第二十七話 あなたと帰る場所
母屋の食卓を片付け終えた頃、リディアが一冊の手帳を持って戻ってきた。
和真は台所で、洗った皿を布巾で拭いていた。居間からは、みゆとフェンリスが何かを言い合う声が聞こえる。いつもと変わらない朝だった。
「和真、少し相談してもいいですか」
「ああ。どうした?」
「一度、前に住んでいた家へ戻りたいんです」
手の中で、皿が滑りかけた。
和真は慌てて持ち直したが、皿の縁が流し台に当たり、乾いた音を立てた。
リディアが目を瞬かせる。
「……何かありましたか?」
「いや、それは俺が聞きたいんだけど」
声が思ったより低くなった。和真は皿を置き、布巾を畳む。指先に残った水気を拭うふりをしながら、リディアの顔を見た。
リディアの手帳には、古びた鍵と木の札が紐で結ばれていた。その鍵が、彼女の指先で小さく揺れている。
「ここで何か、不便なことでもあったか?」
「ここで、ですか?」
「工房が使いづらいとか、騒がしいとか。何かあったなら、まず話してくれれば……」
言いながら、胸の奥がざわついた。
リディアがこの家を出ていく。そんな可能性を、和真は考えたこともなかった。考えたくなかった、と言った方が近いのかもしれない。
そこまで聞いて、リディアは和真の顔を見つめた。
ほんの少し遅れて、口元が緩む。
「違います。引っ越すという話ではありませんよ」
「……違うのか?」
自分でも分かるほど、安堵が声に滲んだ。
「はい。向こうに置いたままの物を片付けて、家をお返ししたいんです」
和真は、止めていた息をゆっくり吐いた。
胸の奥に張りつめていたものがほどける。そのことに気づいてしまい、今度は別の居心地の悪さが残った。
その様子を見て、リディアは手帳を胸の前に持ち直す。
「そんなに驚かれるとは思いませんでした」
「急に戻りたいって言われたら、驚くだろ」
「一度、と言ったつもりだったのですが」
「それはそうだけど……」
言葉が続かなかった。
戻りたい理由を聞く前から、ここを離れるのではないかと身構えていた。そんな自分を悟られたくなくて、和真は視線を手帳へ落とした。
「説明が足りませんでしたね。すみません」
謝る声には、僅かに笑みが混じっていた。
リディアは食卓の端へ手帳を置いた。鍵に付いた木札には、小さな文字で住所らしきものが書かれている。
「この世界に来て間もない頃、お世話になった方たちがいるんです。山の方で暮らしている、ご夫婦で」
「助けてもらったのか?」
「ええ。食事も、身の回りのことも。落ち着くまで使っていいからと、空いていた家まで貸してくださいました」
和真は椅子を引き、腰を下ろした。
リディアも向かいへ座る。
こちらの世界で覚えた技術については、彼女から話を聞くことがあった。しかし、空色唐辛子荘を訪れる以前、どんな場所で暮らしていたのかまでは、詳しく知らなかった。
知らなかったことが、急に目の前へ現れたような気がした。
「その家、今も借りてるのか」
「はい。必要な物だけ持って出てきてしまったので。使わないまま、いつまでもお借りしているのはよくありませんし……私が今どこで、どう暮らしているのかも、きちんとお話ししたくて」
「それなら、行った方がいいな」
和真が頷くと、リディアは手帳を開いた。
住所と電話番号が並んでいる。住所の下には、駅からの道順も書き込まれていた。
「場所はここです。新幹線で三時間ほど行って、そこからさらに山へ入ります」
「三時間?」
思わず聞き返した。
「はい。駅からも少し離れています」
和真はスマートフォンで地図を開き、住所を確かめた。
表示された目的地を見て、思わず画面を引き寄せる。
街の名前より、山の名前の方が目立っていた。最寄りの大きな駅からも距離があり、道は谷に沿って細く延びている。
「結構遠いな……荷物は、どれくらい残ってる?」
「道具と部品、それから本が少し。使っていた寝具もあります」
「車に積めるくらいか?」
リディアが一拍置いた。
「選べば」
「選ぶ必要があるんだな」
「全部が必要とは限りませんので」
工房の棚を思い浮かべ、和真は苦笑した。
彼女にとって、何かに使えそうな金属片や、まだ直せそうな機械は、簡単に捨てられる物ではないらしい。
「車で行こうか。俺も手伝うよ」
今度はリディアが黙った。
手帳を押さえていた指が、紙の端で止まっている。
「……和真も、ですか?」
「ああ。一人で片付けて、荷物を持って電車を乗り継ぐのは大変だろ。俺も、そのご夫婦に会っておきたいし」
「どうしてです?」
問いかけは穏やかだったが、和真には、その奥に別の意味があるように聞こえた。
「リディアを助けてくれた人たちなんだろ」
何気なく答えたつもりだった。
けれど、リディアはすぐには返事をしなかった。
木札を指先で一度撫で、それから静かに頷く。
「……ありがとうございます。それなら、お願いしてもいいですか」
「ああ」
短く答えたあと、和真は自分の声が妙に硬かったことに気づいた。
「向こうには、いつ行くって話してる?」
「まだです。先に和真へ相談しようと思って」
「じゃあ、ご都合を聞いてから決めよう」
話がまとまりかけた、その時だった。
「どこ行くの?」
居間の戸口に、フェンリスが立っていた。
その後ろから、みゆも顔を出している。
「リディアが前に借りてた家。荷物を片付けに行こうと思って」
「へえ。リディア、別の家にも住んでたんだ」
みゆが近づき、食卓に置かれたスマートフォンを覗き込む。
フェンリスも和真の肩越しに画面を見て、すぐに眉を寄せた。
「……遠くない?」
「かなり遠い」
「日帰り?」
「まだ決めてないけど、この距離だと厳しいかもしれないな。往復して、片付けもするとなると」
「泊まるの?」
フェンリスの声が、一段高くなる。
和真は車での移動時間を表示し、画面を見せた。
「帰りも同じだけかかるからな。一泊するつもりで準備した方がよさそうだ」
みゆは画面から目を離し、和真とリディアの顔を交互に見た。
「ああ、なるほど」
「何がなるほどなんだ」
「ううん。僕も行きたいなあって思っただけ」
「僕も行く」
フェンリスは即答した。
「片付けなら、人数がいた方が早いだろ?」
「そうだけど、仕事は大丈夫なのか?」
「いつ行くか、まだ決まってないんだよね?」
「ああ。これから相談するところ」
「じゃあ、決まったら教えて」
フェンリスはそう言い、もう一度、地図へ目を落とした。
和真の向かいで、リディアが静かに手帳を閉じた。
その表情はいつもと変わらないように見えたが、閉じた手帳を押さえる指先には、わずかに力が入っていた。
◇
その日の夕食後、老夫婦へ電話を済ませたリディアは、母屋に集まった皆へ出発の予定を伝えた。
ところが、先方の都合がよい日は、皆それぞれ用事を抱えていた。
フェンリスは酒屋。あおいは神社。酒菜とみゆにも、屋台の準備がある。
ひかげは配信の準備に加え、ピピの歌の録音を手伝う予定だった。
「僕も行きたかったんだけどなあ」
みゆが残念そうに背もたれへ寄りかかる。
「また今度、時間がある時にな。今回は荷物を片付けて帰るだけになると思うし」
「和真、それでも楽しくなりそうな気がするんだけど」
「掃除がか?」
「二人で遠くまで出かけるんでしょ?」
和真が返事に詰まると、みゆはそれ以上言わずに笑った。
その笑い方が、朝のリディアの言葉を思い出させた。
和真は無意識に、向かいに座るリディアへ目を向ける。
彼女は何も言わず、湯飲みの縁を指でなぞっていた。
「俺様も行ってみたいところだが……今回は留守番だな」
ナディアがひかげへ目を向ける。
「配信のことを教えてもらう約束をしている。せっかく時間を取ってくれたんだ。まずは、そっちを覚える」
「私も、まだ分からへんことはありますけど……一緒に触ってみたら、覚えやすいと思います」
ひかげが控えめに笑うと、ナディアは頷いた。
和真はユエへ顔を向ける。
「ユエは、どうする?」
「私は遠慮しておくわ。部屋でパソコンの使い方でも覚えているわ」
「分からないところがあったら、帰ってから見るよ」
「ええ。まずは自分で試してみるわ」
ユエはそう答え、手元のお茶へ視線を戻した。
「和真さん、運転はずっとお一人でしょう? 無理せんといてくださいね」
「休みながら行く。帰りも急がないようにするよ」
「なら、食べる物くらいは用意してやる。腹が減ったまま走るなよ」
酒菜はそう言って、台所に置いた買い物のメモへ何かを書き足した。
「お土産は?」
ピピの問いに、みゆが笑う。
「もうお願いするんだ」
「おいしいの!」
「向こうで何かあればな」
「あるよ! たぶん!」
その声につられ、あおいも口元を緩めた。
「世話になった者へ顔を見せるのは、よいことじゃ。わらわたちに気を遣って、急いで戻らずともよい」
「ありがとう。帰る時間が分かったら、連絡するよ」
「……僕は、休めるよ」
フェンリスだけが、納得していなかった。
膝の上で両手を握り、和真を見つめている。
「店の人に頼めば、一日くらい」
「誰かが代わりに出ることになるだろ」
「それは、そうだけど……」
「俺たちの片付けのために、急に休まなくても大丈夫だよ」
「片付けの心配だけじゃないんだけど」
小さく漏れた言葉を聞き、隣のみゆが頬杖をついた。
けれど、茶化しはしなかった。
和真はフェンリスと目を合わせる。
「着いたら連絡する。泊まる場所が決まったら、それも伝えるから」
「帰る時も?」
「ああ」
「途中で何かあったら?」
「その時も」
フェンリスは一度リディアへ目を向け、それから和真へ戻した。
「……絶対、無理して運転しないでよ」
「分かった」
「眠くなったら、ちゃんと止まって」
「そうする」
「あと……」
言いかけて、口を閉じる。
隣にいるみゆの肩が、そっと自分の肩へ触れた。
フェンリスはしばらく黙っていたが、最後には小さく頷いた。
「……分かった。仕事は、行く」
「ありがとう」
「まだ、あんまり納得してないからね」
そう言い切るところが彼女らしくて、和真は少しだけ笑った。
リディアは、そのやり取りを静かに聞いていた。
出発の話が終わり、皆がそれぞれの用事へ戻り始めると、彼女はフェンリスを呼び止めた。
「運転の休憩は、私からも声をかけます」
フェンリスはリディアの顔を見た。
「……うん。お願い」
「はい」
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。
◇
出発の日の朝、和真が車の後部座席を倒していると、リディアが荷物を持ってやってきた。
いつも使っている道具入れと、着替えを詰めた小さな鞄。さらに、紙袋が一つある。
「それ、何だ?」
「お二人へのお土産です。甘い物がお好きなので」
「俺も何か買おうと思ってた」
「では、途中で一緒に選びましょう。これは、私からです」
「分かった」
和真は荷室の隅へ毛布を敷いた。
積み込む部品で車内を傷つけないためのものだ。その横へ空の箱を重ね、紐と軍手を置く。
リディアがそれを眺めながら、静かに笑った。
「ずいぶん用意がいいですね」
「リディアの片付けだからな。途中で、これも持って帰りたいってなりそうだし」
「……否定はできません」
「そこはしてほしかった」
二人で笑っていると、母屋から酒菜が保冷袋を持ってきた。
「昼の分だ。傷む前に食べろよ」
「助かる。ありがとう」
「飲み物も入れといた。休憩する時に食べればいい」
受け取った和真は、座席の足元へ置いた。
フェンリスは仕事へ出る支度をしたまま、車の傍に立っていた。荷物を積む様子を眺めているが、もう同行すると言い出すことはない。
和真が運転席へ回ると、一歩だけ近づいてきた。
「……いってらっしゃい」
「いってきます」
「リディアも。片付け、頑張って」
「ありがとうございます。行ってきますね」
リディアが助手席へ座る。
窓の向こうで、みゆがフェンリスの隣へ並んだ。
「和真、山でまた誰か拾ってこないでね」
「片付けに行くんだぞ」
「うん。だから念のため」
「……気をつける」
「そこは拾わないって言うところだよ」
みゆの笑い声を聞きながら、和真は車を出した。
門を抜ける前に、見送りに立つ皆へ手を上げる。
フェンリスも、大きく手を振って応えた。
その姿がバックミラーから見えなくなってから、リディアが膝の上の鞄を抱え直した。
「……何だか、緊張してきました」
「ああやって見送られると、ちょっとした旅行みたいだよな」
「ええ。それもあります」
それも、という言い方が少し気になった。
和真は聞き返そうとしたが、交差点に近づいたため、前へ注意を戻した。聞き返す機会を逃したことに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
朝の道は、まだ車が多い。
信号で止まるたび、隣から紙をめくる小さな音がする。
「地図か?」
「最後の分かれ道だけ、書いておいたんです。案内に従うと、細い方へ入ってしまうことがあるそうなので」
「助かる。着くのは、夕方くらいかな」
「休憩も入れると、そのくらいになると思います」
「片付けは明日からだな」
「お二人にも、そう伝えています。今日は無事に着いてくれればいいと」
「宿は、その辺で探せそうか?」
「少し離れた場所なら。まず顔を見せなさいと言われてしまったので、到着してから相談しようと思っています」
リディアはそこで、紙の端を揃えた。
「……とても、喜んでくださっていました」
「そりゃ、しばらく会ってなかったんだろ」
「はい」
「元気にしてるって、顔を見るのが一番だよ」
リディアは小さく頷き、窓の外へ目を向けた。
街の建物が流れていく。
和真は高速道路の入口へ向けて、車線を変えた。
◇
最初の休憩は、街を抜けてしばらく走った場所で取った。
駐車場へ車を止めると、リディアはシートベルトを外しながら肩を動かす。
「座っているだけでも、意外と疲れるものですね」
「ずっと同じ姿勢だからな。少し歩こう」
二人は売店に入り、棚に並んだ菓子を眺めた。
和真が硬そうな煎餅へ手を伸ばしかけると、隣からリディアが別の箱を指す。
「正一さんはそれもお好きですが、千代さんには、こちらの方が食べやすいと思います」
「正一さんと、千代さん?」
「ご夫婦のお名前です。杉浦さん、とお呼びすると、お二人とも返事をされるので」
「なるほど」
和真は柔らかい菓子の箱を手に取った。
「好み、よく知ってるんだな」
「よく、お茶に呼んでいただきましたから」
「一緒には住んでなかったんだろ?」
「お借りしていた家は、ご自宅から歩いてすぐなんです。食事を忘れていると、千代さんが来てくださって」
和真は隣を見た。
リディアが、少しだけ視線を逸らす。
「……毎回ではありませんよ」
「何も言ってないだろ」
「顔に出ていました」
「今と変わらないなって思っただけだよ」
「今は、きちんと母屋へ行っています」
「呼びに行くこともあるけどな」
「……それは、作業の区切りが悪い時です」
小さな反論を聞きながら、和真は会計を済ませた。
外へ出ると、車内よりも風が涼しかった。
建物の脇のベンチに腰を下ろし、二人で飲み物を開ける。
「義手のことは、知ってるのか?」
和真が声を落として尋ねると、リディアは自分の手へ目を向けた。
袖と手袋で覆っているため、外からは機械の部分がほとんど見えない。彼女は手袋の指先を軽く伸ばしてから、頷いた。
「はい。こちらへ来た時から、ですから」
「驚いただろうな」
「驚かれました。でも、最初に聞かれたのは、痛くないのか、ということでした」
リディアの声が少し柔らかくなった。
「動くのかとか、どうやって作ったのかとか。それより先に」
「……そうか」
「説明できないこともありました。それでも、話せるようになってからでいいと言ってくださったんです」
和真は手の中の缶を持ち替えた。
知らない場所に来た時、何を尋ねられるか。
何を言えば怪しまれずに済むのか。
そう身構えていたところに、まず痛みを心配する言葉をかけてもらえたのなら。それだけで、少しは気持ちが楽になったのではないだろうか。
「いい人たちなんだな」
「ええ」
リディアは迷わず頷いた。
「だから、家をきちんとお返しして、今は元気に暮らしているとお伝えしたいんです」
「そうだな。片付けも、しっかり手伝うよ」
「ありがとうございます。ただ、思っているより荷物があるかもしれませんので、少し覚悟しておいてください」
「朝より増えてないか?」
「置いてきた物を、一つずつ思い出しているんです」
「……着く頃には、もっと増えそうだな」
和真が苦笑すると、リディアも笑った。
長い道のりの先にいる二人の顔を、和真はまだ知らない。
それでも、会いに行く理由が、出発した時より少し増えた気がした。
◇
再び車を走らせると、リディアはしばらく道路脇の設備を眺めていた。
道の上に渡された標識。斜面を押さえる金網。遠くに並ぶ送電線。
「気になる物が多いか?」
「はい。ただ、全部を見ようとすると首が疲れますね」
「停まって見られる所ばっかりでもないしな」
「初めてこちらで車に乗せていただいた時も、そうでした。分からない物が、次々と通り過ぎてしまって」
「今は、大体分かるだろ?」
「仕組みだけなら。どうしてその形になったのかは、まだ知らないことも多いですよ」
和真は頷いた。
「俺なんか、仕組みもよく分かってない」
「使えているなら、それで困らない物もあります」
「リディアは気になるんだろ?」
「気になります」
即答だった。
「まあ、リディアらしいな」
「和真は、気になりませんか?」
「壊れたり、使い方が分からなかったりしたら、調べるけど。普段はそこまで考えないかな」
「私は、使っているうちに気になってしまいます。どうして動くのか、別のやり方では駄目なのか、と」
「それで、分解するんだな」
「分解してもよい物だけですよ」
先回りした返事に、和真は笑った。
リディアも微笑んだが、少しして窓の外から視線を戻した。
「ただ、調べれば分かることばかりでもありませんね」
「そうなのか?」
「ええ。人のことなどは、特に」
和真は短く相槌を打った。
「一緒に暮らしていても、知らないことはありますから」
「そうだな。俺も、前の家の話は今まで詳しく聞いてなかったし」
「聞きたいことがあれば、お話ししますよ」
「じゃあ、借りてた家では何を作ってたんだ?」
「初めは、生活に必要な物を。その後は、いただいた壊れた道具を直していました」
「そこでも修理してたのか」
「直ると喜んでいただけますし、私もこちらの技術を覚えられますから」
道具の話になると、言葉が滑らかになった。
古い扇風機。動かなくなった時計。接触の悪くなった照明。
同じ用途の物でも、作られた時期が違えば中身が違う。手を加えやすい物もあれば、開けるだけで苦労する物もあったという。
「一度、時計を直した時には、正一さんが家中の時計を持ってこられました」
「全部壊れてたのか?」
「いえ。動いている物もありました」
「何でまた」
「動かなくなる前に見ておいてほしいと」
和真が笑うと、リディアも口元を緩めた。
「千代さんには、全部なくなると時間が分からないでしょうと叱られていました」
「そりゃ、そうだ」
「ですから、一つずつお預かりしました。お二人で選んだ物もあって、直している間に、その時のお話も聞かせていただいたんです」
和真は相槌を打ちながら聞いていた。
何を直したかだけでなく、持ち主がどんな話をして、どんなふうに喜んだかを、リディアはよく覚えていた。
「楽しそうだな」
「ええ。暮らすには、いい場所でした」
「それなら、離れる時は寂しかったんじゃないか?」
「寂しくなかったと言えば、嘘になりますね」
リディアが窓の外を見る。
「でも、会いたい人ができたので」
「会いたい人?」
和真は聞き返した。
胸の奥で、朝から何度も感じていたざわつきが、今度ははっきりと形を持った。
「はい」
彼女は膝の上で、指を軽く重ねた。
「和真です」
和真は前を見たまま、瞬きをした。
聞き間違いだと思いたかった。
「……俺?」
声が掠れた。
「ええ。あなたに、一目惚れしてしまったんです」
道具の修理について話していた時と、それほど変わらない声だった。
だからこそ、すぐには意味が頭へ入ってこなかった。
だが、言葉だけは消えずに残った。
一目惚れ。
自分に。
道路の先で、白い線が緩やかに曲がっている。
和真はその線を追いながら、ハンドルを握り直した。手のひらに汗が滲んでいることに気づき、さらに強く握り込む。
「……待って」
「はい」
リディアの返事が、すぐ隣から返ってくる。
「今、何て?」
聞き返したところで、言葉が変わるわけではない。それでも、もう一度聞かなければ、現実として受け止められなかった。
リディアは和真の横顔を見た。
先ほどまでと違って、もう窓の外は見ていない。
「あなたを好きになって、会いに来たんです」
今度は、聞き違えようがなかった。
車内に流れていた小さな音楽が、急に遠く感じられた。
エンジンの振動も、タイヤが路面を擦る音も、すべてが薄い膜の向こうへ退いていく。
和真は返事を探した。
驚いた、と言えばいいのか。嬉しい、と言っていいのか。それとも、何も言わずに運転へ集中するべきなのか。
どの言葉も口にする前に止まってしまう。
隣でリディアが、ゆっくりと視線を落とした。
「……やはり、驚かれますよね」
「それは、驚くよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「そうですね。私も、もう少し落ち着いてお話しするつもりでした」
「落ち着いてって……今のが、落ち着いてるのか?」
責めるつもりはなかった。
けれど、声には戸惑いが滲み、思った以上に強く響いた。
リディアの肩が、ほんのわずかに揺れる。
「……すみません」
「いや、違う。謝らなくていい」
和真はすぐに言い直した。
前を向いたまま、アクセルを踏む足に力が入りすぎていることに気づく。速度計を確認し、少しだけ力を抜いた。
「ただ、急だったから。俺、そういう話だと思ってなくて」
「はい。分かっています」
「分かってるって言われても……」
その先が続かない。
リディアは黙っていた。
車内に、さっきより濃い沈黙が落ちる。和真は何か言わなければと思ったが、下手な言葉を選べば、彼女を傷つける気がした。
丁寧な言葉の最後が、ほんの少しだけ揺れた。
和真は、その揺れを聞いて初めて気づいた。
彼女も、平気なわけではない。
膝の上で重ねられた指は、さっきから同じ形のままだった。白くなるほど力が込められている。
和真は横目でそれを見た。
触れていいのかと思った。
けれど、手を伸ばす理由も、伸ばした後に何を言えばいいのかも分からない。
結局、ハンドルから手を離せないまま、前方の道路だけを見つめた。
隣にいるリディアも、もう窓の外を見ていなかった。
告白の言葉だけが、二人の間に置き去りにされていた。
◇
しばらく進むと前方に、次の休憩施設を示す標識が見えた。
和真は距離を確かめてから、ようやく口を開いた。
「……次で、一回止まるよ」
「はい」
リディアの返事は短かった。
和真はそれを聞き、言葉を足す。
「ちゃんと話を聞きたいから。運転しながらだと、うまく考えられなくて」
隣で、僅かに衣擦れの音がした。
「……分かりました」
今度の返事は、先ほどより少し柔らかかった。
和真は前へ意識を戻した。
流れていく景色を追い、車間を確かめる。そうして一つずつ目の前のことに集中しているうちに、強く握り込んでいた手から、少しずつ力が抜けていった。
駐車場へ入ると、空いている区画へ車を止めた。
エンジンを切った途端、車内が静かになる。
和真はシートベルトを外し、膝の上へ手を置いた。すぐ隣にいるリディアへ顔を向けるだけなのに、妙に時間がかかった。
「さっきは、ごめん」
リディアが顔を上げる。
「きつい言い方になった。リディアが悪いわけじゃないのに」
「いえ。運転している時に、急にあんなことを言ってしまったのは私ですから」
「それでも、あんな返し方はよくなかった」
和真がそう言うと、リディアは少し黙った。
それから、膝の上で重ねていた手をほどく。
「……嫌がらせをしたかったわけではないんですよ」
「分かってる」
「もう少し、自然にお伝えできると思っていました」
困ったような笑みだった。
和真は息を吐き、背もたれへ預けていた身体を起こした。
「俺に会いに来たっていうのは……住んでいた家を出る前から、そう決めてたのか?」
「はい」
リディアは頷いた。
「一度お会いして、お話ししたいと思いました。何もせずにいたら、きっと気になったままでしょうから」
「それで、住んでた家を出たのか」
「初めから、引っ越すつもりだったわけではありませんよ。まずは会いに行こうと。それで、お二人にも、そうお話ししました」
「その……俺に会いに行くって?」
「好きな人ができたので、会いに行ってきます、と」
和真は言葉を失った。
リディアが、ちらりとこちらを見る。
「あの時も、今の和真とよく似た顔をされました」
「……すると思う」
「千代さんは、その後、笑っていらっしゃいましたけれど」
「正一さんは?」
「どこへ行くのか、帰るお金はあるのかと。いろいろ確認されました」
「そりゃ、心配するよな」
「ええ。困ったら、遠慮せずに連絡しなさいと言ってくださいました」
そこまで話してから、リディアの視線が落ちた。
鞄の縫い目へ指先を沿わせ、少し間を置く。
「ですが、出てきてからは……今回お電話するまで、連絡していなかったんです」
「一度も?」
「はい」
和真は黙った。
好きな人に会いに行くと言って出かけ、そのまま連絡が途絶える。
見送った二人が、どんな気持ちで待っていたのか。考えると、先ほど聞いた電話での喜び方にも、別の意味があるように思えた。
「心配してたんじゃないか?」
「……はい。声を聞いて、分かりました」
リディアは顔を上げなかった。
「工房を整えてから、生活が落ち着いてから。何かお返しできるようになってから。そう考えているうちに、日が過ぎてしまって」
「何かできてからじゃなくても、よかったんだと思うよ」
「ええ。そのとおりです」
素直に頷いた後、リディアは小さく息をついた。
「それから、聞かれると思ったんです」
「何を?」
「好きな人には会えたのか、と」
和真の喉が詰まった。
リディアはようやく顔を上げる。
「会えました。一緒に暮らせるようにもなりました。でも、気持ちは伝えていなくて。何と説明しようか考えると、電話をかける手が止まってしまって」
「……そうだったのか」
「元気にしていると、それだけでもお伝えすればよかったんですよね」
和真は頷いた。
責めるつもりはなかった。それでも、彼女が大切に思っている人たちなら、これからは安心させてあげてほしかった。
「今日、ちゃんと顔を見せよう」
「はい」
「話したいことが増えたなら、ゆっくり話せばいいと思う」
リディアは僅かに笑った。
「ありがとうございます」
そして、鞄を抱え直した。
「今回のお電話では、和真と一緒に伺うこともお伝えしました」
「俺のこと、何て?」
「今暮らしている所の大家さんで、片付けを手伝ってくださると」
「……そっか」
和真が頷くと、リディアは口を開きかけ、閉じた。
それまでと違う沈黙だった。
和真は急かさずに待った。
「和真」
「うん」
「嫌でしたか」
リディアの視線が、まっすぐこちらへ向いた。
「私が、そういう気持ちで会いに来たことです」
「嫌じゃないよ」
そこは、すぐに答えられた。
リディアの肩から、少し力が抜ける。
和真はその変化を見て、先ほど自分がどれほど不安にさせたのかを思い知った。
「さっき驚いたのは、嫌だったからじゃない。ただ、本当に知らなくて……どう答えたらいいか、分からなかった」
「はい」
「嬉しいとは思う」
口にしてから、和真は一度、言葉を止めた。
リディアが静かに待っている。
工房で真剣に部品を見つめる顔を思い出した。
できあがった道具の使い方を説明する時、少しだけ弾む声。食事を呼びに行くと、今行きますと言いながら、なかなか手を止めない姿。
朝、ここを離れるのかと思った時の、自分の戸惑いも。
どれも大事だった。
けれど、それを今すぐ、彼女と同じ言葉で呼んでいいのか分からなかった。
「でも……今はまだ、答えられない」
リディアの指が、鞄の上で止まった。
「リディアには、ここにいてほしいと思ってる。朝、出ていくのかと思って、あんなに驚いたくらいだし」
「……はい」
「ただ、それで俺も同じ気持ちだって、すぐに言っていいのかは分からないんだ」
言い終えると、胸が苦しくなった。
遠くから会いに来てくれた相手に、分からない、としか答えられない。
それでも、戸惑いを隠すためだけに頷いてしまうのは違うと思った。
リディアはしばらく黙っていた。
和真も、その沈黙から目を逸らさずに待った。
「分かりました」
やがて、穏やかな声が返ってきた。
「急いで答えていただこうと思って、お話ししたわけではありませんから」
「……そうなのか?」
「お二人の家に着く前には、伝えておいた方がいいと思いました。向こうで突然聞かされる方が、困らせてしまうでしょうし」
リディアはそこで、少しだけ笑った。
「でも、言ってしまったら、返事が気になってしまいましたね」
和真は黙って彼女を見た。
「嫌ではないと聞けて、ほっとしました。きちんと考えてくださるなら、今は待ちます」
「……うん」
「ただ、聞かなかったことには、しないでくださいね」
「しないよ」
和真は、今度ははっきりと答えた。
「ちゃんと覚えてる」
リディアはゆっくり頷いた。
窓の外を、人が歩いていく。
遠くで車の扉が閉まり、建物の方から放送が聞こえた。
和真はようやく、周囲の音が普通に耳へ入ってきていることに気づいた。
隣でリディアが、足元の保冷袋へ目を向ける。
「……お昼にしませんか」
「ああ。そうだな」
「酒菜に、傷む前にと言われていますし」
「そうだった」
和真は袋を持ち上げた。
二人とも、少しだけ笑った。
◇
日陰のベンチに座って包みを開くと、おにぎりと、食べやすい大きさに分けられたおかずが入っていた。
和真が片方の容器を差し出すと、リディアは両手で受け取った。
「いただきます」
声が重なった。
二人とも一瞬止まり、それから顔を見合わせる。
「……いつも言っているのに、変ですね」
「今日は、二人しかいないからかな」
「そうかもしれません」
母屋の食卓なら、誰かが先に話し始めている。
ピピが食べ物を見つめ、みゆが何かを言い、フェンリスが応じる。そんな声を聞きながら、自然に箸を取っていた。
今は、リディアが包みを開く音まで、よく聞こえた。
「卵焼き、おいしいですね」
「うん」
「……和真、今の話は聞いていましたか?」
「聞いてた。卵焼きだろ」
「では、そちらはおにぎりです」
和真は自分の手元を見た。
まだ卵焼きには、箸をつけていなかった。
「……ごめん」
リディアが堪えきれずに笑う。
その声を聞いて、和真も肩の力が抜けた。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
「すみません。あまりにも自然に頷かれたので」
「ちょっと、考え事をしてた」
言ってから、余計な説明だったと思った。
案の定、リディアの笑みが少し変わる。
「……そうですか」
それ以上、何を考えていたのかは聞かれなかった。
和真は今度こそ卵焼きを食べた。
甘すぎず、冷めてもおいしい。
「うん。おいしい」
「今度は、ちゃんと食べましたね」
「見てなくてもいいだろ」
「見えてしまうんです。隣ですから」
普段と似たやり取りだった。
けれど、同じ言葉でも、先ほどまでとは違って聞こえる。
リディアがこちらを見ていると分かるだけで、何となく落ち着かなかった。
食事を終える頃には、会話も少しずつ途切れなくなっていた。
和真は容器を片付け、酒菜へ礼の連絡を送った。ついでに、昼の休憩を取っていることを皆にも伝えておく。
すぐにフェンリスから返事が来た。
『ちゃんと休んでるならよかった。あと、どれくらい?』
和真が到着の目安を返すと、今度は短く、
『気をつけてね』
と届いた。
画面を閉じると、リディアがこちらを見ていた。
「フェンリスですか?」
「うん。ちゃんと休んでるって」
「私も、後で連絡しておきます」
「そうしてくれると安心すると思う」
リディアは頷いた。
その言葉に、和真を困らせるような含みはなかった。
和真は保冷袋を持ち、立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
駐車場へ向かう時、二人の肩が少し近づいた。
触れはしなかった。
それでも和真は、隣にいる彼女との間隔を、以前より気にしている自分に気づいた。
◇
午後の道では、リディアが道順を確かめながら、借りていた家のことを話した。
雨の後には玄関の戸が少し重くなること。
朝早く、庭の向こうを畑へ向かう正一が通ること。
千代が持ってきてくれる煮物は、一人分にしては多すぎること。
「足りないよりはいいでしょう、とおっしゃるんです」
「母屋にも、似たようなことを言う人がいるな」
「ええ。最初に酒菜の作った食事を見た時、少し思い出しました」
「残ったら、次にも食べられるしな」
「そのつもりで取っておくと、次の分を持ってきてくださるんです」
和真は笑った。
「それは、食べ忘れてる暇がないな」
「はい。おかげで、助かりました」
リディアの声が柔らかくなる。
「今でも、時々思い出します。作業をしていて、そろそろ戸を叩く音がする頃だな、と」
「……呼びに来る時間、決まってたのか」
「大体は。私が返事をするまで、待っていてくださるんです」
和真は短く頷いた。
工房へ呼びに行った時の、リディアの顔が浮かぶ。
手を止め、こちらを振り返る姿。その少し前の彼女にも、同じように顔を見に来てくれる人がいたのだ。
高速道路を降りる頃には、窓から差し込む光が低くなっていた。
建物が減り、山が近づく。
広い道路から川沿いの道へ入ると、リディアは窓の外へ身を向けた。
「この辺りです。もう少し先の橋を渡れば、よく歩いていた道に出ます」
「懐かしいか?」
「はい」
返事の後、リディアは静かになった。
和真が横を見ると、彼女は畑の向こうの家並みを眺めている。
同じように見える屋根を、一軒ずつ確かめるような目だった。
和真は声をかけず、道に沿って車を進めた。
やがて、二手に分かれる所へ出る。
「ここは右です。左からも行けますが、途中が狭いので」
「了解」
手書きの地図を見ながら、リディアが道を案内した。
山の斜面に沿って上っていくと、石垣の上に小さな畑が見えた。その向こうに、低い屋根の家がある。
玄関の前に、一人。
畑との境に、もう一人。
こちらへ顔を向けた二人を見て、リディアが小さく息を呑んだ。
「あそこです」
声が、少し弾んだ。
◇
敷地へ車を入れた時には、山の端が夕日に染まっていた。
和真がエンジンを切るより先に、玄関の前にいた女性がこちらへ歩いてくる。
小柄で、背は少し曲がっている。それでも足取りはしっかりしていた。
リディアが車を降りる。
「千代さん。お久しぶりです」
「リディアちゃん」
千代は、頭を下げようとした彼女の肩へ両手を添えた。
「顔を見せて」
リディアが顔を上げると、千代はしばらく、確かめるように見つめた。
「……元気だったのね」
「はい」
「よかった」
そう言って、抱き寄せる。
リディアの手が一度、宙で止まった。
それから、ゆっくりと千代の背中へ回る。
「ご連絡が遅くなって、すみませんでした」
「本当よ。電話が来て、どれだけほっとしたか」
「……はい」
「ちゃんと食べていた?」
「食べています」
「夜は?」
「そちらも、大丈夫です」
返事までに少し間があった。
千代が僅かに眉を上げる。その顔を見て、和真は思わず口元を緩めた。
「遠かっただろう」
畑の方から、男性が近づいてきた。
日に焼けた顔に、深い皺がある。軍手を外しながら、和真へ軽く頭を下げた。
「杉浦です。運転、ご苦労さま」
「四ノ宮和真です。初めまして。今日はご一緒させていただいて、ありがとうございます」
「いやいや、こっちは楽しみにしてたんだから。道は分かったか?」
「はい。教えていただいた方から来ました」
「それならよかった」
正一は頷き、助手席の傍にいる二人へ顔を向けた。
「千代、そこでずっと話してたら、家に入れんぞ」
「あら、そうね」
千代がリディアから離れ、和真を見る。
「あなたが和真さんね」
「はい」
「よく来てくださったわ。さあ、上がって。お茶を入れてあるから」
和真は後部座席から菓子の袋を取り出した。
その間にも、千代はリディアへ次々と声をかけている。
道は混んでいなかったか。疲れていないか。寒くなかったか。
答えるリディアの声も、普段より少し忙しい。
玄関へ向かう途中、彼女が和真を見た。
「……いつも、こうなんです」
「何となく分かった」
二人で小さく笑った。
靴を脱ぐと、奥から煮物の匂いが漂ってきた。
磨かれた廊下に、夕方の光が差し込んでいる。庭へ面した障子の向こうでは、木の影が揺れていた。
リディアが、柱の前で足を止める。
見上げた先には、古い時計が掛かっていた。
「動いていますね」
「ええ。ちゃんと動いているわよ」
千代が振り返る。
「お父さんも、今は叩かなくなったし」
「叩いても直らんと言われたからな」
正一が真面目な顔で答えた。
リディアが小さく笑う。
車の中で聞いていた二人が、そのまま目の前にいる。
和真は、初対面なのに少しだけ懐かしいような、不思議な気持ちになった。
◇
居間には、四人分の湯呑みが並んでいた。
和真がお土産を渡すと、千代は何度も礼を言い、リディアの隣へ座るよう勧めた。
「こんなに気を遣わなくてよかったのに」
「リディアに、甘い物がお好きだと聞いたので」
「覚えていてくれたのね」
「もちろんです」
リディアが答えると、千代は嬉しそうに菓子の箱を眺めた。
和真は座布団へ腰を下ろした。
正一が向かいへ座り、二人の湯呑みを手前へ寄せてくれる。
「長く座ってたんだ。楽にしていいから」
「ありがとうございます」
初めは道の話だった。
どの橋を渡ったか。途中にあった商店はまだ開いていたか。山へ入ってから、迷わなかったか。
リディアが手書きの地図を見せると、正一は満足そうに頷いた。
「そうそう。こっちを通れば、車同士ですれ違う時も困らん」
「教えていただいて助かりました」
和真が答えると、千代が笑った。
「リディアちゃんも、和真さんが一緒なら心強かったでしょう」
「はい。とても助かりました」
「よかったわねえ」
千代の声が、少し弾んだ。
「好きな人に会いに行くなんて、急に言うものだから。どうなったか、二人でずっと気にしていたのよ」
リディアの背筋が伸びた。
和真も、湯呑みを口へ運びかけたまま止まる。
「千代さん、それは……」
「今日、二人で来てくれると聞いて、やっと安心したわ」
千代はリディアを見て、それから和真へ目を向けた。
「ちゃんと一緒にご挨拶へ来てくださる彼氏さんで、よかったわね」
和真は、静かに湯呑みを置いた。
「あの、俺は……」
「この子、自分のことはあまり話さないでしょう。困っていても、一人で何とかしようとするし」
千代は少し身を乗り出した。
「もし無理しているようだったら、声をかけてあげてね」
和真は隣を見た。
リディアは頬を赤くして、湯呑みの辺りへ視線を落としていた。
口を開きかけたが、千代と目が合うと、また閉じてしまう。
車の中で気持ちを打ち明けてくれた時とは、違う顔だった。
言いたいことがあるのに、言葉にならない。
和真にも、その気持ちは分かった。
「……はい。無理している時は、ちゃんと声をかけます」
結局、そう答えた。
千代の顔が、ますます嬉しそうになる。
「食事も忘れるのよ」
「それは……今も、呼びに行くことがあります」
「やっぱり」
「和真」
隣から、小さな抗議が飛んできた。
リディアは赤い顔のまま、困ったようにこちらを見ている。
「そこまで、お話ししなくても」
「でも、本当だろ」
「……そうですが」
千代が笑い、正一も目を細めた。
和真は、その反応を見て気づいた。
今のやり取りも、二人には恋人同士の会話に見えたらしい。
訂正するなら、今だった。
そう思ったのに、千代はちょうどリディアの手へ自分の手を重ねていた。
「よかった。本当に」
その声は、からかう調子ではなかった。
和真は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
◇
お茶を飲み終えた頃、和真は今夜の宿について尋ねた。
「この辺りで、泊まれそうな所はありますか。明日、朝から片付けようと思っているので」
千代は不思議そうな顔をした。
「ここに泊まればいいでしょう」
「でも、お邪魔になりますし」
「何を言ってるの。もう、お部屋も用意してあるわよ」
リディアが顔を上げた。
「そこまでしていただくつもりでは……」
「久しぶりに来たのに、お茶だけで帰られたら寂しいじゃない」
リディアが黙る。
正一も、湯呑みを置いた。
「借りてた家は、しばらく閉めていたからな。今から寝られるようにするのも大変だ。今日はこっちで休みなさい」
「……よろしいんですか?」
「もちろんだよ」
和真はリディアと顔を見合わせた。
彼女が、控えめに頷く。
和真も向き直り、頭を下げた。
「それでは、お世話になります」
「よろしくお願いします」
千代は満足そうに立ち上がった。
「はい。じゃあ、荷物を持っていらっしゃい。夕飯も、もう少しでできるから」
二人は揃って、玄関へ向かった。
外へ出ると、空は薄暗くなっていた。
山の輪郭が、暮れかけた空の中に黒く浮かんでいる。
和真は車の扉を開けながら、隣へ声をかけた。
「……ごめん。さっき、ちゃんと説明できなかった」
リディアはすぐに首を振った。
「私もです。自分のことなのに、和真に任せてしまいました」
「任されたわけじゃないよ。俺も、話を合わせたから」
鞄を取り出し、リディアへ渡す。
彼女は受け取ってから、家の方を振り返った。
窓の向こうで、千代が食器を運んでいる。
「あんなに喜んでくださるとは、思っていなくて」
「うん」
「違いますと、すぐには言えませんでした」
和真も、明るい窓を見た。
「俺もだよ」
短い返事に、リディアがこちらを向く。
「まだ何も決まってないって、落ち着いたところで話そう」
「……はい」
リディアは頷いた。
それから、鞄の持ち手を握り直す。
「ただ、少しだけ……嬉しかったです」
「え?」
「和真が、私のことでお二人と話してくださったことです」
和真は返事に詰まった。
彼氏という言葉を否定できなかったことを、彼女がどう受け止めたのか。気になっていたが、自分からは聞けなかった。
リディアはそれ以上続けず、家へ向き直った。
玄関から、千代が二人を呼ぶ。
「はい。今、伺います」
いつもの落ち着いた返事だった。
和真は一歩遅れて、その後を追った。
◇
案内された部屋へ荷物を置いてから、和真はJINEを開いた。
無事に到着したこと。
杉浦夫妻の家に泊めていただくこと。
明日は片付けをしてから帰ること。
短くまとめて送ると、すぐに返事が届いた。
『着いたんだね。長い運転、お疲れさま』
フェンリスだった。
続けて、もう一つ届く。
『リディアも元気?』
和真が画面を見せると、リディアは小さく頷き、自分の端末を取り出した。
「私からも、お返事しておきます」
「うん」
隣で文字を打つ音を聞きながら、和真も到着が遅くなったことを詫びた。
フェンリスからは、ちゃんと休むようにと返ってきた。
画面を閉じると、廊下の向こうから正一の声がする。
「飯にしようか」
二人は端末をしまい、居間へ戻った。
食卓には、焼いた魚と、野菜の煮物、具の多い味噌汁が並んでいた。
「大した物はないけれど、遠慮しないで食べてね」
「十分すぎます。ありがとうございます」
和真が答えると、千代は嬉しそうに御飯をよそった。
リディアが煮物を一口食べる。
ゆっくり噛み、飲み込んでから、小さく息をついた。
「……懐かしいです」
「味、変わってない?」
「はい。とてもおいしいです」
千代は自分の箸を持つより先に、リディアの皿へもう一つ煮物を足した。
和真は思わず、リディアを見た。
車内で聞いた話のとおりだった。
彼女も気づいたらしく、こちらへ小さな笑みを返す。
「和真さんも、どうぞ」
「ありがとうございます」
今度は自分の皿にも足され、和真は笑いながら頭を下げた。
食事の間、話は空色唐辛子荘での暮らしへ移った。
住人たちと母屋で食事をしていること。
皆がそれぞれ、仕事や新しいことに取り組んでいること。
リディアが工房で物を作り、修理を続けていること。
説明に困る部分には踏み込まず、和真は庭や畑の話もした。
「鶏もいるのか」
正一が興味を示す。
「はい。餌や水の世話は、リディアが随分楽にしてくれて」
「ああ、この子は、そういうのが得意だからな」
正一は頷き、廊下の方を指した。
「うちの玄関の灯りも見てくれたんだ。前は暗くて、千代が足元を見づらくてな」
「台所の棚もよ。重くて引きづらかったのが、すっと動くようになったの」
「少し直しただけですよ」
リディアが言うと、正一は箸を止めた。
「その少しが、こっちにはできんのだよ」
「分かります」
和真が頷いた。
リディアがこちらを見る。
「和真まで」
「本当に助かってるからな」
「……ありがとうございます」
今度は否定しなかった。
千代はその顔を見て、穏やかに笑っていた。
「人の物ばかりじゃなくて、自分の作りたい物も作れている?」
「はい。今は、置く場所にも困りませんので」
「食事は呼びに来てもらえて、作業する場所もある。いい所に行けたわね」
リディアは茶碗を持ったまま、少し目を伏せた。
「……はい」
短い返事だった。
それでも、千代には十分伝わったようだった。
おかわりは、と尋ねる声が、先ほどより柔らかくなる。
和真はそのやり取りを聞きながら、味噌汁を一口飲んだ。
リディアが何を作れるかではなく、どんなふうに過ごしているか。
二人が知りたかったのは、そちらなのだと思った。
◇
食後、リディアは千代と食器を運び、和真は正一に翌日の片付けについて相談した。
家に元からある家具は、そのまま残してよいこと。
捨てる物があれば、持ち物を確かめてから分けること。
使っていた机も、無理に動かす必要はないこと。
正一は、急がなくていいと繰り返した。
「一日で全部済まなきゃ、また来ればいい」
「なるべく、きれいにしてお返ししたいので」
「それはありがたいが、帰りの運転まであるんだろう。くたくたになるまでやらんでいい」
「はい。様子を見ながらにします」
正一は頷いた。
台所から、水の流れる音が聞こえる。
その合間に、千代とリディアが何かを話していた。
内容までは分からなかったが、時折、リディアの笑い声が混じった。
和真がそちらへ目を向けると、正一も同じ方を見た。
「前より、よく笑うようになったな」
和真は顔を戻した。
「リディアですか?」
「ああ」
正一は、使い終えた箸を揃えた。
「ここにいた時も、笑わなかったわけじゃないがね。今日は、顔が柔らかい」
和真は何と答えればよいか分からず、台所へもう一度目を向けた。
リディアが、千代から受け取った皿を拭いている。
千代が何か言うと、彼女は困ったように笑い、小さく首を振った。
その顔を見ていると、和真まで落ち着かなくなった。
「……皆と暮らすのは、賑やかですから」
「そうか」
正一はそれ以上、踏み込まなかった。
ただ、満足そうに頷いた。
やがて片付けが終わり、千代が廊下の奥へ向かった。
リディアは手を拭いてから居間へ戻り、和真の隣に腰を下ろす。
「明日は、まず荷物を分けるところからですね」
「うん。運ぶのは俺がやるから、残す物を見てもらえると助かる」
「分かりました。棚の中も、一度全部確認します」
「途中で何か作り始めるなよ」
「……今日は、ずいぶん念を押されますね」
「一応な」
リディアが笑ったところへ、廊下から千代の声がした。
「お風呂、いいわよ」
和真は顔を上げた。
「ありがとうございます」
「タオルも出してあるから、二人で入ってらっしゃい」
立ち上がりかけた和真が止まる。
隣のリディアも、千代を見たまま動かなかった。
「……二人で、ですか?」
「ええ。広いから大丈夫よ。長く車に乗っていたんでしょう。ゆっくり温まって」
千代は、ごく自然にそう言った。
正一も立ち上がり、腰を伸ばす。
「わしらは先に休むから、後は気にせんでいい。明かりだけ、使い終わった所から消してくれれば」
「は、はい」
和真は返事をしてから、リディアを見た。
リディアもこちらを見ていた。
さっきまで穏やかに話していた彼女の頬に、みるみる赤みが差していく。
「さあ、こっちよ。使い方を説明するわね」
千代が廊下へ向き直る。
二人は顔を見合わせたまま、一瞬だけ立ち尽くした。
先に動いたのは、リディアだった。
「……はい。ありがとうございます」
千代の後を追って廊下へ出る。その背中を見て、和真も慌てて立ち上がった。
居間から少し離れた所に、洗面所があった。
千代が戸を開けると、奥から湯気を含んだ空気が流れてくる。
「タオルはここね。着替えは、そこの籠へ入れてちょうだい」
棚の上には、二人分のタオルが畳まれていた。
和真はその横に立ち、開けられた浴室の戸へ目を向ける。
白いタイルの洗い場と、その奥にある横長の浴槽。
確かに、家庭の風呂にしては広かった。
「昔、直した時にね。お父さんが、足を伸ばして入れるようにしたいって言ったの」
千代が笑う。
「畑から帰ったら、お風呂くらいゆっくり入りたいんですって」
「……なるほど」
和真は頷いた。
風呂の広さには納得した。
二人で入ることに納得できたわけではなかった。
「お湯が熱かったら、少し水を足してね。終わったら、この換気扇だけつけておいてくれればいいから」
「はい」
リディアが返事をする。
いつもなら、一度聞いただけで問題なく扱える設備だろう。それでも今は、千代の指す場所を一つずつ確かめるように見ていた。
「何か分からなかったら、呼んでちょうだい」
和真は口を開きかけた。
今なら、まだ説明できる。
そう思ったところへ、千代が嬉しそうに目を細めた。
「今日は、二人ともよく来てくれたわね。顔を見られて、本当によかった」
リディアが、小さく頭を下げる。
「こちらこそ、お世話になります」
「ゆっくり休んでね」
千代はそれだけ言い、廊下へ戻っていった。
二人で見送っていると、居間の方から正一の声がする。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
返事が重なった。
千代が振り返って微笑み、廊下の奥へ姿を消す。
和真は足音が遠ざかるのを聞いてから、ゆっくりリディアを見た。
「……どうしよう」
「私も、考えています」
答えは早かった。
リディアは棚に並んだタオルへ視線を向けたまま、動かない。
「広さの問題ではないんですが」
「うん。それは俺も思った」
小声で言い合い、二人とも口を閉じる。
浴室から、湯が滴る音がした。
和真は首の後ろへ手をやった。
「とりあえず、着替えを持ってこようか」
「……そうですね」
ようやく用事を一つ見つけたように、リディアが頷いた。
◇
部屋から着替えを取って戻ってきても、答えが出たわけではなかった。
和真は籠の脇へ衣類を置き、リディアを見る。
「別々に入れば、それで済む話なんだけど」
「はい」
「千代さんにも、そう言えばよかったな」
「……言いそびれてしまいましたね」
リディアは、手に持ったタオルの端を揃えた。
その動きは丁寧だったが、さっきから同じ所を何度も畳み直している。
「先に入っていいよ。俺は部屋で待ってるから」
和真がそう言うと、リディアの手が止まった。
「和真が先にどうぞ。ずっと運転してくださったんですから」
「リディアも、長く座ってただろ」
「運転する方が疲れるでしょう」
「でも……」
二人とも、そこで止まった。
譲り合っているつもりが、どちらも入れなくなっていた。
リディアが小さく息を吐く。
「……お二人の前では、何も言えなかったのに」
「今になって、だな」
「はい」
目が合い、どちらからともなく苦笑した。
少しだけ空気が緩む。
リディアはタオルを胸の前へ持ち直した。
「順番に身体を洗って、その間は、後ろを向いていれば……一緒でも、入れるとは思います」
和真は彼女を見た。
リディアの頬は、赤かった。
冗談を言っている顔ではなかった。
「リディアは、それでいいのか?」
「平気だとは、言っていません」
返事の後、彼女は少し目を伏せた。
「恥ずかしいですし、どうしていいかも、よく分かりません。でも、和真となら……」
そこで言葉が止まる。
和真まで、顔が熱くなった。
昼に聞いた告白が、急にはっきりと思い出された。
リディアは自分のことを、そういう相手として見ている。
分かっていたはずなのに、二人で風呂の前に立っている今、その意味を改めて意識してしまった。
「……無理はしなくていいからな」
「和真もです」
「俺は……」
答えかけて、困った。
嫌ではない。
けれど、気にならないと言えば嘘になる。
リディアは和真の返事を待ち、やがて少しだけ口元を緩めた。
「二人とも、このままでは入れませんね」
「そうだな」
和真は浴室へ目を向けた。
湯は、きちんと用意されている。
足を伸ばせる風呂に入って、今日の疲れを取る。そのはずが、入る前から別のことで疲れ始めていた。
「じゃあ、俺が先に洗って、湯船で待ってる。それでいいか?」
リディアが頷く。
「はい。入る時には、声をかけます」
「分かった」
「その時は、振り向かないでくださいね」
「振り向かない」
和真はすぐに答えた。
その返事の早さに、リディアがほんの少し笑った。
◇
一人で浴室へ入ると、和真はまず息をついた。
顔を洗い、身体を流す。
湯を浴びれば落ち着くかと思ったが、戸の向こうにリディアがいることを思い出すたび、また肩へ力が入った。
なるべく普段どおりに済ませようとして、かえって一つ一つの動きがぎこちなくなる。
ようやく浴槽へ入ると、思わず息が漏れた。
湯は少し熱めだった。
長く座っていた腰や背中が温まり、身体の重さがほどけていく。
和真は浴槽の端へ寄り、洗い場に背を向けた。
「……もう、大丈夫だよ」
戸の向こうで、小さく返事がした。
「はい」
それから、少し間が空いた。
和真は正面の壁を見たまま待つ。
戸が開く音がした。
外の空気が入ってきて、湯気が僅かに揺れる。
「入りますね」
「うん」
返事の後、和真は口を閉じた。
何か喋っていた方がいいのか。
黙っていた方が、リディアも落ち着けるのか。
そんなことまで分からなくなっていた。
後ろで戸が閉まり、洗面器を動かす音がする。
「……和真」
「何?」
「そんなに、肩へ力を入れなくても」
「入ってるか?」
「はい。見ていて分かるくらいには」
和真は肩を下げた。
「そっちは、落ち着いてるな」
「そう見えるだけです」
少し間が空く。
「今、せっけんを落としました」
和真は思わず笑いかけ、口を結んだ。
背後からも、小さな笑い声が聞こえる。
「笑っても構いませんよ」
「いや、俺も人のこと言えないから」
「そうですね」
「そこは否定しないんだな」
返事の代わりに、水の音がした。
和真は浴槽の縁へ腕を置いた。
目の前のタイルには、一枚だけ色の違う物があった。以前、修理でもしたのだろうか。
普段なら気にも留めない物を、やけに熱心に見ている自分がおかしかった。
「義手は、水に濡れても大丈夫なんだよな」
思いついたことを口にする。
リディアの声が、少し普段の調子へ戻った。
「はい。日常で使う物ですから。ただ、後で継ぎ目は拭いておきます」
「水が残るとよくないのか?」
「ええ。濡れたまま放っておかない方が、手入れが楽ですので」
「そっか」
いつもの説明だった。
工房で話している時と似た声に、和真も少し落ち着いた。
背後でリディアが笑う。
「こんな時まで、義手の話になるんですね」
「他に何を話せばいいか、分からなくて」
「私も、今の話が一番答えやすかったです」
二人で声を抑えて笑った。
少し前まで、この浴室に入ることさえためらっていた。
今も気にならないわけではないが、声を聞いていると、隣にいるのがよく知ったリディアなのだと思い出せた。
やがて、水の音が止まる。
「そちらへ入ってもいいですか」
「ああ」
「もう少し、そのままでお願いします」
「分かってる」
和真は背中を向けたまま、浴槽の端へ身を寄せた。
近くで足音が止まる。
少しして、反対側の湯が揺れた。
水面が持ち上がり、浴槽の縁から湯が細く流れ落ちる。
「……温かいですね」
リディアが、ゆっくり息を吐いた。
「うん」
和真は動かなかった。
彼女が湯に浸かったことは分かっていても、どこまで顔を向けてよいのか迷う。
「もう、大丈夫ですよ」
「……何が?」
「ずっと壁を向いていなくても、という意味です」
「ああ」
和真は慎重に、正面へ向き直った。
リディアは反対側に座り、肩まで湯へ沈んでいた。
目が合う。
互いに一度、視線を逸らした。
「……広くて、よかったですね」
リディアが言う。
「そうだな」
「狭かったら、もっと困っていました」
「今も、十分困ってるけど」
言ってから、和真は彼女を見た。
リディアも、こちらを見ていた。
今度は、二人とも少し笑った。
◇
浴室の高い窓から、かすかに虫の声が聞こえていた。
車の中とも、母屋とも違う静けさだった。
和真は手元の湯を見ながら尋ねる。
「前に住んでた時も、ここの風呂を借りてたのか?」
「時々です。夕食へ呼んでいただいた時などに」
「泊まっていくことも?」
「いえ。髪を乾かしてから、借りていた家へ戻っていました。すぐそこですから」
リディアは湯の中で、ゆっくり姿勢を変えた。
「玄関を出ると、千代さんが外灯をつけてくださるんです。家へ入るまで、そこで見ていて」
「さっき話してた、玄関の灯りか」
「はい」
リディアが頷く。
「暗くて足元が見づらいと聞いて、直したんです。でも、その後も見送ってくださいました」
「灯りがついたから、もう心配しなくていいってわけじゃなかったんだろうな」
「……そうですね」
返事の後、リディアはしばらく黙った。
和真も口を挟まなかった。
湯気の向こうで、彼女がゆっくり目を伏せる。
「電話だけでは、分からなかったと思います」
「何が?」
「私がいない間も、あんなふうに気にかけてくださっていたことです」
和真は今日、玄関で見た千代の顔を思い出した。
リディアの肩へ手を添え、顔を確かめていた。
元気だったと聞いただけでは足りなくて、自分の目で確かめたかったのだろう。
「会えてよかったな」
「はい」
リディアは頷いた。
「和真にも、お会いしていただけてよかったです」
「俺もだよ」
自然に答えてから、和真は少し目を伏せた。
「ただ、思ってたより、紹介のされ方が違ったけど」
リディアの頬が、また赤くなる。
「……それは」
「明日には、ちゃんと話そう。これ以上、黙ってるのもよくないし」
「はい。私からも、お話しします」
リディアは真面目な顔で頷いた。
和真は、その返事を聞いて少し安心した。
彼女の気持ちを嬉しく思うことと、恋人になったように振る舞うことは、同じではない。
自分が何も言わなかったために、リディアを余計に困らせるのも避けたかった。
そんなことを考えていると、彼女がそっと口を開いた。
「でも、千代さんのお話は、本当です」
「どの話?」
「自分のことを、後回しにするところです」
「ああ……」
「今日は、ずいぶん言われてしまいましたね」
少し困った顔だった。
和真は笑った。
「心配してるんだよ。二人とも」
「和真も、同じことをおっしゃっていました」
「実際、心配することがあるからな」
「例えば?」
「呼びに行っても返事がなくて、入ったら机で寝てた時とか」
リディアが、目を逸らした。
「……起こしてくださればよかったのに」
「起こしただろ」
「そうでしたか」
「覚えてないのか?」
「作業をしていたところまでは」
和真は苦笑した。
「そこなんだよ」
リディアも、小さく笑った。
「気をつけます」
「うん」
「今夜は、ちゃんと眠りますから」
「そうしてくれ」
答えてから、和真は湯の熱さを意識した。
話しているうちに、思ったより長く浸かっていたらしい。
「……そろそろ出ようか」
「はい。私も、少し暑くなってきました」
言いながら、リディアはすぐには立たなかった。
和真も同じだった。
目が合う。
そして、二人とも思い出す。
入る時に順番を決めたのだから、出る時にも決めなければならない。
「……俺からでいい?」
「はい。後ろを向いています」
リディアが顔を背けた。
和真は短く礼を言い、浴槽から出た。
足を滑らせないように、それだけは気をつけた。
◇
着替えを済ませて廊下へ出ると、夜の空気が気持ちよかった。
和真は首元へ手をやり、大きく息を吐いた。
風呂で身体は温まった。
疲れも、いくらか取れた。
ただ、心臓だけが、なかなか普段の調子へ戻らない。
廊下の向こうは暗くなっていた。
正一と千代は、もう寝室へ入ったらしい。
和真は足音を立てないように歩き、借りた部屋の前で待った。
しばらくして、リディアが洗面所から顔を出した。
肩にはタオルが掛かっている。
「お待たせしました」
「髪、乾かさなくていいのか?」
「これからです。和真がまだ何かお使いになるなら、先にと思って」
「俺は大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「はい」
リディアが戻り、控えめな風の音が聞こえ始めた。
和真は端末を取り出した。
みゆから、ピピが土産を楽しみにしているという連絡が来ていた。
その下に、フェンリスからの短い文がある。
『おやすみ。明日も気をつけて』
和真は少しだけ画面を見つめた。
出発の朝、車の傍で見送ってくれた顔が浮かぶ。
『ありがとう。明日、帰る前に連絡する。おやすみ』
そう返し、端末を閉じた。
皆と暮らすようになってから、誰かに心配してもらうことが増えた。
自分が気にかけているつもりでいても、同じくらい、こちらを見てくれている人がいる。
今日、リディアが千代に抱き寄せられた時も、そう思った。
その気持ちへ、どんなふうに応えていけばいいのだろう。
和真は、まだ答えを持っていなかった。
ただ、曖昧に笑って済ませることばかりでは、駄目なのだと思い始めていた。
洗面所の音が止まった。
リディアが戻ってきたため、和真は端末をしまった。
「もう、お二人とも休まれたようですね」
「うん。静かにしよう」
二人は声を落とし、部屋の襖を開けた。
◇
和真が、一歩目で止まった。
隣のリディアも、同じ所で足を止める。
部屋の真ん中に、布団が敷かれていた。
幅の広い敷布団。
その上に、きれいに整えられた掛け布団。
枕は二つ、並んでいる。
和真は部屋の隅へ目を向けた。
自分たちの鞄。小さな机。水の入ったポットと、二つのコップ。
もう一組の布団は、どこにも見当たらなかった。
「……リディア」
「はい」
「これ」
「見えています」
返事は、やけに静かだった。
和真は額へ手を当てる。
風呂から出たところで、ようやく落ち着けると思っていた。
どうやら、まだだった。
「荷物を置いた時には、なかったよな」
「はい。後から敷いてくださったんですね」
リディアの視線が、並んだ枕へ落ちる。
和真は廊下を振り返った。
奥の部屋は、暗いままだった。
「……もう一組、借りられるかな」
「お休みになったところを、起こしてしまいますね」
「そうだよな」
二人は中へ入り、襖を閉めた。
声を落としているせいで、相談が余計に内緒話のようになってしまう。
和真は布団の脇に畳まれた薄い毛布を見つけた。
持ち上げ、広げてみる。
「俺はこれを使うよ。リディアは布団で寝て」
「どこで眠るつもりですか」
「こっちの畳で」
リディアは和真を見た。
先ほどまでの戸惑いとは違う、真剣な目だった。
「明日も、運転するのは和真ですよ」
「大丈夫だよ。一晩くらい」
「そういう時には、自分のことを後回しにするんですね」
和真は返事に詰まった。
浴室でしたばかりの話を、返されてしまった。
リディアが、和真の手にある毛布を指す。
「それなら、私がそちらを使います」
「それは駄目だろ」
「どうしてです?」
「いや……リディアだけ床で寝かせるわけには」
「私も、同じことを言っています」
和真は黙った。
リディアも、それ以上は言わなかった。
しばらく見つめ合った後、二人で布団へ目を向ける。
広い。
端と端に分かれれば、寝られないことはない。
そう考えてしまったことが、相手にも伝わったようだった。
リディアが、先に視線を落とした。
「……掛ける物を分ければ、少しは」
「うん」
「真ん中を空けて眠れます」
「そうだな」
短い返事ばかりになる。
和真は毛布を抱えたまま、布団の脇へ座った。
「本当に、いいのか?」
リディアも、反対側へ腰を下ろした。
「和真がよければ」
昼間、まだ答えられないと言った。
リディアも、それを聞いて待つと答えてくれた。
それなのに、一緒に風呂へ入り、同じ布団で眠ろうとしている。
和真が何を気にしているのか、リディアには分かったらしい。
「今日のお話を、忘れたわけではありませんよ」
穏やかな声だった。
「これで、お返事をいただいたことにするつもりもありません」
「……うん」
「ただ」
リディアが、少しだけ言葉を止めた。
視線は、和真の手にある毛布へ向いている。
「私が嬉しいと思うことまで、我慢はできませんけれど」
和真は彼女を見た。
リディアの頬が赤い。
しかし今度は、俯いたままではなかった。
「それは、先にお伝えしておきます」
和真はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
何となく流されているだけではない。
彼女は、自分の気持ちを一つずつ言葉にしている。
昼の告白も、今の一言も。
そのたびに自分が戸惑うのは、彼女をどうでもいいと思っていないからなのだろう。
そこまでは、和真にも分かった。
「じゃあ、俺はこっちの端を使うよ」
「はい」
「掛けるのは、この毛布でいい。寒くなったら、また考える」
「分かりました」
リディアが枕を移動させる。
和真も反対側の枕を少しずらした。
その間に、何を思ったのか、和真は畳んだタオルを置いた。
リディアがそれを見て、瞬きをする。
「境目ですか?」
「目印があった方がいいかと思って」
「……なるほど」
「変か?」
「いえ」
リディアは口元を押さえた。
「少し、安心しました」
「笑ってるだろ」
「すみません。でも、分かりやすくて」
和真も、つられて笑った。
ただのタオル一枚で何が変わるわけでもない。
それでも、二人で決めた場所があるだけで、少し気が楽になった。
◇
眠る前に、リディアは鞄から小さな布を取り出した。
袖を上げ、義手の継ぎ目を丁寧に拭く。
手首を回し、指を一本ずつ動かして、引っかかりがないか確かめていた。
和真は充電器を取り出しながら、その様子を見ていた。
「毎晩、そうやって確かめるのか?」
「簡単には。使っていて気づいたことがあれば、もう少し時間をかけます」
「今日は?」
「特に問題ありません」
リディアは指を握り、開いた。
動きに迷いはなかった。
和真は、その手が昼間、鞄の上で動かなくなっていたことを思い出した。
機械の手でも、彼女が何を感じているのかは仕草に出る。
当たり前のことなのに、今日になって、何度も気づかされた。
「……何か付いていますか?」
リディアに聞かれ、和真は顔を上げた。
「いや。手入れ、慣れてるなと思って」
「長く使っていますから」
リディアは布を畳んだ。
それを鞄へしまい、和真の置いたタオルへ目を向ける。
「こちらは、動かさないでおきますね」
「そんなに気になるか、それ」
「気になります」
返事が早かった。
車の中でも聞いた言い方で、和真はまた笑ってしまった。
時計を確かめ、部屋の大きな灯りを消す。
小さな灯りだけになると、急に寝室らしくなった。
リディアが先に横になり、和真も反対側へ入る。
敷布団が、僅かに沈んだ。
その動きだけで、同じ布団にいるのだと分かる。
和真は天井を向いた。
隣も、静かだった。
廊下の向こうで時計が鳴った。
音が消えてから、リディアが口を開く。
「……思っていたより、近いですね」
「それ、言うのか」
「黙っていると、余計に気になりそうでした」
「言われても気になるよ」
「そうですか」
小さな笑い声がした。
和真も、口元を緩めた。
布団の端へ寄りすぎて、片方の肩が少し落ちている。
直そうとしたところで、隣から声がした。
「もう少し、こちらへ戻って大丈夫ですよ」
「分かるのか?」
「毛布が、ほとんど布団の外にあります」
和真は少しだけ内側へ戻った。
真ん中のタオルには、まだ距離がある。
「これくらいなら」
「はい」
「リディアも、端に寄りすぎてないか?」
「……少し」
衣擦れの音がした。
彼女も、僅かに戻ってきたらしい。
二人とも、それ以上は位置を変えなかった。
◇
目を閉じてみたが、すぐには眠れなかった。
長く運転していたのだから、疲れていないわけではない。
それでも、隣で布団が動くたび、意識がそちらへ向いてしまう。
「和真」
「うん?」
「まだ、起きていましたか」
「リディアもな」
「はい」
少し間が空いた。
和真は目を開け、天井を見た。
「何か、話したかった?」
「……一つだけ」
「何?」
「ここへ来ると言った時、本当に驚いていましたね」
和真は、朝の台所を思い出した。
皿を取り落としかけ、ろくに話も聞かずに、暮らしに不満があったのかと尋ねた。
「自分でも、あんなに慌てるとは思わなかった」
「工房のことまで、すぐに心配してくださいました」
「それは……」
和真は言葉を探した。
「何か困ってるなら、言ってほしいと思ったんだよ。気づかないうちに、嫌な思いをさせてたのかって」
「そんなことはありません」
リディアは、はっきり答えた。
「ここへ来る前から、帰るつもりでした。和真や皆さんのいる所へ」
「……うん」
和真は静かに頷いた。
暗くても、隣からこちらを見ている気配がした。
「それを、最初に言えばよかったですね」
「今、聞けたからいいよ」
リディアが小さく息を吐いた。
安心した時のような音だった。
しばらくして、和真が尋ねる。
「会いに来て、思ってたのと違ったことはなかったのか?」
「ありますよ」
即答に近かった。
和真は思わず顔を向ける。
リディアは天井を見たまま、少し笑っていた。
「料理が、あまりお得意ではないこととか」
「……そこか」
「何でもお一人でできる方なのかと思っていましたので」
「そんなわけないだろ」
「ええ。今は知っています」
リディアの顔が、こちらへ向く。
薄暗い部屋の中で、目が合った。
「困ると、どういうお顔をされるかも」
「今日、随分見せた気がする」
「はい」
「否定しないんだな」
「事実ですから」
二人で小さく笑った。
リディアは笑みを残したまま、静かに続ける。
「でも、知ってよかったと思っています」
「料理が下手なことを?」
「それも含めてです」
和真は黙った。
「一緒に暮らして、初めて分かったことがたくさんあります。その上で、今日、お話ししたかったんです」
昼に告げられた言葉が、胸の中へ戻ってきた。
一目惚れだった。
けれど、その時の気持ちだけを抱えて、今日まで来たわけではない。
一緒に食事をして、話して、困る顔まで見た上で、好きだと伝えてくれた。
和真はすぐに返事ができなかった。
リディアも、それを待つように黙っていた。
「……ちゃんと、考えるよ」
ようやく言うと、彼女は頷いた。
「はい」
それ以上、答えを求められることはなかった。
和真は天井へ顔を戻す。
同じように、リディアも上を向いた。
しばらくして、彼女が小さく笑った。
「今日だけで、和真を何度困らせたでしょうね」
「数えなくていいよ」
「そうですね。眠れなくなりそうです」
「もう、十分なってる」
「私もです」
素直な返事だった。
和真は息を吐き、目を閉じた。
「とりあえず、目を閉じよう」
「はい」
「明日、片付けがあるからな」
「途中で眠っていたら、起こしてください」
「机で寝るなって言ったばかりだろ」
隣で笑いを堪える気配がした。
和真も口元を緩める。
「おやすみ、リディア」
「おやすみなさい、和真」
今度こそ、静かになった。
廊下の時計が、一定の間隔で時を刻んでいる。
遠くの虫の声も、もう気にならなかった。
隣から聞こえる呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。
それを聞いているうちに、和真の意識も、いつの間にか薄れていった。
◇
夜中、一度だけ目が覚めた。
高い所で、風が鳴っていた。
和真はぼんやりと目を開ける。
肩の辺りが少し涼しい。毛布の端が、身体からずれていた。
引き上げようと腕を動かすと、隣から小さな声がした。
「……寒いですか」
和真は手を止めた。
「少しだけ。起こした?」
「いえ。私も、今、目が覚めたところです」
暗がりの中で、布団が動いた。
掛け布団の端が、和真の毛布へ重なる。
「これなら、どうでしょう」
「リディアの分は?」
「足りています。大きいですから」
和真は隣へ目を向けた。
リディアの顔は、薄暗くてよく見えない。
それでも、こちらを気にしていることは分かった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
声が柔らかかった。
昼間の、言葉を選びながら話していた時とも違う。
和真は掛け布団を引きすぎないよう、肩の辺りだけ整えた。
真ん中には、畳んだタオルが残っている。
それを確かめた自分が少しおかしかったが、今は笑わなかった。
「これで大丈夫」
「よかったです」
リディアが静かに横になり直す。
和真も目を閉じた。
今度は、隣の気配があっても、先ほどほど落ち着かないとは思わなかった。
同じ布団の中に、リディアがいる。
そのことを確かめるように、一度だけ息を吐く。
返ってきた穏やかな寝息を聞きながら、和真は再び眠りに落ちた。
頬に、柔らかいものが触れていた。
和真は浅い眠りの中で、少しだけ顔を動かした。
知らない匂いではなかった。昨夜、隣から漂っていた、髪を洗った後の匂いだ。
肩の辺りには、温かな重みがある。
寝返りを打とうとして、和真は動きを止めた。
腕が、動かしづらい。
ゆっくり目を開ける。
障子の向こうが、朝の光で白く明るんでいた。
その光の中で、すぐ近くにリディアの顔が見えた。
「……え」
声が漏れかけ、慌てて飲み込む。
リディアは和真の肩へ頬を寄せて眠っていた。
片腕が胸の上へ回され、もう片方の手は、脇腹の辺りで寝間着の布を掴んでいる。
抱きつかれていた。
昨夜、真ん中へ置いたはずのタオルは、二人の枕の間で小さく丸まっていた。
和真はそれを見て、もう一度リディアへ視線を戻した。
穏やかな寝顔だった。
眉間に皺もなく、口元も緩んでいる。普段、工房で細かい作業をしている時とは随分違って見えた。
和真は息を浅くした。
起こした方がいい。
そう思ったのに、すぐには声が出なかった。
肩へ触れている頬の温かさと、胸元へ回された腕の重さを、意識せずにはいられない。
機械の指が、寝間着の布を緩く挟んでいた。
無理に抜けようとすれば、彼女を起こしてしまうだろう。
かといって、そのまま見ているのも落ち着かなかった。
「……リディア」
小さく呼ぶ。
返事はなかった。
代わりに、リディアの顔が僅かに動いた。
肩へ頬を寄せ直し、回された腕に少しだけ力が入る。
和真は、今度こそ完全に動けなくなった。
「リディア。朝だよ」
もう一度呼ぶと、彼女の瞼がゆっくり開いた。
まだ眠たそうな目が、和真を見上げる。
「……和真?」
「うん。おはよう」
「おはよう、ございます……」
掠れた声だった。
リディアはそう答えた後も、しばらく動かなかった。
和真の顔を見ている。
やがて視線が下がり、自分の腕へ移った。
胸の上に回された片腕。
寝間着を掴んでいる、もう片方の手。
そこまで確かめてから、再び和真の顔を見る。
目が、はっきり開いた。
「……私」
「うん」
「これは……」
言葉が途切れる。
リディアの頬が、一気に赤くなった。
慌てて腕を引こうとしたため、和真は小さく声をかけた。
「待って。服、掴んでる」
「す、すみません」
リディアが手元を見る。
布を挟んでいた指を開き、今度はゆっくり腕を戻した。
身体を離すと、二人の間に朝の空気が入ってくる。
リディアは上体を起こし、掛け布団を膝の上へ引き寄せた。
和真も起き上がる。
どちらも、相手をまっすぐ見られなかった。
「……起きていたわけではありません」
先に口を開いたのは、リディアだった。
「分かってるよ」
「その、眠っている間に……」
「うん」
リディアは枕の間にあるタオルを見つけた。
しばらく見つめた後、それを拾い上げる。
「目印は、あまり役に立ちませんでしたね」
真面目な声だった。
和真は、堪えきれずに少し笑った。
「寝てたら見えないしな」
「……そうですね」
リディアも、困ったように口元を緩めた。
けれど、顔の赤みは引かない。
「苦しくありませんでしたか?」
「大丈夫だったよ」
「腕も?」
「何ともない」
和真は確かめるように腕を動かして見せた。
それを見て、リディアがようやく息をつく。
「よかったです」
そこで会話が途切れた。
廊下の向こうから、食器の触れ合う音が聞こえる。
朝食の支度が始まっているらしい。
和真が布団から出ようとした時、リディアが小さく尋ねた。
「……いつから、起きていたんですか」
「少し前。気づいて、どうしようかと思ってた」
「すぐに起こしてくださればよかったのに」
「よく寝てたから」
和真はそう答えてから、余計なことまで言った気がした。
リディアの視線が、こちらへ向く。
彼女は何か言いかけたが、やめた。
代わりに、手の中のタオルを丁寧に畳む。
「……よく眠れました」
小さな声だった。
「そっか」
「はい」
和真も、よく眠れた。
昨夜はあれほど落ち着かなかったのに、途中からは隣の気配を気にせず眠っていた。
それを口にすると、今度は自分が何を考えていたかまで伝わってしまいそうで、和真は立ち上がった。
「顔、洗ってくるよ」
「はい。私は、先に着替えます」
襖を開ける前に、一度だけ振り返る。
リディアはまだ、畳んだタオルを膝へ置いていた。
目が合う。
二人とも、ほとんど同時に視線を逸らした。
◇
朝食の支度を手伝いながら、リディアは何度か和真と顔を見合わせた。
昨夜、二人で話そうと決めたことがある。
和真が小さく頷くと、彼女も頷き返した。
食卓の準備が整い、千代が腰を下ろしたところで、リディアが声をかけた。
「千代さん、正一さん。先に、少しお話ししておきたいことがあるんです」
「何かしら」
千代が顔を上げる。
リディアは膝の上へ手を揃えた。
「昨日は、きちんとご説明できなくて、すみませんでした。私と和真は、まだお付き合いしているわけではないんです」
千代の手が止まった。
正一も、こちらを見る。
「……そうなの?」
「はい。私が和真を好きなのは、本当です。ただ、気持ちを伝えたのも、昨日ここへ来る途中で……」
リディアの頬に、赤みが差した。
それでも、今度は言葉を止めなかった。
「お二人が喜んでくださったので、すぐに違うと言えませんでした」
和真も口を開く。
「俺も、話を合わせてしまって。昨日のうちにお伝えすればよかったんですが」
千代は二人を見比べた。
やがて、ゆっくりと口元へ手を当てる。
「まあ……私たち、てっきり」
「二人で来てくれると聞いて、勝手に決めつけてしまったな」
正一が、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すまなかった」
「いえ。俺たちも、何も言わなかったので」
和真が首を振る。
千代は、まだ何かを思い出しているようだった。
そして、その表情が少し変わる。
「お風呂も……お布団も、あれでは困ったでしょう」
リディアが俯いた。
和真まで、返事に詰まった。
今朝、抱きつかれて目を覚ましたことを思い出してしまう。
隣のリディアも同じだったのか、膝の上で指を揃え直した。
「その……大丈夫です。二人で相談しましたので」
和真がどうにか答える。
千代は眉を下げた。
「言いにくかったわね。ごめんなさい」
「お気持ちは、嬉しかったです」
リディアが顔を上げた。
「泊めていただけて、ゆっくり休めました。本当に、ありがとうございました」
千代はしばらく彼女を見つめ、それから小さく頷いた。
「それなら、よかったわ」
返事を聞いて、和真も肩の力を抜いた。
正一が、食卓の中央へ漬物の皿を寄せる。
「まあ、わしらが口を出すことじゃないな。これからは、二人の話をちゃんと聞こう」
「そうね」
千代は頷き、御飯をよそうために立ち上がった。
恋人なのか、これからどうするのか。
その先を、二人は尋ねなかった。
和真はそれがありがたかった。
隣でリディアも、静かに息をついていた。
「さあ、食べましょう。今日は片付けをするんでしょう?」
「はい」
リディアの声が、ようやく普段の調子へ戻った。
◇
朝食を済ませ、泊めてもらった部屋を整えてから、四人で借家へ向かった。
杉浦家の庭を抜け、細い道を少し歩く。
木々の間に、小さな平屋が見えてきた。
瓦屋根の端に、落ち葉が溜まっている。庭の隅には伏せた植木鉢が並び、玄関の傍には古い箒が立て掛けられていた。
リディアは戸の前で足を止めた。
「……変わっていませんね」
「外は、時々掃いておいたからな」
正一が答える。
リディアは振り返った。
「ありがとうございます」
「風で葉っぱが飛んでくるんだよ。ついでに拾うくらいだ」
何でもないことのように言って、正一は軒下へ目を向けた。
リディアは手帳に結んでいた鍵を外した。
木札を手の中へ収め、鍵穴へ差し込む。
戸を引くと、少し引っかかった。
彼女は持ち手を僅かに持ち上げ、もう一度引いた。
今度は、滑らかに開く。
「昨日の話、本当だったんだな」
和真が言うと、リディアは小さく笑った。
「ええ。この辺りを少し持ち上げると、開きやすいんです」
中から、閉め切った部屋の匂いが流れてきた。
木と紙、それから、薄い油の匂い。
和真には、工房の匂いに少し似ているように感じられた。
リディアが先に上がり、窓を開けていく。
光が入り、部屋の中が明るくなった。
机が一つ。
壁際に棚が二つ。
その下と横に、蓋を閉めた箱がいくつも重ねられている。
寝具は部屋の隅へまとめられ、布が掛けられていた。
和真は全体を見渡した。
「思ったより、きれいにして出てきたんだな」
「戻った時に困らないように、片付けてはいましたので」
そう答えてから、リディアは棚へ目を向けた。
「……中までは、整理しきれませんでしたが」
和真も同じ方を見る。
棚の扉を開けると、さらに小さな箱が並んでいた。
一つ引き出してみると、見た目より重い。
「これ、全部部品か?」
「そちらは、そうですね」
「そっちは?」
「下の段には道具もあります。机の下は、まだ使えるか確かめていない物です」
和真は箱を戻した。
リディアと目が合う。
「車で来てよかったよ」
「はい。私も、今、そう思っています」
千代が後ろで笑った。
「少しずつ増えていたものねえ」
「いただいた物も、多かったので」
「直すつもりで預けたら、部品だけもらえれば十分ですって。それで、また増えて」
リディアは否定せず、窓の留め具を確かめた。
和真は軍手を取り出し、両手にはめる。
「まず、持って帰る物を分けようか」
「はい。重い物は、小さな箱へ分けて入れましょう」
「分かった」
正一が玄関の方を指した。
「運ぶ物は、あそこへまとめるといい。わしは邪魔にならん物を、車まで持っていこう」
「ありがとうございます。でも、重い物は俺が運びますから」
「それじゃ、軽い物だけな」
正一はそう言い、紐をまとめた袋を持ち上げた。
◇
作業は、初めのうちは順調だった。
本は大きさを揃えてまとめる。
細かな部品は蓋の閉まる箱へ入れ、壊れやすい物は布で包む。
寝具は湿りや傷みがないか確かめ、持参した大きな袋へ収めた。
使える物と、もう必要のない物。
元から家にあった物と、リディアが持ち込んだ物。
一つずつ確認していくと、床が少しずつ見えてきた。
しかし、机の下の箱を開けた辺りから、リディアの手が止まり始めた。
「……これは」
小さな金具を取り出す。
次に、隣の袋から歯車を一つ。
二つを近づけ、角度を変えた。
和真は空き箱を抱えたまま、その手元を見た。
「リディア」
「はい」
「今、何か考え始めただろ」
リディアが顔を上げる。
「組み合わせれば、使えそうだと思いまして」
「帰ってからな」
「……分かっています」
そう答えながらも、もう一度だけ部品へ目を落とす。
和真は、その下へ箱を差し出した。
「一緒に入れておけば、忘れないだろ」
「そうですね」
リディアはようやく、二つを箱へ収めた。
縁側で古い紙をまとめていた千代が、声を立てずに笑っている。
「前にも、そんなことがあったわね」
「ありましたか?」
「棚の掃除をするって言っていたのに、引き出しを直し始めたでしょう」
和真がリディアを見る。
彼女は箱の蓋を閉じた。
「掃除もしやすくなりました」
「悪いとは言ってないよ」
「顔が、そうおっしゃっていました」
「いや、想像できるなと思っただけ」
千代が今度こそ笑い声を漏らした。
リディアも、困ったように笑う。
和真は箱を抱え直し、玄関へ運んだ。
その途中、壁際の机へ目が留まる。
工房の作業台に比べれば、随分小さかった。
天板には細かな傷があり、一部だけ色が薄くなっている。
この場所でも、彼女は同じように部品を並べていたのだろう。
まだ使い方も名前も知らない物を、一つずつ確かめながら。
和真は玄関へ箱を置き、もう一度部屋へ戻った。
◇
机の引き出しから出てきたのは、薄い帳面だった。
リディアが開いた拍子に、間へ挟まれていた紙が一枚、床へ落ちる。
和真が拾い上げると、簡単な地図が描かれていた。
「これも取っておく?」
差し出すと、リディアは少し驚いた顔をした。
「……そこに入っていたんですね」
受け取った紙を、両手で広げる。
「初めの頃、千代さんに書いていただいたんです。買い物へ行く道を覚えるために」
曲がり角には、店や橋の絵が描かれている。
余白には電話番号があり、その下に、ゆっくり書いたような文字が並んでいた。
和真は、リディアが開いている帳面にも目を向けた。
物の名前と、小さな絵。
同じ文字を、何度も書いた跡がある。
「言葉の勉強か?」
「はい。こちらの文字を覚える時に使っていました」
リディアは数枚めくった。
初めの方は文字の大きさが揃っていなかったが、後ろへ進むほど、今の彼女の字に近くなっていく。
途中から、工具や部品の名前が増えていた。
和真は笑みを漏らした。
「この辺から、リディアらしいな」
「名前が分からないと、買いに行っても困りましたので」
「確かに」
ページの端には、別の筆跡で訂正が入っていた。
千代の字だろうか。
リディアはそこへ指先を置き、しばらく眺めた。
「私が読めるようになるまで、同じことを何度も教えてくださいました」
和真は何も言わず、隣に立っていた。
今のリディアは、必要な物を調べ、道具を揃え、大抵のことを自分で進めてしまう。
けれど、その前には、こうして誰かに教えてもらう時間があった。
彼女がこの世界で暮らし始めた頃を、和真は初めて少しだけ見た気がした。
「それは、部品とは別にしておこう」
「はい」
リディアは地図を帳面へ挟み、表紙を閉じた。
「これは、私の鞄へ入れておきます」
その声に迷いはなかった。
和真は、机の上に残った紙を揃えた。
「これは?」
「そちらは、古い寸法の控えです。もう使いません」
「分かった」
同じ紙でも、残す理由は違う。
和真は一枚ずつ尋ねながら、彼女へ手渡していった。
◇
棚の奥には、小さな湯呑みが一つ残っていた。
縁が少し欠けている。
和真が持ち上げると、リディアが「あ」と声を漏らした。
「それも、まだあったんですね」
「使ってた物か?」
「はい。初めに貸していただいた物です。一度落としてしまって……」
リディアは受け取り、欠けた部分を確かめた。
千代が傍へ来て、湯呑みを覗き込む。
「あら、取っておいたの」
「同じ物が見つからなかったので、お返しできずにいました」
「気にしなくてよかったのに。古い物なんだから」
千代はそう言ったが、リディアはすぐに置こうとはしなかった。
手の中で向きを変え、底を見る。
千代はその様子を眺め、少し笑った。
「持っていく?」
リディアが顔を上げた。
「よろしいんですか?」
「ええ。そのまま飲むのは危ないけれど、鉛筆くらいなら立てられるでしょう」
リディアの口元が、ゆっくり緩んだ。
「……ありがとうございます」
和真は、包むための紙を一枚取った。
「割れないようにしよう」
リディアから受け取り、欠けた縁を避けて包む。
隙間に柔らかな布を当てると、彼女が衣類の袋を開けた。
「こちらへ。部品の箱より、安全だと思います」
「そうだな」
和真は包みを収め、その上へもう一枚布を掛けた。
リディアは袋を閉じるまで、手元を見ていた。
◇
窓から差し込む光が、朝よりも短くなっていた。
床の半分以上が空き、棚の中も、残す物が少なくなっている。
正一が庭から声をかけた。
「一度休まんか。茶を持ってきたぞ」
和真は軍手を外した。
リディアも手を止め、二人で縁側へ腰を下ろす。
庭の向こうで、木の葉が揺れていた。
朝から何度も車と家を往復していたせいか、座ると足が少し重く感じられた。
正一がお茶を差し出す。
「思ったより早く進んだな」
「和真が、どんどん運んでくださるので」
「分ける方も早かったよ。途中で少し止まったけど」
リディアが横を見た。
「一度だけです」
「今のところはな」
正一が笑った。
千代も、洗った雑巾を干してから傍へ腰を下ろす。
リディアはお茶を一口飲み、部屋の中を振り返った。
空いた机と、開いたままの棚。
その光景を、しばらく見ていた。
「何も分からなかった頃、ここへ入れていただけて、本当に助かりました」
静かな声だった。
千代がリディアを見る。
「行く所がなかったんだもの」
「それでも、知らない相手に家を貸すのは、簡単ではなかったと思います」
正一は湯呑みを膝へ置いた。
「何もかも分かった上で貸したわけじゃないよ。ただ、落ち着いて休める所は、必要だろうと思ったんだ」
リディアは頷いた。
「はい」
「使ってもらって、家も助かった。空いたままだと、傷むからな」
「それに、随分直してもらったもの」
千代が笑う。
「時計も棚も、今もちゃんと使っているでしょう」
「ですが……」
「まだ足りないと思っているの?」
問われ、リディアが黙る。
千代は彼女の隣へ、少し身体を向けた。
「昨日、元気な顔を見せてくれたじゃない。それも、お礼になるのよ」
リディアの視線が下がった。
湯呑みを持つ手が、膝の上へ落ち着く。
「……はい」
「だから、今度は何か持っていこうとか、何か直してからとか、そういうことばかり考えないでね」
リディアは、少し驚いたように千代を見た。
考えていたことを、見抜かれたのだろう。
千代は優しく笑った。
「お茶を飲みに来るだけでもいいの」
和真は隣で、その言葉を聞いていた。
リディアはすぐには返事をしなかった。
けれど、やがて顔を上げ、ゆっくり頷いた。
「……また、伺います」
◇
昼食までご馳走になり、午後は掃除と最後の荷積みを済ませた。
和真は荷室に重い箱を低く並べ、隙間へ衣類の袋を収めた。
走っている間に動かないよう、紐を掛ける。
寝具を入れた袋を最後に積むと、荷物はどうにか全て収まった。
家へ戻ると、リディアが机を拭いていた。
「積めたよ」
「ありがとうございます。こちらも、もう終わります」
布を畳み直し、天板の端を拭く。
それから、彼女はしばらく机を見つめた。
和真は戸口で足を止めた。
空になった部屋は、朝より広く見えた。
作業をしていた間は気にならなかったが、箱も本もなくなると、急に音がよく響く。
リディアが天板の傷へ指を沿わせた。
「この傷は、私がつけたんです」
「工具で?」
「はい。作業台にするには、少し気をつけるべきでしたね」
困ったように笑う。
和真は机の傍へ寄った。
「正一さん、使った分くらい気にしないと思うよ」
「ええ。そうおっしゃるでしょうね」
リディアは窓の外を見た。
庭の向こうには、杉浦家の屋根が見える。
食事を呼びに来てもらった道も、夜、見送ってもらった道も、ここからならよく分かった。
「もう少し、見ていくか?」
和真が尋ねると、リディアは少し考えた。
そして、頷いた。
「……少しだけ」
「うん」
和真は窓の傍へ立ち、彼女が部屋を見て回るのを待った。
棚の扉を閉める。
机の引き出しを確かめる。
寝具を置いていた場所へ目を落とす。
忘れ物を探す時とは、違う動きだった。
最後に、リディアは部屋の中央へ立った。
何も言わず、もう一度周囲を見渡す。
それから和真の方へ歩いてきた。
「お待たせしました」
「大丈夫だよ」
「帰りましょうか」
和真は彼女を見た。
リディアは、穏やかな顔をしていた。
「ああ」
二人で窓を閉め、戸締まりを確かめた。
◇
玄関の鍵を掛けると、リディアは木札を手の中へ収めた。
正一と千代が、少し離れた所で待っている。
リディアは二人の前へ行き、鍵を差し出した。
「長い間、ありがとうございました」
正一が受け取る。
「きれいにしてくれたな」
「机に、少し傷をつけてしまいました」
「ああ、あのくらい。使っていればつくものだ」
隣で和真が、リディアを見る。
彼女もこちらを見て、僅かに笑った。
千代が大きな袋を持ってきた。
「これ、皆さんで食べて。畑の物だけれど」
受け取った和真は、袋の重さに驚いた。
「こんなに、いただいていいんですか?」
「人数が多いんでしょう。少しずつ食べたら、すぐなくなるわ」
「ありがとうございます。皆、喜ぶと思います」
「リディアちゃんも、ちゃんと食べるのよ」
「はい」
リディアは頷いた。
「これからは、何もなくてもお電話します。今日は何を作ったとか、皆さんと何をしたとか」
「ええ。聞かせて」
「写真も、お見せしたいです。今、どんな所で暮らしているのか」
「それは楽しみだな」
正一が笑った。
和真も口を開く。
「よかったら、いつかこちらにも来てください。遠いですけど、ご案内します」
リディアが和真を見た。
千代は嬉しそうに目を細める。
「まあ。行ってみたいわねえ」
「時間はあるからな。相談してみよう」
「ぜひ」
和真は頷いた。
お礼を言うために来たはずなのに、食事も寝る場所も用意してもらい、帰りには野菜まで持たせてもらった。
それでも、二人は何かを返してもらおうという顔をしていなかった。
ただ、また会う話を喜んでくれていた。
車へ向かう前に、千代がリディアの手を取った。
「家の鍵は返しても、また来るのよ」
リディアが目を瞬かせる。
「片付ける物がなくたって、来ていいんだから」
リディアは、繋がれた手を見た。
少しして、顔を上げる。
「……はい。また来ます」
今度は、はっきりした返事だった。
千代は頷き、そっと手を放した。
◇
車を出すと、二人は玄関の前から手を振ってくれた。
リディアは窓を下ろし、見えなくなるまで手を振っていた。
曲がり角を抜ける。
杉浦家の屋根が、木々の向こうへ隠れた。
リディアは窓を閉め、それからも、しばらく外を眺めていた。
和真は急いで話しかけなかった。
道を下り、川沿いへ出る。
行きに渡った橋が見えたところで、リディアが鞄を膝へ置いた。
中から、あの古い帳面を取り出す。
「忘れ物か?」
「いえ。持っているか、気になって」
表紙を確かめ、また鞄へしまう。
和真は前を向いたまま、少し笑った。
「来てよかったな」
「はい」
今度の返事に、間はなかった。
「片付けるだけなら、一人でもできると思っていました。でも、和真と来られてよかったです」
「俺も、二人に会えてよかったよ」
「困らせてばかりでしたけれど」
「……いろいろ、驚いたのは本当だけど」
リディアが小さく笑う。
和真も口元を緩めた。
「次は、片付けじゃなくて来ようか」
隣が静かになった。
信号で止まり、顔を向けると、リディアがこちらを見ていた。
「次も、一緒にですか?」
「都合が合えば。写真も見せるんだろ」
「はい」
「俺も、今度はもう少しゆっくり話してみたいし」
リディアの表情が、少しずつ緩んだ。
「……では、その時もお願いします」
「ああ」
信号が変わった。
和真は車を進める。
行きより荷物は増えたが、リディアの声は、出発した時より軽くなっていた。
◇
帰りは、休憩を多めに取った。
身体を動かした後の運転だからと、リディアが時々、次の休憩場所を確かめてくれる。
夕食も途中で済ませ、売店へ寄った。
ピピの土産を選ぶところで、二人は棚の前へ並んだ。
「おいしい物、でしたよね」
「そう。かなり期待されてる」
「皆さんで食べられる物がよさそうです」
「数が足りないと大変だからな」
和真は箱の裏を見て、個数を確かめた。
リディアも隣の箱を手に取る。
どちらにするか少し迷い、結局、大きな箱の菓子を選んだ。
車へ戻る途中、夜風が二人の間を通った。
リディアが肩を僅かにすくめる。
「帰ったら、もう遅い時間ですね」
「荷物は明日でいいよ。食べ物と、今夜使う物だけ出そう」
「部品の箱も、そのままで?」
「うん。今夜出したら、そのまま工房に行きそうだし」
リディアが黙った。
和真が横を見ると、彼女は少しだけ目を逸らした。
「……あの金具は、気になっています」
「やっぱり」
「ですが、今日はやめておきます」
「そうしてくれ」
二人で笑い、車へ乗り込む。
走り始めてしばらくすると、リディアの返事が少しずつ短くなった。
「眠かったら、寝てていいよ」
「いえ。和真だけ起きているのは……」
「俺は大丈夫。眠くなったら、ちゃんと止まるから」
「……お願いしますね」
それから少しして、隣が静かになった。
和真は音楽を小さくした。
リディアは鞄を膝へ置き、眠っている。
朝、肩へ頬を寄せられていたことが、ふと思い出された。
和真は前を向いたまま、小さく息を吐く。
昨日までは、リディアと二人でいる時に、こんなことを考えなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
けれど、彼女がここを離れるのかと慌てた時から、既に何かは変わっていたのかもしれない。
まだ、答えは出ていなかった。
それでも、知らないふりをして元の距離へ戻ることは、もうできそうになかった。
◇
空色唐辛子荘へ着いた頃には、母屋の窓が夜の庭を照らしていた。
「リディア。着いたよ」
声をかけると、隣で小さく身じろぎをした。
リディアが目を開け、窓の外を見る。
「……もう、着いたんですか」
「うん」
「すみません。眠ってしまって」
「片付けで疲れたんだろ」
駐車場へ車を入れると、母屋の戸が開いた。
最初に出てきたのは、フェンリスだった。
車の傍まで来て、和真が降りるのを待つ。
「おかえり」
「ただいま。待っててくれたのか」
「もうすぐ着くって言ってたから」
そう答えながら、フェンリスは和真の顔を確かめるように見た。
「ちゃんと休んできた?」
「うん。何度か止まったよ」
「……そっか」
ようやく、表情が少し緩む。
リディアが降りると、フェンリスはそちらへ向いた。
「リディアも、おかえり。片付いた?」
「はい。おかげさまで、全部終わりました」
「ご夫婦にも、会えたんだね」
「ええ。とても喜んでくださいました」
フェンリスは頷いた。
和真が荷室を開けると、後から来たみゆが中を覗き込む。
「……これ、全部持って帰ってきた物?」
「ああ」
「車で行ってよかったね」
「本当にな」
リディアが、少しだけ胸を張る。
「使える物は、きちんと選んできましたよ」
「その結果が、これなんだ」
みゆが笑った。
和真は野菜と菓子の袋を取り出し、皆と母屋へ向かった。
台所から、酒菜が顔を出す。
「帰ったか。飯は食ったんだろ?」
「うん。途中で」
「なら、茶だけ用意する。座ってろ」
「ありがとう。これ、ご夫婦から。皆で食べてくださいって」
袋を受け取った酒菜が、中を見た。
「ずいぶんもらったな」
「帰り際に持たせてくださったんです」
「そうか。明日、使わせてもらう。礼を伝えといてくれ」
「はい」
リディアが頷いたところへ、ピピが近づいてきた。
視線は、菓子の箱へ向いている。
「それ、お土産?」
「そうだよ」
「僕の?」
「皆で食べる分」
「食べる!」
みゆが笑いながら箱を受け取る。
「今夜は少しだけね。残りは明日」
「二つ!」
「まだ一つとも言ってないんだけど」
いつものやり取りに、和真は思わず笑った。
ひかげが二人の前へ湯呑みを置く。
「お疲れさまでした。荷物も、明日でええと思いますよ」
「うん。そのつもり」
「今日は、ゆっくり休んでくださいね」
あおいも頷いた。
「無事に戻ってきたのなら、何よりじゃ」
「ありがとう」
和真はお茶を受け取った。
居間の端では、ナディアが持っていたノートを閉じた。
「片付けの方は済んだんだろ。明日、運ぶだけなら俺様も手を貸してやる」
「助かる。重い箱が多いんだ」
「それくらい構わん」
ユエは、端末から顔を上げた。
「話を聞くのも、明日でいいでしょう。和真、眠そうだわ」
「そこまでじゃないよ」
「さっきから、同じ湯呑みを持ったままよ」
言われて、和真は手元を見た。
確かに、受け取ったまま、まだ飲んでいなかった。
リディアが隣で小さく笑う。
昼の卵焼きのやり取りを思い出したらしく、和真を見る目が少し楽しそうだった。
「……ちゃんと飲むよ」
「はい」
二人のやり取りに、みゆが首を傾げた。
けれど、何かを聞く前に、ピピが菓子の袋を開けてほしいと声を上げる。
居間は、また賑やかになった。
リディアは湯呑みを両手で持ち、皆を見渡していた。
和真も、お茶を一口飲む。
帰ってきたのだと、ようやく実感した。
◇
長居せず休もうということになり、和真とリディアは必要な荷物を取りに車へ戻った。
夜の庭は静かだった。
母屋からは、食器を片付ける音と、まだ何か話している声が聞こえている。
和真が鞄を差し出すと、リディアは両手で受け取った。
「二日間、ありがとうございました」
「俺も、楽しかったよ」
自然に答えたつもりだった。
しかし、リディアの頬が少し赤くなったため、和真まで落ち着かなくなる。
「いや、いろいろ話せたし。二人にも会えたから」
「分かっています」
リディアは笑った。
「私も、楽しかったです」
その顔を見ると、それ以上言い足す必要はないように思えた。
和真は車の鍵を閉める。
リディアはすぐには歩き出さなかった。
「……今朝のことですが」
和真の手が止まった。
「うん」
「すみませんでした。眠っている時のこととはいえ……」
「それは、もういいよ。大丈夫だったって」
リディアが顔を上げる。
和真は、言葉を選び直した。
「驚いたけど。嫌だったわけじゃないから」
言い終えた途端、自分の顔が熱くなった。
リディアも、黙った。
夜風が吹き、彼女の髪が少し揺れる。
やがて、リディアの口元が緩んだ。
「……分かりました」
「だから、その……何度も謝らなくていい」
「はい」
返事は素直だったが、表情は先ほどより嬉しそうだった。
和真は視線を車へ逃がす。
それを見て、リディアが小さく笑った。
「今夜は、一人で眠りますから」
「そりゃ、そうだろ」
「そうですね」
和真も、つられて笑った。
そこでリディアの端末が鳴った。
画面を見た彼女の顔が、柔らかくなる。
「千代さんです。無事に着いてよかった、と」
「着いたって送ったのか?」
「はい。先ほど、お茶をいただいている時に」
「そっか」
和真は頷いた。
今度は、すぐに伝えられた。
それを口にしなくても、リディアの顔を見れば分かった。
「明日、皆さんで写真を撮ってもいいでしょうか」
「いいと思う。朝、聞いてみよう」
「和真も、入ってくださいね」
「俺は撮る方じゃなくて?」
「はい」
リディアは端末をしまった。
そして、少しだけ間を置く。
「隣に、いていただけると嬉しいです」
和真は彼女を見た。
もう、冗談とは受け取れなかった。
それでも、困るだけではなかった。
「……分かった」
頷くと、リディアが笑った。
「ありがとうございます」
小さな約束だった。
今の和真にも、迷わず守れる約束だった。
◇
201号室へ戻ったリディアは、鞄を机へ置いた。
古い帳面を取り出し、その隣へ、紙に包んだ湯呑みを並べる。
丁寧に紙をほどくと、欠けた縁が見えた。
包む時に和真が当ててくれた布を畳み、湯呑みへ筆記具を数本立てる。
借りていた家では、棚の奥へしまったままだった物だ。
今度は、毎日目に入る場所へ置けた。
リディアは椅子へ腰を下ろした。
端末を取り出し、千代へ返事を書く。
『いただいた野菜も、皆さん喜んでいました。明日、写真を撮ってお送りします』
少し考え、もう一文を加えた。
『また、和真と伺います』
送ってから、頬へ手を添えた。
機械の指先が触れても、顔の熱さはなかなか引かなかった。
朝、目を開けた時のことが思い出される。
近くにあった和真の顔。
寝間着を掴んでいた、自分の手。
そして、先ほど聞いた言葉。
嫌だったわけではない。
それが告白への返事ではないことくらい、分かっている。
それでも、嬉しかった。
リディアは小さく息を吐き、机の上へ目を向けた。
古い帳面と、筆記具を立てた湯呑み。
明日は、皆で撮った写真が増える。
その写真を見ながら、千代はきっと一人ずつ名前を尋ねるだろう。
正一は、庭や畑の方を気にするかもしれない。
話すことは、たくさんあった。
次の連絡をためらう理由は、もうなかった。
端末が短く鳴る。
和真からだった。
『写真は朝食の後にしよう。今日はもう休めよ』
リディアは瞬きをした。
それから、声を抑えて笑う。
今ここで何をしているのか、見えているような言葉だった。
『分かりました。おやすみなさい、和真』
返信を送り、今度こそ端末を置いた。
灯りを消して、自分の寝床へ入る。
昨日よりずっと広く使えるはずなのに、横になった途端、少しだけ落ち着かなかった。
無意識に隣へ伸ばしかけた手を、布団の上へ戻す。
「……明日、ですね」
小さく呟き、目を閉じた。
明日の朝には、いつもの食卓で和真に会える。
それから、約束どおり隣に立つ。
リディアはその時のことを思いながら、布団を肩まで引き上げた。




