新世界編 第十二話
光の道を抜け、ルカが全員を抱えたまま勢いよく床に転がり込んだ。
直後、背後の空間が弾け、神の領域へと繋がっていたゲートが完全に消滅する。
「はぁっ、はぁっ……! 戻った、戻ったっすよ!」
「ルカ、ありがとう……っ! よくやってくれましたわ!」
息を切らすルカから解放され、アイリとツカサが崩れ落ちるように床へ座り込む。
だが、安堵の時間は一秒も与えられなかった。
「……マズい。マズいわよこれ」
ミヤビが血相を変え、空中に展開していた無数の演算ウィンドウをバシバシと弾き飛ばしながら叫んだ。
「白い部屋のシステムを完全に破壊した影響で、この世界の『スキル』『魔法』『魔素』『魔脈』……ありとあらゆる超常の力が急激に失われている! 世界の理が崩壊し始めてるんだ。私の演算能力も、もう消えちゃいそう……!」
「ミヤビ!スキルが消える前にナオキ様を診てください!!」
世界の崩壊など心底どうでもいいと言わんばかりに、セリアが怒鳴りつけた。
彼女の腕の中には、力なく首を垂れ、ピクリとも動かないナオキの体が抱えられている。
「ナオキ……!? 嘘、どうして……っ」
「あなた……! 目を開けてくださいませ!」
アイリとツカサも慌ててすがりつく。だが、ナオキは空虚な目で虚空を見つめ、口からツーッとよだれを垂らすだけで、彼女たちの声に一切の反応を示さない。
ミヤビは急いでナオキの額に手を当て、残された演算能力を振り絞って彼の内部をスキャンした。
数秒後。ミヤビの顔から、スッと血の気が引いた。
「……精神が、完全に崩壊している。魂の容量も中身も……ほとんど残ってない。今のナオキは、空っぽの肉体だけが呼吸している状態だわ……」
「なっ……!?」
絶句するアイリたちをよそに、セリアがゆっくりと立ち上がり、殺意の籠もった冷たい目をトウヤに向けた。
「……おい、トウヤ」
「ひっ……!」
「あなたのその『真実の魔眼』とやらで、ここまで見えていたのではないですか? ナオキ様が、こんな……完全に心を壊されてしまう結末が。もし知っていてあの空間に行かせたのなら!……絶対に、絶対に、許しませんよ」
セリアの手に、短剣が握られる。
トウヤは青ざめた顔で首を激しく横に振った。
「ち、違う! 俺の魔眼でも、あの『白い部屋』の中までは見通せなかったんだ! 俺に見えていたのは、アイリさんとツカサさんを救出して、全員がここに帰還できる『一番確率の高いルート』だけだ! ナオキさんが犠牲になるなんて、俺は……っ!」
トウヤの悲痛な叫びに嘘はない。それを悟ったセリアは、ギリッと唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「セリアちゃん……」
「謝っている暇はありません。アイリとツカサとの感覚共有ラインが体から急速に消えていくのが私にも分かります。もし……スキルが消え失せる前に、ナオキ様の魂を無理やり引き戻す【感覚共有ライン】を試すなら、今しかありません。やりますよ」
セリアの提案に、ツカサがハッとして顔を上げた。
「……本来なら、完全に崩壊した精神への強制接続は、私たちまで発狂しかねない危険な賭けです。ですが……私たちが記憶を失う中、一人ナオキのそばに居続けてくれたあなたを、私は信じますわ」
「セリアちゃん……」
アイリも、セリアの手を両手でギュッと握りしめた。
「記憶なくしてたとき、態度悪くてごめんね。……ううん、その前だって、無意識に新人扱いして、嫌な態度取っててごめん。私も、セリアちゃんを信じる。ナオキを、絶対に取り戻す……!」
「……ふん。妻として、当然の提案をしたまでです」
セリア、アイリ、ツカサ。
三人はナオキを囲むように座り、互いの手を重ね合わせた。
彼女たちの胸にあるのは、ただ一つ。ナオキという一人の男を、心の底から愛しているという強烈な想い。
消えゆく魔力を最後の一滴まで振り絞り、三人の記憶と愛情を一本の光の束にして、螺旋状に編み上げていく。
「「「いけぇぇぇぇッ!!」」」
螺旋状の光のラインが、ナオキの胸の中心へと突き刺さる。
(ナオキ!)(あなた!)(ナオキ様!)
三人の悲痛な祈りが、空っぽの虚無の底に沈んでいたナオキの魂の残骸に、チリッ、と触れた。
「……あ……」
ナオキの焦点の合わなかった目に、わずかに光が戻る。指先が、ピクンと震えた。
「ナオキ……ッ!」
アイリが歓喜の声を上げようとした、まさにその瞬間だった。
『『『――全世界ニ告グ。システム中枢ニ壊滅的損傷ヲ確認。全テノスキル・魔法・システム機能ガ完全停止へ向ケテ進行中』』』
『『『並ビニ、世界ノ修繕プロトコルヲ開始。対象領域ノリセットニ伴イ、全生命体ヲ一時的ニ【別世界(別次元)】ヘ強制転移サセマス』』』
空気を震わせるような、機械的なシステムアナウンスが世界中に鳴り響いた。
「なっ……ワープですって!?」
「ラインが……消えちゃうっ! 待って、まだナオキが戻りきってないのに!!」
三人が繋いでいた螺旋のラインが、パキパキと不吉な音を立てて砕け散りそうになる。
直後、部屋の中に巨大な竜巻のような突風が吹き荒れ、アイリたちの体が不可視の力に引っ張られて空中に浮き上がりそうになった。
「きゃあああっ!」
どこへ飛ばされるかも分からない。このままでは接続が強制的に引き剥がされ、ナオキの心は永遠に虚無の底へ置き去りにされてしまう。
その絶望的な強風の中で、ルカが大剣を床に突き立て、血を吐くような咆哮を上げた。
「ししょおおおおおおおおおおおおッ!!」
ルカの体から、残り火のような最後のチートの光が爆発的に溢れ出した。
彼女が発動したのは、【叛逆の愚者】。理不尽なシステムそのものに真っ向から抗う、彼女だけの特異な力。
「強制転移なんて、キャンセルしてやるっすよ!!そのラインも、絶対に守り抜くっす!!」
ルカの放った光の網が、宙に浮きかけた全員の体だけでなく、砕け散りそうになっていた『螺旋のライン』をも強引に絡め取り、この空間に繋ぎ止めた。
直後、視界がすべてを焼き尽くすような純白の光に包まれた。
「……んっ、うう……」
光が収まり、静寂が訪れた。
アイリが恐る恐る目を開けると、そこは先ほどまでと変わらない、見慣れたホテルの一室だった。
絨毯の感触も、壁の模様もそのままだ。
「……助かった、のか?」
トウヤがよろけながら立ち上がる。だが、窓の外を見たミヤビが、息を呑んで後ずさった。
「みんな……外を見て」
ミヤビの言葉に全員が窓へ駆け寄る。
眼下に広がる街の景色。建物も、道路も、止まったままの車もすべてそのまま存在している。
ただ一つ、『人間』だけが、どこにもいなかった。
「誰も……いない」
「あー……やっちまったっす」
息も絶え絶えのルカが気まずそうに頭を掻いた。
「とっさに守っちゃったっすけど、自分たちだけを対象から弾き出すのが精一杯だったっす……。ごめんなさい、みんなと一緒に別世界に飛んだほうが良かったかもしれないっすね……」
「謝る必要はありませんわ、ルカ」
ツカサが静かに首を振った。
「あのまま得体の知れない世界へ飛ばされていれば、この感覚共有ラインが切れていました。それに……」
ツカサは周囲を見渡す。
「人間は消えましたが、建物や物資はすべてそのまま残されています。魔法やスキルが消えそうな今、インフラがいつまで持つかは分かりませんが、当面の食料や寝床に困ることはありません」
「はい。この世界線に元からいたミヤビ姉ちゃんや、ニーナたちが飛ばされてしまったのは心配ですが……まずは、ナオキさんを元に戻すのが先決です」
トウヤの言葉に、全員が深く頷いた。
「……ナオキ様」
セリアが、ベッドに横たえられたナオキの頬をそっと撫でる。
ルカの力によってギリギリで維持された『感覚共有ライン』。魔法が世界から消えゆく中、これが本当に最後のチャンスだった。
途切れかけた螺旋の光を、三人は自らの魂を削るようにして再び強く紡ぎ直す。
(ナオキ……! もう、一人で背負わないで……!)
アイリから流れ込むのは、陽だまりのように温かく、すべてを包み込む純粋な愛情。
(必ずあなたの帰る場所を守り抜きます……!)
ツカサから注がれるのは、理屈を超えた底知れぬ愛情と、共に歩み続けるという揺るぎない覚悟。
(絶対に、手放しはしません……!)
セリアから叩き込まれるのは、己の罪悪感すらも飲み込むほどの、重く、深く、執念深い忠誠と愛。
性質の違う三つの強烈な想いが、絡み合い、光の奔流となってナオキの胸の中心へ――氷のように冷え切り、果てしない時間を漂っていた虚無の深淵へと、一気に流れ込んでいく。
「「「届いてぇぇぇぇっ!!!」」」
三人の魂からの叫びが、弾けた。
その瞬間、ナオキの体をビクンと大きく跳ねさせたのは、かつてないほどの巨大な『熱』だった。
そして。
ドクン、と。
ナオキと三人を繋いでいた『感覚共有ライン』が、不吉な黒と赤が混ざったような淀んだ色に脈打った。
「え……?」
アイリが顔を上げた、その瞬間。
ナオキの魂の底に溜まっていた泥のような『記憶』と『絶望』が、繋がったままのラインを逆流し、三人の脳髄へと一気に濁流となって雪崩れ込んできたのだ。
「な、なに、これ……っ!!」
「あ、ああああっ!?」
「ぐっ、うあぁぁぁっ!!」
三人の視界が、強制的に暗転する。
次に彼女たちの脳裏に叩き込まれたのは、絶対的な『無音』と『漆黒』。そして、空中に浮かぶ血のように赤い『00:21:03』というデジタルの数字だった。
――(俺の魂を消費していい! だから、あいつらが消滅するのを……止めてくれッ!!)
ナオキの血を吐くような祈りの記憶。
直後、システムが告げる『現実の一秒=主観時間の一年』という悪魔の宣告。
三人の脳の処理領域に、ナオキが体験した途方もない長さの『主観時間』の感覚が直接叩き込まれる。
一日。一ヶ月。一年。十年。五十年。
一秒たりとも進まない赤い数字を見つめ続ける、発狂しそうなほどの孤独。自分の心音だけが鼓膜を叩き、幻覚の虫が皮膚を這い回る狂信的な悪寒。
(痛いっ、ああっ、かゆい、痛いっ!!)
アイリの細い腕に、ナオキが自分の腕を血まみれになるまで掻きむしった『幻影の痛み』が走る。
そして、感覚遮断の果てにナオキの脳が生み出した、最悪の防衛本能(幻覚)が三人に襲いかかった。
『本当に無能な人。結局こんな暗闇で泣き喚いてるだけなんて』
『あなたのような凡人に頼った私たちが愚かでしたわ。あなたは最初から、私たちに相応しくないゴミだったのですよ』
「ち、ちがう……っ! 私は、そんなこと言わない! 言わないよぉっ!!」
「やめて……やめてください……っ!」
アイリとツカサが、ナオキの記憶の中で冷酷に彼を罵倒し、ドロドロに溶け崩れていく自分自身の姿を見せつけられ、絶叫する。
自分たちが、ナオキの精神を削り、追い詰めていた幻影。
『お断りします。こんな醜い廃人に仕える義理はありません。さようなら、無能な元・ご主人様』
「……っ!! あぁ、あぁぁぁ……っ!!」
セリアもまた、光の中へ歩み去っていく自分自身の背中と、暗闇に取り残されて「行かないでくれ」と泣き叫ぶナオキの声を聞き、床を掻きむしって慟哭した。
そして時間は加速する。
記憶が溶け、感情がすり潰され、自分が人間であることすら忘れていく過程。
一年経って、ようやくタイマーが『02』に減った瞬間に――完全に脳が処理を放棄し、よだれを垂らして壊れたように笑い続けるナオキの姿。
永遠にも等しい時間の中。彼がただの「肉の塊」へと成り果てていく全記録。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
バチンッ! と。
許容量を超えた絶望の逆流によって、感覚共有ラインが強制的に弾け飛んだ。
ホテルの一室。現実世界。
カーペットの上に放り出されたアイリ、ツカサ、セリアの三人は、まるで水底から引き上げられた溺死者のように、肩を激しく上下させて過呼吸に陥っていた。
「あ、ああ……あぁぁぁ……っ」
アイリは両手で自分の顔を覆い、ガタガタと震えながらボロボロと涙をこぼし続けている。
ツカサは胃液を吐き出すように何度もえずき、セリアは自らの胸を強く掻きむしりながら、声にならない悲鳴を上げていた。
見た。見てしまった。感じてしまった。
ナオキが、たった一人であの暗闇の中で何を味わったのか。
自分たちを助けるために、どれほど絶望的な痛みを引き受け、どれほど途方もない時間をたった一人で耐え抜き……そして、壊れていったのかを。
「アイリさん!?大丈夫ですか!!」
「ツカサさん!!息を吐いて! 私の呼吸に合わせてくださいっす!」
「セリア!!落ち着いてください! !」
異変に気づいたトウヤ、ルカ、ミヤビが血相を変えて駆け寄り、崩れ落ちた三人それぞれの体を背中から強く支え、必死に呼びかける。
ルカの温かい体温に包まれ、ミヤビの冷静な声に導かれ、トウヤの制止を受けて、三人はようやくわずかに現実の呼吸を取り戻した。
「はぁっ、はぁっ……ありがと、トウヤ君……」
「アイリさん、大丈夫ですか!? 」
「ナオキは……あの暗闇の中で、何年も何十年も魂が壊れちゃうほど長い間……たった一人で、私たちが消滅するのを止めるために……心を、砕かれて……っ」
「な……?」
トウヤが息を呑む。
ツカサもまた、ルカの腕にすがりつきながら、血の気の引いた唇を震わせた。
「ええ……。私たちは、すべてを感じましたわ。彼がどれほどの絶望と孤独を味わい、そして……私たちが、どれほど取り返しのつかないものを彼に背負わせてしまったのかを」
「……私があの時、ナオキ様を置いて行ってしまったせいです。感覚共有ラインがなけらば耐えられない空間だったことは、私が一番わかっていたはずなのにっ」
セリアが、自らの腕を抱きしめるようにして、血の滲むような声で吐き捨てた。
「ナオキ様に全負担を押し付け……あんな無間地獄へ突き落とした。私たちが、彼を殺したも同然です」
重すぎる真実に、ルカたちも言葉を失う。
ベッドの上では、ナオキが虚ろな目のまま、ただ静かに天井を見つめている。
あの永遠にも等しい地獄の果てに、彼が自らの心を空にすることでしか耐えられなかったという事実が、三人の胸をナイフでえぐるように痛めつけていた。
だが、絶望して泣き崩れている時間はない。
セリアが、ナオキの胸元にまだ微かに残っている『光の残滓』を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……感覚共有ラインは、まだ、繋げます」
その言葉に、アイリとツカサがビクッと肩を震わせた。
「今ならまだ、彼の意識の最深部……あの暗闇の底でうずくまっている『本当のナオキ様』の魂に、直接触れることができるはずです。ですが……」
今までどんなことにも屈しなかったセリアの声が、初めて恐怖に震えた。
「もう一度繋げば、再びあの『絶望』が逆流してきます。先ほどは一瞬触れただけで弾け飛びましたが、今度彼を完全に引き上げるためには、あの終わらない狂気と幻覚の海に、私たち自身も身を投じなければなりません」
それは、文字通りの自殺行為だった。
狂気に呑まれれば、今度は自分たちの精神が完全に崩壊し、ナオキと同じ「抜け殻」になってしまう危険性が極めて高い。
「……耐えられると、思いますか」
セリアが、震える両手を強く握り締めながら二人に問う。
「あの、自分の心音すらノイズになる無音の狂気に。見えない虫に這いずり回られる錯覚に。そして何より……愛する彼自身から、『お前たちのせいで壊れた』と幻覚で責め立てられ続ける、あの凄惨な地獄に」
問いかけられ、アイリは自分の胸に手を当てた。
怖い。先ほど一瞬味わっただけのあの絶望すら、思い出すだけで吐き気がする。心が悲鳴を上げている。逃げ出したいと、本能が警鐘を鳴らしている。
――だけど。
アイリは、ベッドで虚ろに微笑むナオキの顔を見た。
彼は、自分たちを助けるために、あの地獄をたった一人で。
「……行くよ」
アイリが、涙を乱暴に拭い、立ち上がった。
その瞳には、かつて世界を熱狂させたトップアイドルの輝きだけではない、ただ一人の男を愛し抜く、一人の女としての凄絶な覚悟が宿っていた。
「耐えられるかどうかなんて、分かんないよ。でも、あの恐怖に……あの地獄の絶望に負ける程度の愛なら、私は最初からナオキの隣に立つ資格なんてない」
「アイリ……」
その力強い宣言に、ツカサの瞳にも、確かな熱が灯った。
「……ふっ。アイリの言う通りですね。私たちが、幻覚に屈服するはずがありません。彼の地獄ごと、この私がすべて演算し、包み込んでみせますわ。それに、私たちは、一人ではありませんから。三人でいけば、大丈夫ですとも」
ツカサが、ふらつく足に力を込めて立ち上がる。
「わかりました。メイドが主の痛みを共有するなど、当然の務め。……今度こそ、絶対に一人にはさせません」
三人は互いに頷き合い、ルカたちから離れて、再びナオキのベッドの傍らへ歩み寄った。
そして、今度こそ彼の魂を冥府から引きずり戻すため、三人の手を重ね合わせ、微かに残るラインへと全存在を叩き込んだ。
「「「――接続!!」」」
視界が、爆発的な漆黒に塗り潰された。
直後、三人の精神を襲ったのは、先ほど一瞬だけ触れたものとは比べ物にならないほどの『濃密な虚無』だった。
――主観時間、第*年目。
――主観時間、第**年目。
赤い数字が減ろうが、もう何の感情も湧かない。絶望する残骸すらない。ただ空間に浮かぶ赤い光をカメラのレンズのように物理的に映しているだけで、脳は何一つ処理しない。
心臓が血を送り、肺が膨らむだけの『肉の塊』。完全なる廃人。
三人もまた、その『永遠の刑期』を彼と共に味わい、感情の全機能を停止しそうになっていた。
思考が、白く染まっていく。
ナオキと同じように、空っぽの器になって、ただ静かに通り過ぎる時間を待つだけの抜け殻に――。
(……ダメ、だ……っ!)
薄れゆく意識の底で、アイリの魂が激しく抗った。
ここでナオキと一緒に壊れて寄り添うのは、ただの逃げだ。それでは彼を救えない。この完全にフォーマットされてしまった『真っ白な地層』に、本物のナオキはもういない。
(ツカサちゃん! セリアちゃん! もっと深くへ……っ! この虚無の底を、突き抜けるの!)
(……っ、! この時間の渦を、ショートカットしますわ!)
(ナオキ様……ナオキ様ぁっ!!)
三人は、完全に空っぽになった器(ナオキの現在)を足場にして、さらに深い精神の深淵へとダイブを敢行した。
目指すのは、システムによって破壊される前の、彼自身の原点。
絶望の地層を、ドリルで強引にぶち破るように潜っていく。
幻覚の破片。痛み。暗闇。赤い数字。
それらすべてを跳ね除け、さらに奥へ、奥へ。
この理不尽な異世界に巻き込まれるよりも前。
チートも、システムも、そして自分たちと出会うよりも、もっとずっと前の記憶。
彼が彼であった、揺るぎない本質。
ガクンッ、と。
果てしない落下感覚が唐突に終わり、三人の意識は、温かく、ひどく生活感のある空間へと着地した。
――そこは、赤い数字が浮かぶ漆黒の宇宙ではなかった。
男らしいインテリアや漫画が置かれた、少し散らかった部屋。
窓の外からは、車が走る音と、良く知っている世界の喧騒が聞こえてくる。
「……ここは……?」
アイリが、呆然と周囲を見渡す。
部屋の中心には、モニターに向かって、背中を丸めながらキーボードを叩き続けている一人の青年の姿があった。
システムに壊される前の、等身大の彼の姿。
それは、とある凡人、『小林直樹』という一人の人間の、本物の魂の在り処だった。




