第四十四話 秘密の朝と、次の約束
まだ日が昇りきらない早朝。
カーテンの隙間から差し込む薄い光が、和室の畳を淡く照らしていた。
「……ん……」
みゆはゆっくりと目を開けた。
目の前には、気持ちよさそうに眠る和真の顔がある。
昨夜はずっと、和真の腕の中で眠っていた。
今も片腕が自分の身体に回されていて、その温もりが心地よい。
「……えへへ」
思わず頬が緩む。
昨日までとは違う。
和真と自分は、もうただの同居人ではない。
そう考えるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「和真……」
小さく名前を呼んでみる。
けれど、返事はない。
規則正しい寝息が聞こえるだけだった。
「……もう。ぐっすりだね」
みゆは小さく笑うと、和真の頬を指先で撫でた。
そして、そっと顔を近づける。
ちゅっ。
唇に軽く口付けを落とした。
「……おはよう、和真」
もちろん、和真は起きない。
その寝顔をしばらく眺めてから、みゆはゆっくりと腕の中を抜け出した。
起こさないように身支度を整える。
帰る前に、もう一度だけ振り返った。
「……大好きだよ」
誰にも聞かれないほど小さな声で呟く。
二本の尻尾が嬉しそうに揺れた。
みゆは静かに部屋を出ると、まだ冷たい朝の空気の中、自分の部屋へと戻っていった。
◇
「……ふふっ」
自室へ戻ったみゆは、ベッドに倒れ込んだ。
枕を抱きしめ、左右にごろごろと転がる。
「和真と……えへへ……」
顔が熱い。
昨夜のことを思い出すだけで、どうしても笑ってしまう。
しばらくそうしていたみゆだったが、ふと、以前の出来事を思い出した。
「……そういえば、あの本……」
それは、まだ和真との旅行へ行く前のことだった。
ある日、和真が外出している間、みゆはこっそり母屋へ忍び込んでいた。
目的は和真の布団。
もちろん、和真本人には内緒だった。
『……ちょっとだけなら、いいよね?』
そう自分に言い訳をして、布団に潜り込んだのだ。
和真の匂いがする。
それが嬉しくて、布団を抱きしめながら横になっていた。
けれど、その時だった。
『……あれ?』
鼻をひくひくと動かす。
いつもの和真の匂いに混じって、別の匂いが残っていることに気づいた。
『……これって……』
みゆは猫又だ。
普通の人間よりも、ずっと鼻が利く。
そして、匂いから様々なことを感じ取れる。
その匂いが何を意味しているのか、みゆには何となく分かってしまった。
『……和真、もしかして……』
思わず顔が赤くなる。
誰かと一緒にいた匂いではない。
和真が一人で、自分の欲求を満たした時に残る匂いだった。
『……夜、ひとりでしてるんだ……』
少し驚いた。
けれど、嫌だとは思わなかった。
むしろ、普段は見せない和真の一面を知ってしまった気がして、妙にどきどきした。
『……男の人だもんね』
そんなことを呟きながら寝返りを打った時だった。
枕の下に、何か硬いものがある。
『……ん?』
枕を持ち上げてみる。
そこには、一冊の本が隠されていた。
『……何これ?』
薄い冊子だった。
表紙には、可愛らしい女の子の絵が描かれている。
ただし、普通の女の子ではない。
頭には猫の耳。
腰には尻尾。
そして、かなり大胆な服装。
『……えっ!?』
みゆは思わず声を上げた。
慌てて周囲を確認する。
もちろん、誰もいない。
『……これ、えっちな本だ……』
そっと表紙を見直す。
少し迷ってから、中を開いた。
『……わぁ……』
そこには、猫耳の女の子がたくさん描かれていた。
どの子も可愛らしく、耳や尻尾を持っている。
中には自分と少し似た雰囲気の女の子までいた。
『……僕みたいな子がいっぱい……』
みゆの顔がぱっと明るくなる。
『……そっかぁ。和真って、こういう子が好きなんだ』
嬉しかった。
だって、自分には猫耳も尻尾もある。
しかも、尻尾は二本だ。
『……えへへ。僕、かなり有利なんじゃない?』
嬉しくなったみゆは、本を閉じて表紙を眺めた。
しかし、そこで新たな疑問が浮かんだ。
『……他にもあるのかな?』
好奇心に負けた。
みゆは本を元の場所へ戻す前に、和真の部屋を少しだけ探してしまった。
そして、収納の奥から見つけた。
別の五冊を。
『……あった!』
最初は角の生えた女の子が描かれた本。
『……角の子も好きなんだ』
次は、牛の特徴を持つ女の子や狐耳の女の子が描かれた本。
『……ひかげちゃんとか、あおいちゃんみたい』
この辺りまでは、みゆも楽しそうに眺めていた。
問題は残りの三冊だった。
『……あれ?』
一冊目。
狼耳と大きな尻尾を持つ女の子。
二冊目。
銀色の髪をした、狼の女の子。
三冊目。
大きな狼の尻尾に、毛先が淡い桃色に染まった銀髪の女の子。
『…………』
みゆの表情が固まった。
『……フェンリスちゃん?』
もちろん、本当にフェンリスが描かれているわけではない。
けれど、どことなく似ている。
特に三冊目の女の子は、髪の色も雰囲気もフェンリスを思わせた。
『……三冊も……?』
みゆは本を並べた。
猫耳の本は一冊。
狼の本は三冊。
『…………むぅ』
頬を膨らませる。
『……和真って、狼の子の方が好きなの?』
何だか悔しかった。
別にフェンリスが嫌いなわけではない。
むしろ、大切な友達だ。
だけど、和真の好みが自分よりフェンリスに近いのかもしれないと思うと、少しだけ面白くなかった。
『……狼ばっかり……』
みゆはしばらく不満そうに本を眺めていた。
けれど、ふと思い直す。
『……でも……』
最初に見つけた本を手に取った。
枕の下に隠されていた、猫耳の女の子が描かれた本。
『……一番近くに置いてあったのは、こっちだもんね』
みゆはにんまりと笑った。
『……つまり、和真は猫耳が一番好きってことだよね?』
根拠はない。
けれど、そういうことにした。
『……うん。なら許してあげる!』
みゆは満足そうに頷いた。
そして、すべての本を元の場所へ戻した。
もちろん、和真には何も言わなかった。
勝手に本を見つけたことも。
狼の女の子が三冊もあったことを悔しく思ったことも。
全部、みゆだけの秘密にした。
◇
「……ふふっ」
ベッドの上で、みゆは再び笑った。
昨夜、和真は自分の欲求をどうしていたのか、少し恥ずかしそうに話していた。
けれど、みゆはずっと前から知っていたのだ。
「……和真、僕が知ってたって聞いたら、どんな顔するかな?」
きっと慌てる。
それも、ものすごく。
想像しただけで楽しくなった。
「……でも、内緒にしておこっと」
またいつか、からかう材料にするのも悪くない。
それに。
「……今は、僕もいるもんね」
みゆは枕をぎゅっと抱きしめた。
和真が自分を抱きしめてくれた時の温もりを思い出す。
ずっと好きだった人。
ずっと触れ合いたかった人。
昨夜、ようやくその願いが叶った。
「……また、甘えに行こうかな」
尻尾が嬉しそうに揺れる。
「……でも、今日は我慢してあげる」
そう呟くと、みゆはもう一度だけ枕に顔を埋めた。
◇
それから数時間後。
母屋には朝食の準備をする音が響いていた。
「お、みゆ。今日は早いな」
台所に立っていた酒菜が声をかける。
「えへへ。おはよう、酒菜ちゃん!」
「……なんだ? 妙に機嫌いいじゃねえか」
「そうかな?」
「そうだろ。さっきからずっと笑ってんぞ」
「えへへ〜。いい夢見たからかな?」
「夢ねぇ……」
酒菜は不思議そうな顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。
みゆは鼻歌を歌いながら食器を運ぶ。
やがてピピもやって来た。
「みゆ! おはよー!」
「おはよう、ピピちゃん!」
「わぁ! 今日のみゆ、すっごく元気!」
「そう?」
「うん! なんかいいことあった?」
「ん〜? 秘密!」
「えー! 教えてよー!」
「だーめ!」
二人が笑い合っていると、廊下から足音が聞こえた。
「……おはよう」
和真だった。
いつもより少し眠そうな顔をしている。
「和真、おはよー!」
みゆはいつも通りに手を振った。
「ああ、おはよう。……今日は早いんだな」
「うん! よく眠れたからね!」
「そ、そうか」
和真は少しだけ顔を赤くした。
それを見たみゆは、いたずらっぽく笑う。
「……和真?」
「なんだ?」
「……あとで、ちょっとお話しようね?」
「……え?」
「えへへ。なーんでもない!」
「お前なぁ……」
困ったように頭を掻く和真。
みゆは満足そうに笑った。
その様子を見ていたピピが首を傾げる。
「ねえねえ! 二人とも何のお話?」
「秘密だよー!」
「また秘密!? ずるーい!」
「ほら、ピピ。飯が冷めるぞ」
酒菜が二人を呼ぶ。
そんな賑やかな朝が始まった。
◇
朝食が終わり、食器の片付けも一段落した頃。
和真は食卓で今後の予定を確認していた。
先日のナディアとの旅行も無事に終わった。
残っている旅行の約束も、そろそろ順番に進めていきたい。
「……次はユエだな」
和真がそう呟いた時だった。
「私がどうかしたの?」
背後から声がした。
振り返ると、ユエが立っていた。
いつもの落ち着いた表情で、和真を見下ろしている。
「ああ、ちょうどよかった。次の旅行の話だよ」
「……ようやく私の番というわけね」
ユエはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「待たせたか?」
「別に。順番があるのは理解しているわ」
「そうか」
「ただ、他の者たちが随分と楽しんでいたようだから、少しくらい期待はしているけれど」
「それならよかった」
和真は予定表を開く。
「今回も一泊二日で考えてる。受付の仕事もあるし、二日間休めそうな日を確認したいんだけど」
「その程度なら調整できるでしょう。リディアとも相談しておくわ」
「助かるよ」
「それで、どこへ連れて行ってくれるつもり?」
「それを今から相談しようと思ってたんだ」
「……なるほど」
ユエは顎に指を添えた。
「私の希望を聞いてくれるのね?」
「もちろん。ユエが行きたいところが一番だよ」
「そう」
わずかに口元が緩む。
しかし、すぐに普段の表情へ戻った。
「なら、少し考えさせてもらうわ」
「ああ。急がなくていいぞ」
「……ただし、一つ条件があるの」
「条件?」
「ええ」
ユエは和真を真っ直ぐ見つめた。
「今回の旅行は、あなたと私の二人きりなのでしょう?」
「ああ、そのつもりだよ」
「なら、他の誰かに気を遣う必要はないわね」
「まあ、そうだな」
「私が見たいものを見て、私が行きたい場所へ行く。あなたには付き合ってもらうわ」
相変わらずの物言いだった。
けれど、和真は笑って頷いた。
「もちろん。そのための旅行なんだから」
「……ふふっ。いい返事ね」
ユエは満足そうに微笑んだ。
「ところで、何か興味があるものとかないか?」
「興味?」
「ああ。食べ物でも景色でも、何でもいいんだけど」
「そうね……」
ユエは少し考えた。
「この世界には、魔法とは無関係の技術で作られたものが数多くあるでしょう?」
「ああ」
「それに、人間が長い年月をかけて築き上げてきた文化もある」
「そうだな」
「私は、そういうものを自分の目で見てみたいわ」
「なるほど」
「もちろん、騒がしいだけの場所は好まないけれど」
「ははっ、ユエらしいな」
「何がおかしいの?」
「いや、何でもない」
和真は慌てて首を振った。
ユエは呆れたように息を吐く。
「それと……」
「ん?」
「夜の景色にも興味があるわ」
「夜景か?」
「ええ。この世界の街は、夜になっても随分と明るいものね」
「確かに」
「魔法を使わずに、あれだけの光を生み出している。なかなか興味深いわ」
ユエは窓の外へ視線を向けた。
「……静かで、美しい場所がいいわね」
「分かった。それなら、いくつか候補を探してみるよ」
「ええ。期待しているわ」
そう言うと、ユエは席を立った。
けれど、部屋を出る直前で足を止める。
「……和真」
「ん?」
「あなた自身も、楽しめる場所にしなさい」
「俺も?」
「当然でしょう。私だけが楽しんでも意味がないもの」
和真は少し驚いた。
ユエは振り返らないまま続ける。
「せっかく二人で行くのだから、あなたにも楽しんでもらわないと困るわ」
「……そうだな」
和真は笑った。
「ああ。俺も楽しみにしてるよ」
「……ふふっ。それでいいわ」
ユエは満足そうに頷くと、静かに部屋を出ていった。
和真は旅行先を調べるため、再び端末に目を落とす。
紅葉の残る街。
歴史ある建物。
美しい夜景。
落ち着いた宿。
画面には、いくつもの候補が並び始めた。
「……さて、どこがいいかな」
ユエとの初めての二人旅。
その計画が、ゆっくりと動き始めていた。
◇
和真は端末に表示された旅行先の候補を眺めていた。
「……金沢か」
画面には、古い町並みや美しい日本庭園の写真が並んでいる。
中でも目を引いたのは、夜の庭園を写した一枚だった。
赤く色づいた木々がライトに照らされ、水面に映り込んでいる。
「……これは綺麗だな」
さらに調べてみると、ちょうど翌週の土日に、庭園のライトアップが行われることが分かった。
「十一月二十一日と二十二日か……」
日程としても悪くない。
ナディアとの旅行から一週間ほど空くことになる。
和真は他の観光地も確認してから、立ち上がった。
「よし、ユエに聞いてみるか」
◇
「……金沢?」
「ああ。石川県にある街なんだけど、どうかな?」
ユエの部屋を訪ねた和真は、端末を差し出した。
画面を覗き込んだユエが、興味深そうに目を細める。
「随分と古い建物が並んでいるのね」
「ひがし茶屋街っていう場所だよ。昔ながらの町並みが残ってるんだ」
「なるほど……」
ユエは画面を指で動かし、何枚かの写真を眺めた。
「こちらの庭園も美しいわね」
「ああ。兼六園っていう、日本でも有名な庭園なんだ」
「……ふーん」
ユエは写真をじっと見つめる。
紅葉に彩られた木々。
静かな池。
手入れの行き届いた庭。
自然をそのまま残すのではなく、人の手によって美しさを整えた景色だった。
「面白いわね。自然を楽しむために、これほど手を加えるなんて」
「日本庭園はそういうところも魅力なんだよ」
「なるほど。確かに、これは実物を見てみたいわ」
「それなら、夜はもっと綺麗だぞ」
「夜?」
和真は別の写真を表示した。
ライトアップされた庭園の写真だった。
赤や黄色の紅葉が闇の中に浮かび上がり、池の水面には幻想的な景色が映っている。
「……これは」
ユエが小さく目を見開いた。
「綺麗でしょう?」
「ええ。なかなか見事ね」
「ちょうど十一月二十一日と二十二日にライトアップがあるみたいなんだ」
「つまり、その日に旅行へ行くつもりなのね?」
「仕事の都合がつけばだけどな」
「問題ないわ。リディアと相談すれば、二日くらい調整できるでしょう」
「なら、決まりかな?」
ユエは端末を和真へ返した。
「ええ。金沢にしましょう」
「よし!」
和真は嬉しそうに頷いた。
「それじゃ、宿も探さないとな」
「そうね。できれば静かな宿がいいわ」
「旅館とか?」
「ええ。せっかく日本の文化に触れるのだから、宿泊施設もそれに合わせたいもの」
「なるほど。分かった」
「それと、食事も楽しみにしているわ」
「金沢は海鮮が有名だし、他にも美味しいものがたくさんあるぞ」
「それは期待できそうね」
ユエは満足そうに頷いた。
こうして、次の旅行先は金沢に決まった。
◇
その日の午後。
和真は居間のテーブルに端末を置き、宿泊施設を探していた。
「……うーん。結構あるな」
せっかくの旅行だ。
できれば食事も美味しく、落ち着いて過ごせる宿にしたい。
しかし、観光地に近い宿は料金が高かったり、すでに予約が埋まっていたりする。
「……これなんかどうだ?」
和真が見つけたのは、落ち着いた和風の旅館だった。
和室を中心とした造りで、夕食には地元の食材を使った料理が並ぶらしい。
大浴場もあり、観光地への移動にも便利そうだった。
「ユエー、ちょっといいか?」
近くで本を読んでいたユエが顔を上げる。
「何?」
「宿なんだけど、ここはどうかな?」
端末を差し出すと、ユエはゆっくりと写真を確認した。
「……悪くないわね」
「料理も美味しそうなんだ」
「部屋は?」
「和室だよ。二人で泊まれる部屋がある」
「そう」
ユエは部屋の写真を眺める。
畳の敷かれた落ち着いた室内。
窓際には小さなテーブルと椅子。
特別豪華というわけではないが、ゆっくり過ごすには十分だった。
「……ここにしましょう」
「即決だな」
「あなたが調べて選んだのでしょう? 特に問題もないわ」
「そう言ってもらえると助かるよ」
和真は予約画面を開いた。
「それじゃ、夕食と朝食付きで……」
「和真」
「ん?」
「一つ確認していいかしら?」
「ああ、どうした?」
「部屋は一つなのね?」
「そうだけど……別々の方がよかったか?」
「いいえ。構わないわ」
ユエは何でもないことのように答えた。
「ただ確認しただけよ」
「そっか。なら、このまま予約するぞ」
「ええ」
和真は必要事項を入力し、予約を確定させた。
「よし、取れた!」
「ご苦労様」
「それじゃ、あとは移動方法だな」
「車で行くの?」
「車でも行けるけど、今回は新幹線を考えてる」
「新幹線……」
ユエが少し興味深そうな顔をした。
「この世界の高速鉄道ね」
「ああ。結構速いぞ」
「知識としては知っているわ。けれど、実際に乗るとなると話は別ね」
「そういうことなら、ちょうどいいな」
「ええ。楽しみにしているわ」
和真は時刻表を確認しながら、移動の予定を組み始めた。
◇
夕方。
旅行の話は、いつの間にか他の住人たちにも広まっていた。
「金沢!? いいなー!」
ピピが真っ先に声を上げる。
「何があるところなの!?」
「古い町並みとか庭園とか、あとは美味しいものがいっぱいあるぞ」
「美味しいもの!」
ピピの目が輝いた。
「ピピも行きたい!」
「今回はユエとの旅行だからな」
「えー!」
「また今度な」
「むぅ……分かった!」
ピピは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに笑顔へ戻った。
「じゃあ、お土産よろしくね!」
「ははっ。分かったよ」
その隣では、みゆが楽しそうに話を聞いていた。
「金沢かぁ。いいね!」
「みゆは行ったことあるのか?」
「ないよー。でも、海鮮が美味しいって聞いたことある!」
「ああ、有名みたいだな」
「和真、ちゃんとユエちゃんを楽しませてあげてね?」
「もちろん」
「えへへ。なら安心だね!」
みゆは笑いながらユエへ顔を向けた。
「ユエちゃん、楽しみだね!」
「ええ。悪くない旅行になりそうよ」
「いいなぁ。また僕も和真と旅行したいなー」
「お前はこの前行っただろ」
「えへへ。何回でも行きたいもん!」
みゆが和真の腕に軽く抱きつく。
和真は苦笑しながら、その頭をぽんぽんと撫でた。
そんな二人を、ユエは静かに見ていた。
「……」
表情はいつもと変わらない。
やがて何事もなかったかのように、手元のお茶を口に運んだ。
「ところで和真。金沢では、どのような順番で観光するつもりなの?」
「ああ、まずは荷物を預けて、それから昼飯かな。その後に町並みを見て回ろうと思ってる」
「そう。なら、庭園は夜に回すのね?」
「そのつもりだよ」
「合理的ね。移動に無駄がないなら、それでいいわ」
「ははっ。相変わらず厳しいな」
「当然でしょう。せっかくの旅行なのだから、時間は有効に使いたいもの」
ユエは涼しい顔で答えた。
和真はそんな彼女を見て笑った。
その一方で、みゆは和真の腕から離れると、二本の尻尾を揺らしながら台所へ向かっていった。
ユエはその後ろ姿を一瞬だけ目で追う。
そして再び和真へ視線を戻した。
「……和真」
「ん?」
「旅行、楽しみにしているわ」
「ああ。俺もだよ」
「ふふっ。そう」
ユエはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
その胸の内に積もっているものを、和真はまだ知らなかった。
◇
夜。
自室へ戻ったユエは、翌週の予定を確認していた。
金沢の町並み。
庭園のライトアップ。
新幹線での移動。
どれも興味深い。
和真と二人で旅行することについても、特に不満はなかった。
むしろ、気心の知れた相手と知らない土地を巡るのは楽しみだった。
ただし。
「…………」
ユエは手元の端末を閉じた。
和真と彼女の意識は、ある程度繋がっている。
常にすべての考えが流れ込んでくるわけではない。
けれど、強い感情や鮮明な記憶が伝わってくることはある。
だからこそ、ユエは知っていた。
和真が誰にも知られないつもりで繰り返していた、夜の密かな習慣も。
ナディアとの旅行で起きた出来事も。
そして、昨夜のみゆとのことも。
「……まったく」
小さく息を吐く。
いい大人なのだから、そうした欲求があること自体を責めるつもりはない。
誰を好きになるかも、本人の自由だ。
けれど。
「……少し、だらしなさすぎるわ」
和真は優しい。
誰かが困っていれば放っておけないし、求められればできる限り応えようとする。
その性格を、ユエはよく知っている。
だからこそ、気になることがあった。
今のままで、本当にいいのか。
ナディアも、みゆも、和真へ本気の想いを向けている。
そして、彼を慕っている者は他にもいる。
その一人ひとりの想いを、和真はどこまで真剣に受け止めているのだろう。
「…………」
ユエはしばらく黙って考えていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「……まあ、いいわ」
今は何も言わない。
せっかくの旅行を、出発前から険悪なものにするつもりもなかった。
観光も食事も、思う存分楽しめばいい。
けれど、二人きりになった時には。
「……一度、きちんと話をする必要がありそうね」
ユエは窓の外へ視線を向けた。
夜の庭には、冷たい秋風が吹いている。
和真はきっと、何も知らずに旅行を楽しみにしているのだろう。
それはそれで構わない。
ユエも、旅行自体は楽しみなのだから。
「……ふふっ」
いつもと変わらない笑みを浮かべる。
「楽しみにしていなさい、和真」
そう呟くと、ユエは部屋の灯りを落とした。
金沢への出発まで、あと数日。
二人の旅行の準備は、着々と進んでいた。




