第四十話 星降る夜に、重なる想い
十一月十四日
まだ太陽が昇っていない朝。
冷たい空気が漂う駐車場で、和真は車のトランクを開けていた。
「着替えに、防寒着に……あとはこれか」
旅行用の鞄を積み込み、忘れ物がないか確認する。
今回の目的地は、長野県の阿智村。
昼神温泉で一泊し、夜には星空ナイトツアーに参加する予定だ。
車での長旅になるため、少し早めに出発することにしていた。
「和真ー! 準備できたー?」
背後から元気な声が聞こえてきた。
振り返ると、みゆが母屋の方から歩いてきていた。
「ああ。荷物はほとんど積み終わったよ」
「そっか。ナディアは?」
「まだ着替えてるんじゃないかな」
「ふふっ。ずいぶん気合い入ってたもんね」
みゆは何かを知っているような笑みを浮かべた。
「……なんだよ、その顔」
「んー? 別にぃ?」
「絶対なんかあるだろ」
「さあねー」
みゆは楽しそうに笑う。
その後ろから、今度はピピが駆け寄ってきた。
「かずまー!」
「おう、ピピ。おはよう」
「おはよー! ねえねえ、今日は星を見に行くんだよね!?」
「ああ。天気もよさそうだし、楽しみだよ」
「いいなー! ピピも見たい!」
「ピピとはこの前ディズニーシーに行っただろ」
「それはそれ! これはこれ!」
「欲張りだなぁ」
「えへへ!」
ピピは屈託のない笑顔を浮かべた。
「じゃあ、お星様の写真いっぱい撮ってきてね!」
「撮れるかわからないけど、頑張ってみるよ」
「約束だよ!」
そう言って、ピピは小指を差し出してきた。
和真は笑いながら指を絡める。
「はいはい、約束な」
「やったー!」
そのやり取りを眺めていたみゆが、少しだけ頬を膨らませた。
「……なんか、ピピってずるいよね」
「何が?」
「そうやって和真に甘えるのが上手いところ」
「えー? みゆもやればいいじゃん!」
「それが簡単にできたら苦労しないって!」
「……二人とも朝から元気だな」
和真が苦笑していると、さらに住人たちが集まってきた。
「おう、もう出るのか?」
最初に声をかけてきたのは酒菜だった。
「あと少ししたらな」
「そうか。長距離運転なんだろ? 途中でちゃんと休めよ」
「わかってるって」
「お前の『わかってる』は信用ならねえからな」
「ひどくないか?」
「普段の行いだろ」
酒菜はそう言って笑う。
その隣には、ひかげも立っていた。
「……和真さん」
「ん? どうした?」
「……向こう、寒いと思うから……風邪ひかんようにしてくださいね」
「ああ。ありがとう、ひかげ」
「……はい」
ひかげは小さく微笑んだ。
大阪旅行から帰ってきて以来、彼女は以前よりも少しだけ積極的になっていた。
まだ自分から大きな声で話しかけることは少ないが、こうして見送りに来てくれることが和真には嬉しかった。
「……あの」
「ん?」
「……ナディアさんと、楽しんできてください」
「ああ。楽しんでくるよ」
その返事に、ひかげは嬉しそうに頷いた。
「まったく。皆、朝から騒がしいのう」
少し遅れて、あおいも姿を見せた。
銀色の髪を揺らしながら、和真の前で腕を組む。
「和真よ」
「おはよう、あおい」
「うむ。……今日からナディアとの旅行じゃったな」
「ああ。一泊二日だけどな」
「わかっておる」
あおいは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「まったく、次から次へと……お主も忙しい男じゃのう」
「俺が決めた順番じゃないんだけどな」
「それはわかっておるわ」
そう言ってから、あおいは小さく笑った。
「まあよい。妾との旅行も楽しかったからの。ナディアにも、よい思い出を作らせてやるがよい」
「ああ」
「ただし、妾との約束も忘れるでないぞ?」
「忘れないって」
「ならばよし!」
満足そうに頷いたあおいの後ろから、リディアとユエもやってきた。
「和真さん、おはようございます」
「おはよう、リディア」
「天候は確認しました。今夜の阿智村周辺は晴れる予報です。ただ、山頂付近はかなり冷え込むと思いますので、防寒対策はしっかりしてください」
「ありがとう。ちゃんと準備してあるよ」
「それなら安心です」
リディアは微笑んだ。
その隣で、ユエが静かに和真を見つめている。
「……主」
「ん? ユエもおはよう」
「おはようございます。旅先で何か問題があれば、遠慮なくお呼びください」
「一泊二日だし、大丈夫だと思うけどな」
「万が一ということもあります」
「その時は頼むよ」
「はい」
ユエは満足そうに目を細めた。
こうして皆に囲まれていると、たった一泊の旅行なのに、随分と大げさな見送りになっている気がする。
だが、和真は嫌ではなかった。
むしろ、こうして誰かが見送ってくれることが、嬉しくもあった。
ふと、和真はアパートへ視線を向けた。
「……そういえば、フェンリスは?」
何気なく尋ねると、みゆが答えた。
「まだ寝てるみたいだよ」
「そっか」
和真はもう一度、アパートの方を見た。
最近、フェンリスとはゆっくり話せていない。
仕事の時間もあるのだろうが、以前と比べると顔を合わせる機会が少なくなっていた。
(……疲れてるのかな)
少し気にはなったものの、今はわざわざ起こす必要もないだろう。
「帰ってきたら、また声かけるか」
小さく呟き、和真は車へ向き直った。
その時だった。
「待たせたな!」
母屋の方から、よく通る声が響いた。
◇ ◇ ◇
振り返った和真は、思わず目を見開いた。
「……おお」
そこに立っていたのは、旅行用の鞄を片手に持ったナディアだった。
深い赤色のニットに、すらりとした身体の線を綺麗に見せる黒のロングスカート。
その上から、落ち着いた色合いのコートを羽織っている。
普段とは違う、大人の女性らしい上品な装いだった。
鮮やかな赤い髪も丁寧に整えられ、右目を隠す前髪はいつもどおり。
街中で目立つ大きな角は、魔法で見えないようにしてある。
そして何より。
堂々とした立ち姿と、自信に満ちた微笑み。
それらが重なり、普段以上に魅力的に見えた。
「……どうした、和真?」
「いや……」
和真は一度言葉を止めた。
「……すげえ似合ってるな」
その瞬間。
ナディアの表情が、ほんのわずかに変わった。
「……ほう?」
口元に笑みを浮かべる。
「俺様の魅力に、ようやく気づいたか?」
「いや、前から綺麗だとは思ってるけどさ」
「……っ!」
今度こそ、ナディアの頬が赤くなった。
しかし、すぐにいつもの余裕ある表情へ戻る。
「ふっ……当然だ。俺様を誰だと思っている」
「元魔王様だろ?」
「そうだ。だが……」
ナディアは和真へ歩み寄った。
「今日は魔王としてではなく、一人の女として楽しませてもらうつもりだ」
「……お、おう」
「ふふっ。期待していろ」
そう言って微笑んだナディアから、ふわりと甘い香りが漂った。
「……ん?」
「どうした?」
「なんか、いい匂いがするな」
「ほう。気づいたか」
ナディアは満足そうに目を細めた。
「香水だ。今日のために選んだ」
「へえ。いい香りだな」
「気に入ったか?」
「ああ。ナディアに合ってるよ」
「……そうか」
ナディアは嬉しそうに笑った。
近づかなければ気づかないほどの、ほのかな香り。
それでいて、一度意識すると不思議と気になってしまう。
和真はもう一度、ナディアの姿を見た。
すると彼女は、少し得意げに微笑んだ。
「どうした? そんなに見つめられると、俺様でも照れてしまうぞ?」
「……いや、悪い」
「謝る必要はない。むしろ、もっと見てくれて構わん」
「……お前なぁ」
その様子を、みゆがじっと見つめていた。
「……ねえ、ナディア」
「なんだ?」
「今日、すっごく気合い入ってない?」
「当然だろう」
ナディアは迷いなく答えた。
「和真と二人きりの旅行だ。手を抜く理由などない」
「……だよねぇ」
みゆは小さくため息を吐いた。
「なんか、すごく嫌な予感がするんだけど」
「心配するな。和真を困らせるつもりはない」
「その言葉、あんまり信用できないんだけど!?」
「ふふっ。ならば、どうなるか楽しみにしていろ」
「余計心配になるって!」
みゆの声に、周囲から笑いが起こった。
ナディアも楽しそうに笑う。
だが、その内心は少し違っていた。
(……ふふっ)
和真の反応は、想像以上によかった。
服装も、髪型も、香水も。
この日のために考えたものだ。
もちろん、それだけでは終わらない。
旅行先でも、和真を思いきり楽しませるつもりでいる。
そしてできることなら。
(……今日こそ、お前の心をもっと俺様へ向けてみせる)
ナディアは和真を見つめ、静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「さて、そろそろ出発するか」
和真が時計を確認した。
予定していた出発時刻が近づいている。
「ナディア、荷物貸して」
「ん? 自分で持てるぞ?」
「わかってるよ。トランクに入れるから」
「そうか。なら頼む」
ナディアは素直に鞄を渡した。
和真が荷物を積み込んでいる間に、彼女は住人たちへ向き直った。
「では、行ってくる」
「楽しんできてねー!」
ピピが元気いっぱいに手を振った。
「お土産も忘れないでね!」
「ふっ。任せておけ」
「やったー!」
続いて、みゆが口を開く。
「ナディア」
「なんだ?」
「……あんまり和真を困らせちゃ駄目だからね?」
「ふふっ。善処しよう」
「絶対わかってないでしょ!」
「心配するな。大切に扱うさ」
その言葉に、みゆは一瞬だけ黙った。
「……なら、いいけど」
少し不満そうではあったが、それ以上は何も言わなかった。
ひかげも小さく手を振る。
「……気をつけて、行ってきてください」
「ああ。ありがとう、ひかげ」
「あまり羽目を外しすぎるでないぞ」
あおいがそう言うと、ナディアは笑った。
「それは約束できんな」
「……お主、少しは隠そうとせぬか!」
「隠してどうする。俺様は和真が好きなのだからな」
「むぅ……!」
あおいが頬を膨らませる。
その様子を見て、酒菜が豪快に笑った。
「はははっ! まったく、朝から賑やかなこった!」
そして和真の肩を軽く叩いた。
「おう、和真」
「ん?」
「運転、気をつけろよ」
「ああ」
「それと、ちゃんと楽しんでこい」
酒菜はにやりと笑った。
「せっかくの二人旅なんだからな」
「……わかってるよ」
和真も笑って答えた。
そうして二人は車へ乗り込んだ。
ナディアが助手席に座り、シートベルトを締める。
「準備はいいか?」
「ああ。いつでも構わん」
「よし、じゃあ行くぞ」
エンジンをかけ、ゆっくりと車を動かす。
窓の外では、住人たちが手を振っていた。
「いってらっしゃーい!」
「気をつけてねー!」
「お土産ー!」
「ピピ、そればっかりだな!」
和真が笑いながら返す。
ナディアも窓を少し開けた。
「土産は期待していろ! ではな!」
そう言って片手を上げる。
住人たちの姿が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて車は大通りへ出て、長野県へ向かって走り始めた。
◇ ◇ ◇
出発してしばらく。
車内には穏やかな音楽が流れていた。
ナディアは助手席から窓の外を眺めている。
「……ふむ」
「どうした?」
「いや。こうしてお前と二人で出かけるというのも、なかなか新鮮だと思ってな」
「そうだな。二人きりで遠出するのは初めてだし」
「ああ」
ナディアは楽しそうに微笑んだ。
「しかも一泊二日だ。今日と明日は、お前を独り占めできるわけだな」
「……独り占めって」
「違うのか?」
「まあ、二人旅だからそうなるけど」
「ならば問題ないだろう」
ナディアは満足そうに頷いた。
しばらくして、ふと和真へ視線を向ける。
「和真」
「ん?」
「疲れたら遠慮なく言えよ」
「まだ走り始めたばっかりだぞ?」
「それでもだ。俺様は車の運転ができん。代わってやれない以上、お前に無理をさせるつもりはない」
「……ありがとな」
「礼などいらん」
ナディアは前を向いた。
「俺様だって、お前と楽しい旅行にしたいからな」
和真は小さく笑った。
「そっか」
「ああ」
いつも強気で、自信に満ちたナディア。
だが、その言葉の端々には、和真への気遣いがある。
それは彼女と一緒に暮らし始めてから、少しずつ知ってきた一面だった。
「……なあ、ナディア」
「なんだ?」
「今回の旅行、結構楽しみにしてた?」
「当然だろう」
ナディアは即答した。
「お前と二人で過ごせるのだぞ。楽しみでないはずがない」
「そっか」
「……それに」
「ん?」
ナディアは少しだけ声を落とした。
「俺様は、こういう時間に憧れていたのかもしれんな」
「……こういう時間?」
「ああ」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
「昔の俺様には、誰かと旅行を楽しむなどという発想すらなかった」
その表情が、ほんの少しだけ穏やかになる。
「魔王であった頃は、常に周囲を警戒していたからな。どこかへ出かけるとしても、目的があった」
「……そうだろうな」
「だが今は違う」
ナディアは和真を見た。
「お前と行きたい場所へ行き、美味いものを食べ、綺麗な景色を見る。それだけでいい」
そして微笑んだ。
「……随分と贅沢になったものだ」
「贅沢ってほどじゃないだろ」
「俺様にとっては贅沢なのだ」
和真は少し考えた。
かつて自分と戦い、長い時を越えて再会したナディア。
彼女がどれほどの時間を一人で過ごしてきたのか。
正確には、想像することすら難しい。
だからこそ。
「……じゃあ、今日と明日は思いきり楽しもうぜ」
和真は笑った。
「せっかくの旅行なんだからさ」
その言葉に、ナディアが目を細めた。
「……ああ」
そして、小さく呟く。
「そうだな」
◇ ◇ ◇
高速道路へ入り、しばらく走った頃。
「……和真」
「ん?」
「少し聞きたいことがある」
「なんだ?」
「お前は、俺様の服装をどう思った?」
「ん? さっき似合ってるって言っただろ?」
「それは聞いた。そうではなく……」
ナディアは少しだけ言葉を選んだ。
「……女として、どう見えた?」
「……え?」
「俺様のことを、魅力的だと思ったか?」
あまりにも直球な質問だった。
和真は一瞬、言葉に詰まる。
「……そりゃ、思ったけど」
「ほう」
ナディアの口元が上がる。
「どの辺りが?」
「……そこまで聞くのか?」
「当然だ。せっかく二人きりなのだからな」
「いや、運転中なんだけど」
「口は動くだろう?」
「そういう問題じゃねえ!」
ナディアは楽しそうに笑った。
「ふふっ。冗談だ」
「……絶対半分本気だろ」
「半分どころか、全部本気だが?」
「おい!」
和真の反応を見て、ナディアはさらに笑った。
しかし、その笑みはすぐに少し柔らかなものへと変わった。
「……だが、嬉しかったぞ」
「ん?」
「出発前、お前が綺麗だと言ってくれたことだ」
ナディアは指先で、髪の先を軽く弄んだ。
「思っていた以上に、胸に響いた」
「……そっか」
「ああ」
彼女はゆっくりと前を向いた。
「俺様はお前にそう思ってほしくて、今日の服を選んだのだからな」
その言葉を聞いて、和真は少しだけ照れくさくなった。
「……じゃあ、選んだ甲斐はあったんじゃないか?」
「ふふっ。そうだな」
ナディアは満足そうに微笑んだ。
だが、それで終わるつもりはなかった。
今日のために用意したものは、まだ他にもある。
彼女は窓の外へ視線を戻し、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……まだまだ、これからだ」
◇ ◇ ◇
午前九時を過ぎた頃。
二人は途中のサービスエリアへ立ち寄った。
「ふぅ……」
車から降りた和真が、大きく伸びをする。
「やっぱり長距離運転は、途中で休まないとな」
「疲れたか?」
「いや、まだ平気だよ。でも休憩は大事だからな」
「それならいい」
ナディアも車から降り、周囲を見回した。
「ほう……随分と色々な店があるのだな」
「サービスエリアだからな。飯も食えるし、土産物も売ってるぞ」
「なるほど。少し見て回るか」
「ああ」
二人は並んで建物へ向かった。
入り口付近には、焼きたてのパンや温かい軽食を販売する店が並んでいる。
「……いい匂いだな」
ナディアが足を止めた。
「食べたいものでもあった?」
「いや、朝食は食べてきたからな。ただ、少し気になっただけだ」
「じゃあ、何か一つ買って分けるか?」
「いいのか?」
「ああ。昼飯まではまだ時間あるし」
「……ふふっ」
ナディアは嬉しそうに笑った。
「ならば、あれがいい」
指差した先にあったのは、焼きたてのアップルパイだった。
「お、いいな」
和真は一つ購入し、ナディアと近くのベンチへ腰を下ろした。
「はい、半分」
「ああ。ありがとう」
温かいアップルパイを受け取り、ナディアは一口かじる。
「……美味い」
「だろ?」
「うむ。林檎の甘さと香りがいいな」
ナディアは満足そうに頷いた。
そのまま和真へ視線を向ける。
「和真」
「ん?」
「一口もらっていいか?」
「いや、同じの持ってるだろ」
「そうだな」
「……?」
「だが、お前の持っている方も食べてみたい」
「……同じ味だぞ?」
「わかっている」
ナディアは意味ありげに笑った。
「ほら、食べさせてくれ」
「……お前なぁ」
和真は呆れながらも、アップルパイを差し出した。
ナディアは少し身を乗り出し、その先端を一口かじる。
「……うむ」
「どうだ?」
「美味いな」
「だから同じだって」
「いや、少し違うぞ」
「何が?」
ナディアは楽しそうに微笑んだ。
「お前に食べさせてもらった分、こちらの方が美味く感じる」
「……っ」
和真は思わず視線を逸らした。
「……朝からそういうことばっかり言うなよ」
「ふふっ。照れているのか?」
「……別に」
「そうか?」
ナディアは笑いながら、今度は自分のアップルパイを和真へ差し出した。
「ならば、お返しだ。ほら、口を開けろ」
「いや、俺は……」
「和真」
「……はいはい」
和真が少し顔を近づけると、ナディアは嬉しそうに食べさせた。
「どうだ?」
「……美味いよ」
「ふふっ。そうだろう」
満足そうに笑うナディア。
和真も、つられるように笑ってしまった。
食べ終えた後、二人は飲み物を買い、少しだけ敷地内を散歩した。
山々の景色を眺めながら歩いていると、ナディアがふと和真の隣へ寄ってきた。
「……和真」
「ん?」
「手を貸してくれ」
「手?」
「ああ」
和真が右手を差し出す。
するとナディアは、その手を優しく握った。
「……こうして歩いてみたかった」
「……そっか」
「ああ」
ナディアは指を絡め、少しだけ身体を寄せる。
ふわりと、あの甘い香りが漂った。
和真の胸が、また少しだけ高鳴る。
今朝から何度も感じている香りだ。
だが、不思議なことに、近くで感じるたびに意識してしまう。
「……ナディア」
「なんだ?」
「今日、やけに積極的だな」
「そうか?」
「いや、絶対そうだろ」
ナディアは小さく笑った。
「俺様は元からこういう女だぞ?」
「……そうだったか?」
「少なくとも、お前に対してはな」
その言葉に、和真は何も返せなかった。
ナディアは満足そうに笑う。
「ふふっ。まあ、今日くらいは許してくれ」
「……別に嫌ってわけじゃないけど」
「ならばいいではないか」
彼女は嬉しそうに手を握り直した。
「少しだけ、このまま歩こう」
「……ああ」
和真も、その手を握り返した。
冷たい十一月の風が、二人の間を通り抜けていく。
けれど、繋いだ手だけは温かかった。
◇ ◇ ◇
十分に休憩を取った後、二人は再び車へ乗り込んだ。
「さて、もう少しだな」
「阿智村までは、あとどれくらいだ?」
「順調に行けば、昼頃には着くと思う」
「そうか」
ナディアはシートベルトを締めながら、楽しそうに微笑んだ。
「ならば、昼食も楽しみだな」
「ああ。せっかくだし、地元の料理を食べようと思ってる」
「ほう。それはいい」
「蕎麦とか有名らしいぞ」
「蕎麦か。悪くないな」
そう言ってから、ナディアは少し考えた。
「……和真」
「ん?」
「お前は今日、何を一番楽しみにしている?」
「そうだなぁ……」
和真はエンジンをかけながら考えた。
「やっぱり星空かな」
「ふむ」
「せっかく日本一の星空って言われてる場所に行くんだし、どんな景色なのか気になるよ」
「なるほどな」
「ナディアは?」
「俺様か?」
「ああ」
ナディアは少しだけ口元を上げた。
「……俺様は、今夜が楽しみだ」
「星空?」
「それもある」
「……他には?」
「ふふっ。それは着いてからのお楽しみだ」
「……なんだよ、それ」
「楽しみは取っておくものだろう?」
ナディアは意味ありげに微笑んだ。
その表情を見て、和真はなんとなく嫌な予感を覚えた。
だが。
「……まあ、楽しみにしてるよ」
そう答えると、ナディアは一瞬だけ目を見開いた。
「……そうか」
そして、嬉しそうに笑う。
「ならば、期待を裏切るわけにはいかんな」
「……いや、何するつもりだよ」
「秘密だ」
「おい!」
そんなやり取りをしながら、車は再び高速道路を走り始めた。
窓の外では、山々が次第に近づいてくる。
色づいた木々の間には、すでに葉を落とした枝も混じり、秋から冬へと移り変わる景色が広がっていた。
ナディアはその景色を眺めながら、小さく微笑んだ。
ずっと夢見ていた。
和真と二人きりで、何も心配せずに過ごせる時間を。
誰かと戦う必要もない。
世界の行く末を考える必要もない。
ただ、好きな男の隣に座り、他愛のない会話を楽しむ。
今はそれだけで、胸が満たされていく。
(……本当に、幸せだな)
ナディアはそっと、運転席の和真を見つめた。
「……和真」
「ん?」
「今日は、最高の一日にしよう」
和真は笑った。
「ああ。もちろん!」
その返事に、ナディアも笑みを深める。
車は山々に囲まれた道を進み、二人の目的地へと近づいていった。
阿智村まで、あと少しだった。
◇
昼過ぎ。
高速道路を降り、しばらく山あいの道を走っていると、周囲の景色が大きく変わり始めた。
道の両側には山々が連なり、ところどころに赤や黄色の葉を残した木々が見える。
すでに葉を落とした木も多く、秋の終わりと冬の訪れを感じさせる風景だった。
「……いい景色だな」
助手席のナディアが呟いた。
「だろ? もう少し早い時期だったら、紅葉も綺麗だったんだろうな」
「俺様は今の景色も気に入ったぞ」
「そうか?」
「ああ。色づいた木々も美しいが、こうして季節が移り変わる姿にも趣がある」
ナディアは窓の外へ目を向けたまま、小さく微笑んだ。
「それに、空気も随分と澄んでいるようだ」
「山の方だからな。夜はもっと冷えそうだけど」
「その分、星も綺麗に見えるのだろう?」
「そうらしいな」
しばらくして、道路脇に昼神温泉の案内が見えてきた。
「お、そろそろ着くぞ」
「そうか!」
ナディアが嬉しそうに身を乗り出す。
和真は案内表示に従い、車を進めた。
やがて視界が開け、山々に囲まれた温泉街が姿を現した。
川に沿って旅館や土産物屋が立ち並び、遠くには山の稜線が続いている。
大きな観光地のような賑やかさはないが、落ち着いた雰囲気が漂う場所だった。
「……ほう」
ナディアは興味深そうに周囲を見回した。
「なかなかよい場所ではないか」
「だな。静かでいいところだ」
「ふっ。気に入ったぞ」
和真は近くの駐車場に車を停め、エンジンを切った。
「さて、到着!」
「長い運転、ご苦労だったな」
「ありがとう。まあ、帰りもあるけどな」
「それは明日の俺様たちに任せておけばよい」
「いや、運転するの俺なんだけど」
「ふふっ。ならば明日も頼むぞ」
「はいはい」
二人は笑いながら車を降りた。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でる。
「うわ、思ったより寒いな」
「確かにな。だが、悪くない」
ナディアは大きく息を吸い込んだ。
「……空気が美味い」
「わかる。なんか気持ちいいよな」
和真が軽く伸びをすると、ナディアが隣に並んだ。
「さて、まずはどうする?」
「昼飯にしようと思ってる。腹減っただろ?」
「ああ。ちょうどよい頃合いだ」
「この辺に蕎麦屋があるみたいだから、そこに行こうか」
「うむ。案内を頼む」
ナディアは当然のように和真の隣へ寄り添った。
そして、その腕に自分の腕を絡める。
「……おい」
「なんだ?」
「また腕組むのか?」
「何か問題でも?」
「いや、問題ってほどじゃないけど……」
「ならばよいではないか」
ナディアは余裕たっぷりに微笑んだ。
「せっかくの二人旅だ。恋人のように歩くのも悪くないだろう?」
「……そういうこと、普通に言うよな」
「俺様は思ったことを言っているだけだ」
そう言って、さらに少しだけ身体を寄せてくる。
和真は苦笑したが、腕を振りほどくことはしなかった。
そんな彼の反応を見て、ナディアは満足そうに笑った。
◇ ◇ ◇
昼食に選んだのは、温泉街にある蕎麦屋だった。
暖簾をくぐって店内へ入ると、蕎麦の香りがふわりと漂ってきた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、窓から山の景色が見える二人掛けの席だった。
店内は木の温もりを感じる落ち着いた雰囲気で、観光客らしい客が数組、食事を楽しんでいる。
「さて、何にする?」
和真がメニューを広げると、ナディアも身を乗り出した。
「色々あるのだな」
「せっかくだし、俺は天ざるにしようかな」
「ふむ……ならば俺様も同じものにしよう」
「いいのか? 温かい蕎麦もあるぞ」
「問題ない。ここまで来たのだ。蕎麦そのものの味を楽しみたい」
「なるほど」
和真は店員を呼び、二人分の天ざる蕎麦を注文した。
料理が来るまでの間、ナディアは窓の外を眺めていた。
「こうして見ると、本当に山に囲まれているのだな」
「ああ。温泉街って感じがするよな」
「……和真」
「ん?」
「お前は以前から、こういう場所が好きだったのか?」
「んー、そうだな。都会も嫌いじゃないけど、自然が多いところの方が落ち着くかな」
「ふむ」
「山とか海とか、景色を眺めるのも好きだし」
「なるほどな」
ナディアは小さく頷いた。
「ならば、俺様たちの住む場所も悪くないわけだ」
「ああ。あそこは結構気に入ってるよ」
「俺様もだ」
そう答えると、ナディアは頬杖をついた。
「……帰る場所があるというのは、よいものだな」
「そうだな」
和真が頷く。
ナディアはその顔を見て、穏やかに微笑んだ。
「それも、お前がいる場所ならなおさらだ」
「……またそういうこと言う」
「ふふっ。事実だからな」
ちょうどその時、料理が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。天ざる蕎麦です」
「おお!」
テーブルに並べられた料理を見て、和真が声を上げる。
艶のある蕎麦に、揚げたての天ぷら。
海老や季節の野菜が盛りつけられ、食欲をそそる香りが立ち上っていた。
「これは美味そうだな」
「うむ。見事なものだ」
「じゃあ、いただきます」
「いただこう」
二人は箸を取った。
和真はまず蕎麦を少量、そのまま口へ運んだ。
「……おお」
「どうだ?」
「美味い。蕎麦の香りがしっかりしてる」
その反応を見て、ナディアも蕎麦を口にした。
ゆっくりと噛み、味わう。
「……なるほど」
彼女は感心したように頷いた。
「確かに香りが強いな。それに、噛んだ時の風味がよい」
「だろ?」
「ああ。これは気に入った」
続いて天ぷらを口へ運ぶ。
「……ん、美味い!」
「ふむ……こちらもよいな」
サクッと軽い衣の中から、素材の旨味が広がる。
ナディアは特に野菜の天ぷらが気に入ったようで、何度も頷いていた。
「和真」
「ん?」
「これを食べてみろ」
ナディアが自分の皿を指差した。
「そっちにもあるだろ?」
「そうだな。だが、俺様が特に気に入ったのだ。お前の感想も聞いてみたい」
「なるほど」
和真は勧められた野菜の天ぷらを食べた。
「……うん、美味いな。甘みがある」
「そうだろう?」
ナディアが嬉しそうに笑う。
和真も笑い返した。
そして、ふと思いついたように口を開く。
「こういう蕎麦、自分でも打ってみたいな」
「お前がか?」
「ああ。料理は結構好きだし、一度やってみたくてさ」
「それは面白そうだな」
ナディアは興味深そうに目を細めた。
「ならば、俺様も付き合おう」
「蕎麦打ちに?」
「ああ。お前が作るところを見てみたい」
「見てるだけかよ」
「ふふっ。もちろん手伝ってもよいぞ」
「じゃあ、今度一緒に作ってみるか」
「約束だな」
ナディアは満足そうに頷いた。
その後も二人は料理を味わい、最後は蕎麦湯まで楽しんだ。
「ふぅ……美味かった」
和真が湯呑みを置く。
「満足だな」
「ああ。来てよかった」
「俺様もそう思う」
ナディアは窓の外へ視線を向けた。
「……まだ到着したばかりだというのにな」
「そうだな。これから観光もあるし」
「ふっ。楽しみだ」
そう言って笑う彼女の顔は、どこか無邪気にも見えた。
◇ ◇ ◇
食事を終えた二人は、温泉街を散策することにした。
まず向かったのは、阿智川沿いの遊歩道だった。
川の流れる音が心地よく響き、山から吹き下ろす風が木々の枝を揺らしている。
周囲には旅館が立ち並んでいるが、少し川沿いへ入るだけで、随分と静かな雰囲気になった。
「……綺麗な川だな」
ナディアが足を止めた。
「ああ。水も澄んでる」
和真も川を覗き込む。
石の間を流れる水は透明で、川底まで見通せる場所もあった。
「昔いた世界でも、こういう川は見たか?」
「無論だ」
ナディアは笑った。
「魔族の国にも、美しい川や湖は存在したぞ」
「へえ」
「もっとも、こんなふうにのんびり眺めることは少なかったがな」
「そっか」
和真は少しだけ笑った。
「じゃあ、今日は好きなだけ眺めていいぞ」
「……好きなだけ、か」
ナディアは和真へ視線を向けた。
「ならば、随分と長い時間ここにいることになるかもしれんな」
「そんなに気に入ったのか?」
「景色も悪くない。だが……」
ナディアは和真の手を取った。
「俺様は、こうしてお前と過ごす時間の方が気に入っている」
「……っ」
和真は少しだけ顔を赤くした。
「……お前、ほんと遠慮しないよな」
「遠慮する理由がない」
ナディアは笑った。
だが、今度は和真もすぐに言葉を返した。
「……まあ、俺も楽しいけどな」
「……ほう?」
「こうして二人でのんびり歩くのも、結構いいもんだなって」
その何気ない一言に、ナディアの表情が柔らかくなった。
「……そうか」
そして、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「それは嬉しいな」
二人はそのまま川沿いを歩き始めた。
しばらくして、前方に橋が見えてきた。
橋の上からは川と温泉街、それに周囲の山々を一度に眺めることができる。
「お、ここいいな」
「確かに。見晴らしがよい」
和真は立ち止まり、スマートフォンを取り出した。
「せっかくだし、写真撮るか」
「写真か」
「ああ。ピピにも頼まれてるしな」
「ふふっ。あの娘らしいな」
和真はまず山々を撮影した。
続いて川の流れと、温泉街の風景。
何枚か撮影していると、ナディアが隣から画面を覗き込んできた。
「……ほう。随分と綺麗に撮れるものだな」
「最近のスマホは結構すごいからな」
「なるほど」
ナディアは画面を眺めていたが、やがて小さく首を傾げた。
「和真」
「ん?」
「景色ばかり撮っていてよいのか?」
「え?」
「せっかく俺様と旅行に来ているのだぞ?」
ナディアは胸の前で腕を組んだ。
「俺様の写真も撮らなくてよいのか?」
「……ああ、そうだな」
「まったく。言われるまで気づかんとはな」
口では呆れたように言いながらも、その表情は楽しそうだった。
「じゃあ、そこに立ってくれ」
「ここか?」
「ああ。橋と山が入るように撮りたいから」
ナディアは和真の指示に従い、少し離れた場所へ移動した。
川を背にして立つ彼女。
赤い髪が風になびき、黒いロングスカートの裾が小さく揺れる。
落ち着いた色合いのコートと、鮮やかな髪の色。
その組み合わせが、山々の景色によく映えていた。
「……うん、いい感じ」
「そうか?」
「ああ。じゃあ撮るぞ」
和真がスマートフォンを構える。
ナディアは自然に微笑んだ。
カシャッ。
「はい、撮れた」
「見せてくれ」
ナディアが近づき、画面を覗き込む。
「……ほう」
そこには、穏やかな笑顔を浮かべた彼女が写っていた。
「なかなかよいではないか」
「だろ?」
「ああ。気に入った」
そう言った後、ナディアは和真を見つめた。
「だが、足りんな」
「何が?」
「お前が写っていない」
「ああ、そういうことか」
和真が笑う。
「じゃあ、自撮りで撮るか?」
「自撮り?」
「二人で一緒に写るやつ」
「なるほど。よいな」
ナディアは迷いなく頷いた。
和真がスマートフォンを持ち上げると、彼女はすぐ隣へ寄ってきた。
そして。
「……お、おい」
「なんだ?」
「そんなにくっつかなくても写るぞ?」
「近い方がよいだろう」
ナディアは平然と言いながら、和真の腕へ自分の腕を絡めた。
「ほら、撮るぞ」
「いや、それ俺の台詞だから」
「細かいことは気にするな」
和真は苦笑しながら、画面へ顔を向けた。
ナディアも微笑む。
カシャッ。
「……よし」
「見せてみろ」
二人で撮影した写真を確認する。
画面には、少し照れくさそうに笑う和真と、その隣で幸せそうに微笑むナディアが写っていた。
「……ふむ」
ナディアはしばらく無言で画面を見つめた。
「……どうした?」
「いや……」
彼女は小さく笑った。
「よい写真だと思ってな」
「ああ。俺もそう思う」
「……そうか」
ナディアは嬉しそうに目を細めた。
「後で俺様にも送ってくれ」
「もちろん」
和真が答えると、ナディアは満足そうに頷いた。
そして、少し考えた後。
「……和真」
「ん?」
「もう一枚、よいか?」
「ああ。いいぞ」
「今度は俺様の言う通りに撮ってくれ」
「……何する気だ?」
「ふふっ。よいから、もう少しこちらへ寄れ」
和真が顔を近づける。
その瞬間。
ナディアは和真の頬へ自分の頬を寄せた。
「……っ!?」
「ほら、笑え」
「い、いや、ちょっと待て!」
「待たん」
カシャッ。
ナディアは和真の手元へ指を伸ばし、画面の撮影ボタンを押した。
「……よし」
「お前なぁ!」
「ふふっ!」
画面を確認したナディアは、楽しそうに笑った。
そこには、頬を寄せて微笑むナディアと、驚いた顔をした和真が写っていた。
「……なんだよ、この顔」
「いいではないか。実にお前らしい」
「どこがだよ」
「俺様に振り回されているところだ」
「自覚あるなら少しは遠慮しろ!」
「嫌だな」
ナディアは即答した。
「今日は遠慮しないと決めている」
「……マジかよ」
和真が呆れたように笑う。
するとナディアは、少しだけ声を柔らかくした。
「……だが、俺様ばかり楽しんでいても仕方あるまい」
「ん?」
「お前もしたいことがあれば、遠慮なく言え」
ナディアはまっすぐに和真を見つめた。
「俺様は、お前と一緒に楽しみたいのだからな」
「……そっか」
和真は少し考えた。
そして、スマートフォンをもう一度持ち上げる。
「じゃあ、普通にもう一枚撮ろうぜ」
「普通に?」
「ああ。さっきのじゃ俺の顔が変だからさ」
「ふふっ。仕方ないな」
ナディアは楽しそうに隣へ並んだ。
今度は無理に頬を寄せることなく、自然に肩を寄せ合う。
「じゃあ、撮るぞ」
「ああ」
カシャッ。
画面には、二人とも自然な笑顔で写っていた。
「……うん、これが一番いいな」
和真がそう言うと、ナディアはしばらく画面を見つめた。
「……ああ」
そして、静かに頷いた。
「俺様も、これが一番気に入った」
◇ ◇ ◇
橋を渡った後、二人は温泉街の中心へ向かった。
旅館の並ぶ通りには土産物屋や小さな店が点在し、観光客たちが思い思いに散策を楽しんでいる。
「色々売ってるな」
「そうだな。少し見て回るか」
「ああ」
二人が立ち寄ったのは、地元の特産品を扱う土産物屋だった。
店内には温泉まんじゅうや漬物、果物を使った菓子などが並んでいる。
「お、これ美味そうだな」
和真が手に取ったのは、信州産の林檎を使った菓子だった。
「また林檎か?」
ナディアが笑う。
「長野といえば林檎だろ」
「朝も食べたばかりではないか」
「いいだろ、好きなんだから」
「ふふっ。そうだったな」
ナディアは棚に並んだ商品を眺める。
「……これはピピが喜びそうだ」
彼女が手に取ったのは、小さな星の形をした菓子が入った箱だった。
「お、いいじゃん」
「あの娘は星を見るのを楽しみにしていたからな。土産にちょうどよいだろう」
「確かに」
ナディアは一つ籠へ入れた。
続いて、別の棚へ目を向ける。
「こちらは、あおいが好みそうだな」
「和菓子か。あいつ好きそうだな」
「ああ」
さらにリディアやひかげ、酒菜たちのことも考えながら商品を選んでいく。
その様子を見て、和真は少し意外そうに笑った。
「ナディア、結構みんなのこと考えてるんだな」
「当然だろう」
「いや、なんとなくお前って、自分の好きなものだけ買うタイプかと思ってた」
「失礼な奴だな」
ナディアは呆れたように言った。
「俺様はあの場所が気に入っている。住人たちも悪くない連中ばかりだ」
「……そっか」
「それに、土産を選ぶのも旅の楽しみなのだろう?」
「まあな」
「ならば、存分に楽しませてもらうさ」
そう言って、ナディアは再び商品棚へ向き直った。
和真も隣に並び、一緒に土産物を選び始める。
だが、しばらくすると。
「……あれ?」
和真が籠の中を覗き込んだ。
「ちょっと待て、結構な量になってないか?」
「そうか?」
「いや、これ全部買うのか?」
「皆の分を選んでいたら、こうなった」
「……まあ、人数多いからな」
和真は苦笑した。
ナディアは少し考えた後、籠からいくつかの商品を戻した。
「では、日持ちするものを中心にしよう」
「そうだな。どうせ明日も朝市を見る予定だし」
「朝市か。そちらも楽しみだな」
「ああ。地元の野菜とか果物も売ってるらしいぞ」
「ならば、明日改めて選ぶのもよいだろう」
そうして二人は必要な分だけ購入し、店を後にした。
店を出ると、ナディアが小さく息を吐いた。
「……しかし」
「ん?」
「こうして誰かのために土産を選ぶというのも、なかなか楽しいものだな」
「そうだろ?」
「ああ」
彼女は手に持った袋を見つめた。
「以前の俺様なら、こんなことをするとは思いもしなかった」
「……そうかもな」
和真は笑った。
「でも、みんな喜ぶと思うぞ」
「ふっ。それならよい」
ナディアは満足そうに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その後、二人は川沿いにある足湯へ向かった。
阿智川のせせらぎが聞こえる場所に設けられた足湯には、すでに何人かの観光客が腰を下ろしていた。
「お、空いてるな」
和真が端の席を指差す。
「ここで少し休んでいこうか」
「うむ。よい考えだ」
二人は靴と靴下を脱ぎ、並んで腰を下ろした。
まずは和真が足を湯へ入れる。
「……おお!」
「どうした?」
「結構温かいな。気持ちいいぞ」
「ほう」
ナディアも足先を湯へ浸した。
「……なるほど」
ゆっくりと足を沈めていく。
「これはよいな」
「だろ?」
「ああ。足だけを温めるというのも、なかなか贅沢なものだ」
二人は肩を並べ、しばらく川を眺めた。
遠くから聞こえる観光客の話し声。
川の流れる音。
時折吹き抜ける冷たい風も、足元が温かいおかげで心地よく感じられた。
「……ふぅ」
和真が大きく息を吐く。
「こういうの、いいなぁ」
「気に入ったか?」
「ああ。なんか時間がゆっくり流れてる感じがする」
「ふむ……」
ナディアは少しだけ考えた。
そして、和真へ視線を向ける。
「お前は普段、随分と忙しそうだからな」
「そうか?」
「ああ。住人たちのこともある。仕事もある。何かあれば真っ先に動こうとするだろう?」
「……まあ、そうかもな」
「だから、たまにはこうして休むべきだ」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「今日と明日は、余計なことを考えず楽しむとよい」
「……ありがとな」
「礼などいらん」
そう言ってから、彼女は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「もっとも、俺様のことは常に考えていてほしいがな」
「……結局それかよ」
「当然だ」
二人は顔を見合わせて笑った。
しばらくして。
ナディアが和真の肩へ頭を預けた。
「……ナディア?」
「少しだけ、こうさせてくれ」
「……ああ」
和真はそのまま動かず、川を眺め続けた。
ナディアの髪が肩に触れる。
ふわりと漂う、朝から何度も感じている甘い香り。
それが嫌ではなかった。
むしろ、少しずつ心地よく感じ始めていることに、和真自身も気づいていた。
「……なあ、ナディア」
「なんだ?」
「今日、楽しいか?」
「無論だ」
即答だった。
「まだ昼過ぎだぞ?」
「それがどうした」
ナディアは顔を上げ、和真を見つめた。
「楽しさとは、時間の長さで決まるものではないだろう?」
「……まあ、そうだな」
「俺様はすでに十分楽しんでいる。だが、まだまだ楽しむつもりだぞ」
「ははっ。欲張りだな」
「ふっ。俺様は元から欲深い女だ」
ナディアはそう言って笑った。
しかし、次の言葉は少しだけ穏やかだった。
「……それに、こんな時間をもっと増やしたいと思っている」
「……」
「今日だけで終わりではない。明日も、その先もな」
和真はナディアを見つめた。
彼女は普段と変わらない笑みを浮かべている。
だが、その言葉が冗談ではないことは、十分に伝わってきた。
「……そうだな」
和真は小さく頷いた。
「また来ようぜ。ここじゃなくても、別のところでもいいし」
「……ほう?」
「みんなで来るのも楽しそうだけど、たまには二人で出かけるのもいいだろ?」
その言葉に、ナディアが目を見開いた。
「……和真」
「ん?」
「……お前からその言葉を聞けるとは思わなかった」
「そんなに意外か?」
「ああ。少々驚いた」
ナディアは一瞬だけ目を伏せた。
そして、嬉しそうに笑う。
「……約束だぞ」
「ああ」
「忘れるなよ?」
「忘れないって」
和真が笑うと、ナディアも笑い返した。
その後、二人はしばらく足湯を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
足湯を出た後も、二人は温泉街をゆっくりと歩いた。
途中、小さな社を見つけて立ち寄る。
「湯屋権現社……か」
和真が案内を眺めた。
「温泉を守る神様が祀られてるらしいぞ」
「温泉の神か。なるほどな」
ナディアは興味深そうに社を見上げた。
「この世界には、本当に様々な神がいるのだな」
「ああ。日本は特に多いからな」
「ふむ」
ナディアはしばらく社を眺めていたが、やがて和真へ目を向けた。
「参拝していくか?」
「そうだな。せっかくだし」
二人は境内へ進み、静かに手を合わせた。
和真は旅の安全と、今夜の星空が綺麗に見えることを願った。
そして隣を見る。
ナディアは目を閉じ、思いのほか真剣な表情をしていた。
普段の彼女なら、神頼みなど必要ないと言いそうなものだ。
それだけに、少し意外だった。
やがてナディアが目を開ける。
「……よし」
「何お願いしたんだ?」
「秘密だ」
「えー?」
「願い事というのは、人に話さない方がよいのだろう?」
「まあ、そういう話もあるけど」
「ならば教えん」
ナディアは小さく笑った。
和真は少し不満そうにしたが、それ以上は追及しなかった。
実のところ。
ナディアが願ったのは、特別な力でも富でもなかった。
ただ、和真がこれからも元気でいてくれること。
そして、今の穏やかな暮らしが長く続くこと。
それだけだった。
(……神に願いを託す日が来るとはな)
ナディアは内心で苦笑した。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
和真が隣で笑っている。
今はそれで十分だった。
◇ ◇ ◇
温泉街を一通り歩いた頃には、時刻は午後二時を回っていた。
「……そろそろ休憩するか」
和真が時計を確認する。
「そうだな。俺様も少し喉が渇いた」
「じゃあ、どこかでお茶でも飲もうか」
「賛成だ」
二人は近くのカフェへ立ち寄ることにした。
店内には木製のテーブルが並び、窓際からは温泉街の景色が見える。
和真は温かいコーヒーを、ナディアは地元の林檎を使ったジュースを注文した。
「……お」
一口飲んだナディアが、感心したように声を漏らした。
「これは美味いな」
「林檎ジュース?」
「ああ。甘みが強いが、後味がすっきりしている」
「へえ。ちょっと飲んでみたいな」
「構わんぞ」
ナディアは自分のグラスを差し出した。
和真が受け取ろうとすると、彼女はなぜか手を離さない。
「……ん?」
「そのまま飲めばよい」
「いや、グラス貸してくれれば……」
「俺様が持っていてやる」
「……またか」
和真は苦笑した。
「今度は何する気だよ」
「何もせん。ただ飲ませてやろうと思っただけだ」
「普通に渡してくれよ」
「ふふっ。仕方ないな」
ナディアは素直にグラスを渡した。
和真は一口飲む。
「……おお、確かに美味いな」
「そうだろう?」
「うん。林檎の味が濃い」
「気に入ったなら、後で土産に買うのもよいな」
「そうだな。みんなで飲めそうだし」
グラスを返すと、ナディアは満足そうに微笑んだ。
それから二人は、スマートフォンで今日撮影した写真を見返した。
山々の景色。
蕎麦屋での料理。
川沿いで撮影したナディアの写真。
そして、二人で撮った写真。
「……これ、やっぱりいいな」
和真が一枚を表示する。
そこには、肩を寄せ合って笑う二人の姿が写っていた。
「俺様もそう思う」
ナディアが隣から覗き込む。
「……和真」
「ん?」
「この写真、俺様の端末にも送ってくれ」
「ああ。今送るよ」
和真が操作すると、ナディアの端末に写真が届いた。
彼女はしばらく画面を見つめた後、小さく微笑んだ。
「……大切にしよう」
「そんな大げさな」
「大げさではない」
ナディアは顔を上げた。
「俺様にとっては、大切な思い出だ」
その言葉に、和真は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そっか」
「ああ」
ナディアはもう一度画面を見つめる。
そこには、普段とは少し違う表情の自分が写っていた。
強者としての威厳も、魔王としての威圧感もない。
ただ、好きな男の隣で笑っている自分。
そんな写真を持つことになるとは、かつての彼女には想像もできなかった。
(……悪くないものだな)
ナディアは小さく笑った。
そして、端末をそっと鞄へしまった。
◇ ◇ ◇
店を出ると、午後の陽射しが少し傾き始めていた。
空はよく晴れている。
雲も少なく、今夜の星空にも期待が持てそうだった。
「さて、そろそろ旅館に向かうか」
和真が時計を確認する。
「もうそんな時間か?」
「ああ。チェックインできる時間になるし、荷物も置きたいからな」
「なるほど」
ナディアは小さく頷いた。
「では、向かうとしよう」
二人は車を停めた場所へ戻った。
途中、ナディアは何度か足を止めて景色を眺め、そのたびに和真も付き合った。
川沿いの木々。
山の稜線。
温泉街を流れる穏やかな時間。
特別な催しがあるわけでもない。
だが、二人にとっては十分に楽しい時間だった。
車へ戻ると、和真はトランクを開けて荷物を確認した。
「よし。じゃあ旅館に行くか」
「うむ」
ナディアは助手席へ乗り込む。
和真も運転席に座り、エンジンをかけた。
旅館までは、ここからそれほど遠くない。
「……和真」
「ん?」
「今日の観光は楽しかったぞ」
「まだ終わってないだろ?」
「そうだな」
ナディアは楽しそうに笑った。
「だが、今のうちに言っておきたかった」
「……そっか」
「お前と一緒に歩き、美味いものを食べ、写真を撮った。実によい時間だった」
「俺も楽しかったよ」
和真が笑う。
「また明日も色々見て回ろうな」
「ああ。楽しみにしている」
ナディアは窓の外を眺めた。
山の向こうへ傾き始めた太陽。
その光が、温泉街の屋根を柔らかく照らしている。
彼女はふと、今夜のことを思い浮かべた。
星空ナイトツアー。
旅館の夕食。
そして、二人きりで過ごす夜。
そのために、ナディアは色々な準備を重ねてきた。
服装も、香水も。
和真に喜んでもらえそうなことも、二人で楽しめそうなことも。
だが、こうして一日を過ごしてみて、改めてわかったことがある。
何か特別なことをしなくても、和真と一緒なら十分に楽しい。
それでも。
(……俺様は、もっと欲しい)
ナディアは静かに微笑んだ。
隣にいるだけでは、もう満足できない。
手を繋ぐだけでも。
肩を寄せ合うだけでも。
それだけでは足りないと思ってしまう。
もっと近くにいたい。
もっと触れ合いたい。
そして、自分の想いを受け止めてほしい。
そんな気持ちが、日に日に強くなっていた。
(……焦る必要はない。だが、遠慮するつもりもないぞ)
ナディアは運転席へ視線を向けた。
「……和真」
「ん?」
「今夜も楽しみにしているぞ」
「星空ツアーか?」
「それもだ」
ナディアは口元に笑みを浮かべた。
「……旅館もな」
「旅館?」
「ああ」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
「せっかくの二人旅だ。夜ものんびり過ごしたいではないか」
「まあ、そうだな」
「ふふっ。そうだろう?」
ナディアは満足そうに座り直した。
和真は特に気にすることなく、前方へ視線を戻す。
その反応を見て、彼女は小さく笑った。
もちろん、すべてが思い通りに進むとは限らない。
和真がどんな答えを出すのかも、まだわからない。
だからこそ。
今夜は、これまで以上に自分の気持ちを伝えようと決めていた。
やがて車は、予約していた旅館の前へ到着した。
「お、ここだな」
和真が建物を見上げる。
落ち着いた和風の佇まい。
立派な玄関の向こうには、温かな照明が見えていた。
「……ほう」
ナディアも車を降り、旅館を見上げた。
「なかなか立派な宿ではないか」
「気に入った?」
「ああ。十分だ」
そう答えてから、彼女は和真へ視線を向けた。
「それに……」
「ん?」
「今夜、お前と二人きりで過ごす場所だと思うと、なおさら気に入った」
「……お前、ほんと今日ずっとそれだな」
「ふふっ。今さらだろう?」
ナディアは楽しそうに笑った。
そして、和真へ手を差し出す。
「さあ、行こうではないか」
「……はいはい」
和真はその手を取った。
二人は荷物を持ち、並んで旅館の玄関へ向かう。
ナディアの顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
昼間の観光は、想像以上に楽しかった。
だが、今日の楽しみはまだ残っている。
今夜の星空も。
旅館での時間も。
そして、和真との二人きりの夜も。
ナディアにとっては、すべてが待ち遠しかった。
◇
旅館の玄関をくぐると、ふわりと木の香りが漂ってきた。
磨き上げられた床に、落ち着いた色合いの柱。
正面には季節の花が生けられ、奥の大きな窓からは手入れの行き届いた日本庭園が見えている。
「……ほう。なかなか見事な宿ではないか」
ナディアが感心したように周囲を見回した。
「いい雰囲気だな」
「ああ。俺様は気に入ったぞ」
和真が受付で宿泊の手続きを済ませると、仲居が二人を部屋へ案内してくれた。
静かな廊下を進み、奥まった場所にある一室へ向かう。
「こちらがお二人のお部屋でございます」
襖が開かれた。
「おお……!」
和真は思わず声を上げた。
広々とした和室。
中央には座卓が置かれ、窓際には二脚の椅子と小さなテーブル。
大きな窓の向こうには山々が広がり、色づいた木々が午後の柔らかな陽射しを受けていた。
「これはいい部屋だな」
「ふむ。想像以上だ」
ナディアも満足そうに頷く。
すると、仲居が部屋の奥にある戸へ手を添えた。
「それから、こちらが客室の露天風呂でございます」
戸が開かれる。
その向こうには、湯気の立つ石造りの浴槽があった。
「……おお!」
和真が目を輝かせた。
周囲はしっかりと目隠しされ、外気を感じながら入浴できる造りになっている。
浴槽も十分な広さがあり、二人で入っても窮屈にはならなさそうだった。
「ほう……!」
ナディアは浴槽を眺めると、嬉しそうに微笑んだ。
「素晴らしいな」
「こちらはお好きな時間にご利用いただけます」
「そうか。それはありがたい」
ナディアは頷き、和真へ顔を向けた。
「和真」
「ん?」
「これなら二人でゆっくり入れそうだな」
「……え?」
「何を驚いている?」
「いや、今なんて?」
「二人で入るには十分な広さだと言ったのだ」
「……それは聞こえたけど」
「ならば問題あるまい」
ナディアは当然のように答えた。
和真が困った顔をすると、仲居が微笑んだ。
「お二人でご利用されるお客様も多いですよ」
「ほう。そうか」
ナディアはますます上機嫌になる。
「ならば、俺様たちも存分に楽しませてもらおう」
「……ナディア!」
「ふふっ!」
その後、夕食の時間や館内設備について説明を受け、仲居は部屋を後にした。
襖が閉まる。
室内には、二人だけが残された。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ」
和真は荷物を置くと、座卓の前へ腰を下ろした。
「やっと一息つけるな」
「長時間の運転、ご苦労だった」
ナディアも向かい側へ座る。
「ありがとう。まあ、観光も楽しかったけどな」
「ああ。実によい時間だった」
和真がお茶を淹れると、ナディアは湯呑みを受け取って一口飲んだ。
「……美味いな」
「温かいお茶がちょうどいいな」
二人はしばらく休みながら、今日撮影した写真を見返していた。
川沿いの景色。
橋の上で撮ったナディア。
肩を寄せ合って撮影した二人の写真。
「これ、結構よく撮れてるな」
和真が画面を見せる。
「うむ。俺様も気に入っている」
ナディアは隣から覗き込んだ。
「だが、今夜はもっとよい写真が撮れるのだろう?」
「ああ。星空が綺麗に見えたらな」
「楽しみだ」
「……そうだ」
和真は思い出したように顔を上げた。
「星空の写真、忘れないようにしないとな」
「写真?」
「ああ。ピピに頼まれてたんだよ」
「そういえば、そうだったな」
ナディアが笑う。
「あの娘は随分と楽しみにしていたからな」
「そうなんだよ。帰ったら見せてやりたいし」
和真はスマートフォンを手に取った。
「一応、夜景の撮り方も確認しておこうかな」
「撮影の仕方が違うのか?」
「ああ。暗い場所だと、普通に撮っても綺麗に写らないことがあるからな」
「なるほど」
和真は少し考え、鞄から小型の三脚を取り出した。
「これも持っていこう」
「ほう。そんなものまで用意していたのか」
「せっかくだしな。ピピに見せる写真が全部真っ暗だったら困るだろ?」
「ふっ。確かにそうだな」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、俺様も撮影に付き合おう」
「ああ。頼むよ」
「それに……」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
「俺様は、お前と星空を背景に写真を撮りたい」
「二人で?」
「当然だろう」
ナディアは笑った。
「昼間の写真だけでは物足りんからな」
「じゃあ、綺麗に撮れる場所を探さないとな」
「ああ。期待しているぞ」
満足そうに頷くナディアを見て、和真も笑った。
◇ ◇ ◇
夕方。
窓の外が少しずつ薄暗くなり始めた頃、夕食の準備が整った。
今夜は星空ナイトツアーに参加するため、旅館には少し早めの時間に食事を用意してもらっていた。
「お待たせいたしました。お夕食をお持ちいたしました」
襖の向こうから仲居の声が聞こえた。
「あ、お願いします」
和真が返事をすると、仲居が料理を載せた膳を運んできた。
座卓の上へ、一品ずつ丁寧に並べられていく。
色鮮やかな前菜。
季節の野菜を使った小鉢。
地元のきのこや山芋を取り入れた料理。
そして、中央には小ぶりな土鍋が置かれた。
「……おお!」
和真は思わず目を輝かせた。
「すごいな、これ」
「ふむ。見事なものだ」
ナディアも満足そうに料理を眺めている。
「こちら、季節の食材を使った特別会席でございます」
仲居は一品ずつ料理の説明を始めた。
信州牛を使った料理や、きのこの炊き合わせ。
山芋を使った小鉢。
そして、中央の土鍋については、滋養のある食材をじっくり煮込んだ特製の鍋料理だと説明された。
「へえ。身体によさそうだな」
和真が鍋を覗き込む。
蓋の隙間から、食欲をそそる香りが漂っていた。
「ふふっ。そうだな」
ナディアは嬉しそうに微笑む。
「今日は随分と歩いたからな。しっかり食べておけ」
「なんか、お前が妙に勧めてくるな」
「お前に元気でいてほしいだけだ」
「まあ、ありがたいけどさ」
和真は苦笑した。
実は、この夕食にはナディアの希望が反映されていた。
旅行の予約をした際、彼女は旅館へ特別な相談をしていたのだ。
用意してもらったのは、スッポンを使った滋養料理。
ただし、そのままの姿がわかる料理ではなく、丁寧に下処理をした食材を使い、出汁や煮込み料理として楽しめるようにしてもらっていた。
もちろん、和真には詳しいことを話していない。
事前に食べられない食材がないことは確認してある。
ナディアはスッポンが昔から精のつく食材として知られていることを調べていた。
それがどこまで確かなものかはともかく、少しでも今夜のためになればと考えていたのである。
(……ふふっ。まずは気に入ってもらわねばな)
彼女は何食わぬ顔で微笑んだ。
そんな思惑など知らない和真は、料理を前にすっかり上機嫌だった。
「いやぁ、これは楽しみだな」
「存分に味わうとよい」
ナディアは満足そうに頷いた。
◇ ◇ ◇
「いただきます」
「いただこう」
二人は箸を取った。
和真はまず、山芋を使った小鉢へ箸を伸ばした。
「……ん、美味い!」
「ほう?」
「優しい味つけだな。山芋の風味もしっかり残ってる」
その反応を見て、ナディアも一口食べる。
「……なるほど。確かによい味だ」
「ああ。これ、家でも作ってみたいな」
「ふふっ。また料理の研究か」
「美味いもの食べたら、ちょっと真似したくなるんだよ」
「実にお前らしい」
二人は笑いながら食事を進めた。
きのこを使った料理は出汁の香りがよく、信州牛は柔らかく旨味が強い。
どれも和真の好みに合っていた。
「これは美味いなぁ」
和真が満足そうに頷く。
「気に入ったか?」
「ああ。こういう料理、結構好きだよ」
「それならよかった」
ナディアは微笑んだ。
そして、中央に置かれた土鍋へ視線を向ける。
「和真。そちらも食べてみろ」
「お、そうだったな」
和真が蓋を開ける。
ふわりと白い湯気が立ち上り、生姜を思わせる香りが広がった。
「……おお」
中には、柔らかく煮込まれた肉と野菜。
透き通った黄金色の出汁が、湯気の向こうで揺れていた。
「なんか、すごくいい匂いするな」
「そうだろう?」
和真は小鉢へ取り分け、まず汁を一口飲んだ。
「……っ!」
「どうだ?」
「……美味い!」
思わず声が大きくなる。
「すごいな、この出汁」
「ほう?」
「旨味が濃いのに、しつこくないんだよ。生姜も効いてるし」
和真はもう一口飲んだ。
「これ、好きだわ」
ナディアの口元が緩んだ。
「ふふっ。気に入ったようだな」
「ああ。何の出汁だろう。鶏とも違う感じがするな」
「色々な食材を使っているのだろう」
「へえ……」
和真は興味深そうに鍋を眺めた。
「これも勉強になるな」
続いて肉を口へ運ぶ。
長時間煮込まれているのか、柔らかく、噛むほどに旨味が広がった。
「……うん、これも美味い」
「そうか」
「ああ。なんか身体が温まりそうだな」
「ふふっ。それはよかった」
ナディアは満足そうに頷いた。
和真は彼女の反応に少し首を傾げた。
「なんか、お前の方が嬉しそうだな」
「当然だろう」
「なんで?」
「お前が美味そうに食べているからだ」
「そっか」
和真は笑った。
「ありがとな」
「礼などいらん。せっかくの旅行なのだから、美味いものを楽しむべきだろう?」
「それもそうだな」
そう言って、和真は再び鍋へ箸を伸ばした。
ナディアも自分の分を味わいながら、その様子を楽しそうに眺めていた。
◇ ◇ ◇
食事が進むにつれ、二人の会話も弾んでいった。
昼間に歩いた温泉街。
美味しかった蕎麦。
川沿いで撮った写真。
そして、明日の朝市で何を買うかという話。
「そういえば、明日は結構早起きしないとな」
和真が思い出したように言った。
「朝市だったな」
「ああ。昼神温泉の朝市って、朝早くからやってるらしいんだ」
「ほう。それは楽しみだ」
「地元の野菜とか果物も売ってるみたいだぞ」
「ならば、何か買って帰るとするか」
「そうだな。みんなへの土産もまだ選びたいし」
「ふふっ。帰りの車が荷物でいっぱいになりそうだな」
「あり得るな……」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、食事も終盤に差しかかる。
和真は最後にもう一度、鍋の汁を味わった。
「……はぁ。美味かった」
「随分と気に入ったようだな」
「ああ。こういう料理、たまにはいいな」
和真は湯呑みを持ち上げた。
「それに、なんか身体が温まるな」
「そうか?」
「ああ。外は寒いけど、これなら山の上でも平気そうだ」
「ふふっ。油断はするなよ。防寒具はしっかり着ていけ」
「わかってるって」
和真は笑った。
ナディアは満足そうに頷き、お茶を一口飲んだ。
彼が料理を気に入ってくれたことが、何より嬉しかった。
そして、その料理に何を期待しているのかを知っているのは、今のところ彼女だけだった。
◇ ◇ ◇
夕食の片づけが終わると、二人は星空ナイトツアーへ向かう準備を始めた。
「さて、そろそろ行くか」
和真は時計を確認し、防寒着を取り出した。
十一月の山の上は冷え込む。
そのため、二人とも厚手の上着に手袋、マフラーまで用意していた。
「ナディア、手袋は?」
「無論、持ってきたぞ」
「よし。あとスマホと……」
和真は鞄の中を確認する。
「三脚も忘れないようにしないとな」
「ピピのための写真か?」
「ああ。ちゃんと撮って帰らないと」
ナディアが微笑む。
「あの娘なら、何枚見せても喜びそうだな」
「そうなんだよ。絶対に質問攻めにされるぞ」
「ふふっ。目に浮かぶ」
二人は笑いながら準備を進めた。
和真が最後にチケットを確認していると、ナディアが隣へやってくる。
「和真」
「ん?」
「こちらを向いてくれ」
「なんだ?」
顔を上げると、ナディアがすぐ目の前に立っていた。
彼女は手を伸ばし、和真のマフラーを整える。
「少し曲がっていたぞ」
「あ、ありがと」
「気にするな」
ナディアは笑った。
「これでよし。なかなか似合っているではないか」
「普通のマフラーだぞ?」
「お前が身につけているからな」
「……そういうこと、よくさらっと言えるよな」
「ふっ。思ったことを言っただけだ」
和真は苦笑しながら、鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ、行こうか」
「ああ。楽しみだな!」
◇ ◇ ◇
旅館を出ると、冷たい夜風が二人を迎えた。
「うわ、寒っ!」
和真が思わず肩をすくめる。
「ふむ。確かに冷えるな」
ナディアも白い息を吐いた。
空はすっかり暗くなり、遠くの山々は黒い影となっている。
温泉街の明かりが、静かな夜の中に点々と浮かんでいた。
「いい雰囲気だな」
「ああ。ここからでも随分と星が見える」
ナディアが夜空を見上げる。
「山の上はもっとすごいらしいぞ」
「ふっ。楽しみだ」
二人は送迎バスの乗り場へ向かった。
すでに何人かの観光客が集まっており、皆、厚手の防寒着を着込んでいる。
やがてバスが到着した。
二人は並んで座席へ腰を下ろす。
「ふぅ。やっぱり車内は温かいな」
「そうだな」
ナディアは窓の外を眺めた。
バスが動き出すと、温泉街の明かりがゆっくりと遠ざかっていく。
周囲の景色は次第に暗くなり、山々の輪郭が夜の闇に溶け込んでいった。
「和真」
「ん?」
「見ろ。星が増えてきたぞ」
「ほんとだな」
和真も窓の外へ目を向ける。
空には、先ほどよりも多くの星が輝いていた。
「これなら、綺麗に見られそうだな」
「ああ」
ナディアは嬉しそうに微笑んだ。
そして、そっと和真の手を取った。
「ん?」
「少し、手を貸せ」
「もう握ってるだろ」
「ふふっ。確かにな」
彼女は指を絡めた。
手袋越しにも、握られた感触が伝わってくる。
和真は何も言わず、その手を握り返した。
◇ ◇ ◇
しばらくして、バスはヘブンスそのはらのゴンドラ乗り場へ到着した。
周囲には多くの観光客が集まり、夜の山道を照明が柔らかく照らしている。
「おお。結構賑わってるな」
「ふむ。これほど人が集まるとはな」
二人はバスを降り、入口へ向かった。
和真が予約したチケットを提示すると、係員が笑顔で案内してくれた。
そして、いよいよゴンドラへ乗り込む。
「ほう」
ナディアは興味深そうに周囲を見回した。
「これがゴンドラか」
「乗るの初めてだろ?」
「ああ。なかなか面白そうだな」
扉が閉まり、ゴンドラがゆっくりと動き始める。
「おお!」
和真が小さく声を上げた。
窓の外には、暗闇に包まれた木々が広がっている。
高度が上がるにつれ、遠くの街明かりが小さくなっていった。
「美しいな」
ナディアが窓へ顔を寄せる。
「ああ。なんか、地上の明かりも星みたいだな」
「確かにそう見える」
二人はしばらく景色を楽しんだ。
やがてナディアが和真の肩へ頭を預ける。
「和真」
「ん?」
「こうしてお前と初めてのものを見るのは、楽しいな」
「ああ。俺もだよ」
「ふふっ」
ナディアは満足そうに微笑んだ。
ゴンドラは静かに山を登っていった。
◇ ◇ ◇
約十五分後。
ゴンドラは山頂付近の駅へ到着した。
扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んでくる。
「うわっ! 寒い!」
和真は思わず肩をすくめた。
「ふむ……これはなかなかだな」
ナディアも少し驚いたように周囲を見回した。
標高およそ千四百メートル。
温泉街とは、空気の冷たさがまるで違っていた。
「手袋、持ってきて正解だったな」
「そうだな」
二人は防寒具を整え、会場へ向かった。
周囲には星空をテーマにした照明が設けられ、暗い山の中に幻想的な光が浮かんでいる。
「綺麗だな」
ナディアが足を止めた。
「ああ。なんか別世界みたいだ」
「ふっ。俺様からすれば、この世界そのものが別世界なのだがな」
「確かに」
二人は顔を見合わせて笑った。
会場には、すでに多くの観光客が集まっていた。
敷物を広げて座る人々。
温かい飲み物を手にしている人々。
空を見上げている人々。
皆、これから始まる星空観賞を楽しみにしているようだった。
「さて、どこで見ようか」
和真が周囲を見回す。
「少し離れた場所がよいな」
ナディアが答えた。
「落ち着いて眺めたい」
「そうだな。じゃあ、あっちにしようか」
二人は人の流れを避け、少し静かな場所へ移動した。
持ってきた敷物を広げ、並んで腰を下ろす。
和真は鞄から小さなカイロを取り出した。
「ほら、これ」
「……カイロか」
「ああ。寒くなったら使えよ」
「ふふっ。ありがとな」
ナディアは受け取ると、手袋越しに両手で包んだ。
「こういう道具は便利だな」
「だろ?」
「俺様の世界にも欲しかったものだ」
楽しそうに笑うナディアを見て、和真も笑みを浮かべた。
その時、会場に案内の声が響いた。
間もなく、照明を落として星空を楽しむ時間が始まるという。
係員の指示に従い、観光客たちがスマートフォンなどの明かりを消していく。
「始まるみたいだな」
「ああ」
ナディアは小さく頷いた。
そして、そっと和真の手を握った。
「楽しみだな」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
◇ ◇ ◇
会場にカウントダウンの声が響き始めた。
十。
九。
八。
周囲の人々も一緒に声を上げる。
七。
六。
五。
和真は夜空を見上げた。
四。
三。
二。
一。
そして。
会場の照明が、一斉に消えた。
「…………っ!」
和真は息を呑んだ。
それまで見えていた山の景色が、深い闇に包まれる。
その代わり。
頭上には、無数の星々が広がっていた。
「……すげぇ」
思わず声が漏れた。
夜空いっぱいに散りばめられた光。
明るく輝く星も、小さな星も。
まるで黒い布に無数の宝石を埋め込んだような光景だった。
「……これは……」
隣で、ナディアも言葉を失っていた。
赤い瞳を大きく見開き、ただひたすら空を見上げている。
普段の彼女からは想像できないほど、素直に驚いた表情だった。
「ナディア」
「…………」
「ナディア?」
「……ああ」
ようやく返事があった。
「すまん。見入っていた」
ナディアは空から目を離さないまま、小さく笑った。
「見事だな」
「ああ」
「俺様のいた世界でも星は見えた。だが……」
そこで一度言葉を止める。
「こうして、ゆっくり眺めたことはなかったかもしれんな」
「そっか」
和真は静かに頷いた。
会場ではガイドによる星空解説が始まっていた。
秋から冬へと移り変わる星座。
夜空に輝く明るい星。
そして、遥か遠くに存在する無数の星々。
二人は肩を並べ、その説明に耳を傾けながら空を眺め続けた。
しばらくして。
「和真」
「ん?」
「少し、話してもよいか?」
「ああ。どうした?」
ナディアは夜空を見上げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「俺様はな、長い時間を一人で過ごしてきた」
「……ああ」
「お前と再び会えるかどうかもわからず、ただ時を過ごしていた」
和真は何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。
「最初は、いつか必ず会えると信じていた」
ナディアは小さく笑った。
「だが、どれほど強く願っても、時間だけはどうにもならん」
「……」
「何も変わらぬ場所で、ただお前のことを考える日々だった」
その声は、いつもより少し穏やかだった。
「だからこそ」
ナディアは和真へ顔を向けた。
「今、こうしてお前と一緒にいられることが、嬉しくて仕方ないのだ」
「……ナディア」
「ふふっ。少々感傷的になってしまったな」
彼女は照れ隠しのように笑った。
和真は少し考えた後、繋いだ手に力を込めた。
「これからは、こういう景色をもっと一緒に見ようぜ」
ナディアの瞳が、少しだけ大きくなる。
「もっと?」
「ああ。星空だけじゃなくて、海とか山とか。綺麗なところ、まだまだいっぱいあるだろ」
「……」
「せっかく同じ世界にいるんだからさ」
和真は笑った。
「これからも色々見に行こう」
ナディアはしばらく彼の横顔を見つめていた。
そして。
「……まったく」
小さく息を吐く。
「お前という男は、本当に俺様を喜ばせるのが上手いな」
「そうか?」
「ああ」
ナディアは穏やかに微笑んだ。
「約束だぞ」
「ああ」
「今言ったこと、忘れるなよ?」
「忘れないって」
和真が笑う。
ナディアも、嬉しそうに笑い返した。
◇ ◇ ◇
その後も、二人は静かに星空を眺め続けた。
夜空を見上げていると、普段の生活では気づかないほど多くの星が存在していることを実感する。
明るい星の周囲にも、小さな光が無数に散らばっている。
「……綺麗だなぁ」
和真が呟く。
「ああ。何度見ても飽きんな」
ナディアも静かに答えた。
その時だった。
夜空の一角を、ひと筋の光が横切った。
「……あっ!」
和真が声を上げる。
「今、流れ星!」
「見えたぞ!」
ナディアも目を見開いていた。
「一瞬だったな」
「ああ。願い事する暇もなかった」
和真が笑う。
ナディアは少しだけ考えた後、ふっと微笑んだ。
「俺様は、願い事など必要ないな」
「なんで?」
「すでに一番の願いが叶っているからだ」
「……え?」
和真が顔を向ける。
ナディアは彼を見つめ、静かに笑った。
「お前と再び会えた。それ以上に望んでいたことなど、なかったからな」
「……そっか」
「ああ」
ナディアはもう一度夜空を見上げた。
「もっとも、今では欲しいものが増えてしまったが」
「欲しいもの?」
「ふふっ。秘密だ」
「なんだよ、それ」
「いずれ教えてやろう」
そう言って、彼女は楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
やがて星空解説がひと区切りつき、撮影できる時間になった。
「……あ、そうだ!」
和真が声を上げた。
「どうした?」
「写真だよ。ピピに頼まれてただろ」
「ふふっ。忘れていたわけではなかったのだな」
「忘れてないって。せっかくなら綺麗に撮りたかったんだよ」
和真は鞄から小型の三脚を取り出した。
周囲の邪魔にならない場所を選び、スマートフォンを固定する。
設定を夜景撮影用に切り替え、画面を確認した。
「……うーん」
「どうした?」
「思ってたより難しいな」
試しに撮影した写真を確認する。
確かに星は写っている。
だが、肉眼で見えているほど鮮やかではなかった。
「……もう少し綺麗に撮れないかな」
「十分に見えるぞ?」
「いや、実際はもっとすごいだろ」
「それはそうだが……」
ナディアが空を見上げる。
「この光景を、そのまま写真に残すのは難しいのかもしれんな」
「そうかもな」
和真は少し考え、設定を調整した。
撮影中にスマートフォンが動かないよう、慎重に固定する。
「……よし。今度こそ」
シャッターが切られる。
しばらくして、画面に写真が表示された。
「……おっ!」
「どうだ?」
「今度は結構いいぞ!」
和真は嬉しそうに画面を見せた。
そこには、無数の星々が散りばめられた夜空が写っていた。
肉眼で見た景色には及ばないものの、十分に美しい写真だった。
「ほう。これは見事だ」
「だろ?」
「ピピも喜ぶだろうな」
「ああ。これなら見せられるぞ」
和真は角度を変え、何枚か撮影した。
星が密集している場所。
山の稜線を入れた景色。
そして、夜空を大きく写した写真。
それぞれ少しずつ違う雰囲気になった。
「……よし。これくらいあればいいかな」
「ふむ。なかなかの出来ではないか」
ナディアは満足そうに頷いた。
そして、少しだけ和真の袖を引いた。
「……ところで、和真」
「ん?」
「俺様との写真は?」
「ああ、そうだったな」
「忘れておらんだろうな?」
「もちろん」
和真は笑った。
「せっかくだし、二人で撮ろう」
その言葉を聞いて、ナディアの表情が嬉しそうに綻んだ。
◇ ◇ ◇
二人は撮影に向いた場所を探して、少し移動した。
そこには星空を背景に記念写真を撮れる場所があり、係員が撮影の補助をしていた。
「すみません。二人で撮ってもらってもいいですか?」
和真が声をかける。
「はい、大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」
係員の案内に従い、二人は指定された位置へ並んだ。
背後には、山の稜線と美しい夜空が広がっている。
「……和真」
「ん?」
「もっとこちらへ寄れ」
「いや、結構近いぞ?」
「まだ足りんな」
ナディアは当然のように和真の腕を取り、身体を寄せた。
「……おい!」
「ふふっ。よいではないか」
係員が笑顔で声をかける。
「では、お二人ともこちらを向いてくださいね」
「あ、はい」
和真が姿勢を整える。
ナディアは嬉しそうに彼の腕へ寄り添った。
「撮りますよ。しばらく動かずにお願いします」
撮影が始まる。
二人はそのまま、じっとカメラを見つめた。
数秒後。
「はい、撮れました!」
「ありがとうございます」
和真はスマートフォンを受け取り、写真を確認した。
「……おお!」
画面には、星空を背景に並ぶ二人の姿が写っていた。
和真は少し照れくさそうな笑顔。
その隣で、ナディアは満面の笑みを浮かべている。
「……いい写真だな」
「ああ」
ナディアは画面を覗き込んだ。
そして、しばらく黙って写真を見つめた。
「……ナディア?」
「……ふふっ」
彼女は小さく笑った。
「気に入ったぞ」
「そっか」
「ああ。とてもな」
ナディアは和真の腕をもう一度取った。
「もう一枚、撮らぬか?」
「いいぞ」
「今度は、もう少し自然に笑ってみろ」
「今のも笑ってただろ?」
「少し緊張していたぞ」
「……そうか?」
「ふふっ。俺様にはわかる」
そう言って、彼女は和真の肩へ頭を寄せた。
和真も小さく笑い、彼女の方へ身体を寄せる。
「……これでいいか?」
「ああ。実によい」
二枚目の撮影。
今度は二人とも、自然な笑顔で写っていた。
「……おお。こっちもいいな」
「ふふっ。当然だろう」
ナディアは満足そうに頷いた。
その後、和真はナディア一人の写真も撮影した。
星空を背景に立つ彼女。
長い赤髪が夜風に揺れ、赤い瞳が柔らかな光を映している。
「……よし、撮れた」
「どうだ?」
「すごく綺麗に撮れたぞ」
和真が画面を見せる。
ナディアは写真を眺め、満足そうに微笑んだ。
「悪くないな」
「いや、かなりいいと思うぞ」
「ふふっ。お前がそう言うなら、よい写真なのだろう」
和真はその言葉に笑った。
そして、撮影した写真を改めて見返す。
星空の写真。
ナディアの写真。
二人で撮った写真。
どれも、今夜の思い出として残しておきたいものばかりだった。
「……ピピ、喜ぶかな」
「間違いなく喜ぶだろうな」
ナディアは笑った。
「だが、二人で撮った写真を見せたら、あの娘は羨ましがるかもしれんぞ?」
「……ああ、ありそうだな」
「ふふっ。帰ったら大騒ぎになるやもしれんな」
「勘弁してほしいなぁ」
そう言いながらも、和真は楽しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
星空観賞の時間が終わり、会場の照明がゆっくりと戻ってきた。
「……終わったか」
和真が少し名残惜しそうに呟く。
「そうだな」
ナディアも空を見上げた。
照明が戻ったことで、先ほどまでの星空は少し見えにくくなっている。
だが、二人の胸には、あの光景がはっきりと残っていた。
「来てよかったな」
「ああ」
ナディアが頷いた。
「本当に、素晴らしかった」
その声には、心からの満足が滲んでいた。
和真は立ち上がり、敷物を片づけ始めた。
「さて、そろそろ戻るか」
「うむ」
ナディアも立ち上がった。
そして、少しだけ肩を震わせる。
「……む」
「ん?」
「さすがに、少し冷えたな」
「ほら、言っただろ」
「ふふっ。そうだな」
和真は鞄から使い捨てカイロをもう一つ取り出した。
「ほら、これも使えよ」
「……よいのか?」
「ああ。予備だから」
ナディアは受け取ると、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとな」
「どういたしまして」
二人は並んでゴンドラ乗り場へ向かった。
途中、ナディアがふと足を止める。
「和真」
「ん?」
「もう一度だけ、空を見てもよいか?」
「ああ。もちろん」
和真も足を止めた。
ナディアはゆっくりと夜空を見上げる。
そして、静かに微笑んだ。
「……また来よう」
「ああ。そうだな」
「今度は、違う季節の星空も見てみたいものだ」
「いいな、それ」
和真が頷く。
「冬も春も、また違った星が見えるだろうし」
「ふふっ。楽しみが増えたな」
二人は顔を見合わせて笑った。
そして、再び歩き始めた。
◇ ◇ ◇
帰りのゴンドラ。
窓の外には、暗闇に包まれた山々が広がっていた。
遠くに見える街の明かりが、まるで地上に散らばった星のように輝いている。
「……いやぁ、すごかったな」
和真が息を吐いた。
「何度言っても足りんな」
ナディアも微笑んだ。
「俺様も、あれほどの星空を見られるとは思わなかった」
「ああ。写真じゃ伝わらないよな、あれは」
「そうだな」
ナディアは小さく頷いた。
「だが、心には残った」
しばらく、二人は黙って景色を眺めていた。
やがてナディアが、そっと和真の肩へ頭を預ける。
「……ナディア?」
「少しだけ、こうさせてくれ」
「ああ」
和真はそのまま動かなかった。
ナディアの髪から、ほのかに甘い香りが漂う。
朝から何度も感じていた香りだった。
「和真」
「ん?」
「今日は、本当に楽しいな」
「ああ。俺もだよ」
「……ふふっ」
ナディアは嬉しそうに笑った。
そのまましばらく、二人は静かな時間を過ごした。
◇ ◇ ◇
送迎バスで旅館へ戻った頃には、夜もかなり更けていた。
玄関をくぐると、温かな空気が二人を包み込む。
「……はぁぁ」
和真が大きく息を吐いた。
「生き返る……」
「ふふっ。随分と寒がっていたな」
「そりゃ寒かったからな」
「俺様も、さすがに身体が冷えたぞ」
「だろ?」
二人は笑いながら廊下を進んだ。
昼間とは違い、館内は静まり返っている。
窓の向こうでは、日本庭園の一部が柔らかな明かりに照らされていた。
「……おお。夜も綺麗だな」
和真が足を止める。
「昼間とは雰囲気が違うな」
「ああ。落ち着いたものだ」
ナディアも庭園を眺めた。
「こういう場所で、ゆっくり過ごすのも悪くない」
「そうだな」
和真は微笑んだ。
そして、二人は部屋へ戻った。
襖を開ける。
「……ただいまっと」
何気なく口にしながら中へ入った和真は、ふと足を止めた。
「……ん?」
座卓は部屋の隅へ寄せられ、畳の中央には布団が敷かれていた。
白い掛け布団。
綺麗に整えられた枕。
柔らかな照明に照らされた寝具は、見るからに寝心地がよさそうだった。
ただし。
「……あれ?」
和真は目を瞬かせた。
「……一組?」
何度見ても、布団は一組しかない。
室内を見回してみる。
もう一組が隅に畳まれているわけでもない。
和真は困惑しながらナディアへ顔を向けた。
「なあ、ナディア」
「なんだ?」
「布団、一組しかないんだけど」
「そうだな」
「……そうだな、じゃなくて」
和真は布団を指差した。
「これ、旅館の人が間違えたんじゃないか?」
「いや。間違いではないぞ」
「……え?」
ナディアはコートを脱ぎ、綺麗に畳んでから和真へ顔を向けた。
そして、満足そうに微笑んだ。
「俺様が予約の際に頼んでおいたのだ」
「…………はい?」
「布団は一組でよいとな」
「……なんで!?」
和真が思わず大きな声を出した。
ナディアは少しも動じず、堂々と答える。
「お前と一緒に眠りたいからだ」
「……っ!?」
和真の顔が、一気に赤くなった。
「い、いや、待て待て!」
「何を待つ必要がある?」
「そりゃ、普通は一人一組だろ!」
「そうとも限るまい」
ナディアは楽しそうに笑った。
「恋人同士や夫婦なら、一緒に眠ることもあるのだろう?」
「……いや、そうだけど!」
「ならば、俺様も一度くらいは経験してみたいと思っただけだ」
「だけって……!」
和真は頭を抱えた。
ナディアが積極的なのは、今に始まったことではない。
今日一日だって、何度も手を繋ぎ、腕を組み、身体を寄せてきた。
だが、さすがに布団を一組にしているとは思わなかった。
「……お前、最初からそのつもりだったのか?」
「無論だ」
ナディアは堂々と胸を張った。
「せっかく二人きりで泊まるのだ。何も考えておらんわけがなかろう」
「……用意周到すぎるだろ」
「ふっ。俺様を誰だと思っている?」
「……元魔王様」
「そうだ」
ナディアは得意げに笑った。
しかし、和真の困った顔を見ると、少しだけ表情を和らげた。
「もっとも、無理にとは言わんぞ」
「……え?」
「俺様はお前と一緒に眠りたい。だが、お前にも考えはあるだろう?」
ナディアは布団へ視線を向けた。
「嫌なら、もう一組用意してもらえばよい」
和真は少し驚いた。
そして、目の前のナディアを見つめる。
「……そっか」
「ああ」
彼女は微笑んだ。
「だが、俺様としては、できればこのままがよいな」
「……結局それかよ」
「ふふっ。当然だ」
和真は苦笑した。
すぐに返事をすることはできなかったが、少なくとも彼女が自分の気持ちを無視するつもりではないことはわかった。
ナディアはそれ以上返事を求めず、窓際へ向かった。
「……さて」
「ん?」
「随分と身体が冷えたな」
「ああ。山の上、寒かったからな」
「ならば、まずは風呂だ」
そう言って、彼女は露天風呂へ続く戸に目を向ける。
そして、ゆっくりと口元を上げた。
「ふふっ。楽しみだな」
「……何が?」
「お前と過ごす、この後の時間がだ」
「……お前なぁ」
和真は呆れたように笑った。
だが、その直後。
「……ん?」
ふと、自分の胸元へ手を当てた。
外はあれほど寒かったというのに、身体の奥には妙な熱が残っている。
旅館の暖房が効いているせいだろうか。
それとも、温かい夕食をたっぷり食べたからか。
疲れているはずなのに、なぜか眠気も感じなかった。
それどころか。
露天風呂へ視線を向けるナディアの横顔を見ていると、妙に落ち着かなくなる。
長い赤髪。
美しい横顔。
そして、今日一日、何度も自分へ向けられた好意。
今夜は、いつも以上に彼女を女性として意識してしまう。
(……なんだろうな、これ)
和真は小さく息を吐いた。
別に、具合が悪いわけではない。
むしろ身体は元気だった。
ただ、どうにも落ち着かなかった。
そんな彼の様子を、ナディアは横目で眺めていた。
「……どうした、和真?」
「いや……なんでもない」
「そうか?」
「ああ」
和真は曖昧に笑った。
ナディアはそれ以上尋ねなかった。
ただ、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
(……ふふっ)
夕食の料理。
客室の露天風呂。
一組だけ用意させた布団。
そして、旅行前から準備してきたものは、まだ他にもある。
すべては、今夜のためだった。
もっとも、和真がどう応えるかまでは、ナディアにもわからない。
それでも彼女は、今日という日を楽しみにしていた。
「……和真」
「ん?」
ナディアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「まずは、冷えた身体を温めようではないか」
「ああ。そうだな」
和真は頷いた。
そして、荷物の中から浴衣を取り出す。
その背後で、ナディアは静かに微笑んでいた。
満天の星空を楽しんだ夜。
二人の旅行は、まだ終わっていない。
そして、ナディアが心待ちにしていた時間が、いよいよ始まろうとしていた。




