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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第四十二話 旅の終わりと、小さなすれ違い

 障子の向こうから、柔らかな朝日が差し込んでいた。


 和真がゆっくり目を開けると、すぐそばにナディアの顔があった。


「……おはよう、和真」


「……おはよう」


 昨夜と同じ、一組の布団。


 ナディアは和真の腕に身を寄せたまま、穏やかな表情でこちらを見つめていた。


「よく眠れたか?」


「ああ。ナディアは?」


「これ以上ないほどにな」


 満足そうに答えると、ナディアは和真の胸に頬を寄せた。


「……もう少し、こうしていたいものだな」


「珍しいな。ナディアがそんなこと言うなんて」


「俺様とて、甘えたい時くらいある」


 そう言いながら、和真の背中へ腕を回す。


 普段の堂々とした姿からは想像できないほど、静かで優しい抱擁だった。


「……昨日のこと、後悔していないか?」


 少し迷ってから、和真が尋ねた。


 ナディアは顔を上げる。


「後悔?」


「ああ。その……」


「愚問だな」


 和真の言葉を遮り、ナディアは微笑んだ。


「俺様は望んでいたことを、お前と叶えたのだぞ? 後悔などするものか」


「……そっか」


「それに、昨夜は本当に幸せだった」


 まっすぐな言葉に、和真の頬が熱くなる。


「……朝からそういうこと言うなよ」


「ふふっ。照れているのか?」


「誰のせいだと思ってるんだ」


「当然、俺様だろう?」


 楽しそうに笑ったナディアは、和真の頬へ軽く口付けた。


「さて、名残惜しいが、そろそろ起きるか」


「そうだな。朝市にも行きたいし」


「うむ。皆への土産も選ばねばならんからな」


 二人はゆっくりと布団から抜け出した。


 こうして、旅行二日目が始まった。


     ◇ ◇ ◇


「和真! 早く来い!」


「そんな急がなくても朝市は逃げないって!」


 身支度を整えた二人は、旅館を出て朝市へ向かっていた。


 十一月十五日。


 昼神温泉の空気はひんやりとしており、息を吐くとわずかに白くなる。


 山々は赤や黄色に色づき、温泉街には朝の柔らかな日差しが降り注いでいた。


「おお! なかなか賑わっているではないか!」


「結構人がいるな」


 朝市には、地元の野菜や果物、漬物、味噌、手作りの小物などが所狭しと並んでいた。


 ナディアは興味深そうに一軒一軒の店を覗き込んでいく。


「和真、これはなんだ?」


「干し柿だな」


「ほう。柿を乾燥させたものか?」


「ああ。甘くて美味しいぞ」


「では買っていこう」


「早っ!」


「美味いのだろう?」


「まあ、そうだけど」


 ナディアは迷うことなく干し柿を購入した。


 その隣の店では、赤く色づいた林檎が山積みになっている。


「お兄さんたち、試食していって!」


「ありがとうございます」


 和真が差し出された林檎を受け取り、一口かじった。


「……うまっ!」


「む? 俺様にも寄越せ」


「ほら」


 ナディアも一切れ口へ運ぶ。


「……これは美味いな!」


「でしょう? 今が美味しい時期だからね!」


「和真、これも買うぞ」


「そうだな。みんなへのお土産にもちょうどいいし」


 二人は箱入りの林檎を購入した。


「ピピは喜びそうだな」


「ああ。あいつ、甘い物には目がないからな」


「ふふっ。帰ったら真っ先に飛びついてきそうだ」


「確かに」


 ピピが嬉しそうに林檎へかじりつく姿を想像し、二人で笑った。


 その後も朝市を見て回り、漬物や味噌、地元のお菓子などを買い込んでいく。


「……なあ、ナディア」


「なんだ?」


「ちょっと買いすぎじゃないか?」


 和真の両手には、すでにいくつもの袋がぶら下がっていた。


「何を言う。皆への土産なのだから、これくらい必要だろう?」


「それはそうだけど……」


「それに、俺様はこういう買い物も嫌いではない」


 ナディアは楽しそうに笑った。


「元の世界では、こうして店を巡る機会などほとんどなかったからな」


「……そっか」


「今は何もかもが新鮮だ。それも、お前と一緒ならなおさらな」


 何気なく口にされた言葉に、和真は少し照れくさくなる。


「……そうか」


「ふふっ。照れるな、和真」


「照れてないって」


「そういうことにしておいてやろう」


 そんなやり取りをしながら歩いていると、ナディアが小さな露店の前で足を止めた。


「……和真」


「ん?」


「これを見ろ」


 そこには木製のキーホルダーが並んでいた。


 星や月、山や花をかたどったものなど、どれも素朴で温かみのある品ばかりだ。


「……星か」


 ナディアが星形のキーホルダーを一つ手に取った。


「昨日の夜を思い出すな」


「ああ。綺麗だったよな」


「まったくだ」


 しばらく眺めていたナディアは、同じ形のものをもう一つ手に取った。


「和真。これを買ってもよいか?」


「いいけど、二つも?」


「一つは俺様。もう一つはお前の分だ」


「……俺?」


「ああ」


 ナディアは少しだけ微笑んだ。


「せっかくの二人旅だ。同じ物を持っておきたい」


「……なるほどな」


「嫌か?」


「いや、全然」


 和真はキーホルダーを受け取った。


「いい記念になるな」


「ふふっ。そうだろう?」


 二人はお揃いのキーホルダーを購入した。


 ナディアは自分の分を大切そうに鞄へしまう。


 その仕草がどこか嬉しそうで、和真も自然と笑顔になった。


     ◇ ◇ ◇


 朝市から戻った二人は、旅館で朝食を済ませた。


 部屋へ戻ると、ナディアが窓際に立ち、外を眺めていた。


「……もう帰る時間か」


「そうだな。そろそろ荷物まとめないと」


「一泊二日とは短いものだな」


「楽しいとあっという間だよな」


 和真が鞄へ荷物を詰めていると、ナディアが近づいてきた。


「和真」


「ん?」


「今回の旅行、俺様は本当に楽しかったぞ」


「俺もだよ」


「……そうか」


 ナディアは嬉しそうに目を細めた。


「ならば、また二人で旅行へ行こう」


「ああ。機会があればな」


「その時は二泊でも三泊でも構わんぞ?」


「いやいや、今はみんなとの約束もあるからな?」


「分かっている。少し欲張ってみただけだ」


 ナディアは楽しそうに笑った。


 そして、不意に和真の手を取る。


「……ありがとう、和真」


「どうしたんだよ、急に」


「礼くらい言わせろ」


 ナディアは和真を見つめた。


「昨日と今日。俺様にとって、何より大切な時間になった」


「……ああ」


「お前と再び出会えて、本当によかった」


 その言葉に、和真は静かに頷いた。


「……俺も、ナディアが来てくれてよかったと思ってるよ」


「…………」


 一瞬、ナディアの目が大きく開かれた。


 しかし、すぐに柔らかな笑みへ変わった。


「……ふふっ。そうか」


 そして、和真の頬へ軽く口付ける。


「これからもよろしく頼むぞ、和真」


「……ああ」


 二人は最後に部屋を見渡し、旅館を後にした。


     ◇ ◇ ◇


 旅館を出た二人は、荷物を持って駐車場へ向かった。


「さて、今日はもう少し観光してから帰るか」


「うむ。まだ見て回りたい場所もあるからな」


 和真が車の鍵を取り出し、運転席へ向かおうとした時だった。


「待て、和真」


「ん? どうした?」


 ナディアが和真の腕を掴んだ。


「お前、昨夜は酒を飲んでいただろう?」


「ああ。飲んだけど……」


「ならば、先に解毒しておこう」


「解毒?」


「ああ。体内に残った酒の成分を、魔法で分解する」


 ナディアは当然のように答えた。


「昨夜から時間は経っているが、完全に酒が抜けているとは限らん。このまま運転して飲酒運転になっては困るからな」


「……あ、そうか」


 和真は思わず頷いた。


「確かに、今は酔ってる感じはしないけど、まだ残ってる可能性はあるもんな」


「そういうことだ。俺様に任せておけ」


 ナディアは和真の胸元へ手をかざした。


 淡い青白い光が広がり、和真の身体を優しく包み込む。


 数秒後、光は静かに消えた。


「……よし。これで体内のアルコールはすべて分解した」


「おお、すごいな」


「この程度、俺様には造作もない」


 ナディアは得意げに胸を張った。


「だが、魔法があるからといって飲酒運転を軽く考えるなよ?」


「ああ。もちろんだ。ありがとな、ナディア」


「ふふっ。お前の身を守るのも、俺様の役目だからな」


 和真は笑いながら頷いた。


 魔法によって酒の成分は消え、体調にも問題はない。


 それを確認した二人は、車へ乗り込んだ。


「さて、行くか!」


「ああ。今日はどこを見に行こうか」


 二人を乗せた車は、秋色に染まった山々へ向かって走り出した。


     ◇ ◇ ◇


 旅館を出た後も、二人はすぐには帰らなかった。


 せっかく遠くまで来たのだからと、周辺をもう少し観光することにしたのだ。


 車を走らせ、紅葉の美しい場所で足を止める。


「……見事な景色だな」


 ナディアが感心したように呟いた。


 目の前には、色づいた山々が広がっている。


「昨日の星空もよかったけど、昼間もいいな」


「ああ。どちらも捨てがたい」


 ナディアはしばらく景色を眺めていたが、やがて和真の手を取った。


「少し歩こう」


「ああ」


 二人は並んで歩き始めた。


 冷たい秋風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。


 途中で立ち止まり、写真を撮った。


「和真、こちらへ来い」


「ん?」


「一緒に撮るぞ」


「ああ、いいぞ」


 ナディアは和真の腕に自分の腕を絡めた。


「……近くないか?」


「二人で撮るのだから、当然だろう?」


「まあ、そうだけど」


「ほら、笑え」


 カメラへ向かって微笑むナディア。


 和真も少し照れながら笑った。


 撮影した写真を確認すると、ナディアが満足そうに頷いた。


「うむ。よい写真だ」


「結構いい感じに撮れたな」


「これも大切に保存しておこう」


「昨日から写真ばっかり増えてるな」


「思い出はいくらあっても困らんだろう?」


「それもそうだな」


 その後も景色を楽しみながら歩き、昼食を取ってから帰路につくことにした。


 帰りの車内。


 ナディアは昨日から撮影していた写真を見返していた。


「和真、見ろ。この写真」


「どれ?」


「お前、随分と間の抜けた顔をしているぞ」


「……って、おい! これ俺が転びかけた時のじゃないか!」


「ふふっ。なかなかよく撮れているだろう?」


「いつ撮ったんだよ!」


「秘密だ」


「消してくれよ、それ」


「断る。俺様の大切な記念だ」


「そんな記念いらないだろ……」


 呆れる和真を見て、ナディアは楽しそうに笑った。


 そんな会話を交わしながら、車は高速道路へ入っていく。


 しばらくすると、助手席が静かになった。


 和真がちらりと横を見ると、ナディアが窓の外を眺めていた。


「……疲れたか?」


「いや。ただ、楽しかった時間が終わるのは惜しいと思ってな」


「また来ればいいさ」


「……そうだな」


 ナディアは小さく笑った。


「次はどこへ連れていってくれる?」


「もう次の話かよ」


「当然だろう? 俺様はまだまだ、お前と行きたい場所がある」


「ははっ。分かったよ」


「ふふっ。楽しみにしているぞ」


 そう言ったナディアは、背もたれへ身体を預けた。


「……少し眠ってもよいか?」


「ああ。着いたら起こすよ」


「頼んだ」


 ナディアは目を閉じる。


 やがて静かな寝息が聞こえ始めた。


 和真は小さく微笑み、再び前を向いた。


 助手席で眠るナディア。


 その穏やかな寝顔を見ていると、昨日までとは少し違った気持ちになる。


 しかし、その気持ちが何なのか。


 和真自身、まだはっきりとは分かっていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。


 見慣れたアパートと母屋が見えてきた。


「……ナディア。着いたぞ」


「ん……」


 助手席のナディアがゆっくり目を開ける。


「……もう帰ってきたのか」


「ああ。ぐっすりだったな」


「ふふっ。お前の運転は心地よいからな」


 和真は車を駐車場へ停めた。


 二人が降りると、母屋の方から元気な声が響いてきた。


「あーっ! カズマたち帰ってきたー!」


 真っ先に飛び出してきたのはピピだった。


「おかえりー!」


「ただいま」


「カズマ! 星! 星見えた!?」


「ああ。すごく綺麗だったぞ」


「ほんと!? 写真は!?」


「ちゃんと撮ってきたよ」


「やったー!」


 ピピが嬉しそうに飛び跳ねる。


 その後ろから、みゆとあおいも出てきた。


「和真ー! おかえり!」


「うむ! 無事に帰ってきたようじゃな!」


「ただいま、二人とも」


 みゆが和真へ駆け寄る。


「どうだった? 楽しかった?」


「ああ。温泉もよかったし、星も綺麗だったぞ」


「へえー! いいなぁ!」


 みゆはいつものように笑った。


「ナディアも楽しかった?」


「当然だ。実に充実した二日間だったぞ」


「そっかー!」


 みゆが笑うと、ナディアも満足そうに頷いた。


「土産も買ってきた。後で皆で食べるといい」


「やった! 楽しみー!」


 あおいも興味深そうに袋を覗き込む。


「ほう。随分と買い込んだようじゃな」


「ああ。朝市で色々売っててさ」


「ふむ。よい旅だったようじゃ」


 こうして、二人の帰宅はいつもの賑やかな雰囲気に包まれた。


     ◇ ◇ ◇


 母屋へ戻ると、和真とナディアは土産を広げた。


「おっ、林檎じゃん!」


 酒菜が箱を覗き込む。


「ああ。朝市で買ってきたんだ」


「へえ、いいじゃん。結構立派なのばっかりだな」


「試食したけど、すごくうまかったぞ」


「そりゃ楽しみだな」


 和真は別の袋から味噌を取り出した。


「あと、これ。酒菜に」


「ん? 味噌か?」


「ああ。地元の味噌らしいんだけど、何かに使えるかなと思って」


「おっ、ありがとな。今度これ使って何か作ってやるよ」


「楽しみにしてる」


 その横では、ピピが菓子の袋を抱えていた。


「カズマ! これ食べていい!?」


「夕飯前だから、少しだけな」


「うん! ちょっとだけ!」


「本当だな?」


「……たぶん!」


「そこはちゃんと約束しろ!」


 いつものやり取りに、みんなが笑う。


 その後、和真たちは撮影した写真を見せることにした。


「うわあああ! すごーい!」


 ピピが画面に釘付けになる。


「これ全部星!?」


「ああ。昨日見た星空だ」


「すっごい! こんなの見たことない!」


 あおいも感心したように頷いた。


「ほう……見事な星空じゃな」


「だろ? 本当に綺麗だったんだ」


「わらわも一度、この目で見てみたいものじゃ」


「機会があれば行ってみるといいぞ」


 ナディアが得意げに答えた。


 続いて、昼間に撮影した紅葉の写真が表示される。


「わあ、綺麗!」


 みゆが画面を覗き込む。


「この写真、二人ともいい顔してるね!」


「ああ。ナディアが撮ろうって言ってさ」


「ふふっ。なかなかよく撮れているだろう?」


「うん! すっごく楽しそう!」


 みゆは笑顔で写真を眺めていた。


 そんな中、ナディアが自分の鞄を持ち上げた。


「さて、俺様は一度荷物を片付けてくるとしよう」


「手伝おうか?」


「構わん。たいした量ではない」


「そっか。じゃあ、あとでな」


「うむ」


 ナディアは満足そうに微笑み、自分の部屋へ戻っていった。


 その後もしばらく写真を見ていたが、やがてピピが菓子を持って酒菜のところへ向かい、和真も端末を片付け始めた。


 すると。


「……ねえ、和真」


「ん?」


 みゆが、いつもより少し低い声で呼びかけた。


「ちょっと来てくれる?」


「どうした?」


「んー、ちょっと聞きたいことがあるんだよね」


 そう言って、みゆは和真の手を取った。


「……あおいも来て」


「む? わらわもか?」


「うん」


 あおいは不思議そうに首を傾げながらも立ち上がる。


 和真は二人に連れられ、母屋の廊下へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 他の住人たちの声が届きにくい場所まで来ると、みゆが足を止めた。


「……さて」


「……なんだよ、改まって」


 和真が尋ねる。


 しかし、みゆは答えなかった。


 代わりに、和真の身体へぎゅっと抱きついた。


「お、おい?」


「……ちょっとじっとしてて」


「……?」


 みゆは和真の胸元へ顔を近づけた。


 すん。


 すんすん。


「…………」


 猫耳がぴくりと動く。


 そして、もう一度。


 すんすん。


「……みゆ?」


「…………」


 みゆはゆっくり顔を上げた。


「……あおい」


「なんじゃ?」


「ちょっと、和真の匂い嗅いでみて」


「……匂い?」


 あおいは一瞬不思議そうにしたが、みゆの表情を見て何かを察したのか、和真へ近づいた。


「和真、少しかがむのじゃ」


「え? なんで?」


「よいから」


「……はいはい」


 和真が少し腰を落とす。


 あおいは首元へ顔を近づけた。


 すん。


「…………」


 もう一度、鼻を動かす。


「…………む?」


 あおいの眉がぴくりと動いた。


 そして、みゆを見る。


「……みゆ」


「……ね?」


「……うむ」


 二人は顔を見合わせた。


 その様子に、和真は嫌な予感を覚えた。


「……な、なんだよ?」


 みゆがゆっくり顔を上げる。


「ねえ、和真」


「ん?」


「昨日の夜、ナディアと何してたの?」


「…………え?」


 和真の身体が固まった。


「な、何って……旅行だろ?」


「それは知ってるよー」


 みゆは笑っていた。


 しかし、猫耳はまっすぐ和真へ向いている。


「僕が聞いてるのは、夜のこと」


「……夜?」


「うん。旅館で何してたの?」


「そりゃ、夕飯食べたり、温泉入ったり……」


「……それだけ?」


「…………」


 和真は返事に詰まった。


 その反応を見て、あおいが目を細める。


「……和真」


「な、なんだよ?」


「お主、何か隠しておらぬか?」


「……別に?」


「その間はなんじゃ」


「いや、その……」


 和真は視線を逸らした。


 みゆがさらに一歩近づく。


「僕たち、鼻がいいの知ってるよね?」


「……ああ」


「しかも、ナディアの匂いがするだけじゃないんだよね」


「…………」


「なんかさ……今までと違うんだよ」


 和真は何も答えられなかった。


 あおいが腕を組む。


「わらわも同じことを思ったのじゃ」


「……同じこと?」


「うむ。わらわもお主と同じ布団で眠ったからのう。口付けもした」


「……あおい」


「じゃが、今のお主からは、その時とは違う匂いがする」


 和真の背中を冷たい汗が流れた。


 まさか。


 そんなことで分かるものなのか。


「……いや、ほら」


 和真は何とか言葉を探す。


「一緒の部屋だったし、温泉にも入ったから……そのせいじゃないか?」


「……ふーん」


 みゆがじっと和真を見る。


「温泉ねえ……」


「そ、そうそう」


「……和真」


「ん?」


「僕、前に和真と旅行したよね?」


「ああ」


「その時も一緒のお布団で寝たよね?」


「……ああ」


「……それなのに、なんで違うのかな?」


「…………」


 完全に追い詰められていた。


 しかし、和真には正直に話す勇気がなかった。


 昨夜のことは、ナディアにとっても大切な思い出だ。


 本人がいない場所で勝手に話すことにも抵抗がある。


 何より、みゆとあおいにどう説明すればよいのか分からなかった。


「……まあ、その……色々あったというか」


「色々?」


「いや、別に大したことじゃ……」


「……本当に?」


 みゆが尋ねる。


 その声には、先ほどまでの軽さがなかった。


「…………」


 和真が黙っていると、あおいが小さくため息をついた。


「和真。わらわたちは別に、お主を責めておるわけではない」


「……ああ」


「じゃが、誤魔化されるのは好かぬ」


「……悪い」


「ならば、正直に話せぬか?」


 和真は困ったように頭を掻いた。


「……今は、ちょっと」


 その言葉を聞いた瞬間。


 みゆの耳が、ぴくりと動いた。


「……そっか」


 小さな声だった。


「……みゆ?」


「んーん。もういいよ」


 みゆは顔を上げ、いつものように笑った。


「ごめんね、和真! 変なこと聞いちゃって!」


「……いや」


「ナディアと楽しく旅行できたんでしょ?」


「ああ……楽しかったよ」


「なら、よかったじゃん!」


 みゆは和真の背中をぽんっと叩いた。


「ほら、みんな待ってるし、戻ろ戻ろ!」


「……みゆ」


「ん?」


「……なんでもない」


「なにそれー!」


 みゆは明るく笑った。


 和真も少し安心したように笑い返す。


 しかし。


 あおいだけは、みゆの変化に気づいていた。


 いつもなら楽しそうに揺れている二本の尻尾。


 それが今は、力なく垂れ下がっていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の時間。


 母屋には、いつもどおり賑やかな声が響いていた。


 朝市で買ってきた林檎が食後のデザートとして並べられ、ピピが嬉しそうに頬張っている。


「おいしー!」


「ほら、ピピ。そんなに一気に食べたら喉に詰まるぞ」


「大丈夫! たぶん!」


「たぶんじゃねえって!」


 酒菜の注意にも構わず、ピピは次の一切れへ手を伸ばした。


 その様子を見て、みんなが笑う。


 みゆも笑っていた。


 普段と変わらない調子でピピをからかい、和真にも冗談を言う。


 誰が見ても、いつものみゆだった。


 けれど。


「……みゆ」


 隣に座っていたあおいが、そっと声をかけた。


「んー? なあに?」


「……大丈夫か?」


「え? 何が?」


 みゆは不思議そうに首を傾げる。


「あおい、変なのー!」


「……そうか」


 あおいはそれ以上聞かなかった。


 みゆが無理に笑っていることくらい、分かっていたからだ。


 夕食が終わると、みゆはいつもより早く自分の部屋へ戻っていった。


     ◇ ◇ ◇


 部屋へ入ったみゆは、静かに扉を閉めた。


「…………」


 いつものようにベッドへ飛び込むこともなく、その場に立ち尽くす。


 少しして、ゆっくりとベッドの端へ腰を下ろした。


「……なんでだろ」


 誰もいない部屋に、小さな声が落ちる。


 みゆは自分の服をぎゅっと握った。


 和真からした、あの匂い。


 ナディアの匂いがついていること自体は、おかしくない。


 二人きりで旅行に出かけ、一緒の部屋に泊まったのだから。


 けれど、それだけではなかった。


 自分が和真と旅行した時には、なかったもの。


 あおいとの旅行から帰ってきた時とも、違うもの。


 みゆには、何となく分かってしまった。


「……そっか」


 ぽつりと呟く。


「……ナディアとは、よかったんだ」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 思い出すのは、和真と二人で出かけた温泉旅行。


 我慢できなくなって、和真へ口付けたこと。


 もっと近づきたくて、抱きついたこと。


 そして。


『……今は、待ってほしい』


 あの時の和真の言葉が、耳の奥によみがえる。


「……僕、待ってたのに」


 あの時、もっと和真に触れたかった。


 もっと近づきたかった。


 それでも、和真が困っていることは分かっていたから。


 無理を言って嫌われたくなかったから。


 最後には我慢すると決めた。


 せめて一緒に眠りたいとお願いして、和真の腕の中で朝を迎えた。


 それだけでも、十分に幸せだった。


「……なんで?」


 ぽろりと涙が落ちた。


「……なんで、ナディアはいいの?」


 自分でも、そんなことを思いたくなかった。


 ナディアのことは嫌いじゃない。


 むしろ、一緒に暮らす大切な仲間だ。


 和真とナディアが仲良くすることだって、本当なら嬉しいはずだった。


 それなのに。


「……僕じゃ、ダメだったのかな」


 涙がもう一粒、膝に落ちた。


「……僕、そんなに魅力ない?」


 声が震える。


 自分が少し焦りすぎたことは分かっている。


 和真が簡単に答えを出せないことも。


 みんなが和真を好きで、それぞれの想いを抱えていることも。


 それでも。


 待ってと言われた自分と、そうではなかったナディア。


 その違いだけが、どうしても胸に刺さっていた。


「……ずるいよ」


 小さな声が漏れる。


「……僕だって、和真のこと大好きなのに」


 みゆはベッドへ横になり、枕を抱きしめた。


 和真の腕の中で眠った、あの夜を思い出す。


 温かくて、安心できて。


 ずっとこうしていたいと思った。


 自分は和真を独り占めしたいわけじゃない。


 付き合うとか、結婚するとか。


 そんな形に、今すぐこだわっているわけでもない。


 ただ、そばにいたかった。


 一緒に笑って、ふざけて。


 甘えた時には抱きしめてもらって。


 いつかは和真との子供も欲しい。


 それが、みゆの本当の願いだった。


「……僕、待ってるって言ったじゃん」


 枕に顔を埋める。


「……なのに、なんで……」


 それ以上は言葉にならなかった。


 しばらくして、扉が小さく叩かれた。


「……みゆ」


 あおいの声だった。


「……なあに?」


「少し、話せぬか?」


「……ごめん。今日はもう寝たい」


 少しの沈黙。


「……そうか」


 あおいは静かに答えた。


「無理はするでないぞ」


「……うん。ありがと」


 廊下から足音が遠ざかっていく。


 みゆは顔を上げ、天井を見つめた。


 涙で滲んだ視界の向こうに、温泉旅行で笑っていた和真の顔が浮かぶ。


「……和真」


 好きだった。


 今も、どうしようもないくらい好きだった。


 だからこそ、苦しかった。


 誤魔化して笑ったままでは、きっとこの気持ちは消えない。


 みゆはゆっくりと起き上がり、目元を拭った。


「……ちゃんと、聞かなきゃ」


 ナディアと何があったのか。


 そして。


 どうして自分には、待ってほしいと言ったのか。


 和真の口から、ちゃんと聞きたかった。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、このまま何も知らずに笑い続けることの方が、もっとつらかった。


 みゆはゆっくりと起き上がり、目元を拭った。


「……ちゃんと、聞かなきゃ」


 ナディアと何があったのか。


 そして。


 どうして自分には、待ってほしいと言ったのか。


 和真の口から、ちゃんと聞きたかった。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、このまま何も知らずに笑い続けることの方が、もっとつらかった。


「……よしっ!」


 みゆは両手で頬を軽く叩いた。


「……今から行って話す!」


 もう一度目元を拭い、鏡で顔を確認する。


 少し目が赤くなっていたが、今はそんなことを気にしていられなかった。


 部屋を出ると、廊下は静まり返っていた。


 みんな、それぞれの部屋で過ごしているのだろう。


 みゆはまっすぐ和真の部屋へ向かった。


 扉の前に立つ。


「…………」


 手を伸ばしかけて、少しだけ迷った。


 けれど、すぐに拳を握り直す。


 コンコン。


「……和真、起きてる?」


 しばらくすると、中から声が返ってきた。


「ん? みゆか? 起きてるぞ」


「……ちょっと、話してもいい?」


「ああ、いいぞ」


 扉が開き、和真が顔を覗かせた。


「どうした? こんな時間に」


「……あのね」


 みゆは和真を見上げた。


 いつものように笑おうとしたが、うまくできなかった。


「……さっきのこと、やっぱりちゃんと聞きたい」


「……さっき?」


「うん。ナディアとのこと」


 和真の表情がわずかに変わる。


 みゆはその顔を見つめたまま、続けた。


「それと……僕とのことも」


「……みゆ?」


「和真。僕ね、ずっと我慢してたんだよ?」


 みゆの声が震えた。


「……だから、今日はちゃんと話したい」


 和真はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「……分かった。中に入ってくれ」


「……うん」


 みゆは小さく頷き、和真の部屋へ足を踏み入れた。


 扉が静かに閉まる。


 こうして二人は、あの旅行の夜以来、もう一度向き合うことになった。

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