第十三話 神崎あおい
その日の夕食は、普段よりも少し遅い時間になった。
フェンリスとひかげが用意したのは、鶏肉と畑で採れた野菜を使ったクリームシチューだった。
食卓には人数分の皿が並び、その中には、今日から新しく加わったあおいの分も用意されている。
あおいは和真の隣へ腰掛けていた。
しかし、片手は和真の服の裾を掴み、九本ある尻尾のうち一本を腰へ巻きつけている。
台所で野菜を洗っていたときから、一度も離れていなかった。
「ほら、あおい。冷めないうちに食べてみて」
フェンリスに勧められ、あおいは目の前に置かれた白いシチューを見つめた。
「これは、汁物かえ?」
「シチューっていう料理だよ。熱いから気をつけてね」
「うむ」
あおいはスプーンを手に取り、恐る恐るシチューをすくった。
何度か息を吹きかけてから、ゆっくりと口へ運ぶ。
その直後、大きな狐耳がぴんと立ち上がった。
「……美味いのじゃ」
「本当?」
「うむ。鶏肉が柔らかく、野菜の甘みも染みておる。それに、この白い汁は随分とまろやかじゃ」
「気に入ったなら、たくさん食べてね。鍋にまだあるから」
「わらわの分も、まだあるのかえ?」
「もちろんだよ」
フェンリスが笑うと、あおいは嬉しそうにもう一口食べた。
背後に広がる九本の尻尾も、その気持ちを表すように一斉に揺れている。
「あおい」
「なんじゃ?」
「片手だと食べにくくないか?」
和真は、自分の服を掴んでいるあおいの手へ目を向けた。
「問題ないのじゃ」
「裾を離しても、俺はどこにも行かないぞ」
「今は、じゃろう?」
「夕飯の途中で出かけたりしないよ」
「ならば、食べ終わるまでは、このままでもよかろう」
「……食べられるならいいけど」
和真が折れると、あおいは安心したように食事を続けた。
その向かい側では、フェンリスが微妙な表情を浮かべている。
みゆもスプーンを口にくわえながら、あおいの手元をじっと見つめていた。
「和真」
「なんだ?」
「僕が服を掴んでも、そのまま食べていい?」
「どうしてそうなるんだよ」
「あおいだけ許されるのは、不公平じゃない?」
「僕も少しそう思う」
フェンリスまで同意し、和真の反対側へ身体を寄せる。
「二百年以上も閉じ込められてたんだ。今日くらいは仕方ないだろ」
「それは分かってるよ。僕だって、すぐ離れろなんて言わないけど……」
フェンリスの視線が、和真の腰へ巻きついている狐の尻尾へ移る。
「尻尾まで巻きつける必要はないんじゃないかな?」
「和真が離れぬようにしておるのじゃ」
「和真は逃げないよ」
「それを、そなたが決めることではなかろう」
「むっ……」
あおいとフェンリスの視線がぶつかる。
片や九本の狐の尻尾。
片や一本の特大の狼の尻尾。
双方の尻尾が膨らみ、食卓の後ろで場所を取り合うように押し合い始めた。
「尻尾で争うな。皿が落ちるだろ」
和真に注意され、二人は同時に尻尾を引いた。
「僕は何もしてないよ」
「わらわも何もしておらぬ」
「思い切り押し合ってただろ」
「……二人とも、仲よく……」
ひかげが遠慮がちになだめる。
リディアは食事の手を止め、あおいの尻尾を興味深そうに観察していた。
「感情によって毛が膨らむようですね」
「触って確かめようとするでないぞ」
「まだ触っていません」
「目が触ろうとしておるのじゃ」
「鋭いですね」
「リディアも煽るなよ」
あおいが加わったことで、普段の夕食がさらに騒がしくなっていた。
それでも、あおいは嫌がっていない。
会話が飛び交うたびに狐耳を動かし、誰かが笑うたびに不思議そうな顔をする。
やがて一皿目を食べ終えると、あおいは空になった皿を名残惜しそうに見つめた。
「おかわりする?」
「よいのかえ?」
「もちろん。ご飯もあるよ」
「では、両方欲しいのじゃ」
「分かった。少し待ってね」
フェンリスから受け取った二皿目も、あおいは綺麗に食べきった。
ひかげが温かいお茶を用意し、あおいの前へ置く。
「……どうぞ」
「すまぬの、ひかげ」
「……熱いから、気をつけて」
「うむ」
あおいは湯飲みを両手で包み、立ち上る湯気を見つめた。
「皆で食べる食事とは、随分と賑やかなものなのじゃな」
「向こうの世界では、誰かと一緒に食べなかったのか?」
和真が尋ねると、あおいの狐耳が僅かに伏せられた。
「幼い頃は、父上と母上とともに食べておった。じゃが、それも遠い昔のことじゃ」
先ほどまで揺れていた九本の尻尾が静かになる。
「あおいって、この世界で生まれたんじゃないんだよね?」
みゆの問いに、あおいが頷いた。
「うむ。わらわも、そなたたちと同じ異世界の生まれじゃ」
「どうやって、この世界へ来たの?」
「二百年以上前、この地に住んでおった者たちの儀式によって呼び出されたのじゃ」
「召喚されたってこと?」
「そうじゃ」
あおいは湯飲みから視線を上げない。
和真は山の社で聞いた話を、皆へ簡潔に説明した。
当時、この山の周辺では水が枯れ、作物が育たなくなっていた。
村の祈祷師たちは、異世界から強い力を持つ者を呼び出し、その力で土地を蘇らせようとした。
召喚されたあおいは、助けを求める村人たちを信じた。
水脈を整え、荒れた土地を浄め、枯れていた水を戻した。
ところが村人たちは、あおいが去れば再び水が枯れると恐れた。
元の世界へ帰す方法を探すと約束し、あらかじめ術式を仕込んだ社へ誘い込んだ。
九本の尻尾を九つの核へつなぎ、その膨大な魔力を水脈へ流し続けるために。
「助けてもらったのに、騙して閉じ込めたの?」
みゆの二本の尻尾が膨らむ。
「酷すぎるよ、そんなの!」
フェンリスも拳を握り締めた。
「あおいは、その人たちを助けただけなのに」
「水がなくなれば、多くの者が死ぬ。わらわ一人を犠牲にすれば、村は助かる。あの者たちにも、事情はあったのじゃろう」
「だからって、許されることじゃないよ」
フェンリスが迷わず言い切る。
「……そなたも、和真と同じことを言うのじゃな」
「当たり前だよ」
「僕も同じ。どれだけ困ってても、助けてくれた相手を騙していい理由にはならないよ」
みゆも珍しく真剣な表情をしていた。
あおいは、自分のために怒る二人を不思議そうに見つめた。
「わらわは、とうの昔に怒ることにも疲れてしもうた」
「それでも、酷いことをされたのは変わらないよ」
「……そうか」
あおいは小さく呟いた。
ひかげも長い前髪の奥で、静かに頷いている。
「でも、あおいはどうして、その人たちを助けようと思ったの?」
フェンリスに尋ねられ、あおいは九本の尻尾へ目を向けた。
「父上と母上から、そのように教わっておったからじゃ」
あおいが生まれた世界には、人間だけでなく、獣人や妖、精霊に近い存在も暮らしていた。
彼女が生まれたのは、その世界の東にある深い森。
神崎の一族は、代々その森と水脈を守る狐の一族だった。
「父上も母上も、わらわと同じ狐の妖じゃった。ただし、二人の尾は一本ずつじゃ。生まれながらに九本の尾を持っておったのは、わらわだけじゃった」
「向こうの世界でも、九本は珍しかったの?」
「珍しいという言葉では足りぬ。九尾が生まれたのは、数百年ぶりだったそうじゃ」
九尾は強大な力を持つ神獣として敬われる一方、大きな災いを招く存在として恐れられていた。
里の者たちは幼いあおいへ敬意を払いながらも、必要以上に近づこうとはしなかった。
「父上と母上は、怖がらなかったの?」
みゆが尋ねる。
「実の娘を恐れる親がどこにおる」
あおいは、少しだけ誇らしそうに答えた。
父親は山や森を駆けながら、あおいへ力の扱い方を教えた。
母親は薬草や食べられる木の実の見分け方を教え、夜になれば九本の尻尾を丁寧に手入れしてくれた。
感情が乱れて狐火を生み出してしまったときも、二人は決してあおいを責めなかった。
「力は、それを持つ者の心によって善にも悪にもなる。じゃから、困っておる者がおれば助けられる者になれと教えられたのじゃ」
「それで、この世界へ呼ばれたときも助けたんだね」
「うむ」
見知らぬ場所へ突然召喚され、不安がなかったわけではない。
それでも目の前で痩せた人々や枯れた畑を見て、放っておくことはできなかった。
村を救えば、元の世界へ帰してもらえる。
父親と母親のもとへ戻れる。
あおいは、その約束を信じた。
「ご両親は、今も向こうの世界にいるのでしょうか」
リディアが静かに尋ねる。
「分からぬ」
あおいの声が僅かに沈んだ。
「わらわがこちらへ呼ばれた時、父上と母上には何も告げられなんだ。森で薬草を集めておった最中、突然足元に魔法陣が現れたのじゃ」
「なら、ご両親からすれば、あおいが急にいなくなったことになるのか」
「うむ。きっと捜してくれたじゃろう」
しかし、二百年以上という時間が流れている。
あおいの世界とこちらの世界で、同じように時間が進んでいるとも限らない。
両親が今も生きているのか。
元の森や里が残っているのか。
確かめる方法はなかった。
「帰りたいか?」
和真が尋ねる。
あおいはすぐには答えなかった。
「父上と母上には会いたい」
やがて、小さく答える。
「会えるものなら、もう一度会いたいのじゃ。何も言わずにいなくなったことを謝りたい。わらわは無事じゃったと伝えたい」
「あおいが謝ることじゃないよ」
「それでも、二人を長く待たせたかもしれぬ」
和真は異世界に残してきた者たちを思い出した。
世界は違っても、突然引き離された家族を思う気持ちは分かる。
「戻る方法は、これから探せばいい」
「見つかると思うのかえ?」
「分からない。でも、最初から諦める必要はないだろ」
あおいが顔を上げる。
「リディアもいる。異世界から来た者も、ここには何人もいる。何か手がかりが見つかるかもしれない」
「転移に関する情報は私も集めています」
リディアが続ける。
「すぐに帰還方法を用意できるとは約束できません。しかし、調査する価値はあります」
「……そうか」
あおいは目元を拭い、小さく頷いた。
「では、その時は頼むのじゃ」
「ああ」
フェンリスたちも、そろって頷いた。
「封印されてからは、ずっと一人だったの?」
ひかげが遠慮がちに尋ねる。
「そうじゃ。初めのうちは、村人や祈祷師が様子を見に来ておった。じゃが、月日が流れるにつれて、一人、また一人と来なくなった」
村そのものも、いつしかなくなった。
社の周囲は荒れ、山道も草木に覆われた。
封印されたあおいだけが、時の流れから取り残された。
「じゃが、誰も来なくなってから長い時が過ぎた頃、一人だけ社を手入れする者が現れた」
「祖父さんか」
「うむ。そなたのお爺様じゃ」
和真の祖父は、年に何度か山へ入り、社の周囲に生えた草を刈っていた。
傷んだ場所を直し、花や果物を供え、帰る前には必ず手を合わせた。
あおいの存在を知っていたわけではない。
それでも、水を与えてくれる山の何かへ感謝していた。
「お爺様は、よく独り言を話しておった」
「昔から独り言が多かったからな」
「今日は暑い。畑の野菜がよく育った。孫がまた剣の稽古から逃げた。そのようなことを話しておったぞ」
「最後のはいらないだろ……」
「事実なのかえ?」
「子供の頃の話だ」
「逃げておったのじゃな」
「あの稽古、子供には厳しすぎたんだよ」
フェンリスとみゆが同時に和真を見る。
「和真にも、そんな頃があったんだね」
「今の和真なら、楽しそうに剣を振りそうなのに」
「俺を何だと思ってるんだ」
僅かに空気が和らいだ。
「あおいは、祖父さんへ話しかけなかったのか?」
「何度も呼びかけた。じゃが、わらわの声は封印の外へ届かなんだ」
祖父は社の中に誰かがいるとは知らなかった。
それでも、今年も水が出た、畑も果樹も元気だと、何度も感謝の言葉を口にした。
「わらわの力を奪った者たちは、当然のように水を持っていった。じゃが、お爺様だけは違った」
「祖父さんらしいな」
「うむ。変わった人間じゃった」
祖父は、ときどき幼い和真も山へ連れてきた。
昼間にも聞いたとおり、あおいは封印の内側から、幼い和真の声も聞いていた。
姿は見えない。
こちらから呼びかけても返事はない。
それでも祖父と和真の声を聞いている間だけは、完全な一人ではないと思えた。
「お爺様が来なくなり、そなたの声まで聞こえなくなった時は……また一人に戻ったのだと思った」
祖父が亡くなり、和真は十五歳で異世界へ召喚された。
その後、社を訪れる者はいなくなった。
和真がこの世界へ帰還してから十か月以上が過ぎても、相続や解体の問題に追われ、山の奥まで足を運ぶ余裕はなかった。
「長く待たせたな」
「二百年以上に比べれば、短いものじゃ」
「そう言われると、何も言い返せないな」
「じゃが、最後には来てくれた」
あおいは和真の服から手を離すと、今度はその手を両手で握った。
「そなたは、わらわを見つけ、封印を解き、外へ連れ出してくれた」
「ああ」
「ゆえに、もう離さぬ」
「……ん?」
あおいの九本の尻尾が、和真の腕や背中を包み込む。
「わらわは、これからずっと和真のそばにおる」
「ちょっと待って!」
真っ先に声を上げたのは、フェンリスだった。
「そばにいるって、どれくらい近くにいるつもりなの?」
「今くらいじゃ」
「近すぎるよ!」
「僕もそう思う!」
みゆも椅子から立ち上がる。
「さっきから服を掴んでたし、今度は手を握って、尻尾で身体まで包んでるじゃん!」
「わらわを助けたのは和真じゃ。わらわがそばにおって、何が悪いのじゃ?」
「いろいろ悪いよ!」
「具体的に申してみよ」
「それは……とにかく近すぎる!」
「答えになっておらぬぞ」
「ぐぬぬ……!」
みゆが悔しそうにあおいを睨む。
その隣では、フェンリスも特大の尻尾を膨らませていた。
「二人とも落ち着け。あおいも、少し離れてくれ」
「嫌じゃ」
「即答かよ」
「和真は、またどこかへ行ってしまうかもしれぬ」
「勝手にいなくなったりしないよ」
「本当かえ?」
「ああ。買い物や仕事に出ることはあっても、ここへ帰ってくる」
「なぜじゃ?」
「ここが俺の家だからだ」
和真はあおいへ向き直った。
「あおいが行く場所を決めていないなら、空色唐辛子荘で暮らせばいい」
「わらわが、ここで?」
「ああ。空いている部屋もある」
あおいは食卓を囲む者たちを順番に見つめた。
それぞれ異なる世界から来た者たちが、今は同じ場所で暮らし、同じ食卓を囲んでいる。
「わらわは九尾じゃぞ。それでも、よいのかえ?」
「今さら種族を気にするやつはいないよ」
和真の言葉に、フェンリスたちも頷いた。
「ここにいたいなら、いていいんだ」
あおいは目を見開いたまま、しばらく動かなかった。
やがて水色の瞳に涙を浮かべると、和真の腕へ強く抱きつく。
「では、ここにおる!」
「ああ」
「絶対に追い出してはならぬぞ!」
「追い出さないって」
「約束じゃ!」
「約束する」
和真が答えると、あおいの九本の尻尾が大きく広がった。
異世界から突然召喚され、この世界の人々を救った末に裏切られた九尾の狐。
二百年以上続いた孤独は、ようやく終わった。
あおいはその夜、正式に空色唐辛子荘の新たな仲間となった。
ただし、居場所が決まれば安心し、少しは和真から離れるだろうという予想だけは外れた。
夕食の片づけが終わり、和真が風呂へ向かおうとしても、あおいは服の裾を握ったままついてきた。
「あおい。俺、風呂に入るんだけど」
「うむ。わらわも行くのじゃ」
「……一緒には入れないぞ?」
「なぜじゃ?」
あおいは本気で分からないらしく、不思議そうに首を傾げた。
「一緒には入れないって、男と女だからだよ」
和真が説明しても、あおいは納得した様子を見せなかった。
「それが、何の関係があるのじゃ?」
「大ありだよ!」
背後からフェンリスの声が飛んできた。
振り返ると、フェンリスとみゆが廊下に並び、二人そろって頬を膨らませていた。
「ここでは、男の人と女の人が一緒にお風呂へ入るのは駄目なの!」
「絶対に駄目!」
みゆもフェンリスに続き、両腕で大きな印を作る。
「あおいは、和真と一緒に入ったら駄目だからね!」
「なぜ、そなたたちが決めるのじゃ?」
「決めたのは僕たちじゃなくて、ここの決まり!」
「そうだよ。母屋のお風呂は、男と女で入る時間を分けてるんだから」
以前、リディアが和真の入浴中に入ってこようとした一件をきっかけに、入浴時間は男女で分けることになっていた。
ところが、あおいは和真の服をさらに強く握った。
「わらわは湯へ入りたいのではない。和真のそばにおりたいだけじゃ」
「それでも駄目だよ!」
「脱衣所で待っておるだけでもよいぞ?」
「それも駄目!」
「では、戸を少し開けておくのはどうじゃ?」
「もっと駄目!」
フェンリスの返事が次第に大きくなる。
みゆも二本の尻尾を逆立て、和真と風呂場の間へ割って入った。
「和真は一人で入る。あおいは僕たちと一緒に入る。それで決まり!」
「嫌じゃ」
「どうして!」
「和真が、わらわを置いてどこかへ行くかもしれぬ」
「風呂に入ってる間に、どこへ行くんだよ……」
和真がため息をつく。
「ここは俺の家なんだから、風呂から出たあともいるよ」
「本当かえ?」
「ああ」
「先にわらわが入り、出てくるまでここで待っておるか?」
「分かった。脱衣所の外で待ってる」
「中では待ってくれぬのか?」
「廊下までだ」
「もう一歩、こちらへ来てもよかろう?」
「駄目!」
フェンリスとみゆの声が重なった。
「……二人とも、怖いのじゃ」
「誰のせいだと思ってるの!」
あおいは不満そうに狐耳を伏せたが、和真が廊下で待つと約束したことで、ようやく裾から手を離した。
その代わりに、九本のうち一本の尻尾を和真の腕へ巻きつけようとする。
「あおい。尻尾も置いていくんだぞ」
「これだけでも駄目かえ?」
「尻尾を置いていくって、どうするつもりなのさ」
みゆに突っ込まれ、あおいは渋々尻尾を引き戻した。
フェンリスとみゆに両側から連れられ、脱衣所へ入っていく。
「和真、そこから動いてはならぬぞ!」
「分かってるよ」
「わらわが呼んだら、すぐに返事をするのじゃ!」
「ああ」
「絶対じゃぞ!」
「何回確認するんだよ」
脱衣所の戸が閉まる。
和真は約束どおり、廊下の壁へ背中を預けた。
少しして、戸の向こうからフェンリスの声が聞こえてくる。
「あおい、その服はこっちで脱ぐんだよ」
「自分でできるのじゃ」
「尻尾が絡まってるよ」
「むっ……どれじゃ?」
「右から三本目」
「こちらかえ?」
「それは二本目」
「九本もあると、見えぬ場所までは分からぬのじゃ!」
「少しじっとしてて。僕が外すから」
続いて、みゆの声が聞こえた。
「うわ、尻尾だけで脱衣所がいっぱいになった!」
「みゆ、踏むでないぞ!」
「踏んでないよ! 顔に当たっただけ!」
「勝手に触れるでない!」
「触ってないってば! あおいが動かしたんじゃん!」
早くも騒ぎになっているらしい。
「大丈夫か?」
和真が戸越しに声をかける。
「大丈夫だよ! 和真は開けないでね!」
「開けるわけないだろ」
「和真!」
今度は、あおいが呼ぶ。
「ここにいるぞ」
「本当におるのじゃな?」
「ああ」
「ならばよい」
しばらくして、浴室から三人分の声と、水の流れる音が聞こえてきた。
浴槽の使い方。
シャワーの出し方。
石鹸とシャンプーの違い。
あおいにとっては、どれも初めて見るものばかりだった。
「この銀色の筒から湯が出ておるぞ!」
「シャワーだよ。こっちを回すと温度が変わるから気をつけて」
「随分と便利なものじゃな!」
「急に熱くしちゃ駄目だよ!」
「こちらの赤い印かえ?」
「それ以上回さないで!」
フェンリスの慌てた声に続き、浴室からあおいの楽しそうな笑い声が聞こえた。
和真はようやく少し安心する。
しかし、その直後だった。
「待つのじゃ! 何をするつもりじゃ!」
「あおいの尻尾を洗うんだよ」
「九本すべてかえ?」
「もちろん」
「これを全部洗えば、日が昇ってしまうぞ!」
「そこまではかからないよ」
「でも、乾かすのは大変そうだね」
みゆの言うとおり、あおいの九本の尻尾は一本ずつが大きく、毛量も多い。
三人で協力して洗い始めたものの、尻尾の先まで終える頃には随分と時間が過ぎていた。
「和真!」
「今度はどうした?」
「湯から出たぞ!」
「分かった。それじゃ、俺は居間へ戻るからな」
「待つのじゃ!」
脱衣所の戸が内側から僅かに開き、濡れた狐耳と水色の瞳だけが隙間から覗く。
「戻るとは、どこへじゃ?」
「服を着るまで、俺がここにいたら困るだろ」
「廊下におればよいではないか」
「もっと困るよ!」
フェンリスがあおいの身体を戸の内側へ引き戻す。
「和真は居間で待ってて! あおいは僕たちが連れていくから!」
「じゃが――」
「じゃが、じゃない!」
戸が閉じられ、和真は居間へ戻ることになった。
そこではリディアが機械の両腕を使い、あおいの服を調べていた。
「何をしてるんだ?」
「傷んでいる箇所を補修しています。二百年以上も身につけていたとは考えにくい状態ですが、封印の内部では時間の影響も抑えられていたのでしょう」
「今夜着る服はあるのか?」
「ひかげが用意しています」
リディアが視線を向けた先には、母屋に残っていた浴衣が置かれていた。
あおいの九本の尻尾を通せるよう、腰の後ろはリディアが応急的に調整している。
「九本分の開口部が必要になるため、今後の衣服も専用に作る必要がありますね」
「普通の服じゃ、尻尾が入らないからな」
「不可視化装置と一緒に設計します。尻尾そのものを収納するわけではないため、服の構造は別に考えなければなりません」
「今日はもう作業しなくていいからな」
「まだ何も始めていません」
「その顔は、今から工房に戻るつもりだっただろ」
「否定はしません」
やがて、浴衣を着たあおいが居間へ戻ってきた。
長い銀髪の先から雫が落ち、九本の尻尾も大量の水を含んで垂れ下がっている。
身体を小さく震わせるたび、周囲へ細かな水滴が飛んだ。
「あおい、居間で身体を振らない!」
「狐なのじゃから、これが一番早いのじゃ!」
「床がびしょびしょになるよ!」
「みゆも猫なら、濡れた時はするじゃろう?」
「僕はタオルを使うもん!」
「僕も使うよ!」
フェンリスまで加わり、二人であおいを大きなタオルへ包む。
その間も、あおいは居間へ戻ってきた和真を見つけると、濡れた尻尾を引きずりながら近づいてきた。
「約束どおり、おったのじゃな」
「いるって言っただろ」
「うむ」
あおいは安心したように、和真の服の裾を掴み直した。
「待って、まだ尻尾が濡れてるよ!」
「和真まで濡れちゃうじゃん!」
「少しくらい構わぬ」
「僕たちが構うの!」
フェンリスとみゆが、九本の尻尾を一本ずつタオルで挟み、水気を拭き取っていく。
途中からひかげも手伝い、リディアは工房から持ってきた小型の送風機を使った。
四人がかりでも、すべて乾かすにはかなりの時間がかかった。
「ようやく終わった……」
みゆが畳の上へ倒れ込む。
「九本って、乾かすだけでも大変だね」
「毎日すべて洗う必要はありません」
リディアが淡々と答える。
「表面の汚れを落とすだけなら、専用の手入れ器具を作った方が効率的でしょう」
「それ、僕の尻尾にも使える?」
「調整すれば可能です」
「僕の分も作って!」
「僕のもお願い!」
フェンリスまで手を上げる。
「分かりました。あおいの不可視化装置が完成したあとに製作します」
あおいは、自分のために皆が動いてくれたことが嬉しいのか、乾いた九本の尻尾を何度も眺めていた。
「ふわふわになったのじゃ」
「三人がかりで洗って、四人がかりで乾かしたからな」
「皆、すまなかったの」
「別にいいよ。大変だったけど、楽しかったし」
フェンリスが笑い、みゆも床へ寝転んだまま頷いた。
「次は、あおいが僕の尻尾を洗ってね」
「二本なら、すぐに終わりそうじゃな」
「一本は僕がお願いしたいな」
「うむ。任せるのじゃ」
少しずつ、あおいの警戒が解けている。
和真だけでなく、ほかの者たちとも話せるようになっていた。
これなら、思っていたより早く馴染めるかもしれない。
和真がそう考えたのも、僅かな間だけだった。
しばらくして、和真が廊下の奥へ向かうと、当然のようにあおいもついてきた。
「どこへ行くのじゃ?」
「トイレ」
「わらわも行く」
「いや、来なくていい」
「なぜじゃ?」
「一人で入る場所だからだよ」
「では、わらわは中で待っておる」
「もっと駄目だ」
「背中を向けておけばよかろう?」
「そういう問題じゃない」
和真がトイレの戸を開けると、あおいも一緒に入ろうとする。
慌てて身体で入口を塞いだものの、あおいは服の裾を離そうとしなかった。
「少しの間だけ、ここで待っててくれ」
「風呂の時も、同じことを言われたのじゃ」
「トイレも同じだよ」
「この世界は、一人にならねばならぬ場所が多すぎるのじゃ!」
「あおい!」
騒ぎを聞きつけ、フェンリスとみゆが廊下へ飛び出してきた。
「トイレまで一緒に入ったら駄目だよ!」
「そうだよ! それくらいは一人で待てるでしょ!」
「わらわは、和真と離れたくないのじゃ」
「どれだけ離れたくなくても駄目!」
「絶対に駄目!」
二人に怒られ、あおいの狐耳がしゅんと伏せられる。
「……二人とも、すぐ怒るのじゃ」
「怒られるようなことをするからだよ!」
「わらわの世界では、付き添いが戸口に立つこともあったぞ」
「ここでは必要ないの!」
「付き添うなら、外で待つだけにしてください」
いつの間にか、リディアとひかげも廊下へ来ていた。
「個人で使用する場所へ、本人の許可なく入るべきではありません」
「……嫌がることは、しない方がいいと思う」
ひかげにも注意され、あおいは和真の顔を見上げた。
「わらわが一緒に入ると、和真も嫌なのかえ?」
「嫌というか、困る」
「……同じようなものじゃな」
あおいは不満そうにしながらも、ようやく服の裾から手を離した。
「では、ここで待つのじゃ」
「居間に戻っててもいいんだぞ?」
「ここで待つ」
「分かった」
「早う戻ってくるのじゃぞ」
「すぐ出るよ」
和真が戸を閉めようとすると、あおいの九本の尻尾が入口を塞いでいた。
「あおい。尻尾」
「む?」
「一本挟まりそうになってる」
「おお。危なかったのじゃ」
尻尾を引き寄せたことを確認し、和真はようやく戸を閉めた。
フェンリスたちはあおいを居間へ連れ戻そうとしたが、本人はトイレの前から動こうとしなかった。
「和真。おるかえ?」
「いるよ」
「本当におるな?」
「戸の向こうにいるだろ」
「返事が聞こえぬと不安になるのじゃ」
「……分かった」
和真はそれ以上何も言えず、呼ばれるたびに返事をすることになった。
風呂とトイレを済ませたあとは、寝床が問題になった。
今日は急なことだったため、あおいの部屋はまだ用意できていない。
和真は母屋の空いている部屋へ布団を敷き、今夜はそこで休んでもらうことにした。
「ここを使ってくれ。隣が俺の部屋だから、何かあればすぐに呼べる」
「和真は、ここで寝ぬのか?」
「俺は隣の部屋だ」
「ならば、わらわも隣で寝る」
「それは駄目」
「なぜじゃ!」
あおいは再び和真の裾を掴んだ。
「風呂も駄目。厠も駄目。眠ることまで駄目なのかえ?」
「眠ることが駄目なんじゃなくて、俺と同じ部屋なのが駄目なんだよ」
「昼間は、ずっとそばにおってよいと言ったではないか!」
「ここで暮らしていいとは言ったけど、ずっと俺と同じ部屋で暮らすって意味じゃない」
「あれは嘘だったのかえ?」
「嘘じゃないよ」
「ならば、ここにおれ!」
あおいは和真の裾を両手で握り、九本の尻尾を畳へ広げた。
絶対に離れないという意思が、全身から伝わってくる。
「隣にいるって言ってるだろ」
「壁があるではないか!」
「呼ばれたら来るよ」
「目を閉じておる間に、いなくなるかもしれぬ」
「いなくならない」
「前にも、そなたの声は突然聞こえなくなった」
その一言に、和真は返す言葉を失った。
十五歳で異世界へ召喚された和真に、あおいを置き去りにする意図などなかった。
しかし、封印の中にいたあおいからすれば、わずかな心の支えだった声が、何の前触れもなく消えたことになる。
「目を覚ました時、誰もおらぬのは嫌じゃ」
あおいが俯く。
服を握る手が、僅かに震えていた。
わがままで言っているのではない。
二百年以上続いた孤独へ、再び戻されることを恐れている。
「……分かった」
和真はあおいの隣へ腰を下ろした。
「眠るまでは、ここにいるよ」
「朝までではないのかえ?」
「今日は、あおいが眠るまでだ」
「途中で離れてはならぬぞ」
「ちゃんと眠ったのを確認してから戻る」
「本当かえ?」
「ああ」
あおいは不安そうな顔を残しながらも、ようやく布団へ入った。
九本の尻尾が布団の上へ大きく広がり、そのうち一本が和真の腕へ巻きつく。
「これなら、そなたが動けば分かるのじゃ」
「離れる気がないだろ」
「信用の問題じゃ」
「信用してないってことじゃないか」
「まだ会ったばかりじゃからな」
「それなのに、一緒に寝ようとしたのか?」
「それとこれとは別じゃ」
どこかで聞いたような言い分だった。
和真が振り返ると、部屋の入口からフェンリスとみゆが覗いている。
「眠るまでだからね」
フェンリスが念を押す。
「そのまま一緒に寝たら駄目だからね」
みゆも続ける。
「分かってるよ」
「本当に?」
「本当だ」
「……少し、怪しい」
ひかげまで廊下の奥から顔を覗かせた。
「和真は頼まれると断れませんからね」
リディアも冷静に指摘する。
「全員、俺を何だと思ってるんだ」
「押しに弱い人」
フェンリスとみゆの声が、綺麗に重なった。
和真が追い返すと、四人は渋々それぞれの部屋へ戻っていった。
静かになった部屋で、あおいが和真の腕を抱えたまま目を閉じる。
「和真」
「なんだ?」
「明日も、目を覚ましたらおるかえ?」
「ああ。いるよ」
「明後日も?」
「いる」
「その次の日もかえ?」
「ここで暮らしてるんだからな」
「……そうか」
あおいの狐耳から、ゆっくりと力が抜けた。
「ここは、わらわの居場所なのじゃな」
「ああ」
「もう、あの社へ戻らなくてよいのじゃな」
「戻さないよ」
「うむ……」
あおいの声が次第に小さくなる。
二百年以上、安心して眠ることさえできなかったのだろう。
和真の腕へ巻きついていた尻尾も、少しずつ力を失っていく。
やがて、あおいから穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「やっと眠ったか」
和真は尻尾を起こさないよう、慎重に腕を抜こうとした。
しかし、少し動かしただけで九本の尻尾が一斉に持ち上がった。
「……行ってはならぬ」
「あおい?」
目は閉じたままだった。
それでも和真の腕を抱く力が強まり、九本の尻尾が逃がさないように身体へ巻きついてくる。
「置いていくでない……」
寝言のような、か細い声だった。
和真は動くのをやめた。
「分かった。今夜だけだからな」
返事はない。
あおいは安心したように、再び静かな寝息を立て始めた。
和真は布団の脇へ座ったまま、壁へ背中を預ける。
このままでは、いつまでも続かない。
あおいが安心して暮らせる、自分だけの部屋を用意する必要がある。
そう考えながらも、和真はその夜、最後まであおいの手を振りほどくことができなかった。
翌朝。
「和真、起きてる?」
廊下から聞こえたフェンリスの声で、和真は目を覚ました。
「……痛い」
壁へ背中を預けたまま眠っていたため、首から腰にかけてすっかり固まっている。
右腕には、あおいの両手と九本の尻尾が絡みついていた。
あおいは布団の中で身体を丸め、和真の手を胸元へ抱えたまま、穏やかな寝息を立てている。
昨夜、和真が少しでも動こうとするたび、眠ったまま尻尾へ力を込めてきた。
結局、腕を抜くこともできず、そのまま朝を迎えてしまった。
襖が僅かに開き、フェンリスが顔を覗かせる。
その後ろから、みゆも部屋の中を覗き込んだ。
「朝ご飯を……って、和真、本当にそこで寝たの?」
「寝るつもりはなかったんだけどな」
「眠るまで一緒にいるって言ってたよね?」
「そのつもりだった。抜けようとすると、あおいが起きるんだよ」
和真が右腕を僅かに持ち上げる。
すると、絡みついていた九本の尻尾も一緒に動いた。
「これじゃ、動けないでしょ」
「だから朝までここにいるんだよ」
「……和真は、やっぱり押しに弱いよね」
みゆが呆れたように呟く。
「聞こえてるぞ」
話し声で目を覚ましたのか、あおいの狐耳が小さく動いた。
「……和真?」
「ああ。いるよ」
あおいは薄く目を開き、和真の姿を確認した。
その顔に安堵が広がる。
「本当に、おったのじゃな」
「約束したからな」
「うむ……」
あおいは和真の腕へ頬を寄せ、再び目を閉じようとした。
「もう朝だよ」
フェンリスに言われ、あおいの狐耳がぴんと立つ。
「朝……?」
「そう。和真を離して、朝ご飯にしよう」
「まだ眠いのじゃ」
「それなら、一人で寝ててもいいよ」
「和真も一緒なら、もう少し寝る」
「和真は朝ご飯を食べるの!」
フェンリスに叱られ、あおいは不満そうに目を細めた。
それでも和真の身体が固まっていることに気づくと、渋々両手を離す。
九本の尻尾はすぐには離れなかったが、一本ずつ解いていくと、ようやく和真の右腕が自由になった。
「痺れて動かない……」
「大丈夫かえ?」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「わらわを置いていこうとした、和真のせいじゃ」
「寝たから自分の部屋へ戻ろうとしただけだろ」
「どちらにせよ、わらわから離れようとしたことに変わりはない」
「朝から言い争わないの」
フェンリスに促され、全員で居間へ向かった。
朝食を終えたあと、和真はあおいを連れてアパートへ向かった。
「どこへ行くのじゃ?」
「昨日話した、あおいの部屋を見に行く」
「和真も住む部屋かえ?」
「違う。あおいが暮らす部屋だ」
「では、行かぬ」
あおいが母屋の前で立ち止まる。
「見るだけでもいいだろ」
「和真がおらぬ部屋に興味はない」
「すぐ近くだよ。とりあえず一度見てくれ」
和真が歩き出すと、あおいは服の裾を掴んだまま渋々ついてきた。
向かったのは、空いている103号室だった。
101号室にはフェンリス、102号室にはみゆが暮らしている。
隣同士なら、あおいが不安になった時にも様子を見てもらえる。
「ここだ」
和真が玄関の鍵を開ける。
室内は長く使われていなかったが、大きく傷んでいる場所はなかった。
床や棚には薄く埃が積もり、窓も少し汚れている。
掃除をして、必要な物を運び込めば、その日のうちに使えるようになるだろう。
あおいは和真の後ろから室内を覗き込んだ。
「昨日の部屋より広いのじゃ」
「こっちは1LDKだからな。九本の尻尾を広げても、そこまで窮屈にはならないと思う」
あおいが居間へ入り、九本の尻尾を扇のように広げてみる。
家具がないこともあり、尻尾同士が壁へぶつかることはなかった。
「確かに、社より広いの」
「あの社と比べる必要はないだろ」
「わらわが長く暮らしたのは、あそこだけじゃからな」
その言葉に、和真は何も返せなくなった。
少し遅れて、掃除道具を持ったみゆとひかげがやってくる。
フェンリスも酒屋の仕事へ向かう前に、手伝いに来てくれた。
最後にリディアが工具箱を持って現れ、室内の設備を確認し始める。
「照明と水道に問題はありません。玄関の鍵は調整した方がよさそうですね」
「今日中に直せるか?」
「この程度なら、すぐに終わります」
「助かるよ」
「では、わらわも手伝うのじゃ」
あおいが箒へ手を伸ばす。
しかし、もう片方の手は和真の裾を掴んだままだった。
「あおい。掃除をする間だけでも離してくれないか?」
「片手で十分じゃ」
「箒は両手で持った方が楽だろ」
「ならば、尻尾を使う」
あおいは九本のうち一本を箒へ巻きつけた。
別の一本で雑巾を持ち、さらにもう一本で小さな箱を持ち上げる。
「見よ。両手より多く持てるぞ」
「すごいけど、動かす方向が全部違うよ」
みゆが指摘した直後、箒が壁へぶつかり、雑巾が宙を舞った。
箱を持っていた尻尾は、その中身を床へ落としてしまう。
「むっ……」
「まずは一本ずつ使った方がいいんじゃない?」
「九本同時に動かすことはできるのじゃ!」
「力が戻ったばかりだから、細かい動きに慣れてないんだろ」
和真が床へ落ちた物を拾う。
「今日は無理をしないで、できることだけ手伝ってくれ」
「では、和真のそばで見ておる」
「掃除を見守る係はいらないんだけどな」
「大切な役目じゃ」
結局、あおいは和真の服を掴みながら、空いた手で雑巾を使うことになった。
動きにくさはあったものの、全員で取りかかったことで掃除は昼過ぎには終わった。
母屋や別の空室に置かれていた予備の家具を運び込み、足りない物は後日揃えることにした。
窓には淡い水色のカーテンを取りつける。
寝室には新しい布団を敷き、九本の尻尾を広げられるよう、その周囲には余計な物を置かなかった。
リディアが玄関の鍵と室内の細かな不具合を直した頃には、窓から差し込む光が橙色に変わり始めていた。
「これなら、今夜から使えるな」
和真が室内を見回す。
あおいは居間の中央に立ち、自分のために整えられた部屋を眺めていた。
「この部屋を、わらわが使ってよいのかえ?」
「ああ。今日からここが、あおいの部屋だ」
「この窓の布もか?」
「カーテンな。それもあおいのだ」
「机も、棚も?」
「全部使っていいよ」
「奥にある布団も、わらわのものかえ?」
「ああ」
あおいは寝室へ入り、敷かれたばかりの布団へ手を触れた。
柔らかさを確かめるように何度か押し、嬉しそうに狐耳を動かす。
「ふかふかなのじゃ」
「気に入ったか?」
「うむ。よい部屋じゃ」
「それならよかった」
和真もようやく安心した。
これだけ気に入ってくれたのなら、今夜からここで休んでくれるかもしれない。
「では、和真の布団を運んでくるのじゃ」
「俺の布団?」
「あちらでは、わらわの隣に座ったまま眠っておったじゃろう。今夜からは、きちんと布団で眠ればよい」
「俺は母屋で寝るよ」
あおいの表情が止まった。
「……母屋で?」
「ああ。ここは、あおいの部屋だからな」
「和真は、ここに住まぬのかえ?」
「住まないよ」
あおいは布団から離れ、和真のもとへ戻ってきた。
両手で服の裾を握る。
「ならば、わらわも母屋へ戻る」
「部屋を気に入ったんだろ?」
「部屋は気に入った。じゃが、和真がおらぬ」
「隣にはみゆがいるし、101号室にはフェンリスもいる。何かあったら、すぐに呼べるよ」
「わらわがそばにいてほしいのは、和真じゃ」
「一人で眠るのが怖いのか?」
あおいは答えなかった。
ただ、裾を握る指へ力を込める。
九本の尻尾も身体を守るように集まり、その顔から先ほどまでの喜びが消えていた。
「目を閉じ、次に開いた時……また誰もおらぬのは嫌じゃ」
「あおい……」
「社におった頃も、眠るたびに願っておった。目を覚ました時には、誰かが迎えに来てくれているのではないかとな」
だが、その願いが叶うことはなかった。
二百年以上、何度目を覚ましても、あおいは一人だった。
「ようやく和真が来てくれた。じゃのに、また一人で眠れというのかえ?」
水色の瞳が、真っ直ぐ和真を見つめる。
和真は何度か説得しようとしたが、その視線を前に言葉が出てこなかった。
「……分かった」
「本当かえ?」
「一人で眠れるようになるまで、しばらく一緒に寝るよ」
あおいの狐耳が勢いよく立ち上がった。
「同じ布団でかえ?」
「待って!」
和真が答えるより先に、背後からフェンリスの声が飛んできた。
「どうして同じ布団になるの!?」
「僕も反対!」
みゆも寝室へ駆け込んでくる。
「部屋まで用意したのに、結局和真と一緒に寝るの?」
「わらわが一人で眠れるようになるまでじゃ」
「いつまでかかるの!?」
「分からぬ」
「それじゃ、ずっと一緒になるかもしれないじゃん!」
「それの何が悪いのじゃ?」
「全部だよ!」
フェンリスの狼耳が真っ直ぐ立ち、特大の尻尾も大きく膨らんでいる。
みゆも二本の尻尾を激しく揺らし、和真の腕へしがみついた。
「あおいだけ許すなら、僕も一緒に寝る!」
「僕だって!」
「二人は一人で眠れるだろ」
「眠れるけど、一緒に寝たいの!」
「僕も同じ!」
「話が違ってきてるぞ」
右側からはあおいが裾を掴み、左側からはみゆが腕へしがみつく。
正面にはフェンリスが立ち、逃がさないよう和真を睨んでいる。
「和真がはっきり断らないから、こうなるんだよ!」
「でも、あおいの事情を考えたら仕方ないだろ」
「事情があるのは分かってる! だからって、同じ布団は駄目!」
「そうだよ。せめて別の布団にするべき!」
「嫌じゃ。同じ布団でなければ、和真が途中で逃げるかもしれぬ」
「逃げないよ!」
「なぜ、そなたが答えるのじゃ?」
「和真なら逃げないって分かるからだよ!」
「ならば、ともに寝ても問題なかろう」
「そういう話じゃない!」
フェンリスとあおいの言い合いは、次第に大きくなっていった。
騒ぎを聞きつけ、居間にいたひかげとリディアも寝室へ顔を出す。
「……まだ決まらないんですか?」
「和真が、あおいと同じ布団で寝るって!」
みゆが訴える。
ひかげは僅かに俯き、長い前髪の奥から和真へ視線を向けた。
「……少し、甘やかしすぎだと思います」
「ひかげまで……」
「一人で眠れない事情は分かります。でも……同じ布団でなくても、そばにはいられます」
「私も同意見です」
リディアが冷静に続ける。
「私が和真の布団へ入った時は、翌日に201号室へ移されました。今回だけ認めるのは、公平ではありません」
「リディアは寝ぼけて勝手に入ってきたんだろ」
「結果として同じ布団で眠った点は変わりません」
「ほかにもいろいろ問題があっただろ」
「それは否定しません」
「しないのかよ」
それでもリディアの言い分には、誰も反対しなかった。
和真は全員の顔を順番に見る。
フェンリスとみゆは大激怒。
ひかげは普段より僅かに不満そうで、リディアも納得していない。
最後に、服の裾を握ったまま離さないあおいへ目を向ける。
「……条件を決めよう」
「条件?」
「あおいが一人で眠れるようになるまで、しばらく俺の部屋で一緒に寝る」
「和真!」
フェンリスが再び声を上げる。
「最後まで聞いてくれ。ただし、いつまでも続けるわけじゃない」
和真はあおいへ向き直った。
「風呂やトイレにはついてこない。畑や鶏小屋で作業する時も、少しずつ離れて過ごす練習をする。夜中に目を覚ましても、俺がいるか確かめるために何度も起こさない」
「最後の約束は難しいかもしれぬ」
「そこは努力してくれ」
「……分かったのじゃ」
「それから、103号室も使うこと。昼間はここで過ごして、自分の部屋に慣れるんだ」
「夜になれば、和真の部屋へ行ってよいのじゃな?」
「ああ。一人で眠れるようになるまでだぞ」
「うむ!」
あおいは満面の笑みを浮かべ、九本の尻尾を大きく揺らした。
「待って。肝心なところが決まってないよ」
みゆが和真を睨む。
「同じ布団なの? 別の布団なの?」
全員の視線が和真へ集まった。
「最初は同じ布団でいい」
その瞬間、フェンリスとみゆの怒声が重なった。
「駄目だよ!」
「絶対にずるい!」
「最初だけだ! 落ち着いて眠れるようになったら、すぐに布団を分ける!」
「僕たちには許さないのに!」
「二人は一人で眠れるだろ!」
「それとこれとは別の話だよ!」
「どこかで聞いた言い分だな……」
「では、決まりじゃな」
あおいが和真の腕へ抱きつく。
「決まってない!」
結局、フェンリスとみゆは最後まで納得しなかった。
ひかげからも「やはり甘いと思います」と小言を言われ、リディアからは「あおいだけを例外にすれば、今後の規則が成り立ちません」と注意された。
それでも、あおいが一人で眠ることを恐れているのは全員が理解している。
完全に反対し続けることもできず、期限を決めずに毎晩様子を見ることで、ひとまず話は収まった。
その夜。
風呂を済ませたあおいは、約束どおり脱衣所の外で和真を待っていた。
何度も名前を呼んできたものの、中へ入ろうとはしなかった。
それだけでも、初日よりは大きな進歩だった。
和真が自分の部屋へ入ると、あおいも裾を掴んだままついてくる。
布団へ入った和真の隣に横になると、あおいは九本の尻尾で二人を包み込んだ。
「尻尾を全部乗せると重いんだけど」
「わらわにとっては、これが落ち着くのじゃ」
「せめて半分にしてくれ」
「仕方がないの」
あおいは四本の尻尾を布団の外へ出し、残りの五本で和真と自分の身体を包んだ。
「これでよいか?」
「さっきよりはな」
「では、眠るのじゃ」
「ああ。おやすみ」
「待つのじゃ」
「今度はなんだ?」
「あちらを向くでない」
「寝にくいんだよ」
「わらわの方を向いておればよい」
和真が仕方なく身体の向きを変えると、あおいは安心したように笑った。
そのまま和真の服を掴み、胸元へ額を寄せる。
「近くないか?」
「同じ布団で眠るのじゃから、このくらいは普通じゃ」
「普通なのか?」
「わらわの世界では普通じゃった」
「本当だろうな?」
「……たぶん」
「今、間があったぞ」
襖の向こうから、小さな物音が聞こえた。
和真が視線を向けると、僅かに開いた隙間から赤い瞳と猫の耳が覗いている。
「フェンリス、みゆ。見張るのはやめろ」
「見張ってないよ」
「偶然ここにいただけ」
「二人そろってか?」
「和真が変なことをしないか心配なんだよ!」
「僕も!」
「しないから、自分の部屋へ戻れ」
「本当に?」
「本当だ」
二人の気配はしばらく残っていたが、やがて諦めたように廊下を離れていった。
「騒がしい者たちじゃな」
「あおいのことを心配してるんだよ」
「わらわより、和真のことを気にしておるように見えたぞ」
「気のせいだ」
「そうかの?」
あおいは少し楽しそうに笑った。
「フェンリスたちと、仲よくできそうか?」
「まだ騒がしいとは思う。じゃが、嫌いではない」
「それならよかった」
「103号室も気に入ったのじゃ」
「なら、早く一人で眠れるようになってくれ」
「それは、また別の話じゃ」
「別にするなよ」
「焦る必要はなかろう?」
「あおいが言うと、何年もかかりそうで怖いな」
「二百年に比べれば、ほんの僅かな間じゃ」
「その基準は禁止だ」
あおいの狐耳が小さく揺れる。
やがて、和真の服を握る力が少しだけ弱まった。
「和真」
「なんだ?」
「目を覚ました時も、ここにおるかえ?」
「ああ」
「明日も、明後日も?」
「いるよ」
「わらわが103号室で一人で眠れるようになったあとも、この場所に帰ってくるか?」
「当たり前だろ。ここは俺の家だからな」
「……そうか」
あおいは安堵したように目を閉じた。
「ならば、眠るのじゃ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ、和真」
しばらくして、あおいから穏やかな寝息が聞こえ始めた。
九本の尻尾に包まれた和真は、身動きが取れないまま天井を見上げる。
今夜だけで済むのか。
数日かかるのか。
それとも、もっと長くなるのか。
今の和真には分からなかった。
それでも、二百年以上も孤独に耐えてきたあおいへ、今すぐ一人で眠れとは言えない。
使われる日を待つ103号室も、いつか本当の意味であおいの居場所になるはずだ。
今はまだ、その一歩目を踏み出したばかりだった。
こうして空色唐辛子荘には、神崎あおいという新たな住人が加わった。
自分だけの部屋と、帰る場所。
そして、目を覚ました時にそばにいてくれる仲間たちを得て。
二百年以上止まっていた彼女の時間は、ようやく再び動き始めた。




