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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第十八話 鬼道隠 酒菜

 夜の砂浜を、冷たい潮風が吹き抜けた。


 波が寄せては返す音に重なり、酒菜の刀から落ちた血が、砂の上へ小さな染みを作る。


 白い戦闘着物は裂け、全身に新しい傷が刻まれていた。


 それでも、右手に握られた刀の切っ先は下がっていない。


 和真は酒菜から目を離さないまま、何もない空間へ右手を差し込んだ。


 水面のような波紋が広がり、その奥から一振りの剣を引き抜く。


 六年間、異世界で何度も振るってきた剣だった。


 慣れ親しんだ重みを確かめながら、切っ先を斜め下へ向ける。


「一つだけ言っておく」


「あ?」


「俺は、お前を斬るつもりはない」


 酒菜の眉がつり上がった。


「随分と舐められたもんだな」


「そういう意味じゃない。今のお前は、立っているだけでも限界だ」


「だったら、なおさら遠慮する必要はねぇだろ」


「怪我を増やす前に終わらせる」


「言ったな」


 酒菜が腰を落とした。


 右足をわずかに前へ出し、身体を半身にして刀を構える。


 左腕がないことを前提として、長い時間をかけて作り上げられた構えだった。


 潮風が止まる。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、酒菜の姿が消えた。


「――っ!」


 砂を蹴り上げ、一気に距離を詰めてくる。


 最初の一撃は横薙ぎだった。


 和真は剣を立て、正面から刀を受け止める。


 甲高い金属音が夜の海へ響いた。


 片手で振るわれたとは思えないほど重い。


 衝撃が剣を伝い、和真の両腕まで突き抜ける。


「まだだ!」


 酒菜は弾かれた刀を止めなかった。


 右手首を返しながら腰をひねり、身体ごと回転する。


 勢いを殺さず、二撃目の斬り上げへつなげた。


 和真が上体を反らす。


 鼻先を鋭い切っ先が通り過ぎた。


 酒菜は空振りした刀を引き戻すより早く、和真の腹へ蹴りを放つ。


 和真は左腕で受け止めた。


「くっ……」


 骨まで響くような衝撃に押され、砂の上を滑る。


 酒菜も着地と同時に身体をよろめかせた。


 右足に負った傷から、新たな血が流れ落ちている。


 しかし、顔を歪めたのは一瞬だけだった。


 すぐに刀を構え直し、再び踏み込んでくる。


「その傷で、よく動けるな」


「褒めたって何も出ねぇぞ!」


 上段から刀が振り下ろされる。


 和真は剣を斜めに傾け、刃を横へ流した。


 軌道を逸らされた酒菜の身体が、和真の左側へ抜ける。


 左腕のない側。


 一見すれば、最も大きな隙に見えた。


 和真はそこへ一歩踏み込む。


 その瞬間、酒菜の口元がつり上がった。


「甘ぇ!」


 刀を持った右腕が、身体の裏側を通って左側へ回り込む。


 同時に酒菜が右足を軸に身体を沈めた。


 低い姿勢から放たれた刃が、和真の脇腹を狙う。


 予想していなければ、確実に斬られていた。


 和真は剣を下げ、寸前で刀を受け止める。


 火花が散った。


 酒菜は止まらない。


 刃を押し返される力を利用し、砂へ片膝をつく。


 そのまま右足を大きく振り回した。


 足払いを避けようと和真が跳ぶ。


 酒菜はそれを待っていた。


 立ち上がる勢いのまま刀を突き上げる。


「なるほどな!」


 空中で身体をひねった和真の服を、刀の先端がわずかに裂いた。


 和真は酒菜の背後へ着地する。


 振り返った時には、酒菜もすでにこちらへ向き直っていた。


 左腕がないことで生まれるはずの死角を、足運びと身体の回転で完全に消している。


 それだけではない。


 酒菜は、相手が左側を狙うことまで利用していた。


 わざと隙を見せ、踏み込んできた相手を仕留める。


 片腕になって間もない者の戦い方ではなかった。


 何度も実戦を重ね、失われた腕を補うのではなく、今の身体で勝つための技を作り上げている。


「その腕……随分前からないのか」


「戦いの最中に余所見とは、随分と余裕だな!」


 酒菜が砂を蹴り上げた。


 今度は視界を遮るためのものだった。


 舞い上がった砂が、二人の間を覆う。


 和真は目を閉じ、気配を探った。


 正面にはいない。


 左でもない。


 背後から、わずかに砂を踏む音が聞こえた。


 振り返りながら剣を上げる。


 直後、振り下ろされた刀が激突した。


「見えてんのかよ!」


「見えてはいない!」


「なら、そのまま斬られとけ!」


 酒菜が刀を引く。


 和真の喉を狙った突きが放たれた。


 首を傾けてかわすと、刃が頬のすぐ横を抜けていく。


 和真は酒菜の懐へ踏み込み、剣の柄を腹部へ押し当てた。


 このまま前へ出れば、酒菜を吹き飛ばせる。


 しかし、酒菜は止まらなかった。


 自分の腹へ剣が触れているにもかかわらず、刀を引き戻そうともしない。


 右手をさらに前へ伸ばし、和真の背後から刃を返そうとしている。


 和真が剣を押し込めば、酒菜の身体は無事では済まない。


 それを承知で、和真の首を狙っていた。


「おい!」


 和真は攻撃を中断し、自ら横へ逃れた。


 直後、刀が和真のいた場所を通り抜ける。


 酒菜は体勢を立て直すと、何事もなかったように切っ先を向けてきた。


「どうした。今ので終わらせるんじゃなかったのか?」


「自分が斬られることを考えてないのか」


「てめぇに関係あるか」


「あるから言ってる」


「だったら、止めてみろ!」


 酒菜が再び迫る。


 速さは先ほどまでと変わらない。


 むしろ傷が増えるほど、その攻撃は激しさを増していた。


 上段からの振り下ろし。


 受け止められると同時に手首を返し、刃を滑らせる。


 和真の指を狙った斬撃をかわされると、踏み込んだ足で砂を蹴りつける。


 和真が顔をそらした瞬間、刀の柄頭が顎へ迫る。


 身を沈めて避けた和真へ、今度は膝蹴りが飛んできた。


 酒菜は片腕であることを一切言い訳にしていない。


 刀だけに頼ることもない。


 足、膝、肩、身体の回転。


 使えるものすべてを攻撃へ変えている。


 和真は剣で刀を弾き、蹴りを腕で受け止めた。


 酒菜の身体が開く。


 その腹部には深い切り傷があった。


 先ほどまで血は止まりかけていたはずだが、激しく動いたことで再び開いている。


 和真は剣を振るう手を止めた。


 酒菜は、その隙へ迷わず飛び込んでくる。


「止まれ!」


「戦ってる最中に止まる馬鹿がいるか!」


 右肩を大きく引き、突きを放つ。


 和真は刀の腹を横から叩いた。


 軌道を変えられた刃が、和真の肩口をかすめる。


 酒菜は前へ流れる身体を止めず、そのまま和真へ肩からぶつかった。


 二人の身体がもつれ、砂の上を転がる。


 先に起き上がったのは酒菜だった。


 右手だけで砂を押し、跳ねるように立ち上がる。


 和真が起き上がるより早く、刀を振り下ろした。


「本当に容赦ないな!」


 寝たまま剣で受け止める。


 酒菜は刀へ体重をかけ、和真の首元へ刃を押し込もうとする。


 刀と剣が激しく擦れ、火花が二人の間へ落ちた。


「てめぇが本気を出さねぇからだろ!」


「怪我人相手に本気を出せるか!」


「敵の心配してんじゃねぇ!」


「今のお前は敵じゃない!」


「俺が斬るって言ってんだ。なら敵だろうが!」


 酒菜がさらに力を込める。


 傷口から流れた血が、和真の服へ落ちた。


 和真は右足を酒菜の腹へ当て、そのまま押し上げる。


 酒菜の身体が宙へ浮いた。


 力任せに蹴り飛ばさず、少し離れた砂の上へ落とす。


 その間に立ち上がった和真は、剣を構え直した。


「もうやめろ。これ以上続けたら、本当に倒れるぞ」


「だから何だ」


「傷が開いてる」


「見りゃ分かる」


「分かってるなら――」


「まだ刀を握れてる」


 酒菜は自分の右手へ視線を落とした。


 血に濡れた指は、今も刀の柄を強く握っている。


「足も動く。目も見えてる。だったら、まだ戦える」


「戦えるかどうかを聞いてるんじゃない」


「同じだろうが」


「違う」


「俺にとっちゃ同じなんだよ」


 短く言い切ると、酒菜は刀を肩へ担ぐように構えた。


 呼吸は大きく乱れている。


 それでも、下がろうとはしなかった。


 和真は剣を握る手に力を込める。


 戦い慣れている。


 技術も判断も一流と言っていい。


 だからこそ、違和感があった。


 酒菜は、和真の攻撃が見えていても避けようとしない時がある。


 避けられないのではない。


 自分も傷を負う代わりに、相手へ一撃を届かせる道を迷わず選んでいる。


 勝つためなら、そういう戦い方が必要なこともある。


 和真も異世界で何度か経験してきた。


 だが、酒菜はその選択をあまりにも簡単に繰り返していた。


 まるで、自分の傷だけは数に入れていないように。


「何だ、その顔は」


 酒菜が不機嫌そうに言う。


「いや」


「言いたいことがあるなら言え」


「お前の戦い方は気に入らない」


「あ?」


「自分の身体を雑に使いすぎだ」


「敵に説教される筋合いはねぇ」


「それで勝てても、お前が倒れたら意味がないだろ」


「立ってる奴が勝ちだ」


「今にも倒れそうだけどな」


「だったら倒してみろ」


 酒菜の右足が、砂を強く踏み締める。


 再び踏み込もうとした瞬間、その膝がわずかに沈んだ。


 力が抜けかけた身体を、刀を砂へ突き立てることで支える。


「ほら、限界だ」


「……まだだ」


「十分だろ」


「まだ終わってねぇ」


 酒菜は刀を支えにしながら立ち上がった。


 腹部と右足から流れる血が、足元の砂を濡らしていく。


 左肩に残る古い傷跡も、右目の周囲を走る傷も変わっていない。


 どちらも、今の戦いで負った傷ではなかった。


 長い年月を経て、酒菜の身体の一部となった傷だ。


 新しい傷だけが増え続けている。


「後ろへ下がるくらいなら、前で倒れた方がましだ」


 酒菜が吐き捨てるように言った。


 和真は一瞬だけ、その顔を見つめた。


 怒っているように見える。


 苛立っているようにも見える。


 しかし、その奥にあるものまでは読み取れなかった。


「そうか」


 和真は静かに息を吐いた。


「だったら、もう手加減はやめる」


「やっとその気になったか」


「勘違いするな。斬るつもりはない」


「まだ言ってんのか」


「今から、お前が無茶をする暇もないくらい早く終わらせる」


 酒菜の眉がぴくりと動く。


「言いやがったな」


「これ以上長引かせたら、治せるものも治せなくなる」


「やれるもんならやってみろ」


 刀を砂から引き抜き、再び構える。


 その時だった。


 和真は周囲の異変に気づいた。


 砂浜の端に生えていた草が、風もないのに酒菜の方へ傾いている。


 葉から少しずつ色が失われ、力なく垂れ下がっていた。


 砂の中にいた小さな生き物たちも、酒菜から逃げるように海側へ移動している。


 何より、酒菜の周囲を漂っていた精霊たちが落ち着きを失っていた。


 淡い光が揺れながら、和真へ助けを求めてくる。


「これは……」


 和真は自分の身体へ意識を向けた。


 ごくわずかだが、体内にある力が酒菜へ流れている。


 吸い取ろうとしている様子はない。


 酒菜自身も制御できていないのだろう。


 本人の意思とは関係なく、周囲の生命から力を奪っている。


 酒菜が険しい顔をする。


「気づいたか」


「お前の力か?」


「近くにいれば、少しずつ身体が重くなる。そのまま続けりゃ、立っていられなくなるぞ」


「先に言えよ」


「言ったところで、てめぇは逃げねぇだろ」


「分かってるじゃないか」


「馬鹿か、てめぇは」


「それもよく言われる」


 和真は苦笑しながら、周囲の精霊たちへ呼びかけた。


「悪い。少しだけ手を貸してくれ」


 風の精霊が砂浜を囲む。


 水の精霊が海から集まり、二人の周囲に薄い膜を作った。


 酒菜へ流れようとしていた生命の力が遮られる。


 色を失いかけていた草が、ゆっくりと元へ戻っていった。


 酒菜が目を見開く。


「てめぇ、何をした」


「周りから力を吸わないようにしただけだ」


「そんな簡単に――」


「これで遠慮する理由が一つ減った」


 和真は剣を下げた。


 構えを解いたわけではない。


 余計な力を抜き、本来の自分の動きへ戻るためだった。


 普段、和真は自分の力を何重にも抑えている。


 異世界で身につけた身体能力も魔力も、そのまま使えば周囲へ大きな被害を出してしまう。


 現代日本で暮らすため、自分でも気づかないほど自然に力を閉じ込める癖がついていた。


 今、その抑えを一つずつ外していく。


 一つ。


 足元の砂がわずかに沈む。


 二つ。


 和真を中心に空気が震え始める。


 三つ。


 沖から押し寄せた波が、砂浜へ届く前に大きく割れた。


 夜の砂浜を漂っていた精霊たちが、一斉に和真の周囲へ集まる。


 色とりどりの淡い光が舞い、暗かった海岸を照らし出した。


 酒菜の赤い髪が、吹き荒れる風に大きくなびく。


「な……」


 酒菜が初めて後ずさった。


 刀を握る右手が、わずかに震えている。


 身体が、本能で逃げろと訴えているのだろう。


 和真は剣を下げたまま、酒菜を見つめた。


「これが、俺の本来の力だ」


「……冗談だろ」


「今なら、まだやめられる」


 酒菜は答えなかった。


 右手に力を込め、震えを無理やり押さえ込む。


 一度だけ大きく息を吐き、刀を正眼に構え直した。


 その顔には確かに恐怖が浮かんでいた。


 しかし次の瞬間、酒菜は血に濡れた唇の端を持ち上げる。


「上等じゃねぇか」


 退くつもりはない。


 和真は、その構えを見て剣を持ち上げた。


「行くぞ、酒菜」


「呼び捨てにすんな。ぶった斬るぞ」


 二人の視線が、再び正面からぶつかる。


 直後、砂浜を揺らすほどの衝撃とともに、和真の姿が消えた。


 酒菜の目では、その動きを追えなかった。


 それでも、動きは止まらない。


 和真が砂を蹴った音。


 頬を撫でた風。


 足元を走った、わずかな振動。


 酒菜は迷うことなく右へ振り向き、刀を立てた。


 次の瞬間、和真の剣が刀へ激突する。


「ぐっ……!」


 耳をつんざく金属音が響いた。


 酒菜の身体が砂の上を押し流される。


 右足を深く沈めて踏ん張るが、勢いを止められない。


 十歩近く後退したところで、ようやく刀を横へ傾けた。


 和真の剣が滑り、酒菜の身体から離れる。


 だが、その時にはもう、和真が次の位置へ移っていた。


 左側から剣が迫る。


 酒菜は振り返らない。


 身体を半回転させながら刀を背後へ回し、刃を受け止めた。


 二度目の衝撃に、右腕が大きく沈む。


 和真が剣を引く。


 酒菜も刀を戻そうとしたが、その動きより先に三撃目が迫っていた。


 首元。


 酒菜は上体を反らしてかわす。


 四撃目は右手。


 刀の鍔で受ける。


 五撃目は足元。


 砂を蹴って跳び越える。


 着地した瞬間、正面から六撃目が突き出された。


「おらぁ!」


 酒菜が右手一本で刀を振り上げる。


 剣の切っ先が上へ弾かれた。


 そのまま腰をひねり、横薙ぎの一撃を返す。


 和真は半歩だけ後ろへ下がった。


 刀の切っ先が胸元を通り過ぎる。


 酒菜は追わない。


 右足を引き、刀を身体の前へ戻した。


 構えは崩れていなかった。


 和真が力を解放してから、まだ数秒しか経っていない。


 その短い間に、剣と刀は六度もぶつかり合っていた。


「見えてないのに、よく受けられるな」


「目だけで戦う馬鹿がいるか」


 酒菜は息を乱しながら答えた。


 右腕は小さく震えている。


 まともに受け続ければ、長くは持たない。


 それでも刀の切っ先だけは、正確に和真へ向けられていた。


「足音も、風も、殺気も消せてねぇ。来る場所が分かりゃ、見えなくても刀は合わせられる」


「なるほど」


「感心してる場合か!」


 酒菜が前へ出た。


 自分から和真の間合いへ踏み込み、刀を振り下ろす。


 和真は剣で受け止めず、身体を横へずらした。


 刃が空を切る。


 酒菜は振り下ろした勢いを止めない。


 刀の切っ先が砂へ触れる寸前で手首を返し、斬り上げへつなげた。


 和真は剣の腹で受け流す。


 弾かれた刀が酒菜の右側へ流れる。


 その隙を狙い、和真が踏み込んだ。


 剣の柄頭を、酒菜の右肩へ打ち込もうとする。


 酒菜は刀を戻さなかった。


 避けることもしない。


 右肩を前へ突き出し、和真の一撃を受けるより先に、流された刀を背後から回そうとする。


 自分の肩を差し出し、和真の脇腹を斬るつもりだった。


「またそれか!」


 和真は攻撃を途中で止め、大きく身をひねった。


 酒菜の刀が服のすぐ横を通り抜ける。


 柄頭を受けるはずだった右肩は、何にも触れなかった。


 酒菜が体勢を立て直すより早く、和真は数歩離れた場所へ移動している。


「どうした」


 酒菜が刀を構え直す。


「今ので俺の肩を潰せただろうが」


「代わりに俺も斬られてた」


「戦ってんだ。当然だろ」


「当然じゃない。今のは避けられたはずだ」


「避けたら、てめぇに刀が届かねぇ」


 酒菜は、それだけ答えた。


 右肩には今夜負った傷がある。


 そこへ攻撃を受ければ、刀を握れなくなる可能性もあった。


 分かっていなかったはずがない。


 それでも、迷わず自分の肩を差し出した。


 和真は剣を構えたまま、酒菜を見つめる。


 酒菜の技量なら、危険を冒さずに次の機会を待つこともできた。


 わざわざ一撃ですべてを決めようとする必要はない。


 無謀なだけの戦い方ではなかった。


 自分が傷つくことを、最初から計算へ入れていない。


 そう見えることが、和真には引っかかった。


「何だ、その顔は」


「お前の戦い方が気に入らない」


「あ?」


「自分の身体を雑に使いすぎだ」


「敵に説教される筋合いはねぇ」


「それに、俺は敵じゃない」


「刀を持って向かい合ってる奴が、何言ってやがる」


「斬りかかってきたのは酒菜だろ」


「だったら、さっさと俺を止めてみろ!」


 酒菜が砂を蹴った。


 正面から一気に距離を詰める。


 右足の傷から血が飛び散った。


 速度は先ほどより落ちている。


 それでも、刀に込められた力は衰えていない。


 和真の首を狙い、横薙ぎに振り抜く。


 和真は剣で刀を受け止めた。


 酒菜は押し合わない。


 刃が触れた瞬間に刀を引き、今度は斜め下から斬り上げる。


 和真が受け流す。


 酒菜は手首を返し、振り下ろしへつなげた。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 酒菜は右腕と腰の回転を連動させ、途切れることなく刀を振るう。


 片腕で扱っているとは思えないほど滑らかな連撃だった。


 和真も後ろへ下がらない。


 剣をわずかに傾け、最小限の動きですべての刃を受け流していく。


 金属音が連続して鳴り響く。


 刀が弾かれるたび、酒菜は足の位置を変え、身体の向きを入れ替える。


 左腕がない側へ和真を誘い込みながら、右手の刀が最短で届く位置を保ち続けていた。


 その動きには、迷いも不自然な偏りもない。


 片腕になった身体で、数え切れないほど刀を振ってきた者の動きだった。


 十度目の衝突で、酒菜の刀が大きく弾かれた。


 右腕が上へ跳ね上がる。


 和真の剣が、そのまま酒菜の喉元へ迫った。


 酒菜は身体を沈める。


 避けたのではない。


 剣の下へ潜り込み、自ら和真の懐へ飛び込んできた。


「っ!」


 右手一本で刀を引き戻し、和真の脇腹へ突き出す。


 和真は剣を振り抜かなかった。


 足を止め、空いている左手で刀の腹を押す。


 切っ先が横へ逸れた。


 同時に酒菜の右手首をつかもうとする。


 酒菜は素早く刀を引き、手首を返した。


 和真の左手を斬り払う。


 和真は指先が触れる寸前で手を引いた。


 そのわずかな間に、酒菜は再び距離を取る。


「しぶといな」


「誰に言ってやがる」


 酒菜は強気に返した。


 しかし、身体は限界に近づいていた。


 右肩が上下し、呼吸もさらに荒くなっている。


 白い着物に広がる赤い染みも大きくなっていた。


 右足へ力を入れるたび、膝がわずかに揺れる。


 それでも、酒菜は刀を下ろさなかった。


「もう十分だ」


「俺はまだ立ってる」


「次で終わらせる」


「やれるもんなら――」


 酒菜が言い終えるより先に、和真が動いた。


 正面。


 酒菜が刀を上げる。


 和真は剣を振らない。


 酒菜の目前で急に方向を変え、左側へ回り込んだ。


 誘われたと判断した酒菜は、身体を回転させながら右手を背後へ回す。


 左側へ刀を届かせるため、何度も使ってきた動きだった。


 だが、和真はそこにもいない。


「なっ――」


 酒菜の背後から、和真の剣が振り下ろされた。


 狙ったのは身体ではない。


 刀の根元。


 鍔のすぐ上へ、剣の腹を正確に叩きつける。


 衝撃が刀を通り、酒菜の右手へ集中した。


「ぐっ!」


 痺れた指が開く。


 刀が右手を離れ、宙へ舞い上がった。


 酒菜は振り返った。


 刀を失ったというのに、後ろへは下がらない。


 右手を握り締め、和真の顔へ拳を放つ。


 和真は首を傾けてかわした。


 空振りした拳が頬の横を抜ける。


 酒菜はさらに踏み込もうとする。


 右足が身体を支え切れず、膝が崩れた。


 それでも倒れながら右手を伸ばし、落ちてくる刀をつかもうとする。


「まだ……終わってねぇ!」


「終わりだ」


 和真は剣から左手を離した。


 倒れ込んできた酒菜の身体を左腕で受け止める。


 同時に、右手に握った剣の柄頭を胸元へ押し当てた。


 傷を増やさないよう、力を外へ逃がさず、意識だけを断つ程度に抑える。


 短く、鋭い衝撃が酒菜の身体を抜けた。


「か……っ」


 酒菜の身体から力が抜ける。


 伸ばされていた右手が落ちた。


 宙を舞っていた刀が、二人の横へ突き刺さる。


 和真は剣を手放し、酒菜の身体を抱え直した。


「本当に、最後まで無茶するな」


 返事はない。


 酒菜は完全に意識を失っていた。


 力を解放してから決着まで、数分も経っていない。


 その短い間に、二人の周囲には無数の足跡と刀傷が刻まれていた。


 和真は酒菜を砂の上へ静かに寝かせる。


 裂けた着物の下では、腹部と右足の傷が大きく開いていた。


 首元や右手首には、何かで強く締めつけられたような痕も残っている。


 一方、失われた左腕の傷は完全に塞がっていた。


 右目の周囲を走る傷跡も古い。


 どちらも、今夜負ったものではない。


「……まずは、こっちだな」


 事情を聞くのは、命をつないだ後でいい。


 和真は酒菜の傍らへ膝をつき、周囲を漂う精霊たちへ呼びかけた。


「みんな、力を貸してくれ」


呼びかけに応じ、周囲にいた精霊たちが酒菜のもとへ集まった。


 風の精霊が髪や着物に付着した砂を払い、水の精霊が傷口を洗い流していく。


 続いて、淡い緑色の光が酒菜の全身を包んだ。


 大きく開いていた腹部の傷が、ゆっくりと塞がっていく。


 血の流れていた右足も、裂けていた皮膚が元の形へ戻った。


 肩や背中に刻まれた新しい傷が消え、首元と右手首に残っていた痕も薄くなっていく。


 荒れていた呼吸が、少しずつ穏やかになった。


 流れ出た血や消耗した体力までは、完全には戻らない。


 それでも、命に関わる傷はすべて塞がった。


「これなら大丈夫そうだな」


 和真は安堵の息を吐いた。


 しかし、酒菜の身体に残るすべての傷跡が消えたわけではなかった。


 右目の周囲を走る古い傷は、そのままだった。


 失われた左腕も戻っていない。


 精霊たちの光が左肩へ集まったものの、古い傷跡の上を撫でるように揺れるだけだった。


「昔の傷は、治せないのか?」


 和真の問いかけに、小さな光が上下する。


 今の酒菜の身体は、すでに左腕を失った状態で安定している。


 古い傷を消したり、失った腕を作り直したりすることは、精霊たちの治癒でも難しいらしい。


「分かった。無理をさせて悪かった」


 光が左右に揺れた。


「助かったよ。ありがとう」


 精霊たちは酒菜の周囲を一度だけ回り、夜の砂浜へ散っていった。


 酒菜の意識は戻っていない。


 だが、顔から苦痛の色は消えていた。


 和真が酒菜を抱き上げようとした、その時だった。


「和真!」


 遠くから、聞き慣れた声が響いた。


 複数の足音が、砂を蹴りながら近づいてくる。


 振り返ると、浴衣姿のフェンリスがこちらへ駆けてきていた。


 その後ろには、ひかげ、みゆ、リディア、あおい、ピピも続いている。


 全員、眠っていたところを慌てて飛び出してきたらしい。


 髪は整っておらず、浴衣の帯も少し乱れていた。


「みんな、起きたのか?」


「起きたのかじゃないよ!」


 フェンリスは和真の前で足を止めると、すぐにその身体を確認した。


「怪我は!?」


「してない。服を少し斬られただけだ」


「本当に?」


「ああ」


 フェンリスは和真の肩や脇腹へ視線を走らせた。


 服は何か所か裂けているものの、その下に傷はない。


 それを確認して、フェンリスは大きく息を吐いた。


「よかった……」


「心配かけたな」


「本当だよ! 急に和真の力を感じたんだから!」


 普段は抑えられている和真の力が、離れにまで届いた。


 酒を飲んで眠っていたフェンリスたちも、その強い気配に驚いて目を覚ましたらしい。


「目が覚めたら和真はいないし、外から大きな音が聞こえてくるし……」


「金属のぶつかる音も聞こえました」


 リディアが砂浜を見回す。


 無数の足跡。


 刃によって刻まれた深い溝。


 大きくくぼんだ砂。


 少し離れた場所には、酒菜の刀が突き刺さっている。


 最後にリディアは、砂の上に横たわる酒菜へ目を向けた。


「ここで戦闘があったのですね」


「戦ってたの!?」


 フェンリスが目を見開く。


 みゆの二本の尻尾も大きく膨らんだ。


「和真はなんで外に出たの!」


「夜風を浴びようかと、、、」


「夜風に当たってくるだけじゃなかったの?」


「そのつもりだったよ」


「だったら、どうして知らない人が倒れてるのさ!」


「途中で、今まで感じたことのない魔力を察知したんだ」


 和真は眠っている酒菜へ視線を落とした。


「気になって確かめに来たら、酒菜がここにいた」


「酒菜?」


「この人の名前だ」


「話をしたの?」


「少しだけな。俺が来た時には、すでに傷だらけだった。刀にも血が付いていたから、ここへ来る前に誰かと戦っていたんだと思う」


「それで、どうして和真と戦うことになったの?」


「事情を聞こうとしたら、いきなり斬りかかってきた」


 フェンリスとみゆが、そろって酒菜を見る。


 意識を失っている今は静かに眠っているが、裂けた着物と血に濡れた刀を見れば、和真の話を疑う余地はなかった。


「この人が斬りかかってきたのは分かったよ」


 フェンリスが再び和真を見る。


「でも、どうして僕たちを呼ばなかったの?」


「最初から戦うと分かっていたわけじゃない。夜風に当たるだけのつもりだったから、みんなを起こす必要はないと思ったんだ」


「戦いが始まってからは?」


「酒菜から目を離す余裕がなかった」


「連絡くらいできたでしょ?」


「できなくはなかったけど……」


「なら、呼べたじゃん!」


 フェンリスの耳が勢いよく逆立った。


 みゆも和真へ詰め寄ってくる。


「僕たちが酔って寝てたから、起こすのを遠慮したの?」


「それも少しはある」


「遠慮するところが違うよ!」


「みんな、かなり飲んでただろ。まともに動けないかもしれないと思ったんだ」


「だからって、一人で斬り合う必要はないでしょ!」


「俺なら止められると思ったから」


「またそれ!」


 みゆの尻尾がさらに膨らむ。


「和真……」


 ひかげが二人の間から、おずおずと顔をのぞかせた。


「何でしょう」


「夜風に当たりに行くことは……悪くありません」


「うん」


「知らない魔力を調べようとしたことも……和真なら、仕方がないと思います」


「分かってくれるか」


「でも、危ないと分かってからは……私たちにも知らせてください」


「はい」


「酔っていても……声をかけてください」


「でも、戦える状態じゃなかったら危ないだろ」


「一人で行ってしまう方が……心配です」


 ひかげは和真の裂けた服を見つめた。


「今回は怪我がなかったからよかったです。でも、次も無事とは限りません」


「……ごめん」


「正座してください」


「砂浜で?」


「してください」


「はい」


 和真は酒菜を起こさないよう、静かに砂へ寝かせ直した。


 その隣で正座すると、両膝が少しだけ砂へ沈む。


「カズマ、怒られてる?」


 遅れて追いついたピピが、眠そうな顔で尋ねた。


「見れば分かるだろ」


「分かる!」


 ピピは片方の翼を上げた。


「カズマ、一人で戦ったから怒られてる!」


「そうだよ」


「一人はダメ!」


「ピピにまで怒られた……」


 和真の肩が落ちる。


 あおいは正座する和真の隣へ膝をついた。


「そなたがこの者を助けようとしたことは、悪いとは思わぬ」


「ありがとう」


「じゃが、そなたの身を案じておる者がいることを忘れてはならぬぞ」


「うん」


「このような状況になった時は、一人で抱え込まず、わらわたちにも知らせるのじゃ」


「分かった」


「本当に?」


 フェンリスが和真の前へしゃがみ込む。


「本当に分かった」


「前にも同じことを言ったよね?」


「今度こそ約束する」


「危ない時は絶対に呼んで」


「ああ。約束する」


 ようやくフェンリスが和真から離れた。


 リディアは酒菜の前へしゃがみ、首元へ指を当てた。


「脈拍と呼吸は安定しています。生命に危険はありません」


「精霊たちに傷を治してもらった」


「治癒そのものは問題ありません。しかし、失った血液と体力までは戻っていないようです。しばらく安静にする必要があります」


「だったら、旅館へ運ぼう」


 和真が立ち上がろうとする。


「まだ終わってないよ」


 みゆに止められ、和真は再び正座へ戻った。


「まだ何かあるのか?」


「周りを見てよ」


 和真は改めて砂浜を見回した。


 戦いによって砂がえぐれ、刀の通った跡が何本も残っている。


 和真が力を解放した場所は、特に大きくくぼんでいた。


「……確かに、このままにはできないな」


「朝になったら、宿泊客が来る可能性があります」


 リディアが旅館の方角へ目を向ける。


「人に見つかる前に修復してください」


「分かった」


 和真は周囲にいる精霊たちへ呼びかけた。


 風が砂浜の上を走り、舞い上がった砂が深い溝を埋めていく。


 地の精霊が大きなくぼみを押し上げ、水の精霊が波を導いて血の跡を洗い流した。


 しばらくすると、砂浜に残っていた戦いの跡はほとんど見えなくなった。


「これなら大丈夫だろ」


「最初から壊さないで戦ってください」


 リディアが淡々と言う。


「それはさすがに無理だよ」


「なら、戦わないでください」


「俺が始めたわけじゃないんだけどな……」


          ◇ ◇ ◇


 酒菜を砂浜へ置いておくわけにもいかず、一行は旅館の離れへ戻ることにした。


 砂へ突き刺さっていた酒菜の刀は、和真が空間へ収納する。


 酒菜の二本の角は、あおいの羽織で覆った。


 血に濡れた着物の上から大きな布を巻き、遠くから見ただけでは傷ついた鬼人だと分からないようにする。


「俺が運ぶよ」


 和真は酒菜の背中と膝裏へ腕を回し、その身体を抱き上げた。


 長身の酒菜は決して小柄ではない。


 それでも、和真が想像していたより軽く感じられた。


 大量に血を失っているせいかもしれない。


「急ごう」


 まだ夜が明けるまでには時間がある。


 周囲を警戒しながら旅館へ戻った一行は、誰にも見つかることなく離れへ入った。


 和真は空いていた布団へ酒菜を寝かせる。


 その直後、あおいが和真の肩へ手を置いた。


「そなたは向こうを向いておれ」


「どうして?」


「血に濡れた着物を着替えさせるのじゃ」


「ああ、分かった」


 和真が背を向けると、フェンリス、ひかげ、あおいが酒菜の着替えを始めた。


 みゆは新しい浴衣や手拭いを用意し、リディアは診察に使う道具を取り出している。


 ピピは部屋へ戻った安心からか、入り口の近くで座ったまま眠りかけていた。


「もう振り向いていいよ」


 みゆに声をかけられ、和真が振り返る。


 酒菜は旅館の浴衣へ着替えさせられ、布団へ寝かされていた。


 左側の袖は邪魔にならないよう、畳んで帯の内側へ収められている。


 汚れていた赤い髪も拭かれ、枕の上へ広がっていた。


 角を隠す布だけは、そのまま巻かれている。


 リディアが酒菜の状態を確認する。


「先ほどより呼吸が安定しています。すぐに目を覚ます可能性は低いでしょう」


「どのくらいで起きそうだ?」


「和真がどれほどの力で気絶させたかによります」


「意識だけを失わせるように加減したよ」


「和真の加減は信用できません」


「ひどくないか?」


「砂浜を見た後では、妥当な評価です」


 和真は何も言い返せなかった。


「この人、目を覚ましたらどうするの?」


 みゆが眠る酒菜を見下ろす。


「事情を聞く」


「また斬りかかってきたら?」


「刀は俺が預かってる。今度は、できる限り話し合うよ」


「できる限り?」


「話が通じなかったら止めるしかないだろ」


「また一人で戦わないでよ」


「今度はみんなも同じ部屋にいるから大丈夫だ」


「そういう問題じゃないんだけどな」


 みゆが呆れたように息を吐く。


「念のため、目を覚ますまでは誰かが見ていた方がいいでしょう」


 リディアが道具を片付ける。


「自分が見張ります」


「僕も起きてる」


 フェンリスが酒菜の右側へ腰を下ろした。


「二人とも、酒を飲んでたんだから寝た方がいい。俺が見てるよ」


「和真君は駄目です」


 ひかげに止められた。


「どうして?」


「一人にしたら……また勝手なことをしそうだからです」


「もうしないって約束しただろ」


「今夜は……まだ信用できません」


「ひかげまで……」


 和真が肩を落とす。


「僕も見張る!」


 ピピが勢いよく立ち上がった。


 しかし、すぐに身体が左右へ揺れ始める。


「ピピは寝た方がよい」


「僕、寝ない……」


 あおいが九本の尻尾でピピの身体を支え、そのまま近くの布団へ運ぶ。


「もう目が閉じておるぞ」


「閉じてない……」


 そう言いながら、ピピは布団へ入ってすぐに眠ってしまった。


 騒ぎによって驚きはしたものの、酒を飲んでいた一同には眠気が残っている。


 ひかげとみゆも、酒菜から離れた布団へ横になることになった。


 あおいはピピのそばへ座り、その翼へ布団を掛ける。


 結局、酒菜の様子はリディアとフェンリスが交代で見ることになった。


 和真も、少し離れた布団へ向かう。


 横になる前に、もう一度だけ酒菜を見た。


 右手は布団の上へ置かれている。


 刀を探すように指先がわずかに動いたが、目を覚ます様子はない。


 元の世界で何があったのか。


 誰と戦い、なぜ傷だらけでこの世界へ現れたのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 しかし、それは酒菜が目を覚ましてからだ。


「起きたら、普通に話してくれるといいんだけどな」


「無理だと思う」


 フェンリスが即座に答えた。


「どうして?」


「和真のことを斬ろうとした人でしょ?」


「それはそうだけど」


「絶対にひと騒動あるよ」


 眠っている酒菜を見つめ、和真は小さく息を吐いた。


「……否定できないな」


 夜明けまでは、まだ少しだけ時間が残っていた。


         ◇ ◇ ◇


「……ここは」


 低い声が、静かな離れに響いた。


 布団の中で、酒菜がゆっくりと右目を開く。


 見知らぬ天井を見上げたあと、自分の身体に掛けられた布団へ視線を落とした。


 血に濡れていた戦闘着物ではない。


 見覚えのない浴衣を着せられている。


 酒菜は右手で額へ巻かれた布を外すと、勢いよく上体を起こした。


「動かない方がいいですよ」


 すぐ近くに座っていたリディアが声をかける。


 酒菜の右手が、反射的に刀を探した。


 しかし、布団の周囲に刀はない。


「俺の刀はどこだ」


「和真が預かっています」


「和真……?」


 酒菜の視線が、少し離れた布団で眠る和真へ向けられる。


 砂浜での戦いを思い出したのか、右目が鋭く細められた。


「てめぇ!」


 怒鳴り声が部屋中へ響いた。


「うわっ!」


 和真が布団を跳ね上げて起きる。


 その声に驚き、眠っていた全員も次々と身体を起こした。


「何!? また戦い!?」


 フェンリスは立ち上がると、和真を守るように前へ出た。


 みゆも二本の尻尾を逆立てながら周囲を見回している。


 ひかげとあおいも酒菜へ視線を向け、ピピだけは状況が分からないまま布団の上で翼を広げていた。


「何? 何があったの?」


「酒菜が目を覚ましたみたいだ」


 和真が答える。


「起きたの?」


 ピピは安心したように翼を下ろした。


「よかった!」


「よくねぇ!」


 酒菜は布団を払い、和真を睨みつける。


「俺の刀を返せ!」


「返したら、また斬りかかってくるだろ」


「当たり前だ!」


「だったら返せない!」


「勝手に決めんじゃねぇ!」


 酒菜が立ち上がろうとする。


 しかし、右足へ力を入れた途端、身体が大きく傾いた。


「危ない!」


 近くにいたひかげが、倒れかけた酒菜を支える。


「触るな!」


「でも……倒れます」


「放せ。これくらい何ともねぇ」


「何ともない人は……立っただけで倒れません」


「うるせぇ!」


 酒菜はひかげの腕を振り払おうとした。


 だが、右腕にも十分な力が入らない。


 ひかげは酒菜を布団へ座らせ、背中へ枕を入れた。


「まだ休んでください」


「余計な世話だ」


 酒菜は苛立ったように吐き捨てると、右手で腹部へ触れた。


 何度も斬られ、血を流していたはずの場所に傷は残っていない。


 続いて、右足や肩にも触れる。


 痛みがないことを確認した酒菜は、わずかに眉を寄せた。


「てめぇが治したのか」


「精霊たちに頼んだ」


「どうしてだ」


「そのまま放っておいたら死んでたかもしれないから」


「俺がどうなろうが、てめぇには関係ねぇだろ」


「目の前で倒れられたら関係ある」


「俺は助けろなんて頼んでねぇ」


「頼まれなくても助けるよ」


「ふざけんな!」


 酒菜が和真を怒鳴りつける。


「勝手に刀を奪って、勝手に傷まで治しやがって! 俺に恩でも売るつもりか!」


「そんなつもりはない」


「だったら、さっさと刀を返して俺を外へ出せ!」


「その身体でどこへ行くのさ」


 フェンリスが口を挟んだ。


 酒菜の鋭い視線が向けられる。


「誰だ、てめぇ」


「フェンリス。和真の仲間だよ」


「仲間?」


「そう。それから、和真を斬ろうとしたこと、僕はまだ許してないから」


「勝手に近づいてきたのは、そいつだろうが」


「傷だらけの酒菜を心配しただけでしょ!」


「俺は心配しろなんて言ってねぇ!」


「頼まれなきゃ心配しちゃいけないの?」


「少なくとも俺には必要ねぇ!」


 フェンリスの耳が逆立つ。


「何それ! 和真が助けなかったら、今頃どうなっていたか分からないんだよ!」


「だから、余計な真似だって言ってんだろ!」


「助けてもらって、その態度は何なのさ!」


「ああ!?」


「何!」


 二人が正面から睨み合う。


「落ち着いてくれ」


 和真が間へ入ろうとする。


「和真は黙ってて!」


「てめぇは引っ込んでろ!」


 二人から同時に怒鳴られた。


「……はい」


 和真は素直に一歩下がった。


「和真、弱い」


 ピピが小さく呟く。


「今はそういう話じゃないから」


「でも、二人に負けた」


「口喧嘩に勝ち負けはないんだよ」


「そなたたちも、その辺にしておくのじゃ」


 あおいがフェンリスと酒菜の間へ進み出た。


「夜明け前じゃ。他の客にまで声が届いてしまうぞ」


「先に怒鳴ったのはこいつだよ」


「俺に喧嘩を売ってきたのはそっちだろうが」


「誰も喧嘩など売っておらぬ」


 あおいは酒菜の前へ腰を下ろした。


「わらわは、あおいじゃ」


「今度は狐か」


「うむ。見てのとおり、九尾の狐じゃ」


「ここは人間の国じゃねぇのか」


「その話も含め、まずは状況を整理した方がよかろう」


「俺は話すことなんざねぇ」


「では、こちらの話を聞くだけでもよい」


「断る」


「知らない場所で、何も知らないまま外へ出るつもり?」


 みゆが横から口を挟む。


 酒菜が二本の尻尾へ目を向けた。


「今度は猫か」


「僕はみゆ。猫じゃなくて猫又」


「猫には変わりねぇだろ」


「違うよ! 僕には、みゆって名前があるんだけど!」


「今聞いた」


「だったら覚えてよ!」


「気が向いたらな、猫っころ」


「猫っころ!?」


 みゆの尻尾が一瞬で膨れ上がる。


「何なの、この人!」


「朝から元気だね」


 和真が呟く。


「誰のせいだと思っておるのじゃ」


 あおいに静かに叱られ、和真は口を閉じた。


 リディアが酒菜の前へ座り、話を戻す。


「ここがどこなのか、あなたは把握していますか?」


「海の近くにある建物だろ」


「そういう意味ではありません。国や地域の名前です」


「知らねぇよ」


「日本という国です」


「ニホン?」


 酒菜の反応を見て、和真たちは顔を見合わせた。


 予想していたとおり、その名前に心当たりはないらしい。


「あなたのいた国の名前は?」


「鬼道国だ」


「聞いたことがありません」


「俺だってニホンなんて国は知らねぇ」


「昨夜、ここへ来る前はどこにいた?」


 和真が尋ねる。


 酒菜の表情が変わった。


 右手が無意識に首元へ動く。


 薄く残っている痕へ指が触れたところで、その動きが止まった。


「……言う必要はねぇ」


「無理に詳しく話さなくてもいい。ただ、どうやってここへ来たのか知りたいんだ」


「知るか」


 酒菜は顔を背けた。


「捕まってた場所から逃げた。追ってきた連中を斬って、気づいたらあの砂浜にいた。それだけだ」


「捕まっていたのですか?」


 リディアの視線が、酒菜の首と右手首に残る痕へ向けられる。


「これ以上は聞くな」


 酒菜の声が低くなる。


 その言葉には、これまでとは異なる強い拒絶が込められていた。


「分かった。今は聞かない」


 和真が答えると、酒菜が意外そうに右目を向けた。


「ただ、これだけは知っておいてほしい。鬼道国という国は、この世界には存在しない可能性が高い」


「あ?」


「俺たちの知っている地図には載っていない。酒菜は、別の世界から来たんだと思う」


「別の世界だと?」


「俺も昔、異世界へ飛ばされたことがある。ここにいるみんなも、ほとんどが別の世界から来た」


 酒菜は部屋の中を見回した。


 狼の耳と尻尾を持つフェンリス。


 牛の角と耳を持つひかげ。


 二本の尻尾を持つみゆ。


 機械の腕を持つリディア。


 九本の尻尾を持つあおい。


 人の腕の代わりに翼を持つピピ。


 最後に、和真へ視線を戻す。


「てめぇが集めたのか」


「集めたつもりはない。困っているところで出会っただけだ」


「それを集めたって言うんじゃねぇのか」


「違うと思う」


「僕は酒菜に同意する」


 みゆが即座に手を上げた。


「僕も!」


 意味を理解しているのか分からないまま、ピピも片方の翼を上げる。


「わらわも否定はできぬのう」


「自分も同意見です」


「私も……そう思います」


 ひかげまで小さく手を上げた。


「ひかげまで?」


 和真が最後の望みを託すようにフェンリスを見る。


 フェンリスはまだ酒菜を警戒しながら、頬を膨らませていた。


「僕に聞かないで」


「味方がいない……」


「日頃の行いだろ」


 酒菜が鼻で笑った。


「とにかく、酒菜がどうやってこの世界へ来たのかは、俺たちにも分からない」


「だったら、帰る方法を知ってる奴を探す」


「どこを探すつもりだ?」


「知るか。外へ出りゃ、そのうち分かるだろ」


 酒菜は再び布団から立ち上がろうとした。


 今度は右手で柱をつかみ、ゆっくりと身体を起こす。


 しかし、立ち上がった直後に右膝が震えた。


 力の抜けた身体が横へ傾く。


 ひかげが素早く動き、酒菜の背中を支えた。


「触るなと言っただろ!」


「放したら……倒れます」


「倒れたら、また立てばいい」


「立てていません」


「うるせぇ!」


「もう少し休んでください」


「俺がどうなろうと、俺の勝手だ!」


「よくありません」


「何でだよ!」


「目の前で倒れられたら……心配します」


 酒菜が言葉を失う。


 ひかげは酒菜を布団へ戻すと、背中へ枕を入れ直した。


「少なくとも、歩けるようになるまでは休んでください」


「……揃いも揃って、何なんだよ」


「ただのお人好しの集まりです」


 リディアが答えた。


「今すぐ外へ出ても、あなたには行く場所がありません。日本の通貨も、身元を証明するものも持っていない。現在地すら把握していません」


「金なら、その辺で稼ぐ」


「どうやって?」


「仕事を探す」


「角と失われた腕を隠さずに歩けば、騒ぎになる可能性があります」


「近づいてきた奴をぶっ飛ばせばいいだろ」


「警察に捕まります」


「けいさつ?」


「この国の治安を守る組織です」


「そいつらもぶっ飛ばす」


「さらに大勢で来ます」


「全員ぶっ飛ばす」


「最終的には、和真があなたを止めるでしょう」


 酒菜の視線が和真へ向く。


 砂浜での戦いを思い出したのか、露骨に嫌そうな顔をした。


「……面倒な国だな」


「非常に面倒です」


「リディアまで同意するなよ」


 和真が思わず口を挟む。


「少なくとも、状況を把握するまでは、自分たちと行動することを勧めます」


「俺を見張りてぇだけだろ」


「それもあります」


「正直だな、てめぇ」


「嘘をつく必要がありませんので」


 酒菜は顔をしかめた。


 反論しようとしたものの、行く当てがないことは本人にも分かっているのだろう。


 開いた口からは、何も出てこなかった。


 その時だった。


「お腹すいた」


 ピピが突然呟いた。


「ピピ、今は大事な話をしてるんだけど」


「でも、お腹すいた!」


 みゆに注意されても、ピピは自分の腹へ翼を当てる。


 その視線が、布団の上に座る酒菜へ向いた。


「シュナも、お腹すいた?」


「別に」


 酒菜は即答した。


 直後、その腹から大きな音が鳴る。


 静かになっていた部屋中へ、はっきりと響いた。


 全員の視線が酒菜へ集まる。


 酒菜の頬が、髪と同じくらい赤くなった。


「……今のは違う」


「何が違うの?」


「腹が減った音じゃねぇ」


「でも、シュナのお腹から鳴ったよ」


「聞き間違いだ」


「僕、ちゃんと聞いた!」


「忘れろ!」


「もう一回鳴ったら、間違いじゃない?」


「鳴らねぇよ!」


 酒菜の腹が、先ほどよりも大きな音を鳴らした。


「二回鳴った!」


「うるせぇ!」


 ピピは嬉しそうに立ち上がると、卓上に置かれていた包みへ近づいた。


 旅館が夜食として用意してくれていた、小さなおにぎりが残っている。


「これ、あげる!」


「いらねぇ」


「僕の分だよ!」


「だったら、てめぇが食え」


「まだあるから、一個あげる!」


「いらねぇって言ってんだろ」


「お腹すいてると、元気になれないよ」


「余計な世話だ」


 ピピはおにぎりの包みを翼で持つことができず、その場で困ったように首を傾げた。


「カズマ、これ持って」


「分かったよ」


 和真がおにぎりを一つ取り出し、酒菜へ差し出す。


「ほら」


「いらねぇ」


「毒は入ってないぞ」


「誰も毒の心配なんざしてねぇ」


「そうか。酒菜なら最初に疑うと思った」


「てめぇは俺を何だと思ってやがる」


「知らない場所で、知らない相手から食べ物を渡されたら警戒する人」


「……毒は入ってねぇんだな?」


「やっぱり気にしてるじゃないか」


「念のためだ!」


 和真は別のおにぎりを取り、自分で一口食べた。


「これでいいか?」


 酒菜はしばらく和真を睨んでいたが、三度目に腹が鳴る前におにぎりを受け取った。


 右手だけで包みを開き、口へ運ぶ。


 一口食べたところで、その動きが止まった。


「どう?」


 ピピが期待に満ちた顔で尋ねる。


「……塩が足りねぇ」


「最初の感想がそれ?」


 みゆが呆れたように言う。


「米の握り方も強すぎる。口に入れた時にほぐれねぇだろ」


「旅館の人が作ったものに厳しくないか?」


「食い物を出すなら、もっとうまく作れ」


 文句を言いながら、酒菜は二口目を食べる。


 三口目。


 結局、途中で手を止めることなく、一つすべて食べ切った。


「おいしかった?」


「普通だ」


「もう一個食べる?」


「いらねぇ」


 再び腹が鳴る。


「食べる?」


「……残したらもったいねぇから、食ってやる」


「素直じゃないね」


 みゆが笑う。


「うるせぇ。猫っころには聞いてねぇ」


「また猫っころって言った!」


「事実だろうが」


「僕には、みゆって名前があるって言ったでしょ!」


「忘れた」


「絶対わざとだ!」


 二人の口論が始まる。


 しかし、先ほどまでとは少しだけ空気が違っていた。


 酒菜の声から、相手を遠ざけるための鋭さが薄れている。


 和真はその様子を見ながら、空になった包みを受け取った。


「なあ、酒菜」


「何だ」


「俺たちと一緒に来ないか?」


 騒がしかった部屋が静かになる。


 酒菜は二つ目のおにぎりを持ったまま、和真を見た。


「何のつもりだ」


「このまま一人で外へ出すわけにはいかない。帰る方法が見つかるまで、空色唐辛子荘で暮らせばいい」


「空色唐辛子荘?」


「俺たちが暮らしている場所だ。空いている部屋もある」


「俺を囲って、監視するつもりか」


「監視はします」


 リディアが即答した。


「リディア、少し黙っててくれ」


「必要な情報です」


「正直すぎるんだよ」


 酒菜はおにぎりから和真へ視線を戻す。


「俺は、てめぇを斬ろうとしたんだぞ」


「斬られてない」


「服は斬った」


「服なら直せる」


「次は寝首をかくかもしれねぇ」


「その時は、みんなが先に気づくと思う」


「僕たち任せなの!?」


 フェンリスが声を上げた。


「俺も気をつけるよ」


「最初からそう言って!」


「そもそも、今ここで連れて帰るって決めるの?」


 みゆが和真へ詰め寄る。


「まだ提案しただけだ」


「和真の提案は、だいたい決定と同じなんだけど!」


「部屋なら空いてるし」


「もう部屋の話まで進んでる!」


「放っておけないだろ」


「またそれ!」


 フェンリスとみゆが同時に頭を抱えた。


 リディアは酒菜の失われた左腕へ視線を向ける。


「自分は反対しません。生活するうえで、その腕を補助する道具も必要になるでしょう」


「いらねぇ」


「まだ何を作るとも言っていません」


「その目は作る気の目だろうが」


「否定はしません」


「勝手に俺の身体を調べるんじゃねぇぞ」


「本人の許可なく調べるつもりはありません」


「本当か?」


「触れてもよいですか?」


「今すぐ聞くな!」


 酒菜が左肩を隠すように身体をひねる。


 リディアの金色の瞳が、わずかに残念そうに細くなった。


「私は……来てもらっても、いいと思います」


 ひかげがおずおずと手を上げる。


「理由は?」


 みゆに尋ねられ、ひかげは酒菜を見る。


「知らない場所で一人は……不安だと思うから」


「俺は不安だなんて一言も言ってねぇ」


「でも……何も分からない場所で一人は、寂しいです」


「勝手に決めつけんな」


「ごめんなさい……」


「簡単に謝るな」


 酒菜は苛立ったように顔を背けた。


 しかし、ひかげを怒鳴りつけることはしなかった。


 あおいも静かに頷く。


「わらわも賛成じゃ。帰る場所が見つかるまで、共に暮らせばよい」


「簡単に受け入れすぎだろ、てめぇら」


「わらわも、和真たちに受け入れてもらった身じゃからな。行く当てのない心細さは、少し分かるつもりじゃ」


「だから、俺は心細いなんて言ってねぇ」


「そういうことにしておこう」


「勝手に納得すんな」


「僕もシュナと一緒がいい!」


 ピピが翼を広げる。


「ご飯、一緒に食べる!」


「食い物しか頭にねぇのか、鳥」


「僕はピピ!」


「そうかよ」


「覚えた?」


「忘れた」


「今言ったばっかり!」


 酒菜は部屋にいる全員を順番に見回した。


 最後に、和真へ視線を戻す。


「……断る」


「そうか」


 即答だった。


 和真は少しだけ残念に思いながらも、無理に引き止めるつもりはなかった。


「だったら、せめて体力が戻るまではここにいてくれ。そのあとは――」


「話は最後まで聞け」


「断るんじゃないのか?」


「てめぇらの仲間になるのは断るって言ったんだ」


 酒菜は残っていたおにぎりを口へ放り込み、乱暴に咀嚼する。


「俺は、誰かに守られるほど落ちぶれちゃいねぇ。それに、理由もなく飯と寝床を恵んでもらうつもりもねぇ」


「だったら、どうするんだ?」


「借りを返すまでだ」


 酒菜は右手で和真を指さした。


「傷を治した分。飯を食わせた分。それから、元の世界へ帰る方法を探す分だ。それだけ働いてやる」


「それって、一緒に来るってこと?」


「勘違いすんな。仲間じゃねぇ。借りを返すまで、仕方なく手を貸してやるだけだ」


 みゆが口元を緩める。


「それを仲間って言うんじゃない?」


「違ぇ!」


「じゃあ、居候?」


「誰が居候だ!」


「押しかけ鬼?」


「ぶっ飛ばすぞ、猫っころ!」


「病み上がりなのにできるの?」


「今すぐ試してやろうか!」


 酒菜が布団から立ち上がろうとする。


 今度はひかげとあおいが左右から押さえ、そのまま座らせた。


「無理をしてはならぬ」


「は、離せ!」


「まだ休んでください」


「二人がかりは卑怯だろうが!」


「一人でも立てなかったでしょ」


 みゆが笑いながら言う。


「体力が戻ったら、最初にてめぇをぶっ飛ばす!」


「僕より先に和真と再戦するんじゃなかったの?」


「両方だ!」


「俺まで入れるなよ」


 和真が口を挟む。


「てめぇには負けたままだからな。体力が戻ったら、もう一度やるぞ」


「嫌だよ」


「断るんじゃねぇ!」


「怪我人と戦う趣味はない」


「今は治ってんだろうが!」


「体力が戻ってない」


「戻ったらやる!」


「戻ってもやらない!」


 今度は和真と酒菜が言い争いを始める。


 その様子を眺めていたフェンリスが、深いため息を吐いた。


「似た者同士かも」


「僕もそう思う」


 みゆが頷く。


「どちらも……無茶をします」


 ひかげも小さく同意する。


「そのうえ頑固じゃな」


「自分の判断を曲げない点も共通しています」


「カズマとシュナ、仲よし!」


 ピピが楽しそうに翼を広げた。


「誰がこいつと仲よしだ!」


「誰がこいつと仲よしなんだ!」


 酒菜と和真の声が重なった。


 二人は互いに顔を見合わせる。


「真似すんな」


「そっちが真似したんだろ」


「やっぱり仲よし!」


「違う!」


 再び二人の声が重なった。


 部屋の中へ笑い声が広がる。


 酒菜だけは納得できない様子で全員を睨んでいたが、和真から渡された三つ目のおにぎりを返そうとはしなかった。


 やがて、窓の外が少しずつ明るくなっていく。


 本来なら穏やかに終わるはずだった温泉旅行は、最後まで騒がしいものになってしまった。


 そして、空色唐辛子荘へ帰る一行の中には、来た時にはいなかった鬼人が一人加わることになる。


 鬼道隠酒菜。


 本人は最後まで仲間ではないと言い張っていたものの、誰もその言葉を信じてはいなかった。

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