第二十一話 穏やかな日々の裏側
酒菜が空色唐辛子荘で暮らし始めてから、数日が過ぎた。
朝の母屋には、味噌汁の香りと賑やかな話し声が広がっていた。
「みゆ、それを運んでくれ」
「はーい!」
「フェンリスは焼き魚を頼む」
「分かった」
台所に立つ酒菜の指示に従い、みゆとフェンリスが出来上がった料理を食卓へ運んでいく。
酒菜は右手だけで器用に包丁を扱い、最後に残っていた漬物を手早く切り分けた。
空色唐辛子荘へ来たばかりの頃は、料理や掃除をして借りを返すと言っていたが、今ではすっかり母屋の台所を任されている。
以前まで朝食を作っていたフェンリスも、料理の腕では敵わないと早々に認めたらしい。
不満を口にするどころか、暇さえあれば酒菜の隣に立ち、料理を教わっていた。
「いい匂いじゃ!」
食卓に並んでいく料理を見て、あおいの九本の尻尾が嬉しそうに揺れる。
「昨日の煮物もあるのじゃな」
「一晩置いた方が味が染みるからな」
「では、昨日よりも美味しくなっておるのか?」
「食ってみりゃ分かる」
「うむ!」
あおいは素直に頷き、自分の席へ座った。
その向かいでは、ピピが待ちきれない様子で翼をぱたぱたと動かしている。
「もう食べていい?」
「まだだ」
「お腹空いた!」
「全員揃うまで待て」
「ちょっとだけなら?」
「駄目だ」
「一口だけ!」
「それを食べたら、一口じゃ済まねえだろ」
「たぶん!」
「自分でも分かってんじゃねえか」
酒菜に叱られても、ピピはまったく気にしていない。
数秒後には、目の前に置かれた卵焼きへ顔を近づけ始めた。
「ピピ……」
隣に座るひかげが、小さな声で名前を呼ぶ。
長い前髪の奥から向けられた視線に気づき、ピピは卵焼きへ伸ばしかけていた足を慌てて引っ込めた。
「まだ食べてないよ」
「食べようとはしてた……」
「見てただけ!」
「口が開いてたけど……」
「おいしそうだったから!」
「やっぱり食べようとしてたじゃん」
みゆが笑いながら、ピピの前に水の入ったコップを置いた。
少し離れた席では、リディアが機械の腕を組み、眠たそうに欠伸をしている。
昨夜も工房に籠もっていたらしく、ゴーグルの下にはうっすらと隈ができていた。
「リディア。お前、また寝てねえな?」
酒菜に指摘され、リディアはゆっくり顔を上げた。
「少しは寝ましたよ」
「どれくらいだ」
「一時間ほどです」
「それは寝たうちに入らねえ」
「でも、途中で止める方が気持ち悪くて」
「飯を食ったら寝ろ。工房に戻ったら引きずり出すからな」
「分かりました」
素直に返事をしているものの、目を離せば工房へ戻るつもりなのは誰の目にも明らかだった。
酒菜は呆れたように息を吐き、最後の皿を食卓へ置いた。
「ところで、和真はどうした?」
「鶏小屋へ行ってるよ」
フェンリスが母屋の窓へ目を向ける。
「今朝の卵を見てくるって言ってたから、そろそろ戻ってくると思うけど」
「呼んでこようか?」
みゆが席を立とうとしたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
「悪い、待たせた」
和真が居間へ入ってくる。
その手には、今朝集めたばかりの卵が入った籠を持っていた。
「今日は十二個。割れてるのもない」
「おお! 皆、よく働いておるのじゃな」
「ああ。餌もちゃんと食べてたし、体調も問題なさそうだ」
和真は籠を台所へ置き、空いている席に座った。
全員が揃ったところで、朝食が始まる。
「いただきます!」
誰よりも大きな声を上げたピピが、真っ先に卵焼きへ食いついた。
「おいしい!」
「口に入れたまま喋るな」
「はーい!」
「返事をする前に飲み込め」
酒菜に叱られ、ピピは慌てて口を閉じる。
隣に座るみゆも笑いながら箸を伸ばし、あおいは味の染みた煮物を幸せそうに頬張っていた。
「酒菜の言ったとおり、昨日よりも美味くなっておる」
「そうなるように作ったんだ」
「毎日でも食べたいぞ」
「毎日は作らねえよ。飽きるだろ」
「わらわは飽きぬ」
「僕も!」
「お前は何を食っても同じことを言うだろうが」
「たぶん!」
母屋の中に笑い声が広がる。
旅行から戻って以降、騒がしかった日々もようやく落ち着きを取り戻していた。
酒菜も少しずつ、この場所での暮らしに馴染み始めている。
朝になれば全員で食卓を囲み、その日の予定を話す。
それが空色唐辛子荘での当たり前になっていた。
「フェンリスは、今日も酒屋か?」
和真が尋ねると、フェンリスは味噌汁の椀を置いて頷いた。
「うん。昼からだから、それまでは畑を手伝うよ」
「無理しなくていいぞ」
「朝のうちだけだから大丈夫。それに、昨日できなかったところが残ってるでしょ?」
「そうだけど」
「だったら、やっておく」
フェンリスの返事に、和真は小さく笑った。
「ひかげは?」
「私は……配信の準備をします。まだ、調整したいところがあるので……」
「みゆも出る!」
「今日はまだ出ないからね……?」
「えー?」
「準備が終わってないから……」
「じゃあ、見てるだけならいい?」
「静かにしてくれるなら……」
「分かった!」
みゆが元気よく返事をする。
ひかげは不安そうな顔をしたが、すでに断ることは諦めているようだった。
「リディアは寝る」
酒菜が先に予定を決めた。
「まだ何も言ってませんよ」
「寝るんだ」
「作りかけの装置が――」
「寝るんだ」
「……はい」
リディアが渋々頷く。
「僕は?」
ピピが翼を広げた。
「みゆと一緒に畑を手伝ってくれ。ただし、勝手に実を食べるなよ」
「食べないよ!」
「昨日、トマトを三個食べただろ」
「お腹空いてた!」
「今日は朝飯を食べただろ」
「じゃあ、たぶん食べない!」
「不安しかないな……」
和真が苦笑していると、隣に座っていたあおいが袖を軽く引いた。
「和真。今日は一緒に来てくれるのじゃろ?」
「もちろん。今日は神社の仕事があるからな」
「うむ。和真が一緒なら安心じゃ」
あおいが嬉しそうに笑う。
「神社で働いてんのか?」
酒菜が尋ねると、あおいは誇らしげに胸を張った。
「わらわが巫女として働いておるのじゃ」
「和真も一緒なのか?」
「俺はあおいの付き添いと手伝いだよ。まだ分からないことも多いからな」
「なるほどな」
酒菜はそれ以上詳しく尋ねることなく、味噌汁を飲んだ。
朝食が終わると、それぞれが自分の予定に合わせて動き始めた。
フェンリスは仕事へ行く準備のため、101号室へ戻る。
ひかげも食器を片づけたあと、みゆと一緒に204号室へ向かった。
ピピは畑へ行くと言って真っ先に外へ飛び出し、その後をあおいが慌てて追いかけていく。
リディアは工房へ戻ろうとして酒菜に捕まり、そのまま201号室へ追い返された。
先ほどまで騒がしかった母屋が、急に静かになる。
酒菜も自分の部屋を片づけるため、202号室へ戻っていった。
一人になった和真は、食卓の上を片づけると、自室へ向かった。
机の引き出しを開け、その奥から一冊の通帳を取り出す。
居間へ戻った和真は椅子へ座り、通帳をゆっくりと開いた。
「…………」
最後に記帳された残高を見た瞬間、和真の眉間に深い皺が寄った。
しばらく数字を見つめたあと、一度通帳を閉じる。
目を閉じて息を整え、もう一度開いた。
当然ながら、数字は変わっていない。
「見間違いじゃないよな……」
通帳を傾けても、残高が増えるはずはなかった。
和真は頬を引きつらせ、今度は机の上に置いていたノートを開いた。
そこには、これまでに使った金額と、今後必要になる出費が細かく書き込まれている。
相続の手続きが終わった時点では、当面の生活に困らないだけの金が残っていた。
両親と祖父が残してくれた遺産だ。
無駄遣いをしなければ、しばらくは暮らしていけると思っていた。
だが、現実は和真の予想より厳しかった。
アパートで生活するために必要な家具や家電。
住人が増えるたびに買い足した衣服や日用品。
スマートフォンの契約料に、毎月の通信費。
食費、水道代、電気代。
鶏の餌や畑で使う道具にも金がかかる。
リディアが設置した装置も、作業そのものに金を取られたわけではないが、現代で調達した材料は無料ではない。
さらに、先日の旅行では、酒菜の分も含めて予定していなかった出費が重なっていた。
「使った理由は、全部分かってるんだけどな……」
どれも必要な出費だった。
誰か一人の責任ではない。
ましてや、住人たちに使った金を惜しいと思ったこともなかった。
異世界から突然この世界へ飛ばされ、頼れる相手もいない彼女たちを放っておくという選択肢は、和真にはなかった。
しかし、必要だからと使い続けていれば、いつかは底をつく。
和真はノートに書かれた収入の欄へ目を向けた。
神社の手伝いで受け取る日当。
畑で採れた野菜と、鶏が産んだ卵の売上。
収入と呼べるものは、今のところそれだけだった。
野菜も卵も、ようやく近所へ売れるようになったばかりで、大きな金額にはならない。
神社の仕事があるおかげで、すぐに生活が立ち行かなくなるわけではなかった。
それでも、八人分の生活費と空色唐辛子荘の維持費をすべて賄うには足りない。
税金もある。
古いアパートのどこかが壊れれば、修繕費も必要になる。
今後、また新しい住人が増えれば、出費はさらに大きくなる。
和真は毎月の収入と支出を指で追い、現在の残高と照らし合わせた。
「……半年」
急な出費が一切なかったとしても、その頃には遺産の現金がほとんど残らない。
何か大きな修理が必要になれば、さらに早まる。
「まずいな」
和真の顔から血の気が引いた。
何か計算を間違えていないかと、最初からやり直す。
途中で少しだけ希望を持った表情を見せたものの、計算が終わる頃には再び眉間に皺が寄っていた。
別の紙を取り出し、削れる出費を書き出してみる。
食費。
すぐに線を引いた。
ただでさえ人数が多いうえ、よく食べる者も多い。
食事の量を減らせば、真っ先にピピが騒ぎ出すだろう。
光熱費。
これも簡単には減らせない。
住人たちは、それぞれアパートの部屋で暮らしている。使わない電気を消す程度ならできても、大きく削るのは難しい。
通信費。
連絡手段がなくなれば、仕事や外出にも支障が出る。
鶏の餌や畑の費用を削れば、せっかく売れるようになった卵や野菜が作れなくなる。
「削れるところが、ほとんどないじゃないか……」
和真は両手で頭を抱えた。
異世界では魔物の群れに囲まれても、ここまで深刻な顔をしたことはなかった。
剣で斬れる相手なら、まだどうにかなる。
魔法が通じる問題なら、いくらでも方法を考えられる。
だが、通帳の残高は剣でも魔法でも増えてくれない。
勇者だった頃に手に入れた物を売ることも考えた。
しかし、異世界の金貨や宝石を大量に持ち込めば、入手経路を聞かれる。
見たこともない金属や魔道具など、なおさら人前には出せない。
下手をすれば、金に困るよりも厄介な事態になってしまう。
「俺がもっと働くしかないか」
平日に別の仕事を入れる。
夜にも働けば、多少は収入を増やせる。
畑や鶏の世話は、皆に頼めば何とかなるだろう。
和真は新しい紙を取り出し、一週間の予定を書き始めた。
神社の仕事がある日は、あおいに付き添う。
それ以外の日は畑と鶏の世話をして、空色唐辛子荘の修繕も進める。
その隙間に別の仕事を入れようとして、何度も書いては消していく。
睡眠時間を削れば、夜にも働ける。
異世界にいた頃と比べれば、数時間眠れるだけでも十分だ。
「しばらく俺が我慢すれば――」
「何を我慢するって?」
背後から聞こえた声に、和真の肩が跳ねた。
慌てて通帳とノートを閉じ、両腕で覆い隠す。
ゆっくり振り返ると、居間の入り口に酒菜が立っていた。
「しゅ、酒菜。部屋の片づけは終わったのか?」
「ああ。荷物なんてほとんどねえからな」
「そうか。思ったより早かったな」
「昼飯に使える食材を聞きに来たんだが……」
酒菜の片目が、和真の腕の下に隠された通帳へ向けられる。
「それより、お前は何を隠した?」
「何も隠してない」
「なら、その腕をどけろ」
「これは、その……」
「和真」
酒菜の目が鋭く細められた。
「お前、さっきから一人で何を抱え込んでる?」
和真は答えられなかった。
静まり返った母屋の中で、壁掛け時計の針が進む音だけが響いていた。
「別に、抱え込んでるわけじゃない」
「だったら見せろ」
「いや、これは俺の――」
「見せろ」
低い声で繰り返され、和真は言葉に詰まった。
今の酒菜に下手な言い訳は通じそうにない。
和真が通帳を隠したままでいると、酒菜は向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。
「取り上げようってんじゃねえ。何を悩んでるのか話せと言ってんだ」
「大したことじゃないんだ」
「大したことじゃねえ奴は、通帳を抱えてそんな顔しねえ」
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「これから死地へ向かうみてえな顔だ」
「そこまでじゃないだろ」
「少なくとも、朝飯を食ってた時とはまるで違う」
酒菜は呆れたように息を吐いた。
「俺には話せねえことか?」
その問いに、和真はすぐには答えられなかった。
酒菜は空色唐辛子荘へ来たばかりだ。
この世界の暮らしにも慣れていない彼女へ、いきなり金の心配までさせたくはなかった。
「酒菜には関係ないよ」
和真がそう答えた瞬間、酒菜の表情が変わった。
「あ?」
「いや、違う。そういう意味じゃなくて――」
「この家で飯を食って、お前に部屋まで用意させてる俺に関係がねえって?」
「酒菜が気にする必要はないって意味だ。こっちの金のことは、俺が何とかするから」
「何とかする方法があるなら、そんな顔にはならねえだろうが」
酒菜の右手が食卓を叩いた。
大きな音が母屋に響き、驚いた和真の腕がわずかに浮く。
その隙間から、通帳の表紙が見えた。
「やっぱり金の話じゃねえか」
「まだ何も言ってないだろ」
「言わなくても分かる。そいつが金の出入りを記録する物なのは、表を読めば分かる」
酒菜の視線が、和真の腕の下にある通帳から、閉じられたノートへ移る。
「今、どれくらい足りねえんだ?」
「足りないわけじゃない。今すぐ困るほどじゃないんだ」
「今すぐじゃなけりゃ、いつ困る?」
「…………」
「和真」
逃げ道を塞ぐように名前を呼ばれ、和真は観念した。
通帳から腕をどけ、椅子の背もたれへ身体を預ける。
「今と同じ生活を続けたら、半年もたないと思う」
「半年?」
「ああ」
酒菜の片目が見開かれた。
和真は通帳を開き、今朝から何度も見返している残高を示した。
「相続した時は、もっと残ってたんだ。でも、アパートで暮らせるようにするのにも金がかかったし、皆の生活に必要な物も揃えた。毎月の食費や光熱費も、人数が増えた分だけ上がってる」
「その金は全部、お前が出してるのか?」
「今のところはな」
「住んでる連中からは取ってねえのか?」
「取れるわけないだろ。ほとんどが、この世界へ来たばかりだったんだぞ」
「来たばかりの頃は、それでよかったかもしれねえ。だが、いつまでも同じじゃねえだろ」
「それでも、いきなり家賃を払えとは言えないよ」
「だからって、お前一人で全員分を払い続けて、金がなくなるまで黙ってるつもりだったのか?」
「なくなる前には何とかする」
「どうやってだ」
「平日に別の仕事を入れる。夜も働けば、今よりは――」
「却下だ」
最後まで聞くことなく、酒菜が切り捨てた。
「どうしてだよ」
「昼も夜も働いて、畑と鶏の世話まで続ける気か?」
「畑や鶏のことは、皆にも手伝ってもらう」
「じゃあ、お前はいつ寝る」
「少しくらいなら寝られる」
「もう一度言ってみろ」
「……何でもない」
酒菜の目つきが一段と鋭くなり、和真は視線を逸らした。
「異世界にいた頃は、何日もまともに寝られないことだってあった。それに比べれば――」
「ここは、その頃と同じ戦場なのか?」
「違うけど」
「だったら、戦場と同じ暮らしをしようとするんじゃねえ」
酒菜は食卓の上に置かれていたノートを引き寄せた。
そこには、食費や光熱費をはじめ、毎月必要になる金額が細かく書き込まれている。
酒菜は上から順に目を通し、何度も計算をやり直した跡で視線を止めた。
「食費、電気、水道、通信費……全部、お前が払ってるのか」
「ああ。今のところは」
「こっちは、これから必要になる金か?」
「税金やアパートの修繕費もあるからな。絶対に必要になるとは限らないけど、何か壊れた時の分も残しておかないといけない」
「それを全部計算して、半年か」
「急な出費がなければな」
酒菜はノートに並んだ数字をもう一度見直した。
隙間なく書き込まれた予定と、何度も書き直された跡だけで、和真がどれほど一人で考え込んでいたのかが分かる。
「収入は、神社の日当と野菜、それに卵だけか」
「今のところは」
「朝、あおいも神社で働いてると言ってたな」
「ああ」
「そっちの分はどこだ?」
酒菜が収入の欄を指で叩いた。
和真は一瞬、答えに詰まった。
「入れてない」
「なぜだ」
「それは……」
「一緒に働いてるんだろ?」
「神社の仕事は、あおいが中心だ。俺は付き添いと手伝いだから、もらってる金も別になってる」
「それで、あおいの分は計算してねえのか?」
「してない」
「本人には話したのか?」
「話してないよ」
和真の返事を聞き、酒菜は目を細めた。
「勝手に使うつもりはない」
「まだ何も言ってねえ」
「言いたいことは分かる。でも、あおいの給料まで最初から当てにするのは違うだろ」
「だから、自分だけで何とかするつもりだったのか?」
「俺がここを相続したんだ。維持するのも俺の責任だよ」
「ここで暮らしてる連中には関係ねえと?」
「そうは言ってない」
「同じだ」
酒菜はノートを閉じた。
「この金が尽きりゃ、困るのはお前だけじゃねえ。ここにいる全員だろうが」
「だから、俺が働いて――」
「その考えをやめろと言ってんだ」
酒菜の声が母屋に響いた。
開いていた窓の外から、何かを落とす音が聞こえる。
「今の声、酒菜?」
しばらくして、みゆが窓から顔を覗かせた。
頭には小さな葉が載り、頬には土がついている。
その隣から、ピピもひょこりと顔を出した。
「喧嘩? 喧嘩してるの?」
「してない」
「してるぞ」
和真と酒菜の答えが重なった。
みゆは二人を交互に見たあと、玄関へ回って母屋の中へ入ってきた。
「どっちなの?」
「和真が馬鹿なことをしようとしてたから、止めてただけだ」
「馬鹿なこと?」
「違うって。少し仕事を増やそうとしてただけだ」
「どれくらい?」
「昼と夜だ」
酒菜が答えると、みゆの目が細くなった。
「和真?」
「まだ決めたわけじゃない」
「どうして急に仕事を増やすの?」
「それは……」
和真が答えに詰まる。
みゆの後ろから入ってきたピピは、食卓の上に置かれた通帳を興味深そうに覗き込んだ。
「これ、なに?」
「触るなよ」
「食べ物?」
「どう見たら食べ物に見えるんだ」
「たぶん、食べられない!」
「絶対に食べるな」
「はーい!」
ピピは元気よく返事をすると、今度はノートへ顔を近づけた。
「いっぱい書いてある。これ、和真が書いたの?」
「ああ」
「楽しい?」
「まったく楽しくない」
「じゃあ、どうしてやってるの?」
純粋な疑問を向けられ、和真は答えられなかった。
その間にも、酒菜の声を聞いたあおいが庭から戻ってくる。
「何事じゃ? ずいぶん大きな声が聞こえたぞ」
「和真、お金がなくなるんだって!」
みゆが答えた。
「まだ、そこまで言ってないだろ!」
「でも、仕事を増やさないといけないんでしょ?」
「何じゃと?」
あおいの表情から血の気が引いた。
「和真、金がないというのは本当なのか?」
「今すぐ困るわけじゃない。半年くらいは大丈夫だ」
「半年しかないではないか!」
「だから、その間に何とかしようとしてたんだよ」
「なぜ、わらわに言わなかったのじゃ!」
「心配させたくなかったんだ」
「それで、昼も夜も働こうとしておったのか?」
「まだ決めてないって」
「同じじゃ!」
あおいの九本の尻尾が一斉に膨らんだ。
「わらわとて、ここで暮らしておるのじゃぞ。自分たちの暮らしに関わる話を、和真一人だけで決めるでない!」
「決めたわけじゃないよ」
「一人で抱え込んでおった時点で同じじゃ!」
「それだけじゃねえぞ」
酒菜が閉じていたノートを開き、収入の欄をあおいへ向けた。
「あおい。お前、神社でいくらもらってる?」
「一日三万円じゃ」
「和真は?」
「俺は一万円」
「今月、神社へ行く日は何日だ」
「八日じゃが……」
酒菜はノートへ目を落とした。
「ここには、和真の八万円しか書かれてねえ」
あおいの動きが止まった。
「わらわの分は?」
「入れてない」
和真が答えると、あおいは信じられないものを見るような目を向けた。
「なぜじゃ?」
「それは、あおいが働いて受け取るものだろ」
「わらわは、和真の助けになりたくて働くことを決めたのじゃぞ」
「あおいの気持ちは分かってる。でも、全部を生活費に使う必要はない」
「全部使うとは言っておらぬ!」
あおいが食卓へ身を乗り出した。
「わらわにも、ここで暮らすための金を出させてほしいと言っておるのじゃ!」
「でも――」
「でもではない!」
あおいの尻尾がさらに大きく膨らむ。
「わらわが働いて得た金なら、どう使うかを決めるのもわらわであろう?」
「それはそうだけど」
「ならば、空色唐辛子荘のために使う。勝手に外すでない!」
和真は何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
あおいは頬を膨らませたまま、和真の隣へ座った。
「これからは、わらわの分も入れるのじゃ」
「全部は駄目だ」
「では、必要な分を決めればよい」
「だから、その金はあおいが――」
「和真」
酒菜の低い声が割って入った。
「そいつが自分で使うと言ってんだ。お前が断る理由はねえだろ」
「自由に使える金も必要だ」
「なら、全部じゃなく一部にすりゃいい。どうして、全部受け取るか、何も受け取らねえかの二つしかねえんだ」
「それは……」
「俺の言ってること、間違ってるか?」
和真は答えられなかった。
あおいの給料を加えれば、毎月の赤字は大きく減る。
遺産が尽きるまでの時間も延ばせる。
それでも、和真は最初からその金を当てにすることができなかった。
「他の奴らも呼べ」
酒菜が椅子から立ち上がった。
「全員を?」
「ああ。金が尽きりゃ、困るのはここで暮らしてる全員だ。なら、全員で話すべきだろ」
「でも、フェンリスは昼から仕事だぞ」
「まだ時間はあるんだろ」
「あるけど……」
「なら、今のうちに話せ。先延ばしにしたって、金は増えねえぞ」
酒菜の言葉に、和真は何も言い返せなかった。
みゆがフェンリスを呼びに101号室へ向かい、あおいはひかげのいる204号室へ走っていく。
「僕は?」
ピピが翼を大きく広げた。
「リディアを呼んでこい。隣の201号室だ」
「分かった!」
「工房じゃなくて部屋だからな!」
「たぶん!」
「分かってねえじゃねえか!」
窓から飛び出そうとするピピを、和真が慌てて止めた。
「玄関から行け。窓から飛び出したら、また風で部屋の中が大変なことになる」
「はーい!」
ピピが廊下を駆けていく。
静かになった居間で、和真は酒菜を見た。
「本当に全員へ話すのか?」
「話す」
「皆を不安にさせるだけかもしれない」
「不安になるかどうかは、聞いた奴が決めることだ。お前が勝手に隠していい理由にはならねえ」
「……分かったよ」
諦めた和真は、通帳とノートを食卓の中央へ置いた。
それから十分もしないうちに、空色唐辛子荘の住人全員が母屋へ集められた。
仕事へ行く準備を終えていたフェンリスは、何事かと不安そうな顔をしている。
ひかげは慌てて出てきたのか、髪を整える途中だったらしい。長い前髪の端に、小さな髪留めが一つ残っていた。
眠っていたはずのリディアは、ピピに何度も扉を叩かれて目を覚ましたらしく、いつも以上に眠そうだった。
「それで、何があったの?」
フェンリスが尋ねる。
和真が口を開くより先に、酒菜が通帳を指した。
「このままじゃ、ここの金が半年以内に尽きるらしい」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、ひかげだった。
「なくなる……って、全部ですか?」
「全部じゃない。アパートや土地は残る。ただ、生活に使える金が底をつく」
和真が答えると、フェンリスが食卓へ身を乗り出した。
「どうして今まで言わなかったの?」
「皆に心配をかけたくなかったんだ」
「もう十分心配してるよ!」
「今ならまだ間に合う。俺が仕事を増やせば――」
「増やす必要なんてない!」
フェンリスは強い口調で言い切った。
「私が酒屋でもらってるお金を使って。ほとんど残ってるから」
「それはフェンリスが働いて稼いだ金だろ。自分のために使え」
「私もここで暮らしてるんだよ。食べ物も、電気も、お風呂も使ってる。それなのに、どうして自分のためだけに使わないといけないの?」
「何か欲しい物ができるかもしれないだろ」
「その前に、ここで暮らせなくなったら意味ないじゃない!」
フェンリスの赤い瞳が、真っ直ぐ和真へ向けられる。
「私は、ここから出ていくつもりなんてない。だったら、ここで暮らすためにお金を出すのは当たり前でしょ」
「でも――」
「でもじゃねえ」
今度は酒菜が遮った。
「そいつも、自分で出すと言ってる。あおいの時と同じだ。受け取れ」
「全部受け取るわけにはいかない」
「なら、毎月出す額を決めろ。全額か、何も受け取らねえかの二つで考えるな」
「それは……」
「私も払います」
小さな声が聞こえ、全員の視線がひかげへ向いた。
ひかげは俯きながら、膝の上で両手を握っている。
「今はまだ、配信でほとんどお金を稼げてないけど……少しなら残ってます。パソコンも、スマホも、和真さんに用意してもらったから……」
「ひかげまで無理をしなくていい」
「無理じゃ、ないです」
普段よりも少しだけ強い声だった。
「和真さんに会えていなかったら、私……今頃どうなってたか分かりません。部屋も、服も、食事も用意してもらって……それなのに、和真さんだけが困ってるのを知らないままなのは、嫌です」
「ひかげ……」
「私も、もっと配信を頑張ります。すぐには無理かもしれないけど、見てくれる人が増えれば、収入にできると思うから」
「だったら、私も手伝う!」
みゆが勢いよく手を挙げた。
「配信なら私も出られるよ。偽りの姿を使えば、本当の姿を見せなくてもいいんでしょ?」
「う、うん。でも、まだ準備が……」
「二人でやった方が、見てくれる人も増えるかもしれないじゃん」
「みゆは配信で何をするつもりなんだ?」
「分かんない!」
「何も考えてないのかよ」
「これから考える!」
胸を張るみゆに、和真は頭を抱えた。
「私の作った物を売るのはどうでしょう」
今度はリディアが片手を挙げた。
「駄目だ」
和真は即答した。
「まだ何を売るか言ってませんよ」
「リディアの作る物を普通に売ったら、大騒ぎになる。魔力を使う物は、この世界の人には説明できないだろ」
「魔力を使わない物も作れますよ」
「それでも性能が良すぎるんだよ。いきなり見たこともない装置を売り始めたら、どこで作ったのか聞かれるぞ」
「では、性能を落とします」
「性能を落としても、売るためには守らないといけない決まりがある。すぐに金になるとは限らない」
「面倒な世界ですね」
「安全に使える物か確かめるために必要なんだよ」
リディアは不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は反論しなかった。
「僕も働く!」
ピピが勢いよく翼を広げる。
「何ができる?」
酒菜に尋ねられ、ピピは満面の笑みを浮かべた。
「飛べる!」
「知ってる」
「歌える!」
「ほかには?」
「いっぱい食べられる!」
「それは金が減る方だ」
酒菜の言葉に、全員の視線がピピへ向いた。
「えっ?」
ようやく自分が食費を増やす側だと気づいたらしい。
ピピは大きく目を見開き、それから申し訳なさそうに翼を閉じた。
「僕、食べない方がいい?」
「そういう話じゃない」
和真がすぐに否定する。
「食事を減らす必要はない。皆も、無理に金を出さなくていいんだ」
「まだ言うか」
酒菜が呆れたように和真を睨んだ。
「今の話を聞いて、どうしてそうなる」
「皆がこの世界で自由に暮らすための金まで取り上げたくないんだよ」
「誰も全部渡すとは言ってねえ。ここで暮らすために、出せる分を出すと言ってるだけだ」
「それでも、今ある金を分けるだけじゃ、いつかはなくなる」
「ああ。だから、今後どうやって稼ぐかも全員で考えるんだろうが」
酒菜は全員の顔を順番に見た。
「お前ら、世話になってるだけで満足なのか?」
「そんなわけない!」
フェンリスが真っ先に答えた。
ひかげも小さく頷き、あおいは九本の尻尾を大きく揺らす。
みゆとピピも勢いよく手と翼を上げ、リディアは機械の指先で食卓を軽く叩いた。
「決まりだな」
酒菜は和真へ顔を向ける。
「全員で稼ぐ方法を考える。それなら文句はねえだろ」
「……分かった」
和真はようやく頷いた。
「ただし、危ないことや、正体が知られるようなことはなしだ。無理して働くのも駄目だからな」
「それは、お前もだ」
「分かってるよ」
「信用できねえな」
酒菜はそう言いながら、和真が書いた予定表を取り上げた。
昼と夜の仕事を書き込もうとしていた紙を、右手だけで器用に丸める。
「あっ」
「こんな予定は必要ねえ」
丸められた紙は、そのままゴミ箱へ投げ込まれた。
「さて」
酒菜が空いた椅子へ座り直す。
「お前らに何ができて、何なら金に変えられるのか。一人ずつ話せ」
食卓を囲んだ全員が、それぞれ顔を見合わせた。
こうして空色唐辛子荘では、初めてとなる住人総出の資金会議が始まった。
「じゃあ、ピピの歌を配信するのは?」
みゆの提案に、ピピが目を丸くした。
「僕の歌?」
「さっき歌えるって言ってたでしょ。ひかげが配信をするなら、ピピも一緒に歌えばいいんじゃない?」
「歌ったら、お金もらえるの?」
「すぐには無理だけど、聞いてくれる人が増えたら、いつかはもらえるかもしれないよ」
「僕、歌う!」
ピピは嬉しそうに翼を大きく広げた。
「いっぱい歌えるよ!」
「待て」
今にも歌い出しそうなピピを、和真が止める。
「ピピの歌には魔力が乗るだろ。そのまま配信して大丈夫なのか?」
ピピの歌声には、聞いた者を魅了したり、興奮を鎮めたりする力がある。
畑や植物の成長にも影響を与えるほどだ。
配信を通しても同じ力が届くのか、和真にも分からなかった。
「一度、録音して調べた方がいいですね」
リディアが眠そうだった目を開く。
「記録された音にも魔力が残るなら、配信へ流す前に取り除く装置を作ります」
「歌声まで変わったりしないか?」
「魔力だけを削れば、ピピの声はそのまま残せますよ」
「じゃあ、歌っていい?」
ピピが期待に満ちた目で和真を見つめる。
「安全だと分かってからな」
「分かった!」
「確認が終わるまで、勝手に配信で歌うなよ」
「たぶん!」
「そこは絶対と言え」
「絶対!」
今度は迷わず答えたが、どこまで理解しているのかは怪しい。
「配信用の姿は……私が作ります」
ひかげが控えめに手を挙げた。
「人間に見せかけるより、最初から架空のハーピーとして作った方がいいと思います。翼があっても、配信の中なら不自然じゃないので……」
「本当のピピに近い姿なら、本人も動きやすいか」
「はい。歌うだけなら、手がなくても困りませんし……」
「僕、かわいいのがいい!」
「分かった……」
「お肉も持たせて!」
「歌う時に必要なの……?」
「お腹空くから!」
「配信中には食べないで……」
ひかげが早くも困ったように俯く。
みゆは二人を見比べ、満足そうに頷いた。
「これで、ひかげとピピは決まりだね」
「お前はどうするんだ」
酒菜に尋ねられ、みゆは自分を指した。
「私?」
「人の仕事だけ決めて終わるつもりか?」
「配信も楽しそうなんだけど、ずっと部屋でじっとしてるのは無理そう」
「自分で分かってんじゃねえか」
「私、人と話す方が好きだから」
みゆは食卓の上へ目を向けた。
朝食に使った皿は片づけられていたが、酒菜が作った煮物の入った器だけが残っている。
「そうだ。酒菜の料理を売ればいいんじゃない?」
「俺の料理を?」
「うん。こんなにおいしいんだから、絶対に売れるよ」
「店でも始めろってのか?」
「大きなお店じゃなくていいよ。敷地の中に屋台を作って、そこで定食を出すの」
「定食屋台?」
「畑の野菜と鶏の卵も使えるでしょ? 余った野菜や卵も、一緒に売れば無駄にならないよ」
みゆは次々と考えを口にしていく。
「料理は酒菜が作って、私がお客さんを呼ぶ。注文を聞いたり、料理を運んだり、お金を受け取ったりするのも私がやるよ」
「お前に金を任せて大丈夫なのか?」
「大丈夫!」
「即答されると、余計に不安だな」
「ひどい!」
みゆが頬を膨らませる。
「でも、接客はみゆに向いてると思う」
フェンリスが助け船を出した。
「知らない人に話しかけるのも平気だし、すぐ仲良くなるから」
「でしょ?」
みゆが嬉しそうに胸を張る。
確かに、人見知りをせず、誰とでもすぐに打ち解けられるみゆの性格は、客を相手にする仕事に向いている。
酒菜は少し考えたあと、右手を顎へ添えた。
「料理を作ること自体は構わねえ。世話になってる借りも返せる」
「決まり!」
「まだ決まってねえ」
立ち上がりかけたみゆを、和真が止める。
「食べ物を売るなら、勝手に始めるわけにはいかない。許可を取って、調理する場所や水回りも整える必要がある」
「今日からは無理なの?」
「無理だよ」
「明日は?」
「もっと無理だ」
「じゃあ、いつならできる?」
「それをこれから調べるんだ」
「面倒なんだね」
「人に食べさせる物を売るんだから、当たり前だろ」
みゆは少し残念そうにしたものの、すぐに酒菜へ向き直った。
「じゃあ、準備だけ始めよう。どんな定食にする?」
「だから気が早えってんだ」
そう言いながらも、酒菜は完全に嫌がっている様子ではなかった。
「屋台を置く場所も考えねえとな」
和真は窓から敷地の入り口へ目を向ける。
不可視化装置が動いている今、外から空色唐辛子荘の敷地内を自由に見ることはできない。
客を呼ぶなら、そのままというわけにはいかなかった。
「道路に近い一角だけ、不可視化の範囲から外せます」
リディアが機械の指を一本立てた。
「屋台へ続く場所だけ見えるようにして、そこから奥は今までどおり隠します。客が間違ってアパートの方へ入らないよう、境目も作りましょう」
「危ない仕掛けはなしだからな」
「道を間違えたと思い込ませる程度ですよ」
「それも十分すごいんだけどな……」
「営業中は、みゆと酒菜も人間の姿でいれば問題ありません」
「ああ。外の人が来る場所だから、それは絶対だ」
「分かってるよ」
みゆが答え、酒菜も頷いた。
「屋台の設備も、こちらの決まりに合わせて私が作りましょう」
「魔力は使うなよ」
「分かっています」
リディアは返事をしたあと、食卓に置かれたノートへ目を落とした。
「それなら、私の案も条件を変えれば認めてもらえますか?」
「さっきの道具を売る話か?」
「はい。魔力は使いません。こちらの世界で手に入る材料だけを使い、性能も普通の道具として不自然ではない範囲に抑えます」
「具体的には、何を作るんだ?」
「まだ決めていませんが、日常で使う便利な道具です。片手でも開けやすい容器や、力を入れなくても固定できる留め具。狭い場所で使える収納用品などですね」
酒菜が興味を示した。
「片手でも使いやすい道具か」
「試作品ができたら、酒菜に使ってもらえますか?」
「ああ。使いにくかったら遠慮なく言うぞ」
「その方が助かります」
「それなら、魔力を使う装置を売るよりは問題が少ないか」
和真が考えながら答える。
「でも、どこで売るんだ?」
「ネットで売ればいいと思います……」
ひかげが控えめに口を挟んだ。
「通販のページを作って、写真と説明を載せます。注文が入ったら、送ればいいので……」
「その通販のページは作れるのか?」
「はい。簡単なものなら……」
「では、ひかげにお願いします」
リディアの返事は早かった。
「まだ、やるとは――」
「手伝います」
ひかげが小さく頷く。
「配信の準備と一緒にはできないから、少しずつになりますけど……」
「それで十分です」
リディアは満足そうに頷いた。
「便利な道具だけじゃなく、修理も引き受けたらどうだ」
酒菜が言った。
「お前、壊れた機械を直すのも得意なんだろ?」
「得意ですよ。構造が分かる物なら、大抵は直せます」
「なら、壊れた物を送ってもらって、直して返せばいい。客をここまで入れる必要もねえだろ」
「なるほど」
リディアの金色の瞳が輝く。
「依頼する前に壊れた部分の写真を送ってもらい、修理できる物だけを受け取るようにすれば、無駄も減らせますね」
「何でも受け付けるのは駄目だぞ」
和真が釘を刺す。
「危険な物や、修理に特別な資格が必要な物もある。最初は小さな機械や日用品に限ろう」
「その決まりは、和真が調べてください」
「俺かよ」
「この世界の人間でしょう?」
「それを言われると何も返せないな……」
「商品の発送や、修理品の受け取り方も確認しないといけません……」
ひかげが付け加える。
「全部、一度には無理だから……まずは通販の準備から始めた方がいいと思います」
「そうだな。試作品を作って、安全を確かめてから売ろう」
「分かりました」
先ほどは自分の案を即座に止められて不満そうだったリディアも、今度は納得した様子で頷いた。
「これで、全員の仕事が決まったのう」
あおいが嬉しそうに九本の尻尾を揺らす。
「まだ仕事が決まったんじゃなくて、準備を始める段階だよ」
和真が訂正する。
「配信も、屋台も、通販も、すぐに金になるわけじゃないからな」
「それでも、何もせぬよりはよい」
「それは、そうだな」
和真は新しい紙を取り出し、決まったことを書き始めた。
あおいと和真は、これまでどおり神社へ行く。
フェンリスは酒屋の仕事を続ける。
ひかげは自分の配信を進めながら、ピピが歌うための配信用の姿を用意する。
リディアはピピの歌から魔力を取り除く装置を作り、便利な道具の試作品にも取りかかる。
みゆと酒菜は、敷地内で定食屋台を開く準備を始める。
通販と修理の受付は、リディアとひかげを中心に進める。
和真は屋台や通販に必要な手続きと決まりを調べる。
紙の上には、先ほどまでなかった予定が次々と増えていった。
「畑の野菜と卵も、屋台で使える分を増やしたいね」
フェンリスが言った。
「急に畑を広げるのは無理だから、まずは今ある分で、どれくらい使えるか調べよう」
「足りなかったら、僕が探してくる!」
ピピが翼を挙げる。
「どこへ探しに行くつもりだ」
「分かんない!」
「絶対に一人で行くなよ」
「たぶん!」
「絶対だ」
「絶対!」
ピピの返事を聞き、和真は不安そうに眉を寄せた。
「屋台の名前も決めないとね」
みゆが紙を覗き込む。
「それは最後でいいだろ」
「大事だよ。空色食堂は?」
「そのまますぎる」
「じゃあ、酒菜食堂!」
「俺の名前を勝手に使うな」
「猫又定食!」
「お前しか関係ねえだろうが」
「難しいね」
「今決める必要がねえと言ってんだ」
酒菜は呆れながらも、僅かに笑っていた。
その様子を見て、和真も肩の力を抜く。
通帳の残高は、先ほどから一円も増えていない。
問題が、今すぐ消えたわけでもない。
新しく始めようとしていることが、全て上手くいく保証もなかった。
それでも、通帳を一人で見つめていた時のような絶望感はない。
「悪かった」
和真が小さく口にすると、全員の視線が集まった。
「何がじゃ?」
「金のことを黙ってたこと。皆に話しても仕方ないって、勝手に決めてた」
「本当に勝手じゃ」
あおいが頬を膨らませる。
「ごめん」
「次からは、ちゃんと話すのじゃぞ」
「ああ」
「絶対じゃ」
「分かったよ」
和真が頷くと、あおいの尻尾がようやく元の大きさへ戻った。
「それと」
酒菜が低い声で続ける。
「昼も夜も働くなんて、二度と勝手に決めるんじゃねえぞ」
「まだ決めてなかっただろ」
「決めようとしてた」
「考えてただけだ」
「同じだ」
「違うだろ」
「次に同じ紙を書いてたら燃やす」
「せめて捨てるだけにしてくれ」
「内容による」
酒菜はそう言い切ると、壁掛け時計へ目を向けた。
「ところで、神社へ行く時間は大丈夫なのか?」
「あっ」
和真とあおいの声が重なる。
資金会議に夢中になり、出かける時間が迫っていることを忘れていた。
「和真、急ぐぞ!」
「ああ。準備してくる!」
「俺も酒屋へ行く支度しないと!」
フェンリスも慌てて立ち上がる。
「落ち着け。まだ昼前だろうが」
酒菜が呆れたように言う。
「遅れるよりは早い方がいいよ!」
フェンリスはそう答え、101号室へ戻るため母屋を飛び出していった。
和真も通帳とノートを手に、自室へ向かおうとする。
「待て」
酒菜に呼び止められ、足を止めた。
「今度は何だよ」
「通帳を隠すな。帰ったら、収入と支出を全員で確認するぞ」
「全員で?」
「当たり前だ。これからは、一人で抱え込ませねえ」
和真は食卓を囲む住人たちを見渡した。
ひかげも、みゆも、リディアも、あおいも、ピピも、誰一人として反対する様子はない。
「……分かった」
和真は今度こそ、素直に頷いた。
穏やかな日々を守るために、一人で全てを背負う必要はない。
空色唐辛子荘で暮らしているのは、和真だけではないのだから。




