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空色唐辛子荘  作者: 空色唐辛子


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第十五話 空から落ちてきた少女

 それから数日が過ぎた。


 あおいは、毎日ではないものの、一人で朝まで眠れるようになっていた。


 夜中に目を覚ますことはあっても、すぐに誰かの部屋へ駆け込むのではなく、一度は自分の力で眠ろうとする。


 どうしても無理な時は、フェンリスたちが交代で103号室に泊まっていた。


 たまに誰にも見つからないよう母屋を訪れ、和真へ添い寝を頼むこともあったが、それも以前よりはずっと減っている。


 その日の朝。


 いつものように全員で食卓を囲んでいると、和真は思い出したように口を開いた。


「今日は、山の公園へ行ってくる」


「山の公園?」


 フェンリスが焼き魚を食べる手を止めた。


「ああ。子供の頃、祖父さんに何度か連れていってもらった場所なんだ。こっちへ戻ってから一度も行ってなかったから、まだ残ってるのか見ておこうと思ってな」


「面白そう! 僕も行く!」


 フェンリスが元気よく手を挙げる。


「今日は酒屋のバイトだろ」


「あっ……そうだった」


 勢いよく立てていた狼耳が、すぐに垂れた。


「僕なら空いてるよ」


 今度はみゆが二本の尻尾を揺らす。


「今日は買い物を頼んであっただろ。牛乳と卵がなくなってるんだ」


「帰ってきてから買えばいいじゃん」


「昨日もそう言って、結局行かなかっただろ」


「忘れたわけじゃないよ。行く前にちょっとだけ横になったら、朝になってただけ」


「それを寝過ごしたって言うんだ」


「僕は悪くないもん。ベッドが離してくれなかったの」


「ベッドのせいにするな」


 みゆは頬を膨らませ、味噌汁の椀へ顔を隠した。


「わ、私は……お昼から、配信の予定が……」


 ひかげが申し訳なさそうに口にする。


「別に誰かを誘ってるわけじゃないから、気にしなくていいよ。久しぶりに一人で歩いてみようと思ってるだけだ」


「和真、一人で寂しくない?」


 みゆが椀の向こうから尋ねる。


「お前たちと会う前は、一人で行動してたんだけどな」


 帰還してからしばらくの間、和真はほとんどの時間を一人で過ごしていた。


 ところが、フェンリスが現れてからというもの、気づけば隣にはいつも誰かがいる。


 今では母屋が静かだと、それだけで何かあったのではないかと不安になるほどだった。


「私も同行できません」


 リディアが淡々と言う。


「畑の自動給水装置に少し調整が必要です。その後、ひかげの配信用機材へ取り付ける部品を作ります」


「いや、本当に一人で大丈夫だよ。遊びに行くだけなんだから」


「それでも、通信機は持っていってください」


 リディアは食卓の端に、小さな金属製の装置を置いた。


「携帯端末は山の中で電波が不安定になる可能性があります。これは私の工房と直接つながります」


「いつ作ったんだ?」


「昨夜です」


「また寝てないのか?」


「二時間ほど眠りました」


「それは仮眠だろ」


「私には十分です」


「今夜はちゃんと寝ろよ」


「可能であれば」


「寝る気ないだろ」


 リディアは何も答えず、焼き魚へ箸を伸ばした。


 その向かい側では、あおいが黙って朝食を食べている。


 和真が一人で外出すると聞けば、以前なら真っ先についてこようとしたはずだ。


 しかし、今日は何も言わなかった。


「どうした?」


「何がじゃ?」


「いや。一緒に行くって言うと思ってた」


 あおいは箸を置き、九本の尻尾のうち一本を胸元へ抱き寄せた。


「本当は……わらわも行きたい」


「だったら、一緒に来るか?」


 あおいの狐耳が一瞬だけ立ち上がる。


 だが、すぐに首を横へ振った。


「和真は、一人で行きたいのであろう?」


「まあ、そうだけど」


「ならば、わらわはここで待っておる」


 声には寂しさがにじんでいた。


 それでも、あおいは穏やかに笑っている。


「わらわも、一人で過ごす練習を続けねばならぬ。それに、和真を困らせたくはないからの」


 以前のように不安を隠しているわけではない。


 寂しさを認めたうえで、それでも和真を送り出そうとしている。


「夕方までには帰るよ」


「うむ」


「何かあったらJINEで連絡してくれ」


「分かっておる。和真も、危険なことはせぬようにな」


「山の公園へ行くだけだぞ」


「おぬしは公園へ行くだけでも、何かを連れて帰ってきそうじゃ」


「俺を何だと思ってるんだ?」


 和真が尋ねると、フェンリスとみゆ、ひかげ、リディアがそろって視線を逸らした。


「何だよ、その反応」


「別に?」


「な、何でも……」


「過去の事例を思い返していただけです」


「和真だもんねぇ」


「どういう意味だよ」


 結局、誰もはっきりとは答えなかった。


 朝食を終えた和真は、出かける準備を整えた。


 玄関で靴を履いていると、あおいが見送りについてくる。


 以前のように服の裾を掴んではいない。


 それでも、和真が靴を履き終えるまで、その場から動こうとしなかった。


「それじゃ、行ってくる」


「うむ。気をつけるのじゃぞ」


「ああ」


「夕方までには戻るのじゃな?」


「約束する」


 あおいは少しだけ迷った後、和真へ一歩近づいた。


「和真」


「どうした?」


「……少しだけ、よいか?」


 あおいの九本の尻尾が、和真の身体を柔らかく包み込んだ。


 ほんの数秒だけそうしてから、あおいは自分から離れる。


「もう大丈夫じゃ。行ってらっしゃい」


「行ってくる」


 和真はあおいの頭を撫で、母屋を出た。


 車を使うほどの距離ではなかった。


 天気もよいため、町を眺めながら歩いていくことにする。


 九月に入ったとはいえ、日差しはまだ強い。


 それでも真夏のような息苦しさはなく、日陰へ入れば涼しい風を感じられた。


 住宅地を抜け、山へ続く緩やかな坂道を進む。


 途中にある弁当屋の前を通りかかると、焼いた肉の香ばしい匂いが漂ってきた。


「そういえば、昼飯を持ってきてなかったな」


 店頭には、出来たての弁当が並んでいる。


 和真は焼肉弁当と紙パックのお茶を買った。


 公園へ着く頃には、ちょうど腹も減っているだろう。


 弁当の入った袋を持ち、さらに山道を登っていく。


 しばらく歩くと、道路脇に色褪せた案内板が見えてきた。


『こもれび山公園』


 文字は薄くなり、看板の端には赤茶色の錆が浮いている。


 それでも、昔と同じ名前は読み取れた。


「まだ残ってたんだな」


 和真は懐かしさを覚えながら、案内板の脇にある細い道へ入った。


 道の両側から草が伸びている。


 完全に荒れ果てているわけではないが、頻繁に人が訪れている様子もなかった。


 木々に囲まれた坂道を登っていく。


 小学生の頃は長く感じた道だが、大人になった今では、それほど苦労せず歩くことができた。


 半分ほど進んだところで、和真は足を止めた。


「……歌?」


 山道の先から、かすかな歌声が聞こえる。


 若い女の声だ。


 風に乗って聞こえてくるため、言葉までは分からない。


 それでも、明るく楽しそうに歌っていることだけは伝わってきた。


「先客がいるのか」


 ほとんど利用者のいない公園だと思っていたが、今日は誰か来ているらしい。


 驚かせないようにしようと考えながら、和真は再び歩きだした。


 しかし、公園へ近づくにつれ、別の違和感を覚えた。


 周囲を漂う風に、わずかな魔力が混じっている。


 あおいが封じられていた社から流れてくるものではない。


 社の魔力は水脈を通じ、地中へ静かに広がっていた。


 それに対し、こちらはずっと軽い。


 歌声に乗り、風と一緒に踊っているような魔力だった。


 和真は足を止め、意識を周囲へ向けた。


 小さな風の精霊たちが、次々と山道の先へ飛んでいく。


「何かいるのか?」


 近くを通りかかった精霊へ尋ねる。


『うた』


「歌ってる人のことか?」


『ふわふわ』


『とぶ』


『たのしい』


 精霊たちは楽しげな声を残し、そのまま歌の方へ飛んでいった。


「飛ぶ?」


 ただの公園利用者ではなさそうだ。


 和真は周囲の気配を探りながら、慎重に坂道を登った。


 歌声が近づくにつれ、不思議なほど気持ちが落ち着いていく。


 心だけではない。


 暑さで少し重くなっていた身体まで、軽くなったように感じられた。


 さらに、山道の周囲に生えている植物が、不自然なほど青々としている。


 夏の暑さで萎れかけていた草が起き上がり、道端には季節外れの小さな花まで咲いていた。


「歌に魔力が宿ってるのか……?」


 誰かが意識的に魔法を使っている様子はない。


 歌声そのものが魔力を帯び、周囲の生き物や植物へ影響を与えているようだった。


 和真が知る魔法とも、精霊術とも少し違う。


 害のある力ではない。


 むしろ、聞く者の心を落ち着かせ、自然の力を活性化させている。


 坂を登りきると、木々の先に小さな公園が見えてきた。


 子供の頃に見た景色より、ずっと狭く感じる。


 滑り台には錆が浮き、二つあったブランコは片方の座面が外れていた。


 木製のベンチも塗装が剥がれ、地面のあちこちから雑草が伸びている。


 公園の中央には、昔と変わらない古い噴水があった。


 中央から噴き上がるほどの勢いはないが、細い水が途切れることなく水盤へ流れ落ちている。


 そして、その噴水の中に一人の少女がいた。


「らーら、ららー! ふんふーん!」


 小柄な少女が、楽しそうに羽を洗っている。


 身長は百五十センチに届かないほどだろう。


 細く軽やかな身体つきで、空気をまとっているような柔らかな雰囲気があった。


 何より目を引くのは、両腕の代わりに生えた大きな翼だ。


 肩から伸びる翼には、繊細でふわふわとした羽が幾重にも重なっていた。


 少女は片方の翼を水へ沈め、身体ごと大きく揺らしている。


 羽の間に入った水を飛ばすと、今度は反対側の翼を浸す。


「つめたーい! でも気持ちいい!」


 少女が楽しそうに歌うたび、周囲を漂う魔力が強くなった。


 噴水の縁には何羽もの小鳥が集まっている。


 風の精霊たちも少女の周りを飛び回り、時折、歌へ合わせるように光を明滅させていた。


 しかし、本人には精霊の姿が見えていないらしい。


 和真が近くまで来ていることにも、まったく気づいていなかった。


 少女は両方の翼を洗い終えると、噴水の中央で大きく伸び上がった。


「よーし! あとは乾かすだけ!」


 大きな翼が左右へ広がる。


「待て!」


「え?」


「そこで羽ばたいたら――」


 和真が止めるより早く、少女が勢いよく羽ばたいた。


 噴水に溜まっていた水が、一斉に周囲へ飛び散る。


 縁にいた小鳥たちは驚いて飛び上がり、精霊たちは水滴を追いかけて大喜びしている。


 そして、正面に立っていた和真は、頭からまともに水を浴びた。


「…………」


 髪から水が滴り落ちる。


 少女は翼を広げた姿勢のまま動きを止めた。


 先ほどまで公園へ響いていた歌声も消える。


 二人はしばらく、無言で見つめ合った。


「……誰?」


「それはこっちの台詞だ」


「いつからいたの?」


「お前が噴水で歌ってた時から」


「ずっと見てたの!?」


「たまたま来ただけだ。人聞きの悪い言い方をするな」


「僕の水浴び、隠れて見てた!」


「隠れてないだろ! 声をかける前に、お前が水を飛ばしたんだ!」


 少女は慌てて噴水から飛び出した。


 濡れた翼を大きく広げ、すぐに飛び立てるよう身構える。


 先ほどまでの無邪気な笑顔は消え、和真を警戒するように睨んでいた。


 少女が発している言葉は、日本語ではない。


 それでも意味が分かるのは、和真の通訳魔法が働いているからだった。


 つまり、目の前の少女は日本人ではない。


 両腕の代わりに生えた翼と、身体に宿る魔力を考えれば、答えは一つしかなかった。


「また異世界人か……?」


「いせかいじん?」


「いや、こっちの話だ」


「近づくな!」


 少女が鋭い声を上げた。


 翼をさらに大きく広げると、その場に風が巻き起こる。


「分かった。ここから動かない」


「捕まえに来たの?」


「違う」


「本当に?」


「ああ」


「怒ってる?」


「水をかけられたことには、少し怒ってる」


 少女は和真の濡れた姿を見た。


 すると、広げていた翼をゆっくりと下ろす。


「ご、ごめんなさい……」


「謝ってくれたなら、もういいよ」


「殴らない?」


「殴るわけないだろ」


「追いかけない?」


「逃げるなら追わない」


「石も投げない?」


「そんなこともしない」


 和真が一つずつ答えるたび、少女の翼が少しずつ身体の近くへ戻っていく。


 完全に警戒を解いたわけではない。


 いつでも飛び立てるよう、和真との間に距離を置いていた。


「今までの人は、みんな追いかけてきたよ」


「今までの人?」


「大きな声で怒って、棒を持って追いかけてきた」


「何かしたのか?」


「何もしてない!」


 少女は即答した。


 しかし、すぐに視線を逸らす。


「……ちょっとしか」


「ちょっと何をした?」


「お腹が空いてたから、食べ物をもらった」


「誰かがくれたのか?」


「置いてあった」


「どこに?」


「お店」


「それは、もらったんじゃなくて盗んだんだ」


「違うよ。置いてあったもん」


「店に置いてある食べ物は、金を払って買うものなんだ」


「お金って何?」


「そこからか……」


 和真は額へ手を当てた。


 金を知らないというより、この世界の仕組みをまったく理解していないらしい。


「食べていいか、聞かなかったのか?」


「聞いたよ」


「何て聞いたんだ?」


「これ食べていい? って」


「それで?」


「ダメって言われた」


「なら、どうして食べたんだよ」


「お腹が空いてたから!」


「聞いた意味がないだろ!」


「だって、食べないとお腹が空いたままだよ!」


 少女は本気で言っている。


 悪いことをしたという自覚も、ほとんどなさそうだった。


 和真は改めて少女の姿を観察した。


 服のあちこちが汚れている。


 濡れた羽には葉や細い枝が絡まり、足にも小さな擦り傷がいくつもできていた。


 滑り台の下には、古びた布を袋のように丸めた物が置かれている。


 おそらく少女の荷物なのだろう。


 中にあるのは、拾ったらしい小物だけで、まともな食料は見当たらない。


「ここで暮らしてるのか?」


「うん!」


「いつから?」


「分かんない!」


「何日くらいだ?」


「いっぱい!」


「それじゃ分からないだろ」


「明るくなって、暗くなって、また明るくなるのをいっぱい繰り返したよ!」


 正確な日数は分からないが、少なくとも昨日今日の話ではなさそうだ。


「寝る場所は?」


「あそこ!」


 少女が大きな木へ顔を向ける。


 太い枝の上には、枯れ葉や布を集めて作られた簡単な寝床があった。


「木の上で寝てるのか?」


「高いところなら、誰かが来てもすぐ分かるよ。雨が降った時は、滑り台の下!」


「食事は?」


「木の実! 果物! あとは、たまに町でもらう!」


「盗む、の間違いじゃないのか?」


「ちゃんと聞いてるよ!」


「断られても食べてるだろ」


「うん!」


「元気に肯定するな」


 和真が呆れていると、少女の腹から大きな音が鳴った。


「…………」


 少女が翼を腹の前へ寄せる。


 明るかった表情が急に恥ずかしそうなものへ変わった。


「腹、減ってるのか?」


「減ってない!」


 もう一度、大きな音が響く。


 少女は翼をさらに身体へ寄せたが、音を隠すことはできなかった。


「説得力がないぞ」


「今のは僕じゃないよ」


「じゃあ、誰の腹が鳴ったんだ?」


「鳥!」


 近くの枝に止まっていた小鳥たちが、一斉に首を傾げる。


「鳥はそんな音を出さないだろ」


「じゃあ、風!」


『ちがう』


『おなか』


『ぺこぺこ』


 和真の周りを飛ぶ精霊たちが、楽しそうに少女を囲んでいる。


「精霊も違うって言ってるぞ」


「見えないから分かんないもん!」


 少女は頬を膨らませ、和真から顔を背けた。


 その時、山を抜けてきた風が二人の間を通り過ぎた。


 和真の持っている袋から、焼肉の甘辛い匂いが漂う。


「……ん?」


 少女の顔が動いた。


 和真の手にある袋へ、真っすぐ視線が向けられる。


 小さな鼻が何度も動いていた。


「何、それ?」


「昼飯」


「ひるめし?」


「食べ物だよ」


 和真が答えた瞬間、少女の目が輝いた。


「食べ物!?」


「ああ。途中の店で買ってきた焼肉弁当だ」


「やきにく……」


 初めて聞いた言葉を確かめるように繰り返す。


 和真が袋を少し右へ動かすと、少女の顔も右へ動いた。


 左へ動かすと、今度は左を向く。


 少し高く持ち上げると、少女は背伸びをして袋を目で追った。


「食べるか?」


「いらない!」


 少女は勢いよく顔を背けた。


 直後、腹が再び大きな音を立てる。


「本当に?」


「いらない!」


「お腹は食べたいって言ってるみたいだけど」


「僕のお腹が勝手に鳴ってるだけ!」


「お前の腹なんだから、お前が空腹なんだろ」


「でも……」


 少女は焼肉弁当の入った袋を見つめた。


 先ほどまでの勢いが消え、翼が不安そうに下がっていく。


「食べ物をくれるって言って、僕を捕まえようとした人がいた」


「捕まえる?」


「近づいたら、網を投げられた。棒で叩こうとした人もいた。羽を売ったら、お金になるって言ってた」


 和真は何も言えなくなった。


「逃げられたのか?」


「僕、飛ぶの速いから!」


 少女は一瞬だけ明るく笑った。


 しかし、すぐに視線を落とす。


「だから、知らない人から食べ物はもらわない」


「そうか」


「でも、お腹空いた……」


「どっちなんだよ」


「分かんない!」


 少女は困ったように首を左右へ振った。


 警戒は必要だが、空腹にも耐えられない。


 二つの気持ちが、少女の中で激しくぶつかっているようだった。


「分かった。俺はあそこのベンチで弁当を食べる」


 和真は公園の端にあるベンチへ目を向けた。


「お前はそこから動かなくていい。逃げたいなら、いつでも逃げろ」


「僕の分は?」


「いらないんだろ?」


「……ちょっとだけなら、食べてもいい」


「正直だな」


「いっぱいはいらないよ。ちょっとだけ!」


「分かったよ」


 和真は少女から離れ、古いベンチへ腰を下ろした。


 袋から焼肉弁当と紙パックのお茶を取り出す。


 蓋を開けると、白いご飯の上に載った焼肉から、香ばしい匂いが広がった。


 甘辛いタレが肉へ絡み、まだわずかに湯気も立っている。


「わぁ……」


 噴水の方から、小さな声が聞こえた。


 少女は翼を顔の前へ寄せていた。


 しかし、羽の間から焼肉を見つめる目までは隠せていない。


 和真が焼肉を一切れ口へ運ぶ。


「うん、うまい」


 少女の喉が大きく動く。


 二切れ目を食べる。


 少女が噴水から一歩離れた。


 三切れ目を箸で持ち上げる。


 少女がさらに二歩近づく。


「食べないのか?」


「そっちの方が風が気持ちよさそうだから、近づいただけ」


「噴水のそばの方が涼しいだろ」


「羽を乾かしてるの!」


「さっき洗ったばかりだもんな」


「そうだよ!」


 少女は翼をパタパタと動かした。


 羽に残っていた水滴が飛び、和真の顔へかかる。


「また水が飛んできたんだけど」


「あっ、ごめん!」


「まあ、もう濡れてるからいいけどな」


「僕が乾かしてあげる!」


「え?」


 少女が翼を大きく広げる。


 嫌な予感がした和真は、慌てて弁当の蓋を閉じた。


 次の瞬間、少女が勢いよく羽ばたく。


「うおっ!?」


 強い風が吹き荒れ、和真の髪と服が激しくなびいた。


 少女は懸命に翼を動かし、和真へ風を送り続ける。


「どう? 乾いた?」


「弁当を閉じるのが遅かったら、中身が全部飛んでたぞ!」


「でも、服は少し乾いたよ!」


「加減を覚えてくれ!」


「分かった!」


 明るい返事とともに、少女の翼が楽しそうに動く。


 和真は溜息をつきながら、もう一度弁当の蓋を開けた。


 蓋へ少量のご飯と焼肉を取り分ける。


 それをベンチの端へ置き、自分は反対側へ移動した。


「ここに置いておく」


「僕が食べていいの?」


「ああ」


「食べた後で返せって言わない?」


「言わない」


「捕まえない?」


「捕まえない」


「網も投げない?」


「見れば持ってないって分かるだろ」


 少女は和真の周囲を念入りに確認した。


 鞄の陰やベンチの下まで覗き込んでいる。


 本当に網を隠していないか、調べているらしい。


「大丈夫そう……」


「最初から大丈夫だよ」


 少女は翼を少し開き、いつでも飛び立てるようにしながら近づいてきた。


 一歩進んでは止まり、和真の顔を見る。


 和真が動かないことを確認すると、さらに一歩近づく。


 ようやくベンチの前まで来ると、蓋に載せられた焼肉へ顔を近づけた。


「変な匂い、しない?」


「焼肉の匂いしかしないよ」


「食べたら眠くなったりしない?」


「腹がいっぱいになれば、眠くなるかもしれないな」


「やっぱり危ない食べ物なの!?」


「普通のことだ!」


 少女は焼肉と和真を交互に見る。


 食べたい。


 けれど、まだ少し怖い。


 そんな感情に合わせるように、翼が開いたり閉じたりしていた。


 やがて空腹に負けたのか、少女は意を決して焼肉へ顔を近づけた。


 そのまま一切れを口でくわえる。


「…………!」


 少女の目が大きく見開かれた。


 身体の横へ寄せられていた翼が、勢いよく広がる。


「おいしい!!」


 公園中に声が響いた。


 驚いた小鳥たちが一斉に飛び上がり、精霊たちも少女の周囲を楽しそうに舞い始める。


「何これ! 甘い! しょっぱい! 柔らかい! すっごくおいしい!」


「だから、焼肉だって」


「やきにく! やきにく、おいしい!」


 少女はもう一切れ食べようと、再び蓋へ顔を近づけた。


 しかし、肉の下にあるご飯を一緒に食べようとして、うまく口へ入らない。


 鼻先へご飯粒がつき、少女は困ったように顔を上げた。


「食べにくい……」


「手がないと、箸も持てないもんな」


「箸?」


「これだよ」


 和真が自分の箸を見せる。


「これで食べ物を挟んで、口へ運ぶんだ」


「カズマは器用だね!」


「こっちでは普通なんだけどな」


 少女はもう一度、ご飯を食べようとした。


 今度は髪の先にタレがつきそうになる。


「待て。そのままだと汚れるぞ」


「でも、食べたい」


「分かったよ」


 和真は新しい割り箸を取り出した。


 焼肉と一緒に少量のご飯を挟み、少女の前へ差し出す。


「口を開けろ」


「食べさせてくれるの?」


「この方が食べやすいだろ」


「うん!」


 少女は嬉しそうに口を開けた。


「あーん!」


「そんなに大きく開けなくても入るよ」


 和真が焼肉とご飯を口へ運ぶ。


 少女は頬いっぱいに頬張り、嬉しそうに翼をパタパタと動かした。


「おいしい!」


「飛びながら食べるなよ」


「分かった! 次!」


「ちゃんと飲み込んでからだ」


 少女は何度も頷き、口の中の物を飲み込んだ。


 そして、すぐに口を開ける。


「あーん!」


「雛鳥みたいだな……」


「ひなどり?」


「いや、何でもない」


 和真は苦笑しながら、次の一口を食べさせた。


 先ほどまで和真を疑っていたことなど、すっかり忘れてしまったようだ。


 一口食べるたびに笑顔を見せ、翼を楽しそうに動かしている。


「もっと!」


「これは俺の昼飯なんだけどな」


「僕、ちょっとしかいらないって言ったよ!」


「もう半分近く食べてるぞ」


「まだちょっとだよ!」


「お前のちょっとは多いな」


 文句を言いつつも、和真は再び焼肉とご飯を箸で挟んだ。


 少女が口を開ける。


 今度は急いで食いつこうとし、箸ごとくわえた。


「箸まで食べるな!」


「お腹空いてるから!」


「箸は食べ物じゃない!」


「固かった!」


「噛む前に気づけ!」


 少女は箸から口を離し、楽しそうに笑った。


 そのまま食事を続けていると、取り分けた分はすぐになくなった。


「ごちそうさま!」


「どういたしまして」


「喉渇いた!」


「要求が早いな」


 和真は紙パックのお茶へ、付属していたストローを差し込んだ。


 少女が飲みやすいよう、ベンチの上へ置く。


「その細いところを口にくわえて吸うんだ」


「吸う?」


「やってみれば分かる」


 少女は半信半疑のまま、ストローを口へくわえた。


 軽く吸った瞬間、お茶が口へ入る。


「わっ!」


 驚いた拍子にストローから口を離し、少しだけむせた。


「大丈夫か?」


「今、勝手に飲み物が来た!」


「吸ったからだよ」


「面白い!」


 少女は再びストローをくわえた。


 今度はゆっくり吸い、流れ込んできたお茶を飲み込む。


「おいしい!」


「それは普通のお茶だぞ」


「これ、すごいね! 手がなくても飲める!」


「そうだな」


 少女はすっかりストローを気に入り、紙パックのお茶を半分ほど飲んだ。


 満足すると、嬉しそうに息を吐く。


「ところで、お前の名前は?」


「僕?」


「他に誰がいるんだよ」


 少女は胸を張り、大きく翼を広げた。


「僕はピピ!」


「ピピか」


「うん。ピピ!」


 自分の名前を呼ばれたことが嬉しいのか、ピピの翼が勢いよく羽ばたく。


 強い風で弁当の蓋が浮き上がり、和真は慌てて押さえた。


「食事の近くで羽ばたくな!」


「あっ、ごめん!」


「俺は四ノ宮和真。和真でいい」


「カズマ?」


「ああ」


「カズマ……カズマ!」


 ピピは確かめるように、何度も名前を繰り返した。


「覚えた!」


「名前くらいで、そんなに喜ぶことか?」


「カズマは、僕に焼肉をくれた人!」


「それで覚えるのかよ」


「追いかけないし、網も投げないし、殴らない!」


「そんなことをする奴と比べられてもな……」


「だから、カズマはいい人!」


「焼肉だけで信用するな。もう少し人を疑った方がいいぞ」


「でも、カズマは大丈夫!」


「どうして分かるんだ?」


「分かるよ!」


 ピピは満面の笑みを浮かべた。


「カズマのそば、安心する!」


 言い終わると同時に、ピピが駆け出す。


「え?」


「カズマー!」


「待て!」


 小さな身体が勢いよく飛び込んできた。


 和真は反射的に受け止める。


 ピピは両翼で和真の身体を包み込み、胸元へ頬を擦り寄せた。


「カズマ、好き!」


「信用するのが早すぎる!」


「僕、カズマと一緒にいる!」


「どうしてそうなるんだよ!」


「カズマのそばにいれば、焼肉食べられる!」


「目的はそっちか!」


「焼肉だけじゃないよ!」


「他に何があるんだ?」


「安心する! あと、いい匂いがする!」


「それは弁当の匂いだ!」


「じゃあ、やっぱり焼肉!」


「結局それじゃないか!」


 和真が離れようとしても、ピピは両翼でしっかり包み込んだまま離れない。


「もう逃げないよ!」


「少し前まで、あれだけ警戒してただろ」


「もうカズマのこと知ってるもん!」


「名前と焼肉しか知らないだろ!」


「十分!」


「十分じゃない!」


 ピピは楽しそうに笑いながら、さらに身体を寄せてくる。


 洗ったばかりの翼はまだ濡れていた。


 柔らかな羽から水が染み出し、和真の服が再び濡れていく。


「せめて翼が乾いてから抱きついてくれ……」


「じゃあ、乾かす!」


「このまま羽ばたくなよ!」


「どうして?」


「俺の顔を翼で叩くことになるからだ!」


「あっ、そっか!」


 ピピは納得したものの、翼を解こうとはしなかった。


「離れる選択肢はないのか?」


「ない!」


「即答するなよ……」


「僕、カズマと一緒にいる!」


「それはもう聞いた」


「ずっと一緒!」


「話が大きくなってるぞ」


「カズマのいるところ、僕も行く!」


「待て。俺には帰る家があるんだ」


「僕も行く!」


「まだ連れていくとは言ってないだろ」


「いっしょ!」


「人の話を聞け!」


 静かだった山の公園に、ピピの楽しそうな笑い声と、困り果てた和真の声が響き渡る。


 「それより、少し離れてくれ。話ができない」


「離れたら、カズマがどこか行っちゃう」


「行かないよ」


「本当?」


「本当だ」


「焼肉もある?」


「残りは俺の昼飯だ」


「じゃあ、やっぱり離れない!」


「焼肉を人質みたいに言うな!」


 ピピは両翼で和真を包んだまま、頬を胸元へ擦り寄せている。


 翼そのものに強い力があるわけではない。


 和真が本気で離れようと思えば簡単に抜け出せるが、無理に動けば、濡れた羽を傷めてしまうかもしれなかった。


「分かった。どこにも行かないから、いったん離れてくれ」


「約束?」


「約束する」


「絶対?」


「絶対だ」


 ピピは和真の顔をじっと見つめた。


 嘘をついていないか確かめているらしい。


 しばらくして納得すると、ようやく翼を開き、和真から離れた。


 ただし、距離は一歩分しかない。


「近いな」


「これなら、カズマが逃げてもすぐ捕まえられるよ!」


「俺が逃げる側になってるのかよ」


「大丈夫! 僕、飛ぶの速いから!」


「何も大丈夫じゃない」


 和真は濡れた服を軽く絞ると、ベンチへ座り直した。


 ピピもすぐ隣へ寄ってくる。


 座るのかと思ったが、ベンチではなく背もたれの上へ軽やかに飛び乗った。


「そこに乗るのか?」


「高いところの方が好き!」


「落ちるなよ」


「落ちないよ。僕、飛べるもん!」


「それもそうか」


 ピピは楽しそうに翼を動かした。


 和真は残っていた焼肉弁当を食べながら、何から聞くべきか考える。


 これまで出会った異世界人たちは、現代日本へ来るまでの事情をある程度説明できた。


 フェンリスは罠にはめられ、ひかげとみゆも突然この世界へ転移している。


 リディアは自分の意思で世界を渡り、あおいは二百年以上前に召喚されていた。


 しかし、ピピは見るからに状況を理解していない。


 質問をしても、どこまで答えられるか分からなかった。


「ピピ」


「なに?」


「お前は、どこから来たんだ?」


 ピピは首を傾げた。


「どこから?」


「ああ。この公園で生まれたわけじゃないだろ?」


「違うよ」


「ここへ来る前は、どこにいた?」


「空!」


「空?」


「うん。飛んでた!」


 ピピは翼を大きく広げた。


 羽に残っていた水滴が、再び和真へ飛んでくる。


「だから、こっちに水を飛ばすな」


「あっ、ごめん」


 ピピは翼をゆっくり下ろした。


「空を飛んでたら、急にピカッて光ったの」


「光?」


「すっごく眩しくて、前が何も見えなくなった。びっくりして翼を動かしたけど、風がなくなって……」


 明るかったピピの声が、少しずつ小さくなっていく。


「その後は?」


「気づいたら、森の中で寝てた」


「この山か?」


「分かんない」


「周りに何か建物はなかったか?」


「何もなかったよ。木がいっぱいあって、僕がぶつかった枝が折れてた」


「空から落ちたのか?」


「たぶん!」


「怪我は?」


「最初は身体中が痛かった。でも、しばらく寝てたら治ったよ」


 ピピは大したことではないように笑った。


 しかし、かなりの高さから落ちたのであれば、命を失っていてもおかしくない。


 頑丈な身体を持っているのか、落下の途中で転移して勢いが弱まったのかは分からなかった。


「前にいた場所のことは覚えてるか?」


「前?」


「光に包まれる前に暮らしていたところだ。家族や友達はいなかったのか?」


「……分かんない」


 ピピの翼が静かに下がる。


「思い出そうとすると、頭の中がぐるぐるするの。空を飛んでたことは覚えてる。歌ってたことも覚えてる。でも、どこから飛んできたのかは分かんない」


「自分がハーピーだってことは?」


「それは分かるよ。僕はハーピー!」


「名前も覚えてたんだな」


「うん。僕はピピ!」


「歳は?」


「とし?」


「生まれてから、どれくらい経ってる?」


「いっぱい!」


「またそれか」


「いっぱいは、いっぱいだよ!」


 本人は自分の年齢すら知らないらしい。


 見た目だけなら、フェンリスやみゆと大きくは変わらない。


 だが、ハーピーと人間で成長の仕方が同じとも限らなかった。


「森で目を覚ました後は、どうしたんだ?」


「お腹が空いたから、食べ物を探した!」


「迷いがないな」


「お腹が空いてたからね!」


 深刻そうにしていたのが嘘のように、ピピは明るい声へ戻った。


「森の中に木の実があったから、それを食べたの。でも、あんまりおいしくなかった」


「毒があるかもしれないのに、よく食べたな」


「鳥が食べてたから、大丈夫かなって」


「それで本当に毒がなかったのか?」


「お腹痛くなった!」


「駄目だったんじゃないか!」


「でも、次の日には治ったよ」


「よく無事だったな……」


 和真は呆れながらも、ピピの話を聞き続けた。


 森の中をさまよったピピは、やがて道路へ出たらしい。


 初めて目にする舗装された道。


 激しい音を立てて走る車。


 電線や自動販売機、夜になれば一斉に灯る街灯。


 何もかもがピピの知らないものだった。


「最初、大きな鉄の獣が走ってきたと思った!」


「車のことか?」


「たぶん。目が光って、すっごく速いやつ!」


「道路へ飛び出さなかっただろうな?」


「飛び出したよ!」


「危ないだろ!」


「鉄の獣が大きな声で鳴いたから、びっくりして飛んだ!」


「それはクラクションだ」


「くらくしょん?」


「危ない時に鳴らす音だよ」


「怒ってたの?」


「道路へ飛び出したんだから、怒るだろうな」


 運転手からすれば、翼を持つ少女が突然目の前へ飛び出したことになる。


 事故にならなかったことが奇跡だった。


「町に入ってからは?」


「人がいっぱいいた!」


「翼を見られたんじゃないのか?」


「見られたよ。みんな、すごいって言ってた」


 この世界には、仮装やコスプレという文化がある。


 ピピの翼も精巧な作り物だと思われたのだろう。


「一緒に絵を撮りたいって言われた」


「写真か」


「光る板を僕に向けてた!」


「たぶんスマホだな」


「僕が飛んだら、みんなもっと喜んでた!」


「飛んだのか!?」


「うん!」


「人前で飛んだら駄目だ!」


「どうして?」


「お前の翼が本物だって気づかれるかもしれないだろ」


「本物だよ?」


「だから困るんだ!」


 ピピは納得できないように首を傾げた。


 今のところ、大きな騒ぎにはなっていないらしい。


 空色唐辛子荘の周辺では、すでにフェンリスたちの動画が広まっている。


 ピピまで誰かに撮影されていれば、新しいコスプレ仲間として扱われている可能性が高かった。


「それから、お腹が空いたから食べ物を探した!」


「町に着いてからも、それなのか」


「おいしそうな匂いがいっぱいしたよ! 森の木の実より、町の食べ物の方が絶対においしいと思った!」


「それで店の商品を食べたのか?」


「最初は、外に置いてあった果物を食べた」


「勝手に?」


「食べていいか聞いたよ!」


「断られたんだろ?」


「うん!」


「それで食べたら、そりゃ追いかけられる」


「でも、最初は笑ってたよ?」


 ピピの翼が不思議そうに動く。


「僕が食べたら急に怒ったの。変だよね?」


「変なのはお前だ」


「どうして!?」


「駄目だって言われたのに食べたからだよ」


「お腹が空いてたのに?」


「腹が減ってても、勝手に人の物を食べたら駄目なんだ」


「難しい……」


「難しくない」


 それからピピは、町の中を転々としていた。


 人のいない空き家。


 建物の屋根裏。


 大きな木の枝。


 眠れる場所を見つけては、そこで一晩を過ごす。


 しかし、誰かに見つかるたびに追い出された。


「屋根の上なら誰にも怒られないと思ったのに、朝になったら下からいっぱい人が見てた」


「勝手に人の家の屋根で寝たら、騒ぎになるだろ」


「寝てただけだよ?」


「普通の人は屋根の上で寝ないんだ」


「カズマは寝ないの?」


「寝ない」


「気持ちいいのに」


「落ちる危険があるからな」


「落ちても飛べばいいよ」


「俺には翼がないだろ」


「あっ、そっか!」


 本当に今気づいたような反応だった。


 ピピは和真の背中へ顔を近づける。


「カズマ、翼がない!」


「見れば分かるだろ」


「どうやって飛ぶの?」


「飛ばないよ」


「飛べないの!?」


 ピピは大きな声を上げた。


 和真が翼を持たないことより、飛べないことの方が驚きらしい。


「かわいそう……」


「そんな顔をするな。人間は普通、空を飛べないんだ」


「大丈夫! 僕が飛ばせてあげる!」


「どうやって?」


「僕の足でカズマを掴むの!」


 ピピが片足を持ち上げる。


 その先には、枝や獲物をしっかり掴める鋭い鉤爪があった。


「その鉤爪で俺を掴むのか?」


「うん! 両肩を掴めば飛べるよ!」


「爪が刺さりそうで怖いんだけど」


「大丈夫だよ。ちゃんと力を弱くできるもん!」


「俺の身体で試そうとするなよ」


「痛くしないよ?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ、服を掴む!」


「破れるからやめろ」


「むぅ……僕、上手に運べるのに」


 ピピは不満そうに翼を下ろした。


「それで、この公園にはいつ来たんだ?」


「えっと……暗くなる前!」


「昨日か?」


「違うよ。何回か暗くなった」


「やっぱり何日か住んでるんだな」


「ここは誰も来ないし、水もあるし、木の上で寝られるよ。鳥もいっぱい来るから、寂しくない!」


 明るい声だった。


 しかし、最後の言葉に、ほんのわずかな寂しさが混ざっていた。


「ずっと一人だったのか?」


「うん!」


「怖くなかったのか?」


「最初は怖かったよ」


 ピピは噴水の方へ顔を向けた。


「知らない森で目を覚まして、どっちへ飛んでも知らない場所だった。町へ行ったら、知らない物ばっかりで、話しかけても怒られた」


「言葉は通じたのか?」


「少しだけ。同じ言葉もあったけど、分からない言葉もいっぱいあった」


 今、和真と会話ができているのは通訳魔法のおかげだ。


 これまでピピが接触した人々とは、ほとんど意思の疎通ができなかったのだろう。


 食べ物を求めて声をかけても、相手には別の言葉に聞こえていた可能性がある。


「夜になると、もっと怖かった。知らない音がいっぱいして、光る物が動いてた」


「車か?」


「分かんない。遠くから大きな音もした」


「電車かもしれないな」


「眠れないから、歌ってた」


「怖い時にも歌うのか?」


「歌ってると、ちょっとだけ平気になるよ。鳥も集まってくるし、風も優しくなるから」


「自分の歌に力があることは知ってるのか?」


「力?」


「歌うと、周りの草や木が元気になるだろ。聞いてる方も、不思議なくらい落ち着く」


「そうなの?」


 ピピは本当に知らなかったらしい。


「僕、歌が上手?」


「上手だけど、そういう話じゃない」


「じゃあ、もっと歌う!」


「待て。今は話を――」


「らーららー! らららー!」


 ピピが楽しそうに歌い始めた。


 澄んだ声が、公園全体へ広がっていく。


 風が吹き、木々の葉が揺れた。


 小鳥たちが次々と集まり、ピピを囲むように枝へ止まる。


 先ほどまで目立たなかった草花も、光を求めるように茎を伸ばしていく。


 和真の周囲では、風の精霊たちが嬉しそうに飛び回っていた。


 歌声に害はない。


 けれど、人の多い場所で歌えば、どんな影響が出るか分からなかった。


「ピピ、いったん止めろ」


「どうして?」


「人が集まってくるかもしれない」


「歌を聞きに?」


「人だけならいいけど、動物まで集まってきそうだからな」


 すでに公園の外から、木の枝が揺れる音が聞こえていた。


 小鳥だけではない。


 何匹かの小動物まで、歌声に引き寄せられているらしい。


「すごいな。自分では何も感じないのか?」


「歌うと楽しいよ!」


「魔力が動いてる感覚は?」


「まりょく?」


「分からないか」


「でも、みんなが元気になるなら、いい歌だね!」


「使い方を間違えなければな」


 本人に悪意はない。


 それでも無意識に周囲へ影響を与える以上、放っておくことはできなかった。


 このまま公園で暮らし続ければ、いずれ誰かが異変に気づく。


 すでに食べ物を盗み、人前で飛び回っている。


 次に捕まえようとする者が現れた時も、無事に逃げられるとは限らない。


「ピピ」


「なに?」


「これから、どうするつもりなんだ?」


「カズマと一緒にいる!」


「そうじゃなくて、今夜もここで寝るつもりなのか?」


「うん! カズマも木の上で寝る?」


「寝ないよ」


「飛べないから?」


「それもあるけど、俺には家がある」


「家……」


 ピピは小さく呟いた。


「カズマの家、どこ?」


「ここから歩いて帰れるところだ」


「ご飯ある?」


「ある」


「焼肉も?」


「毎日焼肉が出るわけじゃないぞ」


「水は?」


「ある」


「雨が降っても濡れない?」


「家なんだから当たり前だろ」


「木の上より暖かい?」


「暖かいよ」


 和真が答えるたび、ピピの目が輝いていく。


「僕も行く!」


 予想どおりの返事だった。


「その前に聞いておくけど、俺の家には他にも住んでる人がいるぞ」


「何人?」


「俺を入れて六人だ」


「いっぱい!」


「お前と同じように、別の世界から来た人がいる」


「僕と同じ?」


「ああ。狼の獣人や、ミノタウロス、猫又、ドワーフ、それから九尾の狐だ」


 ピピは目を丸くした。


「みんな、翼ある?」


「翼はピピだけだな」


「みんな飛べないの?」


「たぶん飛べない」


「かわいそう……」


「その反応はもういい」


「僕が飛び方を教える!」


「翼がないのに教えても無理だろ」


「頑張れば飛べるかも!」


「飛べないよ」


「まだやってないのに、どうして分かるの?」


「翼がないからだ!」


 ピピは納得できない様子だったが、すぐに気持ちを切り替えた。


「みんな、優しい?」


「少し騒がしいけど、悪い奴はいないよ」


「僕を追いかけない?」


「それは大丈夫だ。ただし、勝手に人の食べ物を食べたら怒られる」


「お腹が空いてても?」


「空腹なら、ちゃんと食べたいって言え。誰かが用意してくれる」


「ダメって言われない?」


「食事の時間なら、まず言われないよ」


「焼肉が食べたいって言っても?」


「毎回は無理だ」


「じゃあ、たまに?」


「たまにならな」


「行く!」


 ピピは即座に決めた。


「僕、カズマの家に住む!」


「まだ住んでいいとは言ってない」


「ご飯あるんでしょ?」


「あるけど、まずは皆と相談してからだ」


「僕、悪いことしないよ!」


「さっき店の物を勝手に食べたって話してただろ」


「あれはお腹が空いてたから!」


「家の中にも食べ物はあるけど、勝手に食べたら駄目だからな」


「カズマに聞けばいい?」


「ああ。俺がいない時は、他の誰かに聞け」


「分かった!」


 返事はよい。


 ただし、本当に理解しているかは怪しかった。


 和真はポケットからスマホを取り出した。


 帰る前に、皆へ連絡しておいた方がよい。


 何も言わずピピを連れて帰れば、朝の会話どおりになってしまう。


「それ何?」


 ピピがすぐにスマホを覗き込む。


「スマホだよ。遠くにいる人と話したり、文字を送ったりできる」


「この板で?」


「ああ」


「光ってる!」


「画面だからな」


「町の人が持ってたのと同じ!」


「お前、写真を撮られたって言ってたな」


「僕もほしい!」


「欲しいって言えば何でももらえるわけじゃないぞ」


「じゃあ、焼肉でいい!」


「諦めるのが早いな」


 和真はピピに画面を覗かれながら、全員が入っているJINEのグループを開いた。


『公園で異世界人らしいハーピーを見つけた。今から連れて帰る』


 送信してから、十秒も経たないうちに返信が来た。


『え?』


 フェンリスからだった。


 続いて、みゆからも届く。


『本当に何か連れて帰ってくるの!?』


 ひかげからは、驚いた牛の絵が送られてきた。


『状況を詳しく説明してください』


 最後に届いたのはリディアだ。


 和真が返信を考えていると、スマホから着信音が鳴った。


「うわっ!」


 ピピが驚いて翼を広げる。


「板が鳴いた!」


「スマホだって」


「怒ってるの?」


「電話がかかってきただけだ」


「でんわ?」


「遠くにいる相手と話す機能だよ」


 着信はリディアからだった。


 和真が通話へ切り替える。


「もしもし」


『和真。ハーピーを見つけたというのは事実ですか?』


「ああ。名前はピピ。公園で一人で暮らしてたみたいだ」


 リディアの声を聞いたピピが、スマホの裏側を覗き込む。


「誰もいないよ?」


「中にいるわけじゃない。遠くから声が聞こえてるんだ」


『その声がピピですか?』


「そうだよ」


「僕はピピ!」


 ピピがスマホへ顔を近づけ、大きな声で名乗った。


「ピピ、近い。少し離れろ」


『翼の形状は確認しましたか?』


「ああ。腕はなくて、肩から翼が生えてる。手や指もない」


『飛行能力は?』


「ある。本人は速いって言ってる」


「速いよ! すっごく速い!」


『人前で飛んだ形跡はありますか?』


「あるみたいだ」


 通話の向こうで、リディアが短く息を吐いた。


『分かりました。既存の不可視化装置は、彼女の翼には対応できません。正確な寸法を測る必要があります』


「嫌だ!」


 ピピが突然叫んだ。


 翼を広げ、スマホから距離を取る。


「どうした?」


「測るって、捕まえるの?」


「違うよ」


「羽を抜く?」


「抜かない」


「本当?」


『羽を傷つけるつもりはありません。翼を一時的に見えにくくする装置を作るために、形と大きさを確認するだけです』


「板の中の人、ちょっと怖い……」


「リディアはいつもこんな話し方なんだ。悪い奴じゃない」


『聞こえています』


「悪い」


 その直後、通話の向こうから騒がしい声が聞こえた。


『和真! 本当に女の子を連れて帰ってくるの!?』


 フェンリスの声だ。


「バイト中じゃなかったのか?」


『休憩に入ったところ! ハーピーって、翼があるんだよね?』


「ああ」


『年齢は?』


「分からない」


「僕も分かんない!」


『どうして本人も分からないの!?』


「僕に聞かれても分かんないよ!」


 フェンリスとピピがスマホ越しに言い合う。


 さらに、みゆの声まで割り込んできた。


『ねえ、可愛い?』


「それを俺に聞くな」


『いいから。可愛いの?』


 和真はピピへ視線を向けた。


 小柄な身体。


 繊細で柔らかな翼。


 汚れてはいるものの、明るく無邪気な笑顔は目を引く。


「まあ、可愛いとは思うけど」


『ふーん』


「何だよ」


『別にぃ?』


 声だけでも、みゆが面白くなさそうにしていることが分かった。


『和真』


 今度はあおいの声が聞こえた。


「どうした?」


『朝、わらわが言ったとおりになったではないか』


「まだ連れて帰ると決まったわけじゃない」


「僕、カズマと一緒に行くよ!」


 ピピが和真の身体へ寄り、両翼で包み込む。


「ほら、これだから断れないんだよ」


『やはり連れて帰ってくるのじゃな』


「あおいは大丈夫なのか?」


『何がじゃ?』


「新しい住人が増えるかもしれないんだぞ」


『わらわも皆に受け入れてもらった。ならば、その娘だけを拒む理由はなかろう』


 あおいの声は穏やかだった。


『それに、雨風をしのぐ場所すらないのであろう? まずは連れてくるのじゃ。話はそれからでも遅くない』


「分かった」


『ただし、和真』


「何だ?」


『夕方までに帰るという約束は、忘れておらぬな?』


「ああ。今から戻るよ」


『うむ。待っておる』


 そこで通話が切れた。


 和真はスマホをポケットへ戻す。


「板の人たち、カズマの家にいるの?」


「板の人って呼ぶな。フェンリス、みゆ、リディア、あおいだ。今は話さなかったけど、ひかげもいる」


「名前、いっぱい!」


「帰ったら紹介するよ」


「みんな僕に焼肉くれる?」


「焼肉から離れろ」


 和真は食べ終えた弁当の容器を片付けた。


「帰る前に、お前の荷物をまとめよう」


「僕の宝物、あそこにあるよ!」


 ピピが滑り台の下へ顔を向ける。


 和真は置かれていた古びた布を広げた。


 中から出てきたのは、色のついた小石や木の実、空き缶の蓋、短くなった紐だった。


 店の商品らしい菓子の包み紙も、いくつか入っている。


「これ、全部持っていくのか?」


「うん! 大事な物!」


「この石も?」


「綺麗でしょ?」


「まあ、持っていきたいならいいけど」


「その丸いのは、夜に光るよ!」


 ピピが顔を寄せた先には、小さな反射板があった。


 道路脇から外れた物を拾ってきたらしい。


「これは勝手に取ったんじゃないだろうな?」


「道に落ちてた!」


「ならいいか……」


 和真は品物を布で包み直し、鞄へ入れた。


 木の上に作られていた寝床からも、使えそうな布だけを回収する。


 ピピはその間、和真のすぐ後ろをついてきた。


「近いな」


「カズマがいなくならないように見てる!」


「約束しただろ」


「分かってるよ。でも、見てる!」


 荷物をまとめ終える頃には、ピピの翼もほとんど乾いていた。


「帰るぞ」


「うん!」


「最初に約束してほしいことがある」


「焼肉?」


「違う。町へ入ったら、勝手に飛ばないこと」


「どうして?」


「目立つからだ。翼はなるべく身体へ寄せて歩く」


「飛んだ方が速いよ?」


「速さの問題じゃない」


「じゃあ、木の上なら飛んでいい?」


「人に見つからない高さならな。ただし、俺から離れるなよ」


「僕がカズマから離れるわけないよ!」


「それならいい」


「カズマも僕から離れたら駄目!」


「はいはい」


「一回だけじゃ聞こえない!」


「分かった。離れない」


「やった!」


 ピピは嬉しそうに翼を広げると、地面を蹴った。


 ひと羽ばたきで身体が浮かび、そのまま木々の間へ舞い上がる。


「おい! いきなり飛ぶな!」


「木の上ならいいって言った!」


 ピピは太い枝の上へ降り立ち、和真を見下ろした。


「カズマ、早く!」


「帰り道を知ってるのは俺なんだけどな」


「じゃあ、僕がついていく!」


 ピピは再び枝から飛び立った。


 和真の頭上をくるくる回り、楽しそうに歌い始める。


「らーららー! カズマと一緒ー!」


「大きな声で歌うな。人が来るぞ」


「小さく歌えばいい?」


「なるべく静かにな」


「分かった!」


 返事だけは大きかった。


 和真が山道を下り始めると、ピピも木々の間を飛びながらついてくる。


 時々、姿が見えなくなるほど先へ行ってしまう。


 そのたびに和真が名前を呼ぶと、すぐに引き返してきた。


「ピピー!」


「ここだよ!」


「先に行きすぎるな!」


「カズマが遅いんだよ!」


「俺は飛べないんだ!」


「あっ、そっか!」


「何度目だ、その反応!」


 山道を下りきり、住宅地が近づく。


 和真が飛ばないように言うと、ピピは素直に地面へ降りた。


「ここからは歩くぞ」


「うん!」


 ピピは翼を身体の近くへ寄せ、和真の隣を歩き始めた。


 その歩き方は、少し不安定だった。


「歩きにくいのか?」


「飛ぶ方が楽!」


「普段はあまり歩かないのか?」


「高いところへ移る時だけ。遠くへ行く時は飛ぶよ」


「疲れたら言えよ」


「大丈夫!」


 そう答えた直後、ピピは道の小さな段差につまずいた。


「わっ!」


 和真が慌てて身体を支える。


「大丈夫か?」


「大丈夫!」


「足、痛めてないか?」


「平気だよ!」


 ピピは元気よく答えたが、次からは和真へ身体を寄せて歩くようになった。


 通りかかった何人かが、ピピの翼へ視線を向ける。


 しかし、和真の予想どおり、本物だとは思っていないようだった。


「すごい衣装ね」


「羽、よくできてるな」


 そんな声が聞こえてくる。


 ピピは嬉しそうに翼を広げかけた。


「動かすなよ」


「すごいって言われた!」


「本物だと知られたら騒ぎになる。今は作り物のふりをしてくれ」


「作り物じゃないよ?」


「分かってる。でも、そう思わせた方が安全なんだ」


「難しい……」


「人がいる場所では飛ばない。大きく翼を動かさない。それだけ覚えてくれ」


「うん!」


 ピピは翼を身体の横へ戻した。


 しばらく進むと、空色唐辛子荘へ続く道が見えてくる。


「あそこだ」


「どこ?」


「あの古いアパートと、奥にある家だよ」


「全部カズマの家?」


「そうだ」


「大きい!」


 ピピの目が輝く。


「木もいっぱいある!」


「敷地の中には畑や果樹もあるぞ」


「果物!?」


「勝手に食べるなよ」


「食べていいか聞く!」


「断られたら食べない。それも覚えろ」


「むぅ……」


「嫌そうな顔をするな」


 空色唐辛子荘の入口には、すでに何人かの姿が見えていた。


 あおいとみゆ、それからリディアが、和真の帰りを待っている。


 少し離れたところには、配信を始める前のひかげも立っていた。


 フェンリスはまだ酒屋から戻っていないようだ。


「カズマ」


 ピピが足を止めた。


「どうした?」


「人、いっぱいいる」


 先ほどまでの元気が消えていた。


 翼が身体へ寄せられ、和真の背中へ隠れるように移動する。


「怖いのか?」


「……ちょっとだけ」


「大丈夫だよ。さっき話しただろ。皆、悪い奴じゃない」


「追いかけない?」


「追いかけない」


「網も投げない?」


「投げないよ」


「羽、抜かない?」


「誰もそんなことはしない」


 ピピは和真の背中から顔だけを出し、入口で待つ四人を見つめた。


 向こうも、和真の背後に隠れている翼の少女を見ている。


「一緒に来るんだろ?」


「……うん」


「なら、行こう」


 和真が歩きだす。


 ピピは一度だけ足を止めかけたが、すぐ後を追った。


 やがて、空色唐辛子荘の入口までたどり着く。


「ただいま」


「おかえり、和真」


 あおいが笑顔で迎えた。


 九本の尻尾が嬉しそうに揺れている。


「ちゃんと夕方までに戻ったぞ」


「うむ。約束を守ってくれて何よりじゃ」


 その視線が、和真の背後へ向けられる。


「その娘が、ピピか?」


 名前を呼ばれた瞬間、ピピが和真の背中へ完全に隠れた。


 しかし、大きな翼までは隠せていない。


「ほれ、顔を見せてはくれぬか?」


「……怒ってない?」


「なぜ、わらわが怒るのじゃ?」


「僕、カズマと一緒に来た」


「聞いておる。よく来たの」


 あおいの穏やかな声を聞き、ピピが少しだけ顔を出す。


 その前へ、みゆが身を乗り出した。


「本当に翼がある!」


「わっ!」


 驚いたピピが翼を大きく広げた。


 巻き起こった風に、みゆの髪と二本の尻尾が大きくなびく。


「すごい! 本物だ!」


「みゆ、急に近づくな。怖がってるだろ」


「だって気になるもん!」


「僕を捕まえる?」


 ピピが警戒するように尋ねる。


「捕まえないよ。僕はみゆ。猫又なんだ」


 みゆが二本の尻尾を揺らしてみせる。


 ピピの目が丸くなった。


「尻尾が二本ある!」


「すごいでしょ?」


「飛べる?」


「どうして尻尾を見て、飛べると思うの?」


「僕は翼で飛ぶから、尻尾が二本あれば飛べるかなって」


「無理だよ!」


「かわいそう……」


「初めて会ったのに、かわいそうって言われた!」


 みゆが不満そうに二本の尻尾を立てる。


 あおいは口元を隠しながら、小さく笑っていた。


 ひかげとリディアも近づいてくる。


「ピピ。私はリディアです」


 リディアが機械の両腕を見せる。


「私も元は異世界の住人です。あなたの翼を傷つけるつもりはありません」


「板の中にいた人?」


「板ではなく通信機です」


「今度は外に出てきた!」


「最初から中には入っていません」


 ピピは不思議そうにリディアの周囲を回り、通信機との違いを確かめようとしていた。


 その視線が、リディアの機械の腕へ向く。


「リディアも手がないの?」


「あります。両腕が機械で作られているだけです」


「固そう!」


「実際に硬いです」


「飛べる?」


「飛べません」


「かわいそう……」


「同情は不要です」


 リディアはまったく表情を変えなかった。


 その後ろで、ひかげがおずおずと頭を下げる。


「わ、私は……ひかげ、です」


「顔、見えないよ?」


「こ、これは……前髪で……」


「どうやって前を見るの?」


「い、一応……見えてる……」


「すごい!」


 何がすごいのかは分からないが、ピピは素直に感心していた。


 その様子を見ていたあおいが、和真へ視線を向ける。


「朝、わらわが言ったとおりになったの」


「言うな」


「山の公園へ一人で出かけ、翼のある娘を連れて帰ってきた。ここまで見事に予想が当たるとは思わなかったぞ」


「俺だって思わなかったよ」


「やはり、おぬしを一人で出歩かせるのは危険かもしれぬな」


「危険なのは俺じゃなくて、出会った相手じゃないか?」


「どちらもじゃ」


 あおいが楽しそうに笑う。


 ピピは初めて見る住人たちを眺めた後、再び和真のそばへ戻ってきた。


「カズマ」


「どうした?」


「ここが、カズマの家?」


「ああ。空色唐辛子荘だ」


「僕も、ここにいていい?」


 さっきまでの勢いとは違い、ピピは不安そうに尋ねた。


 翼も身体へ寄せられている。


「それを、今から皆で話すんだ」


「ダメって言われたら?」


 ピピが和真へ一歩近づく。


「僕、また公園に戻るの?」


 その声を聞いた途端、先ほどまで騒いでいたみゆが黙った。


 ひかげも心配そうに顔を上げる。


 あおいはピピの前へ進み出ると、安心させるように微笑んだ。


「まずは中へ入るとよい」


「いいの?」


「うむ。話をするにも、ここでは落ち着かぬからの」


「ご飯もある?」


「もちろんじゃ」


「焼肉?」


「夕食が焼肉かどうかは、和真に聞かねば分からぬ」


 ピピが期待に満ちた目で和真を見る。


「焼肉はないぞ」


「ええっ!?」


「そんなに落ち込むな。別の物ならある」


「おいしい?」


「たぶんな」


「和真が作るの?」


「今日は俺が作るつもりだけど」


 和真が答えた瞬間、みゆとリディアが同時に口を開いた。


「僕も手伝う!」


「私が調理します」


「何でだよ」


「ピピに、最初から和真の料理を食べさせるのはかわいそうだから」


「みゆ、お前にだけは言われたくないぞ」


「なら、わらわも手伝おう」


 あおいが笑いながら加わる。


「わ、私も……できることなら……」


 ひかげも小さく手を挙げた。


 突然始まった夕食の相談を見て、ピピは目を丸くしていた。


 やがて、緊張が解けたように笑う。


「カズマの家、にぎやか!」


「いつもこんな感じだよ」


「楽しそう!」


 ピピの翼が嬉しそうに広がった。


「僕、ここ好き!」


「まだ中にも入ってないだろ」


「でも好き!」


 そう言うと、ピピは再び和真へ身体を寄せ、両翼で包み込んだ。


 その様子を見たみゆの二本の尻尾が、ぴたりと止まる。


 あおいの九本の尻尾も、わずかに動きを止めた。


「……ねえ、和真」


 みゆが低い声で呼びかける。


「何だ?」


「その子、さっきからずっと和真にくっついてない?」


「公園でもこうだったんだよ」


「出会ってどのくらい?」


「まだ一時間くらいじゃないか?」


「一時間でそこまで仲良くなったの!?」


「焼肉を分けただけだ」


「また食べ物で女の子を懐かせてる!」


「そんなつもりはない!」


「カズマは焼肉くれた!」


 ピピが嬉しそうに答える。


「食べさせてもらった!」


「食べさせてもらった!?」


 みゆの声がさらに大きくなった。


「僕は手がないから、カズマがあーんしてくれた!」


「あーんまでしたの!?」


「必要だったんだよ!」


「僕にもしてくれたことないのに!」


「お前は自分で箸を持てるだろ!」


 みゆが和真へ詰め寄り、ピピは両翼で和真を包んだまま離れない。


 あおいも困ったように九本の尻尾を揺らし始めた。


 リディアは無言で様子を観察し、ひかげはどう止めるべきか分からず、その場でおろおろしている。


 帰宅したばかりだというのに、空色唐辛子荘の入口は一気に騒がしくなった。


 そんな中、ピピだけは満面の笑みを浮かべている。


「カズマ!」


「今度は何だ?」


「僕、ここに住む!」


「だから、それは今から話し合うって――」


「ずっとカズマと一緒!」


「話を聞け!」


 和真の声が敷地内に響く。


 その直後、離れた場所から聞き慣れた声が飛んできた。


「ちょっと待って! 勝手に決めないでよ!」


 全員が声の方を振り返る。


 酒屋の制服姿のまま走ってくるフェンリスが見えた。


 大きな狼の尻尾を逆立て、ピピに包み込まれている和真を真っすぐ睨んでいる。


「和真から離れてーっ!」


 どうやら、落ち着いて話し合いを始められるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。


「フェンリス、落ち着け!」


「落ち着けないよ! その子、和真にくっつきすぎ!」


 酒屋の制服姿のまま、フェンリスが勢いよく駆け寄ってくる。


 その剣幕に驚いたピピは、和真を包んでいた翼を開いた。


「カズマ、この子、怒ってる!」


「お前を捕まえようとしてるわけじゃないから、安心しろ」


「でも、すごく怒ってるよ!」


「怒ってるよ!」


「お前は少し落ち着け!」


 和真が間へ入っても、フェンリスの大きな狼の尻尾は逆立ったままだった。


「仕事が終わって急いで帰ってきたら、知らない女の子が和真に抱きついてるんだよ!?」


「俺に怒るなよ」


「じゃあ、その子に怒る!」


「やっぱり怒ってる!」


 ピピが地面を蹴り、ふわりと舞い上がる。


 フェンリスの頭上を越え、そのまま和真の背後へ降り立った。


「僕、悪いことしてないよ!」


「和真にくっついてた!」


「カズマのそば、安心するもん!」


「だからって近すぎる!」


「フェンリスも近いよ?」


「僕はいいの!」


「どうして?」


「どうしてって……それは……」


 言葉に詰まったフェンリスの顔が赤くなった。


 和真とフェンリスは恋人同士ではない。


 それでも、他の女性が和真へ近づけば、どうしても気になってしまうらしい。


「とにかく、場所を移すぞ」


 和真が母屋を指さす。


「入口で騒いでたら、近所の人に見られるだろ」


「それは困るけど……」


「フェンリスにも、ピピの事情を聞いてほしいんだ」


 フェンリスは和真の背後へ隠れているピピを見た。


 ピピも和真の肩越しに顔を出し、フェンリスを見つめている。


「その子、本当に危なくないの?」


「たぶんな」


「たぶん!?」


「僕、危なくないよ!」


 ピピが元気よく答える。


「飛べるし、歌えるし、焼肉もいっぱい食べられる!」


「最後のは何の説明なの?」


「すごいでしょ?」


「全然分からないよ!」


 フェンリスは頭を抱えた。


「詳しいことは中で話す。ピピも、しばらくフェンリスに抱きつくなよ」


「抱きつかないよ?」


「フェンリスに、だ」


「カズマには?」


「今は誰にも抱きつくな」


「ええっ!?」


「どうしてそこで驚くんだよ」


 ピピは不満そうに翼を下ろした。


 全員で母屋へ移動し、居間の食卓を囲む。


 ピピは当然のように和真の隣へ向かったが、フェンリスとみゆが同時に椅子を引いた。


「ピピはこっち!」


「いや、こっちに座って!」


「どうして僕を引っ張るの!?」


「和真の隣は駄目!」


「どうして?」


「どうしても!」


「さっきから、そればっかり!」


「二人ともやめろ!」


 結局、ピピは和真の正面へ座ることになった。


 しかし、椅子の背もたれに大きな翼が当たり、落ち着かないらしい。


 何度も身体の向きを変えた後、座面へ両足を載せ、しゃがみ込むような姿勢になった。


「その座り方でいいのか?」


「うん! でも、木の枝の方が楽!」


「椅子より枝がいいのか?」


「高いところなら、もっといいよ!」


「そのうち天井に止まりそうだな……」


 和真はピピの向かい側へ座り、公園で聞いた話を全員へ説明した。


 ピピが空を飛んでいた最中、突然強い光へ包まれたこと。


 気づけば、この世界の森へ落ちていたこと。


 自分の名前と種族以外は、ほとんど覚えていないこと。


 空き家や屋根の上、木の枝を転々としながら暮らしていたこと。


 空腹に耐えきれず店の食べ物を勝手に食べ、何度も追いかけられたこと。


 そして、誰も訪れない山の公園へたどり着いたこと。


「店の物を勝手に食べたの?」


 フェンリスが尋ねる。


「ちゃんと、食べていいか聞いたよ!」


「それで、いいって言われたの?」


「駄目って言われた!」


「なら食べちゃ駄目だよ!」


「でも、お腹が空いてたんだよ?」


「お腹が空いてても駄目なの!」


「どうして?」


「人の物だから!」


「お店に置いてあったよ?」


「お金を払う人のために置いてあるの!」


「お金って何?」


「そこから説明するの!?」


 フェンリスが和真へ助けを求めるような視線を向ける。


「俺も同じところで苦労した」


「ピピ、本当に何も知らないんだね……」


「知ってることもあるよ!」


「例えば?」


「焼肉!」


「今日覚えたことじゃないか!」


「すっごくおいしかった!」


 ピピは嬉しそうに翼を動かした。


 フェンリスはしばらく呆れていたが、やがて小さく息を吐いた。


「それで、ずっと一人で暮らしてたの?」


「うん!」


「怖くなかった?」


「最初は怖かったよ。でも、歌えば平気!」


「夜も一人で?」


「鳥が来てくれるよ。朝になると、みんないなくなるけど」


 明るい声だった。


 しかし、その言葉にわずかな寂しさが混じっている。


 フェンリスの狼耳が静かに伏せられた。


 異世界から来て、この世界で一人きりになった経験は、フェンリスも同じだ。


 ピピの気持ちが分からないはずはなかった。


「わらわは、ピピを迎え入れてよいと思う」


 最初に意見を口にしたのは、あおいだった。


「わらわも行く場所がなく、皆に助けてもらった身じゃ。この娘だけを追い返すことなどできぬ」


「わ、私も……賛成、です」


 ひかげが小さく手を挙げる。


「公園で一人にするのは……かわいそう、だから……」


「僕も賛成」


 みゆも続いた。


「和真にくっつきすぎなのは気になるけど、それと住む場所がないことは別だからね」


「私は反対しません」


 リディアが淡々と言う。


「ただし、生活環境を整える必要があります。人間用の設備を、そのまま使用するのは難しいでしょう」


 その視線が、ピピの大きな翼と鉤爪のある足へ向けられる。


「僕、どこでも寝られるよ!」


「寝床だけの問題ではありません。食事、入浴、着替え、扉の開閉など、手がなければ不便な場面は多くあります」


「足で掴めるよ?」


 ピピが片足を持ち上げ、鉤爪を動かしてみせる。


「重い物を運ぶことには適しているでしょう。しかし、細かな作業には向きません」


「僕、細かいことしないよ!」


「しなければ生活できないこともあります」


「じゃあ、カズマにやってもらう!」


「最初から全部俺に任せるな」


「カズマ、得意でしょ?」


「何を根拠に言ってるんだよ」


「焼肉を食べさせるの、上手だった!」


「それだけだろ!」


 残るはフェンリスだけだった。


 全員の視線が集まる。


「僕だって、追い出したいわけじゃないよ」


 フェンリスは少し迷った後、ピピを見た。


「勝手に人の物を食べない。人前で飛ばない。家の中で急に羽ばたかない。皆の言うことを聞く。守れる?」


「守れる!」


「本当に?」


「たぶん!」


「そこは絶対って言ってよ!」


「分かった! 絶対たぶん!」


「どっちなの!?」


 フェンリスが再び頭を抱える。


「返事はいいんだけどねぇ」


 みゆが苦笑しながら二本の尻尾を揺らす。


「内容を理解しておるかは怪しいの」


 あおいも困ったように笑った。


「ピピ」


 和真は改めて、正面に座る少女へ呼びかけた。


「ここで暮らすなら、守らないといけないことがある」


「うん!」


「分からない時は、勝手に行動する前に誰かへ聞くんだ」


「カズマに聞く!」


「俺がいない時は、他の誰かに聞け」


「カズマ、いなくなるの?」


 ピピの翼が急に身体へ寄せられた。


「仕事や買い物で出かけることはあるよ」


「僕も行く!」


「いつも一緒には無理だ」


「どうして?」


「俺にも予定があるからだ」


「僕、邪魔しないよ?」


「お前がいるだけで目立つんだよ」


「小さく飛ぶ!」


「大きさの問題じゃない」


 ピピはしばらく和真を見つめていた。


「カズマがいない時も、ここにいていい?」


「ああ」


「皆がいる?」


「誰かはいると思う」


「追い出されない?」


「約束を守って、皆と仲良くするならな」


「仲良くする!」


 ピピが勢いよく翼を広げる。


「羽ばたくなよ!」


「まだ何もしてないよ!」


「今、やろうとしただろ」


「嬉しかっただけ!」


「嬉しくても駄目だ」


「難しい……」


「翼を広げるだけなら構わない。風を起こすなって言ってるんだ」


「分かった!」


「本当に?」


「たぶん!」


「先が思いやられるな……」


 それでも、ピピの新しい居場所は決まった。


「今日から、ピピも空色唐辛子荘の住人だ」


「住人?」


「ここがお前の家になるってことだよ」


「僕の家?」


「ああ」


 ピピは目を丸くした。


「もう、公園の木で寝なくてもいい?」


「部屋が気に入らなければ、敷地の木で寝てもいいけどな」


「雨が降ったら?」


「屋根がある」


「寒くない?」


「部屋なら暖かいよ」


「お腹が空いたら?」


「ちゃんと言えば、何か食べさせてもらえる」


「焼肉も?」


「毎日は無理だ」


「たまには?」


「たまにならな」


「やったーっ!」


 ピピが翼を激しく羽ばたかせた。


 強い風が居間を吹き抜ける。


 食卓の上に置かれていた紙や布巾が舞い上がり、みゆの髪と二本の尻尾が大きくなびいた。


 ひかげは飛んできた紙を慌てて押さえ、あおいの九本の尻尾も風に揺れる。


 リディアだけは表情を変えず、飛んできた布巾を機械の手で掴んだ。


「家の中で羽ばたくなって、今言ったばかりだろ!」


「あっ!」


「もう忘れたのか!?」


「嬉しかったから!」


「理由になってない!」


「ごめんなさい!」


 ピピは素直に謝り、翼を身体へ寄せた。


「本当に大丈夫かなぁ」


 フェンリスが不安そうに呟く。


「今さらじゃろう」


 あおいは楽しそうに笑っていた。


     ◇


 ピピが使う部屋は、空いていた104号室に決まった。


 部屋にはベッドと小さな机、収納棚が置かれている。


 家具は少ないが、掃除をすればすぐに暮らせる状態だった。


 しかし、その前に、ピピの身体をきれいにする必要がある。


「まずは風呂だな」


「お風呂?」


「身体を洗う場所だよ。公園では噴水で羽を洗ってたんだろ?」


「うん!」


「今度は温かいお湯で洗えるぞ」


「温かい水!?」


 ピピの目が輝いた。


「入りたい!」


「一人で身体を洗えるのか?」


「できるよ!」


「どうやって?」


「水に入って、翼をこうやって――」


 ピピが大きく翼を広げる。


「風呂の中で羽ばたくなよ」


「どうして?」


「浴室中が水浸しになるからだ」


「水を使う場所なのに?」


「浴槽の外まで濡らしたら駄目なんだよ」


「難しい……」


「お前、さっきから何でも難しいで済ませてないか?」


 当然ながら、翼を持つピピには手がない。


 足の鉤爪で物を掴むことはできても、身体や羽を細かく洗うには向いていなかった。


 結局、あおいとひかげが入浴を手伝うことになった。


「わらわたちに任せるのじゃ」


「こ、怖くないから……大丈夫、だよ」


「本当に羽を抜かない?」


「抜かぬ」


「痛いことしない?」


「し、しないよ……」


「カズマも一緒?」


「俺は行かない」


「どうして!?」


「女同士で入ってこい」


「カズマがいないと不安!」


 ピピが和真へ駆け寄ろうとする。


 その前へ、フェンリスとみゆが同時に立ちはだかった。


「絶対に駄目!」


「和真はここに残るから!」


「二人とも怖い!」


「和真をお風呂に誘うからでしょ!」


「一緒に入った方が楽しいよ?」


「駄目ったら駄目!」


 両側から押されるようにして、ピピは浴室へ連れていかれた。


 間もなく、浴室から大きな声が聞こえてくる。


「温かーい!」


「ピピ、急に翼を動かしてはならぬ!」


「み、水が……!」


「楽しい!」


「風呂の中で飛ぶでない!」


 水音とあおいの注意が、居間まで響いてきた。


「大丈夫なのか?」


 和真が浴室へ目を向ける。


「和真が様子を見に行く必要はないからね」


 フェンリスが服の裾を掴んだ。


「分かってるよ」


「本当に?」


「行かないって」


「ならいいけど」


 フェンリスはようやく手を離した。


「それより、フェンリスは着替えてこなくていいのか?」


「あっ」


 まだ酒屋の制服姿だったことを忘れていたらしい。


 慌てて101号室へ戻っていった。


 入浴を終えたピピが居間へ戻ってきたのは、それから一時間ほど後だった。


 汚れていた羽はすっかりきれいになり、本来の柔らかさを取り戻している。


 洗ったばかりの翼はまだ少し湿っていた。


「カズマ!」


 和真を見つけたピピが駆け出す。


「まだ濡れてるから抱きつくなよ」


「乾かしたよ!」


「本当か?」


「たぶん!」


「その返事で信用できると思うか?」


 ピピは止まることなく和真へ飛びつき、両翼で身体を包み込んだ。


 柔らかな羽から、わずかに水気が伝わってくる。


「やっぱり濡れてるじゃないか」


「ちょっとだけ!」


「俺まで風呂上がりみたいになりそうだな……」


「カズマも気持ちいい?」


「冷たいよ」


「じゃあ、乾かす!」


「このまま羽ばたくな!」


「あっ、そっか!」


 ピピは納得したが、翼を解こうとはしなかった。


「分かったなら離れてくれ」


「嫌だ!」


「即答するなよ」


 その時、台所からリディアの声が聞こえた。


「夕食の準備ができました」


「ご飯!」


 ピピは和真からあっさり離れ、食卓へ駆けていった。


「俺より食事の方が大事なんじゃないか?」


「そんなことないよ!」


 ピピは食卓へ顔を近づけたまま答える。


「カズマも大事! ご飯も大事!」


「こっちを見て言え」


 食卓には、野菜と鶏肉を使ったスープ、サラダ、焼きたてのパンが並んでいた。


 公園で焼肉弁当を半分近く食べたはずのピピは、早くも目を輝かせている。


「これ、全部食べていい!?」


「皆の分もあるから、全部は駄目だ」


「じゃあ、僕の分はどれ?」


「今から取り分けるよ」


「これ?」


 ピピがパンへ顔を近づける。


「待て」


「こっち?」


「だから待てって」


「お腹空いた!」


「さっき食べただろ」


「さっきはさっきだよ!」


「もう腹が減ったのか?」


「ご飯を見たら減った!」


「便利な腹だな……」


 全員が席へ着く。


 ピピの前にも、スープとパンが置かれた。


 だが、ピピにはスプーンを持つ手がない。


 食器を見つめた後、何の迷いもなく器へ顔を近づけた。


「待て!」


 和真が慌てて器を引く。


「どうして!?」


「そのまま食べたら、髪が入るだろ」


「公園では、いつもこうやって食べてたよ?」


「今日からは違う」


「じゃあ、どうやって食べるの?」


「俺が――」


「僕が食べさせる!」


 フェンリスが勢いよく手を挙げた。


「フェンリスが?」


「和真ばっかり食べさせるのはずるいから!」


「ずるいって何だよ」


「僕、フェンリスに食べさせてもらう!」


 ピピが嬉しそうに口を開ける。


「あーん!」


「まだすくってないよ!」


「早く!」


「待って。最初は熱くないか確かめるから」


 フェンリスはスープを少量すくい、息を吹きかけて冷ます。


 ピピの口へ運ぶと、その目が大きく見開かれた。


「おいしい!」


「熱くない?」


「大丈夫! 次!」


「ちゃんと飲み込んでからだよ」


「次!」


「だから待って!」


 フェンリスは戸惑いながらも、どこか楽しそうに食事を与えていた。


「フェンリス、上手!」


「本当?」


「うん! カズマの次に上手!」


「何で和真より下なの!?」


「焼肉じゃないから!」


「料理で評価が変わるの!?」


 みゆが呆れたように笑う。


「僕も食べさせてあげようか?」


「みゆは何をくれるの?」


「サラダ」


「フェンリスがいい!」


「選り好みした!」


 賑やかな夕食が続く。


 ピピは誰かに食べさせてもらうことに、すっかり慣れてしまったようだった。


「お前も、少しくらい自分で食べられるようにならないとな」


 和真が言う。


「足なら使えるよ?」


「食卓の上に足を載せるのは駄目だ」


「どうして?」


「行儀が悪いからだ」


「ぎょうぎ?」


「皆と一緒に暮らすための決まりみたいなものだよ」


「また決まり?」


「ああ」


「いっぱいあるね!」


「少しずつ覚えてくれ」


「分かった!」


 ピピは元気よく答えた。


 だが、その直後にはパンへ気を取られ、今の話を忘れたように口を開けている。


「あーん!」


「本当に覚えられるのかな……」


 和真が呟く。


「難しいでしょう」


 リディアが即答した。


「少なくとも、言葉と生活習慣の両方を短期間で習得することは期待できません」


「僕、覚えられるよ!」


 ピピが抗議する。


「では、先ほど和真から教えられた、店の物を得るために必要な物は何ですか?」


「焼肉!」


「覚えていません」


「焼肉をもらうんじゃないの?」


「金を払うんだよ」


「あっ、それ!」


「絶対、今思い出してないだろ」


「思い出したよ!」


「なら、何を払うんだ?」


「焼肉!」


「戻ってるじゃないか!」


 全員から溜息が漏れた。


 ピピ自身は真剣である。


 ただ、覚えるよりも先に、興味が別のものへ移ってしまうらしい。


「言葉の問題もあります」


 リディアが続ける。


「現在、会話が成立しているのは、和真の通訳魔法が働いているためです。和真から離れれば、私たちはピピの言葉を理解できません」


「そういえば、そうだったな」


 ピピがこの世界の言葉をほとんど理解できないことは、公園でも聞いている。


「日本語を覚えてもらうのは?」


 フェンリスが尋ねる。


 リディアは一度、ピピを見た。


「長い時間が必要になるでしょう」


「僕、すぐ覚えるよ!」


「日本語で食事は『ご飯』です」


「ごはん!」


「繰り返してください」


「焼肉!」


「難しいでしょう」


「今のは間違えただけ!」


 ピピは頬を膨らませた。


「言葉と外見、それに手がないこと。この三つは、何か考えた方がよさそうだな」


「専用の装置を設計します」


 リディアが淡々と答える。


「ピピが周囲の言葉を理解するための通訳機。翼や鉤爪を隠し、発言を日本語へ変換する外見変更装置。そして、手の代わりに物を扱うための補助機構が必要です」


「僕に手ができるの?」


「実際の手ではありません。詳しい説明は、設計がまとまってから行います」


「焼肉を持てる?」


「それも可能にします」


「作って!」


 ピピが嬉しそうに翼を広げかける。


「羽ばたくなよ」


「分かってるよ!」


 どうやら、今度はぎりぎり覚えていたらしい。


 リディアは食事を終えると、すでに何かを考えるようにピピの翼を観察し始めた。


「今日は測りません」


「本当?」


「はい。明日以降です」


「羽も抜かない?」


「抜きません」


「網も使わない?」


「使いません」


「焼肉は?」


「装置の製作には不要です」


「じゃあ、カズマにもらう!」


「俺を焼肉の保管場所みたいに扱うな」


     ◇


 夕食を終えた後、全員で104号室へ移動した。


「ここが、今日からピピの部屋だ」


「僕の?」


「ああ」


 ピピは室内へ入ると、落ち着かない様子で周囲を見渡した。


 小さな机。


 収納棚。


 カーテンのついた窓。


 そして、部屋の中央に置かれたベッド。


「全部、僕が使っていいの?」


「壊さないならな」


「飛んでもいい?」


「部屋の中では駄目だ」


「天井までしか飛ばないよ?」


「狭すぎるだろ」


「じゃあ、ベッドの上!」


「飛び跳ねるなよ」


 ピピはベッドへ近づき、恐る恐る片足を載せた。


 柔らかな布団が沈む。


「わっ!」


 驚いたピピが翼を広げる。


「地面がへこんだ!」


「布団だからな」


「乗っても大丈夫?」


「大丈夫だよ」


 ピピはもう片方の足も載せ、ベッドの中央へ移動した。


 何度か身体を上下させ、布団の感触を確かめる。


「ふわふわ!」


「気に入ったか?」


「うん!」


「なら、今夜はここで寝られるな」


「カズマも?」


「俺は母屋で寝る」


 ピピの動きが止まった。


「じゃあ、僕も母屋で寝る」


「お前の部屋はここだよ」


「一緒がいい!」


「公園では一人で寝てただろ」


「カズマと会う前だもん!」


 ピピはベッドから飛び降り、和真へ駆け寄る。


 両翼で身体を包み込もうとしたところで、フェンリスとみゆが同時に間へ入った。


「駄目!」


「和真は母屋で寝るの!」


「どうして!?」


「どうしても!」


「またそれ!」


「二人とも、少し落ち着け」


 和真はピピの翼から抜け出し、ベッドを指さした。


「横になってみろ。眠れそうか?」


「分かんない」


 ピピは再びベッドへ上がった。


 翼を身体の横へ寄せ、布団へ横になる。


 しかし、何度も姿勢を変えた後、すぐに起き上がってしまった。


「落ち着かない!」


「翼が邪魔なのか?」


「木の枝がない!」


「ベッドに枝はないよ」


「僕、止まって寝る方が好き」


 公園でも、木の上に簡単な寝床を作っていた。


 ピピにとっては、柔らかなベッドより、足をかけて身体を預けられる枝の方が落ち着くのだろう。


「止まり木が必要ということですね」


 リディアが室内の幅を確認する。


「明日、用意します」


「本当!?」


「壁へ固定し、下へ寝具を敷けば問題ありません」


「落ちないよ?」


「念のためです」


「僕、飛べるもん!」


「眠っている間は飛べません」


「寝ながら飛べるかも!」


「飛べません」


「まだやったことないよ?」


「試さなくて結構です」


 その夜は間に合わないため、あおいがベッドの上へ布団を丸め、身体を預けられる場所を作った。


 ピピはその上へ両足を載せ、翼で身体を包み込む。


「これなら寝られる!」


「苦しくないのか?」


「平気!」


「夜中に困ったことがあったら、隣の103号室にいるわらわを呼ぶとよい」


 あおいが優しく伝える。


「カズマは?」


「母屋だ」


「呼びに行っていい?」


「本当に困った時だけな」


「寂しくなった時は?」


「……それも、どうしても我慢できなかったら来ていいよ」


「和真!」


 あおいが不満そうに九本の尻尾を揺らす。


「わらわの時とは随分と対応が違わぬか?」


「あおいも来てただろ」


「わらわは、毎回かなり迷ってから訪ねておった」


「誰にも見つからないように来てただけだろ」


「それでもじゃ」


「じゃあ、あおいの部屋に行く!」


 ピピが元気よく言う。


「わらわの部屋へ?」


「うん! 寂しくなったら、あおいと寝る!」


「そ、そうか」


 あおいの狐耳が嬉しそうに立ち上がった。


「ならば、いつでも来るとよい。わらわの尻尾は暖かいぞ」


「ふわふわ?」


「うむ。九本もあるからの」


「僕もふわふわ!」


 ピピが翼を広げる。


 二人は互いの翼と尻尾を見比べ、少しだけ距離を縮めたようだった。


「それじゃ、今日はもう休め」


「カズマ、行っちゃうの?」


「ああ。また明日の朝にな」


「明日の朝もいる?」


「いるよ」


「ここも、僕の部屋のまま?」


「もちろんだ」


「起きたら、また知らない森じゃない?」


 それまで明るかった声が、小さくなる。


 ピピは翼で身体を包み、ベッドの上から和真を見つめていた。


 空を飛んでいる最中、突然この世界へ投げ出された。


 眠って目を覚ました時、また別の知らない場所へ移っているかもしれない。


 そんな不安を感じているのだろう。


「大丈夫だよ」


 和真はベッドのそばへ戻った。


「明日の朝も、ここはピピの部屋だ。俺も、皆もいる」


「本当?」


「ああ」


「ご飯もある?」


「ある」


「焼肉?」


「朝から焼肉は出ない」


「じゃあ、パン?」


「たぶんな」


「楽しみ!」


 ピピの表情に、明るさが戻った。


「おやすみ、ピピ」


「おやすみ?」


「寝る前の挨拶だよ」


「おやすみ!」


「覚えられたじゃないか」


「うん!」


 和真が部屋を出ようとする。


「カズマ!」


「今度は何だ?」


「ご飯!」


「そっちは忘れたのかよ!」


「違うよ! 朝になったら、ご飯って教えに来て!」


「起こしに来いってことか?」


「うん!」


「分かったよ」


「約束!」


「ああ、約束だ」


「おやすみ、カズマ!」


 今度こそ正しく言えた。


 和真が廊下へ出ると、他の住人たちもそれぞれの部屋へ戻っていく。


「和真」


 フェンリスが小声で呼び止めた。


「何だ?」


「ピピ、本当に大丈夫かな?」


「分からないことだらけだけど、放ってはおけないだろ」


「それは分かってるけど……」


 フェンリスは104号室の扉へ目を向けた。


「僕が来た時と、少し似てるから」


「そうだな」


「知らない場所で一人になるの、すごく怖いんだよ」


「ああ」


「だから、住むことには反対しない」


「ありがとう」


「でも!」


 フェンリスが和真へ顔を近づける。


「和真にずっと抱きつくのは駄目だからね!」


「俺に言われても困る」


「ちゃんと離すの!」


「無理に離したら、羽を傷めるかもしれないだろ」


「優しく離せばいいの!」


「簡単に言うなよ」


「僕が離す!」


「それで喧嘩するなよ」


「ピピが言うことを聞けば喧嘩しないよ!」


「たぶん聞かないと思うぞ」


「今からそんなこと言わないでよ!」


 その時、104号室の中から歌声が聞こえてきた。


「らーららー……ららー……」


 公園で聞いたものより、ずっと小さな歌声だった。


 窓の外を流れる風が、その声へ応えるように揺れる。


 敷地の木々が葉を鳴らし、夜の静けさの中へ優しい音を広げていく。


 やがて、ピピの歌声は少しずつ弱くなり、聞こえなくなった。


「眠ったみたいだね」


 フェンリスの狼耳が、扉の向こうの音を確かめるように動く。


「ああ」


「公園にいた時より、安心できたのかな」


「そうだといいな」


 二人が母屋へ戻ろうとした時、104号室の扉が勢いよく開いた。


「カズマ!」


「起きてたのかよ!」


 ピピが部屋から飛び出し、和真へ駆け寄る。


「どうした?」


「朝になった!」


「まだ夜だ!」


「歌い終わったから、朝かと思った!」


「そんなに早く朝が来るか!」


「じゃあ、ご飯は?」


「さっき食べただろ!」


「お腹空いた!」


「寝ろ!」


 静かになりかけていた空色唐辛子荘に、再びピピと和真の声が響き渡る。


「やっぱり大丈夫じゃなさそうだね……」


 フェンリスが呟く。


「慣れるまで時間がかかるだろうな」


「僕、もう慣れたよ!」


「お前の話はしてない!」


「じゃあ、誰の話?」


「ピピの話だよ!」


「僕だ!」


「今気づいたのかよ!」


 新しい住人が加わった空色唐辛子荘は、その日の夜から、以前にも増して騒がしくなった。

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