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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第三十三話 記憶の向こうの街

 翌朝、母屋の食卓はいつも以上に賑やかだった。


「これも見てほしいのじゃ!」


 あおいが端末を掲げ、隣に座るピピへ写真を見せている。


「わあ! これ、すっごく大きい!」


「うむ! 実際に見た時は、わらわも驚いたぞ!」


「僕も行きたい! カズマ、僕もここ行きたい!」


「ピピの旅行先は、まだ決まってないだろ?」


「じゃあ、ここにする!」


「そんな簡単に決めていいのか?」


「だって楽しそう!」


 迷いのない返事に、和真は苦笑した。


 昨日、あおいとの京都旅行から帰ってきたばかりだ。


 撮影した写真はかなりの枚数になっており、あおいは朝食が始まる前から皆に見せて回っていた。


「こっちは竹林じゃな」


「ほんま、綺麗ですねぇ……」


 ひかげが隣から画面を覗き込む。


 風に揺れる竹の葉。


 川に架かる大きな橋。


 色鮮やかな料理。


 そして、楽しそうに並んで写る和真とあおい。


「……ええなぁ」


 小さな声が漏れた。


「ひかげも、もうすぐじゃろ?」


「え?」


「和真様との旅行じゃ。次はそなたの番であろう?」


「あ……はい」


 ひかげは長い前髪の奥で目を伏せた。


「まだ、どこに行くかも決めてへんのですけど……」


「そうなの?」


 みゆが会話に加わった。


「もう二週間もないんじゃなかった?」


「は、はい……」


「行きたい場所とかないの?」


「それが……」


 ひかげは言葉を詰まらせた。


 行きたい場所がないわけではない。


 むしろ、一つだけ、ずっと気になっている場所があった。


 けれど、そこへ行きたいと言っていいのか分からなかった。


「ひかげ?」


 和真に呼ばれ、肩が小さく跳ねる。


「は、はいっ」


「無理に今決めなくてもいいよ。まだ時間はあるし」


「……ありがとうございます」


「行き先が決まったら教えてくれればいいから」


 ひかげは頷いた。


 その様子を見ていたみゆが、少しだけ首を傾げる。


「ひかげ、本当は行きたいところがあるんじゃない?」


「えっ……」


「さっきから何か考えてるみたいだったし」


「そ、そんな……」


 否定しかけて、口を閉じた。


 みゆは急かさなかった。


「別に今言わなくてもいいよ。でも、せっかく和真と二人で行くんだから、遠慮しなくていいと思う」


「……はい」


 ひかげは両手で湯呑みを包み込んだ。


 湯気の向こうで、和真があおいの写真を見ながら笑っている。


 その姿を眺めているうちに、少しだけ勇気が湧いてきた。


「あ、あの……和真さん」


「ん?」


「あとで……少し、お話ししてもええですか?」


「もちろん。旅行のこと?」


「……はい」


「分かった。朝飯が終わったら時間を取るよ」


「ありがとうございます……」


 ひかげは小さく頭を下げた。


 そんな二人の様子を見ていたあおいが、満足そうに頷く。


「うむ。やはり旅行はよいものじゃな」


「ずいぶん気に入ったみたいだね」


 みゆが笑う。


「当然じゃ! 和真様と二人で、あれほど多くのものを見られたのじゃぞ!」


「はいはい、よかったね」


「なんじゃ、その言い方は!」


「別に? 楽しそうで何よりってこと」


「ふむ……何やら引っかかるのう」


 あおいが不満そうに頬を膨らませる。


 みゆは楽しそうに笑うだけだった。


 そのやり取りを聞きながら、フェンリスは静かに朝食を口へ運んでいた。


「……フェンリス?」


 和真が声をかける。


「ん? 何?」


「味噌汁、おかわりいる?」


「ああ、うん。ありがとう。でも、もう大丈夫」


「そうか」


 フェンリスはいつもどおりに笑った。


 和真もそれ以上は気にせず、自分の食事へ戻る。


 食卓では、ピピがあおいの写真を指差して騒ぎ始めていた。


「これ! これ食べたい!」


「ん? なんだ、団子か?」


 酒菜が顔を上げる。


「うん! あおい、これ美味しかった?」


「もちろんじゃ! とても美味であったぞ!」


「いいなぁ! 僕もカズマと食べたい!」


「だったら、お前の旅行でも美味いものを探せばいいだろ」


「そっか! じゃあ僕、食べ物がいっぱいあるところに行く!」


「お前らしいな」


 酒菜が呆れたように笑う。


「でも、あれも食べたい!」


 ピピは再び写真へ翼を向けた。


「欲張りすぎじゃ。これはわらわと和真様の思い出なのじゃぞ!」


「えー! 見るだけならいいでしょ!」


「見るだけなら構わぬ!」


 言い合いを始めた二人を見て、和真も思わず笑ってしまった。


「二人とも、写真は逃げないから。まず朝飯を食べような」


「はーい!」


 ピピが元気よく返事をする。


 酒菜は苦笑しながら、自分の食器を片付け始めた。


「あ、そうだ。ごま油がそろそろ切れそうだったな」


「買い物に行くの?」


 フェンリスが顔を上げた。


「ああ。昼までに買っておこうと思ってな」


「だったら僕が行くよ」


「ん? いいのか?」


「うん。今日は午後から仕事だし、ついでに必要なものがあれば買ってくる」


「助かる。あとで紙に書いて渡す」


「分かった」


 フェンリスは笑って頷くと、残っていた朝食を食べ終えた。


 そのまま食器を持って立ち上がる。


「じゃあ、先に片付けてくるね」


「フェンリス、自分のは置いとけよ」


「これくらい平気だって」


 軽く手を振って台所へ向かう。


 和真はその後ろ姿を見送ったものの、すぐにひかげから声をかけられ、そちらへ顔を向けた。


「和真さん……」


「どうした?」


「お話、今からでも……大丈夫ですか?」


「ああ、いいよ」


 ひかげはほっとしたように頷いた。


 食卓では、あおいが再び写真を見せ始めている。


 二人は皆の邪魔にならないよう、食器を片付けてから居間の端へ移動することにした。


     ◇


 朝食を終えた和真が居間のソファへ腰を下ろすと、ひかげは少し離れた場所で立ち止まった。


「座らないの?」


「あ……はい」


 促されて、ようやく隣へ座る。


 ただし、二人の間には人一人分ほどの隙間があった。


 ひかげは膝の上で両手を重ね、何度も指を組み直している。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


「す、すみません……」


「謝ることじゃないって」


 和真が笑う。


 ひかげも小さく笑い返したが、すぐに俯いてしまった。


「それで、行きたい場所って?」


「……大阪、なんです」


「大阪?」


「はい……」


「いいね。食べ物も美味しいし、観光するところも多いし」


「……あの、でも」


「ん?」


「観光だけが目的やなくて……」


 そこで一度、言葉が途切れた。


 和真は続きを急かさず、ひかげが話し始めるのを待った。


「……前に、お話ししたこと、覚えてはりますか?」


「何の話?」


「私の……この身体のこと、です」


 和真の表情が少し変わった。


「ああ、覚えてるよ」


 ひかげは小さく頷いた。


「この身体の元になった人……大阪に住んではったみたいなんです」


「大阪に?」


「はい」


 膝の上で、重ねた指に力がこもる。


「はっきり覚えてるわけやないんですけど……時々、知らんはずの景色が浮かんでくるんです」


「景色?」


「……人がいっぱい歩いてる道とか、電車の音とか……大学の建物みたいな場所とか」


 ひかげはゆっくりと話した。


「自分では行ったことないはずやのに、なんとなく懐かしい気がして……」


「そうだったのか」


「はい……」


 声が少し小さくなる。


「ずっと、気になってたんです。でも……」


「でも?」


「確かめに行って、何も分からへんかったら……って思うと、怖くて」


 和真は黙って耳を傾けた。


「それに……もし何か思い出してしもたら、それはそれで……」


 ひかげは最後まで言えなかった。


 自分でも、何が怖いのか分からない。


 知りたい。


 けれど、知ることが怖い。


 その二つが、ずっと胸の中でぶつかっていた。


「……だから、大阪に行ってみたいんだな」


「はい……」


「分かった。じゃあ大阪にしよう」


「……え?」


 あまりにあっさりした返事に、ひかげは顔を上げた。


「え、ええんですか?」


「もちろん」


「でも……せっかくの旅行やのに、私の用事ばっかりになってしまうかもしれへんし……」


「別にいいよ。俺はひかげと旅行に行けるだけでも楽しみだし」


「……っ」


 ひかげの肩が小さく跳ねた。


「それに、ひかげがずっと気になってたことなんだろ? だったら一緒に行こう」


「……和真さん」


「ただ、一つだけ約束してほしい」


 和真が少し真面目な表情になる。


 ひかげは背筋を伸ばした。


「は、はい……」


「無理はしないこと。途中で嫌になったり、怖くなったりしたら、そこでやめよう」


「……はい」


「何も分からなくても、ひかげが悪いわけじゃないんだから」


 その言葉に、ひかげは俯いた。


「……ありがとうございます」


 声が震えていた。


 和真は気づいたが、あえて何も言わなかった。


 しばらくして、ひかげが小さく息を吐く。


「……あの」


「うん?」


「一日目は、その……昔住んではった場所とか、大学の近くを見て回りたいんです」


「分かった。場所はある程度分かる?」


「……少しだけ。まだ調べてる途中なんですけど」


「じゃあ、一緒に調べようか」


「はい……!」


 ひかげの声が、ほんの少し明るくなった。


「それで、二日目なんですけど……」


「うん」


「その……普通に、観光したいです」


「普通に?」


「はい……」


 ひかげは恥ずかしそうに俯く。


「せっかく和真さんと二人で行けるんやし……美味しいもの食べたり、買い物したり……」


「いいね」


「……写真も、撮りたいです」


「もちろん撮ろう」


「……あの、二人で……」


 和真が一瞬きょとんとした顔になる。


 それから、優しく笑った。


「当たり前だろ。二人の旅行なんだから」


「……っ!」


 ひかげは慌てて顔を伏せた。


 長い前髪に隠れて表情はほとんど見えない。


 それでも、耳の先まで赤くなっていることは、和真にも分かった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 和真は笑いながら端末を取り出した。


「じゃあ、宿と新幹線を調べようか」


「はい……!」


 ひかげも自分の端末を取り出す。


 画面を開こうとして、一度指が止まった。


「……和真さん」


「ん?」


「……ほんまに、ありがとうございます」


「さっきも聞いたよ」


「あ……す、すみません」


「だから謝らなくていいって」


 和真が笑う。


 その笑顔を見て、ひかげもようやく小さく笑った。


 大阪へ行くことは、まだ少し怖い。


 何が待っているのかも分からない。


 それでも、一人で行くわけではない。


 隣には和真がいる。


 そう考えるだけで、胸の奥にあった不安が少しずつ和らいでいく気がした。


 ひかげは端末を開き、以前から調べていた大阪の地図を表示させた。


「……まず、ここなんですけど」


「どれ?」


「この辺りに……大学があって……」


 ひかげが画面を指差す。


 和真は隣から覗き込み、地図を拡大した。


「なるほど。じゃあ、この辺りから回るのがよさそうだな」


「……はい」


 二人は肩を並べて、旅行の予定を考え始めた。


 ひかげにとって、それはただの観光旅行ではなかった。


 けれど、今はまだ、その先に何があるのかを考えるよりも。


 隣で一緒に地図を見てくれる和真の存在が、何よりも嬉しかった。


 ひかげが画面を指差す。


「この辺りなんですけど……大学の近くに、見覚えのある道があるんです」


「見覚え?」


「はい。実際に行ったことはないはずなんですけど……」


 ひかげは地図を拡大し、大学の周辺を映し出した。


 大きな道路から一本入った住宅街。


 その先には、小さな公園がある。


「この道……なんとなく、覚えてる気がするんです」


「写真で見たことがあるとか?」


「それも考えたんですけど……違う気がして」


 ひかげは少し考えてから、言葉を続けた。


「景色を見たことがあるっていうより……ここを歩いたことがあるような、そんな感じなんです」


「なるほどな……」


 和真は画面を覗き込んだ。


「だったら、実際に歩いてみようか」


「……え?」


「写真だけじゃ分からないこともあるだろ? 実際に歩いたら、何か思い出すかもしれないし」


「でも……何も分からへんかもしれませんよ?」


「それならそれでいいじゃないか」


 和真は地図を少し縮小した。


「せっかく大阪まで行くんだ。知らない街を歩くのも、旅行の楽しみだと思うよ」


「……そう、ですね」


 ひかげは小さく微笑んだ。


 和真は端末を操作し、周辺の交通機関を調べ始めた。


「大学までは電車で行けそうだな。駅からも歩ける距離みたいだ」


「はい。近くに商店街もあるみたいです」


「じゃあ、まず大学の周辺を歩いて、それから商店街の方へ行ってみるか」


「……ええんですか?」


「もちろん。ひかげが行きたいところなんだから」


「……ありがとうございます」


 ひかげは照れくさそうに笑った。


 それから、ふと思い出したように端末を操作する。


「あの……もう一つ、気になってる場所があるんです」


「どこ?」


「昔、この身体の元になった人が住んでたかもしれへん場所なんですけど……」


 画面には、大学から少し離れた住宅地が映っていた。


「ここ?」


「はい……たぶん、この辺りやと思います」


「何か覚えてるの?」


「……古い建物と、狭い道です。それから……」


 ひかげは目を閉じた。


 ぼんやりと浮かぶ景色。


 道の端に並ぶ植木鉢。


 建物の外階段。


 どこかから聞こえてくる電車の音。


 けれど、それらが本当に同じ場所の記憶なのかは分からない。


「……すみません。はっきりせえへんくて」


「大丈夫。無理に思い出さなくていいよ」


「……はい」


「この辺りも歩いてみよう。ただ、住宅街なら静かに見て回るくらいにしておこうな」


「そうですね。今住んではる人もおるでしょうし……」


「うん。それに、昔と景色が変わってるかもしれないからな」


 その言葉に、ひかげは少し考え込んだ。


「……そうですよね」


「建物がなくなってたり、道が変わってたりするかもしれない。それでも行ってみたい?」


 ひかげは地図を見つめた。


 記憶の中にある景色が、今も残っているとは限らない。


 それでも。


「……行ってみたいです」


 今度は、迷わず答えることができた。


「分かった。じゃあ行こう」


 和真は頷き、地図に目印を付けた。


「大学の周辺と、こっちの住宅街だな。移動時間も含めて考えると、一日目はこの二か所を中心にした方がよさそうだ」


「はい」


「昼飯も近くで食べられるところを探しておこうか」


「あ……それなら、商店街に気になるお店があって……」


「お、もう調べてたんだ?」


「す、少しだけですけど……」


 ひかげが見せたのは、昔ながらの雰囲気が残る小さな洋食店だった。


 写真には、ふっくらしたオムライスと、湯気の立つハンバーグが並んでいる。


「美味そうだな」


「……ですよね」


「ひかげはこういうのが食べたい?」


「はい。なんや、落ち着きそうなお店やなぁって……」


「いいね。じゃあ昼飯の候補にしておこう」


 和真が店の情報を保存する。


 ひかげは嬉しそうに画面を覗き込んだ。


「……和真さん」


「ん?」


「なんや、旅行の予定考えるだけでも楽しいですね」


「そうだな。行きたいところを探してると、どんどん増えていくし」


「ふふっ……ほんまですね」


 ひかげは小さく笑った。


 まだ何も始まっていないのに、すでに胸が弾んでいる。


 さっきまでは不安の方が大きかったはずなのに。


 和真と一緒に予定を考えているうちに、少しずつ楽しみな気持ちが増えていた。


     ◇


「さて、次は宿だな」


 和真が宿泊施設の検索画面を開いた。


「大阪ならホテルもたくさんあるし、選びやすそうだ」


「そうですね……」


「ひかげ、何か希望はある?」


「き、希望ですか?」


「うん。部屋とか食事とか。泊まってみたいホテルがあれば、そこでもいいし」


「えっと……」


 ひかげは画面に並ぶホテルの写真を見つめた。


 落ち着いた雰囲気の客室。


 広い窓から街を見下ろせる部屋。


 朝食付きの宿泊プラン。


 どれも魅力的に見える。


 けれど、ひかげにとって一番気になっていることは、部屋の豪華さではなかった。


「あの……」


「うん?」


「和真さんと……一緒の部屋、ですよね?」


「え?」


 和真が顔を上げた。


「二人で旅行するんだし、そのつもりだったけど……別々の方がよかった?」


「ち、違います!」


 ひかげは慌てて首を振った。


「そ、そうやなくて……その……」


 長い前髪の奥で、頬がみるみる赤くなっていく。


「一緒の部屋が……ええです」


「分かった。じゃあ二人部屋で探そう」


「……はい」


 ひかげは小さく頷いた。


 和真は画面を操作しながら、条件に合うホテルをいくつか表示させる。


「初日は結構歩くだろうし、なるべく駅から近いところがいいな」


「そうですね。荷物もありますし……」


「先にホテルへ預けるのもいいかもしれない」


「あ、それやったら身軽に歩けますね」


「うん。帰りも取りに行きやすい場所がいいな」


 二人で相談しながら候補を絞っていく。


 そんな中、ひかげが一枚の写真を指差した。


「あ……このホテル、綺麗ですね」


「どれ?」


「これです」


 そこには、落ち着いた色合いの客室が映っていた。


 窓際には小さなテーブルと椅子が二脚。


 大きな窓からは、街並みを眺められるようになっている。


「いい感じだな。駅からも近いみたいだし」


「……夜景も綺麗そうです」


「確かに。ここにする?」


「えっ、私が決めてええんですか?」


「もちろん。俺も気に入ったし」


 ひかげはもう一度写真を見た。


「……ここが、ええです」


「よし。じゃあ空いてるか確認しよう」


 和真は予約画面を開いた。


 宿泊日と人数を入力し、客室の種類を確認する。


「ツインルームなら空いてるみたいだな」


「……ツイン?」


「ベッドが二つある部屋だよ」


「あ……」


 ひかげは写真を見つめた。


 二つのベッド。


 その間には、小さな棚が置かれている。


「これなら、お互いゆっくり休めそうだな」


「……そ、そうですね」


 ひかげは頷いた。


 けれど、ほんの少しだけ残念に思ってしまった自分に気づき、慌ててその考えを振り払う。


 何を考えているのだろう。


 和真と同じ部屋に泊まれるだけでも、十分すぎるほど嬉しいのに。


「ひかげ?」


「ひゃ、ひゃいっ!」


「……大丈夫?」


「だ、大丈夫です!」


「顔が赤いけど、暑い?」


「ちょ、ちょっとだけ……」


「窓開けようか?」


「い、いえ! ほんまに大丈夫です!」


 ひかげは両手を振って止めた。


 和真は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


 その横顔を見ながら、ひかげは胸元をそっと押さえる。


 心臓が、うるさいほど鳴っていた。


「それで、食事なんだけど」


「は、はい!」


「朝食付きと素泊まりがあるな。どうしようか?」


 ひかげは少し考えた。


「……せっかく大阪に行くんやし、朝ご飯も外で食べてみたいです」


「いいね。大阪は食べるところも多いし」


「はい……」


「じゃあ、素泊まりにしようか」


 和真はプランを選び、予約内容を確認した。


「これでよさそうだな」


「はい」


「じゃあ予約するぞ」


「……お願いします」


 画面に予約完了の表示が出た。


「よし、ホテルはこれで決まり」


「……ほんまに決まったんですね」


「ああ。あとは新幹線だな」


 ひかげは画面に表示されたホテルの写真をもう一度見つめた。


 ここで、和真と二人きりの夜を過ごす。


 そう考えると、先ほどまでとは違った意味で胸が高鳴った。


     ◇


 続いて、新幹線の時間を調べ始めた。


「一日目は大学の周辺を見て回りたいし、午前中には大阪に着いておきたいな」


「……朝早くなりますね」


「そうだな。でも、京都の時ほど早起きしなくても大丈夫だと思うよ」


「あおいちゃんの時は、車で行ったんですよね?」


「ああ。朝の四時に出発したから、さすがに眠かったな」


「よ、四時ですか……!」


「うん。でも、あおいは元気だったよ」


 和真が苦笑する。


「向こうに着いてからも、ずっと楽しそうにしてた」


「……あおいちゃんらしいですね」


 ひかげは小さく笑った。


「今回は新幹線だから、移動中もゆっくりできるしな」


「そうですね……」


 ひかげは画面に表示された列車の時刻を眺めた。


「あの……和真さん」


「ん?」


「新幹線の席って……隣同士、ですよね?」


「もちろん。二人分まとめて取るつもりだよ」


「……よかった」


 小さく呟いた声に、和真が笑う。


「隣じゃなかったら、せっかく一緒に行く意味がないだろ」


「……そう、ですね」


 ひかげは俯きながら、嬉しそうに微笑んだ。


 新幹線には以前も乗ったことがある。


 けれど、今回は和真と二人きりの旅行だ。


 隣に座って景色を眺めたり、他愛もない話をしたり。


 そんな何気ない時間さえ、今から楽しみで仕方なかった。


「窓側と通路側、どっちがいい?」


「……え?」


「席だよ。窓側の方が景色も見られるけど」


「あ……ほな、窓側でもええですか?」


「もちろん」


「……ありがとうございます」


 和真は座席表から隣り合った二席を選んだ。


「この時間なら、朝もそこまで慌てなくて済みそうだな」


「はい。私、大丈夫です」


「じゃあ、これで取ろうか」


「……お願いします」


 和真は予約を進めた。


 画面に予約完了の表示が出る。


「よし。これで新幹線も宿も決まったな」


「……決まったんですね」


「ああ」


 ひかげは画面に表示された日付をじっと見つめた。


 その日が来れば、和真と二人で大阪へ行く。


 まだ先のことなのに、急に現実味が湧いてきた。


「……楽しみです」


 思わず、そんな言葉がこぼれた。


 和真が顔を向ける。


「俺も楽しみだよ」


 その返事に、ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


「……あの、和真さん」


「うん?」


「二日目は……私だけやなくて、和真さんの行きたいところにも行きたいです」


「俺の?」


「はい。せっかく二人で旅行するんですから……和真さんにも楽しんでほしいんです」


「そうだな……」


 和真は少し考えた。


「大阪城とか、道頓堀とかかな。久しぶりに行ってみたい気もする」


「大阪城……!」


 ひかげが端末で写真を調べる。


 大きな天守閣が画面いっぱいに映し出された。


「わぁ……綺麗ですね」


「実際に見ると結構迫力があるよ」


「行ってみたいです!」


「じゃあ、候補に入れておこう」


「はい!」


「道頓堀の方も、食べ歩きが楽しそうだな」


「たこ焼きとか、お好み焼きとか……」


「串カツもあるな」


「……美味しそう」


 ひかげのお腹が、小さく鳴った。


「……っ!」


 慌てて両手で押さえる。


 和真が思わず笑った。


「さっき朝飯食べたばっかりなのに」


「ち、違うんです! これは、その……!」


「分かってるよ。美味しそうなものを見ると食べたくなるよな」


「……もう、和真さん……」


 ひかげは恥ずかしそうに顔を伏せた。


 それでも、口元には笑みが浮かんでいた。


「そういえば、ひかげって甘いものは好き?」


「はい。好きですけど……」


「だったら、食べ歩きの途中で甘いものも探してみようか」


「……ええんですか?」


「もちろん。俺も甘いものは好きだし」


「ふふっ……ほな、一緒に探しましょう」


 和真は二日目の候補をいくつか保存し、端末を置いた。


「とりあえず、こんなところかな」


「……はい」


「予定を詰め込みすぎると疲れるし、あとは現地で決めてもいいと思うよ」


「そうですね。私も、その方がええと思います」


「気になる場所が増えたら、また相談しよう」


「はい……!」


 ひかげは嬉しそうに頷いた。


     ◇


 その時、居間の入り口から声がした。


「……あれ? 二人とも、まだ旅行の話してたの?」


 顔を覗かせたのは、みゆだった。


「あ、みゆさん……」


「行き先、決まった?」


 ひかげは和真と顔を見合わせた。


 それから、少し照れくさそうに答える。


「……大阪に、行くことになりました」


「大阪!」


 みゆの顔が明るくなる。


「いいじゃん! 何するの?」


「えっと……一日目は、ちょっと行ってみたい場所があって……二日目は観光です」


「へぇ、いいね!」


 みゆは楽しそうに笑った。


「大阪なら美味しいものもいっぱいあるし、楽しそうだね」


「はい。食べ歩きもする予定なんです」


「いいなぁ! 僕も大阪行きたくなってきた」


「みゆ、この前旅行したばかりだろ」


 和真が苦笑する。


「それとこれとは別だよ」


「そういうものか?」


「そういうもの!」


 みゆは胸を張って答えた。


 その様子に、ひかげがくすりと笑う。


「……みゆさんらしいですね」


「でしょ?」


 みゆは満足そうに笑った。


 それから、少しだけ表情を和らげる。


「ひかげ」


「は、はい」


「せっかくの旅行なんだから、遠慮しないで楽しんできてね」


「……はい」


「和真、たまに自分のこと後回しにするからさ。ちゃんと二人で楽しむんだよ?」


「分かってるよ」


 和真が答える。


 みゆはひかげへ顔を戻した。


「ひかげも、和真に任せっきりじゃなくて、ちゃんと自分のやりたいこと言うんだよ?」


「……が、頑張ります」


「うん。それでよし!」


 みゆは嬉しそうに頷いた。


 そのまま台所へ向かいかけて、ふと思い出したように振り返る。


「あ、そうだ。ひかげ、旅行の服は決めた?」


「……服、ですか?」


「そう! せっかく二人で旅行するんだし、可愛い服で行きたいでしょ?」


「か、可愛い服……」


 ひかげは自分の服へ視線を落とした。


 普段は身体の線が目立たない、ゆったりした服ばかり選んでいる。


 可愛い服に興味がないわけではない。


 ただ、人目が気になって、なかなか挑戦できずにいた。


「……私でも、似合うでしょうか」


「何言ってるの。絶対似合うって!」


「……ほ、ほんまですか?」


「うん! ね、和真?」


「え?」


 突然話を振られ、和真が顔を上げる。


「ひかげ、可愛い服似合うと思うでしょ?」


「そりゃ似合うと思うよ」


「……っ!」


 ひかげはぴたりと動きを止めた。


 みゆがにやりと笑う。


「ほら、和真もこう言ってるし」


「……あ、あの……」


「だったら今度、一緒に買い物行こうよ!」


「みゆさんと……ですか?」


「うん! 僕、ひかげに似合いそうな服、いくつか思いつくんだ」


「……ほ、ほんまですか?」


「もちろん! ちょっと普段と違う服も着てみない?」


 ひかげは戸惑いながらも、少しだけ興味を示した。


「……どんな服ですか?」


「それは実際に見てからのお楽しみ!」


「え、ええ……?」


「大丈夫! ひかげの好みもちゃんと聞くから」


 みゆが笑う。


 ひかげはしばらく考えてから、小さく頷いた。


「……ほな、お願いします」


「決まり!」


 みゆは嬉しそうに手を叩いた。


「和真も楽しみにしててね」


「俺?」


「そう! ひかげが可愛くなって帰ってくるから!」


「いや、ひかげは今でも十分可愛いと思うけど……」


「…………っ!」


 ひかげの顔が、一瞬で真っ赤になった。


 みゆが目を丸くする。


 それから、ゆっくりと和真を見た。


「……和真」


「ん?」


「そういうこと、さらっと言うよね」


「え? 何か変なこと言ったか?」


「ううん。別に?」


 みゆは意味ありげに笑った。


 そして、ひかげの肩へそっと手を置く。


「……大丈夫?」


「……だ、大丈夫やないかもしれません……」


「ふふっ。そっか」


「みゆさんまで……」


 ひかげは恥ずかしそうに俯いた。


 みゆはそんな彼女の背中を軽く撫でる。


「じゃあ、買い物の日はあとで相談しようね」


「……はい」


 みゆは満足そうに頷くと、今度こそ台所へ向かった。


 残されたひかげは、しばらく顔を上げられなかった。


「……ひかげ?」


「……はい」


「本当に大丈夫?」


「……だ、大丈夫です」


 返事はしたものの、顔の熱はなかなか引いてくれない。


 可愛い。


 和真は、何の迷いもなくそう言ってくれた。


 しかも、今の自分でも十分可愛いと。


 その一言が、何度も頭の中で繰り返される。


「……和真さん」


「ん?」


「……旅行、ほんまに楽しみにしてます」


「俺もだよ」


 ひかげは小さく微笑んだ。


 まだ、大阪で何が待っているのかは分からない。


 けれど、不安ばかりだったはずの旅行が、今は待ち遠しくて仕方なかった。


 ひかげは端末に保存された旅程を、もう一度開いた。


 一日目。


 大学周辺と、記憶に残る街並みを訪ねる。


 二日目。


 和真と二人で大阪を観光する。


 その下には、予約したホテルと新幹線の情報が並んでいる。


 ひかげは画面を見つめながら、そっと胸元へ手を当てた。


 知らないはずなのに、懐かしい街。


 そこを、今度は和真と一緒に歩く。


 過去に何があったとしても。


 これからの思い出は、自分自身のものにしたい。


 そんな気持ちが、ひかげの胸の中に少しずつ芽生え始めていた。


 それから数日後。


 母屋の居間で、ひかげはみゆと向かい合って座っていた。


「じゃあ、今日は服を見に行こうか!」


「は、はい……よろしくお願いします」


 ひかげが小さく頭を下げると、みゆは楽しそうに笑った。


「そんなにかしこまらなくてもいいって。僕も買い物したかったし」


「でも……私の服を選ぶために、わざわざ付き合ってもろて……」


「ひかげ」


「は、はいっ」


「そういうの、気にしない!」


 みゆが人差し指を立てる。


「友達と買い物に行くのに、いちいち理由なんていらないでしょ?」


「……友達」


「うん。違った?」


「ち、違いません!」


 ひかげは慌てて首を振った。


「嬉しいです……」


「なら決まり!」


 みゆは立ち上がると、自分の鞄を肩に掛けた。


「今日はひかげに似合う服、いっぱい探そうね!」


「……はい」


 ひかげも立ち上がり、少し緊張した面持ちで鞄を手に取った。


 すると、隣の部屋から元気な声が飛んできた。


「どこ行くのー!」


 顔を覗かせたのはピピだった。


「ひかげの旅行用の服を買いに行くんだよ」


「僕も行く!」


「ピピはナディアと配信の練習じゃなかった?」


「あっ!」


 ピピが勢いよく振り返る。


 ちょうど廊下を歩いてきたナディアが、呆れた顔で腕を組んだ。


「忘れていたのか?」


「忘れてないよ!」


「なら、なぜ出かけようとした?」


「……ちょっとだけ忘れてた!」


「まったく……」


 ナディアはため息をついた。


「今日は新しい曲を試すんだろう。ひかげがいない分、お前がしっかりしろ」


「分かってる!」


「本当だろうな?」


「たぶん!」


「そこは言い切れ!」


 みゆが吹き出した。


 ひかげも思わず口元を緩める。


「ピピちゃん、帰ってきたらお話ししますね」


「ほんと?」


「はい」


「じゃあ、可愛い服いっぱい買ってきてね!」


「……ふふっ。はい」


 ピピが翼を振り、ナディアに連れられて奥へ戻っていく。


 その姿を見送ってから、みゆはひかげへ顔を向けた。


「さて、僕たちも行こうか」


「はい……!」


     ◇


 店内には、色とりどりの服が並んでいた。


 ひかげは入り口で立ち止まり、思わず周囲を見回した。


「……すごいですね」


「種類が多いでしょ?」


「はい……どれを選んだらええのか……」


「最初から全部見ようとしなくてもいいよ。まずは好きな色から探してみよっか」


 みゆはそう言って、近くの棚へ向かった。


 ひかげも少し遅れて、その後を追いかける。


 普段のひかげは、身体の線が目立たない、ゆったりとした服を好んで着ている。


 胸元や腰回りに余裕があり、人目を引きにくいもの。


 色も黒や灰色など、落ち着いたものばかりだった。


 可愛い服に憧れがないわけではない。


 ただ、自分が着る姿を想像すると、どうしても気後れしてしまう。


「ひかげ、これどう?」


 みゆが一着のブラウスを手に取った。


 柔らかな生成り色で、襟元には控えめな飾りが付いている。


「……可愛いですね」


「でしょ? これにスカート合わせたら、絶対似合うと思うんだ」


「スカート……」


「苦手?」


「い、いえ……ただ……」


 ひかげは自分の身体へ視線を落とした。


「私、こういう服やと……その……」


 言いにくそうに口ごもる。


 みゆはすぐに察した。


「ああ、身体の線が気になる?」


「……はい」


 ひかげは恥ずかしそうに頷いた。


「どうしても目立ってしまうんで……」


「そっか。じゃあ、着てて落ち着く形を探そう」


「……え?」


「可愛い服でも、ひかげがずっと気にしてたら楽しめないでしょ?」


 みゆはブラウスを戻し、別の棚へ向かった。


「僕はひかげに似合う服を探したいけど、無理して着てほしいわけじゃないから」


「……みゆさん」


「ほら、こっちも見てみようよ」


 みゆが手に取ったのは、少しゆとりのある淡い紫色のブラウスだった。


 袖口がふんわりと広がり、生地も柔らかそうだ。


「これならどう?」


「……あ」


 ひかげの表情が少し明るくなった。


「綺麗な色ですね……」


「うん。ひかげの髪にも合うと思うんだ」


 ひかげの黒髪には、紫色の内側の髪が混じっている。


 普段は長い前髪に隠れがちだが、光が当たると柔らかな色合いが覗く。


「これなら、落ち着いて着られそうです……」


「じゃあ、試着してみよう!」


「は、はいっ」


 みゆは合わせるスカートも選び、ひかげと一緒に試着室へ向かった。


     ◇


「……みゆさん」


「ん?」


「ちょっと……見てもらってもええですか?」


「もちろん!」


 カーテンがゆっくり開いた。


 そこには、淡い紫色のブラウスと濃紺のロングスカートを身に着けたひかげが立っていた。


 腰回りを締め付けすぎず、裾が自然に広がる形のスカート。


 ブラウスも適度なゆとりがあり、普段の服より明るい色でありながら、落ち着いた雰囲気にまとまっている。


 ひかげは両手を胸元で重ね、落ち着かなさそうに身体を縮めていた。


「……ど、どうでしょうか」


 みゆはしばらく黙っていた。


「……みゆさん?」


「……うん」


 みゆが大きく頷く。


「すっごく可愛い!」


「……っ!」


 ひかげの頬が一気に赤くなった。


「そ、そんな……」


「ほんとだって! 色も似合ってるし、すごく上品!」


「じょ、上品……?」


「うん! お嬢様みたい!」


「そ、そんなことないです……!」


 ひかげは慌てて首を振った。


 けれど、みゆは満足そうに笑っている。


「ちょっと鏡見てみて」


「……はい」


 ひかげは恐る恐る姿見の前へ立った。


 鏡に映る自分。


 見慣れた黒髪と、目元を覆う長い前髪。


 けれど、その下に着ている服は、いつものものとはまるで違っていた。


「……これが、私……」


 小さく呟く。


 悪くない。


 そう思った自分に、少し驚いた。


「どう?」


 みゆが隣へ並ぶ。


「……なんや、不思議な感じです」


「嫌?」


「い、いえ……」


 ひかげはスカートの裾をそっと摘まんだ。


「……好き、です」


「よかった!」


 みゆが嬉しそうに笑った。


「じゃあ、一日目はこれにしようか」


「……はい」


「でも、いっぱい歩くんだよね?」


「そうですね。大学の周りとか、街の中を……」


「だったら靴も歩きやすいものにしないとね」


「あ……」


 ひかげは自分の足元を見た。


 今は普段から履いている靴のままだ。


「せっかく可愛い服でも、足が痛くなったら大変だよ」


「……そうですね」


「和真も心配するだろうし」


 その名前を聞いた瞬間、ひかげの肩が小さく跳ねた。


「……和真さん」


「ん?」


「……この服、似合うって言ってくれはるでしょうか」


 みゆは少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑う。


「絶対言うと思うよ」


「……ほんまですか?」


「うん。というか、あの和真なら何を着ても似合うって言いそうだけど」


「……ふふっ」


 ひかげが笑った。


「確かに、そうかもしれませんね」


「でもね」


 みゆは鏡越しにひかげを見る。


「僕は、ひかげ自身が気に入った服を着てほしいな」


「……私が?」


「うん。和真に可愛いって言ってもらえたら嬉しいけど、それだけじゃなくてさ」


 みゆはひかげの肩へ軽く手を置いた。


「自分でも、今日は可愛いなって思える服の方が楽しいでしょ?」


 ひかげは鏡の中の自分を見つめた。


 今まで、そういう考え方をしたことがなかった。


 人からどう見られるか。


 目立ってしまわないか。


 そんなことばかり気にしていた。


「……そう、ですね」


 ひかげは小さく頷いた。


「私、この服……ほんまに好きです」


「なら決まり!」


「……はい!」


 今度の返事は、先ほどよりもずっと明るかった。


     ◇


 一日目の服が決まると、次は二日目の服選びになった。


「観光するんだったら、もう少し動きやすい方がいいかな」


 みゆが棚を見ながら呟く。


「大阪城も行く予定なんだよね?」


「はい。それから、道頓堀の方にも……」


「じゃあ結構歩くね」


「そうですね……」


「だったら、こっちはどう?」


 みゆが選んだのは、白いカットソーと落ち着いた深緑色のカーディガンだった。


 それに、柔らかな素材の黒いロングスカートを合わせる。


「これなら動きやすそうだし、ひかげにも似合いそう」


「……綺麗ですね」


「着てみる?」


「はい!」


 ひかげは服を受け取り、再び試着室へ入った。


 しばらくしてカーテンが開く。


「……どう、でしょうか」


 みゆが振り返った。


「おお……!」


「……え?」


「こっちもいい!」


 みゆが嬉しそうに近づいてくる。


「一日目より少し大人っぽい感じ!」


「お、大人っぽい……ですか?」


「うん。落ち着いてるけど、ちゃんと可愛い!」


 ひかげは鏡の前へ立った。


 確かに、先ほどとは雰囲気が違う。


 一日目の服が上品で柔らかな印象なら、こちらは少し活動的で、普段の自分にも近い。


「……これやったら、あんまり緊張せずに着られそうです」


「それが一番だよ」


「……はい」


 ひかげは鏡の前で、そっと身体の向きを変えてみた。


 スカートの裾が揺れる。


 それが何だか楽しくて、もう一度だけ同じ動きをしてみた。


「……ふふっ」


 思わず笑みがこぼれる。


 その様子を見ていたみゆも、嬉しそうに笑った。


「気に入った?」


「……はい!」


「よかった。じゃあ、こっちも決まりだね」


 みゆは満足そうに頷いた。


「あとは靴と、鞄かな」


「ま、まだあるんですか?」


「もちろん!」


「……ふふっ」


 ひかげは苦笑しながらも、もう嫌だとは思わなかった。


 むしろ、次はどんなものを見つけられるのか、少し楽しみになっていた。


     ◇


 買い物を終える頃には、随分と時間が過ぎていた。


 二人の手には、服と靴が入った紙袋がいくつかある。


「……思ったより買ってしまいました」


 ひかげが袋を見下ろす。


「でも、全部使うものだからいいんじゃない?」


「そうですね……」


 旅行用の服を二組。


 歩きやすい靴。


 小さめの斜め掛け鞄。


 それから、みゆに勧められて買った髪飾りが一つ。


 普段なら、こんなに服を買うことはない。


「……なんや、ちょっと贅沢してもうた気がします」


「たまにはいいでしょ。せっかくの旅行だし」


「……はい」


 ひかげは袋を持ち直した。


 すると、みゆがお腹を押さえる。


「あー、お腹空いた!」


「……ふふっ。結構歩きましたもんね」


「そうそう。服選びに夢中になってたから」


「……私もです」


「じゃあ、どこかでお昼食べて帰ろうか」


「はい」


 二人は近くの飲食店へ入り、昼食を取ることにした。


 席へ案内されると、みゆは早速メニューを広げる。


「何にしようかなー」


「……どれも美味しそうですね」


「ひかげ、何食べたい?」


「私は……このパスタにしようかなって」


「いいね! じゃあ僕はこっちのハンバーグにしよう」


 注文を済ませ、飲み物が運ばれてくる。


 ひかげはグラスを両手で包み込みながら、ふと口を開いた。


「……みゆさん」


「ん?」


「今日は……ほんまにありがとうございます」


「またお礼?」


「……あ」


 ひかげが恥ずかしそうに笑う。


 みゆも笑い返した。


「ひかげって、すぐお礼言うよね」


「……すみません」


「今度は謝った!」


「……あぅ」


 ひかげが小さく縮こまる。


 みゆは楽しそうに笑った。


「別に怒ってないって。ひかげらしいなって思っただけ」


「……そうですか?」


「うん」


 みゆはストローで飲み物を一口飲んだ。


「それで、旅行はどう? 楽しみ?」


「……はい」


 ひかげは頷いた。


「楽しみです。すごく……」


「そっか」


「でも……」


 そこで、言葉が止まる。


 みゆはグラスを置いた。


「……やっぱり、ちょっと不安?」


 ひかげは驚いたように顔を上げた。


「……分かりますか?」


「何となくね」


 みゆは優しく笑った。


「この前、和真と話してた時も、ちょっと考え込んでたでしょ?」


「……はい」


 ひかげはグラスへ視線を落とした。


「行ってみたいって思う気持ちは、本当なんです」


「うん」


「でも……昔のことを思い出してしもたら、どうなるんやろって……」


 言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。


「私、自分でも分からへんことが多いんです。時々、知らんはずの景色が浮かんできたり……」


「……そっか」


「それが何なんか、確かめたい気持ちはあるんですけど……」


 ひかげは指先を握りしめた。


「もし、知りたくないことまで分かってしもたら……って考えてしまって」


 みゆはしばらく黙っていた。


 それから、静かに口を開く。


「……だったら、無理しなくていいんじゃない?」


「……え?」


「行ってみて、やっぱり怖いと思ったら、そこでやめてもいいと思うよ」


「でも……」


「和真も、そう言ってくれたんじゃない?」


 ひかげは小さく頷いた。


「……はい」


「だったら大丈夫。和真、そういう約束はちゃんと守るから」


「……そうですね」


 みゆは少しだけ笑みを深くした。


「それにさ、全部思い出さなくてもいいと思うんだ」


「……全部?」


「うん。思い出せることだけでもいいし、何も分からなくたっていいじゃん」


 みゆは窓の外へ視線を向けた。


「大切なのは、ひかげがどうしたいかでしょ?」


「……私が」


「そう」


 みゆはもう一度、ひかげを見る。


「ひかげは、今の自分が嫌い?」


「……え?」


 突然の質問に、ひかげは戸惑った。


「……嫌い、ではないです」


「うん」


「ここに来て……皆さんと一緒に暮らすようになって……」


 ひかげは少しずつ言葉を続けた。


「毎日、楽しいです。前より笑えるようにもなりましたし……」


「そうだね」


「……和真さんにも、出会えました」


 最後の言葉は、とても小さかった。


 みゆは聞き逃さなかったが、からかうことはしなかった。


「だったら、今のひかげも大切にしてあげないとね」


「……はい」


「昔のことを知るのもいいけど、今の自分まで見失わないようにね」


 ひかげは少し考えた。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


「また言った!」


「……あっ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、同時に笑い出した。


 ちょうどその時、注文していた料理が運ばれてきた。


「よし! 難しい話はここまで!」


 みゆがフォークを手に取る。


「せっかく美味しそうなご飯が来たんだから、食べよう!」


「……はい!」


 ひかげも笑顔でフォークを持った。


 窓から差し込む柔らかな光が、テーブルの上を照らしている。


 不安がすべて消えたわけではない。


 それでも、先ほどより少しだけ、気持ちが軽くなっていた。


     ◇


 夕方。


 二人が帰ってくると、母屋の居間から賑やかな声が聞こえてきた。


「おかえりー!」


 真っ先に飛び出してきたのはピピだった。


「どうだった? 可愛い服買えた?」


「はい。買えましたよ」


「見せて!」


 ピピが嬉しそうに翼を広げる。


 しかし、その前にみゆが立ちはだかった。


「駄目ー!」


「ええっ! なんで!」


「旅行当日までのお楽しみ!」


「ずるい!」


「ずるくないよ。ね、ひかげ?」


「えっ……」


 突然話を振られ、ひかげは戸惑った。


 けれど、みゆの楽しそうな顔を見て、小さく頷いた。


「……はい。和真さんには、当日まで内緒にしたいです」


「えー!」


 ピピが不満そうに声を上げる。


 その後ろから、酒菜が顔を出した。


「なんだ、帰ってきたのか」


「ただいま!」


「おかえり。ずいぶん買ったみてえだな」


「うん! ひかげに似合う服、いっぱい見つけたよ」


「そりゃよかったな」


 酒菜はひかげの持つ袋へ視線を向けた。


「重くないか? 持ってやろうか」


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」


「そうか。ならいいけどよ」


 そこへ、奥から和真がやってきた。


「お、帰ってきたんだな」


「……っ!」


 ひかげがぴたりと固まった。


「どうした?」


「い、いえ! 何でもありません!」


 慌てて紙袋を背中へ隠す。


 和真が不思議そうに首を傾げた。


「服、いいの見つかった?」


「は、はい……!」


「そっか。よかったな」


 和真が笑う。


 ひかげは少しだけ安心した。


 けれど、みゆが隣からにやりと笑った。


「和真、旅行当日を楽しみにしててね」


「ん?」


「ひかげ、すっごく可愛くなるから!」


「み、みゆさんっ!」


 ひかげが慌てて声を上げた。


 和真は一瞬きょとんとした後、笑った。


「そうなのか。じゃあ楽しみにしてるよ」


「……っ!」


 ひかげは顔を伏せた。


 そんな様子を見て、酒菜が小さくため息をつく。


「お前も、あんまりひかげをからかうなよ」


「えー? からかってないよ?」


「どうだかな」


 酒菜が苦笑する。


 みゆは楽しそうに笑った。


 ひかげは恥ずかしさに耐えながら、そっと紙袋を抱きしめた。


     ◇


 その夜。


 ひかげは自室のベッドの上に、買ってきた服を丁寧に広げていた。


 一日目の服。


 二日目の服。


 それから、靴と鞄。


 どれも、今日みゆと一緒に選んだものだ。


「……可愛いなぁ」


 思わず呟く。


 昼間、試着室の鏡に映っていた自分を思い出す。


 いつもとは違う服。


 いつもより少しだけ明るい気持ち。


 そして、みゆの言葉。


『自分でも、今日は可愛いなって思える服の方が楽しいでしょ?』


 ひかげは一日目のブラウスを手に取った。


 柔らかな生地を指先で撫でる。


「……和真さん、喜んでくれはるかな」


 小さく呟いた後、慌てて首を振った。


「ちゃ、ちゃう……!」


 誰もいない部屋で、一人顔を赤くする。


 みゆに言われたばかりだ。


 和真に可愛いと思ってもらいたい気持ちはある。


 けれど、それだけではない。


 自分自身も、この服が好きなのだ。


「……うん」


 ひかげは小さく頷いた。


 それから、服を丁寧に畳み直す。


 旅行用の鞄を取り出し、必要なものを書き出したメモを開いた。


 着替え。


 洗面道具。


 充電器。


 財布。


 それから、以前から調べていた大学周辺の地図。


 画面に映る大阪の街並みを眺める。


 知らないはずなのに、どこか懐かしい場所。


 そこに行けば、何かが分かるかもしれない。


 けれど、何も分からないかもしれない。


「……それでも」


 ひかげは端末を置いた。


「……行ってみたい」


 今度は、はっきりと声に出せた。


 怖い気持ちは、まだ残っている。


 それでも、和真が一緒にいてくれる。


 そして、帰ってくれば、みゆや皆がいる。


 ひかげは買ってきた小さな髪飾りを手に取った。


 控えめな紫色の飾りが付いた、可愛らしいものだった。


 みゆが最後に見つけてくれたものだ。


『前髪はそのままでもいいから、横の髪を少し留めてみたら?』


 そんなことを言われたのを思い出す。


 ひかげは鏡の前へ移動し、試しに髪飾りを付けてみた。


 長い前髪はいつものまま。


 けれど、横髪を少し留めるだけで、顔の周りがすっきりした印象になった。


「……ふふっ」


 鏡に向かって、小さく笑う。


 以前の自分なら、こんなことはしなかったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 少しずつでも、自分の好きなものを見つけていきたい。


 ひかげは髪飾りを外し、大切そうに小さな袋へしまった。


 そして、端末を手に取る。


 和真との連絡画面を開いた。


 何か送ろうとして、指が止まる。


「……何て送ったらええんやろ」


 少し考えてから、短い文章を入力した。


『和真さん、今日は旅行の服を買ってきました。まだ少し先ですけど、旅行が楽しみです』


 送信する。


 すると、思っていたよりも早く返事が届いた。


『俺も楽しみにしてるよ。服は当日のお楽しみなんだろ?』


「……っ!」


 ひかげは思わず端末を胸に抱えた。


 しばらくして、もう一度画面を見る。


『はい。楽しみにしててください』


 そう返信すると、すぐに新しいメッセージが届いた。


『もちろん。ひかげも準備で無理しないようにな』


 ひかげはその文章を何度も読み返した。


「……和真さん」


 口元が自然と緩む。


 少しだけ勇気を出して、もう一通送った。


『ありがとうございます。和真さんも、楽しみにしててくださいね』


 送信してから、ひかげは小さく息を吐いた。


 旅行まで、あと少し。


 何度も見返した大阪の地図。


 今日買った新しい服。


 そして、和真と交わした約束。


 ひかげは端末を枕元に置き、ベッドへ腰を下ろした。


 この身体に残る記憶を、確かめに行く。


 それは確かに、今回の旅行を決めた理由だった。


 けれど、今はもう一つ。


 和真と二人で過ごす時間そのものが、楽しみになっていた。


「……早く、旅行の日にならへんかな」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、ひかげは柔らかく微笑んだ。


 旅行まで、あと三日。


 ひかげは自室の床に旅行鞄を広げ、持っていくものを一つずつ確認していた。


「着替え……お財布……充電器……」


 端末に作った持ち物リストを見ながら、準備の済んだ項目に印を付けていく。


 ベッドの上には、みゆと一緒に買った二組の服が丁寧に畳まれていた。


 一日目に着る、淡い紫色のブラウスと濃紺のロングスカート。


 二日目に着る、白いカットソーと深緑色のカーディガン。それに黒いロングスカート。


 どちらも、今までの自分なら手に取ることさえためらっていた服だ。


「……ほんまに、可愛いなぁ」


 ひかげは嬉しそうに微笑んだ。


 新しく買った靴も、近所を歩いて履き慣らしてある。


 小さな鞄には財布や端末を入れ、すぐに取り出せるようにするつもりだった。


 準備は順調だ。


 そう思っていたのだが。


「あ……」


 持ち物リストの一番下に目を留める。


 そこには、まだ印の付いていない項目があった。


『下着』


「…………」


 ひかげは衣装棚へ視線を向けた。


 もちろん、普段使っているものを持っていけば問題はない。


 けれど。


 ベッドの上に並べた新しい服を見ていると、何となく気になってしまった。


「……せっかく、新しい服も買うたんやし」


 小さく呟く。


 どうせなら、下着も新しいものにしたい。


 そう考えるのは、別におかしなことではないはずだ。


「……うん。そうやんな」


 自分に言い聞かせるように頷く。


 ところが、ふと別の考えが浮かんでしまった。


 今回の旅行では、和真と同じホテルの部屋に泊まる。


 しかも、二人きりだ。


「…………っ」


 ひかげは慌てて首を振った。


「な、何考えてるんやろ、私……!」


 別に、誰かに見せるわけではない。


 ましてや、和真に見せるつもりなど。


「……ない、はずやのに……」


 言いかけて、ますます顔が熱くなった。


 ひかげは両手で頬を押さえた。


 それから、しばらく考え込む。


「……買いに、行こかな」


 誰もいない部屋で、そっと呟いた。


     ◇


 その日の午後。


 ひかげは一人でショッピングモールを訪れていた。


 みゆを誘おうかとも考えたが、今回ばかりは少し恥ずかしかった。


 服選びなら、まだいい。


 けれど、下着となると話は別だ。


 特に、今の自分が考えているようなものを選ぶところを見られたら。


「……絶対、恥ずかしいことになるわ……」


 小さく呟きながら、目的の売り場へ向かう。


 色とりどりの下着が並ぶ店内。


 可愛らしいものから、大人っぽいものまで、様々なデザインが目に入ってくる。


「……いっぱいあるんやなぁ」


 ひかげは入り口近くで立ち止まった。


 普段なら、着け心地がよく、目立たないものを選んでいる。


 色も黒やベージュなど、落ち着いたものばかりだ。


 だから、こうしてじっくり選ぶのは久しぶりだった。


 最初に手に取ったのは、淡いクリーム色の下着だった。


 飾りは控えめで、生地も柔らかそうだ。


「……これ、ええなぁ」


 安心できるデザイン。


 いつもの自分なら、迷わずこれを選ぶだろう。


 ひかげはしばらく眺めてから、そっと棚へ戻した。


「……せっかくやし、もうちょっと見てみよ」


 店内をゆっくり歩いていく。


 淡いピンク。


 水色。


 白。


 花柄。


 どれも可愛らしい。


 けれど、その中で一つだけ、妙に目を引くものがあった。


「……あ」


 深い紫色の下着だった。


 落ち着いた色合いの生地に、繊細な黒いレースが重ねられている。


 ブラジャーとショーツが揃ったデザインで、全体的に上品な印象がある。


 ただ、普段のひかげが選ぶものと比べれば、かなり華やかだった。


「……綺麗」


 思わず手を伸ばす。


 指先で生地に触れると、柔らかな感触が伝わってきた。


 特に気になったのは、レースの使い方だった。


 派手すぎるわけではない。


 けれど、少しだけ大人っぽい。


 普段の自分より、ほんの少し背伸びをしたようなデザインだった。


「……こういうの、着けたことないなぁ」


 ひかげは手に取った下着を見つめた。


 可愛い。


 それは間違いない。


 けれど。


「……私には、ちょっと大胆すぎるやろか……」


 そう呟いて、棚へ戻しかける。


 その時だった。


「そちら、お気に召しましたか?」


「ひゃっ!」


 突然声をかけられ、ひかげは肩を跳ねさせた。


 振り返ると、女性店員が柔らかな笑顔で立っていた。


「すみません、驚かせてしまいましたね」


「い、いえ……!」


「そのシリーズ、人気があるんですよ。落ち着いた色合いなので、華やかでも上品に見えるんです」


「……そ、そうなんですね」


「よろしければ、サイズもご案内できますよ」


「あ……」


 ひかげは手元の下着へ視線を落とした。


 自分の体型に合うものを探すのは、いつも少し大変だ。


 見た目が気に入っても、実際に身に着けると窮屈だったり、形が合わなかったりすることがある。


「……お願いしても、ええですか?」


「もちろんです」


 店員に案内され、ひかげはサイズを確認してもらうことにした。


     ◇


 しばらくして。


 ひかげは試着室の鏡の前に立っていた。


「…………」


 確認したサイズの下着を身に着け、そっと鏡を見つめる。


 深い紫色。


 黒いレース。


 いつもより、少しだけ華やかなデザイン。


「……すごい」


 小さく呟く。


 思っていた以上に、自分に似合っている気がした。


 もちろん、普段のものと比べればかなり大胆だ。


 それでも、落ち着いた色のおかげか、不思議と違和感はなかった。


「……こんなんも、ええんやなぁ」


 ひかげは少しだけ身体の向きを変えた。


 鏡に映る自分を見て、思わず頬が緩む。


 普段は人目が気になって、自分の身体を隠すような服ばかり選んでいた。


 けれど、今は誰かに見せるためではなく、自分が気に入ったものを選ぼうとしている。


 それが、何だか嬉しかった。


「……でも」


 ふと、和真の顔が浮かぶ。


 旅行先のホテル。


 二人きりの部屋。


 夜景の見える窓。


 そして、隣にいる和真。


「…………っ!」


 ひかげは両手で顔を覆った。


「な、何で今、和真さんのこと……!」


 鏡を見ることさえ恥ずかしくなり、しばらくその場で動けなかった。


 何かを期待しているわけではない。


 そんなつもりで選んだわけでもない。


 ただ。


 もしも、和真に綺麗だと思ってもらえたら。


 そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎってしまった。


「……あかん、あかん……」


 ひかげは小さく首を振った。


「旅行は……そんなことするためやないんやから……」


 そう言い聞かせる。


 けれど、胸の高鳴りはなかなか収まらなかった。


 ひかげはもう一度、鏡へ目を向けた。


「……でも、好きやなぁ」


 今度は、素直にそう思えた。


 深い紫色は、自分の髪にもよく似合う。


 上品で、少し大人っぽい。


 何より、自分で選んでみたいと思ったものだった。


「……うん」


 ひかげは小さく頷く。


「これにしよ」


 迷いは、まだ少しだけあった。


 それでも、その下着を選ぶことに決めた。


     ◇


「ありがとうございました」


「……あ、ありがとうございました」


 会計を終え、ひかげは店を出た。


 手には、小さな紙袋が一つ。


 中には、普段使いできる落ち着いた色の下着と、先ほど選んだ深い紫色のセットが入っている。


 最後の最後まで迷ってしまったが、結局どちらも購入した。


「……買うてもうた」


 ひかげは紙袋を見下ろした。


 別に悪いことをしたわけではない。


 けれど、少しだけ秘密を抱えたような気分だった。


「……みゆさんに見られたら、何て言われるやろ」


 想像してみる。


『へぇー、ひかげってこういうのも好きなんだ?』


 きっと、みゆなら笑ってそう言うだろう。


 そして、その後で。


『もしかして、和真に見せるつもり?』


「……っ!」


 ひかげは慌てて首を振った。


「な、ないない! そんなこと……!」


 思わず声が出てしまい、近くを歩いていた人がこちらを見る。


「あ……」


 ひかげは慌てて口を押さえた。


「……す、すみません……」


 小さく頭を下げ、足早にその場を離れる。


 しばらく歩いてから、ようやく息を吐いた。


「……何してるんやろ、私……」


 恥ずかしさに肩を落とす。


 けれど、紙袋を持つ手は不思議と軽かった。


 新しい服。


 新しい靴。


 そして、新しい下着。


 旅行に必要なものが、少しずつ揃っていく。


「……楽しみやなぁ」


 ひかげは小さく微笑んだ。


 今度は、誰に聞かれることもなかった。


     ◇


 旅行前日の夕方。


 ひかげは自室で最後の荷物確認をしていた。


 ベッドの上には、すっかり準備の整った旅行鞄が置かれている。


「……これで、全部やんな」


 持ち物リストを確認する。


 忘れ物はなさそうだ。


 財布も、端末も、充電器も揃っている。


 着替えは二日分。


 洗面道具も入れた。


 そして。


「…………」


 ひかげは引き出しを開けた。


 そこには、先日購入した下着が丁寧に畳まれている。


 普段使いのもの。


 そして、深い紫色のもの。


「……どっちにしよ……」


 ひかげは二つを見比べた。


 普通に考えれば、慣れている方がいい。


 旅行先で落ち着いて過ごせるし、余計なことを気にせずに済む。


 けれど。


「……せっかく、買うたんやし……」


 指先が、紫色の下着へ伸びる。


 そっと持ち上げる。


 柔らかなレースが指に触れた。


「……これも、持っていこかな」


 しばらく悩んだ末、ひかげは二つとも旅行鞄へ入れた。


 どちらを身に着けるかは、その時に決めればいい。


 そう考えると、少しだけ気が楽になった。


「……うん」


 ひかげは鞄を閉じた。


 その瞬間、部屋の外から声がした。


「ひかげー! ご飯できたよー!」


 みゆの声だった。


「あ、はい! 今行きます!」


 返事をして立ち上がる。


 鞄をもう一度見下ろしてから、ひかげは部屋を出た。


     ◇


 母屋では、いつものように皆が夕食を囲んでいた。


「ひかげ、明日だったよね!」


 ピピが元気よく声をかけてくる。


「はい。明日からです」


「いいなぁ! 大阪!」


「……ふふっ」


「たこ焼き食べる?」


「はい。二日目に食べようかなって思ってます」


「お土産!」


「こら、ピピ。行く前から土産をねだるな」


 酒菜が呆れたように言う。


「だって大阪だよ!」


「大阪なら何でも土産になるわけじゃねえだろ」


「たこ焼き!」


「持って帰る頃には冷めてるだろうが」


「えー!」


 ピピが不満そうに翼を揺らした。


 その様子に、皆から笑い声が上がる。


「しかし、楽しみじゃのう」


 あおいがひかげへ顔を向けた。


「わらわも京都では、和真様と実に楽しい時間を過ごしたぞ」


「……そうですね。お写真、どれも楽しそうでした」


「うむ! ひかげも、存分に楽しんでくるがよい!」


「……はい」


 ひかげは嬉しそうに頷いた。


 向かいに座っていたリディアが、穏やかに微笑む。


「荷物の準備は終わりましたか?」


「はい。さっき確認したところです」


「それなら安心ですね。明日は朝から移動でしょうし、今日は早めに休んでくださいね」


「はい。ありがとうございます」


 その隣では、ユエが静かに食事の様子を眺めていた。


「忘れ物がないなら、あとは楽しむだけね」


「……はい」


「不安そうな顔をしているけれど、大丈夫?」


「えっ……」


 ひかげは少し驚いた。


「……そんな顔、してました?」


「少しね」


 ユエはそれ以上問い詰めなかった。


 ひかげは膝の上で指を重ねる。


「……ちょっとだけ、緊張してます」


「初めての場所へ行くのだから、当然でしょう」


 ユエは淡々と答えた。


「けれど、一人ではないのだから」


「……そうですね」


 ひかげは小さく頷いた。


 その時、和真が口を開いた。


「ひかげ、明日は荷物を持って迎えに行くよ」


「あ……はい」


「朝飯を食べたら、一緒に出よう」


「……お願いします」


 ひかげは頭を下げた。


 和真は笑って頷き、食事を続ける。


 その姿を見ているだけで、緊張が少し和らいだ。


「和真」


 今度はフェンリスが声をかけた。


「ん?」


「明日は気をつけて行ってきてね」


「ああ。ありがとう」


「ひかげも、楽しんできて」


「……はい。ありがとうございます」


 フェンリスは小さく笑った。


 その笑顔を見て、ひかげも微笑み返した。


「お土産、買うてきますね」


「うん。楽しみにしてる」


 フェンリスはそう答え、再び箸を動かした。


 夕食はその後も賑やかに続いた。


 大阪で食べたいもの。


 行ってみたい場所。


 写真を撮るなら、どんなところがいいか。


 皆が好き勝手に話すものだから、ひかげは何度も笑ってしまった。


 いつの間にか、明日への不安も少しずつ薄れていた。


     ◇


 夕食を終えた後。


 ひかげが母屋から出ようとすると、背後から声がした。


「ひかげ」


「あ……和真さん」


 振り返ると、和真が立っていた。


「ちょっといい?」


「は、はい」


 二人は母屋の外へ出た。


 夜の空気は少しひんやりしていて、昼間の暖かさが嘘のようだった。


 ひかげは両手を胸元で重ねる。


「……どうか、しました?」


「いや、明日のことなんだけど」


「はい」


「一日目、無理しないようにな」


 和真は穏やかな声で言った。


「大学の周辺も、昔住んでたかもしれない場所も、ひかげが行きたいところを回ろうと思ってるけど……」


 そこで一度、言葉を切る。


「途中で嫌になったら、遠慮なく言ってくれよ」


「……はい」


「何も分からなくても、気にしなくていいから」


 ひかげはしばらく黙っていた。


 以前も、和真は同じようなことを言ってくれた。


 けれど、旅行を明日に控えた今、改めてその言葉を聞くと、胸の奥が温かくなった。


「……和真さん」


「ん?」


「私……やっぱり、ちょっと怖いです」


「うん」


「行ってみたい気持ちは、ほんまなんです。でも、昔のことを思い出してしもたら……って考えると……」


 ひかげは視線を落とした。


「……どうしたらええんやろって」


 和真は黙って聞いていた。


 それから、ゆっくりと口を開く。


「その時は、一緒に考えよう」


「……え?」


「何か分かったら、その時にどうするか考えればいい。今から全部決めなくてもいいだろ?」


 ひかげは顔を上げた。


 和真は笑っていた。


「それに、今回は旅行なんだから。ちゃんと楽しもうな」


「……はい」


「二日目は観光もあるし、美味いものもいっぱい食べよう」


「……ふふっ」


 ひかげの口元に笑みが浮かぶ。


「和真さん、食べ物の話ばっかりですね」


「そうか?」


「はい。さっきも皆さんと、たこ焼きの話してはりましたし」


「まあ、大阪だしな」


「……ふふふっ」


 ひかげは小さく笑った。


 その笑顔を見て、和真も安心したように頷く。


「よし。じゃあ今日は早く寝ような」


「……はい」


「明日の朝、迎えに行くから」


「お待ちしてます」


 和真は軽く手を振り、自分の部屋へ戻っていった。


 ひかげはその後ろ姿を、しばらく見つめていた。


「……和真さん」


 小さく呟く。


 胸の奥が、温かい。


 明日になれば、和真と二人で旅に出る。


 誰にも邪魔されず、隣を歩いて、同じ景色を眺めて。


 同じ部屋で、一晩を過ごす。


「…………っ」


 最後のことを考えた瞬間、ひかげの頬が熱くなった。


「……もう……」


 自分でも呆れてしまう。


 けれど、そんな気持ちさえ、今は少しだけ愛おしかった。


     ◇


 自室へ戻ると、ひかげは明日着ていく服をハンガーに掛けた。


 淡い紫色のブラウス。


 濃紺のロングスカート。


 みゆと一緒に選んだ、一日目の服だ。


「……明日は、これやな」


 ひかげは満足そうに頷いた。


 それから、ベッドの横に置いた旅行鞄へ目を向ける。


「…………」


 しばらく迷った末、もう一度鞄を開けた。


 中には、着替えや洗面道具が綺麗に収まっている。


 その隅に、小さな布袋があった。


 ひかげはそっと取り出す。


「……これ」


 袋の中には、深い紫色の下着が入っていた。


 黒いレースの付いた、少し大胆なデザイン。


 店で選んだ時のことを思い出す。


 あの時は、自分でも驚くほど勇気が必要だった。


 けれど、今こうして見ていても、やっぱり綺麗だと思う。


「……持っていくだけ、やもんな」


 誰かに聞かせるでもなく呟く。


 別に、特別な意味があるわけではない。


 ただ、自分が気に入ったものを選んだだけ。


 そう考えていたはずなのに。


『ひかげは今でも十分可愛いと思うけど……』


 ふと、和真の言葉が蘇った。


「…………っ!」


 ひかげは慌てて袋を閉じた。


「……何で、今思い出すん……」


 ベッドへ腰を下ろす。


 胸の鼓動が、少し速くなっていた。


 和真は、いつも優しい。


 自分が困っていれば助けてくれる。


 不安な時には、無理をしなくていいと言ってくれる。


 そして、何気ない言葉で、簡単に自分の心を揺らしてしまう。


「……ずるいなぁ、和真さん……」


 ひかげは小さく笑った。


 本人には、きっとそんなつもりなどないのだろう。


 だからこそ、余計に困ってしまう。


 ひかげはもう一度、手元の袋を見つめた。


 少し大胆な下着。


 今までの自分なら、きっと選ばなかったもの。


 けれど、今回は自分の意思で買った。


 誰かに言われたからではない。


 みゆに勧められたからでもない。


 少しだけ変わってみたい。


 もう少し、自分に自信を持ってみたい。


 そんな気持ちがあったからだ。


「……うん」


 ひかげは小さく頷いた。


「……これで、ええんや」


 そっと袋を鞄へ戻す。


 そして、今度こそファスナーを閉じた。


 ベッドへ横になり、天井を見上げる。


 明日から始まる、大阪への一泊二日の旅行。


 かつて、この身体の元になった女性が暮らしていたかもしれない街。


 自分の中に残る、曖昧な記憶。


 そこには、何が待っているのだろう。


 懐かしい景色。


 知らなかった過去。


 あるいは、何も見つからないかもしれない。


 それでも。


「……和真さんと、一緒やもんな」


 ひかげは小さく微笑んだ。


 不安はある。


 けれど、それ以上に楽しみだった。


 知らない街を、二人で歩くこと。


 美味しいものを食べること。


 写真を撮ること。


 そして、夜になったら、同じ部屋で今日の出来事を話すこと。


 そう考えているうちに、自然と笑みがこぼれた。


「……ふふっ」


 ひかげは布団を胸元まで引き上げた。


 明日は、きっと特別な一日になる。


 どんな景色が待っているのかは、まだ分からない。


 けれど、その景色を和真と一緒に見られる。


 それだけは、もう決まっている。


「……おやすみなさい、和真さん」


 小さく呟いて、ひかげは目を閉じた。


 しばらくして、部屋には静かな寝息が響き始める。


 ベッドの傍らには、旅行鞄。


 その中には、明日からの旅に必要なものと、ひかげが少しだけ勇気を出して選んだ小さな秘密が収められていた。


 大阪への出発は、明日の朝。


 ひかげにとって、過去を訪ねる旅であり。


 そして、今の自分が新しい思い出を作るための、特別な二日間が始まろうとしていた。

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