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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第二十九話 少し先の約束

 朝食の片付けが終わるのを、フェンリスは待っていた。


 いつもなら食器を運んだ後、そのまま台所で二言三言しゃべっていく。今日は最後の皿を酒菜へ渡すと、すぐに居間へ戻ってきた。


 卓には、昨夜の手帳が置かれている。


 和真がそれを開くより先に、隣へ腰を下ろした。


「和真、今、いい?」


「うん。店に行くまで、まだ時間あるのか?」


「今日は少し遅いから。それより、昨日の話」


 手帳の端を指で押さえる。


 七人分の名前が並んだ頁の、一番上だった。


「忘れてないよ」


「まだ、忘れたかどうかは聞いてない」


「昨日、何回も念を押されたからな」


 フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。


 しかし、和真が頁を開いてペンを手に取ると、すぐにその手元へ目を向けた。


「休み、今日聞いてくる。続けて二日、取れそうなところがあるか」


「分かった。俺の方も予定を確認しておくよ」


「だから、その前に、どこへ行くか少し考えておきたいんだ」


 フェンリスは端末を出した。


 画面には、果樹園の案内が映っていた。


 枝に実った梨や、棚から下がるぶどう。その下には、籠を持って笑う人たちの写真が並んでいる。


「果物狩り?」


「うん。これ、和真とやってみたい」


 和真は画面を覗き込んだ。


「自分で採って、その場で食べられるのか」


「そう。持って帰れるところもあるみたい」


 フェンリスは指を滑らせ、別の農園の案内も見せた。


 まだ行き先を一つに決めたわけではないらしい。いくつか見つけた頁を、順番に開いている。


「結構、調べたんだな」


「……ちょっとだけ」


 その返事の間にも、別の写真が出てきた。


 ちょっとだけ、という数ではなかった。


 和真は笑い、もう一度最初の案内を見せてもらった。


「こういうの、好きだったのか?」


「和真が、果物好きでしょ」


 問い返すように言ってから、フェンリスは少し照れた。


「だから、一緒に行ったら楽しいかなって。お店で買うのとは、違うじゃん」


 和真が顔を上げた。


 フェンリスは画面へ目を落としたまま、続ける。


「自分で選んで、採って。おいしいのが見つかったら、二人で食べられるし」


「俺に合わせて、探してくれたのか」


「僕だって、食べたいよ」


 少し早口になった。


「ただ、せっかく一緒に行くんだから、和真にも楽しんでほしいんだ」


 最後まで言うと、隣を見るのが恥ずかしくなった。


 昨夜、端末を眺めている間は、もっと簡単に言えると思っていた。


 果物が好きな和真なら、喜んでくれる。


 そう考えて探しただけだったのに、本人を前にすると、妙に胸が落ち着かない。


「ありがとう。行ってみたいね」


 和真の声に、フェンリスは顔を上げた。


「本当?」


「うん。どれがおいしそうか探すのも、楽しそうだな」


「じゃあ、果物狩りでいい?」


「いいよ。どこにするか、一緒に見よう」


 フェンリスは嬉しそうに頷いた。


 端末を二人の間へ置くために、少しだけ近づく。


 肩が和真の腕へ触れたが、離れなかった。


     ◇


「これ、全部同じところ?」


 フェンリスが尋ねると、和真は案内の下へ画面を動かした。


「農園は同じだけど、採れるものは時期で変わるみたいだぞ」


「一度に全部じゃないんだ」


「そうらしい。写真だけ見て決めると、行った日にないかもしれないな」


 フェンリスは説明を読み直した。


 昨夜は、どんなところなのかを見るのに夢中だった。


 写真の下にある細かな案内までは、きちんと確かめていない。


「じゃあ、休みが分かったら、そこも聞いた方がいいね」


「予約が必要なところもあるだろうしな」


「和真が食べたいの、ちゃんと採れるところにしたい」


 まっすぐ言うと、和真は少し照れたように笑った。


「フェンリスの食べたいものも選んでくれよ」


「僕は、おいしければいい」


「範囲が広いな」


「でも、和真がおいしいって言うのは、食べたい」


「じゃあ、見つけたら教えるよ」


「僕が先に見つけるかもしれないだろ」


「その時は、俺にも教えて」


「うん。ちゃんと残しておく」


 和真が笑った。


 フェンリスもつられて笑い、次の写真を開く。


 果樹の間に、小さな休憩場所があった。


 二人で採ったものを並べて、どちらが甘いか食べ比べる。


 和真が気に入ったものを、帰りに少し買っていく。


 まだ農園も決まっていないのに、そこで過ごす時間ばかりが、次々と思い浮かんだ。


「もう、食べたそうな顔してる」


 声がして振り向くと、みゆが畳んだ布巾を持って立っていた。


「僕だけじゃないよ。和真も」


「うん。二人とも」


 みゆは卓へ布巾を置き、画面を覗いた。


「果物狩りにするんだ?」


「そのつもり。今、場所を探してる」


「いいね。和真、好きだもんね」


 フェンリスは小さく頷いた。


 みゆは、それ以上口を挟まず、台所へ戻ろうとした。


「……みゆ」


「何?」


「お土産、採ってきた果物でもいい?」


 尋ねると、みゆは目を細めた。


「早くない? まだ場所も決まってないんでしょ」


「先に聞いておこうと思っただけだよ」


「嬉しいよ。楽しみにしてる」


 みゆは笑い、今度こそ台所へ入っていった。


 昨日までは、みゆが和真とどこで何をしているのか、気になって仕方がなかった。


 今は、自分が和真と行く場所を探している。


 フェンリスは画面へ目を戻した。


「ここ、近くに泊まるところもあるみたい」


「本当だ。日帰りを急がなくていいのは、助かるな」


 その返事に、また嬉しくなった。


 和真はちゃんと、一泊するつもりで考えてくれていた。


     ◇


 候補を二つまで絞った頃、和真の端末が震えた。


「ごめん。ちょっといいか」


「うん」


 和真は画面を見てから、通話に出た。


「はい、四ノ宮です。……ああ、おはようございます」


 声を聞いた途端、誰からか分かったらしい。


 フェンリスは端末を自分の方へ引き寄せ、宿の写真を眺めて待った。


「午後なら伺えます。重いものは、そのままにしておいてください。……二階からですね。分かりました」


 和真が手帳の別の頁を開いた。


 時刻と、短い言葉を書きつける。


「前と同じところで。はい。では、二時頃に」


 電話を終えると、フェンリスが顔を上げた。


「どうしたの?何か、運ぶの?」


「棚を下ろしてほしいんだって。部屋の使い方を変えるらしくて」


「僕も手伝おうか? お店に行く前なら」


「午後だから、時間が合わないだろ。大丈夫だよ」


 和真は端末で場所を確認し、時刻と一緒に手帳へ書き足した。


 それから、何事もなかったように旅行の頁へ戻る。


「フェンリスの休みが分かったら、俺の予定とも合わせよう」


「今日の用事みたいなのが入っても、大丈夫?」


「先に旅行の日を決めておけば、その日は空けておくよ」


 和真はペンを置き、フェンリスに向き直った。


「休みが取れそうな日を、いくつか聞いてきてくれればいい。その中から、俺も空けられる日を選ぶから」


 フェンリスは小さく頷いた。


 当たり前のように、和真は二人で行くつもりで話していた。


 それが嬉しかった。


 自分だけが張り切っているわけではないのだと、少し安心できた。


「じゃあ、今日聞いてくる」


「うん。店の都合もあるだろうから、急がせなくていいぞ」


「分かってる。でも、早く決めたいんだ」


 今度は、隠さずに言えた。


 フェンリスは候補に残した農園を、もう一度和真へ見せた。


「どっちも、車で行けそう?」


「行けるよ。こっちの方が少し遠いけど、途中で休めば大丈夫だと思う」


「じゃあ、帰る日に果物狩りをしてもいいんだね」


「そうだな。初日にするか、二日目にするかは、予約と宿の場所で考えよう」


 和真は手帳に、二つの農園の名前を書きつけた。


 フェンリスが覗き込むと、その下には、採れる果物と日程を確認することも書いてある。


「僕、それも聞いておくよ」


「先に休みを相談してからでいいだろ。日にちが分からないと、農園の人も答えにくいだろうし」


「……そうだね」


 早く決めたくて、順番を飛ばしそうになっていた。


 フェンリスは小さく笑い、端末へ目を戻す。


「和真は、ほかに行きたいところある?」


「せっかくだし、近くを少し歩いてみたいな」


「僕も。果物を食べて、それから散歩するのもいいね」


「食べすぎて動けなくなるなよ」


「ならないよ!」


 言い返すと、和真が笑った。


 自分でも、少し張り切りすぎていると思った。


 でも、二人で話していると、やってみたいことが増えてしまう。


 農園へ行く道の途中にも、寄れそうな場所があった。


 近くの宿には、ゆっくり過ごせそうな部屋の写真が載っている。


「泊まるところは、高すぎるところじゃなくていいよ」


「うん。そこも、一緒に見よう。日にちで値段が変わるだろうし」


「それと……」


 続けかけて、フェンリスは口を閉じた。


 和真が顔を上げる。


「何?」


「部屋は……いや、何でもない」


 みゆは、和真と同じ部屋に泊まった。


 それを思い出した途端、宿の写真が急に違って見えた。


 和真と二人で、そこへ入る。


 夕飯を食べて、風呂へ行って、その後も同じ部屋にいる。


 考えるほど、耳まで熱くなった。


「フェンリス?」


「宿を決める時に、話す!」


「……分かった」


 和真は追及しなかった。


 それがありがたいような、少し物足りないような気がした。


 フェンリスは端末を閉じ、時刻を確かめた。


「そろそろ、支度してくる」


「もう、そんな時間か」


「帰ったら、また続きを話そう」


「ああ。俺も、用事が終わったら少し調べておくよ」


 立ち上がりかけたフェンリスは、もう一度、和真を見た。


「本当に?」


「お前ばっかり調べるのも、大変だろ」


「別に、大変じゃないよ」


 むしろ、いつまでも見ていたかった。


 けれど、和真も探してくれるというなら、断る理由はなかった。


「……じゃあ、お願い」


 フェンリスは笑った。


 居間を出る足取りは、来た時よりも軽かった。


     ◇


 アパートの部屋で出勤の支度を済ませ、鏡の前に立つ。


 人の姿に整っていることを確かめ、髪の端を指で直した。


 端末には、先ほど見ていた農園の写真が残っている。


 つい、もう一度開いてしまった。


 画面の端に映る二人連れは、一つの籠を覗き込み、笑っていた。


 フェンリスは、その小さな姿をしばらく見つめた。


 歩く時に腕へつかまるくらいなら、今までにもしている。


 隣へ座るのも、甘えてみるのも、初めてではない。


 それなのに、旅行先で手をつなぐところを想像すると、妙に落ち着かなかった。


 みゆは、自分の気持ちを話した。


 和真は、それを聞いた。


 昨夜、その二つを確かめた時の胸の痛みは、まだ残っていた。


 けれど、みゆに先を越されたからというだけで、言いたいわけではなかった。


 ずっと前から、和真のそばにいたかった。


 ここへ来て、帰る場所が出来て、それだけでも十分に嬉しかったはずなのに、今はそれ以上を願っている。


「……ちゃんと、言わなきゃ」


 部屋の中で口にしてみた。


 それだけのことで、胸が忙しくなった。


 旅行に行けば、急に勇気が湧いてくるわけではないだろう。


 それでも、二人きりでゆっくり話せる時間が欲しかった。


 誰かの声に途切れず、照れたからと冗談に逃げず、和真の顔を見て伝えたかった。


 フェンリスは端末を鞄へしまった。


 今から考えすぎても仕方がない。


 まずは、休みを聞くところからだった。


     ◇


 酒屋へ着くと、店の前には配達用の箱が並んでいた。


 いつもなら、この時間には店長がその辺りで声をかけてくる。


 今日は姿が見えなかった。


「おはようございます」


 裏口から声をかけると、奥から同僚が顔を出した。


「おはよう。来てくれてよかった」


 いつもより、少し早口だった。


 フェンリスは鞄を置きかけた手を止める。


「何かあったの?」


「店長が、昨日の夜、事故に遭って」


 言葉の意味を飲み込むまで、一瞬かかった。


「……事故?」


「今、入院してる。命に別状はないって聞いたけど」


「店長、話せるの?」


「うん。朝、電話があった。店のことばっかり心配してたよ」


 同僚はそう言って笑おうとしたが、すぐに口元を引き締めた。


「奥さんが向こうへ行ってる。詳しいことは、戻ってきてからだね」


 フェンリスは店の奥を見た。


 いつもの棚も、帳場も、変わっていない。


 店長が使っている椅子だけが、空いていた。


「……僕、何をすればいい?」


「先に、こっちの注文を揃えてくれる? 配達は順番を組み直してるところだから」


「分かった」


 鞄を置き、前掛けをつける。


 休みの話をするために考えていた言葉は、出てこなかった。


     ◇


 午前中は、いつもより短く感じた。


 商品を揃え、運び、戻ってきた箱を片付ける。


 電話が鳴れば、同僚が作業を止めて受けに行った。


 店長が普段、少しずつ済ませていることが、今日はあちらこちらに残っていた。


 フェンリスが一つ片付けると、別のところで手が足りなくなる。


 そのたびに呼ばれ、返事をして向かった。


「フェンリス、そっちを頼める?」


「うん。これを運んだら、すぐ行く」


 いつもと同じつもりで答えた。


 手を動かしている方が、店長のことを考え続けずに済んだ。


 昼を少し過ぎた頃、店長の妻が戻ってきた。


 フェンリスたちの顔を見ると、まず何度も礼を言った。


「急にごめんね。助かったわ」


「店長は?」


 フェンリスが尋ねると、疲れの残る顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。


「大丈夫。口は相変わらずよ。病室から配達の心配をするから、先生にも叱られてた」


 ようやく、フェンリスは息を吐けた。


 同僚も、隣で肩の力を抜いた。


 だが、その後に続いた話は、簡単ではなかった。


 しばらく入院が必要なこと。


 退院しても、すぐに重いものを運んだり、これまでどおりに配達へ出たりは出来ないこと。


 いつ店へ戻れるかも、まだ決まっていないこと。


「配達は、しばらく件数と時間を相談してもらうつもり。私も店に出るけど、病院に行かなきゃいけない日もあるから」


 店長の妻は、帳場へ勤務表を広げた。


 鉛筆で書かれた名前を、指で順に追っていく。


「ほかの人にも声はかけてるの。ただ、すぐには揃わなくてね」


 フェンリスも、その紙を見た。


 自分の休みを相談する時に、見せてもらうつもりだったものだ。


「フェンリスさん、来週から少し、出てもらう日を変えられるかしら。休みは取ってもらうけど、落ち着くまでは、続けて休めるように組むのが難しくなりそうで」


 胸の奥が、小さく縮んだ。


「……続けては、難しい?」


「ごめんなさい。今いる人たちの都合を合わせると、どうしてもね。何か予定があるなら、先に教えてもらえる?」


 すぐには答えられなかった。


 果樹の間にあった休憩場所が、頭に浮かんだ。


 おいしいものを見つけたら、互いに教えようと話したこと。


 帰ったら続きを話そうと言ってくれた和真。


 フェンリスは、前掛けの端を指でつまんだ。


「まだ……日にちは、決まってないんだ」


「そう。急にこんなことになって、本当にごめんね」


 店長の妻は、もう一度勤務表へ目を落とした。


 疲れた指で、書いてあった線をなぞっている。


 フェンリスは、その手を見ていた。


 この店で働き始めたばかりの頃、分からないことは何度でも教えてもらった。


 言い方を間違えた時も、客の頼んだ品をすぐに見つけられなかった時も、店長は急かさずに待ってくれた。


 今、あの空いた椅子へ戻ってきたとしても、きっと大丈夫だと言うのだろう。


 そして、まだ動かしてはいけない体を動かそうとする。


「……僕、出るよ」


 フェンリスは顔を上げた。


「今までと違う日でも、大丈夫。時間も、出来るだけ合わせる」


「助かるわ。でも、無理な時はちゃんと言ってね」


「うん」


 頷いた後で、唇を一度結んだ。


「店長にも、無理しないでって言っておいて。こっちは僕もいるからって」


 店長の妻は、少しだけ目を潤ませて笑った。


 フェンリスも笑い返した。


 そこまでは、出来た。


     ◇


 遅い休憩に入ると、フェンリスは店の奥で鞄を開いた。


 端末に、和真から連絡が来ていた。


『午後の用事に行ってくる。農園の近くに、よさそうな宿もあった。夜に一緒に見よう』


 その下に、宿の案内が一つ添えられていた。


 開くと、窓から木々が見える部屋の写真が出てきた。


 大きすぎない部屋だった。


 窓際に椅子が二つ並んでいる。


 フェンリスは、指を止めた。


 和真も、本当に探してくれていた。


 朝、自分が話したことを覚えて、出かける前に。


 返事を書く欄を開く。


『店長が事故に遭って』


 そこまで打ち、しばらく見つめた。


 これを送れば、和真はすぐに心配する。


 店長のことを聞いて、店の様子を聞いて、それから、旅行は落ち着いてからでいいと言うだろう。


 急がなくていい。


 待っているから。


 そう言ってくれる顔まで、思い浮かんだ。


 フェンリスは目を伏せた。


 和真に、待っていてほしかった。


 次は自分の番だという約束を、そのまま持っていたかった。


 けれど、店長が戻る日さえ、まだ分からない。


 今日の勤務表をどうにか組めても、その先は、また相談しなければならなかった。


 いつまで待ってもらえばいいのか、自分にも答えられなかった。


 画面の文字を、一つずつ消した。


 代わりに、短い返事を打つ。


『ありがとう。用事、気をつけてね』


 送ってから、鞄へしまおうとした。


 けれど、その前に、もう一度だけ宿の写真を開いた。


 窓際の椅子は、二つ並んでいた。


 朝なら、迷わず和真へ言えたはずだった。


 ここ、いいね。


 僕も、ここに泊まりたい。


 フェンリスは端末を伏せた。


 店の方から、商品を尋ねる客の声が聞こえてくる。


 休憩が終わるまで、もう少しだけ時間があった。


 その間に、帰ってから何と言うか、考えなければならなかった。


 朝、一緒に読んだ農園の案内を思い出す。


 果物なら、いつ行っても同じものが採れるわけではない。


 和真の好きな果物が採れる時期に、二人の予定を合わせるのは難しくなった。


 そこまでは、本当のことだった。


 だから、今度は別のことをしたいと思ったのだと、そう言えば。


 新しく楽しみを見つけた顔をすれば、和真は、自分が無理をしているとは思わないかもしれない。


 フェンリスは鞄の口を閉じた。


 ほかにやりたいことなど、まだ一つも思いついていなかった。


酒屋を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 いつもより遅い時間だった。


 店長の妻と同僚へ挨拶をし、裏口を出る。


 閉じた扉の向こうから、まだ片付けを続ける音が聞こえていた。


 フェンリスは、その場で少しだけ立ち止まった。


 朝は、帰ったら和真と旅行の続きを話すつもりだった。


 宿を決めて、農園へ連絡する日も相談して。


 もしかしたら、二人で泊まる部屋のことまで話すのだと思っていた。


 鞄の中には、和真から送られてきた宿の案内が残っている。


 まだ断ったわけではない。


 ただ、少し先へ延ばすだけだ。


 店長が元気になれば、また休みを取れるようになる。


 そう考えようとしても、それがいつになるのかは分からなかった。


「……大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 店の人たちへ見せた笑顔を、もう一度作った。


 皆には、心配をかけない。


 和真にも、待たせていると思わせない。


 フェンリスは鞄を持ち直し、空色唐辛子荘へ向かって歩き出した。


     ◇


 門をくぐると、母屋の窓から明かりが漏れていた。


 夕食には少し遅れている。


 玄関を開ける前に、人の姿を保っていた装置を切った。


 頭に銀色の狼耳が戻り、腰の後ろに大きな尾が現れる。


 力なく下がりかけた尾を見て、フェンリスは慌てて持ち上げた。


「ただいま!」


 いつもより大きな声で玄関を開ける。


 居間から、何人もの返事が重なった。


「おかえり、フェンリス」


 最初に顔を出したのは和真だった。


「遅かったな。店、忙しかったのか?」


「うん。ちょっとね」


「大丈夫か? 疲れてるなら、先に座ってていいぞ」


「平気だよ。これくらい」


 笑って靴を脱ぐ。


 和真の後ろから、みゆが顔を覗かせた。


「おかえり。お腹すいた?」


「すいた。今日のご飯、何?」


「酒菜が作った煮込み。いい匂いするでしょ」


「うん。早く食べたい」


 みゆの視線が、フェンリスの顔から耳へ移った。


 それから、無理に持ち上げている尾を見る。


 何か言われる前に、フェンリスは和真の隣を通り過ぎた。


「手、洗ってくるね」


 洗面所へ向かう背中を、みゆだけが黙って見送っていた。


     ◇


 食卓には、まだフェンリスの分だけ手をつけずに残されていた。


 酒菜が温め直した煮込みを置く。


「冷める前に食え。今日は随分遅かったな」


「ありがとう。お店が忙しかったんだ」


「人手が足りなかったのか?」


「そんな感じ」


 嘘ではなかった。


 フェンリスは匙を取り、少し大きめに口へ運んだ。


「おいしい」


「慌てて食うな。まだある」


「分かってるよ」


 いつもどおりに返す。


 皆は先に食事を始めていたが、まだ席を立つ者はいなかった。


 ピピは食後にもらえるものを期待しているのか、空になった皿の前で待っている。


 ひかげとナディアは、配信へ届いた感想を一緒に見ていた。


 あおいは祭りで使った飾りの話をし、ユエはリディアと受付の予定を確認している。


 朝と変わらない賑やかさだった。


 フェンリスは、それを見て少しだけ息をついた。


 自分が余計なことを言わなければ、いつもどおりでいられる。


「そうだ、フェンリス」


 和真に呼ばれ、匙を持つ手が止まった。


「何?」


「朝に送った宿、見られたか?」


「……うん。見たよ」


「もう一つ、近くによさそうなところがあったんだ。飯を食べ終わったら、一緒に――」


「和真」


 言葉を重ねて止めた。


 思っていたより、強い声が出た。


 皆の話し声が、少しずつ静かになる。


 フェンリスは匙を置いた。


「旅行のことなんだけど、少し先にしたい」


 和真の表情が変わった。


「休み、取れなかったのか?」


「違うよ」


 すぐに否定する。


 用意していた言葉を、頭の中でもう一度並べた。


「休憩中に農園の案内を見直したんだ。朝、和真が写真で気にしてた果物、採れる時期がもう少し先みたいで」


「そうなのか」


「うん。それで、僕が休めそうな日とは合わなかった」


 そこまでは、顔を見て言えた。


「別の果物にしてもいいぞ。俺は何でも――」


「それも考えたよ」


 和真の言葉を、もう一度止める。


「でも、調べてたら、ほかに和真とやりたいことを思いついたんだ」


「ほかに?」


「うん。それが出来るようになるの、まだ少し先なんだって」


 フェンリスは笑った。


 何をするのかと聞かれたら、まだ内緒だと言うつもりだった。


 実際には、何も思いついていない。


「だから、旅行はその頃にしたい。駄目?」


「駄目じゃないよ。フェンリスがそうしたいなら、予定を変えよう」


 和真はすぐに頷いた。


 怒らなかった。


 残念そうな顔も、ほとんど見せなかった。


 きっと、フェンリスが気にしないようにしているのだ。


 その優しさが、今は少しだけ苦しかった。


「ありがとう」


 それでも、笑って答えた。


     ◇


「なら、皆の旅行も少し先へ延ばした方がよいのではないかえ」


 最初にそう言ったのは、あおいだった。


 卓の上には、昨夜から使っている手帳が開かれている。


 フェンリスの名前が、最初に書かれていた。


「そうですね」


 リディアも頷く。


「フェンリスが行けるようになってから、改めて順番を決めればよいと思います」


「私も、待った方がええと思います」


 ひかげが控えめに続けた。


「もともと、次はフェンリスさんの番でしたし」


「僕も待つよ!」


 ピピが翼を持ち上げる。


 ナディアは椅子へ深く座ったまま、フェンリスを見た。


「俺様も急いでいるわけじゃない。お前が先で構わん」


「私もよ」


 ユエが短く言う。


 酒菜も頷いた。


「慌てて行くもんでもねえだろ。店の都合が合うまで待てばいい」


 店、という言葉に、フェンリスの胸が跳ねた。


 酒菜は、単に休日の都合を言っているだけだった。


 フェンリスはすぐに首を振る。


「待たなくていいよ」


 皆の視線が集まった。


「でも――」


「本当にいいんだって」


 ひかげの言葉を止め、わざと明るく笑う。


「僕が和真とやりたいことは、まだ先にならないと出来ないんだ。それまで全員で待ってたら、いつになるか分からないだろ」


「しかしのう……」


「あおいは、和真と出かけたくないの?」


「そのようなわけがなかろう」


「だったら、先に行けばいいじゃないか」


 フェンリスは卓の上の手帳を、自分から皆の方へ押した。


「僕の名前は、いったん外して。残った皆で順番を決めればいい」


「フェンリス」


 和真が低い声で名前を呼んだ。


「無理して譲らなくてもいいんだぞ」


「無理してない」


 答えるのが、少しだけ早くなった。


 みゆの耳が、その一言に反応する。


「朝は、早く決めたいって言ってただろ」


「朝は、ほかにやりたいことを思いついてなかったから」


 フェンリスは和真を見た。


「今は違う。それに、僕だけのせいで、皆まで行けなくなる方が嫌だ」


「けど……」


「僕が行く時は、ちゃんと二人で行ってくれるんだろ?」


「それはもちろん」


「なら、それでいいよ」


 和真が口を閉じた。


 フェンリスは、さらに笑ってみせる。


「皆がどこへ行くのか、聞くのも楽しそうだし。写真も見せてもらうからね」


「たくさん撮る!」


 ピピが答えた。


「僕が行ったところ、全部見せる!」


「うん。楽しみにしてる」


 すぐに返せた。


 声も、震えなかった。


 和真はまだ納得しきれていない顔だったが、それ以上は言わなかった。


 ほかの皆も、少しずつ手帳へ目を戻す。


 みゆだけは、フェンリスから目を離さなかった。


     ◇


 リディアが手帳を自分の前へ引き寄せた。


「では、フェンリスを除いた六人で順番を決めますか?」


「待って」


 和真が皆を見回した。


「先に、どれくらい間を空けるか決めよう。続けて毎週は無理だぞ」


「どうして?」


 ピピが首を傾げた。


「カズマは、いつでも旅行に行けるんじゃないの?」


「いつでもは無理だよ。俺にも仕事があるから」


「カズマ、お仕事してるの?」


 ピピが目を丸くした。


 その声に、今度はほかの者たちが和真を見る。


「してるよ」


「いつ?」


「昼間。毎日決まった場所へ行くわけじゃないけど」


「何のお仕事?」


「近所の人から頼まれたことを手伝う、何でも屋みたいなものかな」


 居間が静かになった。


 フェンリスも、今朝の電話を思い出す。


 棚を下ろしてほしいと頼まれていた。


 和真は、用事としか言わなかった。


 それが仕事だったのだ。


「和真、そんな仕事してたの?」


「うん。言ってなかったっけ?」


「聞いてないよ」


 フェンリスが答えると、皆もそれぞれ首を横へ振った。


 みゆだけは、驚いていなかった。


「僕は知ってたけどね」


 そう言って、少しだけ手を上げる。


「何でみゆだけ知ってるの?」


「前に和真へ連絡が来た時、近くにいたから。その時に聞いたんだよ」


「別に、隠してたわけじゃないんだけどな」


 和真は困ったように頬をかいた。


「最初は、近所の人に少し手を貸すくらいだったんだ。家具を動かしたり、庭を片付けたり。頼まれたことが出来そうなら引き受けてる」


「それで、お金をもらうの?」


 ピピが尋ねる。


「仕事だからな」


「何でも出来るの?」


「出来ないことは断るよ」


「ご飯も作る?」


「それは断る」


 和真が迷わず答えた。


 酒菜が鼻で笑う。


「そこだけは正しい判断だな」


「自分でも分かってるよ」


 張っていた空気が少し緩んだ。


 ピピはまだ納得していないのか、もう一度首を傾げる。


「でも、何でも屋なのに、ご飯は出来ないの?」


「何でも出来る人って意味じゃないんだ」


「何でも屋なのに?」


「名前がややこしいよな」


「僕、歌なら出来るよ!」


「それはピピの仕事だろ」


「うん!」


 満足したのか、ピピは笑った。


 リディアは少し考えてから、和真へ尋ねる。


「以前から続けていたのですか?」


「フェンリスが来た頃には始めてたよ。でも、その頃はまだ、ほとんど依頼がなかったんだ」


 フェンリスは和真を見た。


 自分がここへ来たばかりの頃、和真はいつも敷地の中にいた。


 買い物へ連れていき、生活に必要なことを教え、分からないことがあれば何度でも手を止めてくれた。


 その合間に、自分の仕事までしていたとは思わなかった。


「最近は、前に頼んでくれた人が、ほかの人を紹介してくれるようになってさ。少しずつ増えてる」


「なら、なおさら先に予定を決める必要がありますね」


 ユエが言った。


「六人分を曖昧なまま並べても、あなたの仕事と重なるでしょう」


「そうなんだ。急に連絡が来ることもあるけど、旅行の日を先に決めておけば、その日は引き受けないように出来る」


「休む日も必要です」


 リディアが続ける。


「皆さんとの旅行に加えて、普段のお仕事まで増えているのでしたら、毎週出かけるのは避けた方がよいでしょう」


「そうだな」


 酒菜が腕を組んだ。


「旅行から帰った次の日に、重いもんを運ぶなんて言い出しかねねえ。間は空けろ」


「そこまで無茶はしないよ」


「信用できると思うか?」


「……気をつけます」


 和真が言い直すと、酒菜はそれで納得したように頷いた。


「二週間くらい空けたらどう?」


 みゆが提案した。


「帰ってきた後に休めるし、次の人も準備する時間がある。和真も、その間の仕事を調整できるでしょ」


「それくらいなら、何とかなると思う」


 和真は手帳へ目を落とした。


「ただ、全員が必ず二週間後に行けるとは限らないから、その時は前後させよう」


「問題ありません」


 リディアが新しい頁を開く。


 旅行の間隔として、二週間と書き込んだ。


 その字を見て、フェンリスは指を折った。


 六人が二週間ずつ。


 最後まで進むには、それだけで何か月もかかる。


 店長が戻る時期は分からない。


 それでも、その間に状況が変わるかもしれなかった。


 皆の旅行が終わる頃なら、自分も行けるようになっているかもしれない。


「それでいいよ」


 フェンリスは、自分から頷いた。


「二週間ずつなら、僕の番が後になっても困らないから」


 みゆの目が、またフェンリスへ向いた。


     ◇


 順番は、くじで決めることになった。


 リディアが同じ大きさに切った紙へ、六人の名前を書く。


 それぞれを小さく折り、空になった菓子箱へ入れた。


「和真が引くのじゃな?」


 あおいが尋ねる。


「俺が?」


「誰が先に行くかを決めるくじじゃ。共に行く和真が引くのが公平であろう」


「自分で引きたい!」


 ピピが翼を上げた。


「自分の名前を引いたら、順番が分からなくなるだろ」


「一番ってことじゃないの?」


「違う。引かれた順番だよ」


「じゃあ、カズマが引いて!」


 理解するのが早いのか諦めるのが早いのか、ピピはすぐに箱を和真の前へ押した。


 和真は皆を見回した。


「本当に、これで決めるんだな?」


「構わん。誰が先でも、俺様は俺様の旅行を楽しむだけだ」


 ナディアが答える。


 ユエも静かに頷いた。


「後から不満を言う者がいないなら、公平でしょう」


「俺もそれでいい」


 酒菜は気楽そうに椅子へ背を預けた。 


 ひかげとあおいも同意する。


 和真は箱の中へ手を入れた。


 最初の紙を一枚取る。


 折り目を開き、書かれている名前を読んだ。


「あおい」


 あおいの耳が、ぴんと立った。


「わらわか!」


 隣にいたピピが翼を広げる。


「あおい、一番!」


「うむ。何やら緊張するのう」


 言いながらも、顔は嬉しそうだった。


 リディアが手帳の最初へ、あおいの名前を書く。


 二枚目を引く。


「ひかげ」


「わ、私ですか」


 ひかげは小さく肩を揺らした。


「何も決めてへんのに、急に緊張してきました……」


「今から考えればいいよ」


 和真が言うと、ひかげは頬を赤くしながら頷いた。


 三枚目。


「ピピ」


「僕!」


 椅子から立ち上がりかけ、広げた翼が隣のナディアへ当たる。


「落ち着け。まだ今日出発するわけじゃない」


「どこ行こう!」


「だから、順番を決めただけだ」


 ナディアに肩を押さえられ、ピピはようやく座り直した。


 四枚目は、ナディアだった。


「俺様か。悪くない順番だ」


「どの順番でも同じこと言いそうだね」


 みゆが笑う。


「当然だ。俺様が行けば、何番目だろうと最高の旅になる」


 迷いのない返事に、和真は苦笑した。


 五枚目を開く。


「ユエ」


「分かったわ」


 ユエは騒がず、手帳へ書かれた自分の名前を確認した。


「最後が酒菜ね」


「くじを開く前に言うなよ」


「残り一枚でしょう」


「分かってても、一応引け」


 和真が最後の紙を開く。


 そこには、酒菜の名前が書かれていた。


「酒菜で決まりだな」


「ああ。最後なら、ほかの連中の話を聞いてから決められる。俺にはちょうどいい」


 リディアが、六人の名前を順番に書き直した。


 あおい。


 ひかげ。


 ピピ。


 ナディア。


 ユエ。


 酒菜。


 名前の横には、二週間ずつ間を空けるという印がついている。


 その下に、フェンリスの名前はなかった。


「フェンリスの欄も、最後に作っておこうか」


 和真が尋ねる。


「まだいいよ」


 フェンリスはすぐに答えた。


「僕のは、やりたいことが出来る時期が分かってからでいい」


「でも、名前だけでも――」


「大丈夫だって」


 笑って、手帳を閉じた。


 これ以上、自分の名前がない頁を見たくなかった。


「ほら、もう遅いよ。明日の予定がある人もいるだろ」


 自分から立ち上がり、食べ終えた器を重ねる。


「僕、これを台所へ持っていくね」


「置いとけ。俺が片付ける」


 酒菜が言ったが、フェンリスは首を振った。


「これくらいやるよ。ご飯、待っててくれたんだから」


 器を持ち、台所へ向かう。


 誰にも顔を見られない場所まで来て、ようやく笑うのをやめた。


 重ねた皿が、小さく触れ合う。


 手に力が入りすぎていることに気づき、慌てて持ち直した。


 居間からは、あおいが和真に行きたい場所を尋ねる声が聞こえる。


 ピピはもう、自分の旅行で食べたいものを挙げていた。


 楽しそうな声だった。


 自分が、先に行っていいと言ったのだ。


 皆が楽しそうにしているなら、それでいい。


 フェンリスは水を出し、器についた汚れを流した。


「フェンリス」


 すぐ後ろから声がして、肩が跳ねた。


 振り返ると、みゆが入口に立っていた。


「何?」


「僕も手伝う」


「これくらい、一人で出来るよ」


「知ってる。でも、僕もやる」


 みゆは返事を待たず、隣へ来た。


 洗い終えた器を受け取り、布巾で水気を拭いていく。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 居間から聞こえる声と、水の音だけが続く。


「……何?」


 耐えられず、フェンリスから尋ねた。


「さっきから、僕のこと見てるだろ」


「見てたよ」


 みゆは否定しなかった。


「フェンリス、分かりやすいから」


「何が?」


「それを、今ここで聞いたら困る?」


 フェンリスの手が止まった。


 水に濡れた器を、もう一度強く握りそうになる。


「……別に。何も困らないよ」


「そっか」


 みゆは、それ以上聞かなかった。


 拭き終えた器を棚へ置く。


「じゃあ、後で部屋に行くね」


「何で?」


「今ここで聞かないため」


 みゆは小さく笑った。


 その笑い方には、いつものからかう色がなかった。


 フェンリスは何も返せなかった。


 みゆは最後の器を受け取ると、丁寧に水気を拭いた。


 居間では、まだ旅行の話が続いていた。


 フェンリスは蛇口を閉めた。


 急に静かになった台所で、自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。


自分の部屋へ戻ってからも、フェンリスは落ち着かなかった。


 上着を脱ぎ、鞄を机の横へ置く。


 いつもなら、そのまま風呂の準備をするところだった。


 今日は何度も玄関の扉を見てしまう。


 みゆが来ると言った時間は決まっていない。


 ただ、後で行くと言っただけだ。


「……別に、来なくてもいいのに」


 呟きながら、部屋を見回す。


 脱いだ服を籠へ入れ、机の上に置いたままだった小物を端へ寄せた。


 人を迎える準備をしている自分に気づき、手を止める。


「何やってるんだろ、僕」


 みゆには、何も話さない。


 店が忙しかっただけだと言えばいい。


 旅行についても、皆へ話したとおりだったと言い通せばいい。


 果物の時期が合わなかった。


 ほかに和真とやりたいことを見つけた。


 だから、旅行を少し先へ延ばした。


 何度も頭の中で繰り返した言葉だった。


 それなのに、みゆを前にして、同じように言える自信がなかった。


 フェンリスはベッドの端へ腰を下ろした。


 机の上に置いた端末へ手を伸ばす。


 画面を開くと、和真から送られてきた宿が表示された。


 窓際に並んだ二つの椅子。


 朝に見た時と、何も変わっていない。


 指で画面を動かすと、その下には食事や風呂の写真が続いていた。


 どれも、和真と一緒に見たかった。


 一人で眺めていると、胸の奥が痛くなった。


 画面を消そうとした時、玄関の扉が叩かれた。


 フェンリスの耳が跳ねる。


「……フェンリス。僕」


 みゆの声だった。


「開いてるよ」


 返事をした後で、端末を伏せる。


 扉が開き、みゆが部屋へ入ってきた。


 猫耳と二本の尾を隠していない、いつもの姿だった。


「お邪魔します」


「今さら言う?」


「一応ね」


 みゆは扉を閉め、靴を脱いだ。


 そのままベッドの近くまで来る。


 フェンリスが見上げても、すぐには何も聞かなかった。


「座れば?」


「うん」


 少し間を空け、隣へ腰を下ろす。


 ベッドがわずかに沈んだ。


 静かになった部屋の中で、外を通る風の音が聞こえる。


 フェンリスは、みゆが話し始めるのを待った。


 だが、みゆは何も言わない。


「……何しに来たの?」


「フェンリスが話すのを待ってる」


「話すことなんてないよ」


「じゃあ、僕から聞いていい?」


「さっきも聞いたじゃないか」


「まだ何も聞いてないよ」


 返され、フェンリスは口を閉じた。


 台所でも、みゆは何があったのか尋ねなかった。


 ただ、後で部屋へ行くと言っただけだった。


「今日、お店で何があったの?」


 まっすぐに聞かれた。


「何もないよ。忙しかっただけ」


「ふうん」


「本当に、それだけだから」


「じゃあ、どうして朝はあんなに楽しそうだったのに、帰ってきたら旅行へ行きたくなくなったの?」


「行きたくなくなったなんて言ってない」


「言ってないね」


 みゆは静かに頷いた。


「でも、行きたい顔じゃなくなってた」


「果物の時期が合わなかったからだよ。それに、ほかにやりたいことが――」


「何をしたいの?」


 フェンリスの言葉が止まった。


「それは……まだ、内緒」


「思いついてないんでしょ」


「思いついてるよ」


「じゃあ、僕には教えて。和真には言わないから」


「どうして、みゆに教えなきゃいけないんだよ」


 声が少し強くなった。


 みゆは怒らなかった。


 からかうこともなく、フェンリスを見ている。


「僕なら、フェンリスが本当に楽しみにしてることを、そんな顔で話さないって知ってるから」


「どんな顔だよ」


「泣くのを我慢してる顔」


「我慢なんてしてない」


「そっか」


 また、同じ返事だった。


 否定しても、みゆは追い詰めてこない。


 それが、かえって苦しかった。


「それなら、僕の勘違いだね」


 みゆは立ち上がった。


「今日はもう休んだ方がいいよ。お店、忙しかったみたいだし」


 玄関へ向かって歩き出す。


 フェンリスは、その背中を見た。


 このまま帰してしまえば、誰にも知られずに済む。


 明日からも、いつもどおりに振る舞えばいい。


 皆が旅行へ行くたびに笑って送り出し、帰ってきたら話を聞く。


 店長が戻るまで、何も言わずに待てばいい。


 そうすれば、誰にも迷惑をかけない。


 みゆが扉へ手を伸ばした。


「……待って」


 声が出ていた。


 みゆの手が止まる。


 振り返った顔を見た途端、フェンリスは視線を落とした。


「帰らないで」


 みゆは何も言わず、扉から手を離した。


 ゆっくり戻ってくる。


 フェンリスの前に立ったが、隣へ座ろうとはしなかった。


 言葉を待っている。


「……店長が、事故に遭ったんだ」


 ようやく口にした。


 みゆの表情が変わる。


「事故?」


「命に別状はないって。でも、しばらく入院する。戻ってきても、すぐには今までみたいに働けないって」


「それで、フェンリスが代わりに出るの?」


「僕だけじゃないよ。皆で店を回すんだ。でも、人が足りないから、しばらく続けて休むのは難しい」


 話し始めると、昼間に聞いた言葉が次々に出てきた。


 店長の妻が病院へ通わなければならないこと。


 配達の予定を組み直していること。


 いつ元どおりになるか、誰にも分からないこと。


 みゆは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「だから、旅行へ行けなくなったんだね」


「行けなくなったわけじゃない」


 反射的に否定した。


「少し先になっただけだよ」


「うん」


「休みが取れるようになれば、行ける。店長が戻ってくれば、今までみたいになるんだから」


「うん」


「だから、皆に話す必要はないだろ。心配させるだけだし」


「和真にも?」


 その名前を出され、言葉が詰まった。


「和真に言ったら、待つって言うよ」


「たぶん、言うね」


「皆だって、さっきそう言った。僕が行けるまで待つって」


 フェンリスは膝の上で手を握った。


「いつ行けるかも分からないのに、そんなの嫌だよ。僕のせいで、皆が和真と出かけられなくなるなんて」


「フェンリスのせいじゃないよ」


「でも、僕を待ったら同じだろ」


 声が、少しずつ大きくなる。


「あおいも、ひかげも、ピピも、皆楽しみにしてた。ナディアも、ユエも、酒菜も。僕が先だったからって、全員を待たせる理由にはならないよ」


「だから、自分が我慢することにしたの?」


「我慢じゃない」


「フェンリス」


「我慢じゃないって!」


 強く言い返した途端、声が震えた。


 フェンリスは顔を背ける。


 みゆに見られたくなかった。


「僕が決めたんだ。皆に先に行ってもらうって。ちゃんと自分で決めた」


「うん」


「果物狩りだって、いつでも出来る。和真だって待ってくれる」


「うん」


「だから、平気なんだ」


 最後の言葉だけ、うまく声にならなかった。


 みゆは、何も言わなかった。


 フェンリスの手へ、自分の手を重ねる。


 その温かさに触れた瞬間、握っていた指から力が抜けた。


「……みゆは、行けたじゃないか」


 気づけば、そんな言葉が出ていた。


 みゆの指が、わずかに動く。


「温泉に行って、和真と二人で泊まって。一緒に歩いて、手をつないで」


 止めようとしても、止まらなかった。


「和真に、自分の気持ちも話せた」


「うん」


「ナディアだって、もう伝えてる」


 フェンリスは俯いた。


「僕は、一番長くここにいるのに」


 その言葉を口にした途端、自分がひどく嫌になった。


「……ごめん。今のは違う」


「違わないよ」


「違う。先にいたからって、僕が先に言えるわけじゃない。みゆが悪いわけでも、ナディアが悪いわけでもない」


「分かってる」


「本当に、ごめん」


「謝らなくていいよ」


 みゆは手を離さなかった。わ


「僕は旅行へ行けた。和真に話すことも出来た。だから、フェンリスが悔しいって思うのは当たり前じゃん」


「悔しいなんて……」


「思ってない?」


 否定しようとした。


 だが、言葉が出なかった。


 胸の中にあったものを認めれば、全部崩れてしまいそうだった。


 フェンリスは唇を噛んだ。


 みゆの手を握り返す。


 それでも足りず、立ち上がった。


 次の瞬間には、みゆの身体を抱きしめていた。


「……フェンリス?」


 両腕に力を込める。


 みゆの肩へ顔を伏せた。


 最初の涙が頬を伝った。


「本当は、行きたい」


 掠れた声が漏れた。


「うん」


「すぐに、和真と旅行へ行きたい」


「うん」


「果物狩りもしたい。一緒に選んで、採って、食べたい」


 みゆの服をつかむ指に力が入る。


「同じ部屋に泊まりたい。夜になっても帰らなくていいところで、ずっと二人でいたい」


 一度こぼれた言葉は、もう止められなかった。


「僕だって、和真と手をつなぎたい。朝までそばにいたい」


 みゆの肩が、涙で濡れていく。


 それでも、みゆは離れなかった。


 フェンリスの背へ腕を回し、ゆっくり撫でる。


「それだけじゃない」


 フェンリスは、みゆの肩へ顔を押しつけたまま続けた。


「僕も、和真に言いたい」


「好きって?」


 小さく頷く。


「早く伝えたい」


 とうとう、声を抑えられなくなった。


「ずっと好きだったって言いたい。これからも、ずっとそばにいたいって……ちゃんと和真の顔を見て言いたい」


 肩を震わせながら、みゆをさらに強く抱きしめた。


「僕だけ、何も言えてない」


「言えないまま、皆が和真と旅行へ行くのを見るのが怖い?」


「……うん」


「置いていかれるみたいで?」


 また、頷いた。


「分かってるんだ。和真は、僕との約束を忘れたりしない。皆が旅行へ行ったからって、僕を嫌いになるわけじゃない」


「うん」


「分かってるのに……嫌なんだよ」


 涙が止まらなかった。


「僕も行きたい。僕も伝えたい。待ちたくない」


 誰にも言えなかった本音だった。


 皆の前で笑っている間、何度も飲み込んだ言葉だった。


 みゆは、背中を撫で続けた。


「我慢しなくていいよ」


「でも、僕が我慢しないと……」


「旅行を譲ったことじゃなくて、泣くのを我慢しなくていいってこと」


 みゆの声は、いつもよりずっと優しかった。


「今は僕しかいないから。悔しいことも、寂しいことも、全部言っていいよ」


「みゆに言ったら、困るだろ」


「少しは困るかも」


 正直な返事に、泣きながら顔を上げた。


 みゆは困ったように笑っていた。


「僕も和真が好きだからね。フェンリスを応援するだけっていうのは、たぶん無理」


「……じゃあ、何で」


「フェンリスが泣いてるのを放っておくのは、もっと無理だから」


 みゆは親指で、フェンリスの頬を流れる涙を拭った。


「僕たち、和真のことで譲れないところはあるけど、一緒に暮らしてる仲間でもあるでしょ」


「……うん」


「それに、僕はフェンリスに本音を聞いてもらったから」


 以前、みゆが自分の気持ちを話した夜を思い出した。


 あの時、自分も最後まで聞いた。


 受け入れられないところがあっても、途中で逃げずに聞いた。


「今度は、僕が聞く番」


 みゆはそう言って、もう一度フェンリスの背中へ手を回した。


「だから、もう少しこのままでいていいよ」


 フェンリスは答えず、みゆの肩へ顔を戻した。


 声を抑えることもやめた。


 みゆの服をつかみ、子供のように泣いた。


     ◇


 しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。


 フェンリスはみゆから離れ、目元を手の甲で拭った。


「……服、濡らした」


「洗えばいいよ」


「ごめん」


「だから、謝らなくていいって」


 みゆは隣へ座り直した。


 フェンリスもベッドへ腰を下ろす。


 泣いた後の顔を見られるのが恥ずかしくて、俯いたままになった。


「皆には、言わないで」


「店長のこと?」


「うん。和真にも」


「本当に?」


「今は、まだ」


 みゆはすぐには返事をしなかった。


「言った方がいいって思ってる?」


「思ってるよ」


 はっきり答えた。


「和真なら、待つだけじゃなくて、どうしたら行けるか一緒に考えると思うから」


「それが嫌なんだ」


「どうして?」


「僕のために、何かを変えてほしくない。店の人たちにも迷惑をかけたくないし、皆の旅行を止めたくもない」


 フェンリスは自分の膝を見た。


「今は、僕が店に出るのが一番いいんだよ」


「そっか」


 みゆは少し考えた。


「じゃあ、僕からは言わない」


 フェンリスが顔を上げる。


「本当?」


「うん。でも、条件がある」


「何?」


「ずっと一人で我慢しないこと」


 みゆは、フェンリスの胸元を指で軽く突いた。


「苦しくなったら僕に言う。休めなくなったり、店で無理を頼まれたりしたら、ちゃんと皆にも話す。それが条件」


「店の人は、無理に働かせたりしないよ」


「フェンリスが自分から無理するかもしれないでしょ」


 否定しようとして、やめた。


 今日も、出来るだけ合わせると自分から言ったばかりだった。


「……分かった」


「本当に?」


「うん。約束する」


「なら、今は黙ってる」


 みゆは小指を差し出した。


 フェンリスは少し迷ってから、自分の小指を絡める。


「子供みたい」


「破られたくない約束だからね」


「破らないよ」


 指を離すと、みゆは机の上の端末を見た。


「宿、見てたの?」


「……うん」


「消す?」


「消さない」


 今度は、迷わず答えた。


「行けるようになった時、もう一度見たいから」


「そっか」


 みゆは端末を手に取り、画面を開いた。


 窓際に二つの椅子が並んだ部屋を見て、少し笑う。


「いいところじゃん」


「でしょ?」


 フェンリスも、少しだけ笑えた。


「和真が見つけてくれたんだ」


「ちゃんとフェンリスとの旅行、楽しみにしてるんだね」


「……うん」


 それが分かっているから、余計に行きたかった。


 だが、先ほどまでのように、胸が押し潰されるほどではなかった。


「みゆ」


「何?」


「和真は、待ってくれると思う?」


「待つよ」


 迷いのない返事だった。


「皆と旅行へ行っても?」


「それとこれとは別でしょ。和真は、フェンリスと行くって約束したんだから」


「でも、ずっと先になるかもしれない」


「だったら、少し先の約束になるだけだよ」


 みゆは端末をフェンリスへ返した。


「なくなるわけじゃない」


 フェンリスは、画面の中の二つの椅子を見た。


 今すぐ、そこへ座ることは出来ない。


 それでも、和真と行く約束まで消えたわけではなかった。


「……そっか」


「うん」


「少し先になっただけなんだ」


「そういうこと」


 フェンリスは端末を胸元へ抱えた。


 みゆが立ち上がる。


「今日は、もう寝た方がいいよ。目、腫れるかもしれないけど」


「誰のせいだよ」


「僕は泣かせてないでしょ」


「帰ろうとした」


「止めたのはフェンリスじゃん」


 いつもの調子で返される。


 それが少し嬉しかった。


 みゆが玄関へ向かう。


 今度は、引き止めなかった。


 扉を開ける前に、みゆが振り返る。


「おやすみ、フェンリス」


「おやすみ」


「無理しないでね」


「分かってる」


 みゆはまだ何か言いたそうな顔をしたが、最後には笑って扉を閉めた。


     ◇


 部屋を出ると、夜の空気が頬に触れた。


 みゆは自分の部屋へ向かいかけ、母屋の方を見た。


 居間の明かりは、まだ消えていない。


 皆はもう戻ったはずだが、和真だけは起きているらしい。


 フェンリスとの約束を守るなら、店長のことを伝えるわけにはいかなかった。


 それでも、このまま何も言わずに部屋へ戻る気にはなれなかった。


 みゆは少し迷い、母屋へ向かった。


 縁側の戸を軽く叩く。


「和真、起きてる?」


 すぐに戸が開いた。


「みゆ? どうしたんだ」


「フェンリスのところに行ってた」


「……旅行のことで?」


「うん」


 和真は庭へ出て、後ろ手に戸を閉めた。


「何かあったのか?」


「僕からは言えない」


「言えない?」


「フェンリスと約束したから」


 和真の眉が寄る。


「それ、大丈夫なのか?」


「今すぐ、和真がどうにかしなきゃいけないことじゃないよ」


 嘘にならないよう、言葉を選んだ。


「でも、フェンリスが旅行を楽しみにしてなかったわけじゃない。それだけは分かってて」


「……やっぱり、何か隠してるのか」


「本人が話せるようになるまで、待ってあげて」


 和真はすぐには返事をしなかった。


 フェンリスの部屋がある方へ目を向ける。


「俺に出来ることは?」


「約束を忘れないこと」


「忘れるわけないだろ」


「なら、大丈夫」


 みゆは笑った。


「今は、それだけでいいと思う」


 和真は納得しきれない顔をしていた。


 それでも、無理に聞き出そうとはしなかった。


「分かった。フェンリスが話してくれるまで待つよ」


「うん」


「みゆも、何かあったら教えてくれ」


「約束を破らない範囲ならね」


 みゆは手を振り、自分の部屋へ向かった。


 和真はしばらく庭に残り、フェンリスの部屋の明かりを見ていた。


     ◇


 フェンリスは、まだ眠っていなかった。


 机の上には、朝から使っていた端末が置かれている。


 農園の案内と、和真が見つけた宿。


 どちらも消さずに残してあった。


 旅行へ行ける日が来たら、もう一度、最初から二人で選ぶ。


 その時は、今度こそ隠さずに言う。


 果物狩りへ行きたいこと。


 同じ部屋に泊まりたいこと。


 そして、ずっと言えずにいた気持ちも。


「……好きって、言うんだ」


 小さく口にする。


 まだ胸は痛かった。


 明日になれば、また店へ行かなければならない。


 皆の旅行が決まるたびに、寂しくなることもあるだろう。


 それでも、約束はなくなっていない。


 少し先へ延びただけだった。


 フェンリスは宿の案内を閉じ、端末を枕元へ置いた。


 明かりを消し、布団へ入る。


 目を閉じると、朝に和真と見た果樹園の写真が浮かんだ。


 二人で籠を持ち、甘い果物を探す。


 その先の景色を、今度は無理に消そうとはしなかった。


 いつになるのかは、まだ分からない。


 けれど、その日が来たら、今日言えなかった言葉まで、全部伝える。


 そう胸の中で決めると、少しだけ呼吸が楽になった。


 静かな部屋で、フェンリスの尾が布団の上をゆっくり動く。


 やがて、その動きも止まった。


 少し先に待つ約束を思いながら、フェンリスはようやく眠りについた。

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