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新世界編 第八話

「……もうやめだ。話を聞かせてくれ、ミヤビ。お前の話を」


ミヤビの表情が、わずかに怪訝そうに歪んだ。

 彼女の鋭敏な演算能力が、先ほどまでナオキの腕にまとわりついていた異常な魔力の気配――世界の法則すら書き換えるような、神のごとき権限の力が、完全に消失したことを検知したからだ。

 魔力切れではない。目の前の男が、自らの意志で唯一の抵抗手段を捨て去り、敵対意思を完全に放棄したのだと理解する。


(……なぜ急にスキルを解除したの? 無抵抗で殺されるつもり?)


ミヤビは油断なく背後の魔法陣を維持したまま、脳内の演算結果を走らせる。

 ――結論。たとえこの男が再びスキルを発動させようと足掻いたところで、こちらの断頭刃のほうが確実に早く、彼を肉塊に変えることができる。


これなら、多少は話でもして『遊ぶ』余裕もあるだろう。

 せっかく別世界から来るのを、歓喜に震えて待っていたのだ。私の絶望をぶつける最高の玩具が、あまりにもあっけなく壊れて終わってしまうのは、確かにつまらない。


「ふんっ。いいわ、教えてあげる」


ミヤビは、残酷に嘲笑うように顎を上げた。




「トウヤが死んだ、あの日」


血にまみれて座り込むナオキを見下ろしながら。

 ミヤビは、どこか遠くを見るような、ひどく虚ろな瞳でポツリと語り始めた。


「何のチート能力も持たない私は……血溜まりに沈む弟の姿を見た瞬間、精神の限界が弾け飛んだの。ただ、力が欲しかった。目の前で笑っているバケモノたちを、一匹残らず肉塊に変えるための、絶対的な力が」


彼女の背後で構築されていた断頭台の魔法陣が、彼女の感情の揺れに合わせて、チリチリと青白い火花を散らした。


「その時、偶然私の目に映ったのが、チート転生者たちを一人で抑え込み続けていたツカサっていう女だったわ。無数の数式を展開して、世界の法則すら計算で捻じ伏せるその姿。……あれこそが、この狂った世界で一番『強い力』なんだって、私は理解した」


ミヤビの口角が、自嘲するようにわずかに歪む。


「だからなのか、【精神的渇望】によってシステムから与えられたのは【怨念の魔導演算】。……ただひとりの愛する弟を理不尽に奪われたっていう絶対的な絶望に、システムが答えてくれたの。

 私の脳髄の中で、無数の数式が悲鳴を上げながら組み上がっていくのがわかったわ。視界に映るすべての生命が、ただの脆い数値の羅列に変換されていくの。私はその圧倒的な暴力で、その場にいたチート転生者たちを……そして、トウヤを見殺しにしたこの世界のナオキたちを、瞬く間に皆殺しにした」


彼女の声から、スッと温度が消えた。

 それは武勇伝などではない。ただの、無機質な殺戮の記録。


「文字通り、瞬きをする間さえ与えなかったわ。演算によって、発動前の彼らのチートをすべて無効化して。彼らが恐怖の声を上げるより早く、空間そのものを圧縮して、ただの肉塊に変えてやったの。

 ……でもね。あの時、この世界のナオキは、あまりにも弱すぎた」


ミヤビの瞳に、深い憎悪と、それ以上の『失望』が渦巻いた。


「『あ……』って、間抜けな声を漏らして。何が起きたのかすら理解できないまま、私の怨念の前にあっさりと挽肉になったわ。何の抵抗も、命乞いすらなく、ただの虫けらのように壊れたのよ。……あんな奴らを消し飛ばしたところで、私の胸を激しく焦がす渇きは、全く収まらなかった」


ミヤビは自身の胸を、ギュッと強く握りしめた。


「トウヤはもう、どこにもいない。その喪失感が、私をさらなる狂気へと駆り立てたわ。『魔薬』の症状もあって、暴走する演算の赴くままに帝都へ単騎で乗り込んで、玉座にふんぞり返っていた無能な皇帝の首を刎ね飛ばした。止めようと群がってきた近衛兵も、権力に甘んじていた貴族たちも、すべてを等しくすり潰して……華美な帝国の中枢を、文字通りの血の海に変えたわ。

 反逆の意思を持つ者から順に脳を焼き切って、残った者たちを恐怖で縛り付けて、すべてを私の足元にひれ伏させて無理やり支配した。……そうでもしなければ、自分自身の内側から際限なく溢れ出す狂気と悲しみに、私自身が押し潰されてしまいそうだったから」


堰を切ったように溢れ出す彼女の言葉を、ナオキは口を挟むことなく、ただ黙って受け止め続けていた。


「でも。ニーナを地下から助け出して、すべてを終わらせて、血塗られた玉座に腰を下ろした時。

 私の中に残ったのは、どうしようもないほどの『からっぽ』な虚無感だけだった」


「誰も私を咎めない。誰も私を止められない。そして……誰も私を『姉ちゃん』とは、呼んではくれない。

 復讐は終わったの。私からすべてを奪った世界への意趣返しは、完璧に成し遂げられたはずなのに。心は少しも晴れず、ただ永遠に続くような暗闇と静寂だけが私を包み込んでいたわ。

 ……そんな時だった」


不意に、ミヤビは狂気を帯びた瞳でナオキを真っ直ぐに射抜いた。


「私の脳髄で常に稼働し続けていた【怨念の魔導演算】が、ひとつの『天啓』を弾き出したの。

 ――空間の歪みを検知。別世界線からの干渉予測。

 やがて、別の世界線を渡って、もう一人の『ナオキ』がこの世界へやってくるってね」


ミヤビは、まるで恋焦がれた待ち人を語るように、ひどく歪んだ、けれど切実な笑みを浮かべた。


「その演算結果を見た瞬間、冷え切って死んでいた私の心臓が、歓喜に大きく跳ねたの。……期待に胸が躍ったわ。果てしない暗闇に射した、一筋の光のように思えた。

 この世界のナオキは、あまりにも弱すぎて、私の怒りと悲しみをぶつけるサンドバッグにすらならなかった。私を絶望の底に突き落としたくせに、私の痛みを何一つ理解しないまま、あっさりと死んで逃げたわ。

 ……でも、そんな満たされない私のからっぽの心を満たしてくれる存在が現れたの。世界線を越えるほどの強い力をもった『別世界のナオキ』なら!!」


空を覆い尽くすほどの魔力が、ナオキ一人に向けて収束していく。






「……ちょっと待ちなさいよ。からっぽ? そんなわけ、ないでしょ」


不意に、重力場に押さえつけられていたセリアが、血を吐きながらも顔を上げ、絞り出すような声でミヤビの言葉を遮った。


「あんた……ニーナがいるのに、なんでそんなことになってんのよ。あの子を地下牢から助け出したんでしょう!? ニーナがいて、あんたがからっぽになんてなるわけがない! あの地下牢での私たちの絆は、そんな安いもんじゃない! そうでしょ!?」


悲痛なセリアの叫びが、荒野に響き渡った。

 セリアが上でどれだけ理不尽な地獄を味わわされても正気を保てていたのは、地下牢にいるニーナという純粋な希望と、決して折れないミヤビの強さがあったからだ。だからこそ、ミヤビの『からっぽ』という言葉がどうしても信じられず、許せなかった。


だが。

 セリアのその必死な叫びを聞いた瞬間、ミヤビの顔から一切の表情が抜け落ちた。


「……あはっ。セリアにはわかっちゃうよね! ごめんなさい!! ちょっと嘘ついちゃった!!」


からっぽな笑い声。

 そして、ミヤビの両目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。


「ニーナ……ごめんね。ごめんなさい、セリア……」

「え……?」

「私、殺しちゃったのよ。……私の手で、二人を」


ミヤビの言葉に、セリアの息がピタリと止まった。

 抵抗を放棄して座り込んでいたナオキも、ハッと目を見開く。


「トウヤを失って生み出された私の魔導演算は、『魔薬』の反作用も大きかった。常に暴走する暴力衝動を抱えていて、もう自分でも抑えきれなくなっていたわ。私に少しでも歯向かう者は、進言しに来ただけの兵士だろうと、怯える使用人だろうと、見境なく殺し続けていた。……そうして血を流し続けなければ、自分の頭がおかしくなりそうだったから。

 セリア、あなたもその中に入っていた。私が顔も見ずに殺していた中に、あなたも入っていたの。いつの間にか、いなくなっていた。ごめんなさい……ごめんなさい……セリア……」


ミヤビは、まるでその手にこびりついた幻の血を洗い流そうとするように、震える両手を強く擦り合わせた。


「私が絶望に沈んでいたそんなある日、玉座に……ニーナが来たの。地下牢から助け出して、安全な場所で自由に暮らさせていたはずの、あの子が。てっきり、セリアのことで恨みをぶつけに来たのだと思ったわ。でも違った。

 ……生き残った元貴族のゴミ共が、暴走する私を止めるために、私と一番親しかったあの子を利用したのよ。『この子の言うことなら聞くはずだ』って、怯えるあの子を盾にして、交渉の道具として私の前に引きずり出してきたの」


ミヤビの声が、ギリ、ギリと軋む。

 底知れぬ憎悪と、自分自身への取り返しのつかない後悔が、彼女の魂を引き裂いていた。


「あの子の震える顔を見た瞬間、頭の線が完全に焼き切れたわ。私の、私たちのたった一つの希望だったあの子を、自分の保身の道具にするなんて……絶対に許せなかった。だから私は、ニーナの後ろに隠れて震える薄汚い貴族どもを、極光の魔法で跡形もなく消し飛ばそうとした」


そこまで言って、ミヤビはガクンと首をうなだれた。

 嗚咽が、彼女の言葉を何度も遮る。


「……でも、あの子は。ニーナは、本当に優しすぎたのよ。

 私がこれ以上、誰かを殺して罪を重ねるのを止めるために……あの子は、自分から私の魔法の射線に飛び込んできたの。

 『もうやめて』って、泣きながら……私の魔法を、真正面から受けて……っ!!」


「あ……、あぁ……」

 セリアの口から、呻きが漏れた。


「私の腕の中には、半分消し飛んだあの子の身体しか残らなかった。あの子が最期に、血まみれの手で私の頬に触れて……笑ってくれたのに。私は、自分の手で、私たちの光を……完全に壊してしまったのよ!!」


ミヤビの絶叫が、荒野の空気をビリビリと震わせる。


「私はもう、生きてる価値もない最低のゴミ以下のバケモノだった。

 だから、自分ごとこの玉座を吹き飛ばして、今度こそ死のうと思ったわ。……でも、まさに自害しようとしたその瞬間よ。私の脳髄で稼働し続けていた演算が、あんたの存在を弾き出したの」


ミヤビは、狂気に染まった血走った瞳で、無防備に座り込むナオキを真っ直ぐに見下ろした。


「別世界線のナオキが、今日、この日、この場所に現れる。

 その演算結果を見た時、私は歓喜に震えたわ。死ぬのはやめた。神様が、私みたいな最悪の罪人に、最後に最高の『罰』と『救い』を用意してくれたんだって思ったから!」


その言葉を受けて。

 ミヤビが展開していた凄まじい重力魔法の壁を、内側から強引に『食い破る』ようにして、一人の少女が歩み出た。



「……ふざ、けんなよ、ミヤビいいいいいい……ッ!!」


「……っ!? なんで……動けるの、あなたはただの無能力者のメイドでしょう……! まさか、別世界の『セリア』は、チートスキルを持っているの!?」


「チートスキルなんて何もないわよ!! そんなもの!! 私には必要ない!!!」


驚愕に目を見開くミヤビ。

 その足元で、セリアは全身の毛細血管から血を噴き出し、ボロボロになりながらも、その瞳には凍てつくような『怒り』を宿してミヤビを睨みつけていた。


「ええ、そうよ。私は何の力もない。ナオキ様に救われて、ナオキ様にすべてを捧げた、影に潜むだけの汚れたメイドよ。……私やナオキ様は、最初から闇側の人間よ。目的のためなら、どんな汚い手だって使う。私はね、必要とあらば、ミヤビだって、トウヤだって、大事なニーナだって殺すわ」


セリアは一歩、また一歩と、死の重圧を跳ね除けてミヤビへ歩を進める。


「でも! あんたは違ったはずでしょ! 強い信念を持った、真っ直ぐで、強くて……光の中にいなきゃいけない人だったはずよ!

 私の妹が……ニーナが、自分の命を削ってまで、あの子がパンを分けてまで守り抜いたのは! 復讐心に負けて人を殺す、そんなバケモノじゃないッ!!」


「……っ、ニーナ、は……」


「ニーナは、あんたのその『強くて眩しい心』を信じたから、地獄みたいな地下牢でも笑っていられたのよ! あんたが光の中にいることが、あの子の、私たちの唯一の希望だったの! なのに……!!」


ミヤビは、地下牢にいた頃を思い出す。



*****



「……おねえちゃん、こわいよぉ……。セリアおねえちゃん、殺されちゃわないかなぁ……」

「大丈夫よ、ニーナ。絶対に大丈夫」


ガタガタと震え、今にも泣き出しそうなニーナの小さな手を握りながら、私は暗闇の中で必死に頭を回していた。


私には何のチートスキルもなかった。戦闘力もない。

 だからこそ、思考を止めるわけにはいかなかった。看守の巡回ルート、交代の際の三分間の死角、カビたパンと藁を混ぜて少しでも腹持ちを良くする方法、地下の冷気から体温を守るための布の編み方――。

 絶望に押し潰されそうになる心を、常に何かを「考える」ことで無理やり蓋をしていた。そうやって打算と計算を張り巡らせていなければ、自分自身のちっぽけな命すら保てないほど、私は弱く、擦り切れていたのだ。


上で心をすり減らし、死んだような目で地下に降りてくるセリアやトウヤを見て、私はいつも心の底で怯えていた。

(明日は我が身だ。どうすればいい? どうすれば、私とニーナはここから逃げられる……?)


そんな、自分の弱さと打算で頭がいっぱいになっていた私の口元に。


「……みやびおねえちゃん。これ、たべて」


泥だらけの小さな手が、半分に千切られた黒パンを差し出してきた。


「ニーナ……? だめよ、あなたが食べなさい。ただでさえ、昨日も吐いちゃって……」

「ううん。わたし、セリアおねえちゃんがまた持って来てくれるから大丈夫。わたし、今お腹すいてないもん。おねえちゃんが元気ないと、わたし、ひとりぼっちになっちゃうから……っ」


ニーナはへらっと笑って、無理やりに私の手にパンを押し付けた。

 ぐうぅ、と。彼女の小さなお腹が、誤魔化しようのない悲鳴を上げているのに。


ハッとした。

 この地獄のような王城の地下では、大人たちでさえ自分だけが助かろうと他人のパンを奪い合い、理不尽な暴力に屈して獣のように堕ちていく。私自身だって、頭の中では「どうすれば自分が、トウヤが助かるか」という生存戦略ばかりを巡らせて、打算にまみれていたというのに。


この幼い少女は、自分が一番お腹が空いていて、一番怖いはずなのに。

 自分を棚に上げて、損得勘定など一切ない純粋な優しさだけで、私にたった一つの命綱パンを差し出してきたのだ。


その温かさと、あまりにも無垢な痛々しさに、私は音を殺してボロボロと泣くことしかできなかった。


「……ありがとう、ニーナ。はんぶんこ、しようね」

「うんっ!」


泥だらけのパンを二人で分け合って飲み込む。

 その時、私は確信した。

 ニーナこそが、この暗闇の底における唯一の『希望』なのだと。


セリアが上で地獄に耐えられるのも。

 私が打算と計算で狂わずに思考を保てるのも。

 すべては、この明るくて眩しい、絶対に失ってはいけない純粋なニーナを守るためだった。ニーナのその無垢な笑顔があるからこそ、私たちはギリギリで『人間』でいられたのだ。



*****



セリアの叫びが、ミヤビの【怨念の魔導演算】を物理的に揺らす。


「笑わせないでよ。あんたはただ、一番安易な『力』に逃げただけじゃない! ニーナはね!! そんなスキルなんかなくたって、帝国中の人を感動させるライブをやってんのよ!! 自分の弱さから逃げてるあんたより、ニーナの方が一万倍は強いわッ!!」


息を大きく吸い込み、セリアは魂の底からの拒絶を叩きつけた。


「ニーナの想いを……私たちの希望を、勝手にナオキ様を殺して終わった気にならないでよ……っ、この、弱虫……っ!!」


セリアは、全身の血を噴き出しながらも、震える手でメイド服の懐を探った。

 そして、そこから大事に、大事に隠されていた、一つの小さな立方体を取り出す。


「……動け……っ! 動けよッ!頼むから、動いてよ……ッ!!」


それは、表面がヒビ割れ、筐体も歪み、辛うじて原形を留めているだけの映像記録用の魔導具キューブだった。魔力の奔流でいつ爆発してもおかしくないそのガラクタのスイッチを、セリアは血塗れの指で強制起動させる。


「な……に、それは……?」


「……見なさいよ。これが、あんたが捨てた『弱さ』であり、あの子が掴み取った『強さ』よ!!」


パチ、パチ、とノイズを立てながら、キューブの上部に光が灯る。

 空中にビューンと乱れたノイズ混じりのホログラムモニターが展開され、そこにニーナの初ライブの映像が映し出された。


『ふざけんな! 素人がアイリちゃんの代わりになるわけねえだろ!』

『こっちは本物のアイドルを見に来てんだよ! 小娘が帝都のシンボルを名乗るな! 引っ込め!!』


空中に展開されたモニターから響き渡る、鼓膜を劈くような容赦のない罵声。

 映し出されたステージの上で、小さなニーナが数万の悪意を一身に浴びていた。顔から完全に血の気を失い、マイクを持つ手はガタガタと震えている。


私には、わかる。

 チート能力も魔法のスキルも持たない無力な者が、圧倒的な暴力や悪意の前に立たされた時の、あの内臓が凍るような恐怖が。


私が心の中で悲鳴を上げた、その時だった。


映像の中のニーナは、ギリッと奥歯を噛み締めたのだ。

 そして、乱暴に涙を拭うと――逃げる代わりに、天に向かって叫んだ。


『――光れえええええええええええっ!!!』


ビクッと、私の肩が大きく跳ねた。

 それは、歌なんかじゃなかった。あの冷たくて暗い地下牢で、いつも私にしがみついて怯えていた小さな女の子が、世界に向けて放った魂の咆哮だった。

 魔法もチートもない。私が知っている、ただの弱くてちっぽけなニーナが、数万の悪意にたった一人で噛みついたのだ。その血を吐くような絶叫が、暴徒と化していた観客たちを、そして何より私の悲鳴を、一瞬にして黙らせた。


静まり返った広場に、重厚なイントロが響き始める。

 ニーナはマイクを両手でぎゅっと握りしめ、歌い出した。


……ニーナは今にも泣き出しそうだ。地下牢で私を励ましてくれた時と何も変わらない。

 けれど、その声が、不格好に足掻く姿が、取り返しのつかないほど歪んでしまった私の胸をズタズタに抉ってくる。


『輝いて! 泥だらけのまま、不格好なまま、命を燃やしてえええっ!!』


白銀の髪を振り乱し、顔をくしゃくしゃにして、叫ぶように歌うニーナ。

 なんて泥臭い。なんて不格好で、惨めな足掻き。

 お腹を空かせて、ガタガタ震えながら、それでも私にパンを差し出して笑ってくれた、あの時のまま。自分の弱さを全部曝け出して、ただ真っ直ぐに、理不尽な世界に立ち向かっている。


ああ。それは……絶望から逃げた私なんかより、ずっと、ずっと強いではないか。


怒鳴り散らしていた観客が、水を打ったように静まり返っているのがわかる。誰もが、祈るような目で、ただの無力な少女の絶唱に聞き惚れているのだろう。

 圧倒的な暴力でも、恐怖による支配でもない。この子はたった一人で、自分の弱さを武器にして、大衆の心を叩き割ったのだ。


そこでパチリとノイズが走り、空中のモニターがフッと変わった。


次に映し出されたのは、広場の熱狂とは打って変わった、どこか見覚えのある、けれど信じられないほど温かな空間だった。

 華やかに飾り付けられた広間。その中央で、照れくさそうに笑うタキシード姿のナオキと、純白のウェディングドレスに身を包み、幸せそうに涙ぐむセリアが並んでいた。

 彼らを囲むようにして、色鮮やかなドレス姿のアイリ、穏やかに微笑むツカサ、無邪気にはしゃぐルカとニーナが、グラスを掲げて二人の門出を祝福している。


「あ……」


私の喉から、ひゅっと不格好な音が漏れた。

 視線が、画面の端に釘付けになる。

 そこにいたのだ。絶対にいるはずのない、たったひとりの弟が。


『姉ちゃん、泣きすぎだってば! 今日はめでたい日なんだからさ!』


死んだはずのトウヤが。血だまりに沈み、冷たくなったはずの私の弟が。

 少し背が伸びて、健康的な顔つきで、心底楽しそうに笑いながら……その隣にいる『誰か』の肩を揺さぶっている。


『だ、だってぇ……っ、セリアが、あんなに幸せそうで……っ』


トウヤの隣で、ハンカチを握りしめて大号泣しているその女は。

 間違いなく、私だった。


バケモノに堕ちる前の、ただの少女だった頃の私。ただの『お姉ちゃん』の顔をした私自身が、そこにいたのだ。


彼らが、別世界線で足掻いて掴み取った『未来』。

 私が絶望に負け、復讐に逃げ、帝国を血の海に沈めてまで渇望したもののすべてが、あの小さな画面の中で、ごく当たり前の日常として燦然と輝いていた。


「トウヤ……。あぁ、トウヤ……っ」


空中に浮かぶ幻影に向かって、私は無意識に血まみれの手を伸ばしていた。

 トウヤが生きている。私が笑っている。みんなが、幸せに笑い合っている。


(ああ……私は、なんてバカなんだ)


弟のために力を求めたはずだった。だが違う。あの別世界線の私が証明している。弟が本当に望んでいたのは、私が血に塗れて帝国の絶対者になることなんかじゃない。あんな風に、平和な世界で一緒に笑って、誰かの幸せを心から祝福できるような、そんなありふれた日々だったはずなのだ。


私は、一体何のために世界を壊した?

 何のために、この両手を血で染めた?


プスッ、と。

 魔力の限界を迎えたキューブが小さな音を立ててショートし、空中のモニターがフッと暗転して消えた。

 伸ばした私の手は空を切り、そこにはまた、血と泥にまみれた冷たい荒野だけが残される。


「あ……、あぁ……っ」


私の脳髄を満たしていた演算魔法が、完全に静止した。

 無敵の領域に達したはずの数式が、その「消えた空中の笑顔」を前にして解を導き出せずにエラーを起こし、パラパラと音を立てて崩れ落ちていく。


セリアの言う通りだ。

 ニーナやトウヤはきっと、こんな血まみれの私を望んでなどいなかった。

 私だって、誰かと手を取り合ってチート同盟を倒し、みんなで世界を救い、二度と同じような不幸が訪れることがないように……笑い合える道を掴むことだってできたのだ。


でも、私はただ、一人で闇に堕ちることを選んだ。

 そのほうが、楽だったから。

 理不尽な絶望と憎しみに身を任せていれば、自分の弱さと向き合わずに、何も考えずに済んだから。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。


その結果、何が残ったのだろう。

 ここで、目の前にいる別世界線のナオキを殺すことは簡単だ。でも、そのあと私に何が残る?

 空っぽだ。

 何もない、ただの空っぽなのだ。復讐を達成してしまえば、後には何一つ残らない。

 私は私自身で、自分の未来を完全に閉じてしまった。

 その取り返しのつかない事実に、どうしようもないほど、気づいてしまったのだ。


「こんなもの……見たくなかったわよ……っ」


顔を覆い、震える声で絞り出した私に。

 重圧から解放され、荒い息を吐きながら立ち尽くすセリアが、ふっと冷たく、けれどどこか優しい自嘲の笑みを浮かべた。


「ええ、そうでしょうね。私は性格が悪いですから、一番効くやり方を選んだだけです。……でも、これでわかったでしょう? トウヤ様に会いに、ついてきてください。白い部屋とか、魂がどうのと、難しいことはあとです」


セリアは、ボロボロになった身体を真っ直ぐに立て直し、血に汚れた手を私へと真っ直ぐに差し出した。


(……そうだ)


私はずっと、誰かと話したかった。私のことを知る誰かと。

 ただ、それだけだったのだ。


何かを得たかったわけでもない。共感で慰めてほしかったわけでも、正論で説教してほしかったわけでもない。誰かにこの罪を断罪してほしかったわけでも、このドス黒い憎しみをぶつけて、すっきりしたかったわけでもない。




ただ、話をしたかった。




心を完全に閉ざし、空っぽのバケモノになっていたはずなのに。


私はセリアと再会して、自分の醜い本音を、こんなにも流暢に……まるで堰を切ったように、夢中で喋り続けてしまっていた。

 それが、私がずっと「誰かとの繋がり」に飢えていたという、何よりの証拠じゃないか。


呆然と座り込む私に手を伸ばし続けながら、セリアはふわりと笑った。

 血と泥にまみれ、身体はボロボロだ。彼女のその顔に浮かんだのは、無理やり口角を吊り上げた、ひどく不器用で、不格好で、痛々しい……けれど、誰よりも強がって私を守ろうとしてくれた、あの頃と何も変わらない、愛おしい『強がり』の、太陽みたいな笑顔で言った。




「……ただ、会いに行けばいいの。会って話すだけでいいの。すべては、そこからなんだから」




パァンッ……!!


同時に、私の背後で、空を覆い尽くすほど重く、どす黒く渦巻いていた【怨念の魔導演算】の数式群が。私をバケモノに変えていたあの重圧な魔法陣が、澄んだ氷のような音を立てて、一斉に砕け散った。

 それは破壊の光ではない。まるで、長かった冬の終わりを告げるように、淡く温かい光の粉雪となって、血と泥にまみれた荒野へふわり、ふわりと降り注いでいく。


ヒュオォォォ……と。

 ずっと重く淀んでいた空気が上に抜け、今まで感じたこともないような、澄み切った一陣の風が荒野を吹き抜けた。


(ああ……)


なんだ。

 そんなことで、よかったんだ。


国を滅ぼした罪とか、取り返しのつかない過去とか、私が殺してしまった人たちへの贖罪とか。そんな途方もない絶望を前に、一人で勝手に「もう終わりだ」「許されるはずがない」って決めつけて、勝手に心を閉ざしていただけだった。


許されなくたっていい。この手が血に塗れたままだっていい。

 ただ、一目、トウヤに会いたい。あの不器用で、優しくて、泣き虫な私の弟に会って、「ごめんね」って言いたい。

 たったそれだけの、当たり前の願いすら、私は自分の狂気で押し殺していたのだ。


視界が、一気にクリアに晴れ渡っていく。

 見上げると、そこには血だらけになりながらも、私に向かって手を伸ばしながら真っすぐな目を向けるセリアと。

 その隣で、ただ黙って静かに手を差し伸べ続ける、別世界の『ナオキ』の姿があった。


「……」


私は、ずっと憎み続けて、握り潰したかったその男の手を。

 私の言葉をただ受け止めてくれた、その親友の手を。


もう逃げるのをやめるため。

 ニーナのような勇気をもって、そっと握ってみることにした。

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