第二十九話 少し先の約束
朝食の片付けが終わるのを、フェンリスは待っていた。
いつもなら食器を運んだ後、そのまま台所で二言三言しゃべっていく。今日は最後の皿を酒菜へ渡すと、すぐに居間へ戻ってきた。
卓には、昨夜の手帳が置かれている。
和真がそれを開くより先に、隣へ腰を下ろした。
「和真、今、いい?」
「うん。店に行くまで、まだ時間あるのか?」
「今日は少し遅いから。それより、昨日の話」
手帳の端を指で押さえる。
七人分の名前が並んだ頁の、一番上だった。
「忘れてないよ」
「まだ、忘れたかどうかは聞いてない」
「昨日、何回も念を押されたからな」
フェンリスは少しだけ頬を膨らませた。
しかし、和真が頁を開いてペンを手に取ると、すぐにその手元へ目を向けた。
「休み、今日聞いてくる。続けて二日、取れそうなところがあるか」
「分かった。俺の方も予定を確認しておくよ」
「だから、その前に、どこへ行くか少し考えておきたいんだ」
フェンリスは端末を出した。
画面には、果樹園の案内が映っていた。
枝に実った梨や、棚から下がるぶどう。その下には、籠を持って笑う人たちの写真が並んでいる。
「果物狩り?」
「うん。これ、和真とやってみたい」
和真は画面を覗き込んだ。
「自分で採って、その場で食べられるのか」
「そう。持って帰れるところもあるみたい」
フェンリスは指を滑らせ、別の農園の案内も見せた。
まだ行き先を一つに決めたわけではないらしい。いくつか見つけた頁を、順番に開いている。
「結構、調べたんだな」
「……ちょっとだけ」
その返事の間にも、別の写真が出てきた。
ちょっとだけ、という数ではなかった。
和真は笑い、もう一度最初の案内を見せてもらった。
「こういうの、好きだったのか?」
「和真が、果物好きでしょ」
問い返すように言ってから、フェンリスは少し照れた。
「だから、一緒に行ったら楽しいかなって。お店で買うのとは、違うじゃん」
和真が顔を上げた。
フェンリスは画面へ目を落としたまま、続ける。
「自分で選んで、採って。おいしいのが見つかったら、二人で食べられるし」
「俺に合わせて、探してくれたのか」
「僕だって、食べたいよ」
少し早口になった。
「ただ、せっかく一緒に行くんだから、和真にも楽しんでほしいんだ」
最後まで言うと、隣を見るのが恥ずかしくなった。
昨夜、端末を眺めている間は、もっと簡単に言えると思っていた。
果物が好きな和真なら、喜んでくれる。
そう考えて探しただけだったのに、本人を前にすると、妙に胸が落ち着かない。
「ありがとう。行ってみたいね」
和真の声に、フェンリスは顔を上げた。
「本当?」
「うん。どれがおいしそうか探すのも、楽しそうだな」
「じゃあ、果物狩りでいい?」
「いいよ。どこにするか、一緒に見よう」
フェンリスは嬉しそうに頷いた。
端末を二人の間へ置くために、少しだけ近づく。
肩が和真の腕へ触れたが、離れなかった。
◇
「これ、全部同じところ?」
フェンリスが尋ねると、和真は案内の下へ画面を動かした。
「農園は同じだけど、採れるものは時期で変わるみたいだぞ」
「一度に全部じゃないんだ」
「そうらしい。写真だけ見て決めると、行った日にないかもしれないな」
フェンリスは説明を読み直した。
昨夜は、どんなところなのかを見るのに夢中だった。
写真の下にある細かな案内までは、きちんと確かめていない。
「じゃあ、休みが分かったら、そこも聞いた方がいいね」
「予約が必要なところもあるだろうしな」
「和真が食べたいの、ちゃんと採れるところにしたい」
まっすぐ言うと、和真は少し照れたように笑った。
「フェンリスの食べたいものも選んでくれよ」
「僕は、おいしければいい」
「範囲が広いな」
「でも、和真がおいしいって言うのは、食べたい」
「じゃあ、見つけたら教えるよ」
「僕が先に見つけるかもしれないだろ」
「その時は、俺にも教えて」
「うん。ちゃんと残しておく」
和真が笑った。
フェンリスもつられて笑い、次の写真を開く。
果樹の間に、小さな休憩場所があった。
二人で採ったものを並べて、どちらが甘いか食べ比べる。
和真が気に入ったものを、帰りに少し買っていく。
まだ農園も決まっていないのに、そこで過ごす時間ばかりが、次々と思い浮かんだ。
「もう、食べたそうな顔してる」
声がして振り向くと、みゆが畳んだ布巾を持って立っていた。
「僕だけじゃないよ。和真も」
「うん。二人とも」
みゆは卓へ布巾を置き、画面を覗いた。
「果物狩りにするんだ?」
「そのつもり。今、場所を探してる」
「いいね。和真、好きだもんね」
フェンリスは小さく頷いた。
みゆは、それ以上口を挟まず、台所へ戻ろうとした。
「……みゆ」
「何?」
「お土産、採ってきた果物でもいい?」
尋ねると、みゆは目を細めた。
「早くない? まだ場所も決まってないんでしょ」
「先に聞いておこうと思っただけだよ」
「嬉しいよ。楽しみにしてる」
みゆは笑い、今度こそ台所へ入っていった。
昨日までは、みゆが和真とどこで何をしているのか、気になって仕方がなかった。
今は、自分が和真と行く場所を探している。
フェンリスは画面へ目を戻した。
「ここ、近くに泊まるところもあるみたい」
「本当だ。日帰りを急がなくていいのは、助かるな」
その返事に、また嬉しくなった。
和真はちゃんと、一泊するつもりで考えてくれていた。
◇
候補を二つまで絞った頃、和真の端末が震えた。
「ごめん。ちょっといいか」
「うん」
和真は画面を見てから、通話に出た。
「はい、四ノ宮です。……ああ、おはようございます」
声を聞いた途端、誰からか分かったらしい。
フェンリスは端末を自分の方へ引き寄せ、宿の写真を眺めて待った。
「午後なら伺えます。重いものは、そのままにしておいてください。……二階からですね。分かりました」
和真が手帳の別の頁を開いた。
時刻と、短い言葉を書きつける。
「前と同じところで。はい。では、二時頃に」
電話を終えると、フェンリスが顔を上げた。
「どうしたの?何か、運ぶの?」
「棚を下ろしてほしいんだって。部屋の使い方を変えるらしくて」
「僕も手伝おうか? お店に行く前なら」
「午後だから、時間が合わないだろ。大丈夫だよ」
和真は端末で場所を確認し、時刻と一緒に手帳へ書き足した。
それから、何事もなかったように旅行の頁へ戻る。
「フェンリスの休みが分かったら、俺の予定とも合わせよう」
「今日の用事みたいなのが入っても、大丈夫?」
「先に旅行の日を決めておけば、その日は空けておくよ」
和真はペンを置き、フェンリスに向き直った。
「休みが取れそうな日を、いくつか聞いてきてくれればいい。その中から、俺も空けられる日を選ぶから」
フェンリスは小さく頷いた。
当たり前のように、和真は二人で行くつもりで話していた。
それが嬉しかった。
自分だけが張り切っているわけではないのだと、少し安心できた。
「じゃあ、今日聞いてくる」
「うん。店の都合もあるだろうから、急がせなくていいぞ」
「分かってる。でも、早く決めたいんだ」
今度は、隠さずに言えた。
フェンリスは候補に残した農園を、もう一度和真へ見せた。
「どっちも、車で行けそう?」
「行けるよ。こっちの方が少し遠いけど、途中で休めば大丈夫だと思う」
「じゃあ、帰る日に果物狩りをしてもいいんだね」
「そうだな。初日にするか、二日目にするかは、予約と宿の場所で考えよう」
和真は手帳に、二つの農園の名前を書きつけた。
フェンリスが覗き込むと、その下には、採れる果物と日程を確認することも書いてある。
「僕、それも聞いておくよ」
「先に休みを相談してからでいいだろ。日にちが分からないと、農園の人も答えにくいだろうし」
「……そうだね」
早く決めたくて、順番を飛ばしそうになっていた。
フェンリスは小さく笑い、端末へ目を戻す。
「和真は、ほかに行きたいところある?」
「せっかくだし、近くを少し歩いてみたいな」
「僕も。果物を食べて、それから散歩するのもいいね」
「食べすぎて動けなくなるなよ」
「ならないよ!」
言い返すと、和真が笑った。
自分でも、少し張り切りすぎていると思った。
でも、二人で話していると、やってみたいことが増えてしまう。
農園へ行く道の途中にも、寄れそうな場所があった。
近くの宿には、ゆっくり過ごせそうな部屋の写真が載っている。
「泊まるところは、高すぎるところじゃなくていいよ」
「うん。そこも、一緒に見よう。日にちで値段が変わるだろうし」
「それと……」
続けかけて、フェンリスは口を閉じた。
和真が顔を上げる。
「何?」
「部屋は……いや、何でもない」
みゆは、和真と同じ部屋に泊まった。
それを思い出した途端、宿の写真が急に違って見えた。
和真と二人で、そこへ入る。
夕飯を食べて、風呂へ行って、その後も同じ部屋にいる。
考えるほど、耳まで熱くなった。
「フェンリス?」
「宿を決める時に、話す!」
「……分かった」
和真は追及しなかった。
それがありがたいような、少し物足りないような気がした。
フェンリスは端末を閉じ、時刻を確かめた。
「そろそろ、支度してくる」
「もう、そんな時間か」
「帰ったら、また続きを話そう」
「ああ。俺も、用事が終わったら少し調べておくよ」
立ち上がりかけたフェンリスは、もう一度、和真を見た。
「本当に?」
「お前ばっかり調べるのも、大変だろ」
「別に、大変じゃないよ」
むしろ、いつまでも見ていたかった。
けれど、和真も探してくれるというなら、断る理由はなかった。
「……じゃあ、お願い」
フェンリスは笑った。
居間を出る足取りは、来た時よりも軽かった。
◇
アパートの部屋で出勤の支度を済ませ、鏡の前に立つ。
人の姿に整っていることを確かめ、髪の端を指で直した。
端末には、先ほど見ていた農園の写真が残っている。
つい、もう一度開いてしまった。
画面の端に映る二人連れは、一つの籠を覗き込み、笑っていた。
フェンリスは、その小さな姿をしばらく見つめた。
歩く時に腕へつかまるくらいなら、今までにもしている。
隣へ座るのも、甘えてみるのも、初めてではない。
それなのに、旅行先で手をつなぐところを想像すると、妙に落ち着かなかった。
みゆは、自分の気持ちを話した。
和真は、それを聞いた。
昨夜、その二つを確かめた時の胸の痛みは、まだ残っていた。
けれど、みゆに先を越されたからというだけで、言いたいわけではなかった。
ずっと前から、和真のそばにいたかった。
ここへ来て、帰る場所が出来て、それだけでも十分に嬉しかったはずなのに、今はそれ以上を願っている。
「……ちゃんと、言わなきゃ」
部屋の中で口にしてみた。
それだけのことで、胸が忙しくなった。
旅行に行けば、急に勇気が湧いてくるわけではないだろう。
それでも、二人きりでゆっくり話せる時間が欲しかった。
誰かの声に途切れず、照れたからと冗談に逃げず、和真の顔を見て伝えたかった。
フェンリスは端末を鞄へしまった。
今から考えすぎても仕方がない。
まずは、休みを聞くところからだった。
◇
酒屋へ着くと、店の前には配達用の箱が並んでいた。
いつもなら、この時間には店長がその辺りで声をかけてくる。
今日は姿が見えなかった。
「おはようございます」
裏口から声をかけると、奥から同僚が顔を出した。
「おはよう。来てくれてよかった」
いつもより、少し早口だった。
フェンリスは鞄を置きかけた手を止める。
「何かあったの?」
「店長が、昨日の夜、事故に遭って」
言葉の意味を飲み込むまで、一瞬かかった。
「……事故?」
「今、入院してる。命に別状はないって聞いたけど」
「店長、話せるの?」
「うん。朝、電話があった。店のことばっかり心配してたよ」
同僚はそう言って笑おうとしたが、すぐに口元を引き締めた。
「奥さんが向こうへ行ってる。詳しいことは、戻ってきてからだね」
フェンリスは店の奥を見た。
いつもの棚も、帳場も、変わっていない。
店長が使っている椅子だけが、空いていた。
「……僕、何をすればいい?」
「先に、こっちの注文を揃えてくれる? 配達は順番を組み直してるところだから」
「分かった」
鞄を置き、前掛けをつける。
休みの話をするために考えていた言葉は、出てこなかった。
◇
午前中は、いつもより短く感じた。
商品を揃え、運び、戻ってきた箱を片付ける。
電話が鳴れば、同僚が作業を止めて受けに行った。
店長が普段、少しずつ済ませていることが、今日はあちらこちらに残っていた。
フェンリスが一つ片付けると、別のところで手が足りなくなる。
そのたびに呼ばれ、返事をして向かった。
「フェンリス、そっちを頼める?」
「うん。これを運んだら、すぐ行く」
いつもと同じつもりで答えた。
手を動かしている方が、店長のことを考え続けずに済んだ。
昼を少し過ぎた頃、店長の妻が戻ってきた。
フェンリスたちの顔を見ると、まず何度も礼を言った。
「急にごめんね。助かったわ」
「店長は?」
フェンリスが尋ねると、疲れの残る顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。
「大丈夫。口は相変わらずよ。病室から配達の心配をするから、先生にも叱られてた」
ようやく、フェンリスは息を吐けた。
同僚も、隣で肩の力を抜いた。
だが、その後に続いた話は、簡単ではなかった。
しばらく入院が必要なこと。
退院しても、すぐに重いものを運んだり、これまでどおりに配達へ出たりは出来ないこと。
いつ店へ戻れるかも、まだ決まっていないこと。
「配達は、しばらく件数と時間を相談してもらうつもり。私も店に出るけど、病院に行かなきゃいけない日もあるから」
店長の妻は、帳場へ勤務表を広げた。
鉛筆で書かれた名前を、指で順に追っていく。
「ほかの人にも声はかけてるの。ただ、すぐには揃わなくてね」
フェンリスも、その紙を見た。
自分の休みを相談する時に、見せてもらうつもりだったものだ。
「フェンリスさん、来週から少し、出てもらう日を変えられるかしら。休みは取ってもらうけど、落ち着くまでは、続けて休めるように組むのが難しくなりそうで」
胸の奥が、小さく縮んだ。
「……続けては、難しい?」
「ごめんなさい。今いる人たちの都合を合わせると、どうしてもね。何か予定があるなら、先に教えてもらえる?」
すぐには答えられなかった。
果樹の間にあった休憩場所が、頭に浮かんだ。
おいしいものを見つけたら、互いに教えようと話したこと。
帰ったら続きを話そうと言ってくれた和真。
フェンリスは、前掛けの端を指でつまんだ。
「まだ……日にちは、決まってないんだ」
「そう。急にこんなことになって、本当にごめんね」
店長の妻は、もう一度勤務表へ目を落とした。
疲れた指で、書いてあった線をなぞっている。
フェンリスは、その手を見ていた。
この店で働き始めたばかりの頃、分からないことは何度でも教えてもらった。
言い方を間違えた時も、客の頼んだ品をすぐに見つけられなかった時も、店長は急かさずに待ってくれた。
今、あの空いた椅子へ戻ってきたとしても、きっと大丈夫だと言うのだろう。
そして、まだ動かしてはいけない体を動かそうとする。
「……僕、出るよ」
フェンリスは顔を上げた。
「今までと違う日でも、大丈夫。時間も、出来るだけ合わせる」
「助かるわ。でも、無理な時はちゃんと言ってね」
「うん」
頷いた後で、唇を一度結んだ。
「店長にも、無理しないでって言っておいて。こっちは僕もいるからって」
店長の妻は、少しだけ目を潤ませて笑った。
フェンリスも笑い返した。
そこまでは、出来た。
◇
遅い休憩に入ると、フェンリスは店の奥で鞄を開いた。
端末に、和真から連絡が来ていた。
『午後の用事に行ってくる。農園の近くに、よさそうな宿もあった。夜に一緒に見よう』
その下に、宿の案内が一つ添えられていた。
開くと、窓から木々が見える部屋の写真が出てきた。
大きすぎない部屋だった。
窓際に椅子が二つ並んでいる。
フェンリスは、指を止めた。
和真も、本当に探してくれていた。
朝、自分が話したことを覚えて、出かける前に。
返事を書く欄を開く。
『店長が事故に遭って』
そこまで打ち、しばらく見つめた。
これを送れば、和真はすぐに心配する。
店長のことを聞いて、店の様子を聞いて、それから、旅行は落ち着いてからでいいと言うだろう。
急がなくていい。
待っているから。
そう言ってくれる顔まで、思い浮かんだ。
フェンリスは目を伏せた。
和真に、待っていてほしかった。
次は自分の番だという約束を、そのまま持っていたかった。
けれど、店長が戻る日さえ、まだ分からない。
今日の勤務表をどうにか組めても、その先は、また相談しなければならなかった。
いつまで待ってもらえばいいのか、自分にも答えられなかった。
画面の文字を、一つずつ消した。
代わりに、短い返事を打つ。
『ありがとう。用事、気をつけてね』
送ってから、鞄へしまおうとした。
けれど、その前に、もう一度だけ宿の写真を開いた。
窓際の椅子は、二つ並んでいた。
朝なら、迷わず和真へ言えたはずだった。
ここ、いいね。
僕も、ここに泊まりたい。
フェンリスは端末を伏せた。
店の方から、商品を尋ねる客の声が聞こえてくる。
休憩が終わるまで、もう少しだけ時間があった。
その間に、帰ってから何と言うか、考えなければならなかった。
朝、一緒に読んだ農園の案内を思い出す。
果物なら、いつ行っても同じものが採れるわけではない。
和真の好きな果物が採れる時期に、二人の予定を合わせるのは難しくなった。
そこまでは、本当のことだった。
だから、今度は別のことをしたいと思ったのだと、そう言えば。
新しく楽しみを見つけた顔をすれば、和真は、自分が無理をしているとは思わないかもしれない。
フェンリスは鞄の口を閉じた。
ほかにやりたいことなど、まだ一つも思いついていなかった。
酒屋を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
いつもより遅い時間だった。
店長の妻と同僚へ挨拶をし、裏口を出る。
閉じた扉の向こうから、まだ片付けを続ける音が聞こえていた。
フェンリスは、その場で少しだけ立ち止まった。
朝は、帰ったら和真と旅行の続きを話すつもりだった。
宿を決めて、農園へ連絡する日も相談して。
もしかしたら、二人で泊まる部屋のことまで話すのだと思っていた。
鞄の中には、和真から送られてきた宿の案内が残っている。
まだ断ったわけではない。
ただ、少し先へ延ばすだけだ。
店長が元気になれば、また休みを取れるようになる。
そう考えようとしても、それがいつになるのかは分からなかった。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
店の人たちへ見せた笑顔を、もう一度作った。
皆には、心配をかけない。
和真にも、待たせていると思わせない。
フェンリスは鞄を持ち直し、空色唐辛子荘へ向かって歩き出した。
◇
門をくぐると、母屋の窓から明かりが漏れていた。
夕食には少し遅れている。
玄関を開ける前に、人の姿を保っていた装置を切った。
頭に銀色の狼耳が戻り、腰の後ろに大きな尾が現れる。
力なく下がりかけた尾を見て、フェンリスは慌てて持ち上げた。
「ただいま!」
いつもより大きな声で玄関を開ける。
居間から、何人もの返事が重なった。
「おかえり、フェンリス」
最初に顔を出したのは和真だった。
「遅かったな。店、忙しかったのか?」
「うん。ちょっとね」
「大丈夫か? 疲れてるなら、先に座ってていいぞ」
「平気だよ。これくらい」
笑って靴を脱ぐ。
和真の後ろから、みゆが顔を覗かせた。
「おかえり。お腹すいた?」
「すいた。今日のご飯、何?」
「酒菜が作った煮込み。いい匂いするでしょ」
「うん。早く食べたい」
みゆの視線が、フェンリスの顔から耳へ移った。
それから、無理に持ち上げている尾を見る。
何か言われる前に、フェンリスは和真の隣を通り過ぎた。
「手、洗ってくるね」
洗面所へ向かう背中を、みゆだけが黙って見送っていた。
◇
食卓には、まだフェンリスの分だけ手をつけずに残されていた。
酒菜が温め直した煮込みを置く。
「冷める前に食え。今日は随分遅かったな」
「ありがとう。お店が忙しかったんだ」
「人手が足りなかったのか?」
「そんな感じ」
嘘ではなかった。
フェンリスは匙を取り、少し大きめに口へ運んだ。
「おいしい」
「慌てて食うな。まだある」
「分かってるよ」
いつもどおりに返す。
皆は先に食事を始めていたが、まだ席を立つ者はいなかった。
ピピは食後にもらえるものを期待しているのか、空になった皿の前で待っている。
ひかげとナディアは、配信へ届いた感想を一緒に見ていた。
あおいは祭りで使った飾りの話をし、ユエはリディアと受付の予定を確認している。
朝と変わらない賑やかさだった。
フェンリスは、それを見て少しだけ息をついた。
自分が余計なことを言わなければ、いつもどおりでいられる。
「そうだ、フェンリス」
和真に呼ばれ、匙を持つ手が止まった。
「何?」
「朝に送った宿、見られたか?」
「……うん。見たよ」
「もう一つ、近くによさそうなところがあったんだ。飯を食べ終わったら、一緒に――」
「和真」
言葉を重ねて止めた。
思っていたより、強い声が出た。
皆の話し声が、少しずつ静かになる。
フェンリスは匙を置いた。
「旅行のことなんだけど、少し先にしたい」
和真の表情が変わった。
「休み、取れなかったのか?」
「違うよ」
すぐに否定する。
用意していた言葉を、頭の中でもう一度並べた。
「休憩中に農園の案内を見直したんだ。朝、和真が写真で気にしてた果物、採れる時期がもう少し先みたいで」
「そうなのか」
「うん。それで、僕が休めそうな日とは合わなかった」
そこまでは、顔を見て言えた。
「別の果物にしてもいいぞ。俺は何でも――」
「それも考えたよ」
和真の言葉を、もう一度止める。
「でも、調べてたら、ほかに和真とやりたいことを思いついたんだ」
「ほかに?」
「うん。それが出来るようになるの、まだ少し先なんだって」
フェンリスは笑った。
何をするのかと聞かれたら、まだ内緒だと言うつもりだった。
実際には、何も思いついていない。
「だから、旅行はその頃にしたい。駄目?」
「駄目じゃないよ。フェンリスがそうしたいなら、予定を変えよう」
和真はすぐに頷いた。
怒らなかった。
残念そうな顔も、ほとんど見せなかった。
きっと、フェンリスが気にしないようにしているのだ。
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
「ありがとう」
それでも、笑って答えた。
◇
「なら、皆の旅行も少し先へ延ばした方がよいのではないかえ」
最初にそう言ったのは、あおいだった。
卓の上には、昨夜から使っている手帳が開かれている。
フェンリスの名前が、最初に書かれていた。
「そうですね」
リディアも頷く。
「フェンリスが行けるようになってから、改めて順番を決めればよいと思います」
「私も、待った方がええと思います」
ひかげが控えめに続けた。
「もともと、次はフェンリスさんの番でしたし」
「僕も待つよ!」
ピピが翼を持ち上げる。
ナディアは椅子へ深く座ったまま、フェンリスを見た。
「俺様も急いでいるわけじゃない。お前が先で構わん」
「私もよ」
ユエが短く言う。
酒菜も頷いた。
「慌てて行くもんでもねえだろ。店の都合が合うまで待てばいい」
店、という言葉に、フェンリスの胸が跳ねた。
酒菜は、単に休日の都合を言っているだけだった。
フェンリスはすぐに首を振る。
「待たなくていいよ」
皆の視線が集まった。
「でも――」
「本当にいいんだって」
ひかげの言葉を止め、わざと明るく笑う。
「僕が和真とやりたいことは、まだ先にならないと出来ないんだ。それまで全員で待ってたら、いつになるか分からないだろ」
「しかしのう……」
「あおいは、和真と出かけたくないの?」
「そのようなわけがなかろう」
「だったら、先に行けばいいじゃないか」
フェンリスは卓の上の手帳を、自分から皆の方へ押した。
「僕の名前は、いったん外して。残った皆で順番を決めればいい」
「フェンリス」
和真が低い声で名前を呼んだ。
「無理して譲らなくてもいいんだぞ」
「無理してない」
答えるのが、少しだけ早くなった。
みゆの耳が、その一言に反応する。
「朝は、早く決めたいって言ってただろ」
「朝は、ほかにやりたいことを思いついてなかったから」
フェンリスは和真を見た。
「今は違う。それに、僕だけのせいで、皆まで行けなくなる方が嫌だ」
「けど……」
「僕が行く時は、ちゃんと二人で行ってくれるんだろ?」
「それはもちろん」
「なら、それでいいよ」
和真が口を閉じた。
フェンリスは、さらに笑ってみせる。
「皆がどこへ行くのか、聞くのも楽しそうだし。写真も見せてもらうからね」
「たくさん撮る!」
ピピが答えた。
「僕が行ったところ、全部見せる!」
「うん。楽しみにしてる」
すぐに返せた。
声も、震えなかった。
和真はまだ納得しきれていない顔だったが、それ以上は言わなかった。
ほかの皆も、少しずつ手帳へ目を戻す。
みゆだけは、フェンリスから目を離さなかった。
◇
リディアが手帳を自分の前へ引き寄せた。
「では、フェンリスを除いた六人で順番を決めますか?」
「待って」
和真が皆を見回した。
「先に、どれくらい間を空けるか決めよう。続けて毎週は無理だぞ」
「どうして?」
ピピが首を傾げた。
「カズマは、いつでも旅行に行けるんじゃないの?」
「いつでもは無理だよ。俺にも仕事があるから」
「カズマ、お仕事してるの?」
ピピが目を丸くした。
その声に、今度はほかの者たちが和真を見る。
「してるよ」
「いつ?」
「昼間。毎日決まった場所へ行くわけじゃないけど」
「何のお仕事?」
「近所の人から頼まれたことを手伝う、何でも屋みたいなものかな」
居間が静かになった。
フェンリスも、今朝の電話を思い出す。
棚を下ろしてほしいと頼まれていた。
和真は、用事としか言わなかった。
それが仕事だったのだ。
「和真、そんな仕事してたの?」
「うん。言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
フェンリスが答えると、皆もそれぞれ首を横へ振った。
みゆだけは、驚いていなかった。
「僕は知ってたけどね」
そう言って、少しだけ手を上げる。
「何でみゆだけ知ってるの?」
「前に和真へ連絡が来た時、近くにいたから。その時に聞いたんだよ」
「別に、隠してたわけじゃないんだけどな」
和真は困ったように頬をかいた。
「最初は、近所の人に少し手を貸すくらいだったんだ。家具を動かしたり、庭を片付けたり。頼まれたことが出来そうなら引き受けてる」
「それで、お金をもらうの?」
ピピが尋ねる。
「仕事だからな」
「何でも出来るの?」
「出来ないことは断るよ」
「ご飯も作る?」
「それは断る」
和真が迷わず答えた。
酒菜が鼻で笑う。
「そこだけは正しい判断だな」
「自分でも分かってるよ」
張っていた空気が少し緩んだ。
ピピはまだ納得していないのか、もう一度首を傾げる。
「でも、何でも屋なのに、ご飯は出来ないの?」
「何でも出来る人って意味じゃないんだ」
「何でも屋なのに?」
「名前がややこしいよな」
「僕、歌なら出来るよ!」
「それはピピの仕事だろ」
「うん!」
満足したのか、ピピは笑った。
リディアは少し考えてから、和真へ尋ねる。
「以前から続けていたのですか?」
「フェンリスが来た頃には始めてたよ。でも、その頃はまだ、ほとんど依頼がなかったんだ」
フェンリスは和真を見た。
自分がここへ来たばかりの頃、和真はいつも敷地の中にいた。
買い物へ連れていき、生活に必要なことを教え、分からないことがあれば何度でも手を止めてくれた。
その合間に、自分の仕事までしていたとは思わなかった。
「最近は、前に頼んでくれた人が、ほかの人を紹介してくれるようになってさ。少しずつ増えてる」
「なら、なおさら先に予定を決める必要がありますね」
ユエが言った。
「六人分を曖昧なまま並べても、あなたの仕事と重なるでしょう」
「そうなんだ。急に連絡が来ることもあるけど、旅行の日を先に決めておけば、その日は引き受けないように出来る」
「休む日も必要です」
リディアが続ける。
「皆さんとの旅行に加えて、普段のお仕事まで増えているのでしたら、毎週出かけるのは避けた方がよいでしょう」
「そうだな」
酒菜が腕を組んだ。
「旅行から帰った次の日に、重いもんを運ぶなんて言い出しかねねえ。間は空けろ」
「そこまで無茶はしないよ」
「信用できると思うか?」
「……気をつけます」
和真が言い直すと、酒菜はそれで納得したように頷いた。
「二週間くらい空けたらどう?」
みゆが提案した。
「帰ってきた後に休めるし、次の人も準備する時間がある。和真も、その間の仕事を調整できるでしょ」
「それくらいなら、何とかなると思う」
和真は手帳へ目を落とした。
「ただ、全員が必ず二週間後に行けるとは限らないから、その時は前後させよう」
「問題ありません」
リディアが新しい頁を開く。
旅行の間隔として、二週間と書き込んだ。
その字を見て、フェンリスは指を折った。
六人が二週間ずつ。
最後まで進むには、それだけで何か月もかかる。
店長が戻る時期は分からない。
それでも、その間に状況が変わるかもしれなかった。
皆の旅行が終わる頃なら、自分も行けるようになっているかもしれない。
「それでいいよ」
フェンリスは、自分から頷いた。
「二週間ずつなら、僕の番が後になっても困らないから」
みゆの目が、またフェンリスへ向いた。
◇
順番は、くじで決めることになった。
リディアが同じ大きさに切った紙へ、六人の名前を書く。
それぞれを小さく折り、空になった菓子箱へ入れた。
「和真が引くのじゃな?」
あおいが尋ねる。
「俺が?」
「誰が先に行くかを決めるくじじゃ。共に行く和真が引くのが公平であろう」
「自分で引きたい!」
ピピが翼を上げた。
「自分の名前を引いたら、順番が分からなくなるだろ」
「一番ってことじゃないの?」
「違う。引かれた順番だよ」
「じゃあ、カズマが引いて!」
理解するのが早いのか諦めるのが早いのか、ピピはすぐに箱を和真の前へ押した。
和真は皆を見回した。
「本当に、これで決めるんだな?」
「構わん。誰が先でも、俺様は俺様の旅行を楽しむだけだ」
ナディアが答える。
ユエも静かに頷いた。
「後から不満を言う者がいないなら、公平でしょう」
「俺もそれでいい」
酒菜は気楽そうに椅子へ背を預けた。
ひかげとあおいも同意する。
和真は箱の中へ手を入れた。
最初の紙を一枚取る。
折り目を開き、書かれている名前を読んだ。
「あおい」
あおいの耳が、ぴんと立った。
「わらわか!」
隣にいたピピが翼を広げる。
「あおい、一番!」
「うむ。何やら緊張するのう」
言いながらも、顔は嬉しそうだった。
リディアが手帳の最初へ、あおいの名前を書く。
二枚目を引く。
「ひかげ」
「わ、私ですか」
ひかげは小さく肩を揺らした。
「何も決めてへんのに、急に緊張してきました……」
「今から考えればいいよ」
和真が言うと、ひかげは頬を赤くしながら頷いた。
三枚目。
「ピピ」
「僕!」
椅子から立ち上がりかけ、広げた翼が隣のナディアへ当たる。
「落ち着け。まだ今日出発するわけじゃない」
「どこ行こう!」
「だから、順番を決めただけだ」
ナディアに肩を押さえられ、ピピはようやく座り直した。
四枚目は、ナディアだった。
「俺様か。悪くない順番だ」
「どの順番でも同じこと言いそうだね」
みゆが笑う。
「当然だ。俺様が行けば、何番目だろうと最高の旅になる」
迷いのない返事に、和真は苦笑した。
五枚目を開く。
「ユエ」
「分かったわ」
ユエは騒がず、手帳へ書かれた自分の名前を確認した。
「最後が酒菜ね」
「くじを開く前に言うなよ」
「残り一枚でしょう」
「分かってても、一応引け」
和真が最後の紙を開く。
そこには、酒菜の名前が書かれていた。
「酒菜で決まりだな」
「ああ。最後なら、ほかの連中の話を聞いてから決められる。俺にはちょうどいい」
リディアが、六人の名前を順番に書き直した。
あおい。
ひかげ。
ピピ。
ナディア。
ユエ。
酒菜。
名前の横には、二週間ずつ間を空けるという印がついている。
その下に、フェンリスの名前はなかった。
「フェンリスの欄も、最後に作っておこうか」
和真が尋ねる。
「まだいいよ」
フェンリスはすぐに答えた。
「僕のは、やりたいことが出来る時期が分かってからでいい」
「でも、名前だけでも――」
「大丈夫だって」
笑って、手帳を閉じた。
これ以上、自分の名前がない頁を見たくなかった。
「ほら、もう遅いよ。明日の予定がある人もいるだろ」
自分から立ち上がり、食べ終えた器を重ねる。
「僕、これを台所へ持っていくね」
「置いとけ。俺が片付ける」
酒菜が言ったが、フェンリスは首を振った。
「これくらいやるよ。ご飯、待っててくれたんだから」
器を持ち、台所へ向かう。
誰にも顔を見られない場所まで来て、ようやく笑うのをやめた。
重ねた皿が、小さく触れ合う。
手に力が入りすぎていることに気づき、慌てて持ち直した。
居間からは、あおいが和真に行きたい場所を尋ねる声が聞こえる。
ピピはもう、自分の旅行で食べたいものを挙げていた。
楽しそうな声だった。
自分が、先に行っていいと言ったのだ。
皆が楽しそうにしているなら、それでいい。
フェンリスは水を出し、器についた汚れを流した。
「フェンリス」
すぐ後ろから声がして、肩が跳ねた。
振り返ると、みゆが入口に立っていた。
「何?」
「僕も手伝う」
「これくらい、一人で出来るよ」
「知ってる。でも、僕もやる」
みゆは返事を待たず、隣へ来た。
洗い終えた器を受け取り、布巾で水気を拭いていく。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
居間から聞こえる声と、水の音だけが続く。
「……何?」
耐えられず、フェンリスから尋ねた。
「さっきから、僕のこと見てるだろ」
「見てたよ」
みゆは否定しなかった。
「フェンリス、分かりやすいから」
「何が?」
「それを、今ここで聞いたら困る?」
フェンリスの手が止まった。
水に濡れた器を、もう一度強く握りそうになる。
「……別に。何も困らないよ」
「そっか」
みゆは、それ以上聞かなかった。
拭き終えた器を棚へ置く。
「じゃあ、後で部屋に行くね」
「何で?」
「今ここで聞かないため」
みゆは小さく笑った。
その笑い方には、いつものからかう色がなかった。
フェンリスは何も返せなかった。
みゆは最後の器を受け取ると、丁寧に水気を拭いた。
居間では、まだ旅行の話が続いていた。
フェンリスは蛇口を閉めた。
急に静かになった台所で、自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
自分の部屋へ戻ってからも、フェンリスは落ち着かなかった。
上着を脱ぎ、鞄を机の横へ置く。
いつもなら、そのまま風呂の準備をするところだった。
今日は何度も玄関の扉を見てしまう。
みゆが来ると言った時間は決まっていない。
ただ、後で行くと言っただけだ。
「……別に、来なくてもいいのに」
呟きながら、部屋を見回す。
脱いだ服を籠へ入れ、机の上に置いたままだった小物を端へ寄せた。
人を迎える準備をしている自分に気づき、手を止める。
「何やってるんだろ、僕」
みゆには、何も話さない。
店が忙しかっただけだと言えばいい。
旅行についても、皆へ話したとおりだったと言い通せばいい。
果物の時期が合わなかった。
ほかに和真とやりたいことを見つけた。
だから、旅行を少し先へ延ばした。
何度も頭の中で繰り返した言葉だった。
それなのに、みゆを前にして、同じように言える自信がなかった。
フェンリスはベッドの端へ腰を下ろした。
机の上に置いた端末へ手を伸ばす。
画面を開くと、和真から送られてきた宿が表示された。
窓際に並んだ二つの椅子。
朝に見た時と、何も変わっていない。
指で画面を動かすと、その下には食事や風呂の写真が続いていた。
どれも、和真と一緒に見たかった。
一人で眺めていると、胸の奥が痛くなった。
画面を消そうとした時、玄関の扉が叩かれた。
フェンリスの耳が跳ねる。
「……フェンリス。僕」
みゆの声だった。
「開いてるよ」
返事をした後で、端末を伏せる。
扉が開き、みゆが部屋へ入ってきた。
猫耳と二本の尾を隠していない、いつもの姿だった。
「お邪魔します」
「今さら言う?」
「一応ね」
みゆは扉を閉め、靴を脱いだ。
そのままベッドの近くまで来る。
フェンリスが見上げても、すぐには何も聞かなかった。
「座れば?」
「うん」
少し間を空け、隣へ腰を下ろす。
ベッドがわずかに沈んだ。
静かになった部屋の中で、外を通る風の音が聞こえる。
フェンリスは、みゆが話し始めるのを待った。
だが、みゆは何も言わない。
「……何しに来たの?」
「フェンリスが話すのを待ってる」
「話すことなんてないよ」
「じゃあ、僕から聞いていい?」
「さっきも聞いたじゃないか」
「まだ何も聞いてないよ」
返され、フェンリスは口を閉じた。
台所でも、みゆは何があったのか尋ねなかった。
ただ、後で部屋へ行くと言っただけだった。
「今日、お店で何があったの?」
まっすぐに聞かれた。
「何もないよ。忙しかっただけ」
「ふうん」
「本当に、それだけだから」
「じゃあ、どうして朝はあんなに楽しそうだったのに、帰ってきたら旅行へ行きたくなくなったの?」
「行きたくなくなったなんて言ってない」
「言ってないね」
みゆは静かに頷いた。
「でも、行きたい顔じゃなくなってた」
「果物の時期が合わなかったからだよ。それに、ほかにやりたいことが――」
「何をしたいの?」
フェンリスの言葉が止まった。
「それは……まだ、内緒」
「思いついてないんでしょ」
「思いついてるよ」
「じゃあ、僕には教えて。和真には言わないから」
「どうして、みゆに教えなきゃいけないんだよ」
声が少し強くなった。
みゆは怒らなかった。
からかうこともなく、フェンリスを見ている。
「僕なら、フェンリスが本当に楽しみにしてることを、そんな顔で話さないって知ってるから」
「どんな顔だよ」
「泣くのを我慢してる顔」
「我慢なんてしてない」
「そっか」
また、同じ返事だった。
否定しても、みゆは追い詰めてこない。
それが、かえって苦しかった。
「それなら、僕の勘違いだね」
みゆは立ち上がった。
「今日はもう休んだ方がいいよ。お店、忙しかったみたいだし」
玄関へ向かって歩き出す。
フェンリスは、その背中を見た。
このまま帰してしまえば、誰にも知られずに済む。
明日からも、いつもどおりに振る舞えばいい。
皆が旅行へ行くたびに笑って送り出し、帰ってきたら話を聞く。
店長が戻るまで、何も言わずに待てばいい。
そうすれば、誰にも迷惑をかけない。
みゆが扉へ手を伸ばした。
「……待って」
声が出ていた。
みゆの手が止まる。
振り返った顔を見た途端、フェンリスは視線を落とした。
「帰らないで」
みゆは何も言わず、扉から手を離した。
ゆっくり戻ってくる。
フェンリスの前に立ったが、隣へ座ろうとはしなかった。
言葉を待っている。
「……店長が、事故に遭ったんだ」
ようやく口にした。
みゆの表情が変わる。
「事故?」
「命に別状はないって。でも、しばらく入院する。戻ってきても、すぐには今までみたいに働けないって」
「それで、フェンリスが代わりに出るの?」
「僕だけじゃないよ。皆で店を回すんだ。でも、人が足りないから、しばらく続けて休むのは難しい」
話し始めると、昼間に聞いた言葉が次々に出てきた。
店長の妻が病院へ通わなければならないこと。
配達の予定を組み直していること。
いつ元どおりになるか、誰にも分からないこと。
みゆは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「だから、旅行へ行けなくなったんだね」
「行けなくなったわけじゃない」
反射的に否定した。
「少し先になっただけだよ」
「うん」
「休みが取れるようになれば、行ける。店長が戻ってくれば、今までみたいになるんだから」
「うん」
「だから、皆に話す必要はないだろ。心配させるだけだし」
「和真にも?」
その名前を出され、言葉が詰まった。
「和真に言ったら、待つって言うよ」
「たぶん、言うね」
「皆だって、さっきそう言った。僕が行けるまで待つって」
フェンリスは膝の上で手を握った。
「いつ行けるかも分からないのに、そんなの嫌だよ。僕のせいで、皆が和真と出かけられなくなるなんて」
「フェンリスのせいじゃないよ」
「でも、僕を待ったら同じだろ」
声が、少しずつ大きくなる。
「あおいも、ひかげも、ピピも、皆楽しみにしてた。ナディアも、ユエも、酒菜も。僕が先だったからって、全員を待たせる理由にはならないよ」
「だから、自分が我慢することにしたの?」
「我慢じゃない」
「フェンリス」
「我慢じゃないって!」
強く言い返した途端、声が震えた。
フェンリスは顔を背ける。
みゆに見られたくなかった。
「僕が決めたんだ。皆に先に行ってもらうって。ちゃんと自分で決めた」
「うん」
「果物狩りだって、いつでも出来る。和真だって待ってくれる」
「うん」
「だから、平気なんだ」
最後の言葉だけ、うまく声にならなかった。
みゆは、何も言わなかった。
フェンリスの手へ、自分の手を重ねる。
その温かさに触れた瞬間、握っていた指から力が抜けた。
「……みゆは、行けたじゃないか」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
みゆの指が、わずかに動く。
「温泉に行って、和真と二人で泊まって。一緒に歩いて、手をつないで」
止めようとしても、止まらなかった。
「和真に、自分の気持ちも話せた」
「うん」
「ナディアだって、もう伝えてる」
フェンリスは俯いた。
「僕は、一番長くここにいるのに」
その言葉を口にした途端、自分がひどく嫌になった。
「……ごめん。今のは違う」
「違わないよ」
「違う。先にいたからって、僕が先に言えるわけじゃない。みゆが悪いわけでも、ナディアが悪いわけでもない」
「分かってる」
「本当に、ごめん」
「謝らなくていいよ」
みゆは手を離さなかった。わ
「僕は旅行へ行けた。和真に話すことも出来た。だから、フェンリスが悔しいって思うのは当たり前じゃん」
「悔しいなんて……」
「思ってない?」
否定しようとした。
だが、言葉が出なかった。
胸の中にあったものを認めれば、全部崩れてしまいそうだった。
フェンリスは唇を噛んだ。
みゆの手を握り返す。
それでも足りず、立ち上がった。
次の瞬間には、みゆの身体を抱きしめていた。
「……フェンリス?」
両腕に力を込める。
みゆの肩へ顔を伏せた。
最初の涙が頬を伝った。
「本当は、行きたい」
掠れた声が漏れた。
「うん」
「すぐに、和真と旅行へ行きたい」
「うん」
「果物狩りもしたい。一緒に選んで、採って、食べたい」
みゆの服をつかむ指に力が入る。
「同じ部屋に泊まりたい。夜になっても帰らなくていいところで、ずっと二人でいたい」
一度こぼれた言葉は、もう止められなかった。
「僕だって、和真と手をつなぎたい。朝までそばにいたい」
みゆの肩が、涙で濡れていく。
それでも、みゆは離れなかった。
フェンリスの背へ腕を回し、ゆっくり撫でる。
「それだけじゃない」
フェンリスは、みゆの肩へ顔を押しつけたまま続けた。
「僕も、和真に言いたい」
「好きって?」
小さく頷く。
「早く伝えたい」
とうとう、声を抑えられなくなった。
「ずっと好きだったって言いたい。これからも、ずっとそばにいたいって……ちゃんと和真の顔を見て言いたい」
肩を震わせながら、みゆをさらに強く抱きしめた。
「僕だけ、何も言えてない」
「言えないまま、皆が和真と旅行へ行くのを見るのが怖い?」
「……うん」
「置いていかれるみたいで?」
また、頷いた。
「分かってるんだ。和真は、僕との約束を忘れたりしない。皆が旅行へ行ったからって、僕を嫌いになるわけじゃない」
「うん」
「分かってるのに……嫌なんだよ」
涙が止まらなかった。
「僕も行きたい。僕も伝えたい。待ちたくない」
誰にも言えなかった本音だった。
皆の前で笑っている間、何度も飲み込んだ言葉だった。
みゆは、背中を撫で続けた。
「我慢しなくていいよ」
「でも、僕が我慢しないと……」
「旅行を譲ったことじゃなくて、泣くのを我慢しなくていいってこと」
みゆの声は、いつもよりずっと優しかった。
「今は僕しかいないから。悔しいことも、寂しいことも、全部言っていいよ」
「みゆに言ったら、困るだろ」
「少しは困るかも」
正直な返事に、泣きながら顔を上げた。
みゆは困ったように笑っていた。
「僕も和真が好きだからね。フェンリスを応援するだけっていうのは、たぶん無理」
「……じゃあ、何で」
「フェンリスが泣いてるのを放っておくのは、もっと無理だから」
みゆは親指で、フェンリスの頬を流れる涙を拭った。
「僕たち、和真のことで譲れないところはあるけど、一緒に暮らしてる仲間でもあるでしょ」
「……うん」
「それに、僕はフェンリスに本音を聞いてもらったから」
以前、みゆが自分の気持ちを話した夜を思い出した。
あの時、自分も最後まで聞いた。
受け入れられないところがあっても、途中で逃げずに聞いた。
「今度は、僕が聞く番」
みゆはそう言って、もう一度フェンリスの背中へ手を回した。
「だから、もう少しこのままでいていいよ」
フェンリスは答えず、みゆの肩へ顔を戻した。
声を抑えることもやめた。
みゆの服をつかみ、子供のように泣いた。
◇
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。
フェンリスはみゆから離れ、目元を手の甲で拭った。
「……服、濡らした」
「洗えばいいよ」
「ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
みゆは隣へ座り直した。
フェンリスもベッドへ腰を下ろす。
泣いた後の顔を見られるのが恥ずかしくて、俯いたままになった。
「皆には、言わないで」
「店長のこと?」
「うん。和真にも」
「本当に?」
「今は、まだ」
みゆはすぐには返事をしなかった。
「言った方がいいって思ってる?」
「思ってるよ」
はっきり答えた。
「和真なら、待つだけじゃなくて、どうしたら行けるか一緒に考えると思うから」
「それが嫌なんだ」
「どうして?」
「僕のために、何かを変えてほしくない。店の人たちにも迷惑をかけたくないし、皆の旅行を止めたくもない」
フェンリスは自分の膝を見た。
「今は、僕が店に出るのが一番いいんだよ」
「そっか」
みゆは少し考えた。
「じゃあ、僕からは言わない」
フェンリスが顔を上げる。
「本当?」
「うん。でも、条件がある」
「何?」
「ずっと一人で我慢しないこと」
みゆは、フェンリスの胸元を指で軽く突いた。
「苦しくなったら僕に言う。休めなくなったり、店で無理を頼まれたりしたら、ちゃんと皆にも話す。それが条件」
「店の人は、無理に働かせたりしないよ」
「フェンリスが自分から無理するかもしれないでしょ」
否定しようとして、やめた。
今日も、出来るだけ合わせると自分から言ったばかりだった。
「……分かった」
「本当に?」
「うん。約束する」
「なら、今は黙ってる」
みゆは小指を差し出した。
フェンリスは少し迷ってから、自分の小指を絡める。
「子供みたい」
「破られたくない約束だからね」
「破らないよ」
指を離すと、みゆは机の上の端末を見た。
「宿、見てたの?」
「……うん」
「消す?」
「消さない」
今度は、迷わず答えた。
「行けるようになった時、もう一度見たいから」
「そっか」
みゆは端末を手に取り、画面を開いた。
窓際に二つの椅子が並んだ部屋を見て、少し笑う。
「いいところじゃん」
「でしょ?」
フェンリスも、少しだけ笑えた。
「和真が見つけてくれたんだ」
「ちゃんとフェンリスとの旅行、楽しみにしてるんだね」
「……うん」
それが分かっているから、余計に行きたかった。
だが、先ほどまでのように、胸が押し潰されるほどではなかった。
「みゆ」
「何?」
「和真は、待ってくれると思う?」
「待つよ」
迷いのない返事だった。
「皆と旅行へ行っても?」
「それとこれとは別でしょ。和真は、フェンリスと行くって約束したんだから」
「でも、ずっと先になるかもしれない」
「だったら、少し先の約束になるだけだよ」
みゆは端末をフェンリスへ返した。
「なくなるわけじゃない」
フェンリスは、画面の中の二つの椅子を見た。
今すぐ、そこへ座ることは出来ない。
それでも、和真と行く約束まで消えたわけではなかった。
「……そっか」
「うん」
「少し先になっただけなんだ」
「そういうこと」
フェンリスは端末を胸元へ抱えた。
みゆが立ち上がる。
「今日は、もう寝た方がいいよ。目、腫れるかもしれないけど」
「誰のせいだよ」
「僕は泣かせてないでしょ」
「帰ろうとした」
「止めたのはフェンリスじゃん」
いつもの調子で返される。
それが少し嬉しかった。
みゆが玄関へ向かう。
今度は、引き止めなかった。
扉を開ける前に、みゆが振り返る。
「おやすみ、フェンリス」
「おやすみ」
「無理しないでね」
「分かってる」
みゆはまだ何か言いたそうな顔をしたが、最後には笑って扉を閉めた。
◇
部屋を出ると、夜の空気が頬に触れた。
みゆは自分の部屋へ向かいかけ、母屋の方を見た。
居間の明かりは、まだ消えていない。
皆はもう戻ったはずだが、和真だけは起きているらしい。
フェンリスとの約束を守るなら、店長のことを伝えるわけにはいかなかった。
それでも、このまま何も言わずに部屋へ戻る気にはなれなかった。
みゆは少し迷い、母屋へ向かった。
縁側の戸を軽く叩く。
「和真、起きてる?」
すぐに戸が開いた。
「みゆ? どうしたんだ」
「フェンリスのところに行ってた」
「……旅行のことで?」
「うん」
和真は庭へ出て、後ろ手に戸を閉めた。
「何かあったのか?」
「僕からは言えない」
「言えない?」
「フェンリスと約束したから」
和真の眉が寄る。
「それ、大丈夫なのか?」
「今すぐ、和真がどうにかしなきゃいけないことじゃないよ」
嘘にならないよう、言葉を選んだ。
「でも、フェンリスが旅行を楽しみにしてなかったわけじゃない。それだけは分かってて」
「……やっぱり、何か隠してるのか」
「本人が話せるようになるまで、待ってあげて」
和真はすぐには返事をしなかった。
フェンリスの部屋がある方へ目を向ける。
「俺に出来ることは?」
「約束を忘れないこと」
「忘れるわけないだろ」
「なら、大丈夫」
みゆは笑った。
「今は、それだけでいいと思う」
和真は納得しきれない顔をしていた。
それでも、無理に聞き出そうとはしなかった。
「分かった。フェンリスが話してくれるまで待つよ」
「うん」
「みゆも、何かあったら教えてくれ」
「約束を破らない範囲ならね」
みゆは手を振り、自分の部屋へ向かった。
和真はしばらく庭に残り、フェンリスの部屋の明かりを見ていた。
◇
フェンリスは、まだ眠っていなかった。
机の上には、朝から使っていた端末が置かれている。
農園の案内と、和真が見つけた宿。
どちらも消さずに残してあった。
旅行へ行ける日が来たら、もう一度、最初から二人で選ぶ。
その時は、今度こそ隠さずに言う。
果物狩りへ行きたいこと。
同じ部屋に泊まりたいこと。
そして、ずっと言えずにいた気持ちも。
「……好きって、言うんだ」
小さく口にする。
まだ胸は痛かった。
明日になれば、また店へ行かなければならない。
皆の旅行が決まるたびに、寂しくなることもあるだろう。
それでも、約束はなくなっていない。
少し先へ延びただけだった。
フェンリスは宿の案内を閉じ、端末を枕元へ置いた。
明かりを消し、布団へ入る。
目を閉じると、朝に和真と見た果樹園の写真が浮かんだ。
二人で籠を持ち、甘い果物を探す。
その先の景色を、今度は無理に消そうとはしなかった。
いつになるのかは、まだ分からない。
けれど、その日が来たら、今日言えなかった言葉まで、全部伝える。
そう胸の中で決めると、少しだけ呼吸が楽になった。
静かな部屋で、フェンリスの尾が布団の上をゆっくり動く。
やがて、その動きも止まった。
少し先に待つ約束を思いながら、フェンリスはようやく眠りについた。




