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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第十九話 新しい居場所

 翌朝。


 障子の隙間から差し込む光が、薄暗かった離れの中を少しずつ明るくしていた。


 布団の上で眠っていた酒菜の右手が、僅かに動く。


「……ん」


 短い声を漏らし、酒菜はゆっくりと右目を開いた。


 見覚えのない天井が視界に入る。


 一瞬だけ表情に警戒が浮かんだが、自分が着ている浴衣と身体にかけられた布団を見て、昨夜の出来事を思い出したらしい。


 砂浜に現れた魔物との戦い。


 和真との戦い。


 そして、旅館の離れへ運ばれたあとに交わした話。


 元の世界へ帰る方法を探すため。そして、助けられた借りを返すまで、和真たちと行動を共にする。


 そう決めたあと、空腹に耐えかねておにぎりを食べ、そのまま眠りについた。


 酒菜が上半身を起こす。


「……朝か」


「起きたんですね」


 すぐ近くから聞こえた声に、酒菜が振り向いた。


 壁際にはリディアが座っている。


 膝の上に小さな道具を並べ、細い腕輪のような物を調整していた。


 もう一人の見張り役であるフェンリスは、酒菜の右側に置かれた座布団へ座り、壁にもたれている。


 目を閉じて腕を組んでいるが、大きな狼耳は酒菜の動きを追うように僅かに動いていた。


「こいつ、寝てんのか?」


 酒菜が小声で尋ねる。


「寝てないよ」


 フェンリスが目を閉じたまま答えた。


「……起きてんじゃねぇか」


「酒菜が起きる少し前からね」


 フェンリスが片目を開く。


 一晩中見張っていたため、目元には疲れが残っていた。


「変な動きをしたら、すぐに押さえられるようにしてたんだよ」


「話は昨夜ついただろうが。今さら何もしねぇよ」


「口では何とでも言えるからね」


「朝から喧嘩売ってんのか?」


「二人とも、声を抑えてください」


 リディアが手元から目を離さずに注意する。


「ここには、私たち以外の宿泊客もいます。騒ぎになれば、昨夜のことまで知られる可能性があります」


「分かってるよ」


 フェンリスは小さく息を吐き、壁から背中を離した。


「酒菜。身体はどう?」


「問題ねぇ」


 酒菜は右腕を動かし、肩を回す。


 精霊たちによって傷はすべて塞がれていた。


 左肩や潰れた左目に残る古い傷跡までは消えなかったが、昨夜の戦いで負った新しい傷に痛みは残っていない。


「本当に痛むところはない?」


「しつこいな。自分の身体のことくらい、俺が一番分かってる」


 酒菜は布団から立ち上がった。


 その瞬間、フェンリスも腰を浮かせる。


「どこに行くの?」


「便所だ」


「逃げるつもりじゃないよね?」


「こんな格好で、どこに逃げるんだよ」


 酒菜が自分の浴衣をつまむ。


 昨夜着ていた服は、血と泥にまみれ、あちこちが裂けていた。


 今は旅館の予備の浴衣を借りているが、片腕で慌てて着たため、帯が少し崩れている。


「念のため、僕も――」


「ついてくんな!」


「大声を出さないでください」


 リディアが淡々と注意する。


「だったら、こいつを黙らせろ!」


「逃げないと約束するなら、フェンリスもついていかないと思います」


「逃げねぇよ!」


 酒菜は苛立った様子で襖へ向かう。


 しかし、手をかける直前でリディアに呼び止められた。


「待ってください。その姿のまま外へ出てはいけません」


「あ?」


「角を見られてしまいます」


 酒菜は自分の額へ右手を伸ばした。


 そこには、鬼人であることを示す二本の角が残っている。


 離れの中にいるのは仲間だけだが、外へ出れば旅館の従業員やほかの宿泊客と出会う可能性があった。


「何か被ればいいだろ」


「浴衣姿で頭だけ隠して歩けば、かえって目立ちます」


 リディアは調整していた腕輪を持ち上げた。


「ちょうど準備が終わりました。これを使ってください」


「さっきから作ってたのは、それか」


「私が持っていた予備の装置を、酒菜に合わせて調整していました」


「俺に合わせて?」


「見た目を人間へ変えるための装置です。角や鬼人特有の特徴を隠すことができます」


「勝手に俺の姿を変えるんじゃねぇ」


「嫌なら、この離れから出られません」


 リディアは腕輪を差し出したまま、酒菜を見つめる。


「この世界では、人間以外の種族は一般に知られていません。借りを返すまで同行するのでしたら、最低限の決まりには従ってください」


「俺は、てめぇらの仲間になった覚えはねぇぞ」


「仲間かどうかは関係ありません。酒菜の正体が知られれば、私たちまで巻き込まれます」


「角くらい、作り物だと言い張ればいいだろうが」


「触られたら終わりだよ」


 フェンリスも自分の装置へ触れる。


 淡い光が身体を包み、狼耳と尻尾が見えなくなった。


「僕たちも、人目がある場所ではこれを使ってる。酒菜だけ、そのままってわけにはいかないよ」


「……面倒くせぇ世界だな」


「それでも、今は従ってもらうからね」


 酒菜はフェンリスとリディアを交互に睨んだ。


 やがて諦めたように舌打ちし、右腕を差し出す。


「変なことになったら、真っ先にてめぇを殴るぞ」


「構いません。装置だけは壊さないでください」


「殴られる心配より、道具の心配かよ」


 リディアが酒菜の右手首へ腕輪を取りつける。


 片手でも扱えるよう、留め具は指先だけで外せる構造になっていた。


「表面の魔石に触れてください」


「これか?」


「はい」


 酒菜が指先で魔石に触れる。


 淡い光が全身を包み、額から伸びていた二本の角が見えなくなった。


 鬼人特有の外見も薄れ、周囲からは普通の人間にしか見えない姿へ変わる。


 浴衣の左袖は、中身のないまま垂れていた。


 変わるのはあくまでも見た目だけで、失われた腕が戻るわけではない。


「……気持ち悪ぃな」


 酒菜が角のあった場所へ触れる。


「触れるのに、見えねぇ」


「最初は落ち着かないけど、すぐ慣れるよ」


「慣れるつもりはねぇ」


「外へ出る時は毎回使うことになるよ」


「勝手に決めんな」


「嫌なら、ずっと部屋の中にいるしかないね」


 酒菜がフェンリスを睨みつける。


 フェンリスも負けじと睨み返した。


「……朝から元気だな」


 襖の向こうから、呆れたような声が聞こえた。


 和真が襖を開け、離れの中へ入ってくる。


 その後ろには、ひかげ、みゆ、あおい、ピピが並んでいた。


「酒菜、起きてたのか」


「ああ」


「身体はどうだ?」


「そいつらにも聞かれた。問題ねぇよ」


「ならよかった」


 和真は安堵したあと、フェンリスとリディアへ視線を移した。


「二人とも、一晩ありがとう。朝食まで少し時間があるから、休んだ方がいいんじゃないか?」


「僕は平気」


「私も大丈夫です」


 二人がほぼ同時に答える。


 しかし、どちらの顔にも徹夜の疲れが浮かんでいた。


「平気には見えないぞ」


「酒菜の見張りがあるから」


「今は俺たちもいる。それに、見張りなら俺が代わるよ」


 和真が答えると、フェンリスは不満そうに酒菜を見る。


「和真と二人にする方が心配なんだけど」


「何もしねぇって言ってんだろ」


「昨夜、和真に斬りかかった人の言葉を、簡単に信じられるわけないじゃん」


「あれはもう終わった話だ」


「僕の中では終わってないよ」


 フェンリスの声から、普段の明るさが消える。


 酒菜が同行することを受け入れても、すぐに警戒を解けるわけではなかった。


 酒菜は言い返しかけたが、疲れの残るフェンリスの顔を見ると、僅かに視線を逸らした。


「……好きにしろ」


 短く答え、酒菜は布団へ座り直す。


「今は僕たちもいるから大丈夫だよ」


 みゆがフェンリスの肩へ手を置いた。


「少しくらい寝たら? このあと海へ行くんでしょ」


「でも……」


「私も残るから……何かあったら、すぐに呼ぶ」


 ひかげが小さく手を挙げる。


「わらわもおる。心配はいらぬぞ」


 あおいも穏やかに続けた。


 フェンリスはしばらく迷っていたが、やがて諦めたように息を吐く。


「……分かった。でも、何かあったら絶対に呼んでね」


「ああ」


「本当にすぐだからね」


「分かってるよ」


 フェンリスは離れの隅に敷かれていた布団へ横になる。


 リディアも工具を片づけ、その隣の布団へ入った。


「朝食の時間になったら、起こしてください」


「分かった」


「酒菜から目を離さないでくださいね」


「お前まで言うのかよ」


「念のためです」


 リディアが目を閉じる。


 酒菜が再び立ち上がった。


「今度こそ便所に行くぞ」


「ああ。場所は分かるか?」


「知らねぇ」


「じゃあ、途中まで案内する」


「ついてくんなっつっただろうが」


「入口までだよ。中には入らない」


「当たり前だ!」


 酒菜の声が離れに響く。


 布団へ入ったばかりのフェンリスが顔だけを上げた。


「酒菜、静かにしてよ」


「誰のせいだと思ってやがる!」


「少なくとも、僕のせいじゃないよ」


「お前は黙って寝ろ!」


「静かにしてください」


 リディアが目を閉じたまま注意した。


          ◇


 酒菜を便所まで案内したあと、和真は一人で旅館の帳場へ向かった。


 廊下では、朝食の準備をする仲居たちが忙しそうに行き来している。


 昨夜の騒ぎは旅館から離れた砂浜で起きたため、宿泊客には気づかれていないようだった。


 帳場には、女将が立っていた。


「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」


「おはようございます。少しお話があるんです」


 和真が声を落とす。


 女将は不思議そうな顔をしたものの、和真の様子を見て帳場の脇へ移動した。


「何かございましたか?」


「実は昨夜、外へ出た時に知り合いと会いまして」


「お知り合いの方と?」


「はい。近くで色々あったらしく、泊まる場所がなくて困っていたんです。それで、許可を取らずに離れで休ませてしまいました。本当にすみません」


 和真が深く頭を下げる。


 知り合いということにしたが、酒菜とは昨夜初めて会ったばかりだ。


 泊まる場所がないという部分だけは、嘘ではなかった。


「まあ、そうだったのですか」


「追加の宿泊代は、もちろん支払います」


「頭を上げてください。離れは皆さまだけでお使いいただいておりますし、お困りの方を休ませたのでしたら仕方ありません」


「ありがとうございます」


「追加のお一人分だけ、あとで精算させていただきますね」


「はい。お願いします。それと、朝食を一人分追加できますか?」


「もちろんでございます。皆さまと同じ物でよろしいでしょうか?」


「はい。お願いします」


「少々お時間をいただきますが、ご一緒に用意いたしますね」


「助かります」


 和真がもう一度頭を下げる。


「その方は、今も離れにいらっしゃるのですか?」


「はい。ただ、服をひどく汚してしまったみたいで、着替えも持っていないんです。今は旅館の浴衣を一着お借りしています」


「そうでしたか」


 女将は少し考えたあと、何かを思い出したように手を合わせた。


「古い着物でよければ、何着かございますよ」


「着物ですか?」


「以前、旅館の催しで使っていた物です。今は使っておりませんが、処分するには惜しくて取っておいたのです。よろしければ、一着差し上げましょうか?」


「いただいてもいいんですか?」


「ええ。着ていただける方がいるなら、着物も喜びます」


 女将は近くにいた仲居を呼び、奥から何着かの着物を持ってくるよう頼んでくれた。


「本当にありがとうございます。本人に伝えておきます」


「いえいえ。せっかく皆さまでご旅行に来られたのですから、最後まで楽しんでいってください」


 嘘をついていることへの申し訳なさが、和真の胸に残る。


 それでも、本当の事情を話すことはできなかった。


 和真はもう一度頭を下げ、離れへ戻った。


          ◇


「朝食を一人分追加してもらえたよ」


 離れへ戻った和真が伝えると、酒菜は僅かに眉を動かした。


「俺の分か?」


「ああ」


「頼んでねぇぞ」


「腹が減ってるんだろ」


「だからって、勝手に借りを増やすんじゃねぇ」


「宿泊代も朝食代も、俺が払う。気にするな」


「気にするに決まってんだろうが」


「だったら、帰ってから何か手伝ってくれればいいよ」


「何をすりゃいい」


「それはあとで考える」


「最初から決めてねぇのかよ」


 酒菜は呆れたように息を吐いた。


 その時、離れの外から仲居の声が聞こえる。


「失礼いたします。お着物をお持ちしました」


「どうぞ」


 和真が答えると、襖が静かに開いた。


 仲居が何着かの着物を抱え、部屋へ入ってくる。


 その視線が、初めて見る酒菜へ向けられた。


「こちらが、昨夜いらしたお知り合いの方ですね」


「はい。酒菜といいます」


 和真が紹介する。


 酒菜はしばらく黙って仲居を見つめていた。


「酒菜」


「……分かってる」


 酒菜は不慣れな様子で姿勢を正す。


「昨夜は、勝手に泊まって悪かった」


「どうかお気になさらないでください」


「こいつが俺の分の金を払うらしい。必ず俺からも返す」


「本当に律儀な方なのですね」


 仲居が柔らかく笑う。


 酒菜はからかわれたと思ったのか、少し眉を寄せた。


 しかし、相手に悪意がないと分かると、何も言い返さなかった。


「古い物ばかりですが、お好きな物をお選びください」


 畳の上へ数着の着物が並べられる。


 淡い青。


 深い緑。


 落ち着いた紺色。


 その中に、暗い紅色を基調とした着物があった。


 裾には、黒い葉の模様が入っている。


 酒菜の視線が、その着物で止まった。


「これがいい」


「きっとお似合いになりますよ」


 酒菜は右手で着物を持ち上げ、生地の感触を確かめる。


「……本当に、もらっていいのか?」


「はい。どうぞお持ちください」


「あとから返せと言われても、返せねぇかもしれねぇぞ」


「その時は、またこちらへ遊びに来てください」


 仲居が笑顔で答える。


 酒菜はしばらく何も言わなかった。


 やがて着物を胸元へ抱き寄せ、仲居へ深く頭を下げる。


「ありがとう。大事にする」


「そう言っていただけると、私どもも嬉しいです」


 仲居が離れを出たあと、みゆが酒菜の顔を覗き込んだ。


「酒菜も、ちゃんとお礼が言えるんだね」


「俺を何だと思ってやがる」


「すぐ怒って斬りかかってくる人」


「てめぇ、表に出ろ」


「旅館で暴れないでください」


 リディアが二人の間へ入る。


 短い間でも眠れたためか、先ほどより顔色はよくなっていた。


「着替えるなら、私たちは外へ出ています」


「あおいは残ってくれ」


 酒菜が突然言った。


 呼ばれたあおいが、意外そうに自分を指さす。


「わらわか?」


「この着物、俺が知ってる物とは少し違う。帯だけ手伝え」


「うむ。喜んで手伝おう」


「妙な結び方をするんじゃねぇぞ」


「心配はいらぬ。わらわも似た衣を着ておったからな」


 和真たちは二人を残し、いったん部屋の外へ出た。


 しばらくして襖が開く。


 暗い紅色の着物へ着替えた酒菜が、あおいと一緒に姿を見せた。


 左袖は、動く時に邪魔にならないよう帯の脇へ留められている。


「どうだ?」


 酒菜が落ち着かない様子で尋ねた。


「よく似合ってるよ」


 和真が答える。


「何か、旅館の用心棒みたい」


 みゆが続ける。


「褒めてんのか、それ」


「褒めてるよ」


「みゆの言うことは信用できねぇ」


「ひどいなぁ」


「本当に、よく似合ってる……」


 ひかげが小さな声で伝える。


 あおいも満足そうに頷いた。


「丈もちょうどよい。動く際にも問題はなさそうじゃ」


「そうか」


 酒菜は照れを隠すように顔を背ける。


「なら、これでいい」


          ◇


 朝食会場の一角には、追加された酒菜の分を含め、人数分の膳が並べられていた。


 焼き魚。


 卵焼き。


 煮物。


 漬物。


 炊きたての白米と、湯気の立つ味噌汁。


 席へ座った酒菜は、目の前に並ぶ料理をじっと見つめた。


「これ、全部食っていいのか?」


「酒菜の分だからな」


 和真が答える。


「毒は入ってねぇだろうな」


「入ってないよ」


「どうして言い切れる」


「俺たちも同じ物を食べるからだ」


「お前が毒に強いだけかもしれねぇ」


「そこまで疑うなら、僕が先に食べてあげる!」


 ピピが酒菜の焼き魚へ手を伸ばそうとする。


 酒菜が素早く箸を伸ばし、その手を止めた。


「俺の飯を取ろうとしてんじゃねぇ!」


「毒が入ってないか確かめるだけだよ!」


「自分の分を食え!」


「酒菜、さっきまで毒を疑ってたじゃん」


 みゆが笑う。


「こいつに食われるくらいなら、俺が食う」


「ピピ。自分の朝食がありますから、そちらを食べてください」


 リディアがピピを座らせる。


「はーい」


 酒菜は周囲の様子を警戒しながら、味噌汁を一口飲んだ。


 その右目が僅かに見開かれる。


「……うまい」


「よかったな」


「何でお前が得意そうなんだよ。作ったのは旅館の奴だろうが」


「さっきまで毒を疑っていたからだよ」


「警戒するのは当たり前だ」


 口ではそう言いながらも、酒菜の箸は止まらなかった。


 右手だけで器用に焼き魚の身をほぐし、骨を取り除いていく。


 片腕で食事をする動作には、まったく迷いがない。


「酒菜、箸を使うの上手だね」


 みゆが感心したように言う。


「似た物なら、元の世界にもあったからな」


「僕より魚を食べるの上手かも」


「みゆは骨を取るのが面倒で、途中から丸かじりしようとするから……」


 ひかげが小声で告げる。


「今日はちゃんと箸を使ってるよ」


「今日だけじゃ駄目だよ」


 フェンリスは欠伸をこらえながら、ご飯を口へ運んでいた。


 朝食前に少しだけ休んだものの、一晩中見張っていた疲れは抜けていないらしい。


「フェンリス、まだ眠そうじゃな」


 あおいが心配そうに声をかける。


「大丈夫。海に着いたら目が覚めるよ」


「無理はせぬ方がよいぞ」


「平気だって」


 そう答えた直後、フェンリスの頭が少しだけ前へ落ちる。


 隣にいた和真が、額を膳へぶつける前に肩を支えた。


「やっぱり眠いんじゃないか」


「……今のは、少し目を閉じただけ」


「食べながら寝るなよ」


「寝てないってば」


 フェンリスが恥ずかしそうに身体を起こす。


 それを見た酒菜が箸を止めた。


「話がついたあとまで、見張る必要はなかっただろ」


「完全に信用したわけじゃないからね」


「だからって、朝まで起きてることはねぇだろうが」


「酒菜のためじゃないよ。和真たちを守るためだから」


「……そうかよ」


 酒菜は再び箸を動かす。


 しかし、その速度は先ほどより僅かに遅くなっていた。


「リディアも眠くないの?」


 ピピが尋ねる。


「まだ少し眠いです」


「リディアも寝不足なんだね!」


「誰かが夜中に何度も様子を見に来なければ、もう少し休めました」


 リディアがフェンリスへ視線を向ける。


「だって、酒菜が急に起きたら困るでしょ」


「そのために交代で見張ることにしたはずです」


「一人で任せるのも心配だったんだよ」


「それでは交代にした意味がありません」


「お前ら、二人とも起きてたのかよ」


 酒菜が呆れたように息を吐く。


「馬鹿じゃねぇのか」


「誰のせいだと思ってるの?」


「勝手に寝なかったのは、お前らだろうが」


「ほら、反省してない」


「何を反省しろってんだ!」


「食事中です。静かにしてください」


 リディアが注意する。


 酒菜は何か言い返そうとしたが、周囲の客がこちらを見ていることに気づき、声を抑えた。


「……騒がしい奴らだな」


「毎日こんな感じだよ」


 和真が答える。


「よく一緒に暮らせるな」


「慣れれば、意外と落ち着くぞ」


「これのどこが落ち着くんだよ」


 酒菜はそう言いながらも、嫌そうな顔はしていなかった。


 朝食を終える頃には、酒菜の膳もきれいに空になっていた。


「どうだった?」


 和真が尋ねる。


「悪くなかった」


「全部食べておいて、それだけ?」


 みゆが頬を膨らませる。


「うまかったと言ったら負けた気がする」


「誰と戦ってるの?」


「知らねぇ」


 酒菜は顔を背けた。


 その耳が僅かに赤くなっていた。


          ◇


 朝食を終えた一行は、離れへ戻ると海へ行く準備を始めた。


 帰りの荷物は部屋に残し、水着やタオルなど、必要な物だけを持っていく。


「忘れ物はないか?」


 和真が確認すると、みゆが手提げ袋の中を覗き込んだ。


「水着、タオル、浮き輪。大丈夫だよ」


「浮き輪は誰が膨らませるの?」


 フェンリスが尋ねる。


「和真」


「最初から自分で膨らませる気がないね」


「和真の方が早いから」


「それなら、わらわも頼もうかのう」


 あおいが畳の上に置かれた大きな浮き輪を持ち上げる。


 和真は思わず顔を引きつらせた。


「二つも膨らませるのか?」


「お願い、和真」


「頼むぞ」


「……分かったよ」


「僕のもあるよ!」


 ピピが奥から三つ目の浮き輪を持ってくる。


「増えたな」


「大丈夫。僕も手伝うよ!」


「本当か?」


「押さえてる!」


「膨らませる方を手伝ってくれ」


 酒菜は部屋の隅に座り、騒がしく準備を進める一同を眺めていた。


「海に行くだけで、何でこんなに荷物がいるんだ」


「遊ぶためだよ」


 みゆが答える。


「海は泳ぐ場所だろ。輪を浮かべて何が楽しい」


「使ってみれば分かるよ」


「使わねぇ」


「一緒に入ればいいのに」


「俺は水着なんざ持ってねぇ」


「近くで売ってるんじゃない?」


「買わねぇぞ」


「まだ誰も買うとは言ってないよ」


「お前の顔に書いてある」


 みゆが楽しそうに笑う。


 準備を終えた一行は、離れを出て玄関へ向かった。


 帳場にいた女将が、こちらに気づいて微笑む。


「海へお出かけですか?」


「はい。昼過ぎには戻る予定です」


 和真が答える。


「かしこまりました。どうぞお気をつけて」


「行ってきます」


「いってらっしゃいませ」


 酒菜は女将と仲居の姿を見ると、少しだけ足を止めた。


 何か言おうとしたものの、言葉が見つからなかったらしい。


 結局、小さく頭を下げてから和真たちのあとを追った。


          ◇


 海水浴場は、旅館から歩いて行ける距離にあった。


 昨夜の戦いが起きた人通りの少ない砂浜とは違い、こちらには大勢の海水浴客が集まっている。


 道を進むにつれて潮の香りが濃くなり、波の音に人々の楽しそうな声が混ざり始めた。


 酒菜は道の両側に並ぶ店や看板を、落ち着かない様子で見回していた。


 浮き輪や水着を並べた店。


 冷たい飲み物を売る自動販売機。


 客を呼び込む海の家。


 どれも酒菜にとって、初めて見る物ばかりだった。


「さっきから何を見てるの?」


 みゆが顔を覗き込む。


「別に」


「気になるなら聞けばいいのに」


「聞いたら、お前が余計なことまで喋るだろうが」


「ちゃんと教えてあげるよ」


「信用できねぇ」


「ひどいなぁ」


 二人が言い合っている間に、青い海が見えてきた。


「海だ!」


 ピピが走り出そうとする。


「ピピ、勝手に行かない!」


 フェンリスがすぐに呼び止めた。


「まだ行ってないよ!」


「行こうとしたでしょ」


「少し近くで見ようとしただけ!」


「同じだよ。迷子になるから、みんなと一緒に行くの」


「僕、迷子にならないよ!」


「この前もなったでしょ」


「あれは、和真がいなくなったんだよ」


「僕たちから見たら、ピピがいなくなったの!」


 フェンリスがピピを連れ戻す。


 そのやり取りを見ながら、酒菜が和真へ顔を寄せた。


「あいつ、本当に二十歳なのか?」


「本人も正確な年齢を知らないからな」


「どう見ても、でかいガキだろ」


「否定はできない」


「聞こえてるよ!」


 ピピが振り返った。


「僕は大人だよ!」


「なら、一人で勝手に走っていくな」


「走ってないよ。走ろうとしただけ!」


「同じだろうが」


「違うよ!」


 今度は酒菜とピピが言い争いを始める。


 和真は二人をなだめながら砂浜へ向かい、海の家でパラソルと折り畳み椅子を借りた。


 海から少し離れた場所へパラソルを立て、その下へ荷物をまとめる。


「それじゃ、着替えてくるね」


 フェンリスたちは水着を持ち、更衣室へ向かおうとする。


 みゆが途中で振り返り、酒菜の右手をつかんだ。


「酒菜も行こうよ」


「俺は水着なんざ持ってねぇ」


「近くで売ってるよ。和真に買ってもらえばいいじゃん」


「断る」


 酒菜が即答した。


「宿代と飯代を払わせて、着物まで人からもらったんだ。これ以上、借りを増やせるか」


「でも、せっかく海に来たのに」


「泳ぎたくて来たわけじゃねぇ。ここで見てる」


「本当にいいの?」


「しつこい」


 みゆは残念そうに酒菜の手を離した。


「分かった。でも、気が変わったら言ってね」


「変わらねぇよ」


 フェンリスたちが更衣室へ向かう。


 和真も水着を持っていたが、パラソルの下に残った酒菜を見て足を止めた。


「和真は行かないのか?」


「着替えてくるよ。ただ、海には入らずに酒菜とここにいる」


「見張りか」


「一人で待たせるのも悪いからな」


「別に、俺は一人でも構わねぇ」


「俺が気になるんだよ」


「お前、本当に余計な世話ばかり焼くな」


「今さらだろ」


 和真が着替えるため、その場を離れる。


 酒菜はパラソルの下に置かれた椅子へ腰を下ろし、初めて見る昼の海を眺めた。


 日差しを受けた水面が、遠くまで眩しく輝いている。


 波が砂浜へ押し寄せるたび、大勢の楽しそうな声が響いた。


 しばらくすると、水着へ着替えた和真が戻ってくる。


 そのあとから、フェンリスたちも水着姿で砂浜へ駆けてきた。


「和真、行こう!」


 フェンリスが和真の手をつかむ。


「俺は酒菜とここにいるよ」


「荷物なら交代で見ればいいじゃん」


「酒菜はこの世界のことを何も知らないんだ。一人にして、何かあったら困るだろ」


「でも……」


「フェンリスは一晩中見張ってくれたんだから、今は遊んできてくれ。酒菜のことは俺が見てるよ」


 フェンリスは納得していない様子で、酒菜を見る。


「和真に何かしたら、すぐ戻ってくるからね」


「何もしねぇって、何度言わせるんだ」


「完全には信用してないから」


「好きにしろ」


 酒菜が面倒そうに顔を背ける。


 みゆがフェンリスの肩を押した。


「ほら、行こうよ。酒菜も和真も、あとから来たくなったら来ればいいじゃん」


「……分かった」


 フェンリスは渋々頷く。


「和真、何かあったら絶対に呼んでね」


「ああ」


「すぐだからね」


「分かったって」


 ようやく納得したフェンリスが、みゆたちと海へ向かう。


「冷たっ!」


 最初に海へ入ったピピの声が響いた。


「でも、楽しい!」


「ピピ、急に深いところへ行かないで!」


「大丈夫!」


「その返事が一番不安なんだよ!」


 フェンリスが慌ててピピを追いかける。


 みゆはその隙を狙い、海水をすくってフェンリスの背中へ浴びせた。


「冷たっ! みゆ、やったな!」


「油断する方が悪いんだよ!」


「待てー!」


 二人が波打ち際を走り回る。


 ひかげは足元へ寄せる波に驚き、隣にいたあおいの手を握っていた。


 あおいは穏やかに笑いながら、ひかげをゆっくり海の中へ連れていく。


 リディアは泳ぐより先に海水を小さな容器へ入れ、何かを調べ始めていた。


「海へ来てまで何してるんだ、あいつ」


 酒菜が呆れたように呟く。


「気になる物を見つけると、調べずにはいられないんだよ」


 和真は海の家で冷たいお茶を二本買い、一本を酒菜へ差し出した。


「飲んでおけ。着物だと暑いだろ」


「いらねぇ」


「水分は取った方がいい」


「また借りが増える」


「飲み物一本くらいで増えないよ」


「決めるのは俺だ」


「だったら、帰ってから同じ物を買って返してくれ。それでいいだろ」


「……分かったよ」


 酒菜は渋々ペットボトルを受け取った。


 見慣れない容器を右手で回し、飲み口を探している。


「どうやって開けるんだ、これ」


「上の蓋を回すんだ」


「片手で回せるか」


「貸してくれ。俺が――」


「自分でやる」


 酒菜はペットボトルを両膝で挟み、右手で蓋をつかむ。


 何度か指を滑らせたものの、やがて小さな音とともに蓋が開いた。


「開いたぞ」


「見れば分かる」


「馬鹿にしてんのか?」


「してないよ」


 酒菜は不機嫌そうに和真を睨んでから、お茶を一口飲んだ。


 和真も隣の椅子へ腰を下ろす。


 目の前では、フェンリスたちが楽しそうに海で遊んでいる。


 対して、パラソルの下に座る二人の間には会話がない。


 聞こえてくるのは、波の音と周囲の笑い声だけだった。


 昨夜、互いに武器を向け合ったばかりの相手と、並んで海を眺めている。


 何を話せばいいのか分からないのは、和真だけではないらしい。


 酒菜も落ち着かない様子で、何度か椅子へ座り直していた。


 気まずい沈黙が続く。


「……おい」


 先に口を開いたのは酒菜だった。


「何だ?」


「何か喋れ」


「酒菜から話しかけたんだから、自分で話題を出せよ」


「無言のまま座ってんのが気まずいんだよ」


「俺も同じことを思ってた」


「だったら、さっさと喋れ」


「勝手だな」


 和真が苦笑する。


 酒菜は不機嫌そうに海へ視線を戻した。


「あいつらとは、長いのか?」


 波打ち際で遊ぶフェンリスたちを見つめながら、酒菜が尋ねた。


「一番長いのはフェンリスだな」


 和真が波打ち際へ目を向ける。


 ピピを追いかけていたフェンリスは、背後から迫ってきたみゆに海水を浴びせ返していた。


 巻き込まれたピピも両手で水をすくい、楽しそうに笑っている。


「みゆも、フェンリスと同じ世界から来たんだ」


「あの二人、同郷なのか?」


「ああ。ただ、こっちへ来た時期は違うけどな」


「ずいぶん馴染んでるように見える」


「最初から、あんな感じだったわけじゃないよ」


 和真は自分のペットボトルを開け、お茶を一口飲んだ。


「フェンリスは突然知らない世界へ飛ばされて、言葉も通じなかった。泊まる場所もなかったし、元の姿のまま町を歩くこともできなかった。ひかげは人と話すことすら怖がってた。みゆは平気そうに見えたけど、勝手に食べ物を取ったり、人の家へ忍び込んだりしてたしな」


「それは今もやりそうだな」


「最近は、さすがに盗まなくなったよ」


「忍び込む方は?」


「……たまにある」


「直ってねぇじゃねぇか」


 酒菜が呆れたように息を吐く。


 海では、みゆがフェンリスから逃げ回っていた。


「待て、みゆ!」


「嫌だよ! 捕まったら絶対に水へ沈めるつもりでしょ!」


「そんなことしないよ!」


「その顔で言っても説得力ないって!」


 みゆがひかげの後ろへ隠れる。


 突然盾にされたひかげが、困った様子で両手を上げた。


「わ、私を間に入れないで……」


「ひかげ、そこをどいて!」


「嫌……みゆを沈めるのは駄目……」


「沈めないってば!」


「なら、許してあげなよ」


「ひかげは背中に水を入れられてないから、そんなことが言えるんだよ!」


 その隣では、あおいが口元へ手を当てて笑っていた。


 リディアは騒ぎに加わらず、採取した海水を小さな容器へ入れている。


「ほかの奴らは、全員違う世界から来たのか?」


「たぶんな。似たような種族や魔物はいるみたいだけど、国や歴史がまるで合わない」


「お前がいた世界とも違うのか?」


「ああ」


「じゃあ、お前も、最初はあいつらのことを何も知らなかったんだな」


「会った時はな」


 酒菜は海で遊ぶ者たちを順番に見た。


「よく、それだけ素性の知れねぇ奴らを家に置けるな」


「酒菜も、その一人になる予定だけどな」


「俺は借りを返すまでだ」


「分かってるよ」


「仲間になったわけでも、家族になったわけでもねぇ」


「ああ」


 和真があっさり頷く。


 否定も、説得もしなかった。


 酒菜は拍子抜けしたように眉を寄せる。


「引き止めねぇのか?」


「酒菜が元の世界へ帰りたいなら、帰る方法を探す。それは昨夜話しただろ」


「見つかると思ってんのか?」


「分からない」


「ずいぶん無責任な答えだな」


「見つかると言い切って期待させる方が、よほど無責任だろ」


「……それもそうか」


 酒菜がペットボトルへ口をつける。


 一口だけ飲むつもりだったらしいが、暑さのためか、続けて何度か喉を鳴らした。


「お前は、元の世界へ帰ったんだよな」


「ああ。六年かかったけどな」


「どうやって帰った?」


「魔王の力で帰してもらった」


「魔王に?」


「ああ。いろいろあったけど、最後は話し合って決着をつけた。それで、魔王が俺を元の世界へ戻してくれたんだ」


「倒したんじゃねぇのか」


「倒してないよ。殺し合う必要がなくなったからな」


 酒菜は意外そうに和真を見る。


「魔王と話し合う勇者なんざ、聞いたことねぇぞ」


「俺も、最初から話し合うつもりだったわけじゃない。ただ、戦ってるうちに事情が分かってきたんだ」


「それなら、その魔王に頼めば、俺も帰れるんじゃねぇのか?」


「今ここにはいない。それに、酒菜が来た世界と、俺が召喚された世界は違う」


「違うと、何が問題なんだ?」


「行き先が分からない。俺の時は、魔王が俺の故郷をたどって道をつないでくれた。でも、酒菜の世界がどこにあるのかは、誰にも分からない」


「適当に飛ばしたらどうなる?」


「別の世界へ飛ばされるかもしれない。最悪、どこにも着かない可能性もある」


「面倒だな」


 酒菜は吐き捨てるように言った。


 しかし、その声には先ほどまでの苛立ちはなかった。


「それでも、帰りたいんだろ?」


 和真が尋ねる。


 酒菜はすぐには答えなかった。


 波打ち際へ視線を向けたまま、右手の中にあるペットボトルを握る。


「……帰らなきゃならねぇ」


 それだけを答えた。


 帰りたいではなく、帰らなければならない。


 その言葉の違いが気になったものの、和真は理由を尋ねなかった。


 話したくないことを、無理に聞き出すつもりはない。


「分かった。なら、方法を探そう」


「簡単に言いやがって」


「俺一人じゃ無理でも、リディアなら何か分かるかもしれない。あいつは、見たことのない装置を平気で作るからな」


 海水を調べていたリディアが突然顔を上げた。


「呼びましたか?」


 かなり離れているにもかかわらず、会話が聞こえていたらしい。


「呼んでないよ!」


「そうですか」


 リディアは再び容器へ視線を戻す。


 酒菜が僅かに身を引いた。


「耳までいいのか、あいつ」


「たぶん、周囲の音を拾う装置を使ってる」


「何のために?」


「気になるからじゃないか?」


「意味が分からねぇ」


「俺にも分からないことは多いよ」


 和真が苦笑する。


 その時、海の方からピピの大きな声が響いた。


「和真ー!」


 見ると、ピピが両手で大きなビーチボールを抱えていた。


 海水浴場で貸し出されている物を、みゆが借りてきたらしい。


「これで遊ぶ!」


「深いところへ行くなよ!」


「行かない! たぶん!」


「たぶんじゃ駄目だ!」


「じゃあ、絶対たぶん!」


「何も変わってないよ!」


 ピピが楽しそうに笑い、ビーチボールを高く放り投げた。


 風に流されたボールが、フェンリスたちの頭上を越える。


「あっ!」


 全員が空を見上げた。


 ボールは風に押され、そのままパラソルの方へ飛んでくる。


「和真、取って!」


 みゆが叫ぶ。


 和真が椅子から立ち上がろうとした直後、酒菜が先に動いた。


 椅子へ座ったまま右足を上げ、落ちてきたボールを蹴り返す。


 軽く返したつもりだったのだろう。


 しかし、鬼人の力で蹴られたボールは、砂浜の上を凄まじい速さで飛んでいった。


「うわっ!」


 フェンリスが慌てて身体をひねる。


 ボールはその脇を通過して海面へ落ちた。


 一度大きく跳ねたあと、さらに沖へ飛んでいく。


 その場にいた全員が、遠ざかるボールを黙って見送った。


「……酒菜」


 和真が隣を見る。


「何だよ」


「もう少し加減してくれ」


「軽く蹴ったぞ」


「あれのどこが軽いの?」


 フェンリスが腰へ手を当てる。


「当たったら、痛いじゃ済まなかったよ!」


「避けられただろうが」


「避ける遊びじゃないんだよ!」


「なら、何で俺の方へ飛ばした」


「風に流されただけ!」


「そんなの知るか」


「酒菜が蹴ったから、遠くに行っちゃったよ!」


 ピピが悲しそうに海を指さす。


 ボールは波に運ばれ、さらに沖へ流されようとしていた。


「僕、取ってくる!」


「待て、ピピ!」


 フェンリスが止めるより早く、ピピが海へ駆け出した。


 勢いよく水へ入るが、数歩進んだところで海底が急に深くなる。


「わっ!」


 身体が大きく沈み、次の波を正面から受けた。


 ピピの姿が水しぶきの中へ消える。


「ピピ!」


 フェンリスとみゆが同時に駆け出した。


 和真も動こうとしたが、その前に海面からピピの頭が出る。


「しょっぱい!」


「海の中で口を開けるからだよ!」


 フェンリスがピピの腕をつかみ、浅い場所まで引き戻す。


「勝手に行かないって約束したでしょ!」


「でも、ボールが逃げる!」


「ボールは僕が取ってくるから、ピピはここにいて!」


「僕も行けるよ!」


「今、波に飲まれたばかりじゃん!」


「あれは海が急に来たんだよ!」


「海はずっとそこにあるよ!」


 フェンリスがピピをみゆへ預け、沖へ流されたボールを追う。


 酒菜はその様子を黙って見つめていた。


「……悪かったな」


「珍しいな。酒菜が素直に謝るなんて」


 和真が言うと、酒菜が睨み返す。


「蹴ったのは俺だ。そこは認める」


「ピピが飛び出したのは、酒菜のせいじゃないよ」


「元は俺だろ」


「なら、今度は近くへ返してやってくれ」


「今度があるのか?」


「ピピが一回でやめると思うか?」


 海を見ると、みゆに腕をつかまれたピピが、今にもフェンリスを追いかけようとしていた。


「離して、みゆ! 僕も取りに行く!」


「駄目だって! フェンリスに怒られるの、僕なんだから!」


「すぐそこだよ!」


「全然すぐそこじゃないよ!」


 酒菜が深いため息をつく。


「思わねぇな」


 しばらくして、フェンリスがボールを抱えて戻ってきた。


 ピピが満面の笑みで駆け寄る。


「おかえり!」


「誰のせいで取りに行ったと思ってるの?」


「酒菜!」


「俺のせいにすんな!」


「間違ってはいないよ」


 みゆが笑いながら答える。


 酒菜は椅子から立ち上がった。


「次は加減する。寄越せ」


「酒菜も遊ぶの?」


「飛ばしたままじゃ、借りが残るだろうが」


「遊ぶのに借りとか考えなくていいのに」


「いいから寄越せ」


 ピピは嬉しそうにボールを抱え、酒菜の前まで駆けてくる。


「はい!」


「俺に渡してどうする」


「酒菜が蹴るんでしょ?」


「そっちへ戻すから離れろ」


「分かった!」


 ピピが波打ち際まで戻る。


 酒菜は着物の裾が砂につかないよう僅かに持ち上げ、右足を引いた。


「本当に加減してね」


 フェンリスが警戒する。


「分かってる」


「絶対だからね」


「しつこい!」


 酒菜がボールを蹴る。


 今度は緩い弧を描き、ピピの目の前へ落ちた。


「来た!」


 ピピが両手で受け止めようとする。


 しかし、ボールは指先へ当たり、そのまま顔へぶつかった。


「ぶっ!」


 ピピが砂浜へ尻もちをつく。


「ピピ!」


 フェンリスが駆け寄ろうとするが、ピピはすぐに起き上がった。


「もう一回!」


「大丈夫なの?」


「ちょっと鼻が痛いけど、楽しい!」


「今度はちゃんと手で取れよ」


「取ったよ!」


「顔で受けただろうが」


「手にも当たったよ!」


「受けたとは言わねぇ!」


 酒菜が言い返す。


 ピピは気にする様子もなく、ボールを抱えて笑っていた。


「酒菜、もう一回!」


「仕方ねぇな」


 酒菜はパラソルから離れ、波打ち際の手前まで歩いた。


 着物を濡らすつもりはないらしく、濡れた砂を避けて立ち止まる。


 ピピがボールを投げる。


 酒菜が蹴り返す。


 今度のボールは、ピピではなく隣のみゆへ飛んだ。


「僕?」


 みゆが頭でボールを返す。


 ボールは大きく上がり、ひかげの方へ落ちていった。


「ひかげ、お願い!」


「わ、私?」


 ひかげは両手を伸ばしたものの、落ちてきたボールを胸元で抱き止めてしまう。


「ご、ごめん……」


「止めるんじゃなくて、返すんだよ!」


「急に来たから……」


「なら、わらわが受け取ろう」


 あおいがひかげからボールを受け取り、両手で軽く打ち上げた。


 飛んでいった先にいたのは、再び海水を調べ始めていたリディアだった。


「リディア、そっちに行ったよ!」


 みゆが声をかける。


 リディアは振り向きもせず、左手を上げて落ちてきたボールを受け止めた。


「遊んでいる場合ではありません」


「海に来た時くらい遊ぼうよ」


「私は海水の成分を――」


 リディアが説明を始める前に、みゆが駆け寄ってボールを奪った。


「あっ」


「それっ!」


 みゆが至近距離からボールを投げる。


 リディアは反射的に両手で受け止めた。


「危ないではありませんか」


「取れたじゃん」


「取れるかどうかの問題ではありません」


「次は酒菜に投げて!」


「私は参加するとは言っていません」


「もう参加してるよ!」


 リディアは何か言い返そうとしたが、全員から見つめられ、諦めたようにボールを投げた。


 その軌道は正確だった。


 酒菜の右足の前へ、蹴りやすい高さで落ちてくる。


「妙にうめぇな」


「軌道を計算しただけです」


「遊びでも面倒くせぇ奴だな」


 酒菜が蹴り返したボールを、フェンリスが跳び上がって受け止める。


 着水と同時に大きな水しぶきが上がり、近くにいたみゆとピピへ降りかかった。


「冷たい!」


「フェンリス、わざとでしょ!」


「違うよ!」


「お返し!」


 みゆとピピが同時に海水をすくう。


 フェンリスが逃げたため、投げられた海水の半分は、その後ろにいたリディアへ浴びせられた。


 リディアの髪や肩から水が滴り落ちる。


「……みゆ。ピピ」


「僕じゃないよ。ピピだよ」


「二人で投げたでしょう」


「逃げよう、ピピ!」


「うん!」


 二人が左右へ分かれて逃げる。


 リディアは片手でゴーグルを押さえながら、無言で追いかけ始めた。


「リディアが怒った!」


「怒っていません。二人へ同じ量の海水を返すだけです」


「それを怒ってるって言うんだよ!」


 みゆたちの騒ぎに、あおいが楽しそうに笑う。


 ひかげも口元を緩めていた。


 酒菜は砂浜に立ったまま、その様子を眺める。


「本当に騒がしい奴らだな」


 先ほどと同じ言葉だった。


 しかし今度は、その声に呆れだけではなく、僅かな笑いが混じっていた。


 和真は何も言わず、空いた椅子へ腰を下ろす。


 酒菜がこちらを振り返った。


「何だよ」


「何も言ってないだろ」


「顔が笑ってる」


「酒菜も笑ってただろ」


「笑ってねぇ」


「そういうことにしておくよ」


「殴られてぇのか?」


「病み上がりで暴れるな」


「もう治ってるっつっただろうが」


 酒菜は和真を睨んだあと、再び海へ視線を戻した。


 ピピが満面の笑みでボールを振っている。


「酒菜、次!」


「俺を呼び捨てにすんな!」


「じゃあ、酒菜お姉ちゃん!」


「そっちの方が気持ち悪ぃ!」


「どう呼べばいいの?」


「酒菜でいい!」


「さっき駄目って言ったよ!」


「面倒くせぇな!」


 酒菜が砂浜を歩き、ピピたちの方へ向かう。


 海へ入る直前で足を止めると、飛んできたボールを右足で蹴り返した。


 まだ完全に輪の中へ加わったわけではない。


 着物を濡らさない距離を保ち、騒ぎへ巻き込まれないようにしている。


 それでも、先ほどまでパラソルの下に座っていた酒菜は、もうそこにはいなかった。


          ◇


 昼を過ぎる頃には、全員が遊び疲れていた。


 借りていたビーチボールを返し、パラソルの下へ集まる。


 フェンリスとみゆは敷物の上へ座り込み、ピピは仰向けになっていた。


「お腹すいた……」


「朝ご飯、あれだけ食べたのに?」


 フェンリスが呆れたように尋ねる。


「海に入ったら減った!」


「ピピは海に入らなくても、すぐ減るでしょ」


「今日は、いつもより減ったよ!」


「腹が減る量に、いつもも何もあるのか?」


 酒菜が椅子へ戻りながら尋ねる。


「あるよ。今日は焼肉をいっぱい食べられるくらい!」


「分かりにくい」


「ピピにとっては、それが一番分かりやすいんだよ」


 和真が答える。


 酒菜は自分の着物を確認した。


 海には入らなかったものの、飛んできた水しぶきで裾が僅かに濡れている。


「せっかくもらった着物なのに……」


「乾けば問題ないよ」


「汚したくなかったんだよ」


「大切にしてるんだな」


「もらった物を粗末にする奴がいるか」


 酒菜は濡れた部分から砂を払い落とす。


 その様子を見ていたあおいが近づいた。


「旅館へ戻ったら、わらわが手入れを手伝おう」


「いい。これくらい自分でやる」


「この世界の着物は、酒菜の知る物と扱いが異なるかもしれぬぞ」


「そうなのか?」


「わらわも詳しいわけではないが、調べれば分かるじゃろう」


「また、和真に頼るのかよ」


 酒菜が和真を見る。


「調べるくらいなら借りにはならないだろ」


「借りかどうかは俺が決める」


「それ、気に入ったのか?」


「うるせぇ」


 酒菜が顔を背ける。


 その耳が僅かに赤くなっていた。


「ねえ、お昼ご飯にしようよ!」


 ピピが勢いよく身体を起こす。


「焼肉!」


「海水浴場で、いきなり焼肉は無理だよ」


 フェンリスが止める。


「じゃあ、お肉!」


「結局同じじゃん」


 近くには海の家が並び、焼きそばやラーメン、カレーの写真が掲げられていた。


 酒菜が不思議そうに店を見る。


「あれは何だ?」


「食事ができる店だよ」


「浜辺に店があるのか」


「ああ。何か食べてから旅館へ戻ろう」


「俺はいい」


 酒菜が即座に断る。


 その直後、腹から小さな音が鳴った。


 朝と同じように、全員の視線が酒菜へ集まる。


「……聞こえたか?」


「聞こえた!」


 ピピが元気よく答える。


「忘れろ」


「お腹すいたんでしょ?」


「減ってねぇ」


 再び酒菜の腹が鳴る。


 先ほどよりも大きな音だった。


「二回鳴ったよ!」


「数えんな!」


 みゆが口元を押さえながら笑う。


「酒菜、海で遊んだからお腹すいたんじゃない?」


「俺はほとんど動いてねぇ」


「たくさん蹴ってたよ」


「あれくらいで腹が減るか」


「なら、朝ご飯が足りなかったんだね」


「そういうことにしておこう」


 和真が立ち上がる。


「俺が払うから、好きな物を選んでくれ」


「また勝手に決めやがって」


「酒菜だけ食べずに待つつもりか?」


「……あとで返すからな」


「ああ」


「絶対に返す」


「分かったよ」


「本当に分かってんのか?」


「帰ったら手伝ってもらいたいことはいくらでもある。畑や鶏の世話もあるし、みんなの食事も作らないといけない」


「お前、料理できねぇのか?」


「まったくできないわけじゃない」


「どうせ、食えるだけの物しか作れねぇんだろ」


 和真が答えに詰まる。


 フェンリスたちが一斉に目を逸らした。


 それを見た酒菜が眉を上げる。


「図星かよ」


「和真の料理は、たまに不思議な味がするよ!」


 ピピが笑顔で告げる。


「ピピ。それはフォローになってない」


「でも、食べられるよ!」


「食べられることを基準にするな」


 酒菜が深いため息をつく。


「仕方ねぇ。借りを返す間くらい、飯は俺が作ってやる」


「いいのか?」


「毎日とは言ってねぇぞ。俺の気が向いた時だけだ」


「それで十分だよ」


「食材は用意しろ。俺は、この世界の金を持ってねぇ」


「ああ」


「作った分は、今日までの借りから引け」


「分かった」


 和真が頷く。


「酒菜の料理、食べたい!」


 ピピが勢いよく立ち上がる。


「焼肉作って!」


「最初から注文すんな」


「お肉なら何でもいいよ!」


「てめぇのために作るとは言ってねぇ!」


「でも、みんなの飯を作るんでしょ?」


「話を聞いてたのか?」


「聞いてた! たぶん!」


「聞いてねぇじゃねぇか!」


 酒菜の怒鳴り声と、ピピの笑い声が砂浜へ響く。


 周囲の客が振り向き、和真は慌てて二人を止めた。


「ここでは静かにしてくれ」


「こいつが話を聞かねぇからだろ!」


「僕、ちゃんと聞いてたよ!」


「なら、毎日は作らねぇと言ったのも覚えてるか?」


「明日は作る?」


「知らねぇ!」


 騒がしいまま、全員で海の家へ向かう。


 酒菜は店先に並ぶ料理の写真を一つずつ確認し、しばらく悩んだ末に焼きそばを選んだ。


「肉が少ない」


 一口食べた直後、酒菜が不満そうに呟く。


「味はどうだ?」


「悪くねぇ。だが、これなら俺が作った方がうまい」


「本当?」


 みゆが身を乗り出す。


「俺は料理人だぞ」


「初めて聞いた」


「言ってなかったからな」


「料理人が刀を振り回すの?」


「料理人が刀を使っちゃ悪いか」


「悪くはないけど、包丁の方が似合いそう」


「俺の得物は、元々鬼包丁と呼ばれていた物だ」


「昨日使ってた刀?」


「ああ。料理にも戦いにも使える」


「料理に使った刀で魔物を斬るの?」


「斬ったあとは洗う」


「洗えばいいんだ……」


 みゆが複雑そうな顔をする。


「心配しなくても、あの刀を台所で使わせるつもりはないよ」


 和真が口を挟む。


「何でお前が決める」


「普通の包丁なら家にあるからだ」


「切れ味が悪かったら研ぐぞ」


「それは助かる」


「勝手に捨てるんじゃねぇぞ」


「そこまでひどくないよ」


 酒菜は焼きそばを食べながら、和真を疑うように見ていた。


 やがて空になった容器を置く。


「足りねぇ」


「もう一つ買うか?」


「借りが増える」


「料理で返すんだろ」


「……同じ物をもう一つ」


「気に入ったんじゃん」


 みゆが笑う。


「腹を満たすためだ」


「肉が少ないって言ってたのに?」


「うるせぇな」


 酒菜は顔を背けたが、二つ目の焼きそばも残さず食べた。


          ◇


 昼食を終えると、全員はパラソルや敷物を片づけた。


 水着から着替え、借りていたビーチボールを返す。


 砂のついた荷物をまとめ、旅館へ向かって歩き始めた。


 遊び疲れたピピは、歩き始めて間もなく何度も欠伸をしている。


「眠い……」


「旅館に戻るまでだから、頑張って歩いて」


 フェンリスが答える。


「背負って」


「駄目」


「じゃあ、みゆ」


「僕も疲れてるよ」


「ひかげは?」


「む、無理……」


「酒菜」


「自分で歩け」


「まだ何も言ってないよ!」


「顔を見りゃ分かる」


「少しくらいなら平気だよ!」


「てめぇを背負って歩く方が疲れるだろうが」


 ピピが不満そうに頬を膨らませる。


 それでも置いていかれないよう、フェンリスの隣を歩き続けた。


 酒菜は海から離れていく途中で、一度だけ振り返った。


 夕方の光を受けた海が、遠くまで輝いている。


「どうだった?」


 和真が尋ねる。


「何がだ」


「初めての海水浴」


「俺は泳いでねぇ」


「でも、遊んでただろ」


「ボールを蹴ってただけだ」


「楽しくなかった?」


「……悪くはなかった」


「朝食と同じ答えだね」


 みゆが横から口を挟む。


「てめぇには聞いてねぇ」


「素直に楽しかったって言えばいいのに」


「喧嘩売ってんのか?」


「二人とも、歩きながら騒がないでよ」


 徹夜明けのフェンリスが、疲れた声で注意する。


「お前は旅館へ戻ったら寝ろ」


 酒菜が告げる。


「今度は酒菜が見張ってくれるの?」


「誰を見張るんだよ」


「僕」


「寝てる奴を見張ってどうする」


「酒菜が逃げないように」


「結局、俺の見張りじゃねぇか!」


 騒ぎながら歩いているうちに、旅館が見えてきた。


          ◇


 旅館へ戻ると、和真たちは離れに置いていた荷物をまとめた。


 あおいは酒菜の着物についた砂を払い、濡れた裾を布で丁寧に拭いていく。


「これなら、跡は残らぬじゃろう」


「悪いな」


「気にするでない。酒菜が自分で手入れをする時は、わらわも一緒に覚えよう」


「俺一人でできる」


「初めは二人で確かめればよかろう」


「……好きにしろ」


 酒菜はそう答えながらも、あおいの手を止めようとはしなかった。


 荷物を持って離れを出る。


 帳場では、女将が見送りの準備をして待っていた。


 和真は追加された酒菜の宿泊代と朝食代を含め、料金を精算する。


 酒菜は少し離れた場所から、その様子を黙って見つめていた。


「これで支払いは終わったよ」


 和真が戻ると、酒菜が眉を寄せる。


「いくらだった?」


「気にしなくていい」


「俺の分を聞いてんだ」


「帰ってから手伝って返すんだろ? 細かい金額はあとで話すよ」


「誤魔化すなよ」


「誤魔化さないって」


「お前は勝手に借りを減らしそうだから信用できねぇ」


「借りを増やすよりいいだろ」


「よくねぇ。返すと決めた分は返す」


 酒菜が言い切る。


 その声を聞いていた女将が、穏やかに微笑んだ。


「本当に律儀な方なのですね」


「当然のことをしてるだけだ」


 酒菜は女将と仲居の前へ進んだ。


「急に世話になって悪かった」


「どうかお気になさらないでください」


「飯もうまかった。着物も大事にする」


「そう言っていただけて、私どもも嬉しいです」


 酒菜は右手を身体の横へ下ろし、深く頭を下げる。


「ありがとう」


「お気をつけて。またぜひいらしてくださいね」


 顔を上げた酒菜は、もう一度だけ頭を下げた。


 和真たちも旅館の者たちへ礼を告げ、玄関を出る。


 酒菜は外へ出たあとも、一度だけ旅館を振り返った。


「また来たい?」


 みゆが尋ねる。


「別に」


「でも、振り返ってたよ」


「着物をもらった場所を覚えてただけだ」


「また来るつもりなんじゃん」


「うるせぇな」


「二人とも、旅館の前で喧嘩するな」


 和真が止める。


 一行は荷物を持ち、駅へ向かって歩き始めた。


          ◇


 駅へ着く頃には、太陽が傾き始めていた。


 和真は帰りの切符を用意し、全員を連れて新幹線の乗り場へ向かう。


 ホームには、大きな荷物を持った乗客が何人も並んでいた。


 酒菜は周囲を警戒しながら、足元に延びる線路へ目を向ける。


「これから何に乗る?」


「新幹線だよ」


「しんかんせん?」


「すごく速い電車!」


 ピピが得意そうに答える。


「何で、てめぇが得意そうなんだ」


「僕は乗ったことあるから!」


「さっきまで迷子になりかけてた奴が威張るな」


「今日は迷子になってないよ!」


「なりかけただろうが」


「なってないなら同じだよ!」


「同じじゃねぇ!」


 フェンリスが二人の間へ入る。


「ホームで騒がないで。危ないから線路にも近づかないでね」


「僕は近づいてないよ」


「ピピに言ってるんだよ」


「酒菜も初めてなんだから、一緒に聞いた方がいいよ!」


「俺をてめぇと一緒にすんな」


「初めてなのは同じだよ!」


「そこだけだろうが!」


 言い争っていた二人の声を遮るように、遠くから低い走行音が響いた。


 白い車体が、凄まじい速さでホームへ近づいてくる。


 酒菜が反射的に身構えた。


「何だ、あれは!」


「あれが新幹線だよ」


「速すぎるだろ!」


 新幹線は風を巻き起こしながらホームへ入り、徐々に速度を落としていく。


 長い車体が目の前で停止した。


 酒菜は呆然と新幹線を見上げる。


「これに乗るのか?」


「ああ」


「こんな物が、本当に人を運ぶのか?」


「中には、もう大勢乗ってるよ」


「何で馬も魔物もいねぇのに動く」


「電気で動いてる」


「でんき?」


「説明すると長くなるから、今はそういう乗り物だと思ってくれ」


「分からねぇ物に乗れってのか?」


「危険性は低いです」


 リディアが淡々と答える。


「構造も安定しており、高速移動に適した乗り物だと判断できます」


「低いってことは、危険がねぇわけじゃないんだな」


「どのような移動手段にも、危険は存在します」


「余計に不安になる言い方をするな!」


 扉が開き、乗客が順番に降りてきた。


 降りる者がいなくなったことを確認し、和真たちも車内へ入る。


「酒菜、早く!」


 先に乗り込んだピピが、大きく手を振る。


「扉が閉まるよ!」


「勝手に先へ行くんじゃねぇ!」


「置いていかれたくなかったら、急いで!」


「誰の真似だ、てめぇ!」


 酒菜はピピを追い、新幹線へ乗り込んだ。


 指定された窓際の席へ腰を下ろすと、落ち着かない様子で周囲を見回す。


 座席。


 窓。


 荷物を置くための棚。


 どれも酒菜には見慣れない物ばかりだった。


「これから速く走るんだろ。座ってるだけでいいのか?」


「ああ。立ち歩かなければ大丈夫だよ」


「本当だろうな」


「心配なら、座席につかまっていてもいいぞ」


「心配してねぇ」


 そう答えながら、酒菜は右手で座席の端をつかんだ。


 向かい側では、ピピが窓へ顔を近づけている。


「まだ動かないの?」


「もうすぐだよ」


 フェンリスがピピを座らせる。


「動いている間は、勝手に歩き回らないでね」


「分かってる!」


「本当に?」


「たぶん!」


「たぶんじゃ駄目!」


「じゃあ、絶対たぶん!」


「何も変わってないってば!」


 やがて扉が閉まり、新幹線が静かに動き始めた。


 酒菜の右手へ力が入る。


 ホームが後方へ流れ、車体の速度が上がっていく。


「動いたぞ」


「新幹線なんだから動くよ」


 みゆが笑う。


「分かってる。確認しただけだ」


「やっぱり怖いんじゃない?」


「怖くねぇ!」


 駅を離れると、窓の外を流れる景色が一気に速くなった。


 建物も道路も、瞬く間に後方へ消えていく。


 酒菜の右目が大きく見開かれる。


「速っ!」


「まだ速くなるよ!」


 ピピが楽しそうに答える。


「これ以上速くなるのか!」


「景色が全部飛んでいくよ!」


「飛んでるのは景色じゃなくて、俺たちだろうが!」


 山や町が一瞬で通り過ぎていく。


 酒菜は座席の端をつかんだまま、窓の外を睨んでいた。


「酒菜、手に力が入ってるよ」


 みゆが指摘する。


「揺れた時に備えてるだけだ」


「ほとんど揺れてないけど」


「急に揺れるかもしれねぇだろ!」


「それを怖がってるって言うんじゃない?」


「違う!」


「声を抑えてください」


 リディアが注意する。


「ほかの乗客に迷惑です」


「こいつに言え!」


「酒菜の方が大きな声を出してるよ」


「先に余計なことを言ったのは、てめぇだろうが!」


 酒菜は声を抑えながら、みゆを睨みつけた。


 向かいの席では、先ほどまで騒いでいたピピが早くも舟をこいでいる。


 フェンリスが倒れかけた身体を支えると、ピピはその肩へ寄りかかったまま眠ってしまった。


「さっきまで騒いでたのに、もう寝たのか」


 酒菜が呆れたように呟く。


「ピピは、どこでも寝られるからね」


「警戒心がなさすぎるだろ」


「みんながいるから安心してるんだよ」


「俺がいてもか?」


「今朝なら、起きてたかもしれない」


 フェンリスが正直に答える。


 酒菜は僅かに眉を動かした。


「今は違うのか?」


「完全に信用したわけじゃないよ」


「そうかよ」


「でも、少なくとも、新幹線の中で急に和真へ斬りかかるとは思ってない」


「刀も持ってねぇだろうが」


「持ってたら?」


「斬りかからねぇよ。一度した約束は守る」


 フェンリスは酒菜の右目を見つめた。


 やがて小さく息を吐き、眠っているピピの頭を支える。


「なら、今はそれを信じる」


「好きにしろ」


 酒菜が窓の外へ顔を向ける。


 座席をつかんでいた右手からは、いつの間にか力が抜けていた。


 新幹線は夕暮れの景色の中を、空色唐辛子荘のある町へ向かって走り続けた。


◇


 電車に揺られ、空色唐辛子荘の最寄り駅へ着いた頃には、空が夕暮れの色に染まり始めていた。


 改札を出た酒菜は、駅の構内に並ぶ案内板を見上げる。


「東口と西口……お前らの住処はどっちだ?」


 その言葉に、和真が足を止めた。


「酒菜。その文字が読めるのか?」


「あ?」


 酒菜が案内板を指さす。


「東口と西口って書いてあるだろうが」


「意味も分かるんだな」


「当たり前だ。馬鹿にしてんのか?」


「そうじゃない」


 和真は案内板と酒菜を交互に見る。


 これまで、酒菜と会話ができているのは、自分の通訳能力が働いているからだと思っていた。


 しかし、その力は会話を成り立たせるだけで、見た文字まで読めるようにするものではない。


「酒菜の世界にも、同じ文字があったの?」


 みゆが案内板を見上げる。


「少なくとも、俺が使ってた文字と変わらねぇ」


「じゃあ、酒菜は最初から日本語を話してたってこと?」


「にほんごってのが何かは知らねぇが、お前らと話す時も普段どおり喋ってるだけだ」


「でも、和真の近くにいると、違う言葉でも通じるからね」


 フェンリスが腕を組む。


「本当に同じ言葉なのか、今のままだと分からないんじゃない?」


「ああ。少し確かめてみよう」


「どうやってだよ」


「俺から離れた場所で、この世界の人と話してもらう」


 和真の通訳能力には、声が届く程度の範囲しか効果がない。


 その範囲から外れた場所でも会話が成立すれば、酒菜が話している言葉は日本語ということになる。


「何で俺が、わざわざ知らねぇ奴と話さなきゃならねぇ」


「元の世界へ帰る手掛かりになるかもしれないからだ」


 その一言で、酒菜の表情が変わった。


「……何を聞けばいい」


「駅員さんに、東口がどちらか尋ねてくれればいい」


「目の前に書いてあるだろうが」


「確認のためだよ」


「面倒くせぇな」


 酒菜は不満を漏らしながらも、改札脇に立つ駅員へ向かった。


 和真たちは、その場に残る。


「このくらい離れれば大丈夫?」


 みゆが尋ねる。


「ああ。俺の力は届かないはずだ」


 酒菜は駅員の前で立ち止まると、案内板を指さした。


「悪い。東口へ行きてぇんだが、あっちで合ってるか?」


「はい。そちらの階段を下りていただければ東口です」


「そうか。ありがとう」


 酒菜が短く頭を下げ、こちらへ戻ってくる。


「普通に通じたね」


 フェンリスが驚いたように呟いた。


「だから、最初からそう言ってんだろうが」


「酒菜。本当に駅員さんの言葉が分かったんだな?」


「東口はあっちだと言ってただろ。それ以外に何がある」


 会話は完全に成立していた。


 文字も読めて、言葉も通じる。


「酒菜のいた世界は、この世界と何か関係があるのかもしれません」


 リディアが酒菜を見る。


「使用する言語や文字が偶然すべて一致する可能性は、かなり低いでしょう」


「俺に聞かれても知らねぇよ」


「今すぐ答えを出す必要はありません。ですが、元の世界を特定するための重要な情報になります」


「なら、覚えておけ」


「すでに記録しました」


「相変わらず早ぇな」


 酒菜は呆れたように息を吐く。


「調べれば、帰る方法も分かるのか?」


「まだ断言はできません」


「そうかよ」


 期待を表に出すことはなかった。


 それでも酒菜は、先ほどより僅かに明るくなった表情で東口へ向かった。


          ◇


 駅を出たあと、和真たちは空色唐辛子荘へ向かって歩き始めた。


 酒菜は見たことのない街並みを、落ち着かない様子で眺めている。


 道路を走る車。


 一定の間隔で並ぶ街灯。


 明るく光る店の看板。


 どれも気になるようだが、立ち止まって尋ねることはなかった。


「さっきから、きょろきょろしてるね」


 みゆが酒菜の顔を覗き込む。


「知らねぇ物ばかりなんだから仕方ねぇだろ」


「気になるなら聞けばいいのに」


「一つずつ聞いてたら、いつまでたっても着かねぇ」


「じゃあ、僕が教えてあげる」


「いらねぇ」


「あれはコンビニ」


「聞いてねぇ」


「あっちは自動販売機」


「だから聞いてねぇって言ってんだろ!」


「酒菜、声が大きいよ」


「てめぇがしつこいからだ!」


 言い争う二人の横を、ピピが楽しそうに歩いている。


「酒菜、あれは信号だよ!」


「お前まで加わるな!」


「赤は止まる! 青は進む!」


「それくらい、見てりゃ分かる!」


「黄色は急ぐ!」


「違うよ!」


 フェンリスが慌てて訂正する。


「黄色も止まる準備だからね。急いで渡るんじゃないよ」


「でも、みんな急いでるよ?」


「真似しちゃ駄目!」


「分かった! たぶん!」


「絶対に分かってないよね?」


 相変わらず騒がしいやり取りが続く。


 酒菜は何度も眉を寄せていたが、離れて歩こうとはしなかった。


 しばらく住宅街を進むと、古いアパートの建物が見えてくる。


 その奥には和真が暮らす母屋があり、周囲には畑や鶏小屋が広がっていた。


「着いたぞ」


 和真が足を止める。


「ここが、空色唐辛子荘だ」


 酒菜は門の前に立ち、敷地の中を見渡した。


「ずいぶん広いな」


「昔は、もっとアパートがあったんだ」


「この建物に、お前らが住んでんのか?」


「ああ。俺だけは奥の母屋で暮らしてるけど、みんなはアパートに自分の部屋を持ってる」


「全員、同じ部屋に住んでるわけじゃねぇのか」


「当たり前でしょ」


 フェンリスが答える。


「僕は101号室。隣の102号室がみゆで、103号室があおい。104号室がピピだよ」


「私は201号室です」


 リディアが二階を指す。


「ひかげは204号室を使用しています」


「それで、酒菜には202号室を使ってもらうと思っている」


 和真が鍵を取り出す。


「もう決めてやがったのか」


「空いている部屋を確認しただけだよ。嫌なら203号室でもいいぞ」


「どっちでも変わらねぇだろうが」


「じゃあ、202号室でいいな」


「勝手に話を進めんな」


 そう言いながらも、酒菜は差し出された鍵を受け取った。


 小さな金属製の鍵を右手の中で転がし、不思議そうに眺める。


「これが部屋の鍵か」


「ああ。なくさないでくれよ」


「誰がなくすか」


「ピピは何度かなくしかけたよ」


「なくしてないよ!」


 ピピが勢いよく言い返す。


「置いた場所を忘れただけ!」


「それを、なくしたって言うんだよ」


「でも、部屋の中にあったよ?」


「部屋に入るための鍵を、部屋の中に置いたら駄目でしょ」


「次から気をつける!」


「本当に?」


「たぶん!」


 酒菜が深いため息をつく。


「よく、こいつを一人で部屋に住ませてるな」


「みんなで様子を見てるから大丈夫だよ」


「大丈夫に見えねぇ」


「酒菜も近くになったから、これからは見てあげてね!」


「何で俺が面倒を見ることになってんだ!」


 ピピは酒菜の怒鳴り声を気にすることなく、楽しそうに笑っていた。


          ◇


 外階段を上がり、二階の通路を進む。


 201号室の隣に、202と書かれた扉があった。


「ここだよ」


 和真が扉を指す。


 酒菜は鍵穴へ鍵を入れようとするが、片手では荷物を持ったまま扱いにくいらしい。


 着物を入れた袋を足元へ置き、改めて鍵を差し込む。


 小さな音とともに鍵が回った。


 扉を開けると、簡素な玄関と、その先に続く部屋が見える。


 室内にはベッドと小さな机、棚が用意されていた。


 手前に台所があり、風呂と便所も部屋の中に備わっている。


 酒菜は靴を脱いで中へ入ると、部屋の隅々へ視線を向けた。


「ここを、俺一人で使うのか?」


「ああ」


「借りを返すまでの間だけだぞ」


「分かってるよ」


「壁や床を壊しても、俺は弁償できねぇ」


「壊さないでくれ」


「俺だって、好きで壊すか」


 酒菜は窓を開け、外を確認する。


 窓からは母屋と畑、鶏小屋の一部が見えた。


 何かあれば大声を出すだけでも、母屋や隣の部屋まで届きそうな距離だった。


「隣の201号室には私がいます」


 リディアが壁へ視線を向ける。


「装置の不具合や、部屋の設備で分からないことがあれば呼んでください」


「お前の部屋が隣かよ」


「何か問題がありますか?」


「夜中に壁を壊して入ってきそうだ」


「必要がなければ壊しません」


「必要なら壊すのかよ」


「緊急時には最も早い方法を選びます」


「先に扉を使え!」


 酒菜の声が室内へ響く。


 その直後、廊下から扉を叩く音が聞こえた。


「酒菜、大丈夫?」


 203号室の先にある204号室へ荷物を置きに行ったひかげが、不安そうに顔を覗かせる。


「何か壊れた……?」


「まだ何も壊れてねぇ」


「まだ、なんだ……」


「壊す予定もねぇよ!」


「酒菜、声が大きいよ」


 今度は一階からフェンリスの声が飛んでくる。


「聞こえてるなら、わざわざ言うな!」


「ほら、やっぱり近くなら大声で届くね!」


 ピピが嬉しそうに告げる。


「そのために怒鳴ったんじゃねぇ!」


 酒菜は額へ右手を当て、深く息を吐いた。


「騒がしい場所だな」


「今さら気づいたの?」


 みゆが笑う。


「海にいた時から分かってたよ」


「だったら言わせんな」


 酒菜はもう一度、室内を見渡した。


 自分だけに与えられた部屋。


 鍵を持つのも、中へ誰を入れるのかを決めるのも、すべて酒菜自身だった。


 やがて足元に置いた荷物を拾い、棚の上へ大切そうに置く。


「……悪くねぇ」


「気に入った?」


「借りてるだけだ」


「そういうことにしておくよ」


「殴られてぇのか?」


 酒菜が和真を睨む。


 しかし、本気で怒っているようには見えなかった。


          ◇


 荷物を置いたあと、全員は夕食のため母屋へ集まった。


 母屋は和真が暮らしている建物だが、食事は全員で取ることが、いつの間にか当たり前になっていた。


 酒菜が居間へ入ると、低い食卓を囲むように座布団が並べられていた。


 台所はそのすぐ隣にある。


「お前ら、自分の部屋があるのに、飯はここで食うのか?」


「ああ。最初は別々だったんだけどな」


 和真が荷物を置く。


「いつの間にか、みんな母屋へ集まるようになったんだ」


「一人で食べるより、みんなで食べた方がおいしいよ!」


 ピピが食卓の前へ座る。


「今日は酒菜が作るんでしょ?」


「誰が今日作ると言った」


「海で、みんなの飯を作るって言ったよ!」


「気が向いた時だけだとも言っただろうが」


「今日は気が向かないの?」


「向かねぇ」


 酒菜が即答すると、ピピの肩が目に見えて落ちた。


 人間の姿になっていて羽は見えないが、落ち込んでいることは一目で分かる。


「酒菜の料理、食べたかった……」


「そんな顔すんな」


「お腹すいた……」


「さっき駅で菓子を食ってただろうが」


「あれはおやつだよ。ご飯じゃないよ」


「面倒くせぇ奴だな」


 酒菜は台所へ視線を向けた。


 和真が夕食の準備を始めようとしている。


 まな板の上には肉と野菜が置かれていた。


「今日は野菜炒めにしようと思ってる」


「お前が作るのか?」


「ああ」


「包丁を貸せ」


 酒菜が和真の横へ立つ。


「気が向かなかったんじゃないの?」


「お前の手つきを見てたら、不安になっただけだ」


「まだ何も切ってないぞ」


「包丁の持ち方で分かる」


「そこまでひどくないだろ」


 和真が答えると、居間にいた全員が一斉に視線を逸らした。


「おい。何で誰も否定しねぇ」


「和真の料理は、食べられるよ!」


 ピピが笑顔で答える。


「それ、海でも聞いたぞ」


 酒菜は呆れながら、和真から包丁を受け取る。


 右手だけで野菜を押さえると、指先と包丁の腹を器用に使い、一定の大きさへ切り分けていく。


 片腕であることを感じさせない動きだった。


 切られた野菜が、ほとんど同じ厚さで並んでいく。


「速い……」


 ひかげが台所を覗き込み、小さく呟いた。


「慣れてるだけだ」


「でも、片手なのに……」


「左腕を失ってから何年たってると思ってやがる。できねぇままじゃ、料理人なんざ続けられねぇよ」


 酒菜は肉も手早く切り分ける。


 その姿を見ていたリディアが、僅かに身を乗り出した。


「調理用の補助器具を作れば、さらに効率を上げられます」


「いらねぇ」


「まだ説明していません」


「自分でできることまで、道具にやらせるつもりはねぇ」


「左手の代わりに食材を固定するだけでも――」


「いらねぇっつってんだろ」


「必要になったら言ってください」


「ならねぇよ」


 酒菜は迷いなく答え、切った具材をフライパンへ入れた。


 肉の焼ける音と香ばしい匂いが、母屋の中へ広がっていく。


「いい匂い!」


 ピピが台所へ近づこうとする。


「座ってろ。邪魔だ」


「見るだけ!」


「近づいたら食うだろうが」


「食べないよ!」


「本当か?」


「たぶん!」


「席に戻れ!」


 酒菜に怒鳴られ、ピピは笑いながら食卓へ戻った。


 その様子を見たフェンリスが、小さく息を吐く。


「ピピの扱い、もう分かってきてるね」


「分かりたくて分かったんじゃねぇ」


「でも、面倒を見てくれてる」


「邪魔だから追い払っただけだ」


「そういうことにしておくよ」


「お前ら、そればかりだな」


 酒菜は不機嫌そうに言いながら、料理を皿へ盛りつけた。


          ◇


 全員分の料理が食卓へ並ぶ。


 肉と野菜の炒め物に、簡単な汁物。


 残っていた食材だけで作ったとは思えないほど、見栄えよく仕上がっていた。


「いただきます!」


 ピピが真っ先に料理を口へ運ぶ。


 その目が大きく見開かれた。


「おいしい!」


「口に物を入れたまま喋るな」


「酒菜、毎日作って!」


「海で話を聞いてなかったのか!」


「毎日は作らないんでしょ?」


「分かってんじゃねぇか」


「でも、明日は作る?」


「知らねぇ!」


 酒菜が怒鳴る横で、みゆも料理を口へ運ぶ。


「本当においしい。和真の野菜炒めとは全然違うね」


「比べる必要はないだろ」


「和真が作ると、野菜が半分くらい黒くなるからね」


「少し焦げるだけだよ」


「半分は少しとは言わないよ」


 フェンリスが呆れたように告げる。


「酒菜が来てくれて、一番助かるのは料理かもしれないね」


「俺は飯炊き係になった覚えはねぇぞ」


「気が向いた時だけでいいよ」


 和真が答える。


「無理に頼むつもりはない」


「当然だ」


「でも、作ってくれた時は、みんなで食べよう」


 酒菜は何も答えなかった。


 食卓を囲み、楽しそうに料理を食べる者たちを順番に見る。


「酒菜も食べないの?」


 ピピが首を傾げる。


「作った奴が食わねぇと、毒が入ってると思われるよ?」


「朝の話を根に持ってんのか?」


「僕は気にしてないよ!」


「だったら言うんじゃねぇ!」


 酒菜は座布団へ腰を下ろし、自分の料理へ箸を伸ばした。


「どう?」


 和真が尋ねる。


「俺が作ったんだ。うまいに決まってんだろ」


「旅館では、うまいと言ったら負けた気がするって言ってたのに」


「あれは他人が作った飯だ」


「面倒な基準だね」


「うるせぇ」


 言い返しながらも、酒菜の箸は止まらなかった。


 騒がしい食卓だった。


 誰かが喋れば、別の誰かが口を挟む。


 ピピが肉を取りすぎてフェンリスに止められ、みゆが横から一切れ奪う。


 ひかげは足りなくなった皿へ静かに料理を分け、あおいが全員の汁物を確認していた。


 リディアだけは料理の加熱時間を分析し、酒菜に鬱陶しそうな顔をされている。


 酒菜は何度も怒鳴り、呆れ、深いため息をついた。


 それでも、一度も席を立とうとはしなかった。


          ◇


 夕食を終えたあと、和真は酒菜を縁側へ呼んだ。


 居間ではフェンリスたちが食器を片づけている。


「何だよ」


「返しておこうと思ってな」


 和真が右手を収納空間へ入れる。


 取り出したのは、昨夜の戦いで預かった酒菜の武器だった。


 鬼包丁。


 大きな刃には戦いの痕跡が残っている。


 酒菜の右目が鋭くなった。


「返すのか?」


「ああ。ただし、条件がある」


「俺の武器だぞ」


「ここは酒菜のいた世界じゃない。人へ向ければ、事情に関係なく大きな騒ぎになる」


 和真は鬼包丁を差し出さず、酒菜をまっすぐ見た。


「人間へ向けないこと。人前で出さないこと。魔物や危険な相手が現れた時も、勝手に飛び出さず俺たちと相談すること」


「ずいぶん細けぇな」


「守れないなら、まだ返せない」


 酒菜は鬼包丁を見つめる。


 力ずくで奪おうと思えば、戦いになる。


 しかし、酒菜が右手を伸ばすことはなかった。


「……分かった」


「本当に?」


「同じことを何度も言わせんな。借りを返すまで、お前らの決まりに従う。それでいいんだろ」


「ああ」


 和真は鬼包丁の柄を酒菜へ向けた。


 酒菜が右手で受け取る。


 刃を確認したあと、鞘へ収めるように布を巻き直した。


「手入れは202号室でしていい。ただし、外から見えないようにしてくれ」


「分かってる」


「それと、料理には使うなよ」


「俺の鬼包丁だ。何に使うかは俺が決める」


「魔物を斬った物を台所へ持ち込むな」


「洗えば問題ねぇ」


「問題あるよ!」


 居間から、みゆの声が飛んでくる。


「僕、その包丁で切った料理はちょっと嫌だよ!」


「さっきまでうまいって食ってただろうが!」


「あれは普通の包丁だったもん!」


「切れりゃ同じだ!」


「同じじゃないよ!」


 フェンリスとピピまで縁側へ顔を出す。


「僕も普通の包丁がいい」


「僕はどっちでもいいよ! お肉が切れれば!」


「ピピは少しくらい気にしろ!」


「お腹に入ったら同じだよ?」


「お前だけは話が早いな」


「酒菜。ピピを味方につけないで」


 フェンリスが呆れたように注意する。


 酒菜は鬼包丁を肩へ担ごうとしたが、母屋の天井を見て途中でやめた。


「本当に面倒くせぇ奴らだ」


「これから毎日、もっと面倒になるよ」


 みゆが楽しそうに笑う。


「借りを返したら、すぐ出ていくからな」


「うん。その時までは202号室だね」


「勝手に俺の部屋みてぇに言うな」


「もう鍵を持ってるじゃん」


 酒菜は帯へ挟んだ鍵へ触れた。


 返そうと思えば、今すぐ返すこともできる。


 それでも鍵を取り出すことはなかった。


          ◇


 夜。


 酒菜は一人で202号室へ戻った。


 扉の鍵を開け、室内へ入る。


 母屋から聞こえていた騒がしい声は、扉を閉めると遠くなった。


 静かだった。


 自分以外には、誰もいない。


 酒菜は鬼包丁を壁際へ置き、旅館でもらった暗い紅色の着物を丁寧に脱いだ。


 砂のついた部分を払い、畳まずに棚へ置こうとして、手を止める。


「……雑に置いたら、あいつに何か言われそうだな」


 あおいの顔を思い浮かべ、片手でできる範囲で着物を整える。


 その時、扉を叩く音が聞こえた。


「誰だ」


「僕!」


 ピピの声だった。


「何の用だ」


「おやすみを言いに来た!」


「それだけか?」


「うん!」


「なら、そこで言え」


「おやすみ、酒菜!」


「ああ。おやすみ」


「明日、料理作ってね!」


「作るとは言ってねぇ!」


 酒菜が扉を開けると、ピピはすでに階段の方へ逃げていた。


「酒菜、おやすみ!」


 一階からみゆの声も聞こえる。


「怒鳴ると近所迷惑だから、静かに寝てね!」


「誰のせいで怒鳴ってると思ってやがる!」


「おやすみ!」


「話を聞け!」


 みゆとピピの笑い声が遠ざかっていく。


 向かいの204号室の扉が僅かに開き、ひかげが顔を覗かせた。


「酒菜……おやすみ」


「お前もか」


「駄目だった……?」


「駄目とは言ってねぇ。さっさと寝ろ」


「うん。酒菜も、ゆっくり休んでね」


 ひかげが扉を閉める。


 続いて隣の201号室からリディアが出てきた。


「装置に異常があれば呼んでください」


「ねぇよ」


「部屋の設備について不明な点は?」


「今のところはねぇ」


「そうですか。では、おやすみなさい」


「ああ」


 リディアが201号室へ戻る。


 階下からはフェンリスとあおいの声も聞こえた。


「酒菜、おやすみ!」


「今宵は、ゆっくり休むとよい」


「分かったから、全員で順番に来るんじゃねぇ!」


 酒菜の声がアパートへ響く。


 母屋の縁側にいた和真の笑い声まで聞こえた。


「和真! てめぇも笑ってんじゃねぇ!」


「悪い。おやすみ、酒菜」


「……おう」


 酒菜はようやく202号室の扉を閉めた。


 再び室内が静かになる。


 しかし、先ほどまでの静けさとは少し違っていた。


 壁の向こうにはリディアがいる。


 一部屋隣にはひかげがいる。


 階下にはフェンリスたちがいて、敷地の奥にある母屋には和真がいる。


 自分から扉を開ければ、誰かのところへ行ける。


 酒菜は帯から202号室の鍵を取り出し、右手の中で握った。


「借りを返すまでだからな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 ベッドへ腰を下ろすと、壁際に置いた鬼包丁へ視線を向けた。


 武器もある。


 一人で眠れる部屋もある。


 帰る方法を探すと言った者たちも、すぐ近くにいる。


「新しい居場所、か」


 酒菜は自嘲するように笑い、身体を横たえた。


 まだ、ここを自分の居場所だと認めたわけではない。


 仲間になったつもりも、家族になったつもりもなかった。


 それでも、202号室の鍵を手放そうとは思わなかった。

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