第二十二話 地下室の古びた古書
資金不足が発覚した翌朝。
朝食を終えた空色唐辛子荘の住人たちは、昨日の話し合いで決めた準備へ取りかかっていた。
母屋の居間では、ひかげがノートパソコンを開き、通販用のページを作っている。
その隣にはリディアが座り、販売候補として選んだ三つの道具を机の上へ並べていた。
「この三つなら、魔力を持たない人でも使用できます。安全のため、性能もこちらの世界の道具より少し便利な程度に抑えました」
「せ、説明は……これで全部ですか?」
「基本的な機能は書きました。足りない部分があれば追加します」
「分かりました。あとは写真を撮って……値段も決めないと……」
ひかげはリディアから渡された説明を確認しながら、通販ページへ入力していく。
まだ公開はできないが、商品の写真と価格を追加すれば、ページの形だけは今日中に完成しそうだった。
「修理の受付はどうするんだ?」
和真が尋ねると、ひかげが画面の一部を指さした。
「最初に……壊れた物の写真を送ってもらう形にしようと思います。何でも修理できると書いたら、リディアさんでも直せない物が送られてくるかもしれないので……」
「送られてきた後で直せないと分かっても困るからな。その方がいいと思う」
「はい……」
「良い判断です、ひかげ」
リディアに褒められ、ひかげは長い前髪の奥でわずかに頬を緩めた。
居間の反対側では、ピピが落ち着かない様子で身体を揺らしている。
「僕は、まだ歌っちゃ駄目?」
「装置が完成するまで待ってください」
リディアが答えた。
「ピピの歌声から、魔力の影響だけを取り除けるか試験する必要があります」
「歌う曲は、もう決めたよ!」
「本当?」
みゆが尋ねると、ピピが大きく頷く。
「知ってる歌を全部歌う!」
「一曲に決めたんじゃなかったの?」
「全部の中から、最初に思い出した歌を歌う!」
「それ、まだ決まってないよね?」
「たぶん!」
ピピは自信満々に答えた。
配信に使う姿については、ひかげが通販ページを作り終えてから考えることになっている。
先に確かめなければならないのは、ピピの歌声を安全に録音できるかどうかだった。
「こっちも大体決まったぞ」
酒菜が一枚の紙を持って、台所から居間へ戻ってきた。
「最初に出す定食は二種類だ。今夜試作して、全員に食わせる」
「試食会だよ!」
その後ろから、みゆも二本の尻尾を揺らしながらついてくる。
「遊びじゃねえぞ」
「分かってるって。あたしはちゃんと接客の練習もするから」
「その前に、勝手に大盛りにしない練習をしろ」
「まだ何もしてないのに!」
「先に言っておかねえと、お前は絶対にやるだろ」
みゆが不満そうに頬を膨らませる。
屋台を出す場所には、駐車場の隣にある空き地を使う予定だった。
駐車場から直接入れるため、客がアパートの間を通る必要はない。周囲も木々で区切られており、住人たちの生活空間とは分けやすい場所だった。
もっとも、場所が決まっただけで、すぐに屋台を始められるわけではない。
必要な手続きについては和真が確認し、酒菜は準備する物を書き出していた。
「それで、こっちが必要な物だ」
酒菜が持っていた紙を机へ置く。
調理器具や食器、保存容器などが細かく並んでいた。
「最低限に絞ったが、全部買うとそれなりにかかるぞ」
「やっぱりそうなるよな……」
「商売を始めるんだから、多少の出費は仕方ねえ。ただ、今ある物で済ませられるなら、その方がいい」
酒菜が母屋の廊下へ目を向ける。
「地下室に、まだ確認してない荷物が残ってるんだろ?」
「ああ。箱が結構積んだままになってる」
「なら、先にそっちを調べよう。食器や調理器具が見つかれば、買う物を減らせる」
「売れそうな物もあるかもしれないよ!」
みゆの猫耳が勢いよく立ち上がった。
「地下室に眠る謎のお宝! 金の壺とか、宝石が詰まった箱とか!」
「そんな物があったら、相続の時に分かってると思うけどな」
「隠されてるから、お宝なんだよ」
「どうして、お前はそんなに楽しそうなんだ」
「宝探しだから!」
みゆは、もう地下室へ行く気になっている。
話を聞きつけたピピも、翼を小さく動かした。
「地下にお肉ある?」
「長い間置かれていた食べ物は、見つけても絶対に食うなよ」
「お肉でも?」
「お肉でもだ」
「たぶん分かった!」
「たぶんじゃ駄目だ」
酒菜がピピへ念を押した。
フェンリスは、すでに酒屋の仕事へ向かっている。
リディアもピピの歌声を調べる装置を完成させるため、亜空間工房へ戻ることになった。
ひかげが通販ページの作業を一段落させてから、残った者たちで地下室を調べることになった。
母屋の廊下の奥にある扉を開くと、地下へ続く階段が現れる。
和真が照明をつけ、先頭に立って下りていく。
「足元に気をつけろよ」
「平気だよー」
みゆが軽い足取りで続く。
その後ろから酒菜、あおい、ピピ、ひかげが地下室へ下りた。
冷たく乾いた空気の中に、古い木と埃の匂いが混ざっている。
階段を下りて右側の壁には、金属製の扉が取りつけられていた。
リディアの亜空間工房へ通じる入口だ。
扉の横にある小さなランプは、工房が使用中であることを示す青色に光っている。
「リディアは作業を始めたみたいだな」
「こっちは俺たちで始めようぜ」
酒菜が反対側の壁を見る。
大小さまざまな箱が、壁際へ積み上げられていた。
古い棚にも、布をかぶせられた道具や、何に使うのか分からない木箱が並んでいる。
「結構あるな……」
小さな物まで含めれば、二十箱以上あった。
「宝の山だ!」
みゆが真っ先に走り出す。
「待て。適当に触るな」
酒菜が二本ある尻尾のうち一本をつかみ、みゆを引き止めた。
「上から崩れたら危ねえだろ。手前から順番に下ろすぞ」
「はーい」
「返事だけは素直だな」
和真と酒菜が、積まれた箱を上から一つずつ床へ下ろしていく。
あおいとひかげは、下ろされた箱の中身を確認する役になった。
翼しかないピピは、足の鉤爪で軽い袋をつかんで運ぶ。
「これは、どこに置くの?」
「まだ中身を見てないから、俺の隣に頼む」
「分かった!」
ピピが袋を和真の隣へ置いた。
地下室で翼を広げると埃が舞ってしまうため、今日は羽ばたかずに歩いている。
「僕、上手になった?」
「ああ。ちゃんと運べてるぞ」
「やった!」
最初の箱から出てきたのは、未使用の食器だった。
湯飲みや皿、小さな鍋まで入っている。
「これなら屋台で使えそうだな」
酒菜が一枚ずつ状態を確認する。
「ひびもねえ。洗って消毒すれば問題ないだろ」
「必要な数を残して、余った分は売れるか調べよう」
「そうだな。これだけでも、買う物を減らせる」
早速、目的に合う物が見つかった。
次の箱には工具が入っていた。
錆びている物もあったが、まだ使えそうな物も多い。
「これはリディアに見てもらった方がよさそうだな」
「呼んでくる?」
みゆが工房の扉へ手を伸ばす。
「後でまとめて見てもらおう。何度も作業を止めさせるのは悪いからな」
「はーい」
三つ目の箱には、古い時計や小型のラジオ、カメラなどが詰め込まれていた。
どれも長い間使われていなかったらしく、表面に薄く埃が積もっている。
「これ、直したら売れるかな?」
みゆが古いカメラを持ち上げた。
「物によると思う。古いままの方が価値のある物もあるらしいから、勝手に直さず先に調べよう」
「和真、ちょっと賢くなったね」
「前からこれくらいは分かる」
「本当に?」
「どうして疑うんだよ」
みゆは笑いながら、カメラを売却候補の場所へ置いた。
金の壺も宝石も出てこなかったが、使えそうな物はいくつか見つかった。
買わずに済む物が増えただけでも、今の空色唐辛子荘にとっては十分な成果だ。
「金の像はないの?」
みゆが空になった箱の底を覗き込む。
「まだ諦めてなかったのか」
「せっかく地下まで来たんだよ?」
「地下室に金の像があるとは限らねえだろ」
酒菜が呆れたように言った。
その時、少し離れた場所で別の箱を開けていたあおいが、和真を呼んだ。
「和真、これはどうするのじゃ?」
あおいの前に置かれた箱には、何冊もの古い本が入っていた。
表紙の傷んだ辞典や、黄ばんだ雑誌、何かの記録帳らしき物が重ねられている。
「古い本なら、値段がつく物もあるかもしれないな」
「わらわには価値が分からぬぞ」
「俺も詳しくない。一冊ずつ確認してみるよ」
和真が箱の前へしゃがみ込む。
上から順番に本を取り出し、表紙と中身を確認していく。
ほとんどは珍しくもない古本だった。
名前や書き込みが残っている物もあり、売却には向いていない。
「これは残す。こっちは、値段を調べてからだな」
本を分けていると、箱の底に敷かれた黒い布が見えた。
ただの敷物ではない。
中央だけがわずかに盛り上がり、何かを包み込んでいる。
和真が布の端へ手を伸ばす。
指先が触れる直前、かすかな違和感を覚えて手を止めた。
「どうしたのじゃ?」
「……魔力を感じる」
あおいの表情が変わる。
和真は意識を集中させた。
極めて弱い反応だった。
注意して探らなければ、見落としていたかもしれない。
しかし、間違いなく布の下から異世界の魔力を感じる。
「みんな、箱から離れてくれ」
和真の声が変わり、地下室の空気が張り詰めた。
みゆが伸ばしかけていた手を慌てて引っ込める。
「危ない物?」
「分からない。ただ、普通の本や道具じゃない」
あおいも気配を探るように九本の尻尾を広げた。
「確かに何かがおる。生き物とも道具とも違う、妙な気配じゃ」
「リディアを呼んだ方がいいな」
和真が工房の扉へ向かおうとした時、扉の横にあるランプが青から白へ変わった。
金属製の扉が開き、亜空間工房からリディアが姿を現す。
「皆さん、どうしました?」
「ちょうどよかった。この布の下から魔力を感じる」
「魔力を?」
リディアの表情が引き締まる。
すぐに箱のそばへ来ると、金色の瞳を細めて黒い布を調べた。
「極めて微弱ですが、確かに反応があります」
「危険な物か?」
「現時点では判断できません。これほど近くにありながら工房内から感知できなかったことを考えると、魔力を封じる処置が施されている可能性があります」
「開けない方がいい?」
みゆが尋ねた。
「中身だけ確認します。皆さんは直接触れないでください」
リディアが機械義手の指先から細い器具を伸ばし、布の端をつまむ。
ゆっくりと黒い布が持ち上げられた。
その下から現れたのは、一冊の本だった。
分厚い黒革の表紙。
表面には見たことのない文字と、複雑な魔法陣が刻まれている。
二本の黒い鎖が本を固く縛り、表紙の中央には暗い赤色の石がはめ込まれていた。
「わあ……すっごく怪しい」
みゆが率直な感想を漏らす。
「触るなよ」
「触らないよ。たぶん」
「ピピみたいな返事をするな」
「僕、呼ばれた?」
「呼んでねえ」
酒菜がみゆとピピをまとめて後ろへ下がらせた。
「この文字、読めるか?」
和真がリディアへ尋ねる。
「いいえ。私の世界で使われていた文字ではありません」
「俺も見たことがない」
通訳魔法も反応しなかった。
そもそも言葉ではなく、術式を組み上げるための記号なのかもしれない。
「鎖を外さずに調べられるか?」
「試してみます。ただ、この場で詳しく解析するのは危険です。専用の容器へ封じ、工房へ運んでから――」
リディアが言い終える前に、表紙の中央にはめ込まれた赤い石が光った。
「下がれ!」
和真が叫ぶ。
全員が一斉に本から距離を取った。
箱の中で、黒い鎖が音を立てる。
誰も触れていないにもかかわらず、二本の鎖が生き物のように動き始めた。
そのうちの一本が箱の縁を越える。
黒い影が、和真へ向かって一直線に伸びた。
黒い鎖が、和真の右手首へ巻きついた。
「和真!」
あおいの声が地下室に響く。
和真が腕を引こうとしても、鎖は外れなかった。
冷たい金属が肌へ食い込み、触れた場所から急速に魔力が吸い出されていく。
「っ……!」
「動かないでください!」
リディアが機械義手を伸ばす。
指先から展開された器具が鎖へ触れようとした瞬間、和真は声を上げた。
「待て! 無理に切るな!」
「ですが、このままでは魔力を奪われ続けます!」
鎖を通じて、微かな気配が伝わってくる。
本の内側ではない。
さらに遠く、ここではない場所にいる何者かと、鎖がつながろうとしていた。
「この先に誰かいる。鎖を無理に壊したら、そいつまで傷つくかもしれない!」
和真が鎖へ自分の魔力を流し込み、吸収される力へ抵抗する。
しかし、鎖はさらに強く右手首を締めつけた。
黒い本の表紙に刻まれた魔法陣が、赤く輝き始める。
「全員、下がれ!」
和真が叫んだ直後、床一面に赤黒い光の線が走った。
本を中心として巨大な魔法陣が描かれ、その範囲が地下室全体へ広がっていく。
積み上げられていた箱が小刻みに揺れ、棚の上から古い道具が落ちた。
「ひっ……!」
ひかげが両耳を押さえ、その場へしゃがみ込む。
ピピはひかげの前へ飛び出すと、両翼を大きく広げて覆いかぶさった。
「ひかげ、動いちゃ駄目!」
酒菜が二人の前に立ち、落ちてくる物を右腕で払い落とす。
みゆとあおいも身構えながら、魔法陣の中央を見つめていた。
「何が始まるのじゃ……?」
「分からない。でも、何かが来る!」
和真が答えた直後、魔法陣の中央から赤黒い光が噴き上がった。
地下室の天井近くまで伸びた光の中で、何かが形を作っていく。
最初に現れたのは、大きく湾曲した二本の角だった。
続いて、長い金色の髪が闇の中で広がる。
毛先だけが、燃え上がる炎のような赤へ染まっていた。
背中にはコウモリを思わせる大きな翼。
腰からは細長い尻尾が伸び、その先端はスペードのような形をしている。
赤黒い光が収まる。
魔法陣の中央には、一人の少女が立っていた。
見た目は十八歳ほど。
色白の肌に、細身の身体。
長い金髪の隙間から覗く金色の瞳が、暗い地下室の中で微かに光っている。
その身体には、何本もの黒い鎖が巻きついていた。
両手首と足首、そして首元。
鎖の先端は床の魔法陣へ沈み込み、そのうちの一本が黒い本を介して和真の右手首につながっている。
少女は閉じていた瞼を、ゆっくりと開いた。
金色の瞳が地下室を見回す。
和真たちの姿を順番に確かめ、最後に右手首を鎖でつながれた和真へ向けられた。
「……あなたが、私を呼び出したの?」
少女が話している言葉を、和真は知らない。
それでも通訳魔法によって、意味だけは自然に理解できた。
和真の近くにいる者たちにも、同じように少女の言葉が伝わっている。
「待ってくれ。俺たちは、地下室でこの本を見つけただけだ」
「その本を起動させたのは、あなたでしょう?」
「勝手に動き出したんだ。俺は召喚なんてしてない」
少女は答えず、自分の身体を拘束している鎖へ視線を落とした。
首元から伸びる鎖。
手足の自由を奪う鎖。
そして、和真へつながっている一本。
その意味を理解したのか、少女の表情から感情が消えた。
「そう。今度は、主従契約というわけね」
「主従契約?」
「呼び出した者を主とし、呼び出された者を従わせる契約よ」
「そんな契約を結んだ覚えはない」
「呼び出した側は、いつも同じことを言うわ」
少女の背中で、大きな翼が広がった。
同時に、凄まじい魔力が地下室を満たす。
空気そのものが重くなったかのような圧力に、みゆとひかげが息を呑んだ。
あおいの九本の尻尾が大きく膨らむ。
酒菜は少女とひかげたちの間に立ち、右手を構えた。
「事情が分からねえのは、こっちも同じだ。まずはその力を抑えろ」
「黙りなさい」
少女の赤い瞳が酒菜へ向けられる。
持ち上げられた指先に、黒い炎が生まれた。
「酒菜!」
和真が二人の間へ入ろうとした瞬間、少女の首元に巻きついた鎖が赤く光った。
「っ……!」
少女の身体から力が抜け、その場に片膝をつく。
指先に生まれていた黒い炎も、一瞬で消えた。
鎖が強く締まり、少女の首と手首へ赤い痕を残していく。
「何だ、これ……」
和真の右手首につながった鎖から、何かが流れ込んでくる。
それまで意味の分からなかった本の文字。
複雑に絡み合っていた魔法陣の役割。
その一部が、知識として和真の頭の中へ直接刻まれていく。
召喚。
服従。
命令。
違反者への罰。
黒い本は和真から奪った魔力を使い、少女との間に強制的な契約を成立させていた。
契約によって主人とされた者へ逆らえば、少女の身体へ苦痛が与えられる。
和真が命令をしていなくても、術式が敵対行為と判断すれば罰が発動する仕組みだった。
「ふざけるな……!」
和真が右手首の鎖を強くつかむ。
「リディア! これを止める方法は!」
リディアが目を細め、展開した器具で二人を結ぶ魔力を調べる。
「契約は、すでに二人の魔力へ深く結びついています! 無理に破壊すれば、彼女の魂にまで影響が出る可能性があります!」
「なら、苦痛を与えてる部分だけを止める!」
「術式が複雑すぎます! 分離するには、もっと詳しい解析が必要です!」
「解析してる間、こいつを苦しませるのか!」
和真は鎖を通じて、自分の魔力を契約術式へ流し込んだ。
幾重にも重なった術式が、頭の中へ押し寄せてくる。
召喚された者をこの世界へ固定する術式。
和真と少女の魔力を結びつける術式。
主人への服従を強いる術式。
そして、命令へ逆らった者へ罰を与える術式。
互いに絡み合い、一つを壊せば別の部分まで崩れるように作られている。
一つ間違えれば、少女を拘束している鎖がさらに強く締まる。
最悪の場合、少女の存在そのものを傷つけるかもしれない。
和真は契約の中心には触れず、罰を発動させている部分だけを探した。
「やめなさい……」
少女が苦痛に耐えながら顔を上げる。
「それ以上触れれば、あなたまで契約に取り込まれるわ」
「もう巻き込まれてる」
「私はあなたを殺そうとしたのよ」
「それでも、こんな物で苦しめていい理由にはならないだろ!」
和真の額を汗が伝う。
右手首へ巻きついた鎖に、細かなひびが入った。
同時に、少女の身体を拘束していた鎖の光が弱まっていく。
「見つけた……!」
罰を与える命令だけを、ほかの術式から切り離す。
和真が流し込んだ魔力によって、鎖の一部が内側から砕けた。
赤黒い光が地下室へ散る。
少女の首と手足を拘束していた鎖が床へ落ち、黒い煙となって消えていった。
和真の右手首に巻きついていた鎖もほどけるように消える。
しかし、すべてがなくなったわけではなかった。
和真の右手首には、鎖をかたどった薄い紋様が残っている。
少女の首元にも、同じ形の紋様が浮かんでいた。
契約そのものは、まだ二人をつないでいる。
それでも、少女へ苦痛を与えていた力は止まった。
「和真、大丈夫?」
みゆが駆け寄ろうとする。
「俺は平気だ。みんなも怪我はないか?」
「こちらは大丈夫じゃ」
あおいが答えた。
ピピにかばわれていたひかげも、小さく頷く。
「わ、私も……大丈夫です」
「僕も平気!」
酒菜は警戒を解かず、ゆっくりと立ち上がる少女を見つめていた。
少女は金色の瞳を和真へ向けたまま、確認するように片手を持ち上げる。
その指先に、再び黒い炎が生まれた。
今度は鎖が現れることも、苦痛が走ることもなかった。
「……本当に止めたのね」
「ああ。罰を与える部分だけは壊した」
「私があなたへ逆らっても?」
「もう苦痛は出ないはずだ」
「私が、あなたを殺そうとしても?」
「それは困るから抵抗する。でも、契約を使って苦しめるつもりはない」
少女の目を細めた。
「理解できないわ」
「俺も、この状況を全部理解できてるわけじゃない」
和真は床へ落ちた黒い本に目を向けた。
二本の鎖は外れ、表紙が開いている。
先ほどまで赤く輝いていた魔法陣は消え、ページに並んでいた文字も急速に薄れ始めていた。
「リディア、この本を調べてくれ。元の場所へ帰す方法が書かれてるかもしれない」
「確認します」
リディアが慎重に黒い本を拾い上げる。
機械義手の指先から複数の器具を伸ばし、消えかけている文字を記録しながらページをめくった。
「いけません。召喚が完了したことで、術式が自壊を始めています」
「止められないか?」
「すでに大半が失われています。残っている部分は記録しますが、帰還に関する術式があるかどうかは……」
リディアが言葉を濁した。
少女の金色の瞳が、黒い本へ向けられる。
「その本で私を戻すことはできないでしょうね」
「分かるのか?」
「召喚と服従契約のためだけに作られた物よ。呼び出した者を帰すことなど、最初から考えられていない」
「それなら、契約だけでも完全に壊せないのか?」
「やめておきなさい」
少女は自分の首元に残った紋様へ触れた。
「召喚術式と契約が一つになっている。無理に破壊すれば、私は元の世界へ戻るのではなく、この場から消滅する可能性があるわ」
地下室が静まり返る。
売れそうな物を探していただけだった。
それが、正体不明の本によって、一人の少女を別の世界から強制的に呼び出してしまった。
「悪かった」
和真が頭を下げる。
少女の眉がわずかに動いた。
「……何を謝っているの?」
「俺が本へ近づいたせいで、お前はこの世界へ呼び出してしまった」
「あなたが作った本ではないのでしょう?」
「それでも、召喚に使われたのは俺の魔力だ」
「勝手に奪われたのでしょう?」
「そうだけど……」
「なら、あなたが謝る理由はないわ」
少女は和真から視線を外した。
声は冷たいままだったが、先ほどまでの明確な敵意は薄れている。
「名前を聞いてもいいか?」
「先に名乗るのが礼儀ではなくて?」
「ああ、そうだな」
和真は姿勢を正し、少女を見る。
「俺は四ノ宮和真。この空色唐辛子荘の管理人だ」
「空色唐辛子荘……?」
「ここにあるアパートの名前だ」
「奇妙な名前ね」
「それについては、俺も否定できない」
少女は和真を見つめた後、周囲にいる者たちへ視線を移した。
猫耳と二本の尻尾を持つみゆ。
九本の狐尾を広げているあおい。
両腕の代わりに翼を持つピピ。
牛の角と耳を持つひかげ。
左腕を失い、身体に傷を残した酒菜。
そして、両腕が機械で作られたリディア。
「ずいぶんと奇妙な者ばかりいる場所ね」
「お前に言われたくない気もするけどな」
「私を見ても、悪魔だと騒がないの?」
「驚きはした。でも、種族だけで敵だとは決めない」
「甘いのね」
「よく言われる」
「褒めていないわ」
「それも分かってる」
少女はしばらく黙ったまま、和真を見つめていた。
やがて、胸元に残った契約の紋様へ触れながら、ゆっくりと口を開く。
「ユエ」
「え?」
「私の名前よ」
金色の瞳が、和真を真っすぐに見据える。
「ユエ・イクザード」
名前を告げても、ユエの表情から警戒が消えることはなかった。
「ユエか」
「気安く呼ばないでもらえる?」
「名前を教えてもらったから、呼んだだけなんだけど……」
「私はまだ、あなたを認めたわけではないわ」
ユエは首元に残った契約の紋様へ触れた。
「本の術式が、あなたを私の主人と定めた。それだけよ。私があなたを主と認めたわけではない」
「ああ。それでいい」
即答した和真に、ユエの眉がわずかに動く。
「契約で決められた関係なんて気にしなくていい。俺も、お前に命令するつもりはない」
「なら、私をどうするつもり?」
「元の世界へ帰す方法を探す」
「見つかる保証は?」
「今はない」
和真は正直に答えた。
「本の文字も、ほとんど消えてる。すぐに方法が見つかるとは言えない」
「そうでしょうね」
ユエは驚いた様子もなく、黒い本へ視線を向けた。
「呼び出した者を帰すつもりがあるなら、最初から服従契約で縛る必要はないもの」
「それでも探す。リディアにも残った術式を調べてもらう」
「私の意思を無視して調べるつもり?」
「契約を解除するために必要な範囲だけだ。嫌なことがあるなら先に言ってくれ」
ユエの金色の瞳がリディアへ向く。
リディアは消えかけた文字を記録しながら頷いた。
「あなた自身を無断で調べることはしません。ただ、和真とあなたに残った契約の紋様は確認させてください。安全に解除する方法を探すために必要です」
「……分かったわ」
ユエは渋々ながら了承した。
「それで、帰る方法が見つかるまで、私はどうすればいいの?」
和真はすぐに答えられなかった。
知らない世界へ突然呼び出され、行く場所もない。
このまま外へ放り出すという選択肢はなかった。
「ここにいてもらうしかないと思う」
「和真」
酒菜が低い声で名前を呼ぶ。
「勝手に決めるな」
「まだ決めてない。今から相談するところだ」
「なら、先にそう言え」
「悪い」
酒菜が大きく息を吐く。
「昨日、金が足りねえって話をしたばかりだ。その翌日に一人増えるとなれば、生活費も増える」
「分かってる」
「本当に分かってるのか?」
「分かってるつもりだけど……」
「その答えが一番不安なんだよ」
酒菜が右手で額を押さえた。
みゆが指を折りながら数え始める。
「食費と、電気と、水道と、お風呂と……」
「待ちなさい」
ユエがみゆを止めた。
「私に食事は必要ないわ」
「食べなくても平気なの?」
「ええ」
「お風呂は?」
「必要ないわ」
「ずっと?」
「魔力で身体を維持しているから、食事も入浴も必要ないのよ。身体の汚れも魔力で落とせるわ」
みゆが驚いたようにユエを見る。
「便利だね!」
「普通でしょう?」
「普通じゃないよ」
酒菜が即座に否定した。
「じゃあ、あんたを置いても食費や水道代は増えねえのか?」
「ほとんど増えないでしょうね」
「その魔力はどうするんだ?」
酒菜に尋ねられ、ユエは自分の首元へ触れた。
「すでに供給されているわ」
その視線が和真へ向く。
「俺から?」
「契約によって、あなたの魔力が私へ流れている」
和真は右手首に残った紋様へ意識を向けた。
注意深く探ると、確かにごく僅かな魔力が契約を通じてユエへ流れ続けている。
「本当だ……」
「召喚した者の魔力で、呼び出した者を維持する仕組みなのでしょう」
リディアも器具を和真の右手首へ近づける。
「極めて少量ですが、一定の魔力がユエへ送られています」
「止められるのか?」
「完全に止めると、ユエの存在をこちらの世界へ固定している術式にも影響する可能性があります」
「なら、そのままでいい」
和真は迷わず答えた。
ユエの金色の瞳が細められる。
「あなたの許可を求めた覚えはないわ」
「でも、俺の魔力が必要なんだろ?」
「契約が勝手に奪っているだけよ。私が望んだわけではない」
「俺はこの程度なら平気だ。それでユエが困らないなら、そのままでいい」
「……やはり理解できない人ね」
ユエは和真から視線を外した。
酒菜が二人の間に残る紋様を見る。
「つまり、金の代わりに和真の魔力で生活するってことか」
「言い方は気になるけど、そうなるな」
「お前の魔力は大丈夫なのか?」
「この程度なら、使ってることに気づかなかったくらいだ」
「なら、生活費については大きな問題にならなそうだな」
酒菜は少しだけ表情を緩めたが、すぐにユエへ視線を戻した。
「だからって、すぐ住ませていいかは別の話だ。こいつはさっき俺を攻撃しようとした」
「あなたが先に構えたのでしょう?」
「見たこともねえ奴が、とんでもない魔力をまき散らしたからな」
二人の視線がぶつかる。
和真が間へ入ろうとしたが、その前にみゆが口を開いた。
「でも、行く場所がないんでしょ?」
「ここへ置いてほしいと頼んだ覚えはないわ」
「じゃあ、ほかに行ける場所があるの?」
ユエは答えなかった。
この世界について何も知らない状態で、行く場所などあるはずがない。
「部屋なら空いてるよ」
みゆが明るく続ける。
「すぐに信用しろとは言わないけど、帰る方法が見つかるまでは、ここにいた方がいいんじゃない?」
「あなた、私が怖くないの?」
「ちょっとは怖いよ」
みゆの二本の尻尾が、正直に少し膨らむ。
「黒い炎も出してたし。でも、悪い人かどうかはまだ分かんないから」
「警戒心がないのね」
「あるよ?」
「どこに?」
「この辺?」
みゆが自分の頭の上を指さす。
酒菜がその額を軽く小突いた。
「適当なことを言うな」
「痛いってば」
あおいもユエへ一歩近づく。
「わらわも、行く場所を失ったところを和真に助けられた。すぐに誰かを信じるのが難しいことも、分かるつもりじゃ」
「あなたも人間ではないようね」
「九尾じゃ」
「聞いたことのない種族だわ」
「わらわも悪魔を見るのは初めてじゃ」
二人は互いの姿を観察するように見つめ合った。
警戒は残っているが、敵意は感じられない。
ひかげも勇気を振り絞るように口を開く。
「あ、あの……私も、ユエさんがここにいることには反対しません。部屋の準備なら、手伝えます……」
「あなたたちは、いつもこうなの?」
「た、たぶん……」
ひかげが小さく答えた。
「それと、今は和真の通訳魔法で言葉が通じていますが、和真から離れた場合は――」
リディアが言いかけると、ユエが首を横へ振った。
「その心配もいらないわ」
「必要ない?」
「契約には、契約者との意思疎通を補助する術式も含まれている。すでに私の言葉は、契約者が使う言葉へ同調し始めているわ」
和真が首を傾げる。
「つまり、どういうことだ?」
「今はあなたの通訳魔法を介しているけれど、しばらくすれば、私自身がこの世界の言葉を話せるようになる」
「契約を通じて、言葉を覚えてるのか?」
「ええ。ただし、会話だけよ。文字の読み書きは別に覚える必要があるでしょうね」
リディアが興味深そうに契約の紋様を見る。
「言語情報まで共有する術式ですか。非常に興味深いですね」
「勝手に調べないで」
「分かっています。見るだけです」
「僕とお揃いの通訳装置はいらないの?」
ピピが残念そうに尋ねた。
「いらないわ」
「ちょっとだけお揃いでも駄目?」
「何をお揃いにするのよ」
ユエは、ピピが見せたヘッドホンを理解できないもののように見つめた。
「あとは、その姿じゃな」
あおいがユエの角と翼へ目を向ける。
「敷地の中では問題ないが、外へ出る時は人間に見える姿へ変える必要があるぞ」
「それも問題ないわ」
ユエの身体を、淡い黒色の光が包んだ。
大きく湾曲していた角が薄れ、背中の翼と細長い尻尾が光の中へ溶けるように消えていく。
光が収まった時、そこには金色の長い髪を持つ人間の少女が立っていた。
「姿くらい、自分で変えられるわ」
「最初からできたのか?」
「こちらの世界で、どのような姿が普通なのか分からなかっただけよ。今は契約者であるあなたや、周囲の者を見たから合わせられる」
「便利だな……」
「この程度で感心しないでもらえる?」
ユエは再び黒い光をまとい、角と翼、尻尾を持つ元の姿へ戻った。
リディアが小さく頷く。
「通訳装置も、外見を変える装置も必要ないようですね」
「食事も風呂も必要ねえ。身分証を用意するまでは外へ出る必要もない」
酒菜が確認するように言う。
「なら、部屋を一つ使う以外、今すぐ増える出費はほとんどねえか」
「だから置いてもいい、という話ではないでしょう?」
ユエが冷たく返した。
「分かってる。金の問題が片づいただけだ」
酒菜は和真へ顔を向ける。
「ここへ置くなら、最低限の決まりは守ってもらうぞ」
「命令するつもり?」
「命令じゃねえ。共同生活の決まりだ。こっちも、あんたの嫌がることを勝手にはしない。その代わり、あんたも住人を傷つけない。それだけだ」
ユエは酒菜を見つめたまま、すぐには答えなかった。
「断ったら?」
「その時は、全員で別の方法を考える。和真一人に決めさせるつもりはねえ」
「俺、そこまで信用ないのか?」
「ない」
酒菜が即答する。
「昨日、何でも一人で背負うなって言われたばかりだろ」
「それは……そうだけど」
和真は反論できなかった。
リディアが黒い本を閉じる。
「私も、ユエがここへ残ることには反対しません。契約を解除するためにも、しばらくは和真の近くにいた方が安全でしょう」
「私を観察しやすいからではなくて?」
「その理由もあります」
「正直なのね」
「よく言われます」
ユエは全員の顔を見回した。
最後に和真へ金色の瞳を向ける。
「私がここへ残れば、あなたたちのことを調べるわ」
「構わない」
「契約を解除する方法も、私自身で探す」
「ああ」
「あなたが信用に値しないと判断すれば、いつでも敵になるかもしれない」
「それは困るけど、その時は話し合う」
「話し合いで済まないと言ったら?」
「それでも、まずは話を聞く」
ユエの眉間に浅いしわが寄る。
和真の答えが、ことごとく予想と違うらしい。
「……どこまでも甘い人ね」
「よく言われる」
「褒めていないわ」
「それも何度か聞いた」
和真が右手を差し出した。
「帰る方法が見つかるまで、ここにいればいい。契約のことは気にしなくていいし、俺を主と呼ぶ必要もない」
ユエは差し出された手を見下ろす。
「勘違いしないで。私はあなたを主とは認めていない」
「分かってる」
「ここを利用するだけよ」
「それでいい」
「私へ命令しないこと」
「必要なお願いはすると思う」
「断るかもしれないわ」
「その時は話し合う」
「……本当に、理解できない人ね」
ユエは和真の手を取らず、その横を通り過ぎた。
大きな翼が和真の肩をかすめる。
地下室の階段へ向かったところで、ユエが足を止めた。
「出口は、こちらで合っているの?」
「ああ。ただ、その姿のまま敷地の外へ出るのはやめてくれ」
「命令?」
「近所の人が驚くから、お願いだ」
「外へ出る時は姿を変えると言ったでしょう?」
「そうだったな。悪い」
「話を聞いていないの?」
「一応、確認しただけだ」
「面倒な人ね」
ユエが階段へ足をかける。
和真も後を追おうとしたが、その背後から酒菜の声が飛んだ。
「おい、待て」
全員が振り返る。
地下室の床には、開けた箱や取り出した荷物が広がったままになっていた。
「こいつら、誰が片づけるんだ?」
「あ……」
みゆが、そっと階段へ向かって移動する。
「ユエの部屋を準備しないと」
「逃げるな」
二本の尻尾のうち一本を酒菜につかまれ、みゆの足が止まった。
「手伝うから離して!」
「最初からそう言え」
「僕も手伝う!」
ピピが元気よく翼を広げかけ、途中で動きを止める。
「風、起こしちゃ駄目だった!」
「今日はよく思い出したな」
「たぶん成長した!」
「そこは言い切ってくれ」
張り詰めていた地下室の空気が、少しだけ緩んだ。
「ユエは、ここで待っていてくれ」
和真が声をかける。
「私だけ何もしないで見ていろと?」
「知らない物ばかりだろ。無理に手伝わなくてもいい」
「あなたに気を遣われる必要はないわ」
ユエは床に落ちていた軽い布を拾い上げた。
「それは、こっちへ頼む」
「私へ指図するつもり?」
「手伝ってくれるのかと思って……」
「邪魔だったから拾っただけよ」
そう言いながらも、ユエは和真が示した場所へ布を運んだ。
その様子を見たみゆが笑う。
「やっぱり仲間みたい!」
「違うと言っているでしょう」
地下室の整理が終わるまで、さらに時間がかかった。
見つかった食器は洗浄する物として分け、工具や古い機械はリディアが確認することになった。
黒い本だけは専用の容器へ封じられ、亜空間工房へ運び込まれた。
すべてを片づけ終えた後、和真たちはユエを連れて母屋へ戻った。
その日の夕方。
酒屋の仕事を終えたフェンリスが、母屋へ帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
居間にいた和真が返事をする。
フェンリスは靴を脱ぎ、いつものように居間へ入ろうとした。
そこで足が止まる。
見覚えのない少女が、座卓の前に座っていた。
長い金髪の毛先は赤く染まり、頭には大きく湾曲した二本の角がある。
背中にはコウモリのような翼。
腰からは、先端がスペードの形をした細長い尻尾が伸びている。
フェンリスは無言のまま、ゆっくりと和真へ顔を向けた。
「和真」
「はい」
「この子は誰?」
「ユエ・イクザード」
「そうじゃなくて」
フェンリスの赤い瞳が細められる。
「どうして、朝はいなかった女の子が居間にいるの?」
「地下室の荷物を整理してたら……」
「整理してたら?」
「黒い本が勝手に動き出して……」
「それで?」
「召喚された」
しばらく沈黙が流れた。
「どうして荷物を整理しただけで、女の子が増えるの?」
「俺にも分からない」
「しかも、また女の子だよね?」
「それは俺が決めたわけじゃない」
「契約までしたの?」
「本が勝手にしたんだ!」
「その契約で、和真から魔力をもらってるの?」
「……そうみたいだ」
フェンリスの背後で、一本の巨大な狼の尻尾が大きく膨らんだ。
「どうして、会ったばかりの女の子に毎日魔力をあげる関係になってるの?」
「俺が決めたわけじゃないって!」
「昨日、勝手に何でも決めないって約束したよね?」
「召喚も契約も、勝手に起きたんだ!」
ユエは騒ぐ二人を横目で見た後、興味を失ったように顔を背けた。
「騒がしい獣ね」
フェンリスの狼耳がぴくりと動く。
「誰のせいだと思ってるの!」
「私を呼び出したのは、そちらでしょう?」
「和真!」
「だから、俺が呼び出したわけじゃないって!」
母屋の居間に、フェンリスの声が響き渡った。
資金不足を解決するために動き始めた翌日。
空色唐辛子荘には、早くも新たな問題と、新たな住人が加わろうとしていた。
契約によって異世界から呼び出された悪魔、ユエ・イクザード。
食事も入浴も必要とせず、和真の魔力によってこの世界に存在する彼女が、この場所を自分の居場所と認める日は、まだ遠い。




