新世界編 第七話
「……まだだ。まだ、諦めねえ……っ!」
血まみれの拳で大地を殴りつけていたナオキは、ギリッと歯を食いしばり、奪い取ったばかりのマスターコマンドスキルに意識を集中させた。
「別の……別の世界線なら……っ。同じ演算ができる別の奴が、まだどこかに……ッ!」
すがるような思いで、【世界線再構築】の権限を強制起動する。
無限に広がるパラレルワールドの海へ向け、「ツカサと同等以上の演算能力」という条件を叩き込み、空間を引き裂こうとした。
だが。
『『『――検索結果:ゼロ。
全並行世界において、対象条件に該当する生存個体は【ミヤビ】ただ一名のみです』』』
「……は?」
『『『対象のスキル【怨念の魔導演算】は、極限の絶望と精神的渇望によって後天的に発生した特異点であり、他のいかなる世界線にも同一の進化プロセスは存在しません』』』
無機質なシステムのアナウンスが、ナオキの最後の希望を無残に叩き割った。
他にはいない。
このふざけた【怨念の魔導演算】は、トウヤという最愛の弟をナオキに殺されたという「絶対的な絶望」がなければ、決して生まれ得ない存在だったのだ。
この神の領域に届く特異点に到達したミヤビは、数多の世界を探しても、目の前で殺意を放つ彼女ただ一人。
完全に、チェックメイトだ。
「……逃げ道を探そうとしたって無駄よ、別世界線のナオキ」
絶望に凍りつくナオキを見下ろし、ミヤビが冷酷な声で告げた。
彼女の背後で、数式がゆっくりと形を変え、巨大な断頭台の刃のような魔力の塊を構築していく。
「……ミヤビ。取引をしよう」
ナオキは、折れた肋骨の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
両手を広げ、一切の戦意がないことを示す。
「取引……? 命乞いの間違いではなくて?」
「違う。お前が欲しいのは、俺の命だろ。俺を殺して、トウヤの仇を討ちたいはずだ。……なら、くれてやる。俺の魂を、白い部屋に行く演算の対価として使ってくれ。そうすれば平行世界すべての俺を殺すことができるはず。まずこれが一つ目だ。」
ナオキの言葉に、重圧に耐えていたセリアが血相を変えた。
「な、ナオキ様ッ!? 何を狂ったことを――」
「黙ってろセリア!!……ミヤビ、よく聞け。俺たちの世界にはアーティファクトってやつがある。俺のこの『世界線を操作するチートスキル』を、お前にくれてやれるかもしれない。ミヤビ、お前の望む、トウヤの生きている好きな世界線に、飛ぶことができる。これが二つ目。俺が出せる全部だ。」
ナオキは、真っ直ぐにミヤビの昏い瞳を見据えて叫んだ。
「頼む……お前のその演算能力で、アイリとツカサが囚われている『白い部屋』へのゲートを開けてくれないか。お前が俺のことを憎んでるのはよくわかった。だから取引がしたい。俺の命とスキルの対価で、俺の嫁たちを救う力を貸してくれ!!」
それは、ナオキにとって最も論理的な「盤面」の解決策だった。
自分の命という最大のチップを盤上に投げ出し、ミヤビの復讐心を満たす。さらに、ミヤビはこの世界線とは別の世界線に飛ぶことができる。トウヤの生きている世界線に行くことだってできるのだ。
それなら、彼女も演算の協力に応じるはずだ。自分が死んでも、嫁たちは助かる。
ナオキは、自分の提案が悪くない「取引」であると確信していた。
だが。
「…………」
荒野に、不気味なほどの静寂が落ちた。
空中に浮かぶミヤビは、表情を消したまま、ただじっとナオキを見下ろしている。
やがて。
「……あはっ」
乾いた、ひどく歪んだ笑い声が、ポツリとこぼれた。
「あはは……。あはははははははははははッ!!!」
それは、歓喜の笑いなどではなかった。
腹の底からこみ上げる、ドス黒い憎悪と、絶対的な侮蔑の嘲笑。
ミヤビの周囲の空間が、彼女から放たれる凄まじい魔力と殺気によって、ミシミシと悲鳴を上げて歪み始める。
「……取引? 私の復讐を、買わせてくれ、ですって?」
ピタリと笑いを止めたミヤビの瞳には、地獄の底のような暗い炎が宿っていた。
「笑わせないでよ。……あんた、自分がどれだけ傲慢で、思い上がったクズか自覚してる? 自分の安い命と、スキルを差し出せば、私が『はい、わかりました』って頷いて、あんたの愛する女を助ける手伝いをすると思ったの?」
「なっ……」
「舐めるなッ!!!」
ミヤビの絶叫と共に、空が赤黒く染まった。
彼女の背後に、数千、数万という異常な数の魔法陣が、まるで幾何学的な曼荼羅のように展開されていく。
「私が、どれだけの血を啜ってここまで来たと思ってるの! チート同盟のゴミ共の四肢を毟り取り、無能な皇帝の首を切り落とし、自分の心ごと深淵に沈めて……っ、そうやってこの玉座を奪い取ったのよ!!
それを……別世界の平和なぬるま湯から来たあんたが!『命をあげるからチャラにしてくれ』って!? 私のトウヤの命と、私が味わった絶望が、あんたの安い自己満足と釣り合うとでも思ってんの!?」
「ミヤビ、違う! 俺はただ――」
「違わないッ! あんたはあの時の『ナオキ』と何も変わらない! 自分の目的のためなら、私の感情すらも『計算の道具』として処理できると思ってる、冷酷で薄汚い悪魔よ!!」
「もういいわ。死になさい。あんたの願いなんて、一つも叶えさせてあげない」
ミヤビが冷酷に手を振り下ろした瞬間。
空を埋め尽くしていた数万の魔法陣から、すべてを空間ごと消滅させる『極光の断頭刃』が一斉に射出された。
「ナオキ様ァァァァァッ!!」
セリアの悲痛な叫び声が響く。
回避は不可能。防御も無意味。神の領域に達した演算魔法が、ナオキの肉体を容赦なく細切れに裁断していく。
「ガァ、アァァァァァァァァァッ!!?」
右腕が消し飛び、左足が空間ごと削り取られる。
全身の神経が焼け焦げるような、発狂寸前の激痛。ナオキは血の海に倒れ伏し、薄れゆく意識の中で、己の浅はかさを呪った。
『『『――MASTER COMMAND ERROR。対象【ナオキ】の致命的な肉体損壊を確認』』』
『『『マスター権限スキル【世界線再構築】自動発動。緊急プロトコルを実行。直近の生存ルートが存在する近しい並行世界、直近の過去地点へ強制ロールバックします』』』
*****
「……逃げ道を探そうとしたって無駄よ、別世界線のナオキ」
気がつけば、ナオキは再び泥と血にまみれた荒野に立っていた。
肺が焼け焦げるように熱い。先ほど全身を細切れにされた幻肢痛が、脳髄でけたたましく警鐘を鳴らしている。
見上げれば、絶望に凍りつくナオキを見下ろし、ミヤビが冷酷な声で告げているところだった。彼女の背後で、数式がゆっくりと形を変え、巨大な断頭台の刃のような魔力の塊を構築していく。
(……取引じゃダメだ。俺は、こいつの感情を『盤面の計算』で処理しようとした。何やってんだ、バカか俺は)
ナオキは荒い息を吐きながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
ミヤビは、冷酷なマシーンではない。愛する弟を理不尽に奪われ、たった一人で血の海を渡ってきた、ただの哀れな少女なのだ。
彼女の凍りついた心を溶かすには、理屈や損得ではない。彼女が一人で抱え込んできた『痛み』に寄り添い、誠心誠意、心からの謝罪をぶつけるしかない。
「……すまなかった」
ドンッ、と。
ナオキは、血と泥にまみれた荒野の大地に、深く、深く両膝を突いた。
そして、そのまま地面に額を擦り付ける。
「な……にをしているの?」
空中のミヤビが、予想外のナオキの行動に怪訝そうに眉をひそめる。
ナオキは顔を上げず、地面に向かって、腹の底から絞り出すように叫んだ。
「『俺』が……お前の大切な弟を殺して、本当にすまなかった……ッ!」
「……ッ」
「トウヤは、誰よりもお前のことを思ってた。それはお前やトウヤと一緒に過ごしてきた俺が、よくわかってる。それなのに、俺のせいで……っ。お前がどれだけ絶望して、どれだけ孤独だったか。弟のために、自分の心を殺してバケモノになる道を選ぶしかなかったお前の孤独が、俺には痛いほどわかる……っ」
ナオキの言葉には、一切の嘘はなかった。
無力な人間が、何かを守るために狂気に身を染めるしかなかった地獄の痛みが、ナオキには理解できた。自分も大切な人たちの記憶から消え、同じような孤独に苦しんだ経験があったからだ。
「一人で……本当に、辛かったと思う。それは全部、俺のせいだ。本当に、もうしわけ――」
だが。
ナオキの言葉は、最後まで紡がれなかった。
「……わかる?」
頭上から降ってきたのは、絶対零度の声だった。
ナオキがハッとして顔を上げると、空中に浮かぶミヤビの表情は、先ほどの「取引」を持ちかけた時以上に、酷く、凄惨に歪んでいた。
彼女の全身から溢れ出す魔力は、もはや怒りを通り越し、触れるものすべてを腐食させるような『呪い』へと変質していた。
「……あんたに、私の痛みが『わかる』ですって?」
ミヤビの目が、血走る。
ギリ、ギリと奥歯を噛み砕かんばかりの憎悪が、空気を震わせた。
「ふざけるなッ!! わかるわけないでしょう!? 私のトウヤは死んだのよ!? 他人の命を踏みにじって……毎晩毎晩、悪夢にうなされて吐きながら、それでも殺すしかなかった私の地獄が!!」
「ミヤビ、俺は――」
「黙れッ!!」
ミヤビが腕を振り下ろすと同時、背後に展開されていた断頭台の魔力が、瞬時に『無数の光の槍』へと形を変えた。
「私に同情するなッ! 可哀想なバケモノだと見下すなッ!!
別世界からやってきたくせに、自分の目的のために『あなたの気持ち、わかりますよ』なんて、安い言葉で私の心に土足で踏み込んでくるなァァァァァッ!!!」
それは、彼女の魂の底からの拒絶だった。
理解などされたくなかった。彼女が歩んできた地獄は、彼女と、死んだトウヤだけのものだ。それを、別世界の男に「わかる」と言われることは、彼女が一人で耐え抜いてきた孤独の価値すらも否定される、究極の『冒涜』だったのだ。
「消えろッ! !!」
ズガガガガガガガガガガガッ!!!
無数の光の槍が、一切の容赦なくナオキの全身を貫いた。
両手、両足、腹部、肩。
数十本もの魔法の槍がナオキの肉体を大地に縫い留め、血の飛沫が荒野に赤い花を咲かせる。
「ガァ、アァッ……ァァァッ!!?」
「ナオキ様ァァァッ!! イヤァァァァァァッ!!」
串刺しにされ、口から大量の血を吐き出すナオキを見て、セリアが絶叫する。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。
だが、肉体の痛みよりも、ナオキの心を激しく打ち据えたのは、ミヤビの血を吐くような悲痛な叫びそのものだった。
(……そうだ……。お前の、言う通りだ……)
薄れゆく意識の中で、ナオキは自嘲した。
気持ちなんて、その人自身にしかわからない。
痛みを分かち合おうなんて、『わかる』なんて、思い上がりも甚だしいではないか。
俺みたいな凡人に、一体ミヤビの何がわかるというのか。
『『『――MASTER COMMAND ERROR。対象【ナオキ】の致命的な肉体損壊を確認』』』
『『『マスター権限スキル【世界線再構築】自動発動。緊急プロトコルを実行。直近の生存ルートが存在する近しい並行世界、直近の過去地点へ強制ロールバックします』』』
*****
「……逃げ道を探そうとしたって無駄よ、別世界線のナオキ」
パチッ、と。
三度目の視界が開けた瞬間、ナオキは耐えきれずにその場に激しく嘔吐した。
「ゲハッ、ゴホッ、オェェェェェェッ……!!」
胃液と、どす黒い血の塊が荒野の大地にぶちまけられる。
時間を巻き戻しても、ナオキの「精神」に刻まれた死の記憶と、チートスキルを強制起動し続けた脳のオーバーヒートは蓄積されている。光の槍に全身を串刺しにされた幻肢痛が、細胞の隅々でけたたましい警鐘を鳴らし、立っていることすらままならない。
「ナ、ナオキ様……ッ!」
重力場に押さえつけられたセリアが、血を吐き、ボロボロに崩れ落ちた主人を見て悲痛な声を上げる。
「……なんでも、ねえよ。ただの……立ちくらみだ」
ナオキは震える足に無理やり力を込め、ふらつきながらも立ち上がった。
空を見上げる。そこには、巨大な断頭台の刃のような魔力の塊を背負い、冷酷な瞳でこちらを見下ろすミヤビの姿があった。
(……取引はダメ。謝罪も、共感も。俺みたいな凡人の言葉じゃ、届かないんだ)
ナオキは、霞む思考を必死に回した。
ミヤビの心は、すでにドロドロの血の海に沈んでいる。利害関係では動かないし、安っぽい言葉で寄り添うことも許されない。
ならば残された道は一つ。それはトウヤやルカのような、「正しい言葉」で、彼女の目を覚まさせることだ。
彼女がやっていることは間違っていると。復讐なんて虚しいだけだと、真正面からぶつかって、彼女の暴走を止める「大義」を掲げるしかない。
「……ミヤビ。目を覚ませ」
ナオキは、あえて厳しい、父親か兄のような強い口調で空中の少女を睨みつけた。
「お前がやっていることは、ただの八つ当たりだ。俺を殺しにしたところで、お前の心はちっとも救われない」
「……何が言いたいの?」
「復讐なんて虚しいだけだッ! お前は自分の絶望から逃げるために、関係のない人間まで巻き込んで血の海を広げているだけじゃないか!」
ナオキの怒鳴り声が、荒野に響き渡る。
ミヤビの表情から、ピタリと感情が消えた。だが、ナオキは止まらない。ここで彼女の過ちを正さなければ、永遠に平行線だと信じていたからだ。
「よく考えろ、ミヤビ! トウヤは、お前の弟は……誰よりもお前のことを大切に思っていた最高の姉貴が、血にまみれた殺人鬼になることなんて、絶対に望んでいないッ!!」
「……ッ」
「トウヤが本当に望んでいたのは、お前が自分の手を汚すことじゃない。平和な世界で、誰かの幸せを心から祝福できるような、ありふれた日常を生きてほしかったはずだ! なのに、お前はトウヤの死を言い訳にして、堕ちる道を選んだんだぞ!!」
それは、寸分違わぬ「正論」だった。
ミヤビの行動は客観的に見て狂っており、復讐の果てには虚無しかない。
(ここにトウヤがいたら、きっとこう言うはずだ。これでいい)
ナオキは荒い息を吐きながら、ミヤビの反応を待った。
激昂するか。それとも、涙を流して崩れ落ちるか。
だが。
「…………」
空中のミヤビは、怒りもしなかった。泣きもしなかった。
ただ、彼女の背後に展開されていた巨大な断頭台の魔力が、ふっと音もなく霧散した。
「……ええ。そうね」
静かに、ポツリと。
ミヤビの口からこぼれたのは、あまりにも平坦で、一切の温度を持たない声だった。
「あんたの言う通りよ。トウヤは、こんな私を望んでなんていない。私がやっていることは、ただの残酷な八つ当たりで、救いなんてどこにもない」
「ミヤビ……」
「知ってたわよ。そんなこと」
ミヤビがゆっくりと、ナオキを見下ろす。
その瞳を見た瞬間、ナオキは心臓を氷の鷲掴みにされたような、決定的な「絶望」を悟った。
彼女の目に、光はなかった。
憎しみも、悲しみも、怒りも、何一つない。ただ無限の『虚無』だけが広がっていた。
「初めて関係のない兵士の首を刎ねた時から、ずっとわかってたわ。私が間違っていることも、ただ絶望から逃げているだけだってことも。でもね、別世界線のナオキ」
ミヤビは、まるで壊れたからくり人形のように、力なく首を傾げた。
「……今更、私が間違ってましたって認めて、引き返せると思う?
私が今まで殺してきた命は? 私が踏み躙ってきた無数の人生は? 私が自分の心を壊してまで積み上げてきたこの血の海は……『やっぱり間違ってました』で、無かったことになるの?」
「それは……っ」
「引き返せないのよ。もう、どこにも」
ミヤビの目から、一筋の涙がツーッと頬を伝った。
だが、その顔には何の感情も浮かんでいない。
「正論は、眩しすぎるわ。光の中にいるあんたの言葉は、闇の中に沈んだ私には、ただ私の罪を焼き焦がすだけの刃でしかない。
……もう、疲れたわ。何もかも、どうでもいい。あんたの顔を見ていると、自分の醜さが浮き彫りになって、息が詰まる」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
ミヤビが力なく両腕を広げた瞬間、今までの魔法陣とは全く異なる、漆黒の『泥』のような魔力が、彼女の足元から底知れぬ海のように広がり始めた。
「な、なんだこれは……ッ!?」
「ナオキ様、下がって!! これに触れてはいけませ――」
セリアが警告を発した直後、足元を覆った漆黒の泥が、一切の音もなくセリアの体を飲み込んだ。
「セリ……ア……?」
悲鳴すらなかった。ただ、インクを一滴落としたように、セリアという存在が空間から『削り取られて』消滅した。
「ぜんぶ、消えちゃえばいい。私も、あんたも、このくだらない世界も」
それは、怒りによる攻撃ではない。
彼女自身が抱えきれなくなった罪悪感と、正論によって完全に逃げ場を失った心が引き起こした、究極のエントロピーの魔法だった。
彼女の心を救おうとしたナオキの「大義」と「正論」が、彼女の中に残っていた僅かな葛藤すらも完全に叩き潰し、何もかもを諦めさせてしまったのだ。
「ミヤ、ビ……やめろ……ッ!!」
ナオキは漆黒の泥に足を取られ、身体が徐々に崩壊していくのを感じながら、必死に手を伸ばした。
だが、届かない。
ミヤビはもう、こちらを見てすらいなかった。ただ虚空を見つめ、自らも漆黒の泥に沈み込みながら、静かに目を閉じている。
(……俺が、壊した。俺の薄っぺらい『正論』が、あいつの心を完全に殺したんだ……ッ!!)
自分が致命的な過ちを犯したことを、ナオキは痛感した。
チートスキルを手に入れ、都合のいい言葉で盤面を攻略しようとしたからだ。一人の人間の、血の通った心を、「正しさ」という暴力で捻じ伏せようとしたからだ。
泥が、ナオキの首元まで達する。
視界が暗転し、意識が漆黒の闇に溶け落ちていく。
『『『――MASTER COMMAND ERROR。対象【ナオキ】の致命的な肉体損壊を確認』』』
『『『マスター権限スキル【世界線再構築】自動発動。緊急プロトコルを実行。直近の生存ルートが存在する近しい並行世界、直近の過去地点へ強制ロールバックします』』』
*****
「……逃げ道を探そうとしたって無駄よ、別世界線のナオキ」
絶望に凍りつくナオキを見下ろし、ミヤビが冷酷な声で告げた。
彼女の背後で、数式がゆっくりと形を変え、巨大な断頭台の刃のような魔力の塊を構築していく。
四度目の光景。四度目の宣告。
ナオキは、血と泥にまみれた大地に座り込んだまま、ゆっくりと、ひどく長く重い息を吐き出した。
全身の細胞が、これまでに踏み抜いてきた無数の「死」を記憶し、警鐘を鳴らし続けている。
極光の刃に四肢を細切れにされた激痛。無数の光の槍に全身を串刺しにされ、血の海で溺れた感覚。そして何より、底知れぬ漆黒の泥に飲み込まれ、自分の薄っぺらい正論が彼女の心を完全に殺してしまった時の、あの身を切るような後悔。
幻肢痛と吐き気に苛まれながら、ナオキは自らの両手を見つめた。血と泥で汚れきった、ひどく無様で、ちっぽけな凡人の手だ。
(……俺は、何をやっているんだ)
時間を巻き戻し、都合のいい言葉を探し、最善のルートを模索する。
一見すれば、それは愛する妻たちを救うための必死の足掻きだ。だが、その本質はどうだ。
命やスキルを差し出す『取引』で、彼女の復讐心を買おうとした。
上辺だけの『謝罪』で、彼女が一人で耐え抜いてきた地獄を理解した気になっていた。
トウヤの願いという『正論』を振りかざし、彼女の生き方を全否定して追い詰めた。
これらすべては、ミヤビという一人の血の通った人間を救うための行動ではない。アイリとツカサが囚われている「白い部屋」への扉を開けさせるために、目の前の障害物の機嫌を取り、最も効率よく動かすための『攻略』に過ぎなかったのだ。
もう、説得する言葉を探すのはやめた。彼女の心を無理やりこじ開けようとする、盤面支配の計算も、すべて放棄しよう。
アイリとツカサを助け出すことに頭がいっぱいで、俺は、ミヤビ自身と、このボロボロに傷ついた一人の少女と、ちゃんと向き合えていなかったのではないか。
己の目的のために、他人の感情を計算の道具として消費する。
それでは、トウヤの命を切り捨てた、この世界の冷酷な『ナオキ』と何一つ変わらない。別世界の平和なぬるま湯からやってきて、チートスキルという安全圏から「正解」を探り当てようとしているだけの、醜悪な偽善者だ。
そんなやり方で助け出されたとして、あの気高く誇り高いアイリとツカサが、喜んでくれるはずがない。冷たく軽蔑され、二度と彼女たちは俺の前に顔を出さないだろう。
何回ループしようが、小賢しい言葉やチートスキルで、彼女の痛みを『攻略』することなど不可能なのだ。
彼女が流してきた血の涙は、そんな安っぽいゲームのシナリオではない。
ならせめて、自分にできる唯一の誠意は、彼女が一人で歩んできた地獄を、ただ黙って受け止めることだけだ。
もしあの神のシステムや白い部屋なんかではなく、死んだ後に本当の天国のような場所があるのなら。
アイリとツカサには心底申し訳ないが、せめてあいつらに再会した時、胸を張って「俺は俺のやり方を貫いたぞ」と笑って言えるような、自分でいたい。
大好きな弟子の、たった一人の姉を道具として使い潰して生き残るような、ダサい真似だけは絶対にしたくない。
(……諦めよう。ミヤビの話を、聞いて死のう)
ナオキは、目を閉じた。
そして、己の魂と固く結びついていた強大な力――死を無かったことにできる唯一の命綱である【世界線再構築】の強制起動プロセス(オートセーブ)を、自らの意志で、完全に『解除』した。
システムとのパスが切断され、脳内に響いていた無機質な待機音がフッと消え去る。
もう、後戻りはできない。次に断頭台の刃が振り下ろされれば、今度こそ正真正銘、この世界からナオキという存在は永遠に消滅する。
だが、最強のチートを手放したナオキの心は、かつてないほどに澄み渡っていた。
泥だらけの顔を上げ、ミヤビに真っ直ぐに向き直る。
そこにはもう、「盤面を支配する魔王」の顔も、「世界を救うダークヒーロー」の顔もない。ただの、不器用で、弟子想いの、ちっぽけな凡人の顔があった。
「……もうやめだ。話を聞かせてくれ、ミヤビ。お前の話を」
ナオキは、一切の抵抗を放棄し、ただ真っ直ぐに彼女を見上げた。
その声はひどく穏やかで、静かな荒野に深く染み渡っていく。
その瞳に宿っているのは、盤面をコントロールしようとする狡猾な光ではない。ただの諦めと、途方もない申し訳なさ、そして、かつて自分に純粋な敬意を向けてくれた『教え子』に対する、ひどく不器用で深い愛情だけだった。
「ふんっ。いいわ、教えてあげる」
ミヤビは嘲笑うように顎を上げた。




