
「おう!」
酒菜は勢いよく頷いた。
「腹いっぱい食わせてやるぜ!」
その笑顔には、迷いがなかった。
◇ ◇ ◇
食事を終える頃には、十二時半が近づいていた。
最後に記念写真を撮ることになり、山本が二人のスマートフォンを預かってくれた。
「はい、もう少しくっついてくださいね」
「酒菜、もう少しこっち」
「分かってるよ」
酒菜が和真の隣へ寄る。
「はい、笑って!」
カシャッ。
一枚目は、二人が自然に笑っている写真。
「もう一枚撮りましょうか?」
「おう! 頼む!」
今度は酒菜が右腕を和真の肩へ回した。
「おわっ!?」
「ほら、笑え!」
「ちょっ、酒菜!?」
「はははっ!」
カシャッ。
二枚目には、豪快に笑う酒菜と、驚きながらも笑っている和真が写っていた。
「いい写真ですねぇ」
山本が画面を見せる。
「おお! いいじゃねぇか!」
「……俺、ちょっと変な顔してないか?」
「気にすんな! これも思い出だろ!」
酒菜は嬉しそうだった。
帰り際、山本は手書きの料理の覚え書きを渡してくれた。
「味付けはね、お家に帰ってから好きなように工夫してもいいんですよ」
「おう。そうさせてもらうぜ」
「でも、最初は今日の味も思い出してね」
「当たり前だ」
酒菜は紙を大切そうに受け取った。
「忘れねぇよ。今日教えてもらったことは、全部俺の宝物だ」
その言葉に、山本はとても嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
建物を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「いやぁ……楽しかったぜ!」
酒菜は大きく伸びをした。
「そんなに気に入ったか?」
「おう!」
迷いのない返事だった。
「料理ってのはよ、知らねぇことがまだまだあるんだな!」
「そうだな」
「それによ……」
酒菜は手に持った料理の覚え書きを見つめた。
「料理を教えてもらうってのも、悪くねぇもんだな」
「いつも教える側だもんな」
「まあな」
彼女は少し照れくさそうに笑う。
「俺もまだまだだってことだ」
「そんなことないと思うけど」
「馬鹿野郎。料理人に終わりなんざねぇんだよ」
酒菜は、どこまでも晴れやかな表情だった。
「生きてりゃ知らねぇ味に出会える。覚えた料理で、また誰かを喜ばせられる」
「……うん」
「それって、結構いいもんだな」
和真は何も言わず、酒菜を見つめていた。
彼女が以前、酒に酔った勢いで口にした言葉を思い出していた。
死に場所を探している。
あのときの酒菜は、どこか遠くを見ていた。
けれど今、目の前にいる酒菜は違う。
新しい料理を覚えたいと笑い、帰ったら皆に食べさせると張り切っている。
その姿が、和真には嬉しかった。
「……なあ、酒菜」
「あ?」
「また来ような」
酒菜が目を丸くする。
「……また?」
「ああ。今度は違う季節でもいいし、別の土地でもいい。知らない料理を探しに行こう」
「……へっ」
酒菜は俯き、鼻を鳴らした。
「てめぇ、どんだけ俺を甘やかすつもりだよ」
「そんなつもりはないけど」
「十分甘ぇんだよ」
酒菜は顔を上げた。
その表情は、とても穏やかだった。
「……ありがとよ、和真」
「うん?」
「連れてきてくれて、ありがとな」
いつものぶっきらぼうな言い方とは少し違う。
素直な感謝の言葉だった。
和真は微笑んだ。
「どういたしまして」
「……ったく」
酒菜は笑い、右手で和真の背中を軽く叩いた。
「ほら、帰るぞ! 土産もまだ買わねぇといけねぇからな!」
「まだ買うのか!?」
「当たり前だろ! 皆の分だぞ!」
「車に乗るかな……」
「乗らなかったらてめぇが抱えて帰れ!」
「無茶言うなよ!」
二人の笑い声が、古い町並みに響いた。
◇ ◇ ◇
その後、二人は土産物店へ立ち寄った。
酒菜が選んだのは、地元の味噌や漬物、菓子類。
さらに料理に使う調味料まで買い込んでいた。
「酒菜、これ以上は本当に車がいっぱいになるぞ?」
「ちっ、仕方ねぇな」
「仕方ねぇな、じゃないだろ……」
「まあ、足りねぇ分はまた今度来たときに買えばいいか」
「もう次のこと考えてるのか?」
「おう!」
酒菜はにやりと笑った。
「楽しみが増えたじゃねぇか」
和真も笑った。
そのあと、車へ戻り、荷物を積み込む。
昼過ぎ。
ようやく帰路についた。
運転席に座る和真の隣で、酒菜は今日撮った写真を眺めていた。
「……へへっ」
「どうした?」
「いや、いい写真だなってよ」
「さっきも言ってただろ?」
「何度見たっていいだろうが」
酒菜は画面を見つめ、楽しそうに笑った。
「……和真」
「ん?」
「今回の旅行、最高だったぜ」
「それはよかった」
「俺、こんなふうに誰かと出かけて、知らねぇもんを見て、新しい料理を覚えて……」
そこで言葉を切る。
「……また、こんな日が来るとは思ってなかった」
和真は前を見たまま、静かに答えた。
「これからもあるよ」
「……そうかねぇ」
「あるさ。今度は酒菜が行きたい場所を決めてくれてもいいぞ」
「……言ったな?」
「ああ」
「じゃあ、覚悟しとけよ」
「え?」
「食いたいもんも、見てぇもんも、まだまだあるからな!」
「ははっ。分かったよ」
酒菜は満足そうに背もたれへ身体を預けた。
車窓には、秋の山並みが流れていく。
しばらくして、酒菜が小さく呟いた。
「……俺、もうちょっと頑張ってみるか」
「何を?」
「料理だよ。決まってんだろ」
「そっか」
「帰ったら、まず皆に今日覚えた料理を食わせてやらねぇとな」
「ああ。楽しみにしてるよ」
「おう!」
酒菜は笑った。
その笑顔は、昨夜とはまるで違っていた。
和真には、そう感じられた。
しばらくすると、旅の疲れが出たのか、酒菜は静かに寝息を立て始めた。
和真は隣をちらりと見て、小さく笑う。
「……お疲れ様、酒菜」
そして、再び前を向いた。
車は高速道路を走り、少しずつ家へと近づいていく。
和真はまだ知らなかった。
自分たちが楽しい時間を過ごしていたその日。
遠く離れた場所で、大切な住人の一人が限界を迎えようとしていることを。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕方。
街の小さな酒屋では、一人の少女が配達の準備をしていた。
「……よし」
銀色の髪を後ろでまとめ、毛先の淡い桃色を揺らす。
フェンリスだった。
いつもの狼耳と大きな尻尾は、リディアの装置によって隠されている。
今は普通の人間の少女にしか見えない姿。
店の制服を身につけた彼女は、伝票を確認しながら酒瓶の入った箱を持ち上げた。
「フェンリスちゃん!」
店の奥から声がかかった。
店長の奥さんだった。
「また配達に行くの?」
「はい。あと少しなので」
「でも、今日はもう十分働いたでしょう?」
「……大丈夫です」
フェンリスは小さく微笑んだ。
「これを届けたら戻りますから」
「そう言って、昨日も遅くまで働いてたじゃない」
「……すみません」
「謝らなくていいのよ。ただ、少し休んでほしくて」
奥さんは心配そうにフェンリスを見つめた。
最近の彼女は、明らかに働きすぎていた。
朝早くから店へ来て、品出しをし、配達へ向かう。
昼食も簡単に済ませ、休憩時間まで仕事を探して動き回っていた。
店長が事故で入院して以来、人手が足りないのは事実だった。
けれど、それを差し引いても彼女の働き方は異常だった。
頼まれた仕事は断らない。
自分の仕事が終われば、ほかの従業員の手伝いをする。
少しでも時間が空けば、次の仕事を探す。
そして、どれだけ疲れていても決まって同じことを言うのだ。
大丈夫です、と。
「ねえ、フェンリスちゃん。ちゃんとご飯食べてる?」
「……はい」
「本当に?」
「……食べてます」
嘘だった。
最近は、まともに食事を取れない日が増えていた。
お腹が空かないわけではない。
ただ、食べる気力が湧かなかった。
部屋に帰っても、何かを食べようという気になれない。
布団に入っても、なかなか眠れない。
やっと眠れても、何度も目が覚めてしまう。
そんな日々が、もう何日も続いていた。
「……フェンリスちゃん?」
「……あ、はい」
「顔色もあまりよくないわよ?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけなので」
彼女は笑った。
いつものように。
何でもないことのように。
「本当に、無理しないでね。今日はこれが終わったら、もう帰っていいから」
「……はい」
「約束よ?」
「……ありがとうございます」
フェンリスは頭を下げ、配達用の台車を押して店を出た。
◇ ◇ ◇
外はすっかり肌寒くなっていた。
夕方の街。
仕事帰りの人々が歩き、商店からは温かな明かりが漏れている。
フェンリスは台車を押しながら、ゆっくりと歩いていた。
「……ふぅ」
息を吐く。
身体が重かった。
足も痛い。
何より、頭がぼんやりとしていた。
それでも立ち止まらなかった。
立ち止まってしまえば、余計なことを考えてしまうから。
仕事をしている間だけは、何も考えずに済んだ。
品物を並べる。
伝票を確認する。
配達先へ届ける。
お客さんに笑顔で挨拶する。
それだけに集中していれば、胸の奥の苦しさを忘れられる。
ほんの少しだけ。
「……あと、一件」
フェンリスは自分に言い聞かせた。
「あと一件、届けたら……」
けれど、ふとした瞬間。
思い出してしまう。
みゆの顔。
あの日、涙を浮かべながら話してくれたこと。
和真と、男女の仲になったという話。
『フェンリス……』
嬉しそうで。
それでも、どこか申し訳なさそうだったみゆ。
フェンリスは、ちゃんと祝福した。
よかったね、と。
おめでとう、と。
心からそう言いたかった。
みゆのことは大好きだったから。
大切な友達だったから。
けれど。
「……っ」
胸が締めつけられる。
息が苦しい。
あの日から、どうしても涙が止まらなくなることがあった。
みゆを嫌いになったわけではない。
和真を嫌いになったわけでもない。
それなのに、二人の顔を見るのが怖かった。
和真の声を聞くだけで、胸が痛んだ。
優しくされれば、余計につらくなった。
前みたいに笑いたい。
また一緒にご飯を食べたい。
和真の隣に座って、他愛もない話をしたい。
頭を撫でてもらいたい。
あの大きな手で、優しく。
けれど――。
「……もう、無理なのかな」
小さな声が漏れた。
フェンリスは首を横に振る。
「……だめ」
考えてはいけない。
今は仕事中なのだから。
そう思って、台車を押す手に力を込めた。
しかし。
「……あれ?」
突然、足元がふらついた。
視界が一瞬、白くなる。
フェンリスは慌てて台車の持ち手を握り直した。
「……っ」
心臓が速く打っていた。
耳の奥で、嫌な音がする。
立っているだけなのに、息が上がる。
「……疲れた、だけ……」
そう呟いて、再び歩き始めた。
けれど、足が思うように動かなかった。
視界の端が暗くなっていく。
目の前の建物が、ぐにゃりと歪んで見えた。
「……え……?」
フェンリスは瞬きをした。
おかしい。
ちゃんと歩いているはずなのに。
地面が遠い。
身体が自分のものではないようだった。
「……かず、ま……」
思わず、その名前が口からこぼれた。
和真。
会いたい。
でも、会いたくない。
声が聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
また笑ってほしい。
また、優しく名前を呼んでほしい。
そんな気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「……僕……」
足が止まる。
「……どうしたら……いいの……」
ぽろり、と涙が落ちた。
泣いてはいけない。
仕事中なのに。
ちゃんとしなければいけないのに。
それなのに、涙が止まらなかった。
「……ごめん……なさい……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
みゆに。
和真に。
それとも、こんな自分自身に。
フェンリスは涙を拭おうとした。
その瞬間。
ぐらり、と身体が大きく傾いた。
「……あ……」
台車の持ち手から手が離れる。
膝から力が抜けた。
支えようとしても、身体が言うことを聞かなかった。
そして――。
どさっ。
フェンリスは、その場に崩れ落ちた。
横倒しになった台車から、荷物が地面へ転がる。
「……っ……」
起き上がらなければ。
仕事をしなければ。
配達を終えなければ。
そう思うのに、指先一つ動かせなかった。
冷たい地面が頬に触れる。
遠くで誰かが叫んでいた。
「ちょっと! 大丈夫ですか!?」
「女の子が倒れてる!」
「救急車! 誰か救急車呼んで!」
人が集まってくる。
誰かが肩に触れた。
「聞こえますか!? 大丈夫ですか!?」
声がする。
けれど、返事ができない。
フェンリスは薄く目を開けた。
ぼやけた視界。
見知らぬ人の顔。
心配そうに何かを話している。
「……かず……ま……」
かすかな声だった。
誰にも届かないほど、小さな声。
その目から、一筋の涙が流れ落ちた。
「……あい……たい……」
そして。
フェンリスの意識は、そこで途切れた。
◇ ◇ ◇
「救急車、もうすぐ来るそうです!」
「毛布ありますか!? 身体が冷えてる!」
倒れたフェンリスの周囲には、何人もの人が集まっていた。
近くの店員が毛布を持ってくる。
別の男性は、道路を通る車に注意を促していた。
フェンリスは呼びかけにほとんど反応しなかったが、呼吸は続いていた。
しばらくして。
遠くから、サイレンの音が近づいてきた。
「救急車です! 道を空けてください!」
救急隊員が駆け寄る。
「どうされましたか?」
「この子が急に倒れたんです!」
「倒れたとき、頭を打ちましたか?」
「分かりません! 気づいたときにはもう……!」
救急隊員たちは素早く状態を確認した。
呼吸。
脈拍。
意識の状態。
「聞こえますか? 目を開けられますか?」
フェンリスから、はっきりした返事はなかった。
隊員が慎重に身体を支え、ストレッチャーへ移す。
制服姿の少女。
銀色から桃色へ変わる長い髪。
狼耳や尻尾を隠している装置は、倒れたあとも働き続けていた。
救急隊員たちの目に映っているのは、ひどく顔色の悪い一人の少女だった。
「搬送します!」
救急車の扉が閉まる。
そして、サイレンとともに走り出した。
残された人々は、心配そうにその後ろ姿を見送っていた。
◇ ◇ ◇
酒屋では、店長の奥さんが青ざめた顔で電話を握っていた。
「……そんな……フェンリスちゃんが……?」
配達先の近くにいた人から、店へ連絡が入ったのだった。
倒れた少女の制服と、荷物に残された伝票。
そこから勤務先が分かったらしい。
すでに救急車で運ばれたという。
「……分かりました。ありがとうございます……」
電話を切る。
奥さんは震える手で口元を押さえた。
「……だから、休んでって言ったのに……」
少し前まで、笑顔で働いていた少女。
どれだけ疲れていても、大丈夫だと笑っていた。
自分から仕事を探し、ほかの従業員が休んでいる間も働こうとしていた。
その姿を見て、何度も声をかけていた。
けれど、もっと強く休ませるべきだった。
「……ごめんなさい、フェンリスちゃん……」
奥さんは、急いで連絡先を確認した。
フェンリスが働き始めたときに教えてくれた、緊急時の連絡先。
四ノ宮和真。
まずはその番号に電話をかける。
しかし、つながらなかった。
和真は帰りの車を運転していたため、電話に出られなかったのだ。
奥さんは、もう一つ登録されていた連絡先へ電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴る。
そして。
『……はい?』
少女の声が聞こえた。
「あの……フェンリスちゃんのお知り合いの方でしょうか?」
『はい、そうですけど……』
「私、フェンリスちゃんが働いている酒屋の者なんですが……」
奥さんは一度、言葉を詰まらせた。
「……落ち着いて、聞いてくださいね」
『……え?』
「フェンリスちゃんが……配達中に倒れてしまって……」
『…………え?』
「救急車で、病院に運ばれたんです」
電話の向こうから、息を呑む音が聞こえた。
『……うそ……』
「まだ詳しい状態が分からなくて……」
『……フェンリスが……?』
「はい……」
『……そんな……』
電話を握っていたのは、みゆだった。
◇ ◇ ◇
その頃。
和真と酒菜の乗る車は、ようやく家の近くまで戻ってきていた。
「……ん」
助手席で眠っていた酒菜が目を覚ます。
「……もう着くのか?」
「ああ。あと少しだよ」
「そうか……」
酒菜は欠伸をした。
「悪ぃな。運転任せっぱなしで」
「いいよ。長旅だったし、疲れただろ?」
「まあな。けど、いい旅だったぜ」
「俺も楽しかったよ」
「へへっ」
酒菜は嬉しそうに笑った。
しばらくして、車は見慣れた敷地へ入っていく。
「ただいまっと!」
車を停め、酒菜が大きく伸びをした。
「いやぁ、やっと帰ってきたな!」
「お疲れ様」
「おう。てめぇもな!」
二人は車を降りた。
和真がトランクを開け、荷物を取り出そうとした。
そのときだった。
「――和真っ!!」
突然、悲鳴のような声が響いた。
「……え?」
和真が振り返る。
母屋の方から、一人の少女が走ってきた。
二本の尻尾を揺らし、必死の形相で駆けてくるみゆだった。
「みゆ?」
「和真ぁっ!!」
彼女はそのまま和真の胸へ飛び込んだ。
「うわっ!?」
突然のことに驚きながらも、和真はみゆを受け止めた。
その身体が、ひどく震えていた。
「みゆ? どうしたんだ?」
「……っ……うぅ……!」
みゆは和真の服を強く握りしめた。
顔を上げる。
その頬は涙で濡れていた。
「……みゆ?」
和真の表情が変わる。
「何があった?」
「……フェンリスが……!」
「……え?」
「フェンリスがぁっ!!」
みゆの声が震えた。
「……倒れちゃったの……!」
和真の身体が固まる。
「…………え?」
「仕事中に……配達してる途中で……!」
みゆは泣きながら、必死に言葉を続けた。
「倒れて……救急車で……!」
「……救急車?」
「病院に……運ばれちゃったのぉ……!」
その瞬間。
和真の頭が真っ白になった。
「…………え?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
フェンリス。
倒れた。
救急車。
病院。
言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
「……ちょっと待ってくれ」
和真はみゆの肩を支えた。
「フェンリスが……倒れた?」
「……うん……!」
「いつ?」
「さっき……酒屋さんから電話があって……!」
「今、どこにいるんだ!?」
「病院……っ!」
「どこの病院!?」
「……っ……!」
みゆは震える手でスマートフォンを取り出した。
画面には、奥さんから聞いた病院の名前が残されていた。
和真はすぐに確認する。
「……ここか」
「……うん……」
「意識は?」
「……分かんない……!」
みゆは首を横に振った。
「電話のとき、まだ詳しいことが分からないって……!」
「……っ!」
和真は唇を噛んだ。
胸の奥が、急激に冷たくなる。
どうして。
どうしてフェンリスが。
「……和真」
隣から酒菜が声をかけた。
いつもの豪快な笑顔は消えていた。
「落ち着け。まず病院に向かうぞ」
「……ああ」
「荷物は俺が片づけとく。てめぇは車出せ」
「……分かった」
和真はすぐに運転席へ向かおうとした。
しかし。
「……和真!」
みゆが服を掴んだ。
「……みゆ?」
「……みゆも……!」
涙を流したまま、必死に訴える。
「みゆも……連れてって……!」
「……当たり前だろ」
和真はみゆの頭にそっと手を置いた。
「一緒に行こう」
「……うん……っ!」
みゆは何度も頷いた。
◇ ◇ ◇
「和真!」
今度は母屋から、リディアとナディアが出てきた。
二人とも、ひどく険しい表情をしていた。
「話は聞いたか!?」
リディアが駆け寄る。
「ああ。フェンリスが倒れたって……」
「そうだ。今、勤務先に確認していたところだ」
「何か分かったのか!?」
「配達中に意識を失ったらしい。救急隊が駆けつけたときも、はっきりした応答ができなかったそうだ」
「……っ!」
和真の顔から血の気が引いた。
「それから!?」
「詳しい容体は病院で確認するしかない。今は検査を受けているはずだ」
リディアは一度言葉を切り、和真を見つめた。
「私も行く。あの子の身体について、医者に説明が必要になるかもしれない」
「……ああ。頼む」
その隣で、ナディアが静かに頷く。
「俺様も同行する」
「ナディア……」
「フェンリスが心配なのは俺様も同じだ。それに、あいつの身体や魔力に何か異常が起きているなら、俺様にもできることがあるだろう」
「……ありがとう」
ナディアは和真の肩に手を置いた。
「和真、急ぐぞ。だが、焦って事故を起こすんじゃねぇぞ。お前まで倒れたらどうする」
「……分かってる」
和真は深く息を吸った。
そして酒菜を見る。
「酒菜、悪いけど……」
「言うな。こっちは任せとけ」
酒菜は真剣な顔で頷いた。
「皆には俺から説明しとく。帰ってきたらすぐ動けるようにしといてやる」
「……頼む」
「おう」
酒菜は和真の背中を強く叩いた。
「……和真」
「……ん?」
「フェンリスを頼んだぞ」
「……ああ」
それだけを交わし、和真は車へ向かった。
◇ ◇ ◇
車内。
運転席には和真。
助手席にリディア。
後部座席には、みゆとナディアが座っていた。
和真はナビに病院の行き先を設定する。
「……よし」
エンジンをかける。
ゆっくりと車を発進させた。
外はすっかり暗くなっていた。
街灯に照らされた道路。
行き交う車。
いつもなら何とも思わない景色が、今夜はひどく遠く感じられた。
「……フェンリス……」
和真が小さく呟く。
あの子は、いつから無理をしていたのだろう。
最近、ほとんど顔を合わせていなかった。
朝早くから仕事へ行き、夜遅くに帰ってくる。
食事もいらないと連絡が来るようになった。
忙しいのだろうと思っていた。
頑張っているのだろうと思っていた。
けれど。
最後に、ちゃんと顔を見て話したのはいつだっただろう。
最後に、一緒にご飯を食べたのは。
最後に、あの子の笑顔を見たのは。
「…………っ」
ハンドルを握る手に、力が入った。
「……和真」
リディアが静かに声をかけた。
「……何だ?」
「運転に集中してください。病院に着くまでは、私が必要な連絡を取ります。」
「……ああ」
リディアはスマートフォンを握った。
勤務先から聞いた情報を整理し、病院へ向かっていることを伝える。
その間も、和真は前を見つめていた。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
◇ ◇ ◇
後部座席では、みゆが膝の上で両手を握りしめていた。
「……ぐすっ……」
涙が止まらなかった。
「……フェンリス……」
何度も、何度も名前を呼ぶ。
ナディアはそんなみゆの背中を、優しく撫でていた。
「……みゆ、今は医者に任せるしかねぇ。俺様たちもすぐに向かってるんだ」
「……うん……」
「少し落ち着け。お前まで倒れたら、フェンリスが心配するだろ?」
「……うん……っ」
けれど、みゆは泣き止めなかった。
頭の中に浮かんでくるのは、あの日のフェンリスだった。
自分が和真とのことを話した夜。
フェンリスは笑ってくれた。
祝福してくれた。
けれど、その目からは涙が止まらなかった。
どれだけ苦しかったのだろう。
どれだけ無理をして、笑ってくれていたのだろう。
あのとき、もっと何かできたのではないか。
「……みゆ……」
ナディアが心配そうに顔を覗き込む。
みゆは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……フェンリス、ずっと……つらそうだったの……」
その言葉に、和真の指がわずかに動いた。
「……え?」
「……最近……ずっと……」
みゆの声が震える。
「ご飯も……あんまり食べてなくて……お仕事ばっかりで……」
「…………」
「あたし……何度か声かけたんだけど……」
そこで言葉が途切れた。
みゆは再び涙をこぼした。
「……どうして……もっと……」
「みゆ」
ナディアが静かに抱き寄せる。
「今は自分を責めるな」
「……でも……!」
「気持ちは分かる。だが、まずはフェンリスの無事を確かめる。それが先だろ?」
「……っ……うん……」
みゆはナディアに抱きしめられながら、何度も頷いた。
その会話を聞きながら、和真は何も言えなかった。
知らなかった。
いや。
本当に、知らなかったのだろうか。
最近、フェンリスが自分を避けているような気がしていた。
話しかけても、なかなか会えない。
部屋を訪ねても、不在だったり、休んでいたり。
食事の時間にも姿を見せなくなった。
おかしいと思ったことは、何度もあった。
それなのに。
「……俺……」
思わず、声が漏れる。
「……何やってたんだろうな……」
「和真」
リディアが顔を向ける。
和真は前を見つめたまま、続けた。
「……最近、フェンリスと全然話してなかったんだ」
「…………」
「仕事が忙しいんだろうって……それだけで……」
言葉が詰まった。
あの子が何を考えていたのか。
何を悩んでいたのか。
どうして、あんなに働いていたのか。
何一つ分かっていなかった。
「……あいつ……」
和真の声が震える。
「……無理してたんだな……」
誰も、すぐには答えなかった。
しばらくして、ナディアが静かに口を開いた。
「……和真」
「……うん」
「今はフェンリスに会うことだけ考えろ」
「…………」
「話をするのは、あいつの顔を見てからでいい。俺様もついてる」
「……ああ」
和真は小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
赤信号。
車が静かに停止する。
和真は前を見つめたまま、深く息を吐いた。
ふと。
頭の中に、懐かしい光景が浮かんだ。
初めて出会った夜。
空腹で倒れかけていた、銀髪の狼の少女。
大きな尻尾を抱えるようにして、警戒した目で自分を見ていた。
あのときも、彼女はひどく弱っていた。
何も知らない世界に、たった一人。
頼れる相手もいなくて。
それでも懸命に生きようとしていた。
そんな彼女を背負い、家へ連れ帰った。
最初は警戒していた。
けれど、少しずつ笑うようになった。
美味しそうにご飯を食べるようになった。
名前を呼ぶと、嬉しそうに振り返るようになった。
大きな尻尾を揺らしながら、隣を歩いてくれるようになった。
「…………」
胸が苦しくなった。
もうずいぶん長い間、あの笑顔を見ていない気がした。
会いたかった。
あの子に。
いつものように笑ってほしかった。
「……フェンリス……」
小さく名前を呼ぶ。
信号が青に変わった。
和真はゆっくりアクセルを踏んだ。
車が再び走り始める。
その先にある病院。
そこに、フェンリスがいる。
無事なのだろうか。
ちゃんと目を覚ましてくれるだろうか。
また、話せるだろうか。
また、一緒にご飯を食べられるだろうか。
また、笑ってくれるだろうか。
考えれば考えるほど、不安が大きくなっていく。
「……頼むから……」
和真は、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……無事でいてくれよ……」
ハンドルを握る手に、力がこもる。
助手席ではリディアが病院からの連絡を待ち、後部座席ではみゆが静かに涙を流していた。
ナディアもまた、窓の外を見つめたまま口を閉ざしていた。
誰もが、同じ少女の無事を願っていた。
和真は前を見つめる。
今は、ただ一刻も早く会いたかった。
あの銀色の髪に、桃色の毛先を揺らして笑う少女に。
フェンリスに。
どうか、無事でいてほしい。
その願いだけを胸に、和真は夜の道を走り続けた。




