第二十四話 境界を越えた想い
朝の母屋には、いつもと変わらない賑やかな声が響いている。
「ピピ、味噌汁に顔を近づけすぎるな。髪が入るぞ」
「大丈夫! たぶん!」
「たぶんじゃねえ。ほら、こっち向け」
酒菜は呆れながらピピの椀を少し遠ざけ、顔へ垂れかかっていた髪を右手で払ってやった。
その隣では、みゆが焼き魚を箸で器用にほぐしている。
「ピピ、骨があるから気をつけてね。刺さったら痛いよ?」
「骨くらい平気だよ!」
「昨日も同じこと言って、喉に刺しかけてなかった?」
「あれは骨が僕を狙ってきたんだよ」
「魚の骨は襲ってこねえよ」
酒菜の即答に、食卓のあちこちから笑いがこぼれる。
少し離れた席では、あおいが一口ずつ味噌汁を飲んでいた。その九本の尻尾は、機嫌よさそうにゆっくりと揺れている。
「今朝の汁物も、まことに美味じゃ。酒菜の料理は、毎日食べても飽きぬのう」
「そう言ってもらえるなら、作った甲斐があるな。足りなかったら言え。まだ鍋に残ってる」
「では、後ほどもう一杯いただこうかの」
リディアは食事をしながら、左腕の義手から浮かび上がる小さな術式画面へ、時折目を向けていた。
「リディア、食事中くらい作業をやめたら?」
和真が声をかけると、リディアは画面から顔を上げた。
「母屋の防護術式を確認しているだけです。昨夜、数値にわずかな揺らぎがありましたので」
「異常があったのか?」
「異常と呼べるほどではありません。ユエが術式へ手を加えた影響でしょう」
名前を呼ばれたユエは、和真の近くに座ったまま静かに箸を置いた。
食事も睡眠も本来は必要としないらしいが、共同生活を始めた以上、朝と夕方は皆と同じ食卓につくことになっている。
「既存の術式に、私の魔力を馴染ませているだけよ。あと数日もあれば安定するわ」
「勝手におかしなものを仕込んでないだろうね?」
フェンリスが疑いの目を向ける。
「必要なものしか追加していないわ」
「本当に?」
「少なくとも、貴女に説明する必要はないでしょう」
「何それ!」
「朝から喧嘩、せん方が……ええと思う」
ひかげが小さな声で割って入った。
長い前髪の奥から二人の様子をうかがいながら、落ち着かなそうに牛耳を伏せている。
その言葉を聞いたみゆが、焼き魚から顔を上げた。
「あれ? ひかげ、最近ちょっと話し方が変わってきたよね?」
「えっ……?」
「前はずっと標準語だったのに、最近は『せん方がええ』とか言うようになったなって」
「そ、そう……かな」
「うん。配信してる時も、ときどき出てるよ」
ひかげは恥ずかしそうに前髪を押さえた。
「配信で、よう喋るようになったから……この身体に残っとる話し方が、出てきたんかも……」
「この身体に残ってる話し方?」
「ひかげは、俺と最初に会った頃も今みたいな話し方だったぞ」
和真が口を挟むと、みゆは意外そうに振り返った。
「そうなの?」
「ああ。俺の通訳魔法を通してた頃は、関西弁に聞こえてた。日本語を覚えてからは標準語になってたけどな」
「へえ。じゃあ、前の話し方に戻ってきたんだ」
「今の身体に残ってる癖が、少しずつ出てきてるのかもな」
和真がそう言うと、ひかげは自分の喉元へそっと触れた。
「……変、やない?」
「全然。今の方がひかげらしくて、僕は好きだよ」
「そ、そういうこと、急に言わんといて……」
ひかげは牛耳を伏せ、顔を隠すように俯いた。
みゆが楽しそうに笑う。
「ほら、また出た」
「み、みゆ……」
「悪い悪い。でも、本当に変じゃないから安心して」
ひかげは少しだけ顔を上げ、小さく頷いた。
「……うん。ありがと」
「話を逸らさないでよ!」
フェンリスの声で、全員の視線が戻る。
「今はユエの話をしてたんだから!」
「そうやった……」
ひかげは改めてユエへ顔を向けた。
「ユエも、まだ来たばかりやし……その……ゆっくり慣れたら、ええと思う」
「余計な心配ね。私はもう十分に馴染んでいるわ」
「どこがだよ!」
フェンリスの声が大きくなり、ひかげの肩が再び跳ねた。
「ほら、ひかげが驚いてるだろ」
和真に注意され、フェンリスは気まずそうに耳を伏せる。
「……ごめん」
「だ、大丈夫……」
ひかげは焼き魚へ視線を落とし、小さく首を振った。
再び騒がしくなった食卓を眺めながら、和真は味噌汁を口に運ぶ。
いつもの朝だった。
違うことといえば、二日前にユエが増えたことくらいだ。
まだ全員がユエとの距離を測りかねているものの、少なくとも同じ食卓を囲める程度には落ち着いている。
このまま少しずつ慣れていけばいい。
和真がそう考えた直後だった。
「――っ」
手にしていた椀が止まる。
母屋の外で、微かな魔力が揺れた。
ほんの一瞬。
普通なら気のせいで済ませてしまうほど弱い反応だった。
だが、和真には覚えがあった。
遠い記憶の底に沈んでいたはずの魔力が、胸の奥を強く揺さぶる。
「和真?」
フェンリスが呼びかける。
和真は答えず、椀を置いて立ち上がった。
「悪い。少し外を見てくる」
「何かあったの?」
「まだ分からない」
そう答えた時には、和真はもう廊下へ向かっていた。
靴を履き、玄関を飛び出す。
朝の光に照らされた敷地は、普段と変わらず穏やかだった。
畑の葉が風に揺れ、鶏小屋から鳴き声が聞こえてくる。小牧場では、ヤギがのんびりと牧草を食べていた。
だが、その中にわずかな違和感が混じっている。
和真は意識を集中させ、敷地全体へ魔力感知を広げた。
「……解体跡地か」
かつてアパートが建っていた空地。
屋台を開くために整備を始めている場所の中央で、空間が微かに歪んでいる。
和真は迷わず走り出した。
背後から、ほとんど足音を立てずにユエが追ってくる。
「貴方、今の魔力に心当たりが?」
「分からない。でも、知ってる気がする」
「曖昧ね」
ユエは和真の隣まで追いつくと、前方へ目を向けた。
「危険かもしれない。私が先に行くわ」
「いや、俺が行く」
「……好きにしなさい。止めても聞かないのでしょうから?」
「ああ」
「なら、無茶だけはしないことね」
突き放すような言葉とは裏腹に、ユエは和真から離れようとしなかった。
木々に囲まれた空地へ飛び込むと、その中央で景色が水面のように揺れていた。
縦に細長い亀裂が走り、周囲の空気を引き込んでいる。
亀裂の奥には、光すら存在しない暗闇が広がっていた。
「次元門……」
ユエの声が低くなる。
「自然に発生したものではないわ。何者かが、向こう側から無理やり開こうとしている」
和真は右手を前へ突き出した。
身体の奥に眠る力を引き上げた瞬間、足元から光が広がる。
空間の亀裂を中心に、半透明の壁が幾重にも立ち上がった。空地全体を包み込んだ結界が、外へ漏れ出そうとしていた魔力を押しとどめる。
後に、酒菜とリディア、フェンリスが駆け込んできた。
「和真、何があった!」
フェンリスは和真の隣まで走ると、空地の中央を見て息をのんだ。
「何、あれ……」
「下がってろ。まだ何が出てくるか分からない」
「だったら、なおさら和真だけ前に出すわけにはいかないよ」
フェンリスは引かなかった。
酒菜も空間の亀裂から目を離さず、右手をいつでも動かせるよう身構えている。
「また異世界からの客か?」
「たぶん。でも、今までとは様子が違う」
「ずいぶん不安定だな。爆発したりしねえだろうな?」
「その可能性はあります」
追いついたリディアが、両腕の義手から計測用の術式を展開する。
いくつもの光の輪が空間の亀裂を囲み、そこから漏れ出す魔力を読み取っていった。
「境界面が激しく揺れています。接続先は特定できません」
「閉じられるか?」
「こちら側から干渉すれば可能です。ただし、向こう側に誰かいる場合、その人物は境界の狭間に取り残されます」
その間にも空間の亀裂は広がり続けていた。
押し込められていた魔力が噴き出し、周囲を包む結界が低く震える。
遅れて、みゆ、ひかげ、あおい、ピピも空地へやってくる。
「和真、何が起きてるの?」
「みゆたちは結界の外にいてくれ!」
和真の声に、先頭を走っていたみゆが足を止める。
ひかげも不安そうに両手を胸元で握り、和真と空間の亀裂を交互に見た。
「……和真さんの、知っとる人……?」
「まだ分からない」
そう答えながらも、和真の中では一つの可能性が膨らんでいた。
この魔力を間違えるはずがない。
何度も剣を交えた。
互いの国の命運を懸けて戦った。
最後には、傷ついた彼女を自分の手で助けた。
「魔力の流出量が上昇しています」
リディアの声で、和真は現実へ引き戻された。
空間の亀裂は人一人が通れるほどに広がり、その奥で赤黒い光が渦巻いている。
「このままでは結界の許容量を超えます。和真、開く前に閉じるべきです」
「待ってくれ」
「接続先も、通過しようとしている存在も不明です。危険性が高すぎます」
「それでも、もう少しだけ待ってほしい」
「理由を聞いても?」
和真は亀裂の向こうへ意識を集中させた。
乱れた魔力の中に、確かな存在を感じる。
「もしかしたら、彼女かもしれない」
「彼女?」
フェンリスがすぐに反応した。
「和真、誰のことを言ってるの?」
問いに答えるより先に、空間の亀裂が大きく脈打った。
赤黒い魔力が激しく噴き出す。
結界の表面に波紋が広がり、周囲の木々が強風に煽られたように揺れる。
「来ます!」
リディアが叫ぶ。
ユエが和真の前へ出ようとしたが、和真は片腕でそれを制した。
「何をするの?」
「俺が見る」
「警戒すべきだと言ったはずよ」
「分かってる。それでも、俺が確かめたい」
ユエは不満そうに目を細めた。
「……勝手な人間ね」
それ以上は逆らわず、和真の斜め後ろで足を止める。
代わりに足元の影を広げ、いつでも動かせるよう身構えた。
亀裂の奥から、一本の腕が伸びる。
空間そのものを掴むように指が食い込み、強引に押し広げた。
続いて、赤い髪が見えた。
ひどく乱れた長い髪。
黒と赤を基調にした軽装はあちこちが裂け、露出した肌には無数の傷が刻まれている。
額から伸びる大きな黒い角。
片目を覆う眼帯。
全身から漂う、周囲を圧倒するほどの濃密な魔力。
その女は空間の亀裂から身体を引きずり出すと、片膝を地面についた。
直後、背後の亀裂が音を立てて閉じる。
行き場を失った魔力が結界の内側で荒れ狂ったが、和真が右手を握ると同時に霧散した。
静けさが戻る。
赤い髪の女は浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
その赤い瞳が、周囲を見渡す。
足元の影を揺らしながら警戒するユエ。
義手を構えるリディア。
戦う準備を整えた酒菜。
そして、和真の姿を捉えたところで止まった。
「……やはり、ここにいたか」
傷だらけの顔に、安堵が浮かぶ。
和真は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、ナディアだったか」
張り詰めていた力を解き、周囲を囲っていた結界を解除する。
「和真?」
リディアが驚いたように振り返った。
「なぜ結界を解除したのですか。まだ安全だと確認できていません」
ユエも和真へ冷たい視線を向けた。
「知っている相手だからといって、警戒を解くのは早すぎるのではなくて?」
「ナディアなら大丈夫だ」
「何を根拠に言っているの?」
「俺が知ってるナディアは、理由もなく人を傷つけるような奴じゃない」
「……どう言うことかしら」
ユエは納得した様子を見せなかった。
それでも和真の判断を無視することはせず、広げていた影を足元へ戻した。
和真が答え終えるよりも早く、ナディアが立ち上がった。
傷の影響で一度足元をふらつかせながらも、構わず和真へ向かってくる。
「ナディア、待て。まだ――」
言い終える前に、その身体が胸へ飛び込んできた。
和真は反射的にナディアを受け止める。
両腕が背中へ回され、逃がすまいとするように強く抱きしめられた。
「見つけた……」
胸元に顔を埋めたナディアの声が、微かに震えている。
「ようやく、見つけたぞ。和真」
背中へ回された腕に、さらに力がこもる。
和真はどう反応すればいいのか分からず、両手を宙に浮かせたまま固まった。
「ナディア……?」
「俺様が、どれほど探したと思っている」
「ご、ごめん……」
「謝罪などいらん。今は、このままでいろ」
ナディアは顔を上げない。
和真の服を握る指が震えていた。
やがて胸元に、温かな雫が染み込んでくる。
「……本当に、生きていた」
いつも自信に満ち、どんな状況でも余裕を失わなかった元魔王。
そんな彼女が涙を流している。
和真は戸惑いながらも、宙に浮かせていた片手をナディアの背中へ回そうとした。
「ちょっと待って!」
フェンリスの声が、静まり返った空地に響いた。
「いつまで和真にくっついてるの! 早く離れて!」
フェンリスはナディアへ駆け寄ると、その腕を掴んで引き離そうとした。
しかし、ナディアは赤い瞳を一度向けただけだった。
「今は取り込み中だ」
「見れば分かるよ! だから離れてって言ってるんだ!」
「断る」
「なんで!」
ナディアはそれ以上フェンリスを相手にせず、再び和真の胸元へ顔を埋めた。
「無視しないで!」
「フェンリス、少し落ち着いて」
「これを見て、どうやって落ち着けっていうの!」
みゆは騒ぐフェンリスの横から顔を出し、ナディアを興味深そうに眺めている。
「和真の知り合いみたいだけど、ずいぶん激しい再会だね」
「……すごく、大事な人……なんかな」
ひかげが小さく呟く。
「ただの知り合いには見えないよね」
「和真様の衣が濡れておる。泣いておるのか?」
あおいの言葉に、フェンリスの動きが止まった。
その隙に和真は、ナディアの身体から漂う血の臭いに気づく。
黒い衣服のせいで分かりにくかったが、脇腹から流れた血が腰の辺りまで染み込んでいた。
背中や脚にも深い傷がある。
「ナディア、離れてくれ」
和真が声をかけると、背中へ回されていた腕に力がこもった。
「嫌だ」
「怪我を治すためだ」
ナディアの動きが止まる。
「かなり傷が深い。治療するから、一度離れてくれ」
「……仕方ないな」
名残惜しそうに腕がほどかれる。
ナディアが一歩下がった瞬間、今度はフェンリスが和真の腕を引いた。
和真の身体を自分の方へ抱き寄せ、ナディアとの間へ割って入る。
「和真は離れてて。治療ならリディアかユエに任せればいいよ」
「フェンリス?」
「危ない人かもしれないんでしょ? さっきまで結界を張ってたじゃないか」
「ナディアは俺の知ってる人だ。少なくとも、理由もなく俺たちを傷つけるような奴じゃない」
「でも――」
「大丈夫だから」
和真は自分を掴んでいたフェンリスの手を、優しく外した。
「今は傷を治すのが先だ」
「……本当に、和真が治すの?」
「ああ」
フェンリスは納得していない様子だったが、和真の表情を見て渋々手を放した。
「絶対に無茶しないでよ」
「分かってる」
和真はナディアの前へ膝をつく。
「傷を見せてくれ」
「この程度なら放っておいても治る」
「駄目だ。無理に次元門を通ってきたんだろ。魔力の流れまで乱れてる」
「相変わらず、妙なところで頑固だな」
「お前にだけは言われたくない」
「それもそうか」
ようやくナディアの表情に小さな笑みが戻った。
和真は脇腹の傷へ手をかざす。
精霊たちへ呼びかけると、周囲に柔らかな光が集まり始めた。
光はナディアの身体を包み、傷ついた肌へ染み込んでいく。
裂けた傷が少しずつ閉じ、流れていた血が止まっていった。
「……懐かしいな」
ナディアが呟いた。
「何が?」
「お前に敗れた時も、こうして傷を治された」
「あの時は大変だったんだぞ。治そうとしたら何度も手を払いのけられて」
「敵に情けをかけられて、素直に受け入れられるものか」
「そのあと、散々話し合っただろ」
「ああ。あの日から、全てが変わった」
二人の会話を聞いていたフェンリスの耳が、ぴくりと動いた。
「敗れたって……どういうこと?」
和真は治療を続けながら答える。
「ナディアは、俺が異世界にいた頃に戦った相手なんだ」
「戦った相手?」
「当時、魔族の国を束ねていた魔王だ」
空地が静まり返った。
「魔王?」
みゆが目を丸くする。
ピピは少し遅れて翼を大きく広げた。
「魔王って、一番強くて悪い奴だよね!」
「誰が悪い奴だ」
ナディアが赤い瞳を向ける。
ピピは素早くあおいの尻尾の後ろへ隠れた。
「たぶん、違いました!」
「今さら遅い」
「ピピを脅すでない。怯えておるではないか」
あおいは九本の尻尾でピピを隠しながら、ナディアを見つめ返した。
「では、今も魔王なの?」
ナディアは少しだけ目を伏せた。
「分からん」
「分からない?」
「俺様が国を離れてから、あまりにも長い時間が過ぎている。今の魔族の国がどうなっているのか、誰が治めているのかも知らん。少なくとも、俺様が国を離れるまでは魔王だった」
和真が最後の傷を塞ぐと、ナディアは自分の脇腹へ触れた。
「見事なものだ。腕は衰えていないらしいな」
「俺のことより、自分の身体を心配しろ」
「お前に会えたのだ。それ以外は些細なことだ」
「些細じゃない。あと少し遅れてたら危なかったかもしれないんだぞ」
「ならば、間に合った俺様の勝ちだ」
「何と戦ってるんだよ……」
和真は深いため息をついた。
治療が終わったことを確かめた酒菜が、全員を見回す。
「いつまでここで話してるつもりだ。事情を聞くにしても、朝飯を放り出したままだろ」
「でも、この人は……」
フェンリスがナディアを見る。
「和真の知り合いで、もう暴れる心配もねえんだろ?」
「ああ。それは大丈夫だ」
「なら母屋に戻るぞ。怪我を治したばかりの奴を立たせたまま話す必要もねえ」
酒菜はナディアへ視線を向けた。
「あんたも来い。話は座ってから聞く」
「俺様に命令するとは、なかなか度胸のある女だな」
「今のあんたは、行き倒れ一歩手前の怪我人だ。魔王だろうが何だろうが関係ねえよ」
しばらく二人の視線がぶつかる。
先に表情を緩めたのはナディアだった。
「気に入った。名は?」
「鬼道隠酒菜だ」
「覚えておこう」
「そりゃどうも。歩けるか?」
「問題ない」
そう答えたナディアは、当然のように和真の腕へ自分の腕を絡ませた。
「では、戻るぞ。和真」
「どうして腕を組む必要があるんだ?」
「まだ身体に力が入らん。支えが必要だ」
「さっき問題ないって言っただろ」
「今、必要になった」
「絶対に嘘だよ!」
フェンリスが反対側から和真の腕を掴む。
「それなら僕が和真を支える!」
「なんで俺が支えられる側なんだよ」
「気にしないで!」
「気にするだろ!」
ナディアは和真の腕を放さない。
フェンリスも譲ろうとしない。
その様子を見たみゆが、楽しそうに口元を緩めた。
「和真、朝から大人気だね」
「みゆ、見てないで助けてくれ」
「僕まで入ったら、もっと大変になるよ?」
「入るつもりだったのか……」
「……わたしは、入らんから」
ひかげが小声で呟き、少しだけ和真から目を逸らした。
「ひかげ?」
「な、何でもない……」
ひかげは長い前髪を押さえ、足早に母屋の方へ歩いていく。
「二人とも、そこで争っていても邪魔になるだけよ」
ユエが冷たい声を向けた。
「怪我人を休ませるのでしょう。さっさと移動したらどうなの?」
「僕は邪魔してないよ!」
「十分に邪魔でしょう」
フェンリスが言い返そうとしたところで、酒菜の怒声が飛んだ。
「いい加減にしろ! 全員、さっさと母屋に戻れ!」
その一言で、ようやく移動が始まった。
◇
母屋へ戻ると、酒菜は冷めかけていた味噌汁を温め直した。
ナディアのためにも新しい朝食が用意され、全員が改めて食卓を囲む。
和真の右隣にはナディア。
左隣にはフェンリス。
ナディアが当然のように隣へ座った結果、フェンリスも譲らなかったためである。
ユエは二人の正面へ座り、ナディアから目を離そうとしない。
「それで?」
食事が一段落したところで、酒菜が話を切り出した。
「あんたと和真が知り合いなのは分かった。だが、俺たちはそれ以外を何も知らねえ。まず、どうやってこの世界へ来た?」
「その前に、私から確認したいことがあります」
リディアが義手から術式画面を開く。
そこには、先ほど計測した次元門の構造が、複雑に絡み合う線となって表示されていた。
「ナディアが通過した次元門は、これまで敷地内で発生した転移現象とは構造が異なっていました。誰かに召喚されたのではありませんね?」
「ああ。俺様が向こう側からこじ開けた」
「向こう側って、ナディアがいた世界からか?」
和真が尋ねる。
ナディアは静かに首を横へ振った。
「違う。俺様がいた場所は、人間の国でも魔族の国でもない」
「じゃあ、どこにいたんだ?」
「和真と俺様が作った、二つの結界の間だ」
和真は眉を寄せた。
「結界の間?」
「人間の国と魔族の国を隔てるため、お前と俺様で結界を張ったことは覚えているな?」
「ああ。俺が人間側、ナディアが魔族側を担当した」
「そうだ。どちらか一方の力で支配されぬよう、それぞれの側へ結界を張った」
ナディアはそこで一度言葉を切った。
「二つの結界が完成した瞬間、その間にあった空間は、俺様たちの力に挟まれて変質した。どちらの国にも属さない、独立した異空間になってしまったらしい」
「らしいって……」
「俺様も、すぐには気づかなかったからだ」
「待ってくれ。結界が完成した時、俺もナディアと一緒にいただろ?」
「ああ。お前も俺様も、すでに二つの結界の間にいた」
和真は記憶を辿るように目を細めた。
結界を完成させた直後、周囲は白く霞んでいた。
遠くの景色は見えず、足元さえ曖昧だったが、巨大な結界を作った影響だと思っていた。
ナディアと話している間も、特に危険な魔力は感じなかった。
「あの場所が……異空間になってたのか?」
「そうだ。だが、あの時の俺様たちは、結界の内側に一時的な歪みが残っている程度にしか考えていなかった」
和真も頷く。
「俺も、結界が安定すれば元に戻ると思ってた」
「あの場で話し合ったあと、俺様はお前をこの世界へ送り返した」
「ああ。ナディアが帰還の道を開いてくれた」
「お前を送り届けるための道だ。一度お前が通れば閉じるように作っていた」
「そのあと、ナディアは魔族の国へ戻ったんじゃなかったのか?」
「俺様も、そのつもりだった」
ナディアの声がわずかに低くなる。
「お前を送り出したあと、俺様は魔族の国へ戻るために歩き始めた」
「歩き始めた?」
「あの場所から魔族側へ抜ければ、すぐに国へ戻れるはずだった。だが、いくら歩いても結界の端に辿り着かなかった」
食卓から音が消える。
「景色は変わらず、振り返っても、お前を送り出した場所すら見えなくなっていた。方向を変え、人間の国側へも向かってみたが、結果は同じだった」
「どちら側にも出られなかったのですか?」
リディアの問いに、ナディアは頷く。
「どれほど進んでも何もない。同じ空間が、どこまでも続いていた」
「そこで初めて、異空間になってると気づいたのか?」
「ああ」
ナディアは和真へ視線を向けた。
「お前を送り出した時点では、俺様も知らなかった。もし気づいていたなら、お前を帰す前に対処していた」
「俺は何も知らないまま、帰ってきたのか……」
「当然だ。お前がいたのは僅かな間だけだった。あの場を歩いていないお前に、異変へ気づけという方が無理な話だ」
「でも、俺の結界も原因なんだろ?」
「俺様の結界も同じだ。二人の力が重なった結果であり、お前一人の責任ではない」
ナディアの声に、和真を責める響きはなかった。
それでも和真は、すぐには言葉を返せなかった。
自分がこの世界へ帰ってきたあと、ナディアは魔族の国へ戻り、和平のために動いているのだと思っていた。
まさか、自分と別れた直後から、誰にも知られない異空間を歩き続けていたなど、考えたこともなかった。
「その空間には、戻るための出口がなかったのですか?」
リディアが尋ねる。
「ああ。二つの結界を内側から破ろうともした。だが、俺様が力を放てば、俺様自身の結界がそれを受け止める。反対側を破ろうとすれば、和真の結界に阻まれた」
「自分たちの結界に、閉じ込められたということですか」
「そういうことだ」
「その場所は、どのような空間だったの?」
みゆが恐る恐る尋ねる。
「何もない場所だ」
ナディアは短く答えた。
「光も闇もなく、空も大地もない。歩いている感覚はあるのに、景色は一つも変わらん。腹が減ることも、眠気を覚えることもなかった。身体が老いることもない」
「そんな場所で、ずっと歩いとったん……?」
ひかげが胸元で両手を握る。
「ああ。止まっていても、何も変わらんからな」
「怖く……なかったん?」
ナディアはすぐには答えなかった。
わずかな沈黙のあと、和真へ視線を向ける。
「恐怖を覚えなかったと言えば、嘘になる」
落ち着いた声だった。
それでも、その言葉の奥にある孤独は隠しきれていなかった。
「どれほど歩いても朝は来ず、夜にもならない。疲れることもなければ、眠ることもできん。やがて俺様は、あの空間には時間という概念そのものが存在しないのだと気づいた」
「時間が存在しない……」
リディアが術式画面へ新たな記録を加える。
「では、自分がどれほど長く閉じ込められていたのかも分からないのですね?」
「ああ。俺様自身に流れる時間では、測ることができなかった。ただ何百年はすぎたはずだ」
「何百年も経ったことは何で分かったの?」
フェンリスが尋ねる。
「結界の外から、ごく僅かに流れ込む魔力があった。その性質が何度も大きく変化した。国を覆う魔力も、そこに生きる者たちの気配もな」
ナディアは静かに目を伏せる。
「その変化から考えれば、元の世界では数百年が過ぎているはずだ。俺様の知っていた国も、人も、すでに残ってはいないだろう」
「数百年……」
和真が呟く。
自分が異世界から帰還してから、この世界ではまだ一年も経っていない。
だが、ナディアが閉じ込められていた結界の外では、それほど長い年月が流れていた。
「それだけ長い間、何をしてたの?」
みゆの問いに、ナディアは迷わず答えた。
「和真を探していた」
和真が顔を上げる。
「俺を?」
「あの異空間から、外へ通じる魔力を探り続けた。元の世界へ戻る道も探したが、それ以上に、お前のいる世界へつながる道を探していた」
「でも、俺の世界の場所なんて分かったのか?」
「分からなかった。どれほど探っても、お前の世界の座標は見つけられなかった」
「それなら、どうして今になって……」
和真が言いかけたところで、ナディアは食卓の向こうに座るユエへ目を向けた。
「二日前、突然、これまで存在しなかった道が現れた」
「二日前?」
和真もユエを見る。
ユエはナディアの視線を受けても表情を変えなかった。
「それが私と関係していると言いたいの?」
「ああ。お前がこの世界へ召喚されたと思われる瞬間、異なる世界をつなぐ道が突然開いた。その道を通して、初めて和真のいる世界の座標を捉えることができた」
食卓の空気が変わる。
「ユエを召喚したことで、ナディアにも俺のいる場所が分かったのか……?」
「そう考えるのが自然でしょう」
リディアが術式画面へ視線を落とす。
「異世界からユエを召喚した際、二つの世界はごく短時間だけ接続されています。その接続の痕跡が、結界の間に生まれた異空間へ届いたのでしょう」
「私が通った道を目印にしたということね」
「正確には、お前が通った道の先に残された、この世界の座標だ」
ナディアの言葉に、ユエが僅かに目を細める。
「それを利用して、次元門を開いたの?」
「ああ。ただし、分かったのは座標だけだ。ここへ通じる道が用意されていたわけではない」
ナディアは治療された脇腹へ手を添える。
「俺様は二つの結界の間へ亀裂を作り、見つけた座標へ向けて無理やり次元門を開いた。途中から空間が激しく捩れ始めたが、引き返す道など残っていなかった」
「それで、その傷を……」
和真の声が低くなる。
「俺様の身体も魔力も、捩れた空間に削られた。最後は力任せに押し通ったが、少しでも迷っていれば、ここまで辿り着けなかっただろうな」
「無茶しすぎだ」
「お前にだけは言われたくない」
「だからって――」
「待ってください」
リディアが二人の会話を止める。
術式画面へ新たな計算式を浮かべ、その数値を素早く確認していく。
「今の説明で、次元門に残っていた異常な揺らぎにも説明がつきます」
「何が分かったんだ?」
「ナディアが閉じ込められていた異空間には、時間という概念がありません。一方、こちらの世界には一定の時間が流れています」
リディアは指先で二つの術式を重ねた。
「時間の存在しない空間と、時間の流れる世界を強引につないだことで、空間だけでなく時間にも捩れが生じたのでしょう」
「時間が捩れた?」
「簡単に言えば、ナディアは到着する場所だけでなく、時代すら定まっていない道を通ってきたということです」
リディアはナディアへ真剣な視線を向ける。
「元の世界では数百年が経過している。それにもかかわらず、和真が帰還してから一年も経っていないこの時代へ到着できたのは、その捩れの影響だと考えられます」
「では、別の時代に出てしまう可能性もあったのか?」
「あったでしょう。何十年も未来へ出ることも、和真が生まれる前へ出ることもあり得たはずです。最悪の場合、どの時間にも到達できず、捩れの中で消滅していた可能性もあります」
和真は思わずナディアへ向き直った。
「そこまで危険だって分かってたのか?」
「空間が捩れていることには気づいていた。だが、その先にどの時間があるかまでは分からなかった」
「それでも進んだのかよ」
「お前のいる世界へ通じる機会など、二度と訪れないかもしれなかったからな」
「だからって、消えるかもしれなかったんだぞ!」
和真の声が強くなる。
ナディアは怒ることなく、その顔を静かに見つめた。
「それでも、俺様はここにいる」
「結果がよければいいって話じゃないだろ」
「ならば、次からは気をつけよう」
「次があってたまるか……」
和真は力なく肩を落とした。
ナディアの無茶を責めたいのに、自分を探すためだったと知っているせいで、それ以上強く言えない。
「でも、ナディアは昔と変わってないんだよな?」
みゆが尋ねる。
「時間がなかったから、歳も取らなかったってこと?」
「それもある。だが、俺様は自分の姿をある程度変えられる」
「では、その姿は本来のものではないのか?」
あおいが首を傾げる。
「俺様の姿であることに変わりはない。ただ、和真が知っている頃に合わせているだけだ」
「俺が知ってる姿に?」
和真が聞き返す。
「何か問題があるか?」
「いや、問題はないけど……」
「ならよい」
ナディアは何事もなかったように味噌汁を口に運んだ。
しばらく誰も口を開かなかった。
数百年という隔たり。
時間の存在しない異空間で続いた孤独。
消滅するかもしれない危険を冒してまで、ナディアがこの世界へ来た理由。
皆が同じ疑問を抱いていることは、言葉にしなくても伝わっていた。
「そもそも、どうしてそこまで和真様を探しておったのじゃ?」
あおいが静かに尋ねる。
「和真とは、もともと敵同士だったのであろう?」
「最初はな」
ナディアは椀を置き、和真へ視線を向けた。
「当時、人間の国と魔族の国は長く争っていた。勇者として召喚された和真と、魔族を率いていた俺様は、互いに倒すべき敵だった」
「最後は俺が勝った。でも、戦いが終わったあとで分かったんだ。人間も魔族も、本気で相手を滅ぼしたかったわけじゃなかった。ただ、長く続いた争いをどう止めればいいのか分からなくなってたんだ」
「俺様は和真に敗れ、命を奪われるものと思っていた。だが、こいつは敵だった俺様の傷を治した」
ナディアは懐かしそうに目を細める。
「そのうえ、一晩中話し合おうなどと言い出した。敵国の魔王を前に、武器すら持たずにな」
「武器を持ったままだと警戒するだろ」
「当然だ。だからといって、普通は丸腰にはならん」
「和真らしいね」
みゆが苦笑する。
「相手を信じすぎて、僕たちが心配するところまで含めて」
「話し合いの末、和真と俺様は戦争を終わらせることにした。両国が再び争わぬよう、それぞれの側から結界を張った」
「すぐに全部がうまくいったわけじゃないけどな」
「それでも、終わりの見えなかった戦争は止まった」
ナディアの表情が柔らかくなる。
「俺様は、和真がいれば、その先も変えていけると思っていた」
「なのに、その和真を元の世界へ送り返したの?」
フェンリスが尋ねる。
「ああ。和真には、帰るべき場所があったからな」
「止めようとは思わなかったの?」
「思わなかったと言えば嘘になる」
ナディアは一瞬だけ目を伏せた。
「だが、俺様の望みだけで和真を引き留めるつもりはなかった。こいつは異世界から無理やり召喚され、六年もの時間を俺たちの世界のために費やした。帰る道を開けるのなら、送り出すべきだと思った」
和真は黙ってナディアの横顔を見つめた。
あの日、ナディアは最後まで普段と変わらない態度を崩さなかった。
戻ることを迷っていた和真の背中を叩き、自分たちのことは心配するなと笑っていた。
その直後、彼女が異空間を一人で歩き始めたことを、和真は今まで知らなかった。
「それなのに、何百年も和真を探したん?」
ひかげが遠慮がちに尋ねる。
「帰ることを認めたなら、どうして……」
「送り出すことと、もう一度会いたいと願うことは別だ」
ナディアは迷わず答えた。
「俺様は和真の帰る場所を奪いたくなかった。ただ、いつか俺様の力でこいつの世界へ行き、もう一度会いたいと思った。それだけだ」
「そのために、消えるかもしれない道まで通ってきたの?」
フェンリスの声には、先ほどまでの強い警戒とは違う感情が混じっていた。
ナディアは静かに頷く。
「そうだ」は
「どうして、そこまで……」
ナディアはフェンリスから和真へ視線を移した。
赤い瞳が、真っ直ぐに和真を捉える。
その表情には大人びた落ち着きがあった。
しかし、頬にはわずかな赤みが差している。
「決まっている」
ナディアは一度も目を逸らさなかった。
「俺様は和真を愛している」
食卓が、静まり返った。
和真はナディアの言葉を理解するまで、しばらく動けなかった。
「……え?」
「聞こえなかったか?」
「いや、聞こえた。聞こえたけど……」
「なら、もう一度言わせるな。俺様とて、多少は恥ずかしい」
そう言いながらも、ナディアは和真から目を逸らさない。
赤みを帯びた頬とは対照的に、その眼差しには迷いがなかった。
「ちょっと待って!」
和真が何かを答えるより早く、フェンリスが椅子を鳴らして立ち上がった。
「急に来て、いきなり何を言ってるの!」
「自分の想いを伝えただけだ」
「それがおかしいって言ってるんだよ! 和真と再会したばかりなのに!」
「お前たちにとっては、そう見えるのだろうな」
ナディアは声を荒らげなかった。
「だが、俺様は長い間、和真を探し続けていた。もう一度会えたなら、必ず伝えると決めていた」
「だからって、いきなり愛してるなんて……!」
「突然であろうと、俺様の想いが偽りになるわけではない」
ナディアの口調は穏やかだった。
フェンリスをからかう様子も、怒らせようとする意図もない。
ただ、抱いている想いをそのまま口にしている。
「それに、俺様は和真へ返事を迫ったつもりはない」
「だったら、どういうつもりなの?」
「言葉どおりだ。俺様が和真を愛していると伝えた。それだけだ」
「それだけって……!」
フェンリスはなおも言い返そうとしたが、続く言葉が出てこなかった。
ナディアは、そんなフェンリスの顔を静かに見つめる。
「お前が和真を大切に思っていることも分かっている」
「なっ……!」
フェンリスの耳が跳ね上がった。
「ぼ、僕はただ、和真が危なっかしいから心配してるだけで――」
「そうか」
ナディアは、それ以上追及しなかった。
「お前がそう言うのなら、今はそれでよい」
「何、その言い方!」
「ナディア、あんまりフェンリスを刺激するなよ」
和真が困ったように口を挟む。
「刺激したつもりはない。見て分かることを言っただけだ」
「それが刺激してるんだよ!」
フェンリスは顔を赤くして叫んだ。
みゆが口元を手で隠しながら、隣のひかげへ小声で話しかける。
「フェンリス、分かりやすいよね」
「み、みゆ……今は言わん方がええと思う……」
「でも、ひかげもそう思うでしょ?」
「わたしに聞かんといて……」
ひかげは困ったように牛耳を伏せ、視線を食卓へ落とした。
「みゆ。面白がって煽るのはやめろ」
酒菜に睨まれ、みゆは小さく肩をすくめる。
「はーい」
「和真も、いつまで固まってんだ」
「そう言われても……」
和真は頭を抱えたくなるのを堪えながら、ナディアを見る。
ナディアが自分を大切に思ってくれていたことは知っていた。
敵として戦い、その後は戦争を終わらせるために何度も話し合った。
互いに背中を預けて戦ったこともある。
元の世界へ帰る直前まで、一番近くで支えてくれた相手でもあった。
だが、その気持ちが恋愛感情だと告げられたことはない。
「ナディア、その……」
「今すぐ答えを出す必要はない」
ナディアが先回りするように言った。
「俺様は、ようやくお前のもとへ辿り着いたばかりだ。今のお前のことも、この世界でどう暮らしているのかも、まだ何も知らん」
「それなら、どうして今言ったんだ?」
「何百年待っても言えなかった言葉だ。会えた瞬間に伝えたくなるのは当然だろう」
「何百年っていっても、ナディア自身には時間が流れてなかったんじゃ……」
「時間を数えられなかっただけだ。お前を探し続けたことに変わりはない」
「そう、だよな……」
和真は返す言葉を失った。
ナディアはそんな和真へ、わずかに表情を緩める。
「困らせたことは謝ろう。だが、言ったことを取り消すつもりはない」
「……分かった」
「お前は自分の気持ちをゆっくり考えればよい。俺様も、その間に今のお前を知ることにする」
その会話を聞きながら、フェンリスは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えていた。
ナディアは、自分の想いを隠そうとしなかった。
和真を困らせたいわけでも、自分の気持ちを押しつけたいわけでもない。
ただ、好きだから好きだと伝えた。
それだけのことを、フェンリスはできずにいる。
みゆが和真に抱きつくと、腹が立った。
リディアが和真の布団へ潜り込んだ時も、あおいが和真と一緒に眠り続けた時も、平静ではいられなかった。
ユエが当然のように和真の近くへ座っていることも気に入らない。
そして今、ナディアが和真へ想いを告げた瞬間、胸の奥から激しい感情が込み上げた。
ナディアを和真から引き離したい。
和真に、彼女の告白を受け入れてほしくない。
自分以外の誰かを特別な相手として見てほしくない。
どうして、そこまで思うのか。
その答えは、もう分かっていた。
認めてしまえば、今までと同じではいられない気がして、目を逸らしていただけだった。
「フェンリス?」
和真の声に、フェンリスは我に返る。
「どうした? 急に黙って」
「……何でもない」
「でも、顔が赤いぞ」
「何でもないって言ってるでしょ!」
「なんで怒るんだよ……」
心配そうに顔をのぞき込んでくる和真から、フェンリスは慌てて視線を逸らした。
そんな二人を見たナディアは何かに気づいたようだったが、何も言わずに味噌汁の椀を持ち上げた。
「話が一段落したなら、次を決めるぞ」
酒菜が食卓を右手で軽く叩く。
「告白の返事は、和真が自分で考えることだ。俺たちが騒いでも仕方ねえ」
「でも――」
「フェンリス」
酒菜に名前を呼ばれ、フェンリスは不満そうに口を閉じた。
「今はナディアの今後についての話が先だ。あんた、これからどうするつもりだ?」
ナディアは椀を置き、酒菜へ顔を向ける。
「和真のそばにいる」
「そういう話じゃねえ。暮らす場所や、今後の生活をどうするかって聞いてるんだ」
「ならば、ここで暮らす」
「勝手に決めないでよ!」
フェンリスが再び立ち上がりかける。
「座ってろ」
「だって酒菜!」
「まず本人の希望を聞いてるだけだ」
酒菜に制され、フェンリスは渋々椅子へ座り直した。
「ナディア。元の世界へ戻ることはできるのか?」
「すぐには無理だろうな」
「次元門を開いた方法を使えないの?」
みゆの問いに、ナディアは首を横へ振る。
「こちらへ来るために使った道は、俺様が通った直後に閉じた。再び開こうにも、結界の間にある異空間の座標を、こちら側から捉えることができん」
「では、元の世界へ帰る手段もないということですか?」
リディアが尋ねる。
「今のところはな。仮に戻れたとしても、俺様の知っている時代とは異なる。国が今も存在しているかさえ分からん」
ナディアの表情に、ほんの僅かな陰りが差す。
「俺様が魔王だったのは、あの空間へ閉じ込められるまでの話だ。外では何百年もの時間が流れた。今の国を治めている者がいるのなら、その者こそが今の魔王だろう」
「戻ったとしても、居場所が残っているとは限らぬのじゃな」
あおいの言葉に、ナディアは静かに頷いた。
「そういうことだ」
誰もすぐには口を開かなかった。
ナディアは強い。
かつて一つの国を治めていた魔王であり、一人でも生きていけるだけの力を持っている。
それでも、この世界については何も知らない。
帰る場所もなければ、頼れる相手も和真以外にはいない。
「……ほな、追い出すんは無理やと思う」
ひかげが遠慮がちに口を開いた。
皆の視線が集まると、牛耳を伏せながらも言葉を続ける。
「ここが、どんな世界なんかも知らんのやろ? 行く場所もないのに、一人で出ていけって言うんは……かわいそうやから」
「わらわも同じ考えじゃ」
あおいが尻尾を揺らしながら頷く。
「わらわたちも、行く当てがないところを和真様に迎え入れてもらった。ナディアだけを拒むことはできぬ」
「僕も賛成」
みゆが手を上げた。
「魔王って聞いた時は驚いたけど、今のところ悪い人には見えないしね。それに、追い出したところで和真を探して戻ってきそうだし」
「当然だ」
「ほらね」
「僕もいいよ!」
ピピが元気よく翼を上げる。
「ナディアは強そうだから、一緒にいれば魔物が来ても安心!」
「あんたは何でもいいんじゃねえのか?」
「何でもよくないよ! 焼肉をくれる人なら、もっといい!」
「結局それかよ」
酒菜が呆れた声を漏らす。
ナディアはピピを見つめたあと、僅かに口元を緩めた。
「肉程度なら、いくらでも用意してやろう」
「本当!?」
「魔物を狩ればよいのだろう?」
「この世界で勝手に魔物を狩ってくるな」
和真がすぐに止める。
「そもそも、この世界に魔物はいないからな」
「不便な世界だな」
「その認識も少しずつ直してもらわないとな……」
和真は今後を想像し、早くも疲れたように息を吐いた。
「居住可能な部屋自体は残っています」
リディアが術式画面を操作する。
「ただし、すぐに正式な入居を認めることには賛成できません」
「俺様の魔力が問題か?」
「それもあります。ユエが加わった影響で、敷地の防護術式は現在も調整中です。そこへナディアほど強い魔力を持つ者が増えれば、術式が誤作動する可能性があります」
「必要なら、力を抑えよう」
「抑えた状態と、通常時の両方で計測します。また、先ほどの次元門が敷地へ影響を残していないかも調べる必要があります」
「好きにしろ。調査には協力する」
「もう一つあります」
リディアはナディアの角へ視線を向けた。
「敷地の外へ出る際、その姿では目立ちすぎます」
「この角のことか?」
「角だけではありません。魔力を感知できる者が見れば、人間ではないとすぐに分かるでしょう」
「その程度なら問題ない」
ナディアが自分の角へ指先で触れる。
赤黒い魔力が身体を薄く包んだ。
次の瞬間には、額から伸びていた黒い角が消えている。
赤い瞳の輝きも弱まり、全身から漂っていた濃密な魔力も、人間とほとんど変わらない程度まで抑えられた。
「これでよいか?」
「……見事ですね」
リディアはすぐに計測術式を向ける。
「外見だけを変えたのではなく、魔力の波長まで人間に近づけています」
「魔王が正体を隠さなければならない状況もある。そのための術だ」
「では、不可視化装置は必要ありませんね。念のため詳しい測定は行いますが、外出にも大きな問題はないでしょう」
「待ちなさい」
それまで黙っていたユエが、静かに口を挟んだ。
「ここに住むことを許可する前に、確認すべきことがあるわ」
「何だ?」
ナディアとユエの視線がぶつかる。
「貴女が人間へ危害を加えない保証はあるの?」
「俺様が和真を傷つけるとでも?」
「和真だけの話ではないわ。この場所には、他にも大勢が暮らしているのでしょう」
ユエは冷たい表情のまま、ナディアから目を逸らさない。
「貴女自身が危害を加えなくても、貴女の力が周囲へ影響を及ぼす可能性もある。先ほどの次元門のようにね」
「それについては否定せん」
ナディアは素直に認めた。
「俺様も、この世界の法則をまだ理解していない。知らぬうちに問題を起こす可能性はあるだろう」
「随分あっさり認めるのね」
「分からぬものを分かると言っても意味はない。問題があるなら覚えればよい」
「それで済まないこともあるわ」
「ならば、お前が見張っていればよい」
ナディアの言葉に、ユエが僅かに眉を動かす。
「私に監視されながら暮らすつもり?」
「俺様が信用できんのだろう? 時間をかけて確かめればよい」
「貴女が何かしようとした時は、私が止めるわ」
「できるものならな」
二人の間に、張りつめた空気が流れる。
「ナディア、煽るな。ユエも喧嘩を売るなよ」
和真が間へ割って入ると、ユエは冷たい視線を向けた。
「私は当然の確認をしているだけよ。貴方は知り合いだからといって、簡単に信用しすぎなの」
「ナディアとは長い付き合いなんだ」
「過去の貴女が知っている相手と、今ここにいる相手が同じだとは限らないでしょう」
「俺を女にするな」
「……細かいことを気にするのね」
「細かくないだろ」
みゆが堪えきれずに吹き出した。
「ユエ、まだ日本語に慣れてないところがあるんだね」
「意味が通じているなら問題ないわ」
「問題あるから直してくれ」
和真の訴えを、ユエは聞こえなかったように無視した。
酒菜がため息をつき、再び食卓を右手で叩く。
「一度に全部決めようとするな」
言い争いかけていた全員が酒菜を見る。
「まず、ナディアは今日一日ここで身体を休めろ。和真に傷を治してもらったからって、完全に回復したわけじゃねえだろ」
「この程度なら――」
「怪我人の強がりは聞いてねえ」
酒菜に睨まれ、ナディアが僅かに目を見開く。
やがて、諦めたように肩をすくめた。
「分かった。お前に従おう」
「リディアは防護術式とナディアの魔力を確認。ユエは必要ならそれを手伝え。勝手にナディアを攻撃するなよ」
「向こうが何もしなければ、私から手を出すつもりはないわ」
「フェンリスもだ」
「僕は攻撃なんてしないよ!」
「朝から一番飛びかかってたのは、お前だろ」
「あれは和真から引き離そうとしただけだよ!」
「同じことだ。みゆも面白がって煽るな」
「僕まで?」
「お前は放っておくと絶対に煽る」
「信用ないなあ」
口では不満そうにしながらも、みゆは楽しそうに笑っている。
酒菜は最後に和真へ視線を向けた。
「和真。あんたはどうしたい?」
「俺?」
「ナディアはあんたを頼ってここまで来たんだ。ほかの奴の意見だけ聞いて、あんたの考えを聞かないわけにはいかねえだろ」
和真は隣に座るナディアを見る。
人間と魔族の戦争を終わらせるため、ともに結界を張った相手。
自分を元の世界へ送り返したあと、誰にも知られない異空間へ取り残された人。
時間さえ存在しない場所で、何百年もの間、自分のいる世界を探し続けていた。
ようやく見つけた道へ飛び込み、空間と時間の捩れに身体を削られながら、それでも辿り着いた。
そんなナディアへ、出ていけと言えるはずがない。
「ナディアがここで暮らしたいなら、俺は受け入れたい」
「和真!」
フェンリスが声を上げる。
「ただし、今日すぐに全部を決めるんわけじゃない」
和真はフェンリスを落ち着かせるように続けた。
「リディアの調査が終わるまでは、ひとまず滞在してもらう。その間に、この世界のことや、ここで暮らすための決まりを覚えてもらう。それで問題がなければ、改めて皆で話し合う。それでどうだ?」
「妥当だと思います」
リディアが頷く。
「私は異論ないよ」
みゆもすぐに賛成する。
「わらわも、それでよいと思うぞ」
「わ、わたしも……」
あおいとひかげも続いた。
「僕も賛成! 今日の晩御飯は焼肉?」
「その話はしてねえよ」
酒菜がピピの頭を軽く小突く。
全員の視線が、最後まで黙っているフェンリスへ集まった。
「……僕が反対しても、追い出したりはしないんでしょ?」
「行く場所がない奴を放り出すことはできねえからな」
酒菜が答える。
フェンリスは納得できない様子でナディアを見た。
ナディアは言葉を挟まず、その視線を正面から受け止めている。
「和真の部屋には入らない?」
「フェンリス?」
「大事なことだよ!」
和真の戸惑いを無視し、フェンリスはナディアを睨み続ける。
「勝手に和真の布団へ入ったり、寝てる和真に抱きついたりしない?」
「俺様は、まだ何もしていないのだが」
「これからするかもしれないでしょ!」
「さて、どうだろうな」
「ナディア」
和真に名前を呼ばれ、ナディアは小さく笑う。
「冗談だ。和真の許可なく部屋へ入るつもりはない」
「本当に?」
「ああ」
「抱きつくのは?」
「それは約束できん」
「なんで!」
「フェンリス、落ち着けって!」
再び立ち上がったフェンリスを、和真が慌てて止める。
「やっぱり反対! 絶対に何かするつもりだよ!」
「俺様は自分の気持ちに素直なだけだ」
「それが危ないって言ってるんだ!」
「はいはい。そこまでだ」
酒菜が二人の間へ強引に割って入る。
「ナディアは当面、空いてる部屋を使え。和真の部屋とは離れた場所にする。それなら文句ねえだろ」
「俺様は和真と同じ部屋でも構わんぞ」
「僕が構うよ!」
「和真も構う。そうだろ?」
酒菜に尋ねられ、和真は勢いよく頷いた。
「ああ。すごく構う」
「残念だ」
「本当に残念そうに言うなよ……」
和真が疲れたように肩を落とす。
「とにかく、今日は仮の滞在だ」
酒菜は話をまとめるように全員を見回した。
「正式にここで暮らすかどうかは、リディアの調査が終わってから改めて話し合う。それまでに、ナディアにもここの決まりを覚えてもらう。これでいいな?」
「異論はない」
ナディアは素直に頷いた。
「この世界については、俺様も知らぬことばかりだ。教えを請う立場であることは理解している」
「ずいぶん物分かりがいいじゃねえか」
「俺様とて、場所を借りる者が守るべき礼儀くらいは知っている」
「それなら助かる」
酒菜は椅子から立ち上がる。
「部屋の準備は朝飯の片づけが終わってからだ。ナディアはそこに座って休んでろ」
「俺様も手伝おう」
「怪我人は休むのが仕事だ」
「傷は和真が治した」
「魔力はまだ乱れてるんだろ。大人しくしろ」
ナディアは少し不満そうにしながらも、今度は反論しなかった。
酒菜が食器を片づけ始めると、あおいとひかげも席を立って手伝いに向かう。
ピピは残っていた焼き魚へ翼を伸ばし、酒菜に見つかる前にみゆから止められた。
リディアはすでにナディアの魔力を調べるため、新しい術式の準備を始めている。
ユエは警戒を解かないまま、その様子を見つめていた。
いつもの朝へ戻ったようで、昨日までとは決定的に違う。
また一人、この場所へ新たな住人が加わろうとしている。
「和真」
ナディアが静かに呼びかけた。
「何だ?」
「改めて言わせてくれ」
ナディアは周囲を見回す。
騒がしく片づけを始める住人たちを、一人ずつ確かめるように眺めていった。
「よい場所を作ったな」
和真も食卓を囲んでいた皆を見る。
「まあ、毎日騒がしいけどな」
「それでよい」
ナディアの赤い瞳が、穏やかに細められる。
「静かすぎる場所には、もう飽きた」
その言葉を聞き、和真は何も言えなくなった。
ナディアが一人で過ごした時間を思えば、軽々しく慰めることなどできない。
代わりに、少しだけ笑って頷いた。
「だったら、ここにいる間は退屈しないと思うぞ」
「ああ。それはすでに分かった」
ナディアはそう言って、和真の隣で静かに笑った。
その笑顔を見ながら、フェンリスは胸元を押さえる。
先ほどから、鼓動がなかなか落ち着かない。
ナディアが和真の隣にいるだけで、胸の奥がざわつく。
和真へ笑いかけるたびに、二人の間へ割って入りたくなる。
今までのように、ただ嫉妬して怒っているだけではいられなかった。
ナディアは、自分の想いを真っ直ぐに言葉にした。
ならば、自分もいつか向き合わなければならない。
和真の隣にいたいと思う、この気持ちに。
誰にも渡したくないと願う、この想いに。
フェンリスは、ようやく認めた。
自分は、四ノ宮和真に恋をしているのだと。




