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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第二十六話 にぎやかな食卓と、それぞれの一歩

 翌朝、フェンリスが母屋へ入ると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。


 食器の触れ合う音に交じって、みゆの声が聞こえる。


「和真、それ僕の分?」


「いや、これは俺の」


「じゃあ、そっちの大きいのが僕?」


「そっちはフェンリス」


「へえ。ちゃんと分けてるんだ」


「いつも足りないって言うからな」


 フェンリスは、廊下の途中で足を止めた。


 台所の入口から覗くと、和真がご飯をよそっていた。みゆはその隣で盆を持ち、並べられた茶碗を眺めている。


 いつもと変わらない光景だった。


 みゆが何か言い、和真が答える。たいした用事がなくても、みゆは和真の近くへ行く。からかったり、手伝ったり、ときにはその両方だったりする。


 今までは、それを見ると自分も隣へ行きたくなった。


 今日も行きたい。


 それなのに、一歩目がすぐには出なかった。


 昨夜のみゆの言葉が、まだ耳に残っていた。


 そばにいて、ふざけて、触れて、甘えたい。


 そんな望みの先に、和真との子供の話まで、ごく自然につながっていた。


 思い出した途端、フェンリスは口元を引き結ぶ。


 そこだけは、朝になってもまだ落ち着いて考えられない。


「フェンリス?」


 顔を上げると、みゆがこちらを見ていた。


「おはよう。何してるの?」


「……何でもない。おはよう」


「ちょうどよかった。これ、持っていってくれる?」


 差し出された盆には、焼き魚の皿が三枚載っていた。


 フェンリスが受け取ると、みゆは空いた手で別の盆を取る。


「今日はお腹空いてる?」


「空いてるけど」


「よかった。和真が、フェンリスの分だけ山にしてたから」


「山にはしてないだろ」


 和真が振り返る。


 その手元にある茶碗を見て、フェンリスは少しだけ頬を緩めた。


「僕、これくらい食べるよ」


「ほらな」


「僕だって食べられるのに」


「足りなければ、おかわりすればいいだろ」


「うん。じゃあ、そうする」


 みゆは笑い、和真の肩に軽く自分の肩を寄せた。


 ほんの一瞬だった。


 そのまま盆を持って台所を出ていく。和真も特に気にせず、次の茶碗へしゃもじを伸ばしていた。


 フェンリスはみゆの後ろ姿を見送ったあと、和真の隣へ進んだ。


「和真」


「ん?」


「僕の、もう少し入れて」


 和真は茶碗とフェンリスの顔を見比べた。


「……本当に食べられるか?」


「食べられる」


「昼もあるんだから、無理するなよ」


 そう言いながら、ご飯を少し足してくれる。


 自分のために動くしゃもじを見て、フェンリスは満足しかけた。


 けれど、出来上がった茶碗は思った以上に大きな山になっていた。


「お前ら、入口で止まるな。運ぶならさっさと運べ」


 酒菜の声が飛んできた。


「汁が冷めるだろ」


「今、行く」


 フェンリスは盆を持ち直し、居間へ向かった。


 後ろで和真が、小さく笑った気がした。


     ◇


 食卓では、あおいがお茶を注いでいた。


「フェンリス、そこへ置いてくれぬか。こちらは、もう空けてある」


「うん」


 皿を並べていると、みゆが箸を配りながら近づいてきた。


「フェンリスはこっちね」


 示されたのは、和真が座ろうとしている場所の隣だった。


 フェンリスは思わず、みゆを見た。


「どうしたの?」


「……みゆは?」


「僕? こっち」


 みゆは和真を挟んだ反対側に、自分の箸を置いた。


 あまりにもあっさりしていて、フェンリスは返す言葉をなくす。


「そこ、嫌だった?」


「嫌じゃない」


「じゃあ、決まり」


 みゆは座布団を引き寄せ、その場へ座った。


 フェンリスも腰を下ろす。


 和真が二人の間へ茶碗を置き、自分も座ったところで、向かいから小さな声がした。


「……フェンリス、それ、朝から食べるん?」


 ひかげが、ご飯の山を見ていた。


「食べるよ」


「そ、そう……」


「ひかげも増やしてもらう?」


「わたしは、今のでええ……」


 自分の茶碗をそっと引き寄せるひかげの横で、ピピが身を乗り出した。


「僕も多いの!」


「先にそこにある分を食え」


 汁椀を運んできた酒菜が、短く言った。


「食べたら?」


「まだ欲しけりゃ、よそってやる」


「うん!」


 ピピはすぐに姿勢を戻した。


 リディアが最後の皿を置き、ナディアとユエも席につく。


「それじゃ、いただきます」


 和真の声に続いて、食卓のあちこちから声が重なった。


 箸が動き始めると、すぐにいつもの賑やかさが戻ってきた。


 ピピが魚を見つめ、酒菜に骨の場所を確かめる。あおいが漬物の皿をひかげへ回し、リディアは湯気の立つ味噌汁へ静かに口をつけた。


 ナディアは焼き魚を一口食べてから、酒菜を見た。


「これ、塩だけか?」


「ああ」


「へえ。昨日の飯とは、ずいぶん違うな」


「毎回、同じ味にする必要もねぇだろ」


「そりゃそうだ。これも悪くない」


 ナディアはもう一口食べた。


 褒められた酒菜は何も言わず、自分の茶碗を取る。ただ、皿を空けたナディアが骨を脇へ寄せる様子には、ちらりと目を向けていた。


「和真、醤油取って」


「ほら」


「ありがと」


 みゆが手を伸ばす。


 受け渡しの際、指が触れた。


 みゆは気にした様子もなく、小皿へ醤油を落としている。


 フェンリスは、箸を止めていたことに気づいて、ご飯を口へ運んだ。


 昨夜の話を聞かなければ、見過ごしていたと思う。


 みゆは大きなことを求めているわけではないように話していた。けれど、今、目の前で交わされている一つ一つを、ずっと続けたいのだ。


 醤油を渡してもらうことまで、その中に入るのだろうか。


「フェンリス」


「……え?」


「やっぱり多かったか?」


 和真が茶碗を見ていた。


「違う。ちゃんと食べてる」


「ならいいけど。眠そうだから」


「眠くないよ」


 そう答えると、和真はフェンリスの顔をもう一度見た。


「昨日、あんまり寝てないんじゃないか?」


 フェンリスの肩が、わずかに揺れた。


 反対側では、みゆが味噌汁を飲んでいる。


「……少し、考え事してただけ」


「そっか」


 和真はそれ以上聞かなかった。


「今日は酒屋、休みだろ。眠くなったら、あとで少し寝たらいい」


「うん」


 心配してくれたことが嬉しかった。


 それで気持ちが上向いた自分に、フェンリスは少し困る。


 みゆの気持ちを知っても、自分が和真に見てほしいことは変わらなかった。


「そうだ。みんなに話がある」


 酒菜が箸を置いた。


 フェンリスは顔を上げた。


「屋台で出す飯、一度みんなに食わせてみようと思ってる」


「試食会か?」


 和真が尋ねる。


「ああ。うまいかどうかだけじゃねぇ。量と、出すまでの時間も見ておきたい」


「僕も、お客さんから注文を聞く練習したいんだよね」


 みゆが続けた。


「いつものご飯なら、作った分をみんなで食べるでしょ? でも、お店だと違うものを頼む人もいるし」


「全員分を一度に並べて終わり、とはいきませんからね」


 リディアが頷いた。


「そういうことだ。今日の昼、付き合える奴は付き合ってくれ」


「僕、食べる!」


 真っ先に声を上げたのはピピだった。


「まだ何を作るとも言ってねぇぞ」


「お肉?」


「肉も使う」


「食べる!」


「……そこは聞いてるんだな」


 酒菜は息をついた。


 和真が笑いながら頷く。


「俺も大丈夫だ。準備は何をすればいい?」


「あとで机を動かしてくれ。作るところと食うところを、少し離して試したい」


「分かった」


「わらわもおるぞ。味見なら任せるがよい」


「……わたしも、お昼は空いてる」


 ひかげが小さく手を挙げる。


 リディアも参加すると答えたところで、みゆがフェンリスを覗き込んだ。


「フェンリスは?」


「僕も手伝う」


「食べる方じゃなくて?」


「そっちも。でも、運ぶのは手伝えるよ」


 言ってから、フェンリスは少し早口になったことに気づいた。


「酒屋でも、荷物を運んだりしてるし。注文を聞く間くらい、皿を持っていける」


「助かる。僕、最初は間違えそうだから」


 みゆが嬉しそうに笑う。


 断られるとは思っていなかった。


 それでも、その笑顔を見たら、引き受けてよかったと思った。


「俺様も付き合うぜ」


 ナディアが言った。


「ただ食えばいいわけじゃないんだろ。気づいたことは言っていいのか?」


「そのために食わせるんだ。遠慮されても困る」


「分かった」


 ナディアは頷き、和真へ視線を移した。


「それと、あとで少し話がある」


「何の?」


「仕事のことだ」


 和真の箸が止まった。


「仕事?」


「ここで暮らすなら、金も使うだろ。俺様に何ができるか、聞いておきたい」


「ああ……そうだな」


 和真は頷いたものの、すぐには続きを口にしなかった。


 ナディアが来てから、まだ日が浅い。できることを考えるにしても、こちらの暮らしについて知ってもらうところからだった。


「急いで決めなくてもいいけど、一緒に考えよう」


「別に、今すぐ外へ出せとは言ってないぜ。まずは、どんな仕事があるかだ」


「それなら、昼のあとにでも話すか」


「そうしてくれ」


 そこで、ユエが静かに口を開いた。


「私も、その話は聞いておくわ」


 和真が顔を向ける。


「ユエも?」


「必要なことなのでしょう?」


「ああ。何かやってみたいことはあるか?」


「まだ、この世界の仕事を十分に知っているわけではないもの。先に聞いてから決めるわ」


「分かった」


 和真が答えると、ユエはそれ以上言わず、食事へ戻った。


「じゃあ、お昼は食べて、そのあと仕事の相談だね」


 みゆが皆を見回す。


「何だか、ちゃんとお店を始める感じになってきた」


「始めるためにやってんだろ」


「分かってるよ。でも、話すだけのときとは違うじゃん」


 みゆはそう言い、隣の和真へ笑いかけた。


「今日のお客さん第一号、和真にする?」


「俺でいいのか?」


「うん。失敗しても待ってくれそうだから」


「最初から待たせるつもりかよ」


「練習だもん」


「練習でも、待たせねぇつもりで動け」


 酒菜の声に、みゆが背筋を伸ばした。


「はーい」


「返事だけはいいんだよな、お前」


「接客向きでしょ?」


「皿を落とさず運べたら認めてやる」


 みゆが笑い、食卓にも笑い声が広がった。


 フェンリスは、ご飯をもう一口食べた。


 気づけば、茶碗の山はずいぶん低くなっていた。


     *


 朝食の片付けが終わると、母屋の台所には、昼に使う食材が並び始めた。


 酒菜は冷蔵庫の中身を確かめながら、手元の紙へ献立を書き足していく。


 その隣で、みゆが指を折っていた。


「焼いたお肉と、炒めた野菜。それから、煮物?」


「煮物は小鉢にする。今日は主菜を二つ試すぞ」


「二つだけ?」


「最初から増やしてどうする。作る方も運ぶ方も、何が引っかかったか分からなくなるだろ」


「あ、そっか」


 みゆは紙を覗き込んだ。


「じゃあ、お客さんにはどっちか選んでもらう?」


「そうだな。両方食いたい奴には、あとで少しずつ出せばいい」


「ピピは絶対、両方って言うよ」


「お前が先に言いそうだけどな」


「僕は運びながら見てるから、もっとお腹空くと思う」


「つまむなよ」


「まだ何もしてないって」


 フェンリスは二人のやり取りを聞きながら、洗った盆を拭いていた。


 みゆは、何を言われてもすぐに言葉を返す。


 酒菜も短く返しながら、必要なことは一つずつ教えていた。


「酒菜。皿はこれでいい?」


 フェンリスが棚から取り出した皿を見せる。


「ああ。その大きさで揃えてくれ。盛る量を変えたら、比べられねぇからな」


「分かった」


「欠けてるのがあったら、そっちはよけとけよ」


 フェンリスは皿の縁を確かめ、台へ重ねた。


 隣へ来たみゆが、そのうちの一枚を盆に載せる。


 茶碗と汁椀も置き、両手で持ち上げた。


「こんな感じかな」


「まだ何も入ってないよ」


「まず形から」


 みゆは台所の入口まで歩いて戻り、フェンリスの前で止まった。


「お待たせしました。今日のおすすめです」


「……空っぽだけど」


「想像して」


「無理だよ」


「美味しそうな焼き肉が、ここに」


 みゆが皿の上を指す。


「それと、炊きたてのご飯」


「説明されたら、お腹空いてきた」


「さっき、あんなに食べたのに?」


「みゆが言うからだろ」


 みゆが声を上げて笑った。


 つられて、フェンリスの口元も緩む。


「じゃあ、本番でも説明つけようかな。お腹空いてもらった方がいいし」


「注文したあとに言っても、遅くない?」


「あ、そっか」


「先に言わないと」


「確かに。フェンリス、今の覚えておいて」


「自分で覚えてよ」


 言いながら、フェンリスは盆の上の汁椀を少し奥へ動かした。


「こっちの方が、置くときに触らなくて済むと思う」


 みゆが実際に盆を台へ下ろしてみる。


「あ、本当だ」


「酒屋でも、端に置くと引っかけるから」


「じゃあ、これで揃えよう」


 二人で皿の位置を決めていると、居間から机を動かす音が聞こえてきた。


 和真が一人で端を持ち上げようとして、酒菜に呼び止められる。


「おい。上の物をどけてからにしろ」


「布巾しか載ってないぞ」


「その下に、みゆの紙がある」


「あ、本当だ」


 和真が紙を拾い上げた。


「これ、献立?」


「そう。まだ途中だから、捨てないでね」


「捨てないよ」


 みゆが受け取りに行く。


 フェンリスも皿を置き、居間へ向かった。


 和真は机の向きを変え、台所の出入口から離れた場所へ寄せていた。


 空いたところには、料理を一度置くための小さな机が用意されている。


「ここで受け取って、向こうまで運ぶ感じか?」


「うん。途中に誰か立ってても、通れるくらい空けたい」


 みゆが歩いて確かめた。


 フェンリスも後ろについてみる。


 すれ違うには少し狭い。


「和真、こっち、もう少し寄せていい?」


「どのくらい?」


「僕が立ってるところまで」


「分かった」


 和真が机を動かす。


 みゆとフェンリスは、盆を持つつもりで両手を前へ出し、もう一度すれ違った。


 今度はぶつからずに通れた。


「これなら大丈夫だね」


「うん」


 頷くと、みゆが何のためらいもなく手を上げてきた。


 フェンリスは一瞬その手を見てから、自分の手を合わせた。


 ぱん、と軽い音が鳴る。


「二人とも、息が合ってるな」


 和真が言った。


 フェンリスが顔を向けるより早く、みゆが笑う。


「でしょ。これなら、お店も大丈夫そう」


「まだ飯を一つも運んでねぇだろ」


 台所から酒菜の声がした。


「褒めるのは終わってからにしろ」


「はいはい」


「はいは一回だ」


「はーい」


 みゆは伸ばして返事をし、台所へ戻っていった。


 和真が苦笑する。


「まあ、楽しそうでよかった」


「……うん」


 フェンリスは、みゆと合わせた手を下ろした。


 手伝うと言ったときには、もっと違うことを考えていた気がする。


 みゆのことが気になっていた。


 和真のそばにいる姿を、どう見ればいいか分からなかった。


 けれど、一緒に盆を持って歩いている間は、そんなことを忘れていた。


 みゆが失敗しそうなら教えたいし、自分が知らないことなら教えてもらいたい。


 さっきのように笑うのも、嫌ではない。


「フェンリス」


 呼ばれて振り向くと、和真が台所の入口を指した。


「みゆ、呼んでるぞ」


「あ……うん」


「眠くなったら言えよ」


「もう平気」


 今度は、すぐに答えられた。


     *


 昼が近づくにつれ、台所は忙しくなっていった。


 鍋では小鉢にする煮物が温まり、切り分けた野菜が大きな容器に用意されている。


 酒菜は焼く順番を確かめながら、みゆへ声をかけた。


「注文を聞いたら、こっちに伝えろ。勝手に覚えたつもりになるなよ」


「紙に書くよ」


「聞き間違いもある。客にも一度、言い返して確かめろ」


「焼いたお肉の定食ですね、って?」


「ああ。それでいい」


 みゆが紙に短く書き込む。


 その横では、リディアが時刻を確認していた。


「注文を受けてから料理を渡すまで、自分が時間を見ておきます」


「助かる。途中で足りなくなった物も、分かったら書いといてくれ」


「分かりました」


「何だか、本格的だね」


 フェンリスが言うと、リディアは小さく頷いた。


「実際に動くと、気づくことが多いですから。自分の通販も、物を作る以外の準備が思ったよりあります」


「箱とか?」


「それもですね。あとは注文の確認や、送る物の取り違えを防ぐ方法です。修理なら、預かったときの状態も残しておきたいので」


 少し離れて聞いていたユエが、リディアへ目を向けた。


「作業を始める前に、そこまで必要なの?」


「誰から何を預かったか分からなくなっては困りますから」


「……それはそうね」


「まだ、自分でも手順を考えているところです」


 リディアはそう言い、手元の紙を揃えた。


 ユエはその紙へ一度視線を落としたが、それ以上は尋ねなかった。


 居間の方からは、ひかげの控えめな声が聞こえてくる。


「……それは、あとで片づけるから。そこ、置いといて」


「これか?」


 ナディアが手にしていたのは、机を移す際に出てきたゲームのコントローラーだった。


「そう。今は使わへんし……」


「変わった形だな」


「……ゲームするやつ」


「ゲーム?」


 ひかげは少しためらってから、隣へ近づいた。


「画面の中のキャラを、それで動かすんよ。戦ったり、走ったり……いろいろあるけど」


「自分が動くわけじゃないのか」


「うん。指で、ここのボタン押して……」


 説明を聞くナディアの顔に、興味が浮かぶ。


 ひかげも、最初より少し長く話していた。


「気になるなら、食べたあとに見せてもらったらどうだ?」


 和真が言うと、ナディアはコントローラーから顔を上げた。


「そうする。ひかげ、あとで頼めるか?」


「……うん。見るだけやなくて、やってみてもええよ」


「なら、やってみたいな」


 ナディアはコントローラーを、ひかげの示した棚へ戻した。


 その頃には、ピピが待ちきれずに台所の入口へ来ていた。


「まだ?」


「もう少し」


 みゆが答える。


「さっきも、もう少しだった!」


「さっきよりは近づいたよ」


「あと、どれくらい?」


「ピピが座って、注文してくれたら始められるくらい」


 ピピはすぐに居間へ戻っていった。


 その早さに、ひかげが小さく吹き出す。


「……それ、先に言うたげたらよかったのに」


「僕も今、言いながら気づいた」


 みゆは笑い、手元の紙を持ち上げた。


 紙には二つの献立が、大きな字で書かれている。


 酒菜が鍋の火を弱め、フライパンを手前へ置いた。


「みゆ。こっちはいいぞ」


「分かった」


 みゆは服の裾を軽く整えたあと、フェンリスを振り返った。


「じゃあ、行ってくる。料理ができたら、お願いね」


「うん」


 フェンリスは盆を手に取った。


 みゆが居間へ入ると、待っていた和真たちが顔を上げた。


「いらっしゃいませ。今日は来てくれて、ありがとうございます」


 少しだけ改まった声だった。


 和真が姿勢を正す。


「よろしくお願いします」


「和真まで、そんなにかしこまらなくていいって」


「みゆがちゃんとしてるから、つい」


 みゆは笑いかけてから、はっと紙を持ち直した。


「あ、駄目だ。今、お客さんだった」


「もう普段どおりじゃねぇか」


 酒菜が呆れた声を出した。


 食卓に笑いが起こる。


 フェンリスも笑った。


 みゆは少しも困った様子を見せず、和真の前へ献立を差し出す。


「では、お客さん。どちらにしますか?」


「そうだな……」


 和真が紙を覗き込む。


 みゆも隣から覗き、二つの料理を順番に指さして説明していた。


 近いな、とフェンリスは思った。


 やっぱり、少し気になる。


 けれど、みゆが注文を書こうとして鉛筆を探した瞬間、フェンリスは台の上に残っているそれに気づいた。


「みゆ」


 差し出すと、みゆが振り返る。


「あ、忘れてた。ありがと」


「最初から忘れてどうするの」


「次は忘れない」


 鉛筆を受け取ったみゆが、小さく笑った。


 フェンリスは首を横に振り、料理を受け取る机の前へ戻る。


「焼き肉の定食、一つ!」


 みゆの声が通った。


「分かった」


 酒菜が肉をフライパンへ入れる。


 じゅう、と音が立ち、香ばしい匂いが広がった。


 フェンリスは盆を構え直した。


 最初の一皿は、自分が和真へ運ぼうと思った。


酒菜は肉の焼け具合を確かめ、菜箸で一枚ずつ返していった。


 空いたところへ玉ねぎを入れると、油の弾ける音が少し大きくなる。


 フェンリスは盆に茶碗と小鉢を載せ、汁椀を置く場所を空けて待っていた。


「ご飯は、それでいい?」


 注文を伝え終えたみゆが、横から覗き込む。


「うん。いつも和真が食べてるくらい」


「今日、朝もちょっと多かったから、少なめでもいいかもね」


 フェンリスの手が止まった。


「……そうなの?」


「おかわりしてたよ。フェンリスが食べ終わる前に」


 知らなかった。


 自分の茶碗ばかり気にしていて、和真の手元まで見ていなかった。


 フェンリスは、よそったご飯を見下ろした。


「じゃあ、減らした方がいい?」


「聞いてくる」


 みゆはすぐに居間へ顔を出した。


「和真、ご飯、いつもくらいで大丈夫?」


「ああ、大丈夫だよ」


「分かった」


 戻ってきたみゆが、軽く頷く。


「そのままでいいって」


「……うん」


 たったそれだけのことだった。


 和真に聞けば済むことなのに、フェンリスは少しだけ置いていかれたような気がしていた。


「二人とも、飯の量も聞くなら、注文のときに済ませとけよ」


 酒菜が肉を皿へ移しながら言った。


「あとから何度も往復してたら、忙しくなったときに困るだろ」


「あ、そっか。最初に聞けばいいんだ」


 みゆが紙へ書き足す。


 フェンリスも頷いた。


 みゆだって、初めから何でも分かっているわけではない。


 そう思うと、少し気が楽になった。


「できたぞ。熱いから気をつけろ」


 肉の載った皿が差し出される。


 照りのあるたれが玉ねぎに絡み、添えられた野菜の上まで、細く湯気が立っていた。


 フェンリスは皿を盆に載せ、汁椀を確かめて持ち上げた。


「僕が持っていく」


「うん。お願い」


 みゆに見送られ、居間へ向かう。


 和真は料理を見ると、机の上のお茶を少し端へ寄せた。


「お待たせ」


 フェンリスは膝をつき、盆を置いた。


「焼き肉の定食……です」


 最後だけ付け足すと、和真が顔を上げた。


「ありがとう」


「……うん」


 普段と同じ言葉なのに、向かい合って言われると少し照れた。


 フェンリスが立ち上がりかけたところで、和真は箸を持ったまま周りを見た。


「先に食べていいのか?」


「冷めるから食ってくれ。味を見る前に待たれたら困る」


 台所から酒菜が答える。


「分かった。いただきます」


 和真が肉を口へ運ぶ。


 フェンリスは、ついその場に残ってしまった。


 和真は二、三度噛み、それから頷いた。


「うまい」


 その一言に、フェンリスまで嬉しくなる。


「酒菜、うまいって」


「聞こえてる」


「ご飯にも合うよ。味、ちょうどいい」


「なら、量も見といてくれ」


 酒菜は返事をしながら、次の料理に取りかかっていた。


 フェンリスも戻ろうとする。


 その袖を、みゆが台所の手前で軽く引いた。


「どうだった?」


「美味しいって」


「よかった」


 みゆは和真の方を見て、嬉しそうに笑った。


 その顔を見た途端、フェンリスは、自分が褒められたような気になっていたことに気づく。


 作ったのは酒菜で、屋台を始めるのは酒菜とみゆだ。


 それでも、少し手伝っただけでこんなに嬉しいのだから、みゆはもっと嬉しいのかもしれない。


「次、何を運ぶ?」


 フェンリスが尋ねると、みゆは注文の紙を見た。


「ピピとナディアが焼き肉。あおいとひかげは野菜炒めだって」


「ピピ、両方って言わなかった?」


「言ったよ」


「やっぱり」


「あとで少しずつ味見できるって言ったら、先にお肉がいいって」


 二人で小さく笑った。


     ◇


 料理が増えるにつれ、さっきまで余裕のあった台所が、少しずつ慌ただしくなった。


 酒菜が焼き肉を仕上げている間に、みゆは次の注文を聞き、フェンリスは盆を運ぶ。


 最初はうまくいっていた。


 けれど、三つ目の盆を用意したところで、みゆが首を傾げた。


「あれ。これ、ご飯少なめだっけ?」


 台には、よそった茶碗が二つ置かれている。


 一つは普通の量で、もう一つは少なめだった。


「少なめは、ひかげだよ」


 フェンリスが答える。


「うん。それは覚えてるんだけど……あおいの分、もう運んだ?」


「まだ。今、汁を入れるところ」


「あ、じゃあ、これで合ってる」


 みゆが少なめの茶碗を盆へ載せかけたところで、酒菜が顔を向けた。


「そっちは、あおいの分だ」


「え?」


「ひかげの分は、この次。今の野菜炒めは、あおいのだろ」


 みゆは手元の紙と盆を見比べた。


「あ……ご飯だけ先にしちゃった」


 茶碗を戻し、普通の量の方へ取り替える。


 酒菜は責めずに、出来上がった皿を台へ置いた。


「一つずつ揃えろ。急がなくていい」


「うん」


 フェンリスは盆を受け取り、あおいのところへ運んだ。


「お待たせ」


「ありがとう。よい匂いじゃのう」


 あおいが顔を綻ばせる。


 フェンリスが戻ると、ユエが台のそばに立っていた。


「注文を書いたものは、どれなの?」


「これだけど」


 みゆが紙を見せる。


 ユエはその紙を眺め、まだ空いている台の端を指した。


「料理を渡した人に、印をつければいいでしょう。書いただけでは、どこまで終わったか分からないわ」


「あ、確かに」


 みゆは和真とピピ、ナディア、あおいの名前へ印をつけた。


 ユエは盆を置く場所へ目を向ける。


「それと、次に出すものまで同じところへ置くから、迷うのではなくて?」


 フェンリスも台を見た。


 小鉢、空の皿、ご飯の茶碗。


 置ける場所へ順番に置いていたせいで、誰の分を揃えているのか分かりにくくなっていた。


「じゃあ、ここは一人分だけにしようか」


 フェンリスが、台の手前を空ける。


「僕が運んだら、次の分を載せる」


「うん。そうしよう」


 みゆは注文の紙を、そのすぐ横へ移した。


「ありがとう、ユエ」


「見ていて紛らわしかっただけよ」


 ユエはそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。


 リディアが手元の紙へ何か書き込んでいる。


「今のことも書いてるの?」


 みゆが尋ねた。


「ええ。料理ができるまでより、揃えて渡すところで少し止まっていたので」


「作るのを待つだけだと思ってたけど、そうじゃないんだね」


「作り終えた皿を、温かいうちに渡すのも大事ですね」


「なら、これは早く持っていかないと」


 フェンリスは、ひかげの分が揃った盆を持ち上げた。


 今度は、どの茶碗を載せるか迷わなかった。


     ◇


「これ、美味しい!」


 ピピの声が、居間に響いた。


 最初の肉を食べたときにも聞いた言葉だったが、皿が半分ほどになっても、感想は変わっていないらしい。


「どのへんが美味しい?」


 みゆが尋ねる。


「お肉!」


「うん。それは知ってる」


「あと、これ!」


 ピピの視線を追うと、肉の隣の玉ねぎがあった。


「甘いやつ?」


「そう!」


「じゃあ、玉ねぎも好きなんだね」


「お肉の味がする!」


「結局、肉なんだ」


 みゆが笑うと、近くのひかげも口元を緩めた。


 あおいは小鉢の煮物を食べてから、酒菜へ声をかける。


「酒菜。この小鉢は、毎回つくのかえ?」


「そのつもりだ。中身は変えるかもしれねぇけどな」


「そうか。少しずつ違うものが食べられるのは、よいのう」


「量はどうだ?」


「わらわには、ちょうどよい」


 その隣で、ナディアが空いた茶碗を見下ろしていた。


「俺様は、もう少し飯が欲しいな」


「おかわり?」


 みゆが近づく。


「ああ。肉を食ってたら、先になくなった」


「分かった。少し待ってて」


 茶碗を受け取ったみゆが、台所へ戻ってくる。


「ご飯の量、結構違うね」


「それはそうだろ。みんな同じだけ食うわけじゃない」


 酒菜が答える。


「でも、全員に細かく聞いたら、覚えるの大変そう」


「少なめ、普通、多めくらいで分ければいいんじゃないか?」


 和真が言った。


「最初にみゆが聞いて、紙に書いておけば」


「それならできそう。フェンリスにも、すぐ伝えられるし」


 みゆがご飯をよそう。


 フェンリスはその手元を見てから、酒菜へ目を向けた。


「でも、僕が酒屋の日は、みゆが一人で運ぶんだよね」


「ああ」


「今のままだと、注文を聞いてる間は運べないよ」


 みゆも手を止めた。


 今はフェンリスがいるから、話している間に料理を届けられる。


 二人だけで始めたときには、同じようには動けない。


「今日は、僕が手伝いすぎた?」


「いや。そこが分かったなら、やった意味があるだろ」


 酒菜は、次の皿へ野菜を盛りつけた。


「忙しいときにどこまでできるか、今度は二人でも試せばいい。最初から客をいくらでも入れようなんて思ってねぇよ」


「そっか」


「席を増やすのは、ちゃんと回せるようになってからだ」


 みゆが頷いた。


「じゃあ、今度は僕が全部運んでみる。フェンリスは、お客さんになってよ」


「僕、待たされたら言うよ」


「ええ。和真より厳しい」


「練習なんだから、その方がいいだろ」


「……確かに」


 みゆは笑い、ナディアの茶碗を持っていった。


 フェンリスが空いた皿を取りに向かうと、和真はすでに食べ終えていた。


「ごちそうさま。美味しかった」


「量は?」


「ちょうどいいよ」


 フェンリスは頷き、空の小鉢を盆へ載せる。


 和真が皿を寄せながら、何気なく言った。


「二人でやると早いな」


「……でも、お店になったら、毎日は手伝えないから」


「ああ。だから、今日気づけてよかったんじゃないか」


 和真は台所の方を見た。


「みゆも酒菜も、やってみないと分からないことがあるだろうし。フェンリスが手伝ってくれて、助かってると思うよ」


 フェンリスは皿を重ねる手を止めた。


「和真は?」


「俺?」


「僕が手伝って、よかった?」


 尋ねてから、聞き方が少し変だったと思った。


 それでも和真は、困った顔をしなかった。


「ああ。ありがとう」


 まっすぐ返ってきた言葉に、フェンリスは小さく頷いた。


「……うん」


 空の食器しか載っていない盆が、さっきより持ちやすく感じた。


     ◇


 全員へ料理が渡ったあと、酒菜は自分たちの分を作った。


 リディアは計測を終え、少し遅れて食事を始める。みゆとフェンリスも台所の片付けをいったん止め、空いた席へ座った。


「食ってる間くらい、紙は置いとけ」


 酒菜が言う。


 みゆは献立と注文の紙を重ね、机の端へ寄せた。


「何か忘れそうなんだよね」


「忘れそうなことは、今、言っとけ」


「えっと……ピピのおかわり」


「忘れてない!」


 少し離れたところから声が返ってくる。


「ほら、本人が覚えてる。お前は先に食え」


「はーい」


 みゆが箸を持った。


 フェンリスも肉を一口食べる。


 たれの甘辛さが広がり、すぐにご飯が欲しくなった。


「……美味しい」


「うん。運んでるとき、ずっと食べたかった」


 みゆも頷いた。


 酒菜は二人を一度見てから、自分の食事へ取りかかった。


「あとで野菜炒めも残してある。少しずつ食ってみろ」


「煮物も、朝のより味が入ってる」


「置いてる間に染みるからな」


「じゃあ、先に作っておけるんだ」


「ああ。全部、注文が来てから作ってたら間に合わねぇだろ」


 食べ始めても、話は結局、料理のことになった。


 みゆは箸を動かしながら、客席に向けてどんな言い方をすれば料理が伝わるか考えている。


 ひかげが、控えめに口を挟んだ。


「……献立に、写真があったら分かりやすいかもしれません」


「写真?」


「名前だけやと、どれくらいの量か分からへんから……」


「あ、それいい。見てもらえば早いね」


「私も、商品の写真を用意する予定です。一緒に撮ってみましょうか」


 リディアが言った。


「お願いしたい。和真、美味しそうに撮れる?」


「俺に聞くのか?」


「だって、酒菜は作る方だし、僕は運ぶ方だし」


「撮る方が空いてるって?」


「そう」


 みゆがにっこり笑う。


 和真は苦笑しながら、自分のスマートフォンを出した。


「まあ、試すだけなら」


 フェンリスが食べかけの皿を少し隠す。


「僕のは、もう減ってるよ」


「新しく盛ったときに撮るよ」


「そっか」


「今の顔でも撮っとく?」


「それは駄目」


 フェンリスが即座に答えると、みゆが隣で笑った。


「僕は撮ってもいいよ」


「料理の写真の話だろ」


「ちゃんと料理も一緒に写るようにするって」


「お前が主役になるだろうが」


 酒菜の言葉に、今度は和真まで笑った。


 フェンリスは、みゆを横目で見た。


 みゆは箸を持ったまま、和真のスマートフォンへ顔を向けている。


 つられて自分もそちらを見ると、和真は画面を消して机へ置いた。


「ほら。まずは食べよう」


「ちぇ。撮ってくれないの?」


「食事が終わったらな」


「約束だよ」


 みゆはあっさり箸を動かし始めた。


 和真と写真を撮りたい。


 そう思ったら、みゆはそのまま言える。


 フェンリスは少し迷ってから、口を開いた。


「……そのときは、僕も」


 和真が顔を上げる。


「一緒に撮るか?」


「うん」


「じゃあ、あとで三人で撮ろう」


 みゆがすぐに言った。


 フェンリスは、思わずみゆの顔を見る。


 みゆはもう、煮物へ箸を伸ばしていた。


 その横顔をしばらく眺めてから、フェンリスも食事へ戻った。


     ◇


 試食を終えた机には、空の皿と、書き込みの増えた紙が残った。


 料理の味については、どちらの主菜も評判がよかった。


 ただ、ご飯の量は選べるようにしたい。


 注文の紙には、料理の種類だけでなく、誰の分か、運び終えたかも分かるようにする。


 みゆはリディアの記録を見せてもらいながら、自分の紙へ書き足していった。


「これ、次にやるときも使えるね」


「ええ。最初から全部うまくできなくても、少しずつ直せばいいと思います」


「酒菜は、何かある?」


「皿を置くところは、もう少し欲しい。出来上がった飯と、戻ってきた皿が同じ場所に来ると邪魔になる」


「さっき、僕が置いちゃったところだ」


 フェンリスが言う。


「場所を決めてなかったんだから、仕方ねぇよ。次から分ければいい」


 酒菜は、机の端へ置いた食器を寄せた。


「今日は、ずいぶん助かった」


 フェンリスが顔を上げる。


 酒菜はすでに立ち上がり、食器を運ぶ用意をしていた。


「みゆも、初めてにしちゃ動けてたぞ」


「本当?」


「ああ。ただ、話し始めると長い」


「楽しく食べてもらうのも、大事でしょ?」


「運ぶ飯がなけりゃな」


「……そこは気をつける」


 みゆが紙の下へ、もう一つ何か書き足した。


 フェンリスが覗くと、短く『料理が先』とあった。


「大きく書いたね」


「忘れないように」


 みゆは照れもせずに笑った。


 食器を台所へ運び終えたところで、和真がリディアへ声をかけた。


「そういえば、通販の方も、やることが増えてるって言ってたよな」


「ええ。作る物だけ考えていればいい、というわけにはいきませんね」


 リディアは試食会の記録を閉じた。


「問い合わせへの返事や、発送の準備もあります。修理の場合は、どんな状態か先に聞かないと、受けられるかも判断できませんから」


 和真は隣にいたユエを見る。


「ユエ。さっき、注文の紙のことを教えてくれただろ」


「見れば気づくことよ」


「それでも助かったよ。ああいう確認や整理を、リディアと一緒にやってみるのはどうだ?」


 ユエはすぐには答えなかった。


 リディアへ視線を移す。


「修理の知識はないわ」


「直す方は私が担当します。お願いするとしたら、依頼の内容を聞いて、まとめてもらうところですね」


「何を聞けばいいの?」


「まず、何が壊れたのか。いつから、どう動かなくなったのか。必要なことは、私がまとめておきます」


 ユエは椅子を引き、座り直した。


「聞いた内容を、そのままあなたへ渡すのね」


「はい。直せるかどうかや、いくらかかるかは、私が確認してから返事をします」


「その場で答えを求められたら?」


「確認してから連絡すると伝えてもらえれば大丈夫です」


 ユエが、わずかに顎を引いた。


 和真は二人の間を見ながら続ける。


「最初は俺も一緒に見るよ。パソコンの操作とか、分からないところもあるだろうし」


「使ったこともないものを、分かるとは言わないわ」


「うん。だから、そこから覚えればいい」


 ユエは少し黙ったあと、リディアの手元へ視線を落とした。


「注文を受けた品物も、同じように記録するの?」


「そうですね。何をいくつ、誰へ送るか。発送前に確かめる必要があります」


「修理で預かった物とは、分けた方がいいわね」


「ええ。そこも一緒に考えてもらえると助かります」


 リディアの言葉に、ユエは椅子の背へ軽く身体を預けた。


「……説明を聞いて、試すところまでは付き合うわ」


「ありがとう」


 和真が言うと、ユエはそちらへ顔を向けた。


「まだ、できると決まったわけではないでしょう」


「それでも。やってみてくれるんだろ?」


「教える途中で、面倒になったから放り出すなんてことはしないでちょうだい」


「しないよ」


 ユエは和真の顔を少し見てから、視線を外した。


「なら、いいわ」


 みゆが、書き終えた鉛筆を置く。


「ユエが受付してくれたら、リディアは作る方に集中できるね」


「そうですね。一人で途中まで進めて、そのたびに手を止めるより、ずっと助かります」


「私が代わりに答えられない質問まで、押しつけないでね」


「もちろんです」


 リディアは落ち着いて頷いた。


 ユエもそれ以上は言わなかった。


 仕事が決まった、と大げさに喜ぶ様子はない。


 けれど、リディアがあとで画面を見せると言うと、ユエは聞き流さず、何を用意するのか確かめていた。


     ◇


「それじゃ、次は俺様の番だな」


 ナディアが言った。


 和真が頷く。


「何か気になったものはあるか?」


「さっきのゲームだ」


 ナディアの視線が、棚へ向く。


 ひかげは少し驚いた様子で顔を上げた。


「やってみますか……?」


「ああ。話を聞くだけより、触った方が早いだろ」


 まだ残っていた食器を片付け、机の上を空ける。


 ひかげが準備を始めると、ピピがその後ろへ寄っていった。


「何するの?」


「ゲーム。……見る?」


「見る!」


 和真が空いた場所へ座り、フェンリスもその近くへ腰を下ろした。


 みゆは台所から戻ってくると、二人の間の狭い隙間を見た。


「そこ、入れる?」


「狭いだろ」


 フェンリスが答える。


「少しだけ詰めて」


 いつもなら、そのまま押し合いになっていたかもしれない。


 フェンリスは一度だけ和真の方を見てから、座布団を少しずらした。


 和真から離れるのは、やはり少し惜しかった。


 みゆが座ると、肩が触れるくらい近くなる。


「ありがと」


「……肘、ぶつけないでよ」


「フェンリスもね」


 二人が座り直したところで、画面に二人の人物が映った。


 ひかげが選んだのは、対戦する格闘ゲームだった。


「最初は、技を出すより……歩いたり、止まったりするところからで」


 ナディアへコントローラーを渡し、自分も一つ持つ。


「こっちで、左右に動きます。上やと跳んで、下でしゃがんで……」


「なるほど」


 ナディアが指を動かす。


 画面の人物が前へ進み、そのまま跳び上がった。


「……今のは?」


「斜め上に入ったからです」


「こいつ、思ったよりよく跳ぶな」


 ナディアは笑い、今度は慎重に押した。


 人物が少し進み、止まる。


 もう一度進み、後ろへ下がる。


 ひかげは急かさず、その動きを見ていた。


「攻撃は、こっちのボタンです」


「これか」


 人物が拳を突き出す。


 もう一つ押すと、今度は足が上がった。


 ナディアが画面を見つめる。


「押してから、出るまで少し違うな」


「技によって、速さが違うんです」


「外したら隙ができる、と」


「……はい。そこは、普通の戦いと似てるかもしれません」


 ひかげの声が少しはっきりした。


 ナディアは何度か攻撃を試し、隣を見る。


「一度、相手をしてくれるか?」


「え……もう、ですか?」


「動かしてるだけじゃ、どこで困るか分からないだろ。負けたら考える」


 ひかげは和真をちらりと見た。


 和真が頷くと、少し姿勢を正し、対戦を始める。


 開始の合図と同時に、ナディアの人物が前へ出た。


 ひかげの人物は、その場で待っている。


 ナディアが攻撃を出した。


 届かなかった。


 伸ばした腕が戻る前に、ひかげの人物が一歩踏み込み、短い攻撃を当てる。


「……ああ、そういうことか」


 ナディアは画面を見たまま呟いた。


 もう一度近づき、今度は少し待つ。


 ひかげが動いたところへ、拳を出そうとする。


 けれど、画面の人物はしゃがんだまま、違う攻撃を出した。


「今のは、そっちじゃないんだがな」


「左の指、下に入ってます……」


「そうか」


 修正している間に、もう一度攻撃を受けた。


 みゆが、隣のフェンリスへ顔を寄せる。


「見てると、簡単そうなのにね」


「見てるだけならね」


 フェンリスはナディアの手元を見た。


 相手の動きを追う目は真剣だった。


 それに比べて、指はまだ少しぎこちない。


 やがて画面の体力がなくなり、ナディアの人物が倒れた。


 ひかげがコントローラーを少し下げる。


「あの……」


「なるほどな」


 ナディアは、倒れた人物と自分の手元を順に見た。


「何をしたいか分かってても、指が違うことをする」


「慣れるまでは、そうなると思います」


「ひかげは、そのあたりを考えずに動かせるわけだ」


「よく使うものなら……」


「大したもんだ。じゃあ、次は防ぐ方を教えてくれ」


 ひかげが少し目を丸くした。


 前髪に隠れて表情は見えにくかったが、肩から力が抜けたのは分かった。


「はい。それやったら、まず……」


 説明が、さっきより滑らかになる。


 ナディアも口を挟まずに聞き、教わった動きを一つずつ試した。


 みゆが和真へ顔を向ける。


「これ、ひかげの配信で一緒にやったら面白そうじゃない?」


 ひかげの手が止まった。


「配信……?」


「うん。初めてのナディアに、ひかげが教えるの。今みたいに」


 ナディアが振り向いた。


「それを、人が見るのか?」


「ああ。ひかげがゲームをして、話してるところを見てもらうんだ」


 和真が答える。


「上手い人の戦いだけじゃなくて、覚えていくところを見るのが好きな人もいるから」


「負けてるところも?」


「もちろん」


 ナディアは少し考えた。


 それから、ひかげへ視線を戻す。


「お前は、どう思う?」


「……わたしは、一緒にやってもらえるなら。話すことも、増えると思いますし」


「なら、試してみるか」


 返事は落ち着いていた。


 ひかげが、慌てて言葉を足す。


「ただ、今日すぐ配信するんやなくて……先に、映し方とか、声とか、確認してからで」


「分かってる。まだ、この道具も使いこなせてないからな」


 ナディアはコントローラーを持ち直した。


 和真も口を開く。


「仕事にするなら、続けられそうかも見てからだな。配信を始めたら、すぐお金になるってわけでもないし」


「そこまで都合がいいとは思ってないぜ」


 ナディアは画面へ目を戻した。


「まずは、俺様が楽しめるかだろ」


「どうなんだ?」


「今のところは、面白い」


 口元に、小さな笑みが浮かぶ。


「何も壊さずに、何度でもやり直せる。負けた理由を確かめるには、悪くないな」


 ひかげが静かに頷いた。


「……さっきのところ、もう一度やってみましょうか」


「ああ。頼む」


 二人の人物が、再び画面の中で向き合った。


 フェンリスの隣で、みゆが少し身を乗り出す。


「今度は一回、防げるかな」


「ひかげの説明、ちゃんと聞いてたから大丈夫じゃない?」


「フェンリス、ナディアの応援?」


「今は練習だろ」


 みゆが笑う。


 画面の中で、ひかげの人物が腕を振った。


 ナディアの人物は後ろへ下がり、その攻撃を受け止めた。


「防いだ!」


 ピピが声を上げる。


 ナディアは笑ったが、すぐに指を動かした。


 反撃しようとして、今度はまた違う技が出る。


「……こっちは、まだか」


「一個ずつで大丈夫です」


「そうだな。もう一度だ」


 ひかげが頷き、二人は同じ動きを繰り返した。


 フェンリスは、肩に触れる小さな重みを感じた。


 みゆが画面を見ながら、少しこちらへ寄りかかっている。


「重い」


「ちょっとだけ」


「和真の方に寄ればいいじゃないか」


 言ってから、フェンリスは自分の言葉に戸惑った。


 みゆは顔を向け、特に驚いた様子もなく笑った。


「今、フェンリスに寄りかかってるんだけど」


「……それは分かってる」


「じゃあ、もう少しだけ」


 みゆの視線は、また画面へ戻った。


 フェンリスは何か言いかけて、やめた。


 和真は二人のすぐそばで、ナディアへボタンの位置を教えている。


 フェンリスも足を崩し、肩の力を少し抜いた。


 画面から、また試合開始の声が聞こえた。


次の試合では、ナディアの動きが少し変わった。


 相手へ一直線に近づくことをやめ、攻撃の届かないところで一度止まる。


 ひかげの人物が踏み込んでくると、後ろへ下がって受け止めた。


「そこから、小さい方の攻撃で……」


「これだな」


 短く突き出した拳が、相手に当たる。


 大きな技ではなかった。減った体力もわずかだったが、ナディアは満足そうに口元を上げた。


「今のは、思ったとおりに動いた」


「はい。今の間なら、間に合います」


「欲張ると、さっきみたいになるわけか」


 その言葉を確かめるように、次は大きく足を振り上げる。


 攻撃が届くより先に、ひかげの人物の拳が入った。


「ああ、なるほど」


「分かっててやったん?」


 みゆが尋ねかけ、すぐに首を傾げた。


「……ひかげにつられた。分かっててやったの?」


 ひかげが小さく笑う。


 ナディアは画面から目を離さずに答えた。


「一度、確かめたかっただけだ。言われたことは分かったが、どのくらい違うかは見た方が覚えやすい」


「……それなら、技を一つずつ試せるところもありますよ」


「そんなものまであるのか」


「相手の動きも決められるから、練習しやすいです」


「なら、あとでそっちも教えてくれ」


 ひかげが頷く。


 結局、その試合もナディアが負けた。


 けれど、最初のように何もできないまま終わったわけではなかった。防いでから一度返し、下がって空振りさせることも、何度かできていた。


 画面に結果が表示されると、ナディアは自分の指を軽く開いた。


「面白いな。まだ、できてないことが分かる」


「疲れへんかったですか?」


「少し、変なところに力が入ってたみたいだ」


 ナディアは笑い、コントローラーを机へ置いた。


「ひかげ。配信の話、進めようぜ」


 ひかげが顔を上げる。


「俺様はこれを覚えたい。お前と話しながらなら、続けられそうだ」


「……はい」


「ただ、配信の方は任せることになる。そっちのやり方も、少しずつ教えてくれ」


「それは、大丈夫です。最初は短い時間で、一緒にやってみましょう」


 ひかげの声には、さっきまでのためらいが薄れていた。


 和真が二人の顔を見比べる。


「じゃあ、まずは二人でゲームをする配信を準備するってことでいいな」


「ああ」


「はい。先に録画して、見直してみます」


「練習の様子を?」


「そうです。声が聞こえるかとか、話してることが伝わるかとか……自分でも、見ておきたいので」


「なら、それも一緒に見よう。俺様だけ分かってても、見てる奴に伝わらなきゃ仕方ないだろ」


 ひかげが、もう一度頷いた。


 みゆはフェンリスの肩から身体を起こした。


「ナディアが教わるところから見られるの、いいと思うよ。あとから上手になったら、最初はこんなだったんだって話せるし」


「お前、俺様が負けてるところを残したいだけじゃないだろうな」


「今のは、応援してたんだけど?」


「分かってるさ」


 ナディアは余裕のある笑みを返した。


「そのうち、ひかげにも一勝してやる」


 ひかげはコントローラーへ目を落とし、それから小さく言った。


「……わたしも、そう簡単には負けませんよ」


 その返事に、ナディアの笑みが深くなる。


「ああ。その方がいい」


     ◇


 ゲームを終えると、ひかげは片付けを始めた。


 ピピは画面が消えたことを残念そうに見ていたが、あおいにお茶へ誘われると、すぐにそちらへ移っていく。


 リディアは部屋からノートパソコンを持って戻り、空いた机へ置いた。


「ユエ。少し、こちらを見てもらえますか」


 ユエが席を移る。


 和真も隣へ座り、画面が開くのを待った。


 フェンリスは、みゆと一緒に残っていた座布団を片付けながら、その様子を眺めた。


 リディアが見せたのは、注文を書き込むための表だった。


 名前や品物、個数を書く場所が、横に並んでいる。


「まだ準備中ですが、こうして一つずつ残していくつもりです」


「書いたものは、あとから直せるの?」


「はい。消してしまわなければ、何度でも」


「どこへ触ればいいのかしら」


 和真が画面の下を指した。


「ここで、矢印を動かせるよ」


 ユエが指を滑らせる。


 矢印は思ったより遠くへ動き、書き込みたい場所を通り過ぎた。


「……よく動くのね」


「最初は少しだけでいい」


「それは今、分かったわ」


 ユエは指を置き直し、ゆっくり動かした。


 今度は目的の場所で止まる。


「そこで、一回押す」


 和真に言われたとおりにすると、文字を入れる場所へ印が現れた。


 ユエはしばらく画面を見てから、キーボードへ視線を下ろした。


「文字は、ここから選ぶのね」


「ああ。一度に覚えなくても大丈夫だから」


「まだ何も言っていないでしょう」


「……そうだな」


 和真が苦笑する。


 ユエは指先でキーの並びを確かめながら、一つずつ説明を聞いていた。


 隣を通ったみゆが、フェンリスへ小声で言う。


「ユエ、真面目だね」


「聞こえているわ」


 即座に返事が来た。


 みゆは悪びれずに笑う。


「褒めてるよ」


「なら、そこで笑っていないで、何か注文してみなさい」


「え。僕?」


「練習するのでしょう?」


 リディアが顔を上げた。


「それはいいですね。実際の注文ではなく、練習用として入れてみましょう」


「じゃあ……リディアの作ったものを二つください」


「何を二つなの?」


「あ、そこからか」


 みゆが笑い、リディアに示された品物を選ぶ。


 ユエは名前を聞き直し、数を確かめ、ゆっくりと打ち込んだ。


 短い文字を入れるだけでも、何度か指が止まる。


 隣から手を出そうとした和真は、ユエが次のキーを見つけると、そのまま待った。


「これでいい?」


「うん。合ってる」


 ユエは画面を確かめ、次の欄へ指を動かす。


「送ったかどうかも、ここで分けるのね」


「ええ。包み終えただけなのか、発送まで済んだのかも分かるようにしたいです」


 リディアが答える。


「では、品物を包むところも見せてちょうだい。何を確かめるのか、そちらも知らないと困るわ」


「分かりました。壊れやすいものと、そうでないものでは包み方も変わりますから」


 ユエは頷き、椅子へ座り直した。


「注文の確認と、発送の準備。それから、修理を頼みたい相手の話を聞くところ。私が受け持つのは、そのあたりね」


「はい。難しい問い合わせや修理の判断は、私へ回してください」


「返事を待たせるなら、どのくらいで答えられるかは教えておいて。何も分からず待たせるのは面倒だわ」


「そこは、きちんと伝えます」


 リディアが答えると、ユエは少し考えてから言った。


「なら、やってみるわ」


 和真が隣で頷く。


「よろしくな」


「まずは、これを使えるようになるところからでしょう」


 ユエは画面を指した。


「続きを教えてちょうだい」


「ああ」


 和真が説明を再開する。


 ユエはもう、周りの会話へ顔を向けなかった。


 フェンリスは片付け終えた座布団を見下ろす。


 朝にはまだ決まっていなかった二人の仕事が、昼を過ぎた今は、練習するところまで進んでいた。


 ナディアはひかげの隣で配信の話を聞き、ユエはリディアと和真に教わっている。


 その様子を見ていると、みゆが袖を引いた。


「フェンリス。ちょっと手伝って」


「何?」


「机、戻したいんだ。これ、台所に置いたままだと、夕飯のとき邪魔になるって」


 料理を受け渡すために置いた、小さな折り畳み机だった。


 フェンリスはすぐに立ち上がった。


「いいよ。どこへ持っていく?」


「元の物置。足、畳んでからにしよう」


 二人で机を横にし、脚を折り畳む。


 フェンリスが一人で持とうとすると、みゆが反対側へ手をかけた。


「僕も持つ」


「これくらい、一人で大丈夫だよ」


「入口でぶつけそうだから。そっち見てて」


「……うん」


 みゆが後ろ向きに歩き、フェンリスが前から支える。


 廊下の角を曲がるときには、自然と同じところで足が止まった。


「そっち、少し上げて」


「これくらい?」


「うん。通れる」


 台所で盆を運んでいたときと同じように、短い言葉で動けた。


     ◇


 机を物置へ戻したあと、二人は母屋の脇へ回った。


 昼に使って洗った布巾が、日当たりのよい場所に干されている。


 みゆが一枚に触れた。


「もう乾いてる」


「取り込む?」


「うん。酒菜に持っていこう」


 みゆが外し、フェンリスが受け取る。


 一枚ずつ畳んで重ねていると、母屋からピピの笑い声が聞こえてきた。


 そのあとに、何かをなだめるあおいの声が続く。


 中で何をしているのかは分からなかったが、困った騒ぎではなさそうだった。


「今日、楽しかったね」


 みゆが言った。


 フェンリスは布巾の端を合わせながら頷く。


「うん」


「思ったより、やること多かったけど」


「みゆ、何回も台所に戻ってたもんね」


「そうなんだよ。ご飯の量聞いて、注文伝えて、今度はお茶って」


「お茶は、先に置いておけばよかったね」


「あ。それ、あとで書いておこう」


 みゆが最後の一枚を外す。


 フェンリスは受け取ろうとして、みゆと目が合った。


「何?」


「今日は、ずいぶん見てくるなと思って」


 フェンリスの手が止まる。


「……そう?」


「うん。朝から」


「別に、そんなつもりじゃ」


 言いかけて、やめた。


 そんなつもりではなかったと言うのは、さすがに無理があった。


 みゆが和真へ近づくたびに、目で追っていた。


 隣に座るときも、話しかけるときも。


 それを全部気づかれていたのだとしたら、少し恥ずかしい。


 フェンリスは布巾を受け取り、畳み始めた。


「……昨日の話が、気になってた」


 みゆは何も言わず、物干しの留め具を寄せた。


 すぐにからかわれると思っていたフェンリスは、かえって続きに迷った。


「僕、みゆが和真のこと好きなのは、知ってたけど」


「うん」


「でも、あんなふうに考えてるとは思ってなかったから」


 みゆが母屋へ目を向ける。


 少しだけ静かな顔になった。


「そうだね。あんまり話したことなかったし」


「……本当に、平気なの?」


 口にしてから、何を指しているのか分からない聞き方だと思った。


 みゆも、少し首を傾げた。


「何が?」


「和真が、ほかの誰かと仲よくしてても」


 風が吹き、みゆの髪が頬へかかった。


 指でそれを払ってから、みゆは答えた。


「和真が誰かと楽しそうにしてるのは、嫌じゃないよ」


「僕は、気になる」


「うん」


「……うん、って」


「だって、知ってるし」


 みゆが笑う。


 馬鹿にしているような笑い方ではなかった。


「フェンリス、すぐ隣に行くじゃん」


「みゆだって行くだろ」


「行くよ。僕もそばにいたいもん」


 当たり前のように返され、フェンリスは言葉に詰まった。


 みゆは物干しから手を離し、フェンリスの持つ布巾へ目を落とす。


「でも、僕がいない方がいいって言われたら、たぶん、すごく嫌だよ」


 フェンリスが顔を上げた。


 みゆは、母屋の窓を見ていた。


「和真に話しかけたいときに、話しかけちゃ駄目とか。隣に座っちゃ駄目とか。そういうのは、嫌だな」


「……そんなこと、言ってない」


「うん。フェンリスが言ったって話じゃないよ」


 みゆはすぐにこちらを見た。


「平気なのかって聞かれたから。全部、何でも平気なわけじゃないってこと」


 フェンリスは、畳み終えた布巾を握り直した。


 みゆは何も気にしないのだと思いかけていた。


 和真が誰と話していても、最後には笑って混ざれるのだと。


 けれど、そこから外されても平気だとは、一度も言っていなかった。


「僕は……」


 フェンリスは視線を落とす。


「和真に、一番に見てほしい」


 みゆは頷いた。


「うん」


「何かあったときも、僕を呼んでほしいし。隣にいるのも、僕がいいって思う」


 言葉にすると、思っていたより欲張りに聞こえた。


 フェンリスは唇を結び、それから小さく付け加える。


「今日だって、何回もそう思った」


「知ってる。最初のご飯、運びたかったでしょ」


「……分かってたの?」


「盆持って、ずっと待ってたじゃん」


 フェンリスは顔が熱くなった。


「だったら、何で何も言わないんだよ」


「運びたかったなら、運べばいいと思ったから」


「みゆがやってもよかっただろ」


「僕は、そのあと注文聞いてたし」


 みゆは軽く肩をすくめた。


「和真、喜んでた?」


「……うん」


「じゃあ、よかったじゃん」


 その返事に、フェンリスはすぐには頷けなかった。


 みゆと同じように考えられるわけではない。


 自分だったら、少し羨ましくなっていたと思う。


 だからといって、みゆに遠慮してもらえば気が済むのかと考えると、それも違った。


 朝、みゆが黙って和真のそばを離れていたら。


 自分に気を遣って、笑うのをやめていたら。


 きっと、今よりずっと困っていた。


「……僕、急には変われないよ」


 みゆが瞬きをした。


「何が?」


「みゆが和真にくっついてたら、気になるし。僕もって言うと思う」


「言えばいいじゃん」


「簡単に言うなよ」


「だって、僕も言うし」


 みゆは笑った。


「フェンリスが先に隣にいても、僕も座りたいって言うよ」


「狭かったら?」


「詰めてもらう」


「さっきと同じじゃないか」


「うん」


 あまりにも迷いのない返事に、フェンリスは小さく息を漏らした。


 笑ってしまうと、胸のあたりにあった力が少し抜けた。


「……みゆって、ずるい」


「そう?」


「そうだよ」


「じゃあ、今度のお客さん役、ちょっと甘くしてよ」


「それは別」


「厳しいなあ」


 二人の間に、いつもの調子が戻った。


 みゆがフェンリスの腕から、畳んだ布巾を半分取る。


「また、手伝ってくれる?」


「酒屋が休みなら」


「本当?」


「うん。でも、毎回は無理だよ」


「分かってる。遊ぶ時間もなくなっちゃうしね」


 みゆは布巾の端を揃え、腕に抱えた。


「今日、一緒にやれて楽しかった」


 フェンリスは、みゆを見た。


 和真の話をしているときと同じくらい、自然な言い方だった。


「……僕も」


「うん」


 みゆが笑う。


 フェンリスはその笑顔を見て、朝からずっと気にしていた相手が、昨日までと同じ友達でもあることを、ようやく落ち着いて思えた。


     ◇


「二人とも、そこにいたのか」


 母屋の方から、和真が顔を出した。


 フェンリスは反射的に背筋を伸ばした。


「何?」


「いや、姿が見えなくなったから。片付け、終わったか?」


「うん。布巾も取り込んだ」


 みゆが持ち上げて見せる。


「ありがとう。お茶、入ってるぞ」


「行く」


 フェンリスが足を踏み出すと、後ろで小さく声がした。


「あ、待って。落とした」


 振り返ると、みゆが布巾を一枚拾っていた。


 そのまま和真のところへ行けば、先に隣へ座れるかもしれない。


 そんなことが、ほんの少し頭をよぎる。


 フェンリスは足を止めた。


「みゆ、早く」


「今、行くって」


「それ、落とした分は分けといた方がいいよ」


「うん。洗い直してくる」


 みゆが追いつく。


 二人で母屋へ戻ると、和真は入口を広く開けて待っていた。


「何の話してたんだ?」


 靴を脱ぎながら、みゆが答える。


「次の試食会。フェンリス、お客さん役もしてくれるって」


「そうなのか」


「僕、待たされたらちゃんと言うからね」


「俺より厳しそうだな」


「和真は、たぶん待ってるだけだもん」


「そんなことないだろ」


「じゃあ、みゆが話しかけたら?」


「……話くらいはするけど」


「ほら」


 みゆが笑い、和真もつられて笑った。


 フェンリスはその二人の横を抜け、布巾を台所へ持っていった。


 酒菜が受け取り、棚へ置く。


「助かった。みゆは?」


「一枚落としたから、洗い直すって」


「ああ。そこへ置いとけって言っといてくれ。俺があとでまとめて洗う」


「分かった」


「二人とも、少し休め。朝から動いてただろ」


 フェンリスは頷いた。


 居間へ戻ると、みゆが和真のそばで何かを思い出したように声を上げた。


「そうだ。写真」


「写真?」


「あとで三人で撮るって言ったじゃん」


「ああ、そうだったな」


 和真がスマートフォンを取り出す。


 フェンリスは足を止めた。


 みゆがこちらへ手を振る。


「フェンリスも。こっち」


「……今、撮るの?」


「今じゃ駄目?」


「駄目じゃないけど」


 髪へ触れながら近づくと、みゆが和真の隣を少し空けた。


 フェンリスはそこへ座る。


 和真を真ん中にして、三人が並んだ。


「俺が持つと、ちょっと近いな」


 和真が腕を伸ばし、画面を確かめる。


「誰かに撮ってもらう?」


 みゆが見回すと、あおいが顔を上げた。


「わらわでよければ、撮るぞ」


「お願い」


 和真が操作する場所を見せ、スマートフォンを渡した。


 あおいは両手で持ち、画面と三人を見比べる。


「もう少し、寄った方がよいのう」


 みゆが、すぐに和真へ肩を寄せた。


 フェンリスも反対側から近づく。


「これくらい?」


「うむ。よいぞ」


 和真の腕が触れた。


 フェンリスが少し姿勢を正すと、反対側のみゆが、和真の背中越しに顔を覗かせた。


「フェンリス、顔かたいよ」


「みゆこそ、そっち見てたら撮れないだろ」


「あ、そうだった」


「動くでない。今、撮るからの」


 あおいの声で、三人が前を向く。


 小さな音が鳴った。


「……どうじゃ?」


 見せてもらった画面には、少し困った顔の和真と、その両側で寄り添う二人が写っていた。


 みゆは笑っている。


 フェンリスは、笑おうとした途中のような顔だった。


「僕、変じゃない?」


「変じゃないよ」


 和真が答える。


「でも、もう一枚撮るか?」


「うん」


「次、和真もちゃんと笑ってね」


「笑ってるつもりなんだけどな」


「ちょっと困ってる」


「二人とも近いんだよ」


「写真なんだから、いいじゃん」


 みゆが言い、フェンリスも和真の袖を軽くつかんだ。


「このままでいい」


 和真がこちらを見る。


 フェンリスは視線を逸らさなかった。


 やがて和真が、小さく笑う。


「分かったよ」


「今度こそ撮るぞ」


 あおいが声をかけた。


 フェンリスは前を向いた。


 みゆが反対側で動き、和真が少し肩を引く。


 狭くて、落ち着かない。


 それでも今度は、笑おうと意識しなくても口元が緩んだ。


     ◇


 撮った写真を送ってもらうと、みゆはしばらく画面を眺めていた。


「二枚とも欲しい」


「今、送ったよ」


「ありがとう」


 フェンリスのスマートフォンにも、同じ写真が届く。


 一枚目と二枚目を順に開き、もう一度、二枚目へ戻した。


 和真が笑っている。


 その隣に、自分がいる。


 反対側には、みゆがいた。


「フェンリスは、どっちが好き?」


 肩越しに覗き込まれる。


「……二枚目」


「僕、一枚目も好きだな」


「和真、困ってるよ」


「それも和真っぽいじゃん」


 フェンリスは一枚目へ戻してみた。


 確かに、よく見る顔だった。


 みゆや自分に引っ張られて、少し困りながら、それでも離れずにいてくれるときの顔。


「……消さないけど」


「うん。僕も」


 みゆが隣へ座った。


 机の向こうでは、リディアがユエへ小さな箱を見せていた。中へ何を詰めれば品物が動かないか、二人で確かめている。


 ひかげとナディアは、次に練習する時間を相談していた。


 あおいがお茶を配り、ピピは酒菜へ夕飯の献立を尋ねている。


「さっき昼を食ったばかりだろ」


「でも、夜も食べる!」


「そりゃ食べるけどな。今から待ってたら長いぞ」


「じゃあ、何する?」


「俺に聞くな。少し外でも見てこい」


 呆れた声のあと、酒菜はピピの前のお茶が熱すぎないか確かめた。


 和真が空いたところへ湯呑みを置き、フェンリスたちを見る。


「二人とも、お疲れさま」


 みゆが顔を上げた。


「和真もね。机、いっぱい動かしてくれたし」


「それくらいなら、いつでもやるよ」


「じゃあ、お店が始まったら、また頼むね」


「ああ」


 フェンリスはスマートフォンを伏せ、湯呑みを持った。


 今日一日で、みゆの気持ちを全部分かったわけではない。


 同じように思えるわけでもなかった。


 和真の隣にいたいし、ほかの誰かへ向ける笑顔が気になることも、きっとこれから先もある。


「ねえ、和真」


 みゆが呼ぶ。


「今度は、二人でも撮ろうよ」


 フェンリスは湯呑みを置いた。


「僕も」


 思ったより早く、声が出た。


 みゆがこちらを見て笑う。


「うん。フェンリスも」


「……みゆが決めることじゃないだろ」


「二人とも、俺にも聞いてくれ」


 和真が言う。


 フェンリスとみゆは顔を見合わせた。


 それから、ほとんど同時に和真を向いた。


「駄目?」


 声が重なる。


 和真は一瞬黙り、やがて肩を落として笑った。


「駄目じゃないよ。順番にな」


 みゆが嬉しそうにスマートフォンを持ち上げる。


 フェンリスはその隣で、もう一度だけ髪を整えた。


 今日は先を争わず、みゆが撮り終わるのを待つことにした。


 自分の番になったら、今度はさっきより、もう少しだけ近くへ座ろうと思った。

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