第三十八話 もう一枚、特別な写真
カーテンの隙間から差し込む朝日が、ホテルの部屋を柔らかく照らしていた。
「……んぅ」
小さな声とともに、ピピが身じろぎする。
背中に感じる温もりと、お腹の前に回された腕。
目を開けたピピは、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
やがて、昨夜のことを思い出す。
カズマと一緒にお風呂に入った。
そのあと、同じベッドで眠った。
しかも、カズマに後ろから抱きしめてもらいながら。
「……えへへ」
思わず頬が緩んだ。
ピピは自分のお腹に回されている和真の腕に、そっと両手を重ねる。
人間の手。
指が五本あって、こうして誰かの手に触れることができる。
以前の自分には、できなかったことだ。
リディアが作ってくれた技術のおかげで、今は普通の人間と同じように触れ合える。
そして、その手で大好きな人の腕を握っている。
「……カズマ」
「……ん」
「起きてる?」
「……まだ寝てる」
「起きてるじゃん!」
ピピが笑うと、背中から小さなため息が聞こえた。
「おはよう、ピピ」
「おはよう!」
「よく眠れたか?」
「うん! すっごく!」
そう答えたピピは、和真の腕を抱えたまま身体を横へ向けた。
至近距離で目が合う。
「カズマは?」
「俺もよく眠れたよ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、今日も一緒に寝る?」
「今日は帰る日だろ」
「えー!」
ピピが不満そうに頬を膨らませる。
「帰っても一緒に寝ればいいじゃん!」
「みんなもいるんだから、そう簡単にはいかないって」
「むぅ……」
しばらく考え込んでいたピピだったが、突然何かを思いついたように顔を上げた。
「じゃあ、また旅行に行こう!」
「もう次の旅行か?」
「うん! また二人で!」
「そうだな。また予定が合えば行こうか」
「やったぁ!」
嬉しそうに抱きついてくるピピを、和真は笑いながら受け止めた。
そのまま数分ほど、二人はベッドの中でのんびりと過ごした。
しかし、今日はまだ旅行の二日目。
昨日とは違う、もう一つの夢の国が待っている。
「ほら、そろそろ起きよう。今日はディズニーシーだぞ」
「……ディズニーシー!」
その言葉を聞いた瞬間、ピピが勢いよく起き上がった。
「カズマ! 早く! 早く行こう!」
「さっきまで寝てたかったんじゃないのか?」
「それはそれ! これはこれ!」
「はいはい」
和真も身体を起こし、ベッドから足を下ろした。
昨日あれほど歩いたというのに、ピピの元気は朝から少しも衰えていない。
今日も賑やかな一日になりそうだった。
◇
朝食を済ませた二人は、荷物をまとめてホテルを出た。
ピピは昨日とは違う、白いブラウスに淡い水色のスカートを合わせた服装だった。
足元は歩き慣れたスニーカー。
緑色の髪を軽く整え、いつものヘッドホンを首にかけている。
「カズマ! どう? 今日の僕!」
「うん。よく似合ってるよ」
「ほんと!?」
「ああ。昨日の服もよかったけど、今日のも可愛いな」
「えへへへ!」
ピピは嬉しそうにその場で一回転した。
スカートがふわりと広がる。
「リディアがね、二日目はこっちがいいんじゃないかって選んでくれたんだ!」
「さすがリディアだな」
「帰ったら、カズマが可愛いって言ってくれたって教える!」
「そこまで報告しなくてもいいんだけどな」
「えー? なんで?」
「……いや、いいよ」
和真が苦笑すると、ピピは不思議そうに首を傾げた。
ホテルに荷物を預けてから、二人はディズニーリゾートラインに乗り込んだ。
窓の外を流れる景色を眺めながら、ピピは何度も和真の袖を引っ張る。
「カズマ! あれ昨日のところ?」
「そうだな。あっちがディズニーランド」
「じゃあ、今日は反対側?」
「そう。海をテーマにしたところだよ」
「海!」
ピピの目が輝いた。
「海なら飛べる!?」
「飛ばないからな」
「まだ何も言ってないよ!?」
「言っただろ」
「えへへ!」
悪びれる様子もなく笑うピピに、和真もつられて笑ってしまう。
やがて目的の駅へ到着し、二人は人の流れに合わせて歩き始めた。
入園ゲートを抜けると、目の前には昨日とはまったく違う光景が広がっていた。
「……わぁ」
ピピが立ち止まる。
目の前にある大きな地球儀。
その向こうには、異国の街を思わせる建物が並んでいる。
さらに進めば、広々とした水辺と、遠くにそびえる火山が見えてきた。
「すごい……!」
ピピは両手を胸の前で握りしめた。
「カズマ! ここ、すっごい!」
「昨日とは雰囲気が違うだろ?」
「うん! なんか、本当に別の世界に来たみたい!」
その言葉に、和真は少し笑った。
「ピピは本当に別の世界から来てるけどな」
「あっ、そうだった!」
二人で笑い合う。
ピピは周囲を見渡しながら、和真の手を握った。
「ねえ、カズマ」
「ん?」
「今日は僕が案内してもいい?」
「道、わかるのか?」
「わかんない!」
「おいおい」
「でも、行きたいところはいっぱいあるよ!」
そう言いながら、ピピはスマートフォンを取り出した。
画面には、昨夜ホテルで調べていたディズニーシーの地図が表示されていた。
「これ! これに乗りたい!」
指差したのは、空を飛ぶような体験ができるアトラクションだった。
「ソアリンか」
「そう! これ!」
「よし、じゃあ行ってみよう」
「やったー!」
ピピは和真の手を引き、元気いっぱいに歩き出した。
ただし。
「ピピ、そっちじゃない」
「えっ!?」
「反対」
「……カズマが案内して!」
「最初からそう言ってくれ」
旅行二日目も、相変わらずの調子で始まった。
◇
「すっごかったぁぁぁ!」
ソアリンを体験したピピは、出口を出るなり両手を広げた。
「カズマ! 僕、空飛んだ!」
「ピピならいつも飛んでるだろ」
「違うの!」
ピピは勢いよく首を振った。
「僕が飛ぶときは、自分の翼で飛ぶでしょ? でも、さっきのは違った!」
「ああ、確かにそうだな」
「山の上も! 海の上も! すっごく高いところも!」
次から次へと言葉が飛び出してくる。
「風も気持ちよかったし、あんなにいろんな場所を飛べるなんて!」
「楽しそうだったな」
「うん! それにね!」
「何だ?」
「カズマと一緒に飛べた!」
ピピは満面の笑みを浮かべた。
「僕、いつかカズマと一緒に空を飛んでみたかったんだ!」
「ピピの背中に乗せてもらうのか?」
「うん!」
「それはちょっと難しそうだな」
「じゃあ、足で掴んで飛ぶ!」
「それはもっと怖い」
「あははは!」
ピピは楽しそうに笑った。
「でも、さっきのもよかった! カズマと一緒だったから!」
そう言って、繋いでいた手を嬉しそうに揺らした。
和真もその手を軽く握り返す。
「楽しめたならよかったよ」
「うん!」
それから二人は、メディテレーニアンハーバーの街並みを眺めながら歩いた。
石畳の道。
異国情緒のある建物。
水路には小さな船が浮かんでいる。
「……あっ!」
ピピが突然立ち止まった。
「カズマ! あれ!」
「ん?」
「あの船! 乗れるの!?」
ピピが指差した先には、細長い船に乗って水路を進む人たちがいた。
「ヴェネツィアン・ゴンドラだな。乗れるぞ」
「乗りたい!」
「じゃあ、行ってみるか」
「やったぁ!」
ゴンドラへ乗り込むと、ピピは座席から身を乗り出しそうになりながら水面を眺めていた。
「ピピ、落ちないようにな」
「大丈夫!」
「本当か?」
「もし落ちても泳げるもん!」
「そういう問題じゃないんだよ」
和真は苦笑しながら、ピピの手を軽く引いた。
やがて船が静かに動き始める。
水面に広がる波紋。
建物の間を流れる風。
水路に架かった橋の下を通るたび、景色が少しずつ変わっていく。
「……わぁ」
ピピは先ほどまでとは違い、静かに景色を眺めていた。
「カズマ」
「ん?」
「こういうのもいいね」
「そうだな。のんびりできる」
「僕ね、空を飛んでるときは、いつも速く飛びたくなるんだ」
「ピピらしいな」
「でも、こうやってゆっくり進むのも楽しい!」
ピピは水面に映る建物を眺める。
「僕、今度はカズマと一緒に船で旅行したい!」
「船か。いいな」
「大きな船!」
「それなら客船とかか?」
「うん! 海の上で寝るの!」
「船酔いしなければいいけどな」
「僕、酔わないよ!」
「本当か?」
「……たぶん!」
「そこは自信持ってくれよ」
和真が笑うと、ピピも声を上げて笑った。
やがてゴンドラが橋の下へ差しかかる。
少し暗くなったところで、ピピが和真の肩に頭を寄せた。
「……カズマ」
「どうした?」
「こうしてると、なんだか二人だけみたいだね」
周囲にはほかの乗客もいる。
もちろん、二人だけというわけではない。
それでもピピは、和真の隣に座っていられることが嬉しかった。
「そうだな」
和真は小さく笑い、ピピの頭を軽く撫でた。
すると、ピピは嬉しそうに目を細める。
「また乗りたいなぁ」
「機会があればな」
「約束!」
ピピは和真の手を握り、満足そうに笑った。
◇
ゴンドラを降りた二人は、アメリカンウォーターフロントへ向かった。
大きな船が停泊しているのを見つけたピピが、また目を輝かせる。
「カズマ! あれ、すっごく大きい!」
「あれはS.S.コロンビア号だよ」
「乗れるの!?」
「中に入れるところもあるぞ。面白いものがあるらしい」
「行こう!」
ピピに引っ張られるようにして向かった先は、タートル・トークだった。
海底展望室を思わせる空間に入ると、ピピは興味津々で辺りを見回した。
「……カズマ」
「ん?」
「ここ、水の中なの?」
「そういう設定の場所だよ」
「へぇー!」
やがて、ウミガメのクラッシュが姿を現す。
そして、そのウミガメが人間たちに話しかけ始めた。
「……しゃべった!」
ピピが驚いて和真の腕を掴む。
「カズマ! カメがしゃべった!」
「そうだな」
「どうやってるの!?」
「それは……まあ、すごい技術なんだろうな」
「すごーい!」
目を輝かせるピピ。
やがて観客から質問を受け付ける場面になると、ピピは勢いよく手を上げた。
「はーい! はーい!」
「ピピ、そんなに手を振らなくても……」
「だって、聞きたいことあるもん!」
すると、運よくピピが指名された。
「やった!」
ピピは嬉しそうに立ち上がる。
「僕ね、空を飛ぶのが大好きなんだ!」
その言葉に、和真が思わず横を見る。
だが、ピピは気にせず続けた。
「クラッシュは海の中を泳ぐのが好き?」
クラッシュから楽しげな答えが返ってくる。
「じゃあ、海の中から見る空ってどんな感じ?」
その質問にも、クラッシュは面白おかしく答えてくれた。
周囲から笑い声が上がり、ピピも声を出して笑った。
アトラクションを終えて外へ出る頃には、ピピはすっかりクラッシュが気に入っていた。
「カズマ! すっごく面白かった!」
「そうだな」
「僕もクラッシュと一緒に泳いでみたい!」
「海の中は結構大変だと思うぞ」
「大丈夫! 泳げるから!」
「息はどうするんだよ」
「……あっ!」
ピピは目を丸くした。
「ずっと潜ってたら苦しいね!」
「今気づいたのか?」
「あははは!」
そんな会話をしながら歩いていると、今度はひときわ大きな建物が目に入った。
タワー・オブ・テラーだった。
「カズマ! あれは!?」
「あれは……結構怖いアトラクションだぞ」
「怖いの!?」
「ああ。急に落ちたりする」
「落ちる!?」
「そう」
ピピはしばらく建物を見上げていた。
そして。
「……乗りたい!」
「やっぱりか」
「だって、面白そう!」
和真は苦笑しながら案内を確認した。
待ち時間はそれなりに長い。
「結構並ぶけど、どうする?」
「並ぶ!」
「即答だな」
「カズマと一緒なら待つのも楽しいもん!」
結局、二人は列へ並ぶことになった。
待っている間も、ピピは建物の内装や飾られた品々に夢中だった。
そして、いよいよアトラクションへ。
座席に座ると、ピピは隣の和真の手をぎゅっと握った。
「カズマ!」
「ん?」
「楽しみ!」
「怖くなっても知らないぞ」
「大丈夫!」
その直後だった。
突然、身体がふわりと浮くような感覚。
「……っ!」
次の瞬間。
「きゃああああああっ!」
ピピの大きな悲鳴が響いた。
和真も思わず声を上げる。
落下する感覚。
一瞬だけ見える外の景色。
そして、再び上下する座席。
「カズマぁぁぁ!」
ピピは和真の腕にしがみつきながら叫んでいた。
ようやくアトラクションが終わった頃には、二人とも少し放心していた。
「……ピピ、大丈夫か?」
「…………」
「ピピ?」
「……っ!」
ピピが勢いよく顔を上げる。
「すっごかったぁぁぁ!」
「……元気だなぁ」
「びっくりした! めちゃくちゃびっくりした!」
「あれだけ叫んでたからな」
「だって、急に落ちるんだもん!」
「そういうアトラクションだからな」
「でも、また乗りたい!」
「俺は少し休みたいかな……」
和真が苦笑すると、ピピは楽しそうに笑った。
「じゃあ、次は怖くないのにしよう!」
「助かるよ」
しかし、その笑顔を見ていると、結局また付き合ってしまいそうだと和真は思った。
◇
その後、二人はディズニーシー・トランジットスチーマーラインにも乗った。
水上を進む船から眺める景色は、歩いているときとはまったく違っていた。
「カズマ! 見て! あっちにも船!」
「そうだな」
「あっちは何!?」
「建物の形が変わってるな」
「すごーい!」
船の上でも、ピピは忙しそうだった。
右を見て、左を見て、スマートフォンで写真を撮る。
そして、気に入った景色を見つけるたびに和真を呼ぶ。
「カズマ! 写真!」
「はいはい」
「こっち向いて!」
カシャッ。
「もう一枚!」
カシャッ。
「今度は変な顔!」
「なんでだよ」
「いいから!」
結局、和真が少しおどけた顔をすると、ピピは声を上げて笑った。
「カズマ、変な顔!」
「ピピがやれって言ったんだろ」
「あははは!」
ピピは写真を見返しながら、嬉しそうに笑っていた。
やがて二人はマーメイドラグーンへ。
色鮮やかな海底世界を思わせる空間に入った瞬間、ピピは足を止めた。
「……わぁぁ」
頭上には海の生き物を模した飾りが広がり、幻想的な光が辺りを照らしている。
「カズマ! ここ、すっごく綺麗!」
「本当に海の中にいるみたいだな」
「うん!」
ピピは何度も上を見上げながら歩いた。
「カズマ! あれ見て!」
「ん?」
「あのお魚! 可愛い!」
「本当だな」
「こっちも!」
ピピはあちらこちらを指差している。
その様子を見て、和真はスマートフォンを取り出した。
夢中で周囲を眺めるピピの後ろ姿を、一枚撮影する。
カシャッ。
「……あっ!」
ピピが振り返った。
「カズマ! 今撮った?」
「ああ」
「もう! 撮るなら言ってよ!」
「ごめんごめん。楽しそうだったから」
「……見せて!」
和真が画面を見せると、ピピはじっと写真を見つめた。
そこには、幻想的な光に照らされながら、楽しそうに周囲を眺めるピピの姿が写っていた。
「……これ、好き」
「そうか?」
「うん!」
ピピは嬉しそうに笑った。
「カズマが僕を撮ってくれたんだもん!」
その言葉に、和真も自然と頬を緩めた。
「じゃあ、あとで送るよ」
「絶対だよ!」
その後も二人は、海底世界を思わせる空間を楽しんだ。
アトラクションに乗り、写真を撮り、気になる飾りを見つけては立ち止まる。
ピピがあまりにも楽しそうなので、和真も時間を忘れて付き合っていた。
◇
昼食はアラビアンコーストで取ることにした。
異国情緒のある建物に囲まれた場所へ来た途端、ピピは再び興味津々になっていた。
「カズマ! ここもすごいね!」
「ああ。街並みまで凝ってるな」
「なんだか冒険してるみたい!」
ピピは周囲を見回しながら楽しそうに歩く。
レストランでは、二人ともカレーを注文した。
「いただきまーす!」
ピピはスプーンを手に取り、一口食べる。
「……んっ!」
「どうした?」
「おいしい!」
「よかったな」
「カズマ! カズマも食べて!」
「俺も同じの頼んでるよ」
「そうだった!」
自分の皿と和真の皿を見比べて、ピピは照れたように笑った。
食事を進めながら、二人は午前中に撮った写真を見返した。
アトラクションの入口で撮ったもの。
船の上で撮ったもの。
ピピが和真に変な顔をさせた写真。
「……あははは!」
ピピがまた笑い出す。
「これ、やっぱり面白い!」
「もうその写真はいいだろ」
「だって、カズマがこんな顔するんだもん!」
「ピピに言われたからだろ」
「僕、この写真も大好き!」
ピピは嬉しそうに写真を保存する。
その様子を見ながら、和真はふと尋ねた。
「ピピは写真を撮るの、好きになったな」
「うん!」
「前はあまり興味なかっただろ?」
「だって、前は写真を撮る手がなかったもん」
「……そうだったな」
ピピはスプーンを置くと、自分の両手を見つめた。
指を開いたり閉じたりして、嬉しそうに笑う。
「今はいっぱい撮れるし、カズマの手も握れるし、ご飯もスプーンで食べられる!」
「リディアに感謝しないとな」
「うん! 帰ったらいっぱいお礼言う!」
そこでピピは、少しだけ声を落とした。
「……ねえ、カズマ」
「どうした?」
「僕ね、前の身体も好きだよ」
「うん」
「空を飛べるし、すっごく速いし!」
ピピは誇らしそうに胸を張った。
「でもね、今の身体も好き!」
そして、テーブルの上に置かれていた和真の手へ、自分の手を重ねる。
「こういうこと、いっぱいできるから」
和真はその手を見下ろし、穏やかに笑った。
「そうだな」
「えへへ!」
ピピは嬉しそうに指を絡めた。
しばらくして食事を終えた二人は、午後の散策へと出発した。
◇
「カズマ! 今度はあれ!」
ピピが指差したのは、シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジだった。
「船に乗って冒険するみたいだな」
「冒険!?」
「ああ」
「行こう!」
船に乗り込んだピピは、次々に現れる景色に夢中になった。
巨大な鳥。
不思議な生き物。
宝物が眠るような場所。
そして、冒険を続けるシンドバッドと小さなトラのチャンドゥ。
「カズマ! あの猫!」
「チャンドゥだな」
「可愛い!」
ピピは嬉しそうに指差した。
「あの子、ずっと一緒に冒険してるんだね!」
「そうみたいだな」
「いいなぁ!」
ピピは目を輝かせる。
「僕もカズマと一緒に冒険したい!」
「今も旅行中だろ?」
「そうだけど、もっとすごい冒険!」
「例えば?」
「山を越えて! 海を越えて! 宝物を探すの!」
「ずいぶん大冒険だな」
「うん!」
しばらくすると、ピピは流れてくる音楽に合わせて小さく身体を揺らし始めた。
歌うことが好きなピピにとって、音楽に包まれる時間も楽しいものだった。
「……いい歌」
ピピが小さく呟く。
「気に入ったか?」
「うん!」
「帰ったら、みんなにも教えてやるといいよ」
「そうする!」
船を降りたあとも、ピピは覚えたばかりのメロディーを口ずさんでいた。
和真はその隣を歩きながら、楽しそうに歌うピピの声に耳を傾けていた。
やがて二人は、ファンタジースプリングスへと向かった。
◇
「……えっ!?」
新たなエリアへ足を踏み入れた瞬間、ピピが立ち止まった。
「カズマ……ここ……!」
目の前に広がるのは、まるで物語の世界をそのまま再現したような光景だった。
岩肌には不思議な形が浮かび、奥へ進むと美しい建物や自然が広がっている。
「すごい……!」
ピピは何度も周囲を見回した。
「カズマ! ここ、ほんとに魔法の世界みたい!」
「そうだな」
「僕のいた世界とも違う!」
ピピは嬉しそうに駆け出しかけた。
しかし、すぐに振り返る。
「カズマ!」
「ん?」
「手!」
そう言って、自分の手を差し出してきた。
「迷子になったら困るから!」
「迷子になるのはピピだろ」
「カズマかもしれないよ!」
「俺か?」
「うん!」
和真は笑いながら、その手を握った。
「じゃあ、離さないでくれよ」
「任せて!」
ピピは元気いっぱいに頷いた。
まず二人が向かったのは、ピーターパンのネバーランドアドベンチャーだった。
「空を飛ぶ冒険だって!」
案内を見たピピが目を輝かせる。
「また飛べるの!?」
「そうみたいだな」
「やったぁ!」
アトラクションが始まると、ピピはすぐに夢中になった。
ピーターパンたちと一緒に冒険し、海賊たちが現れ、目の前には次々と不思議な光景が広がっていく。
「わぁぁ!」
ピピは何度も歓声を上げた。
普段から空を飛ぶことのできるピピだったが、こうして物語の中を冒険するのは初めての体験だった。
アトラクションを終えて外へ出た頃には、ピピはすっかり興奮していた。
「カズマ! 僕、ピーターパンと友達になりたい!」
「気が合いそうだな」
「うん! 一緒に空飛んで遊ぶ!」
「なんだか一日中遊んでそうだ」
「絶対楽しいよ!」
ピピは嬉しそうに笑う。
「カズマも一緒ね!」
「俺も?」
「もちろん!」
そのあと、二人はラプンツェルの森へ向かった。
高くそびえる塔を見上げたピピは、またしても足を止める。
「……高い!」
「そうだな」
「僕だったら、あそこまでひとっ飛びなのに!」
「ここでは飛ばないからな」
「わかってるよ!」
ピピは頬を膨らませたものの、すぐに笑顔へ戻った。
そして二人は、ラプンツェルのランタンフェスティバルへ乗ることになった。
小さなボートが静かに進み始める。
やがて、幻想的な光景が目の前に広がった。
「……わぁ」
ピピが小さく声を漏らす。
たくさんのランタンが、温かな光を放っている。
それは、今まで見てきた景色とはまた違った美しさだった。
「……綺麗」
ピピは静かに呟いた。
「本当に綺麗だね、カズマ」
「ああ」
先ほどまで元気いっぱいだったピピが、珍しく言葉少なになっていた。
和真が横を見ると、ピピはランタンを見上げながら穏やかに微笑んでいた。
「……カズマ」
「ん?」
「手、握ってもいい?」
「もう握ってるだろ?」
「あっ!」
自分が和真の手を握ったままだったことに気づき、ピピは照れくさそうに笑った。
「じゃあ、もっとぎゅってして!」
「はいはい」
和真が優しく握り返す。
ピピはその手を両手で包み込んだ。
「……えへへ」
光に包まれた船の上で、ピピは幸せそうに目を細める。
「ねえ、カズマ」
「何だ?」
「今日、僕、すっごく幸せ」
「そうか」
「うん」
ピピは和真の肩に、そっと頭を寄せた。
「カズマと一緒に来られてよかった」
和真はその横顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「俺も楽しいよ」
「……ほんと?」
「ああ」
「そっか!」
ピピは嬉しそうに笑う。
そして、再びランタンへ視線を向けた。
その間も、二人の手は繋がれたままだった。
◇
ファンタジースプリングスを満喫した二人は、少し休憩することにした。
「カズマ! お腹空いた!」
「昼ご飯、結構食べただろ?」
「いっぱい歩いたもん!」
「それもそうか」
二人は軽食を買い、近くのベンチに腰を下ろした。
ピピは手にしたチュロスを嬉しそうに眺めている。
「いただきまーす!」
一口食べた瞬間、表情がぱっと明るくなった。
「んー! おいしい!」
「よかったな」
「カズマも食べて!」
ピピは食べかけのチュロスを差し出した。
「俺のもあるから大丈夫だよ」
「えー! 一口!」
「同じのだろ?」
「いいから!」
結局、和真は差し出されたチュロスを一口かじった。
「……うん、おいしいな」
「でしょ!」
満足そうに笑うピピ。
その後、ピピはスマートフォンを取り出し、これまでに撮った写真を見返し始めた。
「カズマ! 見て!」
「ん?」
「今日だけで、こんなに撮った!」
「……すごい枚数だな」
「昨日のも合わせたらもっとあるよ!」
「あとで整理しないとな」
「えー! 消したくない!」
「いや、消せとは言ってないよ」
「だって、全部思い出だもん!」
そう言って、ピピは写真を一枚ずつ眺め始めた。
ソアリンの入口。
ゴンドラ。
大きな船。
タワー・オブ・テラー。
マーメイドラグーン。
ファンタジースプリングス。
そして、和真と一緒に撮った写真。
「……ねえ、カズマ」
「ん?」
「今日ね、まだ撮ってない写真がある!」
「まだ撮るのか?」
「うん!」
ピピはにっこり笑った。
「二人で、ちゃんと並んで撮ってもらう写真!」
「そういえば、今日は自分たちで撮ったのが多かったな」
「でしょ!」
ピピは立ち上がる。
「すっごく綺麗なところで撮ろう!」
「どこがいい?」
「さっきの大きな海があるところ!」
「メディテレーニアンハーバーか」
「そう! そこ!」
ピピは和真の手を引いた。
「行こう!」
「わかったから、走るなよ」
「はーい!」
こうして二人は、再びメディテレーニアンハーバーへと向かった。
◇
午後の陽射しが少しずつ柔らかくなり、水面がきらきらと輝いていた。
遠くには大きな火山。
水辺には美しい街並みが広がっている。
「カズマ! ここ!」
ピピが嬉しそうに立ち止まった。
「ここで撮ろう!」
「いい景色だな」
「でしょ!」
ピピは周囲を見回すと、近くにいたキャストに声をかけた。
「すみませーん! 写真撮ってもらってもいいですか!」
「もちろんです!」
快く引き受けてくれたキャストにスマートフォンを渡し、二人は景色を背にして並んだ。
「カズマ! もっとこっち!」
「十分近いだろ」
「もっと!」
ピピは和真の腕にぎゅっと抱きついた。
和真も苦笑しながら、その肩へ軽く手を添える。
「それじゃあ、撮りますね!」
「はーい!」
カシャッ。
「もう一枚いきますよ!」
カシャッ。
二枚目を撮り終えたところで、ピピが突然、和真の顔を見上げた。
「カズマ!」
「ん?」
「えいっ!」
ちゅっ。
「……え?」
和真が固まった。
ピピが、和真の頬にキスをしたのだ。
しかも、ちょうどシャッターが切られた瞬間だった。
「あっ、今のも撮れましたよ!」
キャストが少し驚いた様子で声を上げる。
だが、ピピはまったく気にしていなかった。
「やったぁ!」
「ピ、ピピ!?」
「えへへ! びっくりした?」
「そりゃ、びっくりするだろ!」
「大成功!」
ピピは満足そうに笑っている。
その横で、和真は思わず片手で顔を覆った。
「まったく……」
けれど、ピピの行動はそれで終わらなかった。
「……あっ!」
何かを思いついたように、ピピが顔を上げる。
「カズマ!」
「今度は何だ?」
「僕、カズマにキスした!」
「……そうだな」
「じゃあ、次はカズマの番!」
「……はい?」
「僕にもして!」
ピピは自分の頬を指差した。
「ここ!」
「いや、ちょっと待て」
「なんで!?」
「なんでって……人もいるし」
「僕はしたよ!」
「それはピピが勝手にしたんだろ」
「でも、僕ばっかりじゃずるい!」
「ずるいって……」
「カズマからもしてほしい!」
ピピは和真の腕を両手で掴み、ぶんぶんと揺らし始めた。
「お願い!」
「ピピ、落ち着け」
「お願いお願い!」
「だから……」
「カズマぁ!」
今度は頬を膨らませ、じっと見上げてくる。
「僕だけしたの、やだ!」
「……やだって言われても」
「お返しして!」
ピピはその場で小さく足踏みした。
「してくれるまで動かない!」
「おいおい……」
和真は困り果ててしまった。
隣では、スマートフォンを預かったキャストが、微笑ましそうに二人を見守っている。
「あの……もう一枚、お撮りしましょうか?」
「はいっ!」
和真が返事をするよりも早く、ピピが元気よく答えた。
「いや、まだ俺は……」
「カズマ!」
ピピがぐっと顔を近づけてくる。
そして、少しだけ声を小さくした。
「……だめ?」
先ほどまでの勢いが嘘のように、今度は上目遣いで見つめてくる。
「僕、カズマからしてほしいな」
「…………」
「お願い」
その表情を見て、和真は大きく息を吐いた。
「……わかったよ」
「ほんと!?」
「頬だけだからな」
「うん!」
次の瞬間、ピピの表情がぱっと明るくなる。
「やったぁ!」
「ただし、これ以上はなしだぞ」
「わかった!」
本当にわかっているのか、少し怪しい返事だった。
和真はキャストの方を向いた。
「すみません。もう一枚だけお願いします」
「はい!」
キャストがスマートフォンを構える。
ピピは嬉しそうに和真へ身体を寄せると、頬を向けて目を閉じた。
「……カズマ」
「なんだ?」
「えへへ。楽しみ!」
「……そんなに期待されると恥ずかしいんだけど」
「早く!」
「はいはい」
和真は周囲を軽く確認し、ピピの肩へ手を添えた。
そして、少しかがんで顔を近づける。
ちゅっ。
柔らかな頬へ、そっと唇を触れさせた。
カシャッ!
その瞬間、シャッター音が響いた。
「……っ!」
ピピの肩が小さく跳ねる。
和真が顔を離すと、ピピは目を丸くしたまま動かなくなっていた。
「……ピピ?」
「…………」
「おーい?」
「……え」
「え?」
「えへ……」
ピピの頬が、じわじわと赤く染まっていく。
そして。
「えへへへへへ!」
今まで見たこともないほど、幸せそうな笑顔を浮かべた。
「カズマが!」
「うん」
「カズマが僕にキスしてくれた!」
「……そうだな」
「やったぁぁぁ!」
ピピはその場でぴょんぴょん跳ね始めた。
「カズマ! もう一回!」
「約束が違う!」
「えー!」
「一回だけって言っただろ」
「もう一回だけ!」
「だめ」
「むぅー!」
ピピは再び頬を膨らませた。
しかし、すぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ、写真!」
キャストからスマートフォンを受け取ると、ピピはさっそく撮影された写真を確認した。
一枚目。
二人で並んで笑っている写真。
二枚目。
ピピが和真の腕に抱きつき、満面の笑顔を浮かべている写真。
三枚目。
ピピが和真の頬にキスをしている写真。
そして、最後の一枚。
「…………!」
ピピが息を呑んだ。
画面には、和真がピピの頬にキスをしている瞬間が、はっきりと写っていた。
和真は少し照れくさそうに目を伏せている。
ピピは頬を赤く染め、幸せそうに目を閉じていた。
その向こうには、青い水面とディズニーシーの美しい街並み。
偶然とは思えないほど、綺麗に撮れていた。
「……すごい」
ピピが小さく呟く。
「カズマ……見て」
「……ああ」
「これ……すっごくいい写真」
「そうだな」
ピピはしばらく画面を見つめていた。
先ほどまでの元気な様子とは違い、どこか大切なものを見つけたような表情だった。
「……これ、宝物にする」
そう言って、スマートフォンを胸に抱きしめた。
和真は少し照れながら笑う。
「そこまで喜んでくれるなら、まあ……よかったよ」
「うん!」
ピピは顔を上げ、キャストへ元気よく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ! 素敵なお写真が撮れてよかったです!」
二人は改めて礼を言い、その場を離れた。
歩き始めてからも、ピピは何度も写真を開いている。
「……えへへ」
「ピピ、前を見て歩けよ」
「うん!」
数歩進む。
「……えへへへ」
「だから前を……」
「カズマ!」
「なんだ?」
「これ、みんなに見せてもいい!?」
「……ちょっと待とうか」
「えー! なんで!?」
「いや、ほら……みんなに見られたら、いろいろ聞かれそうだろ?」
「……?」
ピピは不思議そうに首を傾げる。
そして、しばらく考え込んだあと、突然にっこり笑った。
「じゃあ、これは僕とカズマだけの秘密にする!」
「……そうしてくれると助かる」
「うん! 秘密の宝物!」
ピピは満足そうにスマートフォンをしまった。
しかし、次の瞬間にはまた和真の手を握っていた。
「カズマ!」
「ん?」
「大好き!」
まっすぐに向けられたその笑顔に、和真は思わず言葉を詰まらせる。
「……ありがとう」
「えへへ!」
ピピは嬉しそうに手を揺らしながら、再び歩き出した。
◇
夕方になると、園内の雰囲気も少しずつ変わり始めた。
建物には温かな明かりが灯り、水面には夕焼けが映り込んでいる。
昼間とは違った景色に、ピピはまた何度も足を止めていた。
「カズマ、綺麗だね」
「ああ」
「昨日も綺麗だったけど、今日もすごい」
ピピは水辺の柵に近づき、遠くの景色を眺めた。
和真もその隣に並ぶ。
「ねえ、カズマ」
「ん?」
「まだ帰らない?」
「もう少しなら大丈夫だぞ」
「ほんと!?」
「ああ。夕飯もここで食べようか」
「やったぁ!」
ピピは嬉しそうに和真の腕へ抱きついた。
そのあと二人は、夜のパークをもう少し楽しむことにした。
ライトアップされた街並みを散策し、水辺に映る明かりを眺める。
昼間は賑やかだった場所も、夜になるとどこか落ち着いた雰囲気に変わっていた。
「……カズマ」
「どうした?」
「夜も綺麗だね」
「そうだな」
「なんか、ずっとここにいたくなる」
ピピは和真の手を握ったまま、ゆっくりと歩いた。
やがて、近くから甘い香りが漂ってくる。
「……あっ!」
ピピが顔を上げた。
「カズマ!」
「今度は何だ?」
「なんか美味しそうな匂い!」
「さっきも食べただろ?」
「でも、いい匂い!」
和真は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、何か軽く食べるか」
「うん!」
結局、二人はポップコーンを買い、分け合いながら歩くことになった。
「カズマ! あーん!」
「自分で食べられるよ」
「いいから!」
「……はいはい」
和真が一粒食べると、ピピは満足そうに笑った。
「おいしい?」
「ああ」
「でしょ!」
そのあとも、ピピは何度もポップコーンを差し出してきた。
和真が断ろうとすると、今度は自分の口を開けて待っている。
「……ピピ?」
「あーん!」
「俺にもやれってことか?」
「うん!」
「まったく……」
和真は苦笑しながら、ポップコーンを一粒差し出した。
ピピは嬉しそうに口に含む。
「おいしい!」
「それはよかった」
「カズマと一緒だと、もっとおいしい!」
そんなことを言いながら、ピピは楽しそうに笑っていた。
そして夕食を済ませた二人は、お土産を買うためにショップへ向かった。
◇
「カズマ! これ、みゆが好きそう!」
「いいな」
「あっ、こっちはひかげに!」
「ひかげなら喜びそうだ」
「リディアには何がいいかなぁ?」
ピピは棚の前を行ったり来たりする。
あおい、酒菜、ナディア、ユエ。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら選ぶ姿は、とても楽しそうだった。
「ピピ、自分のものはいいのか?」
「僕の?」
「ああ。せっかく来たんだし」
「うーん……」
ピピはしばらく考え込んだ。
そして、ふと目に入った小さなキーホルダーを手に取る。
青い海を思わせる、綺麗なデザインだった。
「……あっ!」
ピピは同じものをもう一つ手に取った。
「カズマ!」
「ん?」
「これ、僕が買ってもいい?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、ちょっと待ってて!」
ピピは嬉しそうにレジへ向かった。
しばらくして戻ってきたピピは、小さな袋を差し出した。
「はい!」
「……俺に?」
「うん!」
中には、先ほどのキーホルダーが入っていた。
「僕とお揃い!」
そう言って、ピピは自分の鞄につけた同じ形のキーホルダーを見せる。
「二人で持とう!」
和真は受け取ったキーホルダーを見つめた。
「……ありがとう。大事にするよ」
「えへへ!」
ピピは満足そうに笑った。
やがて買い物を終える頃には、お土産の袋がいくつも増えていた。
「……買ったなぁ」
「みんなの分だから!」
「そうだな」
和真は袋を持ち直すと、ピピへ声をかけた。
「そろそろ帰ろうか」
「……うん」
その返事は、少しだけ寂しそうだった。
◇
出口へ向かう途中、ピピは何度も足を止めた。
ライトアップされた建物。
水面に映る光。
遠くから聞こえてくる音楽。
そのすべてを、少しでも長く覚えていたいようだった。
「……カズマ」
「ん?」
「僕、今日もすっごく楽しかった!」
「よかったよ」
「昨日も楽しかった!」
「ああ」
「でも……」
ピピは少しだけ俯いた。
「帰りたくないなぁ」
和真は足を止めた。
「……寂しくなったか?」
「うん」
ピピは素直に頷いた。
「だって、明日からまたいつもの生活でしょ?」
「そうだな」
「みんながいるのも楽しいよ! 大好きだよ!」
「うん」
「でも……カズマと二人だけって、なんか特別だった」
ピピは繋いでいた手に少し力を込める。
「朝起きたらカズマがいて、一緒にご飯食べて、一緒に遊んで……」
そこで少し恥ずかしそうに笑った。
「それに、いっぱいぎゅってしてもらった」
「……そうだな」
「また、こういう日が来る?」
和真はピピの顔を見つめた。
期待と、ほんの少しの不安。
その両方が表情に浮かんでいる。
和真は握っていた手を、優しく握り直した。
「来るよ」
「……ほんと?」
「ああ。また二人で出かけよう」
「……うん!」
ピピの顔に笑顔が戻った。
「約束!」
「約束だ」
二人は小指を絡めた。
ピピはそれを見つめ、嬉しそうに笑う。
「えへへ。約束した!」
そして、最後にもう一度だけディズニーシーの景色を振り返った。
「……ばいばーい!」
小さく手を振る。
その横顔を、和真は黙って見守っていた。
こうして、二人の夢の国での旅行は終わりを迎えた。
◇
ホテルで荷物を受け取り、帰りの電車へ乗る。
窓の外には、夜の街並みが流れていた。
最初のうちは、ピピも楽しそうに話していた。
「カズマ! あの落ちるやつ、また乗りたい!」
「タワー・オブ・テラーか?」
「そう!」
「あんなに叫んでたのに?」
「だって楽しかったもん!」
「俺はしばらく遠慮したいかな……」
「あははは!」
しかし、昨日からの疲れが出始めたのか、次第に声が小さくなっていく。
「……カズマ」
「どうした?」
「ちょっと眠い」
「寝てていいぞ。着いたら起こすから」
「……うん」
ピピは和真の肩に頭を預けた。
そして、片手を伸ばして和真の手を握る。
「……カズマ」
「ん?」
「今日の写真……」
「ああ」
「……消さないでね」
「消さないよ」
「……絶対?」
「絶対」
「……えへへ」
安心したように笑うと、ピピはゆっくりと目を閉じた。
しばらくして、小さな寝息が聞こえ始める。
和真はその寝顔を見つめ、静かに笑った。
「……お疲れさま」
窓の外へ視線を向ける。
二日間。
本当にあっという間だった。
けれど、思い返せば数え切れないほどの出来事があった。
アトラクションで大騒ぎしたこと。
美味しそうに食事を頬張っていたこと。
写真を撮るたびに、嬉しそうに笑っていたこと。
そして。
今日の、あの一枚。
「……参ったな」
和真は小さく呟いた。
無邪気で、素直で、感情を隠すことを知らない。
ピピと一緒にいると、何度も調子を狂わされる。
けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
和真は眠っているピピの手を、そっと握り返した。
◇
帰宅した頃には、すっかり夜になっていた。
「ただいまー!」
玄関から元気な声が響く。
電車の中ではぐっすり眠っていたピピも、帰ってくる頃にはすっかり元気を取り戻していた。
「おかえりー!」
奥からみゆの声が返ってくる。
「二人ともお疲れ! どうやった?」
「すっごく楽しかった!」
ピピは両手を大きく広げた。
「いっぱい遊んだ! いっぱい食べた! 写真もいっぱい撮った!」
「おお、そりゃよかったなぁ!」
「お土産もあるよ!」
「ほんま!? ありがと!」
声を聞きつけた住人たちも、少しずつ集まってきた。
ピピは嬉しそうに買ってきた袋を広げ、一人ずつお土産を渡していく。
「リディア! これ、ありがとうのお礼!」
「私にですか?」
「うん! リディアのおかげで、すっごく楽しかった!」
リディアは受け取った袋を見つめ、優しく微笑んだ。
「楽しめたようで何よりです」
「それにね! いっぱい写真も撮れた!」
「そうですか。それはよかったですね」
ピピはスマートフォンを取り出し、さっそく写真を見せ始めた。
「これが昨日の! こっちは今日!」
「わぁ、綺麗!」
「これもすごいでしょ!」
次から次へと写真を見せるピピ。
ソアリンの入口。
ゴンドラの上。
マーメイドラグーン。
ファンタジースプリングス。
どの写真も、ピピが楽しそうに笑っているものばかりだった。
「ほんま、楽しそうやなぁ!」
みゆが笑いながら画面を覗き込む。
「うん! すっごく楽しかった!」
「和真もお疲れさん!」
「いや、俺も楽しかったよ」
「そかそか!」
みゆは楽しそうに笑った。
やがて、ピピはお土産を渡し終えると、大きく伸びをした。
「ふわぁ……」
「さすがに疲れたか?」
和真が尋ねる。
「うん! ちょっと眠い!」
「今日は早めに休んだ方がいいな」
「そうする!」
ピピは元気よく頷いた。
「じゃあ、みんな! おやすみ!」
「おやすみー!」
住人たちに手を振り、ピピは自分の部屋へ戻っていった。
その後ろ姿を見送った和真も、荷物を片付けるために自室へ向かった。
◇
その夜。
自分の部屋へ戻ったピピは、ベッドに腰を下ろしてスマートフォンを開いた。
画面には、二日間で撮影した大量の写真が並んでいる。
昨日のディズニーランド。
今日のディズニーシー。
綺麗な景色。
美味しかった料理。
そして、和真との写真。
ピピはゆっくりと画面を動かした。
「……あった」
目当ての一枚を見つける。
和真が、自分の頬にキスをしている写真。
何度見ても、胸の奥が温かくなる。
「……えへへ」
ピピはベッドに横になり、スマートフォンを胸の前へ持ち上げた。
写真の中の自分は、少し恥ずかしそうにしている。
でも、とても幸せそうだった。
「……カズマ」
そっと名前を呼ぶ。
そして、自分の頬に触れた。
今はもう、唇の感触なんて残っていない。
それでも、あの瞬間のことは鮮明に覚えている。
カズマが近づいてきたこと。
少し照れた顔をしていたこと。
頬に触れた、柔らかい感触。
「……もう一回、してほしかったなぁ」
小さく呟いてから、くすっと笑った。
また旅行に行こうと約束した。
きっと、これからもたくさん一緒に遊べる。
だから、急がなくてもいい。
ピピは写真をお気に入りに登録した。
しかし、そこでふと思いつく。
「……あっ!」
ピピは身体を起こした。
「そうだ!」
以前、みゆから教えてもらったことがある。
スマートフォンの画面には、自分の好きな写真を設定できるのだと。
そうすれば、毎日その写真を見ることができる。
「……これにしよう!」
ピピは嬉しそうに画面を操作した。
そして、和真に頬へキスをしてもらっている写真を、スマートフォンのホーム画面に設定する。
「……できた!」
ホーム画面に戻ると、そこには幸せそうな二人の姿が大きく映し出されていた。
「えへへへ!」
ピピは満足そうに笑った。
「これなら、いつでもカズマと一緒!」
スマートフォンを一度閉じ、もう一度画面を開く。
そしてホーム画面を表示する。
「……えへへ」
また閉じる。
もう一度開く。
「……いい写真!」
何度見ても飽きなかった。
ピピはしばらく写真を眺めたあと、スマートフォンを枕元へ置いた。
「……秘密の宝物」
そう呟いて、布団へ潜り込む。
もちろん、和真との約束を忘れたわけではない。
誰かに写真を見せるつもりもなかった。
ただ、大好きな写真をいつでも見られるようにしたかっただけ。
それだけだった。
「……おやすみ、カズマ」
誰にも聞こえない、小さな声。
その顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
二日間の旅行。
たくさん遊んで、たくさん笑って。
そして、忘れられない一枚の写真が増えた。
それはピピにとって、どんなお土産よりも大切な宝物になったのだった。




