↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/73

第二十三話 悪魔の使い魔 ユエ・イクザード

 地下室の古書からユエ・イクザードが召喚され、仕事から戻ったフェンリスまで巻き込んだ騒ぎが落ち着く頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 ユエと和真を結んだ契約は解除できず、彼女を元の世界へ戻す方法も分かっていない。


 食事や入浴は必要なく、身体の維持に使われる魔力も僅かだという。


 ひとまず空色唐辛子荘へ置くことについて、ほかの住人から強い反対は出なかった。


 フェンリスだけは最後まで納得していなかったが、和真が好きでユエを召喚したわけではないことも理解している。


 騒ぎが収まったあと、母屋の居間には別の問題が残されていた。


「それで、今夜こいつをどこで寝かせるんだ?」


 酒菜の一言に、皆の視線がユエへ集まった。


 ユエは食卓から少し離れた場所に立ち、窓の外へ目を向けていた。


「寝かせる必要はないわ」


「どういう意味だ?」


「私は毎日眠る必要がないもの。身体は魔力で維持できる。食事と同じよ」


 ユエは視線を戻し、和真を見た。


「契約を通じて、この人間から魔力が流れてくる限り、数日程度なら眠らなくても問題ないわ」


「この人間じゃなくて、和真」


 フェンリスがすぐに訂正する。


「呼び方は私が決めるわ」


「和真には名前があるの!」


「知っている。呼ばないだけよ」


「何で!」


「二人とも、また始めるな」


 和真が間へ入る。


 ようやく静かになったと思ったのに、このままでは先ほどの言い争いが再開してしまう。


「眠らなくてもいいのは分かった。でも、休む場所は必要だろ」


「必要ないわ」


「一晩中、外に立ってるつもりか?」


「それで困る者がいるの?」


「俺が困る。朝起きて、家の前に悪魔が立ってたら驚くだろ」


「明日には慣れるわ」


「慣れたくないんだよ」


 和真が額を押さえる。


 ユエは本気で何が問題なのか分かっていないようだった。


「空いている部屋ならあるんだよね?」


 みゆが尋ねる。


「ああ。まだ誰も使ってない部屋がある。最低限の家具もあるから、布団を運べば今夜から使えるよ」


「なら、そこでいいんじゃない?」


「私は使うとは言っていないわ」


 ユエが冷たく返す。


「じゃあ、和真の母屋で寝る?」


「駄目!」


 みゆの提案に、フェンリスが誰よりも早く反応した。


「どうして、お前が決めるの?」


「駄目なものは駄目!」


「理由になっていないわ」


「会ったばかりなのに、和真と同じ家で寝るなんて絶対に駄目!」


「私は眠らないと言っているでしょう」


「寝なくても駄目!」


「面倒な獣ね」


「また獣って言った!」


「事実でしょう?」


「そこまでにしろ」


 酒菜が低い声で止めた。


 今度は二人とも口を閉じる。


「母屋に泊める必要はねぇ。空き部屋があるなら、そこを使わせりゃいい」


「俺も、そのつもりだったんだけどな」


 和真がユエへ目を向ける。


「帰る方法が見つかるまででもいい。今日は、その部屋を使ってくれないか?」


「命令?」


「頼んでるだけだ」


「契約を使えば、簡単に従わせられるでしょう」


「そういうことはしない」


「なぜ?」


「お前が嫌がってることを、契約で無理やりさせたくないからだ」


「私が部屋を使わず、貴方の家の前に立ち続けても?」


「それは普通に困る」


「なら、命令すればいい」


「嫌だ」


 和真がはっきりと言い切る。


 ユエは金色の瞳を細め、彼の表情を確かめるように見つめた。


「理解できない人間ね」


「何度も言われてる気がする」


「命令できる立場にありながら、その権利を使わない。貴方は、契約が怖くないの?」


「怖いよ。今だって、何が起きるか分かってない」


「それでも、私を縛らないの?」


「ユエを呼び出したのも、契約を結んだのも俺の意思じゃない。だったら、せめてここにいる間くらい、自分で決めてもらいたい」


 ユエは答えなかった。


 視線だけを和真の手首へ落とす。


 そこには、黒い鎖が巻きついた跡のような赤黒い契約紋が残っていた。


「……部屋を見るだけなら構わないわ」


「使うかどうかは、見てから決めるってことか?」


「ええ」


「それでいいよ」


 和真が立ち上がる。


 ユエへ部屋を用意することが決まり、母屋に集まっていた住人たちも一斉に動き始めた。


 和真と酒菜は、押し入れに残っていた来客用の布団を運ぶ。


 ひかげは未使用のタオルと洗面用具を探し、あおいは湯飲みと急須を用意した。


「カーテン、今のままだと少し短いね」


 先に部屋を確認したみゆが、窓際で首を傾げる。


「使っていないのが私の部屋にあったはず。持ってくるね」


「そこまでしなくてもいいんじゃないか?」


「女の子の部屋だよ。外から見えたら嫌でしょ」


「私は気にしないわ」


「ユエが気にしなくても、周りが気にするの」


 みゆは返事を待たず、自分の部屋へ走っていった。


 その後ろを、ピピが翼を広げて追いかける。


「僕も手伝う!」


「ピピは部屋で待ってて!」


「たぶん!」


「待つ気ないでしょ!」


 二人の声が遠ざかっていく。


 ユエは、自分のために慌ただしく動き始めた住人たちを眺めていた。


「どうして、あの者たちは勝手に動いているの?」


「ユエの部屋を準備するためだろ」


「私は頼んでいないわ」


「頼まれなくても、必要だと思ったからやってるんだよ」


「それで、私に何を求めるの?」


「別に何も」


「何も求めずに、他人へ物を与えるの?」


「皆、ここへ来た時に同じようにしてもらったからな。今度は自分が手伝う側になっただけだと思う」


 和真は布団を抱え直し、アパートへ向かって歩き出した。


「ほら、部屋を見るんだろ?」


 ユエはその背中を見つめる。


 やがて、大きな翼を畳んだまま和真の後を追った。


「勝手に先へ行かないで」


「来ないのかと思ったんだよ」


「見るだけだと言ったでしょう」


「分かってる」


「まだ、ここへ残ると決めたわけではないわ」


「ああ。それも分かってるよ」


 何を言っても、和真は引き止めようとはしない。


 かといって、追い出そうとする様子もなかった。


 ユエには、その距離の取り方が理解できなかった。


 契約によって呼び出された使い魔を、命令で縛らない召喚者。


 帰る方法すらない悪魔へ、自分で残るかどうかを選べと言う人間。


 ユエは和真の後ろを歩きながら、彼の背中を金色の瞳で静かに見つめていた。


ユエへ用意されたのは、アパートに残っていた空き部屋だった。


 玄関を入ると短い廊下があり、その先に居間がある。奥には寝室として使える部屋もあり、一人で暮らすには十分な広さだった。


 和真が壁のスイッチを押すと、天井の照明が部屋を明るく照らした。


 ユエは眩しそうに目を細め、天井を見上げる。


「これも魔道具?」


「電気だよ。さっきも母屋で見ただろ」


「見たからといって、仕組みまで理解したとは言っていないわ」


「俺だって詳しい仕組みは説明できないけどな」


「自分たちが使う道具なのに?」


「使い方さえ分かれば困らないんだよ」


「随分と大雑把なのね」


 呆れたように言いながら、ユエはもう一度スイッチへ目を向けた。


 試すように指先で押す。


 部屋が暗くなる。


 もう一度押すと、明るさが戻った。


「……単純ね」


「気に入ったのか?」


「使い方を確認しただけよ」


 ユエは素っ気なく答えたが、その後も二度ほど照明をつけたり消したりしていた。


「遊んでないで、布団を敷くぞ」


「遊んでいないわ」


 和真が抱えていた布団を床へ下ろす。


「少し埃っぽいな。しばらく使ってなかったから、軽く掃除したほうがよさそうだ」


「その程度なら、俺がやる」


 後ろから入ってきた酒菜が、右手に持っていた掃除道具を床へ置いた。


「和真は布団を敷いとけ。床は俺が拭く」


「でも、片腕で大丈夫か?」


「あ?」


「いや、掃除道具を持ちながらだと大変かと思って」


「掃除くらいできるに決まってんだろ。馬鹿にすんな」


「そういうつもりじゃないって」


 酒菜は和真を追い払うように手を振ると、慣れた様子で掃除を始めた。


 ユエは部屋の入り口に立ったまま、その動きを眺めていた。


「本当に、片方の腕しかないのね」


 酒菜の手が止まる。


「ユエ」


 和真が咎めるように名を呼んだ。


「見たままを言っただけよ」


「だからって、何でも口にしていいわけじゃないだろ」


「構わねぇよ」


 酒菜は気にした様子もなく、再び床を拭き始める。


「こいつの言うとおり、俺には左腕がねぇ。見りゃ分かることだ」


「不便ではないの?」


「不便に決まってんだろ」


「なら、新しい腕を作ろうとは思わないの?」


「作れるなら、とっくに作ってる」


「リディアなら作れるかもしれないぞ」


 和真が言うと、酒菜は即座に首を横へ振った。


「いらねぇよ」


「どうして?」


「今さら新しい腕がついたところで、邪魔になるだけだ。俺はこの身体で戦うことにも、暮らすことにも慣れてる」


「そう」


「それだけか?」


「本人が必要ないと言うのなら、私が口を出すことではないわ」


「なら、最初から余計なこと聞くんじゃねぇ」


「興味を持っただけよ」


「悪魔ってのは、どいつも遠慮がねぇのか?」


「貴方が人間を基準に考えているだけでしょう」


「俺は鬼だ」


「知っているわ」


「なら、人間と一緒にすんな」


「貴方も私をほかの悪魔と一緒にしたでしょう」


 二人の視線がぶつかる。


「喧嘩するなら、せめて掃除が終わってからにしてくれよ」


 和真が間へ入ると、酒菜は鼻を鳴らして作業へ戻った。


 ユエもそれ以上は何も言わず、室内を見回した。


 部屋にある物は、低い机と棚、それに小さな箪笥くらいだった。どれも長く使われていないらしく、薄く埃を被っている。


「随分と物が少ないのね」


「必要な物は、これから揃えればいいだろ」


「私は何も必要としていないわ」


「今はそうでも、住んでたら必要になるかもしれない」


「だから、住むとは決めていないでしょう」


「分かってるよ。必要になった時の話だ」


 和真は布団を広げながら答える。


 ユエは何か言い返そうとしたものの、言葉を飲み込んだ。


 その間にも、ほかの住人たちが必要だと思った物を次々と運び込んでくる。


「タオルと、洗面用具です……」


 ひかげが両腕に抱えてきた物を、洗面所の棚へ置いた。


「必要ないかもしれませんけど……一応……」


「使う予定はないわ」


「ご、ごめんなさい……」


「なぜ謝るの?」


「邪魔だったかと……」


「邪魔なら、そう言っているわ」


 ひかげが長い前髪の奥から、恐る恐るユエを見る。


「では……置いておきます」


「ええ」


 短い返事を聞き、ひかげは僅かに安心したように息を吐いた。


 続いて、あおいが盆を手に部屋へ入ってくる。


 盆の上には、湯飲みと急須が載っていた。


「食事を取らぬとしても、茶くらいは飲むことがあるじゃろう」


「水分も必要ないわ」


「必要だから飲むとは限らぬ。香りや味を楽しむために飲む者もおる」


「味を楽しむために?」


「気が向いた時に試してみるとよい」


 あおいは机の上へ湯飲みと急須を置いた。


 ユエはそれを見つめる。


「これを置いて、貴女に何の利益があるの?」


「特にはないのう」


「では、なぜ?」


「客を迎える時に茶を用意するのは、わらわにとって当たり前のことじゃからな」


「私は客ではないわ」


「では、新しい住人への贈り物としておこう」


「住人になるとも言っていない」


「ならば、住人になるかもしれぬ者への贈り物じゃ」


 あおいは柔らかく微笑む。


 ユエはそれ以上言い返せず、湯飲みから視線を逸らした。


「カーテン、持ってきたよ!」


 廊下から、みゆの明るい声が聞こえた。


 使っていなかったらしいカーテンを抱え、その後ろからピピが低い位置を飛んでくる。


 ピピは両足の鉤爪で、小さな袋をつかんでいた。


「ピピ、それ何を持ってきたの?」


「分からない!」


「分からない物を持ってこないで!」


「みゆの部屋にあった!」


「勝手に持ってきたの!?」


「たぶん!」


「たぶんじゃないでしょ!」


 ピピが床へ袋を下ろす。


 中から出てきたのは、猫の顔が描かれた丸いクッションだった。


「あっ、それ私の!」


「ユエにあげる!」


「勝手に決めないでよ!」


「私はいらないわ」


「ほら、ユエもいらないって!」


「なら、僕が使う!」


「それは私のだから!」


 みゆがクッションを取り返そうと手を伸ばす。


 ピピは片足の鉤爪でクッションの端をつかみ、翼を羽ばたかせて逃げようとした。


「部屋の中で暴れるなよ」


 和真が止めようとした直後、クッションが二人の間から抜けた。


 勢い余ったピピが後ろへ転がる。


 大きく広げた翼の先が机へ当たり、その上に置かれた湯飲みが傾いた。


 床へ落ちる寸前、ユエの尻尾が素早く伸びる。


 細長い先端が湯飲みへ巻きつき、割れる直前で受け止めた。


 部屋の中が静かになった。


「おお!」


 ピピが床へ座ったまま目を輝かせる。


「ユエ、尻尾すごい!」


「この程度で騒がないで」


 ユエは尻尾で湯飲みを机へ戻した。


「割れたら危ないでしょう。部屋の中で暴れるのはやめなさい」


「分かった!」


「本当に?」


「たぶん!」


「だから、その返事は何なの?」


 ユエが眉を寄せる。


 みゆはその様子を眺め、にやりと笑った。


「ユエ、もうピピのお姉ちゃんみたいだね」


「違うわ」


「今の言い方、酒菜に似てたよ」


「それは聞き捨てならねぇな」


 掃除を終えた酒菜が立ち上がる。


「俺は、こんな冷てぇ言い方しねぇぞ」


「貴方のほうが乱暴でしょう」


「何だと?」


「事実を言っただけよ」


「また始まった……」


 和真が頭を抱える。


 先ほどまで静かだった部屋は、あっという間にいつもの空色唐辛子荘と変わらない騒がしさになっていた。


 ユエはその中心に立ちながら、理解できないものを見るように皆を眺めていた。


 誰も、ユエが悪魔であることを忘れたわけではない。


 フェンリスは今も廊下から警戒するようにこちらを見ているし、ひかげも不用意に近づこうとはしなかった。


 それでも、角や翼を恐れて逃げ出す者はいない。


 尻尾が動いたことに驚きはしても、武器へ手を伸ばす者もいなかった。


「ほら、カーテンをつけるよ」


 みゆが窓へ近づく。


「なくても困らないわ」


「ユエが困らなくても、外から部屋の中が見えたら周りが困るの」


「なぜ?」


「着替えているところが見えるかもしれないでしょ」


「見た者の目を潰せば済むわ」


「済まないよ!」


「冗談よ」


 ユエが何事もなかったように答える。


「……本当に冗談?」


「どう思う?」


「和真、ユエが怖い!」


「俺に言われても困る!」


 ユエは騒ぐ二人を眺め、ほんの僅かに口元を緩めた。


 しかし、それに気づいた者はいなかった。


     ◇


 部屋の準備が一段落すると、酒菜が全員を居間へ集めた。


 和真たちは床へ座ったが、ユエだけは窓際に立ったまま腕を組んでいる。


「住むかどうかは、まだ決めてねぇんだったな」


「ええ」


「なら、決めるまででいい。ここにいる間の約束だけは守れ」


「約束?」


「住人を勝手に傷つけねぇこと。外で騒ぎを起こさねぇこと。何か問題が起きた時は、一人で決めずに先に話すことだ」


「私へ命令するつもり?」


「共同生活の決まりを教えてんだ。誰が来ても同じことを言う」


「私が拒んだら?」


「ここじゃ暮らせねぇ」


 酒菜はユエの目をまっすぐ見返した。


 ユエの瞳へ、僅かに赤い光が混じる。


 その変化を見て、フェンリスの身体へ力が入った。


 和真も思わず立ち上がりかける。


「力ずくで追い出すの?」


「必要ならな」


「酒菜」


 和真が止めようとする。


「お前は黙ってろ。こいつと話してんのは俺だ」


「でも――」


「最初に決めとかねぇと、後で揉めるだろ」


 酒菜の言うことは間違っていなかった。


 和真は何も言えなくなり、二人を見守る。


「貴方は、この私に勝てると思っているの?」


「勝てるかどうかなんざ、やってみなきゃ分からねぇよ」


 酒菜は腰に差した鬼包丁へ手を伸ばさなかった。


 それでも、その場から一歩も退こうとはしない。


「ただな。ここにいる奴らは、和真が拾ってきたからって好き勝手に暮らしてるわけじゃねぇ。皆、自分なりにほかの奴を気にして、できることをやってんだ」


 酒菜が右手で、部屋の中にいる住人たちを示す。


「お前だけ特別扱いするつもりはねぇ。俺たちもお前を勝手に傷つけねぇし、物みてぇに扱ったりもしねぇ。だから、お前も同じようにしろ。それだけだ」


「私が悪魔でも?」


「種族なんざ関係ねぇよ。面倒を起こす奴はぶん殴る。困ってる奴がいりゃ助ける。それで十分だ」


「随分と単純ね」


「分かりやすくていいだろ」


 ユエは酒菜から視線を外し、室内を見回した。


 警戒を解いていないフェンリス。


 面白そうに成り行きを見守るみゆ。


 あおいの後ろから様子を窺うひかげ。


 何も分かっていないらしく、猫のクッションへ顔を埋めているピピ。


 リディアは壁際に立ち、何か起きればすぐ動けるよう機械義手を僅かに開いていた。


 そして、酒菜のすぐ後ろには和真が立っている。


 誰もユエへ全面的な信頼を寄せてはいない。


 だが、最初から敵だと決めつけてもいなかった。


「分かったわ」


 ユエの瞳から赤い光が消え、本来の金色へ戻る。


「ここにいる間だけは、その決まりに従う」


「それでいい」


「ただし、私へ危害を加えた者には、相応の報いを受けてもらうわ」


「先に相談しろ」


「襲われている最中に?」


「そういう時は好きに身を守れ。けど、必要以上にやるな」


「必要かどうかは、私が決めるわ」


「そこも後で話せっつってんだよ」


「面倒ね」


「共同生活ってのは面倒なもんだ」


「貴方たちは、毎日こんな面倒なことをしているの?」


「そうだよ」


 和真が答えた。


「意見が合わなかったら話す。誰かが困ってたら手伝う。悪いことをしたら謝る。それで何とかやってる」


「貴方は簡単に言うけれど、それができない者もいるでしょう」


「その時は、できるまで何度でも話すしかないな」


「話しても理解しなければ?」


「酒菜に任せる」


「おい」


「最後はぶん殴るって顔してたから」


「間違っちゃいねぇけど、人に押しつけんな」


「やはり単純ね」


 ユエが僅かに肩をすくめる。


「努力はするわ」


「最初から約束しろ」


「未来のことまで断言する趣味はないの」


「こいつ……」


「守る気はあるんだろ?」


 和真が尋ねる。


「今はね」


「なら、それでいいよ」


「お前は甘すぎるんだよ」


 酒菜が呆れたように息を吐く。


 それでも、これ以上ユエを問い詰めることはなかった。


     ◇


 全員が部屋を出たあと、和真はユエへ鍵の使い方を説明した。


「ここに差して回せば開く。部屋にいる時は、内側のつまみを回せば鍵がかかるから」


「誰かが侵入したら?」


「鍵がかかってたら、普通は入ってこられない」


「壊せば入れるでしょう」


「普通は壊さないんだよ」


「普通ではない者が来たら?」


「敷地内にはリディアの防犯装置がある。何かあれば、すぐに分かるようになってるよ」


「結局、機械任せなのね」


「この世界では、その機械が普通なんだ」


「頼りないわ」


 ユエは鍵を受け取り、表と裏を確かめる。


「持ち歩いて、なくさないようにな」


「この程度の物を失くすと思っているの?」


「初めて見る物なんだから、念のためだよ」


「私を子供扱いしないで」


「してないって」


 ユエは鍵を指先で軽く回したあと、どこへ入れるべきか分からない様子で自分の衣装を見下ろした。


 和真が小さな革紐を差し出す。


「首にかけるか?」


「必要ないわ」


 ユエは鍵を手の中へ握り込む。


 淡い赤色の光が漏れたかと思うと、鍵の姿が消えた。


「今、どこにやったんだ?」


「私の魔力で作った保管場所へ入れただけよ」


「便利だな、それ」


「この程度で感心しないで」


「失くさないなら何でもいいよ」


「それと、貴方はどこで眠るの?」


「母屋だよ」


「一人で?」


「ああ」


「この敷地には強い者が何人もいるのに、誰も同じ建物にはいないの?」


「皆、自分の部屋があるからな。食事の時は母屋に集まるけど、寝るのは別だ」


「護衛も置かずに?」


「今まで必要なかったからな」


「随分と無防備ね」


「防犯装置があるって言っただろ」


「機械が敵を倒してくれるの?」


「異常を知らせてくれる。後は、皆が駆けつけるよ」


「間に合わなければ?」


「そこまで心配しなくても大丈夫だって」


「貴方の命のことなのに、他人事のように言うのね」


「何年もここで暮らしてるんだ。危険なら、とっくに対策してるよ」


「そう」


 ユエの目が僅かに細くなる。


「何だよ」


「別に」


「何か言いたそうだけど」


「本人が無防備でいたいと言うのなら、私が口を出すことではないわ」


「無防備でいたいわけじゃないんだけどな」


 和真が苦笑しながら扉へ向かう。


「何かあったら、母屋へ来てくれ。夜でも起こしていいから」


「必要がなければ?」


「朝までゆっくりしてくれ」


「だから、休む必要はないと言っているでしょう」


「分かってる。それでも、部屋は自由に使っていい」


「私が壊しても?」


「壊すなよ」


「では、自由ではないわね」


「そういう意味で言ったんじゃない」


 和真は扉を開ける。


「おやすみ、ユエ」


「私は眠らないわ」


「それでも、おやすみ」


 部屋を出ようとする和真へ、ユエが声をかけた。


「人間」


「和真だ」


「……まだ、名前で呼ぶとは言っていないわ」


「名前は覚えてるんだろ?」


「ええ」


「なら、呼べるだろ」


「呼ぶかどうかは私が決める」


「好きにしてくれ」


 和真は小さく笑い、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 ユエは誰もいなくなった部屋の中央に立ち、しばらく動かなかった。


 先ほどまでの騒がしさが嘘のように、室内は静まり返っている。


 机の上には、あおいが持ってきた湯飲みと急須がある。


 棚には、ひかげが用意したタオルと洗面用具。


 窓には、みゆが取りつけたカーテン。


 床には、和真と酒菜が敷いた布団が置かれている。


 部屋の隅には、結局ピピが置いていった猫のクッションまで残されていた。


「必要ないと言ったのに」


 誰へ向けるでもなく呟く。


 ユエは机へ近づき、湯飲みを指先で持ち上げた。


 何の変哲もない器だった。


 魔力も、特殊な術式も込められていない。


 こちらを害するための物ではないことは、見れば分かる。


 だが、何の対価も求めずに誰かから物を与えられることへ、ユエは慣れていなかった。


「新しい住人、ね」


 自分がここで暮らす姿など、まだ想像できない。


 元の世界へ戻る方法が見つかれば、すぐに帰る。


 契約を解除できれば、和真との関係もそれで終わる。


 そのはずだった。


 ユエは湯飲みを元の位置へ戻し、今度は布団を見る。


 足先で軽く押してみると、想像していた以上に柔らかい。


 布団の前へしゃがみ、片手で表面に触れた。


「これで眠るの?」


 悪魔にとって、地面の硬さも気温の変化も大きな問題ではない。


 身を守れる場所さえあれば、それで十分だった。


 柔らかな寝具を用意し、毎日決まった時間に眠る人間の習慣は、ユエには理解しがたいものだった。


 しばらく布団を調べたあと、試すように身体を横たえる。


 背中の翼が邪魔になり、仰向けにはなれない。


 横向きになって翼を身体へ寄せると、布団が僅かに沈み込んだ。


「……悪くはないわね」


 眠る必要はない。


 それでも、身体から力を抜く感覚は嫌いではなかった。


 ユエは目を閉じる。


 すると、自分の内側を流れる僅かな魔力が、普段よりもはっきりと感じられた。


 古書によって結ばれた契約。


 その先には、母屋へ戻った和真がいる。


 和真が歩くたび、契約を通して流れ込む魔力が僅かに揺れる。


 やがて動きが止まり、時間が経つにつれて穏やかになっていった。


 眠りについたのだろう。


 ユエは目を開く。


「本当に、何の警戒もしていないのね」


 召喚した悪魔が、すぐ近くにいる。


 しかも、契約に組み込まれていた罰は既に消えている。


 それを理解していながら、和真はいつもどおり眠ろうとしている。


 あまりにも無防備だった。


「理解できない人間……」


 言葉とは裏腹に、ユエはその場ですぐには起き上がらなかった。


 柔らかな布団へ身体を預け、天井を見つめる。


 聞こえるのは、時折吹く風が窓を揺らす音だけだった。


 誰かが扉を壊そうとする気配はない。


 毒も罠も仕掛けられていない。


 命令を強制されることもなかった。


 このまま何もせず、朝まで過ごしてもよい。


 そう考えた瞬間、ユエは眉を寄せた。


 安心しかけた自分自身が気に入らなかった。


 布団から起き上がり、部屋の鍵を開ける。


「契約の状態を確認するだけよ」


 誰も聞いていないのに、ユエはそう呟いて廊下へ出た。


     ◇


 夜の空色唐辛子荘は静かだった。


 アパートの窓には、まだいくつか明かりがついている。


 みゆの部屋からはテレビの音が漏れ、ひかげの部屋にはパソコンの青白い光が見えた。


 リディアの部屋は暗いが、地下の工房から機械の動く音が微かに響いている。


 ユエは誰にも声をかけないまま階段を下り、共同庭へ出た。


 夜風が長い金髪を揺らす。


 空へ昇ろうと翼を広げかけたところで、動きを止める。


 敷地の外には、人間たちの家が並んでいる。


 夜とはいえ、誰にも見られないとは限らない。


「面倒ね」


 ユエは翼を畳む。


 角と翼、尻尾を消そうと思えば、自分の意思でいつでも消せる。第二十二話で皆の前でも見せている。


 しかし、敷地の中を歩くだけなら、わざわざ姿を変える必要もなかった。


 地面を歩き、母屋へ近づく。


 玄関には鍵がかかっていたが、その気になれば簡単に壊せる程度の物だった。


 窓も同じだ。


 結界も、攻撃を防ぐ障壁も見当たらない。


 代わりに、建物の周囲へ細い魔力の線が張り巡らされていた。


 魔法とは異なる、不規則な気配。


 ユエが指先を近づけると、どこかで小さな金属音が鳴った。


「これが防犯装置……」


 侵入を知らせるための物なのだろう。


 機械に頼る考え方は理解できない。


 だが、少なくとも何も用意していないわけではなかった。


 ユエは母屋の正面へ回り、軒下から二階の窓を見上げる。


 和真の気配は、その部屋から感じられた。


 契約を通じて流れてくる魔力は安定している。


 身体に異常はない。


 周囲にも、敵らしい気配はなかった。


 本来なら、確認を終えた時点で部屋へ戻ればよかった。


 しかし、ユエはその場を動かなかった。


 両腕を組み、母屋の壁へ背を向けて立つ。


「契約の状態を確認するだけよ」


 夜の庭へ、小さな声が落ちる。


「それ以外の意味はないわ」


 返事をする者はいない。


 ユエは目を閉じ、母屋の周囲へ意識を広げた。


 風が木々を揺らす音。


 小さな虫が草の間を動く気配。


 遠くを走る車の音。


 どれも敵ではない。


 何事もなく時間だけが過ぎていく。


 それでもユエは立ち去らなかった。


     ◇


 翌朝。


 和真が玄関を開けると、軒下にユエが立っていた。


 壁に寄りかかることもなく、両腕を組んだまま、朝日に照らされる庭を見つめている。


 長い金髪には、朝露がついていた。


「……何してるんだ?」


 和真が声をかける。


 ユエは金色の瞳だけを、ゆっくりとこちらへ向けた。


「見れば分かるでしょう。ここにいただけよ」


「それは見れば分かる。俺が聞いてるのは、何で朝から玄関前に立ってるのかってことだ」


「朝からではないわ」


「じゃあ、いつからだ?」


「貴方が眠ってから」


「一晩中じゃないか!」


 和真は思わず声を上げた。


「部屋、用意したよな?」


「ええ」


「布団も敷いたよな」


「少し使ったわ」


「使ったのか?」


「横になっただけよ」


「それで、どうしてここにいるんだ?」


「契約の状態を確認していたの」


 ユエの視線が、和真の右手首へ落ちる。


「貴方が眠っている間も、魔力の供給は途切れなかった。少なくとも、アパートと母屋の距離では契約に影響はないようね」


「それを調べるために、一晩中ここにいたのか?」


「それだけではないわ」


 ユエは母屋を見上げる。


「私を呼び出した人間が、どの程度無防備なのか確かめていた」


「どうだった?」


「呆れるほど無防備ね。窓と扉へ鍵をかけただけで、侵入者を防ぐ結界も障壁もない。あれでよく今まで生きてこられたものだわ」


「防犯装置があっただろ」


「あれだけで十分だと思っているの?」


「何かあれば、リディアや皆に知らせが届くんだよ」


「助けが来るまで、貴方が生きていればいいけれど」


「そんなに心配しなくても大丈夫だって」


「心配などしていないわ」


 ユエが即座に否定する。


「契約している以上、貴方の身に何かあれば私にも影響が及ぶかもしれない。それを避けたいだけよ」


「そういうことにしておく」


「勝手に納得しないで」


 ユエが目を細める。


「とにかく、今夜からは自分の部屋にいてくれ。玄関の前に立たれてたら、俺が落ち着かない」


「命令?」


「頼みだ」


「本当に面倒な人間ね」


「昨日から何回目だよ、それ」


 和真が呆れていると、共同庭のほうから砂利を踏む音が近づいてきた。


 朝の散歩から戻ってきたフェンリスだった。


 和真と、そのすぐそばに立つユエを見た瞬間、狼耳がぴんと立つ。


「……何でユエが、朝から和真の家の前にいるの?」


「昨夜からいたらしい」


「一晩中!?」


 フェンリスの声が、朝の空色唐辛子荘へ響き渡った。


「何で!? 自分の部屋があるでしょ!」


「私がどこにいようと、貴女には関係ないわ」


「ある! 和真の家の前は駄目!」


「なぜ?」


「駄目だから!」


「また理由になっていないわね」


「うるさい!」


「朝から騒ぐなって!」


 和真が二人の間へ入る。


 その声に気づいたのか、アパートの窓が一つずつ開き始めた。


「何かあったの?」


 寝癖のついたみゆが窓から顔を出す。


「敵!?」


 ピピも翼を広げて飛び出してくる。


「敵はいないよ!」


「じゃあ、朝ご飯?」


「お前はそればっかりだな!」


 静かだった空色唐辛子荘は、いつもの朝を取り戻していった。


     ◇


 朝食の時間になると、住人たちが母屋へ集まってきた。


 ユエは食事の必要がないと言ったが、和真が皆と話すために来てほしいと頼むと、黙ってついてきた。


 ただし、席にはつかず、和真の椅子のすぐ後ろへ立っている。


「座ればいいだろ」


「必要ないわ」


「後ろに立たれてると食べにくい」


「気にしなければいいでしょう」


「気になるから言ってるんだよ」


 和真が隣の空いた椅子を引く。


 ユエは椅子と和真を見比べ、渋々腰を下ろした。


 その様子を向かいから眺めていたみゆが、にやにやと笑う。


「ユエちゃん、和真の言うことは聞くんだね」


「ちゃんをつけないで」


「じゃあ、ユエ」


「何?」


「和真のこと、ご主人様って呼ばないの?」


「呼ばないわ」


 ユエは迷うことなく言い切った。


「私は無理やり召喚され、勝手に契約を結ばれた。罰が消えたからといって、この人間を主と認めたわけではないもの」


「この人間って……俺には和真って名前があるんだけど」


「知っているわ」


「なら名前で呼んでくれよ」


「考えておく」


「呼ぶ気ないだろ」


 ユエは答えず、食卓へ並ぶ朝食へ目を向けた。


 焼き魚と卵焼き、味噌汁。それに炊きたての白米が並んでいる。


 酒菜が作った朝食だった。


「食わねぇのか?」


 酒菜が尋ねる。


「必要ないわ」


「必要かどうかじゃなくて、食いたいかって聞いてんだ」


「同じことでしょう」


「全然違ぇよ」


 酒菜は卵焼きを一切れ小皿へ乗せ、ユエの前へ置いた。


「毒は入ってねぇ。食いたくなけりゃ残せ」


「……私に食事を与えて、何を求めているの?」


「感想」


「それだけ?」


「それ以外に何があんだ」


 ユエは小皿の上にある卵焼きを見つめた。


 すぐに手をつけようとはしない。


 ピピだけは待ちきれなくなったように、隣から身を乗り出す。


「食べないなら、僕が食べる!」


「ピピ、お前は自分の分があるだろ」


「もう食べた!」


「早すぎるだろ……」


 和真が呆れた直後、ユエが卵焼きを指でつまもうとした。


「箸を使え」


「必要ないわ」


「これから外で食べることがあるかもしれないだろ」


「ない」


「決めつけるなよ」


 ユエはしばらく和真を見つめ、やがて箸を手に取った。


 二本をまとめて握っている。


「それだと食べにくいぞ」


「では、どう使うの?」


「こうだよ」


 和真が自分の箸を持ち、指の位置を一つずつ説明する。


 ユエは黙って見ていたが、一度で同じ持ち方を作った。


 そのまま卵焼きをつかもうとする。


 一度目は、小皿の上へ落ちた。


「……」


「もう少し力を抜いたほうがいい」


「分かっているわ」


 二度目は、無事に持ち上がった。


 ユエは卵焼きを口へ運び、ゆっくりと噛む。


 金色の瞳が、僅かに見開かれた。


「どうだ?」


 酒菜が尋ねる。


「……悪くないわ」


「そりゃどうも」


 酒菜は鼻を鳴らしたが、口元は僅かに緩んでいた。


 ユエは空になった小皿を見下ろす。


 食事は必要ない。


 そう言ったはずなのに、視線は大皿に残った卵焼きへ向けられていた。


「もう一つ食べるか?」


 和真が尋ねる。


「いらないわ」


「そうか」


 和真が自分の皿へ卵焼きを取ろうとする。


 その直前、ユエの箸が大皿へ伸びた。


「いらないんじゃなかったのか?」


「まだ十分に味を確かめていないだけよ」


「一個目で分かるだろ」


「私が決めることよ」


「はいはい」


「適当に返事をしないで」


 ユエは二つ目の卵焼きを口へ運ぶ。


「ユエ、美味しいなら美味しいって言えばいいのに」


 ピピが無邪気に笑った。


「貴方は黙って食べなさい」


「もうない!」


「なら、黙っていなさい」


「たぶん!」


「……どういう返事なの?」


 ユエが眉を寄せる。


 食卓に、小さな笑いが広がった。


 その笑いを聞きながら、ユエは三つ目の卵焼きへ箸を伸ばした。


     ◇


 朝食を終えると、リディアがユエと和真を地下の工房へ呼んだ。


 第二十二話では十分に確かめられなかった契約の状態を、改めて詳しく調べるためだった。


 和真は椅子へ座らされ、右手首に複数の細い器具を取りつけられる。


 向かい側では、ユエがリディアの機械義手を警戒するように見ていた。


「その器具で契約へ余計なことをしたら、ただでは済まさないわ」


「脅さなくても、測定するだけです」


「昨日、古書へ刃を入れようとしていたでしょう」


「内部の術式を確認するためです」


「それを分解って言うんだよ」


 和真が口を挟む。


「結果として古書は崩れましたが、私のせいではありません」


「やはり信用できないわね」


 ユエの瞳が赤みを帯びる。


「ユエ、落ち着け」


 和真が声をかけると、ユエは彼へ顔を向けた。


「貴方は、私よりこの女を信用するの?」


「比べてないって」


「では、私を信用しているの?」


「まだ会って一日も経ってないだろ」


「そう」


 ユエは素っ気なく顔を背ける。


 しかし、瞳はすぐに本来の金色へ戻った。


「始めてもいいですか?」


 リディアが尋ねる。


「勝手にすればいいわ」


「では、失礼します」


 機械義手の指先から、淡い光が伸びた。


 光はユエと和真の手首を包み、赤黒い契約紋へ触れる。


 二人の間に、細い魔力の線が浮かび上がった。


 線は一本ではない。


 和真からユエへ魔力を送るもの。


 互いの位置や状態を確かめるようにつながるもの。


 そして、和真の言葉を契約上の命令として伝えるためのもの。


 複数の術式が絡み合い、一つの契約を形作っていた。


「昨日確認したとおり、契約そのものは残っています」


「解除できないのか?」


「少なくとも、今すぐ安全に解除する方法はありません」


 リディアが空中へ術式の一部を映し出す。


「契約紋が、二人の魔力回路へ深く結びついています。無理に切断すれば、どちらか、あるいは両方の魔力回路が傷つく可能性があります」


「元の世界へ戻す術式は?」


「古書の残骸も調べましたが、見つかっていません。呼び出すことだけを目的に作られていた可能性が高いです」


「そうか……」


 和真が肩を落とす。


 ユエは表情を変えなかった。


「命令は、まだ有効なの?」


「契約上、和真の言葉を命令として伝える部分は残っています」


 リディアが別の術式を拡大する。


「ただし、ユエが逆らった場合に罰を与える術式は、昨日消されたまま停止しています。和真が命じても、ユエの身体を無理やり動かすことはできません。従うかどうかは、ユエ自身が選べます」


「それは昨日、試したとおりね」


「ええ。今回は、ほかに連動する術式が隠されていないことも確認できました」


「なら、命令に従う必要はないのね」


「契約に強制されることはありません」


「そうか。よかった」


 和真が安堵したように息を吐く。


 ユエの視線が、すぐに彼へ向けられた。


「よかった?」


「命令で無理やり従わせることはないって、はっきり分かったからな」


「私が貴方を裏切ることもできるのよ」


「しないんだろ?」


「なぜそう思うの?」


「するつもりなら、昨夜のうちに何かしてる」


「防犯装置があったわ」


「その防犯装置を頼りないって言ってただろ」


 ユエが言葉を止める。


「それに、一晩中俺の家の前にいたのも、襲うためじゃない」


「契約の状態を確認していただけよ」


「分かってる」


「貴方を守ろうとしたわけでもないわ」


「それも分かってるって」


「……本当に分かっているの?」


「少なくとも、俺を殺すつもりがないことはな」


 和真が笑う。


 ユエは理解できないものを見るように彼を見つめた。


「ほかに分かったことは?」


 和真がリディアへ尋ねる。


「魔力の供給量は非常に少ないです。和真の回復量と比べれば、ほとんど誤差ですね。ユエがこの敷地内にいる限り、一定量が流れ続けます」


「どこまで離れられる?」


「正確な距離は、実際に試さなければ分かりません。ただ、町の中を移動する程度なら問題ないと思います」


「試す必要はないわ」


 ユエが即座に言った。


「なぜですか?」


「帰る方法も分からない状態で、契約の範囲を確かめるためだけに遠くへ離れる必要を感じないもの」


「では、必要な外出の際に測定しましょう」


「私が外へ出るの?」


「ずっと敷地内だけで過ごすつもりか?」


 和真が尋ねる。


「問題でも?」


「必要な物を買いに行くこともあるだろ。それに、昨日見せてくれた人間の姿なら町も歩ける」


「人間のふりをしてまで出歩きたいとは思わないわ」


「でも、その服の替えはいるだろ」


 和真の視線が、ユエの黒と赤を基調にした衣装へ向く。


「必要ないわ。汚れたとしても、魔力で清められるもの」


「ずっと同じ服っていうわけにもいかないだろ」


「なぜ?」


「なぜって言われても……」


「人間は面倒なところを気にするのね」


「この町で暮らすなら、その辺も覚えてもらわないと困るんだよ」


「また命令?」


「お願いだよ」


「貴方は、そればかりね」


 ユエが小さく息を吐く。


 その時、工房の扉が静かに開いた。


「終わった……?」


 顔を覗かせたのは、ひかげだった。


 両腕には、畳んだ服を抱えている。


「ユエさんが……外へ行くかもしれないと聞いたので……」


「誰から?」


「和真さんが、昨日……服を用意したほうがいいかもって……」


 ユエの視線が和真へ向く。


「私の知らないところで勝手に決めたの?」


「用意できたらって話をしただけだよ」


「これ……私の予備なんですけど……使いますか……?」


 ひかげが差し出したのは、黒い長袖と落ち着いた色のスカートだった。


「少し大きいかもしれませんけど……今の服よりは、町で目立たないと思います……」


「なぜ、私に貸すの?」


「その服のままだと……皆に見られてしまうので……」


「見られて困ることはないわ」


「でも……落ち着かないかもしれません……」


「私が?」


「和真さんが……」


「俺なのか?」


「女の子と一緒に歩くのに……その服だと、和真さんがずっと見られると思うので……」


「それは確かに落ち着かないな」


 和真が頷く。


 ユエは差し出された服と、ひかげを見比べた。


「汚すかもしれないわ」


「洗えば、大丈夫です……」


「返さないかもしれない」


「その時は……差し上げます……」


「それでは、貴女が困るでしょう」


「予備なので……大丈夫です……」


「貴女も、見返りは求めないの?」


「えっと……」


 ひかげは答えに困り、俯いた。


「似合うかどうか……見せてもらえたら、嬉しいです……」


「それが見返り?」


「た、多分……」


 ユエはしばらく考えたあと、ひかげから服を受け取る。


「分かったわ。借りる」


「あ、ありがとうございます……」


「なぜ、貸した側が礼を言うの?」


「受け取ってもらえたので……」


「やはり、理解できないわね」


 そう言いながらも、ユエは服を受け取った。


     ◇


 ユエは自分の部屋へ戻ると、角と翼、尻尾を消した。


 前に見せたように、人間に変わるのに道具は必要ない。


 淡い赤色の魔力が身体の周囲を流れ、悪魔としての特徴が静かに消えていく。


 長い金髪と、その毛先に混じる赤色。


 金色の瞳。


 それらは元のまま残していた。


 ひかげから借りた服へ着替え、母屋へ戻る。


「可愛い!」


 居間へ入った途端、みゆが真っ先に駆け寄ってきた。


「近いわ」


「ひかげの服、似合ってるよ!」


「そう」


「もう少し嬉しそうにしたら?」


「服が変わっただけでしょう」


「でも、さっきより町の女の子って感じがするよ」


 みゆがユエの周囲を回り、後ろ姿まで確認する。


「触れないで」


「まだ触ってないよ」


「触ろうとしたでしょう」


「ちょっとだけ」


「次に手を伸ばしたら燃やすわ」


「服まで燃えちゃうよ?」


「貴女の手だけ狙うから問題ないわ」


「問題あるよ!」


 みゆが笑いながら距離を取る。


 その横では、あおいがユエの姿を静かに眺めていた。


「よく似合っておる。これならば、町を歩いても大きな騒ぎにはならぬじゃろう」


「髪の色は目立つよね?」


「染めたものだと思われる程度じゃ。今の世には、様々な髪色の者がおるからの」


「便利な世界ね」


 ユエは自分の髪の先を指へ巻きつける。


「角や翼がなくなっても、ユエだってすぐに分かるよ!」


 ピピが嬉しそうに飛び回る。


「当然でしょう。姿の一部を変えただけよ」


「尻尾は?」


「消したわ」


「出して!」


「嫌よ」


「何で?」


「服の邪魔になるでしょう」


「じゃあ、翼は?」


「それも出さない」


「角は?」


「全部出したら、姿を変えた意味がないでしょう」


「むぅ……」


 ピピが不満そうに翼を垂らす。


 ユエはしばらくその様子を見つめたあと、小さく息を吐いた。


 一瞬だけ、細い尻尾がスカートの後ろから現れる。


 先端がピピの頭を軽く撫で、すぐに消えた。


「今、出した!」


「気のせいよ」


「出したよ!」


「見間違いでしょう」


「もう一回!」


「嫌」


 ピピがユエの周囲を飛び回る。


「部屋の中で飛び回るなって!」


 和真が止めると、ピピは仕方なく床へ下りた。


「それじゃ、服を買いに行ってくる」


 和真が財布とスマートフォンを確認しながら言う。


「私も行く!」


 フェンリスがすぐに手を挙げた。


「今日は酒屋の仕事だろ」


「少しくらい遅れても――」


「駄目に決まってるだろ」


「でも、二人だけなんて絶対に危ない!」


「服を買いに行くだけだぞ」


「ユエが危ないの!」


 フェンリスがユエを指さす。


「本人の前で随分な言い方をするのね」


「本当のことでしょ!」


「私がいなければ、この人間一人で服を選ぶことになるけれど?」


「和真は一人で買い物できるよ!」


「では、なぜ私を連れていくの?」


「ユエの服を買うからでしょ!」


「分かっているなら、聞かないで」


「むぅ……!」


 フェンリスが言葉に詰まる。


「ユエ、和真に変なことしないでね」


「変なこととは?」


「変なことは変なこと!」


「貴女の言葉は、いつも説明が足りないわ」


「和真なら分かるよね?」


「俺に振るなよ」


 和真が額を押さえる。


「時間がなくなるから、もう行くぞ」


 和真は玄関へ向かった。


 ユエもすぐに立ち上がり、その後ろへ続く。


「和真!」


「帰ってきたら連絡する。フェンリスも遅刻するなよ」


「絶対だよ!」


「はいはい」


「二回言った!」


「分かったって!」


 背中から声を浴びながら、和真は玄関の扉を開けた。


 ユエは敷地の外へ広がる町を見つめ、僅かに目を細める。


 この世界へ来てから初めて、空色唐辛子荘の外へ出る。


 道の上を、人間たちが行き交っている。


 遠くでは車が走り、見慣れない建物が並んでいた。


 どれもユエの知る町とは大きく異なっている。


「怖いか?」


 和真が尋ねる。


「私が?」


「知らない世界へ急に連れてこられたんだ。不安でもおかしくない」


「私を誰だと思っているの?」


「まだ名前と、悪魔だってことくらいしか知らない」


「なら、覚えておきなさい」


 ユエは和真の隣へ並ぶ。


「ユエ・イクザードは、この程度で怯えたりしないわ」


「そうか」


 和真はそれ以上追及せず、歩き始めた。


 ユエは敷地と町の境目で一度だけ足を止める。


 振り返れば、住人たちが玄関や窓からこちらを見送っていた。


 フェンリスだけは今も心配そうに和真を見つめている。


 ひかげは、ユエが借りた服を着ていることを確かめるように、小さく手を振った。


 ユエはその手へ応えることなく、前へ向き直る。


「勝手に先へ行かないで」


「止まってたのはユエだろ」


「貴方が歩くのを急かしたのでしょう」


「そんなに早く歩いてないって」


「私に合わせなさい」


「はいはい」


「適当に返事をしないで」


 ユエは僅かに歩みを速め、和真の隣へ追いついた。


 二人の姿が、朝の町へ溶け込んでいった。


商店街へ向かう道を歩きながら、ユエは周囲へ絶えず視線を巡らせていた。


 道路を走り抜ける車。


 信号機に従って立ち止まる人々。


 建物の壁を覆う看板や、手のひらほどの薄い機械を見ながら歩く者たち。


 どれもユエにとっては見慣れないものばかりだった。


「さっきから気になる物があるなら、聞けばいいだろ」


 和真が声をかける。


「別に、気になってはいないわ」


「ずっと周りを見てるじゃないか」


「知らない場所で周囲を警戒するのは当然でしょう」


「見るだけで襲ってきそうな物があるのか?」


「先ほどから、鉄の箱が何度も近くを走っているわ」


「車だよ。決められた道を走ってるから、歩道にいれば大丈夫だ」


「絶対に?」


「事故が起きることはあるけど……」


「なら、大丈夫ではないでしょう」


「道路へ飛び出さなければ、滅多にないって」


「随分と曖昧ね」


 ユエは車道から僅かに距離を取り、和真の隣を歩く。


 交差点まで来ると、和真が赤信号の前で足を止めた。


 ユエも一歩遅れて止まる。


「なぜ止まるの?」


「赤だから」


「色に命令されているの?」


「信号だよ。赤は止まれ。青になったら渡っていい」


「誰もいないのに?」


「車が来るかもしれないだろ」


「来たとしても、避ければ済むわ」


「皆がユエみたいに動けるわけじゃないんだよ」


 和真が話している間に、信号が青へ変わった。


 周囲の人々が一斉に歩き始める。


「ほら、渡るぞ」


 和真が先へ進む。


 ユエは信号と歩き始めた人々を見比べ、彼の後を追った。


「面倒な決まりね」


「守る人が多いから、安全に暮らせるんだよ」


「昨日の共同生活の決まりと同じ?」


「まあ、似たようなものかな」


「守らない者もいるでしょう」


「いるよ。だから事故が起きる」


「なら、守らせればいい」


「力ずくで?」


「ほかに方法があるの?」


「話し合いとか、罰金とか、いろいろあるんだよ」


「やはり面倒ね」


 ユエは呆れたように言ったが、次の交差点では和真より先に足を止めた。


 その様子を見た和真が笑う。


「何?」


「いや、ちゃんと覚えたんだなと思って」


「一度聞けば十分よ」


「偉いな」


「子供扱いしないで」


 ユエの瞳が僅かに赤みを帯びる。


「悪かったって」


「本当に分かっているの?」


「分かってるよ」


「なら、笑うのをやめなさい」


 そう言われても、和真の口元から笑みは消えなかった。


     ◇


 二人が最初に入ったのは、商店街にある衣料品店だった。


 自動扉が左右へ開いた瞬間、ユエが立ち止まる。


「今、扉が勝手に動いたわ」


「近づいた人を機械が見つけて開けてるんだよ」


「敵かどうかも確かめずに?」


「店の入り口だからな。客を迎えるための扉だ」


「不用心ね」


 ユエが自動扉の前へ手を出す。


 扉が開く。


 手を引くと、しばらくして閉じる。


 もう一度手を近づけると、再び開いた。


「何してるんだ?」


「反応する範囲を調べているだけよ」


「遊んでないで入るぞ」


「遊んでいないわ」


 昨夜の照明と同じ答えを返し、ユエは店内へ入った。


 色も形も異なる服が、いくつもの棚へ並んでいる。


 ユエは一つずつ見渡したあと、眉を寄せた。


「多すぎるわ」


「昨日までの服一着しかないほうが少なすぎるんだよ」


「どれも似たような布でしょう」


「全然違うよ。季節や着る場所で使い分けるんだ」


「身体の温度くらい、自分で調整できるわ」


「できない人がほとんどなんだよ」


 和真は女性用の服が並ぶ一角へ向かった。


 ユエも続いたが、周囲にいる買い物客から視線を向けられていることに気づく。


「見られているわ」


「髪が目立つからだろ」


「消したほうがいい?」


「角や翼と違って、髪ならそのままで大丈夫だよ」


「見られているのに?」


「綺麗だから見てるだけだと思う」


「そう」


 ユエは興味がないように答えた。


 しかし、僅かに髪を整えてから歩き始める。


 和真は黒い服を一枚手に取った。


「こういうのはどうだ?」


「ひかげから借りた物と大して変わらないわ」


「今の服が嫌じゃないなら、似た感じでいいだろ」


「選ぶ意味がないでしょう」


「じゃあ、ユエが好きなのを選んでくれ」


「貴方が選べと言ったのでしょう」


「俺が持ってきたら、似たような物だって言ったのはユエだろ」


「選ぶ物が悪いのよ」


「難しいな……」


 和真が別の棚から赤い上着を取る。


 ユエは一目見て首を横へ振った。


「明るすぎるわ」


「赤は好きじゃないのか?」


「嫌いではないけれど、その色は軽い」


「色に軽いとかあるのか?」


「あるわ」


 次に濃い赤色の服を見せる。


「これは?」


「形が気に入らない」


「こっちは?」


「飾りが多すぎる」


「じゃあ、これは?」


「地味ね」


「どんな服が欲しいんだよ」


「私に似合う物よ」


「それが分からないから聞いてるんだろ」


 二人が言い合っていると、近くで服を整理していた店員が笑いながら近づいてきた。


「よろしければ、お手伝いしましょうか?」


 和真が助けを求めるように店員を見る。


「お願いします。この子の普段着を探してるんですけど、なかなか決まらなくて」


「この子?」


 ユエの声が低くなる。


「言葉の綾だって」


「お客様は、黒や濃い赤色がお好きですか?」


 店員が尋ねる。


「黒は嫌いではないわ。赤なら、血のように深い色がいい」


「ち、血のように……」


 店員の笑顔が僅かに引きつる。


「ユエ、普通に暗い赤でいいだろ」


「同じ意味でしょう」


「受ける印象が全然違うんだよ」


 和真が訂正すると、店員は納得したように頷いた。


「それでしたら、こちらはいかがでしょう?」


 用意されたのは、黒を基調にした長袖の服と、暗い赤色のスカートだった。


 ユエはしばらく眺める。


「悪くないわ」


「よかった……」


 和真が安堵する。


「では、試着してみますか?」


「試着?」


「着て確かめるんだよ」


「ここで?」


「更衣室があるから、そこで着替えるんだ」


 和真が奥にある試着室を示す。


 ユエは小さな空間を警戒するように見つめた。


「この布の向こうで?」


「外からは見えないよ」


「誰かが入ってきたら?」


「店員さんも俺も止めるから」


「貴方が?」


「ああ」


 ユエは和真の顔を見つめたあと、店員から服を受け取った。


「分かったわ。ここで待っていなさい」


「どこにも行かないよ」


 ユエが試着室へ入る。


 カーテンが閉まってから少し経つと、中から声が聞こえた。


「人間」


「何だ?」


「これの留め具は、どう使うの?」


「見ないと分からないな」


「なら、中へ来なさい」


「行けるわけないだろ!」


 和真が慌てて声を上げる。


 近くにいた客たちが一斉に振り返った。


「何を騒いでいるの?」


「着替えてるところに男を呼ぶなよ!」


「見なければ分からないと言ったのは貴方でしょう」


「店員さんに聞いてくれ!」


 店員は口元を押さえながら、試着室へ近づいた。


「私がお手伝いしますね」


「最初から、そうすればよかったでしょう」


「俺が悪いのか?」


「ほかに誰がいるの?」


 カーテンの向こうから返され、和真は深く息を吐いた。


 しばらくして、試着を終えたユエが姿を見せる。


 黒い上着は身体の線を過度に強調せず、暗い赤色のスカートも落ち着いた印象だった。


「どう?」


 ユエが和真を見る。


「似合ってるよ」


「それだけ?」


「動きにくくないか?」


「問題ないわ」


「なら、それにしよう」


「やはり、それだけなの?」


「ほかに何を言えばいいんだよ」


 ユエは不満そうに目を細める。


 隣に立つ店員が、助け舟を出すように微笑んだ。


「とてもお似合いです。髪のお色とも合っていますよ」


「そう」


 今度の返事には、僅かに満足した様子が混じっていた。


「何で俺が言った時と反応が違うんだ?」


「貴方の感想が足りないからよ」


「似合ってるって言っただろ」


「言葉が少なすぎるわ」


「難しいな……」


 結局、その服に加えて、着回しの利く長袖とスカートを数着、下着や靴下も揃えることになった。


 和真が籠へ入れるたびに、ユエの眉間の皺が深くなる。


「多すぎない?」


「最低限だよ」


「私は一着で十分だと言ったわ」


「洗ってる間はどうするんだ?」


「魔力で汚れを落とせる」


「この世界で暮らすなら、普通のやり方にも慣れてくれ」


「またお願い?」


「ああ」


「本当に、そればかりね」


 文句を言いながらも、ユエは籠から服を戻そうとはしなかった。


     ◇


 会計を終え、和真がいくつもの袋を受け取る。


 店を出たところで、ユエが足を止めた。


「私の物なのに、なぜ貴方が持っているの?」


「持つのを手伝ってるだけだよ」


「貸しなさい」


「結構重いぞ」


「私を誰だと思っているの?」


 ユエが袋を奪うように受け取った。


 細い腕で難なく持ち上げる。


「これくらい、重いうちに入らないわ」


「悪かったよ」


「初めから渡せばいいの」


「じゃあ、頼む」


 和真が残りの袋まで差し出す。


 ユエの目が細くなった。


「全部持たせるつもり?」


「持てるんだろ?」


「持てることと、持たせることは別よ」


「さっき自分の物だって言ったじゃないか」


「貴方が買った物でもあるでしょう」


「どっちなんだよ」


 結局、二人で袋を分けて持つことになった。


 少し歩いたところで、ユエが和真の手元を見る。


「先ほど使っていた紙は何?」


「お金だよ」


「あれと品物を交換したの?」


「そういうことだな」


「どこで手に入れるの?」


「働いて稼ぐんだ」


「貴方が働いて得た物を、私の服と交換したのね」


「ああ」


「なぜ?」


「必要だからだよ」


「貴方には必要ないでしょう」


「ユエには必要だ」


「だから、なぜ貴方が用意するの?」


 和真は少し考えてから答えた。


「俺がユエを召喚したわけじゃない。でも、古書を開いて、結果的にこの世界へ呼び出したのは俺だ」


「事故だったのでしょう?」


「事故でも、何もしなくていい理由にはならないよ。元の世界へ帰れるまで、困らないようにしたいんだ」


「私が貴方へ何も返さなくても?」


「別にいい」


「理解できないわ」


「昨日から、そればっかりだな」


「貴方が理解できないことばかりするからよ」


 ユエは手にした袋へ視線を落とす。


「見返りを求めずに他人へ物を与えれば、利用されるわ」


「そういう人もいるだろうな」


「裏切られることもある」


「あるかもしれない」


「なら、なぜ続けるの?」


「俺が誰かに助けてもらった時、嬉しかったからかな」


 和真は前を見たまま答える。


「困ってる奴がいたら、今度は自分が助ける。それで十分だと思ってる」


「それで裏切られたら?」


「その時は、その時だよ」


「馬鹿ね」


「よく言われる」


 和真が笑う。


 ユエは彼の横顔を見つめ、何も言わなかった。


     ◇


 衣料品店を出たあと、和真は日用品を買うために別の店へ立ち寄った。


 歯ブラシや室内用の履物、髪を整えるための櫛などを籠へ入れていく。


「これは何?」


 ユエが小さな機械を手に取る。


「ドライヤー。濡れた髪を乾かす物だよ」


「魔力を使えば済むわ」


「使わなくても乾かせるんだ」


「魔力を使ったほうが早い」


「じゃあ、いらないか」


 和真が棚へ戻そうとすると、ユエは機械を手放さなかった。


「何だよ」


「使い方を確かめてから決めるわ」


「気になるんじゃないか」


「この世界の道具を調べるためよ」


「はいはい」


「その返事をやめなさい」


 ドライヤーも籠へ入った。


 さらに店内を進むと、ユエが化粧品の並ぶ棚の前で足を止める。


 色とりどりの小さな容器が、整然と並んでいた。


「これは?」


「化粧品だよ」


「顔に何か塗るの?」


「ああ。肌を綺麗に見せたり、唇や目元へ色をつけたりする」


「何のために?」


「綺麗に見せるためだろ」


「私は必要ないわね」


「そうだな」


 和真が即答すると、ユエの眉が動いた。


「少しくらい迷ったらどうなの?」


「必要ないって言ったのはユエだろ」


「貴方は、私がそのままで十分だと思ったから同意したの?」


「そうだけど」


「そう」


 ユエは顔を背け、次の棚へ歩いていく。


 その足取りが僅かに軽くなったことに、和真は気づかなかった。


 買い物を終えて店を出ると、甘い香りが漂ってきた。


 通りの端で、焼き菓子を売る店が営業している。


 ユエの視線が、店先へ一瞬だけ向いた。


「食べてみるか?」


「必要ないわ」


「必要かどうかじゃなくて、食べたいか聞いてるんだよ」


 朝の酒菜と同じ言葉を返され、ユエが眉を寄せる。


「貴方たちは、皆それを言うのね」


「食べることを楽しんでるからな」


「私は興味がないわ」


 そう答えながらも、甘い香りが強くなるたびに視線が動いている。


 和真は小さく笑い、店へ向かった。


「一つください」


「私はいらないと言ったでしょう」


「俺が食べるんだよ」


 和真が受け取ったのは、焼きたてのたい焼きだった。


 半分に割ると、中から湯気と一緒に餡が覗く。


「ほら」


 片方をユエへ差し出す。


「貴方が食べるのではなかったの?」


「一人で全部食べるとは言ってない」


「言葉遊びのつもり?」


「いらないなら、俺が食べるけど」


 和真が手を引こうとする。


 その前に、ユエがたい焼きを受け取った。


「味を確かめるだけよ」


「朝も聞いた気がするな」


「何?」


「何でもない」


 ユエはたい焼きを眺める。


「魚を模しているの?」


「形だけな。中身は甘い餡子だよ」


「変わった食べ物ね」


 警戒するように小さく口をつける。


 柔らかな生地と甘い餡が口の中へ広がった瞬間、ユエの金色の瞳が僅かに見開かれた。


「どうだ?」


「……甘いわ」


「甘い物は嫌いか?」


「そうは言っていない」


 ユエは二口目を食べる。


 今度は先ほどよりも大きかった。


「美味しい?」


「不味くはないわ」


「素直じゃないな」


「貴方に評価される筋合いはないわ」


 そう言いながら、ユエは残りをすべて食べた。


 和真が持っている半分へ、視線が向く。


「もう一つ買うか?」


「いらない」


「俺の分はやらないぞ」


「欲しいとは言っていないわ」


「ずっと見てるから」


「魚の形を、どこから食べるのか確認していただけよ」


「頭からだけど」


「そう」


 ユエは名残惜しそうにたい焼きを見たあと、先へ歩き出した。


     ◇


 商店街を抜ける前に、ユエが小さな雑貨店の前で立ち止まった。


 店頭には髪飾りや小物が並んでいる。


「どうした?」


「少し待ちなさい」


 ユエは棚へ近づき、並んでいる品物を眺める。


 やがて、黒い花を模した髪留めを手に取った。


「それが欲しいのか?」


「私の物ではないわ」


「じゃあ、誰の?」


「前髪で目を隠していた女に渡す」


「ひかげに?」


「服を借りたままでは、借りが残るでしょう」


「本人は見返りを求めてなかっただろ」


「向こうが求めなくても、私が気になるのよ」


 ユエは髪留めを和真へ差し出す。


「これを買いなさい」


「結局、俺の金じゃないか」


「後で返すわ」


「どうやって?」


 ユエが黙る。


 この世界のお金を持っていないどころか、稼ぎ方も知らない。


「そのうち、返せるようになったらでいいよ」


「曖昧ね」


「忘れないなら、それでいい」


「忘れるわけがないでしょう」


 和真が髪留めを買う。


 店を出ると、ユエは受け取った小さな袋を、服の入った袋とは別に持った。


「大事にするんだな」


「借りを返すための物だからよ」


「そういうことにしておく」


「先ほどから、その言い方が気に入らないわ」


 ユエが睨む。


 和真は笑いながら歩き出した。


     ◇


 空色唐辛子荘へ戻る途中、二人は再び大きな交差点へ差しかかった。


 信号は赤だった。


 和真とユエは歩道の端で足を止める。


 反対側では、母親と小さな男の子が青信号になるのを待っていた。


 男の子の手には、赤い風船が握られている。


 風が吹き、風船が大きく揺れた。


「あれは何?」


「風船だよ。中に空気を入れて膨らませてるんだ」


「何の役に立つの?」


「遊ぶ物だから、役に立つ必要はないんだよ」


「役に立たない物を持ち歩くの?」


「楽しいなら、それでいいだろ」


「理解できないわ」


 その時、男の子の手から紐が離れた。


 赤い風船が風に流され、車道へ飛んでいく。


「あっ!」


 男の子が母親の手を振りほどき、風船を追って道路へ飛び出した。


 信号はまだ赤い。


 横から、車が迫っていた。


 母親の悲鳴が上がる。


 和真が地面を蹴った。


 同時に、ユエの金色の瞳が赤く染まる。


 男の子の足元から黒い影が伸び、その身体へ絡みついた。


 強く引き倒さないよう、動きだけを一瞬止める。


 その僅かな時間に、和真が道路へ飛び出した。


 男の子を抱き上げ、迫る車の前から歩道へ跳ぶ。


 車が急ブレーキをかけ、甲高い音を響かせた。


 和真は男の子を抱えたまま着地する。


「大丈夫か?」


 男の子は何が起きたのか分からないまま、目を見開いていた。


 遅れて駆け寄ってきた母親が、何度も頭を下げる。


「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」


「怪我がなくてよかったです」


 和真が男の子を母親へ返す。


 周囲にいた者たちも足を止めていたが、ユエの使った力に気づいた様子はなかった。


 黒い影は、和真が男の子を抱き上げる前に消えている。


「もう道路へ飛び出したら駄目だぞ」


 和真が男の子へ言う。


「でも、風船が……」


 男の子が空を見上げる。


 赤い風船は、既に建物よりも高いところまで飛んでいた。


 ユエが小さく指を動かす。


 風船の進む方向が変わり、ゆっくりと地上へ戻ってきた。


 何も知らない男の子は、落ちてきた紐をつかんで笑顔を見せる。


「戻ってきた!」


「次は離さないようにな」


「うん!」


 母親はもう一度和真へ礼を言い、男の子の手をしっかりと握って去っていった。


 信号が青へ変わる。


 立ち止まっていた者たちも、次第に歩き始めた。


 和真はユエのもとへ戻る。


「今の、ユエだろ?」


「何のこと?」


「男の子を止めたのと、風船を戻したことだよ」


「証拠はあるの?」


「魔力が動いたのを感じた」


「貴方には隠せないのね」


 ユエの瞳が、本来の金色へ戻る。


「助かったよ。ありがとう」


「貴方を助けたわけではないわ」


「でも、あの子を助けただろ」


「あのままでは、貴方が車の前へ飛び出していたもの」


「実際に飛び出したな」


「貴方は、自分の身体が頑丈だからと無茶をしすぎるわ」


「間に合ったからいいだろ」


「私が止めなければ、間に合わなかったかもしれない」


「だから、ありがとうって言ったんだよ」


「……そう」


 ユエは顔を背ける。


「それに、風船まで戻してやっただろ」


「あれを失えば、また道路へ飛び出すかもしれないと思っただけよ」


「優しいところもあるんだな」


 ユエの足が止まる。


「誰が?」


「ユエが」


「今のどこを見て、そう思ったの?」


「知らない子供を助けた」


「貴方が勝手に飛び出すからでしょう」


「風船も戻した」


「再び道路へ出るのを防ぐためよ」


「それを優しいって言うんだよ」


「違うわ」


「じゃあ、そういうことにしておく」


「また、その言い方」


 ユエは不満そうに睨んだが、和真へ反論する言葉は続かなかった。


 その代わり、先ほどより僅かに和真との距離を縮めて歩き始める。


     ◇


 空色唐辛子荘へ戻ると、アパートの前で待っていたみゆとピピが駆け寄ってきた。


「おかえり!」


「お土産は!?」


「ピピ、最初に聞くことがそれなの?」


「じゃあ、おかえり!」


「もう言ったでしょ!」


 ピピは和真の持つ袋へ興味津々で顔を近づける。


「これ、食べ物?」


「ほとんどユエの服だよ」


「食べられない?」


「食べるなよ」


「たぶん!」


「絶対に食べるな」


 和真が袋を高く持ち上げる。


 ユエは二人の横を通り過ぎ、少し離れた場所にいたひかげへ近づいた。


「貴女」


「は、はい……」


 突然声をかけられ、ひかげの肩が跳ねる。


 ユエは雑貨店で買った小さな袋を差し出した。


「受け取りなさい」


「私に……?」


「服を借りた礼よ」


「でも……そんなつもりで貸したわけでは……」


「貴女が必要としなくても、私が借りを残したくないの」


 ひかげは戸惑いながら袋を受け取る。


 中から黒い花の髪留めを取り出した。


「綺麗……」


「貴女の髪に合うと思っただけよ」


「選んでくれたんですか……?」


「ほかに誰が選ぶの?」


「あ、ありがとうございます……大切にします……」


 ひかげは前髪の横へ髪留めをつけようとした。


 しかし、長い前髪に隠れて上手く留められない。


 ユエが短く息を吐く。


「貸しなさい」


「え……?」


「つけてあげると言っているの」


 ユエはひかげの手から髪留めを受け取った。


 長い前髪の一部を崩さないようにまとめ、その横へ黒い花を留める。


「これでいいわ」


「ど、どうですか……?」


「悪くないわ」


 ひかげが嬉しそうに髪留めへ触れる。


 その様子を見ていたみゆが、和真の脇腹を小さくつついた。


「ユエ、思ってたより優しいね」


「聞こえているわよ」


 ユエが振り向く。


「褒めたんだよ?」


「余計なことを言わないで」


「照れてる?」


「燃やすわよ」


「和真、助けて!」


「俺を盾にするな!」


 みゆが和真の背後へ隠れる。


 ユエの瞳が赤くなりかけたところで、ピピが袋へ頭を突っ込んだ。


「甘い匂いがする!」


「いつの間に!?」


 和真が慌てて袋を取り上げる。


 中には、帰りに買ったたい焼きが入っていた。


「皆の分も買ってきたんだよ。夕食の後に食べようと思って」


「今食べる!」


「夕食が入らなくなるだろ」


「入る!」


「駄目だ」


「ユエは食べた?」


「少しだけね」


「ずるい!」


「貴方も待てば食べられるでしょう」


「今がいい!」


「我慢なさい」


「むぅ……」


 ピピが翼を垂らす。


 その様子を見たユエは、和真が持つ袋へ手を伸ばしかけた。


 だが、すぐに止める。


「夕食の後と言ったのでしょう。なら、それまで待たせればいいわ」


「そうだな」


「ユエまで!」


 ピピの声が敷地内へ響き渡った。


     ◇


 夕食の前、リディアが母屋へ駆け込んできた。


「和真、少しいいですか?」


「どうした?」


「防犯装置へ、見慣れない術式が干渉しています」


 その言葉に、居間にいた者たちの視線が集まる。


「誰かが侵入したのか?」


「外部からではありません。敷地内で新しい魔力反応が発生しています」


 リディアの視線が、ユエへ向いた。


「心当たりは?」


「私を疑っているの?」


「今日になって増えた魔力反応です。ほかに候補がいません」


「随分と失礼ね」


「違うなら、確認するだけです」


 二人の間に、険悪な空気が流れる。


「どこで反応してるんだ?」


「母屋の周囲です」


 和真がユエを見る。


 ユエは何も言わず、顔を背けた。


「やっぱり、ユエなのか?」


「害のある物ではないわ」


「何をしたんだ?」


「見れば分かるでしょう」


「見えないから聞いてるんだよ」


 ユエは面倒そうに立ち上がる。


「来なさい」


 全員で母屋の外へ出る。


 ユエが指先を動かすと、建物の周囲へ細い赤色の線が浮かび上がった。


 線は壁や窓、屋根の下を通り、母屋全体を囲んでいる。


「結界か?」


「そこまで強い物ではないわ。敵意を持つ者が触れれば、私に伝わる。それだけよ」


 リディアが機械義手を近づけ、術式を調べる。


「防犯装置へ干渉していたのは、この感知術式ですね。破壊する機能はありません」


「当然でしょう。先に相談しろと言われたことくらい覚えているわ」


「でも、相談してないよな?」


 和真が尋ねる。


「設置しただけで、まだ起動していなかったもの。今から説明するつもりだったわ」


「本当に?」


「疑うなら消すわよ」


「いや、そこまでは言ってないけど」


「では、何が不満なの?」


 ユエが腕を組む。


「貴方たちの機械だけでは頼りないから、私の術式を重ねただけよ。何かあれば、すぐに私が気づける」


「母屋だけに?」


 フェンリスが目を細める。


「何が言いたいの?」


「アパートにはつけないの?」


「リディアの装置があるでしょう」


「母屋にもあるよ!」


「足りないと思ったから追加したのよ」


「和真を守るためでしょ!」


「契約者に死なれれば、私が困ると言ったはずよ」


「やっぱり和真だけ特別!」


「貴女には関係ないでしょう」


「ある!」


「二人とも、外で始めるな!」


 和真が間へ入る。


 酒菜は赤い線を眺めながら、ユエへ尋ねた。


「これに触れた奴を、勝手に攻撃したりはしねぇんだな?」


「敵意を感知するだけよ。その後どうするかは、状況を見て決めるわ」


「決める前に俺たちへ話せ」


「襲われている最中でも?」


「今朝も同じ話をしただろ。急ぎなら先に動いていい。終わった後で説明しろ」


「覚えているわ」


「ならいい」


 酒菜が頷く。


「リディアの装置と一緒に使えるのか?」


「調整すれば問題ありません」


 リディアが答える。


「ユエの術式が異常を感知した時、こちらにも通知が来るよう接続できます」


「勝手に私の術式へ触れないで」


「仕組みを理解しなければ接続できません」


「貴女に理解できるの?」


「試さなければ分かりません」


 二人の視線がぶつかる。


「壊したら許さないわよ」


「その程度で壊すほど未熟ではありません」


「また始まったな」


 和真が苦笑する。


 ユエは母屋を囲む赤い線を見上げる。


「私は、ここへ残ると決めたわけではない」


 小さな声だったが、その場にいる全員へ届いた。


「元の世界へ戻る方法が見つかれば帰る。契約を安全に解除できるのなら、それにも応じるわ」


 和真は黙って続きを待つ。


「ただし、それまではこの場所を使う」


「それって……」


「帰る方法が見つかるまで、空色唐辛子荘に住むと言っているのよ」


 みゆの顔が明るくなる。


「じゃあ、ユエも正式に仲間だね!」


「仲間になるとは言っていないわ」


「住人?」


「部屋を使うだけよ」


「同じだよ!」


「違うわ」


「でも、皆とご飯は食べる?」


「必要はないけれど、味を確かめることはあるかもしれないわ」


「明日の朝も卵焼き食べる?」


 ピピが尋ねる。


「酒菜が作るのなら、考えてあげてもいいわ」


「何で上からなんだよ」


 酒菜が呆れたように言う。


「食いたけりゃ、普通に食いたいって言え」


「私に指図しないで」


「共同生活の決まりを守るんじゃなかったのか?」


「食事の感想まで決まりに含まれているの?」


「今、追加してやろうか」


「勝手に増やさないで」


 酒菜とユエが睨み合う。


 だが、昨日までの張り詰めた空気はなかった。


「とりあえず、これからよろしくな」


 和真が言う。


 ユエは彼を見つめる。


「勘違いしないで。私が自分で残ると決めただけよ。貴方に命じられたからではないわ」


「ああ。分かってる」


「それから、私は貴方を主と認めたわけでもない」


「それも分かってるよ」


「なら、妙な期待をしないで」


「してないって」


「どうかしら」


 ユエは小さく息を吐き、母屋を囲んでいた術式を一度消した。


 リディアと調整してから、改めて起動するつもりなのだろう。


     ◇


 夕食後、約束どおり、和真が買ってきたたい焼きが配られた。


 ピピは両足の鉤爪で器用につかみ、冷めるのを待てずに口をつける。


「あつっ!」


「だから気をつけろって言っただろ!」


「でも美味しい!」


「たぶんじゃないんだな」


「美味しいのは分かる!」


「そこは分かるんだ……」


 みゆが呆れながら、自分のたい焼きを半分に割る。


 あおいは珍しそうに形を眺め、ひかげは黒い花の髪留めへ時折触れながら、小さく食べていた。


 ユエの前にも、一つ置かれている。


「私は、昼に食べたわ」


「これは皆の分として買ったんだ。ユエも今は住人だろ」


「部屋を使うだけだと言ったでしょう」


「いらないなら、僕が食べる!」


 ピピがすぐに身を乗り出す。


 ユエはたい焼きを手元へ引き寄せた。


「貴方は自分の分を食べたでしょう」


「じゃあ、ユエは食べるの?」


「味が変わっていないか確かめるだけよ」


「同じ店で買ったんだから変わらないよ」


「食べなければ分からないでしょう」


 ユエはたい焼きへ口をつける。


 昼と同じ甘さが広がり、目元がほんの僅かに緩んだ。


「美味しい?」


 ピピが尋ねる。


「悪くないわ」


「美味しいって言えばいいのに!」


「貴方はそれしか言えないの?」


「たぶん!」


「もういいわ」


 食卓へ笑い声が広がる。


 ユエは不満そうな顔をしながらも、席を立とうとはしなかった。


     ◇


 その夜。


 自分の部屋へ戻ったユエは、買ってきた服や日用品を一つずつ棚へ収めていた。


 黒い長袖。


 暗い赤色のスカート。


 下着や靴下。


 櫛と、使い方を試すために買ったドライヤー。


 どれも昨日までは持っていなかった物だ。


 机の上には、あおいが用意した湯飲みと急須がある。


 部屋の隅には、猫のクッションも残っていた。


 必要のない物ばかりだった。


 それでも、捨てようとは思わない。


 ユエは急須へ湯を入れ、あおいから教えられたとおりに茶を淹れた。


 湯飲みを口元へ運ぶ。


 僅かな苦味と香りが広がった。


「これも、悪くないわね」


 食事も、茶も、生きるためには必要ない。


 柔らかな布団も、複数の服も、ユエの身体を維持するだけなら不要な物だった。


 だが、必要がないことと、嫌いであることは同じではない。


 ユエはようやく、その違いを理解し始めていた。


 窓の外へ目を向ける。


 母屋の二階には、まだ明かりがついている。


 契約を通して感じる和真の魔力も、まだ穏やかにはなっていなかった。


「今夜は部屋にいろと言っていたわね」


 命令ではない。


 ただの頼みだ。


 従う必要はなかった。


 それでもユエは部屋を出ようとはしなかった。


 代わりに指先へ魔力を集め、窓辺へ小さな赤い光を浮かべる。


 母屋へ張る術式の調整は、リディアと明日行うことになっている。


 今夜だけは、契約を通して和真の状態を確かめれば十分だった。


 しばらくすると、廊下から足音が近づいてきた。


 扉が軽く叩かれる。


「ユエ、起きてるか?」


 和真の声だった。


「眠らないと言ったでしょう」


「入ってもいいか?」


「勝手にすればいいわ」


「それは、いいってことか?」


「いちいち確認しないで」


 扉が開き、和真が顔を覗かせる。


 ユエが部屋の中にいることを確かめると、安心したように息を吐いた。


「本当に部屋にいたんだな」


「私が約束を破ると思ったの?」


「約束はしてなかっただろ」


「頼まれたから、聞いてあげただけよ」


「ありがとう」


「礼を言われることではないわ」


 和真は室内を見回す。


 棚には買ってきた物が片づけられ、机の上には茶を淹れた跡が残っている。


「部屋、少しは気に入ったか?」


「使えなくはないわ」


「布団は?」


「悪くない」


「お茶は?」


「飲めなくはないわ」


「たい焼きは?」


「質問が多いわね」


「全部、悪くないって言いそうだと思って」


「貴方に私の評価を決められる筋合いはないわ」


 和真が笑う。


 ユエは不満そうに睨んだ。


「何を確認しに来たの?」


「今夜も母屋の前に立ってないか確かめに来ただけだよ」


「部屋にいなければ、どうするつもりだったの?」


「連れ戻す」


「力ずくで?」


「話して戻ってもらう」


「私が断ったら?」


「戻ってくれるまで頼む」


「本当に面倒な人間ね」


「もう慣れたよ」


「勝手に慣れないで」


 和真は扉へ向かう。


「じゃあ、おやすみ」


「だから、私は眠らないわ」


「横になるくらいはするんだろ?」


 ユエは布団へ目を向ける。


「気が向いたらね」


「それでいいよ」


 和真が扉を開ける。


 その背中へ、ユエが声をかけた。


「人間」


 和真が振り返る。


「和真だ」


 いつものように訂正する。


 ユエは僅かに目を細めた。


「……おやすみ、和真」


 和真の動きが止まる。


「今、名前で――」


「気が変わったわ。やはり人間でいい」


「待てよ。一度呼んだんだから、もう変えるなよ」


「呼ぶかどうかは、私が決めると言ったでしょう」


「ずるいな」


「何とでも言いなさい」


 ユエは顔を背け、湯飲みを持ち上げる。


 それでも、金色の瞳には僅かな笑みが浮かんでいた。


「分かったよ。おやすみ、ユエ」


 和真が部屋を出る。


 扉が静かに閉まった。


 ユエは一人になった室内で、温かな湯飲みを両手に持つ。


 契約を通して、遠ざかっていく和真の魔力を感じる。


 古書によって無理やり結ばれた契約。


 望んで得たつながりではない。


 使い魔と召喚者。


 本来なら、それだけの関係だった。


 だが、命令できるにもかかわらず命じず、帰る場所のない悪魔へ部屋を用意し、自分で選べと言った人間がいる。


 何の対価も求めず、見知らぬ悪魔を迎え入れた住人たちがいる。


 元の世界へ帰る方法は、まだ分からない。


 契約を解除する方法も見つかっていない。


 それでも、今すぐ答えを出す必要はないのかもしれない。


 ユエは布団へ近づき、身体を横たえた。


 今度は翼を消したまま、仰向けになる。


 柔らかな布団が、静かに身体を受け止める。


「使い魔、ね」


 誰へ向けるでもなく呟く。


 その呼び名を認めたつもりはなかった。


 和真を主と認めたわけでもない。


 ただ、契約が続いている間くらいは、あの無防備な人間を守ってやってもいい。


 ユエはそう自分へ言い聞かせ、目を閉じた。


 窓の外では、空色唐辛子荘の夜が静かに更けていく。


 その夜、ユエが母屋の前へ立つことはなかった。


 代わりに彼女は、用意された自分の部屋で初めて朝まで眠った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。