第三十二話 ふたりで歩く、京の帰り道
朝、あおいは心地よい温もりの中で目を覚ました。
「……んむ」
まだ眠気の残る目を薄く開ける。
見慣れない天井。
柔らかな布団。
そして、すぐ目の前には和真の寝顔があった。
「…………」
あおいはしばらく、その顔をじっと見つめていた。
昨日は京都へ来て、二人で観光を楽しんだ。
初めて見る景色に驚き、美味しいものを食べ、慣れない着物を着て古い町並みを歩いた。
何もかもが新鮮で、楽しくて。
気づけば、あっという間に夜になっていた。
そして、昨夜。
みゆやリディアばかりずるいと和真に詰め寄り、少々無理を言ってしまった。
それでも和真は、最後には自分の願いを聞き入れてくれた。
おかげで、こうして彼の腕の中で朝を迎えることができたのだ。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
あおいは和真を起こさないように、そっと胸元へ頬を寄せた。
規則正しい鼓動が聞こえてくる。
その音を聞いていると、不思議と心が落ち着いた。
「……和真」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
どうやら、まだぐっすり眠っているようだ。
「まったく……無防備な男じゃのう」
そんなことを呟きながら、あおいは和真の頬を指先で軽くつついた。
反応はない。
今度は鼻先をちょんと触ってみる。
「……ん」
和真の眉がわずかに動いた。
あおいは慌てて手を引っ込める。
しばらく様子を窺っていたが、再び穏やかな寝息が聞こえてきた。
「……ふふ」
いたずらが成功した子供のように笑うと、あおいは再び胸元へ顔を埋めた。
もう少しだけ。
あと少しだけ、このままでいたい。
そう思っていたところで、頭の上から声がした。
「……あおい?」
「ひゃっ!?」
驚いて顔を上げる。
そこには、眠そうに目を擦る和真がいた。
「……おはよう」
「お、おお。おはようなのじゃ」
「……何してたの?」
「な、何もしておらぬぞ?」
「そっか……」
和真はまだ寝ぼけているらしく、それ以上追及することもなかった。
代わりに、あおいを抱いていた腕を少し動かそうとする。
「……あれ?」
「どうしたのじゃ?」
「右腕が痺れてる……」
「む?」
「ずっと腕枕してたからかな」
和真が苦笑する。
あおいは少し考えた後、真剣な顔で頷いた。
「ならば、今夜は反対の腕にするのじゃ」
「いや、今夜は家に帰るんだけど」
「むぅ……そうじゃった」
あからさまに残念そうな顔をするあおい。
和真は思わず笑ってしまった。
「そんな顔しなくても、また一緒に寝る機会くらいあるだろ」
「……本当かえ?」
「まあ、たまにならね」
「言質は取ったぞ!」
「しまった……」
和真がわざとらしく額を押さえると、あおいは嬉しそうに笑った。
そして、もう一度彼の胸へ抱きつく。
「では、もう少しだけこうしておる」
「朝ご飯の時間があるから、あんまり長くは無理だよ」
「分かっておる。ほんの少しじゃ」
そう言って、あおいは満足そうに目を閉じた。
和真は小さく息をつくと、空いている左手で彼女の頭を撫でた。
すると、あおいがくすぐったそうに身をよじる。
「……和真」
「ん?」
「昨夜は、わらわの我が儘を聞いてくれて、ありがとうなのじゃ」
思いがけない言葉だった。
「急にどうした?」
「いや……少し、言っておきたくなっただけじゃ」
あおいは顔を上げない。
「わらわは、皆が和真と仲良くしておるのを見ると、どうにも羨ましくなってしまう」
「うん」
「みゆも、リディアも、フェンリスも……皆、お主と随分仲がよいからのう」
そこで一度言葉を切った。
「じゃが、昨日はわらわだけの時間じゃった」
和真は黙って続きを待った。
「それが、嬉しかったのじゃ」
小さく呟いた声には、普段の強気な様子がなかった。
和真はあおいの頭を優しく撫でる。
「俺も楽しかったよ」
「……本当かえ?」
「もちろん。あおいがあんなに喜んでくれるとは思わなかったし」
「当然じゃ。初めて見るものばかりであったからの」
あおいは嬉しそうに笑った。
「今日も、たくさん楽しむのじゃ!」
「そうだね。じゃあ、そろそろ起きようか」
「……もう少し」
「さっきも言っただろ」
「あと五分じゃ!」
「はいはい」
結局、二人が布団から出たのは、それから十分ほど経ってからだった。
◇
朝食を済ませた二人は、部屋へ戻って荷物をまとめた。
あおいは昨日買った土産を一つずつ確かめながら、楽しそうに鼻歌を口ずさんでいる。
「和真、これは誰への土産じゃったかの?」
「それは酒菜だね」
「おお、そうじゃった。では、こちらは?」
「ひかげだったかな」
「うむうむ」
あおいは納得したように頷き、袋を丁寧に鞄へ収めた。
ひと通り片付け終えると、部屋の中をぐるりと見回す。
「……もう、この部屋ともお別れか」
「そうだね」
「少々、名残惜しいのう」
「気に入った?」
「うむ。料理も風呂もよかった。それに……」
あおいは和真をちらりと見た。
「昨夜は、よい思い出ができたからの」
「……あおい」
「なんじゃ?」
「外でそういう言い方はしないでくれよ?」
「ふふふ。何を想像しておるのじゃ?」
「そうやって面白がるんだから……」
和真が苦笑する。
あおいは楽しそうに笑いながら、最後の荷物を鞄に詰めた。
忘れ物がないか確認し、二人は部屋を後にする。
宿の人へ礼を伝え、チェックアウトを済ませた。
車へ荷物を積み込むと、あおいは一度だけ宿を振り返った。
「……また泊まりたいのう」
「京都に来る機会があったらね」
「約束じゃぞ?」
「うん。覚えておくよ」
その返事に満足したのか、あおいは嬉しそうに助手席へ乗り込んだ。
和真も運転席へ座り、エンジンをかける。
「さて、今日は嵐山だったね」
「うむ! 竹林を見に行くのじゃ!」
「じゃあ、出発しようか」
「おお!」
こうして、二人の京都旅行二日目が始まった。
◇
嵐山に到着したのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
車を駐車場へ停め、二人は歩いて竹林へ向かう。
観光客で賑わう通りには、土産物屋や飲食店が並んでいた。
「おお、こちらも随分と賑やかじゃのう」
「人気の観光地だからね」
「昨日の町とは、また雰囲気が違うのじゃ」
「そうだね。こっちは自然も多いから」
あおいは興味深そうに周囲を眺めながら歩いていた。
店先に並ぶ和菓子。
色とりどりの土産物。
そして、観光客を乗せて通り過ぎる人力車。
「和真! あれは何じゃ!?」
「ああ、人力車だよ」
「人が車を引いておるのか!?」
「そうだね。観光で乗れるんだ」
「ほう……」
あおいは走り去る人力車をじっと見つめた。
「乗ってみたい?」
「……少し興味はあるのう」
「じゃあ、後で考えてみようか」
「うむ!」
何でもない会話を交わしながら歩いていく。
やがて、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
道の両側に竹が増え、頭上を覆う緑が濃くなっていく。
そして――。
「……おお」
竹林の小径へ足を踏み入れた瞬間、あおいが立ち止まった。
まっすぐ空へ伸びる無数の竹。
見上げても、その先がどこまでも続いているように感じられる。
葉の隙間から柔らかな陽光が差し込み、足元に淡い影を落としていた。
風が吹くたび、竹の葉がさらさらと音を立てる。
「……綺麗じゃのう」
あおいは思わず呟いた。
「写真で見るのとは違うでしょ?」
「うむ……」
その声は、どこか上の空だった。
あおいはゆっくりと首を動かし、周囲を見回している。
そして、何かを確かめるように一歩踏み出した。
足元の土を踏みしめ、頭上の竹を見上げる。
「……すごいのう」
再び、同じような言葉がこぼれた。
和真は急かすことなく、隣で待っていた。
「……和真」
「ん?」
「わらわは、こういう場所があることを知らなんだ」
「そっか」
「うむ」
あおいは竹林の奥へ目を向けた。
「昔のわらわには、外の世界など、遠い夢のようなものであったからの」
その言葉に、和真は彼女を見た。
二百年以上。
あおいは、あの山奥の神社に閉じ込められていた。
季節が変わっても、年が過ぎても、外へ出ることは許されなかった。
見える景色は、いつも同じ。
訪れる者がいなければ、話し相手さえいない。
そんな日々を、彼女は長い間過ごしてきたのだ。
「……じゃが」
あおいが振り返る。
その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「今は違うのじゃ」
そう言って、和真の手を握る。
「こうして好きな場所へ行ける。見たいものを見て、食べたいものを食べられる」
「うん」
「それに、隣には和真がおる」
あおいは握った手に、少しだけ力を込めた。
「……わらわは、幸せ者じゃのう」
和真は優しく笑った。
「まだまだ、見たことのない場所がいっぱいあると思うよ」
「……そうじゃな」
「これから少しずつ、行ってみようか」
あおいの目が大きく開かれた。
「よいのか!?」
「もちろん。一度に全部は無理だけどね」
「構わぬ!」
あおいは勢いよく頷いた。
「一年でも、十年でもよい! 少しずつで構わぬから、いろいろな場所へ行きたいのじゃ!」
「それなら、まずは今日の京都を楽しもう」
「うむ!」
あおいは満面の笑みを浮かべ、和真の手を引いて歩き始めた。
◇
「和真! ここで写真を撮るのじゃ!」
竹林の途中で、あおいが突然立ち止まった。
「いいよ。じゃあ、そこに立って」
「違うぞ」
「ん?」
「二人で撮るのじゃ」
あおいは当然のように和真の腕へ抱きついた。
「二人で?」
「当たり前じゃ。せっかく一緒に来たのじゃからな」
「じゃあ、自撮りにしようか」
「うむ!」
和真がスマートフォンを取り出し、カメラを起動する。
画面に二人の顔が映った。
あおいは嬉しそうに身体を寄せた。
「和真、もっとこちらへ寄るのじゃ」
「これくらい?」
「まだじゃ」
「これ以上近づいたら、竹林が写らないぞ」
「構わぬ」
「いや、竹林を撮りたかったんじゃ……」
「竹林も大切じゃが、和真と一緒に写る方がもっと大切じゃ!」
あまりにも堂々と言い切るので、和真は笑ってしまった。
「分かったよ。じゃあ、撮るね」
「うむ!」
シャッター音が鳴る。
画面には、少し照れくさそうに笑う和真と、その隣で満面の笑みを浮かべるあおいが写っていた。
「おお! よいではないか!」
「いい感じだね」
「もう一枚じゃ!」
「今撮ったばかりだよ」
「今度は違う顔をするのじゃ!」
「違う顔って……」
あおいは和真の腕にしがみついたまま、頬を寄せる。
「ほれ、早う!」
「はいはい」
再びシャッター音が鳴る。
今度は、あおいが少しいたずらっぽく笑った写真になった。
「ふふふ。これもよいのう」
「満足した?」
「まだじゃ!」
「まだ撮るの?」
「無論!」
結局、何枚も写真を撮ることになった。
途中、通りかかった観光客に声をかけ、竹林を背景に二人の全身が写る写真も撮ってもらった。
あおいはその写真を何度も見返している。
「……よいのう」
「そんなに気に入った?」
「うむ」
あおいは画面を和真へ向けた。
「ほれ、二人とも笑っておる」
「そうだね」
「昨日も今日も、こういう写真がたくさん増えたのじゃ」
「帰ったら皆に見せないとね」
「……む?」
あおいの動きが止まった。
「……皆に?」
「うん。土産話も聞きたがってるだろうし」
あおいは少し考え込んだ。
「……和真」
「ん?」
「この写真は、わらわだけのものにしてもよいかえ?」
「別にいいけど、どうして?」
「……秘密じゃ」
あおいは頬を赤らめ、スマートフォンを胸元へ抱えた。
皆で撮った写真とは違う。
これは、自分と和真だけの思い出だ。
誰かに見せるのが嫌というわけではない。
ただ、少しくらい独り占めしておきたかった。
「……ふふ」
あおいは嬉しそうに笑う。
「和真、次へ行くのじゃ!」
「はいはい。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「時間が惜しいのじゃ!」
そう言って、和真の手を引き始める。
その姿を見て、和真はまた笑ってしまった。
◇
竹林を抜けた二人は、近くの野宮神社へ立ち寄ることにした。
入口の鳥居を見上げたあおいは、少しだけ足を止める。
「……神社か」
「そうだね。寄ってみる?」
「…………」
あおいはしばらく鳥居を見つめていた。
和真は彼女の様子に気づき、少しだけ顔を覗き込む。
「無理に入らなくてもいいよ」
「……む?」
「ほかにも見たいところはあるし」
その言葉の意味を理解したのか、あおいは小さく笑った。
「気を遣わせてしまったかの」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「大丈夫じゃ」
あおいは鳥居へ目を戻した。
「わらわが閉じ込められておった社と、ここは違うからの」
そう言って、和真の手を握る。
「それに……今のわらわは、自分の意思で入ることも、出ることもできるのじゃ」
あおいは一歩前へ踏み出した。
「ほれ、和真。行くぞ」
「うん」
二人は並んで境内へ入った。
参拝客に混じって歩き、社殿の前で足を止める。
和真が参拝を済ませると、隣のあおいも静かに手を合わせていた。
その横顔は、いつになく穏やかだった。
しばらくして、あおいが目を開ける。
「……よし」
「何をお願いしたの?」
「秘密じゃ」
「教えてくれないの?」
「ふふふ。そう簡単には教えられぬのう」
あおいはいたずらっぽく笑った。
「和真は何を願ったのじゃ?」
「俺?」
「うむ」
「皆が元気で過ごせますように、かな」
「……皆か」
「うん。あおいも含めてね」
その言葉に、あおいは少しだけ目を丸くした。
そして、頬を緩める。
「……そうかえ」
「どうした?」
「いや、何でもないのじゃ」
あおいは和真の手を取った。
「では、次へ行こうかの」
「もういいの?」
「うむ。願い事も済ませたからの」
二人は鳥居をくぐり、再び賑やかな通りへ戻った。
外へ出たところで、あおいはふと振り返る。
先ほどまでいた神社が、そこにあった。
何の変哲もない、小さな神社。
けれど、あおいにとっては少しだけ特別な場所になった。
自分の意思で入り、自分の足で外へ出た。
たったそれだけのこと。
それでも、以前の自分には決してできなかったことだった。
「……和真」
「ん?」
「手を離してはならぬぞ?」
「離さないよ」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷き、和真と並んで歩き始めた。
◇
その後、二人は渡月橋へ向かった。
道の先に川が見え始めたところで、あおいが目を輝かせる。
「和真! 川じゃ!」
「見えてるよ」
「随分と大きいのう!」
「もう少し歩けば橋が見えるよ」
「おお!」
あおいの足取りが速くなる。
和真もその後を追うように歩いていく。
やがて、目の前に大きな橋が姿を現した。
渡月橋。
穏やかに流れる川の向こうには山々が連なり、水面には柔らかな陽光が反射している。
「……おお!」
あおいが感嘆の声を上げた。
「見事な景色じゃのう!」
「綺麗だね」
「うむ!」
二人は橋の上をゆっくりと歩いた。
川から吹いてくる風が心地よい。
あおいは周囲を眺めながら、何度も立ち止まりそうになっていた。
「和真、あちらの山も綺麗じゃぞ!」
「そうだね」
「向こうには船もおる!」
「川下りかな」
「ほう! あれにも乗れるのかえ?」
「乗れるよ。予約が必要なものもあるけどね」
「むむ……京都には面白そうなものが多すぎるのう」
あおいは少し困ったように眉を寄せた。
「全部見て回るには、時間が足りぬではないか」
「一泊二日じゃ、さすがに全部は無理だね」
「……残念じゃのう」
そう呟くあおい。
けれど、すぐに和真の顔を見た。
「……ならば、また来ればよいのじゃな?」
「そうだね」
「次は、もっと長く泊まりたいのう!」
「皆の旅行が一通り終わってから相談しようか」
「うむ! 約束じゃぞ!」
あおいは嬉しそうに笑った。
橋を渡り終えると、二人は少し離れた場所から川を眺めることにした。
観光客が写真を撮り、子供たちが楽しそうに走り回っている。
あおいはその光景を、しばらく黙って見つめていた。
「……和真」
「どうした?」
「わらわは、今まで随分と長く生きてきた」
「うん」
「じゃが、そのほとんどを、あの社で過ごしたのじゃ」
あおいは川へ目を向けた。
「外の世界がどうなっておるのかも知らず、ただ毎日を過ごしておった」
和真は何も言わず、隣に立っていた。
「……時折、考えたものじゃ」
「何を?」
「わらわは、このままずっと、あそこで過ごすのかとな」
あおいは小さく笑った。
「誰かと一緒に出かけることなど、考えたこともなかったのじゃ」
その言葉に、和真は胸の奥が少し苦しくなった。
けれど、あおいは悲しそうな顔をしていなかった。
「……じゃが、今は違う」
そう言って、和真を見上げる。
「昨日も今日も、わらわは好きな場所へ行けた。美味しいものも食べた。綺麗な景色も見た」
「うん」
「それに、和真と一緒に眠ることもできたのじゃ」
「……最後のは、ちょっと恥ずかしいな」
「ふふふ。照れるでない」
あおいは楽しそうに笑った。
そして、ゆっくりと和真の腕へ抱きつく。
「……わらわはのう、和真」
「ん?」
「もう、昔のような寂しい思いはしたくないのじゃ」
小さな声だった。
「皆と一緒に笑って、美味しいものを食べて、たまにはこうして和真と出かけて……」
あおいは少しだけ顔を上げる。
「そんな毎日が、ずっと続けばよいと思っておる」
和真は優しく笑った。
「続けていこうよ」
「……む?」
「皆で暮らして、たまに旅行して。今までみたいにさ」
あおいの瞳が、わずかに揺れた。
「……よいのか?」
「もちろん。あおいも空色唐辛子荘の大切な住人なんだから」
その言葉を聞いた途端、あおいは勢いよく抱きついた。
「和真!」
「うわっ!?」
「大好きじゃ!」
「ちょ、ちょっと! ここ人が多いって!」
「構わぬ!」
「俺が恥ずかしいんだけど!」
「ふふふ! わらわは嬉しいのじゃ!」
周囲の観光客が微笑ましそうに二人を見ている。
和真は恥ずかしそうに頬を掻いた。
それでも、あおいを無理に引き離すことはしなかった。
しばらくして満足したのか、あおいはようやく身体を離した。
そして何事もなかったように、和真の手を握る。
「さて!」
「……ん?」
「次は何を食べるかのう!」
「もう昼飯のこと?」
「当然じゃ! 朝から随分と歩いたからのう!」
「まあ、確かにそろそろお昼だね」
和真がスマートフォンを取り出すと、あおいは興味津々といった様子で画面を覗き込んだ。
「何があるのじゃ?」
「蕎麦とか、京野菜を使った料理とか。いろいろあるみたいだね」
「ほう……」
あおいは真剣な顔で画面を見つめた。
そして、ある料理の写真を指差す。
「和真、この蕎麦の上に乗っておるものは何じゃ?」
「ああ、にしんそばだね」
「にしん?」
「魚だよ。甘辛く煮たニシンを、温かい蕎麦に乗せた料理なんだ」
「魚を蕎麦に乗せるのかえ?」
あおいは不思議そうに首を傾げた。
「うん。京都の名物なんだって」
「ふむ……面白そうじゃのう」
あおいはしばらく写真を眺めていたが、やがて大きく頷いた。
「よし! 昼はこれにするのじゃ!」
「にしんそばでいいの?」
「うむ! 昨日は湯葉も食べたことじゃし、今日はまた違うものを味わってみたいのじゃ」
「じゃあ、近くにあるお店を探そうか」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに和真の手を引いた。
「ほれ、早う行くぞ!」
「そんなに急がなくても、お店は逃げないよ」
「腹が減っておるのじゃ!」
「さっきまで景色に夢中だったのに……」
「景色も食事も、どちらも大切じゃ!」
あまりにも堂々と言い切るので、和真は思わず笑ってしまった。
二人は手を繋いだまま、賑やかな通りへ歩き出す。
京都で過ごす時間は、残りわずか。
それでも、あおいの足取りは軽かった。
昨日から増え続ける思い出。
そして、これから先にも待っているであろう、まだ見ぬ景色。
そのどれもが、彼女にとって楽しみで仕方なかった。
あおいは和真の横顔をちらりと見て、小さく笑う。
「……ふふ」
「どうした?」
「何でもないのじゃ!」
今度は、自分から握った手に少しだけ力を込める。
昔の自分が、今の姿を見たら何と言うだろう。
きっと、信じられないに違いない。
けれど、これは夢ではない。
手の温もりも、風の匂いも、周囲の賑やかな声も。
すべてが、今の自分のものだった。
「和真!」
「ん?」
「今日も、最後まで楽しむのじゃぞ!」
「もちろん!」
二人は笑い合いながら、昼食の店へと向かった。
昼食の店へ入ると、出汁のよい香りが二人を迎えた。
「おお……よい匂いじゃのう」
あおいは嬉しそうに鼻を動かした。
店内には木製のテーブルが並び、壁には料理の写真が飾られている。
ちょうど昼時ということもあり、席の半分ほどが埋まっていた。
案内された窓際の席に座ると、あおいは早速メニューを開いた。
「和真、これじゃ! 先ほど見せてもらった蕎麦じゃ!」
「うん。にしんそばだね」
「わらわはこれにするぞ!」
「俺も同じのにしようかな」
「む? 和真もかえ?」
「せっかくだし、京都の名物を食べてみたいからね」
「ふふふ。では、お揃いじゃな!」
あおいは満足そうにメニューを閉じた。
注文を済ませ、料理が運ばれてくるまで、二人は今日撮った写真を眺めることにした。
「ほれ、和真。これを見てみよ」
あおいが見せたのは、竹林で撮った二人の写真だった。
和真の腕に抱きつき、満面の笑みを浮かべている。
「ずいぶん嬉しそうだね」
「当然じゃ。和真と二人で撮った写真じゃからの」
「昨日から何枚撮ったんだろうね」
「数えてみるかえ?」
「いや、いいよ。結構な数になってそうだし」
「ふふふ。まだまだ増やすつもりじゃぞ?」
「スマホの容量がいっぱいにならない程度にね」
「ようりょう?」
「写真を保存できる数にも限りがあるってこと」
「なんと!」
あおいは慌てて自分のスマートフォンを確認した。
「わらわは、まだ撮れるのかえ!?」
「大丈夫だよ。そんなにすぐいっぱいにはならないから」
「……本当じゃな?」
「うん。だから安心して」
「ふぅ……驚かせおって」
あおいは胸を撫で下ろした。
その大げさな反応に、和真は思わず笑ってしまう。
「そんなに写真が大事?」
「当たり前じゃ!」
あおいは即答した。
「写真というものは、実によい。楽しかったことを、後から何度でも見返せるのじゃからな」
「そうだね」
「わらわの知らぬ間に、人の世は随分と便利になったものじゃ」
そう言って、あおいは再び画面へ目を落とした。
指先で写真を一枚ずつ送っていく。
昨日の町並み。
二人で食べた料理。
宿で撮った写真。
そして、今朝の竹林。
どれも楽しそうな顔をしていた。
「……ふふ」
「どうした?」
「いや、昨日から笑ってばかりじゃと思っての」
「いいことじゃない?」
「うむ!」
あおいは大きく頷いた。
「わらわも、そう思うのじゃ」
その時、店員が二人分の蕎麦を運んできた。
「お待たせしました。にしんそばです」
「おお!」
あおいの視線が一瞬で料理へ移る。
温かな出汁の中に蕎麦が盛られ、その上には大きなニシンの甘露煮が乗っていた。
「これが、にしんそばか!」
「美味しそうだね」
「うむ! いただくのじゃ!」
二人は手を合わせ、箸を取った。
あおいはまず出汁を一口飲む。
「……ほう」
目を細め、ゆっくりと味わう。
「これはよいのう。優しい味じゃ」
「出汁が美味しいね」
「うむ。魚の味もするが、妙に落ち着くのじゃ」
続いて蕎麦をすすり、上に乗ったニシンを箸でほぐした。
「……む!」
「どうした?」
「和真、この魚、随分と柔らかいぞ!」
「甘辛く煮込んであるからね」
「骨まで柔らかいとは……!」
あおいは感心したようにニシンを見つめた。
そして、もう一口食べる。
「うむ! 美味い!」
「気に入った?」
「大いに気に入ったぞ!」
その返事を聞いて、和真も笑みを浮かべた。
しばらく二人は料理を楽しんでいたが、あおいがふと顔を上げた。
「和真」
「ん?」
「昨日の湯葉も美味かったが、これもなかなかじゃな」
「京都って、色々な料理があるからね」
「うむ。二日では食べきれぬのう」
「全部食べようとしたら、お腹が大変なことになるよ」
「わらわの腹を侮るでないぞ?」
「そういう問題じゃないんだけど……」
和真が苦笑する。
あおいは得意げに笑い、再び蕎麦をすすった。
◇
昼食を終えた二人は、再び嵐山の通りへ出た。
観光客はさらに増え、店先には食べ歩きを楽しむ人々の姿が目立っていた。
「さて、次はどうしようか」
和真が尋ねると、あおいは少し考え込んだ。
「……和真」
「ん?」
「先ほどの、あれに乗ってみたいのじゃ」
「あれ?」
「人が引いておった車じゃ!」
「ああ、人力車ね」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「せっかくじゃから、一度乗ってみたいのう」
「じゃあ、乗れるところを探してみようか」
「よいのか!?」
「もちろん。さっきも気になってたみたいだし」
「ふふふ! 和真はよく見ておるのう!」
「ずっと見てたからね」
何気なく返した言葉だった。
だが、あおいは一瞬だけ動きを止めた。
「……ずっと?」
「ん?」
「わらわを、ずっと見ておったのかえ?」
「いや、さっき人力車が通った時の話だけど」
「……なんじゃ」
あおいは少しだけ唇を尖らせた。
「どうした?」
「何でもないのじゃ!」
そう言いながら、和真の腕へぎゅっと抱きつく。
和真は首を傾げたが、特に気にせず歩き始めた。
しばらくして人力車の乗り場を見つけ、二人は短い観光コースをお願いすることにした。
車夫の案内で座席へ乗り込む。
隣同士で腰を下ろすと、あおいは興味津々といった様子で周囲を見回した。
「おお……思っておったより座り心地がよいのう!」
「確かに。もっと硬いのかと思ってた」
「お二人とも、準備はよろしいですか?」
「うむ! 頼むのじゃ!」
あおいが元気よく答える。
車夫が笑いながら人力車を引き始めると、車体は滑らかに動き出した。
「おおっ!」
あおいが声を上げた。
「動いたぞ、和真!」
「そりゃ動くよ」
「分かっておる! じゃが、面白いではないか!」
車輪が道を転がり、周囲の景色がゆっくりと流れていく。
歩いている時とは目線の高さも違い、見慣れたはずの通りが少し新鮮に感じられた。
車夫は道中、嵐山の歴史や周囲の見どころについて話してくれた。
あおいはその説明を熱心に聞いている。
「ほう……この辺りには昔から多くの人が訪れておったのか」
「そうなんですよ。昔から景色のよさで知られている場所なんです」
「なるほどのう」
あおいは感心したように頷いた。
その後も次々と質問を繰り返し、車夫を少し驚かせていた。
和真は隣で笑いながら、そのやり取りを聞いていた。
やがて、人力車は静かな道へ入った。
先ほどまでの賑やかな通りとは違い、周囲には落ち着いた景色が広がっている。
あおいは風に揺れる木々を眺め、満足そうに息を吐いた。
「……よいものじゃのう」
「気に入った?」
「うむ。自分で歩くのも楽しいが、こうして景色を眺めるのもよい」
そして、隣の和真へ身体を寄せる。
「それに、こうしてくっついておられるからの」
「それが一番の理由?」
「無論じゃ!」
迷いのない返事に、和真は笑ってしまった。
あおいは満足そうに笑い返し、そっと和真の肩へ頭を預けた。
人力車の揺れが心地よい。
景色を眺めながら二人で話し、時折顔を見合わせて笑う。
ただそれだけの時間が、あおいには何よりも楽しかった。
◇
人力車を降りた後、二人は再び土産物屋が並ぶ通りへ戻った。
「いやあ、楽しかったのう!」
「思ったより色々な話が聞けたね」
「うむ! また乗りたいものじゃ!」
「今度来た時にね」
「約束じゃぞ!」
あおいは嬉しそうに笑い、和真の手を握った。
少し歩いたところで、甘い香りが漂ってくる。
「……む?」
あおいの耳がぴくりと動いた。
「どうした?」
「和真……何やらよい匂いがするのじゃ」
「ああ、あそこのお店かな」
和真が指差した先には、焼きたての団子を販売する店があった。
店先では、串に刺した団子が香ばしく焼かれている。
「おお……!」
あおいの目が輝いた。
「美味そうじゃのう!」
「さっき蕎麦を食べたばかりだよ?」
「甘いものは別腹じゃ!」
「前にも言ってたな……」
「みゆが言っておったからな」
「あははは」
和真は妙に納得してしまった。
「一つ食べる?」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
二人は団子を購入し、店先の邪魔にならない場所で食べることにした。
あおいは焼きたての団子を眺め、待ちきれない様子で口を開ける。
「いただくのじゃ!」
「熱いから気をつけてね」
「分かっておる」
そう答えた直後。
「……あふっ!?」
「あ、だから言ったのに!」
あおいは慌てて口を押さえた。
「……あ、熱いのじゃ……!」
「大丈夫?」
「う、うむ……少々油断しただけじゃ……」
和真が心配そうに覗き込む。
あおいは涙目になりながらも、何とか頷いた。
「もう少し冷ましてから食べなよ」
「……そうするのじゃ」
しばらく待ってから、あおいは再び団子を口へ運んだ。
今度は慎重に、少しずつ齧る。
「……ん!」
途端に表情が明るくなった。
「美味い!」
「よかったね」
「外は香ばしく、中は柔らかいのう!」
あおいは嬉しそうに頬を緩めた。
その様子を見ながら、和真も自分の団子を食べる。
「美味しいね」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
そして、和真の団子へちらりと視線を向ける。
「……和真」
「ん?」
「そちらも、美味そうじゃのう」
「同じ団子だよ?」
「そうじゃが……」
あおいは少しだけ顔を近づけた。
「和真の食べておるものも、味わってみたいのじゃ」
「……同じ味だと思うけど」
「よいではないか!」
和真は苦笑しながら、自分の串を差し出した。
「はい」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに団子を一つ頬張った。
「……ふふ」
「どう?」
「うむ。美味い!」
「でしょ?」
「じゃが、少し違う気がするのう」
「同じ店で買ったのに?」
「和真からもらった団子じゃからな!」
そう言って、あおいは得意げに笑った。
和真は一瞬きょとんとした後、思わず吹き出した。
「何だよ、それ」
「ふふふ! わらわには違うのじゃ!」
周囲の賑やかな声に混じって、二人の笑い声が響いた。
◇
団子を食べ終えると、あおいは土産物屋の前で足を止めた。
「和真、少し見ていってもよいかえ?」
「もちろん。まだ時間はあるよ」
「うむ!」
店内には、京都らしい雑貨や小物が所狭しと並んでいた。
色鮮やかな巾着袋。
綺麗な模様の扇子。
小さな鈴の付いた根付。
あおいは一つずつ手に取り、興味深そうに眺めていた。
「おお、この扇子は見事じゃのう」
「綺麗な柄だね」
「うむ。こちらの花模様もよい」
いくつかの扇子を見比べていたあおいだったが、ふと一つの商品に目を留めた。
「……和真」
「どうした?」
「これを見てみよ」
あおいが手に取ったのは、二つで一組になった小さな木製の根付だった。
片方には狐。
もう片方には紅葉の模様が彫られている。
「可愛いね」
「うむ」
あおいは二つを並べ、しばらく眺めていた。
そして、和真へ差し出す。
「これを買わぬか?」
「いいよ。気に入った?」
「うむ。じゃが、一つは和真に持っていてほしいのじゃ」
「俺に?」
「そうじゃ」
あおいは狐の根付を手のひらに乗せた。
「わらわはこちらを持つ。和真には、こっちじゃ」
紅葉の根付を差し出す。
「お揃いか」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「どうじゃ? 嫌かえ?」
「嫌じゃないよ。いい記念になりそうだね」
「では、決まりじゃ!」
二人はその根付を購入した。
店を出ると、あおいは早速自分の鞄へ狐の根付を取り付ける。
「……ふふ。よいではないか!」
「似合ってるよ」
「和真も付けるのじゃ!」
「分かったよ」
和真は車の鍵をまとめているキーホルダーに、紅葉の根付を取り付けた。
それを見たあおいは、満足そうに何度も頷いた。
「これでお揃いじゃな!」
「そうだね」
「なくしてはならぬぞ?」
「大事にするよ」
「うむ!」
あおいは自分の根付を指先で撫でた。
小さな木彫りの狐。
高価なものではない。
けれど、和真と二人で選んだというだけで、何よりも大切なものに思えた。
「……和真」
「ん?」
「ありがとうなのじゃ」
「どういたしまして」
和真が笑うと、あおいも嬉しそうに笑い返した。
その後、二人は皆へのお土産を追加で選んだ。
ピピには甘い菓子。
酒菜には料理に使えそうな調味料。
ひかげには綺麗な和柄の小物。
ほかの住人たちにも、それぞれ喜んでもらえそうなものを探していく。
あおいは一つ選ぶたびに相手の顔を思い浮かべ、楽しそうに相談していた。
「フェンリスには、これがよいかのう?」
「どうだろう。甘いものも好きだけど、こっちの方が喜ぶかも」
「ふむ……ならば、こちらじゃな」
次に、みゆへの土産を選んでいた時だった。
あおいは一つの菓子箱を手に取り、少しだけ考え込んだ。
「……和真」
「ん?」
「みゆは、こういうものが好きかえ?」
「好きだと思うよ。あいつ、甘いもの結構食べるし」
「そうか……」
あおいは箱を見つめたまま、小さく頷いた。
昨日の夜、みゆばかりずるいと和真に詰め寄ったことを思い出す。
少しばかり嫉妬していたのは事実だ。
けれど、みゆが嫌いなわけではない。
むしろ、一緒に暮らすようになってから、何かと世話になっている。
「……よし。これにするのじゃ!」
「決まった?」
「うむ!」
あおいは菓子箱を買い物かごへ入れた。
「みゆには、土産話もたくさん聞かせてやらねばならぬからの!」
「そうだね。きっと喜ぶよ」
「ふふふ。少しばかり羨ましがらせてやるのじゃ!」
「……そういう目的もあるのか」
「当然じゃ!」
あおいは悪びれる様子もなく笑った。
和真は苦笑しながら、残りの土産を選び始めた。
◇
買い物を終えて店を出ると、午後の日差しが通りを明るく照らしていた。
和真はスマートフォンで時間を確認する。
「そろそろ三時か」
「もうそのような時間かえ?」
「うん。帰りのことも考えないとね」
「……むぅ」
あおいの表情が曇った。
「まだ帰りとうないのう……」
「気持ちは分かるけど、帰りも車だからね」
「それは分かっておるが……」
あおいは少しだけ俯いた。
楽しい時間ほど、過ぎるのが早い。
昨日の朝、京都へ向けて出発したばかりだと思っていたのに、もう帰る時間が近づいている。
もう少し。
あと少しだけ、和真と二人で過ごしていたかった。
そんなあおいを見て、和真は優しく声をかけた。
「最後に、どこかでお茶でも飲んでいこうか」
「……よいのか?」
「うん。少し休んでから帰ろう」
あおいの顔がぱっと明るくなる。
「うむ!」
そして、すぐに和真の腕へ抱きついた。
「では、甘いものも頼むのじゃ!」
「さっき団子を食べたばかりだろ」
「お茶には菓子が必要じゃ!」
「それ、さっきも似たようなこと言ってなかった?」
「気のせいじゃ!」
和真は呆れたように笑った。
あおいも楽しそうに笑い返す。
そして二人は、最後の休憩を楽しむため、近くの甘味処へと向かった。
甘味処へ入ると、店内には落ち着いた和の雰囲気が広がっていた。
木製のテーブルに柔らかな照明。
窓の向こうには小さな庭があり、石灯籠の周囲に植えられた木々が風に揺れている。
「おお……よい店じゃのう」
あおいは嬉しそうに店内を見回した。
「落ち着くね」
「うむ。こういう場所も悪くないのう」
二人は庭の見える窓際の席へ案内された。
メニューを開いたあおいは、さっそく写真を眺め始める。
「和真、これは何じゃ?」
「抹茶パフェだね」
「ほう……随分と豪華じゃのう」
「こっちはわらび餅みたいだよ」
「むむ……」
あおいは真剣な顔でメニューを見比べた。
「迷うのう……」
「好きなのを頼めばいいよ」
「それが難しいのじゃ!」
あまりにも真剣な顔をしているので、和真は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、俺がわらび餅を頼むから、あおいはパフェにしたら?」
「……む?」
「少し交換すれば、両方食べられるでしょ」
「おお!」
あおいの顔がぱっと明るくなる。
「和真、冴えておるのう!」
「そんな大したことじゃないよ」
「いやいや、素晴らしい考えじゃ!」
あおいは満足そうに頷いた。
注文を済ませると、二人は温かいお茶を飲みながら、今日の出来事を振り返った。
「しかし、人力車というものは面白かったのう」
「そうだね。俺も初めて乗ったよ」
「何より、和真とくっついて座れるのがよかった」
「そこ?」
「無論じゃ!」
あおいは当然のように答えた。
「竹林も見事じゃったし、橋からの眺めもよかった。食べ物も美味かった」
「結構いろいろ回れたね」
「うむ。じゃが、まだまだ足りぬのう」
あおいは窓の外へ視線を移した。
「あと一日くらい、あってもよかったのではないかえ?」
「皆とも一泊二日って決めたからね」
「分かっておる。少し言うてみただけじゃ」
そう答えながらも、あおいはどこか残念そうだった。
和真が何か言おうとしたところで、注文した甘味が運ばれてきた。
「お待たせいたしました」
「おおっ!」
先ほどまでの寂しそうな表情は、どこかへ消え去った。
目の前に置かれた抹茶パフェを見て、あおいが歓声を上げる。
「見事じゃのう!」
「美味しそうだね」
「うむ! いただくのじゃ!」
あおいは長いスプーンを手に取り、抹茶のアイスをすくった。
一口食べる。
「……んっ!」
途端に頬が緩んだ。
「美味い!」
「よかったね」
「ほろ苦いのに甘いとは、なかなか不思議なものじゃ!」
その様子を見ながら、和真もわらび餅を一つ口へ運ぶ。
柔らかな食感と、きな粉の香ばしさが広がった。
「こっちも美味しいよ」
「む! わらわにも食べさせるのじゃ!」
「はいはい」
和真が皿を差し出すと、あおいは少し考えた後、口を開けた。
「……あーん」
「……自分で食べられるだろ?」
「むぅ。せっかく二人きりなのじゃぞ?」
「いや、店員さんもいるけど……」
「今は関係ないのじゃ!」
和真は苦笑した。
そして、わらび餅を一つ箸で持ち上げる。
「はい、どうぞ」
「あむっ」
あおいは嬉しそうに口へ運ばれたわらび餅を食べた。
「……うむ! こちらも美味い!」
「でしょ?」
「では、次はわらわの番じゃな」
「え?」
あおいはパフェのスプーンを手に取った。
抹茶アイスを少しすくい、和真へ差し出す。
「ほれ、口を開けるのじゃ」
「いや、俺は……」
「わらわだけでは不公平じゃろ?」
「……分かったよ」
和真が少し身を乗り出すと、あおいは嬉しそうにスプーンを近づけた。
「はい、あーんじゃ」
「……あーん」
抹茶のほろ苦さと甘さが口に広がる。
「うん、美味しいね」
「じゃろう?」
あおいは満足そうに頷いた。
そして、自分が使っていたスプーンを見つめる。
「……ふふ」
「どうした?」
「何でもないのじゃ」
そう答えながら、あおいは再びアイスを口へ運んだ。
その頬は、ほんのり赤くなっていた。
◇
甘味処を出た頃には、午後四時が近づいていた。
日差しも少しずつ傾き始め、通りには夕方の気配が漂っている。
「さて、そろそろ帰ろうか」
和真が声をかけると、あおいは小さく頷いた。
「……うむ」
「楽しかった?」
「もちろんじゃ!」
即答したあおいだったが、その後に少しだけ視線を落とした。
「……じゃが、やはり名残惜しいのう」
「そうだね。俺も楽しかったよ」
「……本当かえ?」
「うん。あおいが楽しそうだったから、俺も嬉しかった」
あおいは顔を上げた。
「……そうか」
そして、嬉しそうに笑う。
「ならば、わらわも満足じゃ!」
二人は駐車場へ向かって歩き始めた。
途中、あおいは何度も和真の横顔を見上げていた。
何かを言いたそうにしては、口を閉じる。
そんなことを繰り返している。
「……あおい?」
「な、なんじゃ?」
「どうかした?」
「いや……何でもないのじゃ」
「そう?」
「うむ」
あおいは少しだけ和真の腕へ身を寄せた。
実は、ずっと考えていることがあった。
昨日の夜。
みゆと和真の旅行について問いただした時から、胸の奥に引っかかっていること。
和真は、何もなかったと言っていた。
けれど、あおいには分かっていた。
みゆとの旅行から帰ってきた日のことを、今でも覚えている。
和真から漂ってきた、みゆの匂い。
それは、普段一緒に過ごしている時とは少し違っていた。
ただ隣にいたというだけではない。
もっと近くで触れ合ったような、そんな匂いだった。
最初は、二人が男女の仲になったのではないかと疑っていた。
だからこそ、昨夜はつい感情的になってしまった。
だが、話を聞く限り、そこまでのことはなかったらしい。
それでも。
あの二人の間に、自分の知らない何かがあったことだけは確かだった。
「…………」
あおいは隣を歩く和真を見上げた。
今なら、二人きりだ。
帰ってしまえば、また皆との生活が始まる。
それは嬉しいことだが、こうして誰にも邪魔されずに和真と過ごせる時間は、しばらくないだろう。
だったら――。
「……和真」
「ん?」
「少し、こちらへ来てくれぬか?」
「どうした?」
「よいから、こちらじゃ」
あおいは和真の手を引き、賑やかな通りから少し外れた。
駐車場へ続く道の途中に、人通りの少ない小さな脇道があった。
建物の陰になっているためか、周囲には誰の姿も見えない。
通りの向こうから、観光客の声がかすかに聞こえてくるだけだった。
「……あおい?」
和真が不思議そうに首を傾げる。
あおいは一度だけ周囲を見回した。
そして、覚悟を決めたように和真へ向き直る。
「……和真」
「うん?」
「少し、しゃがんでくれぬか?」
「しゃがむ?」
「うむ」
「何かあった?」
「よいから……頼むのじゃ」
いつになく真剣な声だった。
和真は少し不思議に思いながらも、あおいと目線が近くなるように膝を曲げた。
「これくらい?」
「……うむ」
あおいは小さく頷いた。
そして、和真の肩へ両手を添える。
「……あおい?」
次の瞬間。
あおいは目を閉じ、そっと和真の唇へ自分の唇を重ねた。
「……っ!?」
和真の目が大きく開かれる。
驚いて身体を動かしかけたが、あおいの手がぎゅっと肩を掴んだ。
その手が、わずかに震えている。
和真は動きを止めた。
あおいは背伸びをするように身体を寄せ、唇を重ね続けていた。
ほんの数秒。
けれど、あおいにはとても長く感じられた。
胸の鼓動が、驚くほど速い。
顔が熱い。
何度も和真に抱きついてきた。
同じ布団で眠り、腕の中で甘えたこともある。
それなのに。
たった一度、唇を重ねただけで、こんなにも緊張するとは思わなかった。
あおいは一度だけ唇を離した。
目の前には、驚いたままの和真がいる。
「……あおい?」
名前を呼ばれ、思わず俯きそうになった。
けれど、逃げたくはなかった。
あおいは再び和真の頬へ手を添える。
「……もう少しだけじゃ」
小さく囁き、もう一度唇を重ねた。
今度は、先ほどよりもゆっくりと。
急ぐこともなく、ただ互いの温もりを確かめるように。
和真は何も言わず、そのままあおいを受け止めていた。
やがて、あおいが静かに唇を離す。
「…………」
「…………」
二人の間に沈黙が落ちた。
あおいは真っ赤になっていた。
耳の先まで赤く染まり、和真と目を合わせようとしない。
それでも、肩に添えた手だけは離さなかった。
「……あおい」
「……な、なんじゃ」
「今のは……」
「……みゆにも、したんじゃろ?」
「……え?」
思いがけない言葉に、和真が目を丸くする。
あおいは俯いたまま続けた。
「みゆにも……口付けをしたんじゃろ?」
「……どうして、それを?」
和真の反応を見て、あおいは小さく息を吐いた。
「……やはりのう」
「いや、あれは……」
「隠さんでもよい」
あおいは顔を上げた。
その頬は、まだ真っ赤だった。
「匂いで分かるのじゃ」
「……匂い?」
「うむ」
あおいは少しだけ唇を尖らせる。
「みゆとの旅行から帰ってきた日、お主からみゆの匂いがした」
「……それは、一緒に旅行してたんだから」
「違うのじゃ」
あおいは首を振った。
「あの日の匂いは、いつもとは違っておった」
「……いつもと?」
「うむ。普段、皆と一緒におる時のものではなかった。もっと……近くで触れ合ったような匂いじゃ」
そこまで言って、あおいは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「最初は……もっと、その……男女の仲になったのではないかと疑っておったのじゃが……」
「だから昨日、あんなこと言ってたのか……」
「むぅ……仕方なかろう!」
あおいは少しだけ頬を膨らませた。
「わらわだけ知らぬところで、みゆが先に進んでおったら、悔しいではないか!」
「……先に進むって」
「分かっておるじゃろ!」
思わず声が大きくなり、あおいは慌てて口元を押さえた。
周囲を見回す。
幸い、誰かが近づいてくる様子はなかった。
「……こほん」
あおいは咳払いを一つする。
「それで……本当は、どうだったのじゃ?」
和真は少し困ったように頭を掻いた。
「……みゆの方から、急にキスされたんだよ」
「……みゆから?」
「うん。俺も驚いたけど……」
和真は少しだけ言葉を探した。
「でも、嫌だったわけじゃない。あいつも、いろいろ考えてたみたいだから」
「……そうか」
あおいは小さく頷いた。
そして、しばらく黙り込む。
和真はどう声をかけたものか迷っていたが、やがてあおいがぽつりと呟いた。
「……ずるいのう」
「え?」
「みゆは、ずるいのじゃ」
あおいは和真の服をきゅっと掴んだ。
「わらわも、ずっと和真に甘えたいと思っておった。抱きつきたいし、一緒に眠りたいし……」
そこで一度、言葉を止める。
そして、恥ずかしそうに俯いた。
「……口付けも、してみたかったのじゃ」
和真は何も言えなかった。
あおいはゆっくりと顔を上げる。
「じゃから……今回は、これで我慢してやるのじゃ」
「……今回は?」
「うむ!」
あおいは精いっぱい強気な顔を作った。
だが、赤く染まった頬は隠しようがない。
「次は、みゆに負けぬからの!」
「……何を競ってるんだよ」
「決まっておろう!」
あおいは和真の胸を軽く叩いた。
「和真を、どれだけどきどきさせられるかじゃ!」
「……もう十分驚かされたよ」
「む?」
「さっきのだって、かなりびっくりしたから」
その言葉に、あおいの目が丸くなる。
「……ほ、本当かえ?」
「本当だよ」
「……ふむ」
あおいはしばらく和真の顔を見つめた。
そして、嬉しそうに笑った。
「ならば、今回はわらわの勝ちじゃな!」
「だから、勝負じゃないって」
「ふふふ! よいではないか!」
あおいは満足そうに笑い、和真の胸へぎゅっと抱きついた。
和真は少し戸惑いながらも、その背中へそっと腕を回した。
「……あおい」
「なんじゃ?」
「ありがとう」
「……む?」
あおいが顔を上げる。
「気持ち、ちゃんと伝わったよ」
「…………」
あおいの顔が、再び赤くなった。
「……そ、そうかえ」
「うん」
「……ならば、よい」
今度は照れ隠しをするように、和真の胸へ顔を埋める。
「……和真」
「ん?」
「もう少しだけ、このままでおってもよいか?」
「……うん」
和真は優しく答えた。
あおいは小さく笑い、抱きつく腕に少しだけ力を込める。
先ほどまで、帰るのが寂しくて仕方なかった。
けれど、今はそれ以上に胸がいっぱいだった。
唇には、まだ和真の温もりが残っている気がする。
初めて、自分からした口付け。
そのことを思い出すだけで、胸がどきどきした。
「……ふふ」
「どうした?」
「何でもないのじゃ」
あおいは顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「ただ……和真が大好きじゃと思うただけじゃ」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
和真は少し照れくさそうに笑い、あおいの頭を撫でる。
「……ありがとう」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
そして、ようやく和真から身体を離した。
「さて! そろそろ帰るかの!」
「急に元気になったね」
「ふふふ。もう思い残すことはないからの!」
そう言いながら、あおいは和真の手を握った。
けれど、少し歩いたところで再び足を止める。
「……和真」
「今度はどうした?」
「先ほどのことじゃが……」
「うん?」
あおいは少しだけ俯いた。
「……皆には、まだ内緒じゃぞ?」
「……キスしたこと?」
「そ、そうじゃ!」
またしても顔を赤くするあおい。
「特に、みゆには言うでないぞ!」
「どうして?」
「……次に会う時まで、秘密にしておきたいのじゃ」
「……そっか」
和真は小さく笑った。
「分かった。あおいがそうしたいなら、言わないよ」
「うむ!」
あおいはほっとしたように頷いた。
そして、いたずらっぽく笑う。
「……もっとも、みゆには匂いで気づかれるかもしれぬがのう」
「……え?」
「ふふふ。何でもないのじゃ!」
あおいは楽しそうに笑い、和真の手を引いて歩き始めた。
◇
駐車場へ戻ると、和真は荷物を後部座席へ置いた。
運転席へ乗り込み、シートベルトを締める。
あおいも助手席へ座り、嬉しそうに窓の外を眺めていた。
「忘れ物はない?」
「うむ! 土産も、写真も、全部あるぞ!」
「じゃあ、帰ろうか」
「……うむ」
あおいは小さく頷いた。
和真がエンジンをかける。
ゆっくりと車が動き始め、京都の町並みが窓の外を流れていく。
あおいはしばらく、その景色を眺めていた。
昨日の朝から始まった二人きりの旅行。
たくさんの景色を見て、いろいろなものを食べ、和真と笑い合った。
そして、最後には――。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
「……あおい?」
「なんじゃ?」
「さっきから、ずっと嬉しそうだね」
「そうかえ?」
「うん」
あおいは少しだけ考えた後、にっこりと笑った。
「当然じゃ!」
そう答え、鞄に付けた小さな狐の根付を指先で撫でる。
「今日は、わらわにとって忘れられぬ日になったからの」
「……そっか」
「うむ!」
和真も笑みを浮かべ、前方へ視線を戻した。
車は嵐山を離れ、帰り道へと進んでいく。
あおいは窓の外を流れる景色を眺めながら、そっと自分の唇へ指先を触れた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……次は、もっと頑張るのじゃ」
その頬は、また少しだけ赤くなっていた。
京都の町並みが、少しずつ遠ざかっていく。
助手席のあおいは、窓の外を流れる景色を名残惜しそうに眺めていた。
「……本当に、帰ってしまうのじゃな」
「そうだね」
「昨日来たばかりだというのに、随分と早かったのう」
「楽しい時間はあっという間だからね」
「うむ……」
あおいは小さく頷くと、膝の上に置いた鞄へ目を落とした。
そこには、今日買った小さな狐の根付が揺れている。
指先でそっと触れると、自然と笑みがこぼれた。
「……ふふ」
「どうした?」
「いや、よい買い物をしたと思っての」
「根付?」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「和真とお揃いじゃからな。大切にするのじゃ」
「俺も大事にするよ」
「うむ。そうしてくれ」
満足そうに笑うあおい。
そして、ふと思い出したように和真へ顔を向けた。
「……和真」
「ん?」
「先ほどのことじゃが……」
「……さっき?」
「むぅ! 分かっておろう!」
あおいの頬が赤くなる。
和真は一瞬考えた後、ようやく思い当たった。
「ああ……キスのこと?」
「こ、声が大きいのじゃ!」
「いや、今は二人しかいないけど」
「そ、それでもじゃ!」
あおいは慌てて前を向いた。
耳まで赤くなっている。
その反応がおかしくて、和真は小さく笑った。
「……なんじゃ。笑うでない」
「ごめん、ごめん」
「まったく……」
あおいは少しだけ頬を膨らませた。
だが、すぐに真剣な顔になる。
「……約束、忘れておらぬじゃろうな?」
「皆には内緒ってこと?」
「うむ。特にみゆには、まだ知られとうないのじゃ」
「分かってるよ」
「本当じゃな?」
「うん。俺からは言わない」
その返事に、あおいは安心したように息を吐いた。
「……ならば、よい」
そして、再び窓の外へ視線を戻す。
しばらくしてから、小さな声で呟いた。
「……それにしても、口付けというものは、なかなかよいものじゃのう」
「……あおい?」
「な、何でもないのじゃ!」
和真は苦笑しながら、前方へ視線を戻した。
◇
帰り道では、途中のサービスエリアで何度か休憩を取った。
夕食もそこで済ませ、再び車を走らせる。
最初こそ楽しそうに旅行の話を続けていたあおいだったが、やがて眠気に勝てなくなったらしい。
「……和真」
「ん?」
「少しだけ……眠ってもよいかえ?」
「もちろん。着いたら起こすよ」
「うむ……」
あおいはシートへ深く身体を預けた。
そして、眠る直前。
「……和真」
「どうした?」
「……大好きじゃぞ」
小さな声だった。
和真が隣を見ると、あおいはすでに目を閉じていた。
「……おやすみ、あおい」
和真は小さく笑い、再び前を向いた。
車内には静かな音楽が流れている。
昨日から始まった京都旅行。
あおいは、見るものすべてに驚き、楽しそうに笑っていた。
時には強引で、時には甘えん坊で。
それでも、彼女がどれだけ今回の旅行を楽しみにしていたのかは、十分に伝わってきた。
そして、あの口付け。
まさか、あおいからあんなことをされるとは思っていなかった。
「……本当に、驚いたな」
和真は小さく呟いた。
あおいが自分を慕ってくれていることは、分かっているつもりだった。
けれど、今日の彼女は、いつもとは少し違っていた。
冗談や甘えだけではない。
真剣な想いが、確かに込められていた。
和真は一度だけ助手席へ目を向ける。
あおいは幸せそうな顔で眠っていた。
その寝顔を見ていると、自然と頬が緩む。
和真は再び前方へ視線を戻し、夜の高速道路を走り続けた。
◇
空色唐辛子荘へ戻ってきたのは、夜十一時を少し過ぎた頃だった。
敷地内は静まり返り、アパートの窓明かりもほとんど消えている。
和真は駐車場へ車を停め、エンジンを切った。
「……あおい、着いたよ」
「……んむ?」
助手席のあおいが、ゆっくりと目を開ける。
「……もう着いたのかえ?」
「うん。お疲れさま」
「……ふむ」
あおいは眠そうに目を擦った。
そして、窓の外を見て小さく息を吐く。
「……帰ってきてしまったのう」
「そうだね」
和真が笑うと、あおいも小さく笑い返した。
「じゃが……よい旅であった」
「俺も楽しかったよ」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
二人は車を降り、後部座席と荷室から荷物を取り出す。
「お土産は明日、皆に渡そうか」
「そうじゃな。もう眠っておる者も多かろう」
「じゃあ、今日は荷物を片付けて休もう」
「うむ」
そう話していた時だった。
「あ、帰ってきた!」
聞き慣れた声が響いた。
二人が振り返ると、アパートの方からみゆが歩いてきていた。
その隣には、フェンリスの姿もある。
「おかえり、二人とも!」
「ただいまなのじゃ!」
「ただいま。二人とも、まだ起きてたんだ」
「うん。車の音が聞こえたから」
みゆは笑いながら二人へ近づいた。
フェンリスも嬉しそうに手を振る。
「おかえり! 随分遅かったね」
「途中で休憩しながら帰ってきたからね」
「そっか。運転、お疲れさま」
「ありがとう」
和真が答えると、フェンリスはあおいへ目を向けた。
「どうだった? 京都」
「最高じゃったぞ!」
あおいは胸を張って答えた。
「美味いものを食べ、綺麗な景色を見て、人力車にも乗ったのじゃ!」
「へえ! いいなあ!」
「ふふふ! 写真もたくさん撮ったぞ!」
「見たい!」
みゆが身を乗り出す。
あおいは嬉しそうにスマートフォンを取り出しかけたが、途中で手を止めた。
「……む?」
「どうしたの?」
「いや……今日はもう遅いからの。明日、ゆっくり見せてやるのじゃ」
「そっか。じゃあ、楽しみにしてる」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
その様子を見て、和真もほっと息を吐く。
どうやら、旅行の話は明日になりそうだ。
そう思った矢先。
「……ん?」
フェンリスが小さく鼻を動かした。
和真は気づかなかったが、みゆも同じように首を傾げている。
「……フェンリス?」
「うん……」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
そして、同時に和真へ視線を戻す。
「……和真」
「ん?」
「ちょっと、こっち来て」
みゆが笑顔で手招きした。
「どうした?」
「いいから、ちょっと」
「……?」
和真が近づくと、みゆは顔を寄せて小さく鼻を動かした。
続いて、フェンリスまで近づいてくる。
「……何?」
二人は答えない。
代わりに、もう一度顔を見合わせた。
「……ねえ、フェンリス」
「……うん」
「やっぱり?」
「……間違いないと思う」
和真の背筋に、嫌な予感が走った。
「……二人とも?」
みゆはにっこり笑った。
「和真。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……何かな?」
「今日、あおいと何したの?」
「……観光だけど?」
「そうじゃなくて」
みゆは一歩近づいた。
「もっと、仲良くなるようなこと」
「…………」
和真は言葉に詰まった。
その反応を見て、フェンリスが眉を寄せる。
「……やっぱり、何かあったんだ」
「いや、その……」
「和真」
みゆが静かに呼ぶ。
「……あおいと、キスした?」
「…………っ!」
和真の肩が跳ねた。
その瞬間。
「あっ……」
あおいが小さく声を漏らした。
三人の視線が、一斉に彼女へ向く。
「……あおい?」
「な、なんじゃ?」
あおいは露骨に視線を逸らした。
みゆはその反応を見て、ゆっくりと笑みを深める。
「……ふーん」
「な、なんじゃ、その顔は!」
「別に?」
みゆは楽しそうに首を傾げた。
「なるほどねえ」
「何がなるほどなのじゃ!」
「いや、あおいも頑張ったんだなって」
「……っ!」
あおいの顔が一気に赤くなった。
「な、なぜ分かるのじゃ!?」
「匂い」
「……む?」
「和真から、あおいの匂いがするんだよ」
みゆはさらりと答えた。
フェンリスも小さく頷く。
「僕にも分かるよ。いつものように一緒にいた時とは、ちょっと違うんだ」
「…………」
あおいは口を開けたまま固まった。
そして、ゆっくりと和真を見る。
「……和真」
「……うん?」
「お主……喋ったかえ?」
「何も言ってないよ!」
「むむむ……!」
あおいは悔しそうに唇を尖らせた。
「……まさか、わらわが匂いで気づいたことを、今度は自分がされるとはのう……」
「……あおい?」
「何でもないのじゃ!」
みゆが思わず吹き出した。
「あはは! 何それ!」
「笑うでない!」
あおいは顔を真っ赤にしたまま、和真の腕へしがみついた。
「と、とにかくじゃ! わらわは何も悪いことなどしておらぬぞ!」
「誰も悪いなんて言ってないよ」
みゆは笑いながら答えた。
「ただ、気になっただけ」
「むぅ……」
あおいはまだ少し不満そうだった。
その隣で、フェンリスは黙って和真を見つめていた。
「……ねえ、和真」
「ん?」
「本当に、キスしたの?」
「…………」
和真は困ったように頭を掻いた。
「……あおいから、皆には内緒にしてほしいって頼まれてたんだ」
「……そっか」
フェンリスは小さく頷いた。
そして、あおいを見る。
「……あおいから?」
「……っ!」
あおいは顔を赤くしたまま、こくりと頷いた。
「……うむ」
「……そうなんだ」
フェンリスは微笑んだ。
「よかったね、あおい」
「……む?」
「和真と二人で、楽しい旅行になったんでしょ?」
「……うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「とても楽しかったのじゃ!」
「そっか」
フェンリスは笑った。
いつもと変わらない、明るい笑顔だった。
「それなら、よかった」
けれど。
その笑顔を見て、みゆだけは少し表情を変えた。
◇
「……さて、もう遅いし、今日は休もうか」
和真がそう言うと、みゆも頷いた。
「そうだね。明日、写真を見せてもらおうかな」
「うむ! 皆にも土産を買ってきたからの!」
「本当? 楽しみにしてる」
あおいは嬉しそうに笑った。
そして、和真の腕を軽く引く。
「……和真」
「ん?」
「荷物、部屋まで持ってきてくれぬか?」
「もちろん」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
和真が荷物を持ち直すと、みゆが軽く手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
「おやすみ」
「おやすみなのじゃ!」
二人が歩き出す。
あおいは和真の隣で楽しそうに話していた。
時折、嬉しそうに腕へ抱きつく。
その姿を、フェンリスは黙って見送っていた。
「……フェンリス?」
みゆが声をかける。
「……ん?」
「大丈夫?」
「……何が?」
フェンリスは笑った。
「別に、何ともないよ」
「……そう?」
「うん!」
いつものように元気よく答える。
「よかったね、あおい。すごく楽しそうだった」
「……うん」
「僕も、早く行きたいなあ」
フェンリスは明るく言った。
けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
みゆは何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。
フェンリスの旅行が延期になった、本当の理由を知っている。
酒屋の店長が事故に遭い、しばらく仕事へ戻れなくなってしまったこと。
その穴を埋めるため、フェンリスが休みを取れなくなっていること。
そして、その事情を皆には隠していることも。
「……フェンリス」
「ん?」
「……無理しないでね」
フェンリスは一瞬だけ目を丸くした。
そして、すぐに笑った。
「大丈夫だって!」
「……うん」
「じゃあ、僕も寝るね。明日も早いし!」
フェンリスは軽く手を振った。
「おやすみ、みゆ!」
「……おやすみ」
みゆは、その背中を見送った。
いつもと変わらない歩き方。
いつもと変わらない笑顔。
けれど、みゆには分かっていた。
あの笑顔は、少しだけ無理をしている。
追いかけて声をかけることも考えた。
だが、今のフェンリスは、きっと大丈夫だと言うだろう。
「……フェンリス」
みゆは小さく名前を呟いた。
そして、静かに自分の部屋へと戻っていった。
◇
部屋へ戻ったフェンリスは、扉を閉めたところで大きく息を吐いた。
「……はぁ」
靴を脱ぎ、鞄を置く。
いつもなら、部屋へ戻るとすぐに着替えたり、明日の準備をしたりする。
けれど、今日は何もする気になれなかった。
ただ、身体が重かった。
「…………」
フェンリスはゆっくりと部屋の奥へ歩き、布団の前に座り込んだ。
そして、そのまま仰向けに倒れる。
天井を見上げた。
「……キス、かぁ」
小さな呟きが、静かな部屋に落ちた。
みゆが和真と旅行へ行った。
帰ってきた二人の距離は、以前よりも近くなっていた。
それを見て、羨ましいと思った。
けれど、みゆが楽しそうにしていたことは、素直に嬉しかった。
そして、今度はあおい。
今日帰ってきたあおいは、今まで見たことがないほど幸せそうだった。
和真に抱きついて、嬉しそうに笑って。
そのうえ、キスまでしたという。
「……いいなぁ」
口に出してから、フェンリスは両手で顔を覆った。
「……本当に、いいなぁ……」
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
あおいが悪いわけではない。
みゆだって、何も悪くない。
皆が和真と一緒に過ごしたいと思う気持ちは、よく分かる。
だって、自分も同じだから。
誰よりも長く、和真のそばにいた。
この世界へ来たばかりの頃。
言葉も分からず、何も知らず、不安で仕方がなかった自分を、和真は助けてくれた。
一緒に暮らし、いろいろなことを教えてもらった。
何度も笑って、何度も助けられて。
気づけば、和真の隣にいることが当たり前になっていた。
だからこそ。
自分も、二人きりで旅行へ行きたかった。
誰にも遠慮せず、和真に甘えてみたかった。
手を繋いで、腕に抱きついて。
できることなら――。
「…………」
フェンリスは、そっと自分の唇へ指を当てた。
そして、すぐに手を下ろした。
「……何、考えてるんだろ」
苦笑しようとした。
けれど、うまく笑えなかった。
最初に旅行へ行くはずだったのは、自分だった。
和真の好きな果物を一緒に食べに行こうと、ずっと楽しみにしていた。
どんな場所がいいだろう。
何を着ていこう。
夜は、どんな話をしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど、酒屋の店長が事故に遭ってしまった。
仕事を休めなくなり、旅行を延期するしかなくなった。
仕方がないことだと分かっている。
店長だって、好きで怪我をしたわけではない。
自分が仕事を投げ出せば、困る人がいる。
だから、皆には別の理由を伝えた。
和真の好きな果物の時期が合わなくなったから。
そう言って、笑った。
皆には先に旅行へ行ってほしいと、自分から勧めた。
それなのに。
「……僕、何してるんだろ……」
フェンリスは寝返りを打ち、横向きになった。
布団の端を、ぎゅっと握り締める。
あおいが楽しそうだった。
本当に、幸せそうだった。
その顔を見た時、心からよかったと思った。
けれど。
和真とキスをしたのだと分かった瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……ずるいよ……」
小さな声が漏れた。
言ってしまってから、慌てて口を閉じる。
そんなことを言う資格はない。
先に行っていいと言ったのは、自分だ。
皆を待たせたくなかったのも、本当だ。
それなのに。
「……僕だって……」
声が震えた。
「……僕だって、和真と……」
その先が、言葉にならなかった。
フェンリスは布団へ顔を埋めた。
自分だって、和真に抱きしめてもらいたい。
頭を撫でてもらいたい。
自分だけを見て、笑ってほしい。
そして、みゆやあおいのように。
和真と、もっと近くなりたい。
「……なんで……」
ぽつりと呟く。
「……なんで、こんなに……」
目の奥が熱くなった。
フェンリスは慌てて顔を上げた。
涙が、一粒だけ頬を伝う。
「……あれ?」
指先で拭う。
けれど、すぐに次の涙がこぼれた。
「……やだなぁ……」
笑おうとする。
うまくいかない。
「……泣くことじゃ、ないのに……」
自分に言い聞かせる。
皆が幸せそうなのは、いいことだ。
和真が誰かと楽しそうにしている姿を見るのも、嫌いではない。
むしろ、そんな和真が好きなのだ。
だから、祝福したい。
笑って、おかえりと言いたい。
それなのに、心が追いつかない。
「……和真……」
名前を呼ぶと、余計に涙が溢れた。
フェンリスは布団を引き寄せ、頭まですっぽりと潜り込んだ。
誰にも見られたくなかった。
こんな情けない姿を。
こんな、嫉妬ばかりしている自分を。
「……僕も……」
布団の中で、小さく呟く。
「……僕も、早く行きたいよ……」
声が掠れた。
「……和真と、二人で……」
その先は、涙に邪魔されて言えなかった。
フェンリスは枕を抱きしめた。
和真と旅行へ行く約束は、まだなくなっていない。
いつか必ず行ける。
そう信じている。
けれど、その「いつか」が、今はひどく遠く感じられた。
自分が足踏みしている間に、皆は少しずつ和真との距離を縮めていく。
笑い合って、手を繋いで。
自分の知らない思い出を、増やしていく。
そのことが、たまらなく寂しかった。
「……僕だって……」
フェンリスは目を閉じた。
「……和真が、好きなのに……」
その言葉は、誰にも届かない。
静かな部屋には、フェンリスの小さな泣き声だけが響いていた。
やがて、声を出すことさえできなくなり、ただ涙が頬を伝っていく。
枕が、少しずつ濡れていった。
明日になれば、またいつものように笑おう。
皆と朝ご飯を食べて、仕事へ行って。
あおいの旅行の写真を見せてもらおう。
きっと、楽しかった話をたくさん聞かせてくれるだろう。
その時は、自分も一緒に笑いたい。
心から、よかったねと言ってあげたい。
だから。
今夜だけは。
「……うぅ……」
フェンリスは枕へ顔を押しつけた。
誰にも聞かれないように。
誰にも知られないように。
声を殺して、泣き続けた。
枕元に置いたスマートフォンには、以前、和真と一緒に撮った写真が保存されている。
それを見れば、きっと少しは元気になれる。
けれど、今は画面を開くことさえできなかった。
「……和真……」
もう一度だけ、名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だった。
和真は、ここにはいないのだから。
フェンリスは枕を強く抱きしめ、身体を小さく丸めた。
いつか自分の番が来た時には、今日のあおいのように笑えるだろうか。
和真の隣で、幸せだと言えるだろうか。
今は、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
和真のことが、好きだった。
思っていたよりも、ずっと。
自分でも驚くほどに。
だからこそ、こんなにも胸が苦しい。
フェンリスは涙を拭わず、静かに目を閉じた。
その夜。
窓の外には、穏やかな月明かりが差し込んでいた。
けれど、布団の中のフェンリスが眠りにつくまでには、まだ長い時間が必要だった。




