第十二話 朽ちた神社
昼前の空色唐辛子荘に、短い警告音が鳴った。
音の発生源は、母屋の居間に置かれた小さな端末だった。
「……またか?」
洗濯物を畳んでいた和真は手を止め、点滅している画面を覗き込んだ。
表示されているのは、畑へ水を送る設備の異常通知。
水量や水圧には問題がない。
それにもかかわらず、水質を示す数値だけが一定の間隔で大きく乱れていた。
最初に異常が記録されたのは昨夜。
その後も何度か同じ警告が出たため、リディアが朝から原因を調べていた。
「リディア。何か分かったか?」
和真が庭へ出ると、湧き水のそばにしゃがみ込んでいたリディアが顔を上げた。
頭に載せていたゴーグルを目元まで下ろし、片方の機械義手を水へ浸している。
「機械の故障ではありません。水温、濁り、塩分、その他の成分にも異常は見つかりませんでした」
「それなら、どうして警告が出るんだ?」
「分からないから調べています」
「そうだよな」
「ただし、一つだけ気になる反応があります」
リディアが水から義手を引き上げる。
濡れた金属の指先が、陽の光を反射した。
「この水には、微弱な魔力が含まれています。昨夜から、その量が急激に増減しています」
「魔力?」
和真は畑へ流れていく水を見た。
母屋の庭にある湧き水は、以前、和真が魔法を使って湧き出す場所だけを移したものだ。
水源となる地下水脈は、今も山の奥へ続いている。
しかし、これまで水から不自然な魔力を感じたことはなかった。
「リディア、少し止めてくれ」
「給水をですか?」
「ああ。確かめたいことがある」
リディアが端末を操作すると、畑へ続く管の中から水の流れる音が消えた。
和真は湧き水の前にしゃがみ、静かな水面へ右手を入れた。
冷たい水が指の間を流れていく。
目を閉じ、意識を集中させる。
最初に感じたのは、土地を巡る穏やかな魔力だった。
その奥に、細く、途切れかけた何かがある。
糸のように頼りない力が、水脈を通じて山の方角へ伸びていた。
『……いたい』
微かな声が聞こえた。
和真が目を開く。
「今のは……」
「何かありましたか?」
「精霊の声が聞こえた」
再び目を閉じる。
庭の草木に宿る小さな精霊たちが、普段よりも落ち着かない様子で揺れていた。
『おく』
『やまのおく』
『だれか、ないてる』
『ふるい、おやしろ』
途切れ途切れの声が、同じ方角を示している。
「山の奥に古い社があって、そこで誰かが泣いてるらしい」
「神社ですか?」
「たぶん」
和真は水から手を上げた。
指先に残っていた微かな魔力は、空気に触れるとすぐに消えてしまった。
「この辺りに神社なんてありましたか?」
「昔、祖父から聞いたことがある。山の奥に、使われなくなった小さな神社があるって」
和真が幼い頃には、すでに誰も参拝しなくなっていた。
神社を管理していた集落そのものがなくなり、山道もほとんど草木に埋もれていたはずだ。
それでも祖父だけは、年に何度か山へ入っていた。
何をしに行くのか尋ねても、返ってくるのは「水の様子を見てくる」という曖昧な答えばかりだった。
「祖父さんが、たまに手入れしてたはずだ」
「場所は分かりますか?」
「大体は覚えてる。でも、最後に聞いたのは十年以上前だからな」
和真は母屋の脇にある物置へ向かった。
リディアが扉を直してくれたおかげで、以前のように持ち上げながら開ける必要はない。
中には農具や工具のほか、祖父が残した古い木箱がいくつも並んでいた。
和真は記憶を頼りに、一番奥に置かれた細長い箱を引き出す。
蓋を開けると、古い帳面や山の地図が入っていた。
「これか……?」
色褪せた地図を広げる。
山道の途中から細い手書きの線が伸び、その先に小さな鳥居の印がつけられていた。
地図の端には、祖父の字で短い書き込みが残されている。
『古社。水口の上。道が消えぬよう、年に二度は草を刈る』
帳面をめくると、神社までの道を整えた日付が並んでいた。
しかし、その記録は祖父が亡くなる少し前で途切れている。
「ここ数年は、誰も入ってないのか」
今では道が残っているかも分からない。
それでも地図があれば、山の位置と方角は特定できる。
「私も行きます」
後ろから地図を覗いていたリディアが立ち上がった。
「いや、リディアは設備を見ていてくれ。この魔力がまた大きく変化するかもしれない」
「一人で問題ありませんか?」
「何かと戦いに行くわけじゃない。水源の様子を確かめて、神社を見てくるだけだ」
「ですが、異常な魔力が観測されています」
「だからこそ、まずは俺が見てくる。精霊の声も、魔力の流れも俺にしか追えないからな」
リディアはしばらく黙って和真を見つめていた。
納得してはいないらしい。
それでも、畑の給水設備を放置できないことは理解していた。
「危険を感じたら、すぐに戻ってください」
「ああ。昼過ぎには帰るよ」
「フェンリスたちには伝えますか?」
「フェンリスは酒屋のバイト中だ。わざわざ呼び戻すほどじゃない。ひかげにはJINEを送っておく」
「みゆは?」
「さっきから縁側で寝てる」
二人が庭の方を見る。
縁側の一番陽当たりがいい場所で、みゆが丸くなっていた。
頭の下には座布団を敷き、二本の尻尾を身体へ巻きつけている。
気持ちよさそうに眠っており、先ほど鳴った警告音にも、二人の会話にもまったく反応していない。
「みゆ。俺、少し山へ行ってくるぞ」
「んにゃ……」
「昼過ぎには戻るからな」
「……おやつ、冷蔵庫……」
「聞いてないな、これ」
「起こしますか?」
リディアが機械義手を伸ばしかける。
和真は、あまりにも幸せそうなみゆの寝顔を見て、その手を止めた。
「いや、寝かせておこう。ひかげにも伝えてあるし、大丈夫だろ」
「後で怒るのでは?」
「水源を見に行くだけだぞ?」
「みゆなら怒ると思います」
「……帰ってから謝るよ」
和真は山へ入る準備を整えた。
長袖の上着に履き慣れた靴。それに、草木をかき分けるための丈夫な手袋。
鞄には水筒とタオル、簡単な救急用品、スマホを入れる。
最後に祖父の地図と神社の鍵を収め、母屋を出た。
地図に描かれた入口は、空色唐辛子荘から歩いて三十分ほどの場所にあった。
昔は山仕事に使われていたらしい道も、今では草木に覆われている。
人が通った跡は見当たらない。
「祖父さん、こんなところまで来てたのか」
張り出した枝を払い、背の高い草を踏み分けながら進んでいく。
地図がなければ、道があることすら分からなかっただろう。
しばらく登ると、周囲の空気が変わった。
先ほどまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか消えている。
虫の羽音もない。
風は吹いているはずなのに、木々の葉もほとんど揺れていなかった。
「……妙だな」
静かすぎる。
山の中というより、周囲の音だけを何かに閉じ込められたようだった。
和真は足を止め、魔力を探る。
水脈から感じていた細い魔力が、先ほどよりもはっきりしていた。
同時に、古く弱った結界の気配もある。
異世界で見た術式とは異なるが、何かを内側へ封じ込めるためのものだということは分かった。
『こっち』
小さな精霊が、木々の間へ飛んでいく。
和真が後を追うと、苔に覆われた石段が現れた。
何段あるのかも分からないほど上まで続き、両脇には崩れかけた石灯籠が並んでいる。
石段を上りきった先には、半ば朽ちた鳥居が立っていた。
片方の柱には大きな亀裂が入り、掛けられていたはずの額も地面へ落ちている。
その奥に、小さな社があった。
屋根の一部は崩れ、壁には蔦が絡みついている。
祖父が手入れをしていた頃の面影は、もうほとんど残っていなかった。
「ここが……」
和真が鳥居をくぐる。
その瞬間、身体を撫でるように冷たい魔力が流れた。
境内のいたるところに、古びた注連縄と札が残されている。
どれも朽ちかけているにもかかわらず、封印の力だけは失われていない。
「神社を守る結界じゃない」
和真は社を見据えた。
「中にいる何かを、外へ出さないための封印か」
返事はない。
しかし、社の奥から確かに誰かの気配がする。
魔物のような濁った魔力ではない。
清らかで、穏やかで、それでいて息苦しいほどの悲しみが混じっていた。
和真が社へ近づこうとした、その時だった。
「……また、人が来たのかえ」
社の奥から、低く落ち着いた女の声が聞こえた。
声音だけでは、年齢までは読み取れない。
威厳を感じさせる話し方ではあるものの、どこか無理に低く抑えているような、不自然な硬さがあった。
「どうせ……わらわを見れば、すぐに逃げるのであろう」
和真は足を止めなかった。
朽ちかけた扉の前まで進み、社の中へ呼びかける。
「そこに誰かいるのか?」
「…………」
社の奥から、僅かに息を呑む音がした。
「聞こえてるなら、返事をしてくれ」
しばらくの沈黙が続いた。
やがて、低く抑えられた声が返ってくる。
「なぜ……逃げぬのじゃ?」
問いかけの後、社の中は再び静まり返った。
和真は急かさず、扉の前で返事を待った。
やがて、暗い社の奥から衣擦れのような音が聞こえる。
「……そなたには、わらわの声が聞こえておるのか?」
返ってきた声は、先ほどと同じく低く落ち着いていた。
「ああ。はっきり聞こえてる」
「それだけではない。わらわがここにおることも、分かっておるのじゃな?」
「気配は感じる。でも、姿までは見えない」
「そうか……」
短い返事には、僅かな安堵が混じっていた。
和真が扉へ手をかける。
木製の扉はひどく傷んでいたが、押しても引いても動かなかった。
錆びた金具が引っかかっているだけではない。
扉の向こうから流れ込む魔力が、和真の手を押し返している。
「待つのじゃ!」
社の奥から、鋭い声が飛んできた。
「その扉に触れてはならぬ!」
「もう触ってるけど」
「早う手を離すのじゃ!」
次の瞬間、扉に貼られていた古い札が青白く光った。
弾けるような魔力が、和真の右手へ襲いかかる。
和真は反射的に魔力を纏い、その力を受け止めた。
乾いた音とともに、一枚の札が中央から裂ける。
「……今のが、この神社の封印か」
「無事なのかえ?」
「ああ。少し驚いただけだ」
「少しで済むはずがなかろう! 普通の人間なら、腕が動かなくなっておるぞ!」
「普通ではないからな」
「なぜ、そのように平然としておるのじゃ……」
呆れたような返事が聞こえる。
声は相変わらず低く落ち着いていたが、先ほどよりも感情が表へ出ていた。
和真は扉の横にある錠前へ目を向けた。
錆びついてはいるが、完全に壊れてはいない。
「そういえば、鍵があったな」
「鍵……?」
鞄から祖父の残した鍵を取り出し、錠前へ差し込む。
最初は固くて動かなかったが、何度か慎重に回すと、鈍い音を立てて錠が外れた。
「な、なぜそなたが、その鍵を持っておるのじゃ?」
「祖父が残した箱に入ってた。この神社の手入れをしてたみたいなんだ」
「あの老人の……」
「祖父さんを知ってるのか?」
「姿を見せたことはない。じゃが、年に何度か境内の草を刈り、壊れた場所を直しておった。何もない社へ向かって、独り言を申すこともあった」
「独り言?」
「今年も水が出たとか、孫が大きくなったとか……そのような話じゃ。わらわに聞かせているとは思っておらなんだが」
「たぶん、祖父さんは誰かいるって気づいてたんだろうな」
祖父が何も知らずに、使われなくなった神社を手入れし続けていたとは考えにくい。
姿は見えなくても、この場所に何かがいると感じていたのかもしれない。
和真は錠前を外し、扉をゆっくりと引いた。
長い間開けられていなかった扉が、軋んだ音を立てながら動く。
社の中は暗く、奥までは見通せない。
しかし、入口を塞ぐように青白く透き通った壁が残っていた。
和真が指先を近づけると、水面のような波紋が広がる。
「扉の鍵を開けても、こっちは消えないか」
「それが本当の封印じゃ。扉など壊しても、わらわは外へ出られぬ」
「触れてもいいか?」
「……やめた方がよい」
「どうして?」
「わらわを見れば、そなたもきっと後悔する」
「それは、見てから俺が決めることだろ」
「随分と頑固な男じゃな」
「よく言われる」
本当はそれほど言われた覚えもない。
しかし今は、相手に話を続けてもらう方が大切だった。
和真は入口を塞ぐ魔力の壁を調べた。
封印を力任せに壊せば、中にいる者へ何が起きるか分からない。
まずは術式の流れを読み取る必要がある。
扉、壁、屋根、床下。
社を覆う魔力は、境内の各所へ複雑に伸びていた。
「すぐには外せそうにないな」
「当然じゃ。この封印は、わらわを閉じ込めるためだけに作られたものじゃからな」
「やっぱり、閉じ込められてるのか」
「……そうじゃ」
返ってきた声が小さくなる。
「どれくらい、ここにいる?」
「覚えておらぬ」
「大体でいい」
「二百年を越えてからは、数えるのをやめたのじゃ」
「二百年……」
和真は思わず社を見上げた。
これほど古い建物が今まで形を保っていたのも、封印の力が残っていたからなのだろう。
「ずっと一人だったのか?」
「時折、人は来た。肝試しとやらで騒ぐ者や、宝があると勘違いした者たちじゃ。昔は、近くに村もあった」
「その人たちに、助けを求めなかったのか?」
「……求めたこともあった」
声から僅かに感情が消える。
「寂しかったのじゃ。ほんの少しでよいから、誰かと話したかった。じゃから、来た者の前に姿を見せた」
「それで?」
「皆、逃げた」
あまりにも短い答えだった。
「わらわを見るなり、化け物と叫びおった。石を投げられたこともある。封印をさらに強くしようと、札を打ちつけていった者もおった」
その光景を思い出しているのか、大人びた声が僅かに震える。
「何度も同じことが続けば、さすがのわらわでも学ぶ。人前に姿を見せてはならぬとな」
「だから、奥に隠れてるのか?」
「今は封印が弱っておる。その気になれば、姿を見せることはできる。じゃが……どうせ同じことになる」
「俺は逃げない」
「姿も見ておらぬのに、よくそのようなことが言えるの」
「見た目だけで怖がるつもりはない。俺の家にも、人間とは違う種族の仲間が何人もいるからな」
社の奥で、何かが動く音が止まった。
「今……なんと言うた?」
「狼の獣人やミノタウロス、猫又と一緒に暮らしてる。他にもドワーフがいる」
「その者たちを、そなたが捕らえておるのか?」
「違う。みんな空色唐辛子荘の住人だ」
「人ならざる者と人間が……同じ場所で暮らしておるのか?」
「少なくとも、うちでは普通だな」
「本当に、怖くはないのかえ?」
「ああ。耳や角や尻尾があっても、それだけで怖がったりしない」
「……信じられぬ」
「だったら、姿を見せて確かめてみたらどうだ?」
再び沈黙が訪れる。
和真は暗い社の奥から向けられる視線を感じながら、その場を動かなかった。
「姿を見せても、本当に逃げぬのか?」
「ああ」
「叫ばぬか?」
「叫ばない」
「化け物とは言わぬか?」
「言わない」
「……嘘をついたら、祟るぞ」
「分かった」
「少しは怖がるところじゃろう」
その返事を聞いた時、和真は声の印象が変わったことに気づいた。
声質そのものが変化したわけではない。
ただ、無理に低く抑えていた調子がほどけ、張り詰めていたものが消えている。
それまで大人びて聞こえていた声から、本来のものらしい幼い響きが覗いていた。
どうやら、弱気な自分を隠すために、わざと威厳のある話し方をしていたらしい。
「さっきより声が柔らかくなったな」
「な、なんのことじゃ?」
「無理に低くしてただろ?」
「しておらぬ!」
「そうか?」
「そうなのじゃ!」
むきになった返事は、先ほどまでよりもずっと幼く聞こえた。
社の奥に、淡い水色の光が浮かび上がる。
一つ、また一つと増えた狐火が暗闇を照らしていく。
やがて、その中央から小柄な人影が恐る恐る歩み出てきた。
見た目は十四、五歳ほど。
小柄で細身の身体に、古びた水色の和装を纏っている。
長い銀色の髪は毛先に近づくにつれて鮮やかな水色へ変わり、左右へ分けて低い位置で結ばれていた。
頭の上には、髪から飛び出すように立った大きな狐耳。
白く柔らかな毛に覆われた耳の先も、水色に染まっている。
額の上では一本の髪が大きく跳ね、緊張を表すように小さく揺れていた。
そして、その背後には――九本の尻尾があった。
どれも身体を包み込めそうなほど大きく、毛量も多い。
白銀から水色へ変わる九本の尻尾が、狭い社の中で重なり合い、扇のように広がっている。
床へ垂れたもの。
身体へ巻きつくもの。
緊張したように、先端だけを揺らしているもの。
数え間違える余地もないほど、はっきりと九本揃っていた。
「本当に……逃げぬのじゃな?」
少女は九本の尻尾で身体を隠しながら、恐る恐る和真を見上げた。
水色を帯びた瞳には、不安が浮かんでいる。
「ああ」
和真は驚かせないよう、普段と変わらない調子で答えた。
「尻尾、本当に九本あるんだな」
「……気味が悪いかえ?」
「いや。どれも随分立派だと思って」
「立派……?」
「ああ。九本とも、すごくふさふさしてる」
大きな狐耳がぴくりと動いた。
少女は何度か目を瞬かせ、自分の尻尾を振り返る。
「そのようなことを言われたのは、初めてじゃ」
「手入れは大変そうだけどな」
「うむ……放っておくと、すぐに毛が絡まるのじゃ」
「触ったら気持ちよさそうだな」
「なっ……!」
九本の尻尾が一斉に膨らんだ。
「い、いきなり何を言うておるのじゃ! ばか者!」
「悪い。嫌なら触らない」
「当たり前じゃ! 尻尾は、その……親しくない者へ触らせるものではない!」
「そうなのか」
「そうなのじゃ!」
先ほどまで無理に作っていた威厳は、すっかり消えていた。
声は同じなのに、表情や感情を隠さなくなったことで、本来の幼い響きがそのまま伝わってくる。
怒らせてしまったはずなのに、その方が和真には少し安心できた。
長い間一人だった者とは思えないほど、声が生き生きとしていたからだ。
「俺は四ノ宮和真。君の名前を聞いてもいいか?」
「……神崎あおいじゃ」
「あおいか」
「気安く呼び捨てにするでない」
「神崎さん?」
「それも他人行儀で嫌じゃ」
「じゃあ、どう呼べばいいんだ?」
「…………あおいでよい」
「分かった。あおい」
「うむ」
あおいは澄ました顔で頷いた。
けれど、九本の尻尾の先は落ち着かない様子で揺れている。
「和真。そなたは、なぜここへ来たのじゃ?」
「うちの湧き水に異常が出た。水を通して、精霊たちの声が聞こえたんだ」
「精霊の声を?」
「ああ。山の奥で誰かが泣いてるって教えてくれた」
「……お節介な者たちじゃ」
「あおいが呼んだんじゃないのか?」
「わらわは呼んでおらぬ」
そう言いながら、あおいは僅かに視線を逸らした。
「ただ……少し、苦しかっただけじゃ」
「封印のせいか?」
「封印そのものは、ずっと変わらぬ。変わったのは、この社じゃ」
あおいが頭上を見上げる。
崩れた屋根の隙間から、細い光が差し込んでいた。
「社が朽ち、術式の均衡が崩れ始めておる。わらわを縛る力と、わらわから魔力を奪う力。その釣り合いが保てなくなったのじゃ」
「魔力を奪ってる?」
「この土地へ流すためじゃ」
和真は床下へ意識を向けた。
あおいの身体から伸びた魔力が、社の下を通る水脈へ流れ込んでいる。
庭の湧き水から感じた魔力と同じものだった。
「まさか、二百年以上も、あおいの魔力を水脈へ流し続けてたのか?」
「そうじゃ。わらわは、この地を守るための人柱にされた」
「人柱……」
あおいは静かに頷いた。
「わらわは、この世界の生まれではない」
和真の表情が変わる。
「異世界から来たのか?」
「その呼び方で合っておる。二百年以上前、わらわは儀式によって、この地へ呼び出されたのじゃ」
当時、この山の周辺では水が枯れ、作物も育たなくなっていたという。
村の祈祷師たちは、異世界から強い力を持つ存在を呼び、その力で土地を蘇らせようとした。
召喚されたあおいは、困っている人々を助けてほしいと頼まれた。
「わらわも、最初は皆を信じておった。水脈を整え、荒れた土地を浄めた。村に水が戻った時は、皆が喜んでくれたのじゃ」
「それなのに、どうして封印された?」
「わらわが去れば、再び水が枯れると思ったのであろう」
村人たちは、あおいを元の世界へ帰す方法を探すと約束した。
その言葉を信じて神社へ入ったあおいを、あらかじめ用意していた術式で捕らえた。
九尾の持つ膨大な魔力を、水脈へ流し続けるために。
「助けてくれた相手を、騙して閉じ込めたのか」
「当時の者たちにも、事情はあったのじゃろう。水がなくなれば、多くの者が死ぬ。わらわ一人を犠牲にすれば、村は助かる」
「だからって、許されることじゃない」
「……そなたは、怒るのじゃな」
「あおいは怒ってないのか?」
「昔は怒った。封印を壊そうと暴れたこともある。しかし、わらわが力を放つほど、術式は強く身体を縛った」
あおいは自分の足元へ目を向けた。
薄暗い床に、九つの紋様が浮かび上がっている。
その一つ一つから伸びた鎖のような魔力が、あおいの九本の尻尾へ絡みついていた。
「そのうち、怒ることにも疲れた。村人もいなくなり、わらわを封じた者たちも皆死んだ。今さら恨んでも、誰にも届かぬ」
「でも、ここからは出たいんだろ?」
あおいは答えなかった。
九本の尻尾が、ゆっくりと身体を包んでいく。
「出たくないのか?」
「そのようなわけがなかろう」
幼さの残る声が、微かに震えた。
「外へ出たい。山を下りたい。今の世がどのようになっておるのか、この目で見てみたい」
「なら――」
「じゃが、無理なのじゃ」
あおいが和真の言葉を遮る。
「封印は、わらわの魔力と深く結びついておる。下手に壊せば、抑え込まれていた力が一気に溢れ出す」
「それが、湧き水の異常の原因か」
「おそらくな。このまま社が崩れれば、封印も長くは持たぬ。わらわの力は水脈へ流れ込み、周囲の土地を飲み込むじゃろう」
「どれくらいの被害が出る?」
「分からぬ。山一つで済めばよいが……今のわらわでは、溢れ出した力を抑えられぬ」
だから助けを求めなかった。
誰かが封印を壊せば、その者まで巻き込んでしまう。
たとえ自由になれたとしても、外へ出た直後に多くの人間を傷つける可能性がある。
それならば、このまま社とともに朽ちた方がいい。
あおいは、そう考えていた。
「事情は分かった」
和真は魔力の壁の前へ座り込んだ。
「少し調べさせてくれ」
「調べる?」
「封印の術式だ。絡まってる部分を一つずつ解けば、力を暴走させずに外せるかもしれない」
「無茶を申すな。二百年以上、誰にも壊せなかった封印じゃぞ」
「俺も似たような術式は見たことがある」
「そなたは一体、何者なのじゃ?」
「六年ほど、異世界で勇者をしてた」
「…………勇者?」
「あおいと同じで、別の世界へ召喚されたんだ。俺は一年ほど前に、この世界へ戻ってきた」
あおいは言葉を失い、目の前の男を見つめた。
「本当に……そなたも召喚された者なのかえ?」
「ああ。だから、帰れないまま閉じ込められる苦しさを全部分かるとは言えない。でも、放っておくことはできない」
「わらわを助ければ、そなたまで危険に巻き込まれるのじゃぞ」
「慣れてる」
「そのようなことに慣れるでない」
「それもよく言われる」
「二度目じゃ!」
あおいの尻尾が床を叩く。
社全体が小さく揺れ、屋根から細かな埃が落ちてきた。
「おっと」
「み、見るでない!」
あおいは慌てて尻尾を押さえた。
和真は小さく笑った後、入口を塞ぐ魔力の壁へ手を当てた。
今度は封印を刺激しないよう、自分の魔力をゆっくりと流し込む。
複雑に絡み合った術式の中に、九つの大きな核がある。
それぞれがあおいの尻尾とつながり、魔力の動きを封じていた。
難しい術式ではある。
だが、壊せないものではない。
「時間はかかりそうだけど、外せると思う」
「……本当かえ?」
「ああ。ただし、先にあおいの意思を聞いておきたい」
「わらわの意思?」
「俺が勝手に決めることじゃないからな」
和真は魔力の壁越しに、あおいへ手を伸ばす。
直接触れることはできない。
それでも、あおいにはその手が自分へ向けられていると分かった。
「この神社から出たいか?」
あおいの瞳が揺れる。
外へ出たい。
ずっと願い続けていた。
けれど、それを口にすれば、また裏切られるかもしれない。
期待することが怖かった。
「俺は、あおいが出たいと望むなら、この封印を解く」
「失敗すれば、そなたも無事では済まぬ」
「失敗しないようにやる」
「わらわの力が暴走するかもしれぬぞ」
「その時は俺が止める」
「なぜじゃ……」
あおいは唇を震わせた。
「今日初めて会ったばかりのわらわに、なぜそこまでしてくれるのじゃ」
「助けを求める声を聞いたからだ。それじゃ駄目か?」
あおいは俯いた。
九本の尻尾が顔を隠すように集まってくる。
その隙間から、小さく鼻をすする音が聞こえた。
「……出たい」
二百年以上、誰にも届かなかった願い。
「わらわは、ここから出たいのじゃ」
あおいは顔を上げた。
水色の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「お願いじゃ、和真」
小さな両手を胸元で握り締める。
「わらわを……ここから連れ出してくれぬか?」
「ああ」
和真は迷わず頷いた。
「任せてくれ、あおい」
和真は魔力の壁へ両手を当て、改めて封印全体へ意識を広げた。
九つの核は、それぞれが独立しているように見えて、深い部分で一つにつながっている。
一つだけを強引に壊せば、残る八つへ負担が集中する。
最悪の場合、あおいの魔力が一気に逆流し、身体そのものを傷つける可能性もあった。
「九つを順番に外す。一つ解くたびに力が戻ってくるはずだ。自分で抑えられるか?」
「やってみなければ分からぬ。長い間、わらわの力は封じられておったからの」
「少しでも苦しくなったら、すぐに言ってくれ」
「途中で止められるのかえ?」
「止める。無理そうなら別の方法を考える」
「……分かったのじゃ」
あおいは九本の尻尾を身体へ引き寄せ、社の中央で座り直した。
和真は最初の核へ自分の魔力を伸ばす。
封印を壊すのではない。
あおいから水脈へ流れている魔力を徐々に細くし、その行き先を土地の中へ分散させる。
そのうえで、核と尻尾のつながりだけを切り離す。
「始めるぞ」
「うむ」
和真が術式の一部をほどいた瞬間、床に刻まれた紋様の一つが強く輝いた。
あおいの右端にある尻尾が跳ね上がる。
「っ……!」
「あおい?」
「だ、大丈夫じゃ。急に感覚が戻って、驚いただけなのじゃ」
自由になった一本が、確かめるように左右へ揺れる。
あおいはその尻尾を抱き寄せ、柔らかな毛へ頬を埋めた。
「動く……わらわの思うとおりに動くのじゃ」
幼い声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
「まだ一本目だ。次に進んでもいいか?」
「もちろんじゃ。早う頼む!」
「焦るなって」
「二百年以上待ったのじゃぞ。少しくらい焦ってもよかろう!」
「分かった。でも、無理はするなよ」
二つ目。
三つ目。
核を解くたびに、床の紋様が一つずつ消えていく。
あおいの尻尾にも感覚が戻り、重なっていた九本が少しずつ動き始めた。
四つ目を解いたところで、社の柱が大きく軋んだ。
屋根から木片が落ち、入口の魔力の壁に触れて細かく砕ける。
「封印が社を支えてたのか」
「おそらくな。このままでは、長く持たぬぞ」
和真は一度、手を止めた。
スマホを取り出してみるが、画面には圏外と表示されている。
ここから戻ってリディアたちを呼んでいては、社が先に崩れる可能性が高い。
「続けるしかないな」
「和真」
「どうした?」
「わらわのことはよい。危険になったら、そなただけでも逃げるのじゃぞ」
「それはできない」
「なぜじゃ!」
「あおいを連れ出すって約束しただろ」
「じゃが――」
「約束したばかりで破ったら、それこそ祟られそうだからな」
「このような時まで冗談を言うでない!」
怒った声とは反対に、あおいの狐耳が心配そうに伏せられる。
「心配してくれてありがとう。でも、まだ大丈夫だ」
「……絶対に無茶をしてはならぬぞ」
「ああ」
「今の間はなんじゃ?」
「何もない」
「本当かえ?」
「次に進むぞ」
「誤魔化しおったな!」
あおいの抗議を聞きながら、和真は五つ目の核へ魔力を流した。
五つ目。
六つ目。
七つ目。
封印が弱まるにつれ、あおいから溢れる魔力が急激に増していく。
小さな身体から放たれているとは思えないほど、膨大な力だった。
狐火が社の中を飛び回り、床や壁に残されていた札を次々と燃やしていく。
「苦しくないか?」
「まだ抑えられるのじゃ!」
「無理に強がってないだろうな?」
「先ほどまでとは違う。今度は本当に強がっておらぬ!」
あおいが両手を握り締める。
額には薄く汗が浮かんでいたが、水色の瞳から怯えは消えていた。
八つ目の核が解ける。
その瞬間、境内全体が大きく揺れた。
地面に亀裂が走り、朽ちた鳥居の一部が崩れ落ちる。
屋根を支えていた柱も傾き、社が大きく軋んだ。
「残るは一つじゃ!」
「ああ。でも、最後の核にほとんどの力が集まってる」
八つの流れを失ったことで、あおいから奪われていた魔力が最後の核へ集中している。
このまま切り離せば、行き場を失った力があおいへ一気に戻る。
「俺が余分な魔力を受け取る。あおいは、自分の身体へ戻ってくる分だけを抑えてくれ」
「そのようなことをすれば、そなたの身体が持たぬぞ」
「全部を受け止めるわけじゃない。水脈と土地へ少しずつ逃がす」
「失敗すればどうなるのじゃ?」
「山の湧き水が、しばらく増えるかもしれない」
「そなたの身体のことを聞いておる!」
「そっちは心配しなくていい」
「できるわけなかろう!」
あおいが魔力の壁の向こうから、和真へ手を伸ばす。
小さな手のひらが、青白い壁に触れた。
「わらわを助けるために、そなたが傷つくのは嫌じゃ」
和真も同じ場所へ手を重ねる。
魔力の壁に阻まれ、直接触れることはできない。
「大丈夫だ。一人でやるわけじゃない」
「わらわも、何かするのかえ?」
「あおいの力だろ。最後は自分でも制御してもらう」
「わらわに、できるじゃろうか」
「できる。二百年以上、この土地を支えてきたんだろ?」
「望んでしていたことではないのじゃ」
「それでも、あおいの力で水が残った。空色唐辛子荘の湧き水も、ずっと枯れなかった」
祖父が残した畑も、果樹も、周囲の土地も。
気づかないうちに、あおいの力に支えられていた。
「だから、今度は自分のために力を使うんだ」
「自分のため……」
「外へ出るために使え」
あおいは自分の手を見つめた。
やがて涙を拭い、小さく頷く。
「分かったのじゃ」
九本の尻尾のうち、自由になった八本が大きく広がった。
「わらわは、外へ出る」
「ああ」
「和真とともに、この神社を出るのじゃ!」
「その意気だ」
和真は最後の核へ魔力を集中させた。
幾重にも重なる術式を、一つずつ解いていく。
あおいの魔力を奪い続けていた流れが細くなり、代わりに和真の魔力が水脈へ入り込む。
荒れた流れを整え、周囲の土地へ広く分散させる。
「今から最後のつながりを切る!」
「うむ!」
和真が術式を引き離した。
最後の紋様に亀裂が走る。
次の瞬間、社の中から凄まじい魔力が噴き上がった。
「くっ……!」
「力が……!」
あおいの九本目の尻尾が大きく跳ね上がる。
解放された九本の尻尾が一斉に広がり、社の壁と屋根を激しく揺らした。
「力が溢れておるのじゃ……止まらぬ!」
「あおい! 全部を押さえ込もうとするな!」
「じゃが、このままでは!」
「俺の魔力を感じろ! そこへ重ねるんだ!」
和真は魔力の壁へ両腕を押し当てた。
あおいから溢れた力を受け止め、自分の魔力とともに水脈へ流していく。
庭の湧き水へつながる流れ。
山の木々へつながる流れ。
乾いた土や、弱った草花へつながる流れ。
一か所へ集中していた膨大な力が、細い支流へ分かれるように広がっていく。
「あおい、今だ!」
「分かったのじゃ!」
あおいが九本の尻尾を大きく広げる。
暴れていた魔力が尻尾へ集まり、次第に穏やかな光へ変わっていった。
青白い光が社を満たす。
やがて入口を塞いでいた魔力の壁に、一本の亀裂が走った。
甲高い音とともに、亀裂が全体へ広がっていく。
和真が一歩後ろへ下がった直後、魔力の壁が無数の光の粒となって砕け散った。
境内を覆っていた重苦しい空気が消える。
止まっていた風が戻り、周囲の木々が一斉にざわめいた。
遠くから鳥の鳴き声も聞こえてくる。
「……終わったのかえ?」
「ああ。もう、あおいを閉じ込めるものはない」
あおいは開かれた入口を見つめた。
そこには札も、魔力の壁もない。
足を前へ出せば、それだけで外へ出られる。
それなのに、あおいは動かなかった。
「どうした?」
「……怖いのじゃ」
九本の尻尾が、小さな身体を包み込む。
「外へ出たかった。ずっと、ここから出たいと思っておった。じゃが、いざ何もなくなると……足が動かぬ」
二百年以上、越えられなかった境界。
自由になったからといって、積み重なった恐怖まで消えるわけではない。
和真は社の入口まで進み、あおいへ手を差し出した。
「それなら、一緒に出よう」
「一緒に……?」
「ああ。一人で越える必要はない」
あおいは差し出された手を見つめた。
触れれば、また騙されるかもしれない。
外へ出た途端、拒絶されるかもしれない。
そんな不安が、水色の瞳を揺らしていた。
それでも、あおいは恐る恐る手を伸ばした。
小さな指先が、和真の手へ触れる。
今度は何にも阻まれなかった。
「……温かいのじゃ」
「外も今日は暖かいぞ」
「手を離してはならぬぞ」
「分かった」
「絶対じゃぞ?」
「ああ」
和真が手を握ると、あおいはようやく最初の一歩を踏み出した。
右足が社の外へ出る。
続いて、左足。
九本の尻尾も境界を越え、日の光を受けて白銀と水色に輝いた。
山の風が、長い髪と柔らかな毛を揺らす。
「あ……」
あおいは目を見開いた。
木々の間から差し込む陽光。
頬を撫でる風。
草木の匂い。
空を飛ぶ鳥の声。
どれも社の中から見聞きしていたはずなのに、直接感じるものはまるで違っていた。
「外じゃ……」
水色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「わらわ、本当に外へ出られたのじゃ……」
「ああ」
「夢ではないのじゃな?」
「夢じゃない」
あおいは和真の手を握ったまま、何度も周囲を見回した。
九本の尻尾が、抑えきれない感情を表すように大きく揺れている。
「空が広いのじゃ!」
「木で半分くらい隠れてるけどな」
「それでも広いのじゃ! 風も、こんなに気持ちがよかったのじゃな!」
あおいは笑った。
先ほどまでの落ち着いた表情は消え、見た目どおりの幼い笑顔を浮かべている。
その直後、背後から大きな音が響いた。
「危ない!」
封印の力を失った社が、一気に傾いた。
和真はあおいを抱き寄せ、その場から飛び退く。
直後、屋根と柱が崩れ落ち、辺りに土埃が舞った。
「あ……」
あおいが崩れた社を見つめる。
二百年以上、自分を閉じ込めていた場所。
憎んだことも、壊したいと願ったこともある。
それでも完全に崩れ落ちた姿を目にすると、胸の奥に僅かな寂しさが残った。
「なくなってしもうたの」
「そうだな」
「あれほど出たいと思っておったのに……不思議なものじゃ」
「長く過ごした場所だからな」
「うむ」
あおいは小さく頷いた。
和真は崩れた社の前で手を合わせる。
あおいも隣に並び、静かに目を閉じた。
「今度、片づけに来ないとな」
「そなたがするのかえ?」
「祖父さんが手入れしてた場所だからな。放っておくわけにもいかないだろ」
「その時は、わらわも来るのじゃ」
「ああ。一緒に来よう」
和真が境内を見回すと、木々の間から差し込む陽光が橙色に変わり始めていた。
「もう夕方か。思ったより時間がかかったな」
「誰かが待っておるのかえ?」
「たぶん、心配してる」
「わらわのせいで、遅くなったのじゃ……」
「あおいのせいじゃない。俺が勝手に昼過ぎには戻るって言っただけだ」
「それは、そなたが悪いの」
「そこは否定してくれないんだな」
「できぬものはできぬ」
あおいの表情に、僅かな笑みが戻る。
「行こうか」
「どこへじゃ?」
「俺の家。さっき話した、空色唐辛子荘だ」
「狼の獣人や猫又たちがおる場所じゃな?」
「ああ」
「わらわも行ってよいのかえ?」
「ここに置いて帰るわけにはいかないだろ」
「じゃが、その者たちが、わらわを嫌がるかもしれぬ」
「大丈夫だよ。少なくとも、見た目だけで嫌うような連中じゃない」
「……そうか」
あおいは和真の隣へ並ぶ。
しかし数歩進んだところで、不安そうに足を止めた。
「どうした?」
「山を下りた後には、人間がおるのじゃろう?」
「ああ」
「この耳と尻尾を見られれば、また逃げられるのではないかえ?」
大きな狐耳が力なく伏せられる。
九本の尻尾も、身体を守るように集まってきた。
「今の人たちは、あおいを見ても本物の九尾だとは思わないよ」
「なぜじゃ?」
「コスプレだと思うから」
「こす……ぷれ?」
「物語に出てくる人物なんかと同じ格好をして楽しむことだ。作り物の耳や尻尾をつける人もいる」
あおいが自分の狐耳へ触れる。
「これは作り物ではないぞ?」
「分かってる。でも、今の人たちは九尾が本当にいるとは思ってない。だから本物を見ても、よくできた衣装だと思うんだ」
「これほど大きな尻尾が九本もあるのにかえ?」
「むしろ、すごいコスプレだと思われるだろうな」
「今の人間は、随分と変わっておるのじゃな……」
「全員が平気とは限らないけど、いきなり石を投げられたりはしないよ」
「本当かえ?」
「ああ。それに、人通りの少ない道を選んで帰る。何かあれば俺が説明する」
それでも、あおいの表情から不安は消えなかった。
「嫌なら、もう少し暗くなるまで山にいるか?」
あおいは迷った後、和真の袖を掴んだ。
「……そなたと一緒なら、行くのじゃ」
「分かった。離れないから安心してくれ」
「約束じゃぞ」
二人は山道を下り始めた。
あおいは見るもの全てが珍しいらしく、何度も足を止めた。
頭上を飛ぶ飛行機。
遠くを走る車。
道の脇に立てられた看板。
何かを見つけるたびに、大きな狐耳が動き、九本の尻尾が揺れる。
「今、空を飛んでいった大きなものは何じゃ?」
「飛行機。人を乗せて飛ぶ乗り物だ」
「人が乗っておるのか!?」
「ああ」
「落ちぬのかえ?」
「普通は落ちない」
「普通ではない時は落ちるのか?」
「そこはあまり考えなくていい」
「気になるのじゃ!」
山道の入口まで戻ると、和真のスマホが続けて音を鳴らした。
圏外だった間に届かなかったJINEが、一斉に受信されたらしい。
リディアからは、水に含まれる魔力が急激に増えたという報告。
ひかげからは、無事なのかを尋ねる短いメッセージ。
みゆからは、何も聞いていないという怒りのメッセージが何件も届いている。
「やっぱり怒ってるな……」
「誰がじゃ?」
「昼寝してた猫又」
「寝ておったのなら、仕方がないのではないかえ?」
「本人はそう思ってないらしい」
和真は全員が入っているJINEへ、短い返信を送った。
『無事。今から帰る。神社にいた一人を連れている』
送信した直後、みゆから返事が届く。
『一人って誰!?』
続いて、フェンリスからもメッセージが届いた。
『とにかく早く帰ってきて!』
「早く戻った方がよさそうだ」
「……わらわを連れていって、本当に大丈夫なのかえ?」
「大丈夫。驚きはするだろうけどな」
二人は住宅の少ない農道を通って、空色唐辛子荘を目指した。
しばらくは誰とも会わなかった。
しかし曲がり角へ差しかかったところで、買い物袋を提げた近所の老婦人と鉢合わせた。
「ひっ……!」
あおいが和真の背中へ隠れる。
九本の尻尾が一斉に縮こまり、その一部が和真の左右から大きくはみ出した。
老婦人は目を丸くしたものの、逃げも叫びもしなかった。
「あら、和真君。今日は狐のお嬢さんと一緒なのね」
「こんにちは」
「それもコスプレっていうものなのかしら? 九本もあるなんて、ずいぶん立派な尻尾ねえ」
「そうなんです。よくできてますよね」
「本物みたいに動いてるわねえ」
老婦人が感心したように眺めると、あおいは和真の背中へ顔を隠した。
「この子、人見知りなんです」
「あらあら。じろじろ見てごめんなさいね」
老婦人は穏やかに笑い、あおいへ軽く手を振った。
「とても似合ってるわよ、狐のお嬢さん」
「…………」
あおいは戸惑いながら、和真の背中から僅かに顔を出す。
「こ、こんにちは……なのじゃ」
「はい、こんにちは」
老婦人は何事もなかったように歩いていった。
その背中が見えなくなってから、あおいは恐る恐る周囲を確認した。
「逃げなかったのじゃ」
「言っただろ?」
「化け物とも言わなんだ」
「あおいの耳も尻尾も、衣装だと思ってるからな」
「それどころか、似合っておると言われたのじゃ……」
伏せられていた狐耳が、ゆっくりと立ち上がる。
九本の尻尾も嬉しそうに揺れ始めた。
「今の世も、悪くないのかもしれぬな」
「まだ一人に会っただけだぞ」
「それでもじゃ」
あおいは僅かに笑い、再び和真の隣へ並んだ。
行きよりも時間をかけ、二人は空色唐辛子荘へ戻った。
敷地が見えてくると、あおいの足が再び止まる。
「あそこが、そなたの家かえ?」
「敷地の奥にある母屋が俺の家だ。手前の建物がアパート」
「思っておったよりも大きいのじゃ」
「昔は、もっと建物があったんだけどな」
和真が敷地へ足を踏み入れた瞬間、母屋の玄関が勢いよく開いた。
「和真!」
飛び出してきたのは、みゆだった。
腰から生えた二本の尻尾を逆立て、頬を膨らませながら和真へ駆け寄ってくる。
「みゆ、起きたのか」
「とっくに起きたよ! 山に行ったって聞いたんだけど!」
「出る前に声はかけたぞ」
「僕、寝てたじゃん!」
「返事はしてた」
「寝言だよ! あれを返事に数えないで!」
みゆは和真の前まで来ると、両手を腰へ当てた。
「起こしてよ! 山なら僕だってついていけたのに!」
「気持ちよさそうに寝てたから、悪いと思って」
「少しくらい揺すっただけじゃ起きないんだから、もっと本気で起こして!」
「次からそうするよ」
「絶対だからね!」
「分かった」
「それと、一人で危ない場所に行かない!」
「水源を見に行っただけだったんだけどな」
「リディアから、すごい魔力反応が出たって聞いたよ! 昼過ぎには戻るって言ったのに、もう夕方じゃん!」
「それは悪かった」
みゆはまだ言い足りない様子だったが、和真の後ろにいるあおいへようやく気づいた。
「……その子、誰?」
あおいは和真の背中へ隠れた。
しかし九本の大きな尻尾までは隠しきれず、和真の左右から大きくはみ出している。
みゆが尻尾を目で追う。
一、二、三と数え、九本目まで確認したところで目を見開いた。
「尻尾が九本ある!」
「み、見るでない!」
あおいが九本の尻尾で身体を包み込む。
「ごめん。でも、すごいね。僕の尻尾は二本だから、九本もあると全然違って見えるよ」
「二本……?」
あおいが尻尾の隙間から顔を出す。
みゆの腰の後ろでは、先端の分かれていない二本の尻尾が、それぞれ独立して揺れていた。
「そなたが、先ほど聞いた猫又かえ?」
「僕は猫又のみゆ。十八歳だよ」
「わらわは神崎あおい。九尾の狐じゃ」
「あおいだね。よろしく」
「うむ。よろしくなのじゃ」
挨拶を済ませたみゆの視線が、再び和真へ向けられる。
「それで、どうして山へ行った和真が、女の子を連れて帰ってくるの?」
「神社に封印されてたんだ」
「僕が昼寝してる間に、また女の子を助けてきたの?」
「好きで封印されてたわけじゃないからな」
「そういう意味じゃないよ!」
「では、どういう意味なのじゃ?」
「あおいは気にしなくていい」
「気になるのじゃ」
「和真が次から次へと女の子を連れて帰ってくるって話!」
「拾ってきたみたいに言うなよ」
「フェンリスも、ひかげも、僕も、リディアもいるじゃん!」
みゆが指を折りながら数える。
「全員事情があったんだよ」
「僕にもあったの?」
「行く場所がなくて困ってただろ」
「……まあ、それはそうだけど」
みゆは納得しかけたものの、すぐに首を振った。
「今は僕の話じゃないよ!」
みゆが再び和真へ詰め寄ろうとしたところで、母屋からリディアとひかげが出てきた。
「和真。怪我はありませんか?」
「ああ。問題ない」
「水脈から大きな魔力の変動を観測しました」
「封印を解いた時のものだ。流れは安定させたけど、念のため確認してくれ」
「分かりました」
リディアは答えながら、あおいの九本の尻尾へ目を向けた。
「これほど高密度の魔力を持つ存在は、私も初めて見ました」
「いきなり調べようとするなよ」
「まだ何もしていません」
「その目は調べたがってる目だろ」
「否定はしません」
あおいは警戒するように、さらに和真の背中へ身体を寄せた。
その隣で、ひかげが遠慮がちに頭を下げる。
「……獅子宮ひかげ、です。ミノタウロス……です」
長い前髪の上には牛の角があり、その横から柔らかな牛耳が覗いている。
「あおいじゃ」
「……よろしく、お願いします」
「う、うむ。よろしくなのじゃ」
互いに人見知りをしているのか、それだけで会話が止まった。
「フェンリスは?」
「先ほど、バイトから戻りました」
リディアが母屋の方を向いた直後、玄関からフェンリスが姿を現した。
「和真、本当に無事だったの!?」
「大丈夫だって」
「リディアから魔力が急に増えたって聞いたんだよ! 僕、今から探しに行こうとしてたんだからね!」
「心配かけて悪かった」
「次から一人で勝手に行かないでよ」
「みゆにも同じことを言われた」
「当たり前でしょ!」
二人分の視線を向けられ、和真は素直に頭を下げた。
「次からは気をつける」
「本当だね?」
「ああ」
フェンリスは念を押した後、和真の背中に隠れているあおいへ気づいた。
あおいもまた、フェンリスの頭にある大きな狼耳と、背後の特大の尻尾を見つめている。
「僕はフェンリス。牙狼族だよ」
「わらわは神崎あおい。九尾の狐じゃ」
「九尾……だから、尻尾が九本あるんだ」
「うむ」
「すごくふわふわだね」
フェンリスが素直に感想を口にする。
あおいの狐耳が僅かに動いた。
「そなたも、そう思うのかえ?」
「うん。僕の尻尾より大きいかも」
フェンリスが自分の特大の尻尾を横へ並べる。
一本の大きさならフェンリスの尻尾も負けていないが、あおいにはそれが九本ある。
縁側の前が、一気に白銀の毛で埋め尽くされた。
「おお……そなたの尻尾も見事じゃな」
「触ってみる?」
「よいのかえ?」
「うん。代わりに、僕もあおいの尻尾を触っていい?」
「そ、それは……」
あおいが和真を見る。
「俺に聞かれても困る」
「親しくない者には触らせぬと言ったばかりじゃからな……」
「それなら、仲良くなってからにしよう」
「うむ。そうするのじゃ」
フェンリスが笑いかけると、あおいの警戒も少しだけ薄れた。
「立ち話もなんだし、中に入ろう」
和真が母屋の玄関へ向かう。
あおいも後へ続こうとしたが、九本の尻尾が一斉に戸口へ引っかかった。
「むっ……」
前へ進もうとするたび、尻尾同士が押し合って広がってしまう。
「入れぬのじゃ」
「尻尾を一度に通そうとするからだよ」
「では、どうすればよい?」
「身体を横にして、尻尾を何本かずつ通してみたらどうだ?」
あおいは和真に言われたとおり、身体を横へ向けた。
九本の尻尾を数本ずつまとめ、慎重に戸口へ通していく。
「待つのじゃ。今ので全部入ったかえ?」
「あと一本残ってる」
「どれじゃ?」
「一番右だ」
「九本もあると、時々分からなくなるのじゃ……」
最後の一本が入ったところで、あおいはようやく玄関をくぐった。
しかし、九本の尻尾が廊下の大半を埋めてしまう。
「これは、室内での動き方を考える必要があります」
リディアが真剣な表情で呟いた。
「外出時のこともあります。あおい専用の不可視化装置を製作しましょう」
「ふかしか……?」
「耳と尻尾を、周囲から見えなくする道具です」
あおいが九本の尻尾を見回す。
「これほど多くても、隠せるのかえ?」
「既存の装置では出力が足りません。九本分に合わせた専用品を一から設計します」
「妙なことにはならぬじゃろうな?」
「安全性を確認してから渡します」
「リディアに任せておけば大丈夫だよ」
和真がそう言うと、あおいは少し迷ってから頷いた。
「ならば、任せるのじゃ」
「承知しました」
「でも、今日は作らなくていいからな。リディアも少し休め」
「まだ疲れていません」
「そう言って、また食事を忘れるだろ」
「今日は忘れていません」
「まだ夕飯前だからな」
和真が止めなければ、今から工房へ戻ってしまいそうだった。
全員が母屋の居間へ集まる。
あおいは勧められた座布団へ座ったものの、知らない者たちに囲まれて落ち着かないのか、九本の尻尾で自分の周囲に壁を作っていた。
「詳しい話は、夕飯を食べながらにしよう」
「夕飯……」
「あおいも食べるだろ?」
「わらわの分もあるのかえ?」
「もちろん」
「じゃが、わらわは突然来たばかりじゃぞ」
「母屋でみんなと食べるのが、ここでは当たり前になってるからな。一人増えたくらいなら、どうにかなる」
「……そうか」
あおいは俯きながら、自分の袖を握った。
誰かと食卓を囲んだのがいつだったのか、もう思い出せない。
「今日は僕とひかげで作るよ」
フェンリスが立ち上がる。
「和真は野菜を洗うのと、皿を並べる係ね」
「そこまで念を押さなくても分かってるよ」
「前に切らせたら、大きさが全部ばらばらだったでしょ」
「食べれば同じだろ」
「火の通り方が変わるんだよ!」
フェンリスに注意されながら、和真も台所へ向かう。
すると、あおいが慌てて立ち上がった。
九本の尻尾を引きずりながら和真の後を追い、その服の袖を小さく掴む。
「どうした?」
「その……」
あおいはフェンリスたちの視線を気にしながら、僅かに頬を赤らめた。
「もう少しだけ、一緒におってもよいかの……?」
「いいけど、俺は野菜を洗うだけだぞ」
「それでもよい。わらわも手伝うのじゃ」
「料理はできるのか?」
「……二百年以上しておらぬ」
「それは、できないのと同じじゃないか?」
「昔はできたのじゃ!」
「分かったから、まずは野菜を洗おう」
「うむ!」
あおいは和真の袖を掴んだまま、台所までついていく。
九本の尻尾も嬉しそうに揺れ、その後ろをついていった。
それを見送ったみゆが、不満そうに頬を膨らませる。
「……なんか、もう懐いてない?」
「二百年以上も一人だったんだって」
フェンリスが小さな声で答える。
みゆの二本の尻尾から力が抜けた。
「それは……寂しかっただろうね」
「うん。だから今日は、好きなだけ和真のそばにいさせてあげようよ」
「今日だけ?」
「……しばらくは」
「フェンリス、今ちょっと迷ったよね?」
「迷ってないよ」
「尻尾が止まってるけど」
「止まってない!」
二人が言い合う横で、ひかげが台所を見つめる。
あおいは和真から離れようとせず、その袖を大切そうに握り続けていた。
不安が完全に消えたわけではない。
外の世界が、どのような場所なのかもまだ知らない。
それでも、二百年以上閉ざされていた時間は終わった。
朽ちた神社を出た九尾の狐は、その日初めて、新しい居場所へ足を踏み入れた。




