第四十一話 幾百年の想いが実る夜
目の前には、一組の布団が敷かれていた。
星空ナイトツアーから戻り、旅館の部屋で一息つこうとしていた和真は、その光景を前に固まっていた。
「……ナディア」
「何だ?」
「布団、一組しかないんだけど」
「ああ。そうだな」
「いや、そうだなって……」
和真が振り返ると、ナディアは何でもないことのように微笑んでいた。
「俺様が頼んでおいた。せっかく二人で旅行に来たのだ。一緒に眠りたいと思うのは当然だろう?」
「……やっぱり、そういうことか」
「ふふっ。察しがよくて助かるぞ」
「そこは先に相談してほしかったな……」
「相談すれば、お前は二組にしようと言っただろう?」
「まあ……そうだけど」
「ならば、先に頼んでおいて正解だったな」
ナディアは満足そうに笑った。
和真は困ったように頭をかく。
二人で相談しながら選んだ旅館だった。
客室露天風呂のある和室という点も、部屋からの眺めも、料理も、二人で確認して決めた。
まさか布団の数まで手配されているとは思わなかった。
「……本当に嫌なら、もう一組頼んでも構わんぞ?」
ナディアが少しだけ声を和らげた。
「俺様はお前と一緒に眠りたいが、無理強いまでするつもりはない」
「いや、嫌ってわけじゃないよ。ただ、びっくりしただけで」
「そうか」
その返事を聞いたナディアは、嬉しそうに目を細めた。
「ならば問題ないな」
「……ほんと、抜け目ないよな」
「ふふっ。褒め言葉として受け取っておこう」
ナディアは笑いながら窓際へ向かった。
カーテンを少し開くと、山あいの町の灯りが目に入る。
夜も深まり、昼間の賑わいはすっかり静まっていた。
「……よい夜だな」
ナディアがつぶやいた。
「ああ。本当に」
和真も隣に並ぶ。
先ほどまで眺めていた満天の星。
暗闇の中、頭上いっぱいに広がる無数の光は、今も鮮明に記憶に残っていた。
「それにしても、すごかったな。あの星空」
「ああ。見事だった。あれほどの星を一度に眺められるとはな」
「ナディアも楽しめた?」
「無論だ。お前と一緒だったのだから、なおさらな」
「……そっか」
何気なく言われた言葉に、和真は少し照れた。
ナディアはそんな和真を横目に見て、楽しそうに笑う。
「ふふっ。まだ慣れんか?」
「何が?」
「俺様がお前を好きだと言うことに、だ」
「……そんなこと、急に聞くなよ」
「何を今さら。俺様は何度でも言うぞ?」
そう言って、ナディアは和真の腕にそっと触れた。
「和真。俺様はお前が好きだ」
「……うん」
「こうして二人で旅行ができて、本当に嬉しい」
普段と変わらない自信に満ちた声。
けれど、その表情には穏やかな喜びが浮かんでいた。
「……俺も楽しかったよ。まだ明日もあるけどさ」
「ああ。明日も存分に楽しむつもりだ」
ナディアは満足そうに頷いた。
「だが、その前に……今夜はまだ終わっていないぞ」
「ん?」
「少し付き合ってもらいたいものがある」
ナディアはそう言うと、部屋の冷蔵庫へ向かった。
扉を開け、中から取り出したのは三本の小さな酒瓶だった。
「……お酒?」
「ああ。この辺りの地酒だ。せっかく温泉へ来たのだから、地元の酒も楽しみたいと思ってな」
「へえ、いいな」
「ふふっ。そう言ってもらえると思っていたぞ」
ナディアは嬉しそうに笑った。
小さな卓上に酒瓶を並べ、用意されていた二つの酒杯を置く。
酒の肴もいくつか用意されていた。
「これも頼んでたの?」
「ああ。夕食も美味かったが、酒を楽しむなら何かつまむものも欲しいだろう?」
「さすが、準備がいいな」
「当然だ。お前との旅行なのだからな」
ナディアは得意げに笑う。
「ほら、座れ」
「はいはい」
「返事は一度でよい」
「それ、酒菜みたいだぞ」
「む? ……ふふっ、確かにそうだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
和真が座ると、ナディアは隣へ腰を下ろす。
向かい合ってではなく、すぐ隣だった。
「……そっちに座るんだ?」
「何か問題でもあるか?」
「いや、別に」
「ならばよい」
ナディアは当然のように答えた。
そして、和真の酒杯にゆっくりと酒を注いだ。
「さて、改めて乾杯といこう」
「うん」
二人は杯を持ち上げる。
「俺様とお前の、初めての二人旅に」
「乾杯」
「乾杯だ」
軽く杯を合わせる。
澄んだ音が、静かな和室に響いた。
和真は酒を一口含む。
「……あ、美味しい」
「ほう?」
「香りがいいな。すっきりしてて飲みやすい」
「そうか。俺様もいただくとしよう」
ナディアも杯を口元へ運んだ。
ゆっくり味わい、満足そうに目を細める。
「……なるほど。なかなかよい酒だ」
「だろ?」
「ああ。日本の酒も侮れんな」
ナディアはもう一口飲んだ。
「魔界の酒とは、また違った味わいがある」
「そういえば、魔界にも酒ってあるんだよな?」
「無論だ。果実から造るものもあれば、穀物を使うものもある。中には魔力を帯びた植物を使う酒まであるぞ」
「魔力を帯びた酒?」
「ああ。もっとも、そうした酒は誰でも飲めるわけではないがな」
「……なんか怖そうだな」
「ふふっ。酒としては美味いものも多いぞ。ただし、扱いを間違えれば厄介なことになる」
「俺は普通の酒でいいかな」
「そう言うと思ったぞ」
ナディアは楽しそうに笑った。
それから二人は、酒を飲みながら今日の出来事を振り返った。
昼間に立ち寄った場所。
温泉街で見つけた店。
美味しかった昼食。
そして、先ほどまで楽しんでいた星空ナイトツアー。
「あのときの写真、あとで送るよ」
「うむ。ぜひ頼む」
「ナディアの一人の写真も結構よく撮れてたぞ」
「そちらも欲しいが、俺様はお前と二人で撮った写真が気に入っている」
「そうなの?」
「当然だろう。お前との思い出なのだからな」
ナディアはさらりと答えた。
「……本当に、そういうこと普通に言うよな」
「ふふっ。思ったことを口にしているだけだ」
和真は照れくさそうに笑った。
そんな和真を見て、ナディアも嬉しそうに微笑む。
やがて最初の小瓶が空になり、二本目が開けられた。
今度は和真が酒を注ぐ。
「ほら、ナディア」
「うむ。ありがとう」
「結構飲めるんだな」
「この程度で酔いつぶれる俺様ではないぞ」
「そういえば、ナディアが酔ってるところってあんまり見たことないな」
「ふふっ。俺様と酒で勝負してみるか?」
「遠慮しとく」
「即答か?」
「勝てる気がしないからな」
「賢明な判断だ」
ナディアは満足そうに笑い、杯を傾けた。
しばらくすると、和真の頬にもほんのり赤みが差してきた。
ナディアも少しだけ頬を上気させていたが、普段と変わらない落ち着いた様子だった。
会話も途切れることなく続いている。
「……そうだ、ナディア」
「何だ?」
「明日の朝市、何か欲しいものある?」
「そうだな。せっかくなら、皆への土産を買って帰りたい」
「俺もそう思ってた。何か美味しそうなものがあればいいな」
「ああ。フェンリスたちも喜びそうなものを探すとしよう」
「ピピは食べ物なら何でも喜びそうだけどな」
「ふふっ。確かにな」
「でも、みんなの分となると結構な量になるぞ」
「構わん。俺様に任せておけ」
「……買いすぎるなよ?」
「何だ? 俺様の気前のよさが不満か?」
「そうじゃなくて、持って帰るのが大変だろ」
「ふふっ。それならば、お前にも手伝ってもらうとしよう」
「結局そうなるのかよ」
二人は声を上げて笑った。
こうしていると、普段の暮らしと大きく変わらない。
けれど、今夜は他の誰もいない。
会話を遮る者もいなければ、急に誰かが飛び込んでくることもない。
二人だけで、好きなだけ話していられる。
和真はその静かな時間を心地よく感じていた。
◇ ◇ ◇
二本目を飲み終えた頃、ナディアが和真の肩にそっと頭を預けてきた。
「……ナディア?」
「何だ?」
「いや、急にどうしたのかなって」
「少し甘えたくなっただけだ」
ナディアは何でもないことのように答えた。
「俺様にも、そういう気分になることくらいある」
「……そっか」
「嫌か?」
「いや、嫌じゃないよ」
「ならば、もう少しこうさせてくれ」
そう言うと、ナディアは和真の腕に自分の腕を絡めた。
柔らかな温もりが伝わってくる。
和真は思わず姿勢を正した。
「……ふふっ」
「何?」
「いや、随分と緊張しているようだな」
「そりゃ……」
「俺様がそんなに気になるか?」
ナディアが顔を上げる。
赤い瞳が、すぐ近くから和真を見つめていた。
「……気になるに決まってるだろ」
和真が小さく答えると、ナディアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……そうか」
「あ……」
「ふふっ。よいことを聞いた」
ナディアは満足そうに再び肩へ頭を預けた。
「ならば、今日は遠慮なく甘えるとしよう」
「……ほどほどにな」
「それは約束できんな」
「おいおい……」
和真は苦笑した。
けれど、腕を離そうとはしなかった。
ナディアもまた、それに気づいているのか、嬉しそうに目を細めていた。
しばらくして、ナディアが静かに口を開く。
「……和真」
「ん?」
「一つ、聞いてもよいか?」
「何?」
「お前は、俺様と初めて会った日のことを覚えているか?」
「……忘れるわけないだろ」
和真は苦笑した。
「あんなに強い相手と戦ったんだから」
「ふふっ。そうか」
「正直、あのときは必死だったよ」
「俺様もだ。お前ほどの力を持つ者と戦ったことは、そう多くなかったからな」
ナディアは懐かしそうに目を細めた。
「何度も戦って敗れた。だが、不思議なことに、負けた悔しさよりもお前への興味の方が大きかった」
「そうだったの?」
「ああ。俺様を倒した男が、その後どのような道を選ぶのか。それを知りたくなったのだ」
ナディアは酒杯を卓上に置いた。
「そして、お前は俺様を殺さなかった」
「……うん」
「俺様と話し合い、人間と魔族が争わずに済む道を探そうとした」
静かな声だった。
「力でねじ伏せることもできたはずなのに、お前はそれを選ばなかった」
「……あのときは、そうしたかっただけだよ」
「それでよい」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「俺様は、そういうお前に惹かれたのだからな」
和真は黙って彼女を見つめた。
「最初は興味だった。だが、いつしかお前の顔が見たいと思うようになった。声が聞きたい、また話がしたい……そんなことばかり考えていた」
「……ナディア」
「ふふっ。我ながら、随分と惚れ込んだものだ」
ナディアは少しおかしそうに笑った。
「何百年も経てば、少しは想いが薄れると思ったのだがな」
「……薄れなかった?」
「まったくだ」
ナディアは和真の手を取った。
「むしろ、時が経つほど会いたくなった」
その指先が、和真の手を優しく包む。
「だから、こうして隣にいられる今が、俺様には何より嬉しい」
和真はその手を見つめた。
何百年。
自分には想像もつかないほど長い時間だ。
その間ずっと想い続けてくれていた。
そう考えると、簡単に返事をしてよいのかわからなくなる。
「……ありがとう、ナディア」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
だが、ナディアは満足そうに微笑んだ。
「礼などいらん。俺様が勝手に惚れたのだからな」
「……それでも、嬉しいよ」
「そうか」
ナディアは少しだけ目を細めた。
「それならば、俺様も嬉しいぞ」
二人はしばらく手を繋いだまま、静かな時間を過ごした。
窓の外では夜風が木々を揺らしている。
部屋には穏やかな照明が灯り、卓上の酒杯が淡い光を反射していた。
「……さて」
やがてナディアが顔を上げた。
「少々しんみりしてしまったな」
「……そうだな」
「せっかくの旅行だ。もっと楽しまねば」
ナディアは三本目の小瓶へ手を伸ばした。
「最後にもう少し付き合え、和真」
「うん。いいよ」
再び杯に酒が注がれる。
今度は互いに酌をしながら、他愛のない話を続けた。
明日の予定。
帰ってから皆に話したいこと。
今日撮った写真の中で、どれが一番気に入っているか。
ナディアは和真と二人で写った写真を何度も褒め、そのたびに和真を照れさせた。
やがて、三本目の酒も残りわずかになった。
「……結構飲んだな」
和真が酒瓶を見ながら言う。
「ふふっ。楽しい時間は過ぎるのが早いものだ」
「ナディア、平気?」
「ああ。少し身体が温かい程度だ。何の問題もない」
ナディアは普段どおりの落ち着いた声で答えた。
確かに頬は少し赤かったが、目つきもしっかりしている。
「お前こそ、飲みすぎてはいないか?」
「俺も大丈夫。ちょうどいいくらいかな」
「そうか。それならよい」
ナディアは最後の一口をゆっくり味わった。
そして、満足そうに息を吐く。
「……実によい酒だった」
「うん。美味しかったな」
「また機会があれば、二人で飲みたいものだ」
「帰りに買っていく?」
「それもよいな」
和真は空いた酒瓶を片付け、水を用意した。
「ほら、ナディア。水も飲んどこう」
「うむ。気が利くではないか」
「酒飲んだ後だしな」
「ふふっ。ありがとう」
二人は水を飲み、しばらく休むことにした。
和真は座椅子にもたれかかり、ゆっくりと息を吐いた。
ナディアも隣でくつろいでいる。
静かな時間が流れた。
やがて、ナディアが窓の外へ視線を向けた。
「……和真」
「ん?」
「まだ眠くはないか?」
「うん。全然」
「そうか」
ナディアは満足そうに微笑んだ。
「ならば、もう一つ楽しもうではないか」
「もう一つ?」
「ああ。せっかく露天風呂付きの部屋を選んだのだ。夜の景色を眺めながら湯に浸かるのも、よいと思わんか?」
「ああ、露天風呂か」
和真は部屋の奥へ目を向けた。
客室に備え付けられた露天風呂。
二人で宿を選んだときにも、特に気に入っていた設備だった。
「確かに、せっかくだし入りたいな」
「ふふっ。そうだろう?」
「でも酒も飲んだし、もうちょっと休んでからだな」
「ああ。それで構わん」
ナディアは素直に頷いた。
「急ぐ必要などない。今夜はまだ時間がある」
その言葉に、和真も笑った。
それから二人は、写真を見返しながらゆっくりと過ごした。
ナイトツアーで撮った写真には、二人の笑顔がいくつも残っている。
ナディアは和真の肩に寄りかかり、一枚ずつ楽しそうに眺めていた。
「……この写真もよいな」
「これ、ナディアすごく嬉しそうにしてるな」
「当然だ。実際に嬉しかったのだからな」
「そっか」
「お前もよい顔をしているぞ?」
「そうかな?」
「ああ。俺様の隣で、実によい笑顔だ」
ナディアは楽しそうに笑った。
そんな会話を交わしながら、二人はゆっくりと身体を休めた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、和真が立ち上がった。
「……そろそろ風呂に入ろうかな」
「うむ。そうだな」
ナディアも顔を上げた。
「では、俺様も準備するとしよう」
「ナディアは後から入る?」
和真が尋ねると、ナディアは少しだけ目を細めた。
「ほう? 俺様が一緒に入ることは、もう決定しているのだな?」
「……え?」
「ふふっ。嬉しいではないか」
「いや、さっき一緒に入るって話だったし……」
「そうだったな」
ナディアは楽しそうに笑った。
「では、お前が先に入っているとよい。俺様も準備ができ次第、向かうとしよう」
「うん。わかった」
「先に身体を洗っておくのだぞ?」
「子供じゃないんだから、わかってるよ」
「ふふっ。そうだったな」
和真は苦笑しながら、浴衣とタオルを手に取った。
露天風呂へ続く扉の前で、ふと振り返る。
「……ナディア」
「何だ?」
「今日は、ありがとうな」
ナディアは少し驚いたように瞬きをした。
「急にどうした?」
「いや、色々準備してくれてたんだなって。お酒とか、部屋のこととか」
「……ふふっ」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「まだ礼を言うには早いぞ、和真」
「え?」
「今夜はまだ、終わっていないのだからな」
その笑顔に、和真は思わず苦笑した。
「……何か、まだ用意してるの?」
「それは秘密だ」
「またかよ……」
「ふふっ。楽しみにしているとよい」
ナディアはそう言うと、和真へ軽く手を振った。
「ほら、先に行っていろ。あまり待たせるつもりはない」
「わかったよ」
和真は小さく笑い、露天風呂へ向かった。
扉が閉まる。
一人になったナディアは、しばらくその扉を見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「……ふふっ。本当に、よい夜だ」
頬には、まだ酒の温かさが残っている。
だが、気分は悪くなかった。
むしろ、和真と二人きりで過ごせていることが嬉しくてたまらなかった。
ナディアは自分の荷物へ目を向けた。
その中には、今回の旅行のために秘密で用意したものが入っている。
まだ、和真には見せていない。
「……さて、今夜はどこまでお前を驚かせられるかな」
ナディアは楽しそうに微笑んだ。
何百年も想い続けた男と過ごす、初めての二人旅。
せっかく巡ってきたこの夜を、ただ眠るだけで終わらせるつもりなどなかった。
◇ ◇ ◇
一方、和真は先に露天風呂へ入っていた。
身体を洗い、ゆっくりと湯船へ浸かる。
「……はぁ、気持ちいい」
肩まで湯に浸かると、思わず声が漏れた。
夜の冷たい空気と、温かい湯。
その温度差が何とも心地よい。
見上げれば、山あいの空に星が輝いていた。
先ほどのナイトツアーほどではないが、それでも十分に美しい夜空だった。
「……いいところだな、ここ」
和真は湯船の縁に腕を置き、ゆっくりと息を吐いた。
今日は本当に楽しい一日だった。
ナディアも終始嬉しそうにしていた。
普段から自信に満ちた彼女だが、今日はいつも以上に笑顔が多かったように思う。
そんなことを考えていると、背後から扉の開く音がした。
「……待たせたな、和真」
聞き慣れた声。
和真が振り返る。
そこには、長い赤髪をまとめ上げたナディアが立っていた。
湯気の向こうから、赤い瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
「……ナディア」
「ふふっ。どうした?」
ナディアは楽しそうに微笑んだ。
「そんなに驚くことか? 一緒に入ると約束しただろう?」
和真は返事をしようとした。
しかし、なかなか言葉が出てこなかった。
そんな和真の様子を見たナディアは、満足そうに目を細める。
「……ふふっ。どうやら、今夜は少し期待できそうだな」
そう言って、ナディアはゆっくりと和真のいる露天風呂へ近づいてきた。
◇
ナディアは和真の視線を楽しむように、ゆっくりと身体を洗い始めた。
まとめ上げた赤い髪から、数本の髪が頬へ落ちている。
白い肌を流れる湯。
湯気の向こうに浮かぶ、女性らしい柔らかな身体の曲線。
和真は思わず視線を逸らした。
「……和真」
「ん?」
「なぜ目を逸らす?」
「いや、その……」
「ふふっ。俺様を見るのが恥ずかしいのか?」
「……そりゃ、そうだろ」
和真が小さく答えると、ナディアは嬉しそうに笑った。
「そうか。ならば、もう少し見てもらいたいものだな」
「……勘弁してくれよ」
「ははっ! 冗談だ。そう困った顔をするな」
ナディアは楽しそうに笑いながら、身体を洗い終えた。
そして、和真のいる湯船へ近づいてくる。
「さて、俺様も入るとしよう」
「ああ。結構いい湯だぞ」
「それは楽しみだ」
ナディアは湯の温度を確かめると、ゆっくりと足を入れた。
「……ほう」
肩まで湯に浸かり、満足そうに息を吐く。
「これはよいな。身体の芯まで温まる」
「だろ? さっきからずっと入ってるけど、気持ちよくてさ」
「ふふっ。確かに長居したくなる湯だ」
ナディアはしばらく目を閉じ、温泉の心地よさを味わっていた。
その横顔を、和真は何気なく眺める。
普段は自信に満ちた笑みを浮かべ、堂々と振る舞うナディア。
しかし今は、どこか穏やかだった。
肩まで湯に浸かり、夜風に頬を撫でられながら、気持ちよさそうに目を細めている。
その姿が、妙に綺麗に見えた。
「……どうした、和真?」
「え?」
「先ほどから俺様を見ているようだが?」
「あ、いや……」
ナディアは楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ。ようやく俺様の魅力に気づいたか?」
「……前から綺麗だとは思ってるよ」
「…………ほう?」
その言葉に、ナディアが少し驚いた顔をした。
「……そうか」
「……うん」
「ふふっ。そういうことを突然言われると、さすがの俺様も少し照れるな」
ナディアは嬉しそうに笑った。
その頬には、酒とは別の赤みが差しているように見えた。
「……和真」
「ん?」
「少し、そちらへ寄ってもよいか?」
「……いいよ」
和真が答えると、ナディアはゆっくりと近づいてきた。
まず、肩が触れた。
そして、ナディアが和真の腕を取る。
「……っ!」
次の瞬間、和真は思わず息を止めた。
腕に、柔らかな感触が伝わってきたのだ。
ナディアの豊かな胸が、和真の腕に触れている。
湯の温かさとは違う、素肌から直接伝わってくる体温。
ほんの少し動くだけでも、その柔らかな感触がはっきりと伝わってくる。
和真は思わず身体を強張らせた。
「……和真?」
「……な、何?」
「随分と緊張しているようだな」
「いや……そりゃ……」
ナディアは和真の様子を見つめ、やがて何かに気づいたように笑みを浮かべた。
「……ふふっ。なるほどな」
「……何だよ」
「俺様の胸が気になるのだな?」
「っ……!」
和真の顔が一気に熱くなった。
「そ、そんなにはっきり言うなって!」
「ははっ! 図星か!」
「……ナディア!」
「ふふっ。すまん、すまん」
そう言いながらも、ナディアは楽しそうに笑っていた。
だが、和真の腕を抱いていた手を緩めようとはしない。
「……嫌か?」
不意に、ナディアが尋ねた。
「え?」
「俺様がこうして触れるのは、嫌かと聞いている」
先ほどまでのからかうような声とは違い、穏やかな口調だった。
和真は少し迷ってから答えた。
「……嫌じゃないよ」
「……そうか」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、もう少しこのままでいさせてくれ」
「……うん」
「ふふっ。ありがとう、和真」
ナディアは和真の肩へ、そっと頭を預けた。
濡れた髪が腕に触れる。
肌と肌が重なり、互いの体温が伝わってくる。
和真はどうにも落ち着かなかった。
これまで何度もナディアと話し、一緒に食事をし、同じ時間を過ごしてきた。
だが、こうして触れ合うと、普段とはまったく違う。
女性としてのナディアを、否応なく意識してしまう。
「……和真」
「……ん?」
「心臓の音が聞こえるぞ」
「……近いからだろ」
「ふふっ。それだけか?」
「……それだけじゃないけど」
思わず本音が漏れた。
ナディアは顔を上げ、和真を見つめる。
「……そうか」
その表情が、少しだけ柔らかくなった。
「嬉しいぞ」
「……ナディア?」
「お前が俺様を、一人の女として意識してくれている。それが嬉しいのだ」
和真は何も言えなかった。
ナディアは再び肩へ頭を預ける。
「俺様は魔王だ。かつては、お前と命を懸けて戦ったこともある」
「……うん」
「だが、今はこうして、お前の隣で湯に浸かっている」
ナディアは小さく笑った。
「不思議なものだな」
「……そうだな」
「何百年も待ち望んだ男と、こんなにも穏やかな時間を過ごせるとは思っていなかった」
その声には、心からの喜びが込められていた。
和真はそっとナディアの肩へ手を回した。
「……和真?」
「……こうしてた方が、楽かなって」
少し照れながら答えると、ナディアは目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……ああ。実によい」
ナディアは和真の胸元へ身を寄せた。
柔らかな肌が触れ合う。
肩に回した手からは、滑らかな肌の感触が伝わってきた。
和真の心臓が、また大きく跳ねる。
「……ふふっ」
「……何?」
「いや、随分と可愛らしい反応をすると思ってな」
「……からかうなよ」
「すまんな。だが、嬉しいのだから仕方あるまい」
ナディアは楽しそうに笑った。
そして、和真の胸に頬を寄せる。
「……もう少しだけ、こうしていたい」
「……うん」
和真はその身体を優しく抱き寄せた。
湯気が二人を包み、夜風が頬を撫でる。
しばらくの間、どちらも何も言わなかった。
ただ、互いの温もりを感じながら、静かな夜を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
「……和真」
やがて、ナディアが顔を上げた。
「ん?」
「一つ、頼みがある」
「何?」
ナディアは和真の瞳をまっすぐに見つめた。
「……口づけをしてもよいか?」
「……え?」
「何だ、聞こえなかったか?」
「いや、聞こえたけど……」
和真は言葉に詰まった。
ナディアはそんな和真を見て、少しだけ笑った。
「ふふっ。嫌なら断って構わんぞ」
「……嫌じゃないよ」
「……そうか」
ナディアの表情が柔らかくなる。
「ならば、少しだけこちらを向いてくれ」
和真が顔を向けると、ナディアはそっと頬に手を添えた。
赤い瞳が、すぐ近くにある。
普段は自信に満ちているその瞳が、今はどこか優しげだった。
「……和真」
「……うん」
ナディアがゆっくりと顔を近づける。
和真も目を閉じた。
二人の唇が、静かに重なった。
短く、優しい口づけだった。
唇が離れると、ナディアはしばらく和真を見つめていた。
「……ふふっ」
「……何?」
「いや……嬉しくてな」
ナディアは頬を撫でていた手を、ゆっくりと下ろした。
「何百年も想い続けてきた男と、ようやくこうして口づけを交わせた」
その声は、少しだけ震えていた。
和真はナディアを見つめる。
彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「……ありがとう、和真」
「……そんな、お礼を言われるようなことじゃないよ」
「俺様にとっては、それほど大切なことなのだ」
ナディアはそう答え、和真の胸へ再び身体を寄せた。
「……もう一度、よいか?」
和真は小さく頷いた。
「……うん」
今度は、和真の方から顔を近づけた。
再び唇が重なる。
先ほどよりも、少しだけ長い口づけだった。
離れた後、ナディアは満足そうに目を細めた。
「……ふふっ。今のは、お前からしてくれたな」
「……そうだな」
「嬉しいぞ」
ナディアは幸せそうに笑った。
その笑顔を見ていると、和真も自然と頬が緩んでしまう。
けれど、ナディアがもう一度身体を寄せてきた瞬間、和真は再び強く緊張した。
柔らかな胸が触れ、滑らかな肌の温もりが伝わってくる。
先ほど交わした口づけの感触も、まだ唇に残っていた。
和真は小さく息を呑んだ。
ナディアのことが、どうしようもなく気になってしまう。
これ以上近くにいたら、平静を保てる自信がなかった。
「……ナディア」
「何だ?」
「俺、そろそろ上がろうかな」
「む? もうよいのか?」
「ああ。結構長く入ってたし……ちょっとのぼせそうだから」
和真はそう答えながら、さりげなく身体を離した。
ナディアは和真の顔を見つめる。
そして、何かを察したように目を細めた。
「……ふむ」
「……何?」
「いや、何でもない」
口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「そうか。ならば先に上がるとよい。俺様はもう少しだけ湯を楽しんでから戻るとしよう」
「……うん。そうするよ」
和真は立ち上がり、湯船から出た。
夜風が火照った身体を冷ましてくれる。
「……和真」
背後から声がした。
振り返ると、ナディアが湯船の縁に腕を置き、こちらを見つめていた。
「今夜は、まだ一緒にいてくれるのだろう?」
和真は少しだけ笑った。
「……もちろん」
「ふふっ。ならばよい」
ナディアは満足そうに微笑んだ。
「先に部屋で待っていてくれ。あまり待たせるつもりはない」
「わかった。じゃあ、お先に」
「ああ。また後でな」
和真は脱衣所へ向かった。
扉が閉まる。
ナディアはしばらくその扉を見つめていた。
そして、小さく笑う。
「……ふふっ。随分と意識してくれたようだな」
先ほどの和真の表情を思い出す。
顔を赤くし、視線を逸らし、それでも自分を抱き寄せてくれた。
何より、二度目の口づけは和真の方からだった。
「……嬉しいものだな」
ナディアは満足そうに目を細めた。
湯の温かさもあって、頬はすっかり赤くなっている。
身体の芯まで温まり、心地よい気分だった。
「……さて」
ナディアはゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ俺様も上がるとしよう」
今夜のために用意してきたもの。
それを和真に見せる時間が、ようやくやってきたのだから。
◇ ◇ ◇
一方、和真は先に部屋へ戻っていた。
浴衣に着替え、卓上に置いてあった水を一口飲む。
「……はぁ」
思わず大きく息を吐いた。
火照った身体が、少しずつ落ち着いていく。
しかし、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。
ナディアの姿。
柔らかな胸が腕に触れた感触。
肌の温もり。
そして、二度交わした口づけ。
どれも、はっきりと覚えている。
「……参ったな」
和真は小さくつぶやいた。
これまでナディアのことを綺麗だと思ったことは、何度もあった。
だが、今夜はそれだけでは済まなかった。
あれほど近くで触れ合い、唇まで重ねてしまったのだ。
女性として意識するなという方が無理だった。
和真はもう一口水を飲んだ。
そして、何気なく布団へ視線を向ける。
一組だけ敷かれた布団。
今夜は、ナディアとそこで眠ることになる。
「……本当に、一緒に寝るんだよな」
改めて考えると、また顔が熱くなった。
和真は気持ちを落ち着かせようと窓際へ移動した。
カーテンを少し開く。
夜の温泉街は静まり返っていた。
遠くに見える宿の灯り。
山の稜線。
そして、その上に広がる星空。
先ほどナディアと眺めた景色が、そこにあった。
「……綺麗だな」
小さくつぶやく。
しばらく窓の外を眺めているうちに、ようやく呼吸も落ち着いてきた。
そのときだった。
「……和真」
背後から、ナディアの声がした。
「ん?」
和真は振り返った。
そして、その場で固まった。
「…………え?」
そこに立っていたのは、いつもの服でも、旅館の浴衣でもない姿のナディアだった。
長い赤髪は綺麗に下ろされ、肩から背中へと流れている。
身につけているのは、淡い光沢を帯びた薄手のネグリジェ。
柔らかな生地が身体の曲線に沿い、普段の衣装とはまったく違う、大人の女性らしい魅力を引き立てていた。
胸元には繊細なレースがあしらわれ、その下には今夜のために選んだ下着が重ねられている。
湯上がりの肌には、まだほんのりと赤みが残っていた。
ほのかに漂う甘い香り。
いつもの自信に満ちた表情。
だが、今夜のナディアは、和真がこれまで見たことのないほど艶やかだった。
「……どうだ?」
ナディアが微笑む。
「今夜のために用意したものだ。似合っているか?」
和真はすぐに答えられなかった。
目の前のナディアがあまりにも綺麗で、思わず見とれてしまったのだ。
「……和真?」
「あ……ご、ごめん」
ようやく我に返る。
「その……すごく綺麗だ」
ナディアは少しだけ目を丸くした。
「……そうか」
そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「ふふっ。それは嬉しいな」
ナディアは自分の姿へ軽く目を落とした。
「実はな、今回の旅行のために秘密で買っておいたのだ」
「……そうだったんだ」
「ああ。お前に見せたくてな」
ナディアは和真へ一歩近づいた。
「どうだ? 俺様も、なかなか魅力的な女だろう?」
その言葉に、和真は思わず笑ってしまう。
「……自分で言うんだな」
「当然だ。俺様は自分の魅力を理解しているからな」
ナディアも楽しそうに笑った。
しかし、次の瞬間、その表情が少しだけ柔らかくなる。
「……だが」
「ん?」
「今夜は、お前にもそう思ってもらいたかった」
静かな声だった。
「俺様を魔王としてではなく、一人の女として見てほしかったのだ」
ナディアは和真の前まで歩いてきた。
そして、そっと手を差し出す。
「……和真」
「……うん」
「今夜の俺様は、どう見える?」
和真はナディアを見つめた。
いつものように堂々としている。
けれど、その瞳には、ほんの少しだけ期待が浮かんでいた。
何百年も想い続けてきた男に、自分を見てほしい。
そんな気持ちが伝わってくるようだった。
「……すごく綺麗だよ」
和真はゆっくりと答えた。
「さっきも言ったけど……本当に、綺麗だと思う」
ナディアの表情が、嬉しそうに緩んだ。
「……ふふっ」
そして、小さく笑う。
「そうか。ならば、今夜の準備は無駄ではなかったな」
ナディアは和真の手を取った。
その指先は、まだ少し温かかった。
「……和真」
「ん?」
「もう少し、俺様のそばに来てくれないか?」
和真は頷いた。
「……うん」
ナディアは嬉しそうに微笑む。
そして、和真の手を引きながら、ゆっくりと距離を縮めた。
部屋には、穏やかな香りが漂っている。
窓の外では、静かな夜が深まっていた。
何百年もの間、想い続けてきた相手。
ようやく二人きりになれたこの夜。
ナディアは和真を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「……ふふっ。今夜は、もう少しだけわがままを言わせてもらうぞ」
その言葉に、和真の胸が再び高鳴った。
◇
ナディアは和真の手を引き、自分の方へそっと近づけた。
「……ナディア?」
「何だ? 先ほど風呂であれほど触れ合ったというのに、まだ緊張しているのか?」
「いや……今のナディア、なんかいつもと違うからさ」
「ふふっ。それは褒め言葉として受け取ってよいのだな?」
「……もちろん」
和真が頷くと、ナディアは満足そうに微笑んだ。
「ならば、もう少し近くで見てもらおうか」
そう言って、ナディアは和真の胸元へ身体を寄せた。
薄手のネグリジェ越しに、湯上がりの温もりが伝わってくる。
風呂で触れ合ったときとは、また違う感覚だった。
柔らかな生地の感触。
ほのかに漂う甘い香り。
そして、すぐ目の前にあるナディアの微笑み。
和真は思わず息を呑んだ。
「……ふふっ。随分と嬉しい反応をしてくれるではないか」
「……からかうなよ」
「からかってなどおらんぞ。俺様は本当に嬉しいのだ」
ナディアはそう答えると、和真の胸にそっと手を添えた。
「お前に綺麗だと思ってもらいたくて、随分と悩んだのだからな」
「……そんなに?」
「ああ。服も、下着も、今夜のために選んだ。店では少々目移りしてしまったぞ」
ナディアは楽しそうに笑った。
「普段ならば迷うことなど滅多にないのだがな。お前のこととなると、どうにも欲が出てしまう」
「……そっか」
「ふふっ。それで、その甲斐はあったのか?」
赤い瞳が、和真をまっすぐに見上げる。
和真は少し照れながら頷いた。
「……あったと思うよ」
「ほう?」
「正直、さっきからドキドキしてる」
ナディアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そうか。それはよかった」
いつもの堂々とした態度。
けれど、今夜のナディアは、ほんの少しだけ頬を赤らめていた。
「和真」
「ん?」
「少しだけ、抱きしめてくれないか?」
和真はナディアを見つめた。
「……いいよ」
そう答え、そっと腕を回す。
ナディアも和真の背中へ腕を回し、身体を預けてきた。
「……ふふっ」
「どうした?」
「いや……こうしてお前に抱きしめてもらえるのが、嬉しくてな」
ナディアは和真の胸へ頬を寄せた。
「何百年も、お前に会いたいと思っていた」
「……うん」
「また顔を見たい。声を聞きたい。できることなら、こうして触れてみたい……何度そんなことを考えたかわからん」
その声は、とても穏やかだった。
「今夜は、それが叶っている」
和真は抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
ナディアも嬉しそうに身体を寄せる。
「……和真」
「ん?」
「もう少しだけ、顔を近づけてくれ」
和真が顔を下げると、ナディアはそっと頬に手を添えた。
「……口づけをしてもよいか?」
「……うん」
ナディアが微笑む。
そして、二人の唇が重なった。
風呂で交わしたときよりも、少し長い口づけだった。
唇が離れると、ナディアは幸せそうに目を細めた。
「……ふふっ。やはり、よいものだな」
「……ナディア」
「何だ?」
「……もう一回、いい?」
その言葉に、ナディアは驚いたように瞬きをした。
「……お前から求めてくれるのか?」
「……うん」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「無論だ。何度でも構わんぞ」
今度は和真から顔を近づけた。
再び唇が重なる。
ナディアの腕が和真の背中へ回り、二人の距離がさらに縮まった。
やがて唇が離れると、ナディアは和真の胸元へ額を寄せた。
「……和真」
「……ん?」
「今夜は、もう少しだけ……お前に甘えてもよいか?」
和真はナディアの肩へ手を添えた。
「……いいよ」
その返事を聞いたナディアは、ゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が、すぐ近くにある。
「……ふふっ。嬉しいぞ」
ナディアの指先が、和真の頬を優しく撫でた。
和真もその手に自分の手を重ねる。
互いの顔が、再び近づいていく。
もう、先ほどまでのような遠慮はなかった。
ナディアが求め、和真もそれに応える。
何百年もの間、ナディアが夢見てきた時間。
そして和真にとっても、目の前の女性への想いが、少しずつ形を変えていく時間だった。
「……和真」
「……ナディア」
互いの名を呼び、額を寄せ合う。
ナディアは静かに微笑んだ。
「……今夜は、本当に幸せだ」
和真はその言葉に頷き、ナディアをもう一度抱き寄せた。
その瞬間だった。
「…………む?」
ナディアの身体が、わずかに揺れた。
「……ナディア?」
「……いや、何でも……」
そう答えかけたナディアの表情が、不意に変わった。
「…………あれ?」
視界がぐらりと傾く。
目の前にいるはずの和真が、妙に揺れて見えた。
「……お、おかしいな……」
「どうした?」
「……和真。お前……動いているか?」
「え? いや、動いてないけど」
「……そうか」
ナディアは少し首を傾げた。
すると、今度は部屋全体がゆっくりと回り始めたように感じられた。
「…………むむ?」
ナディアは目を瞬かせた。
「……天井が、回っているぞ……?」
「……え?」
和真が驚いた、その直後。
「……っ!」
ナディアの足元がふらついた。
「ナディア!」
和真は慌てて彼女の身体を支えた。
ナディアは和真の腕に掴まりながら、何度か目を瞬かせる。
「……お、おかしい……」
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫だ……俺様を誰だと思って……」
言い終わる前に、再び視界が揺れた。
「……うぅ……」
「全然大丈夫そうじゃないって!」
和真はナディアの身体をしっかり支えた。
ナディアは意識もはっきりしており、受け答えもできている。
ただ、ひどく目が回っているらしく、立っているのが辛そうだった。
「……和真」
「何?」
「……少し、支えてくれ」
「もう支えてるよ。ほら、こっちに座ろう」
和真はナディアを支えながら、ゆっくりと座椅子へ座らせた。
ナディアは額に手を当て、大きく息を吐く。
「……むぅ……」
「……もしかして、お酒が回った?」
「……そんなはずは……」
ナディアは顔を上げようとした。
しかし、また視界が揺れたのか、すぐに目を閉じた。
「……くっ……」
「無理するなって」
「……俺様は、あの程度の酒で……」
「さっき温泉にも入ったからな。急に酔いが回ったのかもしれない」
和真は心配そうにナディアを見つめた。
「気持ち悪くない? 吐き気とかは?」
「……それはない。ただ……どうにも目が回る……」
「そっか。とにかく休もう」
和真は水を用意し、ナディアの隣へ腰を下ろした。
「少しずつ飲めそう?」
「……ああ。すまんな」
ナディアは両手でグラスを持ち、ゆっくりと水を飲んだ。
和真はその様子を見守りながら、空調を少し調整した。
「……和真」
「ん?」
「……実に、不覚だ」
「何が?」
「……よりによって……こんなときに……」
ナディアは悔しそうに眉を寄せた。
「……せっかく、ここまで……」
和真はその言葉に、先ほどまでのことを思い出した。
ネグリジェ姿で現れたナディア。
交わした口づけ。
互いに抱きしめ合い、少しずつ近づいていった距離。
確かに、あと少しで何かが変わりそうな雰囲気だった。
「……ナディア」
「……何だ?」
「そんなに落ち込まなくてもいいだろ」
「……お前にはわからん……」
ナディアは小さく唸った。
「俺様が……今日という日のために、どれほど準備をしてきたと思っている……」
「……うん」
「服も、下着も……酒も、香も……」
そこまで言って、ナディアは口を閉じた。
和真が不思議そうに首を傾げる。
「……香?」
「……何でもない」
「……そう?」
「……ああ」
ナディアは悔しそうに目を閉じた。
「……くそっ……魔王ともあろう俺様が……酒と湯に負けるとは……」
その言い方があまりにも真剣だったので、和真は思わず小さく笑ってしまった。
「……何がおかしい?」
「ごめん。でも、魔王でも酔うんだなって」
「……笑うでない……」
「悪かったって」
和真はナディアの肩へ、そっと手を添えた。
「でも、俺はそんなに気にしてないよ」
「……む?」
「せっかく二人で旅行に来たんだし、無理して具合悪くなる方が嫌だよ」
ナディアは少しだけ顔を上げた。
「……和真……」
「今はゆっくり休もう。話ならいくらでもできるしさ」
その言葉に、ナディアはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……まったく……」
「ん?」
「……お前は本当に……」
ナディアは少しだけ笑った。
「……優しすぎる男だな……」
そう言うと、再び背もたれに身体を預けた。
その頬はまだ赤い。
けれど、先ほどのように無理に立ち上がろうとはしなかった。
「……和真」
「何?」
「……もう少し、そばにいてくれ」
「うん。もちろん」
和真はナディアの隣に座り直した。
ナディアはその肩へ、そっと頭を預ける。
「……すまんな」
「気にするなって」
「……せっかくの夜だったのにな……」
「まだ夜は終わってないだろ」
和真が何気なく答えると、ナディアは少しだけ目を開いた。
「……そうだな」
そして、小さく微笑んだ。
「……確かに、そのとおりだ」
◇ ◇ ◇
それから、しばらく時間が過ぎた。
和真はナディアの様子を見ながら、時折水を勧めた。
ナディアも無理に動こうとはせず、ゆっくりと身体を休めていた。
最初は少し顔を動かすだけでも目が回っていたが、次第にその感覚も落ち着いていった。
「……どう?」
和真が尋ねる。
「……ふむ」
ナディアはゆっくりと顔を上げた。
左右へ視線を動かし、少し考える。
「……先ほどよりは、随分とよくなった」
「そっか。よかった」
「だが、まだ少しだけ頭が重いな」
「じゃあ、もうちょっと休もう」
「……ああ」
ナディアは素直に頷いた。
和真は近くにあった羽織を取り、彼女の肩へ掛けた。
「冷えないようにな」
「……ありがとう」
ナディアは小さく微笑んだ。
そのまま、和真の肩に頭を預ける。
「……こうしていると、落ち着くな」
「そう?」
「ああ。お前の隣は、心地よい」
和真は少し照れくさそうに笑った。
ナディアは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
ただし、眠ることはなかった。
何度か和真と話をしながら、水を飲み、身体を休める。
その間にも、窓の外の夜は静かに深まっていった。
やがて、ナディアが小さく笑った。
「……和真」
「ん?」
「まさか、このような夜になるとはな」
「……そうだな」
「俺様はもっと、お前を驚かせるつもりだったのだぞ?」
「十分驚かされたよ」
「……そうか?」
「ああ。風呂でも驚いたし、その服を見たときなんて言葉も出なかったからな」
ナディアは少し嬉しそうに目を細めた。
「……ふふっ。それはよかった」
「すごく綺麗だったし」
「……今も着ているぞ?」
「……そうだったな」
和真は思わず笑った。
ナディアもつられるように笑う。
先ほどまでの悔しそうな表情は、少しずつ和らいでいた。
「……和真」
「何?」
「一つだけ、聞いてもよいか?」
「うん」
ナディアは和真を見上げた。
「……お前は、今夜の俺様をどう思った?」
「……どうって?」
「その……女として、だ」
いつもなら堂々と口にするような質問だった。
だが、今のナディアは少しだけ照れた様子だった。
和真はその顔を見つめた。
「……綺麗だと思ったよ」
「……うむ」
「それに……すごく意識した」
ナディアの瞳が、わずかに大きくなる。
「……そうか」
「風呂でも、さっきも……正直、かなりドキドキしてた」
和真は少し照れながら続けた。
「だから……その、先に風呂から上がったのも、ちょっと落ち着きたかったからなんだ」
ナディアはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……ふふっ」
「……何?」
「いや……嬉しいのだ」
ナディアは和真の手を取った。
「お前がそれほど俺様を意識してくれていたとはな」
「……うん」
「ならば、今夜の準備も無駄ではなかったということか」
「……無駄じゃないよ」
和真ははっきりと答えた。
「すごく嬉しかったし……ナディアと二人で過ごせて、楽しいよ」
その言葉に、ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「……そうか」
そして、和真の手を少し強く握る。
「……ありがとう、和真」
今度の礼は、普段のナディアらしくないほど素直だった。
◇ ◇ ◇
さらに時間が過ぎた。
和真が淹れた温かいお茶を飲みながら、二人は静かに話をしていた。
先ほどまでの慌ただしさは、もうない。
ナディアの顔色も落ち着き、目が回る感覚もなくなっていた。
「……どうだ? もう大丈夫そう?」
和真が尋ねると、ナディアは頷いた。
「ああ。すっかり落ち着いた」
「本当に?」
「無論だ。もう視界が揺れることもない。頭もはっきりしているぞ」
ナディアはゆっくりと立ち上がった。
少し歩いてみる。
先ほどとは違い、ふらつく様子もなかった。
「……ほらな」
「……よかった」
和真はほっと息を吐いた。
「さっきは本当にびっくりしたよ」
「……すまなかったな」
「謝らなくていいって」
ナディアは少しだけ苦笑した。
「酒には強いつもりだったのだがな。湯に浸かったことで、思いのほか身体に回ってしまったようだ」
「俺も気をつけないとな」
「ああ。今後は少し控えるとしよう」
ナディアはそう言うと、和真の隣へ戻ってきた。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「……和真」
「ん?」
「先ほどのことだが……」
ナディアは一度言葉を止めた。
「……俺様は、まだ少し悔しい」
「……酔っちゃったこと?」
「ああ」
ナディアは小さく頷いた。
「せっかくお前と二人きりになれたというのに、肝心なところで失敗してしまった」
「……ナディア」
「ふふっ。まったく、格好がつかんな」
そう言って笑う彼女の表情には、少しだけ寂しさが混じっていた。
和真はしばらくその顔を見つめていた。
そして、そっと手を伸ばす。
「……ナディア」
「何だ?」
「……こっち来て」
ナディアは少し驚いた顔をした。
「……む?」
「いいから」
和真が微笑むと、ナディアはゆっくりと近づいてきた。
和真はその身体を、優しく抱きしめた。
「……っ」
ナディアが小さく息を呑む。
「……和真?」
「失敗なんかじゃないよ」
和真は静かに言った。
「ナディアが今日のために色々準備してくれたことも、俺と一緒にいたいって思ってくれたことも……ちゃんと伝わってる」
ナディアは黙って聞いていた。
「俺も、ナディアとこうしていられて嬉しい」
「……和真」
「だから、そんなに落ち込まなくていいよ」
ナディアはしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと和真の背中へ腕を回す。
「……ふふっ」
「……何?」
「……本当に、お前には敵わんな」
その声は、少しだけ震えていた。
「俺様は魔王だぞ? それなのに……お前の前では、どうにも格好がつかん」
「……そんなことないよ」
「ふふっ。慰めるのも上手い男だ」
ナディアは顔を上げた。
赤い瞳が、まっすぐに和真を見つめる。
「……和真」
「……うん」
「もう一度、口づけをしてもよいか?」
和真は小さく頷いた。
「……いいよ」
ナディアが顔を近づける。
しかし、唇が触れる直前。
和真の方から、そっと口づけをした。
「……っ」
ナディアは驚いたように目を見開いた。
やがて目を閉じ、和真の背中へ回した腕に力を込める。
二人の唇が離れると、ナディアはしばらく呆然としていた。
「……和真」
「……ん?」
「……今のは、反則だぞ」
「……え?」
「俺様からするつもりだったのに……」
そう言いながら、ナディアは嬉しそうに笑った。
「……ふふっ。だが、悪くない」
和真も小さく笑う。
ナディアはその笑顔を見つめ、ゆっくりと頬へ手を添えた。
「……和真」
「……うん」
「俺様は、お前が好きだ」
静かな声だった。
「何百年も想い続けてきた。これからも、その気持ちが変わることはない」
和真は黙ってナディアを見つめた。
「だから……今夜は、もう少しだけお前に甘えたい」
ナディアは微笑んだ。
「……よいか?」
和真はそっと彼女の手を握った。
「……うん」
そして、少しだけ照れながら続ける。
「……俺も、ナディアと一緒にいたい」
その言葉に、ナディアの表情が大きく変わった。
驚き。
喜び。
そして、隠しきれないほどの幸福。
「……そうか」
ナディアはゆっくりと微笑んだ。
「……ふふっ。嬉しいぞ、和真」
彼女は和真の胸へ顔を寄せた。
和真も、その身体を優しく抱きしめる。
先ほどまでの失敗も、悔しさも、もう二人の間にはなかった。
ただ、互いの温もりだけがそこにあった。
やがてナディアは顔を上げ、和真を見つめた。
「……和真」
「ん?」
「一つ、聞いてもよいか?」
「……何?」
ナディアは和真の頬へ手を添えた。
その赤い瞳には、先ほどまでのような迷いはなかった。
「俺様は今夜、お前とただ一緒に眠るだけでは終わりたくない」
「……ナディア?」
「お前と、もっと深く繋がりたい。心だけではなく、身体もな」
和真の胸が大きく跳ねた。
ナディアが何を望んでいるのか、今度ははっきりとわかった。
「……本気なんだな」
「無論だ。俺様がこのようなことで冗談を言うと思うか?」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「だが、先ほども言ったように、お前の気持ちを無視するつもりはない。今夜はこうして抱きしめてもらえるだけでも、俺様は十分幸せだぞ」
和真はしばらく黙っていた。
何百年も自分を想い続けてくれた女性。
今日という日のために、何日も前から準備を重ねてくれていた。
そして、酔って計画が失敗してしまったときも、何より和真のことを気にかけていた。
和真はナディアの頬へ、そっと手を添えた。
「……ナディア」
「何だ?」
「俺も……もっとナディアと近づきたい」
ナディアの瞳が大きく見開かれた。
「……本当か?」
「うん。俺も、ナディアと結ばれたい」
その言葉を聞いた瞬間、ナディアの表情がゆっくりと変わった。
驚きから、喜びへ。
そして、隠しきれないほどの幸せな笑顔へ。
「……そうか」
ナディアは小さく息を吐いた。
「ふふっ……まさか、お前の口からその言葉を聞けるとはな」
和真は照れくさそうに笑った。
「……俺だって、ちゃんと考えてるよ」
「そうか。それならば……」
ナディアは和真の首元へ、そっと腕を回した。
「今夜は、俺様をお前のものにしてくれ」
和真はその言葉を受け止め、ナディアを優しく抱きしめた。
「……うん」
二人の唇が、再び重なる。
今度の口づけは、先ほどまでとは違った。
互いの想いを確かめるように、ゆっくりと唇を重ねる。
やがて離れると、ナディアは幸せそうに微笑んだ。
「……和真」
「ん?」
「愛しているぞ」
和真は何も言わず、彼女の手を握り返した。
ナディアはそれだけで嬉しそうに目を細めた。
そして、二人は手を取り合い、一組だけ敷かれた布団へと向かった。
和真がそっとナディアを抱き寄せる。
ナディアもまた、その腕の中へ身を預けた。
何百年もの間、会いたいと願い続けた相手。
もう一度触れたいと、幾度となく思い描いてきた相手。
その和真が、今はすぐ目の前にいる。
「……幸せだな」
ナディアが小さくつぶやいた。
「……うん」
和真は微笑み、もう一度彼女に口づけた。
やがて、部屋の灯りが消される。
窓の外には、静かな星空が広がっていた。
その夜、二人は初めて男女として結ばれた。
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が過ぎただろうか。
窓の外には静かな夜が広がり、遠くから微かに風の音が聞こえていた。
一組だけ敷かれた布団は、いつの間にか大きく乱れている。
「……はぁ……」
和真は仰向けになったまま、深く息を吐いた。
額には薄く汗が浮かび、身体には心地よい疲労感が残っている。
隣ではナディアも、ゆっくりと呼吸を整えていた。
長い赤髪は枕の上に広がり、その一部が汗ばんだ頬に貼り付いている。
普段なら余裕たっぷりに微笑んでいる彼女も、今は少し疲れた様子だった。
「……さすがに、疲れたな」
和真がつぶやくと、ナディアは小さく笑った。
「ふふっ……そうだな。俺様も少々疲れた」
「……ナディアでも疲れるんだな」
「何を言う。魔王とて疲れるときは疲れるぞ」
そう答えると、ナディアはゆっくりと身体を横向きにした。
和真を見つめる赤い瞳。
そこには、これまで見たことのないほど穏やかな光が宿っていた。
「……だが」
「ん?」
「気持ちよかったぞ、和真」
「っ……!」
和真の顔が一気に赤くなった。
「……そういうこと、普通に言うなよ……」
「ふふっ。何を恥ずかしがっている? 本当のことを言っただけだろう?」
「いや……それはそうだけど……」
「それとも、俺様の感想が不満か?」
「そんなわけないだろ!」
思わず声を上げると、ナディアは楽しそうに笑った。
「ははっ! ならばよいではないか」
「……ほんと、ナディアには敵わないな」
和真が苦笑すると、ナディアは嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ。お前はどうだった?」
「……え?」
「俺様は自分の気持ちを伝えたぞ。お前の感想も聞かせてもらいたいものだな」
「……それ、答えないと駄目?」
「無論だ」
即答だった。
和真は困ったように笑い、少しだけ視線を逸らした。
「……俺も、よかったよ」
「ほう?」
「……ナディアと、こうなれて」
ナディアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……そうか」
その声には、隠しきれない喜びが込められていた。
「ふふっ。それは嬉しいな」
ナディアは和真の胸元へ身体を寄せた。
まだ少し汗ばんだ肌が触れ合う。
和真がそっと腕を回すと、ナディアは満足そうに息を吐いた。
「……それにな、和真」
「ん?」
「お前と、こうして深く繋がることができて、本当によかった」
先ほどまでのからかうような声とは違った。
落ち着いた、優しい声だった。
「何百年もの間、お前に会いたいと願い続けてきた。もう一度顔を見ることができれば、それだけでも幸せだと思っていた時期もあった」
「……ナディア」
「だが、いざ再会してしまえば、それだけでは満足できなくなってしまった」
ナディアは小さく笑った。
「もっと話がしたい。もっと一緒にいたい。触れ合いたい……そして、いつかはお前と結ばれたい。そんなことばかり考えていた」
和真は黙って耳を傾けていた。
「ふふっ。随分と欲深い女だろう?」
「……そんなことないよ」
「そうか?」
「うん。俺だって、ナディアともっと一緒にいたいと思ったから……今、こうしてるんだし」
ナディアは和真を見つめた。
そして、ゆっくりと目を細める。
「……そうか」
彼女は再び和真の胸へ頬を寄せた。
「……幸せだぞ、和真」
その声は、とても穏やかだった。
和真はナディアの髪を優しく撫でた。
指先に、まだ少し湿った赤髪が触れる。
「……俺も、嬉しいよ」
「ふふっ。それならば、なおさら幸せだな」
ナディアは満足そうに目を閉じた。
少し乱れた布団の中、二人はしばらく何も話さずに寄り添っていた。
先ほどまで高鳴っていた鼓動も、少しずつ落ち着いていく。
窓の外では、夜風が木々を静かに揺らしていた。
◇ ◇ ◇
「……ナディア、水飲む?」
しばらくして、和真が尋ねた。
「うむ。もらおう」
和真は身体を起こし、枕元に用意してあった水をグラスに注いだ。
ナディアもゆっくりと上半身を起こす。
布団を肩へ引き寄せながら、和真からグラスを受け取った。
「ありがとう」
「うん」
二人は水を飲み、喉を潤した。
ナディアはグラスを置くと、少しだけ身体を伸ばした。
「……ふぅ」
「大丈夫?」
「何がだ?」
「いや、さっき目が回って大変だったし」
「ふふっ。心配性だな、お前は」
ナディアは楽しそうに笑った。
「安心しろ。もう何ともない。頭もはっきりしているぞ」
「ならいいけど」
「それに……」
ナディアは少し悪戯っぽく微笑んだ。
「今は酒に酔っていたときよりも、ずっとよい気分だ」
「……またそういうこと言う」
「ふふっ。事実だからな」
和真が照れくさそうに笑うと、ナディアも満足そうに微笑んだ。
二人は再び布団へ横になる。
ナディアは和真の腕を取り、自分の頭の下へ回した。
「……何してるの?」
「腕枕だ。こういうものは、恋しい相手にしてもらうものなのだろう?」
「……まあ、そうだけど」
「ならば問題ないな」
ナディアは当然のように答えた。
「ふふっ。なかなか心地よいぞ」
「……腕、痺れたら言うからな」
「それまでは独占させてもらおう」
和真は小さく笑った。
ナディアは嬉しそうに身体を寄せ、和真の胸元へ手を置いた。
しばらくして、彼女が思い出したように口を開いた。
「……そうだ、和真」
「ん?」
「一つ、打ち明けておきたいことがある」
「……何?」
ナディアは少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「今夜の夕食についてだ」
「……夕食?」
「ああ。最後の方に出てきた鍋料理を覚えているか?」
「ああ、あの美味しかったやつ?」
「そうだ」
「あれがどうかした?」
ナディアは和真の胸元へ指先を添えた。
「実はな、あれは俺様が事前に頼んで用意させたものなのだ」
「……え?」
「スッポン料理というものだ」
「…………スッポン?」
和真は思わず聞き返した。
「……あれ、スッポンだったのか!?」
「ああ。気づかなかったようだな」
「全然わからなかった……」
「ふふっ。美味かっただろう?」
「うん。すごく美味しかったけど……」
和真は少し考えた。
そして、ナディアへ視線を戻す。
「……なんでスッポン?」
すると、ナディアは満足そうに微笑んだ。
「精をつけてもらおうと思ってな」
「…………はい?」
「滋養によい食材だと聞いたのだ。せっかくの旅行だからな」
「いや、それはありがたいけど……」
和真は困ったように眉を寄せた。
「……もしかして、最初からこうなるつもりだった?」
ナディアは隠そうともしなかった。
「ああ。俺様は最初から、お前ともっと親密な関係になりたいと思っていたぞ」
「……やっぱり」
「ふふっ。もっとも、料理を食べたからといって、必ずそうなるわけではないことくらい理解している」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「俺様がお前を求めたかった。それだけのことだ」
「……色々考えてたんだな」
「当然だろう? 何百年も待ち望んだ夜なのだからな」
ナディアは少し得意げに答えた。
しかし、すぐにその表情を和らげる。
「それに、和真」
「……ん?」
「俺様があの料理を用意したのには、もう一つ理由がある」
「……もう一つ?」
「ああ」
ナディアは和真の顔を覗き込んだ。
「お前が夜な夜な、一人で欲を発散していることを知っていたからだ」
「………………え?」
一瞬、和真の頭が真っ白になった。
「……ちょ、ちょっと待て!」
「何だ?」
「なんで知ってるんだよ!?」
和真は勢いよく身体を起こした。
ナディアはそんな和真を見て、楽しそうに笑った。
「ははっ! そこまで驚くことか?」
「驚くに決まってるだろ!」
「ふふっ。そうか。それはすまなかったな」
「いや、謝るなら先に言ってくれよ……!」
和真は顔を手で覆った。
「……恥ずかしすぎる……」
ナディアはしばらく楽しそうに笑っていたが、やがて和真の腕へそっと手を添えた。
「……和真」
「……何?」
「別に、お前をからかいたくて打ち明けたわけではないぞ」
「……じゃあ、何で?」
ナディアは少しだけ表情を真剣なものへと変えた。
「お前に伝えておきたかったからだ」
「……何を?」
「もう少し、自分の欲に素直になってもよいのだということをな」
和真は顔を上げた。
ナディアは穏やかに微笑んでいる。
「お前はいつも、周囲の者たちを気にかけている。皆の頼みを聞き、誰かが困っていれば手を差し伸べる」
「……まあ、そうかな」
「ああ。それはお前のよいところだ。俺様も、そういうお前が好きだぞ」
ナディアは和真の手を取った。
「だが、少々自分のことを後回しにしすぎるところがある」
「……そう?」
「そうだ。誰かを傷つけたくない。皆に幸せでいてほしい。そう思うあまり、自分の気持ちを抑えてしまうことがあるだろう?」
和真はすぐには答えられなかった。
「……まあ、多少は」
「ふふっ。やはりな」
ナディアは小さく笑った。
「欲があることは、決して悪いことではない。お前だって一人の男なのだ。誰かに触れたいと思うことも、甘えたいと思うこともあるだろう?」
「……うん」
「ならば、少しくらい素直に見せてもよいのだぞ?」
ナディアは和真の頬へ手を伸ばした。
「もちろん、相手の気持ちを無視してよいという話ではない。だが、互いに望んでいるのなら、必要以上に遠慮することもあるまい」
和真は黙って彼女を見つめた。
「俺様はな、和真。お前に我慢ばかりしてほしくないのだ」
「……ナディア」
「お前が嬉しいときは、一緒に喜びたい。辛いときは、少しくらい頼ってほしい。そして……」
ナディアは柔らかく微笑んだ。
「俺様に甘えたいと思ったなら、遠慮なく甘えてくれればよい」
和真はしばらく何も言えなかった。
ナディアはいつも自信満々で、時には強引なくらい積極的だった。
けれど、その言葉の一つ一つには、和真を大切に思う気持ちが込められている。
「……ありがとう」
和真が小さく答えると、ナディアは嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ。礼を言われるほどのことではない」
そして、少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「もっとも、俺様としては、お前が俺様を求めてくれるのなら大歓迎だがな」
「……またそういうこと言う」
「ふふっ。俺様はいつでも本気だぞ?」
和真は苦笑した。
だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
ナディアはそんな和真の表情を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ただし、和真」
「ん?」
「俺様にも、譲れない願いがある」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
落ち着いていながらも、確かな強さを感じさせる声。
和真はナディアを見つめた。
「……願い?」
「ああ」
ナディアは和真の手を両手で包んだ。
「俺様は、お前が欲しい」
まっすぐな言葉だった。
「お前と一緒に暮らし、笑い合い、こうして触れ合える時間を、これからもずっと大切にしたい」
「……うん」
「そして……いつかは」
ナディアは一度言葉を止めた。
赤い瞳が、和真をまっすぐに見つめる。
「お前に、俺様だけを見てほしい」
和真の胸が小さく高鳴った。
「……ナディア」
「ふふっ。随分と欲深い願いだろう?」
ナディアは小さく笑った。
「だが、それが俺様の本心だ。何百年も想い続けてきた男を、誰にも渡したくないと思うことくらい、許されるだろう?」
その言葉には、冗談めいた響きがなかった。
ナディアは本気だった。
和真は少し考えてから、静かに口を開いた。
「……でも、今すぐじゃなくていいのか?」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「ああ。今すぐでなくてよい」
「……どうして?」
「まだ、皆がお前との旅行を終えたわけではないだろう?」
和真は小さく頷いた。
「……うん」
「お前との旅行を楽しみにしている者たちがいる。それぞれに想いがあり、伝えたいこともあるはずだ」
ナディアは静かに続けた。
「俺様だけが先に答えを求めるのは、少々勝手が過ぎるというものだ」
「……ナディア」
「それに、何より大切なのはお前の気持ちだ」
ナディアは和真の胸元へそっと手を添えた。
「お前が誰を好きになり、誰と一緒にいたいと思うのか。それはお前自身が決めることだろう?」
「……そうだな」
「俺様はお前を愛している。だが、その想いを理由にお前を縛りつけるつもりはない」
ナディアはゆっくりと微笑んだ。
「今夜こうして結ばれたことと、お前がこの先誰を選ぶのかは、別の話だからな」
和真は何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。
「だから、今すぐ俺様だけを見ろとは言わん。皆との約束も、お前自身の気持ちも大切にしてほしい」
そこでナディアは少しだけ笑みを深めた。
「……だが、勘違いするなよ?」
「え?」
「俺様は諦めたわけではないぞ」
いつもの、自信に満ちた笑顔だった。
「いつかお前が自分の意思で俺様を選び、俺様だけを見てくれる日が来ることを、心から望んでいる」
ナディアは胸を張った。
「その願いを簡単に捨てるつもりなどないからな」
和真は思わず笑ってしまった。
「……ナディアらしいな」
「当然だ。俺様を誰だと思っている?」
「魔王様だろ?」
「ふふっ。よくわかっているではないか」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、和真はナディアの手を握り返した。
「……ありがとう、ナディア」
「む?」
「俺のこと、そこまで考えてくれて」
和真は少しだけ視線を落とした。
「正直、今すぐ答えを出すことはできないと思う」
「ああ。わかっている」
「でも、ナディアの気持ちを適当に扱いたくない」
和真は顔を上げた。
「今日のことだって、後悔してないよ」
ナディアはゆっくりと目を見開いた。
「……そうか」
「うん。ナディアと一緒にいられて、嬉しかった」
その言葉を聞いたナディアは、しばらく黙っていた。
そして、和真の胸へそっと顔を寄せた。
「……ふふっ」
「……どうした?」
「いや……十分だと思ってな」
ナディアの声は、とても優しかった。
「今夜は、それを聞けただけで十分だ」
和真はそっと彼女を抱きしめた。
ナディアもまた、和真の背中へ腕を回した。
これから先、二人の関係がどうなっていくのか。
和真には、まだわからないことが多かった。
けれど、今夜ナディアと過ごした時間が、大切な思い出になったことだけは確かだった。
◇ ◇ ◇
「……さて」
しばらく寄り添っていたナディアが、ゆっくりと顔を上げた。
「随分と夜も更けたな」
「そうだな。もう結構遅いかも」
「明日は朝市へ行くのだろう?」
「うん。せっかくだし、朝から見て回りたいな」
「ならば、そろそろ休むとするか」
ナディアはそう言うと、和真の胸元へ頬を寄せた。
「……と言いたいところだが」
「ん?」
「一つ、困ったことがある」
「……何?」
ナディアは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「お前の腕の中が心地よすぎて、離れたくないのだ」
「……何だよ、それ」
「ふふっ。本当のことだぞ?」
和真は思わず笑った。
「じゃあ、このまま寝ればいいだろ」
「……よいのか?」
「布団も一組しかないんだし、今さらだろ?」
その言葉に、ナディアは嬉しそうに目を細めた。
「……そうだな」
そして、和真の胸へ顔を埋める。
「ふふっ。ならば遠慮なく甘えるとしよう」
「……ほどほどにな」
「それは約束できんな」
「……さっきもそんなこと言ってた気がするぞ」
「俺様は気に入ったものを、簡単に手放すつもりはないからな」
ナディアはそう言って、満足そうに笑った。
和真も小さく笑い、掛け布団を二人の肩まで引き上げる。
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
ナディアの温もりを感じながら、和真はゆっくりと目を閉じる。
そのとき。
ふと、フェンリスの顔が頭に浮かんだ。
胸が少し苦しくなった。
「……和真?」
ナディアの声が聞こえた。
「……ん?」
「どうした? まだ眠くないのか?」
「いや、大丈夫。そろそろ寝ようかなって」
「そうか」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、もう少しこちらへ寄ってくれ」
和真が腕を回すと、ナディアは満足そうに身体を寄せてきた。
「……ふふっ。よいな、こういうのも」
「……そうだな」
ナディアは和真の胸へ頬を寄せた。
「……和真」
「ん?」
「今夜のことは、俺様は決して忘れんぞ」
「……うん」
「お前と出会ってから、何百年もの時が過ぎた。その間、数えきれないほどお前を想い続けてきた」
ナディアは静かに続けた。
「だが、今夜ほど幸せだと思えた日はない」
和真はその言葉を聞き、そっとナディアの髪を撫でた。
「……そっか」
「ああ」
ナディアは目を細めた。
「……ありがとう、和真」
「……こちらこそ」
和真がそう答えると、ナディアは幸せそうに微笑んだ。
「……おやすみ、和真」
「おやすみ、ナディア」
ナディアは和真の胸に頬を寄せたまま、ゆっくりと目を閉じた。
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始める。
和真も彼女を抱きしめたまま、静かに眠りへ落ちていった。
窓の外には、山あいの静かな夜が広がっていた。
何百年もの間、想い続けてきた相手と、ようやく結ばれた夜。
ナディアにとって、その夜は生涯忘れることのできない、大切な思い出となった。
そして翌朝。
二人は、初めて寄り添って迎える朝を迎えることになるのだった。




