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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第二十話 新しい日常

 温泉旅行から帰ってきた翌朝。


 母屋の台所から聞こえてきた包丁の音で、和真は目を覚ました。


 一定の速さで響く、迷いのない音だった。


 寝ぼけたまま居間へ向かうと、炊きたての米と味噌汁の香りが漂ってくる。


 台所には、昨日旅館から譲ってもらった着物を着た酒菜が立っていた。


 まな板の上に置いた長ねぎを濡らした布巾と小皿で押さえ、右手一本で器用に包丁を動かしている。


 左腕がないことを感じさせないほど手際がよく、隣のコンロでは焼き魚が香ばしい匂いを立てていた。


「おはよう、酒菜」


「おう。起きたなら顔を洗ってこい。もうすぐできる」


「……朝飯、作ってくれたのか?」


「見りゃ分かるだろ」


 酒菜は振り返りもせず、ぶっきらぼうに答えた。


「昨日、お前の料理を見ちまったからな。あんなもんをこいつらに食わせ続けるわけにはいかねえ」


「そこまで酷くはないと思うんだけど」


「食えることと、うまいことは別だ」


 きっぱりと言われ、和真は反論できなくなった。


 昨夜も似たようなことを言われたばかりである。


「それに、借りを返すまでは世話になるんだ。食うだけってのも落ち着かねえ」


「別に気にしなくていいのに」


「俺が気にするんだよ。ほら、邪魔だから顔を洗ってこい」


「はいはい」


「返事は一回でいい」


 和真が洗面所へ向かおうとしたところで、母屋の玄関が勢いよく開いた。


「おはよー! いい匂い!」


 真っ先に飛び込んできたのはピピだった。


 翼を大きく広げたまま台所へ駆け込み、鍋を覗こうと首を伸ばす。


「近い。羽が鍋に入るだろうが」


「入らないよ。たぶん!」


「その返事をする奴が一番信用できねえんだよ!」


 酒菜に頭を押し戻されても、ピピは楽しそうに笑っている。


「今日のご飯、焼肉?」


「朝から焼肉なんか出すか。魚だ」


「お肉じゃない……」


「露骨に落ち込むな。魚もうまいぞ」


 続いて、フェンリスたちも母屋へ集まってきた。


 食卓に並び始めた朝食を見て、フェンリスが目を丸くする。


「これ、全部酒菜が作ったの?」


「ああ。嫌なら食わなくていいぞ」


「嫌なんて言ってないよ。すごくおいしそう!」


「本当に……一人で作ったんですか?」


 ひかげも感心したように台所を覗く。


 並んでいるのは焼き魚だけではない。だし巻き卵に青菜のおひたし、根菜の煮物まで用意されていた。


「片腕で不便じゃないの?」


 みゆが悪気なく尋ねると、酒菜は自分の左肩へ目を向けた。


「不便じゃねえとは言わねえが、なくしてから長いからな。今さら料理くらいで困らねえよ」


「すごいね。みゆ、両手があっても卵焼きが四角くならないよ」


「お前の場合は、焼いている途中で食うからだろ」


「味見だよ?」


「半分なくなるまで味見する奴がいるか」


「ここにいるよ」


「威張るな!」


 朝から響いた怒鳴り声に、食卓から笑いが起こる。


 酒菜は不満そうに眉を寄せたものの、本気で怒ってはいなかった。


「酒菜よ。わらわの分もあるのか?」


「人数分作ってある。座って待ってろ」


「うむ。では、いただくとしよう」


「まだ並べ終わってねえ!」


 あおいが先に箸を取ろうとして、今度はそちらへ酒菜の声が飛んだ。


 その間にリディアは焼き魚の前へ立ち、興味深そうに表面を観察している。


「均一に火が通っていますね。右手だけで調理したとは思えない精度です」


「食い物を機械みてえに見るんじゃねえ」


「褒めているのですが」


「お前の褒め方は分かりにくいんだよ」


 酒菜に追い払われたリディアは、素直に食卓へ移動した。


 昨日まで客人に近かった酒菜が、すでに全員を相手に怒鳴っている。


 その姿を眺めながら、和真は小さく笑った。


「なんだよ」


「いや。もう馴染んでるなと思って」


「馴染んでねえ」


「そうか?」


「俺は借りを返すまでいるだけだ。仲間になった覚えはねえからな」


 酒菜はそう言い切り、和真の前へ焼き魚の皿を置いた。


「ほら。冷める前に食え」


「ありがとう」


「礼は食ってからにしろ」


 全員分の朝食が揃うと、賑やかな食事が始まった。


 焼き魚へ箸を入れたフェンリスの耳が、ぴんと立つ。


「おいしい!」


「この卵焼きも甘くておいしいよ!」


「みゆ。それ、僕の分!」


「名前は書いてなかったよ?」


「同じ皿に、同じ数だけあります……」


 ひかげが小さな声で指摘するが、みゆはすでにピピの皿から卵焼きを奪おうとしている。


 ピピも補助腕を伸ばし、半透明の手で皿を自分の方へ引き寄せた。


「取ったら駄目!」


「一個くらいいいでしょ?」


「僕が食べるの!」


「食べ物になると強いよね、ピピ」


 みゆが箸を伸ばし、ピピが皿を守ろうとする。


 その拍子に翼が大きく動き、巻き起こった風で、あおいの長い髪と九本の尻尾が一斉に揺れた。


「ピピ!」


「まだ羽ばたいてないよ!」


「今のが羽ばたいてねえなら、何をしたんだ!」


「卵焼きを守った!」


「守れてねえよ!」


 酒菜が卵焼きを取り上げ、半分に切ってから、みゆとピピの皿へ一つずつ置く。


「最初からこうすりゃいいだろうが」


「酒菜、優しいね」


「うるせえ。飯が冷めるから黙って食え」


 照れ隠しのように顔を背けた酒菜を見て、みゆがにやりと笑う。


 その尻尾が酒菜の腰へ伸びるより先に、フェンリスがつかんで止めた。


「やめておいた方がいいよ。怒られるから」


「まだ何もしてないよ?」


「しようとはしてたよね」


 朝食を終える頃には、用意されていた料理は綺麗になくなっていた。


 空になった皿を眺め、酒菜はわずかに口元を緩める。


 しかし、和真と目が合うと、すぐにいつもの仏頂面へ戻った。


「それで、今日はどうすんだ」


「まずは酒菜の服を買いに行こうと思ってる」


 和真が答えると、酒菜は自分が着ている着物を見下ろした。


「これがあるだろ」


「旅館から譲ってもらった一着だけじゃ足りないだろ。それに、その格好だと目立つ」


「こっちじゃ普通の服じゃねえのか?」


「着物自体は普通だけど、普段着にしてる人は少ないな」


「面倒な世界だな」


「酒菜の身体に合った服も必要です」


 リディアが食後のお茶を飲みながら口を挟んだ。


「既製品でも着られるものはありますが、右手だけで着脱しやすい形を選んだ方がいいでしょう」


「別に、着替えくらい一人でできる」


「できることと、楽にできることは別です」


 昨夜、酒菜が和真へ言った言葉とよく似ていた。


 酒菜もそれに気づいたらしく、嫌そうに顔をしかめる。


「……分かったよ。買いに行きゃいいんだろ」


「それと携帯も必要だな」


「携帯?」


「離れた場所にいても話せる道具だよ。何かあった時に連絡できる」


 和真が自分のスマートフォンを見せると、酒菜は警戒するように画面を覗き込んだ。


「昨日も見たが、本当にこれで遠くの奴と話せるのか?」


「話せるし、文字も送れる。写真も撮れるぞ」


「こんな板でか」


「板じゃないよ! 僕、知ってる!」


 ピピが勢いよく口を挟んだ。


「これ、みんな持ってるやつ! 光って、音が鳴って、いっぱい触ると怒られる!」


「最後のは、お前が勝手に触るからだよ」


「僕も持ってる?」


 ピピが翼を広げ、自分の身体を見回す。


「いや。ピピはまだ持ってないな」


「なんで!?」


「来たばかりだったし、手続きもまだだったからな」


「僕だけないの?」


「酒菜も持ってねえだろうが」


「お前と一緒にするな」


「なんで!?」


 酒菜にまで拒まれ、ピピが悲しそうに翼を垂らす。


 その様子を見た和真は苦笑しながら、もう一台契約することを決めた。


「分かった。今日はピピの分も買おう」


「やった!」


 喜んだピピが和真へ飛びつこうとする。


 狭い食卓の横で翼が開いた瞬間、フェンリスとひかげが左右から押さえた。


「ここで飛んだら駄目だよ」


「また全部ひっくり返ります……」


「飛ばないよ。抱きつくだけ!」


「その勢いだと和真ごと倒れるだろうが」


 酒菜が呆れた声を出す。


「だが、こいつはどうやって使うんだ?」


 酒菜がピピの翼と、目の前に浮かぶ補助腕へ目を向けた。


「その腕で、細かい操作までできるのか?」


「できるよ!」


 ピピが得意げに補助腕を持ち上げる。


「箸も使えるし、服も着られるし、和真にも抱きつける!」


「最後のは必要ねえだろ」


「必要だよ!」


「何にだよ……」


「携帯の操作については、私も考えていました」


 リディアが席を立ち、ピピの背後へ回る。


 翼の付け根には、補助腕を動かすための小さな装置が取り付けられていた。


「これまでの補助腕は、食器を持つ、服をつかむといった大きな動きを優先していました。携帯の画面を扱うには、指先の細かな制御が必要になります」


「じゃあ、使えないの?」


「いいえ。昨夜のうちに改良しておきました」


「昨日の夜に?」


「ピピが、いずれ自分の携帯を欲しがることは予想できましたから」


 リディアが装置へ触れると、埋め込まれた魔石が淡く光った。


 補助腕の形に大きな変化はない。


 しかし、ピピが翼をわずかに動かしただけで、半透明の指が一本ずつ滑らかに曲がり始めた。


「前より動かしやすい!」


「指先の感覚も調整しました。触れた物の硬さや重さを、翼の付け根へ弱い刺激として伝えます」


「よく分からないけど、すごい!」


「少しは理解してから使ってほしいのですが……」


 リディアがわずかに肩を落とす。


 ピピはさっそく補助腕を伸ばし、食卓の上に残っていた箸をつまみ上げた。


「ほら、上手につかめるよ!」


「それは前からできてただろ」


「じゃあ、もっと難しいことする!」


「余計なことはしなくていい」


 和真が止めるより早く、ピピは箸を指先でくるりと回そうとした。


 補助腕の指から箸が抜け、一直線に天井へ飛んでいく。


 全員が揃って頭上を見上げた。


「……細かく動かせても、使う奴がこれじゃ意味ねえな」


「今のは腕が勝手にやった!」


「道具のせいにするんじゃねえ!」


 酒菜の怒鳴り声が、再び母屋へ響き渡った。


     ◇


 朝食の片づけを終えた後、和真たちは街へ向かう準備を始めた。


 酒菜はリディアから渡された装置で角と傷痕を隠している。


 左腕の欠損はそのままだが、街中で必要以上に注目を集めることはない。


 ピピも見た目を変える装置を身につけ、翼を人間の腕に見せていた。


 実際に物へ触れるのは補助腕だが、外見上は普通の少女の腕と変わらない。今朝の改良によって、指先も以前より滑らかに動くようになっている。


「今日は、この腕で携帯を使う!」


 ピピは人間に見える両手を握ったり開いたりしながら、元気よく宣言した。


「まずは壊さずに持つところからだな」


「壊さないよ!」


「本当か?」


「たぶん!」


「不安になる返事をするなよ」


 今回街へ向かうのは、和真と酒菜、ピピの三人である。


 リディアは庭に設置する新しい装置の調整があり、ひかげもその作業を手伝うことになった。


 フェンリスとみゆは同行したがったが、鶏の世話と畑の手入れを頼むと渋々残ってくれた。


 あおいは果樹と水脈の様子を見るらしい。


「本当に二人を連れて大丈夫?」


 出発前、フェンリスが和真の袖をつかんだ。


「二人とも、この辺りの街には慣れてないじゃないか」


「俺は子供じゃねえぞ」


「ピピだけよりは大丈夫だろ」


「それ、僕なら大丈夫じゃないみたい!」


「違うのか?」


「……たぶん大丈夫!」


「自信を持てよ」


 酒菜が呆れたように言い、先に玄関を出ていく。


 その背中を追いかけながら、ピピは改良された腕を大きく振った。


「お買い物! お肉も買う?」


「今日は服と携帯だ」


「お肉は?」


「帰りに考える」


「焼肉?」


「考えるって言っただろ」


 騒がしい二人を見送りながら、フェンリスはますます不安そうな顔になった。


「和真」


「今度はなんだ?」


「できるだけ早く帰ってきてね」


「分かってるよ」


「知らない女の人についていったら駄目だからね」


「俺を何歳だと思ってるんだ」


「和真は変なところで警戒心がないから言ってるの」


 フェンリスはそう言ってから、酒菜の背中をちらりと見た。


 誰を警戒しているのか分かったものではない。


     ◇


 最初に入った衣料品店で、酒菜は入り口に並んだ服の数を見て足を止めた。


「……全部、服なのか?」


「そうだよ」


「この店だけで?」


「ああ」


「王侯貴族の衣装庫じゃねえんだよな?」


「普通の店だ」


 酒菜は信じられないものを見るように、広い店内を見渡した。


 色も形も違う服が、棚やハンガーへ隙間なく並べられている。


 通路の先には下着や靴まであり、値札には酒菜にも読める数字と文字が並んでいた。


 言葉も文字も理解できる。


 それでも、服の種類や店の広さは、酒菜が元いた世界とはあまりにも違っていた。


「こんなに必要なのか?」


「選べる方がいいだろ」


「身体を隠せりゃ何でも同じじゃねえか」


「全然違うよ!」


 ピピが急に声を上げた。


「かわいい服は、着ると楽しい!」


「お前は何を着せても喜んでるだろうが」


「うん!」


「そこで否定しねえのかよ」


 酒菜は早くも疲れたような顔をしている。


 和真は片腕でも着替えやすそうな服を探し、前側にファスナーのついた上着や、ゆったりとしたシャツ、腰がゴムになったパンツを選んでいった。


「これはどうだ?」


「地味だな」


「じゃあ、こっち」


「派手すぎる」


「これは?」


「布が薄い」


「注文が多いな」


「お前が聞いたんだろうが」


 酒菜が最初に選んだのは、濃紺のゆったりとしたシャツと黒いパンツだった。


 動きやすさを第一に考えた、飾り気の少ない組み合わせである。


 さらに赤黒い上着を見つけると、酒菜の足が一瞬だけ止まった。


「それ、気に入ったのか?」


「別に」


「じゃあ戻すか」


「待て。買わねえとは言ってねえだろ」


「気に入ったんじゃないか」


「うるせえ」


 酒菜は和真から上着を奪い取り、右手だけで広げた。


 前側にファスナーがあり、左袖は少し余るものの、内側へ折り込めば邪魔にはならなそうだった。


「試着してみたら?」


「一人でできる」


「何も手伝うとは言ってないだろ」


「その顔が余計なお世話だって言ってんだよ」


 酒菜は服を抱え、試着室へ入った。


 一人で着替えられると言い張ったため、和真とピピは外で待つ。


 しばらくして、カーテンの向こうから何かが落ちる音がした。


「酒菜、大丈夫?」


「問題ねえ」


 続けて、今度は壁へ身体をぶつけたような音がする。


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫だっつってんだろ!」


 怒鳴り声だけは元気だった。


 待っている間に、ピピが近くに置かれていた帽子を見つける。


 両側に丸い耳がついた、動物を模した帽子だった。


「和真、見て!」


 ピピは帽子をかぶり、得意げに振り返った。


「僕、何になった?」


「熊かな」


「熊!」


「お前は何しに来たんだ」


 試着室のカーテンが勢いよく開いた。


 黒いパンツに濃い灰色のシャツ、その上から赤黒い上着を羽織った酒菜が立っている。


 左袖は内側へ折り込み、留め具で邪魔にならないよう固定していた。


 動きやすさを重視した服装だが、引き締まった長身によく似合っている。


「変じゃねえか?」


 酒菜が落ち着かない様子で尋ねる。


「似合ってるよ」


「……本当か?」


「ああ。酒菜らしいと思う」


「会って二日のお前に、俺らしさの何が分かるんだよ」


 そう言いながらも、酒菜は少しだけ嬉しそうだった。


 鏡の中の自分を何度か確認し、上着の裾を整える。


「酒菜、かっこいい!」


 ピピが素直に褒めると、酒菜は照れ隠しのようにその頭を右手で乱暴に撫でた。


「お前は、いつまでその帽子をかぶってんだ」


「似合う?」


「悪くはねえが、今日はお前の服を買いに来たんじゃねえぞ」


「じゃあ、帽子だけ買う!」


「和真に勝手な物を買わせるな」


「酒菜は服をいっぱい買うのに?」


「俺は着る物がねえんだよ!」


 騒ぎを聞いていた店員が、笑いをこらえながら近づいてきた。


 酒菜の上着を見ると、左袖を短く整える加工ができると教えてくれる。


「時間はかかるのか?」


「簡単な加工なので、本日中にお渡しできます」


「なら頼む」


「ほかの上着も、必要でしたら同じようにできますよ」


「助かる」


 酒菜は短く礼を言い、何着か追加で上着を選んだ。


 普段着と部屋着、下着、靴を一通り揃える。


 ピピの帽子も、結局一緒に買うことになった。


「僕の熊!」


「その名前で呼ぶなよ」


「熊じゃないの?」


「帽子だ」


「熊の帽子!」


「それなら合ってる」


 満足そうなピピを連れ、三人は携帯電話を扱う店へ移動した。


 店内へ入った途端、壁一面に並んだスマートフォンを見て、ピピが固まった。


「全部、和真が持ってるのと同じ?」


「だいたいはな」


「これ、全部触っていい?」


「展示されてる物だけだぞ。持って帰ったら駄目だからな」


「分かった!」


 ピピは疑似的な両手を慎重に伸ばし、一台のスマートフォンを持ち上げた。


 画面へ指が触れると、色鮮やかな表示が次々と切り替わる。


「動いた!」


「力を入れすぎるなよ」


「優しく触ってる!」


 今度は問題なく操作できている。


 ピピは夢中になって画面を触り、偶然起動したカメラに自分の顔が映ると、驚いて端末を落としかけた。


「中に僕がいる!」


「鏡みたいに映ってるだけだ」


「小さい僕だよ!」


「写真も撮れるぞ」


「写真!」


 ピピは言葉の意味までは理解できていないようだが、和真の説明に合わせて撮影ボタンを押した。


 自分の顔を何枚も撮り始めたものの、そのほとんどが近すぎて、鼻や片目しか写っていない。


 一方、酒菜は端末へ触れようともせず、少し離れた場所から眺めていた。


「酒菜も選ばないと」


「どれも同じ板にしか見えねえ」


「大きさや性能が違うんだよ。色も選べるぞ」


「黒でいい」


「即決だな」


「壊れにくくて、話ができりゃ何でもいい」


 酒菜らしい答えだった。


 酒菜とピピは、この世界で携帯を契約するための手続きをまだ済ませていない。


 そのため、今回は和真の名義で二人分の回線を追加することになった。


 店員から料金や契約内容の説明を受ける間、酒菜は真剣な顔で和真の横に座っている。


 日本語そのものは問題なく理解できているが、聞き慣れない言葉が多いらしい。


「この、ギガってのはなんだ?」


「携帯で使える通信量の目安だな」


「使い切ると壊れるのか?」


「壊れない。通信が遅くなるだけだ」


「通信ってのは?」


「遠くへ文字や声を届ける仕組みのことだ」


「魔力も使わずにか?」


「ああ」


「便利なんだか、面倒なんだか分からねえな」


 酒菜は料金表を読み直し、いくつかの項目を指で示した。


「こっちとこっちは、何が違う」


「使える通信量と、通話できる時間だな」


「俺は外で何をするかも決まってねえ。少ない方でいい」


「酒菜はそれで足りそうだな」


「ピピは?」


 和真が隣を見ると、ピピは展示端末で動画を見ていた。


 画面には、大量の肉を焼く映像が流れている。


「焼肉……」


 ピピは画面へ釘づけになり、口元から今にも涎を垂らしそうになっていた。


「こっちは多い方がよさそうだ」


「こいつに持たせて本当に大丈夫なのか?」


「使える機能を最初に制限しておくよ」


「肉を見すぎて金がかかったりしねえだろうな」


「無料で見られる動画なら大丈夫だ」


「無料?」


「金を払わなくても見られるってこと」


 酒菜は画面の中で焼かれている肉と、夢中になっているピピを見比べた。


「この世界、よく分からねえところだけ便利だな……」


 契約手続きが終わり、酒菜には黒、ピピには空色のスマートフォンが渡された。


 落下を防ぐため、ピピの端末には首から提げられる丈夫なケースも取り付ける。


「僕の携帯!」


 ピピは空色の端末を胸元へ抱えようとした。


 しかし、改良された補助腕の力加減にまだ慣れておらず、端末がそのまま顔へぶつかる。


「痛い!」


「買って一分で壊すなよ!」


「壊れてないよ。僕の鼻も、たぶん大丈夫!」


「鼻より携帯を心配してんだよ!」


 酒菜が怒鳴る横で、和真は二人の端末へJINEを入れた。


 さらに、ピピの携帯にはリディアが用意していた通訳機能を設定する。


 画面に表示された日本語をピピの言葉へ変換し、ヘッドホンを通して読み上げる仕組みだ。ピピが話した言葉も日本語の文章へ変換されるため、簡単なやり取りなら和真がそばにいなくてもできる。


「これで、みんなから来た文字も分かるぞ」


「携帯が読んでくれるの?」


「ああ。返事をする時は、送りたい言葉を話せばいい」


「すごい!」


「ただし、勝手に知らない相手へ送るなよ」


「分かった!」


「返事は?」


「たぶん!」


「そこは、たぶんじゃ駄目だ」


 設定を終え、二人を空色唐辛子荘の住人が参加しているJINEのグループへ招待する。


 すぐに複数の通知音が鳴り始めた。


『無事に買えた?』


 フェンリスからのメッセージだった。


 続いて、みゆからも届く。


『酒菜の新しい服、見たい! 写真送って!』


『ピピが勝手に有料のものを買わないよう、設定を確認してください』


 ひかげからの心配まで届いた。


 最後に、あおいから庭で見つけた大きな芋虫の写真が送られてくる。


「なんで芋虫を送ってくるんだ……?」


 和真が首を傾げていると、ピピのヘッドホンから、届いた文章を読み上げる声が聞こえ始めた。


「みんなの声じゃないのに、みんなの言葉が聞こえる!」


「文字を読んでるんだよ」


「芋虫、大きいね!」


「そこに食いつくのか」


 ピピはさっそく携帯へ顔を近づける。


「芋虫、食べられる?」


 話した言葉が日本語へ変換され、そのままJINEのグループへ送信された。


 数秒もしないうちに、あおいから返事が届く。


『食べてはならぬ』


「駄目だって」


「残念……」


「最初から食おうとするな」


 酒菜は呆れながらも、自分の携帯へ届いた文章を一つずつ読んでいた。


「この文字を押せば、俺も送れるのか?」


「ああ。話すより、文字を打つ方が難しいけどな」


「読めるなら、あとは慣れだろ」


 和真から入力方法を教わると、酒菜は右手の親指でゆっくり画面へ触れた。


 片手での操作に苦戦しながらも、短い文章を打ち込んでいく。


『服と携帯は買った。今から帰る』


 送信した直後、次々に返事が届いた。


『おかえりを言う準備して待ってる!』


『写真は!?』


『気をつけて帰ってきてください』


『菓子を買ってきてほしいのじゃ』


「……こいつら、全員違う場所にいるんだよな?」


「ああ。敷地の中にはいるけど、それぞれ別の作業をしてるはずだ」


「それなのに、今書いたものがもう届いたのか」


「そうだよ」


 酒菜は黒い端末を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、ほんの少しだけ表情を緩める。


「妙な感じだな」


「嫌だったか?」


「そうじゃねえ」


 酒菜は新しい携帯を右手で握り、照れくさそうに顔を背けた。


「どこにいても、帰るって伝えられるんだなと思っただけだ」


 その声には、かすかな寂しさが混じっていた。


 和真が何かを尋ねるより早く、ピピが二人の間へ割り込む。


「和真! 焼肉のお店、見つけた!」


「どうやって見つけたんだ?」


「携帯が教えてくれた!」


「位置情報はまだ設定してないぞ」


「じゃあ、たまたま!」


「店がどこにあるか分かってるのか?」


「分からない!」


「見つけてねえじゃねえか!」


 酒菜の怒鳴り声に、店員が驚いてこちらを振り返った。


 和真は慌てて頭を下げ、二人を連れて店を出る。


 必要な買い物は終わった。


 しかし、母屋へ戻れば庭の手入れと鶏の世話が待っている。


 さらに、朝からフェンリスたちが相談していた新しい家畜の話もあった。


「帰ったら、庭仕事を手伝ってもらうからな」


「俺もか?」


「世話になる間は働くんだろ?」


「当たり前だ」


「僕もやる!」


「ピピは携帯を土に埋めるなよ」


「埋めないよ!」


「本当か?」


「たぶん!」


「先に携帯を預かった方がよさそうだな……」


 三人は騒がしく言葉を交わしながら、空色唐辛子荘への帰り道を歩き始めた。


              ◇


空色唐辛子荘へ戻ると、敷地の奥から何かを叩く音が聞こえてきた。


 買い物袋を持った和真が音のする方へ目を向ける。


 小牧場の前では、フェンリスが地面へ木の杭を打ち込んでいた。


 その隣では、ひかげが板を押さえ、リディアが機械の右腕から伸ばした工具で金具を取り付けている。


「何を作ってるんだ?」


 和真が声をかけると、最初に振り返ったフェンリスの耳がぴんと立った。


「和真、おかえり!」


「ただいま」


「おかえり!」


 フェンリスは手にしていた木槌を放り出し、和真のもとへ駆け寄ってくる。


「早かったね。何もなかった?」


「服と携帯を買ってきただけだからな」


「知らない女の人には?」


「ついていってない」


「本当に?」


「その確認、必要か?」


「必要だよ」


「お前はこいつの母親か」


 酒菜が呆れたように口を挟んだ。


 フェンリスは言い返そうとして、酒菜の姿を見る。


 旅館から譲ってもらった着物ではなく、黒いパンツと濃い灰色のシャツを身につけ、その上から赤黒い上着を羽織っている。


「酒菜、その服……」


「なんだ。変か?」


「ううん。すごく似合ってる」


「……そうかよ」


 素直に褒められた酒菜は、それ以上何も言えなくなった。


 照れ隠しのように顔を背けると、今度は庭の方からみゆが駆けてくる。


「帰ってきた! 新しい服を見せて!」


「もう見えてんだろ」


「もっと近くで見るの!」


 みゆは酒菜の周囲を回り、前から後ろから服装を確認した。


「かっこいいね。写真撮っていい?」


「断る」


「まだ撮ってないよ?」


「携帯を後ろに隠してる奴が言っても説得力がねえんだよ」


「ばれてた?」


「撮ったら叩き割るぞ」


 みゆは素早く携帯をポケットへ戻した。


 その間に、あおいも果樹の並ぶ方から歩いてくる。


「おかえり、和真。菓子は買ってきたかの?」


「頼まれたのは帰る直前だっただろ。買ってないよ」


「なんと……」


 あおいの大きな狐耳が力なく垂れる。


「代わりに、あとで何か作るから」


「和真が作るのか?」


「なぜそこで不安そうな顔をするんだ」


「朝餉の話を聞いた後ではな……」


「俺の料理、そこまで信用されてないのか?」


「食えはする」


 背後から酒菜が答えた。


「酒菜まで同じこと言うなよ」


「事実だろ」


 和真が言い返せずにいると、ピピが小牧場へ向かって走り出した。


「何を作ってるの?」


「待て、ピピ。携帯をぶつけるぞ」


「首から下げてるから大丈夫!」


 空色の携帯が胸元で大きく跳ねている。


 大丈夫には見えなかった。


 ピピを追って小牧場まで行くと、リディアが作業の手を止めた。


「おかえりなさい。問題なく契約できましたか?」


「ああ。ピピの補助腕もちゃんと使えたよ」


「携帯も動かせた!」


 ピピが自慢するように携帯を持ち上げる。


「顔にぶつけてたけどな」


「一回だけだよ!」


「買ってすぐの一回は多いんだよ」


 酒菜に注意され、ピピは携帯を首から下げ直した。


 和真は建てられたばかりの杭と、積み上げられている板を見回す。


「それで、これは?」


「ヤギを迎える準備です」


「もう飼うことに決まったのか?」


「まだ、みんなで話してる途中だったんだけど……」


 フェンリスが少し気まずそうに耳を伏せた。


「和真が帰ってくるまで待つつもりだったんだよ。でもリディアが、先に囲いだけ作っておいた方がいいって」


「元の柵では、ヤギに越えられる可能性があります。決定後に作業を始めるより、先に補強しておいた方が効率的です」


「飼わないことになったらどうするんだ?」


「ほかの家畜にも使えます」


「最初から作るつもりだっただろ」


「否定はしません」


 リディアは悪びれる様子もなく答えた。


 その後ろには、ヤギを飼育する場合に必要な物まで綺麗に並べられている。


 餌箱に水入れ、掃除道具。雨や日差しを避けるための小さな屋根まで、すでに半分ほど完成していた。


「それで、なんで急にヤギなんだ?」


「牧草地の雑草を食べてもらえるでしょう?」


 ひかげが板を押さえたまま答えた。


「それに、雌のヤギなら……いつか乳も分けてもらえるかもしれません」


「ヤギの乳からは、チーズなども作れます」


「リディアは最初から、それが目的なんじゃないか?」


「新しい加工設備を試したいとは考えています」


「やっぱりな」


 和真が小牧場を見渡す。


 敷地には十分な広さがあり、牧草も育っている。


 鶏の世話にも慣れてきたため、ヤギが二頭ほど増えても場所の問題はなさそうだった。


「毎日世話することになるぞ」


「僕がやるよ」


 フェンリスが真っ先に手を挙げる。


「朝なら酒屋の仕事へ行く前にできるし、帰ってきてからも見られるから」


「わ、私も手伝います……。ずっと部屋にいるよりは、外へ出る理由になりますから」


 ひかげも小さく手を挙げた。


「みゆもやるよ。たぶん」


「ピピみてえな返事をするな」


 酒菜に指摘されたみゆが笑う。


「わらわも牧草の様子を見ることならできるぞ」


「僕もやる!」


 最後にピピが勢いよく翼を広げた。


「ヤギと遊ぶ!」


「世話をするって話だぞ」


「遊ぶのも世話だよ!」


「違うと思うが……」


 和真は全員の顔を順番に見る。


 一時の思いつきだけではないらしい。


「分かった。みんなで世話をするなら、飼ってみよう」


「やった!」


 ピピが飛び上がり、首から下げていた携帯も一緒に跳ねる。


 空色の端末が顔へ当たりそうになり、酒菜が素早く右手を伸ばして受け止めた。


「気をつけろって言ったばかりだろうが!」


「酒菜、ありがとう!」


「まず謝れ!」


「ごめんなさい!」


「ったく……」


 酒菜は携帯をピピの首へ戻し、紐の長さを短く調整した。


 その手つきは乱暴に見えて、端末が身体へぶつからない長さをきちんと確かめている。


 みゆがその様子を見て、にやにやと笑った。


「酒菜って、すっかりピピのお母さんみたいだね」


「誰が母親だ!」


「じゃあ、お姉ちゃん?」


「どっちでもねえ!」


「酒菜お姉ちゃん!」


 ピピが嬉しそうに呼ぶ。


「お前まで乗るな!」


 酒菜の怒鳴り声に、全員の笑い声が重なった。


     ◇


 ヤギを迎える前に、まずは敷地内の手入れを終わらせることになった。


 温泉旅行で留守にしていたのは短い間だったが、畑や牧草地には新しい雑草が顔を出している。


 鶏小屋の餌と水はリディアが設置した装置で補充されていたものの、床の掃除や卵の回収までは人の手が必要だった。


 和真は買ってきた物を母屋へ置き、作業着へ着替えた。


 酒菜も新しく買った上着を脱ぎ、濃紺のシャツと黒いパンツ姿になる。


「買ってきたばかりの服で庭仕事するのか?」


「服は着るためにあるんだろ」


「そうだけど、いきなり汚れるぞ」


「洗えばいい」


「気に入ってたみたいだから、もったいないかと思って」


「別に気に入ってねえ!」


 否定する声が、少しだけ大きかった。


 酒菜は片手で鍬を持ち上げ、そのまま畑へ向かう。


 片腕しかないため扱いにくいはずだが、足と腰を使って刃先を土へ打ち込み、根の深い雑草を次々と掘り起こしていった。


「ずいぶん慣れてるな」


「村で暮らしてりゃ、畑仕事くらいする」


「酒菜も畑を持ってたのか?」


「ああ。小せえ畑だったがな」


 酒菜はそれだけ答えると、次の雑草へ鍬を振り下ろした。


 和真はそれ以上尋ねず、隣の畝で作業を始める。


 少し離れた場所では、あおいがしゃがみ込み、土と草の状態を確認していた。


「こちらの草は抜いてよい。だが、そちらは薬草じゃ。残しておくのじゃぞ」


「こっちは?」


「それは雑草じゃ」


「じゃあ、これは?」


「薬草じゃ」


「これは?」


「先ほどと同じ雑草じゃ」


「全部、同じに見えるよ」


 みゆが困ったように首を傾げている。


「葉の形がまるで違うではないか」


「そうかな?」


「みゆ。それは抜くな」


 和真が声をかけた時には遅かった。


 みゆの手には、あおいが残すように言った薬草が握られていた。


「あっ」


「抜いてしもうたのか……」


「戻したら大丈夫?」


「土へ刺しても元には戻らぬ!」


 みゆが慌てて抜いた薬草を植え直そうとし、あおいがそれを止める。


 二人が騒いでいる横では、ピピが携帯で畑の写真を撮っていた。


「見て、和真! いっぱい撮れた!」


「作業はどうした?」


「してるよ!」


「写真しか撮ってないだろ」


「みんなが働いてるところを残してる!」


「お前も働け」


「分かった!」


 ピピは携帯を首から下げ、補助腕で雑草をつかんだ。


 勢いよく引き抜いた瞬間、根についていた土が飛び散り、正面にいた酒菜の顔へかかる。


「…………」


「酒菜、土がついたよ」


「誰のせいだと思ってんだ?」


「草?」


「お前だ!」


 逃げようとしたピピの襟を、酒菜が右手でつかまえる。


「手本を見せてやる。根元を持って、真っすぐ抜け」


「飛ばしたら駄目?」


「わざわざ飛ばす必要がどこにある」


「楽しいよ?」


「畑仕事は遊びじゃねえ!」


 酒菜に教えられながら、ピピは一本ずつ雑草を抜いていく。


 最初の数本は土を周囲へ飛ばしていたが、次第に力加減を覚え、根ごと綺麗に抜けるようになった。


「できた!」


「そうだ。そのまま続けろ」


「いっぱい抜いたら、焼肉?」


「なんでそうなる」


「頑張ったから!」


「まだ三本だ!」


 酒菜が怒鳴り、ピピが笑う。


 騒がしい声を聞きながら作業を続けていると、今度は牧草地の方から歌が聞こえてきた。


 ピピが抜いた雑草を抱えながら、楽しそうに歌っている。


 意味の分からない明るい歌声が、敷地の中へ広がっていく。


 風が柔らかく吹き、木々の葉が揺れた。


 畑の作物も歌に合わせるように葉を持ち上げる。


「ピピ、歌うのはいいけど、加減しろよ」


「大丈夫!」


 直後、ピピの足元に残っていた雑草が一気に伸びた。


 細かった茎が膝の高さまで育ち、葉が何枚も開いていく。


「増えた!」


「だから加減しろって言っただろ!」


「いっぱい抜いたのに!」


「自分で戻してどうすんだ!」


 和真たちが驚いている間にも、歌の魔力を受けた草が次々と伸びていく。


 あおいが慌ててピピの口を手で塞いだ。


「むぐっ!」


「もう歌わぬ方がよい!」


「これでは、作業を始める前より増えていますね」


 リディアが冷静に告げる。


「確認しなくても分かるよ……」


 ひかげが伸びた草を見つめ、肩を落とした。


 酒菜はしばらく呆然としていたが、やがて額を押さえて深く息を吐いた。


「こいつは手伝わせねえ方が早いんじゃねえか?」


「本人に悪気はないんだけどな」


「悪気がなけりゃ、草が消えるのか?」


「消えないな」


「僕、もっと頑張って抜くよ!」


「今度は歌うなよ!」


「分かった! たぶん!」


「絶対に歌うな!」


 結局、増えた雑草を抜くため、予定よりも長く庭仕事を続けることになった。


     ◇


 畑の手入れを終えた後、和真たちは鶏小屋へ移動した。


 扉を開けると、鶏たちが一斉に顔を上げる。


 餌箱と水入れは問題なく動いており、旅行中も困ることはなかったようだ。


「元気そうだな」


「卵もたくさんあります」


 ひかげが巣箱を覗き込む。


 中には産みたての卵がいくつも並んでいた。


「僕が取る!」


 ピピが補助腕を伸ばそうとするが、酒菜がその前へ立った。


「待て」


「なんで?」


「今のお前に任せたら、卵まで空へ飛ばしそうだからだ」


「飛ばさないよ!」


「さっき箸を飛ばしただろ」


「あれは朝の僕だよ。今の僕は違う!」


「数時間で別人になるな」


 酒菜は呆れながらも、巣箱から卵を一つ取り出した。


 右手で持ったままでは籠へ入れられないため、卵をひかげへ渡す。


「お前が籠を持て。俺が取る」


「は、はい」


 二人で協力し、一つずつ卵を集めていく。


 その様子を見ていたピピも、補助腕で慎重に卵を持ち上げた。


「優しく持てよ」


「分かってる」


「力を入れるな」


「入れてない」


「走るなよ」


「走らないよ」


「酒菜、心配しすぎじゃない?」


「誰のせいだと思ってんだ!」


 ピピは両方の補助腕で一個の卵を包み込み、ゆっくり籠まで運んだ。


 無事に卵を置くと、満面の笑みで振り返る。


「できた!」


「ああ。やればできるじゃねえか」


「もう一個!」


「慌てなくていい。ゆっくりやれ」


「分かった!」


 酒菜に見守られながら、ピピは二個目の卵へ手を伸ばした。


 今度も割らずに籠へ入れる。


 三個目も成功した。


 すっかり自信をつけたピピが、四個目を持って振り返る。


「見て! もう失敗しな――」


 足元にいた鶏を避けようとし、身体が大きく傾いた。


「危ない!」


 フェンリスが後ろからピピを支える。


 卵は補助腕から離れ、宙へ浮かび上がった。


 酒菜が素早く右足を上げ、落ちてきた卵を足の甲で受け止める。そのまま軽く蹴り上げ、右手でつかみ取った。


 卵にはひび一つ入っていなかった。


「すごい!」


 ピピが目を輝かせる。


「もう一回やって!」


「誰がやるか!」


「酒菜、卵で遊んだら駄目だよ」


「お前が落としたんだろうが!」


 鶏小屋に酒菜の怒鳴り声が響き、驚いた鶏たちが一斉に羽をばたつかせた。


 舞い上がった羽毛が酒菜の顔へ張りつく。


「……今日は、やけに顔へ飛んでくるな」


「似合ってるよ」


「どこがだ!」


 ピピが笑い、みゆも我慢できずに吹き出した。


 酒菜は顔についた羽毛を払いながら二人を睨んだが、やがて自分でも馬鹿らしくなったのか、声を上げて笑った。


     ◇


 鶏小屋の掃除まで終えた頃、一台の軽トラックが敷地の前で止まった。


 荷台の囲いの中から、二頭のヤギが顔を出している。


 一頭は全身のほとんどが白く、もう一頭は薄茶色の毛に白い模様が入っていた。


「ヤギ!」


 ピピが真っ先に駆け出す。


「待て! 急に近づいたら驚くだろ!」


 酒菜もその後を追った。


 運転席から降りてきたのは、近くで小さな牧場を営んでいる夫婦だった。


 以前、鶏の餌について相談した店から紹介されたらしい。


 リディアが午前中に連絡したところ、ちょうど二頭の雌ヤギの引き取り先を探していると聞き、まずは実際に見せてもらうことになったという。


「本当に今日来たんだな……」


「話は早い方がよいかと思いまして」


「早すぎるんだよ」


 和真が呆れている間に、二頭のヤギが荷台から下ろされる。


 まだ若いが身体つきはしっかりしており、人にも慣れているらしい。


 白いヤギがフェンリスへ近づき、その手の匂いを嗅いだ。


「かわいい……」


 フェンリスがゆっくり頭を撫でると、ヤギは気持ちよさそうに目を細める。


 薄茶色のヤギはひかげの前へ立ち、服の裾を口にくわえた。


「えっ……あ、あの……」


「食べられてるよ!」


「ピピ、見てないで助けてください……!」


 ひかげが困り果てていると、ピピが補助腕でヤギの顔を押し戻そうとする。


 今度はピピの首から下がった携帯の紐へ興味を示し、ヤギが口を伸ばした。


「僕の携帯は食べ物じゃないよ!」


「お前も似たようなことしてただろ」


「僕は芋虫を食べようとしただけ!」


「なお悪いわ!」


 酒菜がヤギとピピの間に入り、携帯を背中側へ回した。


 その直後、白いヤギが酒菜へ近づく。


 鼻先で新しいシャツの裾を押し、口に含もうとした。


「お前もか!」


 酒菜が身体を引くと、ヤギは気に入ったようについてくる。


「和真、こいつをどうにかしろ!」


「懐かれたんじゃないか?」


「服を食われそうになってんだよ!」


「酒菜お母さん、人気だね!」


「誰がお母さんだ!」


 酒菜が逃げれば、白いヤギも追いかける。


 その後ろを面白がったピピが追い、さらにフェンリスとみゆまで加わった。


 小牧場の中を一人と一頭、その後ろを三人が走り回る。


「追いかけたら、余計に興奮します……」


 ひかげが心配そうに見守る隣で、リディアは何事もないように柵の最終確認を続けていた。


 和真は牧場の夫婦から、餌の量や体調管理について説明を受ける。


 毎日の観察や定期的な爪切り、予防接種も必要になる。


 乳を分けてもらえるようになるのは、二頭がもう少し成長してからだった。


「簡単じゃないんですね」


「生き物を飼うんだから、手はかかるよ。でも、みんなで世話をするなら大丈夫だろう」


「はい。大切にします」


 和真が頭を下げると、二頭のヤギは正式に空色唐辛子荘で暮らすことになった。


「名前を決めよう!」


 ピピの一言で、全員が二頭の周りへ集まる。


「白い方は焼肉で、こっちはしゃぶしゃぶ!」


「食う前提で名前をつけるな!」


 真っ先に出された案を、酒菜が即座に却下した。


「では、白い方は白雪、茶色い方は琥珀ではどうじゃ?」


 あおいが提案する。


「ちょっと立派すぎない?」


 みゆが首を傾げた。


「僕はユキでいいと思う」


 フェンリスが白いヤギの頭を撫でる。


「白雪から取ったのか?」


「うん。呼びやすいし」


「それなら、こちらは……コムギ、でしょうか」


 ひかげが薄茶色のヤギを見つめながら呟いた。


「毛の色が、小麦みたいなので……」


「ユキとコムギ!」


 ピピが二頭の名前を呼ぶ。


 白いヤギが短く鳴き、薄茶色のヤギもそれに続いた。


「返事した!」


「偶然だろ」


「気に入ったんだよ!」


 ピピが言い張り、二頭の名前はユキとコムギに決まった。


 新しい住人を迎えた小牧場は、夕方になっても騒がしかった。


 餌を入れればピピが頭を突っ込みそうになり、止めようとした酒菜がヤギに服を引かれる。


 みゆは携帯で写真を撮ろうとして背後から押され、牧草の上へ転がった。


 フェンリスが笑いながら助け起こし、ひかげは逃げ出したコムギを恐る恐る抱き止める。


 あおいが牧草へ力を分けようとすると、ピピまで一緒に歌おうとして全員に止められた。


 リディアだけは騒ぎに加わらず、ヤギが柵へ近づくたびに強度の数値を記録している。


「こいつら、毎日こんな調子なのか?」


 酒菜が額の汗を拭いながら尋ねる。


「今日は少し騒がしい方かな」


「嘘つけ。昨日も十分騒がしかっただろうが」


「じゃあ、いつもどおりかもしれない」


「先が思いやられるな……」


 酒菜は深いため息をついた。


 それでも、ユキが隣へ来ると、右手でその頭を撫でてやる。


「お前も、ここに来たばかりか」


 酒菜の低い声に、ユキが短く鳴いた。


「なら、まあ……お互い、しばらく世話になる身だな」


「酒菜は、しばらくなの?」


 すぐ近くにいたピピが尋ねる。


 酒菜はわずかに動きを止めた。


「借りを返すまでだ」


「返したら、いなくなる?」


「それは……」


 答えかけた酒菜の声が止まる。


 和真たちも、いつの間にか酒菜へ目を向けていた。


「まだ来たばかりなんだから、今決めなくてもいいだろ」


 和真がそう言うと、酒菜は少し驚いたように振り返った。


「部屋も空いてるし、急いで出ていく理由もない。借りを返した後のことは、その時に考えればいい」


「ずいぶん簡単に言うんだな」


「考える時間くらい、いくらでもあるだろ」


「……そうかよ」


 酒菜は和真から顔を背け、もう一度ユキの頭を撫でた。


 その横顔が一瞬だけ寂しそうに見えたが、誰も何も尋ねなかった。


     ◇


 日が傾き始めた頃、ようやくすべての作業が終わった。


 全員が泥や羽毛まみれになり、母屋の縁側へ座り込んでいる。


「疲れた……」


 フェンリスが背中から倒れ込む。


 その隣では、ひかげが長い前髪の奥で目を閉じていた。


「もう、動けません……」


「僕、お腹空いた!」


「お前は元気だな」


 酒菜が呆れたように言う。


 ピピだけは疲れた様子もなく、買ったばかりの携帯でヤギの写真を見返していた。


「見て! ユキとコムギ!」


「ほとんど指しか写ってねえぞ」


「こっちは?」


「地面だ」


「これは?」


「お前の鼻の穴だ!」


「ヤギは?」


「一枚も写ってねえ!」


 酒菜の怒鳴り声に、ピピが不思議そうに首を傾げる。


 みゆが横から携帯を覗き込み、大声で笑い始めた。


「本当に鼻しか写ってない!」


「次はちゃんと撮る!」


「その前に撮り方を覚えろ」


 和真は縁側から立ち上がり、母屋の中へ戻ろうとした。


「そろそろ夕飯にするか。今日は簡単なもので――」


「待て」


 酒菜が呼び止める。


「簡単なものって、まさかお前が作るつもりじゃねえだろうな」


「そのつもりだけど」


「やめろ」


「即答するなよ」


「朝に食わせた飯を、一日で台無しにされたくねえ」


 酒菜は立ち上がり、服についた土を右手で払った。


「風呂へ入ったら、俺が作る」


「朝も作っただろ。疲れてるんじゃないか?」


「これくらいで疲れるか。それに、全員働いた後なんだ。腹にたまるもんを食わせた方がいい」


「僕、焼肉!」


「焼肉から離れろ!」


「じゃあ、お肉!」


「ほとんど変わってねえ!」


 酒菜は怒鳴りながらも、どこか楽しそうだった。


 そのまま母屋へ入り、冷蔵庫の中身を確認し始める。


 和真も後を追うと、酒菜は残っている肉や野菜を一つずつ取り出していた。


「何を作るんだ?」


「煮込みと、肉を使った炒め物だな。あとは今日取った卵も使う」


「手伝うよ」


「いらねえ」


「片づけくらいはできる」


「なら、俺が使った物から洗え。勝手に味つけすんなよ」


「分かってる」


「あと――」


 酒菜は冷蔵庫を閉じてから、和真へ目を向けた。


「酒はあるか?」


「酒?」


「今日はずいぶん働いただろ。一杯くらい飲みてえ」


「フェンリスが酒屋で買ったものなら、いくつかあると思う」


「なら、飯の後に付き合え」


「俺が?」


「ほかの連中は前に、揃って潰れてたって聞いたから、また飲ませたら面倒だ」


「酒菜も、まだ怪我が治ったばかりだろ」


「もう塞がってる。それとも、お前は俺と飲むのが嫌なのか?」


「そんなこと言ってないだろ」


「なら決まりだ」


 酒菜は満足そうに笑い、右手で和真の肩を軽く叩いた。


「今夜は付き合え、和真」


「ああ。分かったよ」


 和真が答えると、酒菜は食材を抱えて台所へ向かった。


 その表情は普段と変わらない。


 しかし、これから酒菜が語ることになる過去も、その胸の奥に抱え続けてきた思いも、この時の和真はまだ何も知らなかった。


食材を台所へ運び終えると、酒菜は自分の服を見下ろした。


 濃紺のシャツにも黒いパンツにも土がつき、ところどころ鶏の羽毛まで張りついている。


「……このまま飯を作るわけにはいかねえな」


「だから、先に風呂へ入るんだろ?」


「分かってる。何があるか確かめただけだ」


 酒菜は肉を冷蔵庫へ戻し、野菜を籠へまとめた。


「俺が先に入ってくる。その間に、お前らも服についた泥くらい落としておけ」


「酒菜が最初なの?」


 フェンリスが尋ねると、酒菜は当然のように答える。


「飯を作る奴が先だ。腹減ってんだろ」


「うん!」


「お前に聞いてねえ」


 真っ先に返事をしたピピの額を右手の指先で軽く弾き、酒菜はアパートへ戻っていった。


 その背中を見送りながら、和真は台所に残された食材を見る。


「もう完全に酒菜が台所を仕切ってるな」


「和真より安心だからね」


「フェンリスまでそんなこと言うのか?」


「食べられないとは言ってないよ」


「その褒め方、あおいと同じだぞ」


「褒めておらぬ」


 あおいに即座に否定され、和真は肩を落とした。


     ◇


 全員が順番に風呂を済ませる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 最初に戻ってきた酒菜は、今日買ったばかりの部屋着に着替えていた。


 黒いゆったりとしたノースリーブの上衣に、濃い灰色のスウェットパンツ。パンツの脇には細い赤のラインが入っている。


 左肩を覆う袖はなく、失われた左腕と古い傷痕がそのまま見えていた。入浴前に外した装置もつけ直していないため、額から伸びる二本の角も隠れていない。


 長い赤髪はまだ少し濡れており、普段より無造作に背中へ流されていた。


「それが部屋着か?」


 台所へ入ってきた酒菜へ和真が尋ねる。


「ああ。変か?」


「いや。似合ってるし、楽そうだな」


「部屋の中で着る服なんざ、動きやすけりゃそれでいい」


 そう答えながらも、酒菜はスウェットパンツの腰を右手で引き上げ、落ち着かなそうに裾を確かめた。


「それより、お前は何してんだ」


「野菜を洗っておいた」


「切ってねえだろうな?」


「洗っただけだよ」


「ならいい」


「信用ないな……」


「昨日、お前が作ろうとしてたもんを見たからな」


「忘れてくれないか?」


「無理だ」


 酒菜は鼻で笑い、冷蔵庫から肉を取り出した。


 和真も風呂を済ませ、薄手のシャツと部屋着のパンツに着替えている。


「何から手伝えばいい?」


「鍋に水を入れろ。入れすぎんなよ」


「それくらい分かる」


「お前のそれくらいは信用できねえ」


「ひどくないか?」


 文句を言いながらも、和真は言われたとおり鍋を用意した。


 酒菜は右手だけで包丁を扱い、野菜を次々と切っていく。まな板の端へ食材を押し当てて固定し、形も大きさもほとんど揃えていた。


 和真が使い終わった器具を洗い、酒菜が調理を進める。


 しばらくすると、鶏肉と根菜を煮込む柔らかな香りが台所へ満ち始めた。


 匂いにつられたのか、居間の方からピピが顔を出す。


「お肉の匂い!」


「まだできてねえぞ」


「味見する!」


「駄目だ」


「一口だけ!」


「お前の一口は信用できねえ」


「和真と同じこと言われた!」


「一緒にするな」


「どっちも信用されてないよ?」


「お前よりはましだ」


「大差ねえ。二人とも座って待ってろ」


「俺まで?」


「お前がいると、勝手に調味料を足しそうだからな」


「足さないって」


「目を離した隙に足す奴は、みんなそう言う」


 酒菜に台所から追い出され、和真とピピは並んで居間へ戻った。


「僕たち、仲間だね」


「嬉しくない仲間だな……」


     ◇


 夕食の食卓には、根菜と鶏肉をじっくり煮込んだ料理に、豚肉と野菜の炒め物、今日集めた卵を使っただし巻きが並んだ。


「お肉!」


 ピピが目を輝かせる。


「分かったから羽ばたくな。飯が飛ぶ」


「飛ばないよ。今日は腕があるから!」


 半透明の補助腕が箸を握る。


 酒菜は不安そうにその指先を見つめた。


「皿までつかむなよ」


「分かってる!」


「力を入れすぎるな」


「入れてない!」


「箸を飛ばすなよ」


「あれは朝の僕!」


「朝と夜で別人になるな!」


 酒菜の怒鳴り声が響く中、全員で手を合わせる。


 最初に煮物を口へ運んだフェンリスの耳が、ぴんと立った。


「おいしい!」


「本当です……。味が中まで染みています」


 ひかげも驚いたように目を見開く。


「この炒め物もよいのう。酒にも合いそうじゃ」


「まだ飲むつもりか?」


 和真が尋ねると、あおいは露骨に顔を背けた。


「わらわは今日は遠慮しておく」


「温泉で潰れたのを覚えてるんだな」


「あれは酒が強すぎたのじゃ」


「弱い奴はみんなそう言う」


 酒菜が呆れた声で返す。


 その隣では、みゆが自分の皿を空にし、フェンリスの皿へ箸を伸ばしていた。


「みゆ」


「なに?」


「今、何をしようとした」


「フェンリスが食べきれないかもしれないから、手伝おうと思って」


「まだ半分以上残ってんだろ」


「早めに手伝った方がいいかなって」


「自分の分を食ったなら、煮物をよそってやる。人の皿から取るな」


「酒菜、おかわり!」


「最初からそう言え!」


 ぶつぶつ言いながらも、酒菜はみゆの器へ煮物をよそった。


 その様子を見ていたリディアが、静かに箸を置く。


「栄養配分にも問題はありません。塩分も適正範囲です」


「だから、食い物を機械みてえに褒めるな」


「おいしいという意味です」


「最初からそう言え」


「では、とてもおいしいです」


「……そうかよ」


 酒菜は照れたように顔を背け、自分の料理へ箸をつけた。


 食卓には笑い声が絶えず、用意された料理はあっという間になくなっていく。


 空になった皿を眺める酒菜の口元が、ほんの少し緩んでいた。


     ◇


 食後の片づけを終えると、皆はそれぞれの部屋へ戻り始めた。


「本当に飲むの?」


 フェンリスが玄関先で和真へ尋ねる。


「少しだけな」


「飲みすぎたら駄目だよ」


「分かってる」


「酒菜も怪我が治ったばかりなんだから、無理させないでね」


「誰が無理するか」


 居間から酒菜が声を飛ばす。


 部屋着姿のまま、すでに徳利と二つの杯を食卓へ並べていた。


「和真が酔ったら、部屋まで連れて帰ってね」


「なんで俺がこいつの面倒を見なきゃならねえんだ」


「一緒に飲むって言ったから」


「自分の足で帰らせる」


「和真、知らない女の人についていったら駄目だからね」


「まだ言うのか?」


 フェンリスは酒菜をちらりと見てから、アパートへ戻っていった。


「俺は知らない女扱いか?」


「むしろ、知らない女じゃないから警戒されてるんじゃないか」


「何をだよ」


「さあ……」


 最後まで居間に残っていたピピも、ひかげに背中を押されて玄関へ向かう。


「僕も飲む!」


「お前は駄目だ」


「一口だけ!」


「駄目だ」


「匂いだけ!」


「部屋へ戻れ」


「酒菜だけずるい!」


「大人になってから言え!」


「僕、大人だよ!」


「年じゃなくて行動の話だ!」


 酒菜に怒鳴られ、ピピは不満そうに翼を垂らした。


 それでもひかげと一緒に外へ出る直前、振り返って元気よく告げる。


「おやすみ! いっぱい飲んでね!」


「飲みすぎるなって言えよ」


 和真が苦笑すると、玄関の扉が閉まった。


 急に静かになった母屋へ、時計の針が進む音だけが残る。


「やっと静かになったな」


 酒菜が徳利を持ち上げた。


「お前が一番騒いでた気もするけど」


「誰のせいだと思ってんだ」


「ピピかな」


「だいたい合ってる」


 酒菜が和真の杯へ酒を注ぐ。


 和真も徳利を受け取り、酒菜の杯を満たした。


「今日はお疲れ」


「ああ」


 二人は軽く杯を合わせた。


 澄んだ音が、静かな居間へ響く。


 酒菜は酒を一口飲み、満足そうに息を吐いた。


「悪くねえ酒だな」


「フェンリスの働いてる酒屋で買ったものらしい」


「なるほどな。あいつが選んだなら外れねえか」


「料理にも合ってたよ」


「飯の時に飲めばよかったな」


「みんなが欲しがるぞ」


「それは面倒だ」


 酒菜が笑い、もう一度杯を傾ける。


 最初のうちは、今日一日の失敗を振り返るだけだった。


 ピピが雑草を増やしたこと。


 鶏小屋で卵を落としかけたこと。


 ユキに新しい服を食われそうになったこと。


 酒菜は文句ばかり言っていたが、その声はどこか楽しそうだった。


「ユキ、お前に懐いてたな」


「あれは服を食いたかっただけだ」


「頭を撫でたら、大人しくなってただろ」


「たまたまだ」


「ピピの面倒もよく見てたし」


「あいつを放っておいたら、何を壊すか分からねえからだ」


「酒菜お母さん」


「殴るぞ」


「冗談だよ」


 右拳を持ち上げた酒菜の動きは、普段よりわずかに遅い。


 空になった徳利が一本、二本と増えている。


「酒菜、少し早くないか?」


「これくらいで酔うか」


「顔、赤いぞ」


「風呂上がりだからだ」


「とっくに冷めてるだろ」


「うるせえ。お前も飲め」


 酒菜が徳利を傾ける。


 しかし、酒は一滴も出てこなかった。


「空だよ」


「誰が飲んだ」


「ほとんど酒菜だろ」


「妙だな……」


「何も妙じゃない」


 和真は次の徳利へ伸びた酒菜の右手を止め、水の入った湯呑みを渡した。


「今度はこっち」


「酒じゃねえぞ」


「分かってる。水だ」


「俺は酒を飲んでんだ」


「酒を飲むためにも水は必要だよ」


「面倒くせえな、この世界は」


 そう言いながらも、酒菜は素直に水を飲んだ。


 頬杖をつき、ぼんやりと食卓を眺める。


「久しぶりに作ったな」


「料理を?」


「ああ。自分が食う分だけなら、焼くか煮るかで十分だったからな」


「前は、よく作ってたのか?」


「毎日だ」


 酒菜の声が少しだけ柔らかくなる。


「伊吹は、何を作ってもうまいって食いやがった。明らかに味が濃くても、少しくらい焦げててもだ」


「伊吹?」


「俺の旦那だ」


 和真は何も言わず、続きを待った。


「変な奴だった。俺が怒鳴っても、黙って笑ってやがる。腹が立って殴ろうとすると、今度は本気で謝るんだ」


「どうすればいいか分からなかったんじゃないか?」


「違えねえ」


 酒菜が小さく笑う。


「蓮真は野菜が嫌いでな。嫌いなもんだけ、こっそり伊吹の皿へ移してた。ばれてねえつもりだったんだろうが、毎回同じことをするから丸分かりだ」


「叱ったのか?」


「当然だ。五つにもなって好き嫌いするなってな」


「五歳か」


「ああ。小鈴は三つだった」


 酒菜の指が、空になった杯の縁をゆっくりとなぞる。


「あいつは寝る時、俺の服をつかんで離さなかった。手をほどいても、いつの間にかまたつかんでやがる。おかげで寝返りも打てねえ」


 酒菜は笑っていた。


 けれど、その右目にはいつの間にか涙が浮かんでいる。


「……旦那と、子供が二人いたんだな」


「ああ」


 短い返事が落ちる。


 静かになった居間へ、夜風が窓を揺らす音が聞こえた。


「三人とも死んだ」


 酒菜は空の杯を見つめたまま言った。


「俺だけが残った」


 和真は口を挟まなかった。


 安易な慰めを口にすれば、酒菜が抱えてきた年月まで軽くしてしまう気がした。


「守れなかった」


 酒菜の右手が震える。


「伊吹も、蓮真も、小鈴も。目の前にいたのに、俺は何もできなかった」


 左側の傷痕へ、涙が伝った。


「この目も、腕も、あの時になくした。そんなもん、どうでもよかった。あいつらが戻るなら、残ってるもんを全部くれてやってもよかった」


「酒菜……」


「なのに、戻らねえ」


 低い声が震える。


「俺だけ生き残って、何をすりゃいいのか分からなかった」


 酒菜は顔を上げ、和真を見る。


 赤く潤んだ右目が、まっすぐこちらへ向けられていた。


「俺はな、死に場所を探してた」


 和真の息が止まる。


「伊吹たちのところへ行けるなら、どこでもよかった。戦って死ぬでも、野垂れ死ぬでもいい。もう、どうでもよかったんだ」


「それで、一人で旅をしてたのか」


「ああ」


「海辺で俺に勝負を挑んだのも?」


 酒菜の右手が止まる。


 しばらく黙った後、自嘲するように口元を歪めた。


「お前が強いと分かったからだ」


「俺なら殺せると思ったのか?」


「そうだ」


 あまりにも迷いのない答えだった。


「あの時の俺は、もうまともに戦える身体じゃなかった。それでも、お前なら終わらせてくれるかもしれねえと思った。だから傷が開こうが、腕が動かなくなろうが、どうでもよかった」


「でも、俺は酒菜を殺さなかった」


「それどころか、傷まで治しやがった」


 酒菜が忌々しそうに呟く。


「頼んでもねえのにな」


「放っておいたら死んでただろ」


「そのつもりだった」


「だったら、なおさら放っておけないよ」


「そういうところが馬鹿だって言ってんだ」


「よく言われる」


「倒した相手を治して、住む場所まで用意する奴がどこにいる」


「ここにいるな」


「威張ることじゃねえ」


 酒菜は乱暴に涙を拭った。


「俺は助けてくれなんて言ってねえ。それでも、命を拾われたのは事実だ。だから借りを返す。それだけだ」


「借りを返したら、また死に場所を探すのか?」


 酒菜は答えなかった。


 沈黙そのものが、答えになっていた。


 和真は自分の杯を食卓へ置いた。


「それなら、借りは返さなくていい」


「なんだと?」


「返し終わったら死ぬつもりなら、ずっと借りたままでいろ」


「ふざけんな。借りを踏み倒せってのか」


「違う。返すなら、生きて返してくれ」


 酒菜が目を瞬く。


「料理でも、畑仕事でも、何でもいい。死ぬことで返したことにはしない。俺は、そんな返し方を受け取るつもりはないよ」


「勝手なことを言いやがる」


「酒菜だって、勝手に借りを返すって決めただろ」


「助けられたままじゃ、俺の気が済まねえんだ」


「だったら、俺が納得する返し方をしてくれ」


「理屈がおかしいだろうが」


「酔ってる酒菜には、これくらいでいい」


「酔ってねえ……」


 言い返す声には、もう力がなかった。


「少なくとも、ここにいる間は死に場所なんて探すな」


「借りを返すまでか?」


「返した後もだよ」


「そこまで命令される筋合いはねえ」


「じゃあ、お願いにしておく」


「なお悪い」


 酒菜は俯いた。


 しばらくして、押し殺していたものが崩れたように肩を震わせる。


「なんで俺は、お前にこんな話をしてんだ……」


「酔ってるからじゃないか?」


「それだけじゃねえ」


 酒菜の右手が伸び、和真の頬へ触れた。


 酒で熱を持った指先が、顔の輪郭を確かめるようにゆっくり動く。


「顔も違う。声も似てねえ。伊吹は、お前よりずっと落ち着いた男だった」


「悪かったな」


「だが……妙なところが似てやがる」


「どこが?」


「黙って聞くところだ」


 酒菜の目が細められる。


「俺が怒鳴っても、くだらねえことを言っても、勝手に決めつけずに聞いてやがる。伊吹もそうだった」


 その目は和真を見ている。


 けれど、そこには遠い過去の誰かの面影も映っているようだった。


「お前を見てると、あいつを思い出す」


 酒菜の指が頬から離れる。


「だから、話しちまったのかもしれねえな」


「俺は伊吹さんの代わりにはなれないよ」


「分かってる」


 酒菜はすぐに答えた。


「そんなことを頼むつもりもねえ」


「でも、話を聞くことはできる」


「……お人好しが」


「それもよく言われる」


 酒菜が鼻をすすり、再び俯く。


 右手が強く握られた。


「会いてえんだ……」


 かすかな声が漏れた。


「もう一度だけでいい。伊吹に、蓮真に、小鈴に……会いてえ」


 和真は何も答えられなかった。


 ただ、酒菜の右肩へそっと手を置く。


 その瞬間、酒菜の右腕が和真の背中へ回った。


 片腕だけで強く抱き寄せられる。


「酒菜?」


「少しだけだ」


 和真の胸元へ顔を押しつけたまま、酒菜が呟く。


「少しだけ、このままでいろ」


「ああ」


 酒菜の身体は熱く、肩は小さく震えていた。


 和真は急かさず、背中へ手を添える。


 やがて震えが収まり、代わりに規則正しい寝息が聞こえ始めた。


「……酒菜?」


 返事はない。


 完全に眠っていた。


「そこで寝るのかよ」


 和真が苦笑しながら身体を離そうとすると、背中へ回った右腕に力が入る。


「離せ……」


「それは俺の台詞だ」


 何度か声をかけたが、酒菜は目を覚まさなかった。


     ◇


 使った杯と徳利を片づけ、母屋の火と戸締まりを確認する。


 その間、酒菜は座布団へ横にしていたが、一度も目を覚まさなかった。


「仕方ないか」


 和真は眠る酒菜の背中と膝の下へ腕を入れ、その身体を抱き上げた。


 黒いノースリーブの裾がわずかにずれたため、片手で整えてから立ち上がる。


 引き締まった長身から想像するより軽い。


 酒菜の頭が和真の肩へ預けられ、乾ききっていない髪から石鹸の匂いがした。


「ん……」


 酒菜が小さく身じろぎし、右手で和真のシャツをつかむ。


「落とさないから、暴れるなよ」


 返事はなかった。


 それでも、シャツを握る指から力が抜けることはない。


 和真は酒菜を抱えたまま母屋を出た。


 夜の敷地を渡り、アパートの階段を上る。


 額の角を壁や扉へぶつけないよう気をつけながら、2階の202号室へ入った。


 隣の201号室では、まだ灯りがついている。


 リディアは起きているらしい。


 酒菜の部屋には、すぐに休めるよう布団が敷かれていた。


 和真はその横へ膝をつき、抱えていた身体をゆっくり下ろす。


「ほら、着いたぞ」


 酒菜の頭を枕へ乗せようとした、その時だった。


 シャツをつかんでいた右手が、突然強く引かれた。


「うわっ――」


 体勢を崩した和真は、酒菜と一緒に布団へ倒れ込んだ。


 とっさに片手を床へつき、どうにか酒菜を押し潰さずに身体を支える。


 すぐ目の前に、酒菜の顔があった。


「酒菜?」


 閉じていた右目が、ゆっくりと開く。


 酒菜は何も言わなかった。


 和真のシャツをつかんだまま、ただじっとその顔を見つめている。


 酒のせいだけではない赤みが、頬に残っていた。


 和真も動けない。


 吐息が触れそうな距離で、酒菜の瞳がわずかに揺れる。


 そこに映っているのが和真なのか、それとも遠い記憶の中の伊吹なのか。


 和真には分からなかった。


 けれど、酒菜が誰かと見間違えているわけではないことだけは分かる。


 その右目は確かに、今ここにいる和真を見ていた。


 数秒だったのか。


 もっと長かったのか。


 二人とも何も言葉にできないまま、静かな時間だけが過ぎていく。


 やがて、酒菜の右手が和真のシャツをさらに強く握った。


 その直後。


 どん、どん。


 部屋の扉が叩かれた。


「酒菜。今、大きな音がしましたが、問題はありませんか?」


 隣の部屋にいるリディアの声だった。


「――っ!」


 酒菜の目が一気に見開かれる。


 和真も我に返り、慌てて身体を起こそうとした。


 しかし、二人が同時に離れようとしたため、額同士がぶつかる。


「痛っ!」


「てめえ、どこに頭を――」


「俺だけのせいじゃないだろ!」


「酒菜?」


 扉の向こうから、再びリディアの声がする。


「和真の声も聞こえました。入ってもよいでしょうか」


「待て!」


「ちょっと待ってくれ!」


 二人の声が重なった。


 酒菜は和真のシャツから右手を離し、布団の端まで勢いよく後ずさる。


 和真も反対側へ転がり、慌てて立ち上がった。


「な、何もねえ!」


 酒菜が扉へ向かって怒鳴る。


「聞かれていない説明をされると、かえって異常を疑います」


「転んだだけだ!」


「二人で、ですか?」


「こいつが勝手に倒れた!」


「引っ張ったのは酒菜だろ!」


「うるせえ!」


 扉の外で、短い沈黙が落ちる。


「頭部を打った可能性があります。確認が必要です」


「必要ねえ!」


「酒菜は飲酒しています。本人の判断は信用できません」


「今日は誰も俺を信用しねえな!」


 酒菜が立ち上がろうとしたが、足元がふらつく。


 和真が反射的に身体を支えると、酒菜は再び顔を赤くした。


「触るな!」


「倒れるだろ」


「倒れねえ!」


「もう倒れてたよ!」


「酒菜。入ります」


 扉が開き、リディアが室内へ入ってきた。


 その視線が、酒菜と和真の間を一度だけ往復する。


 酒菜は黒いノースリーブと濃い灰色のスウェットパンツのまま、布団の端へ座り込んでいる。


 和真は乱れたシャツを直しながら、そのすぐ隣に立っていた。


 布団は大きく乱れ、枕は部屋の隅へ転がっている。


「状況を説明してください」


「こいつを寝かせようとしたら、引っ張られたんだ」


「引っ張ってねえ!」


「シャツをつかんでただろ」


「覚えてねえ!」


「では、和真の説明が正しい可能性が高いですね」


「なんでだ!」


「酒菜は酔っていますから」


 リディアは酒菜の前へしゃがみ、右目へ小さな光を当てる。


「瞳孔反応に問題はありません。額も腫れていませんね」


「最初からそう言ってんだろ」


「私はまだ何も確認していませんでした」


「細けえな!」


「なお、私は二人が布団の上で何をしていたかについては尋ねていません」


「何もしてねえ!」


「ですから、尋ねていません」


「その言い方やめろ!」


 酒菜の怒鳴り声が、夜のアパートへ響いた。


 隣だけでなく、階下の部屋まで起こしかねない声量である。


「静かにしないと、みんなが来るぞ」


 和真が注意すると、酒菜は慌てて口を閉じた。


 リディアは立ち上がり、転がっていた枕を機械の腕で拾い上げる。


「水を持ってきます。酒菜は安静にしてください」


「いらねえ」


「必要です」


「断ってんだろ」


「酔っている酒菜の判断は信用できません」


「それ便利に使うんじゃねえ!」


 リディアは表情を変えないまま部屋を出ると、すぐに水の入ったコップを持って戻ってきた。


 それを枕元へ置き、今度こそ扉へ向かう。


「和真」


「なんだ?」


「酒菜が再び転倒しないよう、部屋を出るまでは注意してください」


「ああ」


「同じ原因で転倒しないことも推奨します」


「もうしない!」


 酒菜が枕を投げる。


 リディアは機械の右腕で難なく受け止め、布団の横へ戻した。


「おやすみなさい」


 最後まで表情を変えず、リディアは部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 室内には気まずい沈黙だけが残った。


 酒菜は耳まで赤くし、布団の上へ座り込んでいる。


「……忘れろ」


「何を?」


「全部だ」


「家族の話も?」


 酒菜の表情から、羞恥だけが消えた。


 しばらく俯いた後、力なく息を吐く。


「そこまで忘れろとは言ってねえ」


「死に場所を探してたことも忘れないからな」


「酔っ払いの戯言だ」


「そういうことにしてもいい。でも、忘れはしない」


「面倒な奴だな」


「酒菜ほどじゃないよ」


「俺のどこが面倒なんだ」


「酔って人を布団へ引きずり込むところ」


「それは忘れろ!」


 酒菜が再び枕をつかむ。


「静かに。今度こそ全員来るぞ」


「くそっ……」


 枕を投げることもできず、酒菜はそのまま抱え込んだ。


 やがて、小さな声で尋ねる。


「さっき言ったこと、本気か?」


「どれ?」


「生きて借りを返せって話だ」


「本気だよ」


「返し終わった後は、俺の勝手だろ」


「返した後も死ぬな」


「そこまで借りに含まれてんのか?」


「今、追加した」


「勝手に増やすな」


「なら借りとは別のお願いだ」


「……なお悪い」


 酒菜は枕へ顔を埋めた。


「俺は、何をして生きりゃいい」


 押し殺した声だった。


「家族もいねえ。帰る場所もなくなった。今さら、生きろって言われても分からねえんだよ」


「今すぐ決めなくていいだろ」


「簡単に言うな」


「考える時間ならある。部屋もあるし、飯を食う相手もいる」


「飯は俺が作ってんだろうが」


「じゃあ、明日の飯を作る。それだけでもいい」


 酒菜が枕から顔を上げる。


「明日の次は?」


「明後日の飯を作ればいい」


「ずっと飯を作れってのか」


「嫌なら別のことを探せばいい。でも、探すのは死に場所じゃなくて、生きる理由にしてくれ」


「見つからなかったらどうする」


「見つかるまで、ここにいればいい」


「借りを返した後もか?」


「ああ」


「……勝手な奴だ」


「お互いさま」


 酒菜はしばらく和真を睨んでいた。


 けれど、やがて諦めたように目を伏せる。


「分かったよ」


「本当に?」


「今すぐ死ぬつもりはねえ。借りも、まだ何一つ返せてねえからな」


「返した後もだって」


「しつこい」


「大事なことだからな」


「その先のことは、返してから考える」


 完全な約束ではなかった。


 それでも、死ぬつもりだった酒菜が口にした答えとしては、十分だった。


「分かった。今はそれでいい」


 和真は水の入ったコップを枕元へ置き、立ち上がる。


「じゃあ、今度こそ寝ろよ」


「ああ」


「気分が悪くなったら、隣のリディアか俺に連絡してくれ。携帯の使い方は分かるだろ」


「たぶんな」


「ピピみたいな返事をするなよ」


「うるせえ。早く出てけ」


 和真が扉へ向かう。


 取っ手へ手をかけたところで、背後から声がした。


「和真」


 振り返ると、酒菜は布団へ横になっていた。


 右手だけを掛け布団の外へ出し、こちらを見ている。


「今日は……ありがとな」


「飯を作ってもらったのは俺たちだよ」


「そっちじゃねえ」


 酒菜はそれ以上説明せず、顔を背けた。


「おやすみ、酒菜」


「ああ。おやすみ」


 和真が廊下へ出ると、隣の201号室の扉が少しだけ開いていた。


 隙間からリディアの右目が覗いている。


「見てたのか?」


「経過を観察していました」


「もう大丈夫だよ」


「そのようですね」


「それと、本当に何もなかったからな」


「私は何も尋ねていません」


「その言い方、わざとだろ」


「気のせいです」


 扉が静かに閉まる。


 和真は熱くなった顔を片手で覆い、自分の部屋へ戻っていった。


 その足音が遠ざかってから、酒菜はゆっくりと目を開いた。


 枕元には水の入ったコップがあり、その隣には今日買ったばかりの黒い携帯が置かれている。


 画面をつけると、空色唐辛子荘の仲間たちから届いた言葉が並んでいた。


『おやすみ』


『明日の朝ご飯、楽しみにしてる!』


『お肉がいい!』


『酒菜、飲みすぎないでくださいね』


 最後の一文を読み、酒菜は小さく鼻を鳴らした。


「遅えんだよ」


 文句を言いながらも、右手でゆっくりと文字を打つ。


『明日の朝飯は魚だ。さっさと寝ろ』


 送信した直後、いくつもの返事が届き始める。


 酒菜は鳴り続ける携帯を眺め、布団の中でわずかに目を細めた。


 死に場所を探して歩いていた自分が、明日の朝食を考えている。


 それが正しいのかは、まだ分からない。


 ここを帰る場所と呼んでよいのかも、酒菜には分からなかった。


 それでも明日の朝になれば、また全員が同じ食卓へ集まってくる。


 飯を作れと騒ぎ、肉がないと文句を言い、勝手に人の皿へ手を伸ばす。


 ならば少なくとも、明日の朝までは生きていなければならない。


「魚だっつってんのに、肉の印を送ってくんじゃねえ……」


 ピピから届いた焼肉の写真を見て、酒菜は小さく笑った。


 やがて携帯を枕元へ置き、目を閉じる。


 眠りへ落ちる直前、酒菜は無意識に右手を伸ばしていた。


 指先へ触れた黒い携帯を引き寄せ、胸元へ抱える。


 今夜はもう、死に場所のことを考えなかった。

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