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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第二十八話 今は、僕の番

 朝食の後、母屋の庭に全員が集まった。


 昨日の夜、リディアと約束した写真を撮るためだった。


「ピピ、もう少しこっち。そこだと、あおいが隠れる」


「こっち?」


「そう。ああ、今度は近すぎる」


 和真が端末を固定した台と皆の間を行き来していると、みゆが笑い出した。


「和真も入るんでしょ。いつまでそっちにいるの」


「入ろうとするたびに、誰かが動くんだよ」


「僕は動いてないよ!」


 ピピが元気よく答える。その拍子に、また立つ位置がずれた。


 ひかげが隣でそっと場所を示す。


「ピピちゃん、ここやで。この石の前」


「わかった!」


「本当に頼むぞ」


 和真は時間を設定し、皆の方へ駆け寄った。


 リディアの隣が、一人分空いている。


 そこへ入ろうとした瞬間、反対側からみゆが腕を引いた。


「僕、こっちね」


「ああ。足、踏むなよ」


「踏まないって」


 みゆはいつもの調子で答え、和真の肩へ自分の肩を寄せた。


 リディアも、ほんの少し距離を詰める。


 その二人の様子を見て、フェンリスが何か言いかけた。


 だが、その前に撮影音が鳴った。


「……もう撮った?」


「撮ったな」


「僕、横向いてた!」


「俺も、たぶんフェンリスを見てた」


 端末の前へ戻った和真は、表示された写真を見て苦笑した。


 正面を向いている者の方が少ない。


 ピピは隣のひかげを見上げ、ひかげはそのピピに何かを教えている。あおいは二人を見て笑い、酒菜は腕を組んで待っていた。ユエは目を伏せる直前だったらしく、ナディアだけが悠々と正面を向いている。


 そして、和真の左右にいる二人は、ずいぶん楽しそうだった。


「もう一枚撮ろう」


「その写真も、残しておいてください」


 リディアが言った。


 和真が振り返ると、彼女は少し照れたように笑った。


「普段の皆さんらしくて、いいと思います」


「正一さんたちに見せるんだろ。ちゃんとしたのも撮った方がいいよ」


「はい。そちらもお願いします」


 二枚目は、全員が正面を向いて写った。


 撮り終えると、皆は順番に画面を覗き込み、それぞれの用事へ戻っていく。


 リディアは写真を受け取ると、早速、端末に向かって文を打ち始めた。和真はその隣で、送る写真が間違っていないか尋ねられている。


「一枚目も送るのか」


「はい。こちらの方が、笑っていただけそうですので」


「俺の顔、ちょっと変じゃないか?」


「いつもの和真ですよ」


「それはそれで困るんだけど」


 リディアが声を抑えて笑う。


 みゆは、縁側へ腰を下ろしてそのやり取りを眺めていた。


 膝の上に置いた手が、何となく落ち着かない。


 指を組み直していると、横から声がした。


「みゆ」


「ん?」


 フェンリスが立っていた。


 みゆは顔を上げ、いつものように笑う。


「何。僕の顔にも何か付いてる?」


「……別に」


「だったら、そんな顔しなくてもいいじゃん」


「みゆが、変だから」


 みゆの指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに両手を後ろへつき、足を軽く揺らす。


「フェンリスも、さっきから変だよ」


「僕は変じゃない」


「写真、すっごい顔でこっち見てたけど」


「あれは、みゆが急に和真の腕を引くからだろ」


「隣、空いてたし」


「そういうことじゃなくて」


 言いかけて、フェンリスは口を閉じた。


 みゆはその顔を見上げたまま、何も言わなかった。


 少し離れたところで、和真がリディアに車の鍵を渡している。昨日持ち帰った荷物を、これから皆で運ぶことになっていた。


「重い物は俺が持つから、場所を教えてくれ」


「では、まず工房へお願いします」


「俺様も行く。どの箱だ?」


 ナディアが車の方へ向かう。


 みゆも縁側から立ち上がった。


「ほら。僕たちも手伝おうよ」


「……うん」


 歩き出したみゆの背中を、フェンリスは少し遅れて追った。


 おかしいと思い始めたのは、今朝ではない。


 和真とリディアが、あの車で出かけていった日からだった。


     ◇


 二人を見送った後、みゆはしばらく門の方を見ていた。


 普段なら、フェンリスをからかっていたはずだった。


 心配しすぎだとか、そんな顔をしても車は戻ってこないとか。そう言って笑いながら、母屋へ戻っていくはずだった。


 ところが、あの日のみゆは違った。


 見えなくなった車の方へ視線を残し、自分の腕を軽くさすっていた。


「寒いの?」


 フェンリスが尋ねると、みゆは顔を上げた。


「ううん。そういうんじゃないよ」


「じゃあ、どうしたの」


「何でもないって。ほら、酒屋、遅れちゃうよ」


 そう言って、背中を押された。


 その時は、リディアと和真が二人で出かけたことを気にしているのだと思った。


 自分も、気になっていたからだ。


 しかし、夕方になって戻ると、みゆは居間に座っていたのに、誰の話もあまり聞いていなかった。


 酒菜に翌日の準備を尋ねられ、いつもならすぐ返せることを聞き直していた。


 ひかげが飲み物を置くと、お礼は言ったが手を付けなかった。


 ピピがお腹が空いたと訴えた時だけ、ようやく笑っていた。


「僕も。今日は先に食べちゃおっか」


「食べる!」


「まだ出来てないだろ。二人とも、皿を出す方を手伝え」


 酒菜に言われ、みゆは立ち上がった。


 その時、また一度だけ門の方を見た。


 フェンリスは、その横顔を覚えていた。


 前に聞いてしまった、みゆの言葉も。


 和真が好きだということ。


 誰にも渡したくないのではなく、そばにいたいのだということ。


 たまにふざけて、触れ合って、甘えられて。


 その先に、和真との子供が欲しいのだということ。


 思い出すたび、胸の中が落ち着かなくなる。


 みゆは、自分と同じように和真が好きなのだ。


 けれど、その気持ちをどうしたいのかは、同じではない。


 その違いを、フェンリスはまだうまく整理できずにいた。


     ◇


 リディアの荷物を運び終えると、母屋の食卓には仕事の道具が広げられた。


 ひかげの端末。リディアの手帳。酒菜が使っている、献立や仕入れ先を書いた紙。


 みゆは食器を片付けながら、その脇を行き来していた。


「ここの説明、これで足りますか?」


 ひかげが画面を向ける。


 リディアは椅子を寄せ、文章を上から追った。


「はい。最初は、こちらで確認できる物に絞りましょう。受付後、すぐに直せると誤解されないようにしていただければ」


「依頼を受け取るのと、修理を引き受けるのは別なのね」


 ユエが横から言う。


「その通りです。内容を確認してから、私が判断します」


「分かったわ。問い合わせへの返事も、その順番で整えておく」


 ユエは手元の端末へ目を戻した。


 少し前まで、画面を操作するたびに指を止めていたのに、今では必要な箇所を迷わず開けるようになっている。


 和真がそれを眺めていると、視線だけが返ってきた。


「何?」


「いや、慣れたなと思って」


「同じ説明を何度も聞く趣味はないわ」


「そうか」


「でも、勝手に画面を触らないで。今、順番を確認しているの」


「触らないよ」


 和真は笑って席を離れた。


 その横を通ったみゆが、空になった湯呑みを持ち上げる。


「受付って、いつからだっけ」


「週末です。まずは数を限って始めます」


「二人とも、ずっとこっちにいる?」


「ええ。最初の日は、すぐ相談できるようにしておきたいので」


「そっか。お茶、足しておくね」


 みゆは自然に頷き、台所へ向かった。


 その途中、ひかげの前に置かれた別の紙を見る。


 配信の予定が書かれていた。


「こっちも、同じ日なんだ」


「はい。もう、お知らせも出してしもてるんで」


 ひかげが答えると、ナディアが椅子の背へ腕をかけた。


「俺様とひかげでゲームをやる。後からピピも歌うんだったな」


「歌うよ!」


 少し離れた場所から返事が飛んできた。


「始まる前に、もう一度音も確かめたいんです。昨日と同じつもりでも、変わってることありますし」


「ボタンは勝手に押してないぞ」


「ナディアさんだけの話やないです」


 ひかげが小さく笑った。


 みゆも笑いながら、紙の端に書かれた日付を見た。


 それから台所で湯を用意し、酒菜の隣に立つ。


「野菜の話、進んだ?」


「ああ。週末に、直接会って話すことになった。量を増やした時、どこまで頼めるかも聞いてくる」


「僕も行った方がいい?」


「今回は俺一人でいい。味や状態を見ながら決める話が多いからな。お前には、その前に献立の紙を仕上げてほしい」


「任せて。そこは、ちゃんとやるよ」


「値段を変な場所に書くなよ。昨日のやつ、料理の名前より目立ってた」


「安く見えると思ったんだけど」


「何を食わせるのか、先に分かるようにしろ」


 みゆは声を上げて笑った。


 いつもの笑い方だった。


 だから、その後で彼女がポケットの中の端末へそっと触れたことに、酒菜は気づかなかった。


     ◇


 昼を過ぎると、皆はそれぞれの場所へ散っていった。


 みゆは自分の部屋へ戻り、机の引き出しを開けた。


 中には、折り目を付けないようにしまっていた封筒がある。


 当選の案内。


 山の温泉街にある旅館で、一泊二日、二名。


 みゆはその文字を、もう何度も読んでいた。


 応募した時は、当たれば皆に自慢できるくらいのつもりだった。


 何人でも泊まれるわけではない。それでも、二人分の宿泊費があれば、誰かと少し遠くへ行ける。


 その誰かの顔は、最初から一つしか浮かばなかった。


 ただ、実際に案内が届いても、すぐには言い出せなかった。


 母屋へ持っていけば、きっと皆が集まる。


 誰と行くのかという話になり、みゆが和真を指名すれば、当然、黙っていない者がいる。


 それは分かっていた。


 分かっていたから、使える日の一覧を何度も見直した。


 リディアと和真が出かけてからは、その回数が増えた。


 待っていればいつか、という気持ちではいられなくなっていた。


 みゆは端末を開き、旅館から届いた案内を確認した。


 利用できる期間と、予約できる部屋。


 その中に、先ほど皆が話していた週末がある。


「……ここ、だよね」


 ひとりで呟く。


 あおいは神社の祭りがあると言っていた。前日から準備も手伝うため、時間は空かない。


 フェンリスについては、昨日の夜に聞いた。


 同じ酒屋で働く人が体調を崩し、しばらく休むことになったという。店主に頼まれ、普段とは違う日にも入ると話していた。


 和真だけは、泊まりがけの予定を入れていなかった。


 みゆは案内を机の上へ置き、両手で頬を押さえた。


 いつもなら、こんなことはしない。


 思い付いた時に和真の隣へ座り、行きたい場所があればその場で言う。


 断られたら少し拗ねて、別のお願いをして、それで笑っていられる。


 今は、それでは足りなかった。


 和真が戻ってきた時も、顔を見て安心したのに、すぐそばに立つリディアを見て、胸の奥が落ち着かなくなった。


 リディアが嫌なわけではない。


 二人が楽しそうだったことも、嬉しくなかったわけではない。


 ただ、自分もあの場所に立ちたかった。


 和真の隣に、他の誰もいない時間が欲しかった。


 みゆは頬から手を離した。


 案内をもう一度畳み、封筒へ戻す。


「……ちゃんと、楽しんでもらわないとね」


 その声には、いつもの軽さが少し戻っていた。


     ◇


 夕食を終え、皆がまだ食卓に残っている時だった。


 みゆが一枚の紙を取り出した。


「ねえ、見て。これ、当たった」


「何が?」


 和真が受け取るより先に、ピピが身を乗り出す。


「お肉?」


「食べ物じゃないよ。旅行」


「旅行?」


 フェンリスの声が重なった。


 みゆは紙を食卓の真ん中へ置く。


 温泉旅館の写真。山に囲まれた町並み。二名一室、一泊二日という文字。


「懸賞に応募してたんだ。まさか当たるとは思ってなかったけど」


「すごいな」


 和真は素直に感心した。


 以前の温泉旅行も、あおいが引き当てたものだった。


 この家には、こういう運の強い者が多いのかもしれない。


「山の方なんだな。ここ、景色がよさそうだ」


「でしょ。一泊二日、お二人様」


 みゆは最後の言葉を、少し楽しそうに言った。


 フェンリスが紙から顔を上げる。


「誰と行くつもり?」


「和真」


 あまりにも迷いのない答えだった。


 和真は顔を上げた。


「俺?」


「うん。車なら行ける距離みたいだし、一緒にどう?」


「ちょっと待って」


 フェンリスが即座に口を挟む。


「どうして、もう和真って決まってるの」


「まだ決まってないよ。今、誘ってるところ」


「そういう言い方じゃなかっただろ」


「じゃあ、改めて。和真、僕と温泉旅行に行かない?」


 みゆが和真へ向き直った。


 フェンリスが机へ手をつく。


「改めればいいってことじゃない!」


 ひかげまで、落ち着かない顔で紙を覗き込んでいた。


「お二人で、一泊ですか」


「そう。ご飯も付いてるよ」


「ご飯の話は、今してへんです……」


「おいしそうだよね。ほら、これ」


「みゆちゃん」


 困ったように呼ばれ、みゆは笑った。


 あおいも、少し身を乗り出した。


「皆で行くことはできぬのかえ」


「二人分だけなんだ。前みたいに増やしたら、その分は別のお金になるし」


「それは、そうじゃが……」


「そもそも、いつ行くつもりだ?」


 酒菜が尋ねる。


 みゆは紙の端を指した。


「この週末。空いてるか聞いたら、その日なら使えるって」


 食卓が、妙に静かになった。


 和真は順に皆の顔を見た。


 つい昼間まで聞いていた予定が、頭の中に並んでいく。


「……その日なのか」


「うん」


「みゆ、俺じゃなくてもいいだろ。フェンリスとか」


「僕は行きたい」


 フェンリスが言った。


 言ってから、唇を引き結ぶ。


 和真も、すぐに思い出した。


「そうか。酒屋か」


「……うん。休んでる人の代わりに、出るって約束した」


 フェンリスは視線を落とした。


 店が困っているのは分かっている。


 普段なら、頼りにされることを嬉しく思う。


 それでも今だけは、その約束がなければと思ってしまった。


「一日だけ、何とか……」


 言いかけて、自分で止めた。


 具合が悪くて休んでいる相手に、無理をして出てきてほしいとは言えない。


 みゆは、その先を催促しなかった。


 代わりに、紙を少し和真の方へ寄せる。


「ひかげたちは、生配信だよね」


「はい。ピピちゃんもナディアさんも、一緒で」


「僕、歌う日!」


 ピピは元気よく答えてから、旅行の写真へ目を戻した。


「……でも、行きたい」


「俺様も同じだ。だが、見ると言って待っている奴がいるんだろ」


 ナディアが言った。


 ひかげは頷く。


「せっかく、予定を合わせてくれはった人もいるので」


「なら、先に決めた方をやる。途中で放り出したら、次に呼んでも来なくなる」


 言葉ははっきりしていたが、ナディアの視線も一度だけ旅館の写真に落ちた。


 みゆはそれを見て、何も言わずに笑う。


「酒菜は仕入れの相談だし、リディアとユエは受付を始める日。あおいはお祭りでしょ」


「ええ。さすがに初日を空けるわけにはいきません」


 リディアが答えた。


 ユエは腕を組んでみゆを見る。


「よく把握しているのね」


「皆、話してたじゃん」


「そうね。あなたが聞いていたのも覚えているわ」


 みゆは、にこりと笑った。


 それ以上は答えない。


「わらわも、祭りの支度を頼まれておる。今から取りやめるのは、難しいのう」


 あおいが残念そうに言った。


 和真はもう一度、案内を見た。


「日を変えるのは?」


「せっかく空いてるって言ってもらえたし、僕、その日に行きたい」


「でも……」


「和真は用事ある?」


「泊まりがけのものは、ないけど」


「だったら、付き合ってよ。僕が当てた旅行なんだし、僕が一緒に行きたい人を誘ってもいいでしょ」


 今度の言葉には、いつもの調子の奥に、わずかな強さがあった。


 和真はみゆの顔を見た。


 彼女は笑っていた。


 けれど、こちらの返事を待つ目は、少しも逸れなかった。


「……皆が本当に行けないなら、俺が一緒に行くよ」


「やった」


 みゆがすぐに和真の腕へ抱きつく。


「和真!」


 フェンリスの声が上がった。


「だって、使わないのももったいないだろ」


「それはそうだけど!」


「大丈夫だよ。フェンリスのお土産、ちゃんと買ってくるから」


「お土産の話もしてない!」


 みゆは肩を揺らして笑った。


 そのまま和真の腕に頬を寄せ、顔だけを上げる。


「運転、お願いしてもいい?」


「ああ。道を調べておく」


「ありがと」


 その声が、いつもより少し柔らかかった。


 フェンリスは、何も言えなくなった。


 みゆがふざけているだけなら、いくらでも言い返せる。


 けれど今、和真を見ている顔には、前に聞いた本音がそのまま浮かんでいる気がした。


 和真は気づいていない。


 気づいていないまま、旅館までどれくらいかかるのか、紙に書かれた住所を調べ始めていた。


     ◇


 夕食の片付けが終わると、みゆは酒菜に献立の紙を渡した。


「直したよ。今度は料理の名前が一番大きい」


「そうだな。こっちの方が分かりやすい」


「仕入れの時、これで話せる?」


「ああ。助かる」


 酒菜は紙を重ねてから、みゆを見る。


「行く前に、こっちも片付ける気だったんだな」


「僕だって、遊ぶことしか考えてないわけじゃないよ」


「分かってる。だから、頼んだ」


 短い言葉だった。


 みゆは一度だけ瞬きをして、それから笑った。


「じゃあ、いってきます。まだ何日か先だけど」


「浮かれて忘れ物するなよ」


「しないって」


 台所を出ると、廊下にフェンリスがいた。


 腕を組んで待っている。


 みゆは立ち止まった。


「今度は何?」


「ちょっと、外」


「ここじゃだめ?」


「聞かれたくないんだ」


 その一言で、みゆは笑うのをやめた。


 二人で母屋を出る。


 アパートへ続く道の脇で、フェンリスが振り返った。


「あの日、選んだだろ」


「何の日?」


「皆が行けない日」


 みゆは少し黙った。


 母屋の窓から、食器を重ねる音が聞こえてくる。


 やがて彼女は、片方の肩を小さく上げた。


「誰かの予定を変えたわけじゃないよ」


「そういうことを言ってるんじゃない」


「分かってる」


 あっさり認められて、フェンリスは言葉に詰まった。


 みゆは、いつものように逃げなかった。


「二人で行きたかったんだよ」


「……うん」


「僕だって、そういう時くらいあるよ」


 フェンリスは視線を落とした。


 それは、自分にもある。


 誰かが隣にいるのが嫌だというより、今だけは自分を見てほしいと思うことがある。


 だから、その願いそのものを責めることはできなかった。


 ただ、みゆの願いの先を知っている。


 それが、落ち着かない。


「和真、何も分かってないよ」


「うん」


「みゆが、前に僕に言ったことも」


「言ってないからね」


「だったら……」


 フェンリスは拳を握った。


 みゆは静かに待っていた。


「困らせるだけのことは、しないで」


 ようやく出た言葉に、みゆの表情が少し変わった。


「……分かった」


「本当?」


「うん。でも、何も言わないって約束はしない」


 まっすぐに返され、フェンリスは息を止めた。


 みゆはすぐに笑った。


「そんな顔しないでよ。帰ってくるんだから」


「分かってる」


「和真を連れて、どこかに逃げたりしないって」


「そこまでは考えてない!」


「ほんとに?」


「……ちょっとしか」


 みゆが吹き出した。


 フェンリスは眉を寄せたが、今度は強く言い返さなかった。


 目の前で笑っているみゆは、いつものみゆだった。


 それなのに、どこか遠くへ行こうとしているように感じる。


 その距離が、少し怖かった。


     ◇


 出発までの数日、みゆは忙しそうにしていた。


 屋台の準備を手伝い、酒菜に頼まれた紙をまとめ、時々、朝から敷地の外へ出ていく。


 夕方に戻ってきた日は、いつもより早く風呂へ入り、母屋で夕食を取ると自分の部屋へ帰った。


 和真が何をしていたのか尋ねると、決まって同じ答えが返ってきた。


「ちょっとね」


「ちょっとって、何だよ」


「旅行の準備」


「そんなに準備するものがあるのか?」


「あるんだよ。僕には」


 みゆは笑って、それ以上は話さなかった。


 ただ、和真の顔を見ると、以前より頻繁にそばへ寄ってきた。


 台所で隣に立つ。


 縁側で、肩が触れる場所に座る。


 何か用事があって離れる時、袖の端を一度つかんでから放す。


 和真が振り返ると、何でもないという顔をする。


 そのたびに、フェンリスの眉間に小さなしわが増えた。


「最近、二人ともどうしたんだ?」


 和真がひかげに尋ねると、彼女は端末から顔を上げた。


「……私に聞かれても」


「いや、何か喧嘩でもしたのかなって」


「喧嘩、とは違うと思います」


「そうか?」


 ひかげは一度、離れた場所のみゆとフェンリスを見た。


 みゆが何か囁き、フェンリスが頬を赤くして言い返している。


 いつも通りにも見える。


 けれど、ひかげにも、二人の間にいつもと違うものがあるのは分かった。


「和真さん」


「うん?」


「旅行、ちゃんと楽しんできてくださいね」


「ああ」


「……それで、無事に帰ってきてください」


「そんな危ないところには行かないよ」


 和真が笑うと、ひかげは少しだけ困った顔で笑い返した。


     ◇


 出発の朝、みゆは誰よりも早く朝食を食べ終えた。


「鞄、持ってくるね」


「慌てなくていいよ。まだ少し時間あるから」


「慌ててないって」


 そう言いながら、母屋を出ていく足は軽かった。


 和真は食器を運び、酒菜に留守を頼んだ。


「明日は夕飯までに戻るつもりだけど、遅れそうなら連絡する」


「分かった。帰りの時間ばかり気にして、無理に飛ばすなよ」


「気をつける」


「みゆにも、飯を抜くなと言っとけ。食べ歩きで腹をいっぱいにしそうだからな」


「それは、しそうだな」


 二人で笑っていると、廊下からピピの声がした。


「カズマ! お土産!」


「覚えてるよ」


「おいしいの!」


「それも覚えてる」


 あおいは祭りの準備に向かう支度を整え、玄関の前に立っていた。


「山の方は、こちらより冷えるかもしれぬ。羽織る物は持ったかえ」


「持った。ありがとう」


「なら、よい。気をつけて行くのじゃ」


 言葉は穏やかだったが、その視線は一度、戻ってきたみゆの鞄へ落ちた。


 みゆは小さく手を振る。


「あおいも、お祭り頑張ってね」


「うむ。土産話を待っておる」


 リディアとユエは、食卓に並べた端末の最終確認をしていた。


「何かあったら連絡してくれ」


 和真が言うと、ユエが顔を上げる。


「あなたが出先で答えられることなら、そうするわ」


「……あまりなさそうだな」


「分かっているなら、旅行に集中しなさい」


「和真、道中は休憩を忘れずに」


 リディアが付け加えた。


 その声に、前の遠出が少し重なった。


 和真は一瞬だけ目を合わせ、頷く。


「ああ。行ってくる」


 ナディアは縁側で靴を履くみゆを見ていた。


「ずいぶん準備がいいじゃないか」


「楽しみにしてたからね」


「そうか」


 それだけ言うと、ナディアは和真へ顔を向けた。


「帰ってきたら、こっちの配信の話も聞けよ」


「もちろん。どうだったか教えてくれ」


「ああ。楽しみにしておけ」


 和真はみゆの鞄を車へ積んだ。


 小さな鞄が二つ。


 先日のリディアとの外出とは違い、荷室はほとんど空いている。


「お土産、いっぱい積めるね」


「そんなに買うのか?」


「皆の分があるじゃん」


「まあ、そうだけど」


 みゆが助手席へ回った時、フェンリスが和真の袖を引いた。


「和真。ちょっと」


「どうした?」


 車の後ろへ連れていかれる。


 フェンリスは、みゆの方を一度見てから声を落とした。


「みゆに、少し気をつけて」


「転んだりしないように?」


「違う」


「食べすぎ?」


「それも違う」


 フェンリスは困った顔で和真を見た。


 具体的に言えば、みゆが自分にだけ話したことを、勝手に伝えることになる。


 それはしたくなかった。


 でも、何も言わずに送り出すのも落ち着かない。


「……いつもの冗談だと思ってると、違うこともあるから」


 和真は少し考えた。


「何か、悩んでるのか?」


「それは、みゆに聞いて」


「分かった。ちゃんと見てるよ」


 その答えに、フェンリスの表情が複雑になった。


 ちゃんと見てほしい。


 でも、あまり見てほしくない。


 そんな勝手な気持ちが、自分の中でぶつかっていた。


「連絡してね」


「着いたら送る」


「途中も」


「運転してない時にな」


「……うん」


 和真が車へ乗り込むと、みゆは既に安全帯を締めていた。


「お話、終わった?」


「ああ」


「何て?」


「気をつけてって」


「そりゃ、気をつけないとね」


 みゆは楽しそうに笑った。


 窓を少し下ろし、フェンリスへ手を振る。


「いってきます」


「……いってらっしゃい」


 車がゆっくり動き出す。


 門を出る直前、和真は鏡越しに見送りの姿を見た。


 フェンリスはまだ、その場に立っていた。


 助手席から、明るい声がする。


「ねえ、途中で寄りたいところあるんだけど」


「どこ?」


「道の駅。朝のうちしか売ってないパンがあるんだって」


「さっき食べたばかりだろ」


「お昼の下見」


「買う気だな」


「二人で半分なら平気だよ」


 和真は笑い、前を向いた。


 みゆはいつものみゆだった。


 少なくとも、その時はそう思った。


住宅の並ぶ道を抜けると、車窓の向こうに畑が増えてきた。


 みゆは端末で地図を確かめながら、時々、道沿いの看板を指す。


「あ、あった。あと二キロだって」


「パンの店?」


「そう。売り切れてないといいな」


「そんなに人気なのか」


「知らない」


 和真が横を見ると、みゆは平然としていた。


「知らないのに、朝しかないって?」


「パンの売り場、午前中だけなんだって。評判までは調べてないけど、おいしいかどうかは食べたら分かるでしょ」


「それもそうか」


「難しく考えすぎだよ、和真は」


 その言い方が可笑しくて、和真は笑った。


 みゆは窓の外へ目を戻す。


 朝の光が、頬と髪にかかっていた。


 母屋では、みゆが喋れば必ず誰かが返す。


 フェンリスが言い返し、ひかげが困ったように笑い、ピピが途中から別の話を始めることもある。


 今、彼女の言葉を聞くのは和真だけだった。


 それが分かっているのか、みゆは何かを見つけるたびに、まず和真の方を見た。


「あの山、目的地?」


「もっと奥だな」


「まだ奥なんだ。ねえ、旅館って高いところにある?」


「温泉街の少し上らしい。着いたら、車は置いて歩けるよ」


「よかった。僕、歩きたいところいっぱいあるんだ」


「どれくらい?」


 みゆが指を折り始める。


 五本では足りなかった。


「……一泊だぞ」


「全部行くとは言ってないじゃん」


「今、両手使って数えてたけど」


「和真と相談して減らすの」


「俺が減らす役なのか」


「うん。僕だけだと、全部行きたくなるから」


 悪びれない笑顔に、和真も笑うしかなかった。


     ◇


 道の駅には、焼きたてのパンがまだ残っていた。


 みゆは売り場の前で真剣に悩み、甘いものと、野菜の入ったものを一つずつ選んだ。


 和真が財布を取り出そうとすると、すぐに止められる。


「この旅行のお金は、僕が出す」


「これくらい、いいよ」


「だめ。僕が誘った旅行だから」


「宿は懸賞だろ」


「だから、その他は僕」


 みゆは先に会計を済ませ、袋を受け取った。


 和真は出しかけた財布をしまいながら、隣を歩く。


「無理はするなよ。旅行で使う費用って、結構かかるぞ」


「ちゃんと持ってきたから平気」


「いつの間に貯めたんだ?」


 みゆは袋の中を覗き込み、パンが潰れていないか確かめた。


 それから、何でもないことのように答える。


「日払いのバイト、ちょっとしてた」


「バイト?」


「うん。終わったら、その日の分をもらえるやつ」


「それは分かるけど。朝から出かけてたの、それか」


「そう」


 屋外の休憩席に着くと、みゆは空いている椅子を選んだ。


 和真が向かいへ座ろうとすると、隣の椅子を軽く叩く。


「こっち」


「向かい、空いてるだろ」


「こっちの方が、景色一緒に見られるじゃん」


「……なるほど」


 納得して隣へ座ると、みゆは満足そうに袋を開いた。


 和真の手に、パンを一つ渡す。


「で、何の仕事だったんだ?」


「それは秘密」


「秘密にするような仕事なのか」


「僕が秘密にしたいだけ。別に、変なことしてないよ」


 みゆは笑った。


 和真がまだ気にしているのを見ると、少しだけ声を柔らかくした。


「時間も、もらえるお金も聞いてから行った。無理なことはしてないし、嫌なことがあったわけでもない。これなら安心?」


「……疲れてた日、あっただろ」


「そりゃ、働いたら疲れるよ。フェンリスだって、帰ってきたらお腹すいたって言うじゃん」


「そうだな」


「僕にもできること、あったんだよ」


 その一言は、少し嬉しそうだった。


 和真は、ようやく頷いた。


「じゃあ、今日はご馳走になる。ありがとう」


「うん。どういたしまして」


 みゆは自分のパンを一口食べ、すぐに和真を見る。


「そっち、どう?」


「うまいよ。野菜も結構入ってる」


「一口交換」


「いいけど、これ以上食べると昼に響くぞ」


「一口だから平気」


 結局、一口では済まなかった。


 片方を半分ずつ分けて、もう片方も同じようにする。


 みゆは両方の味を楽しみながら、どちらが酒菜の作る料理に合いそうか考えていた。


「こういうふうに、持って歩けるのもいいね」


「屋台で?」


「うん。でも、最初から増やしたら怒られそう」


「まずは決めた献立をちゃんと出せるように、って言われるだろうな」


「あ、声まで想像できた」


 みゆが笑う。


 和真も同じ声を思い浮かべ、つられて笑った。


 少し前まで、皆で暮らすための出費をどうするかと頭を抱えていた。


 今は、それぞれが働くために動いている。


 目の前でパンを食べているみゆも、自分の知らないところで、その一歩を踏み出していた。


 何でも自分が用意しなければと思いすぎるのも、よくないのかもしれない。


 和真がそんなことを考えていると、みゆが首を傾げた。


「何?」


「いや。今日は、みゆに案内してもらおうかなって」


「いいよ。置いていかないでね」


「案内するの、みゆだろ」


「うん。だから、ちゃんと隣にいて」


 和真は、その言葉にも深く考えず頷いた。


     ◇


 山道に入る前に、昼食を取った。


 みゆは当初の予定どおり食べられると主張したが、店の献立を見てから、少しだけ量を減らした。


「朝のパン、効いてるな」


「効いてないよ。夜のご飯のため」


「そういうことにしておく」


 和真が笑うと、みゆは軽く肩をぶつけた。


 食後、車へ戻る途中で端末が鳴った。


 フェンリスからだった。


『どの辺?』


 和真は立ち止まり、今から山道に入ることを伝えた。


 すぐに返事が来る。


『ちゃんと休んでる?』


『昼も食べたよ。休憩してから出る』


 送ると、今度は少し間が空いた。


『みゆは?』


 和真は隣を見る。


 みゆは店先に置かれた観光案内を読んでいた。


「フェンリスが、みゆはどうしてるって」


「元気だよって。今、和真の隣にいる」


「それは分かってると思う」


「じゃあ、すっごく元気」


 和真は、そのまま伝えるのはやめた。


『元気にしてる。着いたらまた連絡する』


 端末をしまうと、みゆが横から覗き込んだ。


「ちゃんと送ってくれた?」


「送った」


「すっごく元気って?」


「元気って」


「一番大事なところが抜けてる」


「そこなのか」


 みゆは笑いながら助手席へ乗り込んだ。


 車が進むにつれ、道の左右に山が迫る。


 川沿いの道は、緩やかに高さを増していった。


 みゆはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて会話が途切れた。


 和真が視線だけを向けると、彼女はうとうとしていた。


「眠かったら寝てていいよ」


「寝てない」


「今、目を閉じてた」


「景色を思い出してたの」


「まだ見てる途中だろ」


 みゆが小さく笑った。


 それから、背もたれへ頭を預ける。


「……ちょっとだけ」


「うん。着いたら起こす」


「途中ですごい景色があったら、それも起こして」


「分かった」


「あと、和真が眠くなったら」


「その時は止まるよ」


「うん」


 短い返事を最後に、みゆは静かになった。


 和真は速度を落とし、緩い曲がり角を抜ける。


 隣にいるみゆは、警戒する様子もなく眠っていた。


 フェンリスの忠告を思い出したが、この寝顔を見ていると、何に気をつけるべきなのか分からなくなる。


 少なくとも、無理をして楽しそうにしているようには見えなかった。


 そう思うと、和真も少し安心した。


     ◇


 温泉街は、川の両側に沿って広がっていた。


 道幅の狭い通りに、土産物屋や食事処が並んでいる。橋のたもとには湯気を立てる小さな湯場があり、その先で浴衣姿の客が写真を撮っていた。


「着いた?」


 みゆが目を開ける。


「街には入った。宿は、もう少し上」


「……起こしてって言ったのに」


「今、声をかけようとしてたんだよ」


 みゆは窓へ顔を寄せた。


 さっきまで眠そうだった目が、すぐに明るくなる。


「あれ、見たかったところ。橋の先の店も」


「分かったから、窓に近づきすぎるなよ」


「早く荷物置こう」


「そのつもり」


 坂道を上がり、案内板に従って曲がると、旅館の門が見えた。


 大きな建物ではなかった。


 低い屋根の向こうに木々があり、石を敷いた道が玄関まで続いている。


 車を止めると、係の人が出てきた。


 みゆは鞄より先に封筒を取り出し、予約の名前を伝える。


「お待ちしておりました。お二名様ですね」


「はい」


 その返事が、妙に嬉しそうだった。


 和真は二人分の鞄を持ち、後に続く。


 案内されたのは、本館の廊下を抜けた先だった。


 短い渡り廊下があり、その先に小さな庭を挟んで離れが建っている。


「こちらのお部屋でございます」


 仲居が戸を開けた。


 畳の居間に、窓際の小さな椅子と卓。奥には寝具を用意する部屋があり、その脇に洗面所へ続く戸が見える。


 窓の向こうには、垣根と庭木。その間から山の斜面が覗いていた。


「……離れなんだな」


「うん。落ち着いてていいでしょ」


 みゆは靴を脱ぎ、和真の方を振り返った。


 今にも窓際へ駆け寄りそうな姿から、ここへ来るのを楽しみにしていた気持ちが伝わってきた。


「二人で使うには、広いくらいだな」


「じゃあ、広く使おうよ」


「荷物を散らかすなよ」


「そういう意味じゃないって」


 仲居が、湯呑みと菓子を卓へ置いた。


 夕食の時間と外出時のことを説明してもらい、和真が頷く。


 みゆは、その横で既に鞄を開けていた。


「和真、お茶飲んだら行こう」


「着いたばかりだぞ」


「だから、まだいっぱい歩ける」


 仲居が穏やかに笑った。


「川沿いのお店でしたら、夕方には閉まるところもございます。お散歩には、今のお時間がよろしいですよ」


「ほら」


「分かったよ」


 和真は苦笑し、鞄を部屋の隅へ置いた。


 宿に着いたことをフェンリスへ送る。


 その間に、みゆは部屋の鍵と小さな財布を持って戻ってきた。


「準備できた」


「俺、まだお茶を一口しか飲んでないんだけど」


「じゃあ、あと二口待つ」


「口数で決めるな」


 みゆの笑い声が、静かな離れに広がった。


     ◇


 坂を下りると、温泉街の音が近づいた。


 店先で客を呼ぶ声。川の流れ。橋を渡る下駄の音。


 みゆは和真の腕へ自然に手を回した。


「足元、気をつけろよ」


「気をつけてるよ」


「それならいいけど」


 普段から距離の近い相手なので、和真は特に気にしなかった。


 みゆも、それを確かめるように少しだけ寄りかかる。


 最初に立ち寄ったのは、木で作った小物を並べる店だった。


 箸や皿の隣に、小さな動物の置物が置かれている。


 みゆはその中から猫を見つけた。


「ねえ、これ。僕っぽくない?」


 丸くなって眠る猫だった。


「寝てるところは、似てるかもな」


「もっと他にあるでしょ」


「楽しそうなところ?」


「寝てるのに?」


「気持ちよさそうだから」


 みゆは置物を見てから、和真を見た。


「それ、褒めてる?」


「褒めてるつもりだけど」


「じゃあ、いいや」


 店の奥にいた老店主が笑った。


「その猫は、うちに来る猫を見て作ったんだよ。仕事をしてても、お構いなしに膝に乗ってくるんだ」


「あ、それも似てる」


 和真が言うと、みゆが腕を軽くつねった。


「余計なこと言わない」


「自分で似てるか聞いたんだろ」


「和真の膝、空いてたら座るけどね」


「ほら」


 老店主は楽しそうに二人を見ていた。


 みゆは猫をそっと戻し、今度は細い木の札を手に取る。


 短い紐が付いていて、鍵に取り付けられるようになっていた。


「それは二枚一組。片方ずつ持てるんだ」


 説明され、和真はみゆの手元を見る。


 木目の似た札が、確かに二枚重なっていた。


「同じ木から取ってあるからね。まったく同じじゃないけど、並べると続きが分かる」


「へえ」


 みゆは二枚を並べた。


 薄い茶色の線が、一方から他方へつながっている。


「和真、どっちがいい?」


「俺も持つのか?」


「うん。二枚とも僕が持ってても仕方ないじゃん」


「そうだけど」


「嫌?」


「嫌じゃないよ」


 和真が左を選ぶと、みゆは右を自分の手元へ寄せた。


「じゃあ、こっちは僕」


 支払いも、彼女が先に済ませた。


 和真は礼を言い、受け取った札を財布の内側へしまう。


「鍵に付けないの?」


「帰ってから。今、落としたら困るだろ」


 みゆは何も言わずに笑った。


 その笑顔が少し照れたように見えて、和真は不思議に思った。


     ◇


 次にみゆが足を止めたのは、蒸し器の並ぶ店先だった。


 白い湯気の向こうに、小さな饅頭が並んでいる。


「一つずつ?」


「二人で一つ」


 和真の提案に、みゆが首を傾げた。


「どうして?」


「この後も食べるんだろ」


「……和真、分かってきたね」


「朝から見てればな」


 一つ買って、店の横で分けた。


 みゆは熱いと言いながら笑い、和真は持っていた紙をもう一枚重ねて渡す。


 その様子を見ていた店の女性が、通りの奥を指した。


「甘いものの後なら、あちらのお茶屋さんもいいですよ。川がよく見えますから」


「行ってみる」


「今日はお泊まり?」


「うん。上の旅館」


 みゆが宿の方を指すと、女性は頷いた。


「それなら、急がず回れますね」


「明日も歩く予定なんだ」


「じゃあ、朝の橋も見ていって。人が少なくて、気持ちがいいから」


 みゆはすっかり打ち解け、他にも店のことをいくつか聞いた。


 和真は隣で聞いていたが、会話の途中から、女性は以前からみゆを知っているような調子になっていた。


 その人懐っこさに、改めて感心する。


 店を離れる時には、小さな地図まで手渡されていた。


「みゆは、誰とでもすぐ話せるな」


「聞きたいことがあるだけだよ」


「それでも、あんなに楽しそうに話せるのはすごい」


 みゆが和真を見た。


「そう?」


「ああ。屋台でも助かると思う」


「仕事の話?」


「それもあるけど。俺も、話してると楽しいよ」


 みゆの歩調が、ほんの少しだけ乱れた。


 和真は足元を見た。


「石、引っかかった?」


「ううん」


「大丈夫か?」


「うん。大丈夫」


 みゆはもう一度、和真の腕へ両手を回した。


 さっきより、少し強く。


「じゃあ、もっと話そうよ。今日、まだいっぱい時間あるし」


     ◇


 川沿いの茶屋は、通りから一段下がったところにあった。


 二人は窓際の席へ案内された。


 川を見ながらお茶を飲み、みゆがもらった地図を広げる。


 印を付けていた場所は、確かに多かった。


「この先の石段は、今日はやめておくか」


「どうして?」


「登ったら、そのまま夕飯の時間になりそうだ」


「じゃあ、明日」


「明日も、夕方には帰るんだからな」


「分かってるって。ちょっと上まででいいよ」


 みゆは指先で地図をなぞった。


 その時、和真の端末が鳴った。


『今、何してる?』


 フェンリスだった。


『街を歩いてる。今はお茶を飲んで休憩中』


 和真は返信を送り、地図へ戻った。


 しかし、少しすると再び音がする。


『二人で?』


 和真は首を傾げた。


「二人で来てるんだから、そうだよな」


「フェンリス?」


「うん」


 みゆが湯呑みを置く。


「お昼も、宿に着いた時も送ってたよね」


「心配してくれてるんだろ」


「それは分かるけどさ」


 和真が短く返すと、さらに通知が届いた。


『写真は?』


「景色、送ろうか」


 和真が窓へ端末を向けようとすると、みゆが手を出した。


「ちょっと貸して」


「何を送るんだ?」


「僕から返す」


 みゆは和真の手から端末を受け取ると、画面に短い文を打った。


『みゆだよ。今はみゆのターン。和真、借りてるからね』


「……それ、怒らないか?」


 送信前の画面を見て、和真が言った。


「大丈夫。僕だって分かるし」


「そういう問題か?」


 みゆは笑って送信した。


 続けて、窓の向こうの川を一枚撮る。


『ちゃんと元気。帰ったらお土産渡すね』


 そこまで送ると、和真へ端末を返した。


 今度は自分の端末を取り出す。


 フェンリスとの画面を開き、少し考えてから、指を動かした。


『今度、ちゃんと時間を作って、和真を独り占めできる日は譲るから。今日は僕にちょうだい』


 送信すると、すぐには返事が来なかった。


 みゆは画面を伏せた。


 和真は、返された端末を手にしたまま、少し困っている。


「余計に心配させてないか?」


「後で僕からも話すよ。だから今、お茶飲もう」


「……うん」


 和真が端末を置いた時、通知音が鳴った。


『分かった。帰り、待ってるからね』


 フェンリスからだった。


 和真は小さく息をつき、明日は夕飯までに戻ると伝える。


 みゆの端末も、そのすぐ後に震えた。


『絶対だからね‼️』


 みゆは口元を緩めた。


『うん。約束』


 短く返して、今度こそ端末をしまう。


「ほら。大丈夫だったでしょ」


「何て送ったんだ?」


「女同士の話」


「俺が関係してそうなんだけど」


「してるよ」


「してるのか」


 みゆは楽しそうに笑った。


 和真は問い詰めるのを諦め、冷めかけたお茶を飲む。


 向かいに座っていたみゆが、自分の椅子を少し横へ寄せた。


 窓の向こうを指す。


「ねえ、あの橋。次、あっちから戻ろう」


「遠回りになるぞ」


「今日は、遠回りしていい日でしょ」


 和真は川の上にかかる小さな橋を見た。


 急いで帰る理由はない。


 夕食までは、まだ時間がある。


「そうだな。行こうか」


 みゆは、満足そうに頷いた。


     ◇


 その頃、酒屋の裏で休憩を取っていたフェンリスは、端末を何度も見直していた。


 和真から届いた川の写真。


 みゆから届いた約束。


 どちらも、言葉の通りなら心配する必要はない。


 それでも、指がまた画面へ向かう。


 今度こそ端末を伏せ、深く息を吐いた。


「……僕の番も、あるんだから」


 誰に言うでもなく呟く。


 店の方から、声をかけられた。


 フェンリスはすぐに顔を上げた。


「はい! 今、行きます!」


 立ち上がり、端末をしまう。


 今ここで、自分を頼ってくれている人がいる。


 それを放り出したくなかった。


 みゆにも、そのことは分かっているはずだ。


 分かっているから、こんなにも腹が立つのかもしれない。


 フェンリスは店へ戻る前に、もう一度だけポケットを押さえた。


 帰ってきたら、絶対に約束を守らせよう。


 その決意だけは、はっきりしていた。


     ◇


 橋の向こうの道は、表通りより人が少なかった。


 川を挟んで、先ほどまで歩いていた店並みが見える。


 みゆは和真の手をつかみ、低い石垣のそばまで引いた。


「ここから撮って」


「写真?」


「うん。あっちの橋も入れて」


 和真は端末を受け取り、少し下がった。


 みゆが笑って手を振る。


 一枚撮ると、すぐに駆け寄ってきた。


「見せて」


「まだ動くなよ。もう一枚撮ろうと思ってたのに」


「一枚でいいよ。次は和真も」


「俺も?」


「この前は、皆で撮ったじゃん。今日は二人のも欲しい」


 みゆは端末を持ち直し、画面をこちらへ向けた。


 和真が隣へ立つ。


 みゆはその腕を引いて、顔を寄せた。


「もっとこっち。和真、半分いない」


「こうか?」


「うん。笑って」


「今、そんな急に言われても」


「じゃあ、いつもみたいに僕を見て」


 和真が顔を向ける。


 みゆは、すぐ近くで笑っていた。


 それが可笑しくて、和真も自然に笑った。


 その瞬間に撮影音が鳴った。


「……今?」


「うん。いい顔」


 画面を見せられる。


 和真は正面を向いていなかったが、みゆと同じくらい楽しそうに笑っていた。


「これも、横向いてるな」


「僕はこっちが好き」


 みゆは写真を保存した。


 送っておくと言われ、和真は頷く。


 端末をしまった後も、みゆは腕を離さなかった。


 むしろ、先ほどより近い。


「今日は、ずいぶんくっつくな」


 和真が言うと、みゆは顔を上げた。


「嫌?」


「歩きづらくないのかと思って」


「僕は平気」


「なら、いいけど」


 みゆは少し黙った。


 やがて、和真の腕を見つめたまま言う。


「和真って、そういうところあるよね」


「どういうところ?」


「……何でもない」


 今度は笑っていなかった。


 和真が気になって顔を覗き込むと、みゆは先の方を指した。


「足湯、空いてる。寄ろうよ」


 話題は変わってしまった。


 和真は少し気にしながらも、彼女に続いた。


     ◇


 足湯には、年配の夫婦が一組いるだけだった。


 二人は端の方へ腰を下ろし、歩き続けた足を湯へ入れた。


「あったかい」


 みゆが声を漏らす。


 和真も息をついた。


 休んでみると、思ったより長く歩いていたことが分かる。


「夕飯まで、ここで寝そうだな」


「それはだめ。旅館に帰れなくなる」


「みゆが起こしてくれればいいだろ」


「僕も寝たら?」


「二人とも夕飯抜きか」


「それは絶対だめ」


 みゆは笑い、和真の肩へ頭を預けた。


 湯の流れる音を聞きながら、しばらく黙る。


 近くの木々が風に揺れた。


 向こうの夫婦が立ち上がり、会釈をして帰っていく。


 二人きりになると、みゆが小さく言った。


「来てよかった?」


「うん。楽しいよ」


「本当?」


「何でそこ、疑うんだ」


「別に。聞きたかっただけ」


 みゆは肩へ預けた頭を動かさず、足元の湯を見ていた。


「僕、ちゃんと案内できてる?」


「できてる。俺だけなら、こんなにいろいろ回ってない」


「そっか」


 その返事は、安心したようだった。


 和真は横顔を見た。


 普段のみゆなら、楽しませることをわざわざ確認しない。


 自分が楽しいと思ったものへ、和真の腕を引いていく。


 今日はそうしていながら、時々、こちらの顔をうかがっている。


「みゆも、楽しんでるか?」


「うん」


「俺のことばかり気にしなくていいからな」


「……気にするよ」


 返事は、すぐだった。


 みゆは顔を上げた。


「和真と来たんだもん」


 まっすぐな目だった。


 和真は言葉を探したが、みゆは先に笑った。


「だから、ちゃんと最後まで付き合ってね。まだ、明日もあるから」


「分かってるよ」


 和真が答えると、みゆはもう一度、肩へ頭を預けた。


 ほんの少しだけ、力が抜けたようだった。


     ◇


 旅館へ戻る頃には、通りに明かりが灯っていた。


 坂道を上がりながら、みゆは今日入った店の名前を順番に挙げていた。


「お土産は、明日の帰る前でいいよね」


「その方が持ち歩かずに済むな」


「ピピの分、多めにする?」


「皆の分を食べないように、最初に分ければいいよ」


「フェンリスにも、多めにしようかな」


「機嫌を取るつもりか」


「おいしいものを食べたら、嬉しいでしょ」


「まあ、それはそうだな」


 和真は笑った。


 離れへ戻ると、間もなく仲居が夕食の用意に来た。


 二人は鞄や上着を端へ寄せ、卓の前に座る。


 料理を並べながら、仲居が風呂の説明をした。


「お風呂は、奥の洗面所の先にございます。内側の浴室と、外の露天風呂、どちらもお部屋専用ですので、お好きな時にお使いください」


「露天も付いてるんですか」


 和真が尋ねると、仲居は頷いた。


「はい。庭を囲っておりますので、外からは見えません。お湯の温度など、気になることがありましたらお知らせください」


「ありがとうございます」


 和真が頭を下げる隣で、みゆは静かに微笑んでいた。


 最初から知っていた顔だった。


 仲居が部屋を出てから、和真はみゆを見る。


「ずいぶん、いい部屋が当たったんだな」


「でしょ」


「二人分の懸賞って、こういうところもあるんだな」


「あるんだね。僕も、案内を見てびっくりした」


 嘘は言っていなかった。


 ただ、見た時に何を考えたのかまでは、話していなかった。


 みゆは箸を取り、和真へ向き直る。


「食べよう。冷めたらもったいない」


「そうだな」


 卓の上には、山の野菜を使った料理や、川魚、小さな鍋が並んでいた。


 みゆは一つ食べるたびに目を丸くし、和真にも勧める。


「これ、おいしい。何だろ」


「説明に書いてあるよ」


「読んだけど、想像と違った」


「いい方に?」


「すごく」


 和真も箸を伸ばし、頷いた。


 みゆは嬉しそうに笑う。


 自分が作った料理ではないのに、和真が気に入ると安心するらしかった。


「酒菜なら、食べただけで作り方が分かるかな」


「どうだろうな。気になるところは聞くと思う」


「じゃあ、後で聞いてみよう。持って帰れるお土産ばっかりじゃなくてもいいよね」


「いいと思う」


 食事の話から、屋台の話になった。


 そこからピピの歌や、ナディアのゲームの腕、ユエが端末に慣れるまでの話へと移っていく。


 離れていても、話題には皆がいた。


 みゆはそれを嫌がらなかった。


 酒菜の真似をして笑い、フェンリスなら今の一言に何と言うかを考え、ひかげが困る顔まで思い浮かべていた。


 誰かを追い出して二人きりになりたいわけではないのだと、和真は何となく感じた。


 それでも、今日はこうして向かい合っていることが嬉しいのだろう。


 その気持ちは、少し分かる気がした。


 最後に出されたお茶を飲みながら、みゆが言う。


「和真」


「ん?」


「今日、僕しかいないよ」


 和真は湯呑みを置いた。


 みゆは笑っていたが、その声は、昼間より静かだった。


「それは、見れば分かるけど」


「うん。だから、ちゃんと見てて」


 返す言葉が、すぐには見つからなかった。


 廊下から、食器を下げてもよいかと声がかかった。


 和真が返事をすると、みゆは普段の顔に戻った。


 仲居に料理のことを尋ね、教えてもらった話を端末へ残していく。


 和真はその横顔を見ていた。


 フェンリスが出発前に言っていた言葉が、今になって胸に引っかかった。


 いつもの冗談だと思っていると、違うこともある。


 その意味を確かめる夜は、もう始まっていた。


食器が下げられた後も、みゆはしばらく端末を見ていた。


 仲居から聞いた料理の話を、忘れないうちに書き留めている。


「酒菜、喜ぶかな」


「喜ぶと思うよ。作ってみたいって言うかもしれない」


「じゃあ、その時は僕も手伝おう」


 みゆは最後の一行を打ち込み、端末を伏せた。


 和真の方へ向き直る。


「お風呂、先に入ってきなよ」


「みゆからでいいよ」


「今日はずっと運転してくれたじゃん。先にゆっくりして」


「明日も運転するけどな」


「明日の分も、今からお礼を言ってるの」


 和真は笑った。


 そんなふうに言われると、いつもと変わらない会話に思える。


 けれど、先ほどの言葉がまだ気になっていた。


 今日、僕しかいないよ。


 ちゃんと見てて。


 みゆは、その続きを言おうとはしなかった。


 畳んだ浴衣とタオルを和真へ渡し、浴室へ続く戸を指す。


「ほら。お湯、冷めちゃうよ」


「流れ続けてるみたいだから、大丈夫だと思うけど」


「じゃあ、僕が待ちくたびれちゃう」


「今から入るんだろ」


 みゆが笑う。


 和真も苦笑して、着替えを受け取った。


     ◇


 浴室は、思っていたよりも広かった。


 内湯の脇に洗い場があり、外へ続く戸の向こうから、湯の流れる音が聞こえる。


 少しだけ戸を開けてみると、庭の明かりに照らされた露天風呂が見えた。


 垣根の上に庭木が重なり、その向こうに暗い空が広がっている。


「……本当に、二人用なんだな」


 和真は小さく呟いた。


 皆で来た温泉旅行とは、何もかも違う。


 廊下から呼ぶ声もなければ、誰かが忘れ物を取りに戻る足音もない。


 内側へ戻り、湯を浴びる。


 長く車に乗り、その後は街を歩き続けていたせいか、座るとようやく疲れを自覚した。


 楽しい一日だった。


 みゆが次々と見つけるものに付き合っているうちに、自分まで、普段より多く笑っていた気がする。


 明日も、あの調子で歩くのだろう。


 帰りの運転で眠くならないように、今夜は早めに休もう。


 そう考えながら、和真は髪を洗い始めた。


 戸が動く音がしたのは、その時だった。


「和真」


「ん? どうした?」


 脱衣所から呼ばれたのだと思った。


 返事をしても、すぐには次の言葉が来ない。


 代わりに、すぐ後ろで足音が止まった。


 和真が顔を上げようとした瞬間、みゆが背中から抱きついてきた。


「……っ、みゆ!?」


 思わず手が止まる。


 入浴に来たみゆは、何も身につけていなかった。


 柔らかな肌が、直接背中に密着する。


 そのことに気づき、和真は慌てて前へ向き直った。


「待って、何してるんだ!」


「抱きついてる」


「それは分かる! とにかく、一回離れてくれ。まだ泡も流してないから」


 みゆの腕は、すぐにはほどけなかった。


 むしろ、少しだけ力を込めて、和真の腰に回したまま、耳元へ顔を寄せる。


「僕、和真のこと、すっごく好き」


 熱い吐息が、耳の裏を掠めた。


「好きで好きでたまらなくて……子供も欲しくて、和真と、いろいろしたい」


「み、みゆ……!」


 和真がさらに慌てて身をよじると、みゆは顔を上げ、真っ直ぐに彼の唇を奪った。


 短い、しかし確かなキス。


 和真の頭の中が真っ白になる。


 みゆはゆっくりと唇を離し、赤い顔のまま和真を見上げた。


 湯気の向こうで、頭の上の猫の耳がぴくりと動き、後ろには二本の尻尾がそれぞれ伸びている。


 外を歩いていた時とは違う、猫又の姿だった。


「……本気、だよ」


 和真は、ようやくそれが冗談でも、いつものからかいでもないことを理解した。


「気持ちは、ちゃんと聞いた。でも、今は待ってほしい」


「嫌」


 返事は、思ったより強かった。


「……待ってるうちに、何もなかったことになるのは嫌だよ」


「そういう意味で言ったんじゃない」


「僕がまた笑ったら、いつもの冗談だったってことにする?」


「しない」


 和真は、今度は迷わず答えた。


 みゆの肩が、少し下がる。


「僕、和真に他に好きな人がいても構わないよ」


「それは……」


「僕だけにして、なんて言ってない。皆がいなくなればいいとも思ってない」


 みゆは少し考え、言い直した。


「付き合うとか結婚するとか、そういう形を今すぐ決めたいわけじゃないんだ。ただ、そばにいて、甘えられて、触れ合えて……その先で、子供もいたらいいって思ってる」


 真っ直ぐな瞳が、和真を捉えて離さない。


 裸のみゆと、泡の残る和真。


 湯の音だけが、二人の間に流れる。


 しばらくして、和真は小さく息を吐いた。


「……わかった」


 みゆの耳が、ぴくりと立つ。


「でも、今はまだ、そういう関係は待ってほしい」


 みゆは渋々、腕をほどいた。


 少し離れた位置で、唇を尖らせる。


 和真はようやくシャワーを手に取り、髪の泡を洗い流した。顔を拭って振り返ると、みゆは同じ場所で待っていた。


「……わかった。じゃあ、今夜は裸で抱きしめて寝てくれるなら、今は諦める」


「抱きしめるだけか?」


 みゆは素直に頷いた。


「うん。それ以上は、しない」


「服は着てた方が、落ち着くんだけど」


「ダメ」


 きっぱりと言ってから、みゆは少しだけ目を伏せた。


「……僕は、そうしたい」


 今度の声は、小さかった。


「いつも、途中でふざけちゃうから。和真が困った顔をしたら、冗談だよって笑って、それで終わりにしちゃうから」


 和真は黙って聞いた。


「今日は、そうしたくない。猫又の僕も、和真が好きで仕方ない僕も、隠さないでいたい」


 みゆが顔を上げる。


「そのままの僕を、和真にも抱きしめてほしいんだよ」


 言い切ると、彼女は和真の返事を待った。


 強い言葉とは裏腹に、その目には不安があった。


 和真は困ったように息をついた。


 まだ、気持ちの整理はつかない。


 それでも、彼女の願いを聞いて、抱きしめてやりたいと思ったのは本当だった。


「……わかった。ただ、一緒に寝るだけだからな」


「うん」


 みゆは今度こそ、静かに頷いた。


     ◇


 それぞれ身体を洗い終えると、二人は外へ続く戸を開け、露天風呂へ移った。


 和真が先に湯へ入り、みゆも隣へ腰を下ろす。


 湯が小さく揺れ、縁からこぼれた。


 和真は庭の方を向いた。


 その顔がまだ赤いことに気づき、みゆがにやりと笑う。


「……からかわれてるのか?」


「からかってないよ」


 そう答えると、みゆは和真の腕にそっと触れた。


「もう少し、寄ってもいい?」


 和真が頷くと、彼女は距離を詰めた。


 肩へ頭を預け、ほっとしたように目を閉じる。


 今度は、和真の反応を見て笑わなかった。


 ただ、静かに寄り添っていた。


「……こういうのも、したかった」


「こういうの?」


「和真と一緒に、何もしない時間」


「今日は、ずっと動き回ってたもんな」


「うん。あれも楽しかったけど」


 みゆは空へ目を向けた。


「今も、楽しい」


 和真は、ようやく少し笑えた。


「そっか」


「和真は?」


「……まだ、落ち着かない」


「正直だね」


「嘘をついても分かるだろ」


「うん。分かる」


 みゆの返事は、嬉しそうだった。


     ◇


 風呂を上がる頃には、和真は普段よりも疲れた気がしていた。


 長湯のせいだけではない。


 浴衣を着て部屋へ戻ると、奥には二組の布団が敷かれていた。夕食の片付けの際に頼んでおいた寝具を、入浴中に整えてくれたらしい。


 和真が水を飲んでいると、浴衣を着たみゆが後からやってきた。


 タオルで髪を拭きながら、和真の前へ座る。


「和真は眠い?」


「誰かさんのおかげで、目は覚めてるよ」


「よかった」


「よかったのか」


「まだ話したかったから」


 みゆはタオルを膝へ下ろした。


 猫の耳が、和真へ向く。


「さっきの約束、覚えてる?」


「覚えてるよ」


「……困らせたままかなって、思って」


 和真はコップを置いた。


 みゆは、こちらの顔をうかがっていた。


「返事の代わりにしてほしいんじゃないよ。今日の最後に、そうしてもらえたら嬉しい」


 和真は少し考えた。


 驚いたことも、まだ落ち着かないことも、変わらない。


 けれど、露天風呂で肩へ頭を預けていたみゆを、離したいとは思わなかった。


「抱きしめて寝るだけなら、俺も一緒にいたいよ」


 みゆの顔が、ぱっと明るくなった。


「……うん」


 短い返事の後、タオルを持ち直して髪を拭き始める。


 その口元が緩んでいることに、今度は和真も気づいた。


     ◇


 灯りを消す前に、和真は皆へ連絡した。


 旅館でゆっくり過ごしていて、明日は予定どおり帰ること。


 皆の方はどうだったかという問いに、返事がいくつも重なった。


 ひかげから、配信は無事終わったこと。


 ピピは張り切って歌い、ナディアは負けた勝負の話を明日すると言っていること。


『負けたまま終わったわけじゃない。そこも伝えろ』


 ナディア本人から、すぐに補足が届いた。


 和真が笑うと、みゆが横から画面を覗く。


「言いそう」


「帰ったら、長くなりそうだな」


 リディアからは、受付が予定どおり始まったことが届いた。


 ユエは必要な内容をまとめてくれたらしい。


『詳しい話は帰ってからで構いません。明日もお気をつけて』


 酒菜は仕入れの相談を終え、あおいは祭りを無事に手伝えたと伝えてきた。


 最後にフェンリスから、短い返事があった。


『おやすみ。明日、待ってる』


 和真は同じように返し、端末を置いた。


 みゆは自分の端末を見ていたが、何かを書きかけて消した。


「フェンリスに?」


「うん。でも、明日でいいや」


 端末を裏返し、布団の方へ向く。


「寝ようか」


 和真は頷いた。


 頷いたものの、すぐには動けなかった。


 みゆが、そんな和真を見て笑う。


「……そんなに悩む?」


「みゆみたいには、切り替えられないんだよ」


「じゃあ、僕から行く」


「待って。灯りを消してから」


「うん」


 みゆは素直に待った。


     ◇


 灯りを消して浴衣を脱ぐと、二人は約束どおり、裸のまま同じ布団へ入った。


 和真が横になると、みゆが顔を向ける。


「こっち向いて」


「……うん」


「そんなに固くならなくても、取って食べたりしないよ」


「言い方が余計に不安なんだけど」


 みゆが笑った。


 和真も少し笑い、それでようやく肩の力が抜けた。


「腕、ここでいい?」


 みゆが尋ねる。


 和真が頷くと、彼女は胸元へそっと額を寄せた。


 和真も、約束どおり背へ腕を回す。


 二本の尻尾を踏まない位置へみゆが寄せ直し、和真は掛け布団の端を少し持ち上げた。


「大丈夫か?」


「うん。ありがと」


 裸のみゆの体が、直接和真に密着する。


 柔らかな温もり。肌の質感。胸の膨らみ。腰の曲線。腿の内側の熱。


 男として、反応してしまう。


 和真が小さく息を詰めると、みゆはにやりと笑った。


「……ん?」


「何でもないよ」


 和真は天井を見たくなったが、彼女が顔を寄せているので、そう簡単には動けない。


 近すぎる。


 それでも、嫌だから離したいわけではなかった。


「和真、まだ起きてる?」


「今、横になったばかりだろ」


「さっきから、ずっと黙ってるから」


「何を言えばいいか考えてた」


「何も言わなくてもいいよ。いるって分かるから」


 みゆは目を閉じた。


 和真は、その顔を見た。


 昼間の写真を撮る時とも、温泉街で腕を組んでいた時とも違う。


 誰かをからかうための笑みではなく、ただ安心している顔だった。


 和真は、背に回した手を少しだけ動かした。


 みゆの呼吸がゆっくりになる。


 眠ったのだろうか。


 そう思うと、和真の頭の中に、今日の言葉が次々戻ってきた。


 好き。


 そばにいたい。


 いつか、自分との子供が欲しい。


 みゆは、そこまで考えていた。


 和真が、ただ人懐っこいからだと思っていた間も。


 その事実を、どう受け止めればいいのか。


 答えは、まだ出なかった。


     ◇


 ナディアの声を思い出した。


 長い時間、自分を想っていたと知った時の驚きも。


 リディアが、会いたくて来たのだと話した時の横顔も。


 どちらの気持ちも、忘れたわけではない。


 返事を待ってもらっている。


 その途中で、今度はみゆの気持ちを知った。


 皆が違う言葉で、同じ自分へ想いを向けている。


 それを嬉しいと思う自分がいる。


 嬉しいというだけで済ませてはいけないと思う自分もいる。


 ナディアには、ナディアと過ごしてきた時間があった。


 リディアについては、つい先日の外出で、知らなかったことをいくつも知った。


 みゆだって同じだった。


 毎日顔を合わせているからといって、全部分かっているわけではない。


 今日、みゆが財布を出すたびに、そのことを感じた。


 自分の知らないところで働き、調べ、準備していた。


 楽しませようとしてくれていた。


 いつもの笑顔のまま、こちらが気づくよりずっと前から、二人で過ごす時間を待っていた。


 それは、嬉しかった。


 ただ、みゆの場合は、気持ちを伝えられることと、距離が近くなることがほとんど同時だった。


 考える暇がない。


 嫌ではないからこそ、簡単に遠ざけることもできない。


 裸で抱きつくみゆ。


 決して嫌いではない。


 どちらかと言えば、好きなところが多い。


 和真は小さく息を吐いた。


「……いきなりは、勘弁してくれよ」


 声に出してから、眠っているみゆを起こさないかと気にした。


 すると、胸元で返事がした。


「僕は、ずっと考えてたよ」


 和真は目を瞬かせた。


「起きてたのか」


「うん」


 みゆが顔を上げた。


 眠そうではなかった。


 猫の耳が、まっすぐ和真へ向いている。


「……また、僕が思いつきで困らせてるって思った?」


「そうじゃない。ただ、俺はまだ、気持ちが追いついてなくて」


 みゆは唇を結んだ。


 分かっていたつもりだった。それでも、ため息に続いた言葉を聞いて、また悪ふざけとして片付けられる気がした。


「和真は、今夜初めて聞いたんだろうけど。僕は、ずっと考えてた」


「……うん」


「今日だって、ずっと言いたかった。車でも、お茶飲んでる時も。腕を組んだ時も、写真撮った時も」


 和真は黙って聞いた。


「言ったら、和真が困るのも分かってたよ。すぐに答えてくれないかもってことも」


 みゆは眉を寄せた。


 普段の、わざと膨れて見せる顔ではなかった。


「でも、僕だって、これでも我慢してるんだよ。いつも笑ってるからって、平気だと思わないで」


 和真の胸に、その言葉が残った。


 みゆが、こんな顔で自分に怒ったのは初めてだった。


「……みゆも、ずっと緊張してたんだな」


「してたよ。当たり前じゃん」


 声が、少し揺れた。


「ごめん。自分が驚いたことばかり考えてた」


 和真は背へ回していた腕を緩めた。


 話しやすいように、少しだけ身体を起こす。


 みゆも枕から顔を上げた。


「僕、今、発情期なんだ」


 和真はすぐには答えなかった。


 みゆは、目を逸らさずに続けた。


「いつもより、気持ちが落ち着かない時期。和真がいないと気になるし、そばにいると、もっと近くにいたくなる。この何日か、自分でもちょっと持て余してた」


 出かける前からの様子が、和真の中でつながった。


 袖をつかんでから離す指。


 何でもないと笑っていた顔。


 食卓で時々、遠くを見るように黙っていたこと。


「それで、最近……」


「うん。でも、和真が好きなのは、それより前からだよ」


 みゆはそこだけ、強く言った。


「今だけの気分だと思われたくないから、先には言いたくなかった」


「そうか」


「僕は、いつか和真と交尾して、子供が欲しい。お風呂で話したのも、その場だけの勢いじゃないんだよ」


 和真は黙って頷いた。


「でも、和真が待ってほしいって言ったから、待つって決めた。もっと甘えたいのも、全部お願いするのはやめた。だから、僕には何でもないことみたいに言われると……ちょっと、嫌だ」


 言い終えてから、みゆは目を伏せた。


「……今すぐ応えてくれない和真が悪いって、言いたいんじゃないよ。ただ、僕も簡単に言えたわけじゃないんだ」


 最後の声は、怒りよりも寂しさに近かった。


 和真は、すぐに慰める言葉を探すのをやめた。


 探してしまえば、また彼女の気持ちを、都合よく簡単なものへ変えてしまいそうだった。


「冗談だとは思ってないよ」


 和真は言った。


「でも、分かってなかったことはあった。今の話を聞くまで、気づいてなかったことも。だから、話してくれてありがとう」


 みゆは少しだけ目を伏せた。


「……うん」


「今、どうしてほしい?」


 尋ねると、みゆは一瞬、和真を見た。


 それから、布団の上に置いた手へ視線を落とす。


「約束したのでいい」


「抱きしめて、寝る?」


「うん。でも、和真もちゃんと」


 言葉を途中で止め、みゆが少し困ったように笑った。


「僕だけが、くっついてる感じじゃなくて」


 和真は頷いた。


 二人で横になり直す。


 今度は、和真から腕を回した。


 みゆが一度、短く息を吸った。


 それからゆっくり、胸元へ額を寄せる。


「……これ」


「うん?」


「こうしてほしかった」


 和真は、もう言葉を足さなかった。


 腕を離さず、彼女が落ち着くのを待った。


     ◇


 しばらくすると、みゆが小さく笑った。


「何?」


「和真、真面目だなと思って」


「さっきまで怒ってただろ」


「うん。怒ってた」


「じゃあ、からかわないでくれ」


「からかってないよ。今のは、好きだなって思っただけ」


 和真は返事ができなかった。


 みゆは目を閉じたまま、口元を緩める。


「ほら。また困ってる」


「……慣れてないんだよ」


「じゃあ、少しずつ慣れて」


「少しずつならな」


「うん」


 短い返事だった。


 それが嬉しそうで、和真の方も少し笑った。


 みゆは顔を上げずに尋ねた。


「明日も、一緒に歩いてくれる?」


「そのために来たんだろ」


「今日の話したから、変になるかなって」


「多少、意識はすると思う」


「それは、してほしい」


「……そうか」


 和真が困ると、みゆは小さく笑った。


「でも、嫌になってないならいい」


「なってないよ」


 今度は、和真も迷わず答えられた。


 みゆの手が、和真の背へ回った。


「おやすみ、和真」


「おやすみ」


 その後しばらくは、二人とも起きていた。


 庭を渡る風の音を聞き、遠くで戸の閉まる音がするたびに、少しだけ意識を向ける。


 みゆの呼吸が、やがて静かに整った。


 今度こそ眠ったらしい。


 和真は、腕の位置を少し直した。


 彼女を起こさないように動くだけでも、自分が何をしているのか意識してしまう。


 けれど、さっきよりは落ち着いていた。


 言葉を聞けたからだと思う。


 みゆは、笑うだけではなかった。


 怒ることも、不安になることもある。


 知っていたはずのことを、今夜は近くで教えられた。


 すぐに答えが出るわけではない。


 それでも、もう知らなかったことにはできない。


 和真は目を閉じた。


 眠れる気は、まだしなかった。


 そう思っていたはずなのに、一定の呼吸と、腕の中の温かさを感じているうちに、考えていたことの輪郭が少しずつ曖昧になっていった。


 次に目を開けるまで、みゆの腕が離れることはなかった。


鳥の声で、和真は目を覚ました。


 見慣れた天井ではなかった。


 障子の向こうが明るい。庭から聞こえる水の音も、母屋で迎える朝とは違っていた。


 腕を動かそうとして、すぐそばにいるみゆに気づく。


 猫の耳が、一度だけ小さく動いた。


「……おはよう」


 まだ眠そうな声だった。


 和真は返事をしかけ、昨夜のことを思い出した。二人とも何も身につけず、同じ布団で眠ったのだった。


「お、おはよう」


「朝から変な声」


「誰のせいだと……」


 言いかけると、みゆが目を開いた。


 和真を見て、それから、ゆっくり笑う。


「よく眠れた?」


「……途中からは」


「僕も。すごく」


 その顔には、昨夜の不安も、怒った時の険しさも残っていなかった。


 いつものように楽しそうで、それでいて、まだ起きたくなさそうだった。


 和真は布団から出ている端末へ手を伸ばした。


「そろそろ支度しないと。朝飯の時間、決めてあるから」


「あと五分」


「その五分、何回言うつもりだ?」


「今日は一回」


「今日は、なのか」


 みゆが笑った。


 和真は端末を戻した。


 すると、みゆは意外そうに顔を上げた。


「いいの?」


「五分なら」


「……そっか」


 声が、少し小さくなった。


 みゆはもう一度、目を閉じた。


 和真は障子に映る庭木の影を見ていた。風が吹くたび、細い枝の影がゆっくり揺れる。


 昨日までなら、ただ甘えているのだと思っただろう。


 今は、同じ仕草にも、聞いてしまった言葉が重なる。


 それでも、五分くらいなら、このままでいたいと思った。


     ◇


 約束の五分が過ぎると、みゆは意外なほど素直に腕をほどいた。


「じゃあ、着替えようか」


「……うん」


「和真、向こうで着替えて。僕、こっちにいるから」


 昨夜の勢いが嘘のように、あっさり言われた。


 和真が戸の方を見ると、みゆは布団をかぶったまま首を傾げる。


「何?」


「いや。何でもない」


「また赤くなってる」


「言わなくていいから」


 みゆの笑い声を背に、和真は浴衣を羽織って隣の部屋へ移った。


 着替えを終え、洗面所で顔を洗う。


 冷たい水で、ようやく頭がはっきりした。


 鏡の中の自分は、いつも通りだった。


 ただ、みゆにどういう顔を向ければいいのかは、まだよく分からなかった。


「和真、忘れ物ない?」


 部屋へ戻ると、みゆは既に鞄を閉じかけていた。


 外出用の服を着て、見た目も人の姿に整えている。


「今、確認する」


「充電の線、そっち」


「ああ、ありがとう」


「あと、昨日の地図。捨てないでね」


「今日も使うだろ」


「今日が終わっても」


 和真は折り畳みかけた地図を見た。


 みゆの付けた印の隣に、昨日、二人で書き足した小さな丸がある。


 行った店。気になった食べ物。今日へ回した石段。


「……分かった。鞄に入れておく」


「うん」


 みゆは嬉しそうに頷き、部屋の隅をもう一度確かめた。


 和真も財布を開いた。


 内側にしまった木の札は、なくなっていなかった。


 それを見ていたみゆが、何か言いかける。


「帰ったら、ちゃんと付けるよ」


 先に言うと、みゆは口を閉じた。


 そして、小さく笑った。


「まだ何も言ってないじゃん」


「言いそうだったから」


「……分かってきたね」


     ◇


 朝食は、本館の食事処で用意されていた。


 窓際の席に座ると、庭の奥に山が見えた。昨夜は暗くて分からなかった斜面が、朝日に照らされている。


 みゆは味噌汁を一口飲み、ほっと息をついた。


「おいしい」


「昨日の夜、あれだけ食べたのにな」


「寝たから、お腹すいた」


「分かりやすいな」


「和真も、おかわりしそうな顔してるよ」


「どんな顔だよ」


 結局、和真もご飯をおかわりした。


 みゆはそれを見て笑ったが、自分も同じように茶碗を差し出していた。


 食事を終える頃、昨日の仲居が挨拶に来た。


「お休みになれましたか」


「はい。ぐっすり」


 みゆが答える。


 和真は湯呑みを持ち上げ、少し遅れて頷いた。


「静かで、よかったです」


「それは何よりでございます。今日は、お帰りの前にお出かけですか」


 みゆが地図を見せると、仲居は石段の途中にある見晴らしのよい場所を教えてくれた。


 全部登らなくても、町と川が見えるらしい。


「そこまでにしようか」


 和真が言うと、みゆは頷いた。


「うん。約束どおり、ちょっと上まで」


 部屋へ戻って荷物を取り、戸口で一度振り返る。


 卓も、窓際の椅子も、昨夜のままだった。


 みゆは部屋の鍵を見つめてから、和真の隣へ来た。


「また来たいね」


「……そうだな。いい宿だった」


「宿だけ?」


 和真が困ると、みゆは先に歩き出した。


「続きは、また今度聞く」


 振り向かずに言った耳まで、少し赤かった。


     ◇


 宿を出る手続きを済ませると、昼頃まで車を置いてよいと言ってもらえた。


 二人は鞄を荷室へ積み、歩くための小さな荷物だけを持った。


 和真が車の鍵をしまったところで、みゆが手を差し出す。


「はい」


「……何?」


「昨日、約束したでしょ。一緒に歩くって」


「それは覚えてるけど」


 差し出された手を見る。


 昨日までは、みゆの方から腕を取っていた。


 今日は、待っていた。


 和真がその手を握ると、みゆは一度だけ指を動かした。それから、確かめるように握り返してきた。


「行こう」


「石段では、足元を見ろよ」


「分かってるって」


 坂を下りる間も、手はつながったままだった。


 朝の通りには、店を開ける支度をしている人が多かった。


 暖簾を掛ける音がして、どこかから箒で石畳を掃く音が聞こえる。


 昨日饅頭を買った店の前を通ると、店の女性が二人に気づいた。


「おはよう。橋、これから?」


「うん。その後、上も見に行く」


 みゆが石段の方を指す。


「今なら涼しくていいわね。気をつけて行ってらっしゃい」


「後でお土産買いに来るね」


「ありがとう。用意して待ってるわ」


 手を振って離れると、みゆは和真の方を見た。


「覚えててくれた」


「昨日、結構長く話してたからな」


「和真のことも覚えてたよ」


「一緒にいたからだろ」


「今日も一緒にいるね」


 何でもないことのように言われた。


 和真は頷いたが、握っている手を、さっきより意識してしまった。


     ◇


 朝の橋には、まだ人が少なかった。


 川の水が、明るく光っている。


 みゆは欄干の手前で足を止め、昨日写真を撮った場所を探した。


「あそこだ」


「昨日とは反対から見てるんだな」


「うん。ねえ、今日も撮ろう」


 端末を取り出そうとして、みゆはつないだ手を見下ろした。


 和真が笑う。


「離さないと出せないだろ」


「……出して」


「俺が?」


「和真の端末でいいから」


「そこまで離したくないのか」


「うん」


 即答された。


 和真は、それ以上言えなくなった。


 空いた手で端末を取り出し、二人が入る角度を探す。


 なかなか画面に収まらずにいると、通りかかった夫婦が足を止めた。


「よかったら、お撮りしましょうか」


「あ、お願いします」


 礼を言って端末を渡すと、二人は川を背に並んだ。


 みゆが和真へ寄る。


「もう少し、近くへ。お二人とも入りますから」


 言われるまま和真が立つ位置を変えると、みゆの笑みが深くなった。


「はい、撮りますよ」


 今度は、二人とも正面を向けた。


 端末を返してもらい、画面を確かめる。


 昨日の写真より、和真の表情は少し硬かった。


 みゆは反対に、昨日よりもずっと嬉しそうだった。


「仲がいいのね。お似合いのお二人だわ」


 夫人に言われ、和真が顔を上げる。


 返事を考えている間に、みゆが笑った。


「ありがとう」


 夫婦を見送ってから、和真は小さく息をついた。


「……そのまま答えるんだな」


「嬉しかったから」


 みゆは画面を覗き込み、写真を自分にも送るよう頼んだ。


 和真が操作している間、何も言わずに待っている。


 急いで否定しなくてもよかったのだろうか。


 そう考えたところで、自分も、否定する言葉を口にしたかったわけではないと気づいた。


「……送ったよ」


「うん。ありがと」


 みゆは受け取った写真を、一度、画面いっぱいに広げた。


 その顔を見ていると、和真も、撮ってもらえてよかったと思った。


     ◇


 石段は、下から見上げるより長かった。


 最初は店の屋根の間を登り、やがて両側に木々が増えてくる。


 みゆは何段かごとに振り返った。


「もう見えるよ」


「止まってから見ろって」


「和真、さっきからそればっかり」


「転んだら、帰りの車でずっと痛がることになるだろ」


「そしたら、和真が気にしてくれる?」


「今、気にしてるんだけど」


 みゆは一瞬きょとんとして、それから笑った。


「……うん。そうだね」


 途中に、横へそれる短い道があった。


 仲居に教えてもらった場所だった。


 木の柵の向こうに、温泉街の屋根が重なっている。川は町の真ん中を曲がりながら流れ、先ほど渡った橋も見えた。


「あんなところ、歩いてたんだ」


 みゆが言った。


 和真も柵の手前に立つ。


「上から見ると、小さく見えるな」


「歩くと、結構広いのにね」


 二人で店の場所を探した。


 木の小物の店は、屋根に隠れてよく見えなかった。茶屋は川沿いの窓で、ようやく分かった。


 みゆはその窓を指して、昨日座った席まで見つけようとしていた。


「さすがに、そこまでは見えないだろ」


「分かってるよ。見てるだけ」


 しばらくして、並んでベンチへ座った。


 和真が持ってきた水を渡すと、みゆは礼を言って飲んだ。


 風が通り抜ける。


 町の音が、ここまでは小さくしか聞こえなかった。


「帰るんだね」


 みゆが言った。


「まだ昼にもなってないよ」


「分かってる。でも、昨日は今頃、これからだったじゃん」


「そうだな」


「早いね。一泊って」


 和真は頷いた。


 みゆは膝の上で水の蓋を閉め、しばらくそれを見つめていた。


「……帰ったら、いつもみたいになる?」


「何が?」


「和真」


 顔が、こちらを向いた。


 昨夜と同じ問いではなかったが、気にしていることは分かった。


 和真はすぐに大丈夫だと言うのをやめた。


「皆がいるから、今日と同じようにはならないと思う」


「うん」


「でも、聞いたことを忘れたりはしないよ」


 みゆは、じっとこちらを見ていた。


「普通に話してても?」


「話してても」


「僕がまた、ふざけても?」


「全部が冗談じゃないのは、もう分かったから」


 そう答えると、みゆは目を伏せた。


 それから、和真の肩へ軽く頭を預けた。


「……じゃあ、いい」


 和真は景色へ目を戻した。


 何もかも答えられたわけではない。


 ただ、帰る時に持っていくのは、鞄の中の荷物だけではないのだと思った。


     ◇


 石段を下りた後は、茶屋へ寄った。


 昨日とは別の席に案内され、みゆは少し残念そうに窓際を見た。


 だが、注文した冷たいお茶と小さな菓子が来ると、すぐに顔が明るくなった。


「和真、これもおいしい」


「一口目で言うなあ」


「一口目がおいしかったんだもん」


 そう言って、もう一つ食べる。


 和真は笑いながら端末を出した。


 昼過ぎにこちらを出ることと、夕飯までには帰れそうだということを、皆へ送る。


 昨日のように、すぐ何度も通知が続くことはなかった。


 少しして、フェンリスからだけ返事が届いた。


『分かった。気をつけて帰ってきてね』


 和真が画面をしまうと、みゆは自分の端末へ目を落とした。


「フェンリス、今日は聞いてこないね」


「忙しいのかもしれないな」


「……うん」


 みゆは短い文を打った。


『約束、覚えてるよ。帰ったら話そう』


 送ってから、端末をしまう。


 和真は気になったが、誰に送ったのかは聞かなかった。


「次、お土産?」


「うん。人数、間違えないようにしないと」


「さすがに間違えないだろ」


「ピピが、一人分でいいかどうか」


「そこは一人分だよ」


「じゃあ、予備も買おう」


「結局、増えるんだな」


 みゆは楽しそうに笑った。


     ◇


 土産物を選び始めると、思ったより時間がかかった。


 饅頭だけでも味がいくつもある。


 日持ちする焼き菓子もあり、酒菜が料理に使えそうなものも並んでいた。


「これは辛いらしいぞ」


 和真が瓶を指すと、みゆは説明を読んだ。


「酒菜、喜びそう。でも、ピピが間違えたら大変だね」


「菓子と一緒に置かなければ大丈夫だろ」


「『おいしいの?』って聞いて、返事する前に食べそう」


「……酒菜に直接渡そう」


 二人で頷いた。


 ひかげには配信の後で飲めそうなお茶も買った。皆で飲める量を確かめ、リディアとユエにも休憩の時に勧めようと話す。


 ナディアが甘いものを選ぶ時の顔を思い出し、和真が別の箱を持つと、みゆが笑った。


「それ、絶対好き」


「だよな」


 あおいには、昨日の店で見た菓子を選んだ。


 フェンリスの分になると、みゆは二種類の箱を持って少し迷った。


「両方買って、皆で分けるか?」


「……うん。それがいいね」


 会計の前で和真が財布に触れると、みゆの視線がすぐに飛んできた。


「僕」


「分かったよ」


 和真は手を引っ込めた。


 支払いを終えたみゆから、大きい方の袋を受け取る。


「じゃあ、持つのは俺な」


「それはお願いする」


「そこは止めないんだな」


「両方持ったら、手、つなげなくなるじゃん」


 和真は袋とみゆを交互に見た。


 みゆが、待っている。


 結局、もう片方の手を差し出した。


 店の女性が、それを見て笑った。


「また二人でいらっしゃいね」


 みゆは今度、すぐには答えなかった。


 和真の方を見た。


「……はい。また機会があったら」


 和真が答えると、握られた手に少し力がこもった。


     ◇


 車へ戻った時には、荷室の空きが少し減っていた。


 みゆは袋が倒れないように置き直し、最後に大きく頷いた。


「忘れ物、なし」


「買い忘れも?」


「たぶん」


「自信ないのか」


「今から思い出したら、帰れなくなっちゃうから」


 旅館の人に礼を言って出発した。


 みゆは門が見えなくなるまで窓の外を見ていた。


 坂を下り、橋を渡る。


 町並みが少しずつ後ろへ遠ざかっていった。


「楽しかったな」


 和真が言うと、みゆがこちらを向いた。


「うん」


「誘ってくれて、ありがとう」


 少し間があった。


 みゆは安全帯を指先でつまみ、前を向き直った。


「……どういたしまして」


 それから、いつもの調子を取り戻したように付け加える。


「次は和真から誘ってもいいよ」


「もう次の話か」


「楽しかったんでしょ?」


「楽しかったけど」


「じゃあ、考えておいて」


 和真は苦笑した。


 山道へ入ると、みゆは案内に使っていた端末を膝へ置いた。


 昨日のようにすぐ眠る様子はなかった。


 道沿いに見えるものを指し、行きには気づかなかった看板の話をしている。


 しばらくして、和真は言う機会を探しながら口を開いた。


「みゆ」


「ん?」


「空色唐辛子荘に帰ったら、昨日みたいなのは、急にやらないでくれよ」


 みゆが和真を見た。


 言われた意味は、すぐに分かったらしい。


「……それは、和真次第」


 口元が、にやりと緩む。


「どうして俺次第なんだよ」


「和真が、僕の話をちゃんと聞いてくれるかどうか」


「聞くよ。だから、いきなり来るなって話をしてるんだ」


 みゆは少し笑ってから、頷いた。


「分かった。ちゃんと言う」


「本当だな」


「うん。でも、甘えなくなるわけじゃないよ」


「……それは、分かってる」


「じゃあ、大丈夫」


 何が大丈夫なのかは、和真にはまだ分からなかった。


 ただ、みゆらしい返事だとは思った。


 ため息をつくと、隣から笑い声がした。


「そんなにため息ついてると、帰るまでに疲れちゃうよ」


「少しは原因を考えてくれ」


「考えてるよ。休憩の場所、次のところでいい?」


「……話を変えたな」


「運転してる人の休憩は大事でしょ」


 それには反対できなかった。


     ◇


 山を下りたところで遅めの昼食を取り、その後も一度、休憩を挟んだ。


 みゆは飲み物を買って戻り、和真へ渡す前に、冷たさを自分の頬で確かめていた。


「ちょうどいい」


「飲む物だぞ」


「分かってるって」


 車を降りて少し歩くと、座り続けていた足が楽になった。


 帰り道の残りを確認し、もう一度、家へ連絡する。


 酒菜から、夕飯には十分間に合うという返事が来た。


『土産だけで腹をいっぱいにするなよ』


 続いた一文を見せると、みゆが声を上げて笑った。


「帰ってからの心配までされてる」


「心当たりがあるんだろ」


「僕より、ピピじゃない?」


 その後は、皆が昨日どうしていたかという話になった。


 配信でピピは何を歌ったのか。


 ナディアがわざわざ訂正した勝負は、どんな終わり方をしたのか。


 酒菜の仕入れの話は、屋台の献立にどれくらい影響するのか。


 みゆは旅館で聞いた料理の説明を読み直し、酒菜に伝える順番を考えていた。


 家が近づくにつれ、話題も、いつもの暮らしへ戻っていく。


 それを寂しがる言葉は、もう出なかった。


 交差点で止まった時、みゆが小さく伸びをした。


「帰ったら、皆いるかな」


「夕飯前だし、集まってると思う」


「そっか」


 嬉しそうな声だった。


 和真は、それを聞いて少し安心した。


     ◇


 空色唐辛子荘の門が見えたのは、まだ空が明るい時間だった。


 車を止めるより先に、母屋からピピが顔を出した。


「帰ってきた!」


 その声で、廊下の奥にいた者たちまで玄関へ集まる。


 和真が車を降りると、フェンリスが真っ先に歩いてきた。


「おかえり」


「ただいま。待っててくれたのか」


「……別に、ずっとここにいたわけじゃないよ」


 言ってから、助手席から降りてきたみゆを見る。


 みゆは普段どおりに手を振った。


「ただいま。お土産、あるよ」


「僕にも?」


 ピピが声を上げる。


「ある。まず中へ運ぼうな」


 和真が荷室を開けると、酒菜も出てきた。


「無事で何よりだ。道は混んでなかったか」


「最後の方だけ。予定どおり着いてよかったよ」


「お疲れさまです。荷物、こちらでよろしいですか」


 リディアが土産の袋を受け取った。


 ユエは鞄の数を見て、和真が忘れ物をしていないか確かめる。


「二つね。奥には、もうない?」


「ない。ありがとう」


「なら、鍵を閉めて。ピピが待ちきれないみたいよ」


「早く開けよう!」


「夕飯前だから、一つずつだぞ」


 和真が言った時、隣にいたフェンリスが、ふと動きを止めた。


 和真の方へ顔を向ける。


 その視線が、首元から肩へ移った。


「……和真」


「ん?」


 フェンリスは何か言いかけ、みゆを見た。


 みゆは土産の袋を持ち直していた。


 二人の目が合う。


 みゆは、ほんの少しだけ笑った。


「後でね」


 フェンリスの眉が寄った。


 和真は、そのやり取りの意味に気づかないまま車の鍵を閉めた。


     ◇


 母屋の卓へ土産を並べると、すぐに賑やかになった。


 ピピは饅頭の味を一つずつ聞き、ナディアは箱の説明を読みながら、まず何を食べるか決めている。


 ひかげは茶葉の袋を受け取り、香りを確かめて嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます。これ、明日のお茶にもよさそうですね」


「皆で飲めるって聞いたから、少し多めにしたんだ」


 みゆが答える。


 和真は酒菜へ調味料の瓶を渡した。


「辛いらしいから、使い方は任せる」


「へえ。後で少し味を見てみるか」


「料理の話も聞いてきたよ」


 みゆが端末を出すと、酒菜の目がそちらへ向いた。


 その横で、ピピが饅頭を一つ食べ終えていた。


「おいしい!」


「二つ目は、夕飯の後だぞ」


「まだ言ってないよ!」


「顔に書いてある」


 和真が笑うと、ピピは不思議そうに顔を傾けた。


 玄関で上着を片付け、居間へ戻ろうとしたところで、あおいに呼び止められた。


「和真。少し、よいかえ」


「どうした?」


「こちらへ」


 声は穏やかだった。


 だが、縁側へ連れていかれて向き合うと、その目は妙に真剣だった。


「楽しい旅であったようじゃの」


「うん。山の景色もよかったし、飯もうまかった」


「みゆも、ずいぶん機嫌がよい」


「ずっとあんな調子だったよ」


「そうかえ」


 あおいは少し近づき、首を傾げた。


「それにしても、よく一緒におったのじゃな」


「二人で行ったんだから、そりゃ……」


「みゆの匂いがする」


 和真の言葉が止まった。


 あおいは、その一瞬を見逃さなかった。


「何か、言いにくいことでもあるのかえ」


「いや、街でもずっと腕を組んでたし。車でも隣だったから」


「ふむ」


「昨日も今日も、結構歩いたんだ。写真もあるけど、見る?」


「……見せてもらおうかの」


 和真は端末を取り出した。


 景色の写真を順に見せる。


 橋の写真になったところで、あおいが画面を指した。


「本当に、ようくっついておる」


「だから、そう言っただろ」


 あおいは和真の顔を見た。


 しばらくして、小さく息をつく。


「まあ、今はそういうことにしておこう」


「今は、って……」


「みゆが楽しそうに帰ってきたのは、よいことじゃ」


 あおいは立ち上がった。


「わらわにも、後で詳しく景色の話を聞かせておくれ」


「ああ」


 何とか話を終え、和真は端末をしまった。


 そのまま居間へ戻ろうとしたところで、今度は廊下の向こうからフェンリスが現れた。


「和真。次、僕」


 和真は、思わず天井を見た。


     ◇


 裏口の近くまで来ると、フェンリスは振り返った。


「何があったの」


「……何が、って?」


「みゆと」


 逃げ道のない聞き方だった。


 和真は一度息を整えた。


「観光して、飯を食べて、泊まって。今、皆に話してたとおりだよ」


「それだけで、そんなに匂いが付く?」


 やはり、そこだった。


 和真が黙ると、フェンリスは唇を結んだ。


「僕、気をつけてって言ったよね」


「……うん。言ってた意味は、分かった」


 フェンリスの表情が変わった。


 怒るより先に、不安そうになった。


「みゆ、話したんだ」


 和真は少し迷ってから頷いた。


「ちゃんと聞いたよ」


「それで?」


「今はまだ、考える時間が欲しいって伝えた」


 フェンリスは視線を落とした。


 廊下の奥から、ピピの笑う声が聞こえてきた。


「……そっか」


 短い返事だった。


 和真は、それ以上、昨夜の話を続けなかった。


 フェンリスも、詳しい言葉までは聞こうとしなかった。


 ただ、納得した顔にはならなかった。


「でも、近い」


「何が?」


「帰ってきてからの、みゆと和真」


「そんなに変わってたか?」


「和真が気づいてないなら、余計に嫌だ」


 和真は困った。


 自分がみゆを意識しているのは、否定できなかった。


 その違いが、皆にも分かるのだろうか。


 フェンリスはしばらく黙った後、顔を上げた。


「僕とも、出かけて」


「え?」


「今度は、僕と二人で」


 まっすぐな声だった。


「みゆとも約束したんだ。次に二人になれる日は、譲るって」


 和真は、昨日の茶屋でのやり取りを思い出した。


 女同士の話。


 自分も関係していると、みゆは笑っていた。


「……あれ、そういう話だったのか」


「みゆの代わりじゃないよ」


 フェンリスが言った。


「僕は、僕と出かけてほしいんだ。和真に」


 和真は彼女を見た。


 怒っている。


 それでも、こちらの返事を待つ目には、不安もあった。


「分かった。今度、二人で行こう」


「本当?」


「うん。仕事の休みが分かったら、予定を合わせよう」


「途中で、皆も一緒にって言わない?」


「言わないよ」


 フェンリスはようやく、少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、今回はそれでいい」


「今回は……」


「約束だからね」


 念を押され、和真は頷いた。


 その時だった。


「フェンリスも、カズマと旅行するの?」


 廊下の曲がり角から、ピピが顔を出した。


 和真とフェンリスが、同時に振り向く。


「ピピ、いつからいたんだ?」


「今! 酒菜が、カズマにお皿って!」


「分かった。すぐ行くから」


「僕も行きたい!」


「皿を出すのを?」


「旅行!」


 和真が答える前に、ピピは居間へ向き直った。


「ねえ! 今度はフェンリスとカズマが旅行するんだって!」


「ピピ、ちょっと待って!」


 和真の声は、間に合わなかった。


     ◇


 居間へ戻ると、皆の視線が一斉に集まった。


 みゆだけが、事情を知っている顔でお茶を飲んでいた。


「和真さん」


 最初に声を出したのは、ひかげだった。


「今度は、フェンリスさんとお二人なんですか」


「出かける約束をしただけだよ。場所も、まだ……」


「二人で行くのは、決まってる」


 フェンリスが隣で言った。


 ひかげの視線が、和真へ戻る。


「……私も、和真さんと出かけたいです」


 声は小さかった。


 だが、最後まで言ってからも、目を逸らさなかった。


 あおいが、その隣で頷いた。


「それなら、わらわも頼みたいのう。話を聞くだけでは、ますます行きたくなる」


「僕も! さっき言った!」


 ピピが身を乗り出す。


「ちょっと待って。一人ずつ……」


「そうね。一人ずつがいいわ」


 ユエが言った。


 和真は、そちらを見た。


「そういう意味じゃなくて、話すのを」


「私も、あなたと二人で行きたいと言っているの。今のうちに伝えれば、何度も説明せずに済むでしょう」


「説明の回数の問題か?」


「違うわ。だから、ちゃんと覚えて」


 ナディアが笑った。


「なら、俺様もだ」


「ナディアまで」


「不思議がることか? 前に話しただろ。お前と過ごしたいと思ってる」


 和真は返事に詰まった。


 ナディアは、からかうような顔をしなかった。


「大勢で出かけるのも悪くない。だが、二人の時間も欲しい。それだけだ」


 台所から酒菜が顔を出した。


「お前ら、夕飯の支度が止まってるぞ」


 和真は少しほっとした。


「そうだな。とりあえず、飯の準備を……」


「俺の分も、後で聞いておけよ」


「酒菜もなのか!」


 酒菜は笑った。


「俺だけ置いていくつもりか? たまには、作る方を休んでうまいものを食いに行きたい」


「それは、分かるけど」


「お前が一緒なら、行ってみたい店もある」


 和真は、もう一度、皆を見回した。


 誰も冗談を言っている顔ではなかった。


     ◇


「……皆で一回、じゃ駄目なんだよな」


 確認すると、すぐに返事が重なった。


「二人って言った」


「今回は、私も二人がええです」


「わらわもじゃ」


「僕も、カズマと!」


 和真は口を閉じた。


 みゆが、ついに笑いをこらえきれなくなった。


「和真、人気者だね」


「少しは助けてくれよ」


「助けるよ。フェンリスとの約束、僕も守るから」


 フェンリスがみゆを見た。


「本当に?」


「うん。次は邪魔しない」


 みゆは、はっきり答えた。


 フェンリスは一度だけ頷き、和真へ向き直る。


「僕も、一泊がいい」


「まだ旅行にするかも決めてなかっただろ」


「今、お願いしてる」


 その言い方に、和真は聞き覚えがあった。


 みゆが旅行へ誘った時と、少し似ていた。


「泊まるなら、帰る時間ばっかり気にしなくていいだろ。僕も、そうやって出かけたい」


 フェンリスの声が、最後だけ少し弱くなった。


 和真は、簡単に日帰りで済ませようとは言えなくなった。


「……分かった。ただ、休みと費用は相談してからな」


 フェンリスの顔が明るくなる。


 そのすぐ横で、ピピが言った。


「僕も、一泊!」


「ピピ」


「朝ご飯も、一緒に食べたい!」


「朝飯なら、ここでも一緒だろ」


「違うところで!」


 ひかげが困ったように笑った。


 そして、和真を見る。


「……私も、出来たら」


 和真は、もう先を聞かなくても分かった。


 あおいは穏やかに頷き、ユエは予定を確かめるために端末を手に取った。


 ナディアは当然のように席を空け、和真が座れる場所を作る。


「立ったままじゃ話が進まん。順番に決めよう」


「何で、帰ってきたばかりで次の旅行の話をしてるんだ……」


 和真は言いながら、椅子へ腰を下ろした。


 リディアが手帳を寄せた。


「まず、お名前だけでも書いておきますか」


「リディアも、増やすつもりじゃないよな」


 思わず尋ねると、彼女は少し照れたように笑った。


「私は、先日ご一緒できましたので。今回は、皆さんに」


「僕も。今、帰ってきたところだし」


 みゆが続ける。


 和真は手帳を見た。


 フェンリス。


 ひかげ。


 あおい。


 ピピ。


 酒菜。


 ユエ。


 ナディア。


 名前を数え、もう一度数えた。


「七人……」


「抜けてないわね」


 ユエが確認する。


「七回、一泊二日ってことになるんだけど」


「続けて行けとは言ってないわ」


「分かってるけどさ」


 和真は額を押さえた。


 皆が楽しみにしているのは、分かった。


 自分も、どこへ行きたいのか聞いてみたい気持ちはあった。


 だが、こうして並ぶと、なかなかの数だった。


「すぐに全部は無理だぞ。皆の仕事もあるし、お金もかかる。場所も宿も、相談して決める。それでいいなら……一人ずつ、行こう」


 言い終わる前に、ピピが歓声を上げた。


 ひかげがほっと笑い、あおいは満足そうに頷く。


 ナディアは早速、行ってみたい場所を口にしかけた。


「その先は、飯の後だ」


 酒菜が止めた。


「今度こそ皿を出せ。旅行に行く前に、今日の飯を食わせろ」


     ◇


 夕食が始まっても、しばらく話は旅行のままだった。


 海が見たいという声があり、食べ歩きの出来る町の名前が出た。


 温泉も捨てがたいと言われ、和真は、まだ場所を決める段階ではないと何度も繰り返した。


 ようやく話が落ち着いたのは、ナディアが昨日の配信について語り始めてからだった。


「それで、最後は取り返したんだ」


「途中、かなり危なかったですけどね」


 ひかげが付け加える。


「危なかったからこそ、最後がよかったんだろ」


「皆さん、よう応援してくれはりました」


 ピピは自分の歌った時のことを話し、リディアとユエは受付初日の様子を教えてくれた。


 酒菜の仕入れの相談も、あおいの祭りの話も続く。


 和真は相槌を打ちながら聞いた。


 自分たちが山の町を歩いている間、ここでも、一人ずつ違う一日を過ごしていた。


 皆の予定があるから、二人で出かけられた。


 そのことを、出発前よりも少し身近に感じた。


 隣でみゆが、酒菜へ料理の説明をしている。


 途中で言葉に詰まると、和真を見る。


「あの、最初に出たやつ。和真も好きって言った」


「ああ。少し酸味があったやつだろ」


「そう。それ」


 二人のやり取りを、フェンリスが見ていた。


 和真と目が合うと、少しだけ唇を尖らせる。


「僕の時も、ちゃんと覚えて帰ってね」


「まだ何を食べるかも決まってないだろ」


「決まったら、ってこと」


 みゆが笑い、ひかげもつられて笑った。


 和真はもう、ため息の後に笑うしかなかった。


     ◇


 食後、みゆは自分の鞄を取りに玄関へ向かった。


 和真も空になった土産の袋を片付け、後を追う。


 外は、すっかり暗くなっていた。


 庭の向こうに、アパートの窓明かりが見える。


「部屋まで持とうか」


「平気。これくらい、自分で持てる」


 みゆは鞄を持ち上げた。


「それより、和真も早めに休みなよ。今日も運転したんだから」


「そうする」


「明日から、旅行の相談で忙しそうだし」


「誰のせいだと思ってるんだ」


「僕、七回行ってとは言ってないよ」


「そうだけどさ」


 みゆが笑った。


 和真も笑いながら、財布を取り出した。


 内側から、薄い木の札を抜く。


 みゆの視線が、すぐにその手へ落ちた。


「今、付けるの?」


「帰ったらって言っただろ」


 家の鍵の輪へ紐を通す。


 少し手間取っていると、みゆが覗き込んだ。


「そこ、先に輪っかにして」


「こうか?」


「そう。その中を通すの」


 言われたとおりにすると、木の札はきちんと鍵に収まった。


 みゆも、自分の分を取り出した。


 二枚を並べる。


 店で見た時と同じように、木目がつながった。


「……うん」


 みゆは、それだけ言った。


 和真が顔を上げると、彼女は札を見たまま笑っていた。


「何?」


「忘れずに付けてくれたから」


「さっきも確認しただろ」


「それでも、嬉しいんだよ」


 和真は鍵を握り直した。


 みゆは自分の札をしまい、鞄を持ち直す。


「二日間、付き合ってくれてありがとう」


「こっちこそ。いろいろ準備してくれて、助かったよ」


「楽しかった?」


「車でも言っただろ」


「もう一回、聞きたかった」


 和真は苦笑した。


「楽しかったよ」


 みゆは満足そうに頷いた。


 それから一歩近づいて、和真の顔を覗き込む。


「僕のことは?」


 和真の返事が止まった。


 みゆは少し待ち、それから笑った。


「……こっちは、まだ待つ。約束したから」


「みゆ」


「うん?」


「考えるよ。ちゃんと」


 みゆは笑うのをやめた。


 和真を見つめ、一度だけ頷く。


「うん」


 そして、今度はいつもの軽い足取りで玄関を下りた。


「おやすみ、和真」


「おやすみ。また明日」


 みゆは庭を歩いていく。


 アパートへ入る前に振り返り、もう一度手を振った。


 和真も振り返した。


     ◇


 部屋へ戻る途中、みゆはフェンリスと顔を合わせた。


 互いの部屋へ続く廊下で、二人とも足を止める。


「……約束、守ったでしょ」


 みゆが言うと、フェンリスは頷いた。


「うん」


「じゃあ、今度は楽しんできて」


 フェンリスはすぐには答えなかった。


 みゆの顔を見て、少し迷ってから口を開く。


「ちゃんと、話せたんだね」


 みゆの指が、鞄の持ち手を握り直した。


「……うん」


「和真、聞いてくれた?」


「聞いてくれたよ」


 その答えを聞いて、フェンリスは小さく息を吐いた。


「そっか」


 安心したようで、悔しそうでもある顔だった。


 みゆは、それをからかわなかった。


「フェンリスも、言いたいこと、言っておいでよ」


「……みゆに言われなくても」


「うん」


「今度は、本当に邪魔しないでね」


「しないよ。写真、何回も送ってとも言わない」


 フェンリスの頬が赤くなった。


「あれは、心配だったから!」


「分かってる」


 みゆは笑った。


 フェンリスも、言い返しかけてやめた。


 少しだけ顔を逸らし、小さく呟く。


「……次は、僕の番だから」


「うん。そうだね」


 今度のみゆは、素直に頷いた。


     ◇


 母屋へ戻ると、居間の卓に手帳が残っていた。


 リディアが書いた七人分の名前。


 その横には、いつの間にか、小さな字で希望が書き足されている。


 海。


 おいしい朝ご飯。


 静かな宿。


 見覚えのある字ばかりだった。


「……本当に、七回か」


 和真は椅子へ座った。


 端末には、みゆから写真が届いていた。


 朝の橋で撮ってもらった一枚だった。


 続けて、短い文が表示される。


『また、二人でも行こうね』


 和真は画面と手帳を見比べた。


 七回で終わる気配まで、なくなっていた。


 長いため息が出る。


 しかし、写真の中のみゆを見ていると、困るだけでは済まなかった。


 隣に写る自分も、緊張してはいるが、決して嫌そうには見えない。


 机の上へ置いた鍵に、新しい木の札が付いていた。


 和真はそれを指先で一度動かしてから、端末へ返事を打った。


『今日はありがとう。写真、ちゃんと撮れてたな』


 送ると、すぐに返事が来た。


『次の話は?』


「……そこは見逃してくれないんだな」


 和真は苦笑した。


 廊下の向こうから、酒菜に明日の予定を尋ねられる。


 返事をして立ち上がると、端末がまた震えた。


 今度はフェンリスだった。


『休みが分かったら、すぐ教えるね。約束、忘れないで』


 和真は手帳へ目を落とした。


 忘れられるはずもなかった。


 一泊二日の旅行から帰ってきたばかりなのに、次の旅を待つ者が、もう七人もいる。


 ため息をつきながら、手帳を閉じる。


 引き受ける前に、もう少し考えるべきだったのかもしれない。


 そう思っても、今さらだった。


 居間を出る前に、和真は二人へ、順番に返事を送った。


 どちらにも、予定は相談して決めようと書いた。


 二人から、ほとんど同時に返事が来た。


『うん。楽しみにしてる』


 和真は端末を伏せた。


「……後の祭りだな」


 呟いた声には、少しだけ笑いが混じっていた。

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