第二十六話 にぎやかな食卓と、それぞれの一歩
翌朝、フェンリスが母屋へ入ると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。
食器の触れ合う音に交じって、みゆの声が聞こえる。
「和真、それ僕の分?」
「いや、これは俺の」
「じゃあ、そっちの大きいのが僕?」
「そっちはフェンリス」
「へえ。ちゃんと分けてるんだ」
「いつも足りないって言うからな」
フェンリスは、廊下の途中で足を止めた。
台所の入口から覗くと、和真がご飯をよそっていた。みゆはその隣で盆を持ち、並べられた茶碗を眺めている。
いつもと変わらない光景だった。
みゆが何か言い、和真が答える。たいした用事がなくても、みゆは和真の近くへ行く。からかったり、手伝ったり、ときにはその両方だったりする。
今までは、それを見ると自分も隣へ行きたくなった。
今日も行きたい。
それなのに、一歩目がすぐには出なかった。
昨夜のみゆの言葉が、まだ耳に残っていた。
そばにいて、ふざけて、触れて、甘えたい。
そんな望みの先に、和真との子供の話まで、ごく自然につながっていた。
思い出した途端、フェンリスは口元を引き結ぶ。
そこだけは、朝になってもまだ落ち着いて考えられない。
「フェンリス?」
顔を上げると、みゆがこちらを見ていた。
「おはよう。何してるの?」
「……何でもない。おはよう」
「ちょうどよかった。これ、持っていってくれる?」
差し出された盆には、焼き魚の皿が三枚載っていた。
フェンリスが受け取ると、みゆは空いた手で別の盆を取る。
「今日はお腹空いてる?」
「空いてるけど」
「よかった。和真が、フェンリスの分だけ山にしてたから」
「山にはしてないだろ」
和真が振り返る。
その手元にある茶碗を見て、フェンリスは少しだけ頬を緩めた。
「僕、これくらい食べるよ」
「ほらな」
「僕だって食べられるのに」
「足りなければ、おかわりすればいいだろ」
「うん。じゃあ、そうする」
みゆは笑い、和真の肩に軽く自分の肩を寄せた。
ほんの一瞬だった。
そのまま盆を持って台所を出ていく。和真も特に気にせず、次の茶碗へしゃもじを伸ばしていた。
フェンリスはみゆの後ろ姿を見送ったあと、和真の隣へ進んだ。
「和真」
「ん?」
「僕の、もう少し入れて」
和真は茶碗とフェンリスの顔を見比べた。
「……本当に食べられるか?」
「食べられる」
「昼もあるんだから、無理するなよ」
そう言いながら、ご飯を少し足してくれる。
自分のために動くしゃもじを見て、フェンリスは満足しかけた。
けれど、出来上がった茶碗は思った以上に大きな山になっていた。
「お前ら、入口で止まるな。運ぶならさっさと運べ」
酒菜の声が飛んできた。
「汁が冷めるだろ」
「今、行く」
フェンリスは盆を持ち直し、居間へ向かった。
後ろで和真が、小さく笑った気がした。
◇
食卓では、あおいがお茶を注いでいた。
「フェンリス、そこへ置いてくれぬか。こちらは、もう空けてある」
「うん」
皿を並べていると、みゆが箸を配りながら近づいてきた。
「フェンリスはこっちね」
示されたのは、和真が座ろうとしている場所の隣だった。
フェンリスは思わず、みゆを見た。
「どうしたの?」
「……みゆは?」
「僕? こっち」
みゆは和真を挟んだ反対側に、自分の箸を置いた。
あまりにもあっさりしていて、フェンリスは返す言葉をなくす。
「そこ、嫌だった?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、決まり」
みゆは座布団を引き寄せ、その場へ座った。
フェンリスも腰を下ろす。
和真が二人の間へ茶碗を置き、自分も座ったところで、向かいから小さな声がした。
「……フェンリス、それ、朝から食べるん?」
ひかげが、ご飯の山を見ていた。
「食べるよ」
「そ、そう……」
「ひかげも増やしてもらう?」
「わたしは、今のでええ……」
自分の茶碗をそっと引き寄せるひかげの横で、ピピが身を乗り出した。
「僕も多いの!」
「先にそこにある分を食え」
汁椀を運んできた酒菜が、短く言った。
「食べたら?」
「まだ欲しけりゃ、よそってやる」
「うん!」
ピピはすぐに姿勢を戻した。
リディアが最後の皿を置き、ナディアとユエも席につく。
「それじゃ、いただきます」
和真の声に続いて、食卓のあちこちから声が重なった。
箸が動き始めると、すぐにいつもの賑やかさが戻ってきた。
ピピが魚を見つめ、酒菜に骨の場所を確かめる。あおいが漬物の皿をひかげへ回し、リディアは湯気の立つ味噌汁へ静かに口をつけた。
ナディアは焼き魚を一口食べてから、酒菜を見た。
「これ、塩だけか?」
「ああ」
「へえ。昨日の飯とは、ずいぶん違うな」
「毎回、同じ味にする必要もねぇだろ」
「そりゃそうだ。これも悪くない」
ナディアはもう一口食べた。
褒められた酒菜は何も言わず、自分の茶碗を取る。ただ、皿を空けたナディアが骨を脇へ寄せる様子には、ちらりと目を向けていた。
「和真、醤油取って」
「ほら」
「ありがと」
みゆが手を伸ばす。
受け渡しの際、指が触れた。
みゆは気にした様子もなく、小皿へ醤油を落としている。
フェンリスは、箸を止めていたことに気づいて、ご飯を口へ運んだ。
昨夜の話を聞かなければ、見過ごしていたと思う。
みゆは大きなことを求めているわけではないように話していた。けれど、今、目の前で交わされている一つ一つを、ずっと続けたいのだ。
醤油を渡してもらうことまで、その中に入るのだろうか。
「フェンリス」
「……え?」
「やっぱり多かったか?」
和真が茶碗を見ていた。
「違う。ちゃんと食べてる」
「ならいいけど。眠そうだから」
「眠くないよ」
そう答えると、和真はフェンリスの顔をもう一度見た。
「昨日、あんまり寝てないんじゃないか?」
フェンリスの肩が、わずかに揺れた。
反対側では、みゆが味噌汁を飲んでいる。
「……少し、考え事してただけ」
「そっか」
和真はそれ以上聞かなかった。
「今日は酒屋、休みだろ。眠くなったら、あとで少し寝たらいい」
「うん」
心配してくれたことが嬉しかった。
それで気持ちが上向いた自分に、フェンリスは少し困る。
みゆの気持ちを知っても、自分が和真に見てほしいことは変わらなかった。
「そうだ。みんなに話がある」
酒菜が箸を置いた。
フェンリスは顔を上げた。
「屋台で出す飯、一度みんなに食わせてみようと思ってる」
「試食会か?」
和真が尋ねる。
「ああ。うまいかどうかだけじゃねぇ。量と、出すまでの時間も見ておきたい」
「僕も、お客さんから注文を聞く練習したいんだよね」
みゆが続けた。
「いつものご飯なら、作った分をみんなで食べるでしょ? でも、お店だと違うものを頼む人もいるし」
「全員分を一度に並べて終わり、とはいきませんからね」
リディアが頷いた。
「そういうことだ。今日の昼、付き合える奴は付き合ってくれ」
「僕、食べる!」
真っ先に声を上げたのはピピだった。
「まだ何を作るとも言ってねぇぞ」
「お肉?」
「肉も使う」
「食べる!」
「……そこは聞いてるんだな」
酒菜は息をついた。
和真が笑いながら頷く。
「俺も大丈夫だ。準備は何をすればいい?」
「あとで机を動かしてくれ。作るところと食うところを、少し離して試したい」
「分かった」
「わらわもおるぞ。味見なら任せるがよい」
「……わたしも、お昼は空いてる」
ひかげが小さく手を挙げる。
リディアも参加すると答えたところで、みゆがフェンリスを覗き込んだ。
「フェンリスは?」
「僕も手伝う」
「食べる方じゃなくて?」
「そっちも。でも、運ぶのは手伝えるよ」
言ってから、フェンリスは少し早口になったことに気づいた。
「酒屋でも、荷物を運んだりしてるし。注文を聞く間くらい、皿を持っていける」
「助かる。僕、最初は間違えそうだから」
みゆが嬉しそうに笑う。
断られるとは思っていなかった。
それでも、その笑顔を見たら、引き受けてよかったと思った。
「俺様も付き合うぜ」
ナディアが言った。
「ただ食えばいいわけじゃないんだろ。気づいたことは言っていいのか?」
「そのために食わせるんだ。遠慮されても困る」
「分かった」
ナディアは頷き、和真へ視線を移した。
「それと、あとで少し話がある」
「何の?」
「仕事のことだ」
和真の箸が止まった。
「仕事?」
「ここで暮らすなら、金も使うだろ。俺様に何ができるか、聞いておきたい」
「ああ……そうだな」
和真は頷いたものの、すぐには続きを口にしなかった。
ナディアが来てから、まだ日が浅い。できることを考えるにしても、こちらの暮らしについて知ってもらうところからだった。
「急いで決めなくてもいいけど、一緒に考えよう」
「別に、今すぐ外へ出せとは言ってないぜ。まずは、どんな仕事があるかだ」
「それなら、昼のあとにでも話すか」
「そうしてくれ」
そこで、ユエが静かに口を開いた。
「私も、その話は聞いておくわ」
和真が顔を向ける。
「ユエも?」
「必要なことなのでしょう?」
「ああ。何かやってみたいことはあるか?」
「まだ、この世界の仕事を十分に知っているわけではないもの。先に聞いてから決めるわ」
「分かった」
和真が答えると、ユエはそれ以上言わず、食事へ戻った。
「じゃあ、お昼は食べて、そのあと仕事の相談だね」
みゆが皆を見回す。
「何だか、ちゃんとお店を始める感じになってきた」
「始めるためにやってんだろ」
「分かってるよ。でも、話すだけのときとは違うじゃん」
みゆはそう言い、隣の和真へ笑いかけた。
「今日のお客さん第一号、和真にする?」
「俺でいいのか?」
「うん。失敗しても待ってくれそうだから」
「最初から待たせるつもりかよ」
「練習だもん」
「練習でも、待たせねぇつもりで動け」
酒菜の声に、みゆが背筋を伸ばした。
「はーい」
「返事だけはいいんだよな、お前」
「接客向きでしょ?」
「皿を落とさず運べたら認めてやる」
みゆが笑い、食卓にも笑い声が広がった。
フェンリスは、ご飯をもう一口食べた。
気づけば、茶碗の山はずいぶん低くなっていた。
*
朝食の片付けが終わると、母屋の台所には、昼に使う食材が並び始めた。
酒菜は冷蔵庫の中身を確かめながら、手元の紙へ献立を書き足していく。
その隣で、みゆが指を折っていた。
「焼いたお肉と、炒めた野菜。それから、煮物?」
「煮物は小鉢にする。今日は主菜を二つ試すぞ」
「二つだけ?」
「最初から増やしてどうする。作る方も運ぶ方も、何が引っかかったか分からなくなるだろ」
「あ、そっか」
みゆは紙を覗き込んだ。
「じゃあ、お客さんにはどっちか選んでもらう?」
「そうだな。両方食いたい奴には、あとで少しずつ出せばいい」
「ピピは絶対、両方って言うよ」
「お前が先に言いそうだけどな」
「僕は運びながら見てるから、もっとお腹空くと思う」
「つまむなよ」
「まだ何もしてないって」
フェンリスは二人のやり取りを聞きながら、洗った盆を拭いていた。
みゆは、何を言われてもすぐに言葉を返す。
酒菜も短く返しながら、必要なことは一つずつ教えていた。
「酒菜。皿はこれでいい?」
フェンリスが棚から取り出した皿を見せる。
「ああ。その大きさで揃えてくれ。盛る量を変えたら、比べられねぇからな」
「分かった」
「欠けてるのがあったら、そっちはよけとけよ」
フェンリスは皿の縁を確かめ、台へ重ねた。
隣へ来たみゆが、そのうちの一枚を盆に載せる。
茶碗と汁椀も置き、両手で持ち上げた。
「こんな感じかな」
「まだ何も入ってないよ」
「まず形から」
みゆは台所の入口まで歩いて戻り、フェンリスの前で止まった。
「お待たせしました。今日のおすすめです」
「……空っぽだけど」
「想像して」
「無理だよ」
「美味しそうな焼き肉が、ここに」
みゆが皿の上を指す。
「それと、炊きたてのご飯」
「説明されたら、お腹空いてきた」
「さっき、あんなに食べたのに?」
「みゆが言うからだろ」
みゆが声を上げて笑った。
つられて、フェンリスの口元も緩む。
「じゃあ、本番でも説明つけようかな。お腹空いてもらった方がいいし」
「注文したあとに言っても、遅くない?」
「あ、そっか」
「先に言わないと」
「確かに。フェンリス、今の覚えておいて」
「自分で覚えてよ」
言いながら、フェンリスは盆の上の汁椀を少し奥へ動かした。
「こっちの方が、置くときに触らなくて済むと思う」
みゆが実際に盆を台へ下ろしてみる。
「あ、本当だ」
「酒屋でも、端に置くと引っかけるから」
「じゃあ、これで揃えよう」
二人で皿の位置を決めていると、居間から机を動かす音が聞こえてきた。
和真が一人で端を持ち上げようとして、酒菜に呼び止められる。
「おい。上の物をどけてからにしろ」
「布巾しか載ってないぞ」
「その下に、みゆの紙がある」
「あ、本当だ」
和真が紙を拾い上げた。
「これ、献立?」
「そう。まだ途中だから、捨てないでね」
「捨てないよ」
みゆが受け取りに行く。
フェンリスも皿を置き、居間へ向かった。
和真は机の向きを変え、台所の出入口から離れた場所へ寄せていた。
空いたところには、料理を一度置くための小さな机が用意されている。
「ここで受け取って、向こうまで運ぶ感じか?」
「うん。途中に誰か立ってても、通れるくらい空けたい」
みゆが歩いて確かめた。
フェンリスも後ろについてみる。
すれ違うには少し狭い。
「和真、こっち、もう少し寄せていい?」
「どのくらい?」
「僕が立ってるところまで」
「分かった」
和真が机を動かす。
みゆとフェンリスは、盆を持つつもりで両手を前へ出し、もう一度すれ違った。
今度はぶつからずに通れた。
「これなら大丈夫だね」
「うん」
頷くと、みゆが何のためらいもなく手を上げてきた。
フェンリスは一瞬その手を見てから、自分の手を合わせた。
ぱん、と軽い音が鳴る。
「二人とも、息が合ってるな」
和真が言った。
フェンリスが顔を向けるより早く、みゆが笑う。
「でしょ。これなら、お店も大丈夫そう」
「まだ飯を一つも運んでねぇだろ」
台所から酒菜の声がした。
「褒めるのは終わってからにしろ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「はーい」
みゆは伸ばして返事をし、台所へ戻っていった。
和真が苦笑する。
「まあ、楽しそうでよかった」
「……うん」
フェンリスは、みゆと合わせた手を下ろした。
手伝うと言ったときには、もっと違うことを考えていた気がする。
みゆのことが気になっていた。
和真のそばにいる姿を、どう見ればいいか分からなかった。
けれど、一緒に盆を持って歩いている間は、そんなことを忘れていた。
みゆが失敗しそうなら教えたいし、自分が知らないことなら教えてもらいたい。
さっきのように笑うのも、嫌ではない。
「フェンリス」
呼ばれて振り向くと、和真が台所の入口を指した。
「みゆ、呼んでるぞ」
「あ……うん」
「眠くなったら言えよ」
「もう平気」
今度は、すぐに答えられた。
*
昼が近づくにつれ、台所は忙しくなっていった。
鍋では小鉢にする煮物が温まり、切り分けた野菜が大きな容器に用意されている。
酒菜は焼く順番を確かめながら、みゆへ声をかけた。
「注文を聞いたら、こっちに伝えろ。勝手に覚えたつもりになるなよ」
「紙に書くよ」
「聞き間違いもある。客にも一度、言い返して確かめろ」
「焼いたお肉の定食ですね、って?」
「ああ。それでいい」
みゆが紙に短く書き込む。
その横では、リディアが時刻を確認していた。
「注文を受けてから料理を渡すまで、自分が時間を見ておきます」
「助かる。途中で足りなくなった物も、分かったら書いといてくれ」
「分かりました」
「何だか、本格的だね」
フェンリスが言うと、リディアは小さく頷いた。
「実際に動くと、気づくことが多いですから。自分の通販も、物を作る以外の準備が思ったよりあります」
「箱とか?」
「それもですね。あとは注文の確認や、送る物の取り違えを防ぐ方法です。修理なら、預かったときの状態も残しておきたいので」
少し離れて聞いていたユエが、リディアへ目を向けた。
「作業を始める前に、そこまで必要なの?」
「誰から何を預かったか分からなくなっては困りますから」
「……それはそうね」
「まだ、自分でも手順を考えているところです」
リディアはそう言い、手元の紙を揃えた。
ユエはその紙へ一度視線を落としたが、それ以上は尋ねなかった。
居間の方からは、ひかげの控えめな声が聞こえてくる。
「……それは、あとで片づけるから。そこ、置いといて」
「これか?」
ナディアが手にしていたのは、机を移す際に出てきたゲームのコントローラーだった。
「そう。今は使わへんし……」
「変わった形だな」
「……ゲームするやつ」
「ゲーム?」
ひかげは少しためらってから、隣へ近づいた。
「画面の中のキャラを、それで動かすんよ。戦ったり、走ったり……いろいろあるけど」
「自分が動くわけじゃないのか」
「うん。指で、ここのボタン押して……」
説明を聞くナディアの顔に、興味が浮かぶ。
ひかげも、最初より少し長く話していた。
「気になるなら、食べたあとに見せてもらったらどうだ?」
和真が言うと、ナディアはコントローラーから顔を上げた。
「そうする。ひかげ、あとで頼めるか?」
「……うん。見るだけやなくて、やってみてもええよ」
「なら、やってみたいな」
ナディアはコントローラーを、ひかげの示した棚へ戻した。
その頃には、ピピが待ちきれずに台所の入口へ来ていた。
「まだ?」
「もう少し」
みゆが答える。
「さっきも、もう少しだった!」
「さっきよりは近づいたよ」
「あと、どれくらい?」
「ピピが座って、注文してくれたら始められるくらい」
ピピはすぐに居間へ戻っていった。
その早さに、ひかげが小さく吹き出す。
「……それ、先に言うたげたらよかったのに」
「僕も今、言いながら気づいた」
みゆは笑い、手元の紙を持ち上げた。
紙には二つの献立が、大きな字で書かれている。
酒菜が鍋の火を弱め、フライパンを手前へ置いた。
「みゆ。こっちはいいぞ」
「分かった」
みゆは服の裾を軽く整えたあと、フェンリスを振り返った。
「じゃあ、行ってくる。料理ができたら、お願いね」
「うん」
フェンリスは盆を手に取った。
みゆが居間へ入ると、待っていた和真たちが顔を上げた。
「いらっしゃいませ。今日は来てくれて、ありがとうございます」
少しだけ改まった声だった。
和真が姿勢を正す。
「よろしくお願いします」
「和真まで、そんなにかしこまらなくていいって」
「みゆがちゃんとしてるから、つい」
みゆは笑いかけてから、はっと紙を持ち直した。
「あ、駄目だ。今、お客さんだった」
「もう普段どおりじゃねぇか」
酒菜が呆れた声を出した。
食卓に笑いが起こる。
フェンリスも笑った。
みゆは少しも困った様子を見せず、和真の前へ献立を差し出す。
「では、お客さん。どちらにしますか?」
「そうだな……」
和真が紙を覗き込む。
みゆも隣から覗き、二つの料理を順番に指さして説明していた。
近いな、とフェンリスは思った。
やっぱり、少し気になる。
けれど、みゆが注文を書こうとして鉛筆を探した瞬間、フェンリスは台の上に残っているそれに気づいた。
「みゆ」
差し出すと、みゆが振り返る。
「あ、忘れてた。ありがと」
「最初から忘れてどうするの」
「次は忘れない」
鉛筆を受け取ったみゆが、小さく笑った。
フェンリスは首を横に振り、料理を受け取る机の前へ戻る。
「焼き肉の定食、一つ!」
みゆの声が通った。
「分かった」
酒菜が肉をフライパンへ入れる。
じゅう、と音が立ち、香ばしい匂いが広がった。
フェンリスは盆を構え直した。
最初の一皿は、自分が和真へ運ぼうと思った。
酒菜は肉の焼け具合を確かめ、菜箸で一枚ずつ返していった。
空いたところへ玉ねぎを入れると、油の弾ける音が少し大きくなる。
フェンリスは盆に茶碗と小鉢を載せ、汁椀を置く場所を空けて待っていた。
「ご飯は、それでいい?」
注文を伝え終えたみゆが、横から覗き込む。
「うん。いつも和真が食べてるくらい」
「今日、朝もちょっと多かったから、少なめでもいいかもね」
フェンリスの手が止まった。
「……そうなの?」
「おかわりしてたよ。フェンリスが食べ終わる前に」
知らなかった。
自分の茶碗ばかり気にしていて、和真の手元まで見ていなかった。
フェンリスは、よそったご飯を見下ろした。
「じゃあ、減らした方がいい?」
「聞いてくる」
みゆはすぐに居間へ顔を出した。
「和真、ご飯、いつもくらいで大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「分かった」
戻ってきたみゆが、軽く頷く。
「そのままでいいって」
「……うん」
たったそれだけのことだった。
和真に聞けば済むことなのに、フェンリスは少しだけ置いていかれたような気がしていた。
「二人とも、飯の量も聞くなら、注文のときに済ませとけよ」
酒菜が肉を皿へ移しながら言った。
「あとから何度も往復してたら、忙しくなったときに困るだろ」
「あ、そっか。最初に聞けばいいんだ」
みゆが紙へ書き足す。
フェンリスも頷いた。
みゆだって、初めから何でも分かっているわけではない。
そう思うと、少し気が楽になった。
「できたぞ。熱いから気をつけろ」
肉の載った皿が差し出される。
照りのあるたれが玉ねぎに絡み、添えられた野菜の上まで、細く湯気が立っていた。
フェンリスは皿を盆に載せ、汁椀を確かめて持ち上げた。
「僕が持っていく」
「うん。お願い」
みゆに見送られ、居間へ向かう。
和真は料理を見ると、机の上のお茶を少し端へ寄せた。
「お待たせ」
フェンリスは膝をつき、盆を置いた。
「焼き肉の定食……です」
最後だけ付け足すと、和真が顔を上げた。
「ありがとう」
「……うん」
普段と同じ言葉なのに、向かい合って言われると少し照れた。
フェンリスが立ち上がりかけたところで、和真は箸を持ったまま周りを見た。
「先に食べていいのか?」
「冷めるから食ってくれ。味を見る前に待たれたら困る」
台所から酒菜が答える。
「分かった。いただきます」
和真が肉を口へ運ぶ。
フェンリスは、ついその場に残ってしまった。
和真は二、三度噛み、それから頷いた。
「うまい」
その一言に、フェンリスまで嬉しくなる。
「酒菜、うまいって」
「聞こえてる」
「ご飯にも合うよ。味、ちょうどいい」
「なら、量も見といてくれ」
酒菜は返事をしながら、次の料理に取りかかっていた。
フェンリスも戻ろうとする。
その袖を、みゆが台所の手前で軽く引いた。
「どうだった?」
「美味しいって」
「よかった」
みゆは和真の方を見て、嬉しそうに笑った。
その顔を見た途端、フェンリスは、自分が褒められたような気になっていたことに気づく。
作ったのは酒菜で、屋台を始めるのは酒菜とみゆだ。
それでも、少し手伝っただけでこんなに嬉しいのだから、みゆはもっと嬉しいのかもしれない。
「次、何を運ぶ?」
フェンリスが尋ねると、みゆは注文の紙を見た。
「ピピとナディアが焼き肉。あおいとひかげは野菜炒めだって」
「ピピ、両方って言わなかった?」
「言ったよ」
「やっぱり」
「あとで少しずつ味見できるって言ったら、先にお肉がいいって」
二人で小さく笑った。
◇
料理が増えるにつれ、さっきまで余裕のあった台所が、少しずつ慌ただしくなった。
酒菜が焼き肉を仕上げている間に、みゆは次の注文を聞き、フェンリスは盆を運ぶ。
最初はうまくいっていた。
けれど、三つ目の盆を用意したところで、みゆが首を傾げた。
「あれ。これ、ご飯少なめだっけ?」
台には、よそった茶碗が二つ置かれている。
一つは普通の量で、もう一つは少なめだった。
「少なめは、ひかげだよ」
フェンリスが答える。
「うん。それは覚えてるんだけど……あおいの分、もう運んだ?」
「まだ。今、汁を入れるところ」
「あ、じゃあ、これで合ってる」
みゆが少なめの茶碗を盆へ載せかけたところで、酒菜が顔を向けた。
「そっちは、あおいの分だ」
「え?」
「ひかげの分は、この次。今の野菜炒めは、あおいのだろ」
みゆは手元の紙と盆を見比べた。
「あ……ご飯だけ先にしちゃった」
茶碗を戻し、普通の量の方へ取り替える。
酒菜は責めずに、出来上がった皿を台へ置いた。
「一つずつ揃えろ。急がなくていい」
「うん」
フェンリスは盆を受け取り、あおいのところへ運んだ。
「お待たせ」
「ありがとう。よい匂いじゃのう」
あおいが顔を綻ばせる。
フェンリスが戻ると、ユエが台のそばに立っていた。
「注文を書いたものは、どれなの?」
「これだけど」
みゆが紙を見せる。
ユエはその紙を眺め、まだ空いている台の端を指した。
「料理を渡した人に、印をつければいいでしょう。書いただけでは、どこまで終わったか分からないわ」
「あ、確かに」
みゆは和真とピピ、ナディア、あおいの名前へ印をつけた。
ユエは盆を置く場所へ目を向ける。
「それと、次に出すものまで同じところへ置くから、迷うのではなくて?」
フェンリスも台を見た。
小鉢、空の皿、ご飯の茶碗。
置ける場所へ順番に置いていたせいで、誰の分を揃えているのか分かりにくくなっていた。
「じゃあ、ここは一人分だけにしようか」
フェンリスが、台の手前を空ける。
「僕が運んだら、次の分を載せる」
「うん。そうしよう」
みゆは注文の紙を、そのすぐ横へ移した。
「ありがとう、ユエ」
「見ていて紛らわしかっただけよ」
ユエはそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。
リディアが手元の紙へ何か書き込んでいる。
「今のことも書いてるの?」
みゆが尋ねた。
「ええ。料理ができるまでより、揃えて渡すところで少し止まっていたので」
「作るのを待つだけだと思ってたけど、そうじゃないんだね」
「作り終えた皿を、温かいうちに渡すのも大事ですね」
「なら、これは早く持っていかないと」
フェンリスは、ひかげの分が揃った盆を持ち上げた。
今度は、どの茶碗を載せるか迷わなかった。
◇
「これ、美味しい!」
ピピの声が、居間に響いた。
最初の肉を食べたときにも聞いた言葉だったが、皿が半分ほどになっても、感想は変わっていないらしい。
「どのへんが美味しい?」
みゆが尋ねる。
「お肉!」
「うん。それは知ってる」
「あと、これ!」
ピピの視線を追うと、肉の隣の玉ねぎがあった。
「甘いやつ?」
「そう!」
「じゃあ、玉ねぎも好きなんだね」
「お肉の味がする!」
「結局、肉なんだ」
みゆが笑うと、近くのひかげも口元を緩めた。
あおいは小鉢の煮物を食べてから、酒菜へ声をかける。
「酒菜。この小鉢は、毎回つくのかえ?」
「そのつもりだ。中身は変えるかもしれねぇけどな」
「そうか。少しずつ違うものが食べられるのは、よいのう」
「量はどうだ?」
「わらわには、ちょうどよい」
その隣で、ナディアが空いた茶碗を見下ろしていた。
「俺様は、もう少し飯が欲しいな」
「おかわり?」
みゆが近づく。
「ああ。肉を食ってたら、先になくなった」
「分かった。少し待ってて」
茶碗を受け取ったみゆが、台所へ戻ってくる。
「ご飯の量、結構違うね」
「それはそうだろ。みんな同じだけ食うわけじゃない」
酒菜が答える。
「でも、全員に細かく聞いたら、覚えるの大変そう」
「少なめ、普通、多めくらいで分ければいいんじゃないか?」
和真が言った。
「最初にみゆが聞いて、紙に書いておけば」
「それならできそう。フェンリスにも、すぐ伝えられるし」
みゆがご飯をよそう。
フェンリスはその手元を見てから、酒菜へ目を向けた。
「でも、僕が酒屋の日は、みゆが一人で運ぶんだよね」
「ああ」
「今のままだと、注文を聞いてる間は運べないよ」
みゆも手を止めた。
今はフェンリスがいるから、話している間に料理を届けられる。
二人だけで始めたときには、同じようには動けない。
「今日は、僕が手伝いすぎた?」
「いや。そこが分かったなら、やった意味があるだろ」
酒菜は、次の皿へ野菜を盛りつけた。
「忙しいときにどこまでできるか、今度は二人でも試せばいい。最初から客をいくらでも入れようなんて思ってねぇよ」
「そっか」
「席を増やすのは、ちゃんと回せるようになってからだ」
みゆが頷いた。
「じゃあ、今度は僕が全部運んでみる。フェンリスは、お客さんになってよ」
「僕、待たされたら言うよ」
「ええ。和真より厳しい」
「練習なんだから、その方がいいだろ」
「……確かに」
みゆは笑い、ナディアの茶碗を持っていった。
フェンリスが空いた皿を取りに向かうと、和真はすでに食べ終えていた。
「ごちそうさま。美味しかった」
「量は?」
「ちょうどいいよ」
フェンリスは頷き、空の小鉢を盆へ載せる。
和真が皿を寄せながら、何気なく言った。
「二人でやると早いな」
「……でも、お店になったら、毎日は手伝えないから」
「ああ。だから、今日気づけてよかったんじゃないか」
和真は台所の方を見た。
「みゆも酒菜も、やってみないと分からないことがあるだろうし。フェンリスが手伝ってくれて、助かってると思うよ」
フェンリスは皿を重ねる手を止めた。
「和真は?」
「俺?」
「僕が手伝って、よかった?」
尋ねてから、聞き方が少し変だったと思った。
それでも和真は、困った顔をしなかった。
「ああ。ありがとう」
まっすぐ返ってきた言葉に、フェンリスは小さく頷いた。
「……うん」
空の食器しか載っていない盆が、さっきより持ちやすく感じた。
◇
全員へ料理が渡ったあと、酒菜は自分たちの分を作った。
リディアは計測を終え、少し遅れて食事を始める。みゆとフェンリスも台所の片付けをいったん止め、空いた席へ座った。
「食ってる間くらい、紙は置いとけ」
酒菜が言う。
みゆは献立と注文の紙を重ね、机の端へ寄せた。
「何か忘れそうなんだよね」
「忘れそうなことは、今、言っとけ」
「えっと……ピピのおかわり」
「忘れてない!」
少し離れたところから声が返ってくる。
「ほら、本人が覚えてる。お前は先に食え」
「はーい」
みゆが箸を持った。
フェンリスも肉を一口食べる。
たれの甘辛さが広がり、すぐにご飯が欲しくなった。
「……美味しい」
「うん。運んでるとき、ずっと食べたかった」
みゆも頷いた。
酒菜は二人を一度見てから、自分の食事へ取りかかった。
「あとで野菜炒めも残してある。少しずつ食ってみろ」
「煮物も、朝のより味が入ってる」
「置いてる間に染みるからな」
「じゃあ、先に作っておけるんだ」
「ああ。全部、注文が来てから作ってたら間に合わねぇだろ」
食べ始めても、話は結局、料理のことになった。
みゆは箸を動かしながら、客席に向けてどんな言い方をすれば料理が伝わるか考えている。
ひかげが、控えめに口を挟んだ。
「……献立に、写真があったら分かりやすいかもしれません」
「写真?」
「名前だけやと、どれくらいの量か分からへんから……」
「あ、それいい。見てもらえば早いね」
「私も、商品の写真を用意する予定です。一緒に撮ってみましょうか」
リディアが言った。
「お願いしたい。和真、美味しそうに撮れる?」
「俺に聞くのか?」
「だって、酒菜は作る方だし、僕は運ぶ方だし」
「撮る方が空いてるって?」
「そう」
みゆがにっこり笑う。
和真は苦笑しながら、自分のスマートフォンを出した。
「まあ、試すだけなら」
フェンリスが食べかけの皿を少し隠す。
「僕のは、もう減ってるよ」
「新しく盛ったときに撮るよ」
「そっか」
「今の顔でも撮っとく?」
「それは駄目」
フェンリスが即座に答えると、みゆが隣で笑った。
「僕は撮ってもいいよ」
「料理の写真の話だろ」
「ちゃんと料理も一緒に写るようにするって」
「お前が主役になるだろうが」
酒菜の言葉に、今度は和真まで笑った。
フェンリスは、みゆを横目で見た。
みゆは箸を持ったまま、和真のスマートフォンへ顔を向けている。
つられて自分もそちらを見ると、和真は画面を消して机へ置いた。
「ほら。まずは食べよう」
「ちぇ。撮ってくれないの?」
「食事が終わったらな」
「約束だよ」
みゆはあっさり箸を動かし始めた。
和真と写真を撮りたい。
そう思ったら、みゆはそのまま言える。
フェンリスは少し迷ってから、口を開いた。
「……そのときは、僕も」
和真が顔を上げる。
「一緒に撮るか?」
「うん」
「じゃあ、あとで三人で撮ろう」
みゆがすぐに言った。
フェンリスは、思わずみゆの顔を見る。
みゆはもう、煮物へ箸を伸ばしていた。
その横顔をしばらく眺めてから、フェンリスも食事へ戻った。
◇
試食を終えた机には、空の皿と、書き込みの増えた紙が残った。
料理の味については、どちらの主菜も評判がよかった。
ただ、ご飯の量は選べるようにしたい。
注文の紙には、料理の種類だけでなく、誰の分か、運び終えたかも分かるようにする。
みゆはリディアの記録を見せてもらいながら、自分の紙へ書き足していった。
「これ、次にやるときも使えるね」
「ええ。最初から全部うまくできなくても、少しずつ直せばいいと思います」
「酒菜は、何かある?」
「皿を置くところは、もう少し欲しい。出来上がった飯と、戻ってきた皿が同じ場所に来ると邪魔になる」
「さっき、僕が置いちゃったところだ」
フェンリスが言う。
「場所を決めてなかったんだから、仕方ねぇよ。次から分ければいい」
酒菜は、机の端へ置いた食器を寄せた。
「今日は、ずいぶん助かった」
フェンリスが顔を上げる。
酒菜はすでに立ち上がり、食器を運ぶ用意をしていた。
「みゆも、初めてにしちゃ動けてたぞ」
「本当?」
「ああ。ただ、話し始めると長い」
「楽しく食べてもらうのも、大事でしょ?」
「運ぶ飯がなけりゃな」
「……そこは気をつける」
みゆが紙の下へ、もう一つ何か書き足した。
フェンリスが覗くと、短く『料理が先』とあった。
「大きく書いたね」
「忘れないように」
みゆは照れもせずに笑った。
食器を台所へ運び終えたところで、和真がリディアへ声をかけた。
「そういえば、通販の方も、やることが増えてるって言ってたよな」
「ええ。作る物だけ考えていればいい、というわけにはいきませんね」
リディアは試食会の記録を閉じた。
「問い合わせへの返事や、発送の準備もあります。修理の場合は、どんな状態か先に聞かないと、受けられるかも判断できませんから」
和真は隣にいたユエを見る。
「ユエ。さっき、注文の紙のことを教えてくれただろ」
「見れば気づくことよ」
「それでも助かったよ。ああいう確認や整理を、リディアと一緒にやってみるのはどうだ?」
ユエはすぐには答えなかった。
リディアへ視線を移す。
「修理の知識はないわ」
「直す方は私が担当します。お願いするとしたら、依頼の内容を聞いて、まとめてもらうところですね」
「何を聞けばいいの?」
「まず、何が壊れたのか。いつから、どう動かなくなったのか。必要なことは、私がまとめておきます」
ユエは椅子を引き、座り直した。
「聞いた内容を、そのままあなたへ渡すのね」
「はい。直せるかどうかや、いくらかかるかは、私が確認してから返事をします」
「その場で答えを求められたら?」
「確認してから連絡すると伝えてもらえれば大丈夫です」
ユエが、わずかに顎を引いた。
和真は二人の間を見ながら続ける。
「最初は俺も一緒に見るよ。パソコンの操作とか、分からないところもあるだろうし」
「使ったこともないものを、分かるとは言わないわ」
「うん。だから、そこから覚えればいい」
ユエは少し黙ったあと、リディアの手元へ視線を落とした。
「注文を受けた品物も、同じように記録するの?」
「そうですね。何をいくつ、誰へ送るか。発送前に確かめる必要があります」
「修理で預かった物とは、分けた方がいいわね」
「ええ。そこも一緒に考えてもらえると助かります」
リディアの言葉に、ユエは椅子の背へ軽く身体を預けた。
「……説明を聞いて、試すところまでは付き合うわ」
「ありがとう」
和真が言うと、ユエはそちらへ顔を向けた。
「まだ、できると決まったわけではないでしょう」
「それでも。やってみてくれるんだろ?」
「教える途中で、面倒になったから放り出すなんてことはしないでちょうだい」
「しないよ」
ユエは和真の顔を少し見てから、視線を外した。
「なら、いいわ」
みゆが、書き終えた鉛筆を置く。
「ユエが受付してくれたら、リディアは作る方に集中できるね」
「そうですね。一人で途中まで進めて、そのたびに手を止めるより、ずっと助かります」
「私が代わりに答えられない質問まで、押しつけないでね」
「もちろんです」
リディアは落ち着いて頷いた。
ユエもそれ以上は言わなかった。
仕事が決まった、と大げさに喜ぶ様子はない。
けれど、リディアがあとで画面を見せると言うと、ユエは聞き流さず、何を用意するのか確かめていた。
◇
「それじゃ、次は俺様の番だな」
ナディアが言った。
和真が頷く。
「何か気になったものはあるか?」
「さっきのゲームだ」
ナディアの視線が、棚へ向く。
ひかげは少し驚いた様子で顔を上げた。
「やってみますか……?」
「ああ。話を聞くだけより、触った方が早いだろ」
まだ残っていた食器を片付け、机の上を空ける。
ひかげが準備を始めると、ピピがその後ろへ寄っていった。
「何するの?」
「ゲーム。……見る?」
「見る!」
和真が空いた場所へ座り、フェンリスもその近くへ腰を下ろした。
みゆは台所から戻ってくると、二人の間の狭い隙間を見た。
「そこ、入れる?」
「狭いだろ」
フェンリスが答える。
「少しだけ詰めて」
いつもなら、そのまま押し合いになっていたかもしれない。
フェンリスは一度だけ和真の方を見てから、座布団を少しずらした。
和真から離れるのは、やはり少し惜しかった。
みゆが座ると、肩が触れるくらい近くなる。
「ありがと」
「……肘、ぶつけないでよ」
「フェンリスもね」
二人が座り直したところで、画面に二人の人物が映った。
ひかげが選んだのは、対戦する格闘ゲームだった。
「最初は、技を出すより……歩いたり、止まったりするところからで」
ナディアへコントローラーを渡し、自分も一つ持つ。
「こっちで、左右に動きます。上やと跳んで、下でしゃがんで……」
「なるほど」
ナディアが指を動かす。
画面の人物が前へ進み、そのまま跳び上がった。
「……今のは?」
「斜め上に入ったからです」
「こいつ、思ったよりよく跳ぶな」
ナディアは笑い、今度は慎重に押した。
人物が少し進み、止まる。
もう一度進み、後ろへ下がる。
ひかげは急かさず、その動きを見ていた。
「攻撃は、こっちのボタンです」
「これか」
人物が拳を突き出す。
もう一つ押すと、今度は足が上がった。
ナディアが画面を見つめる。
「押してから、出るまで少し違うな」
「技によって、速さが違うんです」
「外したら隙ができる、と」
「……はい。そこは、普通の戦いと似てるかもしれません」
ひかげの声が少しはっきりした。
ナディアは何度か攻撃を試し、隣を見る。
「一度、相手をしてくれるか?」
「え……もう、ですか?」
「動かしてるだけじゃ、どこで困るか分からないだろ。負けたら考える」
ひかげは和真をちらりと見た。
和真が頷くと、少し姿勢を正し、対戦を始める。
開始の合図と同時に、ナディアの人物が前へ出た。
ひかげの人物は、その場で待っている。
ナディアが攻撃を出した。
届かなかった。
伸ばした腕が戻る前に、ひかげの人物が一歩踏み込み、短い攻撃を当てる。
「……ああ、そういうことか」
ナディアは画面を見たまま呟いた。
もう一度近づき、今度は少し待つ。
ひかげが動いたところへ、拳を出そうとする。
けれど、画面の人物はしゃがんだまま、違う攻撃を出した。
「今のは、そっちじゃないんだがな」
「左の指、下に入ってます……」
「そうか」
修正している間に、もう一度攻撃を受けた。
みゆが、隣のフェンリスへ顔を寄せる。
「見てると、簡単そうなのにね」
「見てるだけならね」
フェンリスはナディアの手元を見た。
相手の動きを追う目は真剣だった。
それに比べて、指はまだ少しぎこちない。
やがて画面の体力がなくなり、ナディアの人物が倒れた。
ひかげがコントローラーを少し下げる。
「あの……」
「なるほどな」
ナディアは、倒れた人物と自分の手元を順に見た。
「何をしたいか分かってても、指が違うことをする」
「慣れるまでは、そうなると思います」
「ひかげは、そのあたりを考えずに動かせるわけだ」
「よく使うものなら……」
「大したもんだ。じゃあ、次は防ぐ方を教えてくれ」
ひかげが少し目を丸くした。
前髪に隠れて表情は見えにくかったが、肩から力が抜けたのは分かった。
「はい。それやったら、まず……」
説明が、さっきより滑らかになる。
ナディアも口を挟まずに聞き、教わった動きを一つずつ試した。
みゆが和真へ顔を向ける。
「これ、ひかげの配信で一緒にやったら面白そうじゃない?」
ひかげの手が止まった。
「配信……?」
「うん。初めてのナディアに、ひかげが教えるの。今みたいに」
ナディアが振り向いた。
「それを、人が見るのか?」
「ああ。ひかげがゲームをして、話してるところを見てもらうんだ」
和真が答える。
「上手い人の戦いだけじゃなくて、覚えていくところを見るのが好きな人もいるから」
「負けてるところも?」
「もちろん」
ナディアは少し考えた。
それから、ひかげへ視線を戻す。
「お前は、どう思う?」
「……わたしは、一緒にやってもらえるなら。話すことも、増えると思いますし」
「なら、試してみるか」
返事は落ち着いていた。
ひかげが、慌てて言葉を足す。
「ただ、今日すぐ配信するんやなくて……先に、映し方とか、声とか、確認してからで」
「分かってる。まだ、この道具も使いこなせてないからな」
ナディアはコントローラーを持ち直した。
和真も口を開く。
「仕事にするなら、続けられそうかも見てからだな。配信を始めたら、すぐお金になるってわけでもないし」
「そこまで都合がいいとは思ってないぜ」
ナディアは画面へ目を戻した。
「まずは、俺様が楽しめるかだろ」
「どうなんだ?」
「今のところは、面白い」
口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「何も壊さずに、何度でもやり直せる。負けた理由を確かめるには、悪くないな」
ひかげが静かに頷いた。
「……さっきのところ、もう一度やってみましょうか」
「ああ。頼む」
二人の人物が、再び画面の中で向き合った。
フェンリスの隣で、みゆが少し身を乗り出す。
「今度は一回、防げるかな」
「ひかげの説明、ちゃんと聞いてたから大丈夫じゃない?」
「フェンリス、ナディアの応援?」
「今は練習だろ」
みゆが笑う。
画面の中で、ひかげの人物が腕を振った。
ナディアの人物は後ろへ下がり、その攻撃を受け止めた。
「防いだ!」
ピピが声を上げる。
ナディアは笑ったが、すぐに指を動かした。
反撃しようとして、今度はまた違う技が出る。
「……こっちは、まだか」
「一個ずつで大丈夫です」
「そうだな。もう一度だ」
ひかげが頷き、二人は同じ動きを繰り返した。
フェンリスは、肩に触れる小さな重みを感じた。
みゆが画面を見ながら、少しこちらへ寄りかかっている。
「重い」
「ちょっとだけ」
「和真の方に寄ればいいじゃないか」
言ってから、フェンリスは自分の言葉に戸惑った。
みゆは顔を向け、特に驚いた様子もなく笑った。
「今、フェンリスに寄りかかってるんだけど」
「……それは分かってる」
「じゃあ、もう少しだけ」
みゆの視線は、また画面へ戻った。
フェンリスは何か言いかけて、やめた。
和真は二人のすぐそばで、ナディアへボタンの位置を教えている。
フェンリスも足を崩し、肩の力を少し抜いた。
画面から、また試合開始の声が聞こえた。
次の試合では、ナディアの動きが少し変わった。
相手へ一直線に近づくことをやめ、攻撃の届かないところで一度止まる。
ひかげの人物が踏み込んでくると、後ろへ下がって受け止めた。
「そこから、小さい方の攻撃で……」
「これだな」
短く突き出した拳が、相手に当たる。
大きな技ではなかった。減った体力もわずかだったが、ナディアは満足そうに口元を上げた。
「今のは、思ったとおりに動いた」
「はい。今の間なら、間に合います」
「欲張ると、さっきみたいになるわけか」
その言葉を確かめるように、次は大きく足を振り上げる。
攻撃が届くより先に、ひかげの人物の拳が入った。
「ああ、なるほど」
「分かっててやったん?」
みゆが尋ねかけ、すぐに首を傾げた。
「……ひかげにつられた。分かっててやったの?」
ひかげが小さく笑う。
ナディアは画面から目を離さずに答えた。
「一度、確かめたかっただけだ。言われたことは分かったが、どのくらい違うかは見た方が覚えやすい」
「……それなら、技を一つずつ試せるところもありますよ」
「そんなものまであるのか」
「相手の動きも決められるから、練習しやすいです」
「なら、あとでそっちも教えてくれ」
ひかげが頷く。
結局、その試合もナディアが負けた。
けれど、最初のように何もできないまま終わったわけではなかった。防いでから一度返し、下がって空振りさせることも、何度かできていた。
画面に結果が表示されると、ナディアは自分の指を軽く開いた。
「面白いな。まだ、できてないことが分かる」
「疲れへんかったですか?」
「少し、変なところに力が入ってたみたいだ」
ナディアは笑い、コントローラーを机へ置いた。
「ひかげ。配信の話、進めようぜ」
ひかげが顔を上げる。
「俺様はこれを覚えたい。お前と話しながらなら、続けられそうだ」
「……はい」
「ただ、配信の方は任せることになる。そっちのやり方も、少しずつ教えてくれ」
「それは、大丈夫です。最初は短い時間で、一緒にやってみましょう」
ひかげの声には、さっきまでのためらいが薄れていた。
和真が二人の顔を見比べる。
「じゃあ、まずは二人でゲームをする配信を準備するってことでいいな」
「ああ」
「はい。先に録画して、見直してみます」
「練習の様子を?」
「そうです。声が聞こえるかとか、話してることが伝わるかとか……自分でも、見ておきたいので」
「なら、それも一緒に見よう。俺様だけ分かってても、見てる奴に伝わらなきゃ仕方ないだろ」
ひかげが、もう一度頷いた。
みゆはフェンリスの肩から身体を起こした。
「ナディアが教わるところから見られるの、いいと思うよ。あとから上手になったら、最初はこんなだったんだって話せるし」
「お前、俺様が負けてるところを残したいだけじゃないだろうな」
「今のは、応援してたんだけど?」
「分かってるさ」
ナディアは余裕のある笑みを返した。
「そのうち、ひかげにも一勝してやる」
ひかげはコントローラーへ目を落とし、それから小さく言った。
「……わたしも、そう簡単には負けませんよ」
その返事に、ナディアの笑みが深くなる。
「ああ。その方がいい」
◇
ゲームを終えると、ひかげは片付けを始めた。
ピピは画面が消えたことを残念そうに見ていたが、あおいにお茶へ誘われると、すぐにそちらへ移っていく。
リディアは部屋からノートパソコンを持って戻り、空いた机へ置いた。
「ユエ。少し、こちらを見てもらえますか」
ユエが席を移る。
和真も隣へ座り、画面が開くのを待った。
フェンリスは、みゆと一緒に残っていた座布団を片付けながら、その様子を眺めた。
リディアが見せたのは、注文を書き込むための表だった。
名前や品物、個数を書く場所が、横に並んでいる。
「まだ準備中ですが、こうして一つずつ残していくつもりです」
「書いたものは、あとから直せるの?」
「はい。消してしまわなければ、何度でも」
「どこへ触ればいいのかしら」
和真が画面の下を指した。
「ここで、矢印を動かせるよ」
ユエが指を滑らせる。
矢印は思ったより遠くへ動き、書き込みたい場所を通り過ぎた。
「……よく動くのね」
「最初は少しだけでいい」
「それは今、分かったわ」
ユエは指を置き直し、ゆっくり動かした。
今度は目的の場所で止まる。
「そこで、一回押す」
和真に言われたとおりにすると、文字を入れる場所へ印が現れた。
ユエはしばらく画面を見てから、キーボードへ視線を下ろした。
「文字は、ここから選ぶのね」
「ああ。一度に覚えなくても大丈夫だから」
「まだ何も言っていないでしょう」
「……そうだな」
和真が苦笑する。
ユエは指先でキーの並びを確かめながら、一つずつ説明を聞いていた。
隣を通ったみゆが、フェンリスへ小声で言う。
「ユエ、真面目だね」
「聞こえているわ」
即座に返事が来た。
みゆは悪びれずに笑う。
「褒めてるよ」
「なら、そこで笑っていないで、何か注文してみなさい」
「え。僕?」
「練習するのでしょう?」
リディアが顔を上げた。
「それはいいですね。実際の注文ではなく、練習用として入れてみましょう」
「じゃあ……リディアの作ったものを二つください」
「何を二つなの?」
「あ、そこからか」
みゆが笑い、リディアに示された品物を選ぶ。
ユエは名前を聞き直し、数を確かめ、ゆっくりと打ち込んだ。
短い文字を入れるだけでも、何度か指が止まる。
隣から手を出そうとした和真は、ユエが次のキーを見つけると、そのまま待った。
「これでいい?」
「うん。合ってる」
ユエは画面を確かめ、次の欄へ指を動かす。
「送ったかどうかも、ここで分けるのね」
「ええ。包み終えただけなのか、発送まで済んだのかも分かるようにしたいです」
リディアが答える。
「では、品物を包むところも見せてちょうだい。何を確かめるのか、そちらも知らないと困るわ」
「分かりました。壊れやすいものと、そうでないものでは包み方も変わりますから」
ユエは頷き、椅子へ座り直した。
「注文の確認と、発送の準備。それから、修理を頼みたい相手の話を聞くところ。私が受け持つのは、そのあたりね」
「はい。難しい問い合わせや修理の判断は、私へ回してください」
「返事を待たせるなら、どのくらいで答えられるかは教えておいて。何も分からず待たせるのは面倒だわ」
「そこは、きちんと伝えます」
リディアが答えると、ユエは少し考えてから言った。
「なら、やってみるわ」
和真が隣で頷く。
「よろしくな」
「まずは、これを使えるようになるところからでしょう」
ユエは画面を指した。
「続きを教えてちょうだい」
「ああ」
和真が説明を再開する。
ユエはもう、周りの会話へ顔を向けなかった。
フェンリスは片付け終えた座布団を見下ろす。
朝にはまだ決まっていなかった二人の仕事が、昼を過ぎた今は、練習するところまで進んでいた。
ナディアはひかげの隣で配信の話を聞き、ユエはリディアと和真に教わっている。
その様子を見ていると、みゆが袖を引いた。
「フェンリス。ちょっと手伝って」
「何?」
「机、戻したいんだ。これ、台所に置いたままだと、夕飯のとき邪魔になるって」
料理を受け渡すために置いた、小さな折り畳み机だった。
フェンリスはすぐに立ち上がった。
「いいよ。どこへ持っていく?」
「元の物置。足、畳んでからにしよう」
二人で机を横にし、脚を折り畳む。
フェンリスが一人で持とうとすると、みゆが反対側へ手をかけた。
「僕も持つ」
「これくらい、一人で大丈夫だよ」
「入口でぶつけそうだから。そっち見てて」
「……うん」
みゆが後ろ向きに歩き、フェンリスが前から支える。
廊下の角を曲がるときには、自然と同じところで足が止まった。
「そっち、少し上げて」
「これくらい?」
「うん。通れる」
台所で盆を運んでいたときと同じように、短い言葉で動けた。
◇
机を物置へ戻したあと、二人は母屋の脇へ回った。
昼に使って洗った布巾が、日当たりのよい場所に干されている。
みゆが一枚に触れた。
「もう乾いてる」
「取り込む?」
「うん。酒菜に持っていこう」
みゆが外し、フェンリスが受け取る。
一枚ずつ畳んで重ねていると、母屋からピピの笑い声が聞こえてきた。
そのあとに、何かをなだめるあおいの声が続く。
中で何をしているのかは分からなかったが、困った騒ぎではなさそうだった。
「今日、楽しかったね」
みゆが言った。
フェンリスは布巾の端を合わせながら頷く。
「うん」
「思ったより、やること多かったけど」
「みゆ、何回も台所に戻ってたもんね」
「そうなんだよ。ご飯の量聞いて、注文伝えて、今度はお茶って」
「お茶は、先に置いておけばよかったね」
「あ。それ、あとで書いておこう」
みゆが最後の一枚を外す。
フェンリスは受け取ろうとして、みゆと目が合った。
「何?」
「今日は、ずいぶん見てくるなと思って」
フェンリスの手が止まる。
「……そう?」
「うん。朝から」
「別に、そんなつもりじゃ」
言いかけて、やめた。
そんなつもりではなかったと言うのは、さすがに無理があった。
みゆが和真へ近づくたびに、目で追っていた。
隣に座るときも、話しかけるときも。
それを全部気づかれていたのだとしたら、少し恥ずかしい。
フェンリスは布巾を受け取り、畳み始めた。
「……昨日の話が、気になってた」
みゆは何も言わず、物干しの留め具を寄せた。
すぐにからかわれると思っていたフェンリスは、かえって続きに迷った。
「僕、みゆが和真のこと好きなのは、知ってたけど」
「うん」
「でも、あんなふうに考えてるとは思ってなかったから」
みゆが母屋へ目を向ける。
少しだけ静かな顔になった。
「そうだね。あんまり話したことなかったし」
「……本当に、平気なの?」
口にしてから、何を指しているのか分からない聞き方だと思った。
みゆも、少し首を傾げた。
「何が?」
「和真が、ほかの誰かと仲よくしてても」
風が吹き、みゆの髪が頬へかかった。
指でそれを払ってから、みゆは答えた。
「和真が誰かと楽しそうにしてるのは、嫌じゃないよ」
「僕は、気になる」
「うん」
「……うん、って」
「だって、知ってるし」
みゆが笑う。
馬鹿にしているような笑い方ではなかった。
「フェンリス、すぐ隣に行くじゃん」
「みゆだって行くだろ」
「行くよ。僕もそばにいたいもん」
当たり前のように返され、フェンリスは言葉に詰まった。
みゆは物干しから手を離し、フェンリスの持つ布巾へ目を落とす。
「でも、僕がいない方がいいって言われたら、たぶん、すごく嫌だよ」
フェンリスが顔を上げた。
みゆは、母屋の窓を見ていた。
「和真に話しかけたいときに、話しかけちゃ駄目とか。隣に座っちゃ駄目とか。そういうのは、嫌だな」
「……そんなこと、言ってない」
「うん。フェンリスが言ったって話じゃないよ」
みゆはすぐにこちらを見た。
「平気なのかって聞かれたから。全部、何でも平気なわけじゃないってこと」
フェンリスは、畳み終えた布巾を握り直した。
みゆは何も気にしないのだと思いかけていた。
和真が誰と話していても、最後には笑って混ざれるのだと。
けれど、そこから外されても平気だとは、一度も言っていなかった。
「僕は……」
フェンリスは視線を落とす。
「和真に、一番に見てほしい」
みゆは頷いた。
「うん」
「何かあったときも、僕を呼んでほしいし。隣にいるのも、僕がいいって思う」
言葉にすると、思っていたより欲張りに聞こえた。
フェンリスは唇を結び、それから小さく付け加える。
「今日だって、何回もそう思った」
「知ってる。最初のご飯、運びたかったでしょ」
「……分かってたの?」
「盆持って、ずっと待ってたじゃん」
フェンリスは顔が熱くなった。
「だったら、何で何も言わないんだよ」
「運びたかったなら、運べばいいと思ったから」
「みゆがやってもよかっただろ」
「僕は、そのあと注文聞いてたし」
みゆは軽く肩をすくめた。
「和真、喜んでた?」
「……うん」
「じゃあ、よかったじゃん」
その返事に、フェンリスはすぐには頷けなかった。
みゆと同じように考えられるわけではない。
自分だったら、少し羨ましくなっていたと思う。
だからといって、みゆに遠慮してもらえば気が済むのかと考えると、それも違った。
朝、みゆが黙って和真のそばを離れていたら。
自分に気を遣って、笑うのをやめていたら。
きっと、今よりずっと困っていた。
「……僕、急には変われないよ」
みゆが瞬きをした。
「何が?」
「みゆが和真にくっついてたら、気になるし。僕もって言うと思う」
「言えばいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「だって、僕も言うし」
みゆは笑った。
「フェンリスが先に隣にいても、僕も座りたいって言うよ」
「狭かったら?」
「詰めてもらう」
「さっきと同じじゃないか」
「うん」
あまりにも迷いのない返事に、フェンリスは小さく息を漏らした。
笑ってしまうと、胸のあたりにあった力が少し抜けた。
「……みゆって、ずるい」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ、今度のお客さん役、ちょっと甘くしてよ」
「それは別」
「厳しいなあ」
二人の間に、いつもの調子が戻った。
みゆがフェンリスの腕から、畳んだ布巾を半分取る。
「また、手伝ってくれる?」
「酒屋が休みなら」
「本当?」
「うん。でも、毎回は無理だよ」
「分かってる。遊ぶ時間もなくなっちゃうしね」
みゆは布巾の端を揃え、腕に抱えた。
「今日、一緒にやれて楽しかった」
フェンリスは、みゆを見た。
和真の話をしているときと同じくらい、自然な言い方だった。
「……僕も」
「うん」
みゆが笑う。
フェンリスはその笑顔を見て、朝からずっと気にしていた相手が、昨日までと同じ友達でもあることを、ようやく落ち着いて思えた。
◇
「二人とも、そこにいたのか」
母屋の方から、和真が顔を出した。
フェンリスは反射的に背筋を伸ばした。
「何?」
「いや、姿が見えなくなったから。片付け、終わったか?」
「うん。布巾も取り込んだ」
みゆが持ち上げて見せる。
「ありがとう。お茶、入ってるぞ」
「行く」
フェンリスが足を踏み出すと、後ろで小さく声がした。
「あ、待って。落とした」
振り返ると、みゆが布巾を一枚拾っていた。
そのまま和真のところへ行けば、先に隣へ座れるかもしれない。
そんなことが、ほんの少し頭をよぎる。
フェンリスは足を止めた。
「みゆ、早く」
「今、行くって」
「それ、落とした分は分けといた方がいいよ」
「うん。洗い直してくる」
みゆが追いつく。
二人で母屋へ戻ると、和真は入口を広く開けて待っていた。
「何の話してたんだ?」
靴を脱ぎながら、みゆが答える。
「次の試食会。フェンリス、お客さん役もしてくれるって」
「そうなのか」
「僕、待たされたらちゃんと言うからね」
「俺より厳しそうだな」
「和真は、たぶん待ってるだけだもん」
「そんなことないだろ」
「じゃあ、みゆが話しかけたら?」
「……話くらいはするけど」
「ほら」
みゆが笑い、和真もつられて笑った。
フェンリスはその二人の横を抜け、布巾を台所へ持っていった。
酒菜が受け取り、棚へ置く。
「助かった。みゆは?」
「一枚落としたから、洗い直すって」
「ああ。そこへ置いとけって言っといてくれ。俺があとでまとめて洗う」
「分かった」
「二人とも、少し休め。朝から動いてただろ」
フェンリスは頷いた。
居間へ戻ると、みゆが和真のそばで何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ。写真」
「写真?」
「あとで三人で撮るって言ったじゃん」
「ああ、そうだったな」
和真がスマートフォンを取り出す。
フェンリスは足を止めた。
みゆがこちらへ手を振る。
「フェンリスも。こっち」
「……今、撮るの?」
「今じゃ駄目?」
「駄目じゃないけど」
髪へ触れながら近づくと、みゆが和真の隣を少し空けた。
フェンリスはそこへ座る。
和真を真ん中にして、三人が並んだ。
「俺が持つと、ちょっと近いな」
和真が腕を伸ばし、画面を確かめる。
「誰かに撮ってもらう?」
みゆが見回すと、あおいが顔を上げた。
「わらわでよければ、撮るぞ」
「お願い」
和真が操作する場所を見せ、スマートフォンを渡した。
あおいは両手で持ち、画面と三人を見比べる。
「もう少し、寄った方がよいのう」
みゆが、すぐに和真へ肩を寄せた。
フェンリスも反対側から近づく。
「これくらい?」
「うむ。よいぞ」
和真の腕が触れた。
フェンリスが少し姿勢を正すと、反対側のみゆが、和真の背中越しに顔を覗かせた。
「フェンリス、顔かたいよ」
「みゆこそ、そっち見てたら撮れないだろ」
「あ、そうだった」
「動くでない。今、撮るからの」
あおいの声で、三人が前を向く。
小さな音が鳴った。
「……どうじゃ?」
見せてもらった画面には、少し困った顔の和真と、その両側で寄り添う二人が写っていた。
みゆは笑っている。
フェンリスは、笑おうとした途中のような顔だった。
「僕、変じゃない?」
「変じゃないよ」
和真が答える。
「でも、もう一枚撮るか?」
「うん」
「次、和真もちゃんと笑ってね」
「笑ってるつもりなんだけどな」
「ちょっと困ってる」
「二人とも近いんだよ」
「写真なんだから、いいじゃん」
みゆが言い、フェンリスも和真の袖を軽くつかんだ。
「このままでいい」
和真がこちらを見る。
フェンリスは視線を逸らさなかった。
やがて和真が、小さく笑う。
「分かったよ」
「今度こそ撮るぞ」
あおいが声をかけた。
フェンリスは前を向いた。
みゆが反対側で動き、和真が少し肩を引く。
狭くて、落ち着かない。
それでも今度は、笑おうと意識しなくても口元が緩んだ。
◇
撮った写真を送ってもらうと、みゆはしばらく画面を眺めていた。
「二枚とも欲しい」
「今、送ったよ」
「ありがとう」
フェンリスのスマートフォンにも、同じ写真が届く。
一枚目と二枚目を順に開き、もう一度、二枚目へ戻した。
和真が笑っている。
その隣に、自分がいる。
反対側には、みゆがいた。
「フェンリスは、どっちが好き?」
肩越しに覗き込まれる。
「……二枚目」
「僕、一枚目も好きだな」
「和真、困ってるよ」
「それも和真っぽいじゃん」
フェンリスは一枚目へ戻してみた。
確かに、よく見る顔だった。
みゆや自分に引っ張られて、少し困りながら、それでも離れずにいてくれるときの顔。
「……消さないけど」
「うん。僕も」
みゆが隣へ座った。
机の向こうでは、リディアがユエへ小さな箱を見せていた。中へ何を詰めれば品物が動かないか、二人で確かめている。
ひかげとナディアは、次に練習する時間を相談していた。
あおいがお茶を配り、ピピは酒菜へ夕飯の献立を尋ねている。
「さっき昼を食ったばかりだろ」
「でも、夜も食べる!」
「そりゃ食べるけどな。今から待ってたら長いぞ」
「じゃあ、何する?」
「俺に聞くな。少し外でも見てこい」
呆れた声のあと、酒菜はピピの前のお茶が熱すぎないか確かめた。
和真が空いたところへ湯呑みを置き、フェンリスたちを見る。
「二人とも、お疲れさま」
みゆが顔を上げた。
「和真もね。机、いっぱい動かしてくれたし」
「それくらいなら、いつでもやるよ」
「じゃあ、お店が始まったら、また頼むね」
「ああ」
フェンリスはスマートフォンを伏せ、湯呑みを持った。
今日一日で、みゆの気持ちを全部分かったわけではない。
同じように思えるわけでもなかった。
和真の隣にいたいし、ほかの誰かへ向ける笑顔が気になることも、きっとこれから先もある。
「ねえ、和真」
みゆが呼ぶ。
「今度は、二人でも撮ろうよ」
フェンリスは湯呑みを置いた。
「僕も」
思ったより早く、声が出た。
みゆがこちらを見て笑う。
「うん。フェンリスも」
「……みゆが決めることじゃないだろ」
「二人とも、俺にも聞いてくれ」
和真が言う。
フェンリスとみゆは顔を見合わせた。
それから、ほとんど同時に和真を向いた。
「駄目?」
声が重なる。
和真は一瞬黙り、やがて肩を落として笑った。
「駄目じゃないよ。順番にな」
みゆが嬉しそうにスマートフォンを持ち上げる。
フェンリスはその隣で、もう一度だけ髪を整えた。
今日は先を争わず、みゆが撮り終わるのを待つことにした。
自分の番になったら、今度はさっきより、もう少しだけ近くへ座ろうと思った。




