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新世界編 第十話

ゲートに飛び込んだ瞬間、世界を構成する「ことわり」が根底から裏返った。


物理法則という名の絶対的なルールが剥がれ落ちる。鼓膜を打つ風切り音も、床を蹴った足の確かな感触も、肺を満たしていた空気の重みすらも、唐突にブツリと途絶えた。


「――っ!?」


声を上げようとしたナオキの視界で、自身の腕が奇妙なブレを起こした。

 血肉と骨で構成されていたはずの腕が、瞬きをする間に、無数の細かい立方体――発光するポリゴンの集合体へと変貌していく。

 指先から肩へ、足先から胴体へ。己の肉体が、まるで荒い解像度の3Dモデルにダウングレードされたかのように、カクカクとした四角いブロックの羅列へと分解されていくのだ。


隣のセリアも同様だった。彼女の翻るメイド服装備も、握りしめた短剣も、すべてが無機質な文字列と数字の羅列に還元され、情報の束となって光のトンネルの中を流れていく。


その過程に痛みはない。だが、自分が血の通った「生き物」から「データ」へと強制変換される、名状しがたい絶対的な嫌悪感があった。

 心臓の鼓動がゼロとイチの明滅にすり替わり、血液の循環がデータの転送プロセスへと書き換えられていく。自らの命そのものが、上位存在のシステムに『ただの処理オブジェクト』として読み込まれ、スキャンされていく暴力的な感覚。


視界が激しく反転し、上下左右の概念すら狂う情報の奔流を抜け――ドンッ、と。


唐突に、足の裏に「硬い床」を踏みしめる感触が戻った。

 バラバラのポリゴンに解体されていたナオキとセリアの身体が、目にも留まらぬ速度で再結合され、データ状態のまま、肉体の形を為す。


無限に広がる、白い無の空間。

 本来なら重力すら存在しないはずの神の領域が、システムが侵入者である彼らを「排除対象」として認識し、仮初めの足場と物理法則を急造したのだろうか。

 叩き出されたそこは、決して静寂の神域などではなかった。


純白だったはずの空間は、異物の侵入を検知したことで、おびただしい数の『血のように赤い文字列』によって埋め尽くされ、激しい点滅を繰り返している。


『『『【【【 ⚠ FATAL ERROR・CRITICAL WARNING ⚠ 】】】』』』

『『『《《《 ――特級警戒態勢。未承認ノ魂【2】ノ不法侵入ヲ検知―― 》》》』』』


「……チッ、出迎えの音楽にしては趣味が悪いな」


脳髄を直接殴りつけるような、鼓膜を劈く爆音のシステムアナウンスに、ナオキは顔をしかめる。

 真っ赤に染まった空間がドロリと波打ち、そこから幾何学的な光の輪を背負った、巨大な『人型の何か』が次々と顕現した。


神々しい天使のようなシルエット。だが、その顔があるべき場所には何もなく、ただ不気味なノイズだけが砂嵐のように蠢いている。


『『『【マスター権限】ノ破棄ヲ確認。対象個体ニハ、当領域ニ存在スル論理的権利ガ一切アリマセン』』』


顔のない天使たちが、一斉にナオキたちを見下ろした。

 その声は、凶悪で絶対的な『殺意』を孕んだシステムの代弁者だった。


『『『コレヨリ、重度汚染データトシテ、領域内ノ全イレギュラーヲ【完全物理削除フォーマット】シマス――ッ!!!』』』


宣告と共に、顔のない天使たちが一斉に六枚の翼を広げ、ナオキとセリアに向けて純白の光を放射した。


「ナオキ様ッ!」

「くそっ!」


回避も魔法も装備も意味はなさない。視界が真っ白に染まり、次の瞬間、想像を絶する激痛がナオキの全身を駆け巡った。


(が、ぁぁあああッ!?)


熱がない。衝撃がない。肉が焦げる嫌な臭いも、流れ出る血の生温かさも、そこには一切存在しない。現実の物理法則に則った「負傷」の感覚とは根本的に異なる、ひどく無機質で、冷徹で、それゆえに狂気的な痛みだった。


指先から腕へ、そして足元から順に、己の肉体がパラパラと四角いポリゴンになって崩れ落ちていく。視界の端で、自分の身体を構成していたはずの皮膚や筋肉がデジタルなブロック片へと解体され、サラサラと砂のように虚空へ吸い込まれて消えていくのが見えた。

 存在そのものが世界から『剥離』していくような絶対的な欠落感。


次から次へと、細胞の一つ一つが、無機質なデータとして強制的に剥がれ落ちていく。その過程で生じる不協和音が、脳髄を直接、目の荒いヤスリでゴリゴリと削り落とすようにかきむしるのだ。


(あ、ァ、ァアアアァァッ……!!)


 物理的な肉体ではないのに、痛覚神経だけがむき出しにされて宙に浮き、そこに荒塩と劇薬を同時に擦り込まれているような悪夢。それと共に、肺がポリゴン化して崩れ落ち、酸素を吸い込んでいるはずなのに全く息ができないという強烈な窒息感までもがナオキを襲う。


 視界がチカチカと赤と黒に明滅し、思考が砂嵐のノイズに呑まれそうになる。自分が血の通った人間であることを忘れ、ただの文字列、ただのデータに成り下がり、神の気まぐれなデリートキー一つで永遠の虚無へと消去されてしまう恐怖。


生命の危機ではない。存在の完全抹消。

 根源から湧き上がるような、絶対的な「魂の死」。


 それはどんな肉体的な拷問よりもタチが悪く、血肉の通ったリアルさがないからこそ、逃げ場のない純粋な『苦痛の概念』として、ナオキの自我を容赦なくすり潰そうとしていた。


『『『致命的な痛みを検知しました。魂のエネルギーを対価に、痛みを削除しますか? 【YES】 / 【NO】』』』


(……痛い、痛ぇ……ッ!! 狂う、死ぬ、消える……ッ!)


限界だった。

 これまで泥水に塗れ、どんなに肉を抉られても決して折れなかったナオキの強靭な意志が、この圧倒的で無機質な痛みの奔流の前に、ドロドロに溶かされていく。


視界が真っ赤な警告色で埋め尽くされ、思考が白濁する。

 ただ、この永遠にも思える異常な苦痛から解放されたい。その原始的な生存本能だけが極限まで肥大化する。


空間に浮かび上がった、救済のウィンドウ。

 ナオキは無意識のうちに、ポリゴンとなって崩れゆく右腕を、フラフラと【YES】のボタンへと引き寄せていた。


(これを押せば……助かる。楽に、なれる……)


息も絶え絶えに、ノイズまみれの震える指先を伸ばす。

 あと一センチ。あと数ミリ。

 指先が【YES】の文字列に触れようとした、まさにその刹那だった。


(…………待てよ)


絶望と激痛で焼き切れる寸前の脳髄に、ふと、氷のような『違和感』が突き刺さった。

 ナオキの指が、ボタンの表面ギリギリの空中で、ピタリと静止する。


(なんで……わざわざ救うような『選択肢』なんか、出すんだ……?)


相手は神だ。システムそのものだ。

 本当に俺を殺したいのなら、こんな救済措置ウィンドウなど出さず、このまま問答無用でデリートすればいいだけの話ではないか。

 なぜ、ご丁寧に俺の『同意』を求めてくる?


激痛にすり潰されそうになる思考を、ナオキは歯を食いしばり、血の滲むような精神力で強引に繋ぎ止めた。

 そして、暗い記憶の底から、かつてツカサと二人で語り合った、ある『推論』を引っ張り上げる。


(……。なるほどな……!)


激痛で顔面を歪めながら、ナオキの口角が、獰猛な弧を描いて吊り上がった。


かつて、俺とツカサで立てた推論。

『神はなぜ、わざわざ初期設定(デフォルト設定)にあんな即死の罠を仕組んだのか?』

 本当にただ俺たちを殺したいだけなら、わざわざあんな回りくどいことをせずとも、直接手を下せばいい。最初は「神の悪趣味な娯楽のため」だと結論づけていたが、それにしては、あまりにも手っ取り早く『即死』させるための選択肢を多く設定しすぎていた。


そこから俺たちが導き出した答えは一つ。

 ――神はすぐにでも俺たちを殺したいが、直接手を下して殺す力がないのではないか。わざわざ俺たちを【自らの選択】で死なせる必要があったのではないか、と。


そして今、目の前に突きつけられたこの選択肢。

 肉体がポリゴンのように崩れ落ちる安っぽいエフェクトと、過剰な痛みの錯覚。今まで俺が受けてきた痛みと比べて、全くリアルじゃない。そこに被せられるように現れた、魂のエネルギーを対価にしろという悪意ある契約画面。


すべてが繋がり、ナオキの中で明確な確信に変わる。

 こいつらは、俺たちに『死』を同意させることしかできない。この痛みすら、思考を奪って【YES】を押させるためのただの『ハッタリ』だ。


【神の罠】だと完全に理解したからこそ、ナオキは一切の躊躇なく即断できた。


「……セリア!! 復元するなッ!! これは罠だ!!」


ナオキは激痛に顔を歪めながらも、残された気力を振り絞って拳を握り込み、空中に浮かぶウィンドウの【NO】を力強く殴り砕いた。


パリーンッ!!


ガラスの割れるような甲高い音が響いた瞬間。

 全身を焼いていた狂気的な激痛も、崩れ落ちていた肉体も、フッと安っぽいホログラムのように消え失せた。肩で大きく息を切らすナオキの身体には、火傷ひとつ、傷ひとつ負っていない。


「ハァッ、ハァッ……やっぱりな……! ただの錯覚ダメージだ!!」


ナオキが滝のような冷や汗を拭い、慌てて振り返ると。

 そこには、先ほどと何一つ変わらない、メイド服に焦げ目すらついていない完璧な姿勢のセリアが立っていた。彼女の足元には、すでに粉々に砕け散ったウィンドウの残骸が、光の粉となって散らばっている。


セリアはスカートの裾を優雅に払いながら、不思議そうに小首を傾げた。


「どうされましたか、ナオキ様? ひどく汗をかいておられますが」


「……お前、もしかして、俺より早く、ノータイムで選択肢を破壊したのか?」


「当然です。ナオキ様以外の者との得体の知れない契約など、私の誇りにかけてお断りいたします」


胸を張り、顔色一つ変えずに言い放つセリア。そのあまりにも堂々とした姿に、ナオキは全身から毒気を抜かれたように、ふうっと長く息を吐き出した。


「……じゃあ、もっと早く俺に教えてくれたって良かったろ。なんで黙ってたんだよ」


ナオキが半ば呆れ気味にジト目で睨みつけると、セリアはほんの少しだけ頬を染め、両手を胸元で合わせた。


「だって、ナオキ様に【極太ライン】で記憶を送られた時の……あの身の毛もよだつ痛みの『喜び』を、ナオキ様にも直接味わっていただきたくて。ちょっとした仕返しです」


セリアは悪びれるどころか、うっとりと熱を帯びた瞳でナオキを見つめ、どこか蠱惑的な笑みを浮かべる。


「おま……まだ根に持って……悪かったって」


「私としては、アレくらい激しいほうが、愉しかったですが」


「……ああ、なんていうか……」


ナオキは頭をガシガシと掻きむしり、やれやれと肩をすくめた。

 こいつの狂気的な忠誠心と、ねじ曲がった感性を忘れていた。だが、この極限の絶望空間にあって、これほど頼もしいイカれた相棒は他にいない。


ナオキの口元に、自然と獰猛な笑みが戻る。


「……さすがだよ、お前は。……行くぞセリア。こんな見掛け倒しのハッタリ野郎ども、全部蹴散らすぞッ!!」



二人が再び前へ踏み出そうとした、その瞬間だった。





『『『――第一プロトコル、破棄。対象ノ精神的耐性ヲ再計算。……【対象ヲ物理セカイノ体ヘ再構成】後、直チニ、第二プロトコル【虚無隔離ソリタリー】ヘ移行シマス』』』


足元の白い床が、突如として泥のように液状化した。


「なっ――!?」

「ナオキ様ッ!」


反射的にセリアが手を伸ばすが、届かない。

 次の瞬間、視界を埋め尽くしていた『白』が反転し、文字通りの『漆黒』へと叩き落とされた。


完全なる無音、無明の空間。

 それは、どんな肉体的な拷問よりも確実に、かつ速やかに人間の精神をすり潰す『感覚遮断』の牢獄。


常人であれば、発狂し、己の存在すら見失う絶対的な孤独。

 その真っ暗闇の脳内に、再びあの冷酷なシステムのアナウンスが直接響き渡る。


『『『精神の完全崩壊まで推定四十五分。自我が消失する前に、苦痛からの解放(魂の初期化)を希望しますか? 【YES】』』』


今度は【NO】の選択肢すら存在しない。

 逃げ場のない虚無の中で、ただ「死」という安らぎだけがポツンと甘い光を放っている。


(……なるほど。痛みで心が折れないなら、今度は何も感じさせないことで発狂させようって魂胆か。クソったれが。四十五分耐えれば、出られるのか?)


 ナオキの心は欠片も折れてはいなかった。


『――ナオキ様。聞こえますか』


無音のはずの脳内に、ひどく冷静なセリアの声が直接響いたからだ。


(……ああ。聞こえてるぞ、セリア。お前も無事か)

『はい。どうやら視界や音などを完全に遮断されているようですが、私たちには魂を直接繋ぐ【感覚共有ライン】があります。システムは、この通信網までは切断できなかったようですね』


ナオキは、見えない顔でニヤリと笑った。

 システム側は「個人を完全に孤立させた」つもりだろう。だが、精神と精神が直接繋がっているこの状態では、孤独など感じようがない。


『物理世界のノイズが一切なく、ナオキ様の声だけが直接脳内に響き渡る空間……むしろ私にとっては極上のご褒美です』

(お前なぁ……アイリとツカサを助け出すにはタイムリミットがあるんだ。こんなところで足止めを食らうわけにはいかねえんだが……どうやって抜け出すか)


だが。


漆黒の虚無。

 そこは、ただの、『タイムリミットさえなければ、何年でも耐えられる場所』ではなかった。


(……っ、なんだ、これ……!)


ナオキは、自分の異変に戦慄した。

 外部の音が一切消えたことで、代わりに「自分の内側の音」が、逃げ場のない爆音となって脳内に響き始めたのだ。


ドクン、ドクン、という心臓の鼓動が、まるで巨大な太鼓を耳元で叩かれているように響く。血管を流れる血液のシュウシュウという音。肺が膨らみ、萎むたびに擦れる不快な音。挙句の果てには、眼球を動かすたびに「ギチッ」という神経の軋む音までが聞こえてくる。


(うるせえ……黙れ、止まれ……ッ!!)


己の生命活動そのものが、精神を削り取るノイズへと変わる。

 さらには平衡感覚を司る三半規管が異常をきたし、自分が逆さまに吊るされているのか、それとも超高速で回転しているのかさえ分からず、猛烈な吐き気が襲う。


『――ナオキ様。深呼吸を。私の声にだけ、集中してください』


その脳髄をかき乱す雑音を切り裂いて、セリアの凛とした声が直接響いた。


(セリア……。助かる。……クソッ、これが『無』の正体か。自分の身体の音に殺されそうだ)


『ナオキ様には私が、私にはナオキ様がいます。……焦燥は相手の餌食です。落ち着かせるために、何かお話をしましょう。こちらの世界へ来てからの、馬鹿げた失敗談でも、何でも』


セリアの提案に、ナオキはノイズまみれの思考の中から、以前、屋敷で起こったある「事件」を引っ張り上げた。


(……失敗談、か。そういや、お前がマッサージをしてくれた時のこと、覚えてるか?)


『……ッ! あ、あれは、メイドとして一生の不覚です』


脳内のセリアの声が、微かに動揺したのが分かった。ナオキは、見えない顔でニヤリと笑う。


(あの時、俺の肩こりがひどくてさ。いくらお前が手で揉んでも、がちがちに固まってて全然良くならなかったんだよな。お前、力が全然足りねえからって……)


『……はい。ナオキ様の鉄のように硬いお体を解きほぐすため、手では無理だと判断し、床にうつ伏せになっていただき、私の足の、かかとで肩のマッサージを……』


(そうそう。お前が俺の背中に乗って、靴のかかとでゴリゴリやってたんだよな。結構効いてて俺も気持ちよかったんだけど……よりによって、そこを感覚共有で嗅ぎ付けたアイリとツカサが発見しちゃったんだよな)


『「ええええええええーーーーッ!!!」』


脳内に、かつてのアイリの絶叫が木霊した気がした。


(アイリなんか、顔真っ青にして『ナオキ、うそでしょ……Mなの?』って震えてやがったし。ツカサは『セリア、何やってるの!? 主人を踏みつけるなんて!』って、お前に掴みかかろうとして……。あの時の屋敷は、マジで修羅場だったな)


『……私はただ、ナオキ様の凝りを解したかっただけなのですが。……あの後、アイリとツカサに、マッサージの常識についてこっぴどくお叱りを受け、自分がどれほど無知であったかを痛感いたしました』


漆黒の闇の中で、二人の念話が、温かい思い出によって恐怖を上書きしていく。

 時折、視界に「存在しないはずの光の渦」が浮かぶが、ナオキはセリアの語る過去の光景に意識を集中させた。

『……ですが、私はメイドです。一度の失敗で挫けるわけにはまいりません。あの屈辱の後、私は市場にあるすべてのマッサージ本を買い漁り、人体解剖図まで取り寄せて、寝る間を惜しんで勉強いたしました』


(へえ、セリア、そんなことまでしてくれてたのか)


『はい。そして、その極上の技術を完成させるためには、どうしても……生身の「実験台」が必要でした』


(……実験台? 屋敷の誰かに試したのか?)


『まさか。ナオキ様に捧げるための技術を、他の誰かの身体で試すなどメイドの恥です。……私が実験台に選んだのは、私自身の身体です』


(……ん?)


『夜更けの自室で、一人。解剖図を広げながら、自分の身体のあらゆるツボ、筋肉の筋、神経の束を、指先で確かめていきました。……もしここを、ナオキ様の大きくて硬い指でなぞられたら、どれほど気持ちが良いだろうかと。そう、想像しながら』


(お、おい……)


『……効果は、絶大でした。ナオキ様の手を想像して自分の肌を這わせているうちに、身体の芯がじんわりと熱を持ち始め……気づけば、骨が抜かれたようにふにゃふにゃになって。……もう、自分の指先が触れるだけで、足の先まで痺れるような快感が走って……』


セリアの念話が、どこか熱を帯び、甘い吐息混じりに変わっていく。


『恥ずかしながら……その夜は、ナオキ様の手つきを想像しながら自分の身体を弄るだけで、下着がぐっしょりと濡れそぼり、朝までベッドの上で快感に震えることしかできませんでした。……ですがメイドとして、最強のマッサージ技術……いえ、ナオキ様にいつどこを触られても、最高に蕩けることができる身体の準備は、完全に整ったと自負しております』


(おま……一人で自分の身体使って何やってんだよ……ッ!)


ナオキは、セリアの語る『夜の自主訓練』の顛末に、猛烈な衝撃を受けていた。

 ナオキを想って自身の身体を弄り、快感に蕩けきったセリアのエピソード。そして、それを語るセリアの、どこか蠱惑的で生々しい声。


漆黒の闇の中、遮断されているからこそ、脳内に直接響くセリアの声は、彼女が自慰に耽る艶やかな情景までをも脳裏にフラッシュバックさせ、強烈な色気を帯びてナオキの理性を激しく揺さぶる。

 ドクン、ドクン、ドクン……。


ナオキの心臓の鼓動が、恐怖とは異なる理由で、急速に速まっていくのが分かった。

 全身が熱くなり、下半身に確かな熱が集まってくる。


(……クソッ、こんな状況で、何を……!)


己の身体の反応に、ナオキは内心で毒づく。

 だが、その身体の変化を、共有ラインで繋がっているセリアが、見逃すはずがなかった。


『――おや。ナオキ様?』


脳内のセリアの声が、ふっと熱を帯びた。


『……鼓動が、速くなっているのですか?……恐怖ではありませんね。これは、……ふふ』


セリアは、ナオキの興奮を共有ラインを通じて直接感じ取り、闇の中で、うっとりとした笑みを浮かべた。


『……アイリ様もツカサ様もいない、この漆黒の虚無空間。……ナオキ様の声も、そして、その高鳴る鼓動も、熱も。すべて、私だけのものです』


セリアの念話が、ナオキの脳髄に絡みつくように、甘く、ねっとりと響く。


『……ナオキ様のお姿を見られないのは残念ですが。……この「背徳感」と「独占欲」。……ふふ、これは、愉しい時間になりそうですね』


(セ、セリア……何を……)


『……ナオキ様。この四十五分、……私が、ナオキ様の「すべて」を、独占させていただきます』


漆黒の闇の中で、二人の魂は、恐怖を置き去りにして、歪んだ愛情と背徳感へと、深く、深く堕ちていく。




だが。




ここは漆黒の暗闇。


話の途中で、時折、ナオキの視界には「存在しないはずの光の渦」や「アイリやツカサの泣き顔」といった強烈な幻覚が浮かび、精神を揺さぶりにくる。


(……今、ツカサの声が聞こえた気がした。……いや、違う。これは偽物だ。セリア、まだ、時間は経ってないのか……?)


『まだ二十五分程度かと。……ナオキ様、私の手を握っている感覚を想像してください。実際には触れられなくても、ラインを通じて私の「体温」を感じてください』


(……ああ。あったかいな、セリアの手は)


一分が一時間にも感じられる、地獄のような静寂。

 だが、ナオキが折れそうになるたびに、セリアは平然とした声で、あるいは少しだけ茶目っ気のある冗談を交えて、彼を「現実」へと引き戻し続けた。

 

 己の鼓動の音に怯え、時間の感覚を失い、闇に呑み込まれそうになりながらも、二人は魂の糸を離さなかった。

システムが「四十五分で発狂する」と豪語した絶対的な恐怖の牢獄の中で、二人は念話を使って、呆れるほど普通に雑談を交わしていた。

 この空間の罠は『孤独によるパニック』を誘発して【YES】を押させること。二人がこうして繋がっている時点で、罠としての機能は完全に死んでいる。


(四十五分を乗り切れば出られるとも限らねえ。アイリとツカサの時間制限がある以上、いつまでもここでダベってるわけには。どうやってここから出ればいい……)



『『『――四十五分経過。対象個体【セリア】ノ自我維持ニ変動ナシ。……論理的破綻。精神崩壊ノ兆候、皆無』』』


システムの声に、明らかな「困惑」が混じる。

 直後、パリンッ! と世界が割れるような音がして、漆黒の虚無の一部だけが、まるでガラスのように崩れ落ちた。


『『『本プロトコルハ、同個体ニ対シテ無意味ト判定。……対象個体【セリア】ヲ、隔離空間ヨリ強制排除シマス』』』


(……なっ!? セリアだけ弾き出された!?)


ナオキの周囲の闇は晴れない。だが、繋がっていた【感覚共有ライン】から、セリアの気配が急速に遠ざかっていくのが分かった。

 システムは、このままセリアを隔離し続けても精神を削ることは不可能だと判断し、彼女だけを次の空間へ放り出したのだ。


『ナオキ様。どうやら、私だけ先へ進められてしまったようです』


途切れ途切れになるライン越しに、セリアの冷静な声が響く。彼女を取り巻く環境音が、無音の闇から「広い空間の反響音」へと変わっていた。


(……クソッ。セリア、俺はまだ出られそうにねえ! すまんが……アイリとツカサのこと、頼むッ!!)


『……承知いたしました、ナオキ様。この不愉快なシステムの心臓部、私が先にお掃除しておきます』


その言葉を最後に、プツリと。

 ナオキとセリアを繋いでいた感覚共有ラインが完全に途絶えた。



***



再び目に飛び込んできたのは、眩いばかりの「白」。

 セリアは、乱れたメイド服の裾を優雅に払いながら、静かに前を見据えた。


そこは広大な空間――『白い部屋』の最深部にして、システムのコア。

 前方の奥には、巨大なクリスタルのような檻の中に閉じ込められ、意識を失ったアイリとツカサの姿があった。


「……ナオキ様を闇に置き去りにするなど、万死に値するクソシステムですね。ですが……見つけましたよ、バカ女二人」


セリアがクリスタルへ向けて歩み出そうとした、その時だった。

 今までで最も分厚く、禍々しいまでの威圧感を放つ『純白の壁』が、コアを護るように立ち塞がった。同時に、視界のすべてを覆い尽くすほどの巨大なウィンドウが展開される。


『『『【最終セキュリティゲート】――認証に失敗。これより、論理的通過儀礼プロトコルを開始します』』』


無機質な声と共に、画面には四人の名前が刻まれた不気味な選択肢が浮かび上がった。


『『『当ゲートを通過し、コアを解放するには、パーティメンバーのうち【1名】の魂の完全消去フォーマットが必要です。対象を選択してください』』』


【ナオキ】

【セリア】

【アイリ】

【ツカサ】


冷徹なシステムの声が、部屋中に反響する。


『『『一人を選べば、残りの三人は救われます。誰も選ばなければ、全員がこの場で消去されます』』』


「……はぁ。また、くだらない選択肢の罠ですか」


一人残されたセリアは、吐き捨てるように言った。

 究極の選択。誰か一人を選べば、そいつが死ぬ。誰も選ばなければ、全員が死ぬ。そして、その『死』を【自らの意思で選択】させる。それが、この底の浅い神が何度も使う「絶対のルール」だ。


普通なら、ここで絶望するか、「私が犠牲になります」と自己犠牲を選ぶかの二択だろう。

 だが、セリアの瞳の奥には、獲物を狙うような極悪な光が宿っていた。


「もちろん、私は死ぬのは嫌です。ここはみんな平等に、私か、あのバカ女二人か、ナオキ様か……誰が消滅するにふさわしいか、神に決めてもらうといたしましょう」


セリアはウィンドウに向かって、冷笑を浮かべながらそう宣言した。


『『『……!? エラー。想定外ノ回答。対象個体ノ【絶望値】【罪悪感パラメータ】ガ規定レベルニ到達シマセン』』』


『『『警告。規定ノ対象ヲ選択シナイ場合ハ「誰モ選バナカッタ」ヲ【選択シタ】ト見ナシ、ルールニ則リ、コノ場ニイル全員ノ魂ヲ即座ニ消去シマス』』』


システムの無機質な声が、焦ったように最初の脅し文句を繰り返す。

 だが、セリアは鼻で笑い、空中のウィンドウを指差して言い放った。


「はぁ? ふざけないでください。私はちゃんと『選んだ』でしょう?」


『『『……? 指定サレタ対象ノ入力ヲ確認デキマセン』』』


「ですから、私は『神様が誰か一人を選んで、そいつを処分すること』を選んだのです。誰がどう見ても、選んでますよね。それなのに、勝手に私の意思を曲解して『誰も選ばなかった』ことにしないでいただけますか、このクズシステムが」


『『『……!? 論理矛盾パラドックスヲ検知。本プロトコルハ、精神的負荷ヲ伴ウ選択ニヨリ対象自ラガ引導ヲ渡スコトヲ――』』』


「負荷などゼロに決まっているでしょう。あなた、私がここに来てから、私に一度でも負荷をかけられたんですか?無能なシステムですね。 そんなんで世界のシステムをやっているのですか?そもそも処理が遅いんですよ。早く承認していただけますか?それとも、 私の【明確な意思】が承認できないとでも?それでもシステムですか?????」


『『『……警告。警告。規定外ノ進行……』』』


「ほら!!!ごちゃごちゃ言ってねえでさっさとその分厚い壁を開けろよ!!!! 私たち四人の誰かをあんたが処分するんなら、私もそっちへ入る必要があるだろうが!!!!!」


セリアが過剰にバンバンバンバンとウィンドウを短剣の柄で叩きながら煽り立てる。

 悲劇を演じさせるはずのシステムは、前提条件を完全にへし折られ、極悪非道なメイドの理不尽なクレームの前に、完全に論理破綻フリーズを起こしていた。


『『『……プ、プロトコル進行不能。代替処理ニ移行。対象ノ魂ヲ強制回収スルタメ、物理ファイアウォールヲ一時的ニ解除シマス』』』


ズゴゴゴゴ……ッ!!


システムのバグを突いたセリアの「詐欺」が功を奏した。生贄の魂を直接回収しようと、立ち塞がっていた『純白の壁』が、中央から真っ二つに割れ、ゆっくりと開いていく。


「……本当に、底の浅いシステムです」


セリアの瞳には、一切の容赦のない、絶対的な「意思」だけが宿っていた。


防壁が開ききった刹那、セリアは床を爆発的に蹴り出し、無防備になったコアの心臓部へと一気に踏み込んだ。

 そして、一直線に、最深部に鎮座する巨大なクリスタルへと到達する。


クリスタルの中では、アイリとツカサが目を閉じて身を寄せ合うように眠っていた。


「やっと見つけましたよ、バカ女たち」


セリアが短剣を逆手に構え、躊躇なくクリスタルへ向かって振り上げた、その瞬間だった。


『ナオキ!! 迎えに来てくれたんだね!!!』


セリアの脳内に、突如として復活したアイリの歓喜の声が直接響き渡った。ナオキとのラインは切れたが、ツカサによって、至近距離にいるアイリ、ツカサ、セリアの【感覚共有ライン】が繋がったのだ。


『……いえ、アイリ。ナオキはいないようですが。セリア、これは一体……』


続いて、冷静さを取り戻したツカサの戸惑う声も脳内に響いてくる。


「はぁ……。残念ながら、私だけですよ。あなたたちには、白馬の王子様より私がお似合いです」


セリアは冷たくため息をつき、無慈悲に宣告した。


「ナオキ様は、一つ前の暗闇に囚われてしまっております。……救出を急いでおりますので、まずはこの邪魔な殻をあなた達ごとぶっ壊して、中身を引きずり出しま――」


『お、お待ちください、セリア!』

『だめだめだめえええ!! セリアちゃんストップゥゥ! 割っちゃダメぇ!』


脳内に直接響く二人の必死な悲鳴に、セリアは心底つまらなそうに舌打ちをし、クリスタルの数ミリ手前でピタリと短剣を止めた。


「ツカサ。この部屋の防壁ファイアウォールは私が解除しました。とっととミヤビに向かって救難信号を出してください。帰り道を繋いで、ナオキ様を引っ張ってきて帰ります」


セリアは短剣を下ろし、呆れたようにため息をついた。


「それにしても、なんであなたたち、そんなクリスタルの中に引きこもっているんですか」


『……ここにきて記憶を完全に定着させることはできたのですが、魂の状態が不安定で。このままだとシステムに魂のエネルギーを吸収されて消滅してしまうため、クリスタルの中に眠って、助けが来るまで待っていたのですわ。残り時間は少なかったので……助かりましたわ、セリア』


『セリアちゃんありがとう! ほんっとに助かったよぉ!!』


二人の安堵と感謝の声。だが、セリアはフンッと鼻を鳴らした。


「当然です。こんなところであなた方に死なれては、ナオキ様の『妻』というブランドが下がってしまいますからね。……で、早く出てきていただけますか?」


『……わかりましたわ。ただ、解除後に私たちがこの世界(神の領域)にいられる時間はそう長くはありません。それに、ここに来る時の対価で魔力は使い果たしてしまい、チートスキルもほとんど消滅寸前で、力が残っていませんの』


パリンッ、と薄氷が割れるような音と共に、二人を護っていたクリスタルが内側から解除され、光の粒子となって霧散していく。


「セリア。ナオキをあの暗闇から助け出す方法は、何かありませんの?」


実体を現したツカサが、ふらつく足元を堪えながら、焦ったような声で直接尋ねた。


「はぁ。ツカサ、それを考えるのがあなたの役目でしょう? それにアイリ。あなた、また足手まといになっているんですか?」


「もーっ! セリアちゃん意地悪なんだから!!」


アイリもクリスタルの中から完全に姿を現し、むくれた顔で言い返す。だが次の瞬間、彼女はあっけらかんとした声で、とんでもないことを言い出した。


「……ねえ、もうこの部屋にあるもの、全部ぶっ壊しちゃえばいいんじゃないの??」


「なっ……アイリ、何を言ってますの! そんなことをすれば、元の世界の『スキル』を中心にした世界のシステムそのものが崩壊する可能性が……!」


「いいじゃない別に! どうせスキルなんて、あったってろくなことないんだから。ナオキさえいれば、あんなのいらないよ!」


後先を一切考えない、アイリの極論。

 だが、その言葉を聞いたセリアの口角が、ニィッと吊り上がった。


「……素晴らしい。さすがはアイリです。珍しく、私と意見が合いますね」


「でしょー、セリアちゃん! やっちゃおっか!!」


「はぁ……まあ、合理的ですわね。今からご主人様のいる空間にまともにアクセスする方法もありませんし、一番手っ取り早いのは確かですわ」


ツカサもあっさりと折れた。ナオキを助け出すためなら、世界のシステムが崩壊しようが知ったことではない。三人の悪魔的な意見が完全に一致した。


その時だった。

 ツカサの放った救難信号が繋がり、空間の虚空がバチバチと弾け、ミヤビとトウヤがこじ開けた『帰りゲート』が輝きを放って出現した。


「ツカサさん! アイリさん! 良かった、無事だったっすね!!」


開かれたゲートから、弾丸のように飛び出してきたのは、大剣を背負ったルカだった。


「ルカ!」

「ルカちゃん!」


「ルカ! この部屋のシステム……その周りにある媒体を、全部ぶっ壊してくださいませ!!」


ツカサの容赦のないオーダーに、ルカは一切の躊躇なくニッと笑って大剣を構えた。


「了解っす! 【叛逆の愚者】……理不尽なシステムに、抗うっすよぉぉぉ!!」


ルカの全身から、システムそのものを破壊する特異な光が爆発的に放たれる。

 彼女が全力で大剣を振り抜いた瞬間、白い部屋を構成していた無数のウィンドウ、そして神のコアを護っていた全ての媒体が、鼓膜を劈く轟音と共に粉々に砕け散った。


『『『――致命的エラー。システム崩壊。強制、終了、シマ――』』』


断末魔のノイズと共に、白い部屋の空間そのものがガラガラと崩れ落ちていく。

 そして、崩壊した空間の歪みから、ポンッと放り出されるように一つの影が落ちてきた。


「ナオキ様!」

「ナオキ!」

「あなた!」


セリアたちが慌てて駆け寄る。

 だが、地面に倒れ込んだナオキからは、返事がない。

 呼吸はある。だが、セリアが途中で弾き出されてから、一人でシステムの暗闇空間に取り残されていたせいか、その目は焦点が合わず、うつろな状態のままだった。


「くっ……あの空間で、精神を……」


セリアが唇を噛み締める。ここで悠長に回復を待っている時間はない。部屋の崩壊は、すでに足元まで迫っていた。


「とりあえず元の世界に戻るっす! 道を駆け抜けるっすよ!!」


ルカが叫ぶなり、信じられない馬力を発揮した。

 なんと、右肩にアイリ、左肩にツカサを担ぎ上げ、さらに右脇にセリア、左脇に意識のないナオキをガッチリと抱え込んだのだ。


「なっ、ちょ、ルカ!?」

「ルカちゃん、振り落とされそうっ!」


「舌噛まないように気をつけるっすよー!!」


総勢四人を抱えたルカは、崩れゆく神の領域の床を爆発的な脚力で蹴り飛ばし、ミヤビたちの待つ帰還のゲートへと向かって、一直線に突っ走っていく。


背後で神のシステムが崩壊する轟音を聞きながら。

 ナオキたちを乗せたルカは、光の道を通って、ついに元の世界へと帰還した――。

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