第四十五話 久しぶりの笑顔と金沢の旅
十一月下旬の土曜日。
朝の冷たい空気が残る母屋では、出発の準備を終えた和真とユエが、住人たちに囲まれていた。
「和真! お土産、忘れないでね!」
「分かってるって。ピピは何がいいんだ?」
「おいしいもの!」
「範囲が広すぎるだろ……」
元気いっぱいに答えるピピに、和真は苦笑する。
「金沢なら和菓子が有名よ。あなたの分も何か探しておくわ」
「ほんと!? ユエ、ありがとう!」
「ただし、皆で食べられるものにするからね」
「はーい!」
ユエは小さく笑いながら、手にしていた旅行用の鞄を持ち直した。
「二人とも、気をつけて行ってきてね!」
「おう。みゆも留守番よろしくな」
「任せてよ!」
みゆは笑顔で答えた。
その隣では、あおいが九本の尻尾をゆったりと揺らしている。
「金沢か。妾も一度は行ってみたいものじゃな」
「京都も楽しかっただろ?」
「もちろんじゃ。じゃが、旅とは何度行ってもよいものであろう?」
「それもそうだな」
和真は笑いながら頷いた。
そんな賑やかな見送りの中、ふとアパートの方へ視線を向ける。
「……そういえば、フェンリスは?」
その名前を聞いたみゆの耳が、ぴくりと動いた。
「フェンリス? 今朝はまだ見てないよ」
「そっか……」
和真はアパートの一階を見つめた。
ひかげとの旅行の見送りを最後に、フェンリスとはまともに顔を合わせていなかった。
最初は仕事が忙しいのだろうと思っていた。
実際、最近は朝早くから夜遅くまで働いていると聞いている。
しかし、気づけばもう一か月近く経っていた。
食事にも来ない。
母屋で楽しそうに話す姿も見かけなくなった。
以前なら、何かにつけて自分のところへ来ていたはずなのに。
「……ちょっとフェンリスの顔を見てくるよ」
「え?」
「もうずいぶん会ってないからな。元気にしてるか気になるし」
「……うん。行ってあげて」
みゆは柔らかく微笑んだ。
和真はユエへ顔を向ける。
「悪い、少し待っててくれ」
「構わないわ。まだ時間はあるもの」
「ありがとな」
そう言い残し、和真はアパートへ向かった。
その背中を、みゆは黙って見送っていた。
◇
フェンリスの部屋。
カーテンの隙間から、朝の光が薄く差し込んでいる。
ベッドの上では、フェンリスが布団にくるまって眠っていた。
昨夜も帰宅したのは遅かった。
疲れ切った身体を引きずるように部屋へ戻り、着替えも途中のままベッドへ倒れ込んでしまったのだ。
今日は少しだけ出勤が遅い。
それでも、あと少しすれば起きなければならない。
そんな静かな部屋に、不意に音が響いた。
コン、コン。
「……ん……」
フェンリスの耳が小さく動く。
しかし、目を開けることはなかった。
コン、コン。
「フェンリス? 起きてるか?」
「…………っ!」
その声を聞いた瞬間。
フェンリスの目が大きく開いた。
(……え?)
聞き間違いだろうか。
まだ夢を見ているのだろうか。
「フェンリス?」
もう一度、声が聞こえた。
間違いない。
ずっと聞きたかった声。
何度も会いたいと思っていた相手の声だった。
「か、和真!?」
フェンリスは勢いよく身体を起こした。
布団が床へ落ちる。
寝癖で乱れた髪も、ずれた服も気にする余裕などなかった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「ああ、悪い。寝てたか?」
「ね、寝てない! 起きてたよ!」
明らかな嘘だった。
慌ててベッドから降り、裸足のまま玄関へ向かう。
途中で足をもつれさせそうになりながらも、急いで鍵を開けた。
ガチャッ。
「か、和真!」
「お、おはよう、フェンリス」
扉の向こうに立っていたのは、本当に和真だった。
いつもと変わらない顔。
いつもと変わらない声。
それが目の前にある。
「…………」
フェンリスは思わず見つめてしまった。
「……フェンリス?」
「……あっ! お、おはよう!」
慌てて返事をする。
和真はそんな彼女を見て、少し驚いたようだった。
「悪いな、こんな朝早くに」
「べ、別にいいよ! ちょうど起きたところだったし!」
「そ、そうか?」
「うん!」
元気よく答えるフェンリス。
しかし、その姿はどう見ても寝起きだった。
銀色の髪はあちこち跳ね、毛先の淡い桃色も絡まっている。
大きな尻尾は普段のように整っておらず、少しぼさぼさだ。
さらに、慌てて起きたせいだろう。
肩の服が大きくずり落ち、ブラジャーの一部が覗いていた。
「…………」
和真の視線が止まった。
ほんの少しの間だったが、思わず凝視してしまう。
「……和真?」
「……っ!」
呼ばれて我に返った和真が、慌てて顔を逸らす。
「わ、悪い!」
「え?」
フェンリスが不思議そうに首を傾げる。
そして、和真の視線が向いていた場所を確かめた。
「…………っ!!」
自分の肩を見た瞬間、顔が一気に真っ赤になった。
「な、なななっ!?」
慌てて服を引き上げる。
「み、見た!?」
「ご、ごめん! わざとじゃない!」
「ば、馬鹿! どこ見てるんだよ!」
「本当に悪い!」
和真は顔を背けたまま謝った。
フェンリスも胸元を押さえ、真っ赤な顔で俯いている。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
朝の冷たい風が、二人の間を通り抜けていった。
いつもなら、フェンリスが強気な言葉で誤魔化していただろう。
和真も冗談を言って笑っていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
久しぶりすぎて、何を話せばいいのか分からない。
フェンリスは服の裾をぎゅっと握った。
ずっと会いたかった。
顔が見たかった。
声が聞きたかった。
それなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。
「……なあ、フェンリス」
「……な、何?」
「最近、仕事忙しいのか?」
「……うん」
「そっか」
和真は少し困ったように笑った。
「全然見かけないからさ。ちょっと心配してたんだ」
「……心配?」
「ああ。飯も食べに来ないし、最近は声も聞かないだろ?」
「…………」
「無理してないか?」
その言葉に、フェンリスの胸がぎゅっと締めつけられた。
心配してくれていた。
自分がいないことに、気づいてくれていた。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……だ、大丈夫だよ!」
フェンリスは頑張って笑った。
「ちょっと忙しいだけだから! 仕事にも慣れてきたし、僕なら平気だよ!」
「そうか。でも、ちゃんと休めよ?」
「うん!」
「飯もちゃんと食ってるか?」
「た、食べてるって!」
「ならいいけどさ」
和真はほっとしたように息をついた。
そして、少し照れくさそうに頭を掻く。
「……まあ、今日は顔が見られてよかったよ」
「…………え?」
「もう一か月近く会ってなかっただろ?」
和真は笑った。
「久しぶりに会えてよかった」
「…………」
フェンリスの耳がぴんと立った。
大きな尻尾が、ゆっくりと左右に揺れる。
「……ほ、本当?」
「ああ」
「…………」
フェンリスは唇をきゅっと結んだ。
嬉しい。
嬉しくてたまらなかった。
ずっと我慢してきたものが、今にも溢れそうになる。
それでも、泣きそうな顔を見せたくなくて。
「……僕も」
小さく呟く。
「……僕も、和真に会えて嬉しいよ」
和真は一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、優しく笑う。
「そっか」
「……うん!」
フェンリスも、ようやく自然に笑えた。
その笑顔を見て、和真も安心したようだった。
「じゃあ、そろそろ行くな」
「……え?」
「今日からユエと旅行なんだ。みんな待ってるし」
「…………あ」
そうだった。
今日はユエとの旅行。
自分ではない誰かと、和真が二人きりで出かける日。
分かっていたことなのに。
目の前の和真に夢中で、すっかり忘れていた。
「……そっか」
「ああ。一泊二日だから明日には帰ってくる」
「……うん」
「それじゃ、行ってきます」
和真が軽く手を上げる。
フェンリスも慌てて手を振った。
「……行ってらっしゃい!」
「おう!」
和真は笑顔で答え、母屋の方へ歩いていった。
フェンリスは、その背中を見送った。
久しぶりに話せた。
笑ってくれた。
心配もしてくれた。
それだけで、今日は何でも頑張れそうな気がした。
けれど。
母屋の前まで戻った和真に、ユエが声をかける。
和真が何か答えると、ユエは呆れたように笑った。
二人は並んで歩き始める。
「…………」
フェンリスの笑顔が、ゆっくりと消えた。
胸の奥が痛い。
さっきまであんなに嬉しかったのに。
和真が別の女性と並んで歩いている。
楽しそうに話している。
自分が本当なら隣にいたかった場所に、今は別の誰かがいる。
「……っ」
フェンリスは慌てて部屋へ戻った。
扉を閉める。
カチャリと鍵をかけた瞬間。
身体から力が抜けた。
扉に背中を預け、そのままずるずるとしゃがみ込む。
「…………っ」
目から涙が落ちた。
一粒。
また一粒。
止めようと思っても、止まらなかった。
「……会えた……」
震える声が漏れる。
「……やっと……会えたのに……」
両手で顔を覆う。
嬉しかった。
声をかけてもらえたことが。
心配してもらえたことが。
顔を見られてよかったと言ってくれたことが。
どうしようもなく嬉しかった。
なのに。
「……なんで……」
涙が指の隙間からこぼれる。
「……なんで、こんなに……」
悲しいのだろう。
自分で皆を先に行かせた。
自分が旅行を延期した。
だから、誰も悪くない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
「……僕だって……」
かすれた声が、静かな部屋に響いた。
「……和真と……一緒に……」
それ以上は言葉にならなかった。
フェンリスは膝を抱え、顔を埋めた。
肩が小さく震える。
大きな尻尾も、力なく床へ横たわっていた。
しばらくして。
コン、コン。
「……フェンリス?」
「…………っ!」
突然の声に、フェンリスは顔を上げた。
みゆだった。
「フェンリス、起きてる?」
「…………」
慌てて涙を拭う。
「お、起きてるよ!」
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
フェンリスは目元を何度も擦った。
今は駄目だ。
こんな顔を見られたら、何を聞かれるか分からない。
「……ごめん、みゆ」
「ん?」
「今日は仕事が忙しいんだ。もう準備しなきゃいけないから……夜か、明日にしてもらっていい?」
扉の向こうで、少し間が空いた。
「……そっか」
「……うん」
「じゃあ、夜また来るね」
「……分かった」
「仕事、気をつけてね」
「……ありがと」
遠ざかる足音。
みゆが自分の部屋へ戻っていく。
フェンリスはしばらく動かなかった。
やがて、大きく息を吸い込む。
「……よし」
両頬を軽く叩いた。
「……仕事、行かなきゃ」
立ち上がり、洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、ひどいものだった。
寝癖だらけの髪。
赤くなった目。
涙の跡。
「……馬鹿みたいだ、僕……」
小さく笑ってみせる。
顔を洗い、髪を整え、いつもの服へ着替える。
出勤の準備を終えた頃には、少しだけ普段の表情を取り戻していた。
フェンリスは鏡に向かって、もう一度笑ってみせる。
「……大丈夫。僕は大丈夫だから」
そう呟き、鞄を手に取った。
◇
一方、その頃。
和真とユエは最寄りの駅から電車を乗り継ぎ、東京駅へ向かっていた。
朝の車内はまだ混雑しておらず、二人は並んで座ることができた。
「それにしても、金沢か。楽しみだな」
「ふふっ。和真の方が楽しみにしているみたいね」
「そりゃ楽しみだろ。観光も飯もうまそうだし」
「あなた、本当に食べることが好きね」
「旅行の楽しみの半分は食事だろ?」
「否定はしないけれど」
ユエは小さく笑った。
今日のユエは、普段とは少し違う服装をしていた。
落ち着いた色合いのニットに、膝下まであるロングスカート。上からは秋冬用のコートを羽織り、足元は歩きやすいブーツでまとめている。
派手さはないが、彼女の大人びた雰囲気によく似合っていた。
「そういえば、その服も新しく買ったのか?」
「ええ。旅行に合わせて用意したの。どうかしら?」
「いいんじゃないか? ユエらしくて似合ってるよ」
「……そう。ありがとう」
ユエは満足そうに微笑んだ。
「あなたは、もう少し服装に気を使ってもいいと思うけれど」
「えっ、俺の服、変か?」
「変ではないわ。ただ、いつも似たような格好でしょう?」
「動きやすいのが一番だからな」
「もう……。せっかく一緒に出かけるんだから、少しくらいお洒落を楽しみなさいよ」
「そう言われてもなあ……」
和真が困ったように笑うと、ユエは呆れたように肩をすくめた。
「今度、服を買う時は私も付き合ってあげるわ」
「お、頼むよ」
「その代わり、私が選んだものに文句を言わないこと」
「いや、それはちょっと怖いな」
「失礼ね。そんなに変な服を選ぶと思っているの?」
「そういうわけじゃないけどさ」
そんな何気ない会話を交わしているうちに、電車は東京駅へ到着した。
構内は朝から多くの旅行客で賑わっていた。
大きな鞄を持った家族連れや、友人同士で楽しそうに話す人々。
案内表示を確認しながら、二人は北陸新幹線のホームへ向かった。
「お、あれだな」
ホームには、すでに新幹線が停車していた。
白と青を基調に、銅色のラインが走る車体。
ユエは興味深そうに眺めている。
「……いつ見ても不思議ね」
「何が?」
「これだけ大きな乗り物が、あんな速度で走るなんて」
「確かに、改めて考えるとすごいよな」
「しかも、魔法を使わずにね」
「そうだな。この世界の技術もなかなかのもんだろ?」
「ええ。認めるわ」
ユエは小さく笑った。
指定席を確認し、二人は車内へ乗り込む。
和真が荷物を棚へ上げ、ユエが窓側の席に座った。
「窓側でよかったのか?」
「ええ。景色を見たいもの」
「了解。じゃあ俺は通路側だな」
やがて発車時刻を迎え、新幹線が静かに動き始めた。
徐々に速度が上がり、窓の外の景色が流れていく。
「……本当に滑らかね」
「だろ?」
「これだけ速く走っているのに、あまり揺れないのがすごいわ」
ユエは窓の外を眺めながら、感心したように呟いた。
しばらくすると、和真が鞄から二本の飲み物を取り出した。
「ほら、ユエ」
「ありがとう」
ユエは温かいお茶を受け取った。
「そういえば、今日の予定はどうなっているの?」
「到着したら旅館に荷物を預けて、まずは昼飯。そのあとひがし茶屋街を見て回るつもりだ」
「夕方は?」
「時間があれば金沢城公園にも寄りたいな。夜は兼六園のライトアップを見に行こうと思ってる」
「随分と盛りだくさんね」
「せっかく来たんだから、色々見たいだろ?」
「そうね。でも、あまり予定を詰め込みすぎないでちょうだい」
「分かってるよ。疲れたら途中で休憩するし、予定は変えてもいいからな」
「それなら安心ね」
ユエはお茶を一口飲み、ほっと息をついた。
「ところで、和真」
「ん?」
「あなた、金沢には来たことがあるの?」
「いや、観光するのは初めてだな」
「あら、そうなの?」
「ああ。だから今回は俺も楽しみなんだよ」
「ふふっ。それなら二人とも初めてね」
「そういうことだ」
ユエは再び窓の外へ視線を向けた。
高い建物が次第に少なくなり、遠くには山並みが見え始めていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「こうして旅行していると、少し不思議な気分になるわ」
「どうして?」
「私がこの世界で、こんなふうに暮らすことになるなんて思ってもいなかったから」
「……まあ、そうだよな」
「最初は何もかも分からなかったもの。機械も、生活の仕組みも、仕事のことも」
ユエは小さく笑った。
「でも、最近は少しずつ慣れてきたわ」
「パソコンの勉強も頑張ってるもんな」
「ええ。まだ覚えることは多いけれど、できることが増えるのは楽しいわね」
「そりゃよかった」
「あなたにも感謝しているわ」
「俺に?」
「ええ。色々教えてもらったもの」
「そんな大したことしてないだろ」
「そういうところよ」
「何が?」
「……何でもないわ」
ユエは呆れたように笑い、再び窓の外へ顔を向けた。
和真もそれ以上は聞かなかった。
やがて、車内販売の案内を見つけた和真が端末を取り出す。
「……おっ」
「どうしたの?」
「アイスがあるみたいだぞ」
「……あなた、もう食べるの?」
「いや、まだ買うとは言ってないだろ」
「顔に書いてあるわよ」
「そんなに分かりやすいか?」
「ええ、とても」
結局、和真はアイスを一つ注文した。
「ユエも食べる?」
「私はいいわ。さっき朝食を食べたばかりでしょう?」
「そっか」
和真が蓋を開け、スプーンを差し込む。
しかし。
「……硬っ!」
「どうしたの?」
「スプーンが入らない……」
ユエが覗き込む。
「……本当ね」
「新幹線のアイスって硬いって聞いてたけど、ここまでとは……」
「少し待てばいいんじゃない?」
「そうするしかないな……」
和真は残念そうにアイスをテーブルへ置いた。
その様子を見て、ユエが小さく吹き出す。
「ふふっ……!」
「そんなに笑うことか?」
「だって、あなたの顔が……」
「いや、楽しみにしてたんだぞ?」
「分かっているわ。だから余計におかしいのよ」
和真は苦笑しながら、溶けるのを待つことにした。
しばらくして、ようやくスプーンが入るようになる。
「お、いけた!」
「よかったわね」
「……なんか子供扱いされてないか、俺?」
「気のせいよ」
ユエは楽しそうに笑った。
こうして他愛のない会話を交わしているうちに、新幹線は長野を越え、北陸へ向かって走り続けた。
◇
昼が近づく頃。
新幹線は金沢駅へ到着した。
「おお、着いた!」
ホームへ降り立った和真が、大きく伸びをする。
「結構あっという間だったな」
「そうね。景色を見ていたら、退屈する暇もなかったわ」
ユエも鞄を持ち直し、和真の隣へ並んだ。
改札を抜け、駅の東口へ向かう。
そして、外へ出た瞬間。
「……あら」
ユエが足を止めた。
目の前には、大きなガラス張りの屋根。
その先には、二本の巨大な木造の柱が曲線を描くように立っていた。
「おお、これが鼓門か!」
和真も思わず声を上げた。
写真では見たことがあったものの、実物は想像以上の迫力だった。
「随分と変わった形ね」
「鼓をイメージして作られたらしいぞ」
「鼓?」
「ああ。日本の伝統的な楽器だな」
「なるほど……」
ユエは興味深そうに門を見上げる。
巨大な木の柱が複雑に組み合わさり、その奥には近代的な駅舎が広がっている。
「昔ながらのものと、新しいものを組み合わせているのね」
「そうみたいだな」
「面白いわ」
ユエは少し離れた場所まで歩き、門の全体を眺めた。
「和真、写真を撮ってもらってもいい?」
「もちろん」
和真は端末を構えた。
ユエは鼓門の前へ立ち、軽く髪を整える。
「じゃあ撮るぞ。はい、チーズ」
カシャッ。
「どう?」
「いい感じだな。ほら」
画面を見せると、ユエは満足そうに頷いた。
「ええ、綺麗に撮れているわね」
「もう一枚撮る?」
「そうね。今度は少し離れたところからお願い」
「了解」
角度を変えて、もう一枚。
さらにユエからの提案で、和真も一緒に写真へ入ることになった。
「せっかく二人で来たのだから、一緒に撮っておきましょう」
「そうだな」
近くにいた観光客へお願いし、鼓門を背景に二人で並ぶ。
「もう少し寄ってください」
撮影を引き受けてくれた女性に言われ、和真が少しユエへ近づいた。
「このくらいですか?」
「はい、いいですよ!」
カシャッ。
撮ってもらった写真を確認すると、二人とも自然な笑顔を浮かべていた。
「お、いい写真だな」
「ええ。あとで私にも送ってちょうだい」
「もちろん」
女性へお礼を伝え、二人は再び歩き始めた。
「さて、まずは旅館だな」
「荷物を預けるのよね?」
「ああ。身軽になってから観光しよう」
和真は端末で道順を確認する。
バスを利用して旅館へ向かい、荷物を預けることにした。
◇
旅館へ到着した二人は、受付で荷物を預けた。
建物は落ち着いた和風の造りで、入口には季節の花が飾られていた。
「……いい雰囲気ね」
「だろ? 口コミもよかったんだ」
「あなた、結構調べたのね」
「まあな。せっかくの旅行だし」
受付を済ませ、身軽になった二人は再び外へ出た。
「さて、そろそろ昼飯にしようか」
「そうね。私も少しお腹が空いたわ」
「じゃあ、近江町市場へ行こう」
「市場?」
「ああ。魚介類が有名なんだ。海鮮丼とか、うまそうな店がたくさんあるらしいぞ」
「それは楽しみね」
二人は近江町市場へ向かった。
市場の入口へ近づくと、周囲の賑わいが一段と大きくなる。
店先には新鮮な魚介類が並び、威勢のいい声が響いていた。
「いらっしゃい! カニ、見てって!」
「甘エビもあるよ!」
「おお、すごいな!」
和真が目を輝かせる。
並べられた魚の大きさや種類に、思わず足を止めてしまう。
「見ろよ、ユエ。カニがでかい!」
「本当ね。随分と立派だわ」
「今の時期はカニがうまいんだよなあ……」
「買って帰るつもり?」
「いや、さすがに生ものはな。帰るのは明日だし」
「でしょうね」
ユエは小さく笑った。
市場の中には、魚介類だけでなく、野菜や果物を扱う店も並んでいた。
「……あら、見たことのない野菜があるわ」
ユエが足を止める。
「どれ?」
「これよ。随分と変わった形ね」
「ああ、加賀野菜だな」
「加賀野菜?」
「この辺りで昔から作られてきた野菜らしいぞ」
「へえ……」
ユエは興味深そうに眺めた。
「同じ野菜でも、土地によって色々違うのね」
「そうだな。料理も独特なものがあるみたいだぞ」
「それなら、夕食も楽しみね」
「ああ。旅館の料理も結構評判いいらしいからな」
そんな話をしながら、市場の中を歩いていく。
途中、店先に並べられていた大きな甘エビを見つけ、ユエが感心したように呟いた。
「……綺麗な色ね」
「甘エビか。食べてみる?」
「ええ。でも、お昼に海鮮丼を食べるのでしょう?」
「そうだったな」
「もう……。そんなに食べたら、お昼が入らなくなるわよ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
ユエの言葉に、和真は思わず笑ってしまった。
◇
市場の中をしばらく歩いた二人は、海鮮丼を提供する店へ入った。
昼時ということもあり、店内は賑わっている。
少し待ってから席へ案内され、二人はメニューを開いた。
「……おお」
和真が目を輝かせる。
「見ろよ、ユエ。どれもうまそうだぞ」
「本当ね。種類も多いわ」
「迷うなあ……」
和真はメニューを何度も見比べる。
そんな様子を見て、ユエは呆れたように笑った。
「そんなに悩むこと?」
「いや、せっかくだし色々食べたいだろ?」
「なら、具材がたくさん乗っているものを選べばいいんじゃない?」
「……なるほど!」
「今、思いついたような顔をしたわね」
「いや、言われてみればそうだなって」
「まったく……」
結局、和真は豪華な海鮮丼を注文した。
ユエも少し小ぶりの海鮮丼を選ぶ。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
「おお……!」
和真が思わず声を上げる。
丼の上には、色鮮やかな刺身が所狭しと並んでいた。
マグロ、ブリ、甘エビ、イクラ。
さらに季節の魚も盛りつけられている。
「すごいな、これ……」
「見た目も綺麗ね」
ユエも感心したように眺める。
「それじゃ、いただきます!」
「いただきます」
二人は箸を手に取り、最初の一口を味わった。
「…………!」
和真の表情がぱっと明るくなる。
「うまっ!」
「……本当ね」
ユエも目を細めた。
「新鮮だからかしら。魚の旨味がしっかりしているわ」
「だろ? こっちのブリも食ってみろよ」
「ええ」
ユエは一切れを口へ運んだ。
「……美味しい」
「脂が乗ってるだろ?」
「ええ。でも、しつこくないわね」
「冬のブリはうまいからな」
和真は嬉しそうに頷いた。
そのあとも二人は、料理を一口ずつ味わいながら食事を楽しんだ。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「あなた、本当に幸せそうね」
「そりゃそうだろ。こんなうまいもん食べてるんだから」
「ふふっ。見ているこっちまで楽しくなるわ」
「ユエも結構嬉しそうだけどな」
「あら、そう?」
「ああ。さっきからずっと笑ってるぞ」
「……そうかもしれないわね」
ユエは小さく微笑んだ。
普段は落ち着いていて、何事にも冷静な彼女。
しかし、今日のユエはいつもより表情が柔らかかった。
知らない土地を歩き、初めての景色を見て、美味しいものを食べる。
そんな何気ない時間が、彼女にとって新鮮なのだろう。
和真も自然と笑顔になる。
「……連れてきてよかったよ」
「え?」
「いや、楽しそうでよかったなって」
「……ふふっ」
ユエは少しだけ照れたように笑った。
「まだ旅行は始まったばかりでしょう?」
「そうだな」
「これからも、しっかり楽しませてもらうわよ」
「任せとけ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
昼食を終え、店を出る頃には、二人ともすっかり満腹になっていた。
「ふう……食った食った」
「本当に満足そうね」
「ああ。もうこれだけでも金沢に来た甲斐があったな」
「まだ観光が残っているでしょう?」
「もちろん忘れてないって」
和真は端末を取り出し、次の目的地を確認する。
「次は、ひがし茶屋街だな」
「古い町並みが残っている場所ね」
「ああ。歩いて行ける距離だし、腹ごなしにもちょうどいいだろ」
「そうね。私も少し歩きたいわ」
二人は市場の賑わいを後にし、歴史ある町並みが残る東山方面へと歩き始めた。
冷たい風が頬を撫でる。
見知らぬ街を並んで歩きながら、和真とユエはこれから訪れる場所について楽しそうに話し続けていた。
◇
近江町市場を後にした二人は、ひがし茶屋街を目指して歩いていた。
昼過ぎの金沢は、秋の終わりを感じさせる冷たい風が吹いている。
通り沿いの木々にはまだ紅葉が残り、歩道には赤や黄色の落ち葉が散っていた。
「……少し寒くなってきたわね」
ユエがコートの襟元を軽く押さえる。
「大丈夫か? もう少し厚着してくればよかったな」
「平気よ。これくらいなら問題ないわ」
ユエはそう言って、軽く微笑んだ。
街を歩くユエは、すっかりこの世界に馴染んでいるように見えた。
「それにしても、ユエってこういう服も似合うよな」
「……あら、突然どうしたの?」
「いや、普段の格好と結構違うからさ」
「ふふっ。褒め言葉として受け取っておくわ」
「普通に褒めてるんだけどな」
「そう? なら、ありがとう」
ユエは少し楽しそうに笑った。
「それにしても、あなたが選んでくれた旅館もそうだけれど、この街もなかなか素敵ね」
「まだ目的地に着いてないぞ?」
「分かっているわ。でも、こうして知らない街を歩くだけでも楽しいもの」
「そういうもんか」
「ええ。あなたもそうでしょう?」
「まあな。知らない店とか見つけると、つい入りたくなるし」
「……また食べ物の話?」
「違うって!」
ユエがくすくすと笑う。
和真もつられて笑いながら、隣を歩き続けた。
◇
しばらくして、二人は浅野川に架かる橋へ差しかかった。
「……あら、綺麗」
ユエが足を止める。
穏やかに流れる川の両岸には、昔ながらの建物が並んでいた。
川沿いの木々は赤や黄色に色づき、水面には秋の空が映り込んでいる。
「ここが浅野川だな」
「へえ……」
ユエは橋の欄干へ近づき、川を見下ろした。
「こういう景色、好きだわ」
「写真撮るか?」
「ええ。お願いできる?」
「もちろん」
和真は端末を取り出し、ユエへカメラを向ける。
ユエは欄干に片手を添え、川を背景に振り返った。
長い金髪が風に揺れ、赤い毛先がコートの上でふわりと広がる。
「そのまま、そのまま」
「……こう?」
「ああ、いい感じ」
カシャッ。
「撮れたぞ」
和真が画面を見せると、ユエは少し目を丸くした。
「……あら」
「どうだ?」
「随分と綺麗に撮れているわね」
「モデルがいいからな」
「……ふふっ。随分と口が上手くなったじゃない」
「本当のことだって」
「はいはい。ありがとう」
ユエは笑いながら写真を確認していた。
そして、ふと思いついたように顔を上げる。
「今度は私が撮ってあげるわ」
「俺を?」
「ええ。せっかくの旅行なんだから、あなたの写真も残しておかないと」
「じゃあ頼むよ」
和真は橋の中央付近へ移動した。
「こんな感じか?」
「もう少し右ね」
「こう?」
「ええ。もう少し笑って」
「いや、急に言われてもな……」
「さっき海鮮丼を食べていた時の顔を思い出したら?」
「どんな顔してたんだよ、俺!」
「とっても幸せそうだったわよ?」
思わず笑ってしまった和真。
その瞬間。
カシャッ。
「……はい、撮れたわ」
「おい、今の絶対変な顔だろ!」
「いいえ。なかなかいい笑顔よ」
ユエが画面を見せる。
そこには、少し口を開けて笑っている和真が写っていた。
「……なんか間抜けな顔してないか?」
「自然でいいじゃない」
「そうか?」
「ええ。私は好きよ、こういう写真」
ユエは満足そうに頷いた。
「あとで送っておくわね」
「おう、ありがとな」
二人は橋を渡り、ひがし茶屋街へと向かった。
◇
「おお……!」
通りへ足を踏み入れた和真が、思わず声を漏らす。
そこには、先ほどまでとはまるで違う景色が広がっていた。
石畳の道。
格子戸が美しい木造の建物。
軒先には暖簾が揺れ、昔ながらの町家が整然と並んでいる。
観光客の姿も多いが、不思議と落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「……素敵ね」
ユエがゆっくりと歩き出す。
「まるで昔の時代に来たみたいだわ」
「江戸時代の雰囲気が残ってる場所らしいぞ」
「江戸時代?」
「ああ。昔の日本の時代だな」
「なるほど……」
ユエは興味深そうに建物を見上げた。
「この格子も綺麗ね」
「木虫籠っていうらしいぞ」
「きむしこ?」
「『きむすこ』って読むんだ。外から中が見えにくい造りになってるらしい」
「へえ……。見た目だけじゃなくて、ちゃんと意味があるのね」
ユエは格子の細工を眺めながら感心していた。
「こういう建築は面白いわ。異世界の建物とは考え方が違うもの」
「そうなのか?」
「ええ。もちろん似たようなものもあるけれど、材料の使い方や細かい装飾が違うのよ」
「へえ。今度その辺の話も聞いてみたいな」
「構わないわよ。建築の専門家というわけではないけれどね」
二人はゆっくりと通りを歩いた。
途中、土産物店の前で足を止めたり、店先に並べられた伝統工芸品を眺めたり。
ユエは気になるものを見つけるたびに和真へ質問し、和真も端末で調べながら答えていた。
そんな中。
「……あら?」
ユエがある店の前で立ち止まった。
「どうした?」
「これ、何かしら?」
彼女が指差した先には、金色に輝く小さな器や装飾品が並んでいた。
「ああ、金箔だな」
「金箔?」
「金をものすごく薄く延ばしたものだよ。金沢はそれが有名なんだ」
「……金を薄く?」
「ああ。驚くほど薄いんだぞ」
ユエは店先の展示を眺めた。
「……随分と綺麗ね」
「中、入ってみるか?」
「ええ。少し見てみたいわ」
店内へ入ると、金箔を使った食器やアクセサリー、小物などが並んでいた。
照明を受けて、どれも美しく輝いている。
「……すごいわね」
ユエは小さな手鏡を手に取った。
「これも金箔なの?」
「ああ、そうみたいだな」
「細かい模様まで作れるのね……」
その時、店員が二人へ声をかけた。
「よろしければ、金箔貼りの体験もできますよ」
「体験?」
和真が振り返る。
「はい。小皿などに金箔を貼って、オリジナルの作品を作れるんです」
「へえ、面白そうだな!」
和真はユエへ顔を向けた。
「やってみる?」
「……そうね。せっかくだし、挑戦してみたいわ」
「よし、決まりだな!」
二人は店員に案内され、体験用の席へ向かった。
◇
テーブルの上には、小さな皿と道具が並べられていた。
店員から説明を受け、二人はそれぞれ好きな模様を作ることになった。
「まずは、貼りたい部分に合わせて模様を決めてくださいね」
「なるほど……」
和真は皿を見つめながら考える。
「ユエは何にする?」
「そうね……私は星を散りばめた模様にしようかしら」
「お、いいな!」
「和真は?」
「俺は……そうだな。紅葉にしてみるか」
「あら、季節に合っていて素敵じゃない」
「だろ?」
和真は自信満々に笑った。
しかし。
いざ作業を始めてみると、思っていた以上に難しかった。
「……あれ?」
和真が首を傾げる。
細かい模様を作ろうとするが、思うようにいかない。
慎重に作業しているつもりなのに、少しずつ形が崩れてしまう。
「……おかしいな」
「どうしたの?」
「いや、なんか……紅葉にならない」
ユエが手元を覗き込む。
「…………」
「……何か言ってくれよ」
「……これは、何?」
「紅葉だよ!」
「……そう」
「その間は何だよ!」
ユエは口元を押さえた。
「……ふふっ」
「笑ってるだろ!」
「ご、ごめんなさい。だって……」
ユエはもう一度、和真の皿を見た。
「……少し、不思議な形をしているんだもの」
「不思議ってなんだ!」
和真が抗議すると、ユエはとうとう声を出して笑ってしまった。
「ふふふっ……!」
「そんなに面白いか?」
「ええ……ごめんなさい……ふふっ……」
普段は冷静なユエが、肩を震わせて笑っている。
和真は呆れながらも、その様子につられて笑ってしまった。
「……まあ、いいか。これも思い出だな」
「ふふっ……そうね」
ユエは目元を軽く拭い、作業へ戻った。
一方、彼女の皿には綺麗な星模様が少しずつ出来上がっていた。
中央には大きな星。
その周囲に、小さな星が散りばめられている。
「……おお、すごいな!」
和真が覗き込む。
「めちゃくちゃ綺麗じゃないか!」
「そう? ありがとう」
「いや、本当にうまいな。初めてだろ?」
「ええ。でも、こういう細かい作業は嫌いじゃないわ」
「なるほどな……」
和真は自分の皿と見比べた。
「……なんか悔しいな」
「ふふっ。和真のも、味があっていいと思うわよ?」
「今、無理して褒めただろ」
「そんなことないわ」
「絶対嘘だ!」
再び二人の笑い声が響いた。
やがて作業が終わり、完成した小皿が並べられる。
ユエの皿には、美しい星模様。
和真の皿には、少し形の崩れた紅葉らしき模様。
「……こうして並べると、差がすごいな」
「ふふっ。でも、どちらも世界に一つだけの作品でしょう?」
「まあ、それはそうだな」
ユエは二つの皿を眺めた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「よかったら、交換しない?」
「え?」
「あなたの作品を、私にちょうだい」
「いや、でも……俺のはこんな出来だぞ?」
「いいのよ。せっかく一緒に作ったんだもの」
ユエは柔らかく微笑んだ。
「あなたが作ったものを、旅行の記念に持って帰りたいわ」
「……そっか」
和真は少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、交換するか」
「ええ」
二人は互いの小皿を交換した。
「大切にするわね」
「俺も大事にするよ」
ユエは自分の鞄へ、店員が丁寧に包んでくれた小皿をしまった。
「……ふふっ」
「どうした?」
「いいえ。こういう思い出の残し方も、なかなかいいものね」
「そうだな。また別の場所でも何か作ってみるか?」
「ええ。でも、次はもう少し練習してからの方がいいかもしれないわね」
「……俺のことか?」
「さあ、誰のことかしら?」
「絶対俺だろ!」
ユエは楽しそうに笑った。
◇
金箔貼り体験を終えた二人は、再び茶屋街の散策を始めた。
先ほどよりも観光客が増え、通りには賑やかな声が響いている。
「……あら、あそこは何のお店?」
ユエが指差した先には、和風の暖簾が掛かった甘味処があった。
「甘味処みたいだな」
「へえ……」
ユエは店先に置かれたメニューを眺める。
抹茶、上生菓子、ぜんざい。
どれも美味しそうな写真が並んでいた。
「……ちょっと気になるわね」
「入ってみるか?」
「でも、さっきお昼を食べたばかりでしょう?」
「まあ、もう結構歩いたしな。甘いものくらいなら入るだろ」
「……あなた、本当に食べることが好きね」
「ユエも食べたいんだろ?」
「……まあ、少しだけ」
「よし、行こう!」
「もう……」
ユエは呆れたように笑いながら、和真のあとに続いた。
店内は落ち着いた和風の造りだった。
木のテーブルに座布団。
窓からは、茶屋街の町並みが見える。
二人は窓際の席に案内された。
「さて、何にする?」
「そうね……」
ユエはメニューを開く。
「この上生菓子というのは?」
「ああ。季節の花とかを形にした和菓子だな」
「……綺麗ね」
写真には、紅葉を模した小さな菓子が載っていた。
「これにしようかしら」
「抹茶とのセットか。いいな」
「和真は?」
「俺はぜんざいにしようかな」
「ぜんざい?」
「ああ。小豆を甘く煮たものに餅が入ってるんだ」
「へえ……」
ユエは少し興味深そうに目を細めた。
「それも美味しそうね」
「じゃあ、少し分けるか?」
「あら、いいの?」
「もちろん。俺もユエの菓子、少しもらっていい?」
「ふふっ。仕方ないわね」
二人はそれぞれ注文した。
しばらくして、料理が運ばれてくる。
ユエの前には、紅葉を模した上生菓子と抹茶。
和真の前には、温かいぜんざいが置かれた。
「……綺麗」
ユエが小さく呟く。
「食べるのがもったいないくらいね」
「そうだな。でも、食べないともったいないぞ?」
「分かっているわよ」
ユエは小さな菓子切りで和菓子を切り分け、一口食べた。
「…………」
「どうだ?」
「……美味しいわ」
ユエの表情が柔らかくなる。
「優しい甘さね。口の中でほどける感じがするわ」
「へえ、いいな」
「和真も食べてみる?」
「おう」
ユエは小さく切り分けた菓子を、和真の皿へ乗せてくれた。
和真も一口食べる。
「……お、うまい!」
「でしょう?」
「あんこの甘さがちょうどいいな」
「ええ。抹茶の苦味ともよく合うわ」
今度は和真が、ぜんざいを少し取り分けた。
「ほら、こっちも食べてみろよ」
「ありがとう」
ユエは小さな器を受け取り、スプーンですくった。
「……あら」
「どうだ?」
「こっちは随分と甘いのね」
「甘すぎるか?」
「いいえ。美味しいわ」
ユエはもう一口食べた。
「お餅も柔らかくて、面白い食感ね」
「冬場はこういう温かい甘味がうまいんだよな」
「そうね。身体も温まるわ」
二人は窓の外を眺めながら、ゆっくりと甘味を楽しんだ。
通りを歩く観光客。
写真を撮る人々。
着物姿で散策する女性たち。
そんな景色を見ていたユエが、ふと口を開いた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「あの人たちが着ている服、着物よね?」
「ああ、そうだな」
「……綺麗ね」
ユエは窓の外の着物姿の女性を眺めていた。
「着てみたいのか?」
「……少し興味はあるわ」
「じゃあ、今度着てみるか?」
「え?」
「レンタル着物の店もあるみたいだぞ。今日はもう時間が厳しいかもしれないけど、また来た時にでもさ」
「……そうね」
ユエは小さく微笑んだ。
「その時は、あなたも着物を着てちょうだいね」
「俺も?」
「当然でしょう。私だけじゃつまらないもの」
「まあ、いいけど……似合うかな」
「ふふっ。私が選んであげるわ」
「……なんか嫌な予感がするな」
「あら、失礼ね」
ユエは楽しそうに笑った。
そして、残っていた抹茶をゆっくりと飲み干した。
◇
甘味処を出ると、少しずつ日が傾き始めていた。
茶屋街の建物には柔らかな午後の光が差し込み、格子戸の影が石畳に長く伸びている。
「……そろそろ次の場所へ向かうか」
和真が端末で時刻を確認する。
「そうね。でも、その前に少しお土産を見てもいい?」
「もちろん」
二人は近くの土産物店へ入った。
店内には金沢らしい工芸品や和菓子が所狭しと並んでいる。
「お、これいいな」
和真が手に取ったのは、金箔を使った菓子の詰め合わせだった。
「ピピが喜びそうだな」
「そうね。あの子、きっと金色に驚くでしょうね」
「『これ食べられるの!?』とか言いそうだな」
「ふふっ。言いそうね」
二人は思わず笑った。
「みゆには何がいいかな」
「甘いものが好きだし、和菓子でいいんじゃない?」
「そうだな。あおいも喜びそうだ」
「皆で分けられるものをいくつか買いましょう」
「了解」
二人は相談しながら、土産物を選んでいった。
そんな中、和真が一つの棚の前で足を止める。
「……あ」
「どうしたの?」
「いや、これ……」
和真が手に取ったのは、可愛らしい狼の絵が描かれた小さな菓子の箱だった。
「フェンリスにいいかなと思ってさ」
「……フェンリスに?」
「ああ。最近忙しそうだろ? たまには甘いものでも食べて、ゆっくりしてほしいし」
和真は箱を眺めながら笑った。
「今朝も久しぶりに会えたしな」
「……そうね」
ユエは静かに頷いた。
「きっと喜ぶと思うわ」
「そうだといいな」
和真はその菓子も買い物かごへ入れた。
会計を済ませ、店を出る。
ユエは歩きながら、和真へ顔を向けた。
「……和真」
「ん?」
「フェンリスのこと、やっぱり気になる?」
「そりゃ気になるよ。最近全然会ってなかったし」
「……そう」
「元気そうには見えたけど、やっぱり仕事が大変なんだろうな」
和真は少し考え込む。
「帰ったら、もう少し話してみるよ。休みの日くらい、ちゃんと休んでほしいしな」
「……ええ。そうしてあげて」
ユエは穏やかに微笑んだ。
和真も頷き、土産の入った袋を持ち直した。
「さて、次は金沢城公園だな」
「お城?」
「ああ。昔の城跡が公園になってるんだ。建物もいくつか復元されてるらしいぞ」
「それは興味深いわね」
「だろ? まだ明るいし、少し見て回ろう」
「ええ。楽しみだわ」
二人は再び歩き始めた。
◇
茶屋街を離れ、金沢城公園へ向かう道。
街路樹の葉が風に舞い、歩道へ落ちていく。
ユエは時折立ち止まり、気になった建物を眺めたり、街角の景色を端末で撮影したりしていた。
「……随分と写真を撮るようになったな」
和真が笑う。
「そう?」
「ああ。朝から結構撮ってるだろ?」
「だって、初めて見るものばかりなんだもの」
ユエは端末の画面を見せた。
そこには、鼓門や浅野川、茶屋街の写真が並んでいた。
さらに、先ほど作った金箔の小皿も写っている。
「……思い出は残しておきたいじゃない」
「そうだな」
和真は頷いた。
「そういえば、今日撮った写真、帰ったら皆にも見せるか?」
「ええ。もちろんよ」
「ピピが絶対騒ぎそうだな」
「ふふっ。そうね」
ユエは小さく笑った。
「でも、私としては、あなたのあの写真を見せてあげたいわ」
「……あの写真?」
「浅野川で撮った写真よ」
「ちょっと待て! あの変な顔のやつか!?」
「変な顔じゃないでしょう? とってもいい笑顔だったわよ」
「いや、絶対からかわれるって!」
「ふふふっ。楽しみね」
「ユエ!」
和真が抗議すると、ユエは笑いながら少し先を歩いていった。
その後ろ姿を見て、和真は呆れたように息をつく。
「……まったく」
しかし、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
普段は落ち着いていて、どこか大人びた雰囲気を漂わせるユエ。
けれど、こうして二人で出かけてみると、意外と冗談を言ったり、悪戯っぽく笑ったりすることが分かる。
いつも母屋で皆と過ごしている時とは、また少し違った一面だった。
「和真!」
少し先からユエが振り返る。
「早く来なさいよ。置いていくわよ?」
「はいはい、今行くよ!」
和真は小走りで追いついた。
「まったく、そんなに急がなくてもいいだろ」
「あら、あなたが遅いんじゃない?」
「写真のことでからかったのは誰だよ」
「さあ、誰かしら?」
「おいおい……」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。
やがて、大きな石垣が見えてくる。
「お、見えてきたな」
「……あれが金沢城?」
「ああ。公園の入口はもう少し先だ」
ユエは石垣を見上げた。
「……随分と立派ね」
「昔の城だからな。石垣も見どころの一つらしいぞ」
「そうなのね」
ユエは興味深そうに頷いた。
「それじゃ、行きましょうか」
「ああ!」
二人は並んで、金沢城公園へと向かっていった。
◇
◇
大きな石垣を横目に歩いていくと、やがて立派な門が見えてきた。
「おお、これが石川門か」
和真が足を止める。
白い壁と黒い瓦のような屋根が特徴的な門は、青空を背景に堂々とそびえ立っていた。
「……随分と立派ね」
ユエも見上げながら感心したように呟く。
「これが城の入口なの?」
「ああ。昔から残っている建物の一つらしいぞ」
「へえ……」
ユエは門へ近づき、壁や柱の細工を眺めた。
「かなり頑丈に造られているのね」
「そりゃ城だからな。敵が攻めてきた時のことも考えてあるんだろ」
「なるほど。確かに、入口を守るのは重要だものね」
ユエは門の奥を覗き込む。
「それにしても、この世界の城は面白いわ。私の知っている城とは随分違うもの」
「そうなのか?」
「ええ。向こうでは石造りの城も多かったし、防御に魔法を利用することもあったわ」
「ああ、そっか。魔法があるもんな」
「そういうこと。だから、魔法を使わずにこれだけのものを造るというのは興味深いわね」
ユエは満足そうに頷いた。
「よし、中に入ってみるか」
「ええ。行きましょう」
二人は門をくぐり、金沢城公園へ足を踏み入れた。
◇
門を抜けると、広々とした空間が目の前に広がった。
綺麗に整えられた芝生。
大きな石垣。
そして、長く続く白壁の建物。
「……広いなあ」
和真が思わず呟く。
「本当にね。これだけの敷地を使っていたなんて」
ユエも辺りを見渡していた。
少し歩くと、長く続く立派な建物が見えてくる。
「あれが五十間長屋だな」
「ごじっけんながや?」
「ああ。両端の櫓をつなぐ建物で、昔は武器なんかを保管していたらしいぞ」
「へえ……」
ユエは建物をじっと眺めた。
「随分と綺麗だけれど、昔からこのまま残っているの?」
「いや、復元されたものらしい。昔の資料を参考にして造り直したんだってさ」
「なるほど……。失われた建物を、もう一度造り直したのね」
ユエは感心したように頷いた。
「そういう技術が残されているのも素晴らしいわ」
「確かにな」
二人は建物の前を歩きながら、案内板に目を通した。
城の歴史。
建物の構造。
そして、かつてこの場所で暮らしていた人々のこと。
ユエは一つ一つを興味深そうに読んでいた。
「……和真」
「ん?」
「この城、昔は随分と大きかったのね」
「ああ。今は残ってない建物も結構あるみたいだな」
「そう……」
ユエは目の前の景色を眺めた。
「長い年月が経つと、どんなに立派なものでも失われてしまうのね」
「まあ、そうだな」
「でも、こうして残そうとする人たちがいる。素敵なことだと思うわ」
和真はユエの横顔を見た。
普段は少し冷静すぎるくらいの彼女が、今は目を輝かせながら景色を眺めている。
「……ユエって、本当にこういうの好きなんだな」
「ええ。歴史を知るのは面白いもの」
「なら、もっとこういう場所を旅行先に選んでもよかったかもな」
「あら、それもいいわね」
ユエは楽しそうに微笑んだ。
「次はお城巡りでもしてみようかしら」
「お、いいな。日本には有名な城がたくさんあるぞ」
「そうなの?」
「ああ。姫路城とか松本城とか、色々あるからな」
「へえ……」
ユエは少し考え込む。
「……全部回るのは大変そうね」
「そりゃそうだろ。全国にあるんだから」
「でも、いつか見てみたいわ」
「機会があればな」
「ふふっ。約束ね」
そう言って、ユエは笑った。
◇
しばらく公園内を散策していると、和真が石垣の前で足を止めた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや、石垣って場所によって積み方が違うんだな」
和真が指差した先には、大きさの異なる石が綺麗に組み合わされていた。
その近くには、形の整った石を隙間なく積み上げた場所もある。
「……本当ね」
ユエも近づいて眺める。
「こちらは石の形が揃っているけれど、あちらは随分と不揃いだわ」
「時代によって積み方が違うらしいぞ」
「なるほど……」
ユエは案内板を読みながら頷いた。
「石を加工する技術が変わったのね」
「そうみたいだな」
「でも、不揃いな石でも崩れないように積んであるのはすごいわ」
「ああ。どうやって組み合わせたんだろうな」
二人はしばらく石垣を眺めていた。
そんな中、和真がふと呟く。
「……そういえば、家の石垣も直さなきゃいけないところがあったな」
「……和真」
「ん?」
「まさか、これを参考に自分で直そうなんて考えていないでしょうね?」
「いや、そこまでは……」
「本当に?」
「……ちょっとだけ」
「もう!」
ユエが呆れたように額へ手を当てる。
「あなた、自分で何でもやろうとしすぎなのよ」
「いや、できることはやった方がいいだろ?」
「ものには限度があるでしょう? 専門の人に任せた方がいいこともあるの」
「……はい」
「まったく。旅行に来てまで仕事のことを考えないの」
ユエは和真の腕を軽く叩いた。
「今日は楽しむ日でしょう?」
「そうだったな」
「そうよ。ほら、次に行きましょう」
「了解」
和真は苦笑しながら、ユエのあとに続いた。
◇
公園内を歩いているうちに、太陽が少しずつ西へ傾き始めた。
秋の終わりということもあり、日が暮れるのは早い。
芝生の上には建物の長い影が伸び、冷たい風が吹き抜けていく。
「……そろそろ戻るか」
和真が時刻を確認する。
「もうそんな時間?」
「ああ。旅館の夕食もあるし、一度戻った方がいいな」
「そうね。まだ見たいところはあるけれど、今日はこのくらいにしておきましょう」
「また来た時にでもゆっくり見よう」
「ええ」
ユエは最後にもう一度、長く続く白壁の建物を振り返った。
「……いい場所だったわ」
「楽しめたか?」
「もちろん。こういう歴史のある場所を実際に歩くのは、なかなか面白いものね」
「それならよかった」
和真は笑顔で頷いた。
帰り際、二人は城を背景に記念写真を撮ることにした。
「ユエ、こっちに立ってくれ」
「ええ。ここでいい?」
「ああ、ちょうどいいな」
和真は少し離れて端末を構えた。
夕日に照らされた白壁を背景に、ユエが柔らかく微笑む。
長い金髪の毛先が、冷たい風に揺れていた。
カシャッ。
「お、いい感じだな」
「見せてちょうだい」
ユエが隣へ近づいてくる。
「……あら、綺麗ね」
「だろ?」
「でも、また私だけじゃない」
「ん?」
「和真も一緒に撮りましょう」
「またか?」
「当然でしょう。二人の旅行なんだから」
「はいはい」
「返事は一回」
「……はい」
ユエは満足そうに笑った。
近くにいた観光客にお願いし、二人並んだ写真も撮ってもらう。
撮影を終えたあと、ユエは画面を眺めながら小さく頷いた。
「……今日だけでも、随分と写真が増えたわね」
「そうだな。帰ったら整理しないとな」
「ふふっ。私はどれも残しておきたいわ」
「そんなに気に入ったか?」
「ええ。せっかくの思い出だもの」
ユエは端末を大切そうに鞄へしまった。
そして二人は、金沢城公園を後にした。
◇
旅館へ戻った頃には、外はすっかり夕暮れに包まれていた。
「お帰りなさいませ」
受付の従業員が、笑顔で二人を迎える。
和真は名前を伝え、部屋の鍵を受け取った。
荷物はすでに部屋へ運ばれているという。
「ありがたいな」
「そうね。荷物を気にせず観光できたもの」
二人は案内を受けながら、廊下を進んだ。
木の温もりを感じる落ち着いた造り。
足元には柔らかな絨毯が敷かれ、壁には季節の花を描いた絵が飾られている。
「……素敵な旅館ね」
ユエが周囲を眺める。
「気に入ったか?」
「ええ。とても落ち着いた雰囲気だわ」
「よかった」
部屋の前へ到着し、和真が扉を開ける。
「おお……!」
中に入った瞬間、思わず声が漏れた。
広々とした和室。
畳の香りが心地よく、障子の向こうには小さな庭が広がっている。
窓際には座椅子と低いテーブル。
その上には茶器と、旅館が用意した小さな菓子が置かれていた。
「……いい部屋じゃない」
ユエも満足そうに頷く。
「だろ? 写真で見た時からいいなと思ってたんだ」
「ふふっ。今回はなかなかいいところを選んだわね」
「今回はってなんだよ」
「あら、褒めているのよ?」
「なんか引っかかるなあ……」
和真は苦笑しながら荷物を置いた。
ユエは窓際へ歩き、庭を眺めている。
「……綺麗」
小さな庭には、赤く色づいたモミジが植えられていた。
その足元には石灯籠が置かれ、苔むした石が静かな雰囲気を作り出している。
「こういう庭も、日本ならではなのかしら」
「そうだな。日本庭園ってやつだ」
「自然の景色を、小さな空間にまとめているのね」
ユエは感心したように眺めていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「少し座って、お茶でも飲まない?」
「そうだな。歩き回って疲れたし」
二人は窓際の座椅子へ腰を下ろした。
和真がお湯を沸かし、備え付けの茶器でお茶を淹れる。
「ほら、ユエ」
「ありがとう」
湯呑みを受け取ったユエは、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「……ふう」
「どうだ?」
「美味しいわ。身体が温まるわね」
「外、結構寒かったもんな」
「ええ。でも、楽しかったわ」
ユエは庭へ視線を向けた。
「今日は本当に色々なものを見たわね」
「そうだな。まだ夜の観光も残ってるぞ」
「兼六園だったかしら?」
「ああ。今日はライトアップがあるんだ」
「楽しみね」
ユエは微笑みながら、もう一口お茶を飲んだ。
部屋には穏やかな時間が流れていた。
◇
しばらく休憩したあと、二人は夕食のために食事処へ向かった。
案内されたのは、落ち着いた雰囲気の半個室だった。
テーブルにはすでに前菜が並べられている。
「おお……!」
和真が思わず目を輝かせる。
「すごいな、これ」
「本当に綺麗ね」
ユエも感心したように眺めた。
小さな器には、季節の野菜や魚介類を使った料理が美しく盛りつけられていた。
紅葉の形をした飾りや、秋らしい色合いの器。
まるで一つの作品のようだった。
「それでは、本日のお料理をご説明いたします」
従業員が丁寧に説明を始める。
加賀野菜を使った前菜。
季節の魚のお造り。
そして、金沢の郷土料理。
ユエは一つ一つの説明に興味深そうに耳を傾けていた。
「……なるほど。土地の食材を大切にしているのね」
「そうだな。こういう料理は普段なかなか食べられないしな」
「ええ。楽しみだわ」
説明が終わると、二人は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
まずは前菜から。
ユエは小さな器の料理を口へ運んだ。
「……あら」
「どうだ?」
「美味しいわ。優しい味付けね」
「どれどれ……」
和真も一口食べる。
「……うまっ!」
ユエがくすりと笑う。
「あなた、本当に分かりやすいわね」
「だってうまいんだから仕方ないだろ」
「ふふっ。そうね」
その後も料理が順番に運ばれてきた。
新鮮な魚のお造り。
蓮根を使った温かな蒸し物。
香ばしく焼かれた魚。
どれも丁寧に調理されており、二人は一品ずつ味わいながら食事を楽しんだ。
やがて、少し深めの器に入った料理が運ばれてくる。
「こちらは、加賀の郷土料理、治部煮でございます」
「じぶに?」
ユエが首を傾げる。
「はい。鴨肉に小麦粉をまぶし、野菜やすだれ麩と一緒に煮込んだお料理です」
「へえ……」
ユエは興味深そうに器を覗き込んだ。
とろみのある出汁の中には、肉や野菜が美しく盛りつけられている。
「変わった料理ね」
「金沢では有名らしいぞ」
「そうなのね」
ユエは小さく切り分けた肉を口へ運んだ。
「…………!」
その表情が少し変わる。
「……美味しい」
「お、気に入ったか?」
「ええ。出汁にとろみがあって、肉も柔らかいわ」
和真も一口食べる。
「……おお、確かにうまい!」
「でしょう?」
「ああ。これはご飯が欲しくなるな」
「ふふっ。あなたらしい感想ね」
ユエは楽しそうに笑った。
「でも、こういう料理は面白いわ。食材自体はそれほど珍しくなくても、調理の仕方で随分と印象が変わるのね」
「そうだな」
「帰ったら、酒菜にも教えてあげたいわ」
「お、それいいな。酒菜なら作れそうだし」
「ええ。きっと興味を持つと思うわ」
二人は料理の話をしながら、食事を続けた。
◇
食事も終盤に差しかかった頃。
和真は満足そうに息をついた。
「……いやあ、うまかったな」
「そうね。どの料理も美味しかったわ」
ユエは湯呑みを手に取り、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「それに、料理の出し方も素敵だったわね」
「ん?」
「一度に全部並べるのではなく、順番に少しずつ出してくれるでしょう?」
「ああ、そうだな」
「温かい料理は温かいうちに、冷たい料理は冷たいまま。ちゃんと考えられているのね」
「なるほどな」
和真も頷いた。
「確かに、こういうところも旅館の楽しみだよな」
「ええ」
やがて、最後の甘味が運ばれてきた。
小さな器には、季節の果物と甘味が盛りつけられている。
「お、デザートだ!」
「……あなた、まだ食べられるの?」
「甘いものは別腹だろ?」
「もう……」
ユエは呆れたように笑いながら、自分の器へ手を伸ばした。
一口食べると、爽やかな甘さが口の中に広がる。
「……美味しいわね」
「だろ?」
「食後にはちょうどいいわ」
和真も嬉しそうに頷いた。
「よし、これで夜の観光も頑張れるな!」
「……食べすぎて動けないなんて言わないでちょうだいね?」
「大丈夫だって!」
「本当かしら……」
ユエは少し疑わしそうに和真を見た。
「……なんだよ、その目は」
「いいえ。何でもないわ」
そう言いながら、ユエは楽しそうに笑っていた。
◇
夕食を終えた二人は、部屋へ戻って上着を羽織った。
外はすでに暗くなり、窓の向こうには庭を照らす柔らかな明かりが灯っている。
「さて、そろそろ行くか」
和真が端末で時刻を確認する。
「ええ。準備はできたわ」
ユエは黒いコートを羽織り、長い髪を整えていた。
「寒そうだから、マフラーも持っていった方がいいぞ」
「そうね。ありがとう」
ユエは鞄からマフラーを取り出し、首元へ巻いた。
「これで大丈夫かしら?」
「ああ。似合ってるよ」
「ふふっ。ありがとう」
二人は旅館を出て、夜の金沢の街へ向かった。
昼間とは違い、通りには街灯の明かりが灯っていた。
店先から漏れる温かな光。
行き交う人々の話し声。
冷たい空気の中にも、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
「……夜の街も綺麗ね」
ユエが呟く。
「そうだな。昼間とはまた違った感じだよな」
「ええ。こうして歩くだけでも楽しいわ」
和真は端末で道順を確認した。
「兼六園はもう少し先だな」
「楽しみね」
二人は並んで歩き続けた。
◇
兼六園の入口へ到着すると、すでに多くの観光客が集まっていた。
園内には柔らかな明かりが灯り、木々が幻想的に照らされている。
「……わあ」
ユエが思わず声を漏らした。
普段は落ち着いた彼女にしては、珍しい反応だった。
「すごいだろ?」
「ええ……」
ユエはゆっくりと周囲を見渡す。
赤や黄色に色づいた木々が、暗闇の中に浮かび上がっていた。
池の水面には、その光が静かに映り込んでいる。
「……綺麗」
ユエは小さく呟いた。
「想像していた以上だわ」
「喜んでもらえてよかったよ」
和真は笑顔で頷いた。
園内へ進むと、ライトアップされた木々の間に遊歩道が続いている。
足元には落ち葉が敷き詰められ、歩くたびに小さな音が響いた。
「……まるで別世界ね」
ユエが周囲を眺めながら言う。
「昼間に見る景色とは、また違うんだろうな」
「ええ。光の当て方一つで、ここまで印象が変わるなんて」
ユエは興味深そうに木々を見上げた。
「……魔法の灯りとも違う、不思議な美しさがあるわ」
「そうなのか?」
「ええ。魔法ならもっと自由に光を操れるけれど、こういう控えめな照らし方も素敵ね」
「なるほどな」
二人はゆっくりと歩きながら、夜の庭園を楽しんだ。
◇
しばらく進むと、大きな池が見えてきた。
水面には周囲の木々や灯りが映り込み、まるで鏡のような景色が広がっている。
「……すごい」
ユエが足を止めた。
「ここが霞ヶ池だな」
「かすみがいけ?」
「ああ。兼六園の中心にある池らしいぞ」
「へえ……」
ユエは静かに池を眺めた。
水面には、紅葉した木々の姿がくっきりと映っている。
風が吹くたびに小さな波紋が広がり、その景色がゆっくりと揺れた。
「……綺麗ね」
ユエはしばらく動かなかった。
和真も隣に立ち、同じ景色を眺める。
「……写真、撮るか?」
「ええ。でも……」
「ん?」
「もう少し、このまま見ていたいわ」
「……そっか」
和真は端末をしまった。
二人はしばらく、言葉を交わさず景色を眺めていた。
周囲には観光客の声が聞こえるものの、不思議と落ち着いた時間が流れている。
やがてユエが、小さく息を吐いた。
「……こういう時間もいいものね」
「そうだな」
「何もしないで、ただ景色を眺めるだけ」
「普段は結構忙しいもんな」
「ええ。でも、たまにはこういう時間も必要なのかもしれないわ」
ユエは微笑んだ。
「……連れてきてくれてありがとう、和真」
「どういたしまして」
和真も笑顔で答えた。
そのあと二人は、池を背景に写真を撮ることにした。
まずはユエを一枚。
続いて和真を一枚。
最後に、近くにいた観光客へお願いして二人並んだ写真も撮ってもらった。
「……いい写真ね」
ユエが画面を見ながら微笑む。
「そうだな」
「今日の中でも、お気に入りの一枚になりそうだわ」
「お、そうか?」
「ええ。背景も綺麗だし、二人とも自然に笑っているもの」
ユエは満足そうに頷いた。
◇
さらに園内を歩いていくと、和真が一本の大きな松を指差した。
「お、あれが雪吊りか」
「ゆきつり?」
「雪で枝が折れないように、縄で支えるんだ」
ユエが見上げる。
松の上から放射状に縄が張られ、枝を支えるように広がっていた。
ライトアップされた姿は、巨大な傘のようにも見える。
「……不思議な形ね」
「北陸は雪が多いからな。こうやって木を守るんだってさ」
「なるほど……」
ユエは興味深そうに眺めた。
「ただ飾っているわけじゃないのね」
「ああ。でも、こうして見ると綺麗だろ?」
「ええ。とても」
ユエは少し離れた場所から、全体を眺めた。
「……冬になって雪が積もったら、また違った景色になるのでしょうね」
「そうだな。雪景色の兼六園も有名らしいぞ」
「へえ……」
ユエはしばらく考え込んだ。
「……また来てみたいわね」
「冬に?」
「ええ。今日とは違った景色も見てみたいもの」
「いいな。ただ、かなり寒いぞ?」
「それくらい分かっているわよ」
「雪もすごいかもしれないしな」
「……あなた、私が寒さに弱いとでも思っているの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
ユエは呆れたように笑った。
「魔族だったことを忘れないでちょうだい」
「……そうだったな」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その後も二人は、ライトアップされた園内をゆっくりと散策した。
徽軫灯籠の前では、幻想的な景色にユエが何度も写真を撮り、和真もその美しさに感心していた。
小さな橋を渡り、紅葉した木々の間を歩く。
途中、ユエが足を止めて振り返った。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「今日は、本当に楽しかったわ」
「まだ一日目だけどな」
「ふふっ。そうね」
ユエは柔らかく微笑んだ。
「でも、こんなに色々な場所へ行って、知らないものを見て、美味しいものを食べて……」
少しだけ言葉を区切る。
「……こういう時間って、いいものね」
「そうだな」
和真は頷いた。
「ユエも普段、色々頑張ってるからさ。たまには息抜きも必要だろ?」
「……そうね」
ユエは少し照れたように笑った。
「ありがとう。あなたがそう思ってくれているのなら、嬉しいわ」
「まあ、皆にも楽しんでもらいたいしな」
「ふふっ。相変わらずね」
「何が?」
「いいえ。何でもないわ」
ユエは小さく首を振った。
そして、再び前を向く。
「……さて、もう少し歩きましょうか」
「おう」
二人は並んで歩き始めた。
夜の庭園には、静かな風が吹いている。
木々の葉が揺れ、水面に映る灯りが小さく揺らめいていた。
そんな景色の中、二人は最後までゆっくりと散策を楽しんだ。
◇
兼六園を出る頃には、夜もすっかり深まっていた。
「……ふう。結構歩いたな」
和真が軽く伸びをする。
「そうね。でも、楽しかったわ」
ユエも満足そうに微笑んでいる。
「足、疲れてないか?」
「大丈夫よ。あなたこそ平気なの?」
「俺は全然平気だぞ」
「本当かしら?」
「なんだよ、その疑いの目は」
「だって、さっきから何度も伸びをしているでしょう?」
「いや、これは……」
「ふふっ。無理しなくていいのよ」
ユエは楽しそうに笑った。
「旅館へ戻ったら、ゆっくりお風呂に入りましょう」
「ああ。それがいいな」
二人は夜の街を歩きながら、旅館へ向かった。
昼間の賑やかさとは違い、通りには落ち着いた雰囲気が漂っている。
和真は歩きながら、今日撮った写真を眺めていた。
「……結構撮ったなあ」
「そうね。私もたくさん撮ったわ」
「帰ったら皆に見せないとな」
「ええ。でも、和真」
「ん?」
「浅野川で撮ったあなたの写真は、絶対に見せるわよ」
「まだ言うのかよ!」
「ふふっ。だって、いい笑顔だったんだもの」
「いや、絶対からかわれるだろ!」
「それも思い出でしょう?」
「そういう思い出はいらないんだけどなあ……」
ユエは声を出して笑った。
「ふふふっ!」
「まったく……」
和真は呆れたように息をついた。
しかし、ユエがこれほど楽しそうに笑っている姿を見ると、悪い気はしなかった。
むしろ、普段とは違う彼女の一面を知ることができて、少し嬉しかった。
「……まあ、楽しそうで何よりだよ」
「あら、あなたも楽しんでいたでしょう?」
「もちろん」
「それなら、いいじゃない」
「……そうだな」
二人は顔を見合わせ、笑った。
◇
旅館へ戻ると、従業員が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
和真が軽く頭を下げる。
ユエも丁寧に会釈した。
部屋へ戻ると、先ほどまで片づけられていた場所に、二組の布団が並べて敷かれていた。
「お、布団が敷いてあるな」
「そうね。準備してくれたのね」
ユエはコートを脱ぎ、ハンガーへ掛けた。
「……ふう」
「疲れたか?」
「少しね。でも、心地いい疲れだわ」
「そっか」
和真も上着を脱ぎ、荷物を整理する。
「さて、風呂はどうする?」
「そうね……先に入ってきたら?」
「いいのか?」
「ええ。私は少し写真を整理しているから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
和真は着替えを取り出した。
「ユエも疲れてるだろうし、無理しないで休めよ」
「分かっているわ。ありがとう」
ユエは微笑みながら答えた。
和真が部屋を出ると、ユエは窓際へ腰を下ろした。
端末を取り出し、今日撮った写真を一枚ずつ眺めていく。
鼓門。
浅野川。
ひがし茶屋街。
金箔貼り体験。
金沢城公園。
そして、夜の兼六園。
どの写真にも、今日の楽しかった思い出が詰まっていた。
「……ふふっ」
ユエは小さく笑った。
特に気に入ったのは、兼六園で撮った二人の写真だった。
美しく照らされた木々を背景に、和真と自分が並んで笑っている。
何気ない一枚。
けれど、その表情はとても自然だった。
「……いい旅行ね」
ユエは小さく呟いた。
そして端末を置き、窓の外へ目を向ける。
庭の灯籠が柔らかな光を放ち、紅葉した木々を静かに照らしていた。
旅館の夜は、穏やかに更けていく。
しばらくして、廊下から和真の足音が近づいてきた。
「ただいま。いい湯だったぞ」
「お帰りなさい」
ユエが振り返る。
「それじゃ、今度は私が入ってくるわね」
「ああ。ゆっくりしてこいよ」
「ええ。ありがとう」
ユエは着替えを手に取り、部屋を出ていった。
和真は冷たい水を飲みながら、窓際へ腰を下ろす。
「……ふう」
今日一日を思い返し、自然と笑みが浮かんだ。
ユエも随分と楽しんでくれていた。
普段はあまり見せない表情もたくさん見ることができた。
明日も、いい一日にしたい。
和真はそんなことを考えながら、静かな庭を眺めていた。
◇
和真が窓際でくつろいでいると、廊下から足音が聞こえてきた。
やがて、部屋の扉が開く。
「ただいま」
「おう、おかえり。どうだった?」
「ええ。とてもいいお湯だったわ」
ユエは満足そうに微笑みながら、部屋へ入ってきた。
旅館の浴衣を身にまとい、長い金髪は普段より少ししっとりとしている。
毛先の赤い髪が肩から胸元へ流れ、湯上がりでほんのり赤くなった頬が、いつもより柔らかな印象を与えていた。
浴衣の襟元から覗く白い首筋。
帯で整えられた腰回り。
普段の洋服とは違う、落ち着いた和装姿。
「…………」
和真は思わず見入ってしまった。
「……どうしたの?」
「あ、いや……」
ユエが不思議そうに首を傾げる。
「何か変?」
「いや、そうじゃなくてさ」
和真は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「浴衣も似合うなって思って」
「あら」
ユエは自分の浴衣へ視線を落とした。
「ふふっ。ありがとう。こういう服もなかなかいいものね」
「ああ。よく似合ってるよ」
「それにしても、日本の浴衣は面白いわね。形は単純なのに、着方や帯の結び方で印象が随分変わるもの」
「そうだな。ユエのは落ち着いた柄でいい感じだよ」
「そう? 私は結構気に入っているわ」
ユエは軽く袖を広げてみせた。
その仕草に合わせ、長い髪がさらりと揺れる。
「……どうかしら?」
「……うん、綺麗だよ」
和真は素直に答えた。
ユエは一瞬だけ目を丸くする。
そして、小さく笑った。
「……今日は随分と褒めてくれるのね」
「いや、本当のことだし」
「ふふっ。ありがとう」
ユエは鏡の前へ移動し、髪を整え始めた。
湯上がりの温かな空気と、ほのかに漂う石鹸の香り。
畳の香りが混ざり合う、静かな旅館の一室。
和真は水を一口飲みながら、何気なくユエへ視線を向けた。
普段は冷静で、少し厳しいことも言う彼女。
しかし、今日は一日中楽しそうに笑っていた。
知らないものを見つけて目を輝かせたり、和真の失敗をからかって笑ったり。
いつもとは違う一面を、何度も見せてくれた。
そして今は、浴衣姿で髪を整えている。
(……こうして見ると、本当に綺麗だよな)
和真はぼんやりと考えた。
長い金髪。
整った顔立ち。
落ち着いた大人の雰囲気。
すらりとした体つきに、女性らしい柔らかな曲線。
そのどれもが、和真の目を引いてしまう。
そして、不意に。
(…………)
和真の胸の奥に、少しばかりよこしまな気持ちが湧き上がった。
湯上がりのユエが、妙に色っぽく見えてしまったのだ。
和真は慌てて水を飲んだ。
(……いやいや、何考えてんだ俺)
相手はユエだ。
いつも一緒に暮らしている、大切な友人。
今日だって友達同士の旅行として来ている。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが。
「……ねえ、和真」
「ん!?」
突然呼ばれ、和真の肩が跳ねた。
ユエが鏡越しにこちらを見ている。
「……どうしてそんなに驚くの?」
「い、いや! 別に!」
「……そう?」
ユエは小さく首を傾げた。
そして、和真へ身体を向ける。
「そういえば、明日の予定はどうなっているの?」
「あ、ああ! 明日な!」
和真は慌てて端末を取り出した。
「えっと、明日は朝食を食べてから……」
画面を開き、予定を確認する。
しかし、なぜか普段のように頭が働かない。
「……和真?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「…………」
ユエは黙って和真を見つめていた。
その目が、ゆっくりと細くなる。
何かを確かめるような表情。
そして。
「…………ああ」
小さく呟いた。
「……なるほどね」
「ん?」
和真が顔を上げる。
ユエはじっとこちらを見つめていた。
「……和真」
「な、何だ?」
「あなた、今……何を考えていたの?」
「…………え?」
「私を見ながら、何を考えていたのかしら?」
「…………っ!」
和真の顔が一気に赤くなった。
「い、いや! 別に何も!」
「……へえ?」
ユエはにっこりと微笑んだ。
しかし、その笑顔には何とも言えない圧があった。
「本当に?」
「ほ、本当だって!」
「……そう」
ユエは小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「…………?」
和真は不思議そうにその様子を見ていた。
ユエは部屋の隅に置かれていた観光案内のパンフレットを手に取る。
金沢の観光名所や飲食店が紹介された、ごく普通の冊子だった。
それを。
くるくる。
くるくる。
丁寧に丸め始めた。
「……ユエ?」
「…………」
返事はない。
ユエは丸めたパンフレットを片手に持ち、和真の方へ歩いてくる。
「……な、何してるんだ?」
「別に?」
にっこり。
笑顔だった。
しかし、和真は嫌な予感がした。
「……ユエ?」
「和真」
「は、はい?」
「ちょっと失礼するわね」
「え?」
ぽこんっ!
「いっ!?」
和真の頭に、軽い衝撃が走った。
丸めたパンフレットで、ユエが頭を叩いたのだ。
「な、何すんだよ!?」
和真は慌てて頭を押さえた。
もちろん、痛いというほどではない。
しかし、突然の出来事に驚いてしまった。
ユエはパンフレットを片手に、呆れたような表情を浮かべていた。
「……まったく」
「いや、まったくじゃなくて! 急に何だよ!」
「あなたねえ……」
ユエは深いため息をついた。
「私とあなたがどういう関係なのか、忘れたの?」
「……へ?」
「意識の共有よ」
「…………」
和真の動きが止まった。
「……あ」
「思い出した?」
「…………」
ユエは腰に手を当てた。
「あなたが何を考えているのか、全部ではないにしても、強い感情くらいはこちらにも伝わってくるのよ」
「…………っ!!」
和真の顔が真っ赤になる。
「ちょ、ちょっと待て!」
「何かしら?」
「い、今のも!?」
「ええ。しっかり伝わってきたわ」
「…………」
和真は両手で顔を覆った。
「……マジかよ……」
「大真面目よ」
ユエは呆れたように息をついた。
「さっきから妙に視線を感じると思ったら……」
「い、いや、その……!」
「私の浴衣姿を褒めてくれたのは嬉しかったわ。でも、その後は随分と別のことを考えていたみたいね?」
「…………」
「違う?」
「……その……」
和真は何とか言い訳を考えようとした。
しかし、何も思いつかない。
そもそも意識が伝わっているのなら、下手な言い訳をしても無駄だろう。
「……ごめん」
和真は素直に頭を下げた。
その様子を見たユエは、小さく息を吐いた。
「……まあ、私を見て綺麗だと思ってくれるのは、悪い気はしないわ」
「……そ、そうか?」
「ええ。でもね」
ユエは丸めたパンフレットを、和真の目の前へ軽く突き出した。
「それとこれとは話が別よ」
「…………はい」
「それに、私に対してだけの問題でもないわ」
「……え?」
ユエの表情が変わった。
先ほどまでの呆れたような顔とは違う。
真剣な眼差し。
そして、何かを言いたそうな様子だった。
「……和真」
「……何だ?」
「ちょうどいい機会だから、あなたに話しておきたいことがあるの」
「話?」
「ええ。前から一度、ちゃんと話さなければと思っていたのよ」
ユエは丸めたパンフレットをテーブルへ置いた。
そして、和真の正面に座る。
背筋を伸ばし、膝の上へ両手を揃えた。
その姿を見て、和真も自然と姿勢を正した。
「……何だよ、急に改まって」
「大切な話だからよ」
「…………」
ユエは和真をまっすぐ見つめる。
「あなたには、少し自分の行動を振り返ってもらわないといけないわ」
「……俺の行動?」
「ええ」
ユエは静かに頷いた。
「最近のあなた、少し目に余るところがあるのよ」
「…………?」
「特に、女性との接し方についてね」
和真は首を傾げた。
しかし、ユエは視線を逸らさない。
「今日のこともそう。でも、それだけじゃないわ」
「……どういう意味だ?」
「……本当に分からない?」
「…………」
和真は少し考えた。
だが、ユエが何を言おうとしているのか、まだはっきりとは分からない。
そんな彼の様子を見て、ユエは深いため息をついた。
「……はあ」
「……ユエ?」
「まったく……」
ユエは額へ手を当てた。
そして、静かに告げる。
「あなた、ナディアとみゆとのこと、私が何も知らないとでも思っているの?」
「…………っ!?」
和真の表情が凍りついた。
「……なっ!?」
ユエは腕を組んだ。
「……やっぱりね」
「い、いや、待て! どうして……!」
「さっきも言ったでしょう?」
ユエは呆れたように和真を見つめた。
「私とあなたは、意識を共有できるのよ」
「…………」
「それを忘れて、最近随分と好き勝手しているみたいじゃない」
和真は言葉を失った。
楽しかった旅行。
美味しかった食事。
美しい夜景。
そして、静かな旅館の夜。
そのすべてが、今この瞬間に遠ざかっていくような気がした。
ユエはそんな和真を見つめ、静かに口を開く。
「……さて、和真」
「……は、はい」
「そこに正座しなさい」
「…………え?」
「正座よ。ちゃんと話をするから」
「…………」
和真は観念したように、畳の上で正座した。
ユエはその姿を確認すると、小さく頷く。
「よろしい」
「……あの、ユエさん?」
「何かしら?」
「……お手柔らかにお願いします」
「それは、あなたの返答次第ね」
「…………」
和真の頬を、冷たい汗が伝った。
ユエはにっこりと微笑んだ。
「まずは、ナディアとみゆのことから聞かせてもらおうかしら?」
その笑顔を前に、和真はようやく理解した。
どうやら今夜は、簡単には眠らせてもらえそうにない。
金沢での楽しい旅行。
その一日目の締めくくりは、思いもよらない形で始まろうとしていた。




