第二十五話 いつもどおりが難しい
「フェンリス。その皿、下げてくれるか?」
「ひゃっ!」
和真に呼ばれ、フェンリスの肩が跳ねた。
胸元へ添えていた手を慌てて下ろし、食卓へ目を向ける。
目の前には、食べ終えた焼き魚の皿が置かれていた。
「こ、これ?」
「ああ。そっちの小皿も頼む」
「分かってるよ。そのくらい」
皿を重ね、立ち上がる。
いつもどおりに片づければいい。
何も変わっていない。
和真は和真だ。
自分が何を思ったところで、急に別人になるわけではない。
そう言い聞かせながら流しへ向かったフェンリスは、途中で和真と肩が触れかけ、慌てて身体を横へずらした。
和真も道を譲ろうとして、同じ方向へ動く。
「あ、ごめん」
「う、ううん」
反対へ避ける。
また重なった。
二人は廊下へ続く出入り口の前で、左右へ二度ほど動いたあと、同時に止まった。
「……俺が止まるから、先に行ってくれ」
「最初からそうしてよ」
「お前も同じ方に動いてただろ」
「和真だって!」
顔を上げて言い返しかけた途端、すぐ近くに和真の顔があった。
フェンリスの言葉が止まる。
「どうした?」
「何でもない!」
視線を逸らし、その脇をすり抜ける。
少し急ぎすぎた。
尻尾が出入り口の柱へ引っかかり、身体だけが先へ進もうとする。
「わっ」
「待て、尻尾」
和真が咄嗟に手を伸ばし、柱に押しつけられた毛をそっと逃がした。
いつもなら、ありがと、と一言返して終わる。
それだけのことだった。
「……もう平気だぞ」
「う、うん」
背中を向けたまま頷く。
和真の手が離れても、尻尾の付け根まで熱が残っている気がした。
「フェンリス」
「今度は何!」
「流しはそっちじゃない」
足を止める。
いつの間にか、玄関へ向かっていた。
後ろから、小さく息を漏らす音が聞こえた。
みゆだった。
「……笑った?」
「まだ笑ってないよ」
「まだって何!」
「皿を持ったまま外へ行ったら、さすがに笑うと思う」
フェンリスは黙って向きを変えた。
今度こそ流しへ皿を置く。
酒菜がその横顔を見て、片眉を上げた。
「お前、落ち着け。皿が割れる」
「割らないよ」
「なら、そんなに力を入れて持つな」
指先へ目を落とす。
皿の縁を、両手でしっかり握り込んでいた。
慌てて手を離すと、酒菜はそれ以上何も言わず、洗い物へ戻った。
蛇口から流れる水の音がする。
背後では、和真が残った食器をまとめている。
ただそれだけなのに、声が聞こえるたび、そちらへ耳が向いてしまった。
◇
食卓の片づけが終わる頃、和真は鍵を入れた箱を持って居間へ戻ってきた。
「使ってもらう部屋だけど、二棟目の101号室でどうだ?」
リディアが術式画面から顔を上げる。
「一階ですね。それなら、移動の負担も少なくて済みます」
「ああ。布団を運んで、もう一度軽く掃除すれば使えるはずだ」
「部屋の設備も確認しておきましょう。ナディアの測定は、休める場所を整えてからでも構いません」
「なら、そこで決まりだな」
和真は札のついた鍵を一本取り出した。
ナディアは椅子に座ったまま、それを見つめている。
「101号室?」
「建物ごとに部屋の番号がついてるんだ。ナディアが使うのは二棟目の一階、101号室」
「なるほど。番号だけでは、どの建物か分からないわけか」
「そういうこと。フェンリスも101号室だけど、別の棟だからな」
名前を出され、フェンリスの耳が立った。
「……何?」
「部屋の説明」
「それは聞いてたよ」
「じゃあ、なんで聞き返したんだ?」
「確認しただけ!」
和真が不思議そうな顔をする。
みゆは口を開きかけたが、台所から戻ってきた酒菜に見られて、何も言わずに口を閉じた。
「俺は布団を出すよ。みゆ、掃除を手伝ってもらえるか?」
「いいよ。窓を開けて、床を拭けばいい?」
「ああ。ついでに棚の中も見てくれると助かる」
「僕もやる」
フェンリスは、今度は迷わず手を上げた。
じっと座って和真のことを考えているより、何かしている方がよさそうだった。
「助かる。じゃあ、俺と――」
「みゆと掃除する!」
「……ああ。分かった」
先回りして答えてしまった。
和真と二人で布団を運ぶことになったら、また変な動きをするかもしれない。
そう思っただけだ。
決して、一緒にいたくないわけではない。
むしろ逆だった。
「では、わらわは掛け物を運ぼう」
「わ、わたしも……枕とかなら、持てるし」
あおいとひかげも立ち上がる。
ピピが翼を広げた。
「僕は空から運ぶ!」
「布団は飛ばすな」
酒菜が即座に止める。
「落とさないよ!」
「落とす前提で言ってんじゃねえ。今から使う布団を土まみれにするなって話だ」
「ちゃんと持てば平気だよ?」
「なら、まずその翼を畳め。食卓の上のものが飛ぶ」
ピピは周囲を見回し、おとなしく翼を下ろした。
ナディアが腰を浮かせる。
「俺様だけ座っているのも――」
「お前は座ってろ」
酒菜の声に、途中で止まった。
「まだ何も言っていないぞ」
「顔に書いてある」
「……読まれやすい顔をしているつもりはないのだがな」
ナディアは小さく息を吐き、椅子へ座り直した。
その様子を見ていた和真が、鍵を箱へ戻す。
「準備ができたら呼びに来る。それまでは休んでてくれ」
「ああ。頼む」
今度の返事は素直だった。
和真が居間を出ると、フェンリスは雑巾を取りに行こうとして、反対側の柱へ肩をぶつけた。
「……大丈夫?」
みゆに尋ねられる。
「大丈夫」
「柱は動かないからね」
「知ってる!」
◇
二棟目の101号室は、まだ人の暮らす気配がない部屋だった。
窓を開けると、朝の風がすっと通り抜ける。
フェンリスは床に膝をつき、固く絞った雑巾を押した。
何かに集中していれば、少しは落ち着く。
端から順に拭く。
机の脚を避け、壁際まで手を伸ばす。
単純な作業を続けるうちに、ようやく頬の熱が引いてきた。
「そこ、さっきも拭いてたよ」
棚を確認していたみゆが言った。
「念入りにやってるの」
「もう三回目だけど」
「綺麗な方がいいでしょ」
「それはそうだけど、向こうがまだ残ってる」
みゆが指した方には、手をつけていない床が広がっていた。
フェンリスは無言で移動する。
背後から、みゆが近づいてきた。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「掃除で緊張なんてしないよ」
「掃除の話じゃないよ」
雑巾を動かす手が止まる。
振り返ると、みゆはしゃがみ込んで隣の床を拭き始めた。
いつものように笑ってはいるが、わざと大きな声を出すことはしない。
「さっきから、和真を見るたびに変だよ」
「……別に」
「嫌いになったわけじゃないでしょ?」
「なるわけないじゃん!」
思わず声が大きくなった。
みゆの目が細くなる。
フェンリスは、しまったと思った。
「ほら」
「今のは、そういう聞き方をするから……」
「うん。悪かったよ」
あっさり謝られ、続けようとした言い訳が行き場を失う。
みゆは雑巾を持ち直した。
「でも、避けてばかりいたら、和真は何かしたのかと思うよ」
「避けてない」
「さっき、布団を運ぶ組になるのを断ったでしょ」
「……一緒に持ったら、手が当たるかもしれないから」
言ってから、フェンリスは顔を上げた。
みゆも顔を上げる。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「今の、忘れて」
「何を?」
「聞こえてたでしょ!」
「忘れてって言われたから」
「そういうところだよ、みゆ!」
みゆは小さく笑ったあと、雑巾を置いた。
「僕、何も言わないよ」
「本当に?」
「うん。フェンリスが自分で言うまでは」
フェンリスは、床へ視線を落とした。
みゆにまで言葉にしてしまったら、それこそ後戻りできなくなる気がする。
けれど、もう自分の中では答えが出ていた。
「……いつもは、平気だったんだよ」
「うん」
「隣に座るのも、腕を掴むのも。今までは、別に何ともなかったのに」
正確には、何ともなかったわけではない。
嬉しかった。
安心できた。
他の誰かに同じことをされるより、ずっと。
ただ、その理由を考えなかっただけだ。
「今日は、どうすれば普通にできるのか分からない」
みゆは少し考えるように首を傾げた。
「普通にしようとしすぎなんじゃない?」
「そんなこと言われても……」
「和真に頼まれたら返事をする。助けてもらったら、お礼を言う。それくらいでいいと思うけど」
「それくらいなら、できるよ」
「じゃあ、やってみたら?」
廊下から足音が近づいてきた。
「二人とも、布団を入れていいか?」
和真の声だった。
フェンリスは勢いよく立ち上がる。
「はい!」
みゆが下を向いた。
肩が震えている。
戸口に立った和真も、一瞬だけ動きを止めた。
「……入っていいんだな?」
「い、いいよ。床は乾いてるから」
「そうか。ありがとう」
「どういたしまして!」
和真が布団を抱えたまま入ってくる。
フェンリスは背筋を伸ばし、壁際へ退いた。
和真が通り過ぎるまで、微動だにしない。
その横から、みゆが小声で囁いた。
「兵隊さんみたい」
「今は話しかけないで……!」
和真は部屋の奥へ布団を置くと、掃除の済んだ床を見回した。
「綺麗になったな。助かった」
「うん」
今度は、どうにか普通の声で答えられた。
和真が笑う。
それだけで、胸の奥がまた忙しくなった。
◇
寝具を整え、設備の確認を終える頃には、ナディアを迎え入れる準備ができていた。
ひかげが枕の位置を直し、あおいが畳んだ掛け物を置く。
みゆは母屋から持ってきたタオルを棚へ収めた。
「とりあえず今日使う分は、これで足りるよね」
「歯ブラシも未開封の物がありました。こちらへ置いておきます」
リディアが小さな袋を差し出す。
「ありがとう。助かる」
和真は部屋を一度見回してから、ナディアを呼びに戻った。
しばらくして、廊下から二人の声が聞こえてくる。
「ここが二棟目。しばらくは、この部屋を使ってくれ」
「ああ」
ナディアは戸口で足を止めた。
黒い角は、食卓で姿を変えた時から隠したままだった。
赤い髪の下にある眼帯を直し、室内を静かに眺める。
派手な家具も、特別な飾りもない。
休むための寝具と、物を置く場所。
窓の向こうには、他の建物と敷地を行き来する住人たちの姿が見える。
「何か足りなかったら言ってくれ。今日は家にある物を使ってもらうことになるけど」
「十分だ」
ナディアは和真の言葉が終わる前に答えた。
それから、室内に残っていた皆へ目を向ける。
「手間をかけさせたな。ありがとう」
「これくらい、すぐだよ」
みゆが笑った。
「棚の上はまだ空いてるから、好きに使ってね」
「……布団、変やったら言うて。直すから」
「ひかげ、それはナディアが寝てからでよいじゃろう」
「あ、そ、そうやね……」
ひかげが慌てて手を引く。
ナディアは寝具へ視線を落とし、口元を緩めた。
「これなら、よく眠れそうだ」
和真は鍵を差し出した。
「部屋の鍵。出かける時は閉めておいてくれ」
ナディアは掌に載せられた鍵を見た。
指先で札を裏返し、書かれた番号を確かめる。
「これを、俺様が持っていていいんだな?」
「ああ。ここを使ってもらうんだから」
「……そうか」
ナディアは鍵を握り込んだ。
その表情を見たフェンリスは、何も言わなかった。
初めて自分の部屋を用意してもらった時のことを、少しだけ思い出した。
和真の隣へ座られるのは嫌だ。
抱きつかれるのも、落ち着かない。
それでも、この部屋を使うことまで嫌だとは思えなかった。
「浴室と台所の使い方を、先に説明するよ」
和真が言う。
ナディアが頷き、みゆたちは掃除道具を持って部屋を出た。
フェンリスも続こうとしたが、和真がこちらを振り返る。
「フェンリスも、少し残ってもらっていいか?」
「えっ」
「俺が説明し忘れたことがあったら教えてほしい。最初、分かりにくかったこととかあるだろ」
「……うん。ある」
フェンリスは雑巾をみゆへ渡した。
みゆは何も言わずに受け取り、軽く片目を閉じてみせる。
フェンリスは気づかなかったふりをした。
和真が蛇口を示しながら説明を始める。
ナディアは一つずつ確認し、必要なことだけを尋ねた。
知らない仕組みを前にしても、大げさに驚いたりはしない。
ただ、温度の調節については慎重に確かめていた。
「こちらへ動かすと、熱くなるのか」
「ああ。急に上げすぎない方がいい」
「最初は手で触って確かめてからにした方がいいよ」
フェンリスが口を挟む。
「いきなり頭から浴びたら、びっくりするから」
「経験があるのか?」
ナディアに尋ねられ、フェンリスが口を閉じた。
和真が横で笑いかける。
「最初の頃――」
「その話はいらない!」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う顔だった!」
ナディアは二人を見たあと、蛇口へ視線を戻した。
「忠告は覚えておこう」
フェンリスは少しだけ肩の力を抜いた。
教えることが決まっていれば、普通に話せる。
和真の顔を必要以上に見なければ、それで済む。
そう思い直したところで、和真がこちらへ顔を寄せた。
「ほかに何かあったか?」
「……っ」
近い。
問いかけそのものより、距離が気になった。
「フェンリス?」
「お湯!」
「今、説明したぞ」
「あとは水!」
「それも説明した」
「じゃあ大丈夫!」
言い切ってから、自分でも何を答えたのか分からなくなった。
和真が首を傾げる。
ナディアは何も言わず、蛇口をきちんと閉めた。
◇
設備の説明を終えると、リディアがナディアの測定を始めた。
ナディアは布団の上へ腰を下ろし、指示されたとおり、少しずつ魔力の抑え方を変えていく。
ユエはその近くで術式を見ていた。
「その状態を、しばらく保ってください」
「これでいいか?」
「はい。急に出力を変えないようお願いします」
和真は邪魔にならないよう壁際へ下がった。
フェンリスも隣へ――座りかけて、少し離れた場所に座る。
和真の視線が向いた気がして、膝の上に両手を置いた。
「フェンリス」
「何?」
「疲れてるなら、戻って休んでいいぞ。掃除もしてもらったし」
「疲れてないよ」
「そうか?」
「うん」
「じゃあ、あとで――」
「和真」
ユエの声が割り込んだ。
「話すなら外にして。数値を読み上げているのが聞こえないわ」
「ああ、悪い」
和真は立ち上がる。
ナディアへ視線を向けた。
「何かあったら呼んでくれ。母屋にいるから」
「ああ。分かった」
戸口へ向かった和真を、フェンリスも追いかける。
外へ出たところで、和真が振り返った。
フェンリスは慌てて足を止めた。
「さっきから、何かあったのか?」
「……何もないって」
「俺、気に障ることしたか?」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
みゆの言ったとおりになっている。
和真は困ったようにこちらを見ていた。
怒っているのでも、問い詰めているのでもない。
何があったのか分からず、気にしてくれている顔だった。
「してないよ」
今度は、すぐに答えた。
「和真は何もしてない」
「ならいいんだけど。今日は、なんか避けられてる気がして」
「避けてない!」
強く言いすぎた。
フェンリスは一度唇を閉じ、言い直す。
「……避けたいわけじゃないんだよ」
和真は返事を急がなかった。
そのまま待ってくれることが、今は少し恥ずかしい。
フェンリスは視線を下げ、和真の袖を見た。
掴めばいい。
いつものように、当たり前に。
手を伸ばして、指先が布へ触れる。
そこで、止まった。
「……フェンリス?」
「ちょっと、考え事してるだけ」
「何か困ってるのか?」
「困ってるけど、和真に聞いたら余計に困るやつ」
「そんなのあるか?」
「あるんだよ」
和真は少し考えたあと、頷いた。
「分かった。無理には聞かない」
「……うん」
「でも、手伝えることなら言ってくれ」
それができたら、こんなに困っていない。
フェンリスは心の中でだけ言い返した。
袖に触れていた指を、そっと離す。
「母屋、戻るんでしょ」
「ああ」
「僕も戻る」
和真が歩き出す。
フェンリスは、その隣へ並んだ。
腕は掴めなかった。
けれど、今度はわざと離れたりもしなかった。
◇
その日の午後、ナディアは用意された部屋で休んだ。
測定の途中から、本人が思っていた以上に疲れが出ていたらしい。
リディアに横になるよう勧められ、最初こそ何か言いかけたものの、布団へ身体を預けると間もなく眠りについたという。
「ようやく緊張が解けたのでしょう」
母屋へ戻ったリディアは、和真へそう伝えた。
「魔力の乱れも、休ませながら経過を見ます。無理に動かさなければ、今すぐ危険になるような状態ではありません」
「そっか」
和真は小さく息を吐いた。
リディアは術式画面を閉じる。
「ただ、敷地側の調整は続けます。正式な入居については、先ほど決めたとおり、別に話し合ってください」
「ああ。分かってる」
そこへ、みゆが紙を一枚持ってきた。
「ナディアの買い物、必要な物だけ書いておいたよ」
「もうまとめたのか?」
「今日ある物で済ませても、ずっと借りたままにはできないでしょ。服も必要だし」
紙には、着替えやタオル、洗面用具などが並んでいた。
和真は上から順に目を通す。
「明日、体調が落ち着いてたら連れていくか」
「僕も行くよ。服の売り場は、和真より分かると思うし」
「頼む。正直、助かる」
「僕も」
少し離れた場所で洗濯物を畳んでいたフェンリスが、顔を上げた。
「明日は仕事が休みだから。一緒に行ける」
「そうか。じゃあ、四人で行くか」
「うん」
返事をしてから、手元へ視線を戻す。
いつもの買い物だ。
何度も一緒に行っている。
そう思った途端、衣料品店で和真の隣を歩く自分の姿が浮かんだ。
明日は何を着ていこう。
普段の服でいいはずなのに、急に気になった。
「フェンリス」
みゆの声がする。
「何?」
「それ、もう畳んであるよ」
手元を見る。
一度畳んだタオルを、さらに半分、そのまた半分に折っていた。
厚くなりすぎて、手を離すとゆっくり開く。
みゆと目が合った。
「……小さくした方が、入るかなって」
「棚はまだ空いてるよ」
「知ってる」
フェンリスはタオルを広げ直した。
◇
夕方になって母屋へ来たナディアは、朝よりも顔色がよくなっていた。
裂けた服はそのまま使わせるわけにもいかず、休んでいる間にみゆが見繕った着替えを借りている。
袖の長さを一度確かめてから、食卓の椅子へ腰を下ろした。
「服まで借りてしまったな」
「明日、自分のを買えばいいよ」
みゆが答える。
「眠れた?」
「ああ。思っていたより、よく眠れた」
ナディアは窓へ顔を向けた。
朝には明るかった庭へ、夕方の影が伸びている。
少しの間それを眺めたあと、和真へ視線を戻した。
「起きたら外の色が変わっていた。妙なところで、別世界に来たと感じるものだな」
「……そうか」
「ああ」
それ以上、ナディアは続けなかった。
和真も無理に尋ねず、みゆの作った紙を差し出した。
「明日、具合がよければ買い物に行こうと思ってる。服と、生活に必要な物を揃えよう」
「お前も来るのか?」
「俺が案内するよ。みゆとフェンリスも一緒に」
「なら、頼む」
ナディアは紙へ目を落とした。
その向かい側で、フェンリスが湯呑みを持つ手を止める。
ナディアは和真と二人きりでなくても、不満を言わなかった。
ただ、明日の予定を確かめるように紙を見ている。
「服は、どこで選ぶんだ?」
「いろんな店が入ってる、大きな建物があるんだ。そこで見ようと思ってる」
「店が一つの建物に集まっているのか。分かりやすいな」
「慣れないうちは、逆に広くて迷うけどね」
みゆが笑う。
「ナディアは、どんな服が好き?」
「動きにくくなければ、それでいい。あとは、この世界で目立たない物だな」
「じゃあ、何着か合わせてみよう。実際に着た方が分かるから」
「分かった」
ナディアは頷き、借りた服の袖を軽く引いた。
その自然な仕草を、フェンリスは見ていた。
自分だけ、何をこんなに慌てているのだろう。
そう思った時だった。
「フェンリスも、何か買う物あるか?」
和真が顔を向ける。
「え?」
「せっかく行くんだし。足りない物とか」
「……特に、ないけど」
「そうか。あれば一緒に見よう」
何気ない言葉だった。
それなのに、フェンリスは明日の服装をますます決められなくなった。
◇
翌朝。
フェンリスの部屋では、ベッドの上に何枚もの服が広がっていた。
明るい色のシャツ。
いつも穿いている短いズボン。
買ったものの、あまり着ていないスカート。
鏡の前で一着合わせては戻し、別の服を持ち上げる。
「……買い物に行くだけなんだから」
自分へ言い聞かせたのは、これで何度目だろう。
気合いを入れすぎたら変だ。
けれど、いつものままも少し違う気がする。
結局、普段よく着る服を選びかけたところで、扉がノックされた。
「フェンリス、起きてる?」
みゆの声だった。
「起きてるよ」
「入っていい?」
「……ちょっと待って」
ベッドの服を慌ててまとめようとして、余計に散らかった。
もういい。
フェンリスは諦め、扉を開けた。
みゆは部屋へ一歩入り、ベッドを見て、それからフェンリスを見る。
「引っ越し?」
「違うよ!」
「だよね」
みゆは笑い、広げられた服の中から一枚持ち上げた。
「これ、いいんじゃない?」
「それ?」
「うん。フェンリスに似合うと思う」
フェンリスは差し出された服を受け取り、鏡の前で合わせた。
悪くない。
少なくとも、自分で延々と選んでいた時よりは、そう思えた。
「……変じゃない?」
「変じゃないよ」
「本当に?」
「さっき言ったでしょ」
みゆは、今度はからかわなかった。
フェンリスもそれ以上聞かず、着替え始めた。
支度を整えて母屋へ向かう頃には、昨日よりは落ち着いているつもりだった。
扉を開ける。
朝食の匂いがする。
和真はすでに食卓にいて、こちらへ顔を向けた。
「おはよう」
「お、おはよう」
少し声がつかえたが、それだけで済んだ。
フェンリスは内心でほっとする。
和真の視線が、服へ動いた。
「その服、いいな」
足が止まった。
「……そう?」
「ああ。似合ってる」
昨日から、散々悩んだ。
今朝も何度も着替えようとして、決められなかった。
それがたった一言で、全部よかったと思えてしまう。
「ありがと」
今度は、ちゃんと言えた。
顔が熱いのは仕方ない。
それでも目を逸らしすぎずに、和真の隣の椅子へ手をかけた。
「フェンリス」
「何?」
「そっちは俺が座ってる椅子」
見下ろす。
掴んでいたのは、和真の椅子の背もたれだった。
後ろから、みゆが小さく吹き出す。
フェンリスは黙って隣の椅子を引いた。
「……分かってたよ」
「そうか?」
「位置を直そうとしただけ」
「座ってる間はやめてくれよ」
和真が笑う。
フェンリスは顔を伏せて席についた。
向かい側では、ナディアが湯呑みを置いていた。
その表情は穏やかで、何かを言うこともない。
やがて酒菜が朝食を運んできて、食卓はいつものように賑やかになった。
昨日一日休んだナディアは、食事もしっかり取れている。
リディアの確認でも、短い外出なら支障はないという。
今日は、四人で買い物へ行く。
フェンリスは箸を持ち、こっそりと隣を見た。
和真がこちらへ顔を向ける。
目が合った。
「どうした?」
「何でもない」
今度は怒らずに答えた。
その代わり、魚へ伸ばした箸が空を切った。
隣ではなく、自分の皿を見る。
まずはそこからだと、フェンリスは真剣に思った。
朝食を終えると、みゆは昨日まとめた買い物表を広げた。
「服と下着、寝る時の服。それから、タオルと洗面用具。靴も見た方がいいよね」
「ああ。昨日まで履いていた物は、かなり傷んでいたからな」
ナディアが答える。
今日は借りた服に合わせ、靴も一時的に貸してもらっていた。
足に合うか確かめるため、玄関で何度か歩いてみたが、少し踵が浮くらしい。
「靴から見ようか。合わないまま歩き回るのも疲れるだろ」
和真の提案に、みゆが頷いた。
「そうだね。買ったら、そのまま履いていけるか聞いてみよう」
「俺様のために、ずいぶん手間をかけるな」
「必要な買い物だからな。遠慮して合わない物を使い続けられる方が困る」
「分かった。では、遠慮なく選ばせてもらおう」
ナディアはそう言って、玄関の段差へ腰を下ろした。
靴紐を結び直し、踵を確かめてから立ち上がる。
その間に、フェンリスとみゆも外出用の装置を作動させた。
耳と尻尾が見えなくなったことを、互いに確認する。
ナディアは自分の姿をすでに人間に近づけており、黒い角も見えない。
玄関まで見送りに来た酒菜が、四人を順に見た。
「無理せず帰ってこいよ。特にナディア」
「分かっている」
「和真も、あれこれ連れ回すな。足りない物はまた買えばいい」
「ああ。必要な物だけ揃えてくる」
「それとフェンリス」
名前を呼ばれ、フェンリスが顔を上げる。
「何?」
「周りを見て歩けよ」
「子供じゃないんだから、そんなこと分かってるよ」
「昨日、柱にぶつかってただろ」
「あれは、たまたま!」
「今日は店の商品にぶつかるなってことだ」
フェンリスは言い返せず、靴の爪先を見た。
横でみゆが笑いを堪えている。
「みゆも、面白がってばかりいないで見てやれ」
「分かってるよ」
「僕は見てもらわなくても大丈夫だってば!」
玄関先で声を上げたところへ、先に車へ向かっていた和真が振り返った。
「フェンリス、行くぞ」
「うん!」
返事をして、すぐに歩き出す。
酒菜が何か言いたそうな顔をしたが、今度は何も言わなかった。
◇
車へ乗る時、フェンリスは助手席の前で一度立ち止まった。
和真の隣。
普段なら、その程度のことを気にしたりしない。
けれど今日は、座っている間ずっと横顔が見える。
話しかけられたら、顔を向けなければならない。
そんなことを考えているうちに、みゆが後部座席の扉を開けた。
「フェンリス、後ろに座る?」
「……え?」
「前でもいいけど、どっちにする?」
「僕は……」
迷っていると、ナディアが後部座席を覗き込んだ。
「俺様はこちらでいいか?」
「うん。どうぞ」
みゆが場所を空ける。
ナディアが乗り込み、みゆも反対側へ回った。
結果、助手席だけが残る。
フェンリスは扉に手をかけたまま、短く息を吸った。
「乗らないのか?」
運転席から和真に尋ねられる。
「乗るよ!」
慌てて腰を下ろし、扉を閉める。
シートベルトを引き出したところで、服の裾が少し挟まった。
直そうとしていると、和真がこちらを見る。
「大丈夫か?」
「自分でできる!」
「分かった。まだ出さないから、ゆっくりでいいぞ」
和真は前を向いた。
助けようと近づかれたわけでもないのに、先に断ってしまった。
フェンリスは小さく唇を噛む。
「……できた」
「じゃあ、出すぞ」
車が動き出す。
ナディアは窓の外を眺めていた。
門を抜け、道路へ出る。
建物が並び、反対側からも車が走ってくる。
「これほどの数が、決められた向きに走っているのか」
「道のどちら側を使うか、決まってるんだ。前に見える信号も、進んでいいかどうかを知らせるためのものだよ」
和真が説明する。
ナディアは道と信号を見比べた。
「人も、あの合図で止まるんだな」
「ああ。車と人がぶつからないようにな」
「なるほど」
ナディアは一つ頷き、再び外へ目を向けた。
知らない物はいくらでもあるはずなのに、次から次へと質問することはない。
まず見て、それから必要なことを確かめているらしかった。
フェンリスは、そんなナディアを横目で見ようとして、途中で和真の横顔を見てしまった。
ハンドルを握る手。
前を向いたまま、穏やかに説明する声。
昨日までも、同じように見ていたはずだった。
「フェンリス」
「な、何?」
「暑くないか?」
「暑くないよ」
「そうか。顔が赤いから、冷房を強くした方がいいかと思って」
「今ので大丈夫!」
フェンリスは正面へ向き直った。
後部座席で、紙の擦れる音がする。
みゆが買い物の一覧を見直している。
笑われなかったことに、少しだけ救われた。
その直後、みゆが静かに言った。
「フェンリス、もう少し背もたれに寄りかかっていいんだよ」
気づけば、座席の端で背筋を伸ばしていた。
「……分かってる」
少しだけ、身体を後ろへ戻す。
隣では和真が、まだ心配そうな顔をしていた。
◇
商業施設へ着くと、和真は入口から遠すぎない場所へ車を停めた。
四人で車を降りる。
建物を見上げたナディアが、僅かに目を細めた。
「この中が、全部店なのか?」
「店もあるし、食事をするところもあるよ」
みゆが答える。
「今日は靴と服を見て、そのあと日用品。全部同じ建物で揃うから、あちこち移動しなくて済むんだ」
「それは助かるな」
ナディアが歩き出そうとすると、和真が軽く手を上げた。
「少し待って。車が来る」
通路を、一台の車がゆっくり横切っていく。
ナディアはその動きを見送り、和真へ視線を戻した。
「ここも道として扱うんだな」
「そう。車を停める場所だけど、人だけが歩いてるわけじゃないから」
「ああ。覚えた」
和真が進むのに合わせ、三人も歩き出す。
フェンリスは少し後ろからついていった。
道を確認し、足元も見る。
今日は絶対に何にもぶつからない。
そう決めていたのに、入口へ近づいたところで和真が振り返った。
「こっちだぞ」
「分かってるよ」
「なんか、一人だけ遠いから」
言われて初めて、三人から数歩離れていることに気づいた。
和真を見すぎないようにしているうちに、距離まで空いてしまっていた。
フェンリスは小走りに近づく。
その間に、入口の自動扉が開いた。
ナディアは扉の手前で一瞬だけ足を緩めたが、みゆの後について中へ入った。
「人が来ると開くのか」
「うん。触らなくていいんだよ」
「便利だな」
ナディアが通り過ぎる。
続いて和真も中へ入った。
フェンリスはその背中へ追いつこうとして、急に足を速めた。
しかし、扉はまだ十分に開いている。
「そんなに急がなくても閉まらないぞ」
和真が言う。
「急いでないよ」
「走りかけてただろ」
「歩幅を広げただけ!」
みゆが後ろを振り返った。
「今日は足元だけじゃなくて、前も見てね」
「見てる!」
和真の方ばかり見ているとは、言えなかった。
◇
最初に入った靴屋では、みゆが店員へ事情を説明した。
ナディアは勧められた椅子へ座り、何足か履き比べる。
黒い靴を選ぶところまでは早かったが、同じように見える靴でも履き心地は違うらしい。
立ち上がって歩き、戻って別の一足へ履き替える。
ナディアは、そのたびに踵と爪先を確かめていた。
「これがいい」
やがて一足に決めると、迷わず言った。
「痛いところはないか?」
和真が尋ねる。
「ああ。借りていた物より、足が動かしやすい」
「じゃあ、それにしよう」
みゆが店員へ声をかける。
買った靴をそのまま履いていけることになり、借りてきた靴は袋へ入れてもらった。
会計を終えた和真が戻ってくると、ナディアは新しい靴で二、三歩歩いた。
「どうだ?」
「変に足を踏ん張らずに済む。これなら問題ない」
「よかった」
そのやり取りを見ていたフェンリスは、靴の棚から視線を戻した。
ナディアは、してもらったことを素直に受け取る。
それでいて、当然だという態度でもない。
和真へ短く礼を言い、借りていた靴の袋を自分で持った。
「次は服だったな」
「うん。上の階だよ」
みゆを先頭に、四人は店を出た。
エスカレーターの前で、和真がナディアへ説明する。
「段が動くから、足元を見て乗ってくれ。上に着いたら、そのまま前へ降りればいい」
「分かった」
ナディアは足元を確かめ、手すりへ手を添えて乗った。
和真が後に続く。
その一段後ろへ、フェンリスが乗った。
近い。
階段の一段分しか違わないのだから、当然だ。
それでも、目の前に和真の背中があるだけで落ち着かない。
何か話そうか。
黙っていた方が自然だろうか。
考えているうちに、上の階へ近づいた。
「フェンリス、降りるよ」
後ろからみゆに声をかけられる。
「分かってる!」
フェンリスは前を向いたまま、一歩踏み出した。
和真はすでに降りている。
慌てずに続けば、それでよかった。
けれど、和真が振り返って待っていたせいで、必要以上に大きく踏み出してしまった。
勢いがつき、つい二歩ほど早足になる。
「おっと」
和真が横へ避けた。
フェンリスはその前を通り過ぎ、広い通路で止まる。
「……何?」
「いや、何も」
「ちゃんと降りたよ」
「うん。見てた」
その返事が、余計に恥ずかしかった。
◇
衣料品店へ入ると、みゆはナディアを連れて売り場を回り始めた。
「この辺なら、普段着にしやすいと思う。好きな色は?」
「黒か赤だな」
「じゃあ、黒いのを何枚か見よう。全部同じだと着替えたか分からなくなるから、形は変えようね」
「分かりやすい目印でもつけるか?」
「そういう意味じゃないよ」
みゆが笑い、棚から一枚取り出す。
ナディアは広げられた服を見て、袖へ触れた。
「薄いな」
「今着るなら、これくらいでも大丈夫。寒かった時に羽織れる物も、一緒に選ぼう」
「なるほど」
ナディアは受け取った服を身体へ当て、鏡を見る。
みゆが少し離れて全体を確かめた。
「うん。いいと思う。下は、こっちかな」
和真は二人の後ろで、選ばれた服を籠へ入れていた。
フェンリスは、その隣へ立っている。
今度こそ普通に手伝う。
そう決め、近くの棚へ手を伸ばした。
「これもいいんじゃない?」
手に取ったのは、黒い上着だった。
動きやすそうで、飾りも多くない。
ナディアへ渡す前に、和真が顔を向けた。
「いいな。それなら普段にも着られそうだ」
「……そう?」
「ああ」
褒められた。
服を選んだだけなのに、嬉しくなる。
フェンリスはそのまま上着を胸へ当てた。
「じゃあ、これ――」
「フェンリス」
みゆが呼ぶ。
「それ、ナディアに選んだんだよね?」
フェンリスは、上着を当てた自分の身体を見下ろした。
「……そうだよ」
「うん。じゃあ、ナディアに渡してあげて」
フェンリスは無言で差し出した。
ナディアは何も言わずに受け取る。
和真だけが、少し考えたあとで尋ねた。
「フェンリスも欲しかったのか?」
「違う!」
声が大きくなりかけ、慌てて抑えた。
「……違うよ。大きさを見ただけ」
「そうか」
みゆは別の棚へ顔を向けた。
笑っているかどうか、フェンリスには見えなかった。
しばらくして試着室が空くと、ナディアは選んだ服を持って中へ入った。
和真は少し離れた位置で待つ。
フェンリスも、その横へ並んだ。
目の前には鏡があり、二人の姿が映っている。
何となく見てしまった。
並んだ肩。
少しだけ違う背の高さ。
和真が隣にいる。
ただそれだけなのに、鏡で見ると妙に意識してしまう。
「フェンリス」
「何?」
「ついてる」
心臓が跳ねた。
今朝着てきた服へ、慌てて目を落とす。
袖を見て、裾を見る。
どこについたままなのか分からない。
「え、どこ?」
「いや、フェンリスじゃなくて」
和真が手を伸ばしたのは、フェンリスの後ろだった。
壁際に置かれた籠から、まだ試していない服を一枚持ち上げる。
「さっき、これはもう決めたって言ってたから。ほかのと混ざらないようにしようと思って」
「……ああ」
フェンリスは服の裾から手を離した。
「僕のは、ついてないよ」
「そりゃ、前から持ってる服だろ」
「そうだよ」
「……どうしたんだ?」
「確認しただけ!」
みゆが戻ってきたのは、その時だった。
「何の確認?」
「何でもない!」
フェンリスが先に答える。
みゆは和真とフェンリスを交互に見たあと、持ってきた服を腕へ掛け直した。
「じゃあ、フェンリスもこれ見て」
差し出されたのは、色の明るい薄手の上着だった。
「僕の?」
「うん。今の服にも合いそうだったから」
「今日はナディアの買い物でしょ」
「見るくらいはいいじゃん。和真も、昨日そう言ってたよね」
「ああ。せっかく来たんだし」
和真まで頷いた。
フェンリスは上着を受け取る。
「……見るだけだからね」
「分かってる」
みゆが鏡の方を示す。
フェンリスは羽織り、袖へ腕を通した。
窮屈なところはない。
鏡に映る自分も、悪くない気がした。
けれど、それより先に隣が気になる。
和真は見ているだろうか。
そう思って横を向いた瞬間、ちょうど和真と目が合った。
「うん。合ってるんじゃないか?」
「……変じゃない?」
「変じゃないよ。色もいいし」
フェンリスは鏡へ顔を戻した。
口元が緩みそうになる。
それを隠すために、襟を直すふりをした。
その時、試着室のカーテンが開いた。
「これはどうだ?」
ナディアが出てくる。
黒い上着に、落ち着いた色の細身のズボン。
派手な飾りはないが、赤い髪がよく映えていた。
みゆが頷く。
「いいね。動きにくくない?」
「問題ない。肩も楽だ」
ナディアは軽く腕を動かしてから、和真を見る。
「和真はどう思う?」
「似合ってるよ。普段着なら、それくらいがちょうどいいと思う」
「なら、これにしよう」
決めるのが早かった。
フェンリスは、自分の上着の袖を握る。
同じ言葉をもらっているはずなのに、自分は何度も確認したくなる。
ナディアは一度聞いただけで、満足そうに頷いた。
「ほかも着てみて。着替えが一組だけじゃ困るから」
みゆに言われ、ナディアが試着室へ戻る。
カーテンが閉じたあと、和真がフェンリスへ向き直った。
「それはどうする?」
「え?」
「その上着」
フェンリスは袖から手を離した。
まだ着たままだった。
「……買おうかな」
「うん。いいと思う」
「自分のお金で買うよ」
「ああ」
和真は自然に頷いた。
フェンリスは少しだけ肩の力を抜いた。
買ってもらいたかったわけではない。
ただ、一緒に選んだ物が欲しくなった。
そんなことまで意識してしまう自分が、恥ずかしかった。
◇
ナディアの服を選び終えると、次は下着と寝間着を見ることになった。
「和真は、ここで待ってて」
みゆが言う。
「分かった。荷物は持ってる」
「じゃあ、ナディア、こっち」
ナディアは売り場へ目を向けたあと、素直についていった。
フェンリスも続こうとして、足を止める。
自分が行けば、和真は一人になる。
残れば、和真と二人になる。
そこまで考えてしまい、動けなくなった。
「フェンリスは行かないのか?」
和真が尋ねる。
「い、行くよ」
「うん」
「和真は待ってて」
「今、そう言われたぞ」
「動かないでね」
「ここで待ってるって」
念を押してから、フェンリスはみゆたちを追った。
すぐにみゆが振り返る。
「迷子になるの、和真の方だっけ?」
「念のためだよ」
「そっか」
みゆはそれ以上言わなかったが、口元が少し笑っていた。
必要な物を揃える間、フェンリスは売り場の外を何度も見た。
和真は、言われたとおり同じ場所にいる。
荷物を足元へ置き、店内の案内を眺めていた。
ほっとしたところで、みゆから声がかかる。
「フェンリス。これとこっち、どっちがいいと思う?」
「そっち」
「まだ見てないでしょ」
慌てて顔を戻す。
みゆが持っているのは、ナディア用の寝間着だった。
「……こっち」
「変えたね」
「ちゃんと見たから!」
ナディアは二着を見比べ、落ち着いた色の方へ手を伸ばした。
「こちらにする。着やすそうだ」
「うん。じゃあ決まり」
会計を済ませて売り場を出ると、和真が顔を上げた。
「揃ったか?」
「うん。次は日用品だね」
みゆが答える。
ナディアが持つ袋へ、和真が手を伸ばしかけた。
ナディアは軽く首を振る。
「これは俺様が持つ」
「重くないか?」
「ああ。まだ、その程度で疲れはしない」
「しんどくなったら言ってくれよ」
「分かっている」
フェンリスは二人の会話を聞きながら、自分の袋を持ち直した。
すると和真が、こちらにも顔を向ける。
「フェンリスのも、荷物が増えたら言ってくれ」
「大丈夫だよ。これくらい」
「そうか」
それだけの会話で、少し嬉しくなる。
朝から、自分の機嫌が自分でも分かりやすかった。
◇
日用品売り場では、ナディアが棚の前で足を止めた。
同じくらいの大きさの容器が、何列にも並んでいる。
「……これは全部、別の物なのか?」
「似てるけど、使うところが違うんだよ」
みゆが一本ずつ指す。
「こっちが髪を洗う物。その隣が、洗ったあとの髪に使う物。向こうが身体用」
「一度に洗って終わりではないのか」
「それでもいい物はあるけどね。昨日貸したのと同じにする?」
「ああ。まずは、使い方が分かる物にしておこう」
みゆが棚から取り出し、籠へ入れる。
ナディアは容器の文字を見て、名前と用途を確かめていた。
フェンリスは買い物の紙を持ち、残っている物を読み上げる。
「あと、洗濯用の洗剤と……」
「それはあっちだな」
和真が別の棚を示す。
「俺が取ってくる」
「僕も行く」
今度は自然に言えた。
みゆたちと少し離れ、和真の隣を歩く。
何かを選ぶためなら、会話もできる。
さっきから少しずつ調子が戻っている気がした。
「これ、いつも使ってるやつだよね」
「ああ。同じのでいいと思う」
和真が容器へ手を伸ばす。
フェンリスも同時に伸ばした。
指先が触れた。
「……っ」
思わず手を引っ込める。
けれど、昨日のように大きく避けはしなかった。
「悪い」
和真が言う。
「ううん」
フェンリスは小さく首を振った。
「持つよ」
「じゃあ、頼む」
差し出された容器を受け取る。
今度は指が触れないように、底の方を持った。
それでも、胸はうるさいままだった。
みゆたちのところへ戻り、籠へ入れる。
みゆは一覧へ目を落とした。
「これで大体揃ったかな。あとタオルを何枚か選ぼう」
タオル売り場は、すぐ隣だった。
ナディアが濃い色の物を選び、みゆが大きさを確かめる。
フェンリスは一覧を畳もうとして、和真の声を聞いた。
「それ、持っててくれるか?」
「うん」
返事をして、差し出された物を受け取る。
小さな買い物籠の持ち手だった。
ところが、フェンリスが掴んだのは、その少し上にあった和真の手だった。
二人とも止まる。
フェンリスは、自分の指を見る。
和真の指を、しっかり握っていた。
「……籠」
和真が静かに言った。
「そっちじゃなくて、籠を」
フェンリスは手を放した。
代わりに持ち手を掴む。
「分かってた」
「うん」
「ちょっと、位置がずれただけ」
「そうか」
和真は何も追及しなかった。
その気遣いが、今はかえって恥ずかしかった。
みゆが横を向く。
声は出していない。
しかし、肩が震えている。
「……みゆ」
「ごめん。今のは、ちょっと無理」
「笑わなくていいでしょ!」
「うん。だから小さく笑ってる」
「そういう問題じゃない!」
声を抑えて言い合っていると、ナディアが選んだタオルを持って戻ってきた。
「これも入れていいか?」
「う、うん」
フェンリスが籠を差し出す。
ナディアはタオルを重ね、買い物の紙へ視線を向けた。
「残りは?」
「……もう、全部」
「なら会計だな」
誰も今のことを説明しなかった。
ナディアも尋ねなかった。
フェンリスは籠を抱え直し、和真より半歩だけ前を歩いた。
手の熱が、なかなか引かなかった。
◇
会計を終える頃には、袋がいくつも増えていた。
和真が大きな袋を二つ持ち、みゆとフェンリスもそれぞれ荷物を受け取る。
ナディアが全部自分で持とうとしたため、袋を分けるところでも少しだけ時間がかかった。
「俺様の買い物だぞ」
「だからって、全部一人で持たなくていいだろ」
「この程度、重くはない」
「重さだけの話じゃないよ。両手にぶら下げたら歩きにくいでしょ」
みゆに言われ、ナディアは自分の腕へ掛けた袋を見た。
少し考え、二つを和真へ渡す。
「では、頼む」
「ああ」
四人は売り場を離れた。
通路へ出ると、和真がナディアの様子を確かめる。
「疲れてないか?」
「少し、頭が疲れたな」
「頭?」
「覚える物が多い」
その答えに、みゆが笑った。
「分かる。似たような物がたくさんあるんだよね」
「ああ。容器を見ても、何に使うのか分からない物が多い」
「使っていれば、そのうち覚えるよ」
和真は通路の先にある案内を見た。
「少し座ってから帰るか。飲み物でも買おう」
ナディアが頷く。
「そうしよう」
すぐに歩き出した和真を、フェンリスが追いかけた。
いつもなら、ここで腕を掴む。
そう思い、指を動かす。
けれど、さっき売り場で手を握ってしまったことを思い出し、また止まった。
その時、横から親子連れが歩いてきた。
フェンリスは道を空けるため、和真の方へ一歩寄る。
「こっち」
和真が荷物を持ち替え、空いた手でフェンリスの肘へ軽く触れた。
引っ張るほどではない。
ただ、ぶつからない位置を知らせただけだった。
それなのに、フェンリスは反射的に和真を見上げてしまった。
「大丈夫か?」
「……うん」
親子が通り過ぎる。
和真の手が離れた。
フェンリスは、そのまま隣を歩いた。
今度は、一歩分離れようとは思わなかった。
少し遅れてついてくるみゆが、ナディアへ顔を向ける。
「休んだら、もう帰る?」
「ああ。今日は十分に見た」
ナディアは前を歩く和真へ目を向けた。
「一度に全部を知る必要もない。また来ればいい」
「そうだね」
みゆが頷く。
フェンリスにも、その言葉は聞こえていた。
また来ればいい。
今日、うまくできなくても。
次には、もう少し普通に話せるかもしれない。
そう思ったところで、和真が横を向いた。
「何飲む?」
「和真と同じ――」
言いかけて、口を閉じた。
まだ、和真が何を選ぶか聞いていない。
和真は気にせず、飲食店の看板へ視線を戻した。
「俺、お茶にしようと思ってたけど」
「じゃあ、それ」
「分かった」
みゆが後ろから声をかける。
「フェンリス、冷たいのと温かいの、どっち?」
「冷たいの!」
今度は即答した。
顔の熱を冷ますには、それしかなかった。
飲み物を受け取った四人は、窓際の空いている席へ腰を下ろした。
買い物袋を足元へまとめ、ようやく両手が空く。
フェンリスは和真の隣へ座ると、冷たいお茶を一口飲んだ。
喉を通る冷たさが心地よい。
少なくとも、顔が熱い理由を尋ねられずに済む程度には落ち着けそうだった。
「ひと通り揃ったね」
みゆが買い物表を畳む。
「あとで部屋に置いてみて、足りない物があったらまた考えよう」
「ああ。今日は助かった」
ナディアは足元の袋へ目を向けた。
「服を買うだけで、あれほど選ぶことになるとは思わなかったがな」
「同じ黒でも、着てみると違うでしょ?」
「確かにな。見た目だけで決めなくてよかった」
みゆが満足そうに頷く。
その向かいで、和真は紙コップを置いた。
「靴は大丈夫か? 歩いてみて痛くなったりしてないか?」
「問題ない。お前は何度も確かめるのだな」
「あとから痛くなることもあるからな」
「その時は伝える」
ナディアはそう言ったあと、少しだけ口元を緩めた。
「心配してもらえるのは悪くないが」
和真が返事に困った顔をする。
フェンリスはお茶をもう一口飲んだ。
胸の奥が、また少しざわついた。
ナディアの言葉は、いつも真っ直ぐだ。
嫌味でも、当てつけでもない。
だからこそ、どこへ文句をつければいいのか分からなくなる。
和真がナディアを気にかけるのは当然だ。今日初めて外へ出たばかりで、靴一つ選ぶにも不安がある。そう分かっている。
分かっているのに、和真の視線が自分以外へ向いていることが、妙に気に障った。
しかもナディアは、その心配を素直に受け止めている。
自分なら、嬉しくても嬉しいとは言えない。顔が熱くなって、余計なことを言って、最後には和真に笑われる。
その違いまで見せつけられたようで、フェンリスは紙コップを強く握った。
「フェンリスも、靴は平気?」
みゆが尋ねた。
「僕は新しく買ってないよ」
「うん。今日はいつもより歩き方がぎこちなかったから」
「靴のせいじゃない!」
思わず言ってから、口を閉じる。
みゆが小さく首を傾げた。
「じゃあ、何のせい?」
「……何でもない」
フェンリスは紙コップを持ち上げた。
隣から和真が覗き込もうとする。
「やっぱり、どこか調子が――」
「元気だよ!」
「そうか」
「すごく元気!」
「分かったから、飲みながら喋るな」
慌てて紙コップを口から離す。
みゆは自分の飲み物へ目を落とし、笑いを堪えていた。
ナディアも、目元を僅かに和らげている。
けれど、フェンリスへ何かを言うことはなかった。
その沈黙が、かえって気になった。
ナディアは余裕がある。和真に心配されても、落ち着いて受け止め、自然に笑える。
自分はどうだろう。
和真が少し近づくだけで、手の置き場も、視線の向け方も分からなくなる。
比べるつもりなどなかったのに、隣にいるだけで自分の不器用さが浮き彫りになる気がした。
そのまましばらく休んでいるうちに、窓の外へ向いていたナディアの視線が止まった。
階下の通路を、幼い子供が父親らしい男と手を繋いで歩いている。
反対側では、買い物袋を提げた女が何かを話していた。
三人が同じ方を向き、笑う。
「……人が多いな」
ナディアが呟いた。
「この建物は、特に多い方だよ」
和真が答える。
「落ち着かないか?」
「いや」
ナディアは静かに首を振った。
「皆、普通に歩いていると思っただけだ」
和真は窓の向こうへ目を向けた。
店を覗く人。
食事の相談をする人。
子供に引っ張られ、足を速める人。
見慣れた光景だった。
「そうだな」
「いいものだな。こういう場所を、お前と歩くのも」
和真へ視線が戻る。
今度は、和真も少しだけ笑った。
「ああ」
その短いやり取りを見ていると、胸の奥がまた狭くなった。
ナディアは、和真と歩いた時間をそのまま言葉にできる。
和真も、それを受け止めて笑っている。
自分なら、そんなふうに言えない。
楽しかった。隣にいたかった。もっと一緒にいたい。
思っていることは同じかもしれないのに、口に出そうとすると、くだらない反応や言い訳に変わってしまう。
フェンリスは何も言わず、紙コップの縁を見つめた。
その短いやり取りへ割り込もうとは思えなかった。
それでも、隣の席を離れたいとも思わなかった。
離れれば、和真の隣をナディアに譲ることになる気がした。
そんなつもりはないと自分に言い聞かせても、身体は席を離れようとしなかった。
◇
帰りの車では、来た時と同じ席へ座った。
フェンリスは今度こそ、シートベルトを一度で締める。
和真に何か言われる前に背もたれへ身体を預け、正面を向いた。
「忘れ物はないな?」
「うん」
みゆの返事に続き、ナディアも頷く。
車が駐車場を出る。
しばらく走ったところで、フェンリスは後部座席が静かになっていることに気づいた。
そっと振り返る。
ナディアは窓の外へ顔を向けていたが、瞼が下りていた。
その隣で、みゆが口元へ指を立てる。
フェンリスは小さく頷き、前を向いた。
「眠ったのか?」
和真が声を落として尋ねる。
「うん」
「やっぱり疲れたんだな」
「知らない物ばっかりだったからね」
フェンリスも、自然と声を小さくした。
「僕も最初、何を見ればいいか分からなかった」
「あの時も、いろいろ見て回ったな」
「うん」
思い出す。
何も知らなかった頃。
店へ入るにも、食べ物を選ぶにも、和真の反応を確かめていた。
今も隣に和真がいる。
それだけで安心するところは、変わっていない。
けれど、今日のナディアを見ていると、その安心を自分だけのものにしたくなる。
和真が誰かを気にかけるたび、胸の奥がざわつく。
そんな自分を、フェンリスは持て余していた。
「今日は助かったよ」
「……僕?」
「ああ。ナディアの服も選んでくれたし、日用品も見てもらったから」
「みゆの方が、いっぱいやってたでしょ」
「みゆにも助けてもらった。でも、お前にもだよ」
フェンリスは膝の上へ目を落とした。
失敗ばかりした気がしていた。
手を握り間違え、返事を間違え、何度も笑われた。
それでも和真は、ちゃんと手伝ったところを見てくれていた。
みゆと比べて、自分は何もできなかったと思っていた。
けれど和真は、比べていなかった。
自分の不器用さも、慌てたことも、そのまま見てくれていた。
「……また、手伝うよ」
「頼む」
今度は顔を背けなかった。
前を向く和真の横で、フェンリスは小さく笑った。
胸のざわつきが、ほんの少しだけほどける。
和真の隣にいるのは、ナディアだけではない。
自分も、ここにいていいのだと思えた。
◇
空色唐辛子荘へ戻ると、車の音を聞いたピピが母屋から顔を出した。
「おかえり!」
和真が車を停め、エンジンを切る。
ナディアも目を覚まし、一度窓の外を見てから姿勢を正した。
「……着いたか」
「ああ。荷物は運ぶから、ゆっくり降りてくれ」
「もう平気だ」
ナディアは扉を開け、新しい靴で地面へ下り立った。
ピピは車へ近づき、荷台に並ぶ袋を覗き込む。
「いっぱい買ったね!」
「ほとんどナディアの服と日用品だよ」
みゆが答えた。
「お肉は?」
「今日は買ってない」
「一個も?」
「服屋にお肉は売ってないからね」
ピピは残念そうに翼を下げた。
それでも袋が運び出されると、再び顔を上げる。
「僕も運ぶ!」
「じゃあ、みゆの隣についていってくれ。先に扉を開けてもらうから」
和真が言うと、ピピは元気よく頷いた。
「分かった!」
先頭にみゆとピピ。
その後ろをナディアが歩き、和真とフェンリスが荷物を持って続く。
二棟目の101号室へ運び込むと、空いていた床の一角が買い物袋で埋まった。
「……部屋が狭く見えるな」
ナディアが言った。
「袋から出せば、そんなに場所は取らないよ」
みゆが一つずつ分け始める。
「服はこっち。タオルは棚。洗面用具は、あとで置く場所を決めよう」
「僕のも混ざってるから、それだけ取るね」
フェンリスは自分で買った上着の袋を探した。
見つけて持ち上げると、ピピが横から顔を寄せる。
「フェンリスも服、買ったの?」
「うん。一枚だけ」
「見たい!」
「今?」
「うん!」
フェンリスは少し迷ったが、袋から上着を出した。
明るい色の布地が広がる。
みゆがそれを見て頷いた。
「やっぱり、いい色だね」
「……ありがと」
「着ないの?」
ピピが首を傾げる。
「あとで着るよ」
「今じゃ駄目?」
「別に駄目じゃないけど……」
和真がすぐ近くにいた。
店でも見てもらったのだから、今さら気にする必要はない。
そう思いながら腕を通しかけた時、みゆが手を上げた。
「待って、フェンリス。値札」
手が止まる。
袖の下に、白い札がぶら下がっていた。
和真がそれを見て笑った。
「今度は本当についてるな」
「これは、買ったばかりだから!」
「分かってるよ」
「さっきのとは違うからね!」
ピピが二人を見比べる。
「さっきって?」
「何でもない!」
フェンリスの返事が部屋へ響いた。
みゆが笑い、ナディアも袋から服を出す手を止めた。
「賑やかだな」
「いつもこんな感じだよ」
和真が答える。
「いつもじゃない!」
反論してから、フェンリスは上着を抱え直した。
今日はいつも以上におかしい。
それを一番よく知っているのは、自分だった。
◇
荷物を片づけたあと、ナディアは再び部屋で休むことになった。
和真たちは母屋へ戻り、外出の様子を酒菜へ伝える。
リディアもナディアの様子を確認しに向かい、ほどなく戻ってきた。
「外出による大きな変化はありません。今日はこのまま休んでもらえば大丈夫でしょう」
「よかった」
和真が息をつく。
「生活に必要な物も揃ったし、あとは少しずつ慣れてもらえばいいな」
「そうですね。敷地の調整は、こちらで引き続き進めます」
フェンリスはその会話を聞きながら、自分の袋を持って立ち上がった。
「僕、これ置いてくる」
「ああ」
和真が顔を上げる。
「今日はありがとうな」
「……うん」
短く返事をし、母屋を出る。
誰もいないところまで来てから、フェンリスは口元へ手を当てた。
また嬉しくなっている。
お礼を言われただけなのに。
それだけではない。
今日一日、和真の隣にいたかった。
ナディアが和真の隣にいるたび、胸がざわついた。
それでも自分も買い物を手伝い、同じ時間を過ごせたことが嬉しかった。
その嬉しさを、嫉妬で汚したくはなかった。
けれど、嫉妬しないふりもできなかった。
自分の部屋へ戻ると、ベッドの上には朝広げた服が残っていた。
「……こっちが先だった」
買ってきた上着を置く場所すら空いていない。
フェンリスは袖をまくり、片づけを始めた。
畳んでは棚へ戻す。
その途中で、新しい上着へ何度も目が向いた。
和真が似合うと言ってくれた服。
それだけで、ほかの服とは少し違って見えた。
ナディアの服を選ぶ和真の声が、まだ耳に残っている。
自分の上着を見てくれた時の声も、同じように優しかった。
同じ優しさなのだと思う。
そう思おうとするほど、胸の奥が落ち着かなかった。
◇
夕食の時間には、ナディアも母屋へ来た。
身につけているのは、今日買った黒い上着と細身のズボンだった。
昼間借りていた服は、洗って返すとみゆへ伝えてある。
居間へ入ったナディアを見て、あおいが顔を上げた。
「よく似合っておるな」
「そうか?」
「うむ。こちらの服も悪くないじゃろう」
「ああ。思ったより動きやすい」
ナディアは自分の袖を見てから、食卓へ向かった。
ひかげも、少しだけ顔を上げる。
「赤い髪に、黒が合うんやね……」
「選ぶ時に助けてもらったからな」
ナディアはみゆとフェンリスへ目を向けた。
フェンリスは一瞬だけ視線を受け止め、すぐに湯呑みを持った。
「別に、僕は一枚選んだだけだよ」
「その一枚だ」
ナディアが上着の袖を軽く持ち上げる。
「気に入っている」
「……そっか」
短く答えて、お茶を飲む。
悪い気はしなかった。
それが少しだけ、複雑だった。
自分が選んだ服をナディアが気に入ってくれたことは嬉しい。
けれど、その服を着たナディアを和真が見て、似合っていると思うのだろう。
そう考えると、素直に喜びきれなかった。
料理が並び始めると、会話は自然に今日の買い物へ移った。
ナディアが店の多さについて話し、みゆが靴を選んだ様子を説明する。
ピピは食べ物の話が出るのを待っていたらしいが、最後まで肉の話にならず、自分の皿へ向き直った。
「フェンリスは、ちゃんと周りを見て歩けたか?」
酒菜が尋ねる。
「歩けたよ」
「何も壊してないな?」
「壊してないって!」
「なら上出来だ」
「それ、褒めてないでしょ!」
和真が箸を止めた。
「買い物も手伝ってくれたぞ。俺だけじゃ分からない物もあったし」
フェンリスの耳が立つ。
酒菜はその動きを見て、口元を緩めた。
「そうか。じゃあ、よく働いたな」
「……普通だよ」
声が小さくなる。
隣に座ったみゆが、そっと肘でつついてきた。
フェンリスはそちらを睨む。
みゆは何も言わず、楽しそうに笑っていた。
「二人で何をしているの?」
ユエが尋ねる。
「何もしてないよ」
みゆが答えた。
「そう。なら、その皿を取ってもらえるかしら」
ユエが示したのは、フェンリスの前にある大皿だった。
フェンリスが手を伸ばすより先に、和真も同じ皿へ手を伸ばす。
指が近づく。
二人とも、一度止まった。
「俺が取るよ」
「あ、うん」
和真が大皿をユエへ渡す。
何も起こっていない。
なのに、みゆの肩が揺れた。
「……みゆ」
「何でもないよ」
「絶対、思い出したでしょ」
「何を?」
「だから、その返しやめて!」
皆の視線が集まった。
和真だけが少し遅れて気づき、困ったように笑う。
「昼間、ちょっとな」
「和真も言わなくていいから!」
「まだ何も言ってないぞ」
「二人とも、もう!」
フェンリスが顔を赤くすると、ひかげが小さな声で呟いた。
「……何か、楽しそうやね」
「楽しくない!」
反射的に否定してから、フェンリスは言葉に詰まった。
楽しくなかったわけではない。
恥ずかしくて、慌ただしくて、何をしても落ち着かなかった。
けれど、和真と出かけたことは嬉しかった。
ナディアへの嫉妬も、みゆに笑われた戸惑いも、全部ひっくるめて、今日の時間を嫌いにはなれなかった。
「……楽しくないわけじゃ、ないけど」
食卓が一瞬だけ静かになる。
みゆが優しく目を細めた。
「うん。僕も楽しかったよ」
「そういう話じゃ……」
最後まで言えず、フェンリスは茶碗を持ち上げた。
今日はもう、何も言わない方がよさそうだった。
◇
夜になり、食事と片づけが終わると、住人たちはそれぞれの部屋へ戻り始めた。
ナディアも、酒菜に早く休むよう言われ、素直に席を立った。
母屋を出る前に和真へ振り返る。
「今日は世話になった」
「ゆっくり休んでくれ」
「ああ。おやすみ、和真」
「おやすみ」
ナディアはほかの者にも挨拶をし、二棟目へ向かった。
フェンリスは、その背中を見送った。
勝手に和真の部屋へ行くことも、引き留めるために騒ぐこともない。
必要な時には自分の希望を言い、引く時にはきちんと引く。
それなのに、和真への気持ちが弱いなどとは少しも思えなかった。
むしろ、ナディアが迷いなく和真へ想いを伝えたことが、フェンリスの胸に残っていた。
自分は、和真の隣にいたいと思うだけで精一杯だ。
それを言葉にするどころか、嫉妬していることさえ隠そうとしてしまう。
ナディアの真っ直ぐさが、羨ましくて、悔しかった。
「フェンリス、戻らないの?」
みゆに声をかけられる。
「……戻るよ」
二人で母屋を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
窓から漏れる明かりと、通路を照らす灯りが、足元へ柔らかな影を落としている。
途中まで黙って歩き、フェンリスは隣を見た。
みゆはいつもと変わらない顔をしていた。
今日一日、何度も自分を見て笑っていた顔。
けれど、和真の前で何もかも話してしまうことはなかった。
みゆは、ナディアの気持ちも、自分の気持ちも、どこか落ち着いて見ている。
だからこそ、聞きたかった。
みゆは、和真をどう思っているのだろうか。
平気なのだろうか。
「みゆ」
「何?」
「……少し、話してもいい?」
みゆは足を止めた。
フェンリスの顔を一度見てから、頷く。
「いいよ。僕の部屋に来る?」
「うん」
二人はそのまま102号室へ向かった。
◇
みゆの部屋へ入ると、フェンリスは小さなテーブルの前へ座った。
みゆは冷蔵庫からお茶を出し、二つのコップへ注ぐ。
片方をフェンリスの前へ置いてから、向かいへ腰を下ろした。
「それで?」
「……今日のこと、誰にも言わないでね」
「どれ?」
「どれって……」
いくつもあった。
思い出したくない失敗が、次々と浮かぶ。
フェンリスは耳を伏せた。
「全部」
「全部かあ」
「何?」
「別に。分かったよ」
あっさり返され、フェンリスは顔を上げた。
「本当に?」
「うん。約束したでしょ。フェンリスが自分で言うまでは、何も言わないって」
「……ありがと」
みゆは笑い、お茶を一口飲んだ。
フェンリスもコップを持ったが、口には運ばなかった。
聞きたかったのは、それだけではない。
むしろ、本当に聞きたいことは別にあった。
ナディアのことをどう思っているのか。
和真のことを、どれくらい好きなのか。
そして、誰かに和真を取られるかもしれないと思った時、みゆは何を感じるのか。
「みゆはさ」
「うん」
「ナディアのこと、どう思ってるの?」
みゆは少し考えた。
「今日、一緒に出かけてよかったと思うよ。ちゃんと話を聞いてくれるし、気に入った物も自分で選んでくれるし」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、どのこと?」
フェンリスは指先でコップを回した。
「……和真のこと」
みゆの手が止まる。
「ナディアが、和真を好きだって言ったでしょ」
「うん」
「それ、嫌じゃないの?」
みゆはすぐには答えなかった。
フェンリスをじっと見つめる。
からかうような笑みではなかった。
「どうして、僕が嫌がると思ったの?」
「だって……みゆだって、いつも和真にくっついてるじゃん」
「そうだね」
「抱きついたり、甘えたり。和真が困ってても、楽しそうにしてるし」
「困った顔、可愛いからね」
「そういう話をしてるんじゃないよ」
フェンリスが眉を寄せると、みゆは小さく笑った。
「ごめん。ちゃんと答える」
コップを置く。
その音が、静かな部屋では少し大きく聞こえた。
「僕も、和真が好きだよ」
フェンリスの指が止まった。
何となく、そうだろうとは思っていた。
けれど、みゆ本人の口から聞くのは違った。
いつもふざけているから。
誰とでも距離が近いから。
和真へ抱きつくのも、半分くらいは自分をからかうためなのだと、どこかで思おうとしていた。
そうでなければ、みゆの存在まで気にしなければならなくなる。
ナディアだけでも、胸が苦しくなるほどだった。
みゆまで本気で和真を好きなのだと認めたら、自分はどこに立てばいいのか分からなくなる。
「……それ、本気で?」
「うん。本気」
みゆは、目を逸らさなかった。
「和真がいると嬉しいし、帰ってくると顔を見たくなる。隣に座れたら楽しいし、構ってもらえたら、もっと構ってほしくなる」
言いながら、膝の上で指を組む。
「ふざけてることはあるけど、好きなのまで冗談にしたことはないよ」
フェンリスは何も言えなくなった。
ナディアの時と同じだった。
自分が見ないようにしていたものを、相手はあまりにも簡単に言葉にする。
けれど、ナディアとは違う。
みゆは、和真を好きだと言いながら、誰かを拒もうとはしていなかった。
その違いが、かえってフェンリスを戸惑わせた。
みゆはその表情を見て、少しだけ声を和らげた。
「でも、独り占めしたいわけじゃないんだ」
「……どういうこと?」
「そのまま。和真が誰かと仲よくしてても、僕だけを見てって思うわけじゃない」
「ナディアとでも?」
「うん」
「僕とでも?」
「うん」
ためらいのない返事だった。
フェンリスは、ますます分からなくなった。
「好きなんでしょ?」
「好きだよ」
「だったら、ほかの誰かに取られたくないとか……思わないの?」
「僕のそばから、いなくなっちゃうのは嫌だよ」
みゆは、そこだけははっきりと言った。
「でも、誰かを好きになったら、僕とは一緒にいられなくなるって決まってるわけじゃないでしょ」
「それは……」
フェンリスには、その考え方がすぐには理解できなかった。
好きな人が誰かと親しくなれば、自分の場所がなくなる。
和真がナディアを選べば、自分は隣にいられなくなる。
そう思っていた。
だから、ナディアの言葉が怖かった。
みゆが和真へ抱きつくたびに、腹が立った。
けれど、みゆはその二つを同時に抱えている。
和真を好きでいながら、誰かと一緒にいる和真も受け入れようとしている。
「僕はね。和真のそばにいて、たまにふざけて、触れ合えて、甘えられたら嬉しいんだ」
いつもと同じ、明るい声だった。
今日の買い物の話でもするように、自然な調子で続ける。
「一緒にご飯を食べたり、くだらないことを言って笑ったり。疲れた時に、ちょっとくっつかせてもらったり」
フェンリスは黙って聞いていた。
そのくらいなら、自分にも分かる。
和真の隣に座りたい。
話しかけられたら嬉しい。
触れられれば、きっと嬉しい。
けれど、それだけで足りるのかは分からなかった。
自分は、和真を誰かに譲ってまで隣にいたいのか。
それとも、隣にいるためなら、何も望まないふりをするしかないのか。
みゆは口元を緩める。
「んで、いつか和真との子供が欲しいなって。それくらい」
「……は?」
フェンリスの耳が真っ直ぐに立った。
みゆは何も言わず、こちらを見ている。
聞き間違いではないらしい。
「ちょっと待って」
「うん」
「今、何て言った?」
「和真との子供が欲しいって」
「それくらいじゃないでしょ!」
思わず声が大きくなった。
みゆが扉へ目を向ける。
「フェンリス、夜」
「……っ」
慌てて口を押さえる。
しばらく二人で黙ったが、外から誰かが来る気配はなかった。
フェンリスは手を下ろし、身を乗り出した。
「本気で言ってるの?」
「うん」
「さっきから、ずっと?」
「ずっと」
みゆは頬を掻いた。
ほんの少しだけ、その頬が赤くなっている。
「何度も確かめられると、さすがに恥ずかしいんだけど」
「恥ずかしいなら、そんな普通に言わないでよ……!」
「フェンリスが聞いたんでしょ」
「そこまで聞いてない!」
みゆが小さく笑う。
その笑い方は見慣れたものだった。
けれど、言葉まで冗談には戻らなかった。
フェンリスはゆっくりと座り直した。
「……じゃあ、和真と結婚したいってこと?」
「ううん。付き合うとか、結婚するとかは、今は考えてないよ」
「でも、子供は欲しいの?」
「欲しい」
「分かんない……」
正直な言葉が漏れた。
みゆは怒らなかった。
「そうだろうね」
「だって、それなら……」
何と言えばよいのか分からない。
恋人になりたい。
自分を特別に思ってほしい。
その先に結婚や、家族になることがある。
フェンリスは、そういう順番を思い浮かべていた。
みゆの言葉は、その順番に収まらなかった。
それでも、みゆの言葉を聞いているうちに、自分の中にも似た願いがあることに気づきかけていた。
和真のそばにいたい。
和真に自分を見てほしい。
できるなら、誰よりも近くにいたい。
ただ、それをどんな形で望んでいるのかは、まだ分からない。
「結婚が嫌なわけじゃないよ」
みゆが言った。
「ただ、今の僕が欲しいのは、和真のお嫁さんって呼ばれることじゃないんだ」
膝の上の指をほどく。
「そばにいたいんだよ。好きな人のそばで、笑っていたい。甘えたら受け止めてほしいし、僕のことも好きでいてくれたら嬉しい」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
みゆは少し間を置き、自分で笑った。
「子供のことも含めたら、それだけって言うには欲張りかもしれないけど」
「かなり欲張りだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
フェンリスの返事に、みゆは今度こそ声を立てずに笑った。
しばらくして、その笑みが少し落ち着く。
「もちろん、僕だけで決められることじゃないけどね。和真がどう思うかもあるし」
「……和真には言ったの?」
「この話は、まだ」
「言ったら、絶対びっくりするよ」
「うん。たぶん今のフェンリスより固まるね」
その姿は、簡単に想像できた。
驚いて、聞き返して、それから真剣に悩む。
冗談だろ、と笑い飛ばすより先に、みゆの顔を確かめる気がした。
フェンリスは俯いた。
「僕、みゆは……そこまで考えてないと思ってた」
「いつもふざけてるから?」
「……うん」
「ふざけるのも好きなんだよ」
みゆの声は優しかった。
「和真、面白い反応してくれるし。フェンリスも怒るし」
「僕で遊ばないで」
「それは、少しだけ反省する」
「少しだけ?」
「うん」
呆れて顔を上げると、みゆが笑っていた。
フェンリスも、ほんの少しだけ息を漏らした。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
「……僕は、嫌だった」
みゆは黙って待った。
「ナディアが和真に好きだって言った時、受け入れてほしくないって思った。和真がナディアを好きになったら嫌だって」
口にすると、胸が苦しくなった。
ナディアがどれほどの思いでここへ来たのか、聞いていた。
そのうえで、そう思った。
ナディアの気持ちを否定したいわけではない。
和真が誰かを好きになることが悪いとも思わない。
ただ、その相手がナディアで、自分ではないかもしれないことが怖かった。
「みゆがくっつくのも、嫌だったよ」
「知ってる」
「知っててやってたんでしょ」
「それも、少し反省する」
「また少し……」
フェンリスはため息をついた。
みゆは表情を和らげる。
「僕と同じに考えなくていいんじゃない?」
「え?」
「フェンリスは、フェンリスでしょ。僕が平気だからって、フェンリスまで平気になる必要はないよ」
フェンリスは、みゆを見つめた。
責められるかもしれないと思っていた。
自分勝手だと言われるかもしれないと。
けれど、みゆはただ、そのままでいいと言った。
「……でも、みゆの言うことも、全部分かったわけじゃない」
「うん」
「ナディアが和真に抱きついたら、たぶん明日も嫌だよ」
「そうだと思う」
「みゆにも怒るかもしれない」
「そこは、できれば少し優しくしてほしいかな」
みゆが肩をすくめる。
フェンリスは膝の上へ目を落とした。
「……努力はする」
「ありがと」
静かな時間が流れた。
窓の外で、虫が鳴いている。
フェンリスはようやくお茶を飲んだ。
すっかり冷めていた。
「この話、ほかの皆は知ってるの?」
「子供のこと?」
「……うん」
「言ってないよ」
「どうして僕には言ったの?」
みゆは少し考えた。
「ちゃんと聞いてくれたから」
「それだけ?」
「あとは、フェンリスには知っててもらっていいかなって」
みゆがこちらを見る。
「僕は、フェンリスのことも好きだよ。一緒に買い物へ行くのも、こうして喋るのも楽しいし」
「……うん」
「和真を好きだからって、フェンリスと喧嘩ばっかりしたいわけじゃない」
フェンリスは、コップを両手で包んだ。
胸のざわつきは消えていない。
みゆも和真を好きだと知って、何も感じないはずがなかった。
それでも、今すぐこの部屋を出たいとは思わなかった。
もっと聞きたいこともあった。
まだ、自分でも言葉にできないこともあった。
みゆの考え方を、完全に理解できたわけではない。
嫉妬が消えたわけでもない。
それでも、みゆが自分の気持ちを否定しなかったことが、少しだけ嬉しかった。
「……僕も」
小さく声を出す。
「みゆと、ずっと喧嘩したいわけじゃないよ」
「うん」
「でも、今日みたいに笑いすぎるのはやめて」
「それは難しいなあ」
「今、いい話してたでしょ!」
「だって、籠を渡されて和真の手を握るとは思わないじゃん」
「忘れてってば!」
フェンリスが身を乗り出すと、みゆは笑いながら両手を上げた。
「言わないって。誰にも」
「思い出すのも禁止!」
「それは無理!」
二人の声が少しだけ大きくなり、同時に扉を見た。
また黙る。
やがて、みゆが肩を震わせた。
フェンリスも、今度は怒りきれなかった。
◇
102号室を出る頃には、母屋の窓の明かりがいくつか消えていた。
隣の自分の部屋までは、ほんの数歩だった。
「フェンリス」
扉のところで、みゆが呼び止める。
「今日の話、和真にはまだ内緒ね」
「……子供のこと?」
「うん。それも」
「言えるわけないでしょ」
「なら安心」
みゆがいつものように笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉まる。
フェンリスは少しだけその場に立ち、夜の敷地を眺めた。
ナディアは、和真へ想いを伝えた。
みゆは、自分が和真のそばでどう過ごしたいのかを知っていた。
では、自分は。
和真を独り占めしたいのか。
恋人になりたいのか。
結婚したいのか。
そこまで考えかけて、顔が熱くなった。
買い物の間、ナディアが和真の隣にいることが嫌だった。
みゆが和真の気持ちを知っていることも、戸惑った。
けれど、そのどちらも、自分が和真を大切に思っているからこそ生まれた感情なのだと、少しだけ分かった。
「……いきなり、そこまで考えられないよ」
誰に言うでもなく呟き、自分の部屋の鍵を開ける。
中へ入ると、今日買った上着が目に入った。
棚へしまわず、見える場所へ掛けておいたものだ。
フェンリスは近づき、その袖へ指先で触れた。
似合っていると言われて、嬉しかった。
一緒に歩けて、楽しかった。
手が触れた時は驚いたけれど、嫌ではなかった。
ナディアが和真の隣にいても、自分もその時間を嫌いになれなかった。
みゆの気持ちを知っても、すぐに離れたいとは思わなかった。
明日も、和真の隣へ座りたい。
今、はっきり分かるのはそれだった。
フェンリスは上着を丁寧に掛け直し、布団へ腰を下ろした。
まずは、朝の挨拶くらい普通にしよう。
そう決めて横になったところで、みゆの声が頭の中へ戻ってきた。
――いつか和真との子供が欲しいなって。
「……それくらい、じゃないってば」
枕へ顔を埋める。
自分にはまだ、和真の顔を見ながら話すだけでも難しい。
それなのにみゆは、あんなに先のことまで、あんなに自然に口にした。
フェンリスは枕を抱き直した。
明日は普通に。
もう一度だけそう言い聞かせたが、和真に笑いかけられるところを想像しただけで、耳の先まで熱くなった。
どうやら、明日も簡単にはいきそうになかった。




