第十四話 ひとりで眠れるまで
神崎あおいが空色唐辛子荘で暮らし始めてから、一週間が過ぎた。
その間、あおいは毎晩のように母屋を訪れ、和真の布団へ潜り込んでいた。
本人に悪気はない。
二百年以上も社に閉じ込められていたあおいにとって、目を閉じても誰かがそばにいるという安心感は、何物にも代えがたいものだった。
用意された103号室も気に入っている。
日中は窓際で日向ぼっこをしたり、持たせてもらった座布団の上で本を眺めたりしている。九本の尻尾を広げても窮屈にならない部屋は、あおいにとって初めて与えられた自分だけの居場所だった。
しかし、夜になると話は別だった。
「今宵も頼むぞ、和真」
「……うん」
日が暮れると、あおいは枕を抱えて母屋へやって来る。
最初の数日は仕方がないと誰もが我慢していた。
長い間、たった一人で閉じ込められていたのだ。
急に一人で眠れと言う方が酷だろう。
和真もそう考え、しばらくは添い寝を許していた。
だが――一週間が経っても、状況はまったく変わらなかった。
それどころか、あおいは日に日に遠慮がなくなっていた。
最初は布団の端で小さく丸まっていたはずなのに、今では和真の腕へしがみつき、九本の尻尾で二人を包むようにして眠っている。
朝になる頃には、和真の身体はほとんど尻尾の中へ埋まっていた。
「……暑い」
「すぅ……和真……どこにも行くでないぞ……」
「行かないから、尻尾を少しだけ退けてくれ……」
和真が身動きできないまま困っていると、寝室の戸が勢いよく開いた。
「やっぱり、まだ一緒に寝てる!」
枕を抱えたフェンリスが、戸口で頬を膨らませていた。
その後ろから、みゆ、ひかげ、リディアまで顔を覗かせる。
「僕、昨日も確認したけどさ。これ、完全に和真を独占してるよね?」
「……ずるい」
ひかげは長い前髪の下から、布団の中にいる二人をじっと見つめている。
「睡眠時の接触時間だけで考えれば、あおいが圧倒的に多いですね」
リディアが冷静に告げる。
「なんでそんな記録を取ってるんだ?」
「生活環境を改善するためです」
「絶対に別の目的もあるよね?」
和真が尋ねたが、リディアは答えなかった。
騒がしさで目を覚ましたあおいが、尻尾の隙間から顔を出す。
「む……皆、朝からどうしたのじゃ?」
「どうしたのじゃ、じゃないよ!」
フェンリスが布団のそばまで歩み寄り、腰に手を当てた。
「あおいが一人じゃ不安なのは分かる。僕だって、最初は仕方ないと思ってたよ。でも、もう一週間だよ?」
「まだ七日ではないか」
「七日も、だよ!」
「二百年以上に比べれば、一週間など瞬きほどの時間じゃ」
「比べる相手がおかしい!」
フェンリスの大声に、あおいの狐耳がぺたりと伏せられる。
だが、和真の腕だけは離さなかった。
「わらわとて、一人で眠れぬわけではない。ただ、和真のそばが落ち着くのじゃ」
「それを一人で眠れないって言うんだよ」
「違うぞ。眠れはする。ただ、目を閉じると社に戻ったような気がしてしまうだけじゃ」
あおいは少しだけ声を落とした。
「目を覚ました時、和真がおらぬかもしれぬと思うと……確かめずにはいられぬ」
その言葉を聞いたフェンリスの勢いが弱まる。
ひかげも何も言えなくなり、みゆは困ったように二本の尻尾を揺らした。
和真はあおいの頭へ手を置く。
「無理に離れる必要はない。もう少し時間をかけても――」
「和真」
四人の声が重なった。
「……はい」
あおいではなく、和真が正座させられた。
母屋の居間。
座卓の前で正座する和真を、フェンリス、みゆ、ひかげ、リディアの四人が取り囲んでいる。
あおいは和真の隣に座ろうとしたが、フェンリスに止められ、少し離れた座布団へ座らされた。
「今回の一番の問題は、和真だよ」
「俺なのか?」
「そうだよ。あおいが不安なのは分かるけど、何でも許してたら、ずっと和真から離れられなくなるでしょ」
「それは……」
「お風呂も一緒でよい、厠もついていってよい、寝る時も一緒でよい。和真はそのうち、そこまで言い始めるのではありませんか?」
「さすがに言わない」
リディアの指摘を、和真は即座に否定した。
すると、みゆが疑うように顔を近づける。
「本当に?」
「本当だ」
「昨日、あおいがお風呂の前までついてきた時は?」
「扉の外で待たせた」
「トイレの時は?」
「廊下で待たせた」
「十分甘やかしてるよ」
「……そうか?」
「そうだよ!」
再び三人の声が重なり、ひかげも小さくうなずいた。
「……あおいのためにも、少しずつ慣れた方がいいと思う」
ひかげの静かな言葉に、和真は反論できなかった。
いつまでも自分がそばにいなければ何もできない状態では、あおいの世界が狭いままになってしまう。
あの社から連れ出したのは、和真に依存させるためではない。
あおいが自分の意思で好きな場所へ行き、好きなことを選べるようになるためだ。
「……分かった。俺が甘やかしすぎてた」
「うむ。分かればよいのじゃ」
「なぜ、あおいが許す側に回ってるの?」
みゆがすかさず指摘する。
あおいは気まずそうに目を逸らした。
「しかし、今夜からいきなり一人で寝かせるのも難しいと思います」
リディアが座卓の上へ一枚の紙を置いた。
そこには表が書かれており、フェンリス、みゆ、ひかげ、リディアの名前が順番に並んでいる。
「何だ、これ?」
「当番表です」
「何の?」
「あおいの添い寝です」
「いつの間に作ったの?」
フェンリスが紙を覗き込む。
一日目はフェンリス。
二日目はみゆ。
三日目はひかげ。
四日目はリディア。
その後は、またフェンリスへ戻るようになっていた。
「当面の間、和真とあおい、それに私たちの中から一人が加わり、三人で寝ます。あおいが一人で眠れるようになるまで、少しずつ和真との距離を離していくのが適切かと」
「どうして最初から俺も入ってるんだ?」
「完全に離せば、あおいが眠れなくなる可能性が高いためです」
「わらわは和真と二人でも構わぬぞ」
「それをやめるための話だよ!」
フェンリスに叱られ、あおいはまた狐耳を伏せた。
「でも、川の字になるなら、並び方は大事だよね」
みゆが真剣な顔で言う。
「僕は和真の隣がいいな」
「駄目。あおいを安心させるためなんだから、和真、あおい、当番の順でしょ」
「それだと、あおいが今までどおり和真にくっつくよ?」
「なら、あおい、和真、僕の順がいい」
「結局フェンリスが和真の隣に寝たいだけじゃない?」
「みゆだって同じでしょ!」
「わ、私は……端でいい……」
ひかげが遠慮がちに手を挙げる。
「その代わり……少しくらいなら、和真の服を掴んでいても……」
「ひかげまで目的が変わってるよ!」
話し合いは、添い寝をやめさせるためのものだったはずだ。
しかし、いつの間にか誰が和真の隣で眠るかを決める話になっている。
リディアは騒ぐ三人を気にせず、紙へ新しい項目を書き足した。
「公平性を保つため、並び順も毎日交代にしましょう」
「そこまで厳密に決める必要があるのか?」
「必要です」
リディアは迷いなく答えた。
こうして、その日の夜から、奇妙な添い寝当番が始まった。
初日の当番はフェンリスだった。
母屋の寝室に三枚の布団を敷き、あおい、和真、フェンリスの順で横になる。
「これなら、あおいも安心できるし、和真も一人で面倒を見なくていいよね」
「ああ」
「和真よ。もう少しこちらへ寄れぬか?」
「駄目だよ。そこから動かないで」
「フェンリスは和真の腕を掴んでおるではないか」
「僕は落ちないように掴んでるだけ」
「布団の端まで、まだ随分と余裕があるように見えるが?」
「気のせいだよ」
言い争う二人に挟まれ、和真は天井を見上げた。
「これ、俺が一番眠れないんじゃないか?」
翌日はみゆだった。
「和真、寒くない?」
「寒くない」
「僕の尻尾、貸してあげようか?」
「間に合ってる」
「では、わらわの尻尾を使うがよい。九本もあるぞ」
「それも大丈夫だ」
「遠慮しなくていいよ?」
「遠慮するでない」
「二人とも寝てくれ」
三日目はひかげだった。
ひかげは布団へ入ってから一言も話さず、身体を固くしたまま動かなかった。
「ひかげ、眠れないのか?」
「……だ、大丈夫」
「緊張してる?」
「……してない」
そう答えながら、ひかげは布団の中で和真の服の裾をしっかりと掴んでいる。
反対側では、あおいが当然のように和真の腕へ抱きついていた。
四日目はリディアだった。
「睡眠中の心拍数と体温を記録します」
「寝るだけだよな?」
「今後の改善に必要な情報です」
「その機械、寝てる間も動かすのか?」
「問題ありません。作動音は抑えています」
そう言った直後、リディアの機械の指先から小さな駆動音が鳴った。
あおいは興味津々で義手に触れ、結局、夜遅くまで質問を続けた。
誰が当番になっても、静かに眠れる夜は一度もなかった。
それでも、あおいは毎晩嬉しそうだった。
布団へ入る前から笑い、朝になれば誰よりも機嫌よく起きる。
そんなあおいの姿を見るたびに、和真はこの方法でも悪くないのではと思い始めていた。
だが、当のあおいは違っていた。
自分のために当番表が作られ、毎晩誰かが母屋へ泊まりに来る。
和真は眠そうな顔で朝食を作り、当番だった者も昼間にあくびをしている。
皆が自分に気を遣っていることくらい、あおいにも分かっていた。
ある日の夜。
和真が寝室に布団を敷いていると、いつもなら枕を抱えて現れるはずのあおいが来なかった。
代わりに、少し開いた戸の向こうから、銀色の狐耳だけが覗いていた。
「あおい?」
呼びかけると、狐耳がぴくりと動く。
しばらくして、あおいが戸の陰から姿を現した。
腕にはいつもの枕を抱えている。
「どうした? 今日はフェンリスの番だろ」
「……今宵は、ここでは寝ぬ」
「何か嫌なことでもあったのか?」
「違うのじゃ」
あおいは枕を抱く腕へ力を込めた。
「わらわは、今宵から103号室で眠る」
その言葉を聞き、和真は驚いてあおいを見つめた。
「一人で大丈夫なのか?」
「当然じゃ。わらわを何歳だと思うておる」
「でも、無理をする必要は――」
「和真」
あおいは和真の言葉を遮った。
「わらわは、おぬしの重荷になるために、あの社を出たのではない」
幼さの残る声だったが、その表情には強い決意が浮かんでいた。
「皆にも心配をかけてしもうた。ゆえに、今宵は一人で眠る。朝になったら、また会いに来るからの」
そう言って笑うあおいの九本の尻尾は、不安を隠すように強く寄せ合わされていた。
和真は引き止めようとしたが、あおいは小さく首を横に振る。
「おやすみ、和真」
「ああ……おやすみ、あおい」
あおいは何度も振り返りながら母屋を出ていった。
夜の敷地を横切り、明かりの消えたアパートへ向かっていく。
和真はその小さな背中が103号室へ入るまで、縁側から見守り続けた。
その夜。
あおいは自分の布団に入り、九本の尻尾で身体を包み込んだ。
部屋の中は静かだった。
風が窓を僅かに揺らす。
遠くで木の枝が擦れ、どこかで小さな虫が鳴いている。
目を閉じるたび、社の暗闇が脳裏に蘇った。
誰も来ない。
声を出しても届かない。
明日も、百年後も、同じ暗闇の中にいる。
「……違う」
あおいは小さく呟いた。
「ここは、あの社ではない。朝になれば、和真に会える……」
何度も自分へ言い聞かせる。
それでも、不安は消えなかった。
あおいは枕へ顔を埋め、朝が来るのをただじっと待ち続けた。
翌朝になっても、あおいは母屋へ姿を見せなかった。
いつもなら和真が朝食を作り始めるより早くやって来て、台所の入り口から興味深そうに鍋を覗き込んでいる。
だが、朝食ができても103号室の扉が開く気配はない。
「まだ寝てるのかな?」
フェンリスが窓からアパートを見つめる。
「昨夜は一人で眠ると張り切っていたから。今頃はぐっすり眠ってるんじゃないかな?」
みゆはそう言いながら、焼き魚へ箸を伸ばした。
「……でも、遅い」
ひかげが心配そうに呟く。
リディアは壁に取り付けた小さな装置へ目を向けた。
「103号室の扉は、昨夜から一度も開いていません」
「それ、部屋から出たかどうかまで分かるのか?」
「防犯装置の開閉記録です。室内を監視しているわけではありません」
和真は火を止めると、手にしていた菜箸を置いた。
「見てくる」
母屋を出て、アパートの103号室へ向かう。
扉を軽く叩いたが、返事はなかった。
「あおい、起きてるか?」
もう一度呼びかける。
しばらく待っていると、室内から小さな物音が聞こえた。
「……起きておる」
声は聞こえたが、いつものような張りがない。
「入ってもいいか?」
「待つのじゃ。今、開ける……」
扉の向こうで何かが倒れる音がした。
「あおい?」
和真はすぐに扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。
部屋へ入ると、あおいが布団の横で膝をついていた。立ち上がろうとして力が入らなかったのか、床へ両手をついている。
九本の尻尾は力なく垂れ、狐耳も伏せられていた。
「大丈夫か?」
和真が駆け寄り、身体を支える。
「うむ。少し、足がもつれただけじゃ」
「顔が赤いぞ」
「そうかの……?」
額へ手を当てると、普段より明らかに熱かった。
和真はあおいを抱き上げ、布団へ寝かせた。
「昨日、眠れたのか?」
「……眠ったぞ」
「あおい」
「少しは眠った」
「どれくらいだ?」
あおいは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
おそらく、ほとんど一睡もしていない。
布団の周りには、何度も寝返りを打った跡が残っていた。
「どうして朝まで我慢したんだ。怖かったなら、母屋へ来ればよかっただろ」
「それでは、皆に心配をかけるではないか」
「今の方が心配する」
「……すまぬ」
あおいは目を伏せた。
「わらわは、皆の重荷にはなりとうないのじゃ。一人で眠れるところを見せれば、皆も安心すると思うた」
和真が何かを言う前に、廊下から足音が近づいてきた。
「和真、あおいは――」
部屋へ入ってきたフェンリスが、布団に横たわるあおいを見て言葉を止める。
その後ろから、みゆ、ひかげ、リディアも続いた。
「どうしたの?」
「熱がある。昨夜はほとんど眠ってないみたいだ」
四人の表情が一斉に曇る。
リディアがあおいのそばへ座り、ゴーグルの片側へ小さな部品を取り付けた。淡い光をあおいの額から胸元までゆっくりと動かす。
「体温が上がっています。脈も少し速いですね。魔力の流れにも乱れがあります」
「病気なのか?」
「現時点では、極度の疲労と睡眠不足の可能性が高いです。食事と水分を取らせ、今日は安静にさせましょう。熱が上がるようなら病院へ連れていく必要があります」
「分かった」
和真はあおいの身体を起こし、水を飲ませた。
フェンリスたちは部屋の隅に立ったまま、何も言えずにいる。
やがて、みゆが二本の尻尾を垂らしながら口を開いた。
「……僕たちのせいだよね」
「わらわが勝手にしたことじゃ。みゆたちのせいではない」
「でも、一人で寝ろって言ったのは僕たちだよ」
「いきなり一人で眠れとは言っておらぬ。皆も一緒に寝てくれたではないか」
「それでも、あおいが気を遣ってることに気づかなかった」
フェンリスが布団のそばへ座る。
「ごめん、あおい。僕、和真と一緒に寝てることばかり気にしてた」
あおいが驚いたようにフェンリスを見る。
「フェンリスが謝る必要はないぞ」
「あるよ。あおいが和真のそばにいたい理由は分かってたのに、僕は自分の気持ちばかり優先してた」
「……私も、ごめんなさい」
ひかげもあおいの近くへ腰を下ろした。
「一人で眠るのが怖い気持ち……私にも少し分かる。なのに、無理をさせた」
「私の提案にも問題がありました」
リディアがゴーグルの部品を外す。
「段階的に慣れさせるつもりでしたが、あおいの精神的な負担を正確に把握できていませんでした」
「皆して、そのような顔をするでない」
あおいは困ったように笑った。
「わらわは、皆に怒ってなどおらぬ。むしろ、毎晩そばにいてくれたことを嬉しく思っておる」
「だったら、もう無理しないでよ」
みゆがあおいの手を握る。
「寂しかったら寂しいって言って。怖いなら、怖いって言っていいんだから」
「じゃが、それではいつまでも一人で眠れぬ」
「一人で寝る練習は続ければいい。でも、和真は抜き」
「なぜじゃ?」
「和真がいたら、絶対に甘えるから」
「甘えぬぞ」
あおいは即座に否定したが、その手は隣に座る和真の服を掴んでいた。
全員の視線がその手へ集まる。
あおいは静かに手を離した。
「……今のは無意識じゃ」
「だから駄目なんだよ」
フェンリスは苦笑すると、座卓代わりの小さな机へ一枚の紙を置いた。
以前リディアが作った添い寝の当番表だった。
「今日から当番を変えよう」
フェンリスは紙に書かれた和真の名前へ線を引く。
「今度は僕たち四人が、交代であおいと一緒に寝る。場所も母屋じゃなくて、この103号室」
「俺は?」
「和真は母屋で寝る」
「俺も手伝った方が――」
「駄目」
フェンリス、みゆ、ひかげ、リディアの声が綺麗に重なった。
「和真がいると、あおいが頼り切ってしまいます」
「それに和真は、あおいが頼んだら何でも許すでしょ?」
「……否定はできない」
「少しは否定してよ」
みゆが呆れたように言った。
「わらわは、和真と一緒がよいのじゃが」
「まずは僕たちと眠るところから始めよう」
フェンリスがあおいの頭を撫でる。
「大丈夫。朝になったら、和真には会えるから」
「……本当か?」
「敷地内にいるんだから、当たり前でしょ」
その日の夜。
熱が下がったあおいの部屋には、二枚の布団が並べられていた。
最初の当番はフェンリスだった。
あおいは何度も窓の外を見て、母屋の明かりが消えていないことを確認している。
「そんなに気になる?」
「気になどしておらぬ。外の様子を見ていただけじゃ」
「和真なら母屋にいるよ。どこにも行かないって」
「分かっておる」
そう答えながらも、あおいの九本の尻尾は落ち着きなく揺れていた。
フェンリスが隣の布団へ入る。
「今日は僕がいるから、安心して寝ていいよ」
「フェンリスは、怖くないのか?」
「何が?」
「目を閉じた後、今いる場所が消えてしまうことが」
フェンリスは少し考えてから、天井を見上げた。
「最初は怖かったよ」
「おぬしも?」
「うん。僕も急にこの世界へ来たからね。目を覚ましたら元の世界に戻ってるんじゃないかとか、反対に和真がいなくなってるんじゃないかとか、今でもたまに考える」
普段の明るい表情からは想像できない言葉だった。
「あおいだけじゃないよ。僕も、ひかげも、リディアも、みゆも、この世界とは違う世界で生まれたんだ。平気そうに見えても、ここが本当に自分の居場所なのか、不安になる時はあると思う」
「みゆはいつも楽しそうにしておるから、そのような不安があるとは気づかなかったのじゃ」
「あの子は、あまり表に出さないからね。でも、きっと色々あるんだよ」
フェンリスは横を向き、あおいへ笑いかけた。
「だから、怖い時は誰かを頼ればいいんだと思う。和真だけじゃなくて、僕たちのことも頼ってよ」
「……よいのか?」
「もちろん。ただし、和真を独り占めするのは禁止」
「それは別の話ではないか?」
「一番大事な話だよ」
あおいは小さく笑った。
その夜、あおいはフェンリスの大きな尻尾を抱きながら眠った。
翌日はみゆの番だった。
「狐の尻尾と猫の尻尾、どっちが寝心地いいか試してみようよ」
「数なら、わらわの勝ちじゃ」
「数で寝心地は決まらないでしょ。僕の尻尾は二本とも特別なんだから」
「ならば比べてみるかの」
二人は互いの尻尾を触り始め、しばらくして絡まった。
「ちょっと、あおい! そっちに動かしたら余計に絡まる!」
「みゆこそ動かすでない!」
「僕は動かしてないよ!」
「では、今わらわの足を撫でたのは何じゃ?」
「それは僕の尻尾!」
騒ぎを聞きつけた和真たちが駆けつけ、絡まった十一本の尻尾を解くことになった。
三日目はひかげだった。
ひかげはあおいの布団のそばに座り、眠くなるまで静かに本を読んでくれた。
会話はほとんどなかった。
だが、本のページをめくる音と、誰かがすぐ近くにいる気配は、あおいの心を落ち着かせた。
「……ひかげ」
「なに?」
「もう少しだけ、そこにいてくれるか?」
「うん。眠るまでいる」
「眠った後もいてよいぞ」
「……最初から、そのつもり」
四日目はリディアだった。
リディアは部屋の隅へ、淡い橙色に光る小さな照明を取り付けた。
「完全な暗闇になると、社にいた頃の記憶が蘇りやすいのでしょう。しばらくは、この明かりを点けたまま眠ってください」
「優しい色じゃな」
「日の出に近い色へ調整しました。朝になると、外の明るさに合わせて消えるようになっています」
「リディアは寝ぬのか?」
「私は睡眠時間が短くても問題ありません。あおいが眠った後、作業へ戻ります」
「ならぬ」
あおいはリディアの作業服の裾を掴んだ。
「添い寝の当番なのであろう? 朝までここにおれ」
「しかし、時間がもったいないので――」
「身体を休めることも大切じゃと、和真に叱られておったではないか」
「……聞いていたのですか?」
「アパートまで響いておったぞ」
リディアは少しだけ黙った後、機械の両腕を止めて布団へ入った。
あおいが満足そうに目を閉じる。
その日から、四人の添い寝当番が続いた。
最初のうち、あおいは眠るまで誰かの服や尻尾を掴んでいた。
数日後には、隣に誰かがいるだけで眠れるようになった。
さらに日が経つと、二枚の布団の間を少しだけ離した。
リディアの作った照明も、日を追うごとに暗く調整していった。
夜中に目を覚ますことはあったが、あおいは以前のように母屋へ駆け込まなくなった。
隣で眠る誰かの呼吸へ耳を澄まし、ここは社ではないと、自分に言い聞かせられるようになった。
そして、添い寝当番を始めて二週間ほどが過ぎた夜。
「あおい、本当に大丈夫?」
フェンリスが103号室の前で尋ねた。
「うむ。今宵は一人で眠ってみる」
「無理だと思ったら、すぐに呼んでね」
「分かっておる」
「我慢するのも禁止だからね」
「何度言うつもりじゃ」
フェンリスたちが部屋を出ていく。
最後に和真が、あおいの頭を撫でた。
「おやすみ、あおい」
「うむ。おやすみ、和真」
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
あおいは布団へ入り、九本の尻尾を身体の周りへ広げた。
以前と同じように、風が窓を揺らしている。
木の枝が擦れる音も、虫の声も聞こえた。
だが、もう社の暗闇は浮かんでこなかった。
窓の向こうには母屋の明かりが見える。
101号室にはフェンリスがいる。
隣の102号室にはみゆがいる。
少し離れた204号室にはひかげがいて、201号室にはリディアがいる。
扉を開ければ、誰かがいる。
朝になれば、皆に会える。
「わらわは、もう一人ではない」
あおいは小さく呟き、目を閉じた。
翌朝。
目を覚ましたあおいは、窓から差し込む朝日をしばらく見つめていた。
夜の途中で一度も目を覚まさなかった。
初めて、一人で朝まで眠ることができた。
布団から飛び起きたあおいは、九本の尻尾を大きく広げながら母屋へ駆け込んだ。
「和真!」
「どうした?」
「一人で眠れたぞ!」
朝食の準備をしていた和真へ勢いよく抱きつく。
「そうか。頑張ったな」
「うむ!」
和真に頭を撫でられ、あおいは得意そうに胸を張った。
母屋に集まっていた四人も、安心したように笑っている。
「これで添い寝当番は終わりだね」
フェンリスの言葉に、あおいの笑顔が僅かに固まった。
「……毎晩でなくなるだけで、二度としてはならぬわけではないのであろう?」
「一人で眠れるようになったんだから、基本は一人だよ」
「基本は、か」
あおいはその言葉を小さく繰り返した。
その日の深夜。
母屋で眠っていた和真は、寝室の戸が僅かに開く音で目を覚ました。
暗がりの中から、銀色の狐耳と九本の尻尾が覗いている。
「あおい?」
「しっ。静かにするのじゃ」
あおいは周囲を確かめながら寝室へ入り、枕を抱えたまま和真の布団のそばへ座った。
「一人で眠れるようになったんじゃなかったのか?」
「眠れるぞ。昨日、証明したではないか」
「じゃあ、どうしてここにいるんだ?」
あおいは少しだけ迷った後、小さな声で答えた。
「今宵は、その……一人で眠れぬのではなく、和真と一緒に眠りたい気分なのじゃ」
「それ、何が違うんだ?」
「まったく違う。これは恐怖を和らげるためではなく、わらわ自身の望みじゃ」
もっともらしく説明しているが、結局は添い寝を頼みに来ただけだった。
「今日だけだぞ」
「うむ。今日だけじゃ」
あおいは嬉しそうに布団へ入り、和真の隣へ横になる。
九本の尻尾が二人の上へ広がった。
だが、あおいは知らなかった。
母屋の外。
僅かに開いた窓の下で、フェンリス、みゆ、ひかげ、リディアの四人が、そのやり取りを聞いていた。
「やっぱり来たね」
「絶対に来ると思ったよ」
「……楽しそう」
「一人で眠れないわけではない、という主張に嘘はありません。今夜は見逃しても問題ないでしょう」
フェンリスは寝室の窓を見上げ、少しだけ頬を膨らませる。
「今日はね」
そう言いながらも、四人は誰も寝室へ踏み込まなかった。
あおいが一人で眠れるようになるため、皆で協力した。
だからこそ、頑張ったあおいが時々甘えるくらいなら、知らないふりをしてあげよう。
四人とも、そう思っていた。
ただし、その“知らないふり”がいつまで続くのかは、まだ誰にも分からなかった。
翌朝。
和真が目を覚ますと、あおいは隣で満足そうに眠っていた。
昨夜のことを知っているはずの四人も、朝食の席では何も言わなかった。
フェンリスは和真とあおいを交互に見ながら頬を膨らませていたが、最後まで我慢している。
みゆは何か言いたそうに何度も口を開き、ひかげは黙ったまま二人を見つめ、リディアは普段どおり朝食を食べていた。
「皆、どうしたのじゃ?」
「別に何でもないよ」
フェンリスが少し強い口調で答える。
「そうか。ならばよい」
あおいは機嫌よく味噌汁を飲んだ。
四人が昨夜のことを知っているとは、少しも思っていないらしい。
それからも、あおいは時々和真の寝室を訪れた。
毎日ではない。
一人でも眠れるという約束を守り、普段は103号室で眠っている。
だが、風が強い夜や、社にいた頃の夢を見た日には、枕を抱えて母屋へやって来た。
「今宵は風の音が騒がしいからの。和真が眠れるか心配になったのじゃ」
「俺は気にせず眠れるぞ」
「遠慮するでない。わらわがそばにいてやろう」
「あおいが一緒に寝たいんだろ?」
「……半分ほどは、そうじゃ」
以前のように理由を隠さず、素直に頼めるようになっただけでも大きな変化だった。
和真も無理に断らなかった。
四人も気づいていたが、時々であれば何も言わなかった。
しかし、その状態が何度か続くうちに、別の問題が起きた。
ある夜。
あおいが103号室で眠ることを確認し、和真も自分の布団へ入ろうとしていると、寝室の戸が開いた。
「和真。今日、一緒に寝てもいい?」
枕を抱えたフェンリスが立っていた。
「……あおいは来てないぞ」
「分かってるよ」
「じゃあ、どうしたんだ?」
「僕だって、たまには和真と一緒に寝たいんだけど」
「どうして少し怒ってるんだ?」
「怒ってない」
明らかに不満そうな顔で答えながら、フェンリスは和真の隣へ布団を敷いた。
「今日は僕が寝るからね」
「誰に言ってるんだ?」
「誰でもないよ」
ところが、二人が横になって間もなく、寝室の戸が再び開いた。
「やっぱり、こうなると思った」
今度はみゆが枕を抱えて立っていた。
「フェンリスだけずるいよ」
「ずるくないよ。今日は僕が先に頼んだんだから」
「そんな決まり、いつ作ったの?」
「今作った」
「それなら僕は、その決まりができる前からここにいたことにする」
「今来たばかりでしょ!」
二人が言い争っていると、廊下から小さな声がした。
「……私も、入っていい?」
ひかげだった。
片手に枕を抱え、もう片方の手で毛布を引きずっている。
「ひかげまで?」
「……一人だと、少し寒くて」
「今夜は暑いくらいだよ?」
「私の部屋だけ……寒かった」
苦しい言い訳だった。
さらに、その後ろからリディアまで現れた。
「ちょうどよかった。複数人で就寝した場合の室温と湿度を測定したいと思っていました」
「絶対に今思いついただろ」
「否定はしません」
「少しは隠してよ」
結局、寝室に布団を追加することになった。
和真の隣を誰が取るかで揉めた末、くじ引きで順番を決める。
それでも納得できなかったフェンリスとみゆが、布団へ入ってからも小声で言い争っている。
「僕が最初に来たんだから、和真の隣は僕でしょ」
「くじ引きで決めたんだから諦めてよ」
「みゆ、さっきから少しずつ布団を和真の方へ動かしてない?」
「床が傾いてるんじゃない?」
「この部屋の床は水平です」
リディアが即座に否定する。
「……みゆ、ずるい」
ひかげまで加わり、みゆは二本の尻尾を膨らませた。
「もう、皆うるさいよ。早く寝ようよ」
「原因はみゆでしょ!」
騒ぎはしばらく続いた。
その夜、103号室で一人眠っていたあおいは、母屋から聞こえる声で目を覚ました。
様子を見に来ると、寝室には五人分の布団が隙間なく並んでいる。
「わらわを置いて、何をしておるのじゃ?」
あおいの低い声に、全員が動きを止めた。
「これは違うんだ、あおい」
「何が違うのじゃ?」
「たまたま皆が一緒に寝ることになっただけで――」
「ならば、わらわが加わっても問題ないの」
あおいは103号室へ戻ると、すぐに枕と布団を抱えて戻ってきた。
「どこに敷けばよい?」
「もう場所がないぞ」
「詰めればよいではないか」
「九本の尻尾があるあおいが、一番場所を使うよね?」
「尻尾は皆の布団代わりにしてやろう」
「それだと僕たちが尻尾に埋まるよ」
寝室に六人は、さすがに狭かった。
それでも、あおいの九本の尻尾を掛け布団の代わりにし、全員が横になる。
誰かが寝返りを打つたびに別の誰かへぶつかり、リディアの機械の腕にみゆの尻尾が挟まり、フェンリスの大きな尻尾が和真の顔を覆った。
ほとんど眠れないまま朝を迎えた和真は、今後は寝る人数を制限しようと提案した。
だが、その日の夜にも三人が枕を持って現れた。
結局、一人で眠ることに慣れたのは、あおいだけだった。
時々添い寝を頼むあおいを黙認していたはずの四人まで、いつの間にか理由をつけて和真の寝室へ来るようになってしまった。
そんな騒がしい日々が続く中、リディアから全員へ母屋に集まるよう連絡が届いた。
和真たちが居間へ集まると、座卓の上に見慣れない首飾りが置かれていた。
細い銀色の鎖に、淡い水色の石が取り付けられている。
「これは何じゃ?」
あおいが石を覗き込む。
「あなた専用の外見変換装置です」
「完成したのか?」
「はい。あおいは九本の尻尾があり、魔力も他の皆より強いため、調整に時間がかかりました」
リディアは首飾りを手に取り、あおいへ差し出した。
「これを身につけて石へ触れてください。狐耳と尻尾を一時的に収納し、人間と変わらない姿へ変えます」
「収納するのか?」
「見えなくするだけでは、九本の尻尾が周囲の物や人に触れてしまいますから。装置を作動させている間だけ、専用の小さな空間へ退避させます。痛みはありません」
「わらわの尻尾は、きちんと戻るのであろうな?」
あおいは九本の尻尾を抱き寄せ、警戒した。
「装置を外すか、もう一度石へ触れれば元に戻ります。万が一故障しても、収納状態を維持できなくなって自動的に戻る仕組みです」
「ならば、試してみるかの」
和真があおいの首へ鎖を回し、留め具をつけた。
あおいが恐る恐る水色の石へ触れる。
石から淡い光が広がり、あおいの身体を包み込んだ。
頭の狐耳が光の粒となって消える。
九本の尻尾も一本ずつ姿を消し、最後には長い銀髪の少女だけが残った。
あおいはすぐに頭へ手を伸ばす。
「耳がないぞ!」
「人間の耳は残っています」
リディアに言われ、あおいは髪の間に隠れていた耳へ触れた。
「本当じゃ……しかし、妙な感じがするの。尻尾も動かせぬ」
「慣れるまでは重心の取り方に注意してください。普段は九本の尻尾で無意識に身体の釣り合いを取っています」
あおいが立ち上がり、一歩進む。
途端に身体が横へ傾き、和真の胸へ倒れ込んだ。
「危ない」
和真が慌てて支える。
「わざとじゃないからの」
「分かってる」
「本当に?」
フェンリスが疑わしそうにあおいを見る。
「本当じゃ!」
それからしばらく、あおいは母屋の中を歩き回り、人間の姿に慣れる練習をした。
何度かふらついたものの、昼を過ぎる頃には普通に歩けるようになっていた。
「これなら、わらわも外を歩けるのじゃな?」
「ああ。今までより人目を気にしなくていい」
「ならば、散歩へ行きたい」
あおいは期待に満ちた顔で和真を見上げた。
「和真と二人で」
「なんで最後の一言を付け加えたの?」
フェンリスがすぐに反応する。
「装置が正常に動くか、和真に確認してもらう必要があるからじゃ」
「私が同行した方が異常には早く気づけます」
リディアの正論に、あおいが言葉を詰まらせる。
「それは……そうじゃが」
「初めてだし、今日は俺とあおいだけで近所を一周してくる。問題がなければ、今度は皆で出かけよう」
和真が間に入ると、フェンリスは不満そうにしながらも引き下がった。
「遠くまで行ったら駄目だからね」
「近所を散歩するだけだ」
「あと、あおい。途中で装置を外したら駄目だよ」
「分かっておる。わらわを子供扱いするでない」
あおいは頬を膨らませながら、和真と一緒に母屋を出た。
狐耳と尻尾のない姿で外を歩くのは、あおいにとって初めての経験だった。
頭の上を風が通り抜ける感覚に違和感がある。
尻尾がないため、少し気を抜くと足元がふらついた。
それでも、誰かに姿を見られるたびに立ち止まる必要はなかった。
すれ違った近所の人も、銀色の髪を珍しそうに見る程度だった。
「こんにちは」
和真が挨拶すると、散歩中の老人が足を止める。
「四ノ宮さんのところに、また新しい子が来たのかい?」
「はい。遠い親戚のあおいです」
和真があらかじめ決めておいた説明をする。
あおいも練習したとおり、頭を下げた。
「神崎あおいと申します。今後とも、よしなに」
「ずいぶん丁寧な子だねえ」
老人は微笑み、そのまま歩いていった。
「あれでよかったか?」
「ああ。ただ、普段の挨拶なら『よろしくお願いします』で大丈夫だぞ」
「わらわの言葉では不自然かの?」
「少し昔っぽく聞こえるけど、あおいらしいから無理に直さなくてもいい」
「そうか」
あおいは嬉しそうに和真の隣を歩く。
住宅の並ぶ道を抜けると、大きな鳥居が見えてきた。
山の入り口にある、近所の神社だった。
あおいの歩みが僅かに遅くなる。
「どうした?」
「……社を見ると、少しだけ昔を思い出す」
「別の道にするか?」
「いや、大丈夫じゃ。あれは、わらわが閉じ込められておった社とは違う」
あおいは自分へ言い聞かせるように答えた。
二人が鳥居の前を通り過ぎようとした時、境内を掃除していた年配の神主が顔を上げた。
神主の視線が、あおいの姿を捉える。
その手から箒が落ちた。
「……お待ちください」
呼び止められ、和真とあおいが足を止める。
神主は鳥居の前まで駆けてくると、あおいをまじまじと見つめた。
外見変換装置は正常に動いている。
狐耳も九本の尻尾も見えていない。
「何か?」
和真があおいを庇うように前へ出る。
「失礼しました。そちらの方から、あまりにも清らかで、神々しい気配を感じたもので……」
神主は困惑した様子で答えた。
「まるで長い年月、この土地を見守ってきた御神木か……あるいは、神の使いを前にしているような気配です」
和真が隣を見ると、あおいは首から下げた石へ触れていた。
「装置が壊れたわけではないぞ」
「見た目は変えられても、本人が持つ魔力までは完全に隠せないんだろうな」
神主には二人の小声は聞こえなかったらしい。
あおいへ向き直ると、深く頭を下げた。
「突然このようなことを申し上げるのは失礼と承知しております。ですが、もしよろしければ、当神社で巫女として働いていただけないでしょうか」
「巫女……?」
あおいの表情が凍りつく。
かつて、困っている人々を救ってほしいと頼まれた。
水脈を整え、荒れた土地を蘇らせた。
初めのうちは感謝され、敬われていた。
それがいつしか、あおいの力を失うことを恐れた者たちによって、社へ閉じ込められた。
「あなたほどの気配を持つ方が境内にいてくだされば、それだけで、この神社にとって大きな――」
「すみません」
和真が神主の言葉を遮った。
「あおいには無理です」
「和真……」
「帰ろう」
あおいの手を取り、鳥居から離れようとする。
「お待ちください。何か、気に障ることを申しましたか?」
神主が慌てて追いかけてくる。
「この子は、昔、人から特別な存在として祭り上げられたことがあるんです」
和真はあおいの過去が知られないよう、慎重に言葉を選んだ。
「頼みごとを断れないところを利用されて、最後には長い間、自由を奪われました。だから、神社や巫女という言葉に、あまり良い思い出がありません」
「そのような事情が……」
「悪い人ではないことは分かります。でも、今は普通の生活に慣れることが先なので」
神主は何も言えなくなった。
和真はあおいの肩を抱き、来た道を戻ろうとする。
その時、背後から衣擦れの音がした。
振り返ると、神主が地面へ両手をついていた。
「どうか、土日だけでもお願いできませんでしょうか!」
「ちょっと、何をしてるんですか!」
和真は慌てて神主へ駆け寄る。
「このとおりです。無理に神事をさせるつもりはありません。境内の掃除や参拝者の案内、お守りを渡す手伝いだけでも構いません!」
「だから、あおいは――」
「給料も可能な限りお支払いします。どうか一度だけでも、お考えください!」
地面へ頭を下げる神主の姿を見て、あおいの身体が僅かに震えた。
かつて自分へ助けを求めた者たちも、同じように頭を下げていた。
和真は神主の前に立ち、あおいからその姿を隠す。
「これ以上はやめてください。怖がっているのが分からないんですか?」
「も、申し訳ありません……」
神主がようやく顔を上げる。
すると、あおいが和真の服の裾を掴んだ。
「待つのじゃ、和真」
「あおい?」
「わらわは、この者と少し話をしてみたい」
「無理をしなくていい。金のことなら、あおいが心配する必要はないぞ」
「それだけではない」
あおいは和真の陰から神主を見る。
まだ顔には恐怖が残っていた。
それでも、逃げずに自分の意思を伝えようとしている。
「わらわは、もうあの頃とは違う。嫌なことは嫌だと言ってよいと、皆が教えてくれた」
「ああ」
「それに、和真がそばにおれば大丈夫じゃ」
あおいは和真の手を握ると、神主の前へ進んだ。
「わらわ一人では、まだ怖い。じゃが、和真も一緒にいてくれるのであれば、土日だけ働いてもよい」
「本当ですか!」
神主の顔が一気に明るくなる。
「はい。四ノ宮さんにも境内の仕事をお願いする形で構いません。お二人一緒に来ていただけるのであれば、こちらとしても願ってもないことです」
「俺も働くことになってるのか?」
「わらわ一人を置いて帰るつもりであったのか?」
「一緒にいるとは言ったけど……まあ、ただ待っているよりはいいか」
和真が了承すると、神主は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。では、お給料についてですが、あおいさんには一日十万円を――」
「待ってください」
和真が即座に止めた。
「今、何て言いました?」
「一日十万円です。四ノ宮さんには別途、通常の日当をお支払いします」
「高すぎます!」
「いいえ。あおいさんほど神聖な気配を持つ方をお迎えするのです。本来であれば、もっとお支払いしたいくらいです」
「境内の掃除と参拝者の案内ですよね?」
「はい」
「それで十万円は受け取れません」
「では、月に八十万円という形でも――」
「同じです!」
二人の話を聞いていたあおいが、和真の袖を引いた。
「和真。その金があれば、空色唐辛子荘のためになるのではないか?」
「助かるけど、だからって法外な金額を受け取るわけにはいかない」
「わらわは構わぬぞ」
「俺が構うんだよ」
和真は神主と話し合い、日当を一万円まで下げようとした。
しかし、今度は神主が頑として譲らなかった。
「それでは、こちらの気が済みません。最低でも五万円はお受け取りください」
「高いです」
「ならば八万円で」
「どうして上がるんですか?」
「四ノ宮さんがあまりに遠慮なさるので、私も強く出るべきかと」
「値段の交渉で強く出る方向が逆です」
長い話し合いの末、あおいの日当は三万円ということで決着した。
それでも巫女の手伝いとしては破格だったが、神主は最後まで納得していない様子だった。
「本当に三万円でよろしいのですか?」
「俺が聞きたいくらいです」
「やはり、もう少し上乗せを――」
「しなくて大丈夫です」
「では、季節の祭事の際に特別手当を」
「その時に相談しましょう」
これ以上話していると、また金額が上がりそうだった。
勤務を始めるのは、必要な身分関係の手続きや巫女装束の準備が整ってからということになった。
神主と別れた後、和真とあおいは並んで帰り道を歩く。
「本当に大丈夫なのか?」
「怖くないと言えば嘘になる」
あおいは正直に答えた。
「じゃが、あの神主は、わらわを閉じ込めた者たちとは違う。和真が怒った時、すぐに謝っておった」
「嫌になったら、いつでもやめていいんだからな」
「うむ。その時は、わらわが自分で断る」
「ああ」
「それまでは、和真も一緒じゃ」
「分かってる」
和真が答えると、あおいは安心したように笑った。
空色唐辛子荘へ戻り、仕事が決まったことを報告すると、四人はそれぞれ違う反応を見せた。
「巫女かあ。あおいには似合いそうだね」
フェンリスは納得したようにうなずく。
「和真も一緒に働くの?」
みゆはそこだけが気になったらしい。
「しばらくはな」
「二人だけで?」
「神主もいるだろ」
「そういう意味じゃないよ」
「……私も神社へ行ってみたい」
ひかげが小さく手を挙げる。
「装置の稼働状況を確認する必要があります。私も定期的に同行しましょう」
リディアまで加わった。
「おぬしら、わらわと和真を二人きりにしたくないだけではないか?」
「安全を確認したいだけだよ」
フェンリスが即答する。
「僕は巫女姿のあおいを見たいだけ」
みゆは悪びれずに答えた。
「……和真の働く姿も見たい」
ひかげが本音を漏らす。
「私は装置の点検です」
リディアだけは最後まで理由を変えなかった。
あおいは呆れたように四人を見た後、和真の腕へ抱きついた。
「皆が来ても構わぬが、和真はわらわの付き添いじゃからな」
「その言い方、少し気になるんだけど」
「事実じゃ」
「僕たちも手伝えばいいよね?」
「人数が増えすぎるだろ」
和真の言葉は、誰の耳にも届いていなかった。
巫女装束は何色がよいか。
自分たちも神社で働けるのか。
休憩時間は和真と一緒なのか。
話は勝手に広がり、居間はすぐに騒がしくなった。
人に頼ることを覚え、一人で眠ることもできるようになったあおい。
かつて人間によって社へ閉じ込められた九尾の少女は、今度は自分の意思で神社へ通うことを決めた。




