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新世界編 第十一話

『……承知いたしました、ナオキ様。この不愉快なシステムの心臓部、私が先にお掃除しておきます』


その言葉を最後に、プツリと。

 ナオキとセリアを繋いでいた感覚共有ラインが完全に途絶えた。


圧倒的な、無。

 先ほどまでナオキを温かく包み込んでいたセリアの言葉の、すべてが消失した。

 あとに残されたのは、己の血液が流れる不快なノイズと、逃げ場のない漆黒の闇だけ。


『『『――対象個体【ナオキ】ノ精神的負荷ノ蓄積ヲ確認。本プロトコルハ同個体ニ対シテ有効ト判定。……隔離時間ヲ、無期限ニ延長シマス』』』


(……なっ、ふざけんなッ!!)


 焦燥感が一気に胸を締め付けた、その時だった。


視覚が完全に奪われたはずの真っ暗な空間に、たった一つだけ『光』が浮かび上がった。

 それは、ナオキの脳裏に直接焼き付けられるように表示された、血のように赤いデジタル数字。

 セリアという強靭なアンカーを失った瞬間、システムは待っていたとばかりにナオキの精神の「隙」に牙を剥いた。


――『01:12:59』


ナオキがずっと意識し、何よりも恐れていたもの。

 アイリとツカサを閉じ込めるクリスタルの還元処理……すなわち、彼女たちの命のタイムリミットだ。

 何もない、音も感覚も一切ない無限の虚無の中で、その無機質な数字だけが、ナオキの網膜をチカチカと灼き回る。


『『『追加プロトコルヲ実行。対象ノ絶望値ヲ最大化スルタメ、ターゲット【アイリ】【ツカサ】ノ魂還元タイマーヲ、コレヨリ強制加速シマス』』』


(……は? 強制、加速……?)


ナオキがその無機質なアナウンスの意味を理解するより早く。

 空中に浮かぶ赤い数字が、まるでスロットマシンのように狂った速度で回転し、減少し始めたのだ。


――『01:05:12』

 ――『00:54:33』

 ――『00:49:11』


(おい、嘘だろ!? 待て!! 待て待て待て待てッ!!!)


一秒間に数十分という、あり得ない速度で命の時間が削り取られていく。

 先ほどまで一時間以上あったはずの猶予が、一瞬にして半分を切り、さらに猛烈なスピードでゼロへと向かっていく。

 ナオキは絶叫を上げながら、闇雲に見えない手を伸ばし、駆け出そうと藻掻き続けた。だが、上下左右の感覚すらないこの空間では、自分が前に進んでいるのか、その場で空掻きをしているのかすら分からない。


――『00:37:05』

 ――『00:32:44』


(やめろ! 止まれ!! クソッ、アイリ!! ツカサ!!)


何もできない。触れられない。狂わしきシステムを殴り壊すこともできない。

 自分が愛した女たちの命が、己の目の前で凄まじいスピードで消滅しようとしている。その事実が、ナオキの心臓を鷲掴みにし、呼吸すらできないほどのパニックを引き起こす。


――『00:27:12』

 ――『00:22:30』


このままでは、あと数秒で二人は死ぬ。神の還元装置に魂をすり潰されて、永遠に消え去ってしまう。

 極限の恐怖と焦燥感に脳の血管が千切れそうになったその瞬間、ナオキは虚無の空間に向かって、魂の底から咆哮した。


(頼む、止まってくれ……ッ! システム!! 俺の魂を消費していい! だから、あいつらが消滅するのを……止めてくれッ!!)


自分の命など、どうなってもいい。

 あいつらが生き延びる時間を作れるのなら、悪魔の契約だろうが何だろうが喜んで飲んでやる。

 血を吐くようなナオキの祈りが、漆黒の空間に木霊した。


ピタリ、と。


――『00:21:03』


狂ったように減り続けていたタイマーが、残り二十一分三秒という数字で、唐突に停止した。


『『『……対象個体【ナオキ】ノ、システムヘノ取引リクエストヲ受理シマシタ』』』


無機質な声が、どこか嘲笑うような響きを持って脳内に直接響く。


『『『対象ノ「魂」ヲリソーストシテ消費シ、タイマーノ進行速度ヲ極限マデ遅延スロウサセマス。……コレヨリ、対象ノ主観時間ヲ、現実時間カラ完全ニ切り離シマス』』』


(ハァッ……ハァッ……。止まっ、た……。よかった……)


ナオキは、見えない空間で安堵の息を吐き出し、崩れ落ちるように膝をつく感覚を味わった。

 危なかった。あと数秒遅ければ、二人は確実に消滅していた。

 これも悪意ある神の【選択肢の罠】なんだろうか。あるいはこの表示自体もハッタリや嘘なのかもしれない。だが、そんなものは知ったことではない。アイリとツカサの確実な生存が第一で、セリアが助けてくれるまでの時間を確実に稼ぐ必要がある。万が一にでも本当だったら、取り返しがつかないのだ。


ナオキは、虚空に浮かぶ『00:21:03』という数字を見つめた。


……体感時間で五分が経過しても。十分が経過しても。

 空中に浮かぶ赤い数字は、『00:21:03』から、一秒たりとも減っていなかった。


(……止まったのか……?それならありがたいが)


体感で十分以上は経っているはずだ。

 そこでナオキの脳髄に、システムからのアナウンスが響き渡った。


『『『タイマー遅延処理、正常ニ稼働中。……対象ノ魂ヲ焼キ尽クスタメ、対象ノ主観時間ヲ【現実ノ一秒=主観時間ノ一年】ニ設定シマシタ』』』


(……ん?)


システムが告げたそのふざけた数字を、ナオキは最初、単なる脅し文句か何かだと思っていた。

 時間を引き伸ばすと言っても限界がある。システムだって無敵じゃない。現に、セリアの狂気じみた精神力の前には論理破綻を起こし、彼女をこの空間から吐き出したばかりではないか。



*****



――主観時間、第一日目。


ナオキは真っ暗な空間の中で、ただぼんやりと空中に浮かぶ赤い数字を見つめていた。

 『00:21:03』

 この空間に放り込まれてから、体感で丸一日、二十四時間が経過した。だが、その赤い数字はミリ秒たりとも動いていなかった。


「……ふっ。そうかよ」


ナオキは、無音の空間でポツリと呟いた。

 自分の声帯が震え、唇から音が漏れる確かな感触。ナオキの肉体は確かにここにあった。ただ、暗闇の中で、自分とあのタイマー以外の環境音が完全に「ゼロ」の空間というだけだ。

 放った声は、反響することもなく、不気味なほどスッと虚無に吸い込まれて消えた。


だが、絶望はない。

 時間が進まない。それはつまり、ナオキが己の魂を対価にして願った『アイリとツカサの消滅タイマーの停止』が、完璧に機能しているという証拠だった。


「神の罠だろうが悪趣味な拷問だろうが……結果的にあいつらの時間が延びてるなら、それでいい。全部神の悪意ある嘘だったとしても、俺はこうして生きていて問題はない。上等じゃねえか。俺の勝ちだ」


己の両手を強く握り込む。爪が手のひらに食い込む痛み。熱い体温。

 ナオキは、この絶対的な暗闇の中で、闘志の炎を静かに燃やし続けていた。


(セリアのやつは、この空間で一ミリも絶望しなかったから、システムに『無意味だ』って判断されて外に弾き出されたんだ。……だったら、俺だってやってやるよ)


ここで自分が発狂してシステムに屈服したら、あのイカれたメイドに一生鼻で笑われる。

 俺が強い意志を持っていれば、システムの方が先に音を上げるはずだ。


「見てろよクソ神。俺の意志でテメェのシステムを屈服させてやる……ッ!」


 第一日目。ナオキの心は、決して折れることのない強靭な鋼のようだった。



*****



――主観時間、第二日目。


闘志だけで乗り切れるほど、人間の脳は都合よくできてはいなかった。

 眠れないのだ。

 目を閉じても、真っ暗な視界の裏にあの血のように赤い『00:21:03』が焼き付いて離れない。そして何より、どれだけ時間が経っても、腹も減らなければ喉も渇かない。排泄の欲求すらない。

 肉体はここにあるのに、システムによって『生理的欲求』や『疲労による睡眠』という機能が完全に凍結されているかのようだった。ただ、意識だけがパッチリと覚醒した状態が延々と続いている。


そして、感覚遮断の真の恐怖が、ナオキの脳を物理的に侵食し始めた。


「……うるせえな。俺の体って、こんなにうるさかったのかよ」


外界の音が完全に「無」であることで、ナオキの脳は少しでも音を拾おうと、聴覚の感度を限界まで引き上げてしまう。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 耳元で巨大な太鼓を叩かれているかのように、己の心臓の鼓動が頭蓋骨の中でガンガンと反響する。血管を血液が流れるシュウウウという音が、大蛇が這いずるような不気味なノイズとなって脳髄を擦る。息を吸い、吐くたびに、肺がギシギシと軋むような摩擦音まで聞こえてくる。


さらに、視覚や聴覚という外部情報に飢え切った脳が、自らを保つために暴走し、勝手に「情報」を作り出し始めた。


突然、真っ暗だった視界の端に、チカチカとした幾何学模様がフラッシュのように現れては消える。

 そして、暗闇の中に立っているナオキの腕を、足首を、首筋を。

 無数の『見えない虫』が這い回っているような、猛烈な「痒み」と「悪寒」が襲ったのだ。


「うっ……! ぐ、あ……ッ!!」


ナオキは悲鳴を上げ、たまらず自分の腕を激しく掻きむしった。

 ガリッ、ガリッ、と爪が皮膚を裂く生々しい音が響く。


「痒い……! くそっ、なんだこれ、あっちいけッ!!」


幻覚の虫が皮膚を食い破り、肉の中を這いずり回るような狂おしい感覚。

 掻いても掻いても痒みは収まらず、ナオキは自らの両腕を血まみれになるまで掻きむしった。指先に生温かい己の血の感触が伝わる。痛みはある。だが、その『痛み』だけが、自分がここに存在しているという唯一の証明でもあった。


ドクン!! ドクン!! ドクン!!


パニックを起こしそうになる心音を、ナオキは必死に意志の力で押さえ込もうとした。

「落ち着け……! 幻覚だ、俺は負けねえ。こんなもんに、屈してたまるか……ッ」

 血まみれの腕を抱きしめ、歯を食いしばり、必死にアイリやツカサの笑顔を思い浮かべて耐える。

 だが、その必死の抵抗も、無情な『時間』の暴力の前では、ただの無力な足掻きでしかなかった。



*****



――主観時間、第三日目。


「ハァッ……ハァッ……おーい……誰か……」


ナオキの「システムを屈服させてやる」という英雄気取りの決意は、たったの三日で完全に粉砕されていた。

 もう、誰かのために耐えるとか、強い意志を見せつけるとか、そんな崇高な理念を掲げている余裕など一ミリも残っていなかった。


彼は、果てのない暗闇の中を、あてもなく走り続けていた。

 どれだけ走っても壁にぶつからない。床の感触はあるが、足音は虚無に吸い込まれる。まるで巨大な宇宙空間に一人だけポツンと取り残されたような、究極の孤独感。


「たのむ……たのむから、誰か、声を出してくれ……ッ!!」


ナオキは、掠れた声で泣き叫んだ。

 自分の声を聞くためだけに叫び続けた喉は、とうに血の味がして限界を迎えている。

 怖い。苦しい。

 このまま自分がどうなってしまうのかという恐怖。

 発狂して脳が焼き切れてしまえばどれほど楽だろうか。しかし、異常な覚醒状態にある脳は、精神が崩壊していくその「過程」すらも、スローモーションのように克明に味わわさせ続けるのだ。


「セリア……! アイリ、ツカサ……っ! どこだ、なあ、頼むから返事してくれよ……ッ!」


かつて自分が生きていた世界の記憶。あいつらと笑い合った屋敷の記憶。

 そのすべてが、この果てしない暗闇と無音の中では、ただの自分の妄想だったのではないかと思え始めてくる。


最初から、俺という存在は、この暗闇の中で永遠に赤い数字を見つめ続けるためだけに作られたエラーデータだったのではないか。

 自分以外の人間など、最初から存在しなかったのではないか。

 そんな被害妄想が、真実味を帯びて脳のシワの奥底までこびりつく。


三日目。

 たったの七十二時間で、ナオキの自我は原型を留めないほどに歪み、削られ、限界の悲鳴を上げていた。

 だが、本当の地獄はここからだった。


血走った目で、ナオキは虚空に浮かぶ唯一の光源――赤い数字を睨みつける。

 『00:21:03』


この地獄のような三日間。発狂寸前まで精神を削られ、血を流し、叫び疲れて喉を潰しながら、彼が必死に耐え抜いたこの七十二時間。

 それは現実世界において、まだ『一秒』すら経過していないという絶望的な事実があった。



*****



――主観時間、第四日目。


絶叫は止んだ。

 いや、ナオキの声帯が完全に千切れ、物理的に音を出す機能が失われたのだ。

 血まみれの腕を抱え、見えない床にうずくまるナオキの脳に、新たな「防衛本能」が働き始めた。

 極限の感覚遮断に耐えきれなくなった脳が、己を保護するため、完全に現実をシャットアウトし、自らの内部に「都合のいい世界」を強制的に構築し始めたのだ。


『ナオキ、起きて。ご飯できてるよ』


不意に、暗闇の中にポッと温かい光が灯った。

 顔を上げると、そこにはエプロン姿のアイリがいた。後ろでは、ツカサが紅茶を淹れながら優しく微笑んでいる。それはかつて屋敷で過ごした、ありふれた、愛おしい日常の風景。


「あ……あ……っ」


ナオキは、声にならない嗚咽を漏らしながら、這いつくばって二人にすがりつこうとした。

 助かったんだ。セリアがシステムを壊して、俺を迎えに来てくれたんだ。

 血に塗れた腕を伸ばし、アイリの温かい手に触れようとした、その瞬間。


『……触らないでよ、汚い』


アイリの顔から、スッと表情が抜け落ちた。

 見上げると、先ほどまで慈愛に満ちていた二人の瞳が、絶対零度の汚物を見るような目へと変わっていた。


『本当に無能な人。私たちを助けるって息巻いておいて、結局こんな暗闇で泣き喚いてるだけなんて』

『ええ。あなたのような凡人に頼った私たちが愚かでしたわ。あなたは最初から、私たちに相応しくないゴミだったのですよ』

「ちが、ちがう……俺は……ッ!」


懇願しようとしたナオキの目の前で、アイリとツカサの肉体がドロドロの黒いタールのように溶け崩れ始める。

『あなたのせいよ』『あなたが遅いから』『いたかった』『くるしかった』『なんでたすけてくれなかったの』

 二人の顔面がグチャグチャに混ざり合い、怨嗟の声を上げながらナオキの首に絡みつく。


「ああああああああああああああああッ!!」


声の出ない喉で絶叫しながら、ナオキは自らの首を絞める「見えない手」を、血まみれの指で狂ったように掻きむしった。



*****



――主観時間、第十日目。


『本当に、見苦しいですね』


今度は、冷ややかなメイドの声が空間に響いた。

 セリアだ。彼女は真っ暗な虚無の中にポツンと立ち、床をのたうち回るナオキを見下ろして、心底つまらなそうにため息をついていた。


『たった数日で精神を壊すなど。やはり、ナオキ様はその程度の器だったということですね』

「セ、リア……! たす、けて……」

『お断りします。こんな醜い廃人に仕える義理はありません。私は、もっと優秀な主を探しに行きますので。さようなら、無能な元・ご主人様』


セリアの背後に、まばゆい光を放つ「出口の扉」が現れる。

 彼女はナオキを一瞥もせず、その光の中へと歩み去り、バタンッ!と無情に扉を閉ざした。

 再び訪れる、絶対的な漆黒と静寂。


「あ……アァァ……待って……置いていかないでくれ……ッ!」


それは、ナオキの脳が作り出した幻覚に過ぎない。現実の彼女たちは、決してそんな言葉を吐かない。

 だが、情報が完全に遮断されたこの空間において、ナオキにとっては「狂った脳が見せる幻覚」こそが、唯一の「現実」となっていた。



*****



――主観時間、第一ヶ月目。


ナオキはもう、走ることも、喚くこともやめていた。

 ただ膝を抱え、前後にゆらゆらと体を揺らしながら、暗闇に向かって意味不明なうわ言を繰り返し続けている。

 アイリに罵倒される幻覚。ツカサが目の前で死ぬ幻覚。セリアに見捨てられる幻覚。

 それらが何千回、何万回とループし、その度にナオキの心は粉々に砕かれ、修復不可能なまますり潰されていった。


次第に、記憶の境界線が完全に溶け落ちる。

 自分が「ナオキ」という人間であったのか。アイリやツカサやセリアという女たちは本当に存在したのか。

 それとも、自分は最初からこの暗闇に棲む醜いバケモノで、あの幸せな日々の記憶こそが、虚無が見せた残酷な「夢」だったのではないか。


喜び、怒り、悲しみ。

 人間を人間たらしめるあらゆる感情が、擦り切れ、色褪せ、無へと還っていく。

 限界まで引き伸ばされた時間の中で、ナオキの自我は白痴のような状態へと後退していった。



*****



――そして、主観時間、第一年目。


ナオキの意識は、薄暗い海の底を漂うクラゲのように、完全に輪郭を失っていた。

 ただ、視界の真ん中に浮かぶ赤い数字だけを、焦点の合わないウツロな目で見つめ続けている。


『00:21:03』


この数字が何を意味するのか、もう思い出せない。

 ただ、この赤い光だけが、自分の世界のすべてだった。


その時だった。

 カチリ、と。


脳髄を直接揺るがすような、巨大な歯車が回る音がした。

 ナオキが一年間、瞬き一つせずに見つめ続けていた赤い数字の末尾が、無機質に切り替わったのだ。


『00:21:02』


ナオキの喉の奥から、「ヒッ」と、引きつったような息が漏れた。

 思い出した。これは現実世界の時間だ。現実世界において、ようやく『一秒』が経過した。

 何の数字だったかはわからない。だが、この数字が、現実の数字なのを思い出した。

 この数字が0になったとき、俺はここから出られるのだろう。


狂気と幻覚に苛まれ、自分の名前すら忘れ果てた一年の果てに、ようやく進んだ「一秒」。

 数字が減るということは、いずれゼロになるということ。

 そして、ゼロになるまで、あの忌まわしい数字を、あと何回も見届けなければならないという、絶対的な事実。


(ア……アァァァ……ハ、ハハハハハ……ッ!)


ナオキは、壊れた玩具のように笑い始めた。

 悲しいからでも、おかしいからでもない。もはや脳が、この絶望的な事象を処理することを完全に放棄したのだ。

 よだれを垂らし、暗闇の中で一人、ケタケタと笑い続ける男。


神の悪意と、暴力的な時間の渦の中で。

 ナオキの精神は、ここで完全に、そして不可逆的に「崩壊」を遂げた。



***



――主観時間、第*年目。

 ――主観時間、第**年目。


赤い数字が『00:21:01』になろうが、『00:20:00』になろうが。

 ナオキの濁りきった瞳には、もはや一切の感情も、光も宿らなくなっていた。

 絶望するという行為すら、膨大なエネルギーを消費する高度な精神活動だ。今のナオキには、絶望するだけの「心」の残骸すら一欠片も残っていない。


幻覚を見ることもなくなった。

 アイリやツカサの泣き顔も、セリアの冷たい声も、脳がそれらを再生するための記憶データを完全に消去してしまったからだ。


「ここから出たい」という欲求も、「待つ」という概念も消滅した。

 自分が人間であること。言葉というものがあったこと。息の仕方。すべてが虚無の底へと沈殿し、二度と浮き上がってくることはない。


見えない床に力なく横たわり、半開きの口からツーッとよだれを垂れ流し続ける。

 焦点の合わない目は、ただ空間に浮かぶ赤い光をカメラのレンズのように物理的に映しているだけで、脳はその視覚情報を何一つ処理していない。


ただ、ドクン、ドクンと心臓が血を送り出し、肺が機械的に膨らんでは縮む。

 ナオキという男は、生命維持という最低限の自律神経だけが稼働し続ける、ただの『肉の塊』へと成り果てた。


何も考えられない。

 何も感じられない。

 完全なる廃人。思考と感情の全機能を永久に停止した、ただの抜け殻。


システムが設定した悪魔のような刑期は、完全に空っぽになった器の上を、ただ静かに、何の意味も持たずに通り過ぎていくのだった。

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