第四十八話 料理人が選んだ旅
朝の母屋には、包丁がまな板を叩く小気味よい音が響いていた。
トントントン、と一定の速さで刻まれていく野菜。
鍋からは湯気が立ち上り、出汁の香りが台所いっぱいに広がっている。
「……またか」
和真はスマートフォンの画面を見つめ、小さく呟いた。
フェンリスに送ったメッセージ。
体調は大丈夫か、無理をしていないか、たまには一緒に飯でも食わないか。
返事は来ている。
『大丈夫だよ! ちょっと忙しいだけだから!』
ただ、それだけだった。
最近は顔を合わせる機会もほとんどない。
朝は和真が起きる前に出かけ、夜は遅くまで帰ってこない。食事もいらないと連絡が来ている。
何度か部屋を訪ねてみたものの、タイミングが悪いのか、結局会うことはできなかった。
「おい、和真」
「……ん?」
「邪魔だ。そこに突っ立ってるなら、こっちの皿を運べ」
「ああ、悪い」
酒菜に声をかけられ、和真はスマートフォンをポケットへしまった。
並べられていた小鉢を手に取り、食卓へ運んでいく。
「ったく。朝からぼさっとしやがって。寝不足か?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな」
「だったらしゃきっとしろ。飯がまずくなるぞ」
「酒菜の飯がまずくなることなんてないだろ」
「当たり前だ」
即答する酒菜に、和真は思わず笑った。
いつもどおりの自信満々な返事。
それが少しだけありがたかった。
◇
朝食が終わり、住人たちがそれぞれの予定に向かい始めた頃。
和真は食器を片付けている酒菜に声をかけた。
「そういえば、酒菜」
「ん?」
「次の旅行、お前の番だったよな」
酒菜の手がぴたりと止まった。
「……ああ、そうだったな」
「何か行きたい場所は決まってるか?」
「いや。いくつか考えちゃいるんだが、まだ決めてねえ」
「そうなのか?」
酒菜は洗い終えた皿を置き、腕を組んだ。
「せっかく行くなら、何かうまいもんが食いたい」
「それは酒菜らしいな」
「ただ食うだけじゃつまらねえ。俺の知らねえ料理を覚えたいんだよ」
「新しい料理?」
「ああ。こっちの世界に来てから、色々食わせてもらっただろ。まだ知らねえ食材も、調理法も山ほどある」
そう言って、酒菜は台所を見渡した。
「ここの連中は食う量も好みもばらばらだからな。献立を考えるのも結構大変なんだ」
「……いつも助かってるよ」
「別に礼が欲しくて言ってんじゃねえよ」
酒菜は鼻を鳴らした。
「ただな、同じようなもんばっかり作ってると、俺自身が飽きる」
「なるほど」
「だから、旅行先で新しい料理を覚えたい。できれば地元の連中が昔から作ってるような料理がいいな」
和真は少し考え込んだ。
有名な料理を食べるだけなら、旅行先はいくらでもある。
しかし、酒菜が求めているのはそれだけではない。
食材の使い方や味付けの工夫。
その土地に根付いた料理の知恵。
そういったものを実際に見て、学びたいのだろう。
「だったら、郷土料理を中心に探してみるか」
「郷土料理?」
「その土地で昔から食べられてきた料理だよ。地域によって味噌も出汁も違うし、保存食なんかも色々あるぞ」
「ほう……」
酒菜の目が輝いた。
「面白そうじゃねえか」
「だろ? 地元の人に料理を教えてもらえる体験もあるみたいだし」
「そんなもんまであるのか!」
「ああ。ちょっと調べてみよう」
「よし! 皿洗いが終わったら付き合え!」
「分かったよ」
こうして、酒菜との旅行計画が始まった。
◇
昼過ぎ。
母屋の居間には、ノートパソコンを挟んで座る和真と酒菜の姿があった。
「新潟、三重、福岡……結構あるな」
「どこも悪くねえな。こいつは何だ?」
「のっぺっていう新潟の郷土料理だな。野菜なんかを煮込んだ料理らしい」
「ほう。こっちは?」
「伊勢のてこね寿司。魚をタレに漬けて、ご飯と合わせるんだ」
「なるほどな……」
酒菜は画面を覗き込みながら、次々と質問してくる。
料理の写真が表示されるたびに身を乗り出し、食材や味付けを気にしている。
「おい、和真。この味噌を葉っぱの上で焼いてるやつは何だ?」
「ああ、それか」
和真は画面をスクロールした。
「朴葉味噌っていう料理だな。岐阜県の飛騨地方で食べられてるんだ」
「葉っぱの上で味噌を焼くのか?」
「そうらしい。ネギやキノコなんかを混ぜたり、肉と一緒に焼いたりするみたいだぞ」
「……へえ」
酒菜はしばらく写真を眺めていた。
「面白えな」
「気になるか?」
「ああ。わざわざ葉っぱの上で焼くってことは、それなりの意味があるんだろ?」
「香りが移るらしいぞ」
「なるほどな。なら、葉っぱの状態でも変わるかもしれねえな」
酒菜は顎に手を当てた。
「焼き加減で味噌の香りも変わるだろうし、使う味噌によっても随分違うはずだ」
「……もう作ること考えてるのか」
「当たり前だろ」
酒菜はにやりと笑った。
「うまいもんを食ったら、自分でも作りたくなる。それが料理人ってもんだ」
和真は笑いながら、別の料理を表示した。
「飛騨には漬物ステーキっていう料理もあるぞ」
「……漬物を焼くのか?」
「ああ。卵と合わせて焼く料理みたいだな」
「漬物を……卵と……?」
酒菜は真剣な顔で考え始めた。
「発酵した野菜を焼いて、卵でまとめるってことか。そいつは試したことがねえな」
「五平餅もあるし、飛騨牛も有名だぞ」
「牛肉か。そいつも気になるが……」
酒菜はもう一度、朴葉味噌の写真に視線を戻した。
「俺はこっちだな」
「朴葉味噌?」
「ああ。こういう料理が知りたかったんだよ」
和真は頷いた。
「じゃあ、飛騨高山にするか?」
「決まりだ!」
酒菜は勢いよく立ち上がった。
「よし! さっさと予定を立てるぞ!」
「まだ日程も決まってないんだけど……」
「だったら今決めりゃいいだろ!」
「ははっ。分かった、分かった」
◇
「飛騨高山?」
いつの間にか居間にやって来ていたピピが、二人の間から画面を覗き込んだ。
「どこ? 何があるの?」
「岐阜県だよ。酒菜と旅行に行くんだ」
「ピピも行く!」
「お前はもう行っただろうが」
酒菜が即座に突っ込む。
「えー! でも、おいしいものいっぱいあるんでしょ?」
「あるぞ。だから俺が食いに行くんだ」
「ずるい!」
「何がずるいんだよ!」
二人のやり取りに和真が笑っていると、今度はあおいが顔を出した。
「ほう、飛騨とな。なかなかよいところを選んだのう」
「あおい、知ってるのか?」
「名は知っておる。山に囲まれた土地じゃろう?」
「ああ。古い町並みなんかも有名らしい」
「ふむ。妾も一度は見てみたいものじゃ」
「お前らな……」
酒菜が呆れたようにため息をつく。
「人の旅行にくっついて行こうとすんな。今回は俺と和真の二人旅だ」
「分かっておるわ。ちと羨ましくなっただけじゃ」
あおいはくすくすと笑った。
その横から、ひかげも画面を覗き込む。
「わぁ……おいしそうですねぇ」
「ひかげも何か食いたいもんがあるか?」
「えっ? あ、いえ……その……」
ひかげは少し考えてから、遠慮がちに微笑んだ。
「もしよかったら……お土産に、お味噌を買ってきてもらえたら嬉しいです」
「味噌か。いいぞ」
酒菜は頷いた。
「俺も買って帰るつもりだったからな。気になるやつがあったら選んでやる」
「あ、ありがとうございます……!」
嬉しそうに頭を下げるひかげ。
そんな賑やかなやり取りを聞きながら、和真はふと食卓の方へ目を向けた。
以前なら、この輪の中にフェンリスもいた。
何を買ってきてほしいだとか、自分の旅行では何がしたいだとか。
そんな話を楽しそうにしていたはずなのに。
「……和真?」
酒菜に呼ばれ、和真は顔を戻した。
「ん? どうした?」
「それはこっちの台詞だ。宿を探すんじゃなかったのか?」
「ああ、そうだったな」
和真は慌ててパソコンへ向き直った。
◇
旅行先が決まると、計画は思いのほか順調に進んだ。
「まず、一日目は朝早く出発して、十一時頃に高山へ到着する予定だな」
「車で行くんだろ?」
「ああ。荷物もあるし、帰りに食材を買い込むなら車の方が便利だ」
「そりゃ助かる」
和真は地図を確認しながら予定を書き込んでいく。
「ただ、向こうは結構寒いみたいだからな。雪や路面の凍結には気をつけないと」
「そうなのか?」
「山の方だしな。冬用タイヤにしておくよ。天気が悪かったら無理せず予定を変える」
「そこはお前に任せる」
酒菜は頷いた。
「で、着いたらどうする?」
「まずは古い町並みを散策しながら食べ歩きだな。飛騨牛の握り寿司とか、五平餅とか」
「いいじゃねえか」
「味噌屋や漬物屋もあるみたいだから、そこも見て回ろう」
「おう!」
「昼飯は朴葉味噌を食べられる店にしようと思う」
「そいつは外せねえな!」
酒菜は楽しそうに笑った。
和真はその様子を見ながら、午後の予定を説明する。
「その後は飛騨の里ってところに行こうか」
「飛騨の里?」
「昔の民家が集められてる場所だよ。囲炉裏なんかも見られるみたいだし、昔の暮らしを知るには面白そうだぞ」
「なるほどな。昔の台所ってのも気になる」
「だろ?」
「ああ。今みたいに便利な道具がなかった頃の工夫は、結構勉強になるからな」
「じゃあ、そこも決まりだな」
和真は予定表に印をつけた。
「夕方には旅館に入って、温泉と夕飯。あとはゆっくり休もう」
「温泉か……」
酒菜は少し口元を緩めた。
「悪くねえな」
「酒菜も普段忙しいしな。たまには何もしない時間があってもいいだろ」
「何もしねえ、か」
酒菜は小さく笑った。
「俺にできるかねえ」
「そこは頑張ってくれ」
「ははっ! 妙なこと言いやがる」
和真は苦笑しながら、二日目の予定へ進んだ。
「二日目は朝市に行こうと思う」
「市場か!」
途端に酒菜が身を乗り出した。
「何が売ってんだ?」
「地元の野菜とか味噌、漬物なんかだな」
「そりゃいい! できるだけ早く行くぞ!」
「朝八時頃を考えてるけど」
「もっと早くてもいいぞ」
「旅館の朝飯も食べたいだろ?」
「……そりゃそうだな」
少し考え、酒菜は頷いた。
「じゃあ八時だ。それで次は?」
「十時頃から郷土料理を教えてもらえる体験を入れたいんだ」
「……何?」
酒菜が目を丸くした。
「実際に作れるのか?」
「ああ。地元の人に教わりながら料理を作る体験があるみたいだぞ」
「そいつはいい!」
酒菜は机を軽く叩いた。
「それだ! それは絶対に行くぞ!」
「分かってるって」
「食うだけじゃ分からねえこともあるからな。火加減や切り方、調味料を入れる順番……そういうのは実際に作らねえと身につかねえ」
興奮した様子で話す酒菜。
和真は思わず笑ってしまった。
「本当に料理が好きなんだな」
「……何だ、今さら」
「いや、楽しそうだと思ってさ」
酒菜は一瞬きょとんとした。
そして、少し照れくさそうに鼻を鳴らす。
「当たり前だろ。好きじゃなきゃ、毎日あんな人数の飯なんか作ってられねえよ」
「それもそうだな」
「……それにな」
「ん?」
「うまいもん食って、嬉しそうにしてる連中を見るのは嫌いじゃねえ」
酒菜はそう言って、わずかに笑った。
「だから、もっと色々作れるようになりてえんだ」
和真は穏やかに微笑んだ。
「そっか。じゃあ、今回の旅行は絶対に楽しいものにしような」
「おう!」
酒菜は満足そうに頷いた。
料理体験の後は、土産物屋で買い物を済ませ、午後二時頃に帰路につく。
これで一泊二日の大まかな予定が完成した。
◇
その日の夕方。
和真は宿泊先の旅館へ予約を入れていた。
温泉付きの旅館で、夕食には飛騨牛や地元の食材を使った料理が並ぶ。
酒菜の希望もあり、できるだけ郷土料理を楽しめる献立の宿を選んだ。
「よし、予約できたぞ」
「おう。部屋はどうなってんだ?」
「和室だよ。布団は二組用意してもらうようにした」
「ふうん」
酒菜は特に気にした様子もなく頷いた。
「夕飯は?」
「地元の料理を中心にした会席料理だな。あと、料理の内容についても相談しておいた」
「ほう?」
「酒菜が料理の勉強をしたいって伝えたら、可能な範囲で地元の食材や料理について説明してくれるってさ」
「おっ、そいつはありがてえ!」
酒菜は嬉しそうに笑った。
「気の利く宿じゃねえか」
「料理中の厨房に入れるわけじゃないけどな」
「そこまで贅沢は言わねえよ」
和真は予約の確認画面を閉じる。
「二日目の料理体験も予約できたし、あとは準備だな」
「そうだな」
そこで酒菜は、何かを思い出したように口を開いた。
「……そういや、和真」
「ん?」
「飛騨って酒もうまいんだろ?」
「ああ。地酒も有名だな」
「よし。それも楽しみにしとくか」
「飲みすぎるなよ?」
「分かってるって」
「本当か?」
「何だよ。信用ねえな」
酒菜は不満そうに口を尖らせた。
「お前も少しくらい付き合えよ」
「俺はやめとくよ。翌日も運転があるし」
「翌日って、午後だろ?」
「そうだけど、酒が残ってたら困るからな」
「ふうん……」
酒菜は何やら考え込んだ。
そして、にやりと笑った。
「ま、その辺は何とかなるだろ」
「何とかって……」
「細けえことは気にすんな!」
「いや、気にするだろ普通!」
和真の突っ込みを聞きながら、酒菜は楽しそうに笑っていた。
◇
翌日。
酒菜はリディアの研究室を訪れていた。
「おい、リディア。ちょっといいか?」
「はい。何か用ですか?」
作業をしていたリディアが手を止め、酒菜へ顔を向けた。
「ちょっと頼みがあるんだが」
「分かりました。まずは内容を聞かせてください」
「お前、体の中に入った酒を分解するようなもん、作れねえか?」
「アルコールの分解ですか?」
「ああ」
リディアは少し考えるように顎へ手を添えた。
「二日酔いを軽減する薬ではなく、体内のアルコールそのものを除去したいということですね?」
「そういうこった」
「……理由を聞いても?」
「今度、和真と旅行に行くだろ? せっかくだから地酒でも一緒に飲みてえんだが、あいつ翌日も運転するから飲まねえって言っててな」
「なるほど。飲酒運転を防ぐためですね」
「おう。何とかならねえか?」
「それでしたら、対応できるものがあります」
「本当か!?」
「はい。以前から試作していた飲料です」
リディアは立ち上がり、棚から小さな容器を取り出した。
「ナディアとユエから教わった魔法技術を応用したものです。体内に残ったアルコールを分解する効果があります」
「へえ! そんなもんまで作ってたのか!」
「ただし、注意点があります」
リディアは容器を机に置いた。
「これは酔わなくなる飲料ではありません。飲酒後の体内に残ったアルコールを分解するためのものです」
「なるほどな」
「また、アルコールが分解されても、睡眠不足や体調不良までは解消されません。運転する前には必ず確認してください」
「分かってる」
リディアはさらに、小さな検査具を取り出した。
「こちらも渡しておきます。アルコールが残っていないか確認するためのものです」
「至れり尽くせりじゃねえか!」
「安全に関わることですから。当然の準備です」
淡々と答えるリディア。
酒菜は二人分の飲料と検査具を受け取った。
「助かったぜ、リディア!」
「いえ。ただし、お酒の飲みすぎには注意してください」
「分かってるって!」
「……その返答は、少し信用できませんね」
「おいおい、ひでえな!」
酒菜が豪快に笑う。
リディアは表情をほとんど変えず、続けた。
「それと、酒菜」
「あん?」
「和真に無理をさせないでくださいね」
酒菜は一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと笑う。
「……ああ。分かってるよ」
「でしたら問題ありません。旅行、楽しんできてください」
「おう! ありがとな!」
酒菜は手を振り、研究室を後にした。
◇
旅行の前日。
和真は車の点検を終え、必要な荷物をまとめていた。
冬用タイヤへの交換も済ませ、道路の状況や天気予報も確認してある。
出発当日の状況次第では予定を変更することも考えていたが、今のところ大きな問題はなさそうだった。
「着替え、財布、充電器……よし」
一通り確認し、鞄の口を閉じる。
そこでスマートフォンが目に入った。
フェンリスとのやり取りは、相変わらず短い返事で止まっている。
和真はしばらく画面を眺めた。
旅行から戻ったら、もう一度話してみよう。
そう考えてスマートフォンを置く。
以前なら、旅行の準備をしているとフェンリスが興味津々で覗きに来たこともあった。
今夜も、その姿はない。
「……元気にしてるといいんだけどな」
小さく呟いたところで、部屋の扉が叩かれた。
「和真、いるか?」
「酒菜か。開いてるぞ」
扉を開けて入ってきた酒菜は、小さな旅行鞄を持っていた。
「お前、もう準備終わったか?」
「ああ。ほとんど済んだよ」
「そうか。明日は何時に出るんだっけな?」
「朝五時半くらいだな。少し余裕を持って出たい」
「了解。寝坊すんなよ」
「そっちこそな」
「俺が寝坊するわけねえだろ」
酒菜は胸を張った。
「毎朝誰が飯を作ってると思ってんだ?」
「それもそうか」
和真が笑うと、酒菜も口元を緩めた。
しかし、その視線が机の上に置かれたスマートフォンへ向く。
「……フェンリスか?」
「え?」
「また連絡してたんじゃねえのか?」
和真は少し驚いた。
「よく分かったな」
「お前、最近よく画面を見てるからな」
「……そんなに?」
「ああ」
酒菜は鞄を床に置いた。
「まだ会えてねえのか?」
「うん。何度か話そうとはしたんだけど、なかなかタイミングが合わなくてさ」
「そうか」
酒菜はそれ以上問い詰めなかった。
代わりに、和真の肩を軽く叩く。
「ま、今は旅行のこと考えとけ」
「……酒菜?」
「せっかく二人で出かけるんだ。余計なこと考えて、つまらねえ顔されたら困る」
そう言って、にやりと笑った。
「俺だって楽しみにしてんだからよ」
和真は少し目を見開いた。
そして、頷く。
「……そうだな。ごめん」
「謝ることじゃねえよ」
酒菜は鼻を鳴らした。
「とにかく、明日は腹空かせて来い。うまいもんを片っ端から食うぞ!」
「ははっ。そんなに食えるかな」
「食えなきゃ俺が食う!」
「頼もしいな」
「当たり前だ!」
いつもの豪快な笑い声が部屋に響いた。
◇
その夜。
酒菜は自室で旅行鞄の中身を確認していた。
着替えに日用品。
料理について書き留めるための小さな手帳と筆記具。
それから、リディアにもらったアルコール分解飲料。
「……よし」
酒菜は二人分の容器を丁寧に包み、検査具と一緒に鞄の奥へしまった。
和真にはまだ話していない。
明日の夜、旅館で地酒を楽しむ時にでも教えてやればいい。
酒菜はふと、先ほどの和真の顔を思い出した。
フェンリスのことを話していた時の、どこか寂しそうな表情。
最近は以前ほど元気がないようにも見える。
それに、みゆとも少し距離ができている気がしていた。
「……ったく」
酒菜は小さくため息をついた。
「あいつは自分のことになると、妙に不器用だからな」
いつも住人たちのことを気にかけているくせに、自分の悩みはなかなか口にしない。
困ったことがあれば手を貸し、誰かが落ち込んでいれば声をかける。
そんな和真が、最近は一人で何かを抱えているように見えた。
「……ま、いいか」
酒菜は寝台に腰を下ろした。
「せっかくの旅行だしな」
料理を学ぶのはもちろん楽しみだ。
知らない土地を歩き、初めての料理を食べ、新しい味を覚える。
それだけでも十分すぎるほど魅力的だった。
だが、酒菜にはもう一つ楽しみがある。
和真と二人で、ゆっくり話すことだ。
普段の母屋では、いつも誰かがいる。
賑やかで、騒がしくて、落ち着いて話す時間などなかなか取れない。
だからこそ、今回の旅行はいい機会だった。
「……たまには、あいつにも息抜きさせてやらねえとな」
酒菜は小さく笑い、明かりを消した。
明日は早い。
そして、きっと忙しい一日になる。
「楽しみにしてるぜ、和真」
そう呟くと、酒菜は布団に潜り込んだ。
翌朝から始まる二人旅。
飛騨の郷土料理と温泉。
そして、まだ二人とも知らない、少し特別な夜が待っていた。




