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新世界編 最終話

「ナオキ……様?」

 セリアがおずおずと手を伸ばすが、その手は青年の体をすり抜けた。


「触れられないですよ。これは彼の『前世の記憶』ですわ」

 ツカサが冷静に分析する。

「……ルカ達も協力してくれて、外から魔力を供給してくれているのを感じます。この記憶のどこかにいる『彼の魂の根源』を見つけ出して、外に出してあげる必要がありますわね」


その時、部屋の風景が、万華鏡のように急速に歪み始めた。

 時間が、巻き戻っていく。


「きゃあっ!?」


視界が晴れたとき、三人は眩い太陽の下にいた。

 そこは、小学校の校庭だった。


「おい、直樹! パスだ、パス!!」

「よっしゃ、任せろ!」


三人の目の前を、一人の少年が風のように駆け抜けていった。

 十歳ほどの、小林直樹。


「……あ、あの子、ナオキ、だよね?」

 アイリは、自分の目を疑った。


そこにいたのは、彼女たちが知る、どこか達観して冷ややかなナオキではなかった。

 誰よりも大きな声を上げ、太陽のような笑顔を浮かべ、クラスの中心で仲間を引っ張る、圧倒的なリーダーシップを持った少年。


「あいつ、足速すぎだろ! またリレーの選手確定だな」

「直樹がいるクラスは、何やっても勝てる気がするよな」


周囲の子供たちが、羨望と信頼の眼差しで彼を見ている。

 エゴが強く、積極的で、自分のやりたいことを大声で主張し、それを現実に変えていく力を持った少年。どんなに批判されようと、実力でクラスメイトをねじ伏せていく。


「……信じられません。ナオキ様に、これほど陽の気が満ち溢れていた時代があったなんて」

 セリアが愕然と呟く。


「……ポテンシャルが高い方だとは思っていましたが、ここまでとは。これではまるで」

 アイリは、複雑な表情で少年直樹を見つめている。ツカサが、隣に立つアイリを見た。


「……うん、私みたい」

 アイリがぽつりと呟いた。

「自分の力がすべてだと信じて、周りなんて関係なく、トップを走り続ける……。ナオキの本質は、私と同じ、強烈なエゴイストだったんだ」


だが、その輝かしい光の時代は、あまりにも唐突に終わりを告げた。

 風景が、再び歪む。



*****



湿った空気。鉛色の空。

 三人は、先ほどとは違う小学校の、薄暗い下駄箱の前に立っていた。


そこには、すっかり怯えきり、周囲の視線を気にして俯きながら歩く直樹の姿があった。


「……何があったのですか? わずか数年で、これほど人が変わるなんて」

 セリアが悲痛な声を上げる。


ツカサが、少年の魂の記憶から情報を読み取る。

「……引っ越し、したみたいですわ。環境が変わり、彼はこの学校で『余所者』になった。そして……」


三人の前で、記憶の再生が始まる。


教室の隅で、数人の生徒が一人の気の弱そうな少年を囲み、暴力を振るっていた。

 周囲の生徒は、関わらぬように目を逸らしている。


そこへ、直樹が、かつての正義感のままに割って入った。


「やめろよ! そんなことして、何が楽しいんだ!!」


直樹は、いじめられている子を庇い、いじめっ子たちに立ち向かった。

 かつての彼なら、ここでクラスメイトが味方してくれたかもしれない。だが、ここは彼のホームではない。


いじめっ子のリーダー格が、冷ややかな笑みを浮かべた。


「……ハッ。何だお前、ヒーロー気取りか? 転校生のくせに、うぜえんだよ」


次の瞬間。

 庇われていたはずの少年が、いじめっ子側に寝返り、直樹の背中を強く蹴飛ばした。


「……え?」


直樹が床に這いつくばる。

 庇った少年は、いじめっ子たちに媚びるような笑みを浮かべながら、直樹を見下ろした。


「……僕、こいつに唆されただけだよ。こいつが、お前らを懲らしめようって……」


「なるほど。じゃあ、次からはお前が標的ターゲットだ、小林」


教室中の生徒が、直樹を憐れむような、あるいは関わりたくないと突き放すような目で見ていた。

 誰一人として、彼を助けようとする者はいない。


「あ……あ……」


直樹の口から、声にならない嗚咽が漏れた。

 正義感は、偽善として処理された。

 善行は、余計なお世話として弾かれた。


彼が彼であることを証明していた『強い自分』が、この瞬間、社会によって完全に否定されたのだ。


「……っ、そんな理不尽な話、ありますか……!!」

 セリアが、短剣を握りしめ、過去の幻影に向かって飛び出そうとする。


「待って、セリア! 今の私たちはただの精神体、彼らに触れることはできないわ!」

 ツカサが止める。


「でも! ナオキ様が、あんな……!!」


セリアが泣き叫んだ、その時だった。


風景が、下駄箱から、ナオキの『自宅』へと切り替わる。

 そこは、学校よりもさらに過酷な、息の詰まるような戦場だった。



*****



風景が、引っ越した先の、ナオキの『実家』へと切り替わる。

 そこは、学校よりもさらに過酷な、息の詰まるような戦場だった。


ガチャリ、と玄関の扉が開く。

 いじめられ、制服を泥だらけにした直樹が、重い足取りで帰宅した。


「ああもう、本当に腹が立つ! お義父さんもお義母さんも、どうして私の言うことを一つも聞いてくれないのよ!」


リビングから響いてくるのは、母親のヒステリックな金切り声だった。

 直樹がリビングを覗き込むと、母親がテーブルをバンバンと叩きながら、誰に宛てるでもない愚痴を延々と吐き出し続けている。父親の姿はない。彼はほとんど家に帰ってこない、家庭を顧みない男だった。


「母さん……あのね、僕……」

 直樹は、泥だらけの服を隠すようにしながら、縋るような声で母親を呼んだ。助けてほしかった。今日、学校でどれほど理不尽な目に遭ったかを、一番の味方であるはずの母親に聞いてほしかったのだ。


だが、母親は直樹の泥だらけの姿を一瞥しただけで、ため息をついた。


「直樹、服を汚して帰ってこないでっていつも言ってるでしょ! 洗濯するのは私なんだからね! はぁ……本当に、誰も私の苦労なんて分かってくれないんだから……。ねえ直樹、聞いてよ。今日もお義父さんがね……」


「……う、うん」


直樹は、制服の泥をギュッと握りしめ、自分に向けられるはずだった「助けて」という言葉を、喉の奥へと飲み込んだ。

 母は、自分のことで精一杯だ。僕が苛められているなんて言ったら、母さんはもっと壊れてしまうかもしれない。


その時、リビングの扉の隙間から、年の離れたまだ小さい妹が冷ややかな目でこの惨状を見つめているのに気づいた。

 両親の不仲、祖父母との確執、そして愚痴をこぼし続けるだけの母親。

 妹の瞳には、大人に対する、そして人間という生き物に対する強烈な『軽蔑』と『不信感』が宿っていた。彼女が自室に引きこもり、不登校になるまで、そう時間はかからなかった。


「……誰も、頼れない」


夜。自室のベッドの上で、直樹は膝を抱えて丸まっていた。

 学校では標的にされ、家庭は崩壊寸前。逃げ場はどこにもなかった。

 まだ十歳そこそこの子供が背負うには、あまりにも重すぎる孤独。


 ツカサは、かつての自分の姿を直樹に重ねていた。

 ツカサもまた、両親が他界した後、周囲の期待と重圧を一人で背負い、誰にも弱音を吐けずに心を擦り減らしてきた人間だった。だからこそ、今の直樹がどれほどの絶望の中で自分の首を絞めているのかが、痛いほどに分かった。


(あなたは……優しすぎますわ、直樹)

 ツカサの声は、いつもの凛としたものではなく、涙を堪えるような震えを帯びていた。


(弱音を吐いてもいいのです。子供が、大人の顔色を窺って、自分の痛みを隠す必要なんてない。……あなたは、やさしすぎます)


だが、現実の過去の歴史は残酷にも書き換わらない。

 彼が歩んだ『自己犠牲という名の修羅場』の記憶は、止まることなく再生され続ける。


*****


風景が、再び加速する。


小学生の高学年から、中学生へ。

 過酷な環境要因は、本来ポテンシャルの高かった直樹を、極端な方向へと適応・進化させてしまった。


『場の空気を、誰よりも早く、過敏に読み取る能力』。


「直樹くん、これお願いしてもいい?」

「ああ、任せてよ。ついでにそっちの資料もまとめておくね」

「うわー、助かる! さすが直樹!」


教室での直樹は、いじめられっ子ではなくなっていた。

 彼はその高い能力を使って、クラスの誰もが嫌がる仕事を率先して引き受け、怒っている人間の地雷を的確に避け、孤立している弱い立場の生徒にはそっと手を差し伸べる。

 まるで潤滑油のように、クラスの人間関係を完璧にコントロールしていた。


「……一見すると、クラスの人気者に戻ったように見えますが……これは……」

 セリアが、直樹の様子を的確に察する。

「……違いますわね。あの頃の、太陽のように輝いていたリーダーシップとは全く別物です。彼は今……『自分の意見』を、ただの一度も発していません」


ツカサの言う通りだった。

 直樹は、誰に対しても愛想笑いを浮かべ、相手が望む答えを瞬時に導き出して口にするだけ。そこに「小林直樹の意志」は一ミリも存在しない。

 家庭でも、学校でも、彼は『他人の感情』を優先するあまり、自分という人間を完全に殺す術を身につけてしまったのだ。


それが最も顕著に表れたのは、部活動の試合中だった。


「小林! なぜそこでお前が打たない!!」


コートの端で、顧問のコーチが激昂していた。

 直樹は、敵陣のゴール下まで完璧なドリブルで切り込みながら、シュートを打てる絶好のタイミングで、わざわざ別のチームメイトにパスを回したのだ。結果、パスを受け取った生徒はシュートを外し、試合には負けた。


試合後、コーチが直樹を呼び出し、肩を掴んで怒鳴る。


「お前はセンスがある! なのに、どうしていつもあそこでパスを出すんだ! もっと自分を出せ! エゴを出して、自分で点を決めに行けと言ってるだろうが!!」


「……すみません。僕より、あいつの方がシュートがうまいので。そのほうが勝てると思って」

 直樹は、感情の読めないのっぺりとした笑顔で答えた。


「そういう次元の話をしてるんじゃない! お前には、自分が打ちたいって欲がないのか!」


怒り狂うコーチを前にしても、直樹の心は凪のように静まり返っていた。


(……欲? エゴ?)

 直樹は、心の中で冷ややかに呟く。

(そんなものを出さなくても、試合に勝てるならそのほうがいいだろう。何を言ってるんだろう、このコーチ)


アイリ、ツカサ、セリアの三人は、その直樹の内面モノローグを直接聞き、言葉を失った。


「どうして……こんな、空っぽな……」

 アイリが、口元を押さえて震える。


彼は、誰かを守るために自分を犠牲にしているのではない。

 『自分という存在の価値』を、とうの昔に放棄してしまっているのだ。


その後、進路希望調査の紙を前にした直樹の姿が映し出される。

 白紙のプリント。

 将来の夢。やりたいこと。なりたい職業。

 何一つ、思い浮かばない。何も欲しくない。


「……だから、ナオキ様はあの『白い部屋』の赤いタイマーの加速に、抗わなかったのですね。【神の罠】だと、気づいていたのに」

 セリアが、絶望的な事実のピースが繋がったことに気づき、戦慄した。


『自分以外の誰かが助かるなら、喜んでこの身を差し出そう』。

 あの時、ナオキが神のシステムと交わした悪魔の契約。

 それは、彼の魂が、すでにこの時点で『自分を殺すこと』に完全に適応しきっていたからだ。

 自分がどうなってもいい。自分には何の価値もない。だから、アイリたちが助かるなら、安い取引だ。

 あの究極の自己犠牲は、彼が幼い頃から積み上げてきた『諦観』と『自己否定』の集大成だったのだ。


「そんな……悲しすぎるよ、ナオキ……っ」

 アイリが顔を覆って泣き崩れる。



*****



風景が、高校生活を早送りで飛ばし、大学生となった直樹の部屋へと切り替わる。

 机に突っ伏して眠っていた直樹のスマートフォンが、無機質な着信音を鳴らした。


ディスプレイに表示された名前は、『母さん』。


直樹が電話を取った瞬間、彼の人生を決定的に、そして修復不可能なまでに破壊する、本当の地獄の幕が上がる。


大学の卒業を控えた冬。直樹のスマートフォンが、再び無機質な振動を繰り返した。


「……はい、母さん。どうしたの?」

『直樹、お願い。もうあなたしかいないの。あの子のことで、またお義父様と大喧嘩になっちゃって……。お願い、帰ってきて。妹を、助けてあげて……!』


電話越しの母親の声は、震え、縋り付くような湿り気を帯びていた。

直樹の脳裏を、内定をもらっていた一流企業のパンフレットがかすめる。自分の力で掴み取った、初めての「自分のための未来」。


「……わかった。すぐ、帰るよ」


直樹は、迷うことなくパンフレットをゴミ箱に捨てた。

そこにあったのは、かつての輝かしいリーダーシップではなく、長年の家庭環境によって培われた『父の代わり、母の盾』としての、自動的な反射だった。


「……バカですわ。本当に、大バカ者ですわ」

 ツカサが、記憶の中の直樹が内定通知書を破り捨てるのを見て、声を震わせた。

「なぜ、自分の幸せを選ばないのです。あなたが救うべきは、そんな身勝手な家族ではなく、あなた自身だったはずでしょう!」


風景が、都会の喧騒から、土の匂いが漂う田舎へと切り替わる。


そこは、直樹の祖父が支配する広大な農地だった。祖父は地域でも強力な力を持つ大地主であり、母親との不仲の元凶でもある、頑固で厳格な老人だった。

直樹は、父に代わって家族の問題を引き受け、妹の引きこもりを解消するために奔走し、荒れ果てた家族の仲を取り持つために、あえて「敵地」である祖父のもとへ飛び込んだ。


「じいちゃん、俺が跡を継ぐよ。だから、母さんたちへの嫌がらせはやめてくれ」


直樹は、スーツを脱ぎ捨て、泥にまみれた。代わりに、父、母、妹は、実家から出て別の住居を構えることで、関係性も改善された。

朝から晩まで、腰が砕けそうになるまで働き続け、気難しい祖父の罵倒を微笑みで受け流し、地域の寄り合いでは持ち前の「空気読み」を駆使して、瞬く間に村人たちの信頼を勝ち取っていった。


数年後。

直樹の農業は、奇跡的な大成功を収めていた。

最新の技術を取り入れ、販路を拡大し、祖父の土地は以前よりも何倍もの利益を上げるようになった。彼には志を共にする恋人もでき、二人で手を取り合って「幸せな未来」を築いているように見えた。


「ナオキ様……よかった。このまま、このまま幸せになれば……」

 セリアが、ナオキの隣で笑う恋人の姿を見て、安堵の涙をこぼした。

だが、その平穏は、一本の電話によって粉々に砕かれる。


『……お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃだ』


不意にかかってきた、妹からの連絡。

 引きこもりを脱し、父、母のもとも離れ、一人暮らしの大学生活を謳歌していたはずの妹の声は、冷たい怨嗟に満ちていた。


『あんたが良かれと思ってやってきたこと、全部押し付けだったんだよ。あんたが完璧に立ち振る舞うたびに、私は自分の無能さを突きつけられて死にたくなった。あんたの行動はね、私へのただの嫌がらせだったんだよ!』


「……え?」

 農作業の手を止めた直樹の顔から、さぁっと血の気が引く。


追い打ちをかけるように、母親からも連絡が入る。

『直樹、どうしておじいさんの味方をするの? 私たちの味方じゃなかったの? あの土地を継ぐなんて、私へのあてつけでしょう! あんたは結局、あの憎い家の人間なのね』


「……あ、あぁ……」


直樹の膝が、ガクガクと震えた。

 家族を繋ぎ止めるために、自分の夢を殺し、泥を啜り、必死に築き上げた「成功」。

 だが、その結果返ってきたのは、彼が一番恐れていた『拒絶』だった。


直樹は、何も言えずにスマートフォンの電源を切った。

 そして、その後。祖父が急逝する。

 すると、それをずっと待っていたかのように、妹と母親が実家へと乗り込んできたのだ。


『ちょっと、勝手に実家に入り込んで何様のつもり?』

『まだ結婚もしてないのに、勝手に小林家の農業を牛耳って、信じられない。全部私たちのものを奪って泥棒と同じじゃない!』


彼女へ向かって怒鳴り散らす母と妹。

 さらにそこへ、家庭を顧みずずっと逃げ続けていたはずの父親までもが現れ、当然の権利だというように言い放った。


『私もそろそろ定年でね。これからは実家に戻って、悠々自適に農業でもやろうと思うんだ。だから、きちんと結婚もできないなら、出ていきなさい。これからは私と母さんとあの子の三人で、この家には住むよ』


「…………っ」


バラバラだった家族は、直樹からすべてを奪い、彼を追い出すという目的においてのみ、皮肉にも「家族の絆」を取り戻して結託したのだ。


こうして直樹は、手塩にかけた農業を無理やりたたむことを余儀なくされた。

 急な事業の撤退による違約金や、設備投資の借金だけが直樹の肩に重くのしかかる。

 だが、絶望はそれで終わらなかった。


『勝手に事業をやめるなんて無責任だぞ! 今までの取引はどうするんだ、地域への謝罪はどうした!』


昨日まで「若き功労者」と称えていた地域の人々も、掌を返して彼を泥棒のように罵った。

 直樹が必死に育ててきた農地は、農業の素人である両親たちの管理不足であっという間に荒れ果て、その「村の不利益」の責任すらも、すべて直樹のせいにされたのだ。


「……嘘、でしょ。こんなの、あんまりだよ……!!」

 アイリが絶叫し、その場に崩れ落ちた。

「ナオキが何をしたっていうの!? ただ、みんなを助けようとしただけじゃない! なんで、なんで全部奪われて、悪者にされなきゃいけないの!?」


直樹は、すべてを失い、ボロアパートの一室にいた。

 手元に残ったのは、膨大な借金と、働き詰めでボロボロになった肉体だけ。


そんな直樹の背中を見つめていた、隣にいたはずの恋人が、ついに重い口を開いた。


『……直樹。ごめん、もう無理』


直樹が、ゆっくりと振り返る。

 彼女の目には、もう直樹への愛情など微塵も残っていなかった。あるのは、厄介者を見るような浅ましい幻滅だけ。


『私、あなたのこと、本当は好きじゃなかったのかも。ただ、若くして成功して、頑張っている姿が立派に見えただけで……。というか、あなたの家族のために、あなたの自己犠牲のために、私はいるんじゃないの。私は、自分が幸せになりたい。さようなら』


「…………」


直樹は、引き止めることができなかった。

 彼の手は、あまりの心労に感覚を失い、ただ力なく膝の上に置かれていた。


実家を追い出され、恋人に捨てられた直樹は、最後に残された僅かな希望に縋った。血の繋がった親戚たちだ。

 だが、彼を待っていたのは冷たい拒絶だった。


『お前の勝手な借金をこっちに持ち込むな!』

『せっかくの農地を荒れ地に変えやがって。お前のせいで一族の面汚しだ!』


バタンッ、と目の前で無情に閉ざされるドア。

 直樹は、そのドアに向かってただ深く、感情を殺して頭を下げ続けた。


「ナオキ様がどれだけの血の滲むような努力でその土地を蘇らせたか! 彼がどれほど身を粉にして尽くしてきたか! それを奪い、搾取し、用済みになれば捨てるなど……万死に値します!!」

 セリアが、怒りのあまり歯を食いしばり、血の滲む拳を握りしめた。


セリアは、アパートの隅で真っ暗な画面を見つめている直樹――絶望の淵にいる、「主人」の背中へと歩み寄る。


 セリアは、伝わらないと分かっていても、直樹の冷たくなった背中にそっと触れた。


「……ナオキ様」


「 あなたが流した汗も、泥まみれになった手も、誰かを救いたいと願ったその心も、すべて私は知っています。誰も認めなくても、私が……この私が、あなたの忠実な影として、永遠に証明し続けます」



*****



その後、直樹は大学時代の友人を頼り、都会の小さな企業に拾われることになった。

 そこからの彼の働きぶりは、異常だった。

 睡眠時間を削り、誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで残業する。持ち前の「空気を読む力」と「他人のために自分を殺す力」を極限まで発揮し、彼は瞬く間に会社にとってなくてはならない存在となった。


「直樹、お前本当にすげえよ! おかげで今回のプロジェクトも大成功だ。俺たち、最高の親友だな!」


友人は直樹の肩を叩き、満面の笑みで称賛した。

 直樹もまた、クマのひどい目で「役に立ててよかったよ」と微笑み返す。

 これでいい。自分が少し無理をすれば、居場所がもらえる。波風が立たない。


だが、その薄氷の上に成り立った平穏も、長くは続かなかった。


ある日、会社で致命的なデータの流出ミスが発覚する。

 原因は、その友人のずさんな管理体制だった。だが、重役会議の場に引きずり出された直樹の前で、友人は青ざめた顔でこう言い放ったのだ。


『すべて、この小林が独断でやったことです! 彼は最近、精神的におかしくて……! 私は止めたんですが!』


「……は?」

 ツカサが、信じられないものを見るように目を見開いた。


会議室の冷たい視線が、一斉に直樹に突き刺さる。

 直樹は、隣で震えながら自分を売った友人を見た。友人は、直樹と目を合わせようとせず、ただ「頼む、俺には守る家族がいるんだ、お前はまた転職できるだろ」と口パクで訴えかけていた。


その瞬間。直樹の中で、何かが『プツン』と音を立てて千切れた。


反論すれば、友人の人生が終わる。

 自分が被れば、ここですべてが終わる。


「…………はい。すべて、僕の責任です。申し訳ありませんでした」


直樹は、深く頭を下げた。

 怒りも、悲しみもなかった。ただ、『やっぱりそうか』という、冷たい納得だけがあった。

 家族も、恋人も、親友も。自分という人間は、誰かの都合の良い防波堤として消費され、最後には捨てられるために存在しているのだ。


会社をクビになり、友人からはブロックされ、直樹は再び一人になった。


「……愚かですわ」


その冷たい会議室の幻影の中で、ツカサが静かに歩み出た。

 彼女は、肩を落として会社を去っていく直樹の横顔を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「どうして……どうして、そんなに簡単に自分を安売りするのですか。あなたは、誰よりも優秀で、誰よりも真摯に生きてきたはずなのに!」


ツカサは、かつて転生前の世界で、理不尽な社会のシステムや人間の醜いエゴと戦い続けてきた。だからこそ、直樹のこの「自己犠牲」が許せなかった。

 彼女は、直樹の前に立ち塞がり、その両頬を両手で強く挟み込んだ。


「よく聞きなさい、直樹。世界がどれほど理不尽だろうと、人間がどれほど醜かろうと……あなたが自分自身の価値を貶める理由にはなりませんわ!」

 ツカサの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「彼らは、あなたの知性も、あなたの優しさも、受け取る資格すらない愚か者です! あなたが背負うべき罪など、一つもない!……だから、お願いですから……これ以上、自分を殺さないで……っ!!」


ツカサは、直樹の胸に顔を埋め、彼の失われた自尊心を温めるように強く抱きしめた。

 理屈ではない。ただ、彼の魂がこれ以上摩耗していくのが、見ていられなかった。



*****



風景が、切り替わった。

 三人が最初にダイブして辿り着いた、あの部屋。


散らかった部屋の中。カーテンは閉め切られ、昼か夜かもわからない。

 直樹は、PCのモニターの前に座り、焦点の合わない目で画面を見つめていた。

 引きこもりになった彼の生活は、まさに『死んだように生きている』状態だった。


食事もろくにとらず、誰とも会話せず、ただ息をして、モニターの光を浴びているだけ。

 もう、誰にも期待しない。誰にも優しくしない。誰かのために動かない。

 そうすれば、裏切られることも、傷つくこともない。



*****



風景が、切り替わった。

 すべてを失い、心身共に限界を迎えた直樹が最後にすがりついたのは、社会のセーフティネットだった。


精神科の真っ白な診察室。

 直樹は、自分がもう完全に壊れていることを自覚し、せめて「病気」という免罪符で休ませてほしいと、医者に助けを求めた。


だが、医師から告げられた言葉は、あまりにも無慈悲なものだった。


『……うつ病などの兆候は見られません。驚くほど正常ですよ、小林さん』


「……正常? 僕が、ですか?」


幼い頃から『他人のために自分を殺し、空気を読んで完璧に適応する』ことを強要されてきた直樹の脳は、心が完全に死滅しているにも関わらず、表面上は一切のエラーを出さずに「正常な人間」を完璧に演じきってしまっていたのだ。

 メンタルが強すぎたのか、それとも、とうの昔に壊れきっていて判定すらできないのか。

 医者は、カルテを閉じて冷たく告げた。「お薬を出す必要はありません。少し休めば大丈夫でしょう」と。


「……っ、ヤブ医者が! 彼の魂がどれほど血を流しているか、見えないのですか!!」

 セリアが、幻影の医師に向かって激昂し、爪が食い込むほど拳を握りしめる。


さらに、風景は役所の冷たい窓口へと移る。

 働くこともできなくなった直樹は、生活保護の申請窓口で頭を下げていた。


『小林さん。お父様はもうすぐ定年とのことですが、まだ公務員として立派に働いておられますよね? まずは、お父様の扶養に入れないか照会させていただきます』

「……父とは、もうずっと連絡を取っていません。あの家には、どうしても、頼りたくないんです」

『ですが、それが決まりですので。ご家族の援助が受けられないという証明がないと、申請は受理できませんよ』


マニュアル通りの事務的な言葉が、直樹の最後の逃げ道を塞ぐ。


さらに、農業の借金を清算するために訪れた弁護士事務所でも、現実は彼を容赦なく打ちのめした。


『自己破産ですか。……うーん、小林さんの場合、農地に関しては、ご自身の名義になっているわけですよね。実質的な価値はなくても「財産」があるということになります。これを整理して破産申請するのは……非常に困難でお金もかかりますよ』


直樹は、弁護士事務所のドアを閉め、薄暗い廊下で立ち尽くした。


「嘘でしょ……? なんで……なんで、誰も助けてくれないの……っ」

 アイリが、その残酷すぎる連続に顔を覆い、ボロボロと涙をこぼした。


「これが、現実のシステム……」

 ツカサもまた、血の気の引いた顔で呟いた。

「書類上だけで判断され、彼が背負ってきた『本当の苦しみ』は一切考慮されない。……国も、医者も、法律も。すべての存在が、彼を見捨てたというのですか……」


直樹は、薄暗い廊下の壁に手をつき、音もなく笑った。

 家族に捨てられた。恋人に捨てられた。友人に捨てられた。

 そして今、国からも、医者からも、弁護士からも「お前を助ける枠はない」と突き放された。



*****



風景が、切り替わった。

「……ここは、もしかして」

 アイリが、静かに呟いた。


直樹の魂の原点。彼が『世界を諦めた』、最終到達点。

 それは、吹き抜ける風が冷たい、とても高い橋の上だった。

 眼下には川が流れている。柵に手をかけ、吸い込まれるように暗い水面を見下ろす男の背中。

 それが、絶対的な絶望に支配された、小林直樹の惨めな最後だった。


直樹が、ゆっくりと柵を乗り越えようとした、その時。


「……待って!!」


アイリが、直樹の背中から力強く抱きついた。


「ア、アイ、リ……?」

 記憶の中の存在であり、本来なら声など届くはずのない直樹が、ハッと目を見開いて振り返る。


アイリの脳裏に、理不尽に虐げられ、すべてを奪われても他人のために生き続けた、傷だらけの少年の、青年の姿がよぎる。


「直樹は、こんなに頑張って生きたのに。誰からも与えられなかった『純粋な自己犠牲の優しさ』を、異世界に来てもまた、私にくれたんだね。……自分が空っぽになるまで他人に搾取され続けてきたのに、それでも、私の醜いエゴすらも肯定して、温かい居場所をくれたんだね」


アイリは、直樹の背中に回した腕に、さらにギュッと力を込めた。

 精神体であるはずの彼女の温もりが、直樹の冷え切った魂に、確かに伝わっていく。


「もし私に、君のその優しさがほんの少しでもあったならって……ずっと、憧れてた。心から安心できた。……私にないものを、ナオキが持っていたから」


「アイ、リ……」


「だからね、直樹。君にないエゴは、私が持ってる。君が押し殺しちゃった我儘も、生きる欲も、私が全部引っ張ってあげる!……私たちはね、ナオキの持ってる優しさで、救われたんだよ」


アイリの言葉に背中を押されるように、ツカサとセリアが進み出た。

 二人は、今まさに命を捨てようとして柵を掴んでいた直樹の冷たい手を、両手で強く、決して離さないように握りしめる。

 もう、この手を暗闇には落ちさせないという、絶対の誓い。


「だからこそ、あなたが私に『救われた』と言ってくれた言葉を、もう一度、ちゃんと君に伝えたい」


アイリは、直樹の――否、ナオキの瞳を真っ直ぐに見つめて、魂の底から宣言する。




「直樹は、もう誰かのためじゃなくて……『ナオキ』のために、生きていいんだよ」



「私は、私たちは、ナオキのために、自分を犠牲にしてでも生きるって誓う。あなたが与え続けたのに、誰からも与えられなかった、愛を、私たちが与えてみせるって、誓います」



「これからは!!私たちが、ナオキに愛を与える最初の人たちになる!!私たちと一緒に幸せになろう!!一緒に行こうよ!!ナオキ!!!」




その言葉が響いた瞬間。

 直樹の――ナオキの大きく見開かれた両目から、とめどない涙が溢れ出した。


彼女たちは。こんな惨めで、醜い自分の過去のすべてを見た上で、それでもなお「一緒に幸せになろう」と叫んでくれている。


(ああ……そうだ……俺は……)


気がつけば、ナオキは死へ向かおうとしていた柵から手を離していた。

 そして、自分を背中から抱きしめるアイリの腕を、ツカサとセリアの震える手を、縋り付くように、痛いほどに強く握り返していた。


「……っ、あ、ああぁぁぁッ!!」


声を上げて、子供のように泣きじゃくるナオキ。

そうだ、俺は【とっくに救われていた】。

その全部の暖かさを、今思い出した。


彼が吐き出した、彼自身の幸せを願うその強烈な産声が。

 凍りついていた絶望の魂を、ついに臨界点へと到達させた。


――パリンッ!!!!


世界に、巨大なヒビが入る音がした。


冷たい風が吹き抜ける橋の上の景色が。

彼を飲み込もうとしていた真っ黒な川面が。

そして、これまで彼を呪いのように縛り付けてきた、理不尽な絶望の記憶のすべてが。


まるで巨大なステンドグラスが砕け散るように、無数の光の粒子となって天高く弾け飛んだ。


闇が晴れ、訪れるのは眩いほどの『夜明け』。

崩れ去った虚無の空間を塗り潰すように、ナオキの魂の最奥から、かつてないほど巨大で、圧倒的に温かい黄金の光の柱が立ち昇る。


それは、過去の亡霊が終わりを告げ。

ただ一人の愛されるべきナオキが、真の意味で魂の再誕を果たした、祝福の光だった。

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