第三十一話 古都へ続く道
午前三時半。
まだ夜も明けていない空色唐辛子荘に、小さな電子音が鳴り響いた。
「……ん」
枕元に置いていた携帯端末のアラームを止め、和真はゆっくりと身体を起こした。
窓の外は真っ暗だった。
普段なら、まだ数時間は眠っている時間だ。
「……さて、起きるか」
軽く伸びをして布団から抜け出す。
今日は、あおいとの京都旅行の日。
車で向かうため、高速道路の混雑を避けて早朝に出発することにしていた。
目的地までは、かなりの距離がある。
途中で朝食を取り、何度か休憩を挟みながら向かう予定だ。
顔を洗い、着替えを済ませた和真は、昨夜のうちに準備しておいた鞄を確認した。
財布、免許証、携帯端末、宿の予約情報。
着替えや日用品も揃っている。
「……よし」
忘れ物がないことを確認し、鞄を持って玄関へ向かった。
扉を開けたところで、廊下に立っている人影に気づく。
「……あおい?」
「おお、和真!」
そこには、既に出発の準備を済ませたあおいがいた。
普段とは違う外出用の服を着て、両手で小さな鞄を持っている。
リディアに作ってもらった装置も身につけており、今は人間の姿になっていた。
「おはよう。早いな」
「おはようなのじゃ!」
あおいは嬉しそうに笑った。
「今日は待ちに待った旅行の日じゃからな。寝坊などしておれぬ!」
「ちゃんと寝たか?」
「……うむ」
「本当に?」
「…………少しだけじゃ」
「やっぱり」
和真が苦笑すると、あおいは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「仕方なかろう。今日のことを考えておったら、なかなか眠れなかったのじゃ」
「車の中で寝てもいいからな」
「それは嫌じゃ」
「どうして?」
「せっかく和真と二人で旅に出るのじゃぞ? 眠ってしまっては、もったいないではないか」
「京都までは長いぞ?」
「それでもよいのじゃ!」
あおいは胸を張って答えた。
随分と楽しみにしていたらしい。
和真も自然と笑みを浮かべた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うむ!」
二人はなるべく物音を立てないように階段を下り、駐車場へ向かった。
この時間では、ほとんどの住人はまだ眠っているはずだ。
見送りは不要だと伝えていたこともあり、誰かが起きているとは思っていなかった。
しかし。
「おはよう、和真」
「……フェンリス?」
駐車場へ出ると、見慣れた銀髪の女性が立っていた。
フェンリスだった。
少し眠たそうに目を擦っていたが、和真の姿を見つけると笑顔を浮かべた。
「おはよう。ずいぶん早いね」
「それはこっちの台詞だよ。こんな時間に起きなくてもよかったのに」
「別にいいだろ? 僕が見送りたかっただけなんだから」
フェンリスはそう言って、和真の持っている鞄へ手を伸ばした。
「ほら、貸して。荷物を積むんだろ?」
「ああ、ありがとう」
「うん!」
フェンリスは鞄を受け取ると、車の後部へ向かった。
そして、その向こうから聞き慣れた声がする。
「おはよう、二人とも」
「……みゆ?」
振り返ると、みゆが片手を上げていた。
隣には酒菜とリディアもいる。
「みんな起きてたのか?」
「そりゃ、見送りくらいするよ」
みゆは大きな欠伸を一つしてから笑った。
「まあ、正直まだ眠いけどね」
「俺もだ。普段ならまだ寝てる時間だからな」
酒菜が腕を組んだまま答える。
「けど、二人で遠出するんだろ? 見送るくらいはしてやるよ」
「ありがとう、酒菜」
「礼はいい。それより、運転中に無茶するなよ」
「ああ、分かってる」
「休憩もちゃんと取れよ。眠気が来たら、無理せず止まれ」
「そうするよ」
その横で、リディアが携帯端末を確認していた。
「今のところ、高速道路に大きな渋滞はないようですね」
「わざわざ調べてくれたのか?」
「ええ。せっかく早く出発するのですから、順調に進めるといいですね」
リディアは端末をしまい、あおいへ顔を向けた。
「あおい、装置の具合はどうですか?」
「うむ! 問題ないぞ」
「それなら大丈夫ですね。念のため、予備の電源も忘れずに持っていてください」
「ちゃんと鞄に入れておる!」
「ふふっ。なら安心です」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「皆の者、わざわざ見送りに来てくれてありがとうなのじゃ!」
「いいんだよ。それより、楽しんできてね」
みゆが笑顔で答える。
「うむ! 土産も楽しみにしておれ!」
「お、期待してるよ!」
そんな会話をしている間に、和真は車の後部を開けて荷物を積み始めた。
「フェンリス、その鞄を奥に置いてくれる?」
「ここ?」
「ああ、そこなら大丈夫」
「分かった」
フェンリスが鞄を置き、和真が位置を整える。
残りの荷物も積み終えようとした、その時だった。
「……和真」
「ん?」
フェンリスが小さく声をかけた。
振り返ると、彼女はすぐ隣に立っていた。
何か言いたそうにしている。
「どうした?」
「……ううん。何でもない」
そう答えながら、フェンリスの手が動いた。
気づけば、その指先が和真の服の裾を掴んでいた。
「…………」
フェンリス自身も、無意識だったのだろう。
自分の手元を見て、少し驚いたような顔をした。
慌てて離そうとする。
けれど、指先がなかなか動かなかった。
今日から明日まで、和真はあおいと二人きりで旅行へ出かける。
もちろん、分かっている。
自分との旅行も、予定が合えば行けるのだ。
それに、皆で話し合って決めたことでもある。
だから、引き止めるつもりなんてなかった。
ただ。
もう少しだけ、そばにいたかった。
「…………」
和真は何も言わなかった。
ただ、そっと右手を伸ばした。
そして、フェンリスの頭を優しく撫でる。
「…………っ!」
フェンリスの肩が小さく跳ねた。
驚いて顔を上げると、和真が穏やかに微笑んでいた。
何かを尋ねるわけでもない。
無理に手を離させようとするわけでもない。
ただ、いつものように優しく頭を撫でてくれる。
「……もう」
フェンリスは小さく呟いた。
頬が、みるみる赤くなっていく。
「和真って、そういうところが……」
「ん?」
「……何でもない!」
慌てて裾から手を離した。
そして、照れ隠しのように車の後部へ回る。
「ほら! まだ何か積むものはないの?」
「いや、あとは小さい荷物だけだよ」
「じゃあ、それも僕が手伝う!」
「ああ、お願いするよ」
「うん!」
フェンリスは残っていた荷物を取りに向かった。
その様子を、少し離れた場所から眺めている者がいた。
みゆだった。
フェンリスが和真の裾を掴んだことも。
和真が優しく頭を撫でたことも。
そして、フェンリスが真っ赤になったことも。
みゆは、最初から見ていた。
けれど、二人はその視線に気づいていない。
みゆは何も言わず、小さく微笑んだ。
フェンリスの気持ちは、よく分かっている。
今の自分が、彼女をからかうつもりはなかった。
それでも。
「……僕だって、ちょっとくらいはね」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして、フェンリスが和真から離れたのを見計らい、そっと歩き出した。
「和真」
「ん? どうした、みゆ?」
呼びかけられて振り返った和真の前へ、みゆが回り込む。
次の瞬間。
「えいっ!」
「うわっ!?」
正面から、ぎゅっと抱きついてきた。
「み、みゆ?」
「ふふっ」
みゆは和真の背中へ腕を回し、少しだけ身体を引き寄せた。
そして、背伸びをして。
ちゅっ。
和真の頬に、軽く口づけをした。
「…………え?」
「いってらっしゃいのキス!」
みゆは満面の笑みを浮かべた。
そして、和真が何か言うよりも早く身体を離す。
「じゃあ、楽しんできてね!」
「ちょ、みゆ!」
「あははっ! 帰ってきたら、お土産話をいっぱい聞かせてよ!」
楽しそうに笑いながら、みゆは小走りで逃げていった。
和真は、その場に立ち尽くした。
「……まったく」
頬に触れながら苦笑する。
こんな時間から、随分と元気なものだ。
少し離れたところでは、酒菜が呆れたように息を吐いていた。
「朝っぱらから何やってんだ、あいつは」
「ふふっ。みゆらしいですね」
リディアが小さく笑う。
そこへ、何も知らないフェンリスが戻ってきた。
「和真、これで全部?」
「あ、ああ。ありがとう」
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「……?」
フェンリスは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
やがて、荷物をすべて積み終え、出発の準備が整った。
時刻は午前四時を少し前にしている。
「さて、そろそろ行こうか」
「うむ!」
あおいが元気よく答えた。
和真は運転席へ、あおいは助手席へ乗り込む。
窓を開けると、四人が車のそばへ集まってきた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。気をつけてね、和真」
フェンリスが手を振った。
「おう。疲れたら無理せず休めよ」
「ああ、分かってる」
「お土産、楽しみにしてるからね!」
「みゆ、そればっかりだな」
「もちろん、二人が楽しんでくるのが一番だよ!」
みゆが笑う。
「何かあれば連絡してくださいね」
「ああ、リディアもありがとう」
最後に、あおいが窓から顔を出した。
「皆の者! 行ってくるのじゃ!」
「楽しんでおいで!」
「帰りも気をつけろよ!」
「いってらっしゃい!」
「二人とも、よい旅を」
四人に見送られながら、車はゆっくりと動き始めた。
バックミラーには、手を振る仲間たちの姿が映っている。
その姿が見えなくなるまで、あおいは何度も振り返って手を振っていた。
「……みんな見えなくなってしまったのう」
「まだ出発したばかりだぞ?」
「うむ。分かっておる」
あおいは前を向いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「じゃが、本当に二人きりになったのじゃな」
「ああ」
「……ふふっ」
「そんなに嬉しいか?」
「当たり前じゃ」
あおいは膝の上で両手を重ねた。
「今日と明日は、和真を独り占めできるのじゃからな」
「ははっ。そうだな」
和真が笑うと、あおいも笑った。
街灯に照らされた静かな道路を、車が走っていく。
こうして、二人の京都旅行が始まった。
◇ ◇ ◇
高速道路へ入ってしばらく経っても、周囲の景色はまだ夜のままだった。
道路を照らす街灯と、時折すれ違う車のヘッドライト。
遠くには、大型トラックの姿が見える。
あおいは助手席から、興味深そうに外を眺めていた。
「和真」
「ん?」
「このような時間でも、随分と車が走っておるのじゃな」
「そうだな。荷物を運んでるトラックも多いからね」
「皆、こんな時間から働いておるのか?」
「夜通し走る人もいるだろうし、交代で運転してる人もいると思うよ」
「なるほどのう……」
あおいは感心したように頷いた。
そして、窓の外を流れていく光を眺める。
「しかし、便利な時代になったものじゃな」
「車のこと?」
「うむ。昔なら何日もかかったであろう道のりを、こうして一日もかけずに移動できるのじゃから」
「確かにそうだな」
「しかも、雨風を凌げて、座ったまま移動できる」
あおいは座席を軽く撫でた。
「わらわが知っておる旅とは、随分と違うものじゃ」
「昔はよく旅をしてたのか?」
「うむ。とはいえ、元いた世界ではあまり遠くへ行くことはなかったがのう」
あおいは少しだけ懐かしそうな顔をした。
「山を越え、川を渡り、知らぬ土地へ足を踏み入れる。旅とは、そういうものじゃった」
「大変そうだな」
「大変なこともあったが、それもまた旅の楽しみじゃ」
そう言って、あおいは微笑んだ。
「じゃが、今はこうして和真と話しながら旅ができる。こちらも悪くないのう」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「ふふっ」
あおいは上機嫌で窓の外へ視線を戻した。
しばらくすると、遠くの空が少しずつ明るくなり始めた。
「……おお」
あおいが小さく声を上げる。
「和真、見よ。夜が明けてきたぞ」
「ああ、本当だ」
東の空が淡く色づき、夜の暗さがゆっくりと薄れていく。
建物の輪郭が現れ、遠くの山並みも見え始めた。
あおいはその景色を、飽きることなく眺めていた。
「綺麗じゃのう……」
「そうだな」
「こうして走りながら朝を迎えるのも、なかなかよいものじゃ」
「早起きした甲斐があったな」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに笑った。
やがて、道路の案内板にサービスエリアの文字が現れた。
「そろそろ朝飯にしようか」
「おお!」
途端に、あおいの表情が明るくなる。
「待っておったぞ!」
「腹減ったか?」
「少しのう。じゃが、それ以上に何が食べられるのか楽しみなのじゃ」
「じゃあ、寄っていこう」
二人を乗せた車は、朝食を取るためサービスエリアへ入っていった。
◇ ◇ ◇
午前六時半頃。
車を停めた和真は、エンジンを切って大きく伸びをした。
「……ふう」
外へ出ると、朝のひんやりとした空気が身体を包んだ。
「おお、涼しいのう!」
助手席から降りたあおいも、大きく伸びをしている。
「寒くないか?」
「大丈夫じゃ。むしろ心地よいぞ」
「ならよかった」
周囲には、既に何台もの車が停まっていた。
大型トラックの運転手らしき人や、旅行途中の家族連れ。
早朝にもかかわらず、建物の中には人の出入りがあった。
「和真、よい匂いがするのじゃ!」
「朝飯の匂いだな」
「早う行こう!」
「分かったから、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
二人は並んで建物へ入った。
飲食スペースには、温かいうどんや蕎麦、丼物などの写真が並んでいた。
「何がいい?」
「うーむ……」
あおいは真剣な表情でメニューを見つめた。
「どれも美味そうじゃのう」
「好きなの選んでいいぞ」
「……ならば、これじゃ!」
あおいが指差したのは、温かいきつねうどんだった。
「これにしようかの」
「きつねうどんか」
「うむ!」
和真が小さく笑う。
「狐だから?」
「……む?」
あおいは首を傾げた。
そして、少し考えてから笑った。
「言われてみればそうじゃのう!」
「気づいてなかったのか」
「美味そうじゃったから選んだだけじゃ!」
「ははっ。そうか」
和真は自分の朝食も注文し、二人で窓際の席へ座った。
ほどなくして、湯気の立つ料理が運ばれてくる。
「いただきますなのじゃ!」
「いただきます」
あおいは箸を取り、慎重に麺を持ち上げた。
ふうふうと息を吹きかけ、一口。
「……ん!」
ぱっと表情が明るくなる。
「美味いのじゃ!」
「それはよかった」
「温かいものを食べると、身体が喜ぶのう」
「朝は少し冷えてたからな」
和真も食事を進める。
窓の外には、朝日に照らされた駐車場が広がっていた。
出発してから、まだ数時間。
それでも、普段とは違う場所で食べる朝食は、どこか新鮮だった。
「……和真」
「ん?」
「こうして二人で飯を食べておると、不思議な気分になるのう」
「不思議?」
「うむ。いつもは皆がおるからな」
「ああ、確かに」
「皆で賑やかに食べるのも好きじゃが……こうして、そなたと向かい合って食べるのもよいものじゃ」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。
「……そうだな」
和真も笑みを返す。
朝食を終えた二人は、売店を少し覗いてから車へ戻った。
「さて、まだ先は長いぞ」
「うむ!」
「途中でもう何度か休憩するからな」
「分かっておる」
あおいは元気よく答え、助手席へ乗り込んだ。
和真も運転席へ座り、シートベルトを締める。
「じゃあ、出発しようか」
「京都へ向けて、出発じゃ!」
再び車が動き始めた。
◇ ◇ ◇
午前八時半を過ぎた頃。
和真は二度目の休憩を取るため、パーキングエリアへ車を停めた。
長時間同じ姿勢で運転していたため、少し身体が固まっている。
「……よし」
車から降り、軽く肩を回す。
あおいも助手席から降りてきた。
「和真、疲れておらぬか?」
「まだ大丈夫だよ。でも、少し身体を動かしておこうと思って」
「そうか」
あおいは安心したように頷いた。
そして、和真の隣で同じように背伸びをする。
「んーっ!」
「ははっ。あおいは運転してないだろ?」
「ずっと座っておったら、わらわも身体が固まるのじゃ!」
「それもそうか」
二人は少し歩き、飲み物を購入した。
和真はお茶を、あおいは温かい飲み物を選ぶ。
車へ戻る途中、あおいがふと立ち止まった。
「……和真」
「どうした?」
「今日は、空が綺麗じゃのう」
見上げた空には、薄い雲がゆっくりと流れていた。
朝日を受けた雲の端が、柔らかく輝いている。
「そうだな。天気がよくてよかったよ」
「うむ!」
あおいは満足そうに頷いた。
「京都も、このような天気であればよいのう」
「予報じゃ大丈夫そうだよ」
「それは楽しみじゃ!」
再び車へ乗り込み、出発する。
しかし、しばらく走った頃だった。
「……ふぁ」
助手席から小さな欠伸が聞こえた。
和真が横目で見ると、あおいが慌てて口元を押さえている。
「眠いか?」
「……いや、眠くはないぞ」
「本当?」
「…………少しだけじゃ」
「無理しなくていいよ。まだ京都までは時間があるから」
「しかし……」
あおいは不満そうに唇を尖らせた。
「せっかく和真と二人きりなのじゃぞ? 眠ってしまうのは惜しいのじゃ」
「俺はどこにも行かないよ」
「それは分かっておる」
「京都に着いたらいっぱい歩くだろ? 今のうちに寝ておいた方が楽しめるぞ」
「……むう」
あおいはしばらく考え込んだ。
そして、ようやく頷いた。
「ならば、少しだけ眠るとしよう」
「ああ。おやすみ」
「……和真」
「ん?」
「京都に着いたら、ちゃんと起こしておくれ」
「もちろん」
「……約束じゃぞ」
「ああ、約束」
安心したように微笑むと、あおいは座席へ身体を預けた。
しばらくすると、小さな寝息が聞こえ始める。
和真は助手席をちらりと見た。
先ほどまであれほど楽しそうに話していたのに、今はすっかり眠っている。
「……よっぽど楽しみだったんだな」
小さく笑い、前を向く。
車内には静かな音楽が流れていた。
高速道路の景色が、ゆっくりと移り変わっていく。
和真はその後も短い休憩を挟みながら、京都を目指した。
やがて、道路の案内板に京都の文字が現れ始める。
「……もうすぐだな」
和真が小さく呟く。
その声が聞こえたのか、隣であおいがもぞもぞと動いた。
「……ん……」
「おはよう、あおい」
「……和真?」
「ああ。そろそろ京都だよ」
「…………」
あおいは数秒ほどぼんやりしていた。
そして。
「……京都!?」
一瞬で目が覚めたらしい。
勢いよく身体を起こし、窓の外を見つめる。
「もう着いたのかえ!?」
「もう少し。そろそろ高速を降りるところだよ」
「おお……!」
あおいは窓へ顔を近づけた。
「ついに京都なのじゃな!」
「ああ」
「……ふふっ」
嬉しそうに笑う。
和真はその様子を見て、思わず頬を緩めた。
「よく眠れたか?」
「うむ! おかげで元気いっぱいじゃ!」
「それならよかった」
「和真は疲れておらぬか?」
「途中で休憩してるから大丈夫だよ」
「そうか……」
あおいは少し考えた後、柔らかく微笑んだ。
「長い道のりを運転してくれて、ありがとうなのじゃ」
「どういたしまして」
「わらわも何か役に立てればよいのじゃが……」
「十分役に立ってるよ」
「……本当かえ?」
「ああ。あおいが楽しそうにしてくれてるから、俺も嬉しいよ」
「…………」
あおいは一瞬、言葉を失った。
そして、照れくさそうに笑った。
「……そなたは、時々ずるいのう」
「何が?」
「何でもないのじゃ」
あおいは窓の外へ視線を戻した。
その頬には、ほんのり赤みが差していた。
◇ ◇ ◇
午前十一時頃。
二人を乗せた車は、京都市内へ入った。
「おお……!」
あおいが感嘆の声を上げる。
大きな道路の向こうには、歴史を感じさせる建物の屋根や、落ち着いた色合いの町並みが見え始めていた。
「和真! 見よ、あの建物!」
「ああ、立派だな」
「あちらにも古い建物があるぞ!」
「本当だ」
あおいは右を見たり左を見たりと、忙しそうだった。
「まだ観光も始まってないぞ?」
「分かっておる! じゃが、見ておるだけでも楽しいのじゃ!」
和真は笑いながら、車を走らせた。
しばらくして、予約していた宿へ到着する。
車を駐車場へ停め、二人は荷物を持って受付へ向かった。
「こんにちは。本日予約している四ノ宮です」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
受付の女性が笑顔で出迎えた。
和真は予約内容を確認してもらい、荷物を預けたいことを伝えた。
「お部屋へのご案内は午後からとなりますが、お荷物はこちらでお預かりできます」
「ありがとうございます。では、お願いします」
大きな鞄を預け、観光に必要なものだけを持つ。
あおいは小さな鞄を肩に掛け直した。
「これで身軽になったのう!」
「そうだな」
「では、早速観光じゃ!」
「ああ。でも、その前に昼飯にしようか」
「……昼餉?」
あおいが目を丸くする。
「もうそのような時間かえ?」
「まだ少し早いけど、朝も早かったしな。先に食べておいた方がいいだろ?」
「なるほどのう……」
あおいは少し考えた。
そして、嬉しそうに笑った。
「ならば、京都の美味いものを食べるのじゃ!」
「ははっ。そうしよう」
二人は宿を出て、昼食を取る店を探し始めた。
見知らぬ町。
行き交う人々。
昔ながらの建物と、現代的な店が並ぶ通り。
あおいは歩きながら、何度も辺りを見回していた。
「……不思議な町じゃのう」
「どうして?」
「古いものと新しいものが、こうして当たり前のように並んでおる」
「ああ、確かにな」
「それでいて、どこか落ち着くのじゃ」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。
しばらく歩いたところで、和真が一軒の店を見つけた。
「ここなんかどうだ?」
店先には、湯葉を使った料理の写真が並んでいる。
「……ゆば?」
あおいが首を傾げた。
「これは何じゃ?」
「豆乳を温めた時にできる薄い膜を使った料理だよ」
「ほう……」
あおいは興味深そうに写真を眺めた。
「美味そうじゃのう」
「入ってみるか?」
「うむ!」
二人は店内へ入った。
木の温もりを感じる落ち着いた内装。
窓際の席へ案内されると、あおいは早速メニューを広げた。
「……おお」
「気になるものがあった?」
「うむ。どれも美味そうで、なかなか決められぬ」
「ゆっくり選んでいいよ」
和真は笑いながら、自分のメニューへ視線を落とした。
しばらく悩んだ末、あおいは湯葉を使った温かいうどんを選んだ。
和真は湯葉丼にする。
「いただきますなのじゃ!」
「いただきます」
あおいは箸を取り、うどんと一緒に湯葉を持ち上げた。
慎重に口へ運ぶ。
「……ん!」
途端に、表情が明るくなった。
「美味い!」
「気に入ったか?」
「うむ! 柔らかくて、優しい味がするのう」
あおいは満足そうに頷いた。
「京都には、まだまだ知らぬ美味いものがありそうじゃ」
「そうだな。甘味も食べたいんだろ?」
「もちろんじゃ!」
あおいは即答した。
「そのために、腹を空けておかねばならぬ!」
「……今、結構食べてるけどな」
「甘味は別腹というものじゃ!」
「誰に教わったんだ、それ」
「みゆじゃ!」
「……なるほど」
和真は思わず笑った。
「まあ、食べすぎて観光できなくならないようにな」
「分かっておる!」
あおいはそう答えると、再び嬉しそうに箸を進めた。
昼食を終えた頃には、正午を少し過ぎていた。
店を出ると、和真は携帯端末を取り出した。
「さて、次は……」
「伏見稲荷じゃな!」
「ああ。その前に着物を借りに行こうか」
「おお!」
あおいの目が輝く。
「ついに着物を着られるのじゃな!」
「予約した時間もちょうどいいし、向かおうか」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
京都での観光が、いよいよ始まった。
◇ ◇ ◇
伏見稲荷大社の近くにある着物レンタル店。
店内へ入ったあおいは、目の前に並ぶ色とりどりの着物を見て息を呑んだ。
「……おお」
「すごい種類だな」
「うむ! どれも美しいのう!」
淡い色合いのものから、華やかな柄が描かれたものまで。
あおいは一着ずつ眺めながら、なかなか決められずにいた。
「和真、どれがよいと思う?」
「そうだな……」
和真は並んでいる着物を見比べた。
そして、淡い青色を基調にした一着を指差す。
「これなんか似合いそうだけど」
「……これかえ?」
「ああ。落ち着いた色だし、あおいに似合うと思うよ」
あおいは着物を手に取り、身体へ当ててみた。
淡い青色の生地には、小さな花の模様があしらわれている。
「……ふむ」
鏡を覗き込む。
そして、和真へ振り返った。
「どうじゃ?」
「うん、いいと思う」
「……ならば、これにするのじゃ!」
「もう決めたのか?」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに笑った。
「和真が選んでくれたものじゃからな」
その言葉に、和真は少し照れくさそうに笑った。
続いて、和真も着物を選ぶことになった。
「そなたも着るのであろう?」
「ああ。せっかくだしな」
「ならば、わらわが選ぶのじゃ!」
「お手柔らかにな」
「任せるがよい!」
あおいは真剣な表情で男性用の着物を見比べた。
しばらく悩んだ末に選んだのは、落ち着いた灰色の着物だった。
「これじゃ!」
「お、いいな」
「そうであろう?」
あおいは満足そうに頷いた。
「和真には、こういう落ち着いた色が似合うと思うのじゃ」
「じゃあ、それにしよう」
互いに着物を選び終えると、それぞれ着付けをしてもらうことになった。
しばらくして、着替えを終えた和真が店内で待っていると、奥からあおいが姿を現した。
「和真!」
「……おお」
和真は思わず声を漏らした。
淡い青色の着物に、上品な色合いの帯。
髪も綺麗に整えられ、いつもとは少し違った雰囲気をまとっている。
「どうじゃ?」
あおいはその場でゆっくりと一回転した。
「似合っておるかえ?」
「ああ。すごく似合ってるよ」
「……本当か?」
「うん。綺麗だ」
「…………!」
あおいの頬が、みるみる赤くなった。
「……そ、そうか」
恥ずかしそうに俯く。
そして、小さな声で呟いた。
「……嬉しいのじゃ」
和真は微笑んだ。
「写真、撮ろうか」
「うむ!」
二人は店の人に頼み、記念写真を撮ってもらった。
並んで立つ和真とあおい。
少し緊張した様子のあおいだったが、シャッターが切られる瞬間には、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「……ふふっ」
撮影した写真を確認しながら、あおいが笑った。
「宝物が一つ増えたのじゃ」
「まだ観光はこれからだぞ?」
「それでも、もう十分に嬉しいのじゃ」
そう言って、あおいは和真の袖をそっと掴んだ。
「さあ、行こうぞ!」
「ああ」
二人は並んで店を出た。
◇ ◇ ◇
伏見稲荷大社。
朱色の大きな鳥居を前に、あおいは立ち止まった。
「……おお」
その声には、先ほどまでとは違う静かな感動が混じっていた。
「立派な鳥居じゃのう……」
「そうだな」
和真も顔を上げる。
参道には多くの観光客が行き交い、あちらこちらから楽しそうな声が聞こえていた。
二人はゆっくりと歩き始めた。
境内には狐の像が置かれている。
それを見つけたあおいは、興味深そうに足を止めた。
「和真、見よ」
「ん?」
「あそこに狐がおるぞ」
「ああ。稲荷神社だからな」
「ふむ……」
あおいは狐の像をじっと見つめた。
「……何やら、不思議な気分じゃのう」
「同じ狐だからか?」
「それもあるやもしれぬ」
あおいは少し考えた後、小さく笑った。
「じゃが、わらわは神の使いというわけではないからのう」
「そうだな」
「それでも、こうして大切にされておる姿を見ると、悪い気はせぬ」
穏やかな表情で狐の像を眺める。
和真は、その横顔を静かに見つめていた。
やがて参拝を終えた二人は、千本鳥居へ向かった。
「……っ!」
あおいが息を呑む。
目の前には、朱色の鳥居が幾重にも連なっていた。
どこまでも続いているかのような、美しい光景。
鳥居の隙間から差し込む陽光が、石畳へ柔らかな影を落としている。
「……すごいのう」
あおいは小さく呟いた。
「写真で見た時も美しいと思ったが、実際に見ると……」
言葉が続かなかった。
和真は隣へ並んだ。
「来てよかったな」
「……うむ」
あおいはゆっくりと頷いた。
「本当に、来てよかったのじゃ」
二人は鳥居の中を歩き始めた。
朱色に包まれた道。
人々の足音。
木々を揺らす風。
あおいは何度も立ち止まり、周囲の景色を眺めていた。
「和真」
「ん?」
「少し、手を繋いでもよいかえ?」
「もちろん」
和真が手を差し出す。
あおいは嬉しそうに、その手を握った。
「……ふふっ」
「どうした?」
「何でもないのじゃ」
あおいは前を向いた。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
鳥居の間を抜ける風が、二人の着物の裾を小さく揺らす。
あおいは繋いだ手を見下ろした。
温かい。
その温もりが、何よりも嬉しかった。
「……のう、和真」
「ん?」
「こういう場所を、そなたと歩いてみたかったのじゃ」
「そうだったのか?」
「うむ」
あおいは小さく頷いた。
「一人で眺める景色も美しいものじゃ。じゃが、隣に誰かがおると、同じ景色でも違って見えるのう」
「……そうだな」
和真は握った手を軽く握り返した。
あおいは驚いたように顔を上げる。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
しばらく歩いたところで、二人は人の流れから少し離れ、記念写真を撮ることにした。
「和真、ここで撮りたいのじゃ」
「いいよ」
あおいは鳥居を背に立った。
和真が携帯端末を構える。
「じゃあ、撮るぞ」
「うむ!」
シャッターの音が鳴る。
写真に映ったあおいは、とても幸せそうに笑っていた。
「どうじゃ?」
「いい感じだよ。見る?」
「うむ!」
画面を覗き込んだあおいは、嬉しそうに目を細めた。
「……和真」
「ん?」
「今度は、二人で撮ろうぞ」
「ああ、そうしよう」
近くにいた観光客に頼み、二人並んで写真を撮ってもらう。
あおいは和真の腕へそっと手を添えた。
そして、少しだけ身体を寄せる。
「……これでよいかの?」
「うん」
シャッターが切られる。
画面には、朱色の鳥居を背景に並んだ二人の姿が映っていた。
あおいは、その写真を何度も眺めた。
「……宝物が、また増えたのう」
和真は笑った。
「帰ったら、みんなにも見せようか」
「……うむ」
あおいは頷きかけて、少し考えた。
「じゃが、この写真は……」
「ん?」
「……わらわだけの宝物にしても、よいかえ?」
和真はあおいを見た。
あおいは恥ずかしそうに微笑んでいる。
「……もちろん」
「……ありがとうなのじゃ」
あおいは嬉しそうに、携帯端末を胸元へ抱き寄せた。
◇ ◇ ◇
伏見稲荷大社を後にした頃には、午後三時を過ぎていた。
二人は着物を返却し、今度は祇園方面へ向かうことにした。
「……ふう」
和真が軽く肩を回す。
「結構歩いたな」
「うむ! じゃが、まだまだ元気じゃぞ!」
あおいは楽しそうに笑った。
先ほどまで着ていた着物も気に入っていたらしく、返却する時には少し名残惜しそうにしていた。
「また着たいのう」
「着物?」
「うむ。せっかくなら、別の色も試してみたいのじゃ」
「じゃあ、また機会があれば着ようか」
「……本当かえ?」
「ああ」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「約束じゃぞ!」
「分かったよ」
二人は電車を利用して移動し、祇園の町並みを散策し始めた。
古い町家が並ぶ通り。
格子戸から漏れる柔らかな明かり。
石畳の道を歩く人々。
あおいはゆっくりと歩きながら、周囲を眺めていた。
「……美しいのう」
「ああ、雰囲気があるな」
「まるで、昔の町へ迷い込んだようじゃ」
あおいは嬉しそうに笑った。
「わらわの知っておる昔の町とは少し違うが……それでも、懐かしい気分になるのじゃ」
和真はその言葉を聞きながら、隣を歩いた。
時折、小さな店の前で足を止めたり、路地の奥を覗いたり。
あおいは見るものすべてが新鮮なようだった。
やがて、二人は小さな土産物店へ入った。
店内には、和柄の小物や手作りの雑貨が並んでいる。
「おお……!」
あおいは興味深そうに商品を眺めた。
「和真、見よ!」
「ん?」
「この小さな狐、可愛らしいのう!」
あおいが手に取ったのは、狐を模した小さな根付だった。
赤い紐の先に、愛嬌のある狐の飾りが付いている。
「確かに可愛いな」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに笑った。
そして、しばらく眺めた後、そっと元の場所へ戻した。
「買わないのか?」
「……うむ。まだ色々見たいからのう」
「そうか」
和真は頷き、別の商品へ視線を移した。
あおいが店の奥を見ている間に、先ほどの根付を一つ手に取る。
会計を済ませ、小さな袋を受け取った。
店を出て、少し歩いたところで和真が声をかける。
「あおい」
「なんじゃ?」
「これ」
和真が小さな袋を差し出した。
「……む?」
あおいは不思議そうに受け取った。
中を覗き込む。
「……おお!」
先ほどの狐の根付だった。
「和真、これは……!」
「気に入ってたみたいだから」
「……よいのかえ?」
「ああ。今日の記念に」
「…………」
あおいは根付を両手で包み込んだ。
しばらく黙って見つめる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうなのじゃ」
その声は、少しだけ震えていた。
「大切にするのじゃ」
「そんな高いものじゃないけどな」
「値段など関係ないのじゃ」
あおいは首を横に振った。
「和真が、わらわのために選んでくれたものじゃからな」
そう言って、嬉しそうに微笑んだ。
和真も笑みを返した。
◇ ◇ ◇
夕方。
町並みを眺めながら歩いていると、あおいがふと足を止めた。
「……和真」
「ん?」
「少し、あちらへ行ってもよいかえ?」
あおいが指差した先には、小さな甘味処があった。
店先には、団子や抹茶を使った菓子の写真が並んでいる。
「……甘味か」
「うむ!」
あおいは期待に満ちた目で和真を見上げた。
「よいかえ?」
「もちろん。ちょうど休憩したかったしな」
「やったのじゃ!」
二人は店へ入った。
あおいが選んだのは、抹茶を使った甘味と温かいお茶。
和真は団子を注文した。
「……ん!」
一口食べたあおいが、幸せそうに目を細める。
「美味いのう……!」
「そんなにか?」
「うむ! 甘いのに少し苦味があって……何とも言えぬ美味さじゃ!」
「気に入ったならよかった」
和真も団子を一口食べる。
柔らかな食感と、ほどよい甘さ。
歩き疲れた身体に、ちょうどよかった。
「和真」
「ん?」
「一口、食べてみぬか?」
あおいが自分の甘味を差し出した。
「いいのか?」
「うむ!」
「じゃあ、少しもらうよ」
和真は差し出された甘味を一口食べた。
「……うん、美味いな」
「そうであろう!」
あおいは嬉しそうに笑った。
「では、わらわもそなたの団子を一つ……」
「ああ、いいよ」
「ふふっ」
あおいは団子を一つ受け取り、口へ運んだ。
「……こちらも美味いのう!」
「どっちが好き?」
「うーむ……」
あおいは真剣に考え込んだ。
そして、しばらくしてから答えた。
「……両方じゃ!」
「ははっ、そうか」
「美味いものを無理に比べる必要はなかろう?」
「確かにな」
二人は笑い合った。
窓の外では、夕暮れの町並みに少しずつ明かりが灯り始めていた。
あおいはその景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
「……綺麗じゃのう」
「ああ」
「和真」
「ん?」
「今日は、本当に楽しい一日じゃった」
「まだ終わってないぞ?」
「……そうじゃったな」
あおいは小さく笑った。
「ならば、もう少し楽しませてもらおうかのう」
「もちろん」
◇ ◇ ◇
日が暮れた頃、二人は夕食を済ませて宿へ戻った。
預けていた荷物を受け取り、案内された部屋へ入る。
「……おお」
あおいは部屋を見回した。
畳の敷かれた落ち着いた和室。
窓際には小さな机と椅子が置かれ、柔らかな照明が室内を照らしている。
「よい部屋じゃのう」
「気に入ったか?」
「うむ!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「畳の匂いも心地よいのじゃ」
和真は荷物を部屋の隅へ置き、座布団へ腰を下ろした。
「……ふう」
「和真、疲れたかえ?」
「少しな。さすがに朝から運転して、そのまま歩き回ったから」
「……そうじゃな」
あおいは少し申し訳なさそうな顔をした。
「わらわが、あちこち連れ回してしまったからのう」
「いや、俺も楽しかったよ」
「本当か?」
「ああ。それに、無理そうだったらちゃんと休むから」
和真は笑った。
「そんな顔しなくていいよ」
「……うむ」
あおいは安心したように頷いた。
和真がお茶を淹れると、あおいも向かい側へ座った。
窓の外には、夜の京都の街並みが広がっている。
「……のう、和真」
「ん?」
「今日は、ありがとうなのじゃ」
「どうした、急に」
「ずっと言いたかったのじゃ」
あおいは膝の上で両手を重ねた。
「朝早くから車を運転してくれて、わらわの行きたい場所へ連れていってくれて……」
「それは、お互い様だろ」
「……お互い様?」
「ああ。俺も楽しかったよ」
和真は笑った。
「あおいが色々なものを見て喜んでるのを見られたし、京都の町も楽しめたからな」
「…………」
あおいはしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そうか」
その声は、とても柔らかかった。
「わらわも……和真と来られて、本当によかったのじゃ」
あおいは窓の外へ目を向けた。
「以前のわらわなら、こんな日が訪れるなど、考えもしなかったであろうな」
和真は何も言わず、あおいの言葉を聞いていた。
「知らぬ町を歩き、美味いものを食べ、綺麗な景色を眺める。それを誰かと分かち合えるというのは、幸せなことじゃのう」
「そうだな」
「……ふふっ」
あおいは嬉しそうに笑った。
しばらくして、二人は今日撮った写真を見返すことにした。
朝のサービスエリア。
着物姿の二人。
伏見稲荷の千本鳥居。
夕暮れの町並み。
そして、甘味処で撮った写真。
「……こんなにも撮っておったのじゃな」
「結構撮ったな」
「うむ。どれも大切な思い出じゃ」
「帰ったら、アルバムでも作るか?」
「それはよいのう!」
あおいは嬉しそうに頷いた。
しかし、写真を見返していた彼女が、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……のう、和真」
「どうした?」
「少し、聞きたいことがあるのじゃ」
「ん?」
和真は携帯端末から顔を上げた。
あおいは先ほどまでの笑顔を引っ込め、妙に真剣な表情を浮かべていた。
「みゆとの旅行についてじゃ」
「みゆとの旅行?」
「うむ」
あおいはゆっくりと頷いた。
「そなた、みゆと温泉に入ったのであろう?」
「……ああ」
「それも、二人で一緒にじゃな?」
「そうだけど……」
和真は不思議そうに首を傾げた。
「それがどうした?」
「……むう」
あおいは頬を膨らませた。
「やはり、そうなのじゃな」
「何が?」
「しかも、同じ布団で眠ったと聞いたぞ」
「……まあ、そうだな」
「…………!」
あおいの目が大きく見開かれた。
「や、やはり……!」
「……あおい?」
あおいはしばらく黙っていた。
そして、意を決したように口を開いた。
「和真!」
「うん?」
「そなた……みゆと男女の仲になったのであろう!?」
「…………え?」
和真の思考が止まった。
あおいは顔を真っ赤にしながら続ける。
「二人きりで温泉に入り、同じ布団で夜を過ごしたのじゃぞ!? それはもう、そういう仲になったということではないのかえ!?」
「いやいや、待ってくれ!」
和真は慌てて両手を振った。
「何をどう聞いたらそうなるんだ!?」
「違うのかえ!?」
「違うよ! みゆとはそんな関係になってない!」
「……本当か?」
「本当だって!」
「…………」
あおいはじっと和真の顔を見つめた。
まるで嘘を見抜こうとするかのように、真剣な目を向けてくる。
「……では、何もなかったのじゃな?」
「ああ。あおいが心配してるようなことは何もないよ」
「同じ布団で眠っただけかえ?」
「そうだよ」
「……むう」
あおいは腕を組んだ。
しばらく考え込み、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
安心したように肩の力を抜く。
しかし。
「……じゃが!」
「ん?」
「それでも、みゆだけずるいのじゃ!」
「……ずるい?」
「そうじゃ!」
あおいは勢いよく立ち上がった。
「リディアとも一緒に湯に入ったのであろう!? みゆとも一緒に入った! おまけに、みゆとは同じ布団で眠ったというではないか!」
「……まあ、そうだけど」
「ならば、わらわとも同じようにせよ!」
「……え?」
和真は目を丸くした。
あおいは頬を赤く染めながらも、真剣だった。
「わらわとて、そなたと一緒に湯に入りたいのじゃ!」
「いや、それは……」
「なぜじゃ!?」
「なぜって……」
「リディアとみゆはよくて、わらわは駄目なのかえ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「ならばよいではないか!」
あおいは和真の隣へ座り直した。
そして、そっと袖を掴む。
「……のう、和真」
「……うん?」
「わらわも、そなたと同じことをしてみたいのじゃ」
先ほどまでの勢いが嘘のように、声が小さくなった。
「皆がそなたと旅をして、色々な思い出を作っておる。それが嬉しくないわけではないのじゃ」
「……ああ」
「じゃが……少しだけ、羨ましかったのじゃ」
あおいは視線を落とした。
「わらわも、そなたに甘えたい。誰にも遠慮せず、そなたのそばにいたいのじゃ」
和真はしばらく黙っていた。
あおいの指先が、服の袖を小さく握り締めている。
その様子を見て、和真は小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
「……え?」
「一緒に風呂に入ろうか」
「…………!」
あおいの顔が、一瞬で明るくなった。
「本当かえ!?」
「ああ。ただし、あまり長湯はしないぞ。今日は結構疲れてるからな」
「うむ! 分かっておる!」
あおいは満面の笑みを浮かべた。
そして、嬉しそうに和真の腕へ抱きつく。
「ありがとうなのじゃ!」
「ははっ。そんなに嬉しいか?」
「当たり前じゃ!」
和真は宿の案内を確認し、受付へ貸切風呂の空きを問い合わせた。
幸い、少し後の時間に空きがあったため、そのまま予約を入れる。
それを聞いたあおいは、ますます上機嫌になった。
「ふふっ。楽しみじゃのう!」
「さっきまであんなに怒ってたのに」
「怒ってなどおらぬ!」
「そうか?」
「……少しだけじゃ」
あおいは恥ずかしそうに目を逸らした。
和真は思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
宿の貸切風呂。
柔らかな照明に照らされた浴室には、木の香りが漂っていた。
湯気の向こうには小さな庭があり、石灯籠と植木が静かに佇んでいる。
「……おお」
湯船に肩まで浸かったあおいが、感嘆の声を上げた。
「何とも心地よい湯じゃのう……」
「そうだな」
和真も少し離れたところで、ゆっくりと湯に浸かった。
昼間の疲れが、温かな湯とともに解けていく。
「……ふう」
思わず息を吐く。
その様子を見たあおいが、小さく笑った。
「随分と気持ちよさそうじゃのう」
「ああ。今日はよく歩いたからな」
「うむ。わらわも足が少し疲れておった」
あおいは肩まで湯に浸かり、目を細めた。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れる。
やがて。
「……のう、和真」
「ん?」
「もう少し、そちらへ寄ってもよいかえ?」
「……ああ、いいよ」
あおいは嬉しそうに頷いた。
そして、ゆっくりと和真の隣へ移動する。
肩が触れるほど近くに座り、満足そうに微笑んだ。
「……ふふっ」
「どうした?」
「いや、何でもないのじゃ」
あおいは少し照れくさそうに笑った。
「ただ……こうしてそなたと一緒に湯に浸かれるのが、嬉しいのじゃ」
「そっか」
「うむ」
あおいは和真の肩へ、そっと頭を預けた。
「……わらわも、皆と同じことができたのう」
その声は、心から嬉しそうだった。
和真は隣にいるあおいを見て、優しく微笑んだ。
「今日の旅行だって、あおいとしかできない思い出だろ?」
「……む?」
「みゆとの旅行も、リディアとの旅行も、それぞれ違った楽しさがあったよ」
「……うむ」
「今日だって、あおいがいたから楽しかったんだ」
「…………」
あおいは顔を上げた。
「……本当かえ?」
「もちろん」
「……そうか」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、わらわは幸せ者じゃな」
「大袈裟だな」
「大袈裟ではないぞ?」
あおいはもう一度、和真の肩へ頭を寄せた。
「わらわにとっては、それほど大切なことなのじゃ」
静かな浴室に、湯の流れる音が響いていた。
◇ ◇ ◇
風呂を出た二人は、部屋でしばらく休んでいた。
和真がお茶を飲んでいると、あおいが嬉しそうに隣へ座る。
「……ふふっ」
「ずいぶん機嫌がいいな」
「当然じゃ!」
あおいは満面の笑みを浮かべた。
「念願が一つ叶ったのじゃからな!」
「そんなに楽しみにしてたのか」
「うむ! そなたと一緒に湯に入れたのじゃぞ?」
あおいは嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに少しだけ得意げな表情へ変わる。
「……これで、リディアとみゆには追いついたのう」
「競争してるわけじゃないだろ?」
「分かっておる」
あおいは頷いた。
そして、小さく付け加える。
「……じゃが、やはり羨ましいものは羨ましいのじゃ」
「ははっ」
和真が笑うと、あおいもつられて笑った。
やがて時刻は午後十時を過ぎた。
明日も朝から観光する予定だ。
「さて、そろそろ寝ようか」
「……うむ」
和真は部屋に用意されていた布団を整えた。
二組の布団が、少し間隔を空けて並んでいる。
和真が自分の布団へ入ろうとした、その時だった。
「……和真」
「ん?」
振り返ると、あおいが布団の前に立っていた。
何やら、言いたそうな顔をしている。
「どうした?」
「……まだ、約束が残っておるぞ」
「……約束?」
「うむ」
あおいはこくりと頷いた。
「みゆとは、同じ布団で眠ったのであろう?」
「……ああ」
「ならば、わらわもじゃ」
「…………」
和真は思わずあおいを見た。
「あおい……」
「何じゃ?」
「さっきの話、まだ続いてたのか?」
「当然じゃ!」
あおいは胸を張った。
「湯には一緒に入った。じゃが、まだ同じ布団で眠っておらぬ!」
「いや、別に全部同じにしなくても……」
「駄目じゃ!」
あおいはきっぱりと言い切った。
「みゆだけずるいのじゃ!」
「……ははっ」
和真は思わず笑ってしまった。
「笑い事ではないぞ!」
「ごめん、ごめん」
あおいは頬を膨らませたまま、和真を見つめている。
しかし、しばらくすると、その表情が少しだけ変わった。
「……のう、和真」
「ん?」
「……嫌かえ?」
小さな声だった。
先ほどまでの強気な態度が、少しずつ消えていく。
「わらわと、一緒に眠るのは……嫌か?」
和真は静かに首を横に振った。
「嫌じゃないよ」
「……本当か?」
「ああ」
和真は微笑んだ。
「ただ、あおいも一人で眠れるように頑張ってただろ?」
「……うむ」
「だから、せっかくできるようになったのに、いいのかなって思ったんだ」
あおいは少し考えた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「それとこれとは別なのじゃ」
「別?」
「うむ」
あおいは真剣な表情で頷いた。
「わらわは、もう一人でも眠れる。以前のように、寂しくて眠れぬわけではないのじゃ」
「……ああ」
「じゃが、今日は特別な日じゃろう?」
あおいは少し照れくさそうに笑った。
「だから……今夜くらいは、そなたに甘えてもよいではないか」
和真はその顔を見つめた。
以前のあおいなら、寂しさや不安に耐えられず、誰かにそばにいてほしいと頼んでいただろう。
けれど、今は違う。
一人でも眠れるようになった。
それでも、今日は一緒にいたい。
そう自分の言葉で伝えてくれている。
「……分かったよ」
「……え?」
「今日は一緒に寝ようか」
「…………!」
あおいの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当かえ!?」
「ああ」
「……よ、よいのじゃな!?」
「いいよ」
「……っ!」
あおいは嬉しそうに和真へ抱きついた。
「ありがとうなのじゃ!」
「うわっ! あおい、急に抱きつくなって!」
「ふふっ!」
あおいは笑いながら、和真の胸元へ顔を埋めた。
「……嬉しいのじゃ」
その声は、少しだけ震えていた。
和真は優しく背中を撫でた。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「うむ!」
二人は布団を寄せて、同じ布団へ入った。
和真が横になると、あおいはすぐに身体を寄せてきた。
「……あおい?」
「む?」
「近くないか?」
「近くなければ意味がなかろう?」
「……そういうものか?」
「そういうものじゃ!」
あおいは当然のように答えた。
そして、和真の腕をそっと持ち上げる。
「……何してるんだ?」
「こうするのじゃ」
あおいは和真の腕を自分の肩へ回し、そのまま胸元へ顔を寄せた。
「……ふふっ」
満足そうに笑う。
「これでよい」
「……なるほど」
和真は苦笑した。
あおいは和真の腕の中にすっぽりと収まり、嬉しそうに目を細めている。
「……温かいのう」
「そうだな」
「……のう、和真」
「ん?」
「もう少し、強く抱いてくれぬか?」
「……こうか?」
和真はあおいの背中へ回した腕に、少しだけ力を込めた。
「……ん」
あおいは小さく息を漏らした。
そして、和真の胸元へ頬を寄せる。
「……ふふっ」
「どうした?」
「……幸せじゃ」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、確かに和真の耳へ届いた。
「……そっか」
和真は優しく微笑んだ。
あおいはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……のう、和真」
「ん?」
「わらわは、皆が嫌いなわけではないのじゃ」
「分かってるよ」
「みゆも、リディアも、フェンリスも……皆、大切な仲間じゃ」
「うん」
「じゃが……そなたのことになると、少し欲張りになってしまうのう」
あおいは照れくさそうに笑った。
「今日も、そなたを独り占めできると分かっておったのに……まだ足りぬと思ってしまった」
「……あおい」
「困ったものじゃな」
自分でそう言って、小さく笑う。
和真はあおいの頭を優しく撫でた。
「別に、悪いことじゃないと思うよ」
「……本当かえ?」
「ああ。甘えたい時は、甘えてくれていいんだ」
「…………」
あおいは顔を上げた。
すぐ近くに、和真の顔がある。
しばらく見つめ合った後、あおいは恥ずかしそうに目を逸らした。
「……そなたは、本当にずるいのう」
「またそれか?」
「うむ」
あおいは小さく笑った。
「そんなことを言われたら、ますます甘えたくなるではないか」
「ははっ」
「……じゃが」
あおいは和真の胸元へ顔を戻した。
「今夜は、もう十分じゃ」
「そっか」
「うむ」
満足そうに頷き、目を閉じる。
しかし、しばらくしてから、再び顔を上げた。
「……和真」
「今度は何だ?」
「一つだけ、お願いがあるのじゃ」
「うん?」
あおいは少し照れくさそうに微笑んだ。
「……明日の朝まで、このままでいてくれぬか?」
和真はその顔を見て、優しく笑った。
「ああ、いいよ」
「……ふふっ」
あおいは嬉しそうに頷いた。
「約束じゃぞ」
「ああ、約束」
和真はもう一度、あおいを優しく抱き寄せた。
あおいも、その腕に応えるように身体を寄せる。
「……和真」
「ん?」
「……大好きじゃぞ」
囁くような声だった。
和真は少しだけ目を見開いた。
けれど、あおいはもう顔を上げなかった。
ただ、和真の胸元へ頬を寄せたまま、幸せそうに微笑んでいる。
「……おやすみ、あおい」
「……うむ。おやすみ……なのじゃ……」
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
和真は腕の中のあおいへ視線を落とす。
その顔は、驚くほど穏やかだった。
以前は、一人で眠ることすら不安がっていた彼女。
けれど、今は違う。
自分の意思で、一緒にいたいと願ってくれた。
和真はその頭を、もう一度だけ優しく撫でた。
「……いい夢を」
部屋の明かりを落とした後も、あおいは和真の腕を離さなかった。
明日は、嵐山。
あおいが楽しみにしていた竹林を歩く予定だ。
どんな景色が待っているのだろう。
そんなことを考えているうちに、和真の意識もゆっくりと眠りへ落ちていった。
二人で過ごす京都旅行。
その一日目が、静かに幕を閉じた。




