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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第三十九話 魔王の秘密の恋愛計画

 朝の母屋には、いつもの賑やかな声が響いていた。


「カズマ! これ見て!」


「ん? どうした?」


「昨日の写真! これ、すっごく気に入ってるんだ!」


 ピピが嬉しそうにスマートフォンを差し出してくる。


 画面に映っていたのは、昨日訪れたディズニーシーで撮影した一枚だった。


 水辺を背景に、満面の笑みを浮かべるピピと、その隣で微笑む和真。


 二人とも旅行用に選んだ服を着ており、ピピは和真の腕にぴったりとくっついている。


「ああ、これか。綺麗に撮れてるな」


「でしょ! 僕、これも好き!」


 ピピが指で画面を滑らせる。


 次に現れたのは、大きなワッフルを両手で持ち、幸せそうに笑っている写真だった。


「あ、それ昨日食べてたやつ?」


 向かいに座っていたみゆが、興味深そうに身を乗り出す。


「そう! すっごく美味しかったんだよ!」


「へえ、いいなあ。僕も食べたい」


「カズマがね、僕の写真いっぱい撮ってくれたんだ!」


「そうなんだ?」


 みゆが和真へ視線を向ける。


「ずいぶん楽しんできたみたいだねえ」


「まあな。ピピがずっと楽しそうだったから、連れて行った甲斐があったよ」


「えへへ!」


 褒められたピピは、嬉しそうに笑った。


 その様子を見ていたひかげも、少しだけ身を乗り出す。


「……あの、ピピちゃん。ほかの写真も、見せてもらってええ?」


「もちろん!」


 ピピはすぐにひかげの隣へ移動した。


 画面には、アトラクションの前で撮った写真や、美味しそうな食べ物、夜のライトアップを背景にした写真が次々と映し出される。


「……わあ。綺麗やね」


「うん! 夜もすっごく綺麗だった!」


「楽しそうで何よりじゃのう」


 あおいも興味を示し、二人の後ろから画面を覗き込んだ。


「しかし、ずいぶんと写真が多いのじゃな」


「いっぱい撮ったからね!」


「和真も大変だったじゃろう?」


「いや、俺も結構楽しんでたからな」


 和真が笑って答えると、あおいは小さく頬を膨らませた。


「……わらわとの旅行でも、もっと写真を撮っておけばよかったのう」


「十分撮っただろ?」


「それとこれとは別なのじゃ」


「なんだよ、それ」


 和真が苦笑すると、あおいは小さく笑った。


 そんな穏やかな朝だった。


 少なくとも、この時までは。


     ◇ ◇ ◇


「ピピ、その写真、私にも見せてください」


 食事を終えたリディアが、テーブルの向こうから声をかけた。


「いいよ!」


 ピピは嬉しそうにスマートフォンを持ち上げる。


「これね、カズマと一緒に乗ったやつ!」


「なるほど。かなり綺麗に撮影できていますね」


「こっちはね、夜の写真!」


 ピピは次々と写真を見せていく。


 気づけば、みゆだけでなく、ひかげやあおいまで画面を覗き込んでいた。


 さらに、片付けを終えた酒菜も興味を示す。


「お前ら、ずいぶん盛り上がってんな」


「酒菜も見る?」


「ああ。せっかくだしな」


 酒菜が覗き込むと、ピピは得意げに胸を張った。


「僕、いっぱい遊んだんだよ!」


「見りゃ分かる。いい顔してんな」


「えへへ!」


 褒められて嬉しくなったピピは、さらに写真を見せようとした。


 ところが。


「あれ? これじゃないや」


 写真を探している途中で、誤って画面を閉じてしまった。


 スマートフォンはホーム画面へ戻る。


 そこには、アプリのアイコンが並んでいた。


 そして、その背景には。


「…………ん?」


 最初に声を漏らしたのは、みゆだった。


「……え?」


 続いて、ひかげ。


「……なんじゃ?」


 あおいまで首を傾げる。


 ピピは何も気づかず、もう一度写真アプリを開こうとしていた。


 しかし、その手をみゆが慌てて止めた。


「ちょ、ちょっと待って、ピピ!」


「ん? どうしたの?」


「その画面! もう一回見せて!」


「これ?」


 ピピは素直にスマートフォンを差し出した。


 画面の背景。


 そこには、頬を赤く染めながら幸せそうに笑うピピと、彼女の頬へ唇を寄せている和真の姿が映っていた。


 しかも、かなり鮮明に。


「…………」


「…………」


「…………」


 一瞬、母屋が静まり返った。


 そして。


「えええええっ!?」


 みゆの声が響き渡った。


「ちょっと和真! 何これ!?」


「ん? 何が……」


 和真が振り返る。


 みゆが突き出してきたスマートフォンを見て、その表情が固まった。


「…………あ」


「『あ』じゃないよ!」


「いや、これは……」


「和真がピピにキスしてるじゃん!」


 その一言で、周囲の空気が一変した。


「き、き、ききき、キスじゃと!?」


 あおいが目を見開く。


「……えっ、和真さんから……?」


 ひかげは顔を真っ赤にして固まった。


「おいおい……お前、ずいぶん大胆なことしてんな」


 酒菜は呆れたように笑う。


 リディアは眼鏡を押し上げ、改めて画面を確認した。


「……確かに、これは和真からピピへの接吻ですね」


「分析しなくていいから!」


 和真が思わず声を上げる。


 しかし、騒ぎは収まらなかった。


「和真! どういうことなのじゃ!」


「いや、だから……!」


「わらわとの旅行でも、そのようなことは……いや、あったが! それはそれ、これはこれなのじゃ!」


「あおい、落ち着けって!」


「落ち着いておる!」


「全然落ち着いてないだろ!」


 その隣では、みゆがスマートフォンを凝視していた。


「へえ……ふうん……」


「みゆ?」


「和真から、ねえ……」


 にっこりと笑う。


 しかし、その笑顔が妙に怖い。


「随分と積極的になったじゃん?」


「いや、そういうわけじゃなくて……」


「じゃあ、どういうわけ?」


「それは……」


 和真が説明に困っていると、ピピが不思議そうに首を傾げた。


「みんな、どうしたの?」


「ピピ……この写真、どうしたの?」


 みゆが尋ねる。


「昨日撮ってもらったんだよ!」


「誰に?」


「キャストのお姉さん!」


「……キャストさんに?」


「うん!」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「僕がカズマにチューした時も撮ってくれてね! それで、カズマにもお返ししてもらったの!」


「…………」


 再び沈黙。


 和真は思わず額を押さえた。


「ピピ……」


「ん?」


「そこまで全部説明しなくても……」


「え? だって本当のことだよ?」


 悪びれた様子は一切ない。


 むしろ、どうして皆が驚いているのか分かっていないようだった。


「……つまり」


 みゆがゆっくり口を開く。


「ピピからもキスして、和真からもキスしたってこと?」


「そうだよ!」


「しかも両方写真に撮ってもらった?」


「うん!」


「…………へえ」


 みゆが和真を見た。


 和真は視線を逸らした。


「……和真?」


「はい」


「なんで敬語?」


「いや、なんとなく……」


「ふふっ」


 笑顔のまま近づいてくるみゆに、和真は思わず椅子を引いた。


「別に怒ってないよ?」


「そ、そうか?」


「うん。ただ、詳しく聞きたいなあって」


「……だよな」


 逃げられそうになかった。


     ◇ ◇ ◇


「それで? 和真からした理由は?」


 みゆの質問に、和真は観念したように息を吐いた。


「……ピピにお願いされたんだよ」


「お願い?」


「最初にピピから頬にキスされてさ。それで、お返しが欲しいって言われたんだ」


「ふうん」


「断ろうともしたんだけど……」


「僕、いっぱいお願いした!」


 ピピが元気よく付け加える。


「カズマ、最初はすっごく照れてたんだよ!」


「ピピ、それも言わなくていいから!」


「あははっ!」


 みゆがとうとう笑い出した。


「なるほどねえ。和真らしいや」


「笑い事じゃないんだけど……」


「でも、結局してあげたんでしょ?」


「……まあな」


「優しいんだから」


 みゆは楽しそうに笑った。


 しかし、その直後。


「……それにしても、いい写真だね」


 そう言って、もう一度スマートフォンを見つめた。


 写真の中のピピは、本当に幸せそうだった。


 和真から頬にキスされ、驚きながらも嬉しさを隠しきれない表情。


 それを見て、みゆは小さく微笑んだ。


「……ピピ、すっごく嬉しかったんだね」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕ね、これが一番好き!」


「だから待ち受けにしたんだ?」


「そう!」


 その答えに、和真が目を丸くする。


「……え?」


「ん?」


「ピピ、お前……これ、待ち受けにしてたのか?」


「うん!」


「いつから?」


「昨日の夜!」


「昨日!?」


「だって、いつでも見られるでしょ?」


 ピピは嬉しそうに笑う。


「カズマとの大事な思い出だから!」


 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


 和真は何も言えなくなってしまう。


 写真を隠してほしいとも、別のものに変えてほしいとも言いづらかった。


 ただ、まさかそれが原因で全員に知られることになるとは思っていなかった。


「……なるほどね」


 酒菜が苦笑する。


「そりゃ、ピピに悪気はねえな」


「そうですね。本人にとっては、大切な記念写真なのでしょう」


 リディアも頷いた。


「ただ、人目につく画面に設定した以上、誰かに見られる可能性は高かったと思いますが」


「そこまで考えてなかったんだろ……」


 和真は肩を落とす。


「……でも」


 小さな声が聞こえた。


 ひかげだった。


「……すごく、ええ写真やと思います」


「ひかげ?」


「ピピちゃん……ほんまに幸せそうやから……」


 ひかげは頬を赤く染めたまま、小さく微笑んだ。


「……ちょっと、羨ましいですけど」


 その最後の一言は、とても小さかった。


 和真が聞き返す前に、ひかげは慌てて俯いてしまう。


「な、なんでもないです……!」


 その様子を見て、みゆがくすっと笑った。


「ひかげも、だいぶ積極的になってきたよね」


「……み、みゆちゃん……!」


「ふふっ、いいことじゃん」


 一方、あおいはまだ少し不満そうだった。


「……むう」


「今度はどうした、あおい」


「わらわも、和真からそのような写真を撮ってもらえばよかったのじゃ」


「いや、写真が目的だったわけじゃないんだけどな……」


「分かっておる!」


 あおいはぷいっと顔を背ける。


 しかし、しばらくすると小さな声で付け加えた。


「……次の機会には、わらわも頼むかもしれぬぞ」


「……考えとくよ」


「約束じゃからな」


「まだ約束はしてないだろ」


 和真が苦笑すると、あおいもようやく笑った。


     ◇ ◇ ◇


「まったく、朝から賑やかな連中だな」


 少し離れた場所から声がした。


 ナディアだった。


 彼女は椅子の背にもたれながら、騒ぎの一部始終を眺めていた。


 その表情には、いつもの余裕ある笑みが浮かんでいる。


「和真、お前もずいぶんやるようになったじゃないか」


「ナディアまで……」


「別に責めているわけじゃない。相手が喜んでいるなら、それでいいだろう」


「……そう言ってくれると助かるよ」


「ただし」


 ナディアが口元を緩めた。


「俺様との旅行でも、そこまで楽しませてもらえるんだろうな?」


「……え?」


「当然だろう? 次は俺様の番なんだからな」


 和真は少し考えてから頷いた。


「ああ、もちろん。ナディアが行きたいところに行こうと思ってるよ」


「ほう」


 ナディアは満足そうに笑った。


「ならば遠慮はしないぞ?」


「最初から遠慮するつもりないだろ?」


「ははっ! よく分かっているじゃないか!」


 豪快に笑うナディア。


 その様子に、和真もつられて笑った。


「それで、行きたい場所は決まってるのか?」


「いくつか候補はある。お前と相談して決めるつもりだ」


「そうか。じゃあ、あとで一緒に調べるか」


「ああ。それがいい」


 ナディアはゆっくりと頷いた。


 すると、みゆが興味深そうに口を挟む。


「ナディアはどこに行くつもりなの?」


「まだ決めていないと言っただろう」


「えー、ちょっとくらい教えてよ」


「決まったら教えてやる」


「なんか秘密がありそうだねえ」


「さあな」


 ナディアは意味ありげに笑った。


 その余裕ある態度に、みゆはますます興味を持ったようだったが、それ以上は追及しなかった。


 和真はそんな二人を見ながら、ようやく写真騒動が落ち着いたことに安堵していた。


 しかし。


 彼はまだ知らなかった。


 ナディアが今回の旅行を、どれほど特別な機会だと考えているのか。


 そして彼女が、すでに密かな計画を立て始めていることも。


 ナディアは和真へ視線を向ける。


 何気なく笑っているその顔を見つめながら、心の中で小さく呟いた。


(……楽しみにしていろよ、和真)


 何百年もの間、決して忘れることのなかった男。


 かつて敵として剣を交え、今では誰よりも大切に思っている相手。


 そんな男と、誰にも邪魔されず二人きりで過ごせる。


 これほどの機会を、ただの観光旅行で終わらせるつもりはなかった。


(今度こそ、お前に俺様を一人の女として意識させてやる)


 ナディアは静かに微笑んだ。


 その笑みに込められた意味を、この場の誰も知らない。


 もちろん、和真も。


 こうして、元魔王による密かな恋愛計画が、静かに動き始めたのだった。


◇


 朝の騒動から数時間が経った。


 昼食を終えた母屋には、ようやく落ち着いた空気が戻ってきていた。


 みゆと酒菜は食器を片付け、ピピはひかげと一緒に旅行の写真を見返している。


 例の写真が再び話題になるたび、和真は少し離れた場所で苦笑していた。


「和真、少しいいか?」


 そんな和真に声をかけたのは、ナディアだった。


「ん? どうした?」


「朝の話だ。旅行先を決めるんだろう?」


「ああ、そうだったな。今から調べるか?」


「そのつもりで来た」


 ナディアは当然のように頷いた。


 そして、和真の隣に腰を下ろす。


 いつもより少し近い距離だったが、和真は特に気にした様子もなくスマートフォンを取り出した。


「それで、候補がいくつかあるって言ってたよな?」


「ああ。ただ、まだ決めかねている」


「珍しいな。ナディアなら即決しそうなのに」


「俺様だって迷うことくらいある。特に今回はな」


「今回は?」


「……いや、何でもない」


 ナディアは小さく笑った。


 今回の旅行。


 和真にとっては、皆と順番に出かけている二人旅の一つなのだろう。


 だが、ナディアにとっては違う。


 何百年もの間、もう二度と会えないかもしれないと思いながら、それでも忘れられなかった男。


 その和真と、誰にも邪魔されず一泊二日を過ごせるのだ。


 行き先を簡単に決められるはずがなかった。


「それで、どんな場所を考えてるんだ?」


「景色のいい場所だな。それと、できれば静かに過ごせるところがいい」


「なるほど。自然が多い場所とか?」


「そうだな。騒がしい場所が嫌いというわけではないが、今回はゆっくりしたい」


「じゃあ、温泉なんかもいいかもな」


「温泉か……」


 ナディアが少し考える。


「悪くないな。お前と二人でのんびり過ごすのも楽しそうだ」


「それなら結構候補があるぞ。箱根とか伊豆とか」


「ほう。どちらも温泉があるのか?」


「ああ。観光する場所も多いし、料理が美味しい宿もある」


「なるほどな」


 和真が検索結果を見せると、ナディアは興味深そうに画面を覗き込んだ。


 湖の景色。


 山々に囲まれた旅館。


 海を見渡せる露天風呂。


 どれも魅力的だった。


「……ふむ。これは迷うな」


「だろ?」


「だが、温泉だけでは少し物足りない気もする」


「ほかに何かしたいことがあるのか?」


「そうだな……」


 ナディアは腕を組み、しばらく考え込んだ。


「夜にも楽しめるものがあるといい」


「夜?」


「ああ。せっかく泊まりで出かけるんだ。昼間だけでなく、夜も何か思い出を作りたい」


「夜景とか?」


「それも悪くない」


 ナディアが頷く。


「だが、できればもっと自然を感じられるものがいいな」


「自然か……」


 和真は検索する言葉を変えてみた。


 夜景。


 温泉。


 自然。


 星空。


 いくつかの候補を眺めていた和真の指が、不意に止まった。


「……あ、ここなんかどうだ?」


「ん?」


「長野県の阿智村ってところなんだけど」


「アチムラ?」


「そう。星空が綺麗なことで有名らしい」


 和真は画面をナディアへ向けた。


 そこには、無数の星が輝く夜空の写真が映っていた。


 山々の向こうまで広がる、光に満ちた空。


 都会ではなかなか見ることのできない、満天の星だった。


「…………」


 ナディアの視線が、画面に釘付けになった。


「……ほう」


「綺麗だろ?」


「ああ……見事だな」


 普段なら堂々と感想を口にする彼女が、珍しく言葉を選ぶように答えた。


 和真は別の写真も開く。


「ここ、星空を見に行くツアーもあるみたいだぞ」


「ツアー?」


「山の上までゴンドラで上がって、星空を楽しむんだってさ」


「ゴンドラとは何だ?」


「ああ、山を上るための乗り物だよ。ロープに吊るされた箱みたいなものに乗って移動するんだ」


「なるほど。空中を移動する乗り物か」


「まあ、そんな感じだな」


 ナディアは感心したように頷いた。


「魔法を使わずに山の上まで人を運ぶとはな。この世界の技術は本当に面白い」


「ナディアなら飛んで行けそうだけどな」


「当然だ。だが、それとこれとは別だろう?」


「そうなのか?」


「お前と同じ乗り物に乗って景色を楽しむ。それにも意味があるんじゃないか?」


「……確かに、そうかもな」


 和真が笑うと、ナディアも満足そうに口元を緩めた。


 そして再び、画面に映る星空へ目を向けた。


     ◇ ◇ ◇


「……星か」


 ナディアが小さく呟いた。


「どうした?」


「いや、少し昔を思い出しただけだ」


「昔?」


「ああ。俺様がまだ魔王だった頃のことだ」


 ナディアは画面を見つめたまま続けた。


「向こうの世界にも星はあった。夜になれば空に浮かび、朝になれば見えなくなる。そんなものは当たり前だった」


「そうだな」


「だが、あの狭間の世界には、そもそも昼も夜もなかった」


 和真の表情が少し変わった。


 かつて、和真とナディアが二人で張った結界。


 その狭間に生まれた異空間。


 和真はナディアによって元の世界へ戻されたが、彼女だけはその場所に残された。


 時間の概念すら存在しない世界で、ナディアは途方もなく長い時を過ごした。


「……そうだったな」


 和真が静かに答える。


「別に、同情してほしいわけじゃないぞ」


「分かってるよ」


「ふっ、ならいい」


 ナディアは小さく笑った。


「ただ、こうして夜空の写真を見ていると、少し不思議な気分になる」


「不思議?」


「ああ。今では当たり前のように朝が来て、夜になる。そして、その時間をお前と過ごせる」


 ナディアは和真へ顔を向けた。


「昔の俺様には、想像もできなかったことだ」


「……ナディア」


「そんな顔をするな。今の俺様は十分に幸せだ」


 そう言って笑う彼女に、和真も少しだけ表情を緩めた。


「……そっか」


「ああ」


 ナディアは再び画面へ視線を戻した。


「だからこそ、今の時間を大事にしたいんだ」


「……うん」


「それに」


 ナディアが不意に笑みを深める。


「どうせ見るなら、お前と一緒がいい」


「……そうか」


「何だ、その返事は。もう少し喜んでもいいんじゃないか?」


「いや、嬉しいよ。俺もナディアと一緒に見てみたいと思ったし」


「…………」


 今度はナディアが黙った。


「ナディア?」


「……ふっ」


 小さく笑い、髪を耳にかける。


「そうか。それなら決まりだな」


「ん?」


「俺様はここがいい。阿智村だったか?」


「ああ」


「ここへ行こう」


 迷いのない言葉だった。


 和真は頷き、もう一度星空の写真を見た。


「分かった。じゃあ阿智村にしよう」


「ああ。楽しみだな」


 そう答えたナディアの表情は、どこか柔らかかった。


     ◇ ◇ ◇


「それにしても、長野か……」


 和真は地図を開き、阿智村までの経路を確認した。


「車で行けそうだな。休憩を挟めば、それなりに時間はかかるけど」


「俺様は構わんぞ」


「長時間の移動になるぞ?」


「お前と二人で過ごせる時間が増えるんだ。むしろ歓迎したいくらいだな」


「……そういう考え方もあるか」


「当然だろう?」


 ナディアは得意げに笑った。


「お前は運転に集中する必要があるだろうが、休憩中くらいは俺様の相手をしてもらうぞ」


「はいはい」


「何だ、その気のない返事は」


「ちゃんと相手するって」


「ならいい」


 ナディアは満足そうに頷いた。


 和真は阿智村周辺の観光情報を調べ始める。


「そういえば、近くに昼神温泉っていう温泉地があるな」


「ほう」


「温泉旅館も結構あるみたいだ。泊まるならこの辺がよさそうだな」


「温泉旅館か……」


 ナディアが興味深そうに画面を見る。


 和室。


 露天風呂。


 美味しそうな会席料理。


 それぞれの宿が紹介されていた。


「なかなかいい雰囲気じゃないか」


「だろ? 温泉街も散策できるみたいだし、星空ツアーまでの時間も楽しめそうだ」


「ならば、昼間はそこで観光だな」


「ああ。ただ、星空ツアーは夜だから、夕食の時間も考えないとな」


「ふむ。確かに、せっかくの旅館の料理を慌ただしく食べるのは惜しい」


「だよな。ツアーの時間に合わせて、宿の夕食をどうするか決めよう」


「任せる。お前の方がこの世界の旅行には慣れているからな」


「ナディアも一緒に決めようぜ。せっかくの二人旅なんだから」


「……ふっ。そうだな」


 ナディアは微笑んだ。


 そして、画面に映る旅館の写真を眺める。


 その中で、ある一枚が彼女の目に留まった。


 落ち着いた和室。


 大きな窓の向こうには山々の景色が広がり、その先には部屋専用の露天風呂が設けられている。


「……和真」


「ん?」


「これは、部屋に風呂が付いているのか?」


「ああ。客室露天風呂ってやつだな」


「ほう……」


 ナディアの目がわずかに細められた。


「つまり、ほかの客に邪魔されず、好きな時間に入れるということか?」


「そうだな。部屋に付いてるから、時間も気にしなくていいと思うぞ」


「なるほど……」


「ただ、普通の部屋よりは高くなるだろうな」


「値段のことなら気にするな。俺様にも稼ぎはある」


「いや、そういう意味じゃなくてさ。ほかにもいい宿はあると思うし」


「分かっている。まだ決める必要はないだろう?」


「ああ。今日は候補を探して、予約できるところを確認しないとな」


「そうだな」


 ナディアは一度、画面から目を離した。


 だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


 部屋に備え付けられた露天風呂。


 誰にも邪魔されない空間。


 そして、和真と二人きりの夜。


(……悪くない)


 もちろん、温泉そのものも楽しみだった。


 だが、それ以上に魅力的なことがある。


 和真と過ごす時間を、誰にも邪魔されずに済むことだ。


 普段の生活では、どうしてもほかの住人たちがいる。


 それはそれで楽しいし、今の暮らしに不満があるわけではない。


 だが、今回だけは別だった。


(せっかくの機会だ。遠慮するつもりはないぞ)


 ナディアは内心で微笑んだ。


     ◇ ◇ ◇


「あれ?」


 しばらく調べていた和真が、不意に声を上げた。


「どうした?」


「星空ツアーなんだけどさ……もうすぐ休止期間に入るみたいだ」


「休止?」


「ああ。十一月十六日からしばらくやらないらしい」


「……何?」


 ナディアが眉を寄せる。


「それでは見られないのか?」


「いや、まだ間に合うかもしれない」


 和真は開催日程を確認する。


「十四日の土曜日なら、まだ開催してるみたいだな」


「十四日か……」


「ただ、結構ギリギリだぞ。宿もツアーも空いてるか確認しないと」


「構わん。せっかく気に入った場所なんだ。簡単に諦めるつもりはない」


「まあ、そうだよな」


「それに、まだ開催しているなら問題ないだろう?」


「予約が取れればな」


「ふっ。ならば取ればいい」


「簡単に言うなあ」


 和真が苦笑する。


 ナディアは自信満々に笑った。


「何だ? もう諦めるのか?」


「いや、そうは言ってないだろ」


「ならば決まりだ。十四日に出発しよう」


「だから、まずは予約を確認してからだって」


「ははっ! 分かっている!」


 ナディアは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、和真もつられて笑う。


 普段は堂々としていて、何事にも動じない元魔王。


 そんな彼女が、旅行の予定を決めるだけでこれほど楽しそうにしている。


 和真には、それが少し新鮮だった。


「……そんなに楽しみか?」


「当然だろう」


 ナディアは即答した。


「お前との初めての二人旅だぞ。楽しみでないわけがない」


「……そっか」


「ああ」


 そして、ナディアは少しだけ身体を寄せた。


「和真」


「ん?」


「今回は俺様のために、二日間付き合ってもらうぞ」


「もちろん。そのつもりだよ」


「……ふっ。いい返事だ」


 満足そうに微笑むナディア。


 しかし、その目には、いつもの余裕とは少し違う熱が宿っていた。


(……二日間、か)


 長い長い時を過ごしてきた自分にとって、たった二日間など一瞬に等しい。


 けれど。


 今のナディアには、その二日間が何よりも貴重に思えた。


 和真と同じ景色を見て、同じものを食べて、笑い合う。


 そして、夜には二人きりになる。


 その時こそ。


(……お前に、俺様の魅力を思い知らせてやる)


 ナディアはひそかに決意を固めた。


 だが、隣で宿泊先を調べている和真は、そんな彼女の考えなど少しも知らない。


「よし。じゃあ次は宿を探すか」


「ああ」


 ナディアは微笑んだ。


「とびきりいい部屋を選ぼうじゃないか」


「……予算も考えてくれよ?」


「ふっ。心配するな」


 そう言いながら、ナディアは再び和真のスマートフォンを覗き込んだ。


 星空の下で過ごす夜。


 温泉旅館で過ごす、二人きりの時間。


 まだ旅行の日は来ていないというのに、ナディアの胸は期待で満たされていた。


 そして、元魔王の密かな計画は、少しずつ具体的な形を取り始めていた。


◇


 和真が宿泊施設の一覧を開くと、ナディアは興味深そうに画面を覗き込んだ。


「……ずいぶんと種類があるんだな」


「ああ。温泉旅館っていっても、部屋の造りも料理も結構違うからな」


「ふむ。どれも悪くなさそうだが……」


 ナディアは画面を眺めながら、ゆっくりと指を動かした。


 昔ながらの和室。


 大きな窓から山々を望める部屋。


 広々とした畳の間に、落ち着いた照明が置かれた部屋。


 その中で、ナディアの指が止まった。


「和真、これを見せてくれ」


「ん? どれ?」


「この部屋だ」


 画面に表示されたのは、客室露天風呂付きの和室だった。


 広々とした畳の部屋に、低いテーブルと座椅子が二つ。


 窓の向こうには小さな庭があり、その奥に石造りの露天風呂が設けられている。


 木の柵に囲まれた浴槽の周囲には、秋らしく色づいた木々が並んでいた。


「おお、いい部屋だな」


「だろう?」


 ナディアは満足そうに微笑んだ。


「落ち着いた雰囲気だ。それに、部屋に風呂が付いているというのも気に入った」


「確かに、これなら好きな時に入れるな」


「ああ。夜も朝も、時間を気にする必要がない」


「ただ……」


 和真は料金欄を見て、少しだけ眉を上げた。


「やっぱり結構するな」


「そうなのか?」


「ああ。普通の部屋と比べると、だいぶ高いぞ」


「ふむ」


 ナディアは一度料金を確認したものの、特に驚いた様子はなかった。


「ならば、その分は俺様が出そう」


「いや、そういうわけにもいかないだろ」


「何故だ?」


「せっかくの旅行なんだから、二人で決めようぜ。無理して高い部屋にする必要もないしさ」


「無理などしていないぞ」


 ナディアは当然のように答えた。


「俺様が気に入った部屋だ。それに、お前と過ごす時間のためなら、この程度の出費は惜しくない」


「……ナディア」


「何だ? そんなに高い部屋に泊まるのが嫌か?」


「嫌ってわけじゃないけど……」


「ならば問題ないだろう?」


 ナディアは余裕のある笑みを浮かべた。


 和真は困ったように頭を掻く。


「分かったよ。ただし、費用はちゃんと相談して決めような」


「ふっ、それで構わん」


 ナディアは満足そうに頷いた。


 和真はもう一度、部屋の写真を眺める。


「でも、確かにいい部屋だな。せっかくの旅行だし、こういうところに泊まるのも悪くないか」


「ようやく分かってくれたか」


「はいはい」


「その返事は少し気に入らんな」


 そう言いながらも、ナディアは楽しそうに笑った。


     ◇ ◇ ◇


「……ところで、和真」


「ん?」


「この部屋には、寝台がないようだが?」


「ああ、和室だからな。多分、布団を敷いて寝るんだと思うぞ」


「布団?」


「床に敷く寝具だよ。あおいとの旅行でも旅館に泊まったけど、和室はそういうところが多いな」


「なるほど」


 ナディアは部屋の写真をもう一度確認した。


「つまり、この広い部屋に布団を敷くわけか」


「そうだな。二人分用意してもらえるはずだよ」


「……二人分、か」


 ナディアが小さく呟く。


「どうかした?」


「いや、別に」


 口元に笑みを浮かべたまま、ナディアは画面から目を離した。


 二人分の布団。


 同じ部屋。


 そして、誰にも邪魔されない夜。


 普段の生活では、和真と二人きりになれても、いずれはそれぞれの部屋へ戻る。


 だが、旅行先では違う。


 朝まで一緒に過ごすことができるのだ。


(……実に好都合だな)


 もちろん、和真がすんなり自分の望みに応じるとは考えていない。


 あの男は妙なところで慎重だ。


 それに、ほかの女たちにも優しい。


 だからこそ、今回は自分を特別に意識させたい。


 魔王としてではなく、一人の女として。


「……ふっ」


「ナディア?」


「何でもない。続きを見ようじゃないか」


「ああ」


 和真が画面を操作すると、今度は客室露天風呂の詳しい写真が表示された。


 石造りの浴槽は、大人二人でもゆったり入れそうな広さがある。


 その写真を見たナディアが、ゆっくりと口を開いた。


「……和真」


「ん?」


「この風呂、二人でも十分入れそうだな」


「そうだな。結構広いみたいだし」


「ならば、一緒に入るのも悪くない」


「……え?」


 和真の指が止まった。


 ナディアは何事もなかったように微笑む。


「どうした?」


「いや……今、一緒にって……」


「ああ。言ったぞ」


「……そうか」


「何だ? 他のやつとも一緒に入ったこともあるのだろう?」


「それはそうだけどさ……」


「今さら何を照れている?」


 ナディアは楽しそうに笑った。


「ふっ、まあいい。今すぐ返事を求めるつもりはない」


「……助かるよ」


「だが、考えておいてくれ」


 そう言うと、ナディアは和真の肩へ軽く身体を寄せた。


「せっかくの二人旅なんだ。俺様は、お前とできるだけ長く一緒にいたい」


「……そうだな」


 和真は少し照れたように笑った。


「俺も、ナディアとゆっくり過ごせたらいいと思ってるよ」


「…………」


 今度はナディアが一瞬だけ言葉を失った。


 だが、それもほんのわずかな間だった。


「……ふっ。いい返事だ」


 余裕を崩さず笑ってみせる。


 しかし、胸の奥では小さな喜びが広がっていた。


(……まったく、この男は)


 自分の気持ちなど知らないくせに。


 こうして何気なく、欲しかった言葉を口にする。


(ますます惚れさせたくなるじゃないか)


 ナディアは小さく笑みを深めた。


     ◇ ◇ ◇


「さて、部屋はいいとして……問題は予約だな」


 和真は画面を切り替え、宿泊プランの一覧を確認した。


「あ、これか」


「何か見つかったのか?」


「ああ。星空ナイトツアーのチケットが付いた宿泊プランがあるみたいだ」


「ほう。それなら別々に手配する手間が省けるな」


「そうだな。提携してる旅館なら、ツアーのチケットも一緒に申し込めるらしい」


 和真は予約内容を確認していく。


 宿泊日は十一月十四日。


 一泊二日。


 大人二名。


 客室露天風呂付きの和室。


 そして、星空ナイトツアー付きの宿泊プラン。


「……あった」


「ん?」


「十四日の空室が一部屋だけ残ってる」


「本当か?」


「ああ。ただ、これが最後みたいだな」


 ナディアは画面を覗き込んだ。


「……なるほど」


 宿泊可能の表示。


 希望していた部屋。


 しかも、星空ツアーも利用できる。


 これほど都合のいい条件はなかなかないだろう。


「和真」


「ん?」


「ここにしよう」


「即決だな」


「何を迷う必要がある?」


「いや、ほかの宿も比較した方がいいかなと思ってさ」


「俺様はこの部屋が気に入った。お前も悪くないと思っているんだろう?」


「まあ、そうだな」


「ならば決まりだ」


 ナディアは自信満々に笑った。


「せっかく見つけた部屋を、迷っている間に取られては面白くないからな」


「……確かに」


 和真は頷いた。


「よし。じゃあ、ここにするか」


「ああ」


 ナディアの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 思い描いていた旅行が、ようやく形になり始めている。


 それが何より嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


「次は夕食の時間だな」


 和真は宿泊プランの詳細を確認しながら呟いた。


「星空ツアーは夜に出かけるから、旅館の夕食と重ならないようにしないと」


「それは困るな。俺様は旅館の料理も楽しみにしているぞ」


「俺もだよ。せっかくなら、ゆっくり食べたいし」


「うむ。その点は重要だ」


 ナディアは真剣な顔で頷いた。


 和真は旅館の案内を読み進める。


「……ああ、なるほど。ツアーに参加する人向けに、食事の時間を調整できるみたいだ」


「ならば問題ないな」


「ただ、送迎の時間も確認した方がよさそうだな。宿から会場まで移動しないといけないし」


「送迎?」


「旅館の近くからツアー会場までバスが出てるんだよ。利用できれば、俺が夜に運転しなくて済む」


「それはいいな」


 ナディアが頷く。


「お前には昼間ずっと運転してもらうんだ。夜くらいはゆっくりしてほしい」


「ありがとうな」


「礼を言われるほどのことではない。俺様も、お前と隣に座って景色を楽しみたいだけだ」


「そうか」


 和真は笑って、予約内容をもう一度確認した。


「念のため、旅館に聞いてみるか」


 そう言うと、掲載されていた番号へ電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、女性の声が聞こえてくる。


「お電話ありがとうございます」


「あ、すみません。十一月十四日の宿泊について確認したいんですが……」


 和真は希望している部屋と、星空ツアー付きのプランについて説明した。


 ナディアは隣で静かに耳を傾ける。


「はい……はい。ああ、そうなんですね」


 和真は時折頷きながら、必要な内容をメモしていく。


「夕食は早めにお願いできるんですね。……はい、送迎バスの予約についても確認したいです」


 しばらくやり取りを続けたあと、和真は小さく笑った。


「分かりました。ありがとうございます」


 電話を切る。


「どうだった?」


 ナディアがすぐに尋ねた。


「ああ、大丈夫そうだ。夕食を早めに用意してもらって、遅めの便でツアーに参加すれば間に合うって」


「なるほど」


「送迎バスも使えるらしい。ただ、そっちは宿の予約を済ませてから手配する形になるみたいだな」


「ならば、先に部屋を押さえよう」


「ああ」


 和真は予約画面に必要事項を入力していく。


 ナディアはその様子を隣から眺めていた。


 名前。


 宿泊日。


 人数。


 夕食の希望時間。


 一つずつ確認していく和真の横顔を、ナディアは何気なく見つめる。


「……和真」


「ん?」


「随分と慣れているんだな」


「何が?」


「旅行の手配だ。宿を探して、予定を組んで、必要なら直接確認もする」


「ああ……まあ、最近は何度も旅行してるからな」


「ふっ、確かにな」


 ナディアは小さく笑った。


「おかげで俺様は助かっているぞ」


「そう言ってもらえると嬉しいよ」


「だが、今回の旅行は俺様の旅行だからな。お前だけに任せるつもりはない」


「分かってるよ」


「何かしてほしいことがあれば言え。遠慮はいらんぞ」


「ああ。その時は頼むな」


 和真が笑う。


 ナディアも微笑み返した。


 そして、和真が入力を終えるのを待った。


「……よし」


 最後の確認画面が表示される。


「これでいいな?」


「問題ない」


「じゃあ、予約するぞ」


「ああ」


 和真が画面に触れる。


 少しの間を置いて、予約完了の表示が現れた。


「……取れた!」


「おお!」


 ナディアが嬉しそうに身を乗り出す。


「本当か?」


「ああ。無事に予約できたぞ」


「ははっ! やったじゃないか!」


 ナディアは満足そうに笑った。


 その声には、普段の彼女よりも少しだけ弾んだ響きがあった。


「これで旅行は決まりだな」


「ああ。あとは送迎バスを手配して、必要なものを準備すれば大丈夫そうだ」


「そうか……」


 ナディアは画面に表示された予約内容を眺めた。


 十一月十四日。


 一泊二日。


 大人二名。


 客室露天風呂付き和室。


 その文字を一つずつ確かめる。


 そして、静かに微笑んだ。


「……楽しみだな、和真」


「ああ、俺も楽しみだよ」


 何気ない返事。


 けれど、ナディアにとってはそれだけで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


「さて、次は服装だな」


 予約を終えた和真が、スマートフォンをテーブルに置いた。


「服装?」


「ああ。十一月の長野は結構寒いからな。特に星空を見る場所は標高も高いし、防寒対策をしないと」


「なるほど」


 ナディアは頷いた。


「確かに、せっかくの星空も寒さで楽しめなければ意味がないな」


「そういうこと。厚手の上着と手袋、それに歩きやすい靴もあった方がいいと思う」


「ふむ。準備しておこう」


「ナディアは寒さに強い方なのか?」


「俺様か? まあ、人間よりは遥かに強いぞ」


「だろうな」


「だが、今回は魔法でどうにかするつもりはない」


「そうなのか?」


「ああ。せっかくお前と旅行するんだ。できるだけ同じように楽しみたい」


「……そっか」


 和真は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、俺もちゃんと準備しないとな」


「そうしてくれ。俺様だけ平気でも、お前が寒さで震えていては困るからな」


「気をつけるよ」


「それに……」


 ナディアは少しだけ声を落とした。


「寒ければ、お前にくっつく口実もできるだろう?」


「……またそういうことを」


「何だ? 嫌なのか?」


「嫌ってわけじゃないけど……」


「ならばいい」


 ナディアは楽しそうに笑った。


「ふっ、今から楽しみだ」


「……まったく」


 和真は苦笑するしかなかった。


 その反応が面白くて、ナディアはさらに笑みを深める。


 だが、ふと何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、和真」


「ん?」


「星空というのは、天候に左右されるんだったな?」


「ああ。晴れてくれればいいんだけど、こればっかりは分からないな」


「そうか……」


 ナディアは少し考えた。


 自分の力を使えば、ある程度は空模様に干渉できるかもしれない。


 だが、そんなことをすれば、せっかくの旅行が台無しになる気がした。


 何より、和真が喜ぶとも思えない。


「……まあ、天気ばかりは仕方ないな」


「そうだな。でも、晴れるといいな」


「ああ」


 ナディアは微笑んだ。


「たとえ曇ったとしても、俺様は構わんぞ」


「え?」


「お前と一緒に出かけられる。それだけでも十分に楽しみだからな」


「……ナディア」


「もちろん、星が見られるに越したことはないが」


 そう言って肩をすくめる。


 和真はしばらく彼女を見つめ、それから柔らかく笑った。


「……そうだな。俺も同じだよ」


「…………」


 ナディアの胸が小さく跳ねた。


 しかし、その動揺を表に出すことはなかった。


「ふっ。ならば問題ない」


 いつもの余裕ある笑みを浮かべる。


 そんな彼女に、和真も笑い返した。


     ◇ ◇ ◇


「……さて、ひとまずこんなところか」


 和真は調べた内容を確認し、スマートフォンを置いた。


「宿も決まったし、観光する場所はまた少しずつ調べればいいな」


「ああ。時間はまだあるからな」


「それじゃ、俺はちょっと飲み物でも取ってくるよ。ナディアも何か飲むか?」


「そうだな。温かい茶を頼む」


「分かった」


 和真が立ち上がり、台所へ向かう。


 その背中を見送ったあと、ナディアはゆっくりと息を吐いた。


「……ふっ」


 自然と笑みがこぼれる。


 思っていた以上に、順調だった。


 旅行先は決まった。


 宿も押さえた。


 しかも、希望していた客室露天風呂付きの和室だ。


 あとは、当日までに準備を整えるだけ。


(……さて)


 ナディアは自分のスマートフォンを取り出した。


 先ほど和真と見ていた旅館の部屋を、もう一度表示する。


 落ち着いた和室。


 柔らかな照明。


 二人きりで過ごす夜。


 画面を見つめながら、ナディアは口元を緩めた。


(あとは……俺様自身の準備だな)


 旅行用の服は当然必要だ。


 だが、それだけでは足りない。


 昼間は和真と観光を楽しむ。


 夜は満天の星空を一緒に眺める。


 そして、旅館に戻ったあと。


 そこからが、ナディアにとっての本番だった。


(今までと同じでは、面白くない)


 ただ抱きつくだけでも、甘えるだけでもない。


 和真の目に、自分を魅力的な女性として映したい。


 普段の自分とは少し違う姿を見せて、あの男を驚かせたい。


 そして。


(できることなら……俺様のことだけを考えてほしいものだな)


 ほんの少しだけ、そんな欲が顔を出した。


 もちろん、ほかの女たちを遠ざけたいわけではない。


 今の暮らしを壊すつもりもなかった。


 それでも、たった一晩くらい。


 和真の心を、自分だけに向けさせたい。


 そんな願いを抱くことまで、我慢する必要はないだろう。


「……ふふっ」


 ナディアは楽しそうに笑った。


「ずいぶんと欲深くなったものだな、俺様も」


 そう呟き、スマートフォンの画面を切り替える。


 そこには、女性用の衣服を扱う通販サイトが表示されていた。


 普段着。


 旅行用の上着。


 そして、夜に着るための衣装。


 ナディアはゆっくりと商品を眺め始めた。


「……さて、何を着てやろうか」


 その声は、どこか楽しげだった。


 かつて、魔王として君臨していた頃。


 自分が誰か一人の男を振り向かせるために、こんなことを考える日が来るなど想像もしていなかった。


 だが、今は違う。


 自分の魅力を磨くことも、好いた相手のために装いを選ぶことも、悪くないと思える。


 何より、その相手が和真なのだから。


「……ふっ。覚悟しておけよ、和真」


 ナディアは小さく微笑んだ。


 その時。


「ナディア、お茶持ってきたぞ」


 台所から和真の声がした。


「ああ、ありがとう」


 ナディアは何事もなかったように画面を閉じた。


 そして、戻ってきた和真へいつもの余裕ある笑みを向ける。


「和真」


「ん?」


「旅行、楽しみにしているぞ」


「ああ。俺もだよ」


「ふっ、そうか」


 和真から温かいお茶を受け取り、ナディアは静かに口をつけた。


 香ばしい香りが広がる。


 隣では、和真が楽しそうに旅行の話を続けていた。


 そんな何気ない時間さえ、今のナディアには愛おしかった。


 だからこそ。


 この旅行を、決して忘れられない二日間にしたかった。


 元魔王の密かな計画は、いよいよ次の段階へ進もうとしていた。


◇


 その日の夜。


 自室へ戻ったナディアは、ベッドに腰を下ろすとスマートフォンを手に取った。


 画面には、昼間から調べていた女性用の衣服を扱う通販サイトが表示されている。


「……さて、ここからが本番だな」


 口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと画面を滑らせる。


 旅行先は決まった。


 宿も申し分ない。


 星空を楽しみ、温泉に入り、美味しい料理を食べる。


 それだけでも十分魅力的な旅行だろう。


 だが、ナディアにはもう一つ、大切な目的があった。


 四ノ宮和真。


 かつて自分を打ち負かし、それでも命を奪わずに手を差し伸べてくれた男。


 あの狭間の世界で、数百年という途方もない時間を過ごしてなお、忘れることのできなかった男。


 そんな相手と、二人きりで旅行に出かけるのだ。


 ただ楽しい思い出を作るだけで終わらせるつもりはない。


「ふっ。今度こそ、俺様に夢中にさせてやる」


 ナディアは自信に満ちた笑みを浮かべた。


 まず必要なのは衣装だ。


 昼間に着る服は、すでにある程度決めている。


 落ち着いた色合いのニットに、身体のラインを美しく見せるロングスカート。


 その上から上品なコートを羽織り、足元には歩きやすいブーツ。


 星空観賞の際には、防寒性の高い上着へ着替えるつもりだった。


 だが、それらはあくまで昼間の装い。


 問題は夜だ。


「……ふむ」


 ナディアは画面を切り替えた。


 そこに並んでいたのは、普段着とはまったく異なる衣装の数々。


 レースをあしらった下着。


 艶やかな生地のネグリジェ。


 大人の女性らしさを引き立てる、優美なデザインのものばかりだった。


「なるほど。この世界には、なかなか興味深いものがあるじゃないか」


 ナディアは楽しそうに笑う。


 魔王だった頃にも、豪華な衣装を身につける機会はあった。


 だが、それらは自分の威厳や立場を示すためのもの。


 誰か一人の男性を振り向かせるために衣装を選ぶなど、考えたこともなかった。


 ましてや、下着にまで気を配ることになるとは。


「……俺様も変わったものだな」


 そう呟きながらも、指を止めるつもりはなかった。


 最初に目に留まったのは、深紅のレースをあしらった下着だった。


 上品さを残しながらも、女性らしい魅力を十分に引き立てるデザイン。


 ナディアは商品画像を拡大し、細部まで確認する。


「……悪くない」


 次に、黒を基調としたもの。


 こちらは落ち着いた雰囲気で、繊細な装飾が施されている。


「こちらも捨てがたいな」


 しばらく比較していたナディアは、やがて小さく笑った。


「……両方用意しておけばいいか」


 迷う必要などなかった。


 どちらを着るかは、当日の気分で決めればいい。


 続いてネグリジェを探し始める。


 最初に選んだのは、黒いサテン生地のものだった。


 細い肩紐に、胸元を飾る繊細なレース。


 腰のラインに沿って柔らかく流れる生地が、落ち着いた大人の色気を感じさせる。


「……ほう」


 ナディアは満足そうに頷いた。


「これなら、あの男も少しは驚くだろう」


 しかし、すぐには購入しなかった。


 ほかにも気になるものがあったからだ。


 ワインレッドのネグリジェ。


 柔らかな光沢を持ち、上品さと華やかさを兼ね備えた一着。


 こちらには薄手のガウンも付属していた。


「……なるほど。こういうものもあるのか」


 ナディアは画面を見つめ、少し考えた。


 最初はガウンを羽織って和真の前に現れる。


 そこで少し話をして、反応を確かめる。


 そして、頃合いを見て――。


「……ふっ」


 思わず笑みがこぼれた。


「これは楽しみになってきたな」


 結局、ネグリジェも二種類購入することにした。


 必要なものを次々とカートへ入れていく。


 そこまで済ませたところで、ナディアはふと手を止めた。


「……いや、まだ足りないな」


 衣装だけで和真を惚れさせられるほど、簡単な話ではない。


 もちろん、自分の容姿には十分な自信がある。


 だが、相手はあの和真だ。


 女性から積極的に迫られても、妙なところで冷静になる。


 かと思えば、こちらが予想もしない優しい言葉を平然と口にしてくる。


「……まったく、厄介な男だ」


 そう言いながら、ナディアの表情は嬉しそうだった。


 簡単に振り向かないからこそ、燃える。


 自分の魅力をすべて使い、それでも足りないなら、さらに工夫すればいい。


 ナディアは検索画面へ戻った。


 香水。


 化粧品。


 髪飾り。


 上品なアクセサリー。


 次々と商品を調べていく。


「香りも重要だな……」


 普段はそれほど香水を使わない。


 だが、今回ばかりは少し違う。


 近づいた時にだけ感じられる、ほのかに甘い香り。


 強すぎず、それでいて印象に残るものがいい。


 いくつかの候補から、落ち着いた花の香りを持つ香水を選んだ。


 さらに、唇に自然な艶を与える化粧品。


 髪を美しく整えるための用品。


 最後に、小ぶりなアクセサリーを選ぶ。


「……よし」


 購入内容を確認したナディアは、満足そうに息を吐いた。


「衣装はこれで十分だろう」


 だが、計画はまだ終わらない。


 むしろ、ここからが重要だった。


     ◇ ◇ ◇


 ナディアはスマートフォンを操作し、予約した旅館の情報を開いた。


 昼間、和真と一緒に決めた宿。


 客室露天風呂付きの和室。


 落ち着いた雰囲気の客室に、二人だけで利用できる露天風呂。


 写真を見る限り、文句のつけようがない。


 しかし。


「……もう少し工夫できそうだな」


 ナディアは顎に手を添えた。


 せっかくの一泊二日。


 できることなら、旅館で過ごす時間も特別なものにしたい。


 そこで目に留まったのが、宿泊客向けの追加サービスだった。


 記念日向けの料理。


 飲み物の手配。


 客室での特別な演出。


「……なるほど」


 ナディアはゆっくりと笑った。


「これは利用しない手はないな」


 すぐに旅館の電話番号を確認する。


 和真が予約した時の内容は覚えている。


 宿泊日も、部屋の種類も、予約者の名前も。


 必要な情報を手元に揃えると、ナディアは電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、女性の声が聞こえてくる。


「お電話ありがとうございます」


「ああ、少し相談したいことがある」


「はい。ご宿泊についてでしょうか?」


「そうだ。十一月十四日に二人で宿泊予約をしたんだが、追加で頼みたいことがあってな」


「かしこまりました。ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


「四ノ宮和真だ」


 ナディアは予約内容を伝え、自分が同行者であることを説明した。


 確認が済むと、電話口の女性が丁寧に応じる。


「ありがとうございます。どのようなご希望でしょうか?」


「まず、食事について聞きたい」


「お食事ですね」


「ああ。夕食は早めに用意してもらう予定だったな?」


「はい。星空観賞へお出かけのお客様には、お時間を調整してご案内しております」


「それは助かる。それで、料理を少し追加したいんだ」


「もちろんでございます。どのようなお料理をご希望でしょうか?」


 ナディアは少し考えた。


 そして、口元に意味ありげな笑みを浮かべる。


「そうだな……精のつく料理がいい」


「精のつくお料理、でございますか?」


「ああ。スッポンや山芋など、滋養のある食材を使ったものを頼みたい」


「スッポンでございますね」


 電話口の女性が少し考えたようだった。


「恐れ入りますが、スッポンは仕入れの確認が必要になります。厨房に相談いたしましょうか?」


「ああ、ぜひ頼む。費用なら心配いらん」


「承知いたしました。ほかにも何かご希望はございますか?」


「実は、もう一つ条件がある」


「はい。何でしょうか?」


「一緒に泊まる男には、それがスッポン料理だと気づかれないようにしてほしいんだ」


「……スッポンだと分からないように、でございますか?」


「ああ。見た目で分かるような料理では困る。できるだけ普通の料理に見えるよう、工夫してもらいたい」


 電話口で、わずかな間が空いた。


「そうですね……それでしたら、スッポンの出汁を使った椀物や、身を細かくほぐして調理した一品などが考えられます」


「ほう」


 ナディアは興味深そうに身を乗り出した。


「それなら、見ただけでは分からないということか?」


「はい。例えば、野菜やきのこと合わせた温かいお椀に仕立てれば、見た目も自然かと存じます」


「いいじゃないか!」


 ナディアは満足そうに笑った。


「では、それを頼みたい」


「かしこまりました。仕入れと調理方法について、料理長に確認いたします」


「ああ。それと、料理の名前にも気を配ってもらえると助かる」


「お料理の名前、でございますか?」


「献立に大きく『スッポン』と書かれていたら、せっかくの工夫が台無しだろう?」


「なるほど。サプライズのお料理ということでございますね」


「そういうことだ」


「それでしたら、『特製滋養椀』などの名前でご案内することはできるかと思います。ただし、食材についてお尋ねがあった場合は、正しくご説明させていただきます」


「それは構わん。食べられないものを無理に出すつもりはないからな」


 ナディアは頷いた。


「ただ、できれば最後まで気づかずに楽しんでもらいたいんだ」


「承知いたしました」


「それと、山芋を使った料理も頼みたい。ほかにも精のつく食材があるなら、料理長に任せよう」


「かしこまりました。信州牛を使った一品などもおすすめできますが、いかがでしょうか?」


「肉料理か。いいな」


 ナディアは少し考えてから続けた。


「それも追加してくれ。せっかくの旅行だ。食事も豪華にしたい」


「ありがとうございます。では、ご希望を厨房へ伝え、対応可能な内容を折り返しご案内いたします」


「ああ、頼んだぞ」


 電話口の女性が丁寧に返事をする。


 ナディアは満足そうに頷いた。


 スッポン。


 山芋。


 信州牛。


 どれも滋養のある食材として知られているらしい。


 もちろん、食べたからといって特別な効果が保証されるわけではない。


 だが、今夜のために料理まで考えていることを、和真は想像もしていないだろう。


(……ふっ。あの男も、まさか料理にまで仕掛けがあるとは思うまい)


 ナディアはひそかに笑みを深めた。


「それと、酒も用意してほしい」


「お飲み物でございますね」


「ああ。ただし、夕食の時ではない」


「と申しますと?」


「星空観賞から戻ったあとだ。部屋でゆっくり飲みたい」


 ナディアは説明を続けた。


 果実酒やワインなど、香りの良いもの。


 それほど量は必要ない。


 二人で少しずつ楽しめる程度で十分だった。


「お部屋でお召し上がりになるお飲み物ですね。ご希望に合わせてご用意できます」


「そうか。ならば、甘すぎない果実酒と、軽くつまめるものを頼む」


「かしこまりました」


「ああ、それと酒が苦手な者でも楽しめる飲み物も用意してくれ」


「承知いたしました」


 和真が必ず酒を飲むとは限らない。


 ましてや、無理に飲ませるつもりなどなかった。


 大切なのは、二人で落ち着いて過ごせること。


 酒は、その時間を楽しむための一つにすぎない。


「……さて」


 ナディアは小さく笑った。


「次は寝具についてだ」


「お布団でございますか?」


「ああ。部屋には二人分の布団を敷くんだったな?」


「はい。通常はお一人様につき一組ずつご用意いたします」


「そうか。ならば、一組だけにしてくれ」


「……一組、でございますか?」


「ああ」


 ナディアは迷いなく答えた。


「できれば、二人でも使える広めのものがいい」


 電話口で、わずかな間が空いた。


「……お二人で、一組のお布団をご利用になるということでしょうか?」


「そのつもりだ」


「かしこまりました。寝具の種類を確認いたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか」


「ああ、構わん」


 短い保留音が流れる。


 ナディアは椅子に深く腰掛け、楽しそうに微笑んだ。


(……これで、あとは和真次第だな)


 もちろん、本人が嫌がるなら無理に一緒に寝るつもりはない。


 だが、最初から二組用意されているより、一組の方が自然に誘えるだろう。


 それに、和真がどんな反応をするのかも楽しみだった。


「お待たせいたしました」


 電話口から声が戻ってきた。


「少し幅の広いお布団をご用意できます。ただ、もし窮屈でしたら追加のお布団もすぐにお持ちできます」


「それで構わん。まずは一組で頼む」


「かしこまりました」


「ふっ、助かる」


 ナディアは満足そうに頷いた。


 これで、料理と酒に加え、寝具の手配も整った。


 だが、彼女の注文はまだ終わらなかった。


「最後に、もう一つ頼みたい」


「はい。何でしょうか?」


「部屋に香りを用意してもらうことはできるか?」


「香り、でございますか?」


「ああ。お香のようなものだ。落ち着いた、少し甘い香りがいい」


「お香ですね。少々お待ちください」


 再び確認が行われる。


 やがて、女性が説明してくれた。


 客室内では安全上の理由から、自由にお香を焚くことはできない。


 ただし、旅館側で用意している火を使わない香りの演出なら対応できるという。


「なるほど。それなら問題ない」


「白檀を基調とした、落ち着いた香りのものがございます」


「ほう。いいじゃないか」


「香りの強さも調整できますが、いかがなさいますか?」


「ほのかに香る程度で構わん。強すぎるのは好みではない」


「かしこまりました」


 ナディアは満足そうに息を吐いた。


「それと、追加料金については俺様が支払う。同行者への請求には含めないでくれ」


「承知いたしました」


「できれば当日まで本人には内緒にしておきたいんだ」


「サプライズでのご利用ですね」


「ああ。少し驚かせてやりたくてな」


「かしこまりました。ご到着時に確認が必要な場合は、お客様ご本人へご案内いたします」


「助かる」


 その後、追加料金や連絡先を確認し、ナディアは電話を切った。


 しばらくして、厨房から折り返しの連絡があった。


 幸いにもスッポンの手配が可能で、希望していた椀物も用意できるという。


 ナディアは詳しい内容を確認すると、正式に追加注文をお願いした。


 これで、料理の心配もなくなった。


「……ははっ!」


 通話を終えたナディアは、思わず笑い声を漏らした。


「我ながら、ずいぶんと気合いが入っているじゃないか!」


 衣装。


 香水。


 精のつく料理。


 酒。


 寝具。


 部屋の香り。


 思いつく限りの準備は整えた。


 あとは旅行当日を迎えるだけだ。


「……和真」


 ナディアは小さく名前を呼んだ。


 今頃、あの男は何をしているのだろう。


 きっと、いつも通り皆と過ごしているに違いない。


 自分がこんな計画を立てていることなど、想像もしていないはずだ。


「ふっ。楽しみにしていろよ」


 ナディアは不敵に微笑んだ。


「今回ばかりは、簡単に逃がすつもりはないからな」


 もちろん、本当に逃げ道を塞ぐつもりなどない。


 ただ、それほどまでに自分を意識させたい。


 目を逸らせなくなるくらい。


 触れたいと思ってもらえるくらい。


 そして、できることなら。


 自分と同じように、もっと深く想ってもらいたかった。


     ◇ ◇ ◇


 数日後。


 ナディアの部屋には、通販で注文した品々が届いていた。


 箱を開け、一つずつ中身を確認していく。


「……よし。すべて揃ったな」


 まずは旅行用の服。


 続いて香水や化粧品。


 そして最後に、丁寧に包まれた小さな箱を開けた。


 中には、深紅のレースをあしらった下着が収められていた。


「……ふむ」


 ナディアはそれを手に取り、鏡の前へ移動する。


 身体に当て、色合いを確認する。


「悪くないな」


 続いて、黒いネグリジェを取り出した。


 柔らかな生地を広げ、全体の形を確かめる。


 鏡の前で軽く合わせてみると、自然と口元が緩んだ。


「……なるほど。これはなかなかだ」


 そのまま試着してみることにした。


 着替えを終え、改めて鏡の前へ立つ。


 艶やかな黒い生地。


 華奢な肩紐。


 落ち着いた光沢と、繊細なレース。


 普段の衣装とはまったく違う雰囲気だった。


 ナディアは軽く身体の向きを変え、鏡に映る姿を確かめる。


「……ふっ」


 満足そうに微笑んだ。


 だが、ふと考える。


(……和真は、こういうものをどう思うのだろうな)


 自分の容姿には自信がある。


 それでも、和真が気に入るかどうかは別の話だ。


 派手すぎるだろうか。


 それとも、もう少し落ち着いたものの方がいいのだろうか。


「…………」


 そこで、ナディアは思わず苦笑した。


「まったく。俺様がこんなことで悩むとはな」


 相手の好みに合わせようと、あれこれ考える。


 かつて魔王として君臨していた自分からは、想像もできない姿だ。


 だが、不思議と嫌な気分ではなかった。


 むしろ楽しい。


 和真が驚く顔を想像するだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。


「……まあ、いい」


 ナディアは鏡に映る自分を見つめた。


「俺様が気に入っているんだ。堂々と着ればいい」


 そう呟いてから、もう一度微笑む。


 そして、少しだけ声を落とした。


「……それに、お前にも気に入ってもらえたら嬉しいからな」


 誰もいない部屋に、その言葉が静かに響いた。


 普段なら、決して口にしないような素直な願い。


 ナディアは小さく息を吐くと、ネグリジェを脱ぎ、丁寧に畳んだ。


 衣装は旅行用の鞄へ。


 下着は中身の見えない袋に入れ、ほかの荷物とは分けてしまう。


 香水や化粧品も忘れずに。


 最後に荷物を確認し、鞄を閉じた。


「……これで準備は完了だな」


 ナディアはベッドの端へ腰掛けた。


 あとは旅行の日を迎えるだけ。


 窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。


 少しずつ夜の色へ変わっていく空を見つめながら、ナディアは静かに微笑む。


 あの狭間の世界には、こんな夕暮れさえ存在しなかった。


 昼も夜もない。


 朝が来ることもなければ、日が沈むこともない。


 ただ、果てしなく続く静寂だけがあった。


 その中で、何度も思い浮かべた男の顔。


 もう一度会えたなら。


 もう一度、言葉を交わせたなら。


 そう願い続けた相手が、今では同じ家で暮らしている。


 しかも、二人きりで旅行に出かける約束までしているのだ。


「……本当に、分からないものだな」


 ナディアは小さく笑った。


 あれほど長い時間を過ごしても手に入らなかったものが、今はすぐそばにある。


 だからこそ、欲が出る。


 もっと一緒にいたい。


 もっと触れたい。


 もっと自分を見てほしい。


 そしていつか、和真の方から自分を求めてくれる日が来てほしい。


「……ふっ」


 ナディアは立ち上がった。


「待っているだけでは、何も変わらないからな」


 その表情には、いつもの自信に満ちた笑みが戻っていた。


「覚悟しておけよ、和真」


 窓の向こうには、最初の星が小さく輝いていた。


「俺様は、今度こそお前を惚れさせるぞ」


     ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 母屋の台所では、酒菜が夕食の準備を進めていた。


「……よし、あとは煮込むだけか」


 鍋の蓋を閉め、火加減を調整する。


 すると、廊下の方から足音が聞こえてきた。


「……酒菜、ちょっといい?」


「ん? フェンリスか。どうした?」


 入口に立っていたのは、フェンリスだった。


 酒菜が振り返ると、フェンリスは軽く手を上げた。


「ご飯のことで、ちょっと話があるんだけど」


「飯?」


「うん。しばらく僕の分は作らなくていいから」


 酒菜の手が止まった。


「……何だって?」


「だから、しばらくご飯はいらないってこと」


「朝も夜もか?」


「うん。自分でなんとかするから」


 酒菜は少し眉を寄せた。


「……お前、ちゃんと食ってんだろうな?」


「大丈夫だよ。心配しなくても」


「本当か?」


「本当だって」


 フェンリスは軽く笑ってみせた。


「せっかく作ってもらっても、食べられないと悪いしさ」


「……まあ、そういうことなら分かった」


 酒菜は鍋へ視線を戻した。


「ただし、飯が必要になったら遠慮なく言えよ。余分に作るくらい、大した手間じゃねえんだから」


「うん。ありがとう、酒菜」


「おう」


 短いやり取りを終え、フェンリスは母屋を出ようとした。


 その時だった。


「……ん?」


 テーブルの端に、小さなものが置かれていることに気づいた。


 スマートフォンだった。


「……これ、誰のだろ?」


 フェンリスは近づき、手に取った。


 見覚えのあるケース。


 間違いない。


「……ピピのか」


 そう呟いた時、通知が届き、画面が明るくなった。


 そして。


「…………え?」


 フェンリスの手が止まった。


 画面に映っていたのは、一枚の写真だった。


 楽しそうに笑うピピ。


 その隣にいる和真。


 そして。


 ピピの頬へ、優しく唇を寄せている和真の姿。


「…………」


 フェンリスは、しばらく動かなかった。


 大きく開かれた瞳が、画面に釘付けになる。


 何度か瞬きをしたあと、もう一度写真を確かめる。


 見間違いではない。


 和真が、ピピにキスをしている。


「……そっか」


 小さな声が漏れた。


 画面を見つめていたフェンリスの表情から、驚きがゆっくりと消えていく。


 代わりに浮かんだのは、どこか寂しげな笑みだった。


 だが、それも長くは続かなかった。


「……あれ? 僕のスマホ!」


 廊下から明るい声が聞こえてきた。


 ピピだった。


 母屋に戻ってきたピピは、フェンリスの手にあるスマートフォンを見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「フェンリス! それ、僕の!」


「……うん。テーブルに置いてあったよ」


「よかったあ! どこに置いたか忘れちゃって!」


 ピピは両手を伸ばした。


 フェンリスは画面を消し、スマートフォンを差し出す。


「はい。今度はなくさないようにね」


「うん! ありがとう!」


 ピピは嬉しそうに受け取った。


 そして、画面を見て笑う。


「あ! この写真、見た?」


「……うん。ちょっとだけ」


「えへへ! これね、カズマとの旅行で撮ったんだ!」


「……そうなんだ」


「キャストのお姉さんに撮ってもらったの!」


 ピピは嬉しそうに画面を見せる。


「カズマが僕にチューしてくれたんだよ!」


「…………」


 フェンリスは一瞬だけ目を伏せた。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「……そっか。よかったね、ピピ」


「うん!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「僕、すっごく嬉しかったんだ!」


「……うん。写真を見れば分かるよ」


「えへへ!」


 ピピは照れくさそうに笑った。


 そんなピピを見つめながら、フェンリスも小さく微笑んだ。


「……楽しい旅行だったんだね」


「うん! すっごく楽しかった!」


「そっか」


 フェンリスは頷く。


「……いい思い出ができて、よかったね」


「うん!」


 ピピはスマートフォンを大事そうに抱えた。


「今度はなくさないようにする!」


「そうしてね」


 フェンリスが小さく笑うと、ピピも笑い返した。


「じゃあ、僕、戻るね!」


「うん」


「フェンリス、またね!」


「……またね、ピピ」


 ピピは元気よく手を振り、廊下の向こうへ駆けていった。


 その後ろ姿を見送るフェンリス。


 しばらくして、酒菜が声をかけた。


「フェンリス?」


「……ん?」


「どうした? 帰るんじゃなかったのか?」


「あ……うん。そうだった」


 フェンリスは軽く笑った。


「じゃあ、酒菜。さっきのご飯のこと、よろしくね」


「ああ。分かった」


「ありがとう」


 そう言って、フェンリスは母屋を出ていった。


 酒菜はその背中を少しの間見送ったが、やがて鍋の方へ向き直った。


 外はすっかり暗くなり始めている。


 夕食の支度が整う頃には、いつもの賑やかな声がまた母屋に集まってくるだろう。


 ピピはきっと、旅行の思い出を何度でも楽しそうに話す。


 ナディアもまた、間近に迫った和真との旅行を心待ちにしている。


 それぞれの想いを抱えながら、今日もいつもの一日が過ぎていく。


 ただ、フェンリスが母屋を出る直前に見せた、ほんの一瞬の寂しげな表情。


 そのことに気づいた者は、誰もいなかった。

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