第四十七話 近くて、遠い距離
翌朝。
障子の向こうから差し込む柔らかな光が、和室を静かに照らしていた。
「……んん」
和真は布団の中で小さく寝返りを打った。
昨夜は随分と遅くまで起きていた。
ユエから受けた長い説教。
みゆやナディアとのこと。
そして、自分がこれまで、どれだけ相手の好意に甘えていたのか。
考えれば考えるほど、反省することばかりだった。
「……朝か」
ゆっくり身体を起こすと、窓際から声が聞こえてきた。
「おはよう、和真」
「……おはよう。早いな」
「もう七時半よ?」
「……結構寝たな」
「昨日は頭を使いすぎたんじゃない?」
「誰のせいだと思ってるんだよ……」
「あら、自業自得でしょ?」
ユエは楽しそうに笑った。
すでに身支度を整えた彼女は、窓際の椅子に腰掛け、温かいお茶を飲んでいる。
「ほら、そろそろ起きなさい。朝ご飯の時間になるわよ」
「はいはい……」
「返事は一回」
「はい」
「ふふっ。よろしい」
まるで昨日の説教の続きのようなやり取りに、和真は苦笑した。
「……なあ、ユエ」
「ん?」
「昨日はありがとうな」
その言葉に、ユエの手が止まった。
「……何よ、急に」
「いや、ちゃんと礼を言っておこうと思ってさ」
「お説教されたお礼?」
「まあ、そうなるな」
「変なの」
ユエは呆れたように笑った。
「私は言いたいことを言っただけよ?」
「それでも、俺にとっては必要なことだったと思う」
「……そう」
ユエは少しだけ表情を和らげた。
「だったら、これからちゃんと行動で示してね」
「ああ」
「それと、昨日のことを引きずって、今日まで暗い顔をするのはなしよ?」
「……え?」
「せっかくの旅行なんだから、今日は思いっきり楽しみたいの」
ユエは両手を腰に当て、和真を見つめた。
「昨日は昨日。今日は今日。分かった?」
「……分かったよ」
「よろしい!」
満足そうに頷いたユエは、窓の外へ目を向けた。
「今日はどこに連れていってくれるの?」
「昨日とは違う金沢を楽しもうと思ってる」
「あら、楽しみね!」
「まずは朝飯だな」
「ふふっ。そうね!」
二人は笑い合い、朝食会場へ向かった。
◇ ◇ ◇
朝食会場に入ると、窓際の席へ案内された。
大きな窓の向こうには、朝露に濡れた庭木が並んでいる。
十一月下旬の金沢。
外は随分と冷え込んでいるようだったが、暖かな室内には出汁の優しい香りが漂っていた。
「おはようございます。本日の朝食でございます」
仲居が二人の前に料理を並べていく。
炊きたてのご飯。
だし巻き卵。
加賀れんこんのきんぴら。
五郎島金時の甘煮。
そして、小ぶりながらも立派な焼き魚。
「わぁ……!」
ユエが嬉しそうに目を輝かせた。
「朝からすごく豪華ね!」
「本当だな。美味そうだ」
「こちらは、のどぐろの一夜干しでございます」
「のどぐろ?」
ユエが首を傾げた。
「はい。脂がよく乗った白身魚で、金沢でも人気のあるお魚でございます」
「へぇ……」
ユエは興味深そうに焼き魚を覗き込んだ。
こんがりと焼き色のついた皮。
ふっくらとした白身。
ほんのりと香ばしい匂いが漂っている。
「美味しそう……!」
「のどぐろって結構高級魚なんだぞ」
「そうなの?」
「ああ。白身魚なのに脂が乗ってて、すごく美味いらしい」
「そんなこと言われたら、ますます楽しみじゃない!」
仲居は微笑みながら、続いて汁椀を説明した。
「こちらは、石川県の郷土料理、めった汁でございます」
「めった汁?」
「はい。サツマイモや大根、ニンジン、豚肉などを入れた具だくさんのお味噌汁です」
「サツマイモ?」
「はい。本日は五郎島金時を使用しております」
ユエはますます興味を示した。
「お味噌汁にサツマイモを入れるのね」
「普通の豚汁とは少し違うんだな」
「ええ。サツマイモの甘みを楽しんでいただけるかと思います」
最後に季節の果物が添えられ、朝食の準備が整った。
「それでは、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
「ありがとうございます!」
仲居が離れると、ユエは待ちきれない様子で箸を手に取った。
「それじゃあ……」
「いただきます」
「いただきます!」
まずユエが箸を伸ばしたのは、のどぐろの一夜干しだった。
皮をそっと外し、ふっくらとした身を少しほぐす。
「……あっ」
一口食べた途端、ユエの目が大きく開かれた。
「……美味しい!」
「そんなにか?」
「うん! すごく柔らかいの!」
ユエは嬉しそうに和真を見つめた。
「それに、脂が乗ってるのに全然しつこくないわ!」
「へぇ……」
和真も一口食べてみる。
「……おお」
「ねっ!?」
「ああ。これは美味いな」
口の中でほどける白身。
程よい塩加減と、魚そのものの旨み。
炊きたてのご飯との相性も抜群だった。
「これ、朝から食べられるのは贅沢だなぁ」
「本当ね!」
ユエはご飯を一口食べ、幸せそうに頬を緩めた。
「……んふふ」
「なんだよ、その顔」
「だって、美味しいんだもの」
「分かりやすいな」
「美味しいものを食べてる時くらい、素直に喜んでいいでしょ?」
「まあ、そうだな」
和真は笑いながら、めった汁の椀を手に取った。
「こっちはどんな味なんだろうな」
「あっ、私も!」
二人は汁を一口飲んだ。
「……あ」
ユエが小さく声を漏らす。
「普通のお味噌汁より、少し甘い?」
「そうだな。サツマイモの甘みかな」
「へぇ……!」
ユエは具の中からサツマイモを見つけ、箸で持ち上げた。
「これが五郎島金時なのね」
「そうらしいな」
口へ運ぶと、ほくほくとした食感が広がった。
「……美味しい!」
「またそれか」
「だって美味しいんだから仕方ないじゃない!」
ユエは少し頬を膨らませた。
「それに、お味噌汁にサツマイモを入れるなんて思いつかなかったわ」
「地域によって結構違うからな」
「そうなの?」
「ああ。味噌の種類も具材も、場所によって違うんだ」
「へぇ……日本の料理って面白いわね」
ユエはもう一度、めった汁を味わった。
「これ、酒菜に教えたら作ってくれないかしら?」
「材料さえあれば作れると思うぞ」
「じゃあ、帰ったらお願いしてみようかな」
「その前に、せっかくだし自分で作ってみたらどうだ?」
「……和真も手伝ってくれる?」
「えっ?」
「だって、私一人じゃちゃんと再現できるか分からないもの」
「……まあ、一緒に作るくらいなら」
「決まりね!」
ユエは満足そうに笑った。
続いて、加賀れんこんのきんぴらへ箸を伸ばす。
「……あら?」
「どうした?」
「このれんこん、普通のものより少しもちもちしてない?」
「そうか?」
「うん。シャキシャキしてるのに、噛んでると少し粘りがある感じ」
和真も食べてみた。
「……確かに」
「面白い食感ね」
「加賀れんこんは粘りが強いらしいからな」
「そうなのね!」
ユエは感心した様子で頷いた。
「同じ野菜でも、育つ場所で違うものなのね」
「そうだな」
「……ねえ、和真」
「ん?」
「今回の旅行、食べてばっかりじゃない?」
「……今さら気づいたのか?」
「もう!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その後もだし巻き卵や五郎島金時の甘煮を味わい、最後に季節の果物を食べ終えた。
「……はぁ」
ユエが幸せそうに息を吐く。
「お腹いっぱい……」
「朝から随分食べたな」
「全部美味しかったんだもの」
「昼飯、食べられるか?」
「もちろん!」
「即答かよ」
「旅行中の食事は特別なの!」
「便利な言葉だなぁ……」
和真は呆れながらも笑った。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた二人は部屋へ戻り、荷物をまとめた。
「忘れ物はないか?」
「大丈夫よ」
「スマホは?」
「あるわ」
「財布は?」
「あるってば」
「充電器は?」
「……和真」
「ん?」
「それ、自分のはちゃんと片付けたの?」
「もちろん」
「本当に?」
「……ちょっと確認してくる」
「ふふっ。もう!」
ユエは笑いながら、鞄の中身を確かめた。
昨日の金箔体験で作り、和真と交換した小皿も、緩衝材に包まれて大切にしまわれている。
「……よし」
「どうした?」
「お皿、割れないようにしておかないとね」
「ああ。せっかく作ったんだからな」
「ふふっ。帰ったら飾るんだ」
「使わないのか?」
「もったいないじゃない!」
「皿なのに?」
「いいの! 思い出なんだから!」
ユエは大切そうに小皿の包みをしまった。
和真も自分の鞄を閉じ、部屋の中を見渡す。
「……よし。忘れ物なし」
「今度こそ?」
「ああ」
「ふふっ。じゃあ、行きましょう!」
二人はチェックアウトを済ませ、荷物を預けて観光へ出かけることにした。
旅館の従業員に見送られながら外へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
「……さむっ!」
「昨日より冷えるな」
「金沢って、こんなに寒いのね……」
「もう十一月下旬だからな」
「分かってるけど、寒いものは寒いの!」
ユエはマフラーに顔を埋めた。
和真はそんな彼女を見て、近くの自動販売機へ向かった。
「ほら」
「……え?」
「温かいお茶」
差し出された缶を受け取ると、ユエは両手で包み込んだ。
「……あったかい」
「手袋も買っておけばよかったな」
「本当ね。ちょっと油断してたわ」
「風邪引くなよ?」
「分かってるわよ」
ユエは缶を頬に当てながら、小さく微笑んだ。
「……ありがとね、和真」
「どういたしまして」
二人は温かいお茶を飲みながら、ゆっくりと歩き出した。
◇ ◇ ◇
しばらく歩くと、町の景色が変わり始めた。
大きな建物が減り、土塀に囲まれた細い道が続いている。
水路には澄んだ水が流れ、昔ながらの建物が静かに並んでいた。
「……わぁ」
ユエが思わず足を止めた。
「すごい……」
「雰囲気あるなぁ」
「昨日の茶屋街とは全然違うわね」
「ああ。こっちは武士たちの町だったからな」
長町武家屋敷跡。
かつて加賀藩の武士たちが暮らしていた地域で、今も昔ながらの町並みが残されている。
ユエは興味深そうに周囲を見渡した。
「この塀、何かで覆われてるわね」
「ああ。冬の雪や風から守るためのものらしいぞ」
「へぇ……」
薦掛けの施された土塀。
落ち着いた色合いの屋敷。
ひっそりとした小道。
十一月下旬の冷たい空気が、その静かな町並みによく似合っていた。
「……綺麗」
ユエは小さく呟いた。
「なんだか、時間がゆっくり流れてるみたい」
「分かる気がする」
「ねえ、和真。写真撮って!」
「いいぞ」
和真はスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、そこに立ってくれ」
「ここ?」
「もう少し右かな」
「こう?」
「ああ。いい感じ」
ユエは土塀を背景に立ち、少し身体を斜めに向けた。
片手で髪を押さえ、柔らかく微笑む。
「撮るぞー」
「はーい!」
カシャッ。
「どう?」
「……おお、いい写真だな」
「本当?」
「ああ。ほら」
画面を覗き込んだユエは、嬉しそうに目を細めた。
「……ふふっ。気に入ったわ」
「もう一枚撮るか?」
「それより、今度は和真も一緒に!」
「俺も?」
「当たり前でしょ。二人で旅行してるんだから」
近くにいた観光客にお願いし、二人は並んで写真を撮ってもらうことにした。
「もう少し寄っても大丈夫ですよ」
撮影を頼まれた女性が、笑顔で声をかけてくれた。
「あ、はい」
「ふふっ」
ユエは楽しそうに笑い、和真の隣へ一歩近づいた。
「ほら、和真。笑って」
「笑ってるだろ」
「顔が硬いわよ?」
「急に言われてもな……」
「いつもみたいにすればいいのに」
そんなやり取りの途中で、シャッターが切られた。
「はい、撮れましたよ!」
「ありがとうございます!」
画面を確認すると、少し困ったように笑う和真と、楽しそうに微笑むユエが写っていた。
「あははっ! 和真、ちょっと変な顔!」
「おい、誰のせいだと思ってるんだ」
「いいじゃない。自然な感じで」
「……まあ、そうだな」
「私、この写真好きよ」
ユエは嬉しそうに画面を見つめた。
その後、二人は一般公開されている武家屋敷、野村家を見学することにした。
靴を脱いで中へ入ると、古い木の香りが漂ってくる。
磨かれた廊下。
障子越しに差し込む柔らかな光。
美しい襖絵。
そして、当時の武士たちの暮らしを感じさせる展示品。
「へぇ……」
ユエは一つ一つを興味深そうに眺めていった。
「昔の人たちは、こういう家で暮らしてたのね」
「立派な屋敷だよな」
「この襖の絵、すごく綺麗」
「昔の職人って本当にすごいよな」
二人はゆっくりと奥へ進み、庭園の見える場所へ出た。
「……わぁ」
ユエの口から感嘆の声が漏れた。
庭には苔むした石や木々が配置され、小さな池には静かな水面が広がっていた。
ところどころに残った紅葉が、冬の訪れを感じさせる。
「綺麗……」
「すごいな」
「こんなお庭、家にあったら素敵ね」
「管理が大変そうだけどな」
「もう、和真ってば現実的なんだから」
「実際、庭の手入れって結構大変なんだぞ?」
「分かってるわよ。でも、こういう景色を眺めながらお茶を飲むのって憧れない?」
「……それは分かる」
ユエは満足そうに笑った。
しばらく二人で庭を眺めていると、ユエがぽつりと呟いた。
「……不思議ね」
「ん?」
「この世界に来てから、いろんなものを見てきたけど……まだまだ知らないものばかり」
ユエは庭の木々を見つめた。
「同じ国なのに、場所が変わるだけで景色も文化も全然違うのね」
「ああ。日本だけでも面白いところはたくさんあるからな」
「……もっといろんな場所へ行ってみたいわ」
「いいんじゃないか?」
「ふふっ。じゃあ、これからも案内してもらわないとね」
「俺も知らない場所ばかりだけどな」
「一緒に調べればいいじゃない」
「……それもそうだな」
ユエは嬉しそうに微笑んだ。
見学を終えた二人は、武家屋敷の周辺をもう少し散策した。
小さな水路を覗き込んだり、古い建物を眺めたり。
途中、昔ながらの格子戸が残る建物を見つけると、ユエは和真の袖を軽く引いた。
「ねえ、あれも写真に撮りたい!」
「分かった分かった」
「ふふっ。お願いね!」
和真は笑いながらスマートフォンを構えた。
昨日とは違う景色。
昨日とは違う表情。
二人の写真は、少しずつ増えていった。
◇ ◇ ◇
正午を過ぎた頃。
二人は昼食を取るため、飲食店の並ぶ通りへ向かった。
「さて、昼飯はどうする?」
「何か金沢らしいものがいいわね」
「だったら、金沢おでんはどうだ?」
「……おでん?」
「ああ。金沢はおでんも有名なんだ」
「へぇ! おでんって地域によって違うの?」
「具材も出汁も違うらしいぞ」
「面白そう!」
和真が調べておいた店へ向かうと、ちょうど席に空きがあった。
店内へ入ると、大きな鍋から湯気が立ち上っている。
出汁の香りが漂い、冷えた身体を優しく包んでくれるようだった。
「……いい匂い」
「温まりそうだな」
二人はカウンター席へ案内された。
目の前には、出汁の中で煮込まれた様々な具材が並んでいる。
「わぁ……!」
ユエは目を輝かせた。
「種類がいっぱいあるのね!」
「そうだな。何にする?」
「……迷うわね」
メニューには、大根や卵といった定番の具材のほか、車麩やバイ貝、赤巻などが並んでいた。
「……和真」
「ん?」
「この車麩って何?」
「麩の一種だな。輪っかみたいな形をしてるやつ」
「へぇ……」
「出汁が染み込んでて美味いらしいぞ」
「じゃあ、それ!」
ユエは嬉しそうに注文した。
和真もいくつか具材を選び、二人分のおでんが運ばれてくる。
「いただきます!」
ユエは早速、車麩へ箸を伸ばした。
出汁をたっぷり吸った車麩は、持ち上げると少し揺れるほど柔らかそうだった。
「……あつっ!」
「おい、大丈夫か?」
「……あつい!」
「そりゃ熱いだろ。今、鍋から出したばかりなんだから」
「分かってるわよ!」
ユエは慌てて息を吹きかけた。
「ふーっ……ふーっ……」
十分に冷ましてから、もう一度口へ運ぶ。
「……ん!」
「どうだ?」
「美味しい!」
ユエは嬉しそうに目を細めた。
「すっごく出汁が染み込んでる!」
「へぇ、俺も食べてみようかな」
「うん! おすすめ!」
和真も車麩を一口食べた。
「……本当だな」
「でしょ!?」
「思ってた以上に出汁を吸ってるな」
「噛むとじゅわって広がるの!」
ユエは楽しそうに笑った。
続いて、バイ貝へ箸を伸ばす。
「これ、貝なのよね?」
「ああ」
「おでんに貝を入れるなんて、ちょっと珍しいわね」
「金沢では定番らしいぞ」
ユエは慎重に身を取り出し、一口食べた。
「……あら」
「どうした?」
「歯ごたえがあるのね」
「美味いか?」
「うん! 噛むほど味が出てくる感じ!」
「それならよかった」
その後も大根や卵、赤巻などを味わった。
透き通った出汁は優しい味わいで、具材ごとの違いを楽しめる。
「……はぁ」
ユエが幸せそうに息を吐いた。
「美味しい……」
「温まるなぁ」
「うん。寒い日に食べるおでんって最高ね」
「そうだな」
ユエは大根を一口食べ、満足そうに微笑んだ。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「これも帰ったら作ってみたいわ」
「おっ、いいんじゃないか?」
「ふふっ。今度はみんなでおでんにしましょうよ」
「それなら大きな鍋が必要だな」
「酒菜にも相談してみましょう」
「ああ」
しばらく食事を楽しんだあと、ユエがふと思い出したように顔を上げた。
「……そういえば」
「ん?」
「今朝のめった汁も作る約束したわよね?」
「そうだったな」
「それに、昨日食べた治部煮も美味しかったし……」
「……おいおい」
「ふふっ。しばらく金沢料理が続きそうね」
「みんなが飽きなきゃいいけどな」
「大丈夫よ。どれも美味しいんだから!」
楽しそうに笑うユエを見て、和真もつられて笑った。
◇ ◇ ◇
一方、その日の午後。
アパートから少し離れた酒屋では、フェンリスが商品の補充をしていた。
「……よいしょ」
段ボール箱を持ち上げ、棚に商品を並べていく。
いつもなら何でもない作業。
けれど、今日は妙に身体が重かった。
「……ふぅ」
額の汗を拭い、次の箱へ手を伸ばす。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
みゆから聞かされた話。
和真と、みゆが男女の仲になったこと。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
みゆは悪くない。
そんなことは分かっている。
ずっと和真のことが好きだったのも知っている。
だから、嬉しかった。
祝福してあげたかった。
本当に。
心から。
それなのに。
「…………」
フェンリスの耳が力なく伏せられた。
みゆが嬉しそうに話してくれた時。
自分も笑おうとした。
おめでとうと言えた。
それなのに、涙が止まらなかった。
「……駄目だよね」
小さく呟く。
「みゆは……何も悪くないのに……」
フェンリスは目元を擦った。
仕事中に泣くわけにはいかない。
今は、目の前の仕事に集中しなければ。
そう思っていた時だった。
「フェンリス!」
「……え?」
聞き覚えのある声。
振り返った先に立っていたのは、入院していた店長だった。
「……店長!?」
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
「えっ!? 退院したの!?」
「ああ。ようやくな」
「本当に!?」
フェンリスは驚き、思わず駆け寄った。
「よかったぁ! もう大丈夫なの!? 怪我は!?」
「おいおい、そんなに一気に聞くなって」
「あっ、ご、ごめん!」
店長は笑いながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
まだ身体を動かすのがつらいらしく、その動作は慎重だった。
「ずいぶん迷惑かけたな」
「そんなことないよ!」
「俺がいない間、随分頑張ってくれたんだろ?」
「……うん。でも、他のみんなも頑張ってたから」
「それでもだ。ありがとうな」
「……えへへ」
フェンリスは照れくさそうに笑った。
久しぶりに、心から嬉しいと思えた。
店長が帰ってきた。
これで、ようやく。
少しは仕事も落ち着くかもしれない。
休みだって取れるかもしれない。
そして。
和真との旅行も。
「あのさ、店長!」
「ん?」
「もう、お仕事できるの?」
その問いに、店長は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「……それがな」
「……え?」
「退院はできたんだが、まだ完全には治ってないんだ」
「……そうなの?」
「ああ。医者からも、しばらくは無理をするなって言われてる」
店長は自分の身体に視線を落とした。
「長い時間立ってるのも厳しいし、重い物なんて当分持てそうにない」
「…………」
「事務仕事くらいは少しずつできると思うんだが……以前みたいに働けるようになるには、もうしばらくかかりそうだ」
店長は深く息を吐いた。
「本当に申し訳ない。もう少しみんなに頼ることになりそうだ」
フェンリスは慌てて首を振った。
「そ、そんなことないよ!」
「フェンリス……」
「怪我が治るまでは無理しちゃ駄目だよ! また入院することになったら大変だもん!」
「……そうだな」
「うん! だから、今はちゃんと休んで!」
フェンリスは明るく笑った。
「僕、まだまだ頑張れるから!」
店長はその言葉に、少しだけ眉を寄せた。
「……お前も無理するなよ?」
「大丈夫だよ!」
「最近、休みも少ないだろ?」
「平気、平気!」
「……本当か?」
「うん!」
店長は心配そうにフェンリスを見つめた。
「忙しいのは分かるが、きつかったら遠慮なく言ってくれ。人手のことも何とか考えるから」
「ありがとう、店長!」
フェンリスは笑顔で頷いた。
そして、再び仕事へ戻っていった。
けれど。
店長の姿が見えなくなったところで、ふと足を止めた。
「……そっか」
小さく呟く。
「……まだ、休めないんだ」
和真との旅行。
ずっと楽しみにしていた。
果物狩りに行こうと約束した日から、何度も何度も考えた。
どんな服を着て行こう。
どんな写真を撮ろう。
どんな顔で和真の隣を歩こう。
いつか、二人きりで旅行に行ける。
その日を楽しみに、頑張ってきた。
でも。
今は、少し怖かった。
和真と二人きりになった時、自分はちゃんと笑えるだろうか。
みゆのことを考えずにいられるだろうか。
何も知らなかった頃みたいに、素直に甘えられるだろうか。
ふと、旅行へ出発する前のことを思い出した。
久しぶりに聞いた和真の声。
扉を開けた時、目の前に立っていた和真。
会えてよかったと言ってくれたこと。
あの時は、本当に嬉しかった。
もう少し話したかった。
できることなら、ずっとそばにいたかった。
けれど、今は。
「…………」
フェンリスは胸元をぎゅっと握った。
「……分かんないよ」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
和真とユエは、金沢21世紀美術館を訪れていた。
「……わぁ!」
建物を目にしたユエが、驚いたように声を上げた。
「これが美術館なの?」
「ああ。面白い建物だろ?」
「うん! なんだか未来の建物みたい!」
円形の建物には大きなガラス窓が並び、周囲には様々な作品が展示されている。
昨日見た歴史ある町並みとは、まるで違う雰囲気だった。
「昨日は昔の金沢を見て、今日は現代の金沢って感じね」
「そうだな」
「ふふっ。こういうのも面白いわ」
二人は敷地内をゆっくりと歩き始めた。
屋外に設置された作品の前で、ユエが足を止める。
「ねえ、和真!」
「ん?」
「これ、何かしら?」
「作品だと思うけど……」
「それは分かってるわよ!」
ユエは笑いながら、色鮮やかなガラスのような壁を見つめた。
角度によって見える色が変わり、向こう側の景色まで違って見える。
「……不思議」
ユエは一歩横へ移動した。
「……あっ!」
「どうした?」
「見て! こっちからだと色が違う!」
「本当だ」
「和真、そっちに立ってみて!」
「ここか?」
「もう少し右!」
「こう?」
「うん!」
ユエはスマートフォンを構えた。
「そのまま動かないでね!」
「はいはい」
カシャッ。
「……ふふっ」
「どうした?」
「和真の顔、変な色になってる!」
「おい!」
「あははっ!」
今度は和真がユエを撮影した。
色のついた壁越しに見るユエは、普段とは少し違った雰囲気に見えた。
「……へぇ」
「どう?」
「面白い写真になったな」
「見せて!」
ユエは画面を覗き込み、楽しそうに笑った。
「本当ね! これ、結構好きかも!」
その後も二人は館内の展示を見て回った。
大きな空間を使った作品。
光と影を利用した作品。
日常で見慣れたものを、まったく違う形で表現した作品。
ユエは一つ一つの前で立ち止まり、興味深そうに眺めていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「美術って、正解があるのかしら?」
「正解?」
「うん。ほら、こういう作品って、人によって見え方が違うでしょ?」
「そうだな」
「私には綺麗に見えても、別の人には変わって見えるかもしれないし……」
ユエは目の前の作品を見つめた。
「それでも、どっちも間違いじゃないのよね?」
「……そうかもな」
和真も作品へ視線を向けた。
「作った人の考えはあるんだろうけど、どう感じるかは見る人の自由なんじゃないか?」
「……ふふっ」
「ん?」
「和真にしては、いいこと言うじゃない」
「俺にしてはって何だよ」
「褒めてるのよ?」
「全然そう聞こえないんだけど」
ユエは楽しそうに笑った。
そして、もう一度作品へ目を向けた。
「……でも、いいわね」
「何が?」
「同じものを見ても、違う感じ方ができるって」
ユエは穏やかに微笑んだ。
「だから、誰かと一緒に見るのも楽しいのね」
「……確かにな」
二人はその後も、気になった作品について感想を言い合いながら、美術館を楽しんだ。
和真にはよく分からなかった作品を、ユエが気に入ることもあった。
逆に、和真が面白いと思った作品を、ユエが不思議そうに眺めることもあった。
その違いさえも、二人にとっては楽しい時間だった。
◇ ◇ ◇
美術館を出る頃には、午後も随分と過ぎていた。
「……はぁ」
ユエが満足そうに息を吐いた。
「楽しかったぁ!」
「思ってた以上に見応えがあったな」
「うん! もっと難しいものだと思ってたけど、結構面白かったわ」
「そうだな」
「……ねえ、和真」
「ん?」
「ちょっと休憩しない?」
「いいぞ。結構歩いたしな」
二人は近くの喫茶店へ入った。
落ち着いた店内には、香ばしいお茶の香りが漂っている。
「……いい匂い」
「加賀棒茶があるみたいだぞ」
「加賀棒茶?」
「お茶の茎を焙じたものらしい」
「へぇ……普通のほうじ茶とは違うのね」
「飲んでみるか?」
「うん!」
二人は温かい加賀棒茶を注文した。
ユエは五郎島金時を使った小さなタルトも頼み、和真は思わず苦笑した。
「……さっきお腹いっぱいって言ってなかったか?」
「甘いものは別腹よ」
「今朝もそんなこと言ってただろ」
「旅行中は特別なの!」
「……またそれか」
やがて温かいお茶が運ばれてきた。
ユエは湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと香りを楽しんだ。
「……いい香り」
「香ばしいな」
一口飲むと、ユエはほっとしたように息を吐いた。
「……美味しい」
「落ち着くなぁ」
「うん。身体が温まるわ」
窓の外では、観光客が厚手の上着を着て行き交っている。
二人は温かいお茶を飲みながら、今日撮った写真を見返した。
「見て、和真。これ!」
「……武家屋敷の写真か」
「ふふっ。いい感じに撮れてるわね」
「そうだな」
「こっちは美術館の時!」
「……また変な顔のやつか」
「そうよ!」
「そんなに気に入ったのか?」
「だって面白いんだもの!」
ユエは楽しそうに笑いながら、次の写真を表示した。
二人で食べた金沢おでん。
土塀の前で撮ったツーショット。
美術館の不思議な作品。
そして、少し困ったように笑う和真と、嬉しそうに微笑むユエの写真。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「私、この旅行に来られてよかったわ」
「……そうか」
「うん」
ユエは画面を見つめながら微笑んだ。
「いろんな景色を見て、美味しいものを食べて、一緒に笑って……」
そこで少し言葉を切る。
「こういう時間って、いいわね」
「……そうだな」
「特別なことをしなくても、一緒に笑って過ごせるだけで楽しいもの」
和真は湯呑みを置き、ユエを見た。
「俺も楽しかったよ」
「……ふふっ」
ユエは嬉しそうに目を細めた。
「なら、よかったわ」
昨日の夜とは違う、穏やかな時間。
二人はしばらく温かいお茶を飲みながら、旅の余韻を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
夕方。
二人は預けていた荷物を受け取り、金沢駅へ戻ってきた。
「……もう帰るのね」
「ああ。あっという間だったな」
「本当にね」
ユエは少し名残惜しそうに周囲を見渡した。
「まだまだ見たいところがあったのに」
「一泊二日じゃ全部回るのは難しいな」
「……また来たいわ」
「いいんじゃないか? 季節が変われば景色も違うだろうし」
「そうね! 春の金沢も綺麗そう!」
「桜の季節とかな」
「ふふっ。楽しみが増えちゃったわね」
二人は駅構内の土産物店を回った。
「これ、酒菜にどうかしら?」
ユエが手に取ったのは、金沢らしい模様が描かれた箸置きだった。
「いいんじゃないか? 食卓で使えそうだし」
「そうね。じゃあ、これにしましょう」
「みゆには……こっちかな」
「猫の柄?」
「ああ。好きそうだろ?」
「ふふっ。確かに」
二人は住人たちの顔を思い浮かべながら、土産物を選んでいった。
ピピにはお菓子。
ひかげには落ち着いた色合いの小物。
あおいには和菓子。
リディアには金箔を使った文房具。
そして、みんなで食べられる菓子折りもいくつか購入した。
「……結構買ったな」
「人数が多いもの。仕方ないわよ」
「まあな」
和真は笑いながら、袋を持ち直した。
その時だった。
「……あ」
小さな動物の根付が並ぶ棚に、和真の目が留まった。
猫。
ウサギ。
キツネ。
その中に、一匹の狼がいた。
銀色の身体に、丸く愛嬌のある目。
「……これ」
「どうしたの?」
「いや、フェンリスに似合いそうだなって」
和真は小さな狼の根付を手に取った。
「可愛いわね」
「ああ。あいつ、こういうの好きそうだし」
指先で根付を軽く揺らす。
小さな狼の姿を見ていると、フェンリスが嬉しそうに尻尾を振る様子が浮かんできた。
「……ふっ」
「どうしたの?」
「いや、これ見せたらどんな反応するかなって」
「ふふっ。きっと喜ぶわよ」
「だといいな」
和真は根付を籠に入れた。
ユエはその様子を見ながら、小さく口を開いた。
「……そういえば、最近フェンリスを見かけないわね」
「ああ……仕事が忙しいみたいなんだ」
「そうみたいね」
「出発する前に久しぶりに会えたんだけどさ」
和真は少しだけ笑った。
「あいつ、寝起きで驚いてたな」
「……そうなの?」
「ああ。俺が部屋に来ると思ってなかったみたいで」
出発前の朝。
久しぶりに聞いたフェンリスの声。
驚きながら扉を開けた姿。
少し気まずそうにしていたが、最後には嬉しそうに笑ってくれた。
『僕も、和真に会えて嬉しい』
あの言葉が、ふと思い出された。
「……帰ったら、また会いに行ってみるか」
「……うん」
「お土産も渡したいし、旅行の話もあるからな」
ユエは和真の横顔を見つめた。
「……そうね。それがいいと思うわ」
「だよな」
和真は狼の根付を購入した。
店員から小さな紙袋を受け取ると、他の土産物とは分けて鞄の内ポケットへしまった。
「……よし」
「随分大事そうにしまうのね」
「他の荷物に潰されたら嫌だろ?」
「ふふっ。そうね」
ユエはそれ以上何も言わず、和真と一緒に店を出た。
◇ ◇ ◇
買い物を終えた二人は、帰りの新幹線へ向かった。
座席に腰を下ろすと、ユエが大きく息を吐いた。
「はぁぁ……楽しかったわぁ」
「満喫したな」
「うん!」
ユエはスマートフォンを取り出し、再び写真を見返し始めた。
「ねえ、和真」
「ん?」
「また一緒に出かけましょうね」
「もちろん」
「……ふふっ」
「今度はどこがいい?」
「そうねぇ……」
ユエは少し考えたあと、楽しそうに笑った。
「それは帰ってからゆっくり考えるわ」
「分かった」
「……あ、それと」
「ん?」
「次の旅行では、もうお説教させないでよ?」
「……善処します」
「そこは約束しなさい!」
二人は笑い合った。
やがて新幹線が動き始める。
夕暮れの金沢の町並みが、ゆっくりと遠ざかっていった。
しばらくすると、ユエは座席に身体を預けた。
「……ちょっと眠くなってきたわ」
「結構歩いたからな」
「少し寝てもいい?」
「いいぞ。乗り換えの時に起こすよ」
「ありがと……」
ユエは目を閉じた。
やがて、静かな寝息が聞こえてくる。
和真はそんな彼女を横目に見て、小さく笑った。
「……お疲れさん」
そして、自分も窓の外へ視線を戻した。
楽しかった二日間。
撮った写真もたくさんある。
帰ったら、みんなに土産話をしよう。
そんなことを考えていると、ふと足元の土産袋が目に入った。
和真は鞄を開き、先ほど買った小さな袋を取り出した。
銀色の狼の根付。
袋の中を確認すると、もう一度丁寧にしまい直す。
「……よし」
そして、スマートフォンを取り出した。
フェンリスとのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは、旅行へ出発する前のものだった。
しばらく画面を見つめてから、和真は短い文章を打ち込んだ。
『今日帰るよ。お土産も買ったから、楽しみにしててな』
送信すると、スマートフォンを膝の上に置いた。
数分後。
何気なく画面を確認する。
まだ返事はない。
「……仕事中だもんな」
和真は小さく呟き、スマートフォンをポケットへしまった。
窓の外には、夕暮れの景色が流れていた。
◇ ◇ ◇
夜。
長い帰路を終え、二人はようやく空色唐辛子荘へ帰ってきた。
「ただいまー!」
「ただいま!」
和真とユエが母屋へ顔を出すと、真っ先にピピが飛び出してきた。
「おかえりー!!」
「おっと!」
勢いよく駆け寄ってくるピピに、和真は思わず笑った。
「ねえねえ! 金沢どうだった!? 楽しかった!?」
「ああ。すごく楽しかったよ」
「いいなぁ! 写真見せて!」
「あとでな。お土産も買ってきたぞ」
「やったー!」
ピピの声に釣られ、他の住人たちも集まってきた。
「おかえり、和真」
「ただいま、みゆ」
みゆはいつものように笑った。
けれど、和真に飛びつくことはなかった。
「旅行、楽しかった?」
「ああ。金沢はいいところだったよ」
「そっか。よかったね」
「みゆにも土産があるぞ」
「えっ、本当?」
「猫の柄の小物、見つけたからさ」
「えへへ……ありがと」
みゆは嬉しそうに笑った。
しかし、その表情には少しだけ寂しさも混じっていた。
昨夜。
フェンリスに話したこと。
何度も泣きながら、自分を祝福してくれたこと。
あの姿が、今も忘れられない。
和真と過ごした幸せな時間を、フェンリスに隠したくなかった。
だから話した。
けれど。
あんなにも傷つけてしまうなんて。
「……みゆ?」
「ん?」
「どうかしたか?」
「ううん。何でもないよ」
みゆは小さく首を振った。
「おかえり、和真」
「……ああ。ただいま」
その後、和真とユエは土産物を配りながら、旅行中の出来事を話した。
金沢の町並み。
美味しかった料理。
昨日の金箔貼り体験。
そして、今日訪れた武家屋敷や美術館。
ユエが和真からもらった小皿を見せると、みんなが興味津々で覗き込んだ。
「へぇー! すごい!」
「これ、和真が作ったの!?」
「そうよ」
「へぇ! 綺麗だね!」
「ふふっ。私の宝物よ」
ユエは嬉しそうに笑った。
ピピが撮影した写真を次々と見せてほしいとねだり、あおいも興味深そうに画面を覗き込んでいる。
ひかげは静かに笑いながら、時折写真について質問していた。
賑やかな声が母屋に響く。
和真も楽しそうに旅行の思い出を話していた。
けれど、ふと入口の方へ目を向けた。
誰かが入ってきたわけではない。
住人たちは皆、目の前の写真に夢中になっている。
「…………」
和真は再び皆の方へ向き直った。
「それで、このおでんがさ……」
そう言いながら金沢おでんの写真を見せる。
しばらくすると、また何気なく顔を上げた。
「……そういえば、フェンリスは?」
その問いに、酒菜が答えた。
「まだ仕事だよ」
「……まだ?」
「ああ。今日も遅くなるって連絡が来てる」
「そっか……」
「最近ずっとあんな調子だね。朝も早いし、帰りも遅い。夕飯もいらないって言ってくるしさ」
「……そうなのか」
和真は少し考え込んだ。
出発前には、久しぶりに顔を合わせることができた。
あの時は、帰ってきたらまた話せるだろうと思っていたのだが。
「……ちょっと様子を見てくるよ」
「ん? まだ帰ってないと思うよ?」
「分かってる。帰ってきてるかもしれないし、部屋だけ確認してくる」
「そうかい」
和真は鞄の中から、小さな袋を取り出した。
金沢で買った、銀色の狼の根付。
「これ、渡したかったんだけどな」
そう呟き、母屋を後にした。
その後ろ姿を、みゆは黙って見つめていた。
「……みゆ?」
ユエが小さく声をかける。
「……ん?」
「どうかしたの?」
「……ううん」
みゆは首を横に振った。
「何でもないよ」
そう答えながらも、視線は和真が出ていった扉に向けられたままだった。
◇ ◇ ◇
和真はアパートまでの道を歩き、フェンリスの部屋の前で立ち止まった。
コンコン。
「フェンリス?」
返事はない。
もう一度、軽く扉を叩く。
「……フェンリス、いるか?」
やはり、返事はなかった。
「……まだ仕事か」
和真は小さく息を吐いた。
旅行へ出発する日の朝。
久しぶりにフェンリスと顔を合わせることができた。
あの時、フェンリスは驚きながらも、自分に会えて嬉しいと言ってくれた。
和真も、久しぶりに顔が見られて嬉しかった。
けれど、ゆっくり話す時間はなかった。
「……せっかく会えたんだし、帰ったらちゃんと話したかったんだけどな」
和真は手に持った小さな袋へ目を落とした。
中には、金沢で買った銀色の狼の根付が入っている。
「……喜んでくれるかな」
旅行の話を聞かせてやりたい。
フェンリスの仕事の話も聞きたい。
それに、延期になった二人の旅行についても、そろそろ相談したかった。
「……それにしても、働きすぎじゃないか?」
出発前に見たフェンリスの顔を思い出す。
久しぶりに会えて嬉しかったが、少し疲れているようにも見えた。
あの後も変わらず働いているのだろう。
「……明日、もう一度来てみるか」
和真はスマートフォンを取り出した。
『ただいま。旅行から帰ってきたよ。出発前は久しぶりに会えて嬉しかった。お土産も買ってきたから、時間がある時に渡したいんだけど、どうかな? 仕事も無理するなよ』
メッセージを送り、もう一度扉を見つめる。
しばらく返事を待ってみたが、スマートフォンが鳴ることはなかった。
「……また明日な」
そう呟き、和真はその場を離れた。
母屋へ戻る途中、スマートフォンを確認する。
まだ通知はない。
ポケットへしまい、数歩進んだところで、もう一度取り出した。
「……まあ、仕事中だもんな」
今度こそスマートフォンをしまい、和真は母屋へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
その頃。
フェンリスはまだ酒屋にいた。
「……よし、これで終わりかな」
最後の片付けを済ませ、時計を確認する。
すでに閉店時間は過ぎていた。
「フェンリス、もう上がっていいぞ」
「あっ、はーい!」
同僚の声に返事をし、フェンリスは更衣室へ向かった。
制服を着替え、鞄を手に取る。
「……疲れたぁ」
思わず口から漏れた言葉。
身体は重く、足にも疲れが溜まっていた。
それでも、今日は店長が帰ってきた。
嬉しいこともあったのだ。
「……もう少し、頑張ろう」
そう自分に言い聞かせ、店を後にした。
冷たい夜風が頬を撫でる。
アパートへ向かう道を、一人で歩く。
途中、スマートフォンの通知に気づいた。
「……あ」
和真からのメッセージ。
「……和真」
立ち止まり、画面を開いた。
旅行から帰ってきたこと。
自分へのお土産を買ってくれたこと。
心配してくれていること。
そして。
『出発前は久しぶりに会えて嬉しかった』
その一文を、何度も読み返した。
「……僕もだよ」
小さく呟いた。
「僕も……すごく嬉しかった……」
久しぶりに会えた時。
和真の顔を見た途端、胸がいっぱいになった。
あんなに嬉しかったのに。
今は、その顔を思い出すだけで涙が出そうになる。
「……っ」
フェンリスはスマートフォンを胸に抱いた。
和真に会いたい。
声を聞きたい。
頭を撫でてほしい。
いつものように笑ってほしい。
けれど。
みゆの顔が浮かんだ。
嬉しそうに話してくれたこと。
自分の涙を見て、何度も謝ってくれたこと。
そして。
和真とみゆが、自分の知らないところで結ばれていたこと。
「……うぅ」
胸が苦しい。
みゆの幸せを喜びたい。
和真にも笑っていてほしい。
でも、自分だって。
自分だって、ずっと。
「……会いたいよぉ……」
小さな声が漏れた。
しばらく立ち尽くしたあと、フェンリスはゆっくりと文字を打ち始めた。
『おかえり! 旅行楽しかった? 僕も出発前に会えて嬉しかったよ! お土産ありがとう! でも、しばらく仕事が忙しいから、落ち着いたら取りに行くね!』
何度か読み返す。
いつもの自分らしい、明るい文章。
これなら、きっと和真も安心してくれる。
そう思い、送信した。
「……ごめんね」
小さな声が、夜風に消えていった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
和真はいつもより少し早く目を覚ました。
時計を見ると、まだ六時を少し過ぎたところだった。
「……ん」
眠い目を擦りながら起き上がる。
昨夜、フェンリスから返事が届いていた。
仕事が忙しいこと。
落ち着いたら土産物を取りに来ること。
そして、出発前に会えて嬉しかったこと。
「……そっか」
和真は小さく笑った。
せっかく早く起きたのだから、朝食の時に会えるかもしれない。
そう思い、少し早めに身支度を済ませた。
母屋へ向かうと、台所では酒菜が朝食の準備をしていた。
「おや、今日は早いね」
「ああ。目が覚めちゃってさ」
「珍しいこともあるもんだ」
「そんなに珍しいか?」
「まあね」
酒菜は笑いながら、味噌汁の鍋をかき混ぜた。
和真は何気なく食卓を見渡した。
「……フェンリスは?」
「ああ、もう仕事に行ったよ」
「……もう?」
「今日は早番なんだってさ」
「そっか……」
和真は椅子を引いた。
いつもなら、フェンリスが座っていた席。
そこには誰もいない。
「……随分早いな」
「そうだね。最近はずっとあんな調子さ」
「……そうか」
和真は椅子に腰掛けた。
食卓には、他の住人たちが少しずつ集まってくる。
ピピが眠そうにあくびをしながら入ってきて、ひかげが静かに挨拶する。
あおいもやってきて、みゆが和真の隣に座った。
いつもの賑やかな朝。
和真は食事を始めながら、何度か廊下の方へ目を向けていた。
「……和真?」
みゆが声をかける。
「ん?」
「誰か待ってるの?」
「いや、別に……」
和真は箸を止めた。
「……フェンリス、今日も早かったんだなって」
「……そっか」
みゆは小さく頷いた。
「最近、忙しいみたいだもんね」
「ああ。ちゃんと休めてるといいんだけどな」
和真は目の前の朝食へ視線を戻した。
ピピが楽しそうに話し、あおいがそれに答える。
酒菜が追加の料理を運んでくると、皆が喜んだ。
いつも通りの朝だった。
その途中、和真は何気なくフェンリスの席へ目を向けた。
空いたままの椅子。
そこから聞こえていた元気な声は、今日もなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
和真は買い物を終え、アパートへ戻ってきた。
母屋へ向かう途中、自然とフェンリスの部屋がある方へ足が向いた。
「……帰ってるかな」
時刻はまだ夕方。
仕事が終わっていれば、顔を合わせられるかもしれない。
そう思い、和真は部屋の前まで歩いた。
コンコン。
「フェンリス?」
返事はない。
「……まだか」
スマートフォンを確認する。
新しい連絡は届いていなかった。
和真は少しだけその場に立っていたが、やがて踵を返した。
「……また今度だな」
手に持っていた買い物袋を持ち直し、母屋へ戻っていった。
その夜。
夕食の準備を手伝っていた和真は、食卓に箸を並べていた。
人数を数えながら、次々と置いていく。
「……あ」
一本、多かった。
「どうしたんだい?」
酒菜が声をかける。
「いや、一本多く出しちゃった」
「フェンリスの分かい?」
「……ああ、そうだな」
「今日も夕飯はいらないって連絡が来てるよ」
「……そっか」
和真は余った箸を片付けた。
食事の時間になると、住人たちが集まってくる。
いつも通り賑やかな食卓。
和真も会話に加わり、笑いながら食事を楽しんだ。
けれど。
誰かが廊下を歩く音が聞こえるたびに、ふと顔を上げていた。
ピピが元気よく笑えば、つられて笑う。
酒菜が料理を追加すれば、感謝を伝える。
そんな普段通りの時間の中で、和真の視線は何度も入口へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
翌日も。
その翌日も。
和真とフェンリスは、なかなか顔を合わせることができなかった。
朝、和真が起きた頃には、フェンリスはすでに出勤している。
夕方、仕事から帰っているかと思って部屋を訪ねても、返事はない。
夜遅く帰宅しても、疲れからそのまま部屋に籠ってしまう。
何度かメッセージを送ってみたが、返事はいつも短かった。
『大丈夫だよ!』
『今日はちょっと遅くなる!』
『ごめんね! また今度!』
画面の中では、いつもの元気なフェンリスだった。
それでも、直接顔を見ることはできなかった。
和真は何度か、酒菜にフェンリスの様子を尋ねるようになった。
「フェンリス、今日も仕事か?」
「ああ。朝早くから行ってるよ」
「そっか」
「どうしたんだい?」
「いや、ちょっとお土産渡したくてさ」
「部屋の前に置いておけばいいんじゃないかい?」
「……まあ、それでもいいんだけどな」
和真は小さな袋を見下ろした。
「せっかくだし、直接渡そうかなって」
「そうかい」
酒菜はそれ以上何も聞かなかった。
和真は土産物をポケットへしまった。
そして、また何気なくスマートフォンを確認した。
新しい通知はなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
酒屋のバックヤードでは、フェンリスが伝票を整理していた。
「……これで、全部かな」
最後の一枚をまとめ、机の端へ置く。
その時だった。
「フェンリス」
「ん? 店長?」
「少し休んだらどうだ?」
「え? 大丈夫だよ!」
「最近、随分疲れてるように見えるぞ」
「そんなことないって!」
フェンリスは笑ってみせた。
「僕、体力には自信あるし!」
「……そうか?」
「うん!」
店長は少し心配そうな顔をした。
「退院したとはいえ、まだ俺もまともに動けないしな。本当に申し訳ない」
「もう! 謝らなくていいってば!」
「ははっ。そうだな」
「僕が頑張ればいいんだから!」
フェンリスは元気よく立ち上がった。
「じゃあ、次の配達の準備してくるね!」
「ああ。でも、無理はするなよ?」
「分かってるって!」
そう言って、フェンリスはバックヤードを後にした。
だが。
誰もいなくなった通路で、足を止めた。
「……ふぅ」
壁にそっと手をつく。
少しだけ目を閉じた。
身体が重い。
眠い。
頭も、ぼんやりする。
昨日も、その前の日も、あまり眠れていなかった。
横になっても、いろんなことを考えてしまう。
みゆのこと。
和真のこと。
そして、自分のこと。
考えたくないのに、何度も思い出してしまう。
「……仕事、しよう」
フェンリスは顔を上げた。
仕事をしている間は、余計なことを考えなくて済む。
だから。
今は、それでよかった。
一方、事務所では店長が勤務表を見つめていた。
フェンリスの名前が、週に五日も並んでいる。
しかも、朝早くから夜遅くまで。
「……これは、さすがにな」
店長は深く息を吐いた。
怪我が治るまで、もう少し時間が必要だ。
けれど、だからといってフェンリスにこれ以上負担をかけ続けるわけにはいかない。
以前は元気いっぱいだった彼女が、最近は明らかに疲れた顔をしている。
無理をして笑っているように見えることもあった。
「……何とかしないとな」
店長はそう呟き、人手を増やせないか考え始めた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
和真は母屋で夕食を取っていた。
「……そういえば、和真」
ピピが箸を持ったまま顔を上げた。
「ん?」
「フェンリス、最近全然見ないね」
「ああ……仕事が忙しいみたいなんだ」
「そうなの?」
「うん」
「ボク、久しぶりに一緒にご飯食べたいなぁ」
「……そうだな」
和真は小さく頷いた。
以前なら、フェンリスもこの食卓にいた。
ピピが騒げば一緒になって笑い、好きな料理が出れば嬉しそうに尻尾を振っていた。
たまに和真の隣へ座り、何気ない話をしてくれた。
そんな光景が、当たり前だった。
「……和真?」
「ん?」
「聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
「本当?」
「本当だって」
ピピは少し首を傾げたが、すぐに食事へ戻った。
和真も箸を動かす。
ふと、空いた席に目が向いた。
「…………」
すぐに視線を戻す。
食卓は相変わらず賑やかだった。
それなのに、つい耳を澄ませてしまう。
聞き慣れた、あの元気な声。
今日も、その声が聞こえることはなかった。
夕食を終えたあと。
和真は自室へ戻り、金沢で買った土産物を手に取った。
銀色の狼の根付。
小さな袋に入ったまま、机の上に置かれている。
「……まだ渡せてないな」
袋を開き、根付を取り出す。
銀色の小さな狼。
丸い目をして、どこか愛嬌のある表情を浮かべている。
「……似てるな」
思わず笑みがこぼれた。
フェンリスがこれを見たら、どんな顔をするだろう。
きっと、嬉しそうに尻尾を振ってくれる。
もしかしたら、早速鞄につけてくれるかもしれない。
そんな姿が、自然と浮かんできた。
「……よし」
和真は根付を袋へ戻した。
そして、上着を羽織ると、再びアパートへ向かった。
◇ ◇ ◇
コンコン。
「フェンリス?」
返事はない。
和真はスマートフォンで時刻を確認した。
「……今日も駄目か」
もう何度目だろう。
ここを訪ねるたびに、フェンリスは留守にしていた。
たまに部屋の明かりがついている時もあったが、疲れて休んでいると聞けば、無理に声をかけることはしなかった。
「……いつ渡せるんだろうな」
手元の袋を見下ろす。
小さな銀色の狼。
金沢で見つけた時は、すぐに渡せると思っていた。
出発前に久しぶりに顔を合わせた時。
あんなに嬉しそうに笑ってくれたのだから、きっと今回も喜んでくれるだろう。
「……早く渡したいんだけどな」
和真は袋をポケットにしまった。
そのまま扉を見つめる。
誰もいない部屋。
静かな廊下。
以前はここを通りかかると、フェンリスが声をかけてくれることもあった。
買い物へ行こうと誘ってきたり。
今日あった出来事を楽しそうに話してくれたり。
何でもない話をしながら、一緒に母屋へ向かったこともあった。
「…………」
和真はしばらく立ち尽くしていた。
やがて、スマートフォンを取り出す。
『今日も仕事かな? お疲れ様。時間ができたら、少し話そうな』
短いメッセージを送った。
そして、もう一度扉を見つめたあと、ゆっくりと歩き出した。
「……また明日か」
小さく呟く。
母屋へ戻る途中、和真は何度か振り返った。
もちろん、誰かが後ろからついてきているわけではない。
アパートの廊下は静かなままだった。
◇ ◇ ◇
その数時間後。
「……ただいま」
フェンリスが帰宅した。
アパートはすっかり静まり返っていた。
道を歩く足取りは重い。
早く部屋に戻って眠りたい。
そう思いながら、自室の前まで来た時だった。
「……あ」
フェンリスの耳がぴくりと動いた。
鼻先をかすめる、よく知っている匂い。
「……和真?」
足が止まった。
ほんのわずかに残った、その匂い。
今日も、ここへ来てくれたのだろうか。
自分に会うために。
「…………」
フェンリスは道の先を見つめた。
思わず一歩、足を踏み出す。
和真の部屋へ行こうか。
今なら、まだ起きているかもしれない。
扉を叩けば、きっと出てきてくれる。
いつものように笑いかけてくれる。
きっと、頭も撫でてくれる。
「……和真……」
名前を呟いた途端、胸が苦しくなった。
みゆの顔が浮かぶ。
嬉しそうに話してくれたこと。
泣きながら謝ってくれたこと。
そして、自分も笑って祝福したこと。
「……っ」
フェンリスはぎゅっと拳を握った。
会いたい。
今すぐ走っていって、抱きつきたい。
いつもみたいに、和真の腕の中で甘えたい。
けれど。
今、和真の顔を見たら。
きっと、我慢できなくなる。
みゆのことを聞いてしまうかもしれない。
自分も同じようにしてほしいと、お願いしてしまうかもしれない。
「……駄目だよ……」
フェンリスは小さく首を振った。
「……今は……駄目……」
ゆっくりと自室の扉を開ける。
中へ入ると、鞄を下ろし、ベッドに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出す。
和真からのメッセージが届いていた。
『今日も仕事かな? お疲れ様。時間ができたら、少し話そうな』
「…………」
画面を見つめる。
何度も、何度も。
やがて、フェンリスはゆっくりと返信を打ち始めた。
『ありがとう、和真! でも、まだちょっと忙しいんだ。ごめんね! 落ち着いたら僕から会いに行くね!』
送信する。
そして、スマートフォンを胸に抱いた。
「……ごめんね」
小さく呟く。
「……僕だって……会いたいのに……」
誰もいない部屋。
静かな夜。
フェンリスは膝を抱え、顔を埋めた。
その頃。
和真は自室の机に向かっていた。
スマートフォンが震える。
「……あ」
フェンリスからの返信だった。
和真はすぐに画面を開いた。
明るい文章。
いつも通りの返事。
「……そっか」
小さく呟いた。
『分かった。無理するなよ。おやすみ』
返信を送信すると、スマートフォンを机に置いた。
そして、作業へ戻ろうとした。
けれど、しばらくすると再び画面を手に取った。
先ほどのやり取りをもう一度眺める。
「……早く落ち着くといいな」
それだけ呟き、画面を伏せた。
机の端には、まだ渡せていない小さな土産物が置かれていた。
和真は何気なくそれを手元へ寄せた。
銀色の狼の根付。
袋の上から指先で軽く触れる。
そして、机の引き出しへしまうことなく、また元の場所へ置いた。
翌朝になれば、きっとまたフェンリスの姿を探すのだろう。
食卓で。
廊下で。
いつもの庭先で。
それが今では、和真にとって当たり前の行動になり始めていた。
和真はまだ、そのことに気づいていなかった。
一方、フェンリスもまた、和真に会いたくて仕方がなかった。
同じ敷地で暮らしているはずなのに。
ほんの少し歩けば会える距離にいるはずなのに。
二人の時間は、すれ違い続けていた。
そして、そのわずかな距離は、少しずつ二人の心にも影を落とし始めていた。




