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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第三十五話 繋いだ手の温もり

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、ホテルの部屋を柔らかく照らしていた。


「……ん……」


 ひかげはゆっくりと目を覚ました。


 見慣れない天井。


 普段とは違う布団の感触。


 そして、少し離れたところから聞こえてくる物音。


「……和真、さん……?」


「あ、起きた?」


 声のする方へ顔を向けると、すでに着替えを済ませた和真が、荷物を整理していた。


「おはよう、ひかげ。よく眠れた?」


「……おはよう、ございます……」


 ひかげは布団を胸元まで引き寄せ、小さく頷いた。


「……はい。ぐっすり、眠れました……」


「そっか。それならよかった」


 和真は微笑み、窓の外へ視線を向けた。


「今日はいい天気みたいだよ。観光するにはちょうどよさそうだ」


「……そう、ですね……」


 ひかげも窓の方へ目を向ける。


 青く澄んだ空。


 遠くに並ぶ建物。


 昨日と変わらない大阪の街並み。


 けれど、不思議と昨日とは違って見えた。


 昨日は、この街へ来ることが少し怖かった。


 自分の中に残る記憶。


 かつて誰かが暮らしていた場所。


 そして、忘れられない人の姿。


 それらと向き合うことが、本当にできるのか不安だった。


 けれど、今は。


「……ふふ……」


「ん? どうした?」


「……なんでも、ないです……」


 小さく笑ったひかげは、もう一度布団へ顔を埋めた。


 昨日の夜のことを思い出してしまったからだ。


 勇気を振り絞って、普段は隠している自分の姿を和真に見てもらった。


 恥ずかしくて、逃げ出したくて。


 それでも、ちゃんと見てほしかった。


 和真は驚いていた。


 戸惑ってもいた。


 けれど、最後まで自分を拒絶することはなかった。


 そのことが、ひかげには何より嬉しかった。


「……ひかげ?」


「……は、はいっ……!」


「朝ご飯、そろそろ行こうと思うけど、大丈夫?」


「……あ……はい……!」


 勢いよく身体を起こしかけ、ひかげは慌てて布団を押さえた。


 その様子に和真が首を傾げる。


「どうかした?」


「……な、なんでも……ないです……!」


 昨夜の恥ずかしさが、まだ少し残っている。


 そんな自分に気づいて、ひかげは布団の中で小さく息を吐いた。


 けれど、不思議と後悔はしていなかった。


 むしろ。


 昨日より、ほんの少しだけ。


 和真のそばに近づけたような気がしていた。


◇


 朝食を済ませ、荷物をまとめた二人は、ホテルをチェックアウトした。


 帰りの新幹線まで荷物を預かってもらい、身軽になって街へ出る。


「今日は海遊館だったよな」


「……はい……」


「水族館は好き?」


「……あんまり、行ったこと……ないです……」


「そっか。じゃあ楽しめるといいな」


「……はい……楽しみ、です……」


 ひかげは小さく頷き、和真の隣を歩いた。


 今日も人間の姿だ。


 人混みの中を歩くことには、まだ少し緊張する。


 けれど、昨日ほど周囲の視線が気にならなかった。


 隣に和真がいるから。


 それだけで、ずいぶん安心できる。


 駅へ向かう途中、二人は大きな交差点で信号待ちをしていた。


 通勤する人。


 旅行者らしい家族。


 楽しそうに話す若い男女。


 たくさんの人が、それぞれの目的地へ向かっている。


 ひかげは、ふと隣に立つ和真の手を見た。


 昨日。


 昔の記憶に胸が苦しくなったとき、思わず握ってしまった手。


 その温かさを、今でも覚えている。


「……」


 ひかげは自分の手へ視線を落とした。


 少しだけ指を動かす。


 手を伸ばせば、届く距離。


 けれど、そのわずかな距離がひどく遠く感じられた。


 昨日は怖くて握った。


 でも、今日は。


 怖いからではなく。


 自分から、握ってみたい。


「……か、和真さん……」


「ん?」


「……あの……」


「どうした?」


 和真が顔を向ける。


 ひかげは俯いたまま、しばらく言葉を探していた。


 やがて、おずおずと右手を伸ばす。


 そして。


 きゅっ。


 和真の左手を、小さく握った。


「……!」


 和真が少し驚いたように目を見開く。


「ひかげ?」


「……あ……あの……」


 ひかげは顔を真っ赤にしたまま、握った手を見つめていた。


「……今日は……」


「うん」


「……私から……握っても……ええですか……?」


 消え入りそうな声だった。


 信号待ちのざわめきに紛れてしまいそうなほど、小さな声。


 けれど、和真にはちゃんと届いていた。


「もちろん」


 和真はそう答え、握られた手を優しく握り返した。


「……っ!」


 ひかげの肩がぴくりと跳ねる。


 逃げようかと思った。


 恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。


 けれど。


 握られた手が温かくて。


 離したくないと思ってしまった。


「……ありがとう、ございます……」


「お礼を言うようなことじゃないよ」


「……でも……嬉しい、です……」


 その言葉に、和真は柔らかく笑った。


 やがて信号が青に変わる。


「じゃあ、行こうか」


「……はい……!」


 二人は手を繋いだまま、横断歩道を渡り始めた。


 昨日とは違う。


 不安を紛らわせるためではなく、自分の意思で握った手。


 ひかげは俯きながらも、口元に小さな笑みを浮かべていた。


◇


「……おっきい……」


 海遊館へ到着したひかげは、建物を見上げて呟いた。


「思ったより大きいな」


「……はい……」


 周囲には家族連れや観光客が集まり、楽しそうな声が飛び交っている。


 ひかげは人の多さに少し身を縮めた。


 すると、和真が顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「……はい……」


「無理しなくてもいいからな」


「……大丈夫、です……」


 ひかげはそう答え、繋いでいた手にほんの少し力を込めた。


「……和真さんが、おるから……」


 小さな声だった。


 けれど、その言葉を聞いた和真は安心したように頷いた。


「そっか。じゃあ、行ってみよう」


「……はい……!」


 館内へ入ると、外の明るさから一転して、落ち着いた照明が二人を迎えた。


 水槽の中を泳ぐ魚たち。


 揺れる水草。


 岩陰から顔を覗かせる生き物。


 ひかげは一歩進むたびに足を止め、その光景を眺めていた。


「……わぁ……」


 最初は控えめだった反応が、次第に変わっていく。


「……和真さん……見て、ください……」


「ん?」


「……あの子……すごい、速いです……」


 ひかげが指差した先を、小さな魚の群れが一斉に泳ぎ抜けていった。


「本当だ。あんなにたくさんいるのに、ぶつからないんだな」


「……不思議、ですね……」


 ひかげは水槽へ顔を近づけ、興味深そうに眺めている。


 その横顔を見て、和真は小さく笑った。


「ひかげ、楽しそうだね」


「……え……?」


「さっきから、ずっと魚を追いかけてる」


「……あ……」


 ひかげは慌てて姿勢を正した。


「……す、すみません……」


「いや、謝らなくていいよ。楽しんでくれて嬉しいから」


「……そ、そうですか……?」


「うん」


 和真が頷くと、ひかげはほっとしたように笑った。


「……ほな……もうちょっと……見てても、ええですか……?」


「もちろん」


 その返事を聞くと、ひかげは再び水槽へ向き直った。


 そして、ほんの少しだけ。


 自分から和真の腕を引いた。


「……こっちも……見たいです……」


「うん、行こう」


 和真はその変化を嬉しく思いながら、彼女の歩幅に合わせた。


 しばらく進むと、巨大な水槽が目の前に現れた。


 青く広がる水の中。


 ゆったりと泳ぐ大きな影。


「……っ!」


 ひかげが息を呑む。


「……お、おっきい……!」


「ジンベエザメだね」


「……じんべえ……ざめ……?」


「そう。すごく大きいけど、主に小さな生き物を食べる、おとなしいサメなんだ」


「……サメ……?」


 ひかげは驚いたように和真を見上げた。


「……あんなに、大きいのに……?」


「そうなんだよ」


「……へぇ……」


 ひかげはもう一度、水槽へ目を向けた。


 巨大なジンベエザメが、ゆっくりと二人の前を通り過ぎていく。


 その姿を、ひかげはじっと見つめていた。


「……なんやろ……」


「ん?」


「……怖そうに見えるのに……優しそう、です……」


「確かに、そう見えるね」


「……ふふ……」


 ひかげは小さく笑った。


「……なんか……親近感、あります……」


「親近感?」


「……私も……見た目で、怖がられること……あるから……」


 和真は一瞬、言葉に詰まった。


 けれど、ひかげはすぐに首を横へ振った。


「……でも……今は、大丈夫です……」


「ひかげ……」


「……和真さんが……怖がらへんって……知ってますから……」


 そう言って、ひかげは微笑んだ。


 昨日までなら、口にすることさえ難しかった言葉だった。


 和真は優しく頷く。


「うん。俺はひかげのこと、怖いと思ったことないよ」


「……はい……」


 ひかげは照れたように俯いた。


 そして、もう一度ジンベエザメを見上げる。


「……あの子も……きっと……優しいんですね……」


 二人はしばらく、その大きな影が泳ぐ姿を眺めていた。


◇


 館内を進み、クラゲの展示に差しかかった頃だった。


「……きれい……」


 薄暗い空間の中。


 透き通った身体を持つクラゲたちが、ゆっくりと水中を漂っている。


 淡い光に照らされた姿は、まるで空中を舞っているようだった。


「綺麗だな」


「……はい……」


 ひかげは水槽の前に立ち、じっとクラゲを見つめていた。


「……和真さん……」


「ん?」


「……写真……撮っても、ええですか……?」


「もちろん。撮ろうか?」


「……あ……その……」


 ひかげは少し迷ったあと、小さく首を横に振った。


「……私と……一緒に……」


「一緒に?」


「……はい……」


 ひかげの声が、さらに小さくなる。


「……二人で……撮りたい、です……」


 和真は一瞬きょとんとしたあと、笑顔を見せた。


「いいよ。撮ろう」


「……っ……!」


 ひかげは嬉しそうに頷いた。


 二人はほかの来館者の邪魔にならない場所へ移動し、端末のカメラを起動した。


「じゃあ、こっち向いて」


「……は、はい……」


 和真が端末を構える。


 ひかげは隣に並んだものの、緊張から身体が固まってしまった。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


「……す、すみません……」


「謝らなくていいって」


 和真は笑いながら、画面を確認する。


「もうちょっと寄れる?」


「……っ!」


 ひかげの顔が赤くなる。


 けれど、今日は。


 ほんの少しだけ、頑張ってみようと思った。


「……はい……」


 一歩。


 和真の方へ近づく。


 肩が触れそうな距離。


 ひかげの心臓が、急に速くなった。


「じゃあ、撮るよ」


「……はい……!」


 カシャッ。


 小さな音が響いた。


「よし。どうかな?」


 和真が撮影した写真を見せる。


 そこには、少し緊張した表情のひかげと、穏やかに笑う和真が写っていた。


「……あ……」


「いい感じじゃない?」


「……はい……」


 ひかげは写真を見つめた。


 自分の顔が赤い。


 笑顔も少しぎこちない。


 けれど。


 和真の隣にいる自分が、ちゃんと写っていた。


「……これ……」


「うん?」


「……大事に、します……」


 ひかげは端末を胸元へ抱き寄せた。


 その様子に、和真は嬉しそうに笑った。


「また撮ろうな」


「……はい……!」


 その返事は、今までよりも少しだけ明るかった。


◇


 海遊館を出た頃には、昼を過ぎていた。


「そろそろお腹空いたな」


「……はい……」


「何か食べたいものある?」


 ひかげは少し考えたあと、周囲へ目を向けた。


「……あの……」


「うん?」


「……たこ焼き……食べたい、です……」


「たこ焼き?」


「……せっかく……大阪に来たので……」


「いいね。じゃあ食べに行こうか」


「……はい……!」


 天保山マーケットプレースへ向かった二人は、たこ焼きを買い、座れる場所を見つけて腰を下ろした。


 紙皿の上には、熱々のたこ焼きが並んでいる。


「熱いから気をつけてな」


「……はい……」


 ひかげは竹串で一つ持ち上げ、慎重に息を吹きかけた。


「……ふぅ……ふぅ……」


 そして、端の方を少しだけ口にする。


「……っ!」


「大丈夫?」


「……あ、あつ……」


 ひかげは慌てて口を離した。


 和真が笑いを堪える。


「ほら、やっぱり熱かっただろ」


「……は、はい……」


「ゆっくり食べな」


「……はい……」


 しばらく冷ましてから、ひかげはもう一度口へ運んだ。


 今度は無事に食べられたらしい。


「……おいしい……」


「よかった」


「……外が、ちょっと香ばしくて……中が、とろとろで……」


 ひかげは嬉しそうに呟いた。


「……酒菜さんにも……食べさせてあげたい、ですね……」


「酒菜なら、自分でも作れそうだな」


「……ふふ……そうですね……」


 ひかげは笑い、もう一つたこ焼きを口へ運んだ。


 それから、少し迷ったあと。


「……和真さん……」


「ん?」


「……一つ……食べます……?」


「いいの?」


「……はい……」


 ひかげは自分の紙皿を、和真の方へ差し出した。


「……おいしいので……」


「ありがとう。じゃあ、一つもらおうかな」


 和真が一つ取ると、ひかげは嬉しそうに頷いた。


 ほんの些細なやり取り。


 けれど、昨日までのひかげなら、遠慮して口にできなかったことだった。


 自分から誘うこと。


 自分の食べているものを勧めること。


 そんな小さなことが、今は少しずつできるようになっていた。


◇


 昼食を終えた二人は、天保山の大観覧車へ向かった。


 近づくにつれて、その大きさがはっきりと分かってくる。


「……おっきい……」


「本当に大きいな」


「……あんな高いところまで……行くんですね……」


「高いところ、苦手?」


「……少し……」


「じゃあ、やめておく?」


 和真がそう尋ねると、ひかげは慌てて首を横に振った。


「……い、いえ……!」


「大丈夫?」


「……はい……乗って、みたいです……」


 ひかげは少しだけ俯いた。


「……和真さんと……」


 その言葉を聞いた和真は、微笑んだ。


「そっか。じゃあ乗ろう」


「……はい……!」


 順番が来ると、二人はゴンドラへ乗り込んだ。


 向かい合うように座り、ゆっくりと扉が閉まる。


 やがて観覧車が動き始めた。


「……わ……」


 ひかげは窓の外へ目を向けた。


 地面が少しずつ遠ざかっていく。


 建物の屋根。


 行き交う車。


 遠くに広がる海。


 景色がゆっくりと変わっていった。


「……すごい……」


「綺麗だね」


「……はい……」


 ひかげは夢中になって外を眺めていた。


 その姿を見て、和真は微笑んだ。


「怖くない?」


「……ちょっと……怖い、です……」


「そっか」


「……でも……」


 ひかげは、向かいに座る和真へ顔を向けた。


「……それより……綺麗です……」


「うん」


 ゴンドラはさらに高く上がっていく。


 街並みが小さくなり、遠くの景色まで見渡せるようになった。


 しばらくして、ひかげが口を開いた。


「……和真さん……」


「ん?」


「……隣……座っても、ええですか……?」


「もちろん」


 和真が少し横へずれる。


 ひかげはゆっくりと立ち上がり、揺れに気をつけながら隣へ腰を下ろした。


 二人の間には、まだ少し距離がある。


 けれど。


 ひかげは、自分の膝の上に置いた手を見つめた。


 朝、頑張って握った手。


 あのときは緊張して、胸が苦しくなるほどだった。


 けれど、今は。


「……」


 ひかげはそっと手を伸ばした。


 そして、和真の手へ指先を触れさせる。


「……ひかげ?」


「……あの……」


 ひかげは顔を伏せたまま、小さく呟いた。


「……もう一回……」


「うん?」


「……手……握っても……ええですか……?」


 和真は優しく微笑んだ。


「うん。いいよ」


 その言葉に、ひかげはそっと手を重ねた。


 今度は、朝よりも自然に。


 自分から指を絡めることは、まだできない。


 ただ、掌を重ねて。


 和真が握り返してくれるのを待つ。


 そして、温かな手に包まれた瞬間。


「……ふふ……」


 ひかげは、小さく笑った。


「……嬉しい……」


「そんなに?」


「……はい……」


 ひかげは頷いた。


「……私……こういうの……憧れてたんです……」


「手を繋ぐこと?」


「……はい……」


 少し照れながら、ひかげは続けた。


「……誰かと……一緒に出かけて……」


「うん」


「……綺麗なもの、見て……おいしいもの、食べて……」


 ひかげは繋いだ手へ視線を落とす。


「……こうして……手を繋いで……」


 少しだけ、声が震えた。


「……そんな普通のことが……私には……すごく、遠かったから……」


 和真は黙って聞いていた。


「……昨日……昔の場所へ行って……」


 ひかげは窓の外へ目を向けた。


「……苦しくなりました……」


「……うん」


「……もう大丈夫やと思ってたのに……全然、大丈夫やなくて……」


 小さく息を吐く。


「……でも……」


 ひかげは隣に座る和真を見上げた。


「……今日は……楽しいです……」


 その声は、今までよりもはっきりしていた。


「……昨日のこと……忘れたわけやないです……」


「うん」


「……きっと……これからも……思い出すと思います……」


 和真は静かに頷いた。


「それでいいんじゃないかな」


「……え……?」


「無理に忘れなくてもいいと思うよ。昔のことが大切だったなら、それはそれでいいんだから」


「……和真さん……」


「でも、これから新しい思い出も作れるだろ?」


 ひかげは目を見開いた。


「昨日までのことも大事にして、今日みたいに楽しい思い出を増やしていけばいいと思う」


「……」


「少なくとも、俺は今日、ひかげと一緒に来られてよかったよ」


 ひかげは俯いた。


 繋いだ手が、少しだけ震える。


「……私も……」


 消え入りそうな声。


「……私も……和真さんと……来られて……よかったです……」


 ひかげは、ぎゅっと手を握った。


「……ほんまに……嬉しい、です……」


 和真は何も言わず、その手を握り返した。


 ゴンドラは、ゆっくりと頂上へ近づいていく。


 窓の向こうには、大阪の街並みと広い海が広がっていた。


 ひかげはその景色を見つめながら、静かに微笑んだ。


 もう、怖くなかった。


 昔の記憶を思い出しても。


 この街を歩いても。


 今は、隣にいてくれる人がいる。


 そして、自分からその手を握ることができる。


 それだけで、胸の奥が温かくなった。


◇


 観覧車を降りると、ひかげは少し名残惜しそうに振り返った。


「楽しかった?」


「……はい……!」


「よかった」


「……また……乗りたい、です……」


「じゃあ、また来ようか」


「……っ!」


 ひかげは驚いたように和真を見上げた。


「……また……一緒に……?」


「もちろん」


 その返事を聞いて、ひかげは嬉しそうに笑った。


「……約束、です……」


「ああ、約束」


 和真が頷く。


 すると、ひかげは小さく手を差し出した。


「……あの……」


「ん?」


「……帰るまで……」


 少しだけ声が小さくなる。


「……手……繋いでても……ええですか……?」


 和真は笑顔で頷いた。


「いいよ」


 ひかげはほっとしたように笑い、自分から手を握った。


 もう、朝ほど緊張していなかった。


 もちろん、恥ずかしさがなくなったわけではない。


 隣を歩く和真を意識すると、今でも胸が高鳴る。


 けれど。


 それ以上に、嬉しかった。


 二人はそのまま、土産物店へ向かった。


「みんなに何か買って帰ろうか」


「……はい……!」


 店内には、お菓子や雑貨が所狭しと並んでいた。


 ひかげは商品を一つずつ眺めながら、誰に何を買おうか考えている。


「……ピピちゃんは……こういうの、好きそうですね……」


「確かに、喜びそうだな」


「……酒菜さんには……食べ物の方が、ええでしょうか……」


「そうだね。みんなで食べられるものも買っていこう」


「……はい……」


 ひかげは楽しそうに商品を選んでいった。


 やがて、店の一角で足を止める。


「……あ……」


「どうした?」


「……これ……」


 ひかげが見つけたのは、小さなジンベエザメのぬいぐるみだった。


 丸みのある身体に、つぶらな瞳。


 先ほど水族館で見た姿を、可愛らしくしたものだ。


「可愛いな」


「……はい……」


 ひかげはそっと手に取り、しばらく眺めていた。


「欲しい?」


「……え……」


「気に入ったんじゃない?」


「……あ……はい……」


 ひかげは小さく頷く。


「……今日のこと……思い出せそうやなって……」


「じゃあ、買おうか」


「……い、いえ……! 自分で……!」


 慌てて財布を取り出すひかげ。


 和真は少し驚いたあと、笑った。


「分かった。じゃあ、それはひかげが買おう」


「……はい……!」


 ひかげは大切そうにぬいぐるみを抱え、レジへ向かった。


 自分で選んだ、旅の記念。


 それが嬉しくて、何度も袋の中を確認してしまった。


◇


 夕方。


 二人はホテルで預けていた荷物を受け取り、帰りの新幹線へ乗り込んだ。


 窓の外では、大阪の街並みが少しずつ遠ざかっていく。


「疲れた?」


 隣に座った和真が尋ねた。


「……少し……」


「結構歩いたもんな」


「……でも……楽しかったです……」


「そっか」


 ひかげは膝の上に置いた袋を見つめた。


 中には、今日買ったジンベエザメのぬいぐるみ。


 そして端末には、和真と一緒に撮った写真が残っている。


「……和真さん……」


「ん?」


「……写真……見ても、ええですか……?」


「うん。見ようか」


 二人は端末を取り出し、今日撮った写真を順番に眺め始めた。


 海遊館の魚たち。


 大きなジンベエザメ。


 幻想的なクラゲ。


 観覧車から見えた景色。


 そして、二人で撮った写真。


「……ふふ……」


 ひかげは嬉しそうに笑った。


「これ、ひかげが魚を見てるところだね」


「……え……?」


 和真が見せたのは、水槽へ夢中になっているひかげの写真だった。


「……い、いつの間に……!」


「楽しそうだったから、つい」


「……は、恥ずかしいです……」


「でも、いい写真だと思うよ」


 ひかげは画面を覗き込んだ。


 そこには、普段よりもずっと自然な表情の自分が写っていた。


「……ほんまや……」


「ん?」


「……私……こんな顔……してたんですね……」


「うん。ずっと楽しそうだった」


「……」


 ひかげはしばらく写真を見つめていた。


 そして、小さく呟いた。


「……この写真も……欲しい、です……」


「もちろん。あとで送るよ」


「……ありがとうございます……」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


 そのまま、二人はしばらく旅の思い出を振り返っていた。


 やがて、和真が窓の外へ目を向ける。


「ひかげ」


「……はい……?」


「今回の旅行、来てよかった?」


 その問いに、ひかげは少しだけ考えた。


 昨日の出来事。


 昔の記憶。


 胸が苦しくなった時間。


 そして、今日。


 和真と一緒に見た景色。


 初めて自分から握った手。


 その温もり。


「……はい……」


 ひかげは、はっきりと頷いた。


「……来て……よかったです……」


 そして、少しだけ勇気を出して続けた。


「……また……和真さんと……お出かけ、したいです……」


「もちろん。また行こう」


「……はい……!」


 ひかげは嬉しそうに笑った。


 少し迷ってから、膝の上に置いていた手を動かす。


 隣にある和真の手。


 朝は、あんなに緊張したのに。


 今は。


「……和真さん……」


「ん?」


「……手……」


 ひかげが小さく手を差し出す。


 和真は優しく笑い、その手を取った。


「はい」


「……ふふ……」


 ひかげは安心したように微笑んだ。


 繋いだ手を、自分の膝の上へそっと置く。


 窓の外では、夕日に染まった景色が流れていく。


 ひかげはその光景を眺めながら、静かに呟いた。


「……また……来たいなぁ……」


「大阪に?」


「……はい……」


 少し間を置いて。


「……でも……」


「うん?」


「……次は……違うところでも……ええです……」


「そうなの?」


「……はい……」


 ひかげは和真の手を、きゅっと握った。


「……和真さんと……一緒なら……」


 それ以上は、恥ずかしくて言えなかった。


 けれど、和真は穏やかに微笑んだ。


「うん。またどこか行こうな」


「……はい……!」


 ひかげは嬉しそうに頷いた。


◇


 帰宅した頃には、すっかり夜になっていた。


「ただいまー」


 和真が母屋の扉を開けると、賑やかな声が迎えてくれた。


「あっ! 和真! ひかげ! おかえりー!」


 真っ先に声を上げたのはピピだった。


「大阪どうだった!? 楽しかった!?」


「ただいま、ピピ。楽しかったよ」


「……た、ただいま……です……」


 ひかげも小さく頭を下げた。


「おかえりなさい、二人とも」


 みゆが笑顔で迎える。


「ひかげ、楽しかった?」


「……はい……!」


 ひかげは嬉しそうに頷いた。


「……すごく……楽しかったです……」


「そっか。よかったね」


「……はい……」


 その様子を見ていたフェンリスが、少しだけ首を傾げた。


「……ひかげ」


「……は、はい……?」


「なんだか、行く前より明るくなったんじゃない?」


「……え……?」


「表情が違う気がするわ」


 ひかげは慌てて俯いた。


「……そ、そんなこと……」


「ふふ。いいことじゃない」


 みゆが優しく笑った。


「和真と楽しい思い出ができたんだね」


「……は、はい……」


 ひかげは恥ずかしそうに頷いた。


 すると、ピピが勢いよく身を乗り出す。


「ねえねえ! 写真見せて! 何食べたの!? 何見たの!?」


「ピピ、落ち着けって」


 和真が笑いながら宥める。


 ひかげも、思わず小さく笑った。


「……写真……いっぱい、撮りました……」


「ほんと!? 見たい見たい!」


「……はい……!」


 ひかげは端末を取り出し、みんなへ写真を見せ始めた。


 水族館の魚たち。


 大きなジンベエザメ。


 観覧車から見えた景色。


 そして、和真と並んで写った一枚。


「わぁ! いい写真!」


 ピピが嬉しそうに声を上げる。


「ひかげ、すっごく嬉しそう!」


「……っ!」


 ひかげの顔が真っ赤になった。


「……は、恥ずかしいです……」


「えー! 可愛いのに!」


「……うぅ……」


 ひかげは端末を胸元へ抱き寄せた。


 そんな様子を見て、みゆが楽しそうに笑っている。


「ひかげ、本当にいい旅行になったんだね」


「……はい……」


 ひかげは小さく頷いた。


「……ほんまに……いい旅行でした……」


 その言葉には、迷いがなかった。


◇


 夜。


 自分の部屋へ戻ったひかげは、荷物を片づけていた。


 旅行用の鞄。


 着替え。


 買ってきたお土産。


 そして、ジンベエザメのぬいぐるみ。


「……ふふ……」


 ひかげはぬいぐるみを手に取り、ベッドの枕元へ置いた。


 その隣に腰を下ろす。


 端末を取り出し、今日撮った写真を開いた。


 和真と一緒に写った写真。


 少し緊張した自分。


 優しく笑っている和真。


「……和真さん……」


 小さく名前を呼ぶ。


 それだけで、胸の奥が温かくなった。


 昨日の夜。


 あんなに勇気を振り絞って、自分の姿を見てもらった。


 今日の朝。


 初めて、自分から手を握った。


 たった二日間。


 けれど、ひかげにとっては大きな二日間だった。


「……私……」


 ひかげは自分の右手を見つめた。


 和真の手を握ったときの感触。


 優しく握り返してくれた温もり。


 まだ、はっきりと覚えている。


「……頑張れた……かな……」


 小さく呟く。


 もっと近づきたい。


 もっと一緒にいたい。


 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっている。


 けれど。


 それを言葉にするには、まだ勇気が足りない。


 手を繋ぐだけで、胸がいっぱいになってしまうのだから。


「……今は……これで……ええよね……」


 ひかげは小さく笑った。


 焦らなくてもいい。


 無理をしなくてもいい。


 今までの自分にはできなかったことが、今日はできた。


 それだけで、十分だった。


 ひかげは端末を枕元へ置き、ジンベエザメのぬいぐるみをそっと抱き寄せた。


「……また……一緒に……行きたいな……」


 静かな部屋に、小さな声が響く。


 ひかげは目を閉じた。


 思い浮かぶのは、かつての誰かの姿ではなく。


 水槽の前で笑う和真。


 観覧車から見えた青い海。


 そして。


 自分から握った、温かな手。


「……おやすみなさい……和真さん……」


 その夜、ひかげは穏やかな笑みを浮かべながら眠りについた。


 まだ、大胆なことなんてできない。


 自分の気持ちを伝えることさえ、難しい。


 けれど。


 次に二人で出かけるときは、きっと。


 今よりも自然に、あの手を握ることができる。


 そんな小さな自信を胸に。


 ひかげの初めての大阪旅行は、静かに幕を閉じた。

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