第十七話 温泉旅行の夜
商店街の一角に、甲高い鐘の音が鳴り響いた。
「おめでとうございまーす! 特賞、温泉旅行です!」
「……おんせん、りょこう?」
係員から大きな目録を渡されたあおいは、きょとんと首を傾げた。
今日は人間の姿で外を歩く練習を兼ね、和真と二人で商店街へ買い物に来ていた。
「温泉に入って、旅館に泊まる旅行だよ」
「旅館……泊まる……」
「ああ。いつもと違う場所で、美味しいものを食べたりする」
「美味しいもの!」
先ほどまで戸惑っていたあおいの目が、途端に輝いた。
食いつく場所はそこなのかと思いつつ、和真は係員から旅行券の説明を聞いた。
海沿いにある温泉旅館の一泊二日券。
往復の交通費と夕食、朝食付き。ただし、利用できるのは四人までだった。
「四人か……」
「和真も行くのじゃろ?」
「あおいだけで行かせられるわけないだろ」
「ならば、あと二人じゃな!」
悪意の欠片もないあおいの笑顔を見て、和真は嫌な予感を覚えた。
空色唐辛子荘で暮らす七人のうち、旅行へ行けるのは四人。
しかも、あおいと和真はすでに確定している。
残る席は、二つ。
平和に決まるはずがなかった。
買い物を終えて戻った二人は、夕食前の母屋で全員に温泉旅行が当たったことを報告した。
最初に歓声を上げたのはフェンリスだった。
「旅行!? 僕、行きたい!」
「僕も!」
負けじとみゆが片手を上げる。
「おんせんって、あったかい水がいっぱいあるところだよね! 僕も入る!」
ピピは両翼を大きく広げた。
羽ばたきでテーブルの上の紙が舞い上がり、和真が慌てて旅行券を押さえる。
「ピピ、家の中で羽ばたくなって言っただろ」
「まだ飛んでないよ?」
「飛ばなければいいわけじゃない」
ピピは不思議そうに首を傾げながら翼を畳んだ。
ひかげは長い前髪の奥から、旅行券をじっと見つめていた。
「わ、私も……少し、行ってみたいです。海も、温泉も……その、あまり見たことがないので……」
「私も同行を希望します」
最後にリディアが淡々と手を上げる。
「全員じゃないか」
「当然でしょ」
みゆが胸を張った。
「僕たちは仲間なんだから、旅行も一緒に行くべきだよ」
「言っていることはもっともらしいけど、券は四人分しかないんだ」
和真は旅行券をテーブルの中央に置いた。
「あおいが当てたから、あおいは確定。人間の姿で過ごす練習も兼ねているから、何かあった時に対応できる俺も行く。残りは二人だけだ」
一瞬、部屋の中が静まり返った。
次の瞬間、五人が一斉に口を開いた。
「勝負だね!」
「望むところだよ!」
「勝負! 僕、強いよ!」
「わ、私は争うのは、ちょっと……でも、行きたいです……」
「最も公平な選抜方法を提案します」
「待て待て。一度に話すな」
和真は額を押さえた。
あおいだけは旅行券を抱え、楽しそうに五人を見比べている。
「じゃんけんで決めよう!」
フェンリスの提案に、全員が右手を出した。
正確には、ピピだけが補助腕を前へ伸ばしていた。
「最初はぐー!」
「ぐー!」
掛け声と共に拳が並ぶ。
しかし、ピピの補助腕だけは開いたままだった。
「あれ?」
「反応が遅れています」
リディアが冷静に指摘した直後、ピピの補助腕が拳を作った。
「今、ぐーになった!」
「もう終わってるよ」
「じゃあ、もう一回!」
二度目は、全員が手を出すより先にピピの補助腕が開いた。
「ぱー!」
「早すぎる」
「難しい!」
ピピは補助腕を睨みつけ、翼をばたつかせる。
このままでは朝まで決まらない。
結局、和真が紙に二つの丸と三つの外れを書き、箱へ入れることになった。
「引く順番でも揉めそうじゃな」
あおいが楽しそうに笑う。
「なら、わらわが一人ずつ名前を呼ぶのじゃ」
最初に呼ばれたのはフェンリスだった。
「絶対、当てる!」
気合を入れて紙を引いたフェンリスの表情が、ゆっくりと固まる。
紙に書かれていたのは、大きなばつ印だった。
「……もう一回引いていい?」
「駄目に決まってるだろ」
続いてひかげも外れを引いた。
「やっぱり……私には、家がお似合いなんですね……」
「ただのくじで、そこまで落ち込まないでくれ」
三番目のみゆは紙を開いた瞬間、両手を上げた。
「やった! 丸だ!」
「まだ一つ残ってる!」
ピピが箱へ補助腕を突っ込もうとする。
しかし、興奮しすぎたせいか腕が箱の縁に引っかかり、箱ごと頭へ被ってしまった。
「前が見えない!」
「ピピ、動くな。今取るから」
「この中に当たりがある!」
「だから暴れるな!」
和真が箱を押さえ、あおいが中から一枚を拾い上げる。
開かれた紙には、丸が描かれていた。
「ピピが当たりじゃ」
「やったー!」
箱が外れた瞬間、ピピは翼を広げて飛び上がった。
その風で、残っていた最後の紙が床を転がる。
外れを引いたリディアは、紙を一度確認すると、無言でテーブルへ戻した。
こうして旅行券を使う四人は、あおい、和真、みゆ、ピピに決まった。
ところが、話はそこで終わらなかった。
「……自分で払えば、行けるんだよね?」
フェンリスが呟いた。
みゆの笑顔が止まる。
「え?」
「旅行券が使えないだけで、同じ旅館を自分で予約しちゃ駄目とは言われてないよね?」
「確かに、その方法があります」
リディアがすぐさまスマートフォンを取り出した。
「待ってください。私も、自分で払えば……」
ひかげも恐る恐る顔を上げる。
三人はしばらく宿泊費と自分の財布を見比べていた。
フェンリスは酒屋の給料を思い浮かべ、ひかげは何度も料金表示を確認し、リディアは迷うことなく予約画面を進めていく。
「一部屋だけ空いています。三人で利用すれば、一人当たりの負担も抑えられます」
「取って!」
「わ、私もお願いします!」
「予約を確定します」
数秒後、リディアがスマートフォンの画面を三人へ向けた。
「予約できました」
「やった!」
再び響いた歓声に、ピピも翼を上げる。
「みんな行くの?」
「ああ。結局、全員だ」
「じゃあ、僕が当たりを引いた意味は?」
「ピピは無料で行ける」
「無料!」
ピピはさらに喜んだ。
フェンリスとひかげは出費が決まったにもかかわらず、どこか満足そうだった。
みゆは自分だけが特別ではなくなったことに少し不満そうな顔をしたものの、すぐに旅行の話へ加わった。
「海があるなら泳げる?」
「今は泳ぐには寒いと思うぞ」
「お魚、捕まえてもいい?」
「旅館の前で漁を始めるな」
「温泉では飛んでもよいのか?」
「駄目に決まってる」
「ならば、泳ぐのじゃ!」
「温泉で泳ぐのも駄目だ」
次々と飛んでくる質問に答えながら、和真は早くも疲れを感じていた。
全員にとって、こちらの世界で初めてとなる旅行。
楽しみなのは、和真も同じだった。
それでも、はしゃぐ六人を眺めていると、胸の奥に不安が膨らんでいく。
大勢が利用する列車。
慣れない旅館。
温泉。
そして、酒。
「……何も起きなければいいけど」
和真の呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
旅行当日の朝。
出発予定時刻の一時間前から、母屋には全員が集まっていた。
「忘れ物はないか?」
和真が尋ねると、六人から一斉に返事が返ってくる。
「ないよ!」
「僕も大丈夫!」
「わ、私も……多分」
「確認済みです」
「菓子も持ったのじゃ」
「僕も持った!」
あおいとピピが、それぞれ持ってきた袋を掲げた。
「二人とも、旅行へ行くのか菓子を食べに行くのか分からないな」
「両方じゃ」
「僕も両方!」
あおいとピピが顔を見合わせ、嬉しそうに笑う。
「それじゃ、そろそろ駅へ向かうぞ」
「しゅっぱーつ!」
ピピが勢いよく片手を上げた。
その手が隣にいたみゆの頭へ当たる。
「痛っ!」
「あれ? みゆ、いたの?」
「ずっといたよ!」
「二人とも、出発前から騒ぐな」
早くも言い合いを始めた二人を見て、和真は小さく息を吐いた。
駅へ着いた一行は、人の流れに混じって改札へ向かった。
あおいは前を歩く人たちの動きを観察し、慎重に切符を入れる。
反対側から出てきた切符を受け取ると、得意げに和真を振り返った。
「見たか、和真。一度で通れたのじゃ」
「ああ。よくできたな」
「子供扱いしておらぬか?」
「気のせいだ」
続いて改札の前へ立ったピピは、切符を持ったまま機械を見つめた。
「これ、どこに入れるの?」
「そこだよ」
みゆが投入口を指差す。
ピピが恐る恐る切符を差し込むと、機械の中へ一瞬で吸い込まれた。
「あっ! 食べられた!」
「向こうから出てるよ」
「助けないと!」
「切符なら無事だから、早く進んで!」
みゆに背中を押され、ピピが慌てて改札を抜ける。
出てきた切符を拾い上げると、傷がないか確かめるように何度も裏返した。
「大丈夫?」
「切符に聞いてくれ」
「喋らないよ?」
「なら大丈夫だ」
「そっか!」
「今ので納得できるんだ……」
みゆが呆れた声を漏らした。
ホームへ下りると、ちょうど列車が入ってくるところだった。
大きな車体が風を巻き起こしながら近づいてくる。
「大きい!」
ピピが目を輝かせ、列車を追いかけるように走り出そうとする。
「ピピ、黄色い線から出るな!」
和真がすぐに腕をつかんだ。
「大丈夫だよ。ぶつかっても避けるから!」
「そういう問題じゃない」
列車が停まり、扉が開く。
乗り込んだ七人は、前日に調整しておいた指定席へ向かった。
旅行券を使う四人は同じ列で、後ろの席に二人ずつと1人に別れて座る。
窓側からあおい、和真。
反対側にはみゆとピピが座る。
後から切符を取ったフェンリスたちは、そのすぐ後ろだった。
和真の後ろにフェンリス、その隣にひかげ。
通路を挟んだ席にリディアが一人で座る。
「どうして、あおいが和真の隣なの?」
座席を確認したフェンリスが不満そうに尋ねる。
「わらわが当てた旅行なのじゃ。当然であろう」
あおいは窓側の席へ座ると、自分の隣を軽く叩いた。
「ほれ、和真。早く座るのじゃ」
「はいはい」
和真が隣へ腰を下ろすと、あおいは満足そうに頷いた。
「僕は和真の真後ろか……」
「近いんだからいいでしょ」
通路の反対側から、みゆが口を挟む。
「みゆだって和真の隣じゃないよね?」
「僕は同じ列だもん」
「通路を挟んでるでしょ」
「二人とも、座る前から張り合うな」
和真が注意すると、フェンリスは渋々後ろの席へ座った。
ピピもみゆの隣へ座ったものの、すぐに立ち上がって座席や天井を見回し始める。
「これ、本当に走るの?」
「ああ」
「飛ばない?」
「飛ばない」
「翼がないもんね」
「そういう問題じゃないと思うよ」
みゆに言われ、ピピは納得したように頷いた。
やがて列車がゆっくりと動き始める。
窓の外の景色が後ろへ流れ出した途端、あおいが目を見開いた。
「和真、家が逃げていくぞ!」
「列車が進んでるんだよ」
「分かっておる。少し驚いただけじゃ」
「そうか」
「本当に分かっておるぞ?」
「ああ、信じてる」
「その顔は信じておらぬな?」
頬を膨らませたあおいへ、和真は持ってきた菓子を一つ差し出した。
あおいはしばらく和真を睨んでいたが、菓子を受け取るとすぐに機嫌を直した。
通路の反対側では、ピピが窓へ額を押しつけている。
「速い! 僕が飛ぶより速い!」
「座って見なよ。人にぶつかるよ」
「飛んでないから大丈夫!」
「今は飛んでるかどうかの話じゃないよ」
みゆがピピの服を引っ張り、座席へ戻した。
後ろでは、フェンリスが鞄から駅弁を取り出している。
「フェンリスさん。それはお昼に食べるものでは……」
「見るだけだよ」
ひかげに指摘されながら、フェンリスが弁当の蓋を少し開ける。
「箸まで持っています」
通路の反対側からリディアが告げた。
「中身を確認するだけ」
「先ほど購入する時に確認していました」
「もうお腹が空いたんだよ!」
「開き直ったな」
和真が振り返ると、フェンリスは弁当を抱え込んだ。
「一口だけならいいでしょ?」
「まだ出発したばかりだぞ」
「じゃあ、二口」
「増やすな」
結局、目的地へ着く前に全員で早めの昼食を取ることになった。
食事を終えてしばらくすると、建物の間から青い海が見え始めた。
「海じゃ!」
あおいが窓へ身を寄せる。
その声に反応し、ピピとみゆだけでなく、後ろの三人も一斉に窓へ顔を向けた。
陽の光を反射する海面が、列車の進む先まで広がっている。
「大きい……」
ひかげが小さく呟いた。
「あとで近くまで行けるの?」
フェンリスの問いに、和真は旅行案内を開いた。
「旅館から歩いて行けるみたいだ。夕食の後でも散歩できるだろ」
「お魚、捕まえてもいい?」
ピピが尋ねる。
「見るだけにしてくれ」
「一匹だけなら?」
「駄目だ」
「食べないよ?」
「何をするつもりなんだ?」
「お部屋で飼う!」
「余計に駄目だ」
ピピは残念そうに窓の外へ目を戻した。
◇
昼過ぎ、七人は海沿いの温泉街へ到着した。
潮の香りと、軒先から立ち上る白い湯気。
土産物屋や飲食店が並ぶ通りを、浴衣姿の旅行客が行き交っている。
「あれは何じゃ?」
「温泉饅頭だな」
「食べたいのじゃ」
「旅館に着いてからにしよう」
「あっちは?」
「干物だ」
「食べられるのか?」
「食べられるけど、今買うものじゃない」
あおいの質問に答えている間に、ピピが別の店へ吸い寄せられていく。
「ピピ、どこへ行くの!」
「お魚が並んでる!」
みゆが追いかけ、ピピの腕をつかんだ。
その横では、フェンリスが試食を勧められ、ひかげは店員に話しかけられて固まっている。
「目的地まで残り二百メートルです」
リディアだけが寄り道せず、旅館の方角を指差した。
「二百メートルが、こんなに遠く感じるとは思わなかった……」
全員を集め直し、和真はようやく旅館へたどり着いた。
木造の大きな建物で、玄関前には綺麗に手入れされた庭が広がっている。
一行が中へ入った瞬間、従業員たちが揃って頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
突然の出迎えに、ピピが驚いて和真の後ろへ隠れた。
少し遅れて、自分も挨拶をされたのだと気づいたらしい。
和真の背中から顔を出し、勢いよく頭を下げる。
「いらっしゃいませ!」
「ピピが言う側じゃないよ」
みゆに注意され、ピピは顔を上げた。
「じゃあ、なんて言うの?」
「よろしくお願いします、だ」
「よろしくお願いします!」
今度は勢いが強すぎて、持っていた鞄が床へ落ちた。
受付の女性は笑いを堪えながら、三つの部屋を案内してくれた。
部屋は和真が一人。
あおい、みゆ、ピピの三人。
フェンリス、ひかげ、リディアの三人に分かれることになった。
「どうして和真だけ一人なのじゃ?」
あおいが不満そうに尋ねる。
「俺だけ男だからだよ」
「わらわも和真と同じ部屋でよいぞ」
「駄目」
「なぜじゃ?」
「旅館へ着いてまで、いつもの騒ぎを起こすな」
あおいが頬を膨らませると、フェンリスとみゆが揃って頷いた。
「それは僕も反対」
「僕も。あおいだけ一緒なんて駄目だよ」
「ならば全員、和真の部屋で寝ればよいではないか」
「もっと駄目だ」
荷物を置いた後は、全員が楽しみにしていた温泉へ向かった。
和真だけが男湯へ入り、六人は揃って女湯へ向かう。
脱衣所へ入り、和真の通訳魔法が届かなくなると、ピピのヘッドホン型通訳機が自動で作動した。
「おんせん!」
ピピは浴場へ入るなり、湯船へ向かって走り出した。
「待ちなさい。先に身体を洗います」
リディアが腕をつかみ、ピピを止める。
「先に入っちゃ駄目なの?」
「駄目です」
「少しくらいよいではないか」
あおいまでピピの味方をする。
「よくないよ。二人とも、さっき説明を聞いたでしょ」
フェンリスが二人を洗い場へ連れていった。
その間にみゆは露天風呂を見つけ、目を輝かせる。
「外にもあるよ!」
「は、走ると危ないです……」
ひかげが注意した直後、みゆの足が濡れた床で滑った。
「うわっ!」
近くにいたフェンリスが腕を伸ばし、転ぶ直前で受け止める。
「ほら、言われたばかりでしょ」
「今のは床が僕を転ばせようとしたんだよ」
「床のせいにしない」
一方、男湯へ入った和真は、一人で露天風呂に浸かっていた。
聞こえてくるのは、湯の流れる音と遠くから届く波音だけ。
「静かだ……」
久しぶりの穏やかな時間だった。
女湯で起きている騒ぎなど知る由もなく、和真は肩まで湯に浸かり、ゆっくりと目を閉じた。
温泉から上がった一行は、浴衣へ着替えて食事処に集まった。
先に来ていた和真が座敷で待っていると、廊下の向こうから賑やかな声が近づいてくる。
「和真、見よ!」
襖が開くなり、あおいが両腕を広げた。
「似合っておるか?」
「ああ。似合ってるよ」
「そうであろう、そうであろう」
満足そうに頷いたあおいが、和真の隣へ座る。
「ちょっと待って。どうして当たり前みたいにそこへ座るの?」
後ろから入ってきたフェンリスが足を止めた。
「早い者勝ちじゃ」
「列車では譲ったんだから、今度は僕でしょ」
「そのような約束はしておらぬ」
「じゃあ、僕は反対側」
みゆが素早く和真の反対隣へ座る。
「あっ、みゆ!」
「早い者勝ちなんでしょ?」
「むう……」
フェンリスが不満そうに二人を見比べる。
「席なら他にもあるだろ」
「そういう問題じゃないよ」
「では、私はこちらに座ります」
リディアは迷うことなく和真の正面へ座った。
ひかげもその隣へ腰を下ろす。
最後に残ったピピは、座布団を一枚持ち上げた。
「これは頭に乗せるの?」
「座るんだよ」
「こう?」
ピピが座布団を尻の下へ敷こうとするが、置く前に座ったため、そのまま畳へ尻餅をついた。
「痛い!」
「先に置いてから座ろうね」
みゆが笑いながら座布団を敷いてやる。
全員が席に着くと、仲居たちが次々と料理を運んできた。
刺身、焼き魚、天ぷら、鍋料理。
色鮮やかな料理が、座卓の上へ隙間なく並べられていく。
「おお……!」
あおいが、くじを当てた時以上に目を輝かせた。
「全部食べてよいのか?」
「ああ。一人分ずつあるから、好きなものから食べていいぞ」
「これもか?」
「それもだ」
「こちらの肉も?」
「ああ」
「この黄色いものは?」
「それは飾りだから食べるな」
すでに手を伸ばしていたあおいが、慌てて飾りを戻した。
向かい側では、ピピが刺身を一切れ持ち上げ、不思議そうに眺めている。
「これ、生だよ?」
「刺身だからな」
「焼くのを忘れたんじゃないの?」
「そういう料理なんだ。食べてみろ」
ピピは何度か匂いを嗅ぎ、恐る恐る口へ運んだ。
次の瞬間、その目が大きく見開かれる。
「おいしい!」
「気に入ったみたいだね」
フェンリスが笑う。
その隣では、みゆが自分の刺身を素早く手元へ寄せていた。
「僕のはあげないからね」
「まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてあるんだよ」
ピピはみゆの刺身を見つめながら、自分の皿に残っていた最後の一切れを口へ入れた。
食事が始まってしばらくすると、仲居が酒を運んできた。
小さな瓶が並べられた途端、フェンリスとみゆが興味深そうに身を乗り出す。
「これが日本のお酒?」
「飲んでみたい!」
「わらわも飲むのじゃ」
「僕も!」
ピピまで手を上げた。
「ピピは少しだけにしておけよ」
「どうして?」
「酔った時に何をするか分からないからだ」
「大丈夫。僕、何もしないよ」
「その言葉が一番信用できないんだ」
「和真は飲まぬのか?」
あおいに尋ねられ、和真は水の入ったグラスを手に取った。
「全員が酔った時に、誰か一人くらいは動けないと困るからな」
「心配しすぎだよ」
フェンリスが笑いながら杯を掲げた。
「せっかくみんなで来たんだから、今日は楽しもうよ」
「そうだね。温泉旅行に乾杯!」
みゆの声に合わせ、全員が杯を持ち上げる。
「乾杯!」
小さな音を立て、七つの杯が重なった。
最初の一杯を飲んだピピは、しばらく口の中で味を確かめていた。
「変な味がする」
「無理に飲まなくてもいいぞ」
「でも、身体があったかくなった!」
「温泉から出たばかりだからじゃない?」
「じゃあ、もう一回飲んだらもっとあったかくなる?」
「その考え方はやめた方がいいよ」
みゆが注意しながら、自分の杯へ二杯目を注ぐ。
「みゆも飲んでるじゃないか」
「僕は平気だもん」
「ならば、わらわも平気じゃ」
あおいも空になった杯を和真へ差し出した。
「注いでくれぬか?」
「もう少しゆっくり飲めよ」
「この程度、酒のうちにも入らぬ」
そう言い切ったあおいは、二杯目を飲んだ直後に箸を落とした。
「箸が逃げたのじゃ」
「落としただけだ」
「和真、捕まえてくれ」
「新しい箸をもらうから、そのままにしておけ」
「むう……すばしっこい箸じゃ」
あおいは畳の上の箸を睨み続けていた。
食事が終わる頃には、全員の頬が赤くなっていた。
和真たちは追加で頼んだ酒とつまみを持ち、あおいたちの部屋へ移動した。
「まだ飲むのか?」
「せっかくの旅行なんだから、もう少しくらいいいでしょ」
フェンリスが酒瓶を抱えたまま答える。
「僕はお酒には強いから大丈夫」
「酒屋で働いていることと、酒に強いことは別だぞ」
「分かってるよ」
そう言いながら杯へ酒を注ごうとするが、一滴も入らない。
和真が見ると、フェンリスの持っている杯は上下が逆になっていた。
「……この杯、壊れてる」
「逆さまなんだよ」
「あれ?」
フェンリスは杯を何度もひっくり返した後、なぜか楽しそうに笑い始めた。
「変なの」
「変なのはフェンリスだよ」
みゆもつられて笑う。
その身体は、すでに隣のフェンリスへ半分ほど寄りかかっていた。
「みゆも相当酔ってるだろ」
「僕は全然平気だよ」
「なら、一人で座ってみろ」
「座ってるよ?」
「フェンリスを椅子代わりにしてるだろ」
「フェンリスが勝手に僕の下にいるの」
「私は椅子じゃないよ」
二人は互いに押し返そうとしたものの、揃って畳の上へ転がった。
その様子を見たピピが、大声で笑う。
「二人とも飛ぶの下手!」
「一度も飛んでない」
「僕がお手本を見せる!」
ピピは立ち上がると、両腕を左右へ広げた。
「待て。ここで飛ぼうとするな」
「今は人だから飛べないよ?」
「分かってるなら座れ」
「でも、練習したら飛べるかも!」
「飛べないし、飛ばせない」
片足を上げたピピの身体が大きく傾く。
和真は倒れる直前に抱き止め、そのまま座布団へ座らせた。
「僕、飛べた?」
「倒れただけだ」
「もう一回やる!」
「やらなくていい」
和真が水を渡すと、ピピは両手で杯を抱え、一気に飲み干した。
「これ、酔わない」
「水だからな」
「お酒は?」
「もう終わりだ」
「僕のお酒がなくなった……」
ピピは悲しそうに空の杯を見つめた後、そのまま座布団へ顔を伏せた。
数秒も経たないうちに、静かな寝息が聞こえ始める。
「寝るの早いな……」
「ピピの摂取量は、想定した範囲内です」
リディアが冷静に告げた。
「リディアは大丈夫そうだな」
「問題ありません。全員の摂取量を記録しています」
「そうなのか?」
「はい。フェンリスが五杯、みゆが四杯、あおいが……」
リディアの言葉が止まる。
「どうした?」
「忘れました」
「リディアも酔ってるじゃないか」
「酔っていません」
真顔で否定したリディアは、手に持っていた酒瓶を抱き締めた。
「これは味と成分を調べるために飲んでいるだけです」
「何か分かったか?」
「美味しいです」
「感想しか出てこないなら、もうやめておけ」
「では、調査を終了します」
リディアは酒瓶を和真へ差し出した。
次の瞬間、その場で横になろうとする。
「待て。せめて布団まで行け」
「ここでも眠れます」
「眠れるかどうかじゃない」
和真がリディアを支えていると、部屋の隅から声が聞こえた。
「和真さん」
ひかげだった。
他の五人と比べれば、座り方もしっかりしている。
「ひかげは平気そうだな」
「はい。私は、全然……酔っていません」
「そうか。なら、みんなを布団へ運ぶのを手伝ってくれるか?」
「その前に、言いたいことがあります」
「言いたいこと?」
普段とは違う、迷いのない声だった。
ひかげは立ち上がり、真っ直ぐ和真の前まで歩いてきた。
「皆さんは、いつも和真さんに近すぎると思います」
「え?」
「フェンリスさんは、すぐ腕を組みます。みゆさんは、すぐ抱きつきます。あおいさんは、いつも一緒に寝ようとします」
眠りかけていたフェンリスが、わずかに顔を上げる。
「ひかげ……何を言ってるの……?」
「事実を言っています」
ひかげは、いつになく強い口調で答えた。
「わ、私は、いつも我慢しています」
「ひかげも酔ってるな」
「酔っていません」
そう否定したひかげは、和真の隣へ座った。
「ですから今日は、私もここにいます」
「隣へ座るくらいなら構わないけど」
「本当ですか?」
「ああ」
ひかげは嬉しそうに頷き、和真の肩へ頭を預けた。
そのまま数秒も経たないうちに動かなくなる。
「ひかげ?」
返事はない。
聞こえてきたのは、静かな寝息だけだった。
「寝るの早すぎないか?」
「ひかげだけ、ずるい……」
畳の上へ転がっていたみゆが、和真の方へ這ってくる。
「僕も隣……」
「歩けないなら、もう寝ろ」
「歩けるよ」
「完全に這ってるだろ」
「これは猫の歩き方なの……」
みゆは和真の膝へたどり着く前に力尽き、その場で丸くなった。
「和真……」
今度は、あおいが和真の浴衣の裾をつかんだ。
「置いていくでないぞ」
「どこにも行かないから、もう寝ろ」
「約束じゃ……」
あおいは裾を握ったまま目を閉じた。
残るフェンリスも座布団を抱え、いつの間にか眠っている。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、部屋の中が静まり返った。
「……本当に全滅したな」
和真は一人ずつ布団へ運び、身体を冷やさないように掛け布団をかけた。
寝相の悪いピピが、すでに隣の布団へ転がっている。
元の場所へ戻した直後、今度はみゆがフェンリスの布団へ潜り込んだ。
「これ、朝まで何回直せばいいんだ……」
枕元に水と桶を用意し、全員の様子を確かめる。
今のところ、気分を悪くしている者はいなかった。
窓を少し開けると、冷たい潮風が部屋の中へ流れ込んでくる。
酔ってはいないはずなのに、騒ぎに付き合っていたせいか、和真まで頭が疲れていた。
「少しだけ、外の空気を吸ってくるか」
あおいが握っている浴衣の裾を、一本ずつ指を外して抜き取る。
六人が眠っていることをもう一度確認し、和真は静かに部屋を出た。
旅館の外へ出ると、昼間の賑わいはすっかり消えていた。
夜の温泉街には人影も少なく、遠くから波の音が響いている。
火照った身体に、海から吹く風が心地よかった。
和真は羽織の襟を整え、海へ続く道をゆっくりと歩き始める。
明かりの並ぶ通りを抜け、浜辺へ近づいた時だった。
「……なんだ?」
足が止まる。
波の音に紛れるように、微かな魔力を感じた。
フェンリスたちのものではない。
この世界で感じるはずのない、強く、鋭い魔力。
しかも、一つだけではなかった。
いくつもの魔力がぶつかり合い、その大半が急速に消えていく。
最後に残った一つも、大きく乱れていた。
「まさか……」
和真は周囲に人がいないことを確認すると、魔力を感じた方角へ走り出した。
その先にあるのは、旅館から少し離れた暗い海辺だった。
和真は浴衣の上に羽織を着ただけの姿で、夜の温泉街を駆け抜けた。
人通りのある道を避け、建物の間にある細い路地へ入る。
旅館から離れるほど街灯の数は減り、代わりに波の音が大きくなっていった。
先ほど感じた複数の魔力は、すでにほとんど消えている。
最後に残った一つだけが、海辺から動いていなかった。
「この先か……」
路地を抜けると、暗い砂浜へ出た。
海沿いの遊歩道からも離れた場所で、周囲に人の姿はない。
月明かりに照らされた波が、一定の間隔で砂浜へ打ち寄せている。
和真は足を止め、魔力の流れへ意識を集中した。
砂浜の一部に、赤黒い光の欠片が漂っている。
一つ一つから異なる魔力を感じるが、人や魔物の気配ではない。
「転移の跡か」
複数の魔力がぶつかっているように感じたのは、転移に使われた術が崩れ、いくつもの魔力に分かれていたためだった。
光の欠片は夜風に溶けるように、一つ、また一つと消えていく。
その中心に、一人の女が立っていた。
背の高い女だった。
長い赤髪を後ろで束ね、その髪の間から大きな黒い角が伸びている。
白い戦闘着物はところどころ裂け、黒い裏地と太い赤帯が夜風に揺れていた。
左肩から先に、腕はない。
肩口には古い傷痕が残り、裂けた衣服の隙間から月明かりに照らされていた。
女の右手には、一本の刀が握られている。
刃先から滴った血が、足元の砂へ赤い染みを作っていた。
潮の香りに混じる、鉄のような臭い。
刀についた血は、まだ乾いていない。
女は俯いたまま、動かなかった。
和真は警戒しながらも、すぐには近づかない。
強い。
離れていても、それだけは分かる。
全身に傷を負い、立っているのもやっとの状態でありながら、身体から漏れ出す魔力は周囲の空気を震わせていた。
やがて、転移の光が完全に消える。
その瞬間、女の肩が小さく揺れた。
嗚咽を漏らしたわけではない。
声も上げていない。
ただ、その頬を一筋の涙が伝っていた。
「……大丈夫か?」
和真が声をかける。
女の肩が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、振り返る。
左目の上から頬へ続く傷。
その傷をなぞるように、涙が流れている。
赤い瞳には深い悲しみと、それを覆い隠すほどの怒りが宿っていた。
「来るな」
低く、ぶっきらぼうな声だった。
和真は両手を見える位置へ上げ、その場に立ち止まる。
「分かった。近づかない」
「だったら、そのまま消えろ」
「そういうわけにはいかない」
「……あ?」
女の目が鋭く細められる。
刀を握る右手へ力が入り、刃先がわずかに持ち上がった。
「ここがどこか分かるか?」
「それは俺が聞きてぇ」
女は周囲へ視線を向けた。
見覚えのない海。
遠くに並ぶ建物の明かり。
舗装された遊歩道。
どれを見ても、戸惑いが深くなるばかりだった。
「気づいたら、ここに立ってやがった。海も建物も、何もかも見覚えがねぇ」
「ここは日本だ」
「ニホン?」
「知らないよな」
「聞いたこともねぇ」
「君がいた場所とは、別の世界だからな」
女の表情が変わった。
驚きが浮かび、すぐに警戒へ塗り潰される。
「別の世界だと?」
「ああ。俺も昔、別の世界へ飛ばされたことがある。だから、君に何が起きたのかは大体分かる」
「俺を騙そうってのか?」
「騙してない」
「人間の言うことを信じろって?」
その声に、明確な憎しみが混じった。
女の全身から漏れていた魔力が、一瞬だけ強くなる。
砂が震え、足元から細かく跳ねた。
和真は反応せず、女の赤い瞳を見つめた。
目の前にいるのは、ただ凶暴なだけの相手ではない。
誰かを斬ったことを楽しんでいるようにも見えなかった。
血の滴る刀。
傷だらけの身体。
強い憎しみ。
そして、止まらない涙。
ここへ来る直前、何があったのか。
今の和真には分からない。
それでも、女が深く傷ついていることだけは伝わってきた。
「今すぐ俺を信用しなくていい」
刺激しないよう、和真は静かに言葉を続ける。
「でも、その怪我は放っておけない。刀を下ろしてくれないか?」
「黙れ」
「ここで戦うつもりはない」
「だったら消えろ」
「君を一人にしたら、倒れるだろ」
「余計なお世話だ」
女が一歩踏み出す。
身体が大きく揺れた。
刀を砂へ突き立て、どうにか倒れることだけは耐える。
「ほら、立っているのも限界じゃないか」
「俺を……舐めるな」
「舐めてない。心配してるんだ」
「人間が、俺の心配だと?」
「ああ」
「気色悪いことを言うんじゃねぇ」
女は荒い呼吸を繰り返しながら、和真を睨みつけた。
「帰れ」
「帰れない」
「……なら、斬られても文句は言うな」
「できれば、話だけで済ませたいんだけどな」
「俺は人間と話すことなんざねぇ」
女は砂へ突き立てていた刀を引き抜いた。
刃についた血が飛び、砂の上へ赤い点を作る。
「それ以上、近づくな」
「近づいてないだろ」
「目障りなんだよ」
「それはどうしようもないな」
「なら、その目を閉じてろ」
「もっと危ないだろ」
「てめぇ……俺を馬鹿にしてんのか?」
「してない。落ち着いて話したいだけだ」
「俺は十分落ち着いてる」
「血のついた刀を向けながら言われても、説得力がないぞ」
女の眉が大きく動いた。
怒らせたと気づいた時には、彼女の身体から赤黒い魔力が噴き上がっていた。
周囲の砂が吹き飛び、海面に無数の波紋が広がる。
濃密な魔力を正面から受けても、和真はその場から動かなかった。
今の彼女を一人にしておく方が危険だった。
このまま意識を失えば、波にさらわれるかもしれない。
目を覚ました後、事情を知らない人を傷つける可能性もある。
「何度でも言うけど、俺は君と戦うつもりはない」
「俺にはある」
「そうか」
和真は困ったように息を吐いた。
「だったら、気が済むまで相手をするしかないな」
その言葉を聞いた瞬間、女の赤い瞳が大きく見開かれた。
「……今、なんつった?」
「俺が相手をする。ここで君を一人にするわけにはいかないからな」
「随分と舐められたもんだな」
女の口元から、小さな牙が覗く。
傷だらけの身体から放たれる魔力が、さらに膨れ上がった。
和真は羽織を脱ぎ、風に飛ばされないよう近くの岩へ置いた。
浴衣姿のまま戦うことになるとは思っていなかったが、武器を取りに戻る時間はない。
それ以前に、武器を使うつもりもなかった。
「最後に聞く。名前は?」
「これから斬る相手に、名乗る必要があんのか?」
「できれば、名前も知らないまま戦いたくない」
「俺の名前を知って、どうするつもりだ?」
「呼ぶ時に困らない」
「……本当に調子が狂う奴だな」
女は苛立ったように吐き捨てる。
それでも、しばらく迷った末に口を開いた。
「鬼道隠酒菜」
「酒菜か」
「気安く呼ぶんじゃねぇ」
「俺は四ノ宮和真だ」
「聞いてねぇよ」
「俺だけ名前を知るのは不公平だろ」
「そんな理由で名乗る奴、初めて見たぞ」
酒菜は刀を構え直した。
「覚えなくていい。すぐに忘れることになる」
「それは困るな。せっかく教えてもらったのに」
「てめぇは、どこまで俺を苛つかせりゃ気が済むんだ」
「怒らせるつもりはないんだけどな」
「だったら黙ってろ」
刀の切っ先が、真っ直ぐ和真へ向けられる。
赤黒い魔力に押され、酒菜の足元から砂が広がった。
和真は構えを取らず、その姿を静かに見つめていた。
身体はすでに限界に近い。
それでも酒菜の瞳から、戦う意思は消えていなかった。
説得だけで刀を下ろさせるのは難しい。
「一つだけ約束してくれ」
「断る」
「まだ何も言ってないだろ」
「てめぇの頼みを聞く気はねぇ」
「分かった。なら、俺が勝手に決める」
「あ?」
「怪我が増える前に終わらせる」
一瞬の静寂。
酒菜の額に青筋が浮かんだ。
「言ってくれるじゃねぇか」
刀を握る右腕へ、さらに力が込められる。
「後悔しても遅ぇぞ、四ノ宮和真」
夜の海辺で、二人は向かい合った。
聞こえてくるのは、砂を撫でる風と波の音だけ。
温泉旅行の夜。
本来なら穏やかに終わるはずだった一日は、血に濡れた刀を持つ鬼人――鬼道隠酒菜との出会いによって、思いもよらない方向へ動き始めた。




