新世界編 第四話
「がはっ……!!」
空間が割れ、見知らぬ大地に転がり出た瞬間。
次元の摩擦と強烈な重力負荷に耐えきれず、ナオキの肉体は内側から悲鳴を上げていた。
隣では、セリアもまた受け身を取れずに灰色の砂礫の上を転がり、純白のメイドエプロンを土で染めて激しく咳き込んでいた。
「……ッ、大丈夫か、セリア……っ。おい、返事をしろ!」
ナオキが這いずり寄り、彼女の肩を掴む。だが、顔を上げたセリアの瞳には、いつもの狂信的な光は宿っていなかった。
「ん? あなただれですか? どうして私、こんなところに……」
「……ッ、言わんこっちゃない!!」
ナオキは忌々しげに毒づいた。
前回、スキルによって存在を抹消されたナオキだけは、自身の記憶を保てていた。今回もナオキ自身がスキルを使った側なので、もちろん記憶は無事だ。
だが、セリアは違う。セリアの記憶は、このパラレルワールドにおける『別人のセリア』の記憶に完全に上書きされてしまっていた。
ナオキの脳裏に、元の世界でのトウヤの警告が蘇る。
『……記憶をスキルで直接修復するアプローチは、どうやってもシステムに弾かれます。最悪、精神が壊れる』
「そんなこと言ってる場合じゃねえ。仕方ない、緊急事態だ」
ナオキは覚悟を決めると、自らの腕にドス黒い魔力を集束させた。
「俺が新しいスキルを獲得した後、もう一度アイリとツカサのところへ向かう時、お前言ってたよな。『アイリとツカサの精神がぶっ壊れようと、感覚共有ラインを無理やり繋いで記憶を全部送ってしまえばいい』って……!」
「え? なんのお話を――」
「ほら、もってけ!! 今までにない、極太の感覚共有ラインだ!!!」
ナオキは、セリアの胸の中心に向かって、未だかつてない太さを持った魔力ラインを無理やりこじ開けるように繋いだ。それはもはや情報の伝達ではなく、魂の情報の強制上書きに近い暴挙だった。
「ああああああああッ!? な、なにごれえええええ! ごわれぢゃううううううう!!」
セリアがその小さな体と胸をビクビクと痙攣させながら、ナオキが保持する膨大な『前世からの記憶』を濁流のように受け取っていく。脳が焼けるような熱と情報量に、彼女は目を剥いてのたうち回った。
「おっぎいいいいいいいいいいい。おっぎすぎいいいいい。うごいぢゃだべええええええ。あだま、あだまわれぢゃうううううううううううう」
「も、もうだべええええええ! ぎおくもどっだ、もどっっだからもうやめでえええええ! おがしくなっぢゃうううううう!!」
「……なんだ、戻ったか」
ナオキがラインを細く弱めると、セリアは激しくハァハァと息を切らし、涎を零しながら地面に突っ伏した。
「ひ、ひどいですナオキ様……。私、決してマゾというわけではありません……っ」
「……文句が言えるなら大丈夫そうだな」
「も、もう立てません……おんぶしてください……」
セリアは力なく手を伸ばす。彼女の瞳には、紛れもない、あの狂気的な忠誠心が戻っていた。
「仕方ないなあ」
ナオキは溜息をつき、ボロボロの体でセリアを背負い上げた。
「で、でも……今の、すっごく太くておかしくなっちゃいました。また今度、お願いします……ふふっ」
よだれを垂らしながらも妖艶に不敵に微笑むメイド。
一度世界から消去されたナオキのイレギュラーとしての特性やマスターコマンドスキルが彼女を保護したのか、あるいは二度も記憶を取り戻した彼女の異常な執念がシステムの消去をねじ伏せたのか。二人の記憶と関係性は、強制的に、だが完璧に修復されていた。
(すまなかった。セリア。またお前を失うなんて一秒だって耐えられなかった)
(ふふっ。嬉しかったですよ。私を壊してでも、私を欲してくれて)
細く繋がったままの感覚共有ライン越しに、誰にも聞こえない声が交差する。
ナオキは視界を乱暴に拭い、前を向いた。
そこは、見渡す限りの『荒野』だった。文明の痕跡すらなく、ただ灰色の砂と岩だけが続く死の世界。
そして、数百メートル先の虚空。宙に浮かぶ無数のどす黒い数式と、幾重にも重なる魔法陣の中心に――ひとりの人間が立っていた。
遠目には顔はわからない。
だが、華奢のように見えるシルエットから放たれるのは、世界そのものを圧殺するような異常な魔力の密度だった。歴戦のチート転生者たちが束になっても敵わないであろう、絶望的なまでの『強者』のオーラ。
(あいつだ……! トウヤの目が言っていた、ツカサと同等の演算ができる奴……ッ!)
ナオキは安堵と焦燥を胸に抱き、セリアを背負ったまま、軽くなった足を向ける。
(……見つけた……ッ。……頼む、俺に力を――)
灰色の砂礫を踏み締める音が、やけに大きく響く。
一歩、また一歩。
数百メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。
彼女を取り囲む数式が、まるで生き物のように蠢き、ナオキたちの接近を検知して輝きを増していく。冷や汗が背筋を伝う。なんだ、あいつは何をしてるんだ。
心臓の鼓動が早くなる。
――パチン、と。
遠くで、指を鳴らすような、ひどく軽い音がした。
次の瞬間。
ナオキの視界が、ぐるぐると高速で回転していた。
「……え?」
天地が逆転する。灰色の空が見え、血溜まりの地面が迫る。
自分の体が、数十メートル後方に立ったまま、首から上だけを失って血の噴水を上げているのが見えた。
痛みすらなかった。
殺気も、魔力の波動も、予備動作すら一切感知できなかった。
何が起きたのか、脳が理解する前に、意識が急速に泥のように黒く沈んでいく。
「ナ、ナオキ様ァァァアアアッ!?」
背中から放り出されたセリアの、鼓膜を劈くような絶叫。それすらも、水底に沈むように急速に遠ざかる。
(あ、れ……? 俺、死……)
理由も、怒りも、何もわからない。
ただ、圧倒的で無慈悲な『死』。
絶対的な恐怖と冷たい暗闇が、ナオキのすべてを塗り潰した。
『『『――MASTER COMMAND ERROR。対象【ナオキ】の致命的な肉体損壊を確認』』』
『『『マスター権限スキル【世界線再構築】自動発動。緊急プロトコルを実行。直近の生存ルートが存在する近しい並行世界、直近の過去地点へ強制ロールバックします』』』
*****
「で、でも……今の、すっごく太くておかしくなっちゃいました。また今度、お願いします……ふふっ」
「…………ッ、オ、ゲェェェェェェェェッ!!」
ナオキは、セリアを放り出すように膝から崩れ落ち、胃の腑にあった胃液と血を、灰色の泥の地面にぶちまけた。
「ナオキ様!?」
全身の毛穴が開き、滝のような冷や汗が噴き出す。
首がある。手がある。生きている。
心臓が、破裂しそうなほど早鐘を打っている。
(死んだ。俺は今、殺された。……何も見えなかった。気配も、殺気すらも。ただ声をかけただけで、虫ケラみたいに首を飛ばされた……ッ)
何が起きたのかわからない。
ただ、尋常ではない恐怖が、いつも冷静なナオキの全身をガタガタと震わせていた。
ナオキは荒い息を吐きながら、血走った目で荒野の先を見据えた。
灰色の砂と岩の先、どす黒い数式に囲まれて虚空に浮かぶ、一人の人間。
ナオキの【死】の異常な感覚共有に、セリアもただ事ではないと察し、臨戦態勢をとる。
「……来るな。セリア、俺の背後にいろ」
ナオキは前回の死を回避するため、一言も発さず、自身の生活魔法である『水糸』を超圧縮し、首周りを中心に幾重にも不可視の防御障壁(盾)を構築する。
(次は……くらわねえぞ)
完璧な防御。そう信じて、一歩踏み出した。
だが、
――パチン、と。
また遠くで、指を鳴らすような、ひどく軽い音がした。
ガキィィィィィンッ!!!!
凄まじい金属音が、ナオキの首元で鳴り響いた。超圧縮した水糸魔法が、見えない斬撃を防いだのだ。
(……防いだッ!?)
ナオキが歓喜に震えた、そのコンマ一秒後。
ボォォォォォォォォンッ!!!!
ナオキの視界が、今度は赤い霧に染まった。
首は、ただの陽動だった。本命の攻撃は、存在そのものを空間ごと粉砕するような、あまりにも理不尽な重圧。
「……な?」
天地が逆転する間すらなかった。
自分の肉体が、ガラス細工のように爆散していくのが見えた。
また痛みすらなかった。
前回の死よりも、さらに「何が起きたかわからない」。
存在定数をゼロにされたかのような、絶対的な消滅の感覚。意識が急速に泥のように黒く沈んでいく。
『『『――MASTER COMMAND ERROR。対象【ナオキ】の致命的な肉体損壊を確認』』』
『『『マスター権限スキル【世界線再構築】自動発動。緊急プロトコルを実行。直近の生存ルートが存在する近しい並行世界、直近の過去地点へ強制ロールバックします』』』
*****
「で、でも……今の、すっごく太くておかしくなっちゃいました。また今度、お願いします……ふふっ」
「…………ッあ、あぁぁぁ……ッあ、あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
ナオキは、嘔吐することすら忘れ、背負っていたセリアを地面に放り出すと、頭を抱えて廃人のように蹲った。
全身がガタガタと、前回の比ではないレベルで激しくけいれんしている。
「ナオキ様!? ナオキ様、しっかりしてください!!」
セリアが必死に声をかけるが、ナオキの耳には届かない。
(死んだ。また殺された。今度は防御を張ったのに……盾が、無意味だった。空間ごと、粉々に砕かれた……ッ。何が起きた? あいつは……あいつは、なんだ……ッ!?)
尋常ではない恐怖。二度の理不尽な死によって、限界まで磨り潰されていた。
ナオキは荒い息を吐きながら、血走った目で荒野の先を見据えた。
先ほどと同じ。灰色の砂と岩の先、どす黒い数式に囲まれて虚空に浮かぶ、一人の人間。
(近づけば、殺される。……どうすればいい? ……どうやって、あいつに近づけばいい……ッ!?)
恐怖と焦燥。孤独な荒野に、二度の死を経験した凡人の、声にならない悲鳴だけが虚しく響き渡っていた。
だが、絶望に支配されかけたナオキの視界の端で、ポケットから落ちたストップウォッチの秒針が無慈悲に「チク、タク」と時を刻み続けていた。
自分がここで立ち止まり、死に怯えている間にも、アイリとツカサの命は確実に削られている。
「……ッ、ふざけんな。俺がここでビビってどうすんだよ……っ!」
ナオキは血の味がするほど唇を噛み破り、無理やり恐怖を怒りで上書きして立ち上がった。
二度の死の記憶を、必死に脳内でリプレイする。
(一回目は無防備で首を飛ばされた。二回目は水糸の盾を張ったら、空間ごと粉砕された。……だが、待てよ)
ナオキは、二回目の死の瞬間の違和感に気づいた。
あれほどの異常な質量の空間破砕。普通なら、背後にいたセリアごと木端微塵になっていたはずだ。しかし、直前のセリアの無傷な姿を思い出す。
あの規格外のバケモノは、一切の余波を出すことなく、ピンポイントで「ナオキという存在だけ」をこの世から消し去ったのだ。
(あいつ……意図的にセリアを攻撃から外してやがる。なんでかは知らねえが、セリアを狙う気は一切ないってことだ)
頼れるのは、自身の生活魔法である『水糸』と、二度殺されたという『経験』だけ。
チート級の攻撃を「見切って防ぐ」のは不可能だ。
ならば、どうする?
「セリア、お前はそこから一歩も動くな。……どうやらあいつは、お前を殺す気はないらしいし大丈夫だろう。俺一人で道をこじ開ける」
「ナ、ナオキ様!? お待ちください――」
セリアの制止を背中で受け止め、ナオキは再び灰色の砂礫を踏み出した。
今度は、首に『水糸』の盾を張らない。防御は一切捨て、すべての意識を「敵の初動」のみに極限まで集中させる。
一歩、二歩。
心臓が早鐘を打つ。死の恐怖で足がすくむ。それでも、歩みを止めない。
そして、三度目の『その座標』を踏んだ瞬間。
――パチン、と。
遠くで、三度目の軽い音が鳴った。
見えない斬撃が、ナオキの首を刈り取りに来る。
「……ここだァッ!!」
ナオキは記憶に刻み込まれた『斬撃が来るコンマ一秒前』のタイミングに合わせ、首をへし折らんばかりの勢いで各地点の岩に張り巡らせておいた水糸を使って強引に上体を真横に倒した。
ヒュッ!! という死神の鎌のような風切り音が、ナオキの耳をかすめ、数本の前髪を切り飛ばす。
(躱した! 次が本命だ……来るぞッ!!)
――パチン。
再び音が鳴り、ナオキのいた空間そのものが、不可視の重圧によって圧殺されようとする。
だが、ナオキは斬撃を躱した体勢のまま、『水糸』をパチンコのように、『ナオキ』自身がパチンコ玉になるように、糸を超圧縮して展開していた。
「吹き飛べェェェェッ!!!!」
圧縮した水糸を一気に解放し、自らの体を斜め前方へと強引に弾き飛ばす。
直後、ナオキがたった今コンマ一秒前までいた空間が、音もなくゴッソリと抉り取られ、消滅した。
致死の震源地からは逃れた。だが、その理不尽な演算魔法が引き起こした強烈な爆風と余波までは殺しきれない。
ドゴォォォォンッ!!
「……ッ!?」
ナオキの体が、見えない巨大な質量のハンマーで殴り飛ばされたように宙を舞い、数十メートル前方の岩盤に激突した。ゴキリ、と肋骨がへし折れる音が鳴る。
「が、はぁッ……! 」
(……生き、てる。攻撃を、躱したぞ……ッ)
肉体はボロボロだが、首は繋がっているし、空間ごと消滅もしていない。
三度目のループにして、ついに「致死の領域」を突破したのだ。
ナオキは血まみれの視界を拭い、這うようにしてゆっくりと顔を上げた。
爆風と土煙が晴れた先。
距離が縮まったことで、無数のどす黒い数式と魔法陣の中心に立つ『人間』の姿が、はっきりと輪郭を結んでいく。
「……突然すまない。こちらに攻撃の意思はないんだ。頼む、殺さないでくれ。少しだけでいいから、話を聞いて――」
ナオキが声を絞り出し、その顔を見た瞬間。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
色素の薄い、亜麻色の髪。
見覚えがある。強い繋がりがある人物。トウヤの、双子の姉。
「……ミヤビ、か……?」
ナオキの掠れた声に、少女はゆっくりと振り返った。
その瞳には、かつてニーナに向けたような「面倒見のいい」温もりなど微塵もない。そこにあったのは、絶対零度の怒りと、ドロドロに煮詰められた『殺意』だった。
「――ええ、待っていたわよ。別世界線のナオキ」




