第四十六話 優しさの責任、壊れた強がり
「……痛っ!」
丸めたパンフレットで額を軽く叩かれた和真は、思わず声を上げた。
「ちょっと、ユエ。何するんだよ」
「何するんだよ、じゃないでしょ」
ユエはパンフレットをテーブルに置くと、呆れたようにため息をついた。
「さっきから、どこ見てるの?」
「……いや、その」
「その?」
「……悪かった」
視線を逸らして謝る和真を、ユエはしばらく見つめていた。
湯上がりの浴衣姿。
いつもとは違う雰囲気に、和真が思わず見惚れてしまったのは事実だった。
しかし、ユエが気にしていたのは、その視線だけではない。
「和真。ちょっと座って」
「……ん?」
「話しておきたいことがあるの」
先ほどまでの悪戯っぽい笑みが消えていた。
その変化に気づき、和真も姿勢を正す。
「……分かった」
二人は窓際の座卓を挟んで向かい合った。
ユエは急須から湯呑みにお茶を注ぎ、ひとつを和真の前へ置く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ユエも一口お茶を飲んだ。
それから、静かに口を開く。
「……ナディアとみゆのことなんだけど」
「…………」
和真の手が止まった。
「……どうして、その二人の名前が?」
「二人と男女の仲になったこと、私も知ってるから」
「…………」
和真は湯呑みを置いた。
「……そうか」
「驚かないの?」
「……いや、驚いてる。ただ、いつかは知られると思ってたから」
「そう」
ユエは小さく頷いた。
「先に言っておくけど、私は二人とそういう関係になったこと自体を責めたいわけじゃないの」
「…………」
「二人とも大人だし、自分の意志であなたを求めたんでしょう? あなたも納得して受け入れたのなら、私が頭ごなしに否定することじゃないわ」
「……ああ」
「でもね、和真」
ユエの声が少し低くなる。
「あなた自身は、どういうつもりだったの?」
「……どういうつもりって?」
「二人と、これからどうなりたいの?」
和真はすぐには答えられなかった。
ユエは急かさず、返事を待った。
「……ナディアも、みゆも大切だ」
「うん。それは知ってる」
「二人とも、俺にとって大事な存在なんだ」
「それも分かってるわ」
ユエは静かに頷いた。
「でも、大切だから身体を重ねたの?」
「…………」
「それとも、二人に求められたから?」
和真は眉を寄せた。
簡単に答えられる質問ではなかった。
「……両方、なのかもしれない」
「……そう」
「ただ、二人に求められたから仕方なく、ってわけじゃない。それだけは違う」
和真は顔を上げた。
「俺だって、自分の意志で受け入れたんだ」
「だったら、なおさらよ」
ユエはまっすぐに和真を見つめた。
「自分の意志で選んだことなら、その先のことも考えないと」
「…………」
「ナディアは、あなたに何て言ったの?」
和真は少し考えた。
旅館で過ごした夜。
いつもの余裕を失い、恥ずかしそうに笑っていたナディア。
そして、二人で過ごした時間の後に聞いた言葉。
「……今は自分を見なくてもいいって」
「うん」
「でも、いつかは自分だけを見てほしいって……そう言ってた」
「……そう」
ユエは少しだけ目を伏せた。
「ナディアらしいわね」
「…………」
「じゃあ、みゆは?」
「みゆは……」
和真の脳裏に、猫耳を揺らして笑うみゆの姿が浮かんだ。
恋人になりたいわけでも、結婚したいわけでもない。
ただ、そばにいたい。
一緒に笑って、触れ合って、甘えたい。
そして、いつかは和真との子供も欲しい。
みゆは以前から、そんな気持ちを抱いていた。
「……俺のそばにいられれば、それでいいって」
「……それだけ?」
「……俺との子供が欲しいとも言ってた」
「そう」
ユエは静かに息を吐いた。
「二人とも、あなたのことが本当に好きなのね」
「……ああ」
「じゃあ、和真」
ユエは問いかけた。
「あなたは、二人に何を返してあげられるの?」
「…………」
和真は黙り込んだ。
「ナディアは、いつか自分だけを見てほしいと思ってる。みゆは、あなたのそばにいたいと思ってる。二人とも、自分の望みをちゃんと言葉にしているわ」
「……ああ」
「でも、あなたは?」
ユエは続ける。
「二人に何を望んでいるの?」
「…………」
「恋人になりたいの? これからも同じ関係を続けたいの? それとも、まだ分からない?」
和真は膝の上で両手を握った。
「……正直に言っていいか?」
「もちろん」
「……まだ、分からない」
ユエは黙って頷いた。
「ナディアのことも、みゆのことも好きだよ。でも、それが恋人としての好きなのかって聞かれると……」
和真は言葉を探した。
「……すぐには答えられない」
「そうね」
「二人と過ごす時間は楽しいし、一緒にいると落ち着く。触れ合いたいと思うことだってある」
「うん」
「でも……」
和真は俯いた。
「それだけで、二人の望む未来を約束していいのかって考えると……分からないんだ」
ユエはしばらく和真を見つめていた。
そして、小さく頷く。
「それが、今のあなたの本音なのね」
「……ああ」
「だったら、その気持ちから逃げちゃ駄目よ」
「…………」
「分からないこと自体は悪くないわ。人の気持ちなんて、そんなに簡単に整理できるものじゃないもの」
ユエは湯呑みを置いた。
「でもね、和真。相手があなたを好きだからって、その気持ちに全部応えなくてもいいの」
「……え?」
「あなた、誰かに求められた時、断るのが苦手でしょう?」
「…………」
「相手を悲しませたくない。傷つけたくない。できるなら望みを叶えてあげたい。そう考えてしまうんじゃない?」
和真は答えられなかった。
否定できなかったからだ。
「その優しさは、あなたのいいところよ」
ユエは穏やかに続けた。
「でも、優しさだけで何でも受け入れていたら、いつか誰かを深く傷つけることになるわ」
「…………」
「特に、身体を重ねるっていうのは、ただの親切じゃないの」
和真はゆっくりと顔を上げた。
「あなたにとっては、その夜だけの出来事じゃないでしょう?」
「……ああ」
「相手にとっても同じよ。嬉しかった思い出になるかもしれないし、もっと好きになるきっかけになるかもしれない。反対に、いつか苦しむ原因になることだってある」
「…………」
「だから、求められたから応えるんじゃなくて、あなた自身がどうしたいのかを考えなさい」
ユエはそこで一度言葉を切った。
「もちろん、今までのことを後悔しなさいって意味じゃないわよ」
「……うん」
「大事なのは、これからどうするかだから」
和真は黙って考え込んだ。
ナディアとの夜。
みゆとの夜。
あの時、自分は何を考えていたのだろう。
ナディアは真剣だった。
普段の余裕のある態度とは違い、時折不安そうに自分を見つめていた。
そんな彼女を、和真は愛おしいと思った。
抱きしめたいと思った。
その気持ちは嘘ではない。
みゆも同じだった。
以前、温泉旅行でみゆから想いを向けられた時、自分は待ってほしいと伝えた。
まだ気持ちの整理ができていなかったからだ。
それなのに、後になってみゆと身体を重ねた。
あの時のみゆの真剣な気持ちも、触れ合った時の温もりも、忘れてはいない。
自分だって、みゆを求めた。
けれど。
その後のことを、どこまで考えていただろうか。
みゆがいつか子供を欲しいと言っていたことも知っている。
ナディアがいつか自分だけを見てほしいと願っていることも知っている。
なのに。
二人が望む未来と、自分が選ぼうとしている未来を、きちんと考えられていなかった。
「……俺さ」
和真が口を開いた。
「二人が俺のことを好きでいてくれるのが……嬉しかったんだと思う」
ユエは黙って耳を傾けた。
「自分を必要としてくれて、そばにいたいって言ってくれて……それが嬉しかった」
「……うん」
「だから、二人の気持ちに応えたいと思った」
和真は自嘲気味に笑った。
「……でも、応えたいって気持ちと、ちゃんと責任を持てるかってことは、別なんだよな」
ユエは静かに頷いた。
「そうね」
「……今まで、そこをちゃんと考えてなかった」
和真は両手を見つめた。
「俺が受け入れれば、相手は喜んでくれる。俺も嬉しい。それでいいんじゃないかって……どこかで思ってたのかもしれない」
少しの沈黙。
「……甘かったな」
ユエはすぐに否定しなかった。
慰めることもなかった。
ただ、和真が自分で考え、言葉にするのを待っていた。
「……俺、どうすればいいんだろうな」
和真が小さく呟いた。
ユエは首を傾げる。
「それを私に決めてほしい?」
「……いや」
和真は首を振った。
「それじゃ意味がないよな」
「ふふっ。そういうこと」
ユエは微笑んだ。
「私は、あなたが誰を選ぶべきかなんて言わないわ。誰か一人を好きにならなきゃいけないとも思わない」
「……うん」
「ただ、あなたの選択には、あなた自身の気持ちが必要なの」
和真は深く頷いた。
「……これからは、ちゃんと考えるよ」
「どうやって?」
「……少なくとも、自分の気持ちが分からないまま、流れに任せて身体の関係を持つようなことはしない」
和真は真剣な表情で続けた。
「ナディアとも、みゆとも、ちゃんと話さないとな。俺が今どう思っているのか、これからどうしたいのか……」
「そうね」
「まだ答えが出ていないなら、それも正直に伝える」
ユエは満足そうに頷いた。
「うん。それでいいと思うわ」
和真は少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとう、ユエ」
「どういたしまして」
ようやく、張り詰めていた空気が和らいだ。
しかし。
「……さて」
ユエは突然、悪戯っぽく微笑んだ。
「もうひとつ、お話があるのよね」
「……まだあるのか?」
「あるわよ。今度は私自身のこと」
「ユエの?」
「そう」
ユエは自分の髪を指先で梳いた。
「和真。あなた、私がどうしてこの姿をしているのか知ってる?」
「……どうしてって?」
「この顔も、身体も、全部よ」
和真は不思議そうに首を傾げた。
「……生まれつきじゃないのか?」
「残念。違うの」
「……違う?」
ユエは少し楽しそうに笑った。
「私がこの世界に顕現した時、姿を形作るうえで、あるものの影響を受けたの」
「あるもの?」
「あなたの心よ」
「…………は?」
和真は目を瞬かせた。
「正確には、あなたの心の奥にある、理想の女性像」
「…………」
「あなた自身も普段は意識していないような、深いところにある好みね。それに引っ張られる形で、今の私の姿が作られたの」
「……ちょ、ちょっと待て」
「なあに?」
「それって……」
「つまり、私の容姿には、あなたの理想がかなり反映されているってこと」
「…………」
和真はゆっくりと顔を覆った。
「……嘘だろ」
「本当よ?」
「…………」
「顔立ちも、髪も、身体つきも。全部がそのままというわけではないけれど、少なくともあなたの好みから大きく外れてはいないはずよ」
「……勘弁してくれ」
和真の耳まで真っ赤になった。
ユエは口元を押さえて笑う。
「ふふっ。そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
「いや、普通に恥ずかしいだろ!」
「そう?」
「そうだよ!」
ユエはしばらく楽しそうに笑っていた。
やがて、表情を和らげる。
「だからね、和真」
「……何だよ」
「さっき、私を見てそういう気持ちになったのも、理解はできるの」
「…………」
「自分の理想に近い女性が目の前にいるんだもの。意識してしまうのは、不思議なことじゃないわ」
和真は気まずそうに視線を逸らした。
しかし、ユエはそこで人差し指を立てた。
「でも、それはそれ。これはこれよ」
「……はい」
「私は、あなたの理想を満たすために存在しているわけじゃないの」
「…………」
「この姿がどうやって生まれたとしても、私の気持ちは私のもの。何をしたいか、誰とどう接するかは、私自身が決めることよ」
ユエはまっすぐに和真を見つめた。
「分かる?」
「……ああ」
「あなたが私を魅力的だと思うのは自由。でも、だからって何をしてもいいわけじゃないでしょう?」
「……そうだな」
「ふふっ。もちろん、少しくらい見惚れてくれるのは悪い気分じゃないけど」
「……どっちなんだよ」
「限度があるってこと」
ユエは笑った。
和真もつられるように苦笑する。
「……分かったよ」
「本当に?」
「ああ。ユエはユエだもんな」
その言葉に、ユエは少しだけ目を丸くした。
そして。
「……そうね」
柔らかく微笑んだ。
「それが分かっているなら、いいわ」
ユエは湯呑みを手に取った。
和真もようやくお茶に口をつける。
すっかり冷めていた。
「……なあ、ユエ」
「なあに?」
「俺、今まで自分のこと、そこまで考えてなかったのかもしれない」
ユエは静かに和真を見た。
「誰かに頼られるのは嬉しいし、助けられるなら助けたい。みんなが楽しそうにしてくれたら、それだけで満足してたんだ」
「……うん」
「でも、恋愛って、それだけじゃ駄目なんだな」
「そうね」
「……誰かを幸せにしたいって思うだけじゃ、足りないんだ」
和真は窓の外へ目を向けた。
金沢の夜景が、静かに広がっている。
「俺自身がどうしたいのか、ちゃんと考えないと……」
脳裏に、住人たちの顔が浮かんだ。
笑っている顔。
怒っている顔。
甘えてくる顔。
その中で、ふとフェンリスの顔がよぎった。
胸が、ほんの少し苦しくなった。
和真は静かに息を吐いた。
「……簡単じゃないな」
「当たり前よ」
ユエは微笑んだ。
「人を好きになるって、そういうものだもの」
「……そうか」
「ええ」
ユエは立ち上がり、窓のそばへ歩いていった。
「でも、今夜ちゃんと自分のことを振り返れたなら、それだけでも意味があったんじゃない?」
「……ああ」
和真は頷いた。
「ありがとう。ユエと話せてよかった」
「ふふっ。どういたしまして」
振り返ったユエは、少し照れくさそうに笑った。
「せっかくの旅行なのに、お説教なんてしちゃったけどね」
「いや……必要なことだったと思う」
「そう言ってもらえるなら、よかったわ」
ユエは窓の外を見つめた。
旅先の夜は、まだ続いている。
和真はもう一度、冷めたお茶を飲んだ。
答えが出たわけではない。
誰かへの想いが、はっきりしたわけでもない。
それでも。
今まで見ないようにしていた、自分自身の曖昧さに気づくことができた。
そして、これからはその曖昧さを、誰かの優しさで埋めてはいけない。
和真はそう心に決めた。
◇ ◇ ◇
同じ夜。
アパートの廊下に、小さな足音が響いていた。
みゆは一つの部屋の前で立ち止まった。
「…………」
フェンリスの部屋。
昼間、話があると伝えていた。
忙しいから夜にしてほしいと言われ、改めて訪ねる約束をした。
それからずっと、みゆは何をどう話すべきか考えていた。
フェンリスが和真を好きなことは、よく知っている。
どれほど真剣に想っているのかも。
最近、フェンリスが無理をしていることにも気づいていた。
朝早くから仕事に出て、夜遅くまで帰ってこない。
以前なら食事の時間になると顔を出していたのに、最近は部屋にいることすら少ない。
たまに会っても、疲れた顔で笑うだけ。
そんな彼女に、今から自分のことを話す。
きっと傷つけてしまう。
それは分かっていた。
けれど。
黙ったまま、何もなかったように接することもできなかった。
「……よし」
みゆは小さく息を吸い、扉をノックした。
コン、コン。
「フェンリス。ボクだよ」
少し間があった。
「……みゆ?」
「うん。約束したでしょ?」
「あ……そうだったね。ちょっと待って」
室内から物音が聞こえる。
やがて扉が開いた。
「ごめん。少し片付けてたんだ」
フェンリスはいつものように笑った。
けれど、その笑顔には疲れが滲んでいる。
銀色の髪も少し乱れ、耳はいつもより元気なく垂れていた。
「……仕事、今日も遅かったの?」
「うん。でも、もう慣れたよ」
「……そっか」
「ほら、入って」
フェンリスに促され、みゆは部屋へ入った。
机の上には仕事で使う小物や、まだ片付けられていない荷物が置かれている。
部屋着に着替えたばかりなのだろう。
フェンリスは脱いだ上着を畳み、椅子の背に掛けた。
「何か飲む?」
「ううん。大丈夫」
「そう? じゃあ、座って」
二人は小さなテーブルを挟んで腰を下ろした。
フェンリスは不思議そうに首を傾げる。
「それで、話って何?」
「…………」
「みゆ?」
みゆは膝の上で手を握った。
「……フェンリス」
「うん?」
「……ボク、フェンリスに隠し事をしたくないんだ」
フェンリスは目を瞬かせた。
「隠し事?」
「……うん」
「何それ。そんなに大事なことなの?」
いつもの調子で笑おうとするフェンリス。
けれど、みゆは笑えなかった。
その表情を見て、フェンリスも少し真剣な顔になる。
「……どうしたの?」
みゆは一度、視線を落とした。
そして、意を決して顔を上げる。
「……ボクね」
「うん」
「和真と……男女の仲になったんだ」
「…………」
フェンリスの動きが止まった。
耳がぴくりと揺れる。
「…………え?」
みゆは逃げずに、その瞳を見つめた。
「……和真と、そういう関係になったの」
「…………」
フェンリスは何も言わなかった。
ただ、みゆを見つめている。
何かを言おうとして、小さく口を開く。
けれど、言葉が出てこない。
「……そっか」
ようやく、声が漏れた。
「……そっかぁ……」
フェンリスは俯いた。
少しの間、沈黙が続いた。
そして。
「……よかったね、みゆ」
顔を上げたフェンリスは、笑っていた。
「和真のこと、ずっと好きだったもんね」
「……フェンリス」
「うん。よかった……本当に……」
フェンリスは笑顔のまま続けた。
「……おめでとう」
その瞬間。
ぽたり。
フェンリスの頬から、一粒の涙が落ちた。
「…………あれ?」
フェンリスは驚いたように目元へ手を伸ばした。
ぽたり。
もう一粒。
「……あれ?」
慌てて指で拭う。
「……おかしいな」
笑おうとする。
「ごめん。何でだろ……」
けれど、涙は止まらなかった。
「……フェンリス」
「……違うよ、みゆ」
フェンリスは首を振った。
「嫌とか、そういうのじゃないんだ」
「…………」
「みゆが和真のこと好きなの、知ってるし……」
声が小さくなる。
「……二人が幸せなら……僕も……」
そこで言葉が途切れた。
フェンリスは俯き、目元を何度も拭った。
「……ごめん」
「……フェンリス」
「ちょっと……びっくりしただけだから……」
そう言って、顔を上げようとする。
しかし。
涙が、次から次へと溢れてきた。
「……あれ……?」
フェンリスは困ったように笑う。
「……何で……?」
自分でも分からなかった。
みゆを祝福したい。
それは本当だった。
みゆが和真を好きなことは、ずっと前から知っている。
和真に甘えて、抱きついて、時には自分をからかって。
そんなみゆと、何度も張り合ってきた。
くだらないことで喧嘩して、一緒に笑って。
大切な友達だった。
だから、嬉しいはずだった。
みゆが幸せになれたなら。
笑って、おめでとうと言ってあげたかった。
なのに。
胸が痛い。
息をするたびに、心臓を強く握られているようだった。
「……っ」
フェンリスは胸元を押さえた。
頭の中に、和真の顔が浮かぶ。
初めて出会った、あの夜。
知らない世界に突然放り出され、魔力も体力も失っていた自分。
何も信じられなかった。
もう誰にも頼りたくなかった。
そんな自分に、手を差し伸べてくれた人。
歩くことさえままならなかった自分を、背負ってくれた。
重くないと言われて、意地を張ったこと。
温かな背中。
あの時感じた安心感を、今でも覚えている。
初めて部屋をもらった日。
新しい生活に戸惑いながらも、少しずつ慣れていった毎日。
和真が声をかけてくれるのが嬉しかった。
名前を呼ばれるだけで、自然と耳が動いた。
頭を撫でられると、どうしていいか分からなくなるくらい恥ずかしかった。
それなのに、また撫でてほしいと思ってしまう。
そんな自分に、何度も驚いた。
気づけば。
和真が笑っていると嬉しかった。
和真が疲れていると心配になった。
和真が誰かと仲良くしていると、胸の奥がもやもやした。
いつから好きになったのかなんて、分からない。
ただ。
気づいた時には、もう大好きだった。
「…………」
フェンリスは膝の上で手を握った。
それから、別の思い出が浮かんだ。
みゆとの温泉旅行。
リディアとの旅行。
あおいとの京都。
ひかげとの大阪。
ピピとの遊園地。
ナディアとの温泉旅行。
そして今は、ユエと金沢へ行っている。
みんな、和真と二人きりの時間を過ごしていた。
一緒に見た景色。
一緒に食べた料理。
撮った写真。
帰ってきてから聞こえてくる、楽しそうな話。
どれも素敵な思い出なのだろう。
ピピの携帯に映っていた写真も思い出した。
和真がピピの頬に口づけている写真。
あの時も、胸が苦しくなった。
けれど、笑わなければと思った。
みんなが楽しそうなのだから。
自分だけ、嫌な顔をするわけにはいかない。
そう思っていた。
でも。
自分には。
「…………っ」
フェンリスは唇を噛んだ。
和真と二人で旅行をした思い出が、ひとつもなかった。
本当なら、自分も行くはずだった。
和真の好きな果物を、一緒に食べに行きたかった。
どんな顔で喜ぶのだろう。
何を話そう。
どんな服を着ていこう。
一緒に写真も撮りたい。
そんなことを考えるだけで、嬉しかった。
けれど、仕事の都合がつかなくなった。
店長が事故に遭い、休みを取ることが難しくなった。
だから、延期を申し出た。
みんなには本当の理由を言えなかった。
心配させたくなかった。
自分のせいで、みんなの旅行まで遅らせたくなかった。
だから。
先に行っていいよ。
そう言った。
大丈夫。
僕の旅行は後でいいから。
笑って、そう言った。
あの時は、確かにそう思っていた。
少し待てばいいだけ。
自分の番が来れば、きっと楽しい思い出を作れる。
そう信じていた。
なのに。
みんなの旅行がひとつ終わるたびに。
写真が増えるたびに。
和真との新しい思い出を聞くたびに。
胸の奥が少しずつ痛くなっていった。
それでも、自分が言い出したことだから。
我慢しなければと思った。
そして今。
みゆは和真と男女の仲になったと言った。
「…………」
フェンリスはぎゅっと目を閉じた。
みゆが羨ましかった。
和真に触れてもらえたこと。
和真に受け入れてもらえたこと。
二人だけの特別な時間を過ごせたこと。
何もかもが羨ましかった。
そんなふうに考えてしまう自分が、嫌だった。
「……っ、う……」
小さな嗚咽が漏れた。
「……フェンリス?」
みゆが心配そうに声をかける。
フェンリスは慌てて首を振った。
「……ごめん」
「…………」
「ごめんね、みゆ……」
何度も目元を拭う。
「……せっかく……話してくれたのに……」
涙が止まらない。
「……ちゃんと……おめでとうって……言いたいのに……」
フェンリスは無理やり笑おうとした。
けれど、顔が歪んでしまう。
「……何で……」
小さな声が漏れた。
「……何で……こんなに……苦しいの……?」
みゆは何も言えなかった。
フェンリスは俯いたまま続けた。
「……僕だって……」
震える声。
「……僕だって……和真と……」
そこで言葉が止まる。
喉が詰まって、うまく声が出せなかった。
「……旅行……」
「…………」
「……和真と……旅行……行きたかった……」
ぽたり。
涙が膝の上に落ちた。
「……うん」
みゆは小さく頷いた。
「……一緒に……出かけて……」
「うん……」
「……いっぱい……写真、撮って……」
フェンリスは顔を覆った。
「……美味しいもの……食べて……」
声が震える。
「……和真と……いっぱい……笑いたかった……」
みゆの胸が痛んだ。
「……フェンリス……」
「……僕……」
フェンリスは涙を拭いながら続ける。
「……そんなに……すごいこと……してほしかったわけじゃ……ないんだ……」
「…………」
「……ただ……和真と……二人で……」
言葉が詰まった。
「……二人で……一緒に……いたかった……」
みゆはゆっくりと手を伸ばした。
しかし、フェンリスは小さく首を振る。
「……ごめん……」
「…………」
「……ちょっと……一人に……してくれる……?」
フェンリスは顔を伏せた。
「……今……こんな顔……見せたくない……」
精一杯、声を整えようとする。
「……落ち着いたら……ちゃんと……おめでとうって……言うから……」
「…………」
「……だから……お願い……」
みゆはしばらくフェンリスを見つめていた。
そして。
「……やだ」
「…………え?」
「帰らない」
みゆは立ち上がり、フェンリスの隣へ移動した。
「……みゆ……?」
「一人にしないよ」
「……でも……」
「いいの」
みゆは膝をつき、フェンリスと目線を合わせた。
「……フェンリス」
「…………」
「ボク、フェンリスが和真を好きなの、ずっと知ってるよ」
フェンリスの瞳が揺れた。
「……うん……」
「どれくらい好きなのかも、知ってる」
「…………」
「だから……こうなるかもしれないって、思ってた」
みゆの声も震えていた。
「……それでも、黙ってるのは嫌だったんだ」
「…………」
「フェンリスには、ちゃんとボクから話したかった」
みゆはゆっくりと両腕を広げた。
「……ごめんね」
フェンリスの表情が歪む。
「……みゆは……悪くないよ……」
「……うん」
「……分かってる……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「……分かってるんだよ……」
みゆはそっとフェンリスを抱きしめた。
「……だから、泣いていいよ」
「…………」
「無理して笑わなくていい」
その言葉を聞いた瞬間。
フェンリスの顔がくしゃりと歪んだ。
「……みゆ……」
「……うん」
「……僕……」
震える手が、みゆの服を掴む。
「……僕……和真が……」
「……うん」
「……和真が……好きなの……!」
みゆは強く抱きしめ返した。
「……知ってるよ」
「……大好き……なの……!」
「……うん」
「……ずっと……ずっと……好きだったの……!」
フェンリスはみゆにしがみついた。
「……なのに……!」
声が大きくなる。
「……みんな……和真と……いっぱい……思い出作って……!」
「…………」
「……みんな……どんどん……仲良くなって……!」
涙が止まらない。
「……僕だけ……!」
フェンリスは顔を上げた。
「……僕だけ……何も……!」
そこまで言って、首を振った。
「……違う……!」
みゆは驚いてフェンリスを見つめた。
「……違うの……!」
フェンリスは泣きながら続ける。
「……何もないわけじゃ……ないの……!」
「…………」
「……和真との思い出……いっぱい……あるの……!」
震える声が響く。
「……助けてもらったことも……一緒に笑ったことも……頭を撫でてもらったことも……!」
フェンリスは胸元を握り締めた。
「……全部……大切なの……!」
みゆの目にも涙が浮かんだ。
「……うん……」
「……全部……大好きな思い出なの……!」
フェンリスは首を振る。
「……なのに……!」
声が裏返った。
「……何で……足りないって……思っちゃうの……?」
みゆは息を呑んだ。
「……こんなに……いっぱい……幸せなこと……あったのに……!」
フェンリスは泣き叫んだ。
「……もっと……もっとって……!」
涙が頬を伝う。
「……僕……どうしちゃったの……!?」
みゆは何も言えなかった。
フェンリスはみゆの胸に顔を埋めた。
「……みゆが……幸せなのに……!」
「…………」
「……僕……嬉しいはずなのに……!」
声が震える。
「……羨ましいって……思っちゃう……!」
みゆの服を強く握る。
「……ずるいって……思っちゃうの……!」
その言葉を口にした瞬間。
フェンリスはさらに強く泣き出した。
「……そんなこと……思いたくないのに……!」
何度も首を振る。
「……みゆのこと……大好きなのに……!」
「……うん……」
「……大切な友達なのに……!」
フェンリスはしゃくり上げた。
「……僕……嫌な子に……なっちゃった……!」
みゆはすぐに首を振った。
「違うよ、フェンリス」
「……違わない……!」
「違うよ……!」
みゆは抱きしめる腕に力を込めた。
「フェンリスは、嫌な子なんかじゃないよ……!」
「……でも……!」
「羨ましいって思ってもいいよ……!」
みゆの声も涙で震えていた。
「ボクだって、フェンリスが和真と仲良くしてたら、羨ましいって思うもん……!」
「…………」
「好きなんだから……仕方ないよ……!」
フェンリスは何も言わなかった。
ただ、みゆにしがみついた。
「……僕……」
小さな声が漏れた。
「……僕……頑張ったんだよ……」
「……うん……」
「……仕事……いっぱい……頑張って……」
「……うん」
「……みんなの旅行……楽しそうに……見送って……」
涙が落ちる。
「……僕も……そのうち……行けるって……」
声が震えた。
「……そう……思ってたの……」
みゆはフェンリスの髪を撫でた。
「……うん……」
「……でも……」
フェンリスはみゆの肩に顔を押しつけた。
「……もう……分かんないよ……」
ぽつりと呟く。
「……僕……何のために……頑張ってるの……?」
みゆの手が止まった。
「……和真と……旅行したくて……」
「…………」
「……和真に……喜んでほしくて……」
フェンリスはゆっくりと顔を上げた。
「……それなのに……」
涙で濡れた瞳が、みゆを見つめる。
「……和真が……どんどん……遠くに……行っちゃう……」
「…………」
「……僕が……仕事してる間に……」
声が震えた。
「……みんな……和真と……仲良くなって……」
フェンリスは胸を押さえた。
「……僕だけ……ずっと……同じところにいる……」
みゆは何も言えなかった。
「……ねえ……みゆ……」
「……なあに……?」
「……僕……どうしたらいいの……?」
その問いかけに、みゆは答えられなかった。
「……和真のこと……好きなのに……」
フェンリスは苦しそうに顔を歪める。
「……好きでいるのが……こんなに……苦しいなんて……」
みゆの目から涙が零れた。
「……フェンリス……」
「……会いたいの……」
「……うん……」
「……和真に……会いたい……」
声が震える。
「……でも……」
フェンリスは首を振った。
「……会ったら……どうしたらいいか……分かんない……」
みゆは静かに耳を傾けた。
「……普通に……笑えるかな……」
ぽたり。
「……いつもみたいに……話せるかな……」
ぽたり。
「……みゆのこと……聞かれたら……ちゃんと……おめでとうって……言えるかな……」
フェンリスは顔を覆った。
「……分かんないよ……!」
そして。
「……僕……和真に……どうしてほしいの……!?」
とうとう、声を上げて泣き出した。
「……僕のこと……好きになってほしい……!」
その言葉に、みゆの胸が締め付けられる。
「……でも……!」
フェンリスは泣きながら続けた。
「……みゆにも……幸せに……なってほしい……!」
「…………」
「……みんなにも……笑っててほしい……!」
涙が止まらない。
「……なのに……!」
フェンリスはみゆに強く抱きついた。
「……和真を……僕だけのものにしたいって……思っちゃう……!」
身体が震えていた。
「……そんなの……駄目なのに……!」
みゆは何も言わず、背中を撫で続けた。
「……僕……!」
フェンリスの声が大きくなる。
「……もう……分かんない……!」
みゆの肩に顔を埋める。
「……好きなのに……!」
嗚咽が混じる。
「……大好きなのに……!」
そして。
「……苦しいよぉ……!」
フェンリスは泣き叫んだ。
「……みゆぅ……!」
「……うん……!」
「……苦しい……!」
「……うん……!」
「……胸が……痛いよぉ……!」
みゆはぎゅっと抱きしめた。
「……うん……ここにいるよ……!」
「……和真ぁ……!」
フェンリスは泣きながら名前を呼んだ。
「……和真ぁ……!」
何度も。
何度も。
「……会いたいよぉ……!」
涙が止まらない。
「……僕も……抱きしめてほしい……!」
声が裏返る。
「……頭……撫でてほしい……!」
みゆの服を掴む手に力がこもる。
「……僕のこと……見てほしいよぉ……!」
みゆは何も言えなかった。
ただ、フェンリスの身体を強く抱きしめた。
泣き叫ぶ声が部屋に響く。
普段なら絶対に見せない姿だった。
明るくて。
少し強がりで。
負けず嫌いで。
でも、本当は寂しがり屋で。
誰かの温もりを求めている女の子。
そんなフェンリスが、今はみゆにしがみつき、子供のように泣いていた。
みゆは、何も言わなかった。
大丈夫だとも。
きっと和真が好きになってくれるとも。
言えなかった。
そんな約束は、誰にもできないから。
ただ、今のフェンリスを一人にしたくなかった。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
どれくらい時間が経ったのだろう。
フェンリスの泣き声が、少しずつ小さくなってきた。
けれど、涙はまだ止まらない。
「……みゆ……」
「……うん?」
「……ごめんね……」
フェンリスは掠れた声で呟いた。
「……僕……ひどいこと……言っちゃった……」
「……ううん」
「……ずるいって……」
「……うん」
「……そんなこと……思っちゃ……駄目なのに……」
みゆはゆっくりと首を振った。
「……いいんだよ」
「…………」
「フェンリスがどう思ったって、ボクはフェンリスのこと嫌いにならないよ」
フェンリスの瞳から、また涙が溢れた。
「……みゆ……」
「……うん?」
「……僕……」
フェンリスは小さく息を吸った。
「……和真のこと……諦めた方が……いいのかな……?」
みゆの表情が固まった。
フェンリスは俯いたまま続けた。
「……こんなに……苦しいなら……」
声が震える。
「……もう……好きじゃなくなれたら……楽なのかな……」
「…………」
「……でも……」
フェンリスは胸元を押さえた。
「……嫌だ……」
涙が落ちる。
「……好きじゃなくなるなんて……嫌だよ……」
みゆは唇を噛んだ。
「……うん……」
「……でも……好きでいるのも……苦しい……」
フェンリスは首を振った。
「……どうしたらいいの……?」
その問いかけに、みゆは答えを持っていなかった。
和真の気持ちを、代わりに決めることなんてできない。
フェンリスの苦しみを、簡単に消してあげることもできない。
だから。
「……分かんない」
みゆは正直に答えた。
「……ボクにも……分かんないよ……」
フェンリスは顔を上げた。
みゆも泣いていた。
「……フェンリスのこと、どうしたら幸せにできるのか……分かんない……」
「…………」
「……でもね……」
みゆはもう一度、フェンリスを抱きしめた。
「……今すぐ、答えを出さなくてもいいと思うんだ……」
フェンリスの身体が震えた。
「……諦めるかどうかなんて……今、決めなくてもいいよ……」
「…………」
「……こんなに泣いてるのに……無理して決めなくていいよ……」
フェンリスはみゆの服を握った。
「……みゆ……」
「……うん」
「……僕……ほんとは……」
言葉が詰まる。
「……旅行……行きたかった……」
「……うん……」
「……ずっと……楽しみにしてた……」
フェンリスは涙を流した。
「……和真と……二人で……」
「……うん」
「……果物……いっぱい……食べて……」
少しだけ、笑おうとする。
「……和真……果物……好きだから……」
「……知ってるよ」
「……喜んで……くれるかなって……」
その笑顔は、すぐに崩れた。
「……僕……それが……楽しみだったの……」
みゆはフェンリスの髪を撫でた。
「……うん」
「……一緒に……写真……撮って……」
フェンリスは目を閉じた。
「……帰ってきたら……みんなに……見せたかった……」
涙が頬を伝う。
「……僕も……和真と……こんなに楽しかったんだよって……」
みゆは何度も頷いた。
「……うん……」
「……でも……」
フェンリスは俯いた。
「……僕……自分で……後でいいって……言ったのに……」
「…………」
「……なのに……こんなに……寂しいなんて……」
みゆは何も言わず、背中を撫で続けた。
「……僕……何がしたいんだろ……」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
和真が好き。
それだけは、はっきりしている。
けれど。
そばにいたいのか。
抱きしめてほしいのか。
自分だけを見てほしいのか。
みんなと同じように愛してほしいのか。
それとも、誰よりも特別になりたいのか。
自分でも分からなくなっていた。
何を望んでも、誰かを羨ましく思ってしまう。
誰かが幸せになるたびに、胸が痛む。
そんな自分が嫌だった。
けれど、和真を好きな気持ちは消えない。
消したくもない。
どうすればいいのか分からなかった。
「……みゆ……」
「……なあに?」
「……もう少し……」
フェンリスは小さく呟いた。
「……もう少しだけ……こうしてて……」
みゆは優しく頷いた。
「……うん」
そして、フェンリスを抱きしめる腕に力を込めた。
「……今日は、ずっと一緒にいるよ」
フェンリスは小さく頷いた。
再び、みゆの胸元へ顔を埋める。
「……ありがとう……」
掠れた声だった。
みゆは何も言わず、銀色の髪を撫で続けた。
やがてフェンリスは、ぽつりと呟いた。
「……みゆ……」
「……うん?」
「……おめでとう……」
みゆの手が止まった。
「……和真と……よかったね……」
その言葉は、何度も途切れた。
声は震え、涙も止まっていなかった。
それでも。
フェンリスは、みゆを祝福しようとしていた。
「……ありがとう……」
みゆは涙を流しながら答えた。
そして、もう一度強く抱きしめた。
フェンリスはみゆの肩に顔を埋める。
「……ごめんね……」
「……謝らないで……」
「……僕……まだ……」
言葉が詰まる。
「……ちゃんと……笑えない……」
「……うん」
「……ほんとは……おめでとうって……笑って言いたいのに……」
みゆは小さく首を振った。
「……今は、その言葉だけで十分だよ……」
フェンリスはまた泣いた。
声を殺そうとしても、嗚咽が漏れてしまう。
みゆは何度も背中を撫でた。
何度も名前を呼んだ。
フェンリスが落ち着いても、手を離さなかった。
やがて、部屋の中は静かになった。
聞こえるのは、時折漏れる小さな泣き声だけ。
みゆの胸に顔を埋めたフェンリスは、目を閉じていた。
眠っているわけではない。
ただ、もう何を話せばいいのか分からなかった。
和真を思い出せば、胸が苦しくなる。
それでも、思い出すことをやめられない。
初めて背負ってもらった時の温もり。
名前を呼んでくれた声。
笑った顔。
頭を撫でてくれた手。
何でもない日々の、小さな幸せ。
どれも大切で。
どれも、忘れたくなかった。
けれど。
その思い出を大切にすればするほど、もっと一緒にいたいと思ってしまう。
そして、もっと一緒にいたいと思うほど、今の自分が苦しくなる。
もう、どうしたらいいのか分からなかった。
「……和真……」
小さな声が漏れた。
みゆは何も言わず、抱きしめていた。
「……僕……どうしたら……いいの……?」
返事はなかった。
ただ、みゆの腕が少しだけ強くなる。
それが今のフェンリスには、唯一の救いだった。
窓の外では、冷たい夜風が吹いている。
遠く離れた金沢では、和真が自分自身の気持ちを振り返っていた。
そして、ここでは。
和真を誰よりも好きだと思っていた一人の少女が、その想いに押し潰されそうになっていた。
好きでいたい。
でも、苦しい。
諦めたくない。
でも、これ以上傷つきたくない。
みゆを祝福したい。
でも、羨ましくて仕方がない。
和真に会いたい。
でも、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
矛盾した気持ちが、胸の中で何度もぶつかり合う。
どれが本当の自分なのかさえ、分からなくなっていた。
「……和真ぁ……」
みゆの胸元で、また涙が溢れた。
「……大好きだよぉ……」
それだけは、何度考えても変わらなかった。
けれど、その大好きという気持ちを、これからどうすればいいのか。
今のフェンリスには、何ひとつ分からなかった。
みゆは静かに抱きしめ続けた。
今夜、答えを出す必要なんてない。
せめて、泣きたいだけ泣けるように。
大切な友達が、これ以上一人で苦しまなくて済むように。
ただ、そばにいた。
そしてその夜。
フェンリスは泣き疲れて眠りに落ちるまで、みゆの腕を離さなかった。




