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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第二十七話 あなたと帰る場所

 母屋の食卓を片付け終えた頃、リディアが一冊の手帳を持って戻ってきた。


 和真は台所で、洗った皿を布巾で拭いていた。居間からは、みゆとフェンリスが何かを言い合う声が聞こえる。いつもと変わらない朝だった。


「和真、少し相談してもいいですか」


「ああ。どうした?」


「一度、前に住んでいた家へ戻りたいんです」


 手の中で、皿が滑りかけた。


 和真は慌てて持ち直したが、皿の縁が流し台に当たり、乾いた音を立てた。


 リディアが目を瞬かせる。


「……何かありましたか?」


「いや、それは俺が聞きたいんだけど」


 声が思ったより低くなった。和真は皿を置き、布巾を畳む。指先に残った水気を拭うふりをしながら、リディアの顔を見た。


 リディアの手帳には、古びた鍵と木の札が紐で結ばれていた。その鍵が、彼女の指先で小さく揺れている。


「ここで何か、不便なことでもあったか?」


「ここで、ですか?」


「工房が使いづらいとか、騒がしいとか。何かあったなら、まず話してくれれば……」


 言いながら、胸の奥がざわついた。


 リディアがこの家を出ていく。そんな可能性を、和真は考えたこともなかった。考えたくなかった、と言った方が近いのかもしれない。


 そこまで聞いて、リディアは和真の顔を見つめた。


 ほんの少し遅れて、口元が緩む。


「違います。引っ越すという話ではありませんよ」


「……違うのか?」


 自分でも分かるほど、安堵が声に滲んだ。


「はい。向こうに置いたままの物を片付けて、家をお返ししたいんです」


 和真は、止めていた息をゆっくり吐いた。


 胸の奥に張りつめていたものがほどける。そのことに気づいてしまい、今度は別の居心地の悪さが残った。


 その様子を見て、リディアは手帳を胸の前に持ち直す。


「そんなに驚かれるとは思いませんでした」


「急に戻りたいって言われたら、驚くだろ」


「一度、と言ったつもりだったのですが」


「それはそうだけど……」


 言葉が続かなかった。


 戻りたい理由を聞く前から、ここを離れるのではないかと身構えていた。そんな自分を悟られたくなくて、和真は視線を手帳へ落とした。


「説明が足りませんでしたね。すみません」


 謝る声には、僅かに笑みが混じっていた。


 リディアは食卓の端へ手帳を置いた。鍵に付いた木札には、小さな文字で住所らしきものが書かれている。


「この世界に来て間もない頃、お世話になった方たちがいるんです。山の方で暮らしている、ご夫婦で」


「助けてもらったのか?」


「ええ。食事も、身の回りのことも。落ち着くまで使っていいからと、空いていた家まで貸してくださいました」


 和真は椅子を引き、腰を下ろした。


 リディアも向かいへ座る。


 こちらの世界で覚えた技術については、彼女から話を聞くことがあった。しかし、空色唐辛子荘を訪れる以前、どんな場所で暮らしていたのかまでは、詳しく知らなかった。


 知らなかったことが、急に目の前へ現れたような気がした。


「その家、今も借りてるのか」


「はい。必要な物だけ持って出てきてしまったので。使わないまま、いつまでもお借りしているのはよくありませんし……私が今どこで、どう暮らしているのかも、きちんとお話ししたくて」


「それなら、行った方がいいな」


 和真が頷くと、リディアは手帳を開いた。


 住所と電話番号が並んでいる。住所の下には、駅からの道順も書き込まれていた。


「場所はここです。新幹線で三時間ほど行って、そこからさらに山へ入ります」


「三時間?」


 思わず聞き返した。


「はい。駅からも少し離れています」


 和真はスマートフォンで地図を開き、住所を確かめた。


 表示された目的地を見て、思わず画面を引き寄せる。


 街の名前より、山の名前の方が目立っていた。最寄りの大きな駅からも距離があり、道は谷に沿って細く延びている。


「結構遠いな……荷物は、どれくらい残ってる?」


「道具と部品、それから本が少し。使っていた寝具もあります」


「車に積めるくらいか?」


 リディアが一拍置いた。


「選べば」


「選ぶ必要があるんだな」


「全部が必要とは限りませんので」


 工房の棚を思い浮かべ、和真は苦笑した。


 彼女にとって、何かに使えそうな金属片や、まだ直せそうな機械は、簡単に捨てられる物ではないらしい。


「車で行こうか。俺も手伝うよ」


 今度はリディアが黙った。


 手帳を押さえていた指が、紙の端で止まっている。


「……和真も、ですか?」


「ああ。一人で片付けて、荷物を持って電車を乗り継ぐのは大変だろ。俺も、そのご夫婦に会っておきたいし」


「どうしてです?」


 問いかけは穏やかだったが、和真には、その奥に別の意味があるように聞こえた。


「リディアを助けてくれた人たちなんだろ」


 何気なく答えたつもりだった。


 けれど、リディアはすぐには返事をしなかった。


 木札を指先で一度撫で、それから静かに頷く。


「……ありがとうございます。それなら、お願いしてもいいですか」


「ああ」


 短く答えたあと、和真は自分の声が妙に硬かったことに気づいた。


「向こうには、いつ行くって話してる?」


「まだです。先に和真へ相談しようと思って」


「じゃあ、ご都合を聞いてから決めよう」


 話がまとまりかけた、その時だった。


「どこ行くの?」


 居間の戸口に、フェンリスが立っていた。


 その後ろから、みゆも顔を出している。


「リディアが前に借りてた家。荷物を片付けに行こうと思って」


「へえ。リディア、別の家にも住んでたんだ」


 みゆが近づき、食卓に置かれたスマートフォンを覗き込む。


 フェンリスも和真の肩越しに画面を見て、すぐに眉を寄せた。


「……遠くない?」


「かなり遠い」


「日帰り?」


「まだ決めてないけど、この距離だと厳しいかもしれないな。往復して、片付けもするとなると」


「泊まるの?」


 フェンリスの声が、一段高くなる。


 和真は車での移動時間を表示し、画面を見せた。


「帰りも同じだけかかるからな。一泊するつもりで準備した方がよさそうだ」


 みゆは画面から目を離し、和真とリディアの顔を交互に見た。


「ああ、なるほど」


「何がなるほどなんだ」


「ううん。僕も行きたいなあって思っただけ」


「僕も行く」


 フェンリスは即答した。


「片付けなら、人数がいた方が早いだろ?」


「そうだけど、仕事は大丈夫なのか?」


「いつ行くか、まだ決まってないんだよね?」


「ああ。これから相談するところ」


「じゃあ、決まったら教えて」


 フェンリスはそう言い、もう一度、地図へ目を落とした。


 和真の向かいで、リディアが静かに手帳を閉じた。


 その表情はいつもと変わらないように見えたが、閉じた手帳を押さえる指先には、わずかに力が入っていた。


     ◇


 その日の夕食後、老夫婦へ電話を済ませたリディアは、母屋に集まった皆へ出発の予定を伝えた。


 ところが、先方の都合がよい日は、皆それぞれ用事を抱えていた。


 フェンリスは酒屋。あおいは神社。酒菜とみゆにも、屋台の準備がある。


 ひかげは配信の準備に加え、ピピの歌の録音を手伝う予定だった。


「僕も行きたかったんだけどなあ」


 みゆが残念そうに背もたれへ寄りかかる。


「また今度、時間がある時にな。今回は荷物を片付けて帰るだけになると思うし」


「和真、それでも楽しくなりそうな気がするんだけど」


「掃除がか?」


「二人で遠くまで出かけるんでしょ?」


 和真が返事に詰まると、みゆはそれ以上言わずに笑った。


 その笑い方が、朝のリディアの言葉を思い出させた。


 和真は無意識に、向かいに座るリディアへ目を向ける。


 彼女は何も言わず、湯飲みの縁を指でなぞっていた。


「俺様も行ってみたいところだが……今回は留守番だな」


 ナディアがひかげへ目を向ける。


「配信のことを教えてもらう約束をしている。せっかく時間を取ってくれたんだ。まずは、そっちを覚える」


「私も、まだ分からへんことはありますけど……一緒に触ってみたら、覚えやすいと思います」


 ひかげが控えめに笑うと、ナディアは頷いた。


 和真はユエへ顔を向ける。


「ユエは、どうする?」


「私は遠慮しておくわ。部屋でパソコンの使い方でも覚えているわ」


「分からないところがあったら、帰ってから見るよ」


「ええ。まずは自分で試してみるわ」


 ユエはそう答え、手元のお茶へ視線を戻した。


「和真さん、運転はずっとお一人でしょう? 無理せんといてくださいね」


「休みながら行く。帰りも急がないようにするよ」


「なら、食べる物くらいは用意してやる。腹が減ったまま走るなよ」


 酒菜はそう言って、台所に置いた買い物のメモへ何かを書き足した。


「お土産は?」


 ピピの問いに、みゆが笑う。


「もうお願いするんだ」


「おいしいの!」


「向こうで何かあればな」


「あるよ! たぶん!」


 その声につられ、あおいも口元を緩めた。


「世話になった者へ顔を見せるのは、よいことじゃ。わらわたちに気を遣って、急いで戻らずともよい」


「ありがとう。帰る時間が分かったら、連絡するよ」


「……僕は、休めるよ」


 フェンリスだけが、納得していなかった。


 膝の上で両手を握り、和真を見つめている。


「店の人に頼めば、一日くらい」


「誰かが代わりに出ることになるだろ」


「それは、そうだけど……」


「俺たちの片付けのために、急に休まなくても大丈夫だよ」


「片付けの心配だけじゃないんだけど」


 小さく漏れた言葉を聞き、隣のみゆが頬杖をついた。


 けれど、茶化しはしなかった。


 和真はフェンリスと目を合わせる。


「着いたら連絡する。泊まる場所が決まったら、それも伝えるから」


「帰る時も?」


「ああ」


「途中で何かあったら?」


「その時も」


 フェンリスは一度リディアへ目を向け、それから和真へ戻した。


「……絶対、無理して運転しないでよ」


「分かった」


「眠くなったら、ちゃんと止まって」


「そうする」


「あと……」


 言いかけて、口を閉じる。


 隣にいるみゆの肩が、そっと自分の肩へ触れた。


 フェンリスはしばらく黙っていたが、最後には小さく頷いた。


「……分かった。仕事は、行く」


「ありがとう」


「まだ、あんまり納得してないからね」


 そう言い切るところが彼女らしくて、和真は少しだけ笑った。


 リディアは、そのやり取りを静かに聞いていた。


 出発の話が終わり、皆がそれぞれの用事へ戻り始めると、彼女はフェンリスを呼び止めた。


「運転の休憩は、私からも声をかけます」


 フェンリスはリディアの顔を見た。


「……うん。お願い」


「はい」


 それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。


     ◇


 出発の日の朝、和真が車の後部座席を倒していると、リディアが荷物を持ってやってきた。


 いつも使っている道具入れと、着替えを詰めた小さな鞄。さらに、紙袋が一つある。


「それ、何だ?」


「お二人へのお土産です。甘い物がお好きなので」


「俺も何か買おうと思ってた」


「では、途中で一緒に選びましょう。これは、私からです」


「分かった」


 和真は荷室の隅へ毛布を敷いた。


 積み込む部品で車内を傷つけないためのものだ。その横へ空の箱を重ね、紐と軍手を置く。


 リディアがそれを眺めながら、静かに笑った。


「ずいぶん用意がいいですね」


「リディアの片付けだからな。途中で、これも持って帰りたいってなりそうだし」


「……否定はできません」


「そこはしてほしかった」


 二人で笑っていると、母屋から酒菜が保冷袋を持ってきた。


「昼の分だ。傷む前に食べろよ」


「助かる。ありがとう」


「飲み物も入れといた。休憩する時に食べればいい」


 受け取った和真は、座席の足元へ置いた。


 フェンリスは仕事へ出る支度をしたまま、車の傍に立っていた。荷物を積む様子を眺めているが、もう同行すると言い出すことはない。


 和真が運転席へ回ると、一歩だけ近づいてきた。


「……いってらっしゃい」


「いってきます」


「リディアも。片付け、頑張って」


「ありがとうございます。行ってきますね」


 リディアが助手席へ座る。


 窓の向こうで、みゆがフェンリスの隣へ並んだ。


「和真、山でまた誰か拾ってこないでね」


「片付けに行くんだぞ」


「うん。だから念のため」


「……気をつける」


「そこは拾わないって言うところだよ」


 みゆの笑い声を聞きながら、和真は車を出した。


 門を抜ける前に、見送りに立つ皆へ手を上げる。


 フェンリスも、大きく手を振って応えた。


 その姿がバックミラーから見えなくなってから、リディアが膝の上の鞄を抱え直した。


「……何だか、緊張してきました」


「ああやって見送られると、ちょっとした旅行みたいだよな」


「ええ。それもあります」


 それも、という言い方が少し気になった。


 和真は聞き返そうとしたが、交差点に近づいたため、前へ注意を戻した。聞き返す機会を逃したことに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。


 朝の道は、まだ車が多い。


 信号で止まるたび、隣から紙をめくる小さな音がする。


「地図か?」


「最後の分かれ道だけ、書いておいたんです。案内に従うと、細い方へ入ってしまうことがあるそうなので」


「助かる。着くのは、夕方くらいかな」


「休憩も入れると、そのくらいになると思います」


「片付けは明日からだな」


「お二人にも、そう伝えています。今日は無事に着いてくれればいいと」


「宿は、その辺で探せそうか?」


「少し離れた場所なら。まず顔を見せなさいと言われてしまったので、到着してから相談しようと思っています」


 リディアはそこで、紙の端を揃えた。


「……とても、喜んでくださっていました」


「そりゃ、しばらく会ってなかったんだろ」


「はい」


「元気にしてるって、顔を見るのが一番だよ」


 リディアは小さく頷き、窓の外へ目を向けた。


 街の建物が流れていく。


 和真は高速道路の入口へ向けて、車線を変えた。


     ◇


 最初の休憩は、街を抜けてしばらく走った場所で取った。


 駐車場へ車を止めると、リディアはシートベルトを外しながら肩を動かす。


「座っているだけでも、意外と疲れるものですね」


「ずっと同じ姿勢だからな。少し歩こう」


 二人は売店に入り、棚に並んだ菓子を眺めた。


 和真が硬そうな煎餅へ手を伸ばしかけると、隣からリディアが別の箱を指す。


「正一さんはそれもお好きですが、千代さんには、こちらの方が食べやすいと思います」


「正一さんと、千代さん?」


「ご夫婦のお名前です。杉浦さん、とお呼びすると、お二人とも返事をされるので」


「なるほど」


 和真は柔らかい菓子の箱を手に取った。


「好み、よく知ってるんだな」


「よく、お茶に呼んでいただきましたから」


「一緒には住んでなかったんだろ?」


「お借りしていた家は、ご自宅から歩いてすぐなんです。食事を忘れていると、千代さんが来てくださって」


 和真は隣を見た。


 リディアが、少しだけ視線を逸らす。


「……毎回ではありませんよ」


「何も言ってないだろ」


「顔に出ていました」


「今と変わらないなって思っただけだよ」


「今は、きちんと母屋へ行っています」


「呼びに行くこともあるけどな」


「……それは、作業の区切りが悪い時です」


 小さな反論を聞きながら、和真は会計を済ませた。


 外へ出ると、車内よりも風が涼しかった。


 建物の脇のベンチに腰を下ろし、二人で飲み物を開ける。


「義手のことは、知ってるのか?」


 和真が声を落として尋ねると、リディアは自分の手へ目を向けた。


 袖と手袋で覆っているため、外からは機械の部分がほとんど見えない。彼女は手袋の指先を軽く伸ばしてから、頷いた。


「はい。こちらへ来た時から、ですから」


「驚いただろうな」


「驚かれました。でも、最初に聞かれたのは、痛くないのか、ということでした」


 リディアの声が少し柔らかくなった。


「動くのかとか、どうやって作ったのかとか。それより先に」


「……そうか」


「説明できないこともありました。それでも、話せるようになってからでいいと言ってくださったんです」


 和真は手の中の缶を持ち替えた。


 知らない場所に来た時、何を尋ねられるか。


 何を言えば怪しまれずに済むのか。


 そう身構えていたところに、まず痛みを心配する言葉をかけてもらえたのなら。それだけで、少しは気持ちが楽になったのではないだろうか。


「いい人たちなんだな」


「ええ」


 リディアは迷わず頷いた。


「だから、家をきちんとお返しして、今は元気に暮らしているとお伝えしたいんです」


「そうだな。片付けも、しっかり手伝うよ」


「ありがとうございます。ただ、思っているより荷物があるかもしれませんので、少し覚悟しておいてください」


「朝より増えてないか?」


「置いてきた物を、一つずつ思い出しているんです」


「……着く頃には、もっと増えそうだな」


 和真が苦笑すると、リディアも笑った。


 長い道のりの先にいる二人の顔を、和真はまだ知らない。


 それでも、会いに行く理由が、出発した時より少し増えた気がした。


     ◇


 再び車を走らせると、リディアはしばらく道路脇の設備を眺めていた。


 道の上に渡された標識。斜面を押さえる金網。遠くに並ぶ送電線。


「気になる物が多いか?」


「はい。ただ、全部を見ようとすると首が疲れますね」


「停まって見られる所ばっかりでもないしな」


「初めてこちらで車に乗せていただいた時も、そうでした。分からない物が、次々と通り過ぎてしまって」


「今は、大体分かるだろ?」


「仕組みだけなら。どうしてその形になったのかは、まだ知らないことも多いですよ」


 和真は頷いた。


「俺なんか、仕組みもよく分かってない」


「使えているなら、それで困らない物もあります」


「リディアは気になるんだろ?」


「気になります」


 即答だった。


「まあ、リディアらしいな」


「和真は、気になりませんか?」


「壊れたり、使い方が分からなかったりしたら、調べるけど。普段はそこまで考えないかな」


「私は、使っているうちに気になってしまいます。どうして動くのか、別のやり方では駄目なのか、と」


「それで、分解するんだな」


「分解してもよい物だけですよ」


 先回りした返事に、和真は笑った。


 リディアも微笑んだが、少しして窓の外から視線を戻した。


「ただ、調べれば分かることばかりでもありませんね」


「そうなのか?」


「ええ。人のことなどは、特に」


 和真は短く相槌を打った。


「一緒に暮らしていても、知らないことはありますから」


「そうだな。俺も、前の家の話は今まで詳しく聞いてなかったし」


「聞きたいことがあれば、お話ししますよ」


「じゃあ、借りてた家では何を作ってたんだ?」


「初めは、生活に必要な物を。その後は、いただいた壊れた道具を直していました」


「そこでも修理してたのか」


「直ると喜んでいただけますし、私もこちらの技術を覚えられますから」


 道具の話になると、言葉が滑らかになった。


 古い扇風機。動かなくなった時計。接触の悪くなった照明。


 同じ用途の物でも、作られた時期が違えば中身が違う。手を加えやすい物もあれば、開けるだけで苦労する物もあったという。


「一度、時計を直した時には、正一さんが家中の時計を持ってこられました」


「全部壊れてたのか?」


「いえ。動いている物もありました」


「何でまた」


「動かなくなる前に見ておいてほしいと」


 和真が笑うと、リディアも口元を緩めた。


「千代さんには、全部なくなると時間が分からないでしょうと叱られていました」


「そりゃ、そうだ」


「ですから、一つずつお預かりしました。お二人で選んだ物もあって、直している間に、その時のお話も聞かせていただいたんです」


 和真は相槌を打ちながら聞いていた。


 何を直したかだけでなく、持ち主がどんな話をして、どんなふうに喜んだかを、リディアはよく覚えていた。


「楽しそうだな」


「ええ。暮らすには、いい場所でした」


「それなら、離れる時は寂しかったんじゃないか?」


「寂しくなかったと言えば、嘘になりますね」


 リディアが窓の外を見る。


「でも、会いたい人ができたので」


「会いたい人?」


 和真は聞き返した。


 胸の奥で、朝から何度も感じていたざわつきが、今度ははっきりと形を持った。


「はい」


 彼女は膝の上で、指を軽く重ねた。


「和真です」


 和真は前を見たまま、瞬きをした。


 聞き間違いだと思いたかった。


「……俺?」


 声が掠れた。


「ええ。あなたに、一目惚れしてしまったんです」


 道具の修理について話していた時と、それほど変わらない声だった。


 だからこそ、すぐには意味が頭へ入ってこなかった。


 だが、言葉だけは消えずに残った。


 一目惚れ。


 自分に。


 道路の先で、白い線が緩やかに曲がっている。


 和真はその線を追いながら、ハンドルを握り直した。手のひらに汗が滲んでいることに気づき、さらに強く握り込む。


「……待って」


「はい」


 リディアの返事が、すぐ隣から返ってくる。


「今、何て?」


 聞き返したところで、言葉が変わるわけではない。それでも、もう一度聞かなければ、現実として受け止められなかった。


 リディアは和真の横顔を見た。


 先ほどまでと違って、もう窓の外は見ていない。


「あなたを好きになって、会いに来たんです」


 今度は、聞き違えようがなかった。


 車内に流れていた小さな音楽が、急に遠く感じられた。


 エンジンの振動も、タイヤが路面を擦る音も、すべてが薄い膜の向こうへ退いていく。


 和真は返事を探した。


 驚いた、と言えばいいのか。嬉しい、と言っていいのか。それとも、何も言わずに運転へ集中するべきなのか。


 どの言葉も口にする前に止まってしまう。


 隣でリディアが、ゆっくりと視線を落とした。


「……やはり、驚かれますよね」


「それは、驚くよ」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。


「そうですね。私も、もう少し落ち着いてお話しするつもりでした」


「落ち着いてって……今のが、落ち着いてるのか?」


 責めるつもりはなかった。


 けれど、声には戸惑いが滲み、思った以上に強く響いた。


 リディアの肩が、ほんのわずかに揺れる。


「……すみません」


「いや、違う。謝らなくていい」


 和真はすぐに言い直した。


 前を向いたまま、アクセルを踏む足に力が入りすぎていることに気づく。速度計を確認し、少しだけ力を抜いた。


「ただ、急だったから。俺、そういう話だと思ってなくて」


「はい。分かっています」


「分かってるって言われても……」


 その先が続かない。


 リディアは黙っていた。


 車内に、さっきより濃い沈黙が落ちる。和真は何か言わなければと思ったが、下手な言葉を選べば、彼女を傷つける気がした。


 丁寧な言葉の最後が、ほんの少しだけ揺れた。


 和真は、その揺れを聞いて初めて気づいた。


 彼女も、平気なわけではない。


 膝の上で重ねられた指は、さっきから同じ形のままだった。白くなるほど力が込められている。


 和真は横目でそれを見た。


 触れていいのかと思った。


 けれど、手を伸ばす理由も、伸ばした後に何を言えばいいのかも分からない。


 結局、ハンドルから手を離せないまま、前方の道路だけを見つめた。


 隣にいるリディアも、もう窓の外を見ていなかった。


 告白の言葉だけが、二人の間に置き去りにされていた。


       ◇


しばらく進むと前方に、次の休憩施設を示す標識が見えた。


 和真は距離を確かめてから、ようやく口を開いた。


「……次で、一回止まるよ」


「はい」


 リディアの返事は短かった。


 和真はそれを聞き、言葉を足す。


「ちゃんと話を聞きたいから。運転しながらだと、うまく考えられなくて」


 隣で、僅かに衣擦れの音がした。


「……分かりました」


 今度の返事は、先ほどより少し柔らかかった。


 和真は前へ意識を戻した。


 流れていく景色を追い、車間を確かめる。そうして一つずつ目の前のことに集中しているうちに、強く握り込んでいた手から、少しずつ力が抜けていった。


 駐車場へ入ると、空いている区画へ車を止めた。


 エンジンを切った途端、車内が静かになる。


 和真はシートベルトを外し、膝の上へ手を置いた。すぐ隣にいるリディアへ顔を向けるだけなのに、妙に時間がかかった。


「さっきは、ごめん」


 リディアが顔を上げる。


「きつい言い方になった。リディアが悪いわけじゃないのに」


「いえ。運転している時に、急にあんなことを言ってしまったのは私ですから」


「それでも、あんな返し方はよくなかった」


 和真がそう言うと、リディアは少し黙った。


 それから、膝の上で重ねていた手をほどく。


「……嫌がらせをしたかったわけではないんですよ」


「分かってる」


「もう少し、自然にお伝えできると思っていました」


 困ったような笑みだった。


 和真は息を吐き、背もたれへ預けていた身体を起こした。


「俺に会いに来たっていうのは……住んでいた家を出る前から、そう決めてたのか?」


「はい」


 リディアは頷いた。


「一度お会いして、お話ししたいと思いました。何もせずにいたら、きっと気になったままでしょうから」


「それで、住んでた家を出たのか」


「初めから、引っ越すつもりだったわけではありませんよ。まずは会いに行こうと。それで、お二人にも、そうお話ししました」


「その……俺に会いに行くって?」


「好きな人ができたので、会いに行ってきます、と」


 和真は言葉を失った。


 リディアが、ちらりとこちらを見る。


「あの時も、今の和真とよく似た顔をされました」


「……すると思う」


「千代さんは、その後、笑っていらっしゃいましたけれど」


「正一さんは?」


「どこへ行くのか、帰るお金はあるのかと。いろいろ確認されました」


「そりゃ、心配するよな」


「ええ。困ったら、遠慮せずに連絡しなさいと言ってくださいました」


 そこまで話してから、リディアの視線が落ちた。


 鞄の縫い目へ指先を沿わせ、少し間を置く。


「ですが、出てきてからは……今回お電話するまで、連絡していなかったんです」


「一度も?」


「はい」


 和真は黙った。


 好きな人に会いに行くと言って出かけ、そのまま連絡が途絶える。


 見送った二人が、どんな気持ちで待っていたのか。考えると、先ほど聞いた電話での喜び方にも、別の意味があるように思えた。


「心配してたんじゃないか?」


「……はい。声を聞いて、分かりました」


 リディアは顔を上げなかった。


「工房を整えてから、生活が落ち着いてから。何かお返しできるようになってから。そう考えているうちに、日が過ぎてしまって」


「何かできてからじゃなくても、よかったんだと思うよ」


「ええ。そのとおりです」


 素直に頷いた後、リディアは小さく息をついた。


「それから、聞かれると思ったんです」


「何を?」


「好きな人には会えたのか、と」


 和真の喉が詰まった。


 リディアはようやく顔を上げる。


「会えました。一緒に暮らせるようにもなりました。でも、気持ちは伝えていなくて。何と説明しようか考えると、電話をかける手が止まってしまって」


「……そうだったのか」


「元気にしていると、それだけでもお伝えすればよかったんですよね」


 和真は頷いた。


 責めるつもりはなかった。それでも、彼女が大切に思っている人たちなら、これからは安心させてあげてほしかった。


「今日、ちゃんと顔を見せよう」


「はい」


「話したいことが増えたなら、ゆっくり話せばいいと思う」


 リディアは僅かに笑った。


「ありがとうございます」


 そして、鞄を抱え直した。


「今回のお電話では、和真と一緒に伺うこともお伝えしました」


「俺のこと、何て?」


「今暮らしている所の大家さんで、片付けを手伝ってくださると」


「……そっか」


 和真が頷くと、リディアは口を開きかけ、閉じた。


 それまでと違う沈黙だった。


 和真は急かさずに待った。


「和真」


「うん」


「嫌でしたか」


 リディアの視線が、まっすぐこちらへ向いた。


「私が、そういう気持ちで会いに来たことです」


「嫌じゃないよ」


 そこは、すぐに答えられた。


 リディアの肩から、少し力が抜ける。


 和真はその変化を見て、先ほど自分がどれほど不安にさせたのかを思い知った。


「さっき驚いたのは、嫌だったからじゃない。ただ、本当に知らなくて……どう答えたらいいか、分からなかった」


「はい」


「嬉しいとは思う」


 口にしてから、和真は一度、言葉を止めた。


 リディアが静かに待っている。


 工房で真剣に部品を見つめる顔を思い出した。


 できあがった道具の使い方を説明する時、少しだけ弾む声。食事を呼びに行くと、今行きますと言いながら、なかなか手を止めない姿。


 朝、ここを離れるのかと思った時の、自分の戸惑いも。


 どれも大事だった。


 けれど、それを今すぐ、彼女と同じ言葉で呼んでいいのか分からなかった。


「でも……今はまだ、答えられない」


 リディアの指が、鞄の上で止まった。


「リディアには、ここにいてほしいと思ってる。朝、出ていくのかと思って、あんなに驚いたくらいだし」


「……はい」


「ただ、それで俺も同じ気持ちだって、すぐに言っていいのかは分からないんだ」


 言い終えると、胸が苦しくなった。


 遠くから会いに来てくれた相手に、分からない、としか答えられない。


 それでも、戸惑いを隠すためだけに頷いてしまうのは違うと思った。


 リディアはしばらく黙っていた。


 和真も、その沈黙から目を逸らさずに待った。


「分かりました」


 やがて、穏やかな声が返ってきた。


「急いで答えていただこうと思って、お話ししたわけではありませんから」


「……そうなのか?」


「お二人の家に着く前には、伝えておいた方がいいと思いました。向こうで突然聞かされる方が、困らせてしまうでしょうし」


 リディアはそこで、少しだけ笑った。


「でも、言ってしまったら、返事が気になってしまいましたね」


 和真は黙って彼女を見た。


「嫌ではないと聞けて、ほっとしました。きちんと考えてくださるなら、今は待ちます」


「……うん」


「ただ、聞かなかったことには、しないでくださいね」


「しないよ」


 和真は、今度ははっきりと答えた。


「ちゃんと覚えてる」


 リディアはゆっくり頷いた。


 窓の外を、人が歩いていく。


 遠くで車の扉が閉まり、建物の方から放送が聞こえた。


 和真はようやく、周囲の音が普通に耳へ入ってきていることに気づいた。


 隣でリディアが、足元の保冷袋へ目を向ける。


「……お昼にしませんか」


「ああ。そうだな」


「酒菜に、傷む前にと言われていますし」


「そうだった」


 和真は袋を持ち上げた。


 二人とも、少しだけ笑った。


     ◇


 日陰のベンチに座って包みを開くと、おにぎりと、食べやすい大きさに分けられたおかずが入っていた。


 和真が片方の容器を差し出すと、リディアは両手で受け取った。


「いただきます」


 声が重なった。


 二人とも一瞬止まり、それから顔を見合わせる。


「……いつも言っているのに、変ですね」


「今日は、二人しかいないからかな」


「そうかもしれません」


 母屋の食卓なら、誰かが先に話し始めている。


 ピピが食べ物を見つめ、みゆが何かを言い、フェンリスが応じる。そんな声を聞きながら、自然に箸を取っていた。


 今は、リディアが包みを開く音まで、よく聞こえた。


「卵焼き、おいしいですね」


「うん」


「……和真、今の話は聞いていましたか?」


「聞いてた。卵焼きだろ」


「では、そちらはおにぎりです」


 和真は自分の手元を見た。


 まだ卵焼きには、箸をつけていなかった。


「……ごめん」


 リディアが堪えきれずに笑う。


 その声を聞いて、和真も肩の力が抜けた。


「そんなに笑わなくてもいいだろ」


「すみません。あまりにも自然に頷かれたので」


「ちょっと、考え事をしてた」


 言ってから、余計な説明だったと思った。


 案の定、リディアの笑みが少し変わる。


「……そうですか」


 それ以上、何を考えていたのかは聞かれなかった。


 和真は今度こそ卵焼きを食べた。


 甘すぎず、冷めてもおいしい。


「うん。おいしい」


「今度は、ちゃんと食べましたね」


「見てなくてもいいだろ」


「見えてしまうんです。隣ですから」


 普段と似たやり取りだった。


 けれど、同じ言葉でも、先ほどまでとは違って聞こえる。


 リディアがこちらを見ていると分かるだけで、何となく落ち着かなかった。


 食事を終える頃には、会話も少しずつ途切れなくなっていた。


 和真は容器を片付け、酒菜へ礼の連絡を送った。ついでに、昼の休憩を取っていることを皆にも伝えておく。


 すぐにフェンリスから返事が来た。


『ちゃんと休んでるならよかった。あと、どれくらい?』


 和真が到着の目安を返すと、今度は短く、


『気をつけてね』


 と届いた。


 画面を閉じると、リディアがこちらを見ていた。


「フェンリスですか?」


「うん。ちゃんと休んでるって」


「私も、後で連絡しておきます」


「そうしてくれると安心すると思う」


 リディアは頷いた。


 その言葉に、和真を困らせるような含みはなかった。


 和真は保冷袋を持ち、立ち上がった。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 駐車場へ向かう時、二人の肩が少し近づいた。


 触れはしなかった。


 それでも和真は、隣にいる彼女との間隔を、以前より気にしている自分に気づいた。


     ◇


 午後の道では、リディアが道順を確かめながら、借りていた家のことを話した。


 雨の後には玄関の戸が少し重くなること。


 朝早く、庭の向こうを畑へ向かう正一が通ること。


 千代が持ってきてくれる煮物は、一人分にしては多すぎること。


「足りないよりはいいでしょう、とおっしゃるんです」


「母屋にも、似たようなことを言う人がいるな」


「ええ。最初に酒菜の作った食事を見た時、少し思い出しました」


「残ったら、次にも食べられるしな」


「そのつもりで取っておくと、次の分を持ってきてくださるんです」


 和真は笑った。


「それは、食べ忘れてる暇がないな」


「はい。おかげで、助かりました」


 リディアの声が柔らかくなる。


「今でも、時々思い出します。作業をしていて、そろそろ戸を叩く音がする頃だな、と」


「……呼びに来る時間、決まってたのか」


「大体は。私が返事をするまで、待っていてくださるんです」


 和真は短く頷いた。


 工房へ呼びに行った時の、リディアの顔が浮かぶ。


 手を止め、こちらを振り返る姿。その少し前の彼女にも、同じように顔を見に来てくれる人がいたのだ。


 高速道路を降りる頃には、窓から差し込む光が低くなっていた。


 建物が減り、山が近づく。


 広い道路から川沿いの道へ入ると、リディアは窓の外へ身を向けた。


「この辺りです。もう少し先の橋を渡れば、よく歩いていた道に出ます」


「懐かしいか?」


「はい」


 返事の後、リディアは静かになった。


 和真が横を見ると、彼女は畑の向こうの家並みを眺めている。


 同じように見える屋根を、一軒ずつ確かめるような目だった。


 和真は声をかけず、道に沿って車を進めた。


 やがて、二手に分かれる所へ出る。


「ここは右です。左からも行けますが、途中が狭いので」


「了解」


 手書きの地図を見ながら、リディアが道を案内した。


 山の斜面に沿って上っていくと、石垣の上に小さな畑が見えた。その向こうに、低い屋根の家がある。


 玄関の前に、一人。


 畑との境に、もう一人。


 こちらへ顔を向けた二人を見て、リディアが小さく息を呑んだ。


「あそこです」


 声が、少し弾んだ。


     ◇


 敷地へ車を入れた時には、山の端が夕日に染まっていた。


 和真がエンジンを切るより先に、玄関の前にいた女性がこちらへ歩いてくる。


 小柄で、背は少し曲がっている。それでも足取りはしっかりしていた。


 リディアが車を降りる。


「千代さん。お久しぶりです」


「リディアちゃん」


 千代は、頭を下げようとした彼女の肩へ両手を添えた。


「顔を見せて」


 リディアが顔を上げると、千代はしばらく、確かめるように見つめた。


「……元気だったのね」


「はい」


「よかった」


 そう言って、抱き寄せる。


 リディアの手が一度、宙で止まった。


 それから、ゆっくりと千代の背中へ回る。


「ご連絡が遅くなって、すみませんでした」


「本当よ。電話が来て、どれだけほっとしたか」


「……はい」


「ちゃんと食べていた?」


「食べています」


「夜は?」


「そちらも、大丈夫です」


 返事までに少し間があった。


 千代が僅かに眉を上げる。その顔を見て、和真は思わず口元を緩めた。


「遠かっただろう」


 畑の方から、男性が近づいてきた。


 日に焼けた顔に、深い皺がある。軍手を外しながら、和真へ軽く頭を下げた。


「杉浦です。運転、ご苦労さま」


「四ノ宮和真です。初めまして。今日はご一緒させていただいて、ありがとうございます」


「いやいや、こっちは楽しみにしてたんだから。道は分かったか?」


「はい。教えていただいた方から来ました」


「それならよかった」


 正一は頷き、助手席の傍にいる二人へ顔を向けた。


「千代、そこでずっと話してたら、家に入れんぞ」


「あら、そうね」


 千代がリディアから離れ、和真を見る。


「あなたが和真さんね」


「はい」


「よく来てくださったわ。さあ、上がって。お茶を入れてあるから」


 和真は後部座席から菓子の袋を取り出した。


 その間にも、千代はリディアへ次々と声をかけている。


 道は混んでいなかったか。疲れていないか。寒くなかったか。


 答えるリディアの声も、普段より少し忙しい。


 玄関へ向かう途中、彼女が和真を見た。


「……いつも、こうなんです」


「何となく分かった」


 二人で小さく笑った。


 靴を脱ぐと、奥から煮物の匂いが漂ってきた。


 磨かれた廊下に、夕方の光が差し込んでいる。庭へ面した障子の向こうでは、木の影が揺れていた。


 リディアが、柱の前で足を止める。


 見上げた先には、古い時計が掛かっていた。


「動いていますね」


「ええ。ちゃんと動いているわよ」


 千代が振り返る。


「お父さんも、今は叩かなくなったし」


「叩いても直らんと言われたからな」


 正一が真面目な顔で答えた。


 リディアが小さく笑う。


 車の中で聞いていた二人が、そのまま目の前にいる。


 和真は、初対面なのに少しだけ懐かしいような、不思議な気持ちになった。


     ◇


 居間には、四人分の湯呑みが並んでいた。


 和真がお土産を渡すと、千代は何度も礼を言い、リディアの隣へ座るよう勧めた。


「こんなに気を遣わなくてよかったのに」


「リディアに、甘い物がお好きだと聞いたので」


「覚えていてくれたのね」


「もちろんです」


 リディアが答えると、千代は嬉しそうに菓子の箱を眺めた。


 和真は座布団へ腰を下ろした。


 正一が向かいへ座り、二人の湯呑みを手前へ寄せてくれる。


「長く座ってたんだ。楽にしていいから」


「ありがとうございます」


 初めは道の話だった。


 どの橋を渡ったか。途中にあった商店はまだ開いていたか。山へ入ってから、迷わなかったか。


 リディアが手書きの地図を見せると、正一は満足そうに頷いた。


「そうそう。こっちを通れば、車同士ですれ違う時も困らん」


「教えていただいて助かりました」


 和真が答えると、千代が笑った。


「リディアちゃんも、和真さんが一緒なら心強かったでしょう」


「はい。とても助かりました」


「よかったわねえ」


 千代の声が、少し弾んだ。


「好きな人に会いに行くなんて、急に言うものだから。どうなったか、二人でずっと気にしていたのよ」


 リディアの背筋が伸びた。


 和真も、湯呑みを口へ運びかけたまま止まる。


「千代さん、それは……」


「今日、二人で来てくれると聞いて、やっと安心したわ」


 千代はリディアを見て、それから和真へ目を向けた。


「ちゃんと一緒にご挨拶へ来てくださる彼氏さんで、よかったわね」


 和真は、静かに湯呑みを置いた。


「あの、俺は……」


「この子、自分のことはあまり話さないでしょう。困っていても、一人で何とかしようとするし」


 千代は少し身を乗り出した。


「もし無理しているようだったら、声をかけてあげてね」


 和真は隣を見た。


 リディアは頬を赤くして、湯呑みの辺りへ視線を落としていた。


 口を開きかけたが、千代と目が合うと、また閉じてしまう。


 車の中で気持ちを打ち明けてくれた時とは、違う顔だった。


 言いたいことがあるのに、言葉にならない。


 和真にも、その気持ちは分かった。


「……はい。無理している時は、ちゃんと声をかけます」


 結局、そう答えた。


 千代の顔が、ますます嬉しそうになる。


「食事も忘れるのよ」


「それは……今も、呼びに行くことがあります」


「やっぱり」


「和真」


 隣から、小さな抗議が飛んできた。


 リディアは赤い顔のまま、困ったようにこちらを見ている。


「そこまで、お話ししなくても」


「でも、本当だろ」


「……そうですが」


 千代が笑い、正一も目を細めた。


 和真は、その反応を見て気づいた。


 今のやり取りも、二人には恋人同士の会話に見えたらしい。


 訂正するなら、今だった。


 そう思ったのに、千代はちょうどリディアの手へ自分の手を重ねていた。


「よかった。本当に」


 その声は、からかう調子ではなかった。


 和真は、言いかけた言葉を飲み込んだ。


     ◇


 お茶を飲み終えた頃、和真は今夜の宿について尋ねた。


「この辺りで、泊まれそうな所はありますか。明日、朝から片付けようと思っているので」


 千代は不思議そうな顔をした。


「ここに泊まればいいでしょう」


「でも、お邪魔になりますし」


「何を言ってるの。もう、お部屋も用意してあるわよ」


 リディアが顔を上げた。


「そこまでしていただくつもりでは……」


「久しぶりに来たのに、お茶だけで帰られたら寂しいじゃない」


 リディアが黙る。


 正一も、湯呑みを置いた。


「借りてた家は、しばらく閉めていたからな。今から寝られるようにするのも大変だ。今日はこっちで休みなさい」


「……よろしいんですか?」


「もちろんだよ」


 和真はリディアと顔を見合わせた。


 彼女が、控えめに頷く。


 和真も向き直り、頭を下げた。


「それでは、お世話になります」


「よろしくお願いします」


 千代は満足そうに立ち上がった。


「はい。じゃあ、荷物を持っていらっしゃい。夕飯も、もう少しでできるから」


 二人は揃って、玄関へ向かった。


 外へ出ると、空は薄暗くなっていた。


 山の輪郭が、暮れかけた空の中に黒く浮かんでいる。


 和真は車の扉を開けながら、隣へ声をかけた。


「……ごめん。さっき、ちゃんと説明できなかった」


 リディアはすぐに首を振った。


「私もです。自分のことなのに、和真に任せてしまいました」


「任されたわけじゃないよ。俺も、話を合わせたから」


 鞄を取り出し、リディアへ渡す。


 彼女は受け取ってから、家の方を振り返った。


 窓の向こうで、千代が食器を運んでいる。


「あんなに喜んでくださるとは、思っていなくて」


「うん」


「違いますと、すぐには言えませんでした」


 和真も、明るい窓を見た。


「俺もだよ」


 短い返事に、リディアがこちらを向く。


「まだ何も決まってないって、落ち着いたところで話そう」


「……はい」


 リディアは頷いた。


 それから、鞄の持ち手を握り直す。


「ただ、少しだけ……嬉しかったです」


「え?」


「和真が、私のことでお二人と話してくださったことです」


 和真は返事に詰まった。


 彼氏という言葉を否定できなかったことを、彼女がどう受け止めたのか。気になっていたが、自分からは聞けなかった。


 リディアはそれ以上続けず、家へ向き直った。


 玄関から、千代が二人を呼ぶ。


「はい。今、伺います」


 いつもの落ち着いた返事だった。


 和真は一歩遅れて、その後を追った。


     ◇


 案内された部屋へ荷物を置いてから、和真はJINEを開いた。


 無事に到着したこと。


 杉浦夫妻の家に泊めていただくこと。


 明日は片付けをしてから帰ること。


 短くまとめて送ると、すぐに返事が届いた。


『着いたんだね。長い運転、お疲れさま』


 フェンリスだった。


 続けて、もう一つ届く。


『リディアも元気?』


 和真が画面を見せると、リディアは小さく頷き、自分の端末を取り出した。


「私からも、お返事しておきます」


「うん」


 隣で文字を打つ音を聞きながら、和真も到着が遅くなったことを詫びた。


 フェンリスからは、ちゃんと休むようにと返ってきた。


 画面を閉じると、廊下の向こうから正一の声がする。


「飯にしようか」


 二人は端末をしまい、居間へ戻った。


 食卓には、焼いた魚と、野菜の煮物、具の多い味噌汁が並んでいた。


「大した物はないけれど、遠慮しないで食べてね」


「十分すぎます。ありがとうございます」


 和真が答えると、千代は嬉しそうに御飯をよそった。


 リディアが煮物を一口食べる。


 ゆっくり噛み、飲み込んでから、小さく息をついた。


「……懐かしいです」


「味、変わってない?」


「はい。とてもおいしいです」


 千代は自分の箸を持つより先に、リディアの皿へもう一つ煮物を足した。


 和真は思わず、リディアを見た。


 車内で聞いた話のとおりだった。


 彼女も気づいたらしく、こちらへ小さな笑みを返す。


「和真さんも、どうぞ」


「ありがとうございます」


 今度は自分の皿にも足され、和真は笑いながら頭を下げた。


 食事の間、話は空色唐辛子荘での暮らしへ移った。


 住人たちと母屋で食事をしていること。


 皆がそれぞれ、仕事や新しいことに取り組んでいること。


 リディアが工房で物を作り、修理を続けていること。


 説明に困る部分には踏み込まず、和真は庭や畑の話もした。


「鶏もいるのか」


 正一が興味を示す。


「はい。餌や水の世話は、リディアが随分楽にしてくれて」


「ああ、この子は、そういうのが得意だからな」


 正一は頷き、廊下の方を指した。


「うちの玄関の灯りも見てくれたんだ。前は暗くて、千代が足元を見づらくてな」


「台所の棚もよ。重くて引きづらかったのが、すっと動くようになったの」


「少し直しただけですよ」


 リディアが言うと、正一は箸を止めた。


「その少しが、こっちにはできんのだよ」


「分かります」


 和真が頷いた。


 リディアがこちらを見る。


「和真まで」


「本当に助かってるからな」


「……ありがとうございます」


 今度は否定しなかった。


 千代はその顔を見て、穏やかに笑っていた。


「人の物ばかりじゃなくて、自分の作りたい物も作れている?」


「はい。今は、置く場所にも困りませんので」


「食事は呼びに来てもらえて、作業する場所もある。いい所に行けたわね」


 リディアは茶碗を持ったまま、少し目を伏せた。


「……はい」


 短い返事だった。


 それでも、千代には十分伝わったようだった。


 おかわりは、と尋ねる声が、先ほどより柔らかくなる。


 和真はそのやり取りを聞きながら、味噌汁を一口飲んだ。


 リディアが何を作れるかではなく、どんなふうに過ごしているか。


 二人が知りたかったのは、そちらなのだと思った。


     ◇


 食後、リディアは千代と食器を運び、和真は正一に翌日の片付けについて相談した。


 家に元からある家具は、そのまま残してよいこと。


 捨てる物があれば、持ち物を確かめてから分けること。


 使っていた机も、無理に動かす必要はないこと。


 正一は、急がなくていいと繰り返した。


「一日で全部済まなきゃ、また来ればいい」


「なるべく、きれいにしてお返ししたいので」


「それはありがたいが、帰りの運転まであるんだろう。くたくたになるまでやらんでいい」


「はい。様子を見ながらにします」


 正一は頷いた。


 台所から、水の流れる音が聞こえる。


 その合間に、千代とリディアが何かを話していた。


 内容までは分からなかったが、時折、リディアの笑い声が混じった。


 和真がそちらへ目を向けると、正一も同じ方を見た。


「前より、よく笑うようになったな」


 和真は顔を戻した。


「リディアですか?」


「ああ」


 正一は、使い終えた箸を揃えた。


「ここにいた時も、笑わなかったわけじゃないがね。今日は、顔が柔らかい」


 和真は何と答えればよいか分からず、台所へもう一度目を向けた。


 リディアが、千代から受け取った皿を拭いている。


 千代が何か言うと、彼女は困ったように笑い、小さく首を振った。


 その顔を見ていると、和真まで落ち着かなくなった。


「……皆と暮らすのは、賑やかですから」


「そうか」


 正一はそれ以上、踏み込まなかった。


 ただ、満足そうに頷いた。


 やがて片付けが終わり、千代が廊下の奥へ向かった。


 リディアは手を拭いてから居間へ戻り、和真の隣に腰を下ろす。


「明日は、まず荷物を分けるところからですね」


「うん。運ぶのは俺がやるから、残す物を見てもらえると助かる」


「分かりました。棚の中も、一度全部確認します」


「途中で何か作り始めるなよ」


「……今日は、ずいぶん念を押されますね」


「一応な」


 リディアが笑ったところへ、廊下から千代の声がした。


「お風呂、いいわよ」


 和真は顔を上げた。


「ありがとうございます」


「タオルも出してあるから、二人で入ってらっしゃい」


 立ち上がりかけた和真が止まる。


 隣のリディアも、千代を見たまま動かなかった。


「……二人で、ですか?」


「ええ。広いから大丈夫よ。長く車に乗っていたんでしょう。ゆっくり温まって」


 千代は、ごく自然にそう言った。


 正一も立ち上がり、腰を伸ばす。


「わしらは先に休むから、後は気にせんでいい。明かりだけ、使い終わった所から消してくれれば」


「は、はい」


 和真は返事をしてから、リディアを見た。


 リディアもこちらを見ていた。


 さっきまで穏やかに話していた彼女の頬に、みるみる赤みが差していく。


「さあ、こっちよ。使い方を説明するわね」


 千代が廊下へ向き直る。


 二人は顔を見合わせたまま、一瞬だけ立ち尽くした。


先に動いたのは、リディアだった。


「……はい。ありがとうございます」


 千代の後を追って廊下へ出る。その背中を見て、和真も慌てて立ち上がった。


 居間から少し離れた所に、洗面所があった。


 千代が戸を開けると、奥から湯気を含んだ空気が流れてくる。


「タオルはここね。着替えは、そこの籠へ入れてちょうだい」


 棚の上には、二人分のタオルが畳まれていた。


 和真はその横に立ち、開けられた浴室の戸へ目を向ける。


 白いタイルの洗い場と、その奥にある横長の浴槽。


 確かに、家庭の風呂にしては広かった。


「昔、直した時にね。お父さんが、足を伸ばして入れるようにしたいって言ったの」


 千代が笑う。


「畑から帰ったら、お風呂くらいゆっくり入りたいんですって」


「……なるほど」


 和真は頷いた。


 風呂の広さには納得した。


 二人で入ることに納得できたわけではなかった。


「お湯が熱かったら、少し水を足してね。終わったら、この換気扇だけつけておいてくれればいいから」


「はい」


 リディアが返事をする。


 いつもなら、一度聞いただけで問題なく扱える設備だろう。それでも今は、千代の指す場所を一つずつ確かめるように見ていた。


「何か分からなかったら、呼んでちょうだい」


 和真は口を開きかけた。


 今なら、まだ説明できる。


 そう思ったところへ、千代が嬉しそうに目を細めた。


「今日は、二人ともよく来てくれたわね。顔を見られて、本当によかった」


 リディアが、小さく頭を下げる。


「こちらこそ、お世話になります」


「ゆっくり休んでね」


 千代はそれだけ言い、廊下へ戻っていった。


 二人で見送っていると、居間の方から正一の声がする。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 返事が重なった。


 千代が振り返って微笑み、廊下の奥へ姿を消す。


 和真は足音が遠ざかるのを聞いてから、ゆっくりリディアを見た。


「……どうしよう」


「私も、考えています」


 答えは早かった。


 リディアは棚に並んだタオルへ視線を向けたまま、動かない。


「広さの問題ではないんですが」


「うん。それは俺も思った」


 小声で言い合い、二人とも口を閉じる。


 浴室から、湯が滴る音がした。


 和真は首の後ろへ手をやった。


「とりあえず、着替えを持ってこようか」


「……そうですね」


 ようやく用事を一つ見つけたように、リディアが頷いた。


     ◇


 部屋から着替えを取って戻ってきても、答えが出たわけではなかった。


 和真は籠の脇へ衣類を置き、リディアを見る。


「別々に入れば、それで済む話なんだけど」


「はい」


「千代さんにも、そう言えばよかったな」


「……言いそびれてしまいましたね」


 リディアは、手に持ったタオルの端を揃えた。


 その動きは丁寧だったが、さっきから同じ所を何度も畳み直している。


「先に入っていいよ。俺は部屋で待ってるから」


 和真がそう言うと、リディアの手が止まった。


「和真が先にどうぞ。ずっと運転してくださったんですから」


「リディアも、長く座ってただろ」


「運転する方が疲れるでしょう」


「でも……」


 二人とも、そこで止まった。


 譲り合っているつもりが、どちらも入れなくなっていた。


 リディアが小さく息を吐く。


「……お二人の前では、何も言えなかったのに」


「今になって、だな」


「はい」


 目が合い、どちらからともなく苦笑した。


 少しだけ空気が緩む。


 リディアはタオルを胸の前へ持ち直した。


「順番に身体を洗って、その間は、後ろを向いていれば……一緒でも、入れるとは思います」


 和真は彼女を見た。


 リディアの頬は、赤かった。


 冗談を言っている顔ではなかった。


「リディアは、それでいいのか?」


「平気だとは、言っていません」


 返事の後、彼女は少し目を伏せた。


「恥ずかしいですし、どうしていいかも、よく分かりません。でも、和真となら……」


 そこで言葉が止まる。


 和真まで、顔が熱くなった。


 昼に聞いた告白が、急にはっきりと思い出された。


 リディアは自分のことを、そういう相手として見ている。


 分かっていたはずなのに、二人で風呂の前に立っている今、その意味を改めて意識してしまった。


「……無理はしなくていいからな」


「和真もです」


「俺は……」


 答えかけて、困った。


 嫌ではない。


 けれど、気にならないと言えば嘘になる。


 リディアは和真の返事を待ち、やがて少しだけ口元を緩めた。


「二人とも、このままでは入れませんね」


「そうだな」


 和真は浴室へ目を向けた。


 湯は、きちんと用意されている。


 足を伸ばせる風呂に入って、今日の疲れを取る。そのはずが、入る前から別のことで疲れ始めていた。


「じゃあ、俺が先に洗って、湯船で待ってる。それでいいか?」


 リディアが頷く。


「はい。入る時には、声をかけます」


「分かった」


「その時は、振り向かないでくださいね」


「振り向かない」


 和真はすぐに答えた。


 その返事の早さに、リディアがほんの少し笑った。


     ◇


 一人で浴室へ入ると、和真はまず息をついた。


 顔を洗い、身体を流す。


 湯を浴びれば落ち着くかと思ったが、戸の向こうにリディアがいることを思い出すたび、また肩へ力が入った。


 なるべく普段どおりに済ませようとして、かえって一つ一つの動きがぎこちなくなる。


 ようやく浴槽へ入ると、思わず息が漏れた。


 湯は少し熱めだった。


 長く座っていた腰や背中が温まり、身体の重さがほどけていく。


 和真は浴槽の端へ寄り、洗い場に背を向けた。


「……もう、大丈夫だよ」


 戸の向こうで、小さく返事がした。


「はい」


 それから、少し間が空いた。


 和真は正面の壁を見たまま待つ。


 戸が開く音がした。


 外の空気が入ってきて、湯気が僅かに揺れる。


「入りますね」


「うん」


 返事の後、和真は口を閉じた。


 何か喋っていた方がいいのか。


 黙っていた方が、リディアも落ち着けるのか。


 そんなことまで分からなくなっていた。


 後ろで戸が閉まり、洗面器を動かす音がする。


「……和真」


「何?」


「そんなに、肩へ力を入れなくても」


「入ってるか?」


「はい。見ていて分かるくらいには」


 和真は肩を下げた。


「そっちは、落ち着いてるな」


「そう見えるだけです」


 少し間が空く。


「今、せっけんを落としました」


 和真は思わず笑いかけ、口を結んだ。


 背後からも、小さな笑い声が聞こえる。


「笑っても構いませんよ」


「いや、俺も人のこと言えないから」


「そうですね」


「そこは否定しないんだな」


 返事の代わりに、水の音がした。


 和真は浴槽の縁へ腕を置いた。


 目の前のタイルには、一枚だけ色の違う物があった。以前、修理でもしたのだろうか。


 普段なら気にも留めない物を、やけに熱心に見ている自分がおかしかった。


「義手は、水に濡れても大丈夫なんだよな」


 思いついたことを口にする。


 リディアの声が、少し普段の調子へ戻った。


「はい。日常で使う物ですから。ただ、後で継ぎ目は拭いておきます」


「水が残るとよくないのか?」


「ええ。濡れたまま放っておかない方が、手入れが楽ですので」


「そっか」


 いつもの説明だった。


 工房で話している時と似た声に、和真も少し落ち着いた。


 背後でリディアが笑う。


「こんな時まで、義手の話になるんですね」


「他に何を話せばいいか、分からなくて」


「私も、今の話が一番答えやすかったです」


 二人で声を抑えて笑った。


 少し前まで、この浴室に入ることさえためらっていた。


 今も気にならないわけではないが、声を聞いていると、隣にいるのがよく知ったリディアなのだと思い出せた。


 やがて、水の音が止まる。


「そちらへ入ってもいいですか」


「ああ」


「もう少し、そのままでお願いします」


「分かってる」


 和真は背中を向けたまま、浴槽の端へ身を寄せた。


 近くで足音が止まる。


 少しして、反対側の湯が揺れた。


 水面が持ち上がり、浴槽の縁から湯が細く流れ落ちる。


「……温かいですね」


 リディアが、ゆっくり息を吐いた。


「うん」


 和真は動かなかった。


 彼女が湯に浸かったことは分かっていても、どこまで顔を向けてよいのか迷う。


「もう、大丈夫ですよ」


「……何が?」


「ずっと壁を向いていなくても、という意味です」


「ああ」


 和真は慎重に、正面へ向き直った。


 リディアは反対側に座り、肩まで湯へ沈んでいた。


 目が合う。


 互いに一度、視線を逸らした。


「……広くて、よかったですね」


 リディアが言う。


「そうだな」


「狭かったら、もっと困っていました」


「今も、十分困ってるけど」


 言ってから、和真は彼女を見た。


 リディアも、こちらを見ていた。


 今度は、二人とも少し笑った。


     ◇


 浴室の高い窓から、かすかに虫の声が聞こえていた。


 車の中とも、母屋とも違う静けさだった。


 和真は手元の湯を見ながら尋ねる。


「前に住んでた時も、ここの風呂を借りてたのか?」


「時々です。夕食へ呼んでいただいた時などに」


「泊まっていくことも?」


「いえ。髪を乾かしてから、借りていた家へ戻っていました。すぐそこですから」


 リディアは湯の中で、ゆっくり姿勢を変えた。


「玄関を出ると、千代さんが外灯をつけてくださるんです。家へ入るまで、そこで見ていて」


「さっき話してた、玄関の灯りか」


「はい」


 リディアが頷く。


「暗くて足元が見づらいと聞いて、直したんです。でも、その後も見送ってくださいました」


「灯りがついたから、もう心配しなくていいってわけじゃなかったんだろうな」


「……そうですね」


 返事の後、リディアはしばらく黙った。


 和真も口を挟まなかった。


 湯気の向こうで、彼女がゆっくり目を伏せる。


「電話だけでは、分からなかったと思います」


「何が?」


「私がいない間も、あんなふうに気にかけてくださっていたことです」


 和真は今日、玄関で見た千代の顔を思い出した。


 リディアの肩へ手を添え、顔を確かめていた。


 元気だったと聞いただけでは足りなくて、自分の目で確かめたかったのだろう。


「会えてよかったな」


「はい」


 リディアは頷いた。


「和真にも、お会いしていただけてよかったです」


「俺もだよ」


 自然に答えてから、和真は少し目を伏せた。


「ただ、思ってたより、紹介のされ方が違ったけど」


 リディアの頬が、また赤くなる。


「……それは」


「明日には、ちゃんと話そう。これ以上、黙ってるのもよくないし」


「はい。私からも、お話しします」


 リディアは真面目な顔で頷いた。


 和真は、その返事を聞いて少し安心した。


 彼女の気持ちを嬉しく思うことと、恋人になったように振る舞うことは、同じではない。


 自分が何も言わなかったために、リディアを余計に困らせるのも避けたかった。


 そんなことを考えていると、彼女がそっと口を開いた。


「でも、千代さんのお話は、本当です」


「どの話?」


「自分のことを、後回しにするところです」


「ああ……」


「今日は、ずいぶん言われてしまいましたね」


 少し困った顔だった。


 和真は笑った。


「心配してるんだよ。二人とも」


「和真も、同じことをおっしゃっていました」


「実際、心配することがあるからな」


「例えば?」


「呼びに行っても返事がなくて、入ったら机で寝てた時とか」


 リディアが、目を逸らした。


「……起こしてくださればよかったのに」


「起こしただろ」


「そうでしたか」


「覚えてないのか?」


「作業をしていたところまでは」


 和真は苦笑した。


「そこなんだよ」


 リディアも、小さく笑った。


「気をつけます」


「うん」


「今夜は、ちゃんと眠りますから」


「そうしてくれ」


 答えてから、和真は湯の熱さを意識した。


 話しているうちに、思ったより長く浸かっていたらしい。


「……そろそろ出ようか」


「はい。私も、少し暑くなってきました」


 言いながら、リディアはすぐには立たなかった。


 和真も同じだった。


 目が合う。


 そして、二人とも思い出す。


 入る時に順番を決めたのだから、出る時にも決めなければならない。


「……俺からでいい?」


「はい。後ろを向いています」


 リディアが顔を背けた。


 和真は短く礼を言い、浴槽から出た。


 足を滑らせないように、それだけは気をつけた。


     ◇


 着替えを済ませて廊下へ出ると、夜の空気が気持ちよかった。


 和真は首元へ手をやり、大きく息を吐いた。


 風呂で身体は温まった。


 疲れも、いくらか取れた。


 ただ、心臓だけが、なかなか普段の調子へ戻らない。


 廊下の向こうは暗くなっていた。


 正一と千代は、もう寝室へ入ったらしい。


 和真は足音を立てないように歩き、借りた部屋の前で待った。


 しばらくして、リディアが洗面所から顔を出した。


 肩にはタオルが掛かっている。


「お待たせしました」


「髪、乾かさなくていいのか?」


「これからです。和真がまだ何かお使いになるなら、先にと思って」


「俺は大丈夫。ゆっくりでいいよ」


「はい」


 リディアが戻り、控えめな風の音が聞こえ始めた。


 和真は端末を取り出した。


 みゆから、ピピが土産を楽しみにしているという連絡が来ていた。


 その下に、フェンリスからの短い文がある。


『おやすみ。明日も気をつけて』


 和真は少しだけ画面を見つめた。


 出発の朝、車の傍で見送ってくれた顔が浮かぶ。


『ありがとう。明日、帰る前に連絡する。おやすみ』


 そう返し、端末を閉じた。


 皆と暮らすようになってから、誰かに心配してもらうことが増えた。


 自分が気にかけているつもりでいても、同じくらい、こちらを見てくれている人がいる。


 今日、リディアが千代に抱き寄せられた時も、そう思った。


 その気持ちへ、どんなふうに応えていけばいいのだろう。


 和真は、まだ答えを持っていなかった。


 ただ、曖昧に笑って済ませることばかりでは、駄目なのだと思い始めていた。


 洗面所の音が止まった。


 リディアが戻ってきたため、和真は端末をしまった。


「もう、お二人とも休まれたようですね」


「うん。静かにしよう」


 二人は声を落とし、部屋の襖を開けた。


     ◇


 和真が、一歩目で止まった。


 隣のリディアも、同じ所で足を止める。


 部屋の真ん中に、布団が敷かれていた。


 幅の広い敷布団。


 その上に、きれいに整えられた掛け布団。


 枕は二つ、並んでいる。


 和真は部屋の隅へ目を向けた。


 自分たちの鞄。小さな机。水の入ったポットと、二つのコップ。


 もう一組の布団は、どこにも見当たらなかった。


「……リディア」


「はい」


「これ」


「見えています」


 返事は、やけに静かだった。


 和真は額へ手を当てる。


 風呂から出たところで、ようやく落ち着けると思っていた。


 どうやら、まだだった。


「荷物を置いた時には、なかったよな」


「はい。後から敷いてくださったんですね」


 リディアの視線が、並んだ枕へ落ちる。


 和真は廊下を振り返った。


 奥の部屋は、暗いままだった。


「……もう一組、借りられるかな」


「お休みになったところを、起こしてしまいますね」


「そうだよな」


 二人は中へ入り、襖を閉めた。


 声を落としているせいで、相談が余計に内緒話のようになってしまう。


 和真は布団の脇に畳まれた薄い毛布を見つけた。


 持ち上げ、広げてみる。


「俺はこれを使うよ。リディアは布団で寝て」


「どこで眠るつもりですか」


「こっちの畳で」


 リディアは和真を見た。


 先ほどまでの戸惑いとは違う、真剣な目だった。


「明日も、運転するのは和真ですよ」


「大丈夫だよ。一晩くらい」


「そういう時には、自分のことを後回しにするんですね」


 和真は返事に詰まった。


 浴室でしたばかりの話を、返されてしまった。


 リディアが、和真の手にある毛布を指す。


「それなら、私がそちらを使います」


「それは駄目だろ」


「どうしてです?」


「いや……リディアだけ床で寝かせるわけには」


「私も、同じことを言っています」


 和真は黙った。


 リディアも、それ以上は言わなかった。


 しばらく見つめ合った後、二人で布団へ目を向ける。


 広い。


 端と端に分かれれば、寝られないことはない。


 そう考えてしまったことが、相手にも伝わったようだった。


 リディアが、先に視線を落とした。


「……掛ける物を分ければ、少しは」


「うん」


「真ん中を空けて眠れます」


「そうだな」


 短い返事ばかりになる。


 和真は毛布を抱えたまま、布団の脇へ座った。


「本当に、いいのか?」


 リディアも、反対側へ腰を下ろした。


「和真がよければ」


 昼間、まだ答えられないと言った。


 リディアも、それを聞いて待つと答えてくれた。


 それなのに、一緒に風呂へ入り、同じ布団で眠ろうとしている。


 和真が何を気にしているのか、リディアには分かったらしい。


「今日のお話を、忘れたわけではありませんよ」


 穏やかな声だった。


「これで、お返事をいただいたことにするつもりもありません」


「……うん」


「ただ」


 リディアが、少しだけ言葉を止めた。


 視線は、和真の手にある毛布へ向いている。


「私が嬉しいと思うことまで、我慢はできませんけれど」


 和真は彼女を見た。


 リディアの頬が赤い。


 しかし今度は、俯いたままではなかった。


「それは、先にお伝えしておきます」


 和真はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……分かった」


 何となく流されているだけではない。


 彼女は、自分の気持ちを一つずつ言葉にしている。


 昼の告白も、今の一言も。


 そのたびに自分が戸惑うのは、彼女をどうでもいいと思っていないからなのだろう。


 そこまでは、和真にも分かった。


「じゃあ、俺はこっちの端を使うよ」


「はい」


「掛けるのは、この毛布でいい。寒くなったら、また考える」


「分かりました」


 リディアが枕を移動させる。


 和真も反対側の枕を少しずらした。


 その間に、何を思ったのか、和真は畳んだタオルを置いた。


 リディアがそれを見て、瞬きをする。


「境目ですか?」


「目印があった方がいいかと思って」


「……なるほど」


「変か?」


「いえ」


 リディアは口元を押さえた。


「少し、安心しました」


「笑ってるだろ」


「すみません。でも、分かりやすくて」


 和真も、つられて笑った。


 ただのタオル一枚で何が変わるわけでもない。


 それでも、二人で決めた場所があるだけで、少し気が楽になった。


     ◇


 眠る前に、リディアは鞄から小さな布を取り出した。


 袖を上げ、義手の継ぎ目を丁寧に拭く。


 手首を回し、指を一本ずつ動かして、引っかかりがないか確かめていた。


 和真は充電器を取り出しながら、その様子を見ていた。


「毎晩、そうやって確かめるのか?」


「簡単には。使っていて気づいたことがあれば、もう少し時間をかけます」


「今日は?」


「特に問題ありません」


 リディアは指を握り、開いた。


 動きに迷いはなかった。


 和真は、その手が昼間、鞄の上で動かなくなっていたことを思い出した。


 機械の手でも、彼女が何を感じているのかは仕草に出る。


 当たり前のことなのに、今日になって、何度も気づかされた。


「……何か付いていますか?」


 リディアに聞かれ、和真は顔を上げた。


「いや。手入れ、慣れてるなと思って」


「長く使っていますから」


 リディアは布を畳んだ。


 それを鞄へしまい、和真の置いたタオルへ目を向ける。


「こちらは、動かさないでおきますね」


「そんなに気になるか、それ」


「気になります」


 返事が早かった。


 車の中でも聞いた言い方で、和真はまた笑ってしまった。


 時計を確かめ、部屋の大きな灯りを消す。


 小さな灯りだけになると、急に寝室らしくなった。


 リディアが先に横になり、和真も反対側へ入る。


 敷布団が、僅かに沈んだ。


 その動きだけで、同じ布団にいるのだと分かる。


 和真は天井を向いた。


 隣も、静かだった。


 廊下の向こうで時計が鳴った。


 音が消えてから、リディアが口を開く。


「……思っていたより、近いですね」


「それ、言うのか」


「黙っていると、余計に気になりそうでした」


「言われても気になるよ」


「そうですか」


 小さな笑い声がした。


 和真も、口元を緩めた。


 布団の端へ寄りすぎて、片方の肩が少し落ちている。


 直そうとしたところで、隣から声がした。


「もう少し、こちらへ戻って大丈夫ですよ」


「分かるのか?」


「毛布が、ほとんど布団の外にあります」


 和真は少しだけ内側へ戻った。


 真ん中のタオルには、まだ距離がある。


「これくらいなら」


「はい」


「リディアも、端に寄りすぎてないか?」


「……少し」


 衣擦れの音がした。


 彼女も、僅かに戻ってきたらしい。


 二人とも、それ以上は位置を変えなかった。


     ◇


 目を閉じてみたが、すぐには眠れなかった。


 長く運転していたのだから、疲れていないわけではない。


 それでも、隣で布団が動くたび、意識がそちらへ向いてしまう。


「和真」


「うん?」


「まだ、起きていましたか」


「リディアもな」


「はい」


 少し間が空いた。


 和真は目を開け、天井を見た。


「何か、話したかった?」


「……一つだけ」


「何?」


「ここへ来ると言った時、本当に驚いていましたね」


 和真は、朝の台所を思い出した。


 皿を取り落としかけ、ろくに話も聞かずに、暮らしに不満があったのかと尋ねた。


「自分でも、あんなに慌てるとは思わなかった」


「工房のことまで、すぐに心配してくださいました」


「それは……」


 和真は言葉を探した。


「何か困ってるなら、言ってほしいと思ったんだよ。気づかないうちに、嫌な思いをさせてたのかって」


「そんなことはありません」


 リディアは、はっきり答えた。


「ここへ来る前から、帰るつもりでした。和真や皆さんのいる所へ」


「……うん」


 和真は静かに頷いた。


 暗くても、隣からこちらを見ている気配がした。


「それを、最初に言えばよかったですね」


「今、聞けたからいいよ」


 リディアが小さく息を吐いた。


 安心した時のような音だった。


 しばらくして、和真が尋ねる。


「会いに来て、思ってたのと違ったことはなかったのか?」


「ありますよ」


 即答に近かった。


 和真は思わず顔を向ける。


 リディアは天井を見たまま、少し笑っていた。


「料理が、あまりお得意ではないこととか」


「……そこか」


「何でもお一人でできる方なのかと思っていましたので」


「そんなわけないだろ」


「ええ。今は知っています」


 リディアの顔が、こちらへ向く。


 薄暗い部屋の中で、目が合った。


「困ると、どういうお顔をされるかも」


「今日、随分見せた気がする」


「はい」


「否定しないんだな」


「事実ですから」


 二人で小さく笑った。


 リディアは笑みを残したまま、静かに続ける。


「でも、知ってよかったと思っています」


「料理が下手なことを?」


「それも含めてです」


 和真は黙った。


「一緒に暮らして、初めて分かったことがたくさんあります。その上で、今日、お話ししたかったんです」


 昼に告げられた言葉が、胸の中へ戻ってきた。


 一目惚れだった。


 けれど、その時の気持ちだけを抱えて、今日まで来たわけではない。


 一緒に食事をして、話して、困る顔まで見た上で、好きだと伝えてくれた。


 和真はすぐに返事ができなかった。


 リディアも、それを待つように黙っていた。


「……ちゃんと、考えるよ」


 ようやく言うと、彼女は頷いた。


「はい」


 それ以上、答えを求められることはなかった。


 和真は天井へ顔を戻す。


 同じように、リディアも上を向いた。


 しばらくして、彼女が小さく笑った。


「今日だけで、和真を何度困らせたでしょうね」


「数えなくていいよ」


「そうですね。眠れなくなりそうです」


「もう、十分なってる」


「私もです」


 素直な返事だった。


 和真は息を吐き、目を閉じた。


「とりあえず、目を閉じよう」


「はい」


「明日、片付けがあるからな」


「途中で眠っていたら、起こしてください」


「机で寝るなって言ったばかりだろ」


 隣で笑いを堪える気配がした。


 和真も口元を緩める。


「おやすみ、リディア」


「おやすみなさい、和真」


 今度こそ、静かになった。


 廊下の時計が、一定の間隔で時を刻んでいる。


 遠くの虫の声も、もう気にならなかった。


 隣から聞こえる呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。


 それを聞いているうちに、和真の意識も、いつの間にか薄れていった。


     ◇


 夜中、一度だけ目が覚めた。


 高い所で、風が鳴っていた。


 和真はぼんやりと目を開ける。


 肩の辺りが少し涼しい。毛布の端が、身体からずれていた。


 引き上げようと腕を動かすと、隣から小さな声がした。


「……寒いですか」


 和真は手を止めた。


「少しだけ。起こした?」


「いえ。私も、今、目が覚めたところです」


 暗がりの中で、布団が動いた。


 掛け布団の端が、和真の毛布へ重なる。


「これなら、どうでしょう」


「リディアの分は?」


「足りています。大きいですから」


 和真は隣へ目を向けた。


 リディアの顔は、薄暗くてよく見えない。


 それでも、こちらを気にしていることは分かった。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 声が柔らかかった。


 昼間の、言葉を選びながら話していた時とも違う。


 和真は掛け布団を引きすぎないよう、肩の辺りだけ整えた。


 真ん中には、畳んだタオルが残っている。


 それを確かめた自分が少しおかしかったが、今は笑わなかった。


「これで大丈夫」


「よかったです」


 リディアが静かに横になり直す。


 和真も目を閉じた。


 今度は、隣の気配があっても、先ほどほど落ち着かないとは思わなかった。


 同じ布団の中に、リディアがいる。


 そのことを確かめるように、一度だけ息を吐く。


 返ってきた穏やかな寝息を聞きながら、和真は再び眠りに落ちた。


頬に、柔らかいものが触れていた。


 和真は浅い眠りの中で、少しだけ顔を動かした。


 知らない匂いではなかった。昨夜、隣から漂っていた、髪を洗った後の匂いだ。


 肩の辺りには、温かな重みがある。


 寝返りを打とうとして、和真は動きを止めた。


 腕が、動かしづらい。


 ゆっくり目を開ける。


 障子の向こうが、朝の光で白く明るんでいた。


 その光の中で、すぐ近くにリディアの顔が見えた。


「……え」


 声が漏れかけ、慌てて飲み込む。


 リディアは和真の肩へ頬を寄せて眠っていた。


 片腕が胸の上へ回され、もう片方の手は、脇腹の辺りで寝間着の布を掴んでいる。


 抱きつかれていた。


 昨夜、真ん中へ置いたはずのタオルは、二人の枕の間で小さく丸まっていた。


 和真はそれを見て、もう一度リディアへ視線を戻した。


 穏やかな寝顔だった。


 眉間に皺もなく、口元も緩んでいる。普段、工房で細かい作業をしている時とは随分違って見えた。


 和真は息を浅くした。


 起こした方がいい。


 そう思ったのに、すぐには声が出なかった。


 肩へ触れている頬の温かさと、胸元へ回された腕の重さを、意識せずにはいられない。


 機械の指が、寝間着の布を緩く挟んでいた。


 無理に抜けようとすれば、彼女を起こしてしまうだろう。


 かといって、そのまま見ているのも落ち着かなかった。


「……リディア」


 小さく呼ぶ。


 返事はなかった。


 代わりに、リディアの顔が僅かに動いた。


 肩へ頬を寄せ直し、回された腕に少しだけ力が入る。


 和真は、今度こそ完全に動けなくなった。


「リディア。朝だよ」


 もう一度呼ぶと、彼女の瞼がゆっくり開いた。


 まだ眠たそうな目が、和真を見上げる。


「……和真?」


「うん。おはよう」


「おはよう、ございます……」


 掠れた声だった。


 リディアはそう答えた後も、しばらく動かなかった。


 和真の顔を見ている。


 やがて視線が下がり、自分の腕へ移った。


 胸の上に回された片腕。


 寝間着を掴んでいる、もう片方の手。


 そこまで確かめてから、再び和真の顔を見る。


 目が、はっきり開いた。


「……私」


「うん」


「これは……」


 言葉が途切れる。


 リディアの頬が、一気に赤くなった。


 慌てて腕を引こうとしたため、和真は小さく声をかけた。


「待って。服、掴んでる」


「す、すみません」


 リディアが手元を見る。


 布を挟んでいた指を開き、今度はゆっくり腕を戻した。


 身体を離すと、二人の間に朝の空気が入ってくる。


 リディアは上体を起こし、掛け布団を膝の上へ引き寄せた。


 和真も起き上がる。


 どちらも、相手をまっすぐ見られなかった。


「……起きていたわけではありません」


 先に口を開いたのは、リディアだった。


「分かってるよ」


「その、眠っている間に……」


「うん」


 リディアは枕の間にあるタオルを見つけた。


 しばらく見つめた後、それを拾い上げる。


「目印は、あまり役に立ちませんでしたね」


 真面目な声だった。


 和真は、堪えきれずに少し笑った。


「寝てたら見えないしな」


「……そうですね」


 リディアも、困ったように口元を緩めた。


 けれど、顔の赤みは引かない。


「苦しくありませんでしたか?」


「大丈夫だったよ」


「腕も?」


「何ともない」


 和真は確かめるように腕を動かして見せた。


 それを見て、リディアがようやく息をつく。


「よかったです」


 そこで会話が途切れた。


 廊下の向こうから、食器の触れ合う音が聞こえる。


 朝食の支度が始まっているらしい。


 和真が布団から出ようとした時、リディアが小さく尋ねた。


「……いつから、起きていたんですか」


「少し前。気づいて、どうしようかと思ってた」


「すぐに起こしてくださればよかったのに」


「よく寝てたから」


 和真はそう答えてから、余計なことまで言った気がした。


 リディアの視線が、こちらへ向く。


 彼女は何か言いかけたが、やめた。


 代わりに、手の中のタオルを丁寧に畳む。


「……よく眠れました」


 小さな声だった。


「そっか」


「はい」


 和真も、よく眠れた。


 昨夜はあれほど落ち着かなかったのに、途中からは隣の気配を気にせず眠っていた。


 それを口にすると、今度は自分が何を考えていたかまで伝わってしまいそうで、和真は立ち上がった。


「顔、洗ってくるよ」


「はい。私は、先に着替えます」


 襖を開ける前に、一度だけ振り返る。


 リディアはまだ、畳んだタオルを膝へ置いていた。


 目が合う。


 二人とも、ほとんど同時に視線を逸らした。


     ◇


 朝食の支度を手伝いながら、リディアは何度か和真と顔を見合わせた。


 昨夜、二人で話そうと決めたことがある。


 和真が小さく頷くと、彼女も頷き返した。


 食卓の準備が整い、千代が腰を下ろしたところで、リディアが声をかけた。


「千代さん、正一さん。先に、少しお話ししておきたいことがあるんです」


「何かしら」


 千代が顔を上げる。


 リディアは膝の上へ手を揃えた。


「昨日は、きちんとご説明できなくて、すみませんでした。私と和真は、まだお付き合いしているわけではないんです」


 千代の手が止まった。


 正一も、こちらを見る。


「……そうなの?」


「はい。私が和真を好きなのは、本当です。ただ、気持ちを伝えたのも、昨日ここへ来る途中で……」


 リディアの頬に、赤みが差した。


 それでも、今度は言葉を止めなかった。


「お二人が喜んでくださったので、すぐに違うと言えませんでした」


 和真も口を開く。


「俺も、話を合わせてしまって。昨日のうちにお伝えすればよかったんですが」


 千代は二人を見比べた。


 やがて、ゆっくりと口元へ手を当てる。


「まあ……私たち、てっきり」


「二人で来てくれると聞いて、勝手に決めつけてしまったな」


 正一が、申し訳なさそうに頭を掻いた。


「すまなかった」


「いえ。俺たちも、何も言わなかったので」


 和真が首を振る。


 千代は、まだ何かを思い出しているようだった。


 そして、その表情が少し変わる。


「お風呂も……お布団も、あれでは困ったでしょう」


 リディアが俯いた。


 和真まで、返事に詰まった。


 今朝、抱きつかれて目を覚ましたことを思い出してしまう。


 隣のリディアも同じだったのか、膝の上で指を揃え直した。


「その……大丈夫です。二人で相談しましたので」


 和真がどうにか答える。


 千代は眉を下げた。


「言いにくかったわね。ごめんなさい」


「お気持ちは、嬉しかったです」


 リディアが顔を上げた。


「泊めていただけて、ゆっくり休めました。本当に、ありがとうございました」


 千代はしばらく彼女を見つめ、それから小さく頷いた。


「それなら、よかったわ」


 返事を聞いて、和真も肩の力を抜いた。


 正一が、食卓の中央へ漬物の皿を寄せる。


「まあ、わしらが口を出すことじゃないな。これからは、二人の話をちゃんと聞こう」


「そうね」


 千代は頷き、御飯をよそうために立ち上がった。


 恋人なのか、これからどうするのか。


 その先を、二人は尋ねなかった。


 和真はそれがありがたかった。


 隣でリディアも、静かに息をついていた。


「さあ、食べましょう。今日は片付けをするんでしょう?」


「はい」


 リディアの声が、ようやく普段の調子へ戻った。


     ◇


 朝食を済ませ、泊めてもらった部屋を整えてから、四人で借家へ向かった。


 杉浦家の庭を抜け、細い道を少し歩く。


 木々の間に、小さな平屋が見えてきた。


 瓦屋根の端に、落ち葉が溜まっている。庭の隅には伏せた植木鉢が並び、玄関の傍には古い箒が立て掛けられていた。


 リディアは戸の前で足を止めた。


「……変わっていませんね」


「外は、時々掃いておいたからな」


 正一が答える。


 リディアは振り返った。


「ありがとうございます」


「風で葉っぱが飛んでくるんだよ。ついでに拾うくらいだ」


 何でもないことのように言って、正一は軒下へ目を向けた。


 リディアは手帳に結んでいた鍵を外した。


 木札を手の中へ収め、鍵穴へ差し込む。


 戸を引くと、少し引っかかった。


 彼女は持ち手を僅かに持ち上げ、もう一度引いた。


 今度は、滑らかに開く。


「昨日の話、本当だったんだな」


 和真が言うと、リディアは小さく笑った。


「ええ。この辺りを少し持ち上げると、開きやすいんです」


 中から、閉め切った部屋の匂いが流れてきた。


 木と紙、それから、薄い油の匂い。


 和真には、工房の匂いに少し似ているように感じられた。


 リディアが先に上がり、窓を開けていく。


 光が入り、部屋の中が明るくなった。


 机が一つ。


 壁際に棚が二つ。


 その下と横に、蓋を閉めた箱がいくつも重ねられている。


 寝具は部屋の隅へまとめられ、布が掛けられていた。


 和真は全体を見渡した。


「思ったより、きれいにして出てきたんだな」


「戻った時に困らないように、片付けてはいましたので」


 そう答えてから、リディアは棚へ目を向けた。


「……中までは、整理しきれませんでしたが」


 和真も同じ方を見る。


 棚の扉を開けると、さらに小さな箱が並んでいた。


 一つ引き出してみると、見た目より重い。


「これ、全部部品か?」


「そちらは、そうですね」


「そっちは?」


「下の段には道具もあります。机の下は、まだ使えるか確かめていない物です」


 和真は箱を戻した。


 リディアと目が合う。


「車で来てよかったよ」


「はい。私も、今、そう思っています」


 千代が後ろで笑った。


「少しずつ増えていたものねえ」


「いただいた物も、多かったので」


「直すつもりで預けたら、部品だけもらえれば十分ですって。それで、また増えて」


 リディアは否定せず、窓の留め具を確かめた。


 和真は軍手を取り出し、両手にはめる。


「まず、持って帰る物を分けようか」


「はい。重い物は、小さな箱へ分けて入れましょう」


「分かった」


 正一が玄関の方を指した。


「運ぶ物は、あそこへまとめるといい。わしは邪魔にならん物を、車まで持っていこう」


「ありがとうございます。でも、重い物は俺が運びますから」


「それじゃ、軽い物だけな」


 正一はそう言い、紐をまとめた袋を持ち上げた。


     ◇


 作業は、初めのうちは順調だった。


 本は大きさを揃えてまとめる。


 細かな部品は蓋の閉まる箱へ入れ、壊れやすい物は布で包む。


 寝具は湿りや傷みがないか確かめ、持参した大きな袋へ収めた。


 使える物と、もう必要のない物。


 元から家にあった物と、リディアが持ち込んだ物。


 一つずつ確認していくと、床が少しずつ見えてきた。


 しかし、机の下の箱を開けた辺りから、リディアの手が止まり始めた。


「……これは」


 小さな金具を取り出す。


 次に、隣の袋から歯車を一つ。


 二つを近づけ、角度を変えた。


 和真は空き箱を抱えたまま、その手元を見た。


「リディア」


「はい」


「今、何か考え始めただろ」


 リディアが顔を上げる。


「組み合わせれば、使えそうだと思いまして」


「帰ってからな」


「……分かっています」


 そう答えながらも、もう一度だけ部品へ目を落とす。


 和真は、その下へ箱を差し出した。


「一緒に入れておけば、忘れないだろ」


「そうですね」


 リディアはようやく、二つを箱へ収めた。


 縁側で古い紙をまとめていた千代が、声を立てずに笑っている。


「前にも、そんなことがあったわね」


「ありましたか?」


「棚の掃除をするって言っていたのに、引き出しを直し始めたでしょう」


 和真がリディアを見る。


 彼女は箱の蓋を閉じた。


「掃除もしやすくなりました」


「悪いとは言ってないよ」


「顔が、そうおっしゃっていました」


「いや、想像できるなと思っただけ」


 千代が今度こそ笑い声を漏らした。


 リディアも、困ったように笑う。


 和真は箱を抱え直し、玄関へ運んだ。


 その途中、壁際の机へ目が留まる。


 工房の作業台に比べれば、随分小さかった。


 天板には細かな傷があり、一部だけ色が薄くなっている。


 この場所でも、彼女は同じように部品を並べていたのだろう。


 まだ使い方も名前も知らない物を、一つずつ確かめながら。


 和真は玄関へ箱を置き、もう一度部屋へ戻った。


     ◇


 机の引き出しから出てきたのは、薄い帳面だった。


 リディアが開いた拍子に、間へ挟まれていた紙が一枚、床へ落ちる。


 和真が拾い上げると、簡単な地図が描かれていた。


「これも取っておく?」


 差し出すと、リディアは少し驚いた顔をした。


「……そこに入っていたんですね」


 受け取った紙を、両手で広げる。


「初めの頃、千代さんに書いていただいたんです。買い物へ行く道を覚えるために」


 曲がり角には、店や橋の絵が描かれている。


 余白には電話番号があり、その下に、ゆっくり書いたような文字が並んでいた。


 和真は、リディアが開いている帳面にも目を向けた。


 物の名前と、小さな絵。


 同じ文字を、何度も書いた跡がある。


「言葉の勉強か?」


「はい。こちらの文字を覚える時に使っていました」


 リディアは数枚めくった。


 初めの方は文字の大きさが揃っていなかったが、後ろへ進むほど、今の彼女の字に近くなっていく。


 途中から、工具や部品の名前が増えていた。


 和真は笑みを漏らした。


「この辺から、リディアらしいな」


「名前が分からないと、買いに行っても困りましたので」


「確かに」


 ページの端には、別の筆跡で訂正が入っていた。


 千代の字だろうか。


 リディアはそこへ指先を置き、しばらく眺めた。


「私が読めるようになるまで、同じことを何度も教えてくださいました」


 和真は何も言わず、隣に立っていた。


 今のリディアは、必要な物を調べ、道具を揃え、大抵のことを自分で進めてしまう。


 けれど、その前には、こうして誰かに教えてもらう時間があった。


 彼女がこの世界で暮らし始めた頃を、和真は初めて少しだけ見た気がした。


「それは、部品とは別にしておこう」


「はい」


 リディアは地図を帳面へ挟み、表紙を閉じた。


「これは、私の鞄へ入れておきます」


 その声に迷いはなかった。


 和真は、机の上に残った紙を揃えた。


「これは?」


「そちらは、古い寸法の控えです。もう使いません」


「分かった」


 同じ紙でも、残す理由は違う。


 和真は一枚ずつ尋ねながら、彼女へ手渡していった。


     ◇


 棚の奥には、小さな湯呑みが一つ残っていた。


 縁が少し欠けている。


 和真が持ち上げると、リディアが「あ」と声を漏らした。


「それも、まだあったんですね」


「使ってた物か?」


「はい。初めに貸していただいた物です。一度落としてしまって……」


 リディアは受け取り、欠けた部分を確かめた。


 千代が傍へ来て、湯呑みを覗き込む。


「あら、取っておいたの」


「同じ物が見つからなかったので、お返しできずにいました」


「気にしなくてよかったのに。古い物なんだから」


 千代はそう言ったが、リディアはすぐに置こうとはしなかった。


 手の中で向きを変え、底を見る。


 千代はその様子を眺め、少し笑った。


「持っていく?」


 リディアが顔を上げた。


「よろしいんですか?」


「ええ。そのまま飲むのは危ないけれど、鉛筆くらいなら立てられるでしょう」


 リディアの口元が、ゆっくり緩んだ。


「……ありがとうございます」


 和真は、包むための紙を一枚取った。


「割れないようにしよう」


 リディアから受け取り、欠けた縁を避けて包む。


 隙間に柔らかな布を当てると、彼女が衣類の袋を開けた。


「こちらへ。部品の箱より、安全だと思います」


「そうだな」


 和真は包みを収め、その上へもう一枚布を掛けた。


 リディアは袋を閉じるまで、手元を見ていた。


     ◇


 窓から差し込む光が、朝よりも短くなっていた。


 床の半分以上が空き、棚の中も、残す物が少なくなっている。


 正一が庭から声をかけた。


「一度休まんか。茶を持ってきたぞ」


 和真は軍手を外した。


 リディアも手を止め、二人で縁側へ腰を下ろす。


 庭の向こうで、木の葉が揺れていた。


 朝から何度も車と家を往復していたせいか、座ると足が少し重く感じられた。


 正一がお茶を差し出す。


「思ったより早く進んだな」


「和真が、どんどん運んでくださるので」


「分ける方も早かったよ。途中で少し止まったけど」


 リディアが横を見た。


「一度だけです」


「今のところはな」


 正一が笑った。


 千代も、洗った雑巾を干してから傍へ腰を下ろす。


 リディアはお茶を一口飲み、部屋の中を振り返った。


 空いた机と、開いたままの棚。


 その光景を、しばらく見ていた。


「何も分からなかった頃、ここへ入れていただけて、本当に助かりました」


 静かな声だった。


 千代がリディアを見る。


「行く所がなかったんだもの」


「それでも、知らない相手に家を貸すのは、簡単ではなかったと思います」


 正一は湯呑みを膝へ置いた。


「何もかも分かった上で貸したわけじゃないよ。ただ、落ち着いて休める所は、必要だろうと思ったんだ」


 リディアは頷いた。


「はい」


「使ってもらって、家も助かった。空いたままだと、傷むからな」


「それに、随分直してもらったもの」


 千代が笑う。


「時計も棚も、今もちゃんと使っているでしょう」


「ですが……」


「まだ足りないと思っているの?」


 問われ、リディアが黙る。


 千代は彼女の隣へ、少し身体を向けた。


「昨日、元気な顔を見せてくれたじゃない。それも、お礼になるのよ」


 リディアの視線が下がった。


 湯呑みを持つ手が、膝の上へ落ち着く。


「……はい」


「だから、今度は何か持っていこうとか、何か直してからとか、そういうことばかり考えないでね」


 リディアは、少し驚いたように千代を見た。


 考えていたことを、見抜かれたのだろう。


 千代は優しく笑った。


「お茶を飲みに来るだけでもいいの」


 和真は隣で、その言葉を聞いていた。


 リディアはすぐには返事をしなかった。


 けれど、やがて顔を上げ、ゆっくり頷いた。


「……また、伺います」


     ◇


 昼食までご馳走になり、午後は掃除と最後の荷積みを済ませた。


 和真は荷室に重い箱を低く並べ、隙間へ衣類の袋を収めた。


 走っている間に動かないよう、紐を掛ける。


 寝具を入れた袋を最後に積むと、荷物はどうにか全て収まった。


 家へ戻ると、リディアが机を拭いていた。


「積めたよ」


「ありがとうございます。こちらも、もう終わります」


 布を畳み直し、天板の端を拭く。


 それから、彼女はしばらく机を見つめた。


 和真は戸口で足を止めた。


 空になった部屋は、朝より広く見えた。


 作業をしていた間は気にならなかったが、箱も本もなくなると、急に音がよく響く。


 リディアが天板の傷へ指を沿わせた。


「この傷は、私がつけたんです」


「工具で?」


「はい。作業台にするには、少し気をつけるべきでしたね」


 困ったように笑う。


 和真は机の傍へ寄った。


「正一さん、使った分くらい気にしないと思うよ」


「ええ。そうおっしゃるでしょうね」


 リディアは窓の外を見た。


 庭の向こうには、杉浦家の屋根が見える。


 食事を呼びに来てもらった道も、夜、見送ってもらった道も、ここからならよく分かった。


「もう少し、見ていくか?」


 和真が尋ねると、リディアは少し考えた。


 そして、頷いた。


「……少しだけ」


「うん」


 和真は窓の傍へ立ち、彼女が部屋を見て回るのを待った。


 棚の扉を閉める。


 机の引き出しを確かめる。


 寝具を置いていた場所へ目を落とす。


 忘れ物を探す時とは、違う動きだった。


 最後に、リディアは部屋の中央へ立った。


 何も言わず、もう一度周囲を見渡す。


 それから和真の方へ歩いてきた。


「お待たせしました」


「大丈夫だよ」


「帰りましょうか」


 和真は彼女を見た。


 リディアは、穏やかな顔をしていた。


「ああ」


 二人で窓を閉め、戸締まりを確かめた。


     ◇


 玄関の鍵を掛けると、リディアは木札を手の中へ収めた。


 正一と千代が、少し離れた所で待っている。


 リディアは二人の前へ行き、鍵を差し出した。


「長い間、ありがとうございました」


 正一が受け取る。


「きれいにしてくれたな」


「机に、少し傷をつけてしまいました」


「ああ、あのくらい。使っていればつくものだ」


 隣で和真が、リディアを見る。


 彼女もこちらを見て、僅かに笑った。


 千代が大きな袋を持ってきた。


「これ、皆さんで食べて。畑の物だけれど」


 受け取った和真は、袋の重さに驚いた。


「こんなに、いただいていいんですか?」


「人数が多いんでしょう。少しずつ食べたら、すぐなくなるわ」


「ありがとうございます。皆、喜ぶと思います」


「リディアちゃんも、ちゃんと食べるのよ」


「はい」


 リディアは頷いた。


「これからは、何もなくてもお電話します。今日は何を作ったとか、皆さんと何をしたとか」


「ええ。聞かせて」


「写真も、お見せしたいです。今、どんな所で暮らしているのか」


「それは楽しみだな」


 正一が笑った。


 和真も口を開く。


「よかったら、いつかこちらにも来てください。遠いですけど、ご案内します」


 リディアが和真を見た。


 千代は嬉しそうに目を細める。


「まあ。行ってみたいわねえ」


「時間はあるからな。相談してみよう」


「ぜひ」


 和真は頷いた。


 お礼を言うために来たはずなのに、食事も寝る場所も用意してもらい、帰りには野菜まで持たせてもらった。


 それでも、二人は何かを返してもらおうという顔をしていなかった。


 ただ、また会う話を喜んでくれていた。


 車へ向かう前に、千代がリディアの手を取った。


「家の鍵は返しても、また来るのよ」


 リディアが目を瞬かせる。


「片付ける物がなくたって、来ていいんだから」


 リディアは、繋がれた手を見た。


 少しして、顔を上げる。


「……はい。また来ます」


 今度は、はっきりした返事だった。


 千代は頷き、そっと手を放した。


     ◇


 車を出すと、二人は玄関の前から手を振ってくれた。


 リディアは窓を下ろし、見えなくなるまで手を振っていた。


 曲がり角を抜ける。


 杉浦家の屋根が、木々の向こうへ隠れた。


 リディアは窓を閉め、それからも、しばらく外を眺めていた。


 和真は急いで話しかけなかった。


 道を下り、川沿いへ出る。


 行きに渡った橋が見えたところで、リディアが鞄を膝へ置いた。


 中から、あの古い帳面を取り出す。


「忘れ物か?」


「いえ。持っているか、気になって」


 表紙を確かめ、また鞄へしまう。


 和真は前を向いたまま、少し笑った。


「来てよかったな」


「はい」


 今度の返事に、間はなかった。


「片付けるだけなら、一人でもできると思っていました。でも、和真と来られてよかったです」


「俺も、二人に会えてよかったよ」


「困らせてばかりでしたけれど」


「……いろいろ、驚いたのは本当だけど」


 リディアが小さく笑う。


 和真も口元を緩めた。


「次は、片付けじゃなくて来ようか」


 隣が静かになった。


 信号で止まり、顔を向けると、リディアがこちらを見ていた。


「次も、一緒にですか?」


「都合が合えば。写真も見せるんだろ」


「はい」


「俺も、今度はもう少しゆっくり話してみたいし」


 リディアの表情が、少しずつ緩んだ。


「……では、その時もお願いします」


「ああ」


 信号が変わった。


 和真は車を進める。


 行きより荷物は増えたが、リディアの声は、出発した時より軽くなっていた。


     ◇


 帰りは、休憩を多めに取った。


 身体を動かした後の運転だからと、リディアが時々、次の休憩場所を確かめてくれる。


 夕食も途中で済ませ、売店へ寄った。


 ピピの土産を選ぶところで、二人は棚の前へ並んだ。


「おいしい物、でしたよね」


「そう。かなり期待されてる」


「皆さんで食べられる物がよさそうです」


「数が足りないと大変だからな」


 和真は箱の裏を見て、個数を確かめた。


 リディアも隣の箱を手に取る。


 どちらにするか少し迷い、結局、大きな箱の菓子を選んだ。


 車へ戻る途中、夜風が二人の間を通った。


 リディアが肩を僅かにすくめる。


「帰ったら、もう遅い時間ですね」


「荷物は明日でいいよ。食べ物と、今夜使う物だけ出そう」


「部品の箱も、そのままで?」


「うん。今夜出したら、そのまま工房に行きそうだし」


 リディアが黙った。


 和真が横を見ると、彼女は少しだけ目を逸らした。


「……あの金具は、気になっています」


「やっぱり」


「ですが、今日はやめておきます」


「そうしてくれ」


 二人で笑い、車へ乗り込む。


 走り始めてしばらくすると、リディアの返事が少しずつ短くなった。


「眠かったら、寝てていいよ」


「いえ。和真だけ起きているのは……」


「俺は大丈夫。眠くなったら、ちゃんと止まるから」


「……お願いしますね」


 それから少しして、隣が静かになった。


 和真は音楽を小さくした。


 リディアは鞄を膝へ置き、眠っている。


 朝、肩へ頬を寄せられていたことが、ふと思い出された。


 和真は前を向いたまま、小さく息を吐く。


 昨日までは、リディアと二人でいる時に、こんなことを考えなかった。


 少なくとも、自分ではそう思っていた。


 けれど、彼女がここを離れるのかと慌てた時から、既に何かは変わっていたのかもしれない。


 まだ、答えは出ていなかった。


 それでも、知らないふりをして元の距離へ戻ることは、もうできそうになかった。


     ◇


 空色唐辛子荘へ着いた頃には、母屋の窓が夜の庭を照らしていた。


「リディア。着いたよ」


 声をかけると、隣で小さく身じろぎをした。


 リディアが目を開け、窓の外を見る。


「……もう、着いたんですか」


「うん」


「すみません。眠ってしまって」


「片付けで疲れたんだろ」


 駐車場へ車を入れると、母屋の戸が開いた。


 最初に出てきたのは、フェンリスだった。


 車の傍まで来て、和真が降りるのを待つ。


「おかえり」


「ただいま。待っててくれたのか」


「もうすぐ着くって言ってたから」


 そう答えながら、フェンリスは和真の顔を確かめるように見た。


「ちゃんと休んできた?」


「うん。何度か止まったよ」


「……そっか」


 ようやく、表情が少し緩む。


 リディアが降りると、フェンリスはそちらへ向いた。


「リディアも、おかえり。片付いた?」


「はい。おかげさまで、全部終わりました」


「ご夫婦にも、会えたんだね」


「ええ。とても喜んでくださいました」


 フェンリスは頷いた。


 和真が荷室を開けると、後から来たみゆが中を覗き込む。


「……これ、全部持って帰ってきた物?」


「ああ」


「車で行ってよかったね」


「本当にな」


 リディアが、少しだけ胸を張る。


「使える物は、きちんと選んできましたよ」


「その結果が、これなんだ」


 みゆが笑った。


 和真は野菜と菓子の袋を取り出し、皆と母屋へ向かった。


 台所から、酒菜が顔を出す。


「帰ったか。飯は食ったんだろ?」


「うん。途中で」


「なら、茶だけ用意する。座ってろ」


「ありがとう。これ、ご夫婦から。皆で食べてくださいって」


 袋を受け取った酒菜が、中を見た。


「ずいぶんもらったな」


「帰り際に持たせてくださったんです」


「そうか。明日、使わせてもらう。礼を伝えといてくれ」


「はい」


 リディアが頷いたところへ、ピピが近づいてきた。


 視線は、菓子の箱へ向いている。


「それ、お土産?」


「そうだよ」


「僕の?」


「皆で食べる分」


「食べる!」


 みゆが笑いながら箱を受け取る。


「今夜は少しだけね。残りは明日」


「二つ!」


「まだ一つとも言ってないんだけど」


 いつものやり取りに、和真は思わず笑った。


 ひかげが二人の前へ湯呑みを置く。


「お疲れさまでした。荷物も、明日でええと思いますよ」


「うん。そのつもり」


「今日は、ゆっくり休んでくださいね」


 あおいも頷いた。


「無事に戻ってきたのなら、何よりじゃ」


「ありがとう」


 和真はお茶を受け取った。


 居間の端では、ナディアが持っていたノートを閉じた。


「片付けの方は済んだんだろ。明日、運ぶだけなら俺様も手を貸してやる」


「助かる。重い箱が多いんだ」


「それくらい構わん」


 ユエは、端末から顔を上げた。


「話を聞くのも、明日でいいでしょう。和真、眠そうだわ」


「そこまでじゃないよ」


「さっきから、同じ湯呑みを持ったままよ」


 言われて、和真は手元を見た。


 確かに、受け取ったまま、まだ飲んでいなかった。


 リディアが隣で小さく笑う。


 昼の卵焼きのやり取りを思い出したらしく、和真を見る目が少し楽しそうだった。


「……ちゃんと飲むよ」


「はい」


 二人のやり取りに、みゆが首を傾げた。


 けれど、何かを聞く前に、ピピが菓子の袋を開けてほしいと声を上げる。


 居間は、また賑やかになった。


 リディアは湯呑みを両手で持ち、皆を見渡していた。


 和真も、お茶を一口飲む。


 帰ってきたのだと、ようやく実感した。


     ◇


 長居せず休もうということになり、和真とリディアは必要な荷物を取りに車へ戻った。


 夜の庭は静かだった。


 母屋からは、食器を片付ける音と、まだ何か話している声が聞こえている。


 和真が鞄を差し出すと、リディアは両手で受け取った。


「二日間、ありがとうございました」


「俺も、楽しかったよ」


 自然に答えたつもりだった。


 しかし、リディアの頬が少し赤くなったため、和真まで落ち着かなくなる。


「いや、いろいろ話せたし。二人にも会えたから」


「分かっています」


 リディアは笑った。


「私も、楽しかったです」


 その顔を見ると、それ以上言い足す必要はないように思えた。


 和真は車の鍵を閉める。


 リディアはすぐには歩き出さなかった。


「……今朝のことですが」


 和真の手が止まった。


「うん」


「すみませんでした。眠っている時のこととはいえ……」


「それは、もういいよ。大丈夫だったって」


 リディアが顔を上げる。


 和真は、言葉を選び直した。


「驚いたけど。嫌だったわけじゃないから」


 言い終えた途端、自分の顔が熱くなった。


 リディアも、黙った。


 夜風が吹き、彼女の髪が少し揺れる。


 やがて、リディアの口元が緩んだ。


「……分かりました」


「だから、その……何度も謝らなくていい」


「はい」


 返事は素直だったが、表情は先ほどより嬉しそうだった。


 和真は視線を車へ逃がす。


 それを見て、リディアが小さく笑った。


「今夜は、一人で眠りますから」


「そりゃ、そうだろ」


「そうですね」


 和真も、つられて笑った。


 そこでリディアの端末が鳴った。


 画面を見た彼女の顔が、柔らかくなる。


「千代さんです。無事に着いてよかった、と」


「着いたって送ったのか?」


「はい。先ほど、お茶をいただいている時に」


「そっか」


 和真は頷いた。


 今度は、すぐに伝えられた。


 それを口にしなくても、リディアの顔を見れば分かった。


「明日、皆さんで写真を撮ってもいいでしょうか」


「いいと思う。朝、聞いてみよう」


「和真も、入ってくださいね」


「俺は撮る方じゃなくて?」


「はい」


 リディアは端末をしまった。


 そして、少しだけ間を置く。


「隣に、いていただけると嬉しいです」


 和真は彼女を見た。


 もう、冗談とは受け取れなかった。


 それでも、困るだけではなかった。


「……分かった」


 頷くと、リディアが笑った。


「ありがとうございます」


 小さな約束だった。


 今の和真にも、迷わず守れる約束だった。


     ◇


 201号室へ戻ったリディアは、鞄を机へ置いた。


 古い帳面を取り出し、その隣へ、紙に包んだ湯呑みを並べる。


 丁寧に紙をほどくと、欠けた縁が見えた。


 包む時に和真が当ててくれた布を畳み、湯呑みへ筆記具を数本立てる。


 借りていた家では、棚の奥へしまったままだった物だ。


 今度は、毎日目に入る場所へ置けた。


 リディアは椅子へ腰を下ろした。


 端末を取り出し、千代へ返事を書く。


『いただいた野菜も、皆さん喜んでいました。明日、写真を撮ってお送りします』


 少し考え、もう一文を加えた。


『また、和真と伺います』


 送ってから、頬へ手を添えた。


 機械の指先が触れても、顔の熱さはなかなか引かなかった。


 朝、目を開けた時のことが思い出される。


 近くにあった和真の顔。


 寝間着を掴んでいた、自分の手。


 そして、先ほど聞いた言葉。


 嫌だったわけではない。


 それが告白への返事ではないことくらい、分かっている。


 それでも、嬉しかった。


 リディアは小さく息を吐き、机の上へ目を向けた。


 古い帳面と、筆記具を立てた湯呑み。


 明日は、皆で撮った写真が増える。


 その写真を見ながら、千代はきっと一人ずつ名前を尋ねるだろう。


 正一は、庭や畑の方を気にするかもしれない。


 話すことは、たくさんあった。


 次の連絡をためらう理由は、もうなかった。


 端末が短く鳴る。


 和真からだった。


『写真は朝食の後にしよう。今日はもう休めよ』


 リディアは瞬きをした。


 それから、声を抑えて笑う。


 今ここで何をしているのか、見えているような言葉だった。


『分かりました。おやすみなさい、和真』


 返信を送り、今度こそ端末を置いた。


 灯りを消して、自分の寝床へ入る。


 昨日よりずっと広く使えるはずなのに、横になった途端、少しだけ落ち着かなかった。


 無意識に隣へ伸ばしかけた手を、布団の上へ戻す。


「……明日、ですね」


 小さく呟き、目を閉じた。


 明日の朝には、いつもの食卓で和真に会える。


 それから、約束どおり隣に立つ。


 リディアはその時のことを思いながら、布団を肩まで引き上げた。

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