↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/72

第四十九話 古い町並みと、こぼれた本音

 旅行当日の朝。


 まだ薄暗い空の下、和真は車のトランクに荷物を積み込んでいた。


「よし……これで全部かな」


 最後に荷物を確認し、トランクを閉める。


 十一月も後半に入り、朝の冷え込みは日に日に厳しくなっていた。


 白い息を吐きながら玄関へ戻ろうとしたところで、母屋の扉が開いた。


「おう、和真。準備は終わったか?」


 大きな旅行鞄を肩に担いだ酒菜が出てくる。


 普段の料理人らしい格好とは違い、今日は動きやすい私服姿だ。


 落ち着いた色合いの上着に、厚手のズボン。足元には歩きやすそうな靴を履いている。


「おはよう、酒菜。荷物はそれだけ?」


「ああ。一泊二日だろ? そんなに持っていくもんもねえしな」


「まあ、そうだね」


「それより、ちゃんと寝たか? 長距離運転なんだから無理すんなよ」


「大丈夫。昨日は早めに寝たから」


「ならいい」


 酒菜は満足そうに頷き、自分の荷物をトランクへ積み込んだ。


 そのとき、アパートの方から賑やかな声が聞こえてきた。


「かずまー! 酒菜ー!」


 大きく手を振りながら駆けてきたのはピピだった。


 その後ろから、あおい、ひかげ、リディア、ユエ、ナディアも歩いてくる。


「おはよう、みんな。こんな朝早くからありがとう」


「えへへ! お見送りするって決めてたもん!」


「まったく……お主らの旅行は、毎回朝が早いのう」


 あおいが小さく欠伸をする。


「でも、ちゃんと起きてきたんだね」


「当然じゃ。妾だけ見送らぬなど、後で何を言われるか分からぬからの」


「誰もそんなこと言わないと思うけど……」


「ふふっ、楽しんできてね、二人とも」


 ナディアが微笑む。


「酒菜、あんまり和真を困らせちゃ駄目よ?」


「分かってるって。俺がそんなことするように見えるか?」


「ええ、とっても」


「おい!」


 笑い声が広がる。


 リディアも一歩前に出た。


「長距離の運転になりますので、適度に休憩を取ってください。無理な運転は禁物ですよ」


「うん、分かってる」


「酒菜さんも、お願いしていたことは忘れないでくださいね」


「ああ。ちゃんと持ってきたぜ」


 二人だけで何やら確認している。


 和真は少し気になったものの、特に深く考えなかった。


「和真、酒菜。気をつけて行ってきてね」


 ユエも笑顔で声をかける。


「お土産、期待してるから」


「はいはい。忘れないようにするよ」


「俺がうまいもん選んでやるから楽しみにしてな!」


「それなら期待できそう!」


 いつもどおりの賑やかな見送り。


 けれど。


 和真はふと、集まった顔ぶれを見渡した。


「……あれ?」


「どうした、和真?」


「いや……みゆは?」


 その名前を聞いた途端、あおいが少しだけ表情を曇らせた。


「……みゆは、まだ部屋におるようじゃ」


「そうなんだ。珍しいね」


 今までの旅行では、みゆは必ず見送りに来ていた。


 どれほど早朝でも、眠そうに目を擦りながら姿を見せてくれた。


 時には抱きついて離れようとせず、出発が遅れそうになったこともある。


 そのみゆが、今日は姿を見せていない。


「体調でも悪いのかな?」


「いや……そういうわけではないと思うのじゃが……」


 あおいは言葉を濁した。


 和真は少し気になったものの、無理に聞き出すことはしなかった。


「そっか。じゃあ、みゆにもよろしく伝えておいて」


「……うむ」


 そして、もう一人。


 和真が探していた姿は、やはり見当たらなかった。


 フェンリス。


 彼女が見送りに来なくなってから、もう何度目になるだろう。


 以前は誰よりも早く起きて、笑顔で送り出してくれていた。


 最近は仕事が忙しく、まともに顔を合わせる機会すら少ない。


 少し前に久しぶりに会えたときは、とても嬉しそうにしてくれたのに。


 それからまた、すれ違いが続いている。


「…………」


 和真はアパートの方へ目を向けた。


 胸の奥に、ぽっかりと小さな穴が空いたような感覚が残る。


「和真?」


 隣から酒菜が呼びかけてきた。


「ん? どうした?」


「そろそろ出発しねえと、着くのが遅くなるぞ」


「あ、そうだね」


 和真は小さく頷く。


「じゃあ、みんな。行ってきます」


「行ってらっしゃーい!」


「道中、気をつけるのじゃぞ!」


「……お、お土産、楽しみにしてます」


「安全運転でお願いしますね」


 皆の声に見送られ、二人は車に乗り込んだ。


 ゆっくりと車を走らせる。


 バックミラーには、手を振る住人たちの姿が映っていた。


 いつもの賑やかな光景。


 けれど、今日は何かが足りない。


 和真はもう一度だけミラーを見てから、前方へ視線を戻した。


 その様子を、助手席の酒菜は何も言わずに見ていた。


     * * *


「しっかし、随分と遠いところまで行くんだな」


 高速道路を走り始めてしばらく。


 助手席の酒菜が、窓の外を眺めながら呟いた。


「まあね。飛騨高山までは結構距離があるから」


「お前、いつもこんな長距離を運転してんのか?」


「行き先によるかな。京都にも車で行ったし」


「よくやるぜ。俺だったら途中で飽きちまうな」


「運転してると、案外あっという間だよ」


「そういうもんか?」


 酒菜は不思議そうに首を傾げた。


 やがて、何か思いついたように口を開く。


「そういや、和真」


「ん?」


「今回の旅行先、俺のために選んでくれたんだろ?」


「うん。酒菜は料理が好きだから、食べ物がおいしいところがいいと思って」


「……へへっ」


 酒菜は照れくさそうに笑った。


「ありがとな」


「どういたしまして」


「けどよ、せっかく二人で来たんだ。お前もちゃんと楽しめよ?」


「もちろん」


「ならいい!」


 酒菜は嬉しそうに背もたれへ体を預けた。


 しばらく進んだところで、二人はサービスエリアに立ち寄る。


 和真が温かいコーヒーを買って戻ると、酒菜は売店の前で真剣な表情をしていた。


「……何してるの?」


「いや、この惣菜パンが気になってな」


「さっき朝ご飯食べたばかりじゃない?」


「見るだけだ、見るだけ!」


「本当かな……」


 数分後。


 酒菜の手には、しっかりと惣菜パンが握られていた。


「……買ったんだ」


「味の研究だよ、研究!」


「はいはい」


「なんだ、その顔は!」


 そんなやり取りを繰り返しながら、二人は再び目的地へ向かった。


     * * *


 長い道のりを経て、二人はようやく飛騨高山へ到着した。


 駐車場に車を停め、外へ出る。


「おお……!」


 酒菜が周囲を見渡した。


「なんつうか……いい雰囲気の町だな」


「でしょ?」


 高山の古い町並み。


 木造の町家が並ぶ通りには、昔ながらの格子戸や軒先が続いている。


 酒蔵の軒先には大きな杉玉が吊るされ、土産物屋や食べ歩きの店からはいい香りが漂っていた。


「こりゃ、歩くだけでも楽しそうだ」


「まずはこの辺りを散策しようか」


「おう!」


 二人は並んで歩き始めた。


 通りには観光客が行き交い、店先からは香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。


「……ん?」


 酒菜が足を止めた。


「和真、あれは何だ?」


「みたらし団子だね」


「みたらし? 甘いやつか?」


「こっちのは醤油味が中心なんだよ」


「へえ……!」


 酒菜の目が輝く。


「食ってみようぜ!」


 さっそく二人で一本ずつ購入する。


 焼きたての団子を口に運んだ酒菜は、目を大きく見開いた。


「おっ、うめえ!」


「おいしいね」


「甘ったるくねえのがいいな! 醤油の香ばしさがしっかり残ってる」


 酒菜はもう一口食べ、じっくりと味わった。


「焼き加減もいい。外は香ばしいのに、中は柔らけえ」


「さすが料理人。見るところが違うね」


「当たり前だろ。うまいもん食ったら、どう作ってるか気になるもんだ」


 そう言って、酒菜は最後の一口を食べた。


「……もう一本食いてえな」


「このあとお昼ご飯だからね?」


「ちぇっ」


 名残惜しそうに店を振り返る酒菜に、和真は思わず笑ってしまった。


 その後も二人は古い町並みを散策する。


 工芸品を眺めたり、土産物屋を覗いたり。


 飛騨牛の握り寿司を見つけた酒菜が、どうしても食べたいと言い出したり。


「うおっ、なんだこれ!」


「どう? おいしい?」


「肉が柔らけえ! しかも脂がしつこくねえ!」


「気に入ったみたいだね」


「気に入るに決まってんだろ!」


 酒菜は心底幸せそうに笑った。


 和真も、その様子を見て自然と笑顔になる。


「あ、酒菜。ちょっとこっち向いて」


「ん?」


 和真はスマートフォンを構えた。


「せっかくだから写真撮ろうと思って」


「お、おい! 急に撮るなよ!」


「じゃあ、撮ってもいい?」


「……ったく。仕方ねえな」


 酒菜は少し照れくさそうに、古い町家を背景に立つ。


「はい、チーズ」


 カシャッ。


「……どうだ?」


「うん、いい写真だよ」


「見せろ見せろ」


 画面を覗いた酒菜は、少し目を丸くした。


「……へえ」


「気に入った?」


「まあ……悪くねえな」


 そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいる。


「せっかくだし、一緒にも撮ろうか」


「……おう」


 近くにいた観光客にお願いして、二人並んだ写真も撮ってもらった。


 酒菜は和真の肩に腕を回し、豪快に笑う。


 その表情は、普段の料理中に見せるものよりも、ずっと柔らかかった。


     * * *


 昼食は、事前に調べておいた郷土料理の店へ向かった。


「お待たせいたしました。朴葉味噌の定食でございます」


 運ばれてきた料理を見て、酒菜が身を乗り出す。


「おお……!」


 卓上の小さな火で温められた朴葉の上には、味噌や刻んだ葱、きのこが乗っている。


 じわじわと熱が伝わり、香ばしい味噌の匂いが広がっていく。


「こいつはいいな……!」


「朴葉の上で味噌を焼くんだって」


「なるほどな。葉の香りも移るってわけか」


 酒菜は箸で味噌を少し取り、ご飯に乗せた。


 一口食べる。


「…………!」


「どう?」


「……うめえ」


 思わず漏れた声は、いつになく静かだった。


 しかし次の瞬間、酒菜は勢いよく顔を上げる。


「和真! これ、すげえぞ!」


「そんなに?」


「味噌の香ばしさと甘辛さがたまんねえ! 飯が何杯でも食えそうだ!」


「気に入ってもらえてよかったよ」


「お前も食え! ほら!」


「食べてるって」


 酒菜はすっかり夢中になっていた。


 付け合わせの飛騨牛を味噌と合わせたり、きのこの香りを確かめたり。


 料理人らしく、一口ごとに味を分析している。


「これ、帰ったら作ってみてえな」


「酒菜ならできそうだね」


「ただ、朴葉が必要だな……」


「お土産屋さんで売ってるんじゃない?」


「そうか!」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


「帰ったらみんなにも食わせてやろうぜ!」


「うん。きっと喜ぶと思う」


 和真も笑顔で頷いた。


 けれど、みんなの顔を思い浮かべたとき。


 ふと、フェンリスの顔が頭をよぎった。


 以前なら、新しい料理が食卓に並ぶと真っ先に目を輝かせていた彼女。


 おいしそうに食べる姿が、自然と思い浮かぶ。


「…………」


「和真?」


「あ、ううん。なんでもない」


「そうか?」


 酒菜は少し不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。


     * * *


 昼食を終えた二人は、次の目的地である飛騨の里へ向かった。


 合掌造りの家屋が点在する集落には、昔ながらの日本の暮らしが再現されていた。


「すげえな……!」


 酒菜は大きな屋根を見上げた。


「こんな形の家があるのか」


「雪が多い地域だから、それに合わせた造りなんだって」


「へえ……よく考えられてんな」


 古民家の中へ入ると、囲炉裏や昔の生活道具が並んでいた。


 酒菜は特に台所の道具に興味を示した。


「おっ、見ろよ和真。これ、昔の調理道具か?」


「みたいだね」


「なるほどなぁ……火の使い方も今とは全然違うんだな」


 興味津々の酒菜に付き合いながら、和真も展示を見て回る。


 しばらくして、二人は外の道を歩いていた。


 そこで、前方から小さな子供を連れた家族が歩いてくる。


「おとうさん! こっちこっち!」


「そんなに走ると転ぶぞー!」


 父親の手を引っ張る男の子。


 その後ろを、小さな女の子と母親が笑いながら歩いていた。


「…………」


 酒菜の足が止まる。


「酒菜?」


「……いや、なんでもねえ」


 そう答えた声は、少しだけ小さかった。


 酒菜は遠ざかっていく家族の背中を見つめていた。


 ほんの一瞬。


 何かを懐かしむような、寂しそうな表情を浮かべる。


 和真はその理由を知っていた。


 酒菜が、かつて大切な家族を失っていることを。


「……酒菜」


「ん?」


「向こうに休める場所があるみたいだよ。少し座ろうか」


「……ああ、そうだな」


 二人は近くの休憩場所に腰を下ろした。


 冷たい風が、静かに頬を撫でる。


「いいところだな、ここ」


 酒菜がぽつりと呟いた。


「うん」


「昔の家とか道具とか……見てると色々思い出しちまう」


「……そっか」


 酒菜はしばらく空を眺めていた。


 そして、ふっと笑う。


「でもよ、楽しいぜ。こうやってお前と旅行できるなんて、前は考えもしなかったからな」


「俺も楽しいよ」


「へへっ。ならよかった」


 酒菜は立ち上がり、大きく背伸びをした。


「よし! まだ見るところがあるんだろ?」


「うん」


「だったら行こうぜ! せっかく来たんだから全部見て回らねえとな!」


「ははっ、元気だね」


「当たり前だ!」


 酒菜は笑いながら歩き出す。


 和真もその後を追った。


     * * *


 夕方。


 二人は予約していた温泉旅館へ到着した。


 落ち着いた雰囲気の和風旅館で、窓からは山々を眺めることができた。


「おお……いい部屋じゃねえか!」


 案内された和室を見渡し、酒菜が感心する。


「景色もいいね」


「こりゃ、夜も楽しみだな」


 荷物を置き、一息ついた二人は夕食まで別々に温泉へ入ることにした。


「和真、あんまり長湯すんなよ?」


「酒菜こそ」


「俺は大丈夫だって!」


 そう言って、酒菜は大浴場へ向かっていった。


 和真も温泉へ向かい、長時間の運転で疲れた身体を湯に沈める。


「はぁ……」


 思わず声が漏れた。


 肩や腰に溜まっていた疲れが、ゆっくりとほぐれていく。


 今日一日を思い返す。


 酒菜は本当に楽しそうだった。


 料理を見て目を輝かせたり、初めて見る景色に驚いたり。


 いつも皆の食事を作ってくれる彼女が、今日は一人の旅行者として楽しんでいる。


 それが嬉しかった。


 しかし、ふとした瞬間。


 またフェンリスの顔が思い浮かぶ。


 最近は連絡しても短い返事ばかり。


 会おうとしても仕事で忙しく、なかなか時間が合わない。


 何かあったのだろうか。


 それとも、自分が気づかないうちに何かしてしまったのだろうか。


「……はぁ」


 和真は小さく息を吐いた。


 温泉の湯面が、静かに揺れていた。


     * * *


 夕食の時間。


 食事処へ向かった二人の前には、豪華な会席料理が並べられていた。


「おおお……!」


 酒菜が感嘆の声を上げる。


 飛騨牛の料理を中心に、川魚の塩焼き、季節の野菜を使った煮物や小鉢。


 盛り付けも美しく、一品一品に料理人の工夫が感じられた。


「すげえな……!」


「おいしそうだね」


「おう! こりゃ楽しみだ!」


 二人は料理を味わい始めた。


 酒菜は一品食べるたびに感想を口にする。


「この煮物、出汁がいいな」


「うん、優しい味だね」


「こっちの魚もいい焼き加減だ。皮が香ばしくて身はふっくらしてやがる」


「本当に詳しいね」


「そりゃ俺は料理人だからな!」


 そして、飛騨牛が運ばれてくると、酒菜の表情はさらに明るくなった。


「おお……!」


「今日一番の反応じゃない?」


「肉は料理人としても興味あるからな!」


 一口食べた瞬間。


「……っ!」


 酒菜は目を閉じ、じっくりと味わった。


「……うめえ」


「よかった」


「こいつは参ったな。素材がいいのはもちろんだが、火の入れ方も絶妙だ」


 真剣に料理を味わう姿は、普段の豪快な彼女とは少し違って見えた。


「酒菜って、本当に料理が好きなんだね」


「ん? そりゃそうだろ」


 酒菜は当たり前のように答える。


「うまいもん食って喜んでもらえるのが、一番嬉しいからな」


「そっか」


「……まあ、俺自身もうまいもん食うのが好きってのもあるけどよ!」


「それは今日一日でよく分かったよ」


「はははっ!」


 二人は笑い合った。


 やがて夕食を終え、満足した様子で部屋へ戻った。


 そして。


 ここからが、酒菜にとってもう一つの楽しみだった。


     * * *


「さーて!」


 部屋に戻るなり、酒菜は嬉しそうに声を上げた。


「和真! 飲むぞ!」


「……え?」


 振り返った和真の前で、酒菜が地酒の瓶を取り出す。


 昼間、古い町並みの酒蔵で購入したものだった。


「せっかく高山まで来たんだ。地酒を楽しまねえとな!」


「あー……酒菜」


「ん?」


「俺、今日は飲まないつもりだったんだけど」


「はあ?」


 酒菜が目を丸くする。


「なんでだよ?」


「いや、明日も運転するし」


「そのためにリディアから例の飲み物もらってきただろ?」


 そう言って、酒菜は鞄から小瓶を取り出した。


 旅行前、リディアから受け取っていた特製のアルコール分解飲料だ。


「明日の朝はこいつを飲んで、酔いがちゃんと抜けたのを確認してから動けばいいだろ。もちろん、運転できる状態になるまでは車を出さねえよ」


「それはそうだけど……」


「それに、別に今夜くらいいいじゃねえか」


 酒菜は二つの盃を並べた。


「せっかく二人で旅行に来たんだ。俺だけ飲んでたってつまんねえだろ?」


「いや、俺はお茶でも……」


「いいから付き合えって!」


「ちょ、酒菜!」


 酒菜は有無を言わせず、和真の盃にも酒を注いだ。


「ほら、乾杯!」


「……はぁ。分かったよ。少しだけだからね?」


「おう!」


 二人は盃を軽く合わせた。


「乾杯!」


「乾杯」


 和真は一口だけ酒を飲む。


「……あ、おいしい」


「だろ?」


 酒菜は嬉しそうに笑った。


「香りがいいんだよな、こいつ!」


「うん。思ったより飲みやすいね」


「そうそう! ほら、もう一杯!」


「いや、まだ残ってるって!」


「なんだよ、遠慮すんな!」


「遠慮じゃないから!」


 そんなやり取りをしながら、二人の酒盛りが始まった。


 最初は本当に、軽く飲むだけのつもりだった。


 けれど、酒菜が次々と話題を振り、楽しそうに笑うものだから。


 和真もついつい付き合ってしまう。


「それでよ、今日食った朴葉味噌なんだが……」


「うん」


「あれ、帰ったら絶対作ってやるからな!」


「楽しみにしてるよ」


「おう! それで、みんなに食わせて……」


 酒菜はそこで言葉を止めた。


 和真が、少し寂しそうに笑っていたからだ。


「……和真?」


「ん?」


「どうした?」


「いや、なんでもないよ」


「…………」


 酒菜は和真をじっと見つめた。


 それから、空になった盃に酒を注ぐ。


「ほら」


「え、まだ飲むの?」


「いいから付き合え。今夜は俺がお前の話も聞いてやる」


「……話?」


「ああ」


 酒菜は自分の盃を持ち上げた。


「今日のお前、たまに妙な顔してんだよ」


「……そうかな」


「そうだよ」


 酒菜は一口飲み、静かに続けた。


「せっかくの旅行だってのに、何か気にしてるだろ?」


「…………」


「言いたくねえなら無理には聞かねえけどよ」


 酒菜は和真の顔を覗き込む。


「俺でよけりゃ、聞いてやるぜ?」


「……ありがとう」


 和真は少し迷った。


 しかし、まだ言葉にはしなかった。


「もう少し飲もうか」


「おう!」


 再び盃を合わせる。


 一杯。


 また一杯。


 最初は酒菜に勧められるまま飲んでいた和真だったが、次第に自分から盃を手に取るようになっていた。


 頬が赤くなり、口数も少しずつ増えていく。


「……和真、お前、結構飲めるじゃねえか」


「そうかなぁ……」


「ははっ、いい感じに酔ってきたな!」


「酒菜が飲ませるからでしょ……」


「違えねえ!」


 酒菜は豪快に笑った。


 そして、少しだけ声を落とす。


「……で?」


「ん?」


「そろそろ話してみねえか?」


 和真は盃を見つめた。


 しばらく沈黙したあと。


「……酒菜」


「おう」


「俺さ……」


 ぽつりと呟く。


「フェンリスに、嫌われたのかもしれない」


「…………は?」


 酒菜は思わず聞き返した。


「おいおい、なんでそうなるんだ?」


「だって……最近、全然会えないんだよ」


「仕事が忙しいからだろ?」


「うん……そうなんだけどさ」


 和真はゆっくりと言葉を続けた。


「連絡しても、返事が短くて……会いに行っても、いつもいなくて……」


「…………」


「前は、あんなに一緒にいたのになぁ……」


 和真は寂しそうに笑った。


「朝ご飯も、晩ご飯も……よく一緒に食べてたんだよ」


「ああ」


「くだらない話して、一緒に笑って……」


 盃を持つ手が止まる。


「……最近、全然そういう時間がなくなっちゃった」


 酒菜は黙って聞いていた。


「この前、久しぶりに会えたんだ」


「おう」


「すごく嬉しかった。フェンリスも笑ってくれてさ……」


 和真は少しだけ笑みを浮かべた。


「でも、それからまた会えなくなって……」


「…………」


「俺、何かしちゃったのかなって……」


 酒菜は盃を置いた。


「和真。それだけで嫌われたなんて決めつけるもんじゃねえぞ」


「……うん」


「あいつにも事情があるかもしれねえだろ?」


「そうだよね……」


 和真は頷く。


 しかし、その表情は晴れなかった。


「それに、今日……みゆも見送りに来なかったんだ」


「ああ……」


「今まで、あんなことなかったのに」


 和真は小さく息を吐く。


「……なんか、寂しいなぁ」


 その言葉は、酒の勢いがなければ口にできなかったかもしれない。


 酒菜はしばらく黙っていた。


 そして。


「……和真」


「ん?」


「お前、みゆやナディアと何かあったのか?」


「…………」


 和真の動きが止まった。


「な、なんで……?」


「なんとなくだよ」


 酒菜は真剣な表情をしていた。


「最近、お前らの様子が少し変わった気がしてな」


「…………」


「それに、ユエとの旅行から帰ってきたお前も、妙に考え込んでただろ?」


 和真は答えられなかった。


 しかし、酒菜は急かさなかった。


 やがて。


「……俺さ」


 和真が、ゆっくりと口を開いた。


「ナディアと……そういう関係になったんだ」


「…………」


「それから、みゆとも……」


 酒菜は目を見開いた。


 そして、少しだけ息を呑む。


「……そうか」


「うん……」


「……お前ら、そこまで進んでたのか」


 酒菜は盃を見つめた。


 その表情には驚きと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。


 けれど、和真は酔いもあって気づかない。


「ナディアも、みゆも……俺のこと、好きだって言ってくれたんだ」


「ああ」


「でも、俺……ちゃんと答えられてない」


「…………」


「それなのに……」


 和真は唇を噛んだ。


「二人と、そういう関係になっちゃって……」


 酒菜は何も言わずに聞いていた。


「この前、ユエにも怒られたんだ」


「ユエに?」


「うん……」


 和真は俯く。


「相手の気持ちにちゃんと向き合ってるのかって……」


「…………」


「みんなのこと、大切にしたいって思ってたんだ」


 言葉が少しずつ震え始める。


「でも……大切にするって、なんなんだろうな……」


 酒菜は静かに目を伏せた。


「誰かを喜ばせて……そのせいで誰かを傷つけて……」


「…………」


「俺、何やってるんだろ……」


 和真は小さく笑った。


 自嘲するような、寂しい笑い方だった。


「ユエに言われて、初めて気づいたんだ」


 和真は盃を置く。


「俺……みんなに甘えてたのかもしれない」


「……和真」


「誰かに好かれるのは嬉しい。でも、ちゃんと答えるのは怖くて……」


 言葉が途切れる。


「……最低だよな、俺」


 酒菜の眉がぴくりと動いた。


「……おい」


「ん……?」


「それ以上、自分を悪く言うんじゃねえ」


 その声は、いつもの荒っぽいものとは違っていた。


 低く、けれど温かい声だった。


「お前が間違えたところもあるんだろうさ。ユエが怒ったってんなら、ちゃんと考えなきゃいけねえこともあるんだろ」


「……うん」


「けどな」


 酒菜は和真の肩に手を置いた。


「だからって、今までお前がしてきたことまで全部間違いになるわけじゃねえだろ」


「…………」


「俺は知ってるぜ」


 酒菜は真っ直ぐ和真を見る。


「お前がどれだけ、みんなのために頑張ってきたか」


「……酒菜」


「飯のこと、住む場所のこと、仕事のこと……誰かが困ってりゃ放っとけねえ」


 酒菜は苦笑した。


「まったく、お人好しにも程があるってんだ」


「…………」


「でもよ……そんなお前だったから、俺だってここまで来られたんだ」


 和真は顔を上げた。


「俺は……お前に助けられた」


 酒菜の声が少しだけ柔らかくなる。


「生きる理由なんて、もう何もねえと思ってた」


「…………」


「家族を失って……全部どうでもよくなって……」


 酒菜は盃を見つめた。


「……あの頃の俺は、死に場所を探してたんだと思う」


「……酒菜」


「けど、お前が拾ってくれた」


 静かに笑う。


「一緒に飯食って、くだらねえ話して……また料理ができるようになって……」


 そして、少し照れくさそうに続けた。


「こうして旅行まで連れてきてくれる」


「…………」


「俺は今、幸せだぜ」


 その言葉に、和真は目を見開いた。


「……酒菜」


「だからよ」


 酒菜は和真の頭に手を伸ばした。


 そして、少し乱暴に髪を撫でる。


「そんな顔すんな」


「……っ」


「間違えたんなら、これから直していきゃいい」


「…………」


「ちゃんと話して、ちゃんと向き合って……それでも駄目なら、そのときまた考えりゃいいだろ」


 和真の目が少し潤む。


「……ありがとう」


「おう」


「……本当に、ありがとう」


 酒菜は優しく笑った。


「まったく……普段は人の面倒ばっか見てるくせに、こういうときは頼りねえんだからよ」


「……はは」


「たまには俺にも頼れってんだ」


 酒菜は和真の頭をもう一度撫でた。


 そして。


「……ほら、こっち来い」


「え?」


 酒菜は和真の腕を引き寄せた。


 そのまま、自分の胸元へ抱き込む。


「さ、酒菜……?」


「いいから」


 ぎゅっと抱きしめる。


「今くらい、甘えとけ」


「…………」


「誰にも言わねえから」


 和真はしばらく動かなかった。


 けれど。


 やがて、ゆっくりと酒菜の背中へ腕を回した。


「……酒菜」


「おう」


「……俺、どうしたらいいんだろうな」


「……さあな」


 酒菜は正直に答えた。


「俺にも、正解なんざ分かんねえよ」


「…………」


「でも、お前が本当に大切にしたい相手なら、逃げずに向き合ってやれ」


「……うん」


「フェンリスのこともな」


 和真の腕に、少しだけ力がこもる。


「……うん」


 酒菜はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、和真を抱きしめ続けた。


     * * *


 しばらくして。


「……酒菜」


「ん?」


「……あったかいな」


「……は?」


 酒菜は思わず間の抜けた声を出した。


 和真はすっかり酔っているらしく、いつもより素直だった。


「……なんか、安心する」


「…………」


 酒菜の頬が赤くなる。


「ば、馬鹿野郎……」


 口ではそう言いながらも、抱きしめる腕は緩めなかった。


「……ったく」


 酒菜は和真の髪を優しく撫でる。


「お前ってやつは……」


 その姿が、ふと昔の記憶と重なった。


 かつて自分を抱きしめてくれた夫。


 小さな手を伸ばして甘えてきた子供たち。


 もう二度と戻らない、温かな日々。


「…………」


 酒菜は目を閉じた。


 胸の奥が、少しだけ痛む。


 けれど今、腕の中には確かな温もりがあった。


 失ったものが戻るわけではない。


 それでも。


 自分には、また誰かを大切に思える時間が訪れた。


「……ありがとな、和真」


「……ん?」


「なんでもねえよ」


 酒菜は小さく笑った。


「ほら、もう寝るぞ。明日も早いんだから」


「……うん」


 酒菜は飲み残した酒を片づけ、水を用意して和真に飲ませた。


 そして自分も水を飲み、翌朝使うリディアの小瓶を見える場所に置く。


「明日はちゃんと酒を抜いて、体調を確かめてから出発だからな」


「……分かってるよ」


「本当かよ。今のお前、相当酔ってるぞ?」


「……酒菜のせいだと思う」


「ははっ! 違えねえ!」


 笑いながら、酒菜は布団の準備をした。


 旅館の人が敷いてくれた二組の布団。


 和真はふらつきながら、その片方に腰を下ろした。


「……酒菜」


「なんだ?」


「……今日は、楽しかった」


「……おう」


「明日も……楽しもうな」


 酒菜の表情が柔らかくなる。


「ああ。もちろんだ」


 和真はそのまま布団に横になった。


 しかし、しばらくして。


「……酒菜」


「今度はなんだよ?」


「……もう少し、そばにいてくれる?」


「…………!」


 酒菜は目を見開いた。


 普段の和真なら、絶対に言わないような言葉だった。


「……ったく」


 思わず笑みがこぼれる。


「今日のお前は、随分と甘えん坊だな」


「……ごめん」


「謝るなって」


 酒菜は和真の隣へ腰を下ろした。


 そして、横になっている和真の身体を優しく抱き寄せる。


「ほら」


「……ありがとう」


「おう」


 和真も、酒菜の背中へ腕を回した。


 二人はそのまま、静かに抱き合う。


 酒菜は和真の髪を撫でながら、小さく呟いた。


「……和真」


「……ん」


「俺はな……」


 そこで言葉を止める。


 言いたいことは、たくさんあった。


 自分を救ってくれたこと。


 もう一度、生きたいと思わせてくれたこと。


 そして。


 いつの間にか、ただの恩人以上に大切な存在になっていたこと。


 けれど。


「……いや、なんでもねえ」


 酒菜は小さく笑った。


「おやすみ、和真」


「……おやすみ、酒菜」


 それから間もなく、和真の寝息が聞こえ始めた。


「……寝るの早えな」


 酒菜は苦笑する。


 けれど、その腕を解こうとはしなかった。


「……本当に、お前ってやつは」


 眠る和真の顔を見つめる。


 少し幼く見える寝顔。


 普段は何でも一人で抱え込もうとするくせに、こうして酔えば誰かに甘えたくなる。


 そんな一面を、自分にだけ見せてくれたことが嬉しかった。


 酒菜はそっと和真の額にかかった髪を払った。


「……俺だって、お前のこと……」


 小さく呟きかけて、口を閉じる。


 今は、まだいい。


 今夜は、この温もりだけで十分だった。


 酒菜はもう一度、和真を優しく抱きしめた。


「……おやすみ」


 静かな旅館の一室。


 窓の外では、冷たい夜風が木々を揺らしていた。


 二人は互いの温もりを感じながら、ゆっくりと眠りについていく。


 酒菜との旅行、一日目。


 それは、おいしい料理と楽しい観光だけでなく。


 和真が初めて、心の奥に溜め込んでいた不安を酒菜に打ち明けた夜となった。


 そして酒菜にとっても。


 失った幸せを懐かしむだけではなく、今ここにある幸せを大切にしたいと思える夜になったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。