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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第十六話 ピピ・ノルディック

 翌朝、ピピは鳥の声で目を覚ました。


 翼に包んでいた身体を起こし、ベッドの上に丸められた布団から両足を下ろす。


 木の枝ほど落ち着ける寝床ではなかったが、身体を預けられる場所があったため、昨夜はどうにか眠ることができた。


 正面には、開けたままの窓がある。


 腕の代わりに翼を持つピピが自由に出入りできるよう、104号室の窓は常に開けておくことになっていた。


 窓の向こうには、朝日に照らされた空色唐辛子荘の敷地が広がっている。


「なくなってない……」


 部屋も、窓の外の景色も、昨夜と同じだった。


 眠っている間に、また知らない場所へ飛ばされることはなかった。


 ピピは立ち上がると、その場で何度か跳ね、自分の部屋を見回した。


「僕の部屋!」


 嬉しそうに笑うと、開いた窓から勢いよく飛び出す。


 朝の空気を翼いっぱいに受け、アパートの周囲を大きく一周した。


 少し冷たい風が、洗ったばかりの羽を優しく撫でていく。


 敷地には、まだ誰の姿も見えない。


 ピピは母屋へ向かって高度を下げ、そのまま和真の部屋の前にあるベランダへ近づいた。


 翼を広げて速度を落とし、手すりへ鉤爪をかける。


 細い手すりの上へ器用に止まると、閉じたカーテンへ顔を向けた。


「カズマ」


 返事はない。


「まだ寝てるのかな?」


 窓を軽く叩こと翼の先を伸ばしてみたが、柔らかな羽毛が窓へ触れただけだった。


「カズマー。朝だよー」


 少しだけ声を大きくする。


 それでも反応はない。


 ピピは大きく息を吸った。


「カズマー!」


「朝から大声を出すな!」


 窓の向こうから和真の声が返ってきた。


 すぐにカーテンが開き、寝起きの和真が顔を見せる。


「おはよう!」


「おはよう。昨日、俺が起こしに行くって言っただろ」


「僕の方が先に起きたから、起こしに来た!」


「そういうことか...」


 和真が窓を開ける。


 ピピは手すりの上で身体を上下へ弾ませた。


「起きても、僕の部屋があったよ!」


 あまりにも嬉しそうに言うため、和真は大声を注意しようとしていたことを忘れてしまった。


「当たり前だろ。あそこは、もうピピの部屋なんだから」


「今日も?」


「ああ」


「明日も?」


「急になくなったりしないよ」


 ピピの翼が大きく開きかける。


 窓から部屋へ風が入りそうになり、ピピは自分で気づいて翼を止めた。


「窓の近くで、強くばさばさしたら駄目なんだよね?」


「覚えてたのか」


「うん!」


「偉いぞ」


 褒められたピピは、羽ばたく代わりに満面の笑みを浮かべた。


「カズマ、ご飯!」


「今の流れから、よく急に食事へ移れるな」


「お腹が鳴った!」


「分かった。着替えたら行くから、母屋の玄関で待っててくれ」


「ここで待つ」


「俺が着替えられないだろ」


「見ないよ?」


「今も部屋を覗いてるじゃないか」


 ピピはベランダの手すりから身を乗り出していたことに気づき、慌てて身体を戻した。


「じゃあ、目を閉じる!」


「手すりの上で寝るなよ。先に行ってろ」


「寝ないよ!」


 そう答えながら、大きな欠伸をする。


「眠そうじゃないか」


「起きたばっかりだから!」


 ピピは手すりを蹴り、朝空へ飛び上がった。


「玄関で待つんだぞ!」


「分かった!」


 今度は寄り道せず、母屋の正面へ向かっていく。


 しかし、玄関前に着地した直後、近くにいた鶏が鳴いた。


 ピピの顔が、すぐに鶏小屋の方へ向く。


「一羽、起きてる!」


「鶏はいいから、玄関にいろ!」


 ベランダから聞こえた和真の声に、ピピは伸ばしかけた足を引っ込めた。


「見てるだけなのに!」


「昨日も似たようなことを言ってただろ!」


 ピピは不満そうに翼を畳み、玄関前へしゃがみ込んだ。


 ほんの少しだけ、昨日より言いつけを守れるようになっていた。


     ◇


 朝食の時間になると、母屋にはいつもの顔ぶれがそろった。


 昨夜から加わったピピだけが、食卓の上を落ち着きなく見回している。


 焼いたパン。


 卵料理。


 野菜の入ったスープ。


 どれも公園で暮らしていた頃には、満足に食べられなかった物ばかりだった。


「僕のは、どれ?」


「目の前にある分だよ」


 和真に教えられ、ピピの目が輝く。


「全部食べていいの?」


「ああ。ただし、ゆっくり食べろよ」


「分かった!」


 ピピがパンへ顔を近づける。


 隣に座っていたフェンリスが先にパンを取り、食べやすい大きさにちぎった。


「はい、ピピ」


「あーん!」


 口へ入れてもらったパンを、ピピは嬉しそうに食べ始めた。


 その様子を見ていたリディアが、ピピの前へ置かれたスプーンを持ち上げる。


「やはり、食事だけでも補助機構が必要ですね」


「僕、足で持てるよ」


 ピピは片足を上げ、鉤爪でスプーンの柄を挟んだ。


 思っていたより器用に持ち上げ、得意そうに胸を張る。


「ほら!」


「そのまま食べるのか?」


「できるよ!」


 片足を上げたまま、スプーンをスープへ入れる。


 しかし、椅子の上では十分に身体を支えられない。


 ふらついた拍子に鉤爪が器へ当たり、スープの入った皿が食卓の端へ滑った。


 床へ落ちる直前、リディアの機械の手が皿を掴む。


 一滴のスープもこぼれていなかった。


「おお!」


 ピピが感心したように声を上げる。


「リディア、上手!」


「原因はピピです」


「でも、落ちなかったよ?」


「私が受け止めたからです」


 リディアは皿を元の位置へ戻した。


「食卓では足を使わないでください。器を割れば、破片で怪我をする可能性があります」


「分かった」


 ピピは素直にスプーンを置いた。


 フェンリスが再びパンを差し出すと、今度は大人しく口を開ける。


「意外と素直だね」


 みゆが二本の尻尾を揺らす。


「リディアが怖いから?」


「怖くないよ!」


 そう答えたピピは、リディアと目が合うと少しだけ姿勢を正した。


「……ちょっとだけ」


「正直じゃの」


 あおいが楽しそうに笑った。


「装置作りは、今日から始めるのか?」


 和真が尋ねると、リディアは頷いた。


「朝食後、工房でピピの身体を測定します。その結果を基に、通訳機から製作します」


「痛いことする?」


「しません」


「羽は抜かない?」


「自然に抜けた物があれば、数枚使わせてもらいます」


 ピピは心配そうに、自分の翼を見つめた。


「落ちた羽を使うだけだ。無理に抜いたりしないよ」


 和真が説明すると、ピピは安心したように翼を下ろした。


「それならいいよ。僕の手になるんでしょ?」


「通訳機や外見変更装置の調整にも使用します」


「三つとも作るの?」


「はい」


「今日できる?」


「通訳機は今日中に試作品を作ります。補助腕と外見変更装置まで揃うのは、早くても明日です」


「明日って、ご飯を何回食べた後?」


「四、五回くらいだな」


 和真が大まかに答える。


「そんなに?」


「寝て起きたら、すぐだよ」


 フェンリスがピピの口元へ卵料理を運ぶ。


「待っている間も、ご飯は食べられるからね」


「それなら待てる!」


 ピピはすぐに元気を取り戻した。


「本当に食事のことばかりだね」


 フェンリスは呆れながらも、楽しそうに次の一口を差し出した。


     ◇


 朝食を終えると、和真とピピは、リディアと一緒に工房へ向かった。


 フェンリスは酒屋の仕事へ行き、あおいたちもそれぞれの用事を済ませてから様子を見に来ることになっている。


 工房へ入ったピピは、並んでいる機械へすぐに目を奪われた。


 壁一面の工具。


 棚へ分類された小さな部品。


 淡く光る魔石。


 天井から下がる何本もの機械アーム。


 どこを見ても、初めて目にする物ばかりだった。


「すごい……」


 一歩進むたびに、ピピの顔が別の方向へ向く。


「ピピ」


 リディアが呼び止めた。


「何?」


「工房内の物には触れないでください」


「触らないよ」


 答えた時には、翼の先が作業台の上へ伸びていた。


 ピピは自分の翼を見て、何もなかったように身体へ戻す。


「見るだけ」


「翼や足で触れることも禁止します」


「じゃあ、近づくだけ?」


「危険ですから、私が許可した場所以外へは近づかないでください」


「分かった」


 今度は両翼を身体へぴったりと寄せた。


「随分と細かく言うんだな」


 和真が尋ねる。


「ピピの場合、言葉に含まれていない行動は許可されたと受け取る可能性があります」


「僕、そんなことしないよ?」


 ピピが近くの魔石へ足を伸ばそうとする。


 リディアに見られていることへ気づき、静かに元の位置へ戻した。


「……見ようとしただけ」


「細かく説明して正解だったな」


 リディアは工房の中央に置かれた円形の台を示した。


「その上へ立ってください」


 ピピが台へ上がる。


 鉤爪が金属へ触れ、硬い音を立てた。


「冷たい!」


「すぐに終わります」


 リディアが装置を操作すると、台の周囲から四本の細い柱がせり上がった。


 ピピは驚いて翼を広げそうになったが、周囲の機械へ当たることを思い出し、どうにか踏みとどまる。


「これ、動く?」


「身体を測る道具です」


「僕を捕まえない?」


「捕まえません」


 短く答えたリディアが測定を始める。


 四本の柱から淡い光が伸び、ピピの身体を包み込んだ。


「温かい」


「そのまま動かないでください」


「うん」


 光が頭から足元へ向かって、ゆっくりと下りていく。


 最初の十秒ほどは、ピピも大人しく立っていた。


 やがて、天井から下りてきた機械アームへ視線を奪われる。


 先端についた測定器が、翼へ触れない距離で止まった。


「近い……」


「翼の形を確認しています」


 ピピは身体を動かさず、目だけで機械アームを追った。


 その姿は、今にも飛び逃げそうだった。


「大丈夫だ。俺もここにいる」


 和真が声をかける。


「カズマ、本当に?」


「ああ。痛いことはしないよ」


 ピピは和真の方を見つめ、どうにかその場へとどまった。


 機械アームが翼の周囲を一周し、天井へ戻っていく。


「もう終わり?」


「あと少しです」


 ピピが小さく息を吐く。


 その時、翼の間から抜けた羽毛が一枚、目の前へ舞い落ちてきた。


 白く柔らかな羽毛が、淡い光の中をゆっくりと漂っている。


 ピピの視線が羽毛を追った。


 顔の前を通り、胸元へ下りる。


 さらに足元へ落ちようとした瞬間、ピピは反射的に片足を伸ばした。


「取った!」


 鉤爪が羽毛を掴む。


 同時に身体の釣り合いが崩れた。


「わっ」


 倒れそうになったピピが翼を開く。


 風が工房内を吹き抜け、作業台の上に置かれていた紙が舞い上がった。


 測定装置から警告音が鳴る。


 和真が素早くピピの身体を支えた。


「危ないだろ!」


「でも、羽は取れたよ!」


 ピピは鉤爪に挟んだ羽毛を、嬉しそうに見せる。


「落ちても、後で拾えばいいんだよ」


「僕の羽だよ?」


「なくなるわけじゃない。それより、測定をやり直すことになったぞ」


 ピピは周囲を見回した。


 測定の光は消え、四本の柱も止まっている。


「……最初から?」


「はい」


 リディアが淡々と答えた。


「ごめんなさい」


「次は、何かが落ちても追わないでください」


「分かった」


 今度の返事には、先ほどまでの勢いがない。


 ピピは鉤爪に挟んだ羽毛を和真へ差し出した。


「これ、リディアに渡して」


「自分で渡さないのか?」


「また落としたら、追いかけちゃうから」


「少しは学んだんだな」


 和真は羽毛を受け取り、リディアへ渡した。


「装置に使えそうか?」


「十分です。ピピの魔力と装置の反応を合わせるための素材にします」


 リディアは羽毛を透明な容器へ収めた。


 ピピは、大切そうにしまわれる自分の羽を見つめている。


「本当に僕の手になる?」


「正確には、手の代わりとなる補助機構の一部です」


「それなら、あげる」


「ありがとうございます」


 短い礼を聞き、ピピの表情が少しだけ明るくなった。


 二度目の測定では、ピピは最後まで動かなかった。


 別の羽毛が落ちても追いかけず、機械アームが近づいても和真の方を見て耐える。


 やがて淡い光が消え、警告音とは異なる柔らかな音が鳴った。


「測定完了です」


「今度は大丈夫?」


「問題ありません」


「やった!」


 ピピは台から飛び上がろうとして、寸前で止まった。


 翼を閉じたまま、両足で小さく跳ねる。


「飛ばなかったよ!」


「ああ。偉いぞ」


「僕、ちゃんと覚えられる!」


「その調子ならな」


 リディアが測定結果を表示すると、空中へピピの身体をかたどった立体映像が浮かび上がった。


 翼や鉤爪の形まで、細かく再現されている。


「僕がいる!」


「映像です」


 ピピは立体映像の周囲を一周し、後ろへ回り込んだ。


 光の身体も一緒に動くと思ったらしいが、映像はその場に止まっている。


「動かない」


「鏡ではありませんから」


 リディアは映像を拡大し、翼の付け根に流れる魔力を表示させた。


「ピピが翼を動かそうとすると、背中から肩へ一定の魔力が流れます。補助腕は、その反応を読み取って動かします」


「僕、魔法を使えないよ?」


「意識して魔法を使う必要はありません。腕を動かすつもりで翼へ力を入れれば、装置が判断します」


「翼と手が一緒に動いたりしないのか?」


 和真が尋ねる。


「飛行と補助腕は切り替え式にします。補助腕を使う時は翼を安全な位置で固定し、飛ぶ時は腕を折り畳んで翼の下へ収納します」


「飛びながら物を掴むのは?」


「足を使ってください。飛行中に補助腕を展開することはできません」


 リディアが立体映像へ、二本の細い腕を重ねる。


 人間の肘と同じ位置で曲がる関節。


 先端には、五本の指を持つ機械の手がついていた。


「手だ!」


 ピピは映像の前へ駆け寄った。


「本当に僕が動かせる?」


「調整と練習は必要です」


「最初は何を持つの?」


「布や空の容器です」


「食べられない物ばっかり……」


「食べるためだけの手ではありません」


 リディアが別の映像を重ねる。


 今度はピピの大きな翼と鉤爪が見えなくなり、人間の少女と変わらない姿になった。


 機械の腕も、自然な人間の腕へ見えるよう変化している。


「外見変更装置を使えば、この姿で街を歩けます」


「僕?」


「見た目だけを変えたピピです。本物の翼や足が消えるわけではありません」


「この手で、カズマに触れる?」


「できます」


「ご飯も持てる?」


「練習すれば」


 ピピは人間の姿をした映像を、何度も角度を変えて眺めた。


 自分の身体に手がついていることが、よほど不思議なのだろう。


「僕、一人でできることが増える?」


「そのための装置です」


 ピピは少しだけ黙り込んだ。


 昨夜から、食事も入浴も誰かに手伝ってもらっている。


 甘えることを嫌がってはいないが、自分だけではできないことが多いのは、やはり不便だったのだろう。


「僕、練習する」


 いつになく真剣な声だった。


「自分でご飯を食べたい。扉も開けたい」


「それなら、可能な限り扱いやすい装置を作ります」


「うん!」


 ピピの翼が嬉しそうに揺れる。


 羽ばたく前に止めたため、今度は何も飛ばなかった。


     ◇


 昼食を終えると、リディアは通訳機の製作へ取りかかった。


 和真の通訳魔法を参考に、ピピが聞いた日本語を理解できる言葉へ変える。


 同時に、ピピの言葉を日本語へ変換して周囲へ伝える。


 飛行中にも外れないよう、後頭部まで固定するヘッドホン型にする予定だった。


「僕も作りたい!」


「工具を扱う手がありません」


「足なら使えるよ」


 ピピが片足を上げる。


「工房の機械は危険です。今日は見るだけにしてください」


「どこで見るの?」


 リディアは作業台から少し離れた場所へ、小さな椅子を置いた。


「この椅子から先へは入らないでください」


「ここなら歌ってもいい?」


「小さな声なら構いません」


 ピピは椅子へ座り、翼を身体へ寄せた。


 しばらくは、リディアが部品を組み合わせる様子を大人しく見ている。


 機械の指が素早く動き、細い配線と小さな魔石がつながれていく。


「リディア、上手だね」


「長く続けていますから」


「僕も手ができたら、何か作れる?」


「練習すれば、簡単な物は作れるでしょう」


「じゃあ、最初はご飯を作る!」


「それは装置ではなく料理です」


「カズマに作ってあげる!」


「俺に?」


 和真が振り返る。


「何を作るんだ?」


「お肉を焼く!」


「手が完成する前から火を使う予定を立てるな」


「駄目?」


「まずはパンを持つところからだな」


「じゃあ、パンをカズマに食べさせる!」


「自分で食べる練習じゃなかったのか?」


「両方する!」


 ピピは楽しそうに笑った。


 そのまま歌い始めたが、作業の邪魔にならないよう声は小さい。


 何度か注意されたことを、ピピなりに覚えようとしている。


「ピピ」


 リディアが手を止めずに呼びかける。


「何?」


「補助腕の色に希望はありますか?」


「僕が決めていいの?」


「ピピの装置ですから」


 ピピは自分の翼を広げないよう、首だけを動かして羽を見た。


「僕の羽と同じ白がいい。それと、空の色!」


「白と淡い青ですね」


「光るやつもほしい!」


「魔力の流れる部分だけ、淡く光るようにします」


「リディア、大好き!」


 ピピが椅子から立ち上がる。


 そのまま駆け寄ろうとして、床へ引かれた黄色い線の手前で止まった。


 リディアが許可したのは、そこまでだった。


「ここから先は駄目なんだよね」


「はい」


「完成したら抱きつく!」


「抱きつかなくて結構です」


 断られても、ピピは嬉しそうだった。


 和真は椅子へ戻るピピを見ながら、小さく笑った。


 危なっかしさは変わらない。


 言われたことを忘れ、興味の向くまま動いてしまうこともある。


 それでも、失敗した後に同じことを繰り返さないよう、少しずつ立ち止まれるようになっていた。


 やがて、工房の窓から差し込む光が夕方の色へ変わりはじめていた。


 白と淡い青を基調とした通訳機も、少しずつ形になっている。


 中心へピピの羽が組み込まれ、淡い光が灯った。


「僕のだ……」


 ピピが椅子から身を乗り出す。


「まだ未完成です」


「でも、僕の羽が入ってる!」


「夜までには、最初の試作品を完成させます」


「今日、みんなと話せる?」


「正常に動けば、和真が離れていても話せます」


 ピピは工房の入口へ顔を向けた。


 仕事や用事を終えた皆が戻ってくるまでには、まだ少し時間がある。


「早く帰ってこないかな」


「試験には、皆にも協力してもらいます」


「じゃあ、待つ!」


 ピピは椅子へ座り直し、小さな声で歌い始めた。


 その日リディアは作業の合間に、104号室へピピ専用の止まり木も取り付けていた。


 今夜からは、丸めた布団へ身体を預けなくても眠ることができる。


 そして、目の前では、この世界で皆と暮らしていくための最初の装置が完成へ近づいている。


 ピピは翼を畳んだまま、通訳機へ灯った淡い光をいつまでも見つめていた。


日が暮れる頃、通訳機の組み立ては最終段階へ入っていた。


 仕事を終えたフェンリスも酒屋の制服から着替え、あおい、ひかげ、みゆと一緒に工房へ集まっている。


 全員が見守る中、リディアは小さな工具を使い、通訳機の側面へ最後の部品を取り付けた。


 白と淡い青を基調とした、ヘッドホン型の装置だった。


 左右の装置を細い帯がつなぎ、後頭部にも固定具が回る。飛行中に強い風を受けても外れない構造になっている。


 側面には、ピピの羽を基にした柔らかな模様が刻まれていた。


「完成です」


「できた!?」


 椅子に座っていたピピが勢いよく立ち上がる。


 黄色い線を越えそうになり、慌てて両足を止めた。


「ここから先は駄目だった!」


「覚えていましたね」


「うん!」


 リディアが通訳機を持って近づくと、ピピは自分から頭を下げた。


「これ、僕の?」


「まだ試作品ですが、ピピ専用です」


「僕だけの?」


「はい」


 ピピは嬉しそうに笑った。


 リディアが通訳機を頭へ載せ、後頭部の固定具を閉じる。


 耳を完全には塞がず、周囲の音や風の動きを感じ取れるよう、左右の装置は少し浮いた位置に取り付けられていた。


「痛くありませんか?」


「平気!」


「重さは?」


「ちょっとだけある。でも、大丈夫!」


「首をゆっくり左右へ動かしてください」


 ピピが首を動かす。


 通訳機は頭の形に沿ったまま、ほとんどずれなかった。


「次は上を向いてください」


「こう?」


「今度は下です」


 言われたとおりに動かした後、ピピは自分から頭を激しく振り始めた。


「落ちない!」


「そこまで激しく動かす必要はありません」


「飛んだ時は、もっと風が来るよ?」


「それは後ほど確認します」


 リディアは通訳機の側面へ指を添えた。


「これから通訳機能を試します。先に声を記録しますから、私が示した言葉を普段どおり話してください」


「歌うの?」


「話してください」


「分かった!」


 作業台の上へ、小さな録音装置が置かれる。


 青い光が灯ると、ピピは不思議そうに顔を近づけようとした。


「その位置で構いません」


「近い方が、よく聞こえると思った」


「装置の方で調整します」


 ピピは姿勢を戻し、録音装置へ向き直った。


「最初に、自分の名前を言ってください」


「僕はピピ!」


「次に、『おはよう』」


「おはよう!」


「『ありがとう』」


「ありがとう!」


「『ごめんなさい』」


「ごめんなさい!」


 前の晩に覚えた言葉も混じっていたため、最初の記録は順調に進んだ。


「次は、『お腹が空きました』」


「お腹が空きました!」


「随分素直じゃないか」


 和真が感心する。


「僕、早くこれを使いたいもん!」


「そのためなら、ちゃんと話を聞けるんだね」


 フェンリスが苦笑した。


 続いて、嬉しい時、困った時、危険を知らせる時など、声の強さを変えながら記録していく。


 途中でピピが思いついた歌を口ずさみ始めたものの、リディアに止められるとすぐに話す声へ戻った。


「最低限の音声は記録できました」


「もう話せる?」


「まずは、和真の通訳魔法が届かない状態で試します」


 リディアが和真へ顔を向けた。


「居間まで離れてください」


「分かった」


「カズマ、どこへ行くの?」


 ピピの表情から、それまでの明るさが少しだけ消えた。


「装置を試すために、少し離れるだけだよ」


「すぐ戻る?」


「ああ」


「どのくらい?」


「リディアから呼ばれるまでだ」


 ピピは不安そうに翼を身体へ寄せた。


「僕たちがいるよ」


 フェンリスがピピのそばへ移動する。


「通訳機が動けば、和真がいなくても話せるんだから」


「動かなかったら?」


「私が調整します」


 リディアが答える。


「ピピを一人にすることはありません」


 その言葉を聞き、ピピは小さく頷いた。


「分かった。僕、待ってる」


「じゃあ、行ってくる」


 和真は工房を出て、母屋へ向かった。


 扉が閉じられ、足音が遠ざかっていく。


 やがて和真の通訳魔法が届かなくなると、ピピの言葉は他の住人たちにとって意味を持たない音へ変わった。


「ピィ……リラ?」


 ピピがフェンリスを見上げる。


 フェンリスが何かを答えても、今度はピピの方が理解できない。


 昨日までなら、和真が離れた時点で会話はできなくなっていた。


 不安が強くなったのか、ピピの翼が身体へぴったりと寄せられる。


 リディアが通訳機の側面へ触れた。


「起動します」


 淡い青色の光が灯る。


『聞こえますか?』


 日本語で話したリディアの声が、通訳機を通してピピの理解できる言葉へ変わった。


 ピピの目が大きく見開かれる。


「分かる!」


 ピピの声を通訳機が拾う。


 わずかな間を置き、外側の小さな音声装置から日本語が流れた。


『分かる!』


「ちゃんと聞こえてるよ」


 フェンリスが笑顔で答える。


 その言葉も、すぐにピピへ伝わった。


「フェンリスの言葉も分かる!」


『フェンリスの言葉も、ものすごくよく分かる!』


「少し言葉が増えてない?」


 フェンリスが首を傾げる。


「僕、ものすごくって言ってないよ?」


『僕は、ものすごくとは言っていない!』


「感情の補正が強すぎますね」


 リディアが手元の記録を確認する。


「和真の通訳魔法を参考にしたため、言葉へ感情の強さまで加えてしまったようです」


「怒って話したらどうなるの?」


 みゆが尋ねる。


「実際よりも激しい言葉に変換される可能性があります」


「それは困るね」


 フェンリスが納得する。


 ピピは、なぜ全員が困っているのか分からないらしく、通訳機の音を聞きながら首を傾げていた。


「少しの間、話さないでください」


「分かった!」


『僕は絶対に話さない!』


「すでに大げさになっておるぞ」


 あおいが笑った。


 リディアは通訳機を外さず、側面の調整部分へ細い工具を差し込んだ。


 短い操作の後、青い光が一度消え、再び点灯する。


「もう一度話してください」


「何を言うの?」


『何を言うの?』


 今度は、口にした言葉だけがそのまま日本語へ変換された。


「直った?」


『直った?』


「はい。感情は声の調子だけで伝わるよう変更しました」


「僕の声と同じ?」


 フェンリスが聞き比べるように狼耳を動かす。


「少し機械の音が混じっているけど、ピピらしい声だよ」


「よかった!」


 ピピは嬉しそうにフェンリスへ駆け寄った。


 両翼で包み込みそうになったが、直前で身体を止める。


「抱きついていい?」


「先に聞けたね」


「駄目?」


「いいよ」


 許可をもらったピピは、フェンリスを柔らかな翼で包んだ。


「カズマがいなくても話せる!」


『カズマがいなくても話せる!』


「うん。これからは僕たちだけでも話せるよ」


 フェンリスの狼耳が、翼の間からわずかに覗いている。


 昨夜は和真に抱きつくピピを警戒していたが、今は追い払おうとはしなかった。


「わらわの言葉も分かるか?」


 あおいが話しかける。


「分かるよ、あおい!」


『分かるよ、あおい!』


「わ、私も……聞こえてる?」


 ひかげが小さな声で尋ねる。


「聞こえる! ひかげの声、小さいけど聞こえるよ!」


『聞こえる! ひかげの声、小さいけど聞こえるよ!』


「よかった……」


 みゆもピピの正面へ回った。


「僕の名前は?」


「みゆ!」


『みゆ!』


「尻尾は何本?」


「二本!」


『二本!』


「よし。余計なことは増えてないね」


 みゆは満足そうに二本の尻尾を揺らした。


 ピピはフェンリスから離れると、全員の名前を順番に呼んでいった。


 呼ばれるたび、通訳機から同じ名前が日本語で流れる。


 何度試しても、意味が大きく変わることはなかった。


「成功です」


 リディアが確認装置を閉じる。


「通常の会話であれば、問題なく使用できます」


「カズマを呼んでいい?」


「はい。私から連絡します」


 リディアがJINEで和真へ短い連絡を送った。


 それから少しして、工房の扉が開く。


「どうだった?」


「カズマ!」


 和真を見つけたピピが駆け寄る。


 通訳機が和真の魔力を検知すると、側面の青い光が弱くなり、音声の出力が自動的に止まった。


「急に聞こえなくなった!」


「壊れたのか?」


「違います」


 リディアが説明する。


「和真の通訳魔法が届く範囲では、同じ言葉が重なって聞こえないよう、通訳機が自動的に待機状態へ入ります」


「今は俺の魔法で話せてるってことか」


「はい。和真から離れれば、自動的に再起動します」


 ピピは和真の周囲を一周した。


 近くでは青い光が弱くなり、少し離れると元の明るさへ戻る。


「カズマに近づくと休むんだ!」


「通訳機の負担を減らし、稼働時間を延ばす効果もあります」


「ずっと動かすこともできるのか?」


「試験モードへ切り替えれば可能です。和真のそばにいる状態で、通訳機自体の動作を調べる場合に使用します」


「外へ出た時の試験にも使えそうだな」


「その予定です」


 これなら、和真が同行している時でも、通訳機が街の人へピピの言葉を伝えられる。


 リディアは誤作動を避けるため、試験モードへの切り替えは自分だけが行えるよう設定した。


「次は、飛んでも外れないか確認します」


「飛んでいいの!?」


「工房の中ではありません。外へ移動します」


 ピピは返事をするより先に出口へ向かいかけたが、黄色い線の手前で止まった。


「リディアが先?」


「はい」


「今日はちゃんと待ててるぞ」


 和真が褒めると、ピピは得意そうに胸を張った。


「僕、装置を壊したくないから!」


     ◇


 一同は敷地の奥にある、人目につきにくい広場へ移動した。


 上空から見られる可能性もあるため、高く飛びすぎないよう先に言い聞かせる。


「外れそうになったら、すぐに下りてください」


 リディアが通訳機の固定具を確認する。


「落ちても僕が取るよ?」


「装置を追いかけて、敷地の外へ飛ばないでください」


「じゃあ、カズマが取って!」


「落ちた場所によるな」


「その前に落ちないよう作っています」


 リディアが固定具を軽く引いて確かめた。


「飛んで構いません」


「やった!」


 ピピが地面を蹴る。


 大きな翼が空気を捉え、白い身体が一気に上昇した。


 アパートの屋根より少し低い高さで旋回し、風へ乗って広場を一周する。


 急に向きを変えても、通訳機はずれなかった。


「聞こえる?」


 広場の外側まで飛んだピピが声を上げる。


 和真の通訳魔法が届かなくなると、通訳機の青い光が強くなった。


『聞こえる?』


「聞こえてるよ!」


 フェンリスが両手を振る。


 その声も通訳機を通じ、離れた場所にいるピピへ伝わった。


「すごい!」


『すごい!』


 ピピは翼を傾け、今度は少し速度を上げた。


 風が強くなっても、後頭部の固定具は外れない。


 声の変換にも乱れはなかった。


 やがて広場へ戻り、和真たちの前へ着地する。


「落ちなかったよ!」


「ああ。飛んでる時も問題なさそうだな」


「音声記録にも乱れはありません」


 リディアが確認装置を見る。


「ただし、強い雨や水の中では使用できません。入浴時には必ず外してください」


「濡れたら駄目なの?」


「少量の雨には耐えますが、完全に水へ沈めることは想定していません」


「お風呂で話したくなったら?」


「和真を呼ばないでください」


 リディアより先に、フェンリスが答えた。


「まだ呼ぶって言ってないよ?」


「ピピなら言いそうだから!」


「フェンリスを呼ぶ!」


「僕なら……まあ、いいけど」


 昨夜よりもずっと柔らかな返事だった。


「歌も試したい!」


 ピピは空を見上げ、大きく息を吸った。


「らーららー……」


 広場へ、澄んだ歌声が流れる。


 通訳機は歌を日本語へ変えず、ピピ本来の声をそのまま響かせていた。


 言葉の意味は分からなくても、楽しそうに歌っていることは伝わってくる。


 敷地の木へ止まっていた鳥たちも、歌声に応えるように鳴き始めた。


「歌は通訳しないのか?」


 和真が尋ねる。


「歌を言葉へ変換すると、音程や響きが崩れます」


 リディアが答える。


「通訳するのは通常の会話だけです。歌っていると判断した場合は、元の声をそのまま出します」


「僕の歌、変わらない?」


 歌を止めたピピが尋ねる。


「変えません」


「よかった!」


 ピピはもう一度、短い歌を口ずさんだ。


 誰かと話すための新しい声を手に入れても、歌う時の声は今までと同じだった。


     ◇


 工房へ戻ったリディアは、通訳機の記録を確認しながら細かな調整を続けた。


 ピピは今度こそ椅子へ座り、通訳機の側面へ大切そうに翼の先を添えている。


「これ、ずっと僕の?」


「調整が終われば、ピピの物です」


「寝る時もつける?」


「外してください。使用していない間は専用の台で充電します」


「じゅうでん?」


「装置が動くための力を戻すことだよ」


 和真が説明する。


「ご飯みたいなもの?」


「装置にとっては、そう考えてもいいな」


「僕と同じだ!」


「ピピほど何度も必要にはなりません」


 リディアは通訳機の側面を閉じた。


「一日使用した後、夜の間に充電すれば十分です」


「僕の部屋に置く?」


「専用の充電台を104号室へ設置します」


「止まり木の近くがいい!」


「寝返りで落とさない位置へ置きます」


 昼食後に取り付けられた止まり木を思い出したのか、ピピの翼が嬉しそうに揺れた。


 今夜からは、木の枝に近い姿勢で眠ることができる。


「明日は手を作るんだよね?」


「すでに必要な部品の準備は進めています」


 リディアが作業台の奥へ視線を向けた。


 そこには、白く塗装された細い骨組みが二本並んでいた。


 肘に当たる位置には小さな関節があり、先端にはまだ形の整っていない五本の指がついている。


「僕の手!」


 ピピが立ち上がる。


 今度は黄色い線を越えず、遠くから二本の腕を見つめた。


「触ってもいい?」


「明日、身体へ取り付けてからです」


「明日の朝?」


「はい」


「ご飯の前?」


「朝食後です」


 ピピは少しだけ残念そうな顔をしたものの、作業台へ近づこうとはしなかった。


「じゃあ、今日は見るだけにする」


「それが賢明です」


「明日になったら、この手で扉を開けられる?」


「練習が必要です」


「自分でご飯も食べられる?」


「それも練習次第です」


 ピピは白い骨組みと、自分の大きな翼を見比べた。


 昨日までは、誰かに食べさせてもらうことも、扉を開けてもらうことも当たり前になりかけていた。


 しかし、明日からは自分でできることが増えるかもしれない。


「僕、いっぱい練習する」


「焦らず、一つずつ覚えてください」


「うん」


 その返事は、いつもより落ち着いていた。


 通訳機の試験は成功した。


 和真がそばにいなくても、ピピは他の住人たちと言葉を交わせるようになった。


 そして作業台の上では、次の装置がすでに形を持ち始めている。


 白と淡い青に彩られた二本の補助腕を、ピピは工房を出るまで何度も振り返って見つめていた。


翌朝。


 朝食を終えたピピは、通訳機を頭につけたまま工房へ駆け込んだ。


 この日はフェンリスも酒屋の仕事が休みで、朝から補助腕の試験へ付き合うことになっている。


「リディア、手はできた!?」


「走らないでください」


 作業台へ向かっていた足が、黄色い線の手前で止まる。


 昨夜まで何度も注意されたため、工房の中で越えてはいけない場所は覚えていた。


「走ってないよ?」


「今、走っていました」


「途中から止まった!」


「それは認めます」


 リディアは作業台の上へ、二本の補助腕を並べた。


 細い金属の骨組みは白を基調とし、関節部分には淡い青色の装甲が取り付けられている。


 魔力を伝える細い線が、腕の内側でわずかに光っていた。


「僕の手!」


 ピピの目が輝く。


 翼を広げそうになったが、作業台の上に細かな部品が残っていることへ気づき、自分で動きを止めた。


「昨日より手みたいになってる!」


「夜の間に、基本部分を仕上げました」


「もう動かせる?」


「身体へ取り付けて、反応を調整すれば動かせます」


「今つけて!」


「そのために呼びました。測定台へ立ってください」


 ピピは急いで台へ向かい、途中から速度を落とした。


 昨日、羽を追いかけて測定をやり直したことも忘れてはいないらしい。


 台の上へ立つと、翼を身体へ寄せる。


「これでいい?」


「そのまま動かないでください」


 リディアは補助腕につながった装着具を持ち上げた。


 腰を囲む細い帯と、背中へ回る二本の支えで構成されている。翼の付け根を避けるよう形が整えられ、飛行の邪魔にならない位置へ固定できる構造だった。


「少し身体へ触れます」


「痛くない?」


「締めつけを感じたら教えてください」


 装着具が腰へ回される。


 背中の支えが翼の下を通り、左右の補助腕が身体の横へ収まった。


 本物の翼よりもかなり細いが、先端には人間と同じ五本の指がある。


「ついた?」


「まだ起動していません」


 ピピは首を伸ばし、自分の横にある手を見ようとした。


 腕は動かないため、力なく下がったままだった。


「眠ってるみたい」


「今から起こします」


 リディアが装着具の中央へ、ピピの羽を組み込んだ小さな制御部品を取り付ける。


 淡い青色の光が、背中から左右の腕へ流れた。


 二本の手がわずかに動き、指先が開く。


「動いた!」


「ピピは動かないでください」


「僕が動かしたんじゃないの?」


「最初は装置側の確認です」


 リディアは片方ずつ腕を動かし、関節の角度を確かめた。


 肩。


 肘。


 手首。


 五本の指。


 どの部分も引っかかることなく動いている。


「基本動作に問題はありません。次はピピが動かします」


「どうやって?」


「右手を前へ出す場面を想像してください」


 ピピは目の前を見つめた。


「右って、どっち?」


「こちらです」


 和真がピピの右側へ立つ。


「俺がいる方の手を動かしてみろ」


「カズマの方!」


 ピピが意識を向けると、右の補助腕が勢いよく上がった。


 開いた手が和真の胸元へ伸び、その直前で止まる。


「動いた!」


「顔の方へ来なくてよかったよ」


「カズマに触っていい?」


「ゆっくりならな」


 ピピが指を動かそうとする。


 しかし、五本の指がばらばらに曲がり、何もない空中を引っかくような動きになった。


「変になった!」


「一度に全てを動かそうとしないでください」


 リディアが小さな布の球を差し出す。


「最初は、これを手のひら全体で包んでください」


「掴むんじゃないの?」


「強く掴むと、力の調整ができません」


 布の球が右手へ置かれる。


 ピピは真剣な顔で指を曲げた。


 人差し指だけが動き、続いて小指が閉じる。


 親指は反対方向へ動きかけ、途中で止まった。


「難しい……」


「最初から上手に動かせる者はいません」


「リディアも?」


「私も、機械の腕へ替わった直後は練習しました」


 ピピがリディアの両腕を見る。


 いつも迷いなく動く機械の指も、初めから自由に使えたわけではない。


「じゃあ、僕もできる?」


「諦めなければ」


「やる!」


 ピピは布の球へ意識を戻した。


 今度は親指を先に動かし、残りの指をゆっくりと閉じていく。


 布の球が、手の中へ収まった。


「持てた!」


「ああ。ちゃんと持ててるぞ」


 和真に褒められ、ピピの顔が明るくなる。


「カズマに渡す!」


 右腕を伸ばし、手のひらを開く。


 布の球は和真の手へ渡る前に床へ落ちた。


「あっ」


「渡す時は、相手が持ってから離すんだ」


 和真が床から球を拾い、もう一度ピピへ持たせる。


「俺が掴むまで待ってみろ」


「うん」


 差し出された球へ、和真の手が重なる。


 ピピは指先へ伝わるわずかな抵抗を感じてから、ゆっくりと手を開いた。


 今度は落ちなかった。


「渡せた!」


「その感覚を覚えておけよ」


「もう一回!」


 何度か繰り返すうちに、受け渡しは少しずつ滑らかになった。


 右手の次は左手。


 片手ずつ使えるようになると、今度は両手で空の箱を持つ。


 最初は左右の高さが合わず、箱が大きく傾いた。


 それでもピピは慌てず、低くなった方の腕を少しずつ持ち上げる。


「真っすぐになった?」


「なってるよ」


 見守っていたフェンリスが答えた。


「そのまま、こっちまで運んでみて」


 ピピは箱を持ったまま歩き始めた。


 補助腕へ意識を向けすぎたため、鉤爪が床へ引っかかる。


 身体が前へ傾き、箱が手から離れた。


「危ない!」


 フェンリスが支えようとする。


 その前に、ピピの両腕が反射的に動いた。


 落ちかけた箱を左右から挟み、胸元で受け止める。


「取れた……」


「今のは、考える前に動いたのか?」


 和真が尋ねる。


「分かんない。落としたくないって思っただけ」


「身体の反応を正常に読み取っています」


 リディアが記録を確認する。


「練習すれば、より自然に動かせるようになるでしょう」


 ピピは箱を両手で持ち直した。


 今度は足元も確かめながら、フェンリスの前まで運ぶ。


「はい」


「ありがとう」


 フェンリスが箱を受け取った。


 ピピは両手を見つめ、嬉しそうに指を開いた。


「僕の手、本当に動く!」


     ◇


 基本動作を繰り返しているうちに、昼食の時間になった。


 練習の途中には、あおい、ひかげ、みゆも様子を見に来ている。


 いつもなら母屋へ戻るところだが、今日は補助腕の試験を兼ね、工房の休憩場所へ食事を運んだ。


 ピピの前には、柔らかいパンと野菜のスープが置かれている。


「僕が食べていい?」


「そのための練習です」


 リディアが柄の太いスプーンを差し出す。


 ピピは右手で受け取ろうとしたが、指の間から滑り落ちた。


 床へ落ちる前に、左手が動いて柄を掴む。


「取れた!」


「喜ぶ前に、持ち直せ」


 和真に言われ、ピピは両手を使ってスプーンを右手へ戻した。


 指を閉じ、柄を握る。


「次は、スープ?」


「最初は少しだけすくってください」


 スプーンを器へ入れる。


 手首の角度が深すぎて、器の縁へぶつかった。


 今度は少し浅くする。


 何度か試した末、少量のスープをすくうことができた。


「入った!」


「そのまま、ゆっくり口まで運べ」


 ピピはスプーンだけを見つめながら、腕を動かした。


 途中で手首が傾き、スープが半分ほど器へ戻る。


 残った分は、どうにか口へ届いた。


「食べられた!」


「味は?」


 フェンリスが尋ねる。


「おいしい!」


「そこはいつもと同じだね」


 次は、もう少し多くすくう。


 一口目よりは安定していた。


 三口目には、ほとんどこぼさず口へ運べるようになる。


 ピピは誰かに食べさせてもらうのではなく、自分の好きな順番でスープとパンを口へ運んでいった。


「フェンリス」


「どうしたの?」


「次に何を食べるか、僕が決められる!」


「うん。自分の手だからね」


「すごい!」


 しばらくして、パンの最後の一切れを持ち上げる。


 ピピはそれを自分の口へ入れず、隣に座っていた和真へ向けた。


「カズマにもあげる」


「自分で食べなくていいのか?」


「僕、さっきいっぱい食べたから」


「そうか。ありがとう」


 和真が口を開ける。


 ピピは指へ余計な力を入れないよう注意しながら、パンを口元へ運んだ。


「どう?」


「うまいよ」


「僕、食べさせるのもできた!」


 喜んだ拍子に、空になった器へ肘が当たる。


 器が食卓の端へ滑り、ピピの目の前から落ちた。


 右手にはスプーンを持っている。


 ピピは左手を伸ばし、床へ届く直前の器を掴んだ。


 同時に傾いたスプーンも、右手の指を閉じて握り直す。


 どちらも落ちなかった。


「今のは上手だったね」


 みゆが感心したように二本の尻尾を揺らした。


「僕、二つ取った!」


「自分で当てた器だけどな」


 和真に指摘され、ピピは手の中の器を見る。


「じゃあ、僕が落として、僕が取った!」


「最初から落とさないのが一番だよ」


「次はそうする!」


 失敗はしたものの、昨日の朝のように足でスプーンを持とうとはしなかった。


 食事を終えたピピは、自分で器を重ね、両手で持ち上げた。


「片付けてくる!」


「走るなよ」


「歩く!」


 足元と器を交互に確認しながら、流し台まで運ぶ。


 まだ洗うことまでは任せられなかったが、自分の食器を自分で運べただけでも、ピピは満足そうだった。


     ◇


 昼食後は、生活に必要な動作を試すことになった。


 最初は扉だった。


「取っ手を掴み、下へ動かしてから引いてください」


 リディアに教えられ、ピピは右手を伸ばす。


 取っ手を掴むところまではできたものの、押すのか引くのか分からなくなったらしい。


 力任せに上へ持ち上げようとする。


「扉は持ち上がらないぞ」


「でも、動かない!」


「下へ回してから、こっちへ引くんだ」


 和真が隣で同じ動作を見せる。


 ピピは真似をして取っ手を下げた。


 小さな音がして、扉の固定が外れる。


 そのまま腕を引くと、扉が開いた。


「開いた!」


「今度は閉めてみろ」


 ピピは開いた扉の向こうへ移動し、取っ手を掴み直す。


 勢いよく引こうとしたため、和真が先に扉を押さえた。


「静かにだ。手を挟むぞ」


「この手も痛い?」


「装置が壊れるかもしれない」


 その言葉を聞き、ピピの動きが急に慎重になった。


 隙間を確かめながら、最後までゆっくり閉める。


「できた」


「装置だけじゃなく、他の人が手を挟むこともあるからな」


「そっちも痛い?」


「痛いよ」


「じゃあ、いつもゆっくり閉める」


 続いて水道の蛇口を動かす。


 最初は水を出しすぎ、勢いよく流れた水へ驚いたが、手を離さずに元へ戻すことができた。


 棚から柔らかな布を取り出す。


 軽い袋を持ち上げる。


 椅子を引き、座った後に元へ戻す。


 練習を重ねるほど、補助腕の動きは自然になっていった。


「これなら、104号室の窓以外からも出られるね」


 みゆが言う。


「窓から出た方が早いよ?」


「部屋へ入る時は窓でもいいけど、みんなと歩く時は扉を使えるでしょ」


「そっか。僕、どっちからも出られる!」


「窓を閉めないよう注意してください」


 リディアが付け加える。


「104号室の窓は、ピピが戻れなくならないよう常に開けてあります」


「閉めたら入れない?」


「補助腕を装着していれば開けられる可能性はありますが、飛行中は腕を使用できません」


「じゃあ、閉めない!」


「他の部屋の窓は勝手に開けないでください」


「カズマの部屋も?」


「和真の部屋へ行く時は、これまでどおりベランダの手すりへ止まって声をかけろ」


「中に入ったら駄目?」


「勝手には入るな」


「呼んでくれたら?」


「その時はいいよ」


 ピピは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、夜に呼んでもらう!」


「最初から夜に来るつもりなの?」


 フェンリスの狼耳がぴんと立つ。


「装置が完成したって見せに行く!」


「今、和真も一緒にいるよ!」


「それなら、もう見てた!」


「今気づいたの!?」


 ピピは和真の方を見て、ようやく目的が済んでいることを理解したらしい。


「じゃあ、夜は寝る!」


「そうしてくれ」


     ◇


 補助腕の動作が安定すると、次は飛行への切り替えを試すことになった。


 一同は前日と同じく、敷地の奥にある広場へ移動した。


「腰の右側にある切り替え部分を押してください」


 リディアが装着具を示す。


「これ?」


「一度だけ押します」


 ピピが補助腕の指で切り替え部分を押した。


 短い音が鳴り、左右の腕が自動的に折り畳まれていく。


 指、手首、肘の順に小さくなり、翼の下へ収まった。


 続いて、固定されていた翼が自由になる。


 ピピは大きく翼を広げた。


「軽くなった!」


「飛行中は補助腕を展開できません」


「空で切り替えたら?」


「反応しないよう設定しています。必ず地面へ下りてから切り替えてください」


「足なら使えるよ?」


「飛んで物を運ぶ場合は、これまでどおり鉤爪を使ってください」


「分かった!」


 ピピは地面を蹴り、広場の上空へ飛び上がった。


 腰と背中の装着具は身体へ固定されたままだが、飛行の邪魔にはなっていない。


 一度旋回し、少し速度を上げる。


「大丈夫!」


 和真の魔法が届かない位置へ離れると、通訳機が自動的に動き出した。


『腕、邪魔じゃないよ!』


「そのまま一周して戻ってこい!」


 和真の声が、通訳機を通してピピへ伝わる。


 ピピは広場を一周し、元の場所へ着地した。


 翼を畳んでから、腰の切り替え部分を押す。


 装着具が地上にいることを確認した後、折り畳まれていた補助腕がゆっくりと展開した。


「手が戻った!」


「切り替えは正常です」


 リディアが記録を確認する。


「装着具にも、飛行によるずれはありません」


「もう一回飛ぶ!」


「飛行の確認は終わりました」


「手を出したり、しまったりしたい!」


「何度も行うと魔力を消費します」


 ピピは両手を見つめた。


「手もご飯が減るの?」


「装置の力が減るという意味です」


「じゃあ、今日はもう飛ばない」


 ピピは装置を大切そうに身体へ寄せようとして、補助腕で自分の身体を抱くような妙な姿勢になった。


「僕の手、疲れたらかわいそう」


「装置に疲労はありません」


「でも、休ませる!」


「その心がけは悪くありません」


     ◇


 工房へ戻ると、リディアは最後の装置を作業台へ置いた。


 腰の装着具へ取り付ける、小さな外見変更装置だった。


「これを補助腕と通訳機へ連動させます」


「人間の姿になるやつ?」


「はい。ただし、実際に身体が変わるわけではありません」


 リディアは装置を腰へ取り付け、通訳機と補助腕へ接続する。


「外見だけを変えます。翼や鉤爪はそのまま残るため、狭い場所では周囲へぶつけないよう注意してください」


「見えなくても翼はある?」


「あります。人の多い場所では、翼を身体へ寄せたまま歩いてください」


 ピピは両翼を背中へ沿わせるように畳んだ。


「これなら大丈夫?」


「その姿勢を保ってください」


 リディアが外見変更装置を起動する。


 腰から淡い光が広がり、ピピの身体を包み込んだ。


 大きな白い翼が薄れていく。


 翼の下にあった機械の補助腕は、人間の少女と変わらない腕へ見えるようになった。


 鉤爪のある足にも外見が重なり、白い靴を履いているように見える。


 服装も、街を歩いていて不自然に思われない形へ整えられていた。


 光が消えた時、そこには普通の少女にしか見えないピピが立っていた。


「僕の羽、なくなった!」


 ピピが背中を確かめようとする。


 人間に見える腕を後ろへ回したが、本物の翼へ触れて途中で止まった。


「ある!」


「外見だけを隠していると説明しました」


「変な感じ!」


 工房に置かれた姿見の前へ移動する。


 鏡の中にいるのは、翼も鉤爪も持たない少女だった。


 ピピは鏡の中の自分へ右手を振った。


 鏡の少女も同じように手を振る。


「今度は動いた!」


「鏡だからな」


 和真が答える。


「昨日の光の僕とは違う?」


「あれは身体を映した立体映像です。これは現在のピピを映しています」


 リディアが説明する。


 ピピは鏡へ近づき、自分の足元を見た。


「靴もある」


「履いているように見えるだけです。実際の足は鉤爪のままです」


「触ったら?」


「本物の鉤爪へ触れます」


 ピピは補助腕の指で、靴に見える自分の足へ触れようとした。


 指先は靴の像を抜け、鉤爪へ当たる。


「見える場所と違う!」


「自分の本当の足の位置を忘れないでください」


「歩けるよ!」


 ピピは自信を持って一歩を踏み出した。


 靴に見える像を基準に足を置こうとしたため、鉤爪の先が思っていたより早く床へ触れる。


 身体が前へ傾き、和真が肩を支えた。


「危ないだろ」


「靴が僕の足より短い!」


「見た目へ足を合わせようとするな。本当の足で歩け」


「でも、見えないよ?」


「感覚は残ってるだろ」


 ピピは目を閉じた。


 鉤爪が床へ触れている感覚を確かめ、それからゆっくり一歩進む。


 今度はふらつかなかった。


「歩けた」


「そのまま、鏡を見ずに進んでみてください」


 リディアに言われ、ピピは自分の足元から視線を外した。


 一歩ずつ、普段と同じ歩幅で進んでいく。


 見た目は人間の少女だが、身体の動かし方まで人間へ変える必要はない。


 工房を一周する頃には、最初のような不自然さも減っていた。


「僕、人間に見える?」


「少し歩き方が変わっているけど、見た目だけなら普通の女の子だよ」


 フェンリスがピピの周囲を回って確かめる。


「翼も、補助腕の機械も見えない」


「これなら、外のお店に入れる?」


「装置が正常に動き続ければ可能です」


「今から行く!」


「今日は行きません」


 リディアが即答する。


「どうして?」


「外見を保った状態で、歩行や補助腕の動作を確認する必要があります。それに、もう夕方です」


「少しだけなら?」


「明日、必要な物を買いに行く予定があります」


 和真が間へ入る。


「その時に外出試験をすればいいだろ」


「カズマも行く?」


「ああ」


「フェンリスは?」


「明日も仕事が休みだから、僕も行くよ」


「リディアも?」


「装置の記録を確認するため同行します」


 ピピの顔が一気に明るくなった。


「みんなでお店に行く!」


「全員じゃないよ。あおいたちは家で待ってるからね」


「帰ったら、教えてあげる!」


「何を?」


「お店がどんなところか!」


 ピピは両手を高く上げた。


 人間の腕に見える補助腕が、その動きに合わせて滑らかに伸びる。


 翼は身体へ畳まれたままで、周囲へ風を起こすこともなかった。


「明日は、この手で何か買える?」


「買い物の仕方を覚えればな」


「お金を渡すんだよね」


「覚えてたのか」


「うん。店の物は勝手に食べない!」


 以前なら、空腹になれば置いてある物を食べてしまっていた。


 明日は自分の手で商品を選び、金を払い、持ち帰ることになる。


「僕、ちゃんと買う!」


「あまりたくさん籠へ入れるなよ」


「必要な物だけにする!」


「ピピが必要だと思う物と、俺たちが必要な物は違いそうだな……」


 和真は少しだけ不安になったが、今から細かく言い聞かせても忘れるだろう。


 明日、店の中で一つずつ教えた方がよさそうだった。


 リディアが外見変更機能を解除すると、人間の少女の姿が淡い光となって消えた。


 大きな白い翼と鉤爪が再び姿を現し、補助腕も白と淡い青の機械へ戻る。


 ピピは二本の手を何度も開き、満足そうに笑った。


 言葉を届ける通訳機。


 物へ触れるための補助腕。


 街を歩くための外見変更装置。


 三つの装置は、ひとまず形になった。


「明日、みんなでお店に行こう!」


 元気な声が工房へ響き渡る。


 しかし、外見だけが人間になっても、ピピの中身まで変わったわけではない。


 翌日の外出試験が何事もなく終わるとは、誰一人として思っていなかった。


翌朝。


 外出試験を控えたピピは、いつもより早く朝食を終えていた。


 補助腕を装着し、頭には白と淡い青の通訳機をつけている。


 リディアが腰の装置を操作すると、淡い光がピピの身体を包み込んだ。


 大きな翼と鉤爪が見えなくなり、補助腕が人間の少女の腕へ変わる。足元にも外見が重なり、白い靴を履いているように見えた。


 実際の身体は何も変わっていない。


 翼は背中へ畳まれ、靴に見える足の内側には、いつもの鉤爪がある。


「できた!」


 姿見の前に立ったピピが、二本の手を持ち上げる。


 昨日より動きは自然になっていたが、嬉しくなると指が一斉に開いたり閉じたりする癖は残っている。


「外見変更装置、補助腕、通訳機。全て正常に動作しています」


 リディアは小型の確認装置へ目を落とした。


「今日は外出試験のため、通訳機を試験モードへ切り替えます。和真も、装置の働きを確認できるよう通訳魔法を抑えてください」


「分かった。今日は通訳機に任せればいいんだな」


「はい。緊急時には、すぐ魔法を使える状態でいてください」


「僕の声は、どっち?」


「今日は通訳機から出ます」


「カズマの魔法は休み?」


「装置の試験中は、そう考えて構いません」


「じゃあ、通訳機が頑張る日だ!」


 ピピはヘッドホンの側面へ手を伸ばしかけ、自分で止めた。


 外してはいけないことを覚えていたらしい。


「出発前に、三つだけ約束してください」


 リディアがピピへ向き直る。


「私たちのそばから離れないこと。商品へ触れる前に確認すること。そして、勝手に装置を切り替えないことです」


「みんなのそばにいる。触る前に聞く。装置を変えない」


「覚えられましたね」


「僕、三つなら大丈夫!」


「四つ目を加えたら忘れそうな言い方だな」


 和真が苦笑する。


 今日、買い物へ同行するのは、和真、フェンリス、リディアの三人だった。


 フェンリスは昨日に続いて酒屋の仕事が休みで、ピピが人の多い場所へ出ても問題ないよう、そばで見守ることになっている。


 あおいたちは母屋に残り、玄関前まで見送りに出ていた。


「人の多い場所では、急に走ってはならぬぞ」


 あおいが念を押す。


「迷子に……ならないで、ね」


 ひかげは心配そうに、小さな袋をピピへ差し出した。


「これ……外で、お腹が空いた時のパン……」


「僕に!?」


「う、うん……」


「ありがとう!」


 ピピは袋を両手で受け取った。


 力を入れすぎないよう慎重に持ち、腰につけた小さな鞄へ入れる。


「帰ってきたら、店がどんなところだったか教えてね」


 みゆが二本の尻尾を揺らす。


「おいしい物がいっぱいあるところ!」


「まだ行ってないだろ」


「カズマが、ご飯を買う場所だって言ったもん!」


「それだけは、ちゃんと覚えてるんだね」


 ピピは先頭に立とうとしたが、約束を思い出して和真の隣へ戻った。


「ここでいい?」


「ああ。今日は歩いて行くぞ」


「僕、歩くのも上手になったよ!」


 得意そうに一歩を踏み出す。


 靴の外見に足を合わせようとはせず、本来の鉤爪が地面へ触れる感覚を頼りにしていた。


 四人は空色唐辛子荘を出て、住宅街の道を歩き始めた。


     ◇


 ピピにとって、自分の姿を隠したまま街を歩くのは初めてだった。


 これまでは人に見つからないよう、屋根や木々の上を移動していた。


 同じ高さで人とすれ違うことが珍しく、散歩中の犬や自転車で走る学生を見つけるたびに、ピピの顔が忙しく動いた。


「誰も僕を見て逃げないね」


「今は普通の女の子に見えてるからな」


「羽も見えない?」


「見えないよ」


 フェンリスがピピの背後を確かめる。


「ちゃんと人間の服しか見えてない。ただ、本当の翼はそこにあるから、人へぶつけないようにね」


「畳んでる!」


 ピピは見えなくなった翼を身体へ寄せた。


 外見変更装置は姿を隠すだけで、翼そのものを消すわけではない。


 人とすれ違う時は少し間を空け、狭い場所では横を向かないようにする必要があった。


 向かいから、小学生の集団が歩いてくる。


「おはようございます!」


 子供たちが元気よく挨拶した。


 ピピは一瞬だけ驚き、それから嬉しそうに答える。


「おはよう!」


 通訳機から自然な日本語が流れた。


 子供たちは何も不思議に思わず、そのまますれ違っていく。


 ピピは立ち止まり、遠ざかる背中を見送った。


「今、僕の言葉が分かった?」


「ああ」


「知らない子なのに?」


「通訳機が正常に働いています」


 リディアが確認装置を見せる。


「音声の変換にも問題はありません」


「僕、この道で話してもいいんだ」


「大声を出さなければな」


 ピピは再び歩き出した。


 すぐ先には大きな交差点がある。


 車が行き交う道路を前にすると、さすがのピピも足を止めた。


「空から見た時より速い……」


「信号が青になってから渡るんだ」


「飛び越えた方が早いよ?」


「今日は歩いて店へ行くんだよ」


 フェンリスがピピの手を取った。


「装置を切り替えないって約束したでしょ」


「そうだった」


 信号が青へ変わる。


 ピピはフェンリスに手を引かれながら、横断歩道を渡った。


 補助腕から伝わる感覚は、本物の手ほど細かくはない。


 それでも、指を通して誰かとつながっていることは分かる。


「フェンリスの手、温かい」


「僕は生きてるからね」


「僕の手は?」


「少し冷たいかな。でも、ちゃんとピピの手だよ」


 ピピはつながれた手を見つめた。


 信号を渡り終えても、自分からはすぐに離さなかった。


 フェンリスも嫌がる様子はなく、そのまま隣を歩いている。


 和真は二人の後ろ姿を見ながら、ひそかに笑った。


     ◇


 目的のスーパーへ着くと、入口の自動扉が音もなく開いた。


 ピピは足を止めた。


 扉が閉じる。


 一歩近づくと、また開く。


「僕が来たの、分かった?」


「上にある機械が、人を見つけてるんだ」


「誰も触ってないのに開いたよ?」


「自動扉だからな」


 ピピは扉の上にあるセンサーを見上げた。


 もう一度試そうと一歩下がったところで、後ろから別の客が近づいてくる。


「入口で遊ぶな」


 和真に背中を押され、ピピは店内へ入った。


「帰る時も開く?」


「開くよ」


「僕を覚えてるの?」


「誰が来ても開くんだよ」


「すごい扉!」


「まずはそこからなんだね……」


 フェンリスが苦笑した。


 店内へ進んだピピは、今度こそ言葉を失った。


 棚には色とりどりの商品が並び、野菜や果物が山のように積まれている。


 奥には魚や肉の売り場が続き、総菜売り場からは食欲を誘う匂いが漂ってきた。


「これ、全部ご飯?」


「食べ物じゃない物もあるけど、大体はそうだな」


「ここで暮らせる?」


「暮らせない」


 和真は買い物籠を一つ取り、ピピへ渡した。


「今日は夕食の材料を買う。俺が選んだ物を、この中へ入れてくれ」


「僕が持つの?」


「補助腕の試験だからな。重くなったらすぐに言えよ」


「任せて!」


 ピピは両手で籠を持った。


 最初に向かったのは野菜売り場だった。


 和真がキャベツを一玉持ち上げる。


「これを入れてみろ」


「うん」


 ピピは片手で籠を支え、もう片方の手でキャベツを受け取った。


 指が表面へ食い込まないよう、慎重に力を調整する。


「丸い」


「落とすなよ」


「大丈夫!」


 無事に籠へ収めると、ピピは小さく拳を握った。


 続いて人参、玉ねぎ、キノコを選ぶ。


 同じ種類でも、形や大きさは少しずつ違う。


 フェンリスに教わりながら、一つずつ籠へ入れていった。


「買い物って、探すんだね」


「欲しい物を選ぶんだよ」


「置いてある物を全部もらうんじゃないの?」


「全部買ったら食べきれないでしょ」


 フェンリスが形の大きく曲がった人参を棚へ戻し、別の一本をピピへ見せた。


「今日はこっちにしよう」


「曲がってるのは食べられない?」


「食べられるよ。ただ、形が違うだけ」


 ピピは棚へ戻された人参を見つめた。


「じゃあ、曲がってるのも入れる」


「どうして?」


「一つだけ残ったら寂しそう」


 ピピは曲がった人参を手に取った。


 フェンリスは人参とピピを見比べ、そのまま籠へ入れることを許した。


「一本くらいならいいか」


「キャベツの隣に入れる!」


「どっちも夕食になるけどね」


 野菜売り場を抜け、肉売り場へ近づく。


 並んだ肉のパックを目にした瞬間、ピピの歩調が変わった。


「カズマ」


「何だ?」


「僕、ここが好き」


「まだ何も食べてないだろ」


「でも分かる!」


 ピピは籠を持ったまま、売り場を端から端まで見渡した。


 牛肉、豚肉、鶏肉。


 味のついた物や、焼くだけで食べられる串まで並んでいる。


「今日は鶏肉を買うぞ」


「こっちの大きいのは?」


「牛肉だな」


「これは?」


「焼肉用」


「これも必要だと思う」


「今日は使わないよ」


 ピピは名残惜しそうにパックを戻した。


 その時、和真がリディアから装置の状態を聞くため、少しだけ視線を外した。


 再びピピを見た時、籠の上には肉のパックが二つ増えていた。


「いつ入れた?」


「今」


「鶏肉だけって言っただろ」


「でも、籠に隙間があったよ?」


「隙間を埋めるために買うんじゃない」


 和真が余分なパックを棚へ戻そうとすると、ピピはそのうちの小さな一つを両手で持った。


「これは駄目?」


「それも今日の予定には入ってないな」


「自分の手で初めて選んだ物だから、持って帰りたい」


 予想していなかった理由に、和真の手が止まる。


 ピピは肉ではなく、それを持っている自分の指を見つめていた。


 これまでは空腹になれば、店の物を勝手に食べるしかなかった。


 今は自分の手で選び、籠へ入れ、買って帰ることができる。


「……一つだけだぞ」


「いいの!?」


「夕食に使うからな」


「やった!」


 ピピは飛び上がりそうになったが、足が床から離れる直前で踏みとどまった。


 声も慌てて小さくする。


「やった」


「そこまで小さくしなくても大丈夫だよ」


 フェンリスが笑う。


 ピピは許された肉を籠の一番上へ載せ、大切そうに両手で持ち直した。


     ◇


 残りの材料を選び、四人は会計へ向かった。


 その途中、菓子売り場の横で、小さな子供が母親のそばを離れて走ってきた。


 手には、鳥の形をした小さな玩具を持っている。


 子供は前を見ておらず、商品の置かれた台へ肩をぶつけた。


 積み上げられていた軽い箱が傾く。


「危ない!」


 フェンリスが声を上げる。


 ピピは持っていた籠を素早く床へ置き、両腕を伸ばした。


 右手で子供の頭上へ落ちかけた箱を掴み、左腕で崩れてきた二つの箱を抱えるように受け止める。


 驚いた子供が手を開き、鳥の玩具を床へ落とした。


 箱を元の台へ戻したピピは膝を曲げ、補助腕の指で玩具を拾い上げた。


「はい」


 子供へ差し出す。


「鳥、落ちたよ」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 子供は玩具を受け取ると、母親のもとへ戻っていった。


 母親もピピたちへ何度も頭を下げる。


「本当にすみません。ありがとうございました」


「箱も鳥も大丈夫だったよ!」


 通訳機から、ピピの声が自然な日本語となって流れる。


 母親は微笑み、子供の手を引いて去っていった。


 ピピはその背中を見送った後、ゆっくりと自分の手へ視線を落とした。


「僕、渡せた」


「ああ」


「拾って、あの子に渡せたよ」


「装置の反応も正常です」


 リディアは確認装置へ記録された数値を調べる。


「急な動作でしたが、力の調整に問題はありませんでした」


「昨日は、布の球も落としたのに?」


「練習した成果です」


 ピピは両手を何度か開いた。


 人間に見える指が、自分の意思に合わせて滑らかに動く。


「この手、食べる時以外にも使えるんだね」


「やっと気づいた?」


 フェンリスに尋ねられ、ピピは素直に頷いた。


「誰かの物を拾って、返せる」


「そうだね」


「フェンリスが転んだら、僕が起こす!」


「転ばないよ」


「カズマが転んだら?」


「まず転ばないように支えてくれ」


「任せて!」


 ピピは床へ置いた籠を拾い上げた。


 少し重くなっていたが、今度は両腕へ均等に力を分けている。


「これも僕が持っていく」


「無理するなよ」


「平気。みんなのご飯だから」


 その声には、これまでとは違う誇らしさがあった。


     ◇


 会計では、和真が必要な分の紙幣と硬貨をピピへ渡した。


「これを店員さんへ渡すんだ」


「全部?」


「表示されている金額より、多い分を渡す。残った分は返してもらえるよ」


「戻ってくるの?」


「お釣りっていうんだ」


 ピピは手の中の金を真剣に見比べた。


 初めて出会った時は、金という物の存在さえ知らなかった。


 今はまだ価値までは理解できなくても、店の物を持ち帰るために必要だということは覚えている。


 順番が来ると、ピピは店員へ紙幣を差し出した。


「お願いします」


「お預かりします」


 通訳機が自然な日本語を届け、店員も普段どおり会計を進める。


 返された硬貨を、ピピは両手で受け取った。


 小さな金属が指の間で重なり、かすかな音を立てる。


「戻ってきた」


「落とさないようにな」


「うん」


 ピピは硬貨を鞄へしまった。


 会計を終えた商品も、自分で袋へ入れていく。


 卵の上へキャベツを載せようとしてフェンリスに止められたが、卵が潰れると教えられると、すぐに入れ直した。


 最後に、自分で選んだ肉のパックを一番上へ置く。


 店の外へ出ると、ピピは買い物袋を胸元へ抱えた。


「僕、買えた!」


「ああ。最初にしては上出来だ」


「誰にも追いかけられなかった!」


 明るい声だった。


 それでも、その言葉を聞いた和真たちは少しだけ黙った。


 空腹に耐えられず、店の物を食べて追われていた頃のピピにとって、買い物は当たり前のことではない。


 欲しい物を選び、金を払い、礼を言って持ち帰る。


 その一つ一つが、初めて手に入れた生活だった。


「これから欲しい物があったら、誰かに相談しろよ」


 和真が言う。


「一緒に買いに来ればいい」


「また来ていいの?」


「必要な物がある時にな」


「次は、あおいたちにも教えてあげる!」


「何を教えるの?」


「自動で開く扉!」


「そこが一番印象に残ったの?」


 フェンリスが苦笑した。


 和真は買い物袋を受け取ろうとしたが、ピピは身体を横へ向けて避ける。


「僕が持つ」


「重くないか?」


「ちょっと重い。でも、持ちたい」


「疲れたら言えよ」


「うん」


 帰り道、ピピは何度も袋の中を確かめた。


 自分で選んだ物が、確かにそこへ入っている。


 途中で一羽の鳥が頭上を横切ると、反射的に空を見上げた。


 背中の翼が動こうとする。


 しかし、ピピは装置へ手を伸ばさず、両足を地面につけたまま鳥を見送った。


「追いかけなくていいの?」


 フェンリスが尋ねる。


「今日は、みんなと歩いて帰るから」


 ピピは買い物袋を持ち直した。


「飛ぶのは、家に帰ってからでいい」


     ◇


 空色唐辛子荘へ戻ると、ピピは自分の手で玄関を開けた。


「ただいま!」


 通訳機を通した声が母屋へ響く。


 居間から、あおいたちが顔を出した。


「おかえりなのじゃ」


「お、おかえり……」


「ちゃんと買い物できた?」


 みゆが近づくと、ピピは袋の中身を一つずつ見せ始めた。


 曲がった人参。


 キャベツ。


 卵。


 鶏肉。


 そして、特別に許された焼肉用の肉。


「これは僕が選んだ!」


「結局、買ってもらったんだ」


「僕が持って、お金も渡したよ!」


「それはすごいね」


 褒められたピピは、今日の出来事を一気に話そうとした。


 子供を助けたこと。


 鳥の玩具を拾ったこと。


 店員へ金を渡したこと。


 誰にも追いかけられなかったこと。


 話す速さに通訳機の変換が追いつかず、音声が少し遅れて聞こえてきた。


「一度に話すと、通訳機が困っておるぞ」


 あおいに言われ、ピピはようやく息を整えた。


「装置は壊れてない?」


 みゆが尋ねる。


「壊れてないよ!」


「それが一番意外かも」


「僕、今日は何も壊してない!」


「今日は、って自分で言うんだね」


 母屋へ笑い声が広がった。


 夕食の準備が始まると、ピピも台所へ立った。


 火や包丁はまだ危険なため任せてもらえなかったが、洗った野菜を運び、食卓へ皿を並べる。


 左右の手へ一枚ずつ皿を持ち、歩幅を小さくして進んだ。


「置くよ」


「ゆっくりでいいからな」


 和真が見守る中、ピピは二枚の皿を無事に食卓へ置いた。


「できた!」


「次は、この箸を頼む」


「うん!」


 箸を一膳ずつ運び、人数分を食卓へ並べる。


 最後には、自分の席へ置く分まできちんと数えられた。


 夕食には、野菜と鶏肉の煮込みと、ピピが選んだ肉が並んだ。


 ピピは自分でスプーンを持ち、煮込みを口へ運ぶ。


 昨日まで誰かに食べさせてもらっていたピピが、今日は皆と同じように自分の手で食べている。


「おいしい!」


「自分で食べると、少し違うか?」


 和真が尋ねる。


「うん。次に何を食べるか、自分で決められる!」


 ピピは煮込みの中から、人参を見つけた。


「これ、曲がってたやつ?」


「切ったから分かりにくいけど、たぶんな」


「一緒に帰ってきてよかった」


 人参を口へ運び、満足そうに笑う。


 続いて肉を一切れ掴むと、自分では食べず、和真の方へ差し出した。


「カズマ」


「俺にくれるのか?」


「うん。最初にご飯を食べさせてもらったから、今度は僕が食べさせる」


 和真が口を開けると、ピピは慎重に肉を運んだ。


「どう?」


「うまいよ」


「やった!」


 向かいに座るフェンリスが、二人の様子をじっと見つめている。


 ピピはその視線に気づき、次の一切れを持ち上げた。


「フェンリスも食べる?」


「僕にも?」


「今日は手をつないでくれたから」


 フェンリスは少し驚いた後、素直に口を開けた。


「おいしい?」


「うん」


「じゃあ、次はみゆ!」


「全員に食べさせるつもり?」


「僕の手、いっぱい練習できるよ!」


 結局、ピピは全員へ一口ずつ肉を運んだ。


 最後に残った一切れを自分の口へ入れ、誰よりも嬉しそうに頬を緩めた。


     ◇


 食後、リディアは三つの装置を最終調整した。


「今日の記録を反映し、補助腕の力を少し抑えました。急に力を入れても、一定以上の力が出ないよう制限しています」


「重い物は持てなくなる?」


「必要になれば変更できますが、しばらくはこのまま使ってください」


「分かった」


「飛ぶ時は、腰の右側にある切り替え部分を押します。補助腕が完全に収納されてから、翼の固定が解除されます」


「空では切り替えない」


「はい。外見変更装置も、補助腕と一緒に解除されます」


 リディアは続いて、104号室へ置く充電台を示した。


「眠る時と入浴時には装置を外し、ここへ置いてください。通訳機も同じ場所で充電できます」


「夜は話せなくなる?」


「和真の近くなら、これまでどおり話せます。それ以外の場所では、通訳機だけ装着していても構いません」


「歌は?」


「歌はピピの声のままです」


「よかった!」


 今日一番安心したような顔だった。


「外見変更装置は、必要な時だけ使え。家の中なら、そのままの姿でいいからな」


 和真が言う。


「ずっと人間の姿では駄目?」


「装置にも休みが必要なんだよ。それに、家の中で翼を隠す必要はないだろ」


「みんな、僕の羽を怖がらない?」


「今さら怖がる者はおらぬ」


 あおいが九本の尻尾を広げる。


「この家には、わらわの尻尾も、フェンリスの耳と尻尾も、みゆの二本の尻尾も、ひかげの角もある。ピピの翼だけを隠す理由などないのじゃ」


「リディアの腕も?」


「私の腕も隠していません」


「カズマは?」


「俺は普通の人間だよ」


「でも、変わった魔法がある!」


「お前と話せたのも、その魔法のおかげだろ」


「じゃあ、カズマも同じ!」


「何が同じなのか分からないけど、まあいいか」


 リディアが外見変更機能を解除する。


 人間の腕と靴の像が消え、ピピ本来の大きな翼と鉤爪が姿を現した。


 続いて補助腕も折り畳まれ、翼の下へ収まっていく。


 ピピは翼をゆっくりと伸ばした。


「こっちの方が軽い」


「人間のふりをするのも疲れるだろ」


「少しだけ。でも、楽しかった!」


「ならよかった」


 ピピは通訳機の側面へ、大切そうに指を添えた。


「明日も練習する!」


「まずは、今日教わったことを忘れないようにな」


「忘れないよ」


 ピピは少し考え、言い直した。


「今度は、たぶんじゃないよ」


 和真は笑って頷いた。


     ◇


 夜が深くなり、空色唐辛子荘が静かになった頃。


 ピピは104号室の止まり木へ立ち、充電台へ置いた装置を眺めていた。


 通訳機も補助腕も、今は淡い光を灯して休んでいる。


 開けたままの窓から、涼しい風が流れ込んでいた。


 ピピは窓辺へ移動し、そのまま夜空へ飛び出す。


 アパートの周囲を小さく一周してから母屋へ向かい、和真の部屋の前にあるベランダへ降りた。


 鉤爪を手すりへかけ、翼を畳む。


「カズマ」


 今度は大声を出さなかった。


 間もなくカーテンが開き、和真が窓の向こうへ現れた。


 ピピに気づくと、そのまま窓を開ける。


「どうした?」


「少し話したくなった」


 通訳機は104号室へ置いてきたが、和真が近くにいるため言葉は通じている。


「部屋で眠れないのか?」


「眠れるよ。止まり木もあるし、窓も開いてる」


「ならよかった」


「今日ね、僕の言葉が知らない人にも分かった」


「ああ」


「僕の手でご飯を買えた。鳥の玩具も拾えた。玄関も開けられた」


「よく頑張ったな」


 ピピは褒められて笑った。


 すぐに夜の街へ視線を移す。


「装置があったら、僕、一人でも暮らせる?」


「できることは増えるだろうな」


「そっか」


「一人で暮らしたいのか?」


 ピピはすぐに首を横へ振った。


「一人でできるようにはなりたい。でも、一人にはなりたくない」


 翼の先が、手すりへ静かに触れる。


「ここに帰ってきたい」


「なら帰ってくればいい」


「装置を壊しても?」


「壊さないのが一番だけど、リディアが直してくれるよ」


「失敗しても?」


「みんなで片付ければいい」


「僕が、何もできなくなっても?」


「最初に来た時だって、何も持ってなかっただろ」


 和真は開いた窓へ腕を置き、手すりの上にいるピピを見た。


「装置があるから、お前がここの住人になったわけじゃない。あれは、暮らしやすくするための道具だ」


「なくても、帰ってきていい?」


「ああ。ここはピピの家だからな」


 ピピは目を細めた。


「ただいま、カズマ」


「さっき玄関で聞いたよ」


「もう一回!」


「おかえり、ピピ」


 夜風が二人の間を通り抜ける。


 ピピは嬉しそうに翼を開き、ベランダの手すりを蹴った。


「おやすみ!」


「ああ。おやすみ」


 白い翼が月明かりを受けて輝く。


 ピピはアパートの周囲を一度だけ回り、常に開けてある104号室の窓へ飛び込んだ。


 自分の部屋へ戻るために、迷うことはなかった。


 間もなく、小さな歌声が夜の空色唐辛子荘へ流れ始める。


 言葉を届けるための装置。


 誰かへ触れるための手。


 街を歩くための姿。


 それらを手に入れても、ピピがおとなしくなることは、おそらくない。


 明日になれば、また何かを間違え、誰かを慌てさせるだろう。


 それでも、失敗した時に帰る場所と、間違いを教えてくれる者たちがいる。


 ピピ・ノルディックがこの世界で暮らすために本当に必要だったものは、最初から空色唐辛子荘にあった。


 開け放たれた104号室の窓から、楽しそうな歌がいつまでも夜空へ昇っていった。

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