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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第四十三話 もう、待つだけは嫌だから

「……和真、ちょっと話があるんだけど」


 夜の母屋。


 片付けを終え、自室へ戻ろうとしていた和真を、みゆが呼び止めた。


「ん? どうした?」


「少しだけ、時間もらっていい?」


「ああ。もちろん」


「じゃあ、こっち」


 みゆは和真の袖をつまみ、居間へと引き返した。


 いつもなら腕に抱きついたり、背中に飛び乗ったりしてくる彼女が、今夜は妙に大人しい。


 和真が不思議に思っていると、みゆはソファへ腰を下ろし、隣をぽんぽんと叩いた。


「座って」


「……何か、改まってるな」


「たまにはいいじゃん」


 笑ってはいる。


 けれど、頭の上の猫耳は、いつもより少し寝ていた。


 和真が隣へ座ると、みゆはすぐには話し始めなかった。


 二本の尻尾を膝の横へ寄せ、指先でその毛並みを整えている。


「……みゆ?」


「ねえ、和真」


「うん?」


「ナディアと、何かあったでしょ?」


 和真の肩が、ぴくりと動いた。


「……帰ってきた時も聞かれたけど」


「うん。あの時はあおいもいたから、それ以上は聞かなかった」


 みゆは顔を上げた。


「でも、僕には分かるよ」


「匂いで?」


「それもあるけどね」


 みゆは小さく頷いた。


「和真、帰ってきてから、ちょっと僕の顔を見るの避けてたじゃん」


「……そうだったか?」


「そうだよ。あおいが話してる時も、僕と目が合うとすぐ逸らしてた」


 思い返せば、確かにそうだったかもしれない。


 帰宅した途端、二人に匂いを嗅がれ、慌てて誤魔化した。


 その後も、妙に落ち着かなかった。


「……ごめん」


「謝る前に、ちゃんと答えてよ」


 みゆの声は穏やかだった。


 しかし、冗談で終わらせるつもりがないことは、和真にも伝わってきた。


「ナディアと、そういう関係になったの?」


 和真はすぐには答えられなかった。


 ここで嘘をついたところで、みゆには通じないだろう。


 それに、彼女の真剣な問いかけを、また誤魔化したくはなかった。


「……うん」


 短く答える。


「そうだよ」


 みゆの尻尾が止まった。


「……そっか」


 それだけ言うと、彼女は俯いた。


 和真は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。


 静かな時間が流れる。


 やがて、みゆが小さく笑った。


「……やっぱりね」


「みゆ……」


「分かってたんだよ。分かってたけど、ちゃんと聞きたかった」


 みゆは膝の上で両手を重ねた。


「ねえ、和真。覚えてる?」


「何を?」


「僕たちが旅行に行った時のこと」


 和真の脳裏に、あの日の光景が浮かぶ。


 二人で歩いた温泉街。


 一緒に食べた料理。


 そして、夜の露天風呂。


「……覚えてるよ」


「僕、あの時、和真に好きだって言ったよね」


「うん」


「和真との子供が欲しいってことも、ちゃんと話した」


「……ああ」


「でも、和真は待ってほしいって言った」


 みゆの声が、少しだけ小さくなった。


「だから僕、待つって決めたんだよ」


「……うん」


「本当は、もっと甘えたかった。キスだって、もっとしてほしかったし……その先だって、したかった」


 みゆは自分の指先を見つめた。


「でも、和真がまだ気持ちの整理がつかないって言うから、我慢したんだ」


「……そうだったな」


「それなのに……」


 言葉が途切れる。


 猫耳が、ぺたりと伏せられた。


「……ナディアとは、したんだね」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 和真は何も言えなかった。


「別に、ナディアが嫌いなわけじゃないよ」


 みゆは慌てて付け足した。


「ナディアが和真のことを好きなのも知ってる。ずっと昔から想ってたって話も聞いてるし」


「……うん」


「だから、二人がそうなったこと自体を責めたいわけじゃないんだ」


 みゆは和真を見上げた。


「でもさ……」


 その瞳が、少しだけ潤んでいた。


「僕、ちょっと悔しいよ」


「……みゆ」


「だって、僕も和真が好きなんだもん」


 いつもの明るい声ではなかった。


「僕だって、和真ともっと近くなりたい。ずっとそう思ってた」


 みゆは唇を結んだ。


「僕が待ってる間に、ほかの誰かとそういう関係になっちゃったら……やっぱり、寂しいじゃん」


 和真は、その言葉を黙って受け止めた。


 みゆが自分の気持ちを伝えてくれた夜。


 あの時、彼女は確かに約束を守った。


 もっと近づきたいという気持ちを抑え、自分の返事を待つことにしてくれた。


 その一方で、自分はナディアの想いを受け止めた。


 どちらの気持ちも本物だった。


 だからこそ、簡単に説明できることではなかった。


「……ごめん、みゆ」


「だから、謝ってほしいわけじゃないって」


「でも、みゆに待ってもらってたのは本当だから」


 和真は彼女の方へ身体を向けた。


「ナディアとのことも、勢いだけで決めたわけじゃない。俺自身、ちゃんと考えて……それでも、ナディアと一緒にいたいと思ったんだ」


「……うん」


「ただ、みゆがどう感じるかまでは、考えられてなかった」


 みゆは何も言わなかった。


「だから、寂しい思いをさせたことは謝りたい」


 しばらくして、みゆが小さく息を吐いた。


「……和真って、ほんと真面目だよね」


「そうか?」


「そうだよ。こういう時くらい、少しは言い訳してもいいのに」


「言い訳したら、余計に怒るだろ?」


「うん。たぶん怒る」


「じゃあ、駄目じゃないか」


 思わず二人で笑った。


 張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。


 けれど、みゆはまだ話を終えるつもりはなかった。


「ねえ、和真」


「うん?」


「僕のこと、どう思ってる?」


 和真は彼女を見た。


「大切な家族だと思ってるよ」


「……それだけ?」


「……」


「僕、そういう答えが欲しいんじゃないんだけど」


 みゆは少し頬を膨らませた。


「和真のこと、好きって言ったでしょ。男の人として好きなんだよ」


「……うん」


「だから聞いてるの」


 みゆは、ゆっくりと言葉を続けた。


「和真は、僕のことを女の子として見てくれてる?」


 和真は目を逸らしかけた。


 しかし、みゆはその動きを見逃さなかった。


「ほら、また」


「……ごめん」


「謝らなくていいから、答えて」


 みゆの声が、少しだけ震えた。


「僕、怖いんだよ」


「……怖い?」


「うん」


 みゆは膝の上で手を握った。


「和真にとって、僕はただの家族なのかなって。いつもくっついて、ふざけて、甘えてるだけの子供みたいに思われてるのかなって」


「そんなことは……」


「だったら、ちゃんと教えてよ」


 みゆが顔を上げる。


「僕、待つのが嫌なんじゃないんだよ」


 その瞳は、真っ直ぐに和真を見つめていた。


「何を待ってるのか分からないのが、嫌なんだ」


 和真は息を呑んだ。


「和真が僕のことを好きになってくれるのを待ってるのか、それとも、いつか諦めるのを待ってるのか……それが分からないんだよ」


 その言葉に、和真は何も返せなかった。


 みゆは無理に笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「……僕だって、ずっと平気なわけじゃないんだから」


 ぽつりと零れた声。


 和真は、そっと彼女の手を取った。


「……みゆ」


「……何?」


「俺は、みゆのことを子供だなんて思ってないよ」


 みゆの耳が、わずかに動いた。


「女の子として意識したことだって、ある」


「……ほんと?」


「うん」


 和真は小さく頷いた。


「旅行の時も、正直かなり意識してた」


「……知ってる」


「知ってるのかよ」


「そりゃ、あれだけ近くにいたら分かるよ」


 みゆは小さく笑った。


「でも、和真がちゃんと言ってくれるのは嬉しい」


 握られた手を、みゆが握り返した。


「……じゃあ、もう一つ聞いていい?」


「ああ」


「僕とキスするの、嫌?」


「……嫌じゃないよ」


「じゃあ、抱きしめるのは?」


「それも、嫌じゃない」


「……僕と、もっと親密な関係になるのは?」


 和真の返事が止まった。


 みゆはじっと待った。


 今度は、すぐに答えを求めなかった。


 和真も目を逸らさず、彼女の顔を見つめた。


「……嫌じゃない」


 やがて、そう答えた。


 みゆの瞳が、大きく開かれる。


「……本当?」


「うん。ただ……」


「ただ?」


「簡単に決めていいことじゃないと思ってる」


 みゆは、しばらく和真を見つめた。


 それから、ふっと笑う。


「……やっぱり和真だね」


「何が?」


「そういうところ」


 みゆは握っていた手を離さず、少しだけ身体を寄せた。


「でもね、和真」


「うん?」


「僕は、和真に責任を取ってほしいとか、付き合ってほしいとか、そういうことを言いたいんじゃないよ」


 和真は静かに聞いていた。


「前にも言ったけど、僕は和真を独り占めしたいわけじゃない」


「……うん」


「皆と一緒に暮らして、いっぱい笑って、たまには二人で出かけて……」


 みゆの表情が柔らかくなる。


「和真が帰ってきたら、おかえりって言って。疲れてたら抱きついて、一緒にご飯食べて」


 彼女は少し照れたように笑った。


「それで、好きな時にキスしたり、甘えたり……いつか、和真との子供ができたら嬉しいなって」


 和真の手を握る力が、少しだけ強くなる。


「僕が欲しいのは、そういう毎日なんだよ」


「……みゆ」


「結婚とか恋人とか、そういう名前がなくてもいい。でも……」


 みゆは一度、言葉を切った。


「僕の気持ちだけが、一方通行なのは嫌だ」


 その声は、静かだった。


「和真にも、僕を好きでいてほしい」


 和真はゆっくりと息を吐いた。


 みゆの言葉は、どれも真っ直ぐだった。


 いつも人懐っこく笑っている彼女が、どれだけ勇気を出して話してくれているのか。


 今は、よく分かる。


「……みゆ」


「うん」


「俺も、みゆと一緒にいたいよ」


 みゆの耳が、ぴんと立った。


「一緒にいると楽しいし、みゆが笑ってると嬉しい。甘えてくれるのも、嫌じゃない」


「……うん」


「旅行に行って、普段とは違うみゆも見られた。あの時から、前よりずっと意識するようになったんだ」


 みゆは口を閉じ、真剣に聞いていた。


「でも、それだけで全部を決められるほど、俺は器用じゃない」


「……知ってるよ」


「だから、まだ答えられないこともある。それでも……」


 和真は握っていた手に、少しだけ力を込めた。


「みゆが大切なのは本当だし、もっと近くにいたいって気持ちもある」


 みゆの頬が、じわじわと赤くなっていく。


「……ずるい」


「え?」


「そんなこと言われたら、もっと好きになっちゃうじゃん」


 みゆは俯いた。


 二本の尻尾が、落ち着かない様子で揺れている。


「……和真」


「うん?」


「もう一回、僕のこと見て」


 和真が顔を向ける。


 みゆは彼の肩へ手を置いた。


「……キス、していい?」


 和真は少し驚いた。


 いつもなら、みゆの方から突然唇を重ねてくる。


 わざわざ許可を求めることなど、ほとんどなかった。


「……うん」


 和真が頷く。


 みゆはゆっくりと顔を近づけた。


 柔らかな唇が重なる。


 旅行中に交わしたものとは違う、穏やかな口づけだった。


 少しして、みゆが顔を離した。


「……えへへ」


 照れたように笑う。


「やっぱり、好きだなぁ」


 和真も小さく笑った。


「……みゆ」


「何?」


「今度は、俺からしてもいい?」


 みゆの動きが止まった。


「……え?」


「嫌なら、しないけど」


「い、嫌なわけないじゃん!」


 みゆが慌てて首を振る。


「むしろ、して! 今すぐ!」


「分かったから、落ち着けって」


「無理だよ!」


 耳をぴんと立て、顔を真っ赤にしたみゆ。


 いつもの余裕たっぷりな姿とは、まるで違っていた。


 和真はそんな彼女を見て、思わず笑った。


「……目、閉じて」


「……うん」


 みゆは素直に目を閉じた。


 和真がそっと頬に触れる。


 そして、ゆっくりと唇を重ねた。


 今度は、和真からのキスだった。


 みゆの指が、彼の服をきゅっと掴む。


 短い口づけが終わっても、彼女はすぐには目を開けなかった。


「……みゆ?」


「……ちょっと待って」


「どうした?」


「……嬉しすぎて、顔が戻らない」


「何だよ、それ」


「だって……和真からしてくれたんだよ?」


 ようやく目を開けたみゆは、今まで見たことがないほど幸せそうに笑っていた。


「……ずっと、してほしかったんだ」


 その言葉に、和真の胸が温かくなる。


 みゆは、そっと彼の胸元へ顔を寄せた。


「ねえ、和真」


「ん?」


「今夜、一緒にいてもいい?」


「……ここで?」


「ううん。和真の部屋」


 和真は少し驚いた。


 みゆが自室へやってくること自体は珍しくない。


 けれど、今夜の彼女はいつもと違っていた。


「……みゆ」


「分かってるよ」


 みゆは顔を上げた。


「和真が、まだ迷ってることも」


 そして、少しだけ笑う。


「でも、今日は一人で寝たくないんだ」


「……」


「今夜は、和真に抱きしめられて眠りたい」


 和真は彼女を見つめた。


「……それだけでいいのか?」


 みゆは一瞬、目を丸くした。


 それから、頬を赤くする。


「……それだけじゃなくても、僕は嬉しいけど」


「……みゆ」


「でも、無理にはお願いしないよ」


 みゆは和真の手を両手で包んだ。


「僕、ちゃんと待つって約束したから」


 その言葉に、和真はしばらく黙った。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……分かった」


「……え?」


「今夜は一緒にいよう」


 みゆの顔が明るくなる。


「……本当!?」


「ああ。ただ、もう少し話もしたい」


「いいよ! いくらでも!」


 勢いよく抱きついてきたみゆを、和真は慌てて受け止めた。


「おっと……!」


「えへへ!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


 先ほどまで伏せられていた耳は、すっかり元気を取り戻している。


「……和真、大好き」


「……うん」


「すっごく、大好き」


「分かったよ」


「まだ足りないくらい好き!」


「はいはい」


「もう! そこはちゃんと聞いてよ!」


 和真が笑うと、みゆもつられて笑った。


 いつもの明るい笑顔。


 けれど、その頬はまだ赤かった。


     ◇


 それから少しして。


 二人は居間の明かりを消し、和真の部屋へ向かった。


 廊下を歩く間も、みゆは彼の手を離さなかった。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「僕、今日のこと忘れないからね」


「そんな大げさな」


「大げさじゃないよ」


 みゆは笑った。


「和真が、自分からキスしてくれた日だもん」


 その言葉に、和真は少し照れくさくなった。


 部屋へ入ると、みゆは和真の手を引いたまま振り返った。


「……ねえ」


「どうした?」


「もう一回だけ、キスして」


 和真は苦笑した。


「さっきもしただろ」


「何回したっていいじゃん」


「……まあ、そうだけど」


 みゆは背伸びをした。


 しかし、今度は自分から唇を重ねようとはしなかった。


 ただ、和真を見上げて待っている。


 和真はその頬に触れた。


 みゆが目を閉じる。


 そして、もう一度、唇を重ねた。


 みゆの腕が、ゆっくりと和真の背中へ回る。


 今夜は、いつものようにふざけることも、からかうこともなかった。


 ただ、二人で寄り添っていた。


 やがて唇が離れると、みゆは和真の胸に額を預けた。


「……幸せ」


 小さな声だった。


「……そっか」


「うん」


 和真は彼女の背中を優しく撫でた。


 みゆの二本の尻尾が、ゆっくりと揺れる。


「……和真」


「ん?」


「僕ね、今日ちょっと泣きそうだったんだ」


「……うん」


「ナディアとのこと聞いた時、どうしたらいいか分からなくなっちゃって」


 みゆは顔を上げなかった。


「でも、ちゃんと話してよかった」


「……俺もだよ」


「これからも、ちゃんと話してね」


「ああ」


「誤魔化したり、隠したりしないで」


「……分かった」


 みゆは満足そうに頷いた。


「じゃあ、今夜はいっぱい甘えるから」


「……お手柔らかにな」


「それは無理かも」


「おい」


 みゆがくすくすと笑った。


 和真も、つられて笑う。


 やがて二人は布団に入り、向かい合って横になった。


 みゆがそっと手を伸ばす。


 和真はその手を取り、自分の方へ引き寄せた。


「……おいで」


 その一言に、みゆの瞳が揺れた。


「……うん」


 彼女は和真の胸元へ身体を寄せた。


 和真の腕が、そっと背中を包み込む。


「……あったかい」


「寒かったか?」


「ううん」


 みゆは小さく首を振った。


「和真に抱きしめられるの、好きだなって思っただけ」


 和真はその髪を優しく撫でた。


 みゆの耳が、気持ちよさそうに動く。


「……ねえ、和真」


「うん?」


「僕、もう少しだけ欲張ってもいい?」


 みゆは顔を上げた。


「……何を?」


「今夜は、いつもより近くにいたい」


 和真は彼女を見つめた。


 みゆも目を逸らさなかった。


「……和真が嫌じゃないなら、だけど」


 普段の彼女なら、きっと冗談めかして言っただろう。


 しかし、今夜は違う。


 頬を赤く染め、少し緊張しながら返事を待っていた。


 和真は、そっと彼女の頬に触れた。


「……みゆ」


「……うん」


「俺も、今夜はみゆと一緒にいたい」


 みゆの瞳が、大きく開かれる。


「……本当?」


「ああ」


 和真はゆっくりと頷いた。


「寂しいからとか、待たせた埋め合わせとかじゃない。俺自身が、そうしたいと思ってる」


 みゆは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、その目に涙が浮かんだ。


「……ばか」


「え?」


「そういうこと、急に言わないでよ……」


 みゆは顔を隠すように、和真の胸へ額を押しつけた。


「……嬉しくて、泣いちゃうじゃん」


 和真は何も言わず、彼女を抱きしめた。


 しばらくすると、みゆが顔を上げた。


 目元を少し赤くしながら、それでも幸せそうに笑っている。


「……和真」


「うん」


「大好き」


 今度は、和真の方から唇を重ねた。


 みゆは彼の首へ腕を回し、そっと抱きしめ返した。


 窓の外では、冷たい夜風が庭木を揺らしている。


 けれど、部屋の中は温かかった。


 長い間、言葉にできなかった気持ち。


 ずっと待っていた、和真からの答え。


 すべてが決まったわけではない。


 これから先のことだって、まだ分からない。


 それでも、今夜だけは。


 みゆは、もう一度和真の名前を呼んだ。


「……和真」


「……何?」


「僕のこと、ちゃんと見ててね」


 和真は彼女の髪を撫で、静かに頷いた。


「……ああ」


 みゆは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、もう一度彼に唇を重ねた。


 唇が離れても、みゆは和真の首に回した腕をほどかなかった。


「……和真」


「ん?」


「もう、待たなくてもいい?」


 和真は彼女を見つめた。


 ほんの少し前まで、みゆは泣きそうな顔をしていた。


 それが今は、期待と不安の入り混じった瞳で、自分を見上げている。


「……みゆは、本当にいいのか?」


「うん」


 迷いのない返事だった。


「僕、ずっと和真とこうなりたかったんだよ?」


「……そうだったな」


「でも、和真は?」


「俺?」


「うん。僕に悪いと思ったから、とかじゃないよね?」


 和真は小さく息を吐いた。


 それから、彼女の頬にそっと触れる。


「違うよ」


「……本当?」


「ああ。俺も、みゆともっと近くなりたいと思ってる」


 みゆの耳が、ぴんと立った。


「……えへへ」


「何だよ」


「嬉しいだけ」


 みゆは和真の胸元へ顔を寄せた。


「じゃあ、もう一回言って?」


「何を?」


「僕と、もっと近くなりたいって」


「……恥ずかしいんだけど」


「僕はもっと恥ずかしいこと言ったんだよ?」


「それはそうだけど……」


 和真が困ったように笑う。


 すると、みゆは顔を上げ、彼の頬に軽く口づけた。


「……僕、和真が大好き」


 和真は彼女を抱き寄せた。


「……みゆのこと、大切にしたいと思ってるよ」


「……うん」


「だから、無理はしないでくれよ?」


「分かってるって」


 みゆは少し照れたように笑った。


「でも、和真も我慢しないでね?」


 和真が頷くと、みゆはもう一度唇を重ねた。


 先ほどよりも長い口づけ。


 離れた時、みゆの顔はすっかり赤くなっていた。


「……和真」


「うん?」


「今日は、僕のことだけ考えてね」


 和真は彼女の瞳を見つめた。


「……ああ」


 みゆは安心したように微笑んだ。


 そして、もう一度彼の胸へ身体を寄せる。


 和真も、その背中へ腕を回した。


 互いの気持ちを確かめるように、何度も抱きしめ合う。


 やがて二人は、初めて男女の仲となった。


     ◇


 しばらくして。


 和真は布団の上に仰向けになり、天井を見つめていた。


 隣では、みゆが幸せそうに微笑んでいる。


「……えへへ」


「……何だよ」


「んー? 別に?」


 そう言いながら、みゆは身体を起こした。


 そして、和真の上へひょいと乗る。


「お、おい。みゆ?」


「何?」


「いや、何って……」


「いいじゃん。もう今さらでしょ?」


 みゆは悪戯っぽく笑うと、人差し指で和真の鼻先をつついた。


「えい」


「……何してるんだ?」


「和真で遊んでる」


「人で遊ぶなよ」


「だって、面白いんだもん」


 今度は頬をつつく。


 それから額、顎、肩へと指先を移していく。


 和真が顔を背けると、その動きを追いかけるように頬をつついた。


「……ふふっ」


「みゆ、くすぐったいんだけど」


「知ってる」


「知っててやってるのかよ」


「もちろん!」


 楽しそうに笑うみゆ。


 二本の尻尾が左右で別々に揺れている。


 和真が呆れていると、みゆは突然、思い出したように口を開いた。


「そうそう。和真」


「ん?」


「これからは、性欲が溜まったらちゃんと言わないと駄目だよ?」


「……は?」


 和真の思考が止まった。


「い、いきなり何の話だよ!」


「だから、我慢しなくてもいいってこと」


「いや、だからって……!」


「今まで一人で何とかしてたんでしょ?」


「なっ!?」


 和真の顔が、一瞬で赤くなった。


 みゆはその反応を見て、にんまりと笑う。


「あははっ! やっぱり!」


「み、みゆ! 何でそんなことまで知ってるんだ!?」


「え? だって、みんな知ってると思うよ?」


「……みんな?」


「うん。知らないのって、たぶんピピとフェンリスくらいじゃない?」


「ちょっと待て!!」


 和真が勢いよく身体を起こそうとする。


 しかし、上に乗っていたみゆが慌てて肩を押さえた。


「わっ! 危ないって!」


「いや、危ないじゃなくて! 何でそんな話が広まってるんだよ!?」


「別に広めたわけじゃないよ?」


「じゃあ何で!?」


「分かっちゃうんだって」


 みゆは肩をすくめた。


「僕たち、普通の人間とは違うんだからさ」


「……」


「匂いとか、音とか、そういうので気づくこともあるんだよ」


「……嘘だろ」


「本当だよ?」


 みゆは笑いながら、和真の頬を指先でつついた。


「だから、もうこっそり我慢しなくてもいいんじゃない?」


「……勘弁してくれ」


 和真は両手で顔を覆った。


 そんな彼を見下ろしながら、みゆは楽しそうに笑っていた。


「それで、和真」


「……今度は何だ?」


「僕、ちょっと気になることがあるんだけど」


「……嫌な予感しかしない」


「ナディアとは、どんな感じだったの?」


 和真の手が止まった。


「……は?」


「だから、ナディアとのこと」


「い、いや! そんなこと聞かれても!」


「えー? いいじゃん。僕だって、もう和真とそういう関係になったんだし」


「それとこれとは別だろ!」


「ちぇー」


 みゆは残念そうに唇を尖らせた。


 しかし、すぐに表情を戻す。


「じゃあ、詳しいことは聞かないからさ」


「……うん?」


「ナディア、何か言ってた?」


 和真は少し考えた。


 あの旅館で交わした言葉。


 普段は自信に満ちているナディアが、珍しく素直な気持ちを伝えてくれた夜。


「……そうだな」


「うん」


「抱いてほしい時も、俺が抱きたいと思った時も、ちゃんと言葉にしろって」


 みゆの耳が、ぴくりと動いた。


「……へえ」


「察してもらおうとするんじゃなくて、ちゃんと話せって言われたよ」


「……なるほどね」


 みゆは少し考え込んだ。


「ナディアらしいね」


「そうだな」


「ほかには?」


「ほか?」


「うん。何か言われなかった?」


 和真は天井を見上げた。


「……今は自分だけを見てほしいわけじゃないけど、いつかは自分だけを見てほしいって」


 みゆの表情が、少しだけ変わった。


「……そっか」


 短い返事だった。


「ナディア、本気なんだね」


「……うん」


「前から分かってたけど、そこまで言ったんだ」


 みゆは少しだけ目を伏せた。


 しかし、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「それで? 和真は何て答えたの?」


「……すぐには答えられなかったよ」


「ふーん」


「でも、ナディアの気持ちは嬉しかった」


「……そっか」


 みゆは指先で和真の胸を軽くつついた。


「……和真ってさ」


「ん?」


「ナディアのこと、どう思ってるの?」


「どうって……」


「綺麗だな、とか思った?」


 和真は少し考えた。


 星空の下で見たナディアの横顔。


 普段とは違う服装。


 そして、旅館で見せてくれた姿。


「……まあ、綺麗だったよ」


 次の瞬間。


「むにっ!」


「いひゃっ!?」


 みゆが両手で和真の頬を引っ張った。


「へえー? 綺麗だったんだぁ?」


「み、みゆ! ひゃめろって!」


「ふーん! そっかそっか!」


 みゆは頬を引っ張ったまま、じっと和真を見下ろしている。


「僕の目の前で、ほかの女の子を褒めるんだ?」


「い、いや! 聞いたのはみゆだろ!?」


「聞いたけどさ!」


 むにむにと頬を動かされる。


「……まったくもう!」


 ようやく手が離された。


 和真は赤くなった頬をさすった。


「……痛かったぞ」


「知らないもん」


 みゆはぷいっと顔を背けた。


 しかし、尻尾は楽しそうに揺れている。


「……嫉妬したのか?」


「ちょっとだけ」


「……ちょっと?」


「うん。ちょっとだけ!」


 みゆは和真へ顔を近づけた。


「で?」


「……まだあるのか?」


「僕は?」


「……何が?」


「僕は綺麗じゃなかった?」


 和真は彼女を見つめた。


 少しだけ頬を赤くして、期待するような目でこちらを見下ろしている。


「……可愛かったよ」


 みゆの耳が立った。


「……え?」


「すごく可愛かった」


「……!」


「いつものみゆも可愛いけど、さっきのみゆは……その、特に」


 和真が少し照れくさそうに言う。


 すると、みゆはみるみる顔を赤くした。


「……も、もう!」


「……何だよ」


「急にそんなこと言わないでよ!」


「聞いたのはみゆだろ?」


「そ、それはそうだけど!」


 和真は思わず笑ってしまった。


 みゆは頬を膨らませる。


「……和真のばか」


「はいはい」


「ばかって言ったんだよ?」


「分かってるよ」


 和真が笑うと、みゆもつられて笑った。


 そして、再び彼の胸元を指先でなぞり始める。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「さっきのナディアの話だけどさ」


「ああ」


「抱いてほしい時は、ちゃんと言えってことでしょ?」


「……まあ、そうだな」


 みゆはにんまりと笑った。


「じゃあ、僕なら毎日相手してあげるよ?」


「……毎日?」


「うん!」


 みゆは得意げに胸を張った。


「和真がお願いしてくれたら、いつでも!」


「……そうか」


 和真は少し考えるふりをした。


 それから、口元を緩める。


「じゃあ、毎日お願いしようかな」


「……え?」


「みゆが毎日相手してくれるって言うなら、遠慮しなくていいんだろ?」


「……え、えっと」


「明日も、明後日も、その次の日も」


「ちょ、ちょっと待って!」


「ん?」


 みゆの顔が、一気に真っ赤になった。


「ま、毎日って……本当に!?」


「みゆが言ったんだろ?」


「そ、それはそうだけど!」


 二本の尻尾が、落ち着きなく揺れ始める。


「ぼ、僕にも予定とかあるし……!」


「そっか。じゃあ仕方ないな」


「い、嫌とは言ってないよ!?」


 和真はとうとう吹き出した。


「はははっ!」


「……あっ!」


 みゆが目を丸くする。


「和真! からかったな!?」


「ごめん、ごめん」


「もうっ!」


 みゆは和真の胸をぽかぽかと叩いた。


「僕が真剣に言ってるのに!」


「いや、みゆもいつも俺をからかってるだろ?」


「それとこれとは別!」


「同じだと思うけどな」


 真っ赤な顔で怒るみゆ。


 その姿があまりにも可愛くて、和真は思わず彼女を抱き寄せた。


「わっ!?」


 みゆが驚いた声を上げる。


 和真は彼女を胸元へ抱きしめた。


「……和真?」


「いや、可愛いなと思って」


「……っ!」


 みゆの耳が、ぴんと立った。


「……もう!」


 今度は顔を隠すように、和真の肩へ額を押しつける。


「そういうことするなら……!」


「ん?」


「……本当に毎日来るからね!」


 拗ねたような声だった。


「毎晩、和真の部屋に来ちゃうから!」


「ははっ。分かった、分かった」


「笑い事じゃないんだから!」


「ごめんって。毎日っていうのは冗談だよ」


「……むぅ」


 和真は彼女の頭を優しく撫でた。


「でも、みゆとこうして過ごすのは好きだよ」


「……本当?」


「ああ」


「……じゃあ、許す」


 みゆはようやく顔を上げた。


 そして、小さく笑う。


「でも、和真が寂しくなったら、ちゃんと言ってね?」


「……うん」


「僕も、我慢しないで言うから」


 和真は頷いた。


「……分かった」


 みゆは満足そうに微笑んだ。


     ◇


 それからしばらく、二人はくだらない話を続けた。


 明日の朝食は何だろうとか。


 ピピがまた変なことを覚えたらどうしようとか。


 あおいに今日のことがバレたら、また大変なことになりそうだとか。


 そんな、いつもと変わらない話ばかりだった。


「ねえ、明日の朝、あおいに何か聞かれたらどうする?」


「……できれば何も聞かれたくない」


「無理じゃない?」


「即答するなよ……」


「だって、僕にも分かったんだよ?」


「それを言われると弱いな」


「あははっ!」


 みゆが笑う。


 和真も、つられて笑った。


 こんなふうに他愛もない話を続けられることが、今は不思議と嬉しかった。


 先ほどまでとは違う関係になったはずなのに、二人の会話はいつもどおりだ。


 それが、和真には心地よかった。


 しばらくして、みゆがふと時計へ目を向けた。


「あっ!」


「どうした?」


「和真、お風呂!」


「……風呂?」


「そう!」


 みゆは勢いよく身体を起こした。


「こういうことした後は、必ずお風呂に入ること!」


「……今から?」


「今から!」


「いや、もう結構遅いぞ?」


「だから、早く行くの!」


 みゆは腰に手を当てた。


「汗もかいたし、ちゃんと綺麗にしてから寝ないと駄目!」


「……ああ、そういうことか」


「それだけじゃないよ?」


「……ん?」


 みゆが顔を近づける。


「和真、明日の朝、あおいに会うんでしょ?」


「……あ」


「分かった?」


 和真の顔が引きつった。


「……匂いか」


「正解!」


 みゆは楽しそうに笑った。


「まあ、お風呂に入ったからって、全部誤魔化せるとは思わないけどね」


「……それなら余計に怖いんだけど」


「だからって、このまま寝るのは駄目!」


 みゆは和真の手を引いた。


「ほら、行こう!」


「……分かったよ」


     ◇


 夜の母屋は静まり返っていた。


 他の住人たちは、すでにそれぞれの部屋へ戻っている。


 和真とみゆは足音を抑えながら廊下を歩き、浴室へ向かった。


 幸い、誰かと顔を合わせることはなかった。


 浴室へ入ると、みゆはさっそくシャワーを手に取った。


「和真、先に洗っていいよ」


「みゆからでいいぞ」


「じゃあ、一緒に洗おうよ」


「……一緒に?」


「何を今さら!」


 みゆは笑った。


「旅行の時だって、一緒にお風呂入ったじゃん」


「……まあ、そうだけど」


「ほら、座って」


 和真が椅子へ腰を下ろす。


 すると、みゆは彼の後ろへ回り、シャワーを手に取った。


「まずは和真からね」


「……洗ってくれるのか?」


「うん!」


 みゆは嬉しそうに笑った。


「今日は特別!」


「さっきから特別なことばかりだな」


「いいじゃん。今日はそういう日なんだから」


 温かい湯が肩を流れる。


 みゆは丁寧に髪を洗い、背中も洗ってくれた。


 時折くすぐったくなると、和真は思わず肩をすくめる。


「こら、動かない!」


「いや、くすぐったいんだって」


「我慢!」


「……厳しいな」


「ふふっ」


 みゆは楽しそうに笑った。


 ひと通り洗い終えると、今度は自分が椅子へ座る。


「はい、交代!」


「……え?」


「僕の番!」


 みゆは振り返った。


「和真、洗って?」


「……自分で洗えるだろ?」


「えー?」


 みゆは頬を膨らませた。


「僕は洗ってあげたのに?」


「……そう言われると」


「ほらほら」


 みゆは嬉しそうに笑う。


「お願い!」


 和真は観念したように息を吐いた。


「……分かったよ」


「やった!」


 みゆは上機嫌で前を向いた。


 和真はシャワーを手に取り、彼女の髪を濡らしていく。


「熱くないか?」


「うん。ちょうどいいよ」


「じゃあ、洗うぞ」


「お願いしまーす」


 和真が指先で髪を洗い始める。


 すると、みゆの耳がぴくりと動いた。


「……んー」


「……どうした?」


「気持ちいい」


「そっか」


「もうちょっと、そこ」


「ここ?」


「うん。そこそこ」


 みゆは目を閉じた。


 二本の尻尾が、ゆっくりと揺れている。


「……和真、上手だね」


「そうか?」


「うん。毎日洗ってほしいくらい」


「また毎日かよ」


「えへへ」


 和真は苦笑した。


 髪を洗い流すと、みゆは満足そうに息を吐いた。


「……はぁ、気持ちよかった」


「それはよかった」


「じゃあ、背中もお願い!」


「……はいはい」


 和真はタオルを手に取った。


 泡立てて、彼女の背中を丁寧に洗っていく。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「旅行の時もこうしてほしかったな」


「……そうだったのか?」


「うん。でも、あの時は和真がすっごく緊張してたから」


「そりゃ、あんなことされたら緊張するだろ」


「えへへ。そうだね」


 みゆは楽しそうに笑った。


「でも、今は?」


「……今?」


「うん。まだ緊張してる?」


 和真は少し考えた。


「……してるよ」


「そっか」


「でも、旅行の時とはちょっと違うかな」


「……どう違うの?」


「……前より、みゆのことを近くに感じる」


 みゆの耳が、ぴくりと動いた。


「……ふーん」


「何だよ」


「ううん。嬉しいだけ」


 みゆは小さく笑った。


 和真は再びタオルを動かす。


「……ねえ、和真」


「今度は何だ?」


「背中、気持ちいいよ」


「そっか」


「でもね」


「うん?」


「さっきみたいに、抱きしめてくれる方がもっと好き」


 和真の手が止まった。


「……みゆ」


 みゆはゆっくりと振り返った。


 いつもの悪戯っぽい笑顔。


 けれど、その頬はほんのり赤い。


「……駄目?」


「……駄目じゃないよ」


 和真はタオルを置いた。


 泡を洗い流してから、彼女へ手を伸ばす。


 みゆは嬉しそうに笑い、その腕の中へ身体を寄せた。


「……えへへ」


「……そんなに嬉しいか?」


「うん」


 みゆは和真の肩へ額を預けた。


「だって、和真から抱きしめてくれるんだもん」


 和真は彼女の背中へ腕を回した。


 つい先ほどまで、二人は互いの気持ちを確かめ合っていた。


 それなのに、こうして改めて抱きしめると、また違った温かさを感じる。


 みゆも同じだったのか、しばらく何も言わずに寄り添っていた。


「……和真」


「ん?」


「キスして?」


 和真は彼女の顔を見た。


 みゆは微笑み、そっと目を閉じる。


 和真が顔を近づけると、二人の唇が重なった。


 一度離れても、みゆは彼の腕を離さなかった。


「……もう一回」


「……みゆ」


「だって、まだ足りないんだもん」


 和真は小さく笑った。


 もう一度唇を重ねる。


 今度は、みゆからも強く抱きしめ返された。


 先ほどまでふざけていた二人が、いつの間にか静かになっていた。


 和真は彼女の頬を撫でた。


「……みゆ」


「……うん」


「もう少し、こうしていたい」


 みゆは嬉しそうに頷いた。


「……僕も」


 和真は彼女を抱きしめ直した。


 みゆも、その腕の中で安心したように微笑む。


 そして、再び唇を重ねた。


 せっかく身体を洗いに来たはずなのに、二人はなかなか離れられなかった。


 何度もキスを交わし、抱きしめ合ううちに、再び互いを求める気持ちが強くなっていく。


「……ねえ、和真」


「……うん?」


「僕、また和真としたくなっちゃった」


 みゆは頬を赤くしながらも、真っ直ぐに彼を見つめた。


 和真も、その気持ちを隠さなかった。


「……俺もだよ」


 みゆは嬉しそうに微笑んだ。


「……じゃあ……しよ」


 その夜、二人はもう一度、互いの想いを確かめ合った。


     ◇


 それからしばらくして。


 二人は改めて身体を洗い流し、ようやく湯船に落ち着いた。


「……結局、また洗い直しになっちゃったね」


 みゆがくすくすと笑う。


「誰かさんが甘えるからだろ」


「えー? 和真だって、すっごく積極的だったじゃん」


「……それは否定できないな」


「あははっ!」


 みゆは嬉しそうに笑うと、和真の腕に抱きついた。


 そして、ふと思い出したように顔を上げた。


「……ねえ、和真」


「ん?」


「さっき、中で出したでしょ?」


 和真の表情が変わった。


「……ああ」


「えへへ」


 みゆは、どこか楽しそうに笑っている。


「これで、赤ちゃんできちゃうかもしれないね?」


「……みゆ」


「もし本当にできたら、みんなに叱られちゃうかも」


 みゆは悪戯っぽく目を細めた。


「特に酒菜とか、すっごく怒りそうじゃない?」


「……いや、笑い事じゃないだろ」


「ふふっ。和真、困ってる」


「そりゃ困るよ。大事なことなんだから」


「分かってるよ」


 みゆは和真の腕を抱きしめ直した。


「でも、僕、前から言ってたでしょ?」


「……何を?」


「和真との赤ちゃんが欲しいって」


「……ああ」


「だから、赤ちゃんができるかもしれないって考えると、ちょっと嬉しいんだ」


 みゆは小さく笑った。


「もちろん、本当にできるかは分からないけどね」


 和真は彼女を見つめた。


 みゆが以前から子供を望んでいたことは知っている。


 だからといって、妊娠の可能性を軽く考えていいわけではなかった。


「……みゆ」


「ん?」


「もし本当に赤ちゃんができたら、俺はちゃんと大切に育てるよ」


 みゆの笑顔が止まった。


「……え?」


「みゆと一緒に、大事に育てたい」


 和真は真っ直ぐに彼女を見た。


「もちろん、みゆの身体のことも、これからの生活のことも、ちゃんと考えないとな」


「……和真」


「だから、次からはその辺りも二人で話して決めよう」


 みゆはしばらく黙っていた。


 やがて、嬉しそうに微笑む。


「……うん」


 和真の腕を抱きしめる力が強くなった。


「……僕、嬉しい」


「……そっか」


「うん。すっごく嬉しい」


 みゆは彼の肩へ頭を預けた。


「……和真と一緒なら、きっと楽しいだろうな」


「何が?」


「子育て!」


 和真は少し驚いた。


 みゆは嬉しそうに笑っている。


「僕、子供ができたらいっぱい甘やかしちゃいそう」


「……それは困るな」


「えー? いいじゃん」


「ちゃんと叱る時は叱らないと」


「じゃあ、和真が叱る係!」


「俺だけかよ」


「あははっ!」


 みゆは楽しそうに笑った。


「じゃあ、僕はいっぱい遊んであげる係!」


「……本当に甘やかす気満々だな」


「だって、和真との子供だよ? 絶対可愛いじゃん!」


 和真は苦笑した。


 けれど、そんな未来を嬉しそうに話すみゆを見ていると、自然と笑みがこぼれた。


「……そうだな」


「えへへ」


 みゆは満足そうに微笑んだ。


 そして、和真の肩へ頭を預けた。


 しばらく二人は、何も言わずに湯船へ浸かっていた。


     ◇


 風呂を上がり、二人は和真の部屋へ戻った。


 時計を見ると、思っていた以上に遅い時間になっていた。


「……もうこんな時間か」


「ほんとだ」


 みゆは欠伸をした。


「……眠くなっちゃった」


「そりゃそうだろ」


「和真のせいでもあるんだけど?」


「……返す言葉もないな」


 みゆはくすくす笑った。


 そのまま布団へ潜り込む。


「和真、早く!」


「はいはい」


 和真が隣へ横になると、みゆは当然のように身体を寄せてきた。


 そして、彼の胸元へ額を預ける。


「……えへへ」


「……また笑ってる」


「だって、嬉しいんだもん」


 和真は彼女の髪を優しく撫でた。


 みゆの耳が、気持ちよさそうに動く。


「……おやすみ、みゆ」


「……おやすみ、和真」


 みゆは目を閉じた。


 けれど、すぐには眠れなかった。


 幸せだった。


 ずっと待っていた和真との時間。


 彼の方から抱きしめてもらえたこと。


 自分を可愛いと言ってもらえたこと。


 そして、もし子供ができたら大切に育てたいと話してくれたこと。


 嬉しくて、何度も笑ってしまいそうになる。


 しかし。


「…………」


 ふと、ある顔が頭に浮かんだ。


 フェンリス。


 最近は朝早くから仕事へ出かけ、夜遅くまで帰ってこない。


 食事にもほとんど顔を出さなくなっていた。


 みゆは彼女がどれほど和真との旅行を楽しみにしていたのか、知っている。


 延期することになった夜。


 自分の胸で泣きながら、何度も和真の名前を口にしていたことも。


 そして、みゆは約束していた。


 苦しくなったら、ちゃんと話すこと。


 一人で無理をしないこと。


 その約束を交わしてから、フェンリスとゆっくり話せていない。


「……」


 みゆは、和真の胸元へ顔を寄せた。


 今夜、自分は幸せだった。


 けれど、フェンリスはまだ和真に自分の気持ちを伝えられていない。


 それなのに、自分はまた一歩先へ進んでしまった。


 和真と結ばれたことは、少しも後悔していない。


 それでも、フェンリスの涙を思い出すと、胸が痛んだ。


(……フェンリス)


 みゆは目を閉じた。


(……ちゃんと話さないと)


 今日のことを、いつまでも隠しておくわけにはいかない。


 もしフェンリスが知ったら、きっと傷つくだろう。


 それでも、ほかの誰かから聞かされるよりは、自分の口から伝えたい。


 みゆは小さく息を吐いた。


「……みゆ?」


 和真の声がした。


「……ん?」


「眠れないのか?」


「……ううん」


 みゆは顔を上げ、いつものように笑った。


「和真があったかいから、もうちょっとこうしてたいだけ」


「……そっか」


 和真は優しく彼女を抱き寄せた。


「じゃあ、もう少しこのままでいようか」


「……うん」


 みゆは彼の胸に顔を埋めた。


 今は、この温もりを手放したくなかった。


 けれど、明日になったら。


 フェンリスに連絡してみよう。


 最近、ちゃんと休めているのか。


 仕事ばかりで無理をしていないか。


 そして、できれば今日のことも。


(……ごめんね、フェンリス)


 心の中で、小さく呟く。


(でも、僕も……和真が大好きなんだ)


 みゆは和真の背中へ腕を回した。


 二本の尻尾が、布団の中でゆっくりと動く。


 和真は何も言わず、彼女の髪を撫で続けた。


 その温かさに包まれながら、みゆはようやく目を閉じる。


 嬉しさと、ほんの少しの後ろめたさ。


 二つの気持ちを胸に抱いたまま。


 みゆは、大好きな人の腕の中で眠りについた。

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