第三十四話 ふたりで辿る記憶
午前三時半。
枕元に置いていたスマートフォンが、小さな振動音を立てた。
「……ん、もう時間か」
和真は布団から手を伸ばし、アラームを止めた。
窓の外はまだ真っ暗だった。
いつもなら、もう少し眠っている時間だ。
だが、今日は違う。
ひかげとの大阪旅行の日だった。
「よし、起きるか」
眠気を振り払い、ゆっくりと身体を起こす。
顔を洗い、昨夜用意しておいた服に着替えると、旅行鞄の中身をもう一度確認した。
財布、充電器、着替え、洗面用具。
新幹線とホテルの予約情報も、スマートフォンに保存してある。
「……大丈夫そうだな」
鞄を閉じ、台所へ向かった。
まだ誰も起きていない母屋は、普段の賑やかさが嘘のように静かだった。
和真は軽く朝食を済ませると、お茶を飲みながら今日の予定を確認する。
始発の電車に乗り、途中で新幹線へ乗り換える。
大阪に到着するのは午前中の早い時間だ。
その後、ホテルに荷物を預け、ひかげが訪ねたいと話していた場所へ向かうことになっている。
大学と、かつて彼女の身体の持ち主が暮らしていた場所。
そこへ行けば何か分かるのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
「……まあ、焦る必要はないよな」
和真はスマートフォンを置いた。
今回の旅行は、ひかげの過去に関わる場所を訪ねることが目的だ。
だが、それだけで終わらせるつもりはない。
せっかく二人で大阪へ行くのだから、楽しい思い出も作りたかった。
そんなことを考えていると、玄関の方から控えめなノックの音が聞こえた。
コンコン。
「……和真さん」
「ひかげ? もう準備できたの?」
和真は立ち上がり、玄関へ向かった。
扉を開ける。
そして、そこに立っていたひかげを見た瞬間、思わず足を止めた。
「…………え?」
旅行鞄を持ったひかげが、少し緊張した様子で立っている。
淡い紫色のゆったりとしたブラウスに、濃紺のロングスカート。
柔らかな生地が身体の動きに合わせて自然に揺れ、落ち着いた色合いがひかげの雰囲気によく似合っていた。
肩には小さな斜め掛け鞄。
足元には歩きやすそうな靴を合わせている。
そして、長い黒髪には控えめな紫色の髪飾りが添えられていた。
内側から覗く紫色の髪ともよく合っている。
普段のひかげも十分可愛らしい。
だが、今日はそれとは少し違った。
いつもの控えめでおとなしい雰囲気に、柔らかな華やかさが加わっている。
和真は思わず、その姿を見つめてしまった。
「……和真さん?」
ひかげが不安そうに首を傾げる。
「……あの、どうかしましたか?」
「いや……ちょっと……」
「……え?」
「ひかげ、それ……」
和真は改めて彼女を見た。
「……すごい」
「……?」
「すごく似合ってる」
思わず笑みがこぼれる。
「めちゃくちゃ可愛いよ、ひかげ」
「……っ!?」
ひかげの肩が大きく跳ねた。
そして、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。
「……か、和真さん……?」
「ごめん。びっくりしたら……」
和真は少し照れくさそうに笑った。
「いつもと雰囲気が違うから。思わず見惚れて……」
「…………っ!」
ひかげは完全に固まってしまった。
旅行鞄を持つ両手に、ぎゅっと力が入る。
「……み、見惚れ……?」
「うん。可愛いし、すごく綺麗だと思う」
和真は素直に頷いた。
「そのブラウスもスカートも似合ってるし、髪飾りもいいね。いつもと少し印象が違って、なんか新鮮」
「…………」
「ひかげ?」
「……あ、あの……」
ひかげは真っ赤になった顔を俯かせた。
「……そ、そこまで言われると……」
「あ、ごめん。褒めすぎたかな?」
「……い、いえ!」
ひかげが慌てて首を振る。
「……嫌やないです。全然……」
そして、消え入りそうな声で付け加えた。
「……すごく、嬉しいです」
和真は微笑んだ。
「そっか。ならよかった」
ひかげはしばらく俯いていたが、やがて小さく顔を上げた。
「……これ、みゆさんと一緒に買うたんです」
「みゆと買い物行ってたね」
「……はい」
ひかげは少しだけスカートの裾を摘まんだ。
「……旅行に着ていく服を、一緒に選んでもろうて」
「なるほど。だから内緒にしてたんだ」
「……はい」
少し恥ずかしそうに頷く。
「……当日まで、和真さんには見せんとこうって」
「それは大成功だね」
「……え?」
「本当に驚いたよ。こんなに可愛い格好で来ると思ってなかったから」
「…………っ」
ひかげは再び俯いた。
だが、今度は隠しきれないほど嬉しそうに笑っていた。
「……よかった」
小さく呟く。
「……昨日、何度も鏡を見てしもうたんです」
「そうなの?」
「……似合ってるか、分からへんようになって」
ひかげは自分の服へ視線を落とした。
「……和真さんが、どう思わはるかなって……ずっと気になってました」
和真はその言葉を聞き、もう一度彼女を見る。
「そっか。俺のために、そこまで考えてくれたんだ」
「……はい」
ひかげの返事は小さかった。
けれど、はっきりと聞こえた。
「ありがとう、ひかげ」
「……え?」
「すごく嬉しいよ」
和真は優しく笑った。
「今日はその可愛い格好のひかげと一緒に旅行できるんだ」
「…………」
ひかげは何も言えなくなった。
ただ、赤くなった顔を隠すように俯いている。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……和真さんは、ほんまに……ずるいです」
「え?」
「……何でもありません」
ひかげは小さく首を振った。
けれど、その口元には幸せそうな笑みが浮かんでいた。
◇
「おはよう、二人とも!」
突然、廊下の奥から元気な声が響いた。
振り返ると、フェンリスが上着を羽織って歩いてくるところだった。
「フェンリス? もう起きてたのか」
「何言ってるの。見送りするって言っただろ?」
「覚えてるけど、まだ四時前だぞ」
「知ってるよ。僕だって時計くらい見られるって」
フェンリスは少し不満そうに頬を膨らませた。
そして、ひかげの姿を見る。
「おっ!」
大きな尻尾がぴんと立った。
「ひかげ! その服にしたんだ!」
「……はい」
「いいじゃないか! すっごく似合ってるよ!」
「……ありがとうございます」
「和真にも見せた?」
「……はい」
「何て言ってた?」
ひかげは一瞬、和真を見た。
そして、再び俯いてしまう。
「……その……」
「ん?」
「……か、可愛いって……」
「へえ!」
フェンリスは楽しそうに笑った。
「よかったじゃないか!」
「……はい」
「で、和真。本当に可愛いと思った?」
「もちろん」
和真は迷わず答えた。
「正直、びっくりしたよ。いつものひかげも可愛いけど、今日は特に綺麗だなって」
「……っ!」
ひかげが両手で顔を覆った。
「……和真さん……!」
「ほら、ひかげ。和真もこう言ってるんだから、自信持ちなよ」
フェンリスは笑いながら、ひかげの肩を軽く叩いた。
「……は、はい」
小さく頷くひかげ。
その耳まで赤くなっているのを見て、フェンリスはますます楽しそうに笑った。
「それにしても、いいなあ」
フェンリスは二人の旅行鞄へ目を向けた。
「もうすぐ出発なんだよね?」
「ああ。そろそろ時間だな」
「そっか」
フェンリスは頷いた。
その声が、ほんの少しだけ小さくなる。
「……僕も早く行きたいな」
「フェンリス?」
「ん? 何でもないよ」
フェンリスはすぐに笑った。
「僕の旅行は、ちゃんと予定が決まってからだからね」
「うん。楽しみにしてるよ」
「……っ」
フェンリスの尻尾がぴくりと動いた。
「……ほんと?」
「もちろん」
「そっか」
フェンリスは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、それまで楽しみにしててよ」
「ああ」
そのやり取りを、ひかげは静かに見つめていた。
フェンリスが自分たちの旅行を心から応援してくれていることは分かる。
けれど、少しだけ寂しそうにも見えた。
「……フェンリスさん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「何が?」
「……順番、譲っていただいて」
フェンリスは少しだけ目を丸くした。
そして、ふっと笑う。
「気にしなくていいって」
「……でも」
「僕がそうしたかったんだから」
フェンリスはひかげの肩へそっと手を置いた。
「だから、今日はいっぱい楽しんでおいでよ」
「……はい」
「それと!」
フェンリスは人差し指を立てる。
「遠慮しちゃ駄目だよ?」
「……え?」
「せっかく和真と二人なんだから、甘えたい時はちゃんと甘えること!」
「……っ!」
ひかげの顔が再び赤くなった。
「フェ、フェンリスさん……!」
「何? 違うの?」
「……ち、違いませんけど……」
「ならいいじゃないか!」
フェンリスは満足そうに笑った。
和真は二人のやり取りを聞きながら苦笑する。
「俺にも聞こえてるんだけど」
「聞こえるように言ってるんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。和真もちゃんとひかげのこと見てあげてね」
「もちろん。そのつもりだよ」
和真が頷くと、フェンリスは満足そうに笑った。
◇
「二人とも、おはよう」
廊下の奥から、もう一人姿を見せた。
眠そうに目を擦りながら歩いてきたのは、みゆだった。
「みゆも起きてたの?」
「うん。見送りくらいしたいからね」
みゆは小さく欠伸をしたあと、ひかげへ視線を向けた。
「あっ、ひかげちゃん!」
「……おはようございます、みゆさん」
「その服にしたんだね!」
「……はい」
「ふふっ。やっぱり可愛い!」
みゆは嬉しそうに笑った。
そして、和真へ顔を向ける。
「ねえ、和真。どうだった?」
「どうって?」
「ひかげちゃんの服!」
「ああ、すごく似合ってるよ」
和真は頷いた。
「正直、最初は見惚れちゃった」
「えっ!」
みゆが目を丸くする。
そして、にやりと笑った。
「へえー。和真がそこまで言うなんて珍しいね」
「そうか?」
「そうだよ!」
みゆはひかげの肩を抱き寄せた。
「よかったね、ひかげちゃん!」
「……み、みゆさん……」
「頑張って選んだ甲斐があったじゃない!」
「……はい」
ひかげは恥ずかしそうに俯いた。
けれど、その表情は嬉しさを隠しきれていない。
「それにしても、ひかげちゃん」
「……はい?」
「昨日、何度も確認してたもんね」
「……っ!」
ひかげが慌てて顔を上げた。
「み、みゆさん!」
「ふふっ。和真に可愛いって言ってもらえるかなって」
「……そ、それは……!」
みゆは楽しそうに笑った。
和真はそんな二人を見ながら、少し照れくさそうに頭を掻く。
「そうだったのか」
「……あの……」
ひかげは困ったように俯いた。
「……もう、その話は……」
「あははっ! ごめん、ごめん!」
みゆは笑いながら、ひかげの肩を軽く叩いた。
◇
やがて、出発の時間が近づいてきた。
和真が旅行鞄を持ち上げる。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「……はい」
ひかげも鞄を持ち直した。
外へ出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
空にはまだ星が残っている。
普段なら聞こえてくる鳥の声も、まだほとんど聞こえなかった。
「寒くない?」
「……大丈夫です」
「眠くなったら、電車で寝てもいいからね」
「……はい。和真さんも、無理せんといてくださいね」
「ありがとう」
そんな会話をしながら、二人は門の方へ向かった。
その後ろを、フェンリスとみゆもついてくる。
予約していたタクシーが到着すると、和真は荷物を積み込んだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん! 楽しんできてね!」
みゆが大きく手を振る。
フェンリスも笑顔で頷いた。
「ひかげ!」
「……はい」
「いっぱい楽しんでくるんだよ!」
「……ありがとうございます」
「それと、和真!」
「ん?」
「ひかげのこと、頼んだからね!」
「ああ。任せて!」
和真が笑う。
フェンリスは満足そうに頷いた。
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「……ちゃんと、二人で楽しんできてね」
和真はその言葉に微笑んだ。
「もちろん。ありがとうな、フェンリス」
「……うん!」
ひかげも二人へ向き直った。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
「気をつけてね!」
タクシーの扉が閉まる。
ゆっくりと車が動き出した。
窓の外では、フェンリスとみゆが手を振っている。
ひかげも小さく手を振り返した。
やがて、二人の姿が見えなくなる。
それまで、フェンリスはずっと笑っていた。
◇
車の姿が完全に見えなくなっても、フェンリスはしばらく門の前に立っていた。
「……行っちゃったね」
隣で、みゆが呟く。
「うん」
「寂しい?」
「別に」
フェンリスはすぐに答えた。
「二日で帰ってくるんだから」
「そうだね」
「それに、ひかげも楽しみにしてたし」
「うん」
「……僕だって、ちゃんと楽しんできてほしいと思ってるよ」
みゆはフェンリスの横顔を見た。
その言葉が本心なのは分かっている。
けれど、それだけではないことも。
「フェンリス」
「何?」
「寒いし、中に戻ろっか」
「……うん」
二人は並んで玄関へ向かった。
歩きながら、フェンリスがぽつりと呟く。
「……僕も、早く行きたいな」
みゆは足を止めなかった。
「うん」
「和真と二人で、旅行」
「……そうだね」
フェンリスの尻尾が、ゆっくりと下がる。
「自分で皆に先に行ってって言ったのにさ」
「うん」
「……やっぱり、ちょっと羨ましいよ」
みゆは隣を歩くフェンリスを見つめた。
そして、そっとその手を握る。
「フェンリスの番も、ちゃんと来るよ」
「……分かってる」
「その時は、いっぱい楽しんできてね」
フェンリスは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「……うん」
みゆの手を握り返す。
「絶対、そうする」
まだ薄暗い朝。
二人は静かに家の中へ戻っていった。
◇
最寄りの駅へ到着した頃には、空の端が僅かに白み始めていた。
和真がタクシーの料金を支払い、ひかげと一緒に駅へ向かう。
まだ早朝ということもあり、人の姿はまばらだった。
「ひかげ、疲れてない?」
「……大丈夫です」
「眠かったら、電車で寝ていいからね」
「……はい」
改札を通り、ホームへ向かう。
ひかげは和真の少し後ろを歩いていたが、途中で足を速め、隣へ並んだ。
「……和真さん」
「ん?」
「……あの」
「どうした?」
ひかげは少し迷ったあと、そっと口を開いた。
「……手、繋いでもええですか?」
和真は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
そして、すぐに微笑む。
「もちろん」
右手を差し出すと、ひかげはおずおずと手を重ねた。
指先が触れる。
ひかげは少しだけ恥ずかしそうに俯いた。
「……ありがとうございます」
「そんなに遠慮しなくてもいいのに」
「……そうなんですけど」
ひかげは繋いだ手を見つめた。
「……今日は、頑張ろうと思って」
「頑張る?」
「……はい」
「何を?」
「……色々、です」
和真が笑う。
「そっか。じゃあ、楽しみにしてるよ」
「……はい」
ひかげは繋いだ手を、ほんの少しだけ強く握った。
やがて始発の電車がホームへ入ってくる。
二人は車内へ乗り込んだ。
まだ乗客の少ない車内で、並んで腰を下ろす。
電車がゆっくりと動き始めた。
窓の外には、少しずつ明るくなっていく街並みが広がっていた。
◇
何度か電車を乗り継ぎ、新幹線のホームへ到着した頃には、すっかり朝になっていた。
和真はスマートフォンで乗車位置を確認する。
「ひかげ、こっちだよ」
「……はい」
ひかげは鞄を持ち直し、和真の隣へ並んだ。
ホームには旅行客や仕事へ向かう人たちが集まり始めている。
「そういえば、ひかげは新幹線に乗るのも久しぶり?」
「……そうですね。皆さんと旅行した時以来です」
「そっか」
和真は頷いた。
「今日はあの時と違って二人だけだから、少し静かかもしれないな」
「……ふふ」
ひかげが小さく笑う。
「……あの時は、賑やかでしたね」
「特にピピがな」
「……はい」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、新幹線がホームへ入ってきた。
白い車体がゆっくりと速度を落とし、二人の前で停車する。
「じゃあ、乗ろうか」
「……はい」
二人は車内へ乗り込んだ。
予約していた席は二人掛けで、窓側がひかげだった。
荷物を棚へ上げ、和真も隣へ腰を下ろす。
「飲み物、出しておこうか?」
「……お願いします」
ひかげの鞄から飲み物を取り出して渡すと、彼女は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ほどなくして、発車の案内が流れた。
新幹線がゆっくりと動き始める。
「……出発しましたね」
「そうだな」
窓の外のホームが、少しずつ遠ざかっていく。
ひかげは景色を眺めながら、小さく呟いた。
「……ほんまに、二人きりなんですね」
「うん?」
「……いつもは、皆さんが一緒ですから」
「ああ、確かに」
和真は頷いた。
普段の生活では、誰かと二人になっても、すぐに別の誰かが顔を出す。
それが当たり前になっていた。
けれど、今は違う。
隣にいるのは、ひかげだけだ。
「今日はひかげの行きたいところに行こう」
「……和真さんは?」
「俺?」
「……和真さんも、行きたいところがあれば……」
「もちろんあるよ。でも、ひかげと一緒なら、どこでも楽しそうだな」
「…………」
ひかげはゆっくり顔を向けた。
「……ずるいです」
「え?」
「……そういうことを、普通に言うので」
和真は首を傾げた。
「何か変なこと言った?」
「……いいえ」
ひかげは小さく首を振った。
「……嬉しかっただけです」
そう言って、再び窓の方へ顔を向けた。
その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。
◇
しばらくして、和真がスマートフォンで今日の予定を確認していると、袖が小さく引かれた。
「ん?」
隣を見る。
ひかげが俯いたまま、和真の袖を指先で摘まんでいた。
「どうした?」
「……あの」
「うん?」
「……少しだけ」
声が小さくなる。
「……手を、繋いでもいいですか?」
和真は微笑んだ。
「もちろん」
右手を差し出すと、ひかげはそっとその手に自分の手を重ねた。
指先が触れる。
温かい。
「……ありがとうございます」
「さっきも繋いだだろ? そんなに毎回聞かなくてもいいよ」
「……それは、そうなんですけど」
ひかげは恥ずかしそうに俯いた。
「……まだ、慣れへんので」
「そっか」
和真は笑った。
ひかげは少しだけ身体を寄せる。
肩が触れるか触れないか。
その距離で、二人は手を繋いだまま窓の外を眺めていた。
やがて、ひかげが小さな声で呟く。
「……和真さん」
「ん?」
「……少し、怖いんです」
和真は隣を見た。
「大阪に行くのが?」
「……はい」
ひかげはゆっくり頷いた。
「……行ってみたいと思っていたのは、本当なんです。でも……」
言葉が途切れる。
和真は急かさず、彼女が続きを話すのを待った。
「……何も分からへんかったら、どうしようって」
「何も分からなくても、いいんじゃないかな」
「……え?」
「行ってみたいと思ったから、行く。それだけでも十分だと思うよ」
ひかげは顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「うん。何か分かるかもしれないし、何も分からないかもしれない。でも、行ってみなきゃ分からないだろ?」
「……はい」
「それに、今日は俺も一緒だから」
和真は笑った。
「一人で色々考えなくてもいいよ」
ひかげの唇が、小さく震えた。
「……和真さん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「まだ何もしてないよ」
「……そんなこと、ありません」
ひかげは小さく首を振った。
そして、繋いだ手をほんの少し強く握った。
「……和真さんが、一緒にいてくれるだけで……」
そこまで言って、恥ずかしそうに俯く。
「……安心するんです」
和真は何も言わず、優しく手を握り返した。
ひかげは少しだけ身体を寄せる。
そして、和真の肩へそっと頭を預けた。
「……少しだけ、このままでいてもいいですか?」
「うん。いいよ」
「……ありがとうございます」
ひかげは目を閉じた。
自分の身体に関わる、まだ知らない過去。
そこを訪れることへの不安は、完全には消えていない。
それでも、今は不思議と怖くなかった。
隣には和真がいる。
温かな手が、自分の手を握り返してくれている。
それだけで十分だった。
やがて、ひかげは小さく呟いた。
「……大阪、楽しみです」
「ああ。いっぱい楽しもうな」
「……はい」
窓の外には、朝の光を受けた街並みが流れていく。
新幹線は二人を乗せ、大阪へ向かって走り続けていた。
◇
大阪に到着したのは、まだ午前中の早い時間だった。
新幹線を降りた途端、ホームの賑やかさが二人を包み込む。
「……人、多いですね」
「そうだな。朝から賑やかだ」
和真は周囲を見回しながら、ひかげが隣にいることを確認した。
「はぐれないようにしような」
「……はい」
ひかげは小さく頷いた。
そして、そっと和真の服の袖を摘まむ。
和真が気づいて手を差し出すと、今度は迷わずその手を握った。
「……ありがとうございます」
「もう、お礼はいいって」
「……ふふ」
ひかげが小さく笑う。
二人は人の流れに合わせて歩き始めた。
まずは予約しているホテルへ荷物を預ける予定だ。
その後、ひかげが訪ねたいと話していた大学へ向かう。
「ひかげ、お腹空いてない?」
「……少しだけ」
「じゃあ、荷物を預けたら何か食べようか」
「……はい」
和真はスマートフォンで道順を確認した。
ひかげはその隣で、街の様子を静かに眺めている。
初めて見るはずの景色。
知らないはずの街。
けれど、どこか懐かしい。
そんな不思議な感覚が、胸の奥にあった。
「……和真さん」
「ん?」
「……やっぱり、少しだけ……」
ひかげは言葉を探すように周囲を見回した。
「……知ってる気がします」
「この辺り?」
「……はい。でも、はっきりとは……」
和真は頷いた。
「そっか。じゃあ、ゆっくり見て回ろう」
「……はい」
ひかげは繋いだ手を見つめた。
そして、小さく微笑む。
不安はまだ残っている。
それでも、今は少しだけ楽しみの方が大きかった。
これから何を見るのか。
何を思い出すのか。
そして、和真とどんな時間を過ごせるのか。
ひかげは隣を歩く和真を見上げた。
「……和真さん」
「どうした?」
「……今日は、よろしくお願いします」
和真は笑った。
「こちらこそ。よろしくな、ひかげ」
二人は手を繋いだまま、朝の街へ歩き出した。
大阪の街は、思っていた以上に賑やかだった。
駅を出ると、高い建物が並ぶ大通りに、車の走る音や人々の話し声が絶え間なく響いている。
「……すごいですね」
ひかげは辺りを見回しながら、小さく呟いた。
「朝から人が多いな」
和真はスマートフォンで時刻を確認した。
大阪に到着したのは、午前九時前。
予定通りの到着だった。
「まずはホテルに荷物を預けようか」
「……はい」
「ここから少し電車で移動するみたいだ」
和真が歩き出そうとすると、ひかげがそっと手を伸ばしてきた。
「……あの」
「ん?」
「……手、繋いでもええですか?」
和真は微笑んで右手を差し出した。
「もちろん」
「……ありがとうございます」
ひかげはその手を握る。
出発したばかりの頃は、手を繋ぐだけでも随分と緊張していた。
けれど、何度か繰り返すうちに、少しずつ自然にできるようになってきた。
「じゃあ、行こうか」
「……はい」
二人は人の流れに合わせて歩き始めた。
◇
ホテルに到着したのは、午前九時半頃だった。
チェックインにはまだ早かったが、フロントで荷物を預かってもらうことができた。
「これで身軽になったな」
「……そうですね」
ひかげは小さな斜め掛け鞄を確かめるように触った。
必要なものだけを持って出かけられるよう、みゆと一緒に選んだものだ。
「それじゃあ、お昼まで少し時間があるし、この辺りを歩いてみようか」
「……はい」
「どこか気になるところがあったら言ってね」
ひかげは嬉しそうに頷いた。
「……ありがとうございます」
二人はホテルを出て、近くの商店街へ向かった。
通りには飲食店や土産物屋、雑貨店などが並んでいた。
まだ開店準備をしている店もあれば、すでに多くの客で賑わっている店もある。
「……色んなお店がありますね」
「そうだな。見てるだけでも面白いな」
ひかげは周囲を見回しながら、ゆっくりと歩いていた。
店先に並ぶ小物。
大阪らしい派手な看板。
次々と聞こえてくる、威勢のいい店員たちの声。
そのどれもが新鮮だった。
「……あっ」
ひかげが足を止めた。
「どうした?」
「……あれ」
指差した先には、小さな雑貨店があった。
店先には動物を模した小さな置物が並んでいる。
「可愛いな」
「……はい」
ひかげは牛の置物を見つめていた。
丸みを帯びた身体に、小さな角。
どこか愛嬌のある顔をしている。
「ひかげにちょっと似てるかも」
「……え?」
「いや、何となく」
和真が笑う。
ひかげは置物を見つめ直した。
「……私、こんな顔してますか?」
「顔っていうか、雰囲気かな。可愛らしい感じが」
「……っ」
ひかげは俯いた。
「……また、そういうこと言わはる」
「え?」
「……何でもありません」
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
和真は置物を手に取った。
「記念に買っていく?」
「……ええんですか?」
「もちろん」
「……でも、まだ来たばかりですし」
「記念になるならいいんじゃない?」
ひかげは少し考えてから頷いた。
「……それなら、自分で買います」
「そっか」
「……今日の思い出にしたいので」
ひかげは大切そうに置物を持ち、店内へ向かった。
購入した小さな袋を受け取ると、嬉しそうに胸元へ抱える。
「……大事にします」
「うん」
和真は微笑んだ。
◇
それから二人は、商店街をゆっくり見て回った。
大阪らしい土産物を眺めたり、気になる店のメニューを覗いたり。
途中、写真を撮りながら歩く観光客の姿を見かけ、和真もスマートフォンを取り出した。
「ひかげ、せっかくだから写真撮らない?」
「……写真、ですか?」
「うん。二人で」
「……っ」
ひかげは少し驚いたあと、小さく頷いた。
「……はい」
二人は人通りの邪魔にならない場所へ移動した。
和真がスマートフォンを構える。
「ひかげ、もう少しこっちに寄れる?」
「……はい」
ひかげは一歩近づいた。
「もうちょっと」
「……こ、これくらいでしょうか」
「うん。いい感じ」
和真が画面を確認する。
そこには、少し緊張した様子のひかげが映っていた。
「笑ってみて」
「……わ、笑う……」
ひかげは困ったように口元を動かした。
和真は思わず笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「……でも、和真さんが近いので」
「写真撮るんだから仕方ないだろ」
「……そうなんですけど」
ひかげが恥ずかしそうに俯く。
その様子がおかしくて、和真はまた笑った。
「ほら、撮るよ」
「……はい」
シャッター音が鳴る。
画面には、少し照れたように微笑むひかげと、楽しそうに笑う和真が写っていた。
「うん、いい写真だな」
「……見せてもらってもええですか?」
「もちろん」
和真が画面を見せると、ひかげはじっと見つめた。
「……ふふ」
小さく笑う。
「……私、嬉しそうですね」
「実際、嬉しくない?」
「……嬉しいです」
ひかげは素直に頷いた。
「……すごく」
「じゃあ、よかった」
和真は写真を保存した。
「あとで送るね」
「……ありがとうございます」
ひかげは少しだけ考えたあと、和真の袖を摘まんだ。
「……あの」
「ん?」
「……もう一枚、撮ってもええですか?」
「もちろん」
「……今度は、もう少し近くで」
和真は少し驚いたあと、微笑んだ。
「いいよ」
ひかげはそっと和真の腕に身体を寄せた。
そして、恥ずかしそうに微笑む。
もう一度、シャッター音が鳴った。
今度の写真には、肩を寄せ合う二人の姿が写っていた。
ひかげはその写真を見つめながら、幸せそうに笑った。
◇
十一時が近づいた頃、二人は昼食を取ることにした。
「ひかげ、お腹空いてきた?」
「……はい。少し」
「じゃあ、そろそろお昼にしようか」
「……はい」
ひかげは少し考えてから、先ほど歩いていた道を振り返った。
「……あの」
「ん?」
「……さっき、いい匂いがしたお店があったんです」
「お好み焼き?」
「……はい」
「じゃあ、そこに行ってみようか」
ひかげが嬉しそうに頷く。
二人は来た道を少し戻り、商店街の一角にある小さなお好み焼き屋へ入った。
ちょうど開店したばかりらしく、店内にはまだ空席が多かった。
「いらっしゃいませー!」
元気な声に迎えられ、二人は奥のテーブル席へ案内された。
店内には鉄板で焼かれるソースの香ばしい匂いが漂っている。
「……ここで焼くんですね」
ひかげが目の前の鉄板を見つめた。
「そうみたいだな」
「……楽しみです」
和真はメニューを広げた。
「豚玉に、海鮮、ミックス……色々あるな」
「……迷いますね」
「違うものを頼んで、半分ずつ食べる?」
「……ええんですか?」
「もちろん」
ひかげは嬉しそうに頷いた。
「……それなら、お願いします」
二人は豚玉と海鮮のお好み焼きを一枚ずつ注文した。
しばらくして、店員が生地と具材を運んでくる。
和真が焼き方を尋ねると、店員は手際よく説明してくれた。
「じゃあ、俺が焼こうか」
「……お願いします」
「ひかげもやってみる?」
「……あの、失敗してしまいそうなので」
「大丈夫だよ。そんなに難しくないって」
和真は笑いながら、生地を鉄板へ流した。
ジュウッという音が響き、白い湯気が立ち上る。
「……わぁ」
ひかげが小さく声を上げた。
「いい匂いですね」
「まだ焼き始めたばかりだぞ」
「……それでも、美味しそうです」
和真が笑う。
生地の表面が少しずつ固まり、焼けた部分から香ばしい匂いが漂い始める。
「そろそろ裏返してみる?」
「……私が、ですか?」
「うん。やってみよう」
ひかげは少し緊張した様子でヘラを受け取った。
和真に手順を教えてもらいながら、生地の下へ差し込む。
「……こう、でしょうか」
「そうそう。あとは思い切って」
「……えいっ」
ひかげが生地を持ち上げる。
少し傾いたものの、どうにか綺麗に裏返すことができた。
「おお、上手い!」
「……で、できました」
ひかげが嬉しそうに笑う。
「すごいな。初めてなのに」
「……和真さんが、教えてくださったからです」
「そんなことないよ。ひかげが上手だったんだって」
ひかげは恥ずかしそうに俯いた。
「……ありがとうございます」
やがて二枚のお好み焼きが焼き上がった。
ソースを塗り、マヨネーズと青のりをかける。
和真が食べやすい大きさに切り分け、ひかげの皿へ取り分けた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
「熱いから気をつけてね」
「……はい」
ひかげは小さく息を吹きかけてから、一口食べた。
「…………!」
目元は長い前髪で隠れていたが、驚いているのが分かった。
「どう?」
「……美味しいです!」
いつもより少し大きな声だった。
和真は思わず笑った。
「そっか。よかった」
「……和真さんも、食べてみてください」
「うん」
和真も一口食べる。
ふんわりとした生地に、香ばしいソースの味が広がった。
「うん、美味いな」
「……ですよね」
ひかげは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、和真まで楽しくなってくる。
食事の間、二人は大阪で食べてみたいものや、翌日の観光について話し続けた。
ひかげも少しずつ緊張が解けてきたのか、自分から話題を出すことが増えていた。
そんな様子が、和真には何より嬉しかった。
◇
昼食を終えた二人は、電車を乗り継いで大学のある地域へ向かった。
駅に到着したのは、午後一時頃だった。
先ほどまでの賑やかな繁華街とは違い、周囲には住宅や小さな商店が並んでいる。
通りを歩く人の中には、学生らしい姿も多かった。
「……ここ、なんですね」
ひかげが小さく呟いた。
「ああ。調べた住所だと、この先みたいだよ」
「……はい」
和真はスマートフォンを確認し、歩き出した。
ひかげもその隣へ並ぶ。
最初は、特に変わった様子もなかった。
だが、大学へ近づくにつれて、ひかげの歩く速度が少しずつ遅くなっていった。
「……ひかげ?」
「……あの」
「どうした?」
ひかげは周囲を見回した。
並木道。
道路沿いの古い建物。
その先に見える、少し大きな交差点。
「……何やろ」
「ん?」
「……初めて来たはずなのに」
ひかげは言葉を探すように、ゆっくり辺りを見つめた。
「……知ってる気がするんです」
和真は足を止めた。
「この辺りを?」
「……はい」
ひかげは頷いた。
「……でも、何を知ってるのかは……分からへんのです」
胸の奥が落ち着かない。
初めて見るはずの景色なのに、なぜか懐かしい。
どこかで見たような気がする。
けれど、思い出そうとすると、その感覚はすぐに遠ざかってしまう。
「無理に思い出そうとしなくていいよ」
和真が優しく声をかけた。
「今日はゆっくり歩いてみよう」
「……はい」
ひかげは小さく頷いた。
二人は再び歩き出す。
やがて、大学の正門が見えてきた。
「……ここが」
ひかげは門の前で足を止めた。
広い敷地の奥には大きな校舎が並び、学生たちが行き交っている。
風に揺れる木々。
遠くから聞こえる話し声。
何の変哲もない、大学の日常風景だった。
「どう?」
和真が尋ねる。
「……分かりません」
ひかげは小さく首を振った。
「……懐かしい気はするんですけど」
「そっか」
「……すみません」
「謝ることじゃないよ」
和真は微笑んだ。
「来てみたかったんだろ? だったら、それだけでもよかったんじゃないかな」
「……はい」
ひかげは静かに頷いた。
門の向こうを見つめる。
行き交う学生たち。
楽しそうに話している男女。
友人同士で笑い合う姿。
その光景を見ていると、不思議と胸が温かくなった。
ここで誰かと笑ったことがあるのだろうか。
この道を、何度も歩いたのだろうか。
そんな疑問が、次々と浮かんでくる。
だが、答えは出なかった。
「……和真さん」
「ん?」
「……少し、この辺りを歩いてもええですか?」
「もちろん」
和真は頷いた。
「時間はあるし、気になるところがあったら行ってみよう」
「……ありがとうございます」
二人は正門を離れ、大学の周囲を歩き始めた。
◇
大学の周囲を歩き始めて、しばらく経った。
時刻は午後二時に近づいていた。
少し進むと、小さな公園が見えてきた。
ベンチがいくつか並び、木々の葉が秋の色に変わり始めている。
「少し休もうか?」
和真が尋ねる。
「……いえ、もう少し歩きたいです」
「分かった」
二人は公園の脇を通り、緩やかな坂道へ向かった。
ひかげは時折立ち止まり、周囲を見回していた。
何かを探しているようにも見える。
けれど、本人にも何を探しているのか分かっていなかった。
「……変ですね」
ひかげが呟いた。
「何が?」
「……この道、歩いたことがあるような気がして」
和真は道の先を見た。
特別変わったものはない、ごく普通の通りだった。
「もしかしたら、昔の記憶が少し残ってるのかもしれないな」
「……そう、なんでしょうか」
「分からないけどね」
和真は微笑んだ。
「気になるなら、もう少し歩いてみよう」
「……はい」
ひかげは小さく頷いた。
そして、再び歩き出そうとした。
その時だった。
ふと、誰かの視線を感じた。
「…………?」
ひかげは顔を上げた。
少し離れた歩道に、一人の男性が立っていた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
落ち着いた色の上着を着て、肩に鞄を提げている。
特に目立つところのない、ごく普通の男性だった。
だが。
目が合った。
「…………っ」
その瞬間だった。
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
何だろう。
この感覚は。
知らない人のはずだった。
初めて会う人のはずだった。
それなのに。
ひどく懐かしい。
ずっと昔から知っているような。
何度も顔を合わせていたような。
そんな不思議な感覚が、胸の奥に広がっていく。
男性も、ひかげを見つめていた。
最初は何気なく向けられた視線だった。
だが、次の瞬間。
その目が大きく見開かれた。
「…………」
男性が足を止める。
信じられないものを見たように、ひかげの顔を見つめていた。
ひかげも動けなかった。
なぜか、目を逸らすことができない。
何かを思い出しそうだった。
けれど、何も浮かんでこない。
ただ、胸の奥が温かい。
そして。
「…………っ!?」
突然、その温かさが消えた。
代わりに、胸を強く締め付けられるような感覚が押し寄せてくる。
「……っ、ぁ……」
息が詰まった。
どうして。
何で。
何も分からない。
ただ、ひどく苦しかった。
男性はしばらくひかげを見つめていたが、やがて小さく首を横に振った。
何かを否定するように。
自分自身に言い聞かせるように。
そして、ゆっくりと視線を逸らした。
そのまま踵を返し、歩き去っていく。
「…………」
ひかげは、その背中を見つめていた。
待って。
なぜか、そんな言葉が浮かんだ。
行かないで。
どうして。
自分でも理由が分からない。
知らない人なのに。
名前も知らない。
会ったこともないはずなのに。
なぜ、こんなにも胸が苦しいのだろう。
男性の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
その姿を見ているうちに、目の奥が熱くなった。
「……っ」
涙がこぼれそうになる。
ひかげは慌てて俯いた。
「……ひかげ?」
隣から、和真の声が聞こえた。
「どうした?」
ひかげは答えようとした。
だが、声が出なかった。
胸の奥が苦しい。
何かを失ったような。
大切なものが遠ざかっていくような。
そんな感覚だけが、いつまでも消えなかった。
「ひかげ?」
和真が心配そうに顔を覗き込む。
「気分悪い?」
「……ち、違います」
ひかげは小さく首を振った。
「……ただ」
「うん?」
「……分からへんのです」
声が震えた。
「……何で、こんな……」
言葉が続かない。
ひかげは胸元へ手を当てた。
痛い。
身体が傷ついているわけではない。
けれど、胸が締め付けられるように苦しかった。
「……ひかげ」
和真はそれ以上問い詰めなかった。
ただ、そっと彼女の肩へ手を添える。
「少し座ろうか」
「……はい」
二人は来た道を少し戻り、公園のベンチへ向かった。
◇
ベンチに腰を下ろしても、ひかげはしばらく俯いたままだった。
和真は隣に座り、何も言わずに待っていた。
風が吹く。
木々の葉が擦れ合い、乾いた音を立てた。
「……和真さん」
やがて、ひかげが小さく口を開いた。
「うん?」
「……少しだけ、手を……」
最後まで言う前に、和真が手を差し出した。
ひかげはその手を両手で包み込む。
ぎゅっと握った。
「……ありがとうございます」
「大丈夫?」
「……はい」
けれど、その声はまだ震えていた。
和真は隣で静かに待つ。
しばらくして、ひかげはぽつりと呟いた。
「……さっき、男の人が……」
「男の人?」
「……はい」
ひかげは顔を上げないまま続けた。
「……目が、合うたんです」
「うん」
「……知らん人のはずなんですけど……」
そこで言葉が途切れる。
ひかげは繋いだ手を見つめた。
「……懐かしかったんです」
「懐かしい?」
「……はい」
小さく頷く。
「……最初は、すごく温かい気持ちになって」
ひかげの声が震える。
「……でも、その人が行ってしもうたら……」
それ以上、言葉が続かなかった。
目の奥が再び熱くなる。
「……何でやろ……」
ひかげは俯いた。
「……知らん人やのに……」
頬を一筋の涙が伝った。
「……ひかげ」
和真はそっと彼女の背中に手を添えた。
ひかげは慌てて涙を拭う。
「……す、すみません」
「謝らなくていいよ」
「……でも……」
「無理に話さなくても大丈夫だから」
和真は穏やかに言った。
「落ち着くまで、ここにいよう」
「…………」
ひかげは小さく頷いた。
そして、少しだけ身体を寄せる。
「……和真さん」
「ん?」
「……このまま、少しだけ……」
「うん」
和真は優しく手を握り返した。
ひかげはその肩へ、そっと頭を預ける。
温かい。
先ほど感じた懐かしさとは違う。
胸を締め付けるような苦しさとも違う。
ただ、安心できる温もりだった。
「……和真さん」
「うん?」
「……私、変なんでしょうか」
「どうして?」
「……知らん人を見ただけで、泣きそうになって……」
和真は少し考えた。
「変じゃないと思うよ」
「……ほんまですか?」
「うん」
和真は頷いた。
「ひかげ自身にも、まだ分からないことがあるんだろ?」
「……はい」
「だったら、分からないままでもいいと思う」
ひかげが顔を上げる。
「……分からないまま、でも?」
「うん。今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
和真は微笑んだ。
「何か思い出すことがあったら、その時に考えよう」
「…………」
ひかげはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷く。
「……はい」
繋いだ手を、もう一度強く握った。
「……ありがとうございます」
和真は笑った。
「どういたしまして」
ひかげも、ほんの少しだけ笑った。
けれど。
先ほどの男性の顔が、頭から離れなかった。
驚いたように見開かれた目。
小さく首を振った仕草。
そして、去っていく背中。
思い出すたびに、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
ひかげはそっと目を閉じた。
自分のものではないはずの感情。
けれど、確かに自分の中に存在している感情。
それが何なのか、今はまだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
今、隣にいてほしいのは和真だった。
「……和真さん」
「ん?」
「……もう少しだけ、こうしててもええですか?」
「もちろん」
和真は優しく答えた。
ひかげは安心したように目を閉じる。
秋の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
和真の胸元に顔を埋めていたひかげは、しばらくしてから、そっと身体を離した。
「……すみません。長いこと、甘えてしもうて」
「気にしなくていいよ。少しは落ち着いた?」
「……はい」
ひかげは小さく頷いた。
大学の近くで出会った男性のことを思い出すと、まだ胸が苦しくなる。
それでも、こうして和真と過ごしているうちに、随分と気持ちは落ち着いていた。
「そろそろ夕飯にしようか」
「……そうですね」
「何か食べたいものある?」
ひかげは少し考え込んだ。
「……せっかくですし、大阪らしいものがええですね」
「じゃあ、たこ焼きはどう? 昼に食べたいって言ってただろ」
「……あっ」
ひかげの口元が緩んだ。
「……そうでしたね」
「それだけじゃ夕飯には少ないかもしれないから、他にも何か探そうか」
「……はい」
二人はスマートフォンで近くの店を調べ、夕食を取るためにホテルを出た。
◇
夜の大阪は、昼間とはまた違った賑わいを見せていた。
色鮮やかな看板が通りを照らし、あちこちから美味しそうな匂いが漂ってくる。
「……綺麗ですね」
ひかげが周囲を見回す。
「そうだな。昼間とは全然雰囲気が違う」
二人は人の流れに合わせて歩きながら、気になった店を覗いて回った。
最初に立ち寄ったのは、たこ焼き屋だった。
熱々のたこ焼きを二人で分け合い、その後も串カツなどを少しずつ楽しんだ。
「……美味しいです」
ひかげはたこ焼きを頬張り、幸せそうに笑った。
「熱くない?」
「……少し」
「ほら、気をつけないと」
「……ふふ。和真さんも、気をつけてくださいね」
和真も一つ口へ運ぶ。
「……熱っ」
「……あっ」
ひかげが慌てて飲み物を差し出した。
「……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。想像以上に熱かった」
「……ふふっ」
ひかげが口元を押さえて笑う。
「笑ったな?」
「……すみません。でも、和真さんも気をつけてって言うたばかりやのに」
「確かに、その通りだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
昼間の出来事が嘘のように、ひかげは穏やかな表情をしていた。
その後も何軒か店を見て回り、ホテルへ戻った頃には、すっかり夜になっていた。
◇
「……ふぅ」
部屋へ戻った和真は、上着を脱いで椅子へ掛けた。
「結構歩いたな」
「……そうですね」
ひかげも斜め掛け鞄を外し、テーブルの上へ置く。
「足、痛くない?」
「……大丈夫です。みゆさんと一緒に選んだ靴、歩きやすくて」
「それならよかった」
和真は冷蔵庫から飲み物を取り出し、ひかげへ渡した。
「はい」
「……ありがとうございます」
二人は窓際の椅子へ腰を下ろした。
眼下には大阪の夜景が広がっている。
しばらく景色を眺めていたひかげが、ぽつりと呟いた。
「……和真さん」
「ん?」
「……今日は、ほんまに楽しかったです」
「俺も楽しかったよ」
「……色々ありましたけど」
ひかげは少しだけ視線を落とした。
和真は頷く。
「そうだな」
「……でも、来てよかったです」
その言葉に、和真は微笑んだ。
「そっか。じゃあ、明日もいっぱい楽しもう」
「……はい」
ひかげも笑った。
やがて、和真が立ち上がる。
「じゃあ、先に風呂に入ってくるよ」
「……はい」
「ひかげも疲れてるだろうし、先に入る?」
「……いえ。和真さんから、どうぞ」
「分かった」
和真は着替えを持ち、浴室へ向かった。
扉が閉まる。
しばらくすると、シャワーの音が聞こえてきた。
ひかげは一人になった部屋で、膝の上に両手を重ねた。
「…………」
今日一日、何度も和真に手を繋いでもらった。
抱きしめてもらうこともできた。
それだけで、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
けれど。
「……もう少しだけ」
小さく呟く。
今朝、フェンリスに言われた言葉を思い出す。
遠慮しないこと。
甘えたい時は、ちゃんと甘えること。
ひかげは自分の胸元へ手を添えた。
今の自分は、和真にどう見えているのだろう。
可愛いと言ってくれた。
綺麗だとも言ってくれた。
けれど、それは今日買った服のおかげなのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
「……私自身は……」
そこで言葉を止める。
自分の身体は、普通の人間とは違う。
角も、耳も、尻尾もある。
そして、かつて別の女性のものだった身体。
和真はそんな自分を、どう思っているのだろう。
ひかげはしばらく俯いていた。
やがて、浴室からシャワーの音が止んだ。
◇
「お待たせ。ひかげも入っておいで」
風呂から出てきた和真が声をかけた。
「……はい」
ひかげは立ち上がる。
着替えを持ち、脱衣所へ向かおうとしてから、ふと足を止めた。
「……和真さん」
「ん?」
「……あの、少しだけ……」
「どうした?」
「……いえ」
ひかげは首を振った。
「……何でもありません」
そのまま脱衣所へ入り、扉を閉める。
和真は少し不思議そうに首を傾げたが、それ以上は気にせず、テレビの電源を入れた。
一方、脱衣所では。
「…………」
ひかげが鏡の前に立っていた。
外出用の装置を外す。
隠していた牛の耳と角が現れ、腰の後ろでは尻尾がゆっくりと揺れた。
いつもの姿。
人間に見えるように整えた姿ではなく、本来の自分の姿だった。
「……和真さん」
鏡に映る自分を見つめる。
長い黒髪。
内側に混じる紫色。
目元を覆う前髪。
そして、人間とは違う身体。
ひかげはそっと胸元へ手を添えた。
「……頑張らな」
小さく呟き、浴室へ入った。
◇
風呂から上がったひかげは、脱衣所の鏡の前で立ち尽くしていた。
身体を拭き、髪の水気も丁寧に取った。
あとは用意した部屋着に着替えるだけだった。
けれど。
「…………」
ひかげの視線が、畳んで置かれた部屋着へ向かう。
そして、自分の姿へ戻る。
身につけているのは、淡い色合いの上下お揃いの下着だけだった。
鏡の中には、見慣れた自分の姿がある。
牛の耳と角。
ゆっくりと揺れる尻尾。
普段は服の下に隠れている身体の輪郭も、今ははっきりと分かる。
「……恥ずかしい」
思わず両手で顔を覆った。
何を考えているのだろう。
こんな姿を、和真に見せようとしているなんて。
きっと驚かれる。
困らせてしまうかもしれない。
それでも。
今日だけは、少し勇気を出してみたかった。
和真に、自分を見てほしい。
服でも、髪飾りでもなく。
今の自分自身を。
「……よし」
ひかげは深く息を吸った。
そして、部屋着には手を伸ばさず、脱衣所の扉をそっと開けた。
◇
「和真さん……」
「ん?」
テレビを見ていた和真が振り返る。
そして。
「…………え?」
動きが止まった。
脱衣所の前に、ひかげが立っていた。
牛の耳と角を隠していない、いつもの本来の姿。
長い黒髪はまだ少し湿っており、内側の紫色が部屋の明かりを受けている。
けれど、和真が驚いたのはそこではなかった。
「ひ、ひかげ!?」
「……は、はい」
「な、何でその格好!?」
和真は慌てて顔を背けた。
そして、完全に背中を向ける。
「服! 服はどうした!?」
「……脱衣所に、あります」
「だったら着てきて!」
「…………」
ひかげは俯いた。
耳が小さく動き、尻尾が落ち着かなさそうに揺れている。
「……あの、和真さん」
「な、何?」
「……少しだけ……」
「うん?」
「……見てもらえませんか?」
「……え?」
和真は振り返りそうになったが、慌てて踏みとどまった。
「いやいや、無理だって!」
「……っ」
ひかげの肩が小さく震えた。
「……無理、ですか?」
「そういう格好は、さすがに……」
「…………」
返事がなくなった。
和真は背を向けたまま、困ったように頭を掻く。
「ひかげ?」
「…………」
「……怒った?」
「……いえ」
か細い声が返ってきた。
しばらくの沈黙。
そして。
「……やっぱり」
「ん?」
「……私には、魅力がないんですね」
「……え?」
和真が思わず顔を上げた。
背後から、ひかげの震える声が聞こえる。
「……今朝は、可愛いって……綺麗って言うてもらえて……」
「ひかげ?」
「……嬉しかったんです」
ひかげは両手を胸元で握りしめた。
「……せやから、少しだけ……自信が持てたんですけど……」
言葉が途切れる。
「……やっぱり、こんな姿は……」
「違う!」
和真は思わず声を上げた。
ひかげが驚いて顔を上げる。
「……え?」
「違うよ、ひかげ。そういうことじゃない」
「……でも」
「むしろ逆だよ」
「……逆?」
和真は背を向けたまま、少しだけ俯いた。
どう説明すればいいのか分からない。
けれど、このまま誤解させるわけにはいかなかった。
「……ひかげが、魅力的すぎるんだよ」
「…………え?」
ひかげの耳がぴくりと動いた。
「……それ、どういう……」
和真は少し迷ったあと、正直に答えた。
「……ちゃんと見続けたら、俺、普通じゃいられなくなりそうだから」
「…………っ!」
ひかげの顔が、一瞬で真っ赤になった。
和真も耳まで赤くしている。
「だから、見ないようにしてるんだよ」
「…………」
「嫌だからじゃない。むしろ……」
そこで言葉を止めた。
これ以上は、何を言っても自分の気持ちが隠せなくなりそうだった。
部屋に静寂が訪れる。
テレビから聞こえる声だけが、妙に大きく感じられた。
やがて。
ぺた。
小さな足音が聞こえた。
「……ひかげ?」
和真が声をかけた、その直後だった。
背中に、柔らかな温もりが触れた。
「……っ!?」
和真の身体が固まる。
ひかげが、後ろから抱きついていた。
両腕を和真の腰へ回し、背中に額を押しつけている。
「ひ、ひかげ!?」
「……すみません」
震える声。
けれど、その腕は離れなかった。
「……私、今……すごく恥ずかしいです」
「そ、そりゃそうだろ……!」
「……心臓も、すごく速くて……」
ひかげは少しだけ腕に力を込めた。
「……でも」
「……うん?」
「……嬉しいんです」
和真は何も言えなかった。
「……和真さんに、そんなふうに思ってもらえてたなんて……」
ひかげの声が小さくなる。
「……知らへんかったから」
背中越しに、彼女の鼓動まで伝わってきそうだった。
「……和真さん」
「……何?」
「……お願いが、あります」
「……うん」
「……一度でええんです」
ひかげは深く息を吸った。
「……ちゃんと、見てほしいんです」
「…………」
「……今の私を」
和真は答えられなかった。
ひかげが勇気を出していることは分かる。
どれだけ恥ずかしい思いをしているのかも。
けれど、簡単に頷けることではなかった。
「……ひかげ」
「……はい」
「本当に、いいの?」
ひかげは小さく頷いた。
「……はい」
「後悔しない?」
「……しません」
その返事には、迷いがなかった。
和真はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……分かった」
「……っ」
「ちゃんと見るよ」
背中に回されていた腕が、少しだけ緩んだ。
「……ありがとうございます」
ひかげはそっと身体を離した。
◇
和真はゆっくりと振り返った。
目の前には、ひかげが立っていた。
淡い色の下着を身につけ、長い黒髪を肩から流している。
牛の耳は恥ずかしそうに伏せられ、尻尾も落ち着かない様子で小さく揺れていた。
いつも目元を隠している長い前髪の下で、頬が真っ赤に染まっている。
「…………」
和真は言葉を失った。
ひかげは両手を身体の前で重ね、もじもじと指を動かしている。
「……あ、あの……」
声が震えていた。
「……どう、でしょうか……」
和真はすぐに答えられなかった。
目の前にいる彼女が、あまりにも綺麗だったからだ。
普段の控えめなひかげとは違う。
いや、違うわけではない。
恥ずかしがりながらも、自分の気持ちを伝えようとする姿。
勇気を振り絞って、自分の前に立っている姿。
そのすべてが、たまらなく愛おしく見えた。
「……ひかげ」
「……はい」
「……本当に、綺麗だよ」
「…………っ」
ひかげの肩が震えた。
「……ほんま、ですか……?」
「うん」
和真は頷いた。
「すごく魅力的だと思う」
ひかげは俯いた。
その顔は、もう耳まで真っ赤だった。
「……あ、ありがとうございます……」
小さな声が漏れる。
和真は彼女を見つめたまま、思わず息を呑んだ。
抱きしめたい。
そんな気持ちが、自然と湧き上がってきた。
今すぐ近づいて、腕の中に抱き寄せたくなる。
けれど、それをしてしまえば。
きっと、今の自分は簡単には離れられない。
「…………」
「…………」
二人とも、何も言わなかった。
ひかげは恥ずかしそうに身を縮めながらも、和真から離れようとはしない。
和真も、目を逸らすことができなかった。
部屋には、時計の針が進む音さえ聞こえてきそうな静けさが広がっていた。
やがて、ひかげが小さく口を開いた。
「……和真さん」
「……うん」
「……私……」
その先の言葉が出てこない。
和真も、続きを待つことしかできなかった。
その時だった。
♪♪♪
「……っ!?」
「……ひゃっ!?」
突然、テーブルの上に置いていたスマートフォンが鳴り始めた。
二人の肩が同時に跳ねる。
「……で、電話!?」
和真が慌てて振り返る。
ひかげも我に返り、自分の格好を見下ろした。
「……っ!?」
そして、一瞬にして顔を真っ赤にした。
「……す、すみませんっ!」
ひかげは両手で胸元を押さえ、慌てて脱衣所へ駆け込んだ。
バタンッ。
扉が閉まる。
和真はその音を聞きながら、しばらく動けずにいた。
「…………」
スマートフォンは鳴り続けている。
「……危なかった」
思わず呟いた。
何が危なかったのか、自分でもはっきりとは言えない。
ただ、電話が鳴らなければ、思わずひかげを抱きしめていたかもしれない。
それだけは分かっていた。
「……落ち着け、俺」
和真は大きく息を吐いた。
そして、ようやくスマートフォンを手に取った。
画面には、みゆの名前が表示されていた。
「……みゆ?」
和真は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あっ、和真! こんばんは!』
「こんばんは。どうした?」
『ううん。今日どうだったかなって思って』
「今日?」
『大阪だよ、大阪! ひかげちゃん、大丈夫だった?』
和真は一瞬、脱衣所の扉を見た。
「……ああ」
『ん?』
「色々あったけど、今は落ち着いてるよ」
『そっか。よかった』
みゆの声が少し柔らかくなる。
『ひかげちゃん、ずっと楽しみにしてたからね』
「うん。知ってる」
『服も、和真に見せるの楽しみにしてたんだよ?』
「ああ。すごく似合ってた」
『でしょ!』
みゆが嬉しそうに笑う。
『あの服、ひかげちゃんがすっごく悩んで選んだんだから』
「そうだったんだな」
『うん。だから、ちゃんと褒めてあげた?』
「もちろん」
『何て?』
「すごく可愛いって。綺麗だとも言ったよ」
『おおー!』
みゆの楽しそうな声が響いた。
『和真にしては、頑張ったじゃない!』
「何だよ、それ」
『ふふっ。だって、和真だもん』
「……どういう意味だよ」
『内緒!』
和真は苦笑した。
すると、みゆが少し声を落とした。
『……ねえ、和真』
「ん?」
『ひかげちゃん、今日の目的の場所には行けた?』
「ああ。大学の周りを見てきたよ」
『どうだった?』
和真は少し迷った。
あの男性のことを、勝手に話していいものだろうか。
「……ひかげ自身も、まだ整理できてないみたいなんだ」
『そっか』
「でも、来てよかったって言ってたよ」
『……うん』
みゆは安心したように息を吐いた。
『それなら、よかった』
「心配してくれてありがとう」
『いいの、いいの。ひかげちゃんは僕の大切な友達だからね』
和真は微笑んだ。
「うん」
『じゃあ、明日も楽しんできてね!』
「ああ。ありがとう」
『それと、和真』
「ん?」
『ひかげちゃんのこと、よろしくね』
「分かってるよ」
『ふふっ。じゃあ、おやすみ!』
「おやすみ」
通話が切れた。
◇
「……ふぅ」
和真はスマートフォンをテーブルへ置いた。
そして、脱衣所の扉へ視線を向ける。
まだ、ひかげは出てこない。
「……ひかげ?」
声をかける。
「……は、はいっ!」
中から慌てた返事が聞こえた。
「大丈夫?」
「……だ、大丈夫です!」
「……そっか」
和真は少し迷ったあと、口を開いた。
「さっきのことだけど……」
「……っ!」
扉の向こうで、何かが小さくぶつかる音がした。
「ひかげ!?」
「……だ、大丈夫です! ちょっと、手が滑って……」
和真は思わず苦笑した。
「……無理しなくていいからね」
「……はい」
少しの沈黙。
それから、ひかげが小さな声で尋ねた。
「……和真さん」
「ん?」
「……さっきのこと……」
「うん」
「……嫌、でしたか……?」
和真はすぐに答えた。
「嫌じゃないよ」
「……ほんまに?」
「うん。ただ、すごく驚いた」
「……すみません」
「謝らなくていいって」
和真は優しく笑った。
「ひかげが勇気を出してくれたのは、ちゃんと分かったから」
「…………」
「それに、嬉しかったよ」
扉の向こうが静かになった。
しばらくして、小さな声が返ってくる。
「……私も、嬉しかったです」
和真は目を細めた。
「そっか」
「……はい」
そして、ひかげはもう一度呟いた。
「……和真さんに、綺麗やって言うてもらえて……」
その声は、少しだけ震えていた。
「……ほんまに、嬉しかったんです」
和真は何も言わず、静かに頷いた。
◇
しばらくして、脱衣所の扉がゆっくり開いた。
「……お、お待たせしました」
ひかげが顔を出した。
今度はきちんと部屋着を着ている。
牛の耳と角はそのままだが、長い黒髪は丁寧に整えられていた。
「おかえり」
「……ただいま、です」
ひかげは少し恥ずかしそうに笑った。
そして、和真の隣へ腰を下ろす。
「……あの」
「ん?」
「……さっきのこと、忘れてください……とは、言いません」
和真は少し驚いた。
ひかげは膝の上で両手を重ねる。
「……恥ずかしいですけど……」
そこで一度、深く息を吸った。
「……和真さんに、ちゃんと見てもらえて……よかったです」
和真は微笑んだ。
「俺も、ひかげがあんなに勇気を出してくれて嬉しかったよ」
「……はい」
ひかげは小さく頷いた。
そして、少し迷ったあと、そっと和真の手を取った。
「……和真さん」
「うん?」
「……もう一つだけ、お願いしてもええですか?」
「何?」
ひかげは俯いた。
「……もう一度だけ、抱きしめてもらいたいです」
和真は少し驚いたあと、優しく笑った。
「もちろん」
両腕を広げる。
ひかげはゆっくりと身体を寄せ、その胸元へ顔を埋めた。
和真もそっと抱きしめ返す。
「……あったかい」
ひかげが小さく呟く。
「寒かった?」
「……いえ」
ひかげは首を振った。
「……安心するんです」
和真は優しく背中を撫でた。
「そっか」
「……はい」
ひかげは目を閉じる。
今日一日で、色々なことがあった。
懐かしい景色。
知らない男性。
理由の分からない胸の痛み。
そして、和真に感じた温もり。
そのどれもが、忘れられない思い出になっている。
けれど、今は一つだけ、はっきりしていた。
自分は、和真のことが好きだ。
誰かの記憶でも、誰かの感情でもない。
今ここにいる、自分自身の気持ちだった。
「……和真さん」
「ん?」
「……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったよ」
「……明日も、一緒に楽しんでもらえますか?」
「もちろん」
和真は笑った。
「まだ旅行は終わってないからね」
「……はい」
ひかげも小さく笑う。
そして、少しだけ身体を離した。
恥ずかしそうに俯いていたが、その表情は穏やかだった。
「……和真さん」
「うん?」
「……今日のこと、忘れんといてくださいね」
和真は一瞬驚いたあと、微笑んだ。
「忘れないよ」
「……ほんまに?」
「うん。絶対に」
ひかげは嬉しそうに頷いた。
「……約束、です」
「ああ。約束」
二人は顔を見合わせて笑った。
窓の外では、大阪の夜景が静かに輝いている。
明日は海遊館と観覧車。
まだまだ、二人の旅行は続いていく。
ひかげは和真の隣に座り、そっとその肩へ頭を預けた。
胸の奥には、今日初めて感じた嬉しさが、いつまでも温かく残っていた。




